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ドレスアップフルボディガールズここで↑ マイキャラを作ってみた。毎度楽天のことなので、貼れないのかなと、思ったら、貼れました。パチパチ。 ようするに、アバターなんだろうけど、ヤフーにしても、ハンゲームにしても、有料だから、ねえ。無料なぶん、デザインが少ないし、外国のサイトらしいので、英語ばかりで、分かりにくいけど。きせられる服もかなり、よってるし。でも、それなりに、自分の好みでつくってみると、面白い。もろ、秋葉系ですねー。だって、他にいいのなかったのだもの。夏の暑さにうんざりしてる時には、いいですね。気晴らしに。
2008年07月30日
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かたづけられない女が話題だが、私は、部屋は片付けても、本だけは片付けない。どんどん買うので、家にある5つの本棚はすでにいっぱいで、ダンボールに入れてつまってある本もあるし、文庫本用のきれいで透明なプラスチックケースに入れて階段の踊り場に積んであるものもある。そのほかにも、小さな箱に入れて箱ごと階段に積み上げて、即席本棚まである。それでも収納しきれずに、出窓に詰んであり、なおかつそれでも、あふれて家の中のどの部屋に行っても、本がそこらにある。 かつて、父に本だけは売るなと、言われた。それをまじめに守りつつ、あまりにもつまらない本だけは、最近流行のブックオフに売りに行く。しかし、ブックオフというのは、本の価値を見た目のきれいさだけで評価するという、すばらしい発想の本屋さんなので、もうこれはどうしても読まないというような、古びて汚れて変色した本は、買い取ってくれない。だから、ますます本が増える。 子供を読書家にしたいなら、まず、親が読んで、その読んでいる姿を子供に見せることなのだそうだが、そのうえで、家の中のいたるところに本を積み上げて置くべしなのだそうだ。本はきちんと片付けて、きれいに収納してはいけない。きれいに収納して、本棚なんかに順番をまもってきちんと収納されていたら、おそれおおくて、子供はそんな本には、手を出さない。 本というのは、中身こそが大事なものなのであって、(いまどきはね)、だから、そのあたりに、ほっぽらかされている。そうすると、なんだか疲れて、ごろっところがってぼーっとしていた子供が、ふっと退屈になって、横になった時にちょっと目のはしにはいった本を手にとって見る。ぱらぱらっと読んで、あれ、なんかおもしろいじゃんとか思って、ついつい、読み始めてしまう。そのまんまごろごろしながら、読みすすめていく。途中トイレにいきたくなって、立ち上がる。そのまんま、本はそこにほっぽらかされたままになることもある。その続きを読むかどうかは分からない。 でも、読んだ本はそのあと、きちんと片付けろなんてこうるさくいわれたら、子供はもうめんどくさくなって、本を読むのはやめてしまう。 子供に本を読ませようと思って、本屋に連れて行って、子供に選ばせても、その本をあれだめこれだめと口出ししちゃいけないらしい。そりゃそうだ。どんな駄本でも、こどもに選ばせたなら、それをそのまま無言で買ってあげる覚悟がいる。いやー、私はあんまりそんなことはやったことないけどね。 本を買って、読み終わったら、そのまま、ブックオフに売り飛ばしたりしないで、部屋のそこらに積んでおく。そのうちいつかそれを子供が読み始める日がやってくる。でも、子供がどの本を読むかは、分からない。ある意味ギャンブル。だからといって、子供がえらびそうな本を買っちゃだめ。あくまで、自分が読みたい本を買う。でも、買っても読まずに詰んどく本もいっばいある。それをうちの息子が、なんで読まないのに、買うの。もったいないでしょ。と、小ざかしく、親の私に向かって、説教するところまで、成長してくれた。ありがたいことに。でも、そんなこといっても、読むか読まないかは、買ってみないと分からないし。絶対きっちり読むかどうか吟味してから、買うなんて無理。漫画なら、買ったら、かならず読むけど、本は時間がかかるんだもの。読み終わってから、次を買うなんてことしてたら、いい本を買いそびれるじゃないですか。 とにかく、それで、家の中にある本を子供たちが読み出して、読んだ後で、その本のことを話してくれる。うんうんそうそうあの本はね。と、話が盛り上がる時もあるし、あ、その本は私読んでないものー。という時もある。で、どうだったー、面白い?と、逆に聴き返すときもある。子供の宿題の指定図書の何冊かは家の中にあるよーという時もある。で、子供はその本を探し出して、読んで感想文の宿題を書く。 それにしても、最近ちっょと本が多すぎ。(半分は漫画ですが。)少しは、片付けないと。でも、どうやって…。 アンティーク調仕上げ猫脚本棚
2008年07月28日
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長男の誕生日だったので、サーティワンで、アイスケーキを買ってきました。あっつーい夏のど真ん中が誕生日の息子。普通のケーキは食べる気が起きません。彼が子供のころ、ふっと、サーティワンのアイスケーキが買ってみたくなって、長男の誕生日がちょうど夏なのをいいことに、アイスケーキを買ったのですが、それ以来なぜか、習慣化してしまい、しかも、真冬が誕生ぞの娘のまでが自分の誕生日にもアイスケーキがいいと言い出しちっゃて。しかも、娘と夫の誕生日は一日違い。二人一緒のお祝いにもなります。そして、ほぼおとなになった今でも、催促されちゃうのです。家族全員から。だから、今年はちょっと大人っぽくコーヒー味。でもでも、やっぱり、アイスケーキは、夏に食べるほうがおいしいのよ。今年は特に暑いので、家族四人であっというまに、完食してしまいましたぁ。ごちそうさまです♪
2008年07月26日
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うちの近くの結構大型のブランド書店が閉店したと、昨日初めて知って、ショックでした。都内でも、すごく有名な書店の支店で、マニアックな品揃えで、わざわざ神保町まで行かなくてもよいくらい便利だったのに。なぜ?この書店の他のお店はまだまだみんな営業しているのに。とにかく不便だし、寂しいなあと、思いました。先日も一番近くのスーパーが改装のための閉鎖になって、ショックだったのに。家から近くて、ちっょとしたものを買うのは、便利だったのに。 最近私の御用達のお店がどんどんなくなっていってシッョクです。やっぱり世の中不況なんでしょうか。 でも、よくよく考えると、確かに最近その本屋さんでは以前ほど本を買わなくなっていたかも。以前はよくゲームの攻略本を買ったけれど、最近はネットの攻略サイトを見ればすむので、めっきり買わなくなっていました。その他の本も全体に買わなくなりつつあったかも。 でも、それだけじゃなくて、そういえば、本屋だというのに、点滅している蛍光灯があるのに、ずっと交換もしないままだったり、新刊の漫画がドレなのかわかりにくかったり、本の品揃えが悪かったり、他の本屋に無くてもここならあるはずの本もなかったり。本は並んでいるし、いっぱいあるのに、本当にお客さんが望むような肝心な本がなかったり。配列も全体に雑然としていて、本が探しにくくて、見つけにくくなっていたような。 最近は、本もネットで買えるので、マニアックな本はなおさら、ネットで買ってしまいますよね。まして、本が好きな人たちとネットが好きな人たちってかなりかぶりますものね。 さらに、最近は「ブックオフ」が増えていて、ちっょとした本ならブックオフで買えちっゃうので、まずブックオフを探してから、本屋に行くなんてこともあったし。 そういえば、つい先日渋谷の大型書店も閉店したのでした。 そういう兆しが、徐々にあるのですね。気づかないうちにじわじわと、なにかが、かわりつつあるのかもしれません。この現象がなにを意味していて、この先どう変化していくものなのか。かなり、こわいかも。 それで、今回このことを息子から聞いて最初は「うそ!」と、思ったのです。でも、ネットで検索すると、確かに、本当らしいのです。で、このての情報を得ようとして、ネットを見ると、肝心の公式ホームページには、載ってないのですね。もう閉店したら、ホームページのメンテナンスなんてしないのですね。閉店しましたなんて、どこにも書いてなくて。ホームページって意外と情報が少ないのです。 じゃあ、何で知ったのかというと、ブログ なんです。今回のことにかぎらず、いろいろと情報が欲しい時って、誰かが書いたブログに、すごく詳しく分かりやすく書いてある。今回のことも、写真つきでのっていて、親切でありがたいことこの上なし。この他にも、旅行やイベントの情報も、実際にそこに行ったひとの写真いりのブログなどのほうが、公式ホームページより、よっぽど、分かりやすいのです。 旅館なんかでも、お料理がおいしかったかとか、店員の態度がどうだったかとか、本当にもう、建前でいいことだけ書いてある旅館のホームページより、よっぽど役に立つのです。 ブログって所詮個人の意見や、日記が書いてあるだけのものなんて思ってたんだけど、そういうことないのですね。これからの、情報源としてプロの作った公式ホームページより、ぜんぜん役に立つのですよ。 で、こういうのが、どんどん普及してるからこそ、本屋さんが潰れちゃうのかもしれないですね。旅行情報誌や、地図すら、いらないですもの。 でも、日本中の本屋がなくなったら、すごく困るだろうな。売れ筋の本屋しかなくても、やっぱり困るだろうな。これから、どうすればいいんだろう。 昔、人力車がなくなってしまった時代と、同じなのでしょうか。
2008年07月25日
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ジブリアニメだというのに、ついうっかり、寝てしまった。映画の前のランチで、ブルーハワイなんか飲んだせいだ。その上、クーラーがきいて、いいシートで、快適だったんだもの。 ストーリーは、含みがタップリなようでもあり、単純なようでもあり、感想は、人それぞれいろいろありそうだ。しかし、中盤で寝てしまったので、私には、よく分からない。途中を見ていない段階では、是非は書けない。けれど、みそびれた部分を観るためにもう一度劇場にいって、最初から見直す気にもなれない。 さすがに、やめるはずだった宮崎駿が、がんばってもう一度腕をふるった作品の、その描写のひとつひとつ、さまざまな海の画面はとてもうつくしく、すばらしい。 けれど、主人公の宗介が、金魚のポニョを助けだすために、ガラス瓶を割るために、大きな石をガツンと、ポニョのはいったびんに当てて、ビンをわるシーンで、ギョッとしてしまった。映画に対しての気持ちががひいてしまった。相手は、生きた金魚なのに。うっかりまちがえば、つぶしちっゃたり、ころしちっゃたり、けがをさせちっゃたり、するでしょうに。いくら、宮崎アニメでも、ちっょと、デリカシーなさすぎでは。 彼の作品はとくに、「未来少年コナン」なんかでも、そうだけど、人間がここまでできるわけないだろーと、思うようなとんでもない行動ができちっゃたりする。たとえば、ものすごく高いビルから飛び降りても、大丈夫だったり、飛んでる飛行機の羽の上を走ったり、足の指だけで、つかまったりする。それが、コナンの場合は面白さをだしていて、まあ、コナンだから、と、許容できたし、それこそがコナンの面白さだっのだけれど、でも、今回は金魚なんだよ。 いくら、そのあと、人間になったり、魔法を使えたりするスーパー金魚でも、それでも、この最初の段階で、金魚をぎゅーってひっぱったり、ビンごと、石でぶち割ったり。これを見た子供たちが、本物の金魚をぎゅーっとひっぱったら、絶対金魚はちぎれて死んじゃうのだ。 人はもっと海のことを知って、海となかよくしようというメッセージのわりに、この描写はどうなのだろう。もっと他の解決作はなかったのだろうか。 それとも、金魚のはいったガラス瓶を割る宗助の乱暴な行動は、その先で語られるメッセージへのアンチテーゼなのだろうか。そうとは、思えない。 陸の人である宗介と、海の人であるポニョが、手をつないで、歩く。陸と海が仲良くなる。人は、もっと、海を愛して、大切にした方がいい。 宮崎アニメは、全作品を通して、環境問題を語り続けてきている。今回も、前半で、海の中のゴミを集めるシーンが描写される。海が怒って、陸にせめてくるシーンも、描かれる。陸の人間は、海に対して、デリカシーや、配慮が無さすぎではないですか。 陸に人がいてそこで生きているように、海にも、たくさんの命があって、そこで、生きているたくさんの命があるのに、人間は、そんなことに、無配慮すぎではないのですか。 そして、世界は海におおわれる。宗助の家も町も世界のすべてが、海におおわれる。 「千と千尋」が十歳の女の子のために作られたように、この作品は五歳くらいの子供たちのために作られた映画なのだと思う。絵本のような景色の描かれ方も。そして、五歳の子供にとって、自分の家と自分の住む町と、自分の行ったことのある場所が世界の全て。 その世界の全ては、海に飲み込まれていく。 そんな風に、五歳の子供のためにつくられている一方で、子供たちを映画館に連れて行って、子供と一緒に見る親たち、大人たちのための映画でもあるようだ。 自分が子供の頃、遊んだおもちゃの船に、自分が乗ってしまっている世界。子供のころお母さんがつくってくれたチキンラーメン。漫画の中でみた、どんぶりで作るラーメン。いつもいつもおいしそうにたべられていたチキンラーメン。このあと、ひさしぶりにチキンラーメン買って来てしまいました。 映画を子供と一緒にみている大人たちが、子供と一緒に子供にもどる時間。 私は無口でおとなしくて、ぼーっとした子供だったけれど、もし今もう一度子供になった私とであったら、友達になってくれる?と、以前娘に聞いたことがありました。いいよ、友達になってあげる。そして、一緒にあそんであげるよ。と、娘は答えてくれました。 子供に戻った親と、子供たちが一緒に遊んでいるような、そんな気持ちになるような映画だったかもなあ、と思いました。 子供たちへ向けたメッセージと、大人たちへ向けたメッセージとが、それぞれにあるんだと思います。ポニョは、海から陸へ上がって陸の人となるけれど、それは別に特別なことでもなんでもなくて、人類はもともと海で生まれて海で育って、そして、陸に上がって、陸の生き物になったのですから。 ちなみに、私は、夫と二人で見に行ったので、すでに大きくなってしまっている我が家の子供たちは、もう、一緒にきてくれません。 アーそれにしても。地球をもっと大切にしないと、地球温暖化で、水位が上がって、我が家も水没しちゃうなあ。でも、できるものなら、水没した我が家で暮らすのも楽しそうだ。もういちど海の人にもどるのもいいかも。 崖の上のポニョ@映画生活
2008年07月24日
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夏が近づいてお盆の時期も近づいて、最近ちょっと考える。今は一応、だんなの実家のお盆には顔を出しているけれど、そういうのが無くなったら、私は果たして、お盆なんてやるかなあと。 昔はまあ、よくわからなかったし、若かったし、ババサマたちの顔をたてて、一応お盆の行事には、付き合っていた。 うちの夫は次男坊なので、我が家の場合は、当然家に仏壇もないし、お墓も持たない。だんなか私か、家の誰かが死んだら、その時にお墓を買って、お盆とかもやるようになるのかなあと、漠然と考えていた。 でも、最近、果たしてそんなこと、将来的に私もホントにやるかな?と、思い始めた。 実感がぜんぜんわかないのだ。お金もかかるし。 昔は子供も小さかったので、お盆やお彼岸やお正月には、夫の実家に行って、お食事などいただいて、少し話もして、何時間か過ごしたのだけれど、最近それがすごくしんどくなっているのだ。もう、子供たちが大きくなって、そのてのイベントに子供は来ない。大人だけだと、間が持たない。その上、実家に行っても長男の嫁である義姉は、ほとんど、テーブルにつかないで、必要な支度だけして、どこかにいってしまうし、話題は盛り上がらないし、他人の家なので、家の中を歩き回るわけにも行かないので、同じ場所に何時間もなにするわけでもなく、座っていなければならないし。 お盆とか、お墓参りとかの行事も今までは一応、とりあえずやっていたのだけれど、いざ自分の父、自分の知っている人が死んで見ると、「このお墓の中にいるよ、仏壇の向こう側にいるんだから、お線香を上げてあげなさい」と、言われても、本当にぜんぜんぴんと来ないのだ。 お墓も、宗教も、遺影も世界的に存在しているのだから、それなりに、必要なものなのだし、意味はあるのだろうけれど、いざ自分自身がそういうことをするということにぜぜんピンと来ない自分感覚に、ちょっと驚いている。 お盆とか、お彼岸とか、お墓参りとか、そういう一連のイベントにそろそろ時代的な限界を感じ始めているのだ。 うーん。どうしよう。どうすればいいのだろう。 お盆というのは、季節的に向こう側とこちら側がつながる時間なのだと、思うのだけれど、私の実家は東京盆を採用しているので、7月のお盆なのですよね。それって、つまり、実際の異世界とつながる時間とは別の、新暦でこの日がお盆だから、日にちを優先して、新暦にあわせたお盆なんですよね。新暦にあわせてぱぱって変更しちゃえる程度のものをお盆だからとか、ご先祖様が、とか言われても、ぴんとこない。てか、その程度のものなら、重要視して、受け継いでいく意味ってあるのかな?とかね。思うわけ。です。 それに、新盆だから、世間並みに世間体があるから、「ちょうちん買え」とか、そう言うこと言われちゃって、いかにも、儀礼的で、なんか。なんで、そういうことに母、姑や、あの世代の人たちが、あそこまでこだわるのだろうかと。 日本人は、シャイな民族なので、お盆とか、法事とか、そういう義理とか、儀礼的な、強制的なイベントでもないと、血のつながってるはずの親族ですら、めったに会わないし、集まらない。だから、法事が、なん周忌とかいって、何度もいろいろあるのも、親族同士を合わせて、話をさせるためのイベントとして、強制的に作られたものなのだろうと、思うのです。外国なんかだと、クリスマスとか、誕生日とか、いろいろなパーティなんていう、明るい集会があるのだけれど、日本人はシャイなので、法事のような暗くても、静かでも、盛り上がらなくても、特にそれでも、かまわないような、イベントを作っておく方が無難なんだろうと、思うわけです。 それでもねえ。最近の時代の変化や、価値観の変化、外国文化の導入や、稲作農業社会から、企業社会になってきたことなんかで、もういい加減、こういう社会システムを続けていくのは、苦しそうだなあと、なんか、思っちゃうのです。 もう、一世代代わったら、どんどんこういう仏教的行事をやらない家庭は増えていくかもしれません。 第一、サラリーマンの収入で、檀家としてお寺にずっと維持費を払い続けたり、お墓を買ったりということすら、経済的に厳しくて、できませんし。少子化で、世代ごとに継いでいかなければならないし、お墓という制度自体が、もう、事実上社会的に、無理だろうなと、思うわけです。 そういうのはもう、道徳的にどうとか、感情的にどうとかというのとは、もう乖離して、維持が無理になりつつあるのじゃないのかなと、思うわけです。 小さい頃から、実家でも、お盆の時にやっていた一連の行事も、はたして、私は、やり続けられるかと、というか、やる気になるかどうかすら、あやしい。 灰を海に流すようなことをやりたいというようなことが時々ニュースになるのも、海に流したいというより、お墓を買って、それを家族が維持していくことの負担をさせたくないし、したくないというのが、本音なんだと思います。 伝染病の流行で、禁止された土葬と、はじめられた、檀家制。死体の遺棄の禁止。今のお墓ってあれ、地面に骨を埋めるのじゃないのですよね。死体を焼くことで死体についているかもしれない、細菌を消して、そして、それでも残ってるかもしれない細菌をきっちりと、陶製の壷に入れて、きっちりと、蓋をしめて、伝染病や生きている人間に害をおよぼすかもしれない、細菌を封じ込めている。地中に埋めると、流れ出すかもしれないので、きっちり、コンクリや、ブロックで作った、地上に作られた箱上のものの中に、遺骨は保存されるのですね。 でも、人口が増えて、一つの家に一つのお墓ということすら、維持できなくなりつつあります。土地が足らないので、公共の霊園も、作り出されています。 我が家のお墓や、お盆は、将来どうしよう。 将来、家を出た子供たちに「お盆だから、お線香あげに来なさい」なんて、私、わが子にそんな電話はもう、恥ずかしくて、かけられないかもしれない。 ああ、本当にどうしよう。それともその時がきたら、気が変わって、案外やってるのだろうか。 もう、その時は、その時。その時になって見ないと、分からない。 ただ、確実にこれらの行事は社会的に、消えていくのだろうな。 それとも、浴衣や花火大会や、お祭りや出店がなくならないように、受け継がれていったりしちゃうんだろうか。
2008年07月23日
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面白かったです。佐藤浩市さんがあんまり好きじゃないし、前回の「有頂天ホテル」も、いまいちだし、見に行くのはどうしようと、ためらっていたのですが、以外にというか、なかなかというか、よかったです。面白かった。 前回の「有頂天ホテル」は、巨大ホテルという設定のわりにセットがちゃっちくて、あんまり面白くなかったのですが、今回はその映画セットのちゃっちさをうまくいかした映画づくりになっていたなと、思います。あの守加護の町は、あきらかに映画のセットまたは、舞台のセットというつくりになっていて、逆にあれが、ものすごく本物っぽくリアルに作ってあったら、おかしいのです。そういう、いかにもセットぜんとした、つくりをストーリー展開上でうまく生かしてあって、ちょっとディズニーランドか、どこかのテーマパークにはいりこんだような感じがして見ていて楽しかったし、お話自体は、マフィアとか闇組織の人たちのアメリカン・ギャングの抗争のお話なのだけど、それが、喜劇として、楽しめるつくりでした。 その話と設定の作り方が絶妙で、要所要所の笑いが楽しくて、何気ない会話のはずなのに、どうしてここで笑いが取れるのだろう、三谷幸喜ってすごいなと、思いました。今回は、三谷幸喜の喜劇作家としての腕前が存分にいかされ、彼の映画への愛情もタップリと感じ取ることが出来ました。 ストーリー上の複線の張り方もうまくて、無駄がない。きらいだったはずの佐藤浩市さんが、売れない役者として、普段の役者の彼と、演技としての殺し屋を演じている時の彼の表情の変化など、すばらしくて、身終った時には、彼への認識が変わっていました。 綾瀬はるかさんも、昔、テレビドラマの「里美八犬伝」とかの時は、なんだか、貧乏臭くてつまんない子だなーと、思っていたのですが、その後の彼女の活躍ぶりと演技力に驚かされました。今回は脇役だけど、こういう役に三谷さんは、意外と実力派の存在感のある女優さんを使うのですよね。 それと、ギャングのボスの愛人というすごくケバイ女の役に清純派の深津絵里さんだったりして、そういうアンチな配役が、よかった。オレサマキャラの佐藤浩市が、売れない役者で、他の売れっ子の俳優さんに気をつかって低姿勢だったり、まじめキャラの妻夫木聡が、女ったらしで、うそつきでいいかげんな男だったり、ひょうきんで人情味のある優しい西田敏行が、ギャングのこわーいボスだったり。 ほとんどのキャスティングが、その俳優さんたちの本来のキャラとは、正反対の役どころに配されていて、それが、うまく笑いに結びついていっているのですね。そのあたりが、絶妙ですね。 コメディって、悲しい話や、感動大作より、ずっとずっと難しい。人の笑いをとる、人を笑わせるってとても難しい。近作は、彼の作品の中で一番、完成度か高くて、脚本がよくねってあって、面白くて、よい作品でした。 とにかく前編笑えて楽しかったです。夏バテでめいった時に見に行くには、ちょうどいい映画だと思います。ところで、「マジック・アワー」というのは、夕方の日の沈みかけた時間、たそがれのことをいうのだそうです。それは、一日の中で一番世界が美しく撮れる時間なのだそうです。でも、日本では、たそがれというのは、「逢魔が時」といって、魔に出会う特別な時間。つまりは、人の心が微妙に不安定になって、悪いことをふらっと、やってもいいかなと、思ってしまうような時間なのです。私は、子供の頃は、この夕方の時間がとても不安でどきどきして、物悲しい気持ちになるような時間でした。特に旅行先で、夕方まだ旅館に着かずに、車で知らない町の中なんかを走っている時は、とても不安だったのです。家族旅行で車の中には、両親も兄も一緒だったのに、それでも、不安で、切ない気持ちになったのです。そんな「たそがれ」を英語だと、「マジックアワー」と、表現してしまうのかと、ちょっと驚きました。日本では、「逢魔が時」と、言うのに、外国では「一番美しい時間」だと思うのです。なんて、認識や感性が違うのでしょう。こんな感性の違いが、それ以外のいろんなものや、ものの考え方にも影響しているのだろうなと、思います。そんな美しいたそがれ時を集めた映画です。 ザ・マジックアワー@映画生活
2008年07月18日
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冬に使った毛布を毎日一枚づつ、洗っていまーす。以前は、天気のいい日にどーっと全部洗いましたが、最近はそういうガッツはないし、最近の夏はものすごく暑いので、そうやって頑張りすぎると頭がくらくらしてくるので、夏の家事は適当に手抜きでやることにしました。っていっても、一年中手抜きだなー。今日は、やっと、四枚目の毛布が洗えました。でも、毎日なので、今日の天気はどうだろうと、ひやひやしながらの洗濯です。まだ、半分梅雨っぽいけど、本格的な夏になったら、もう、暑くてできないもの。でも、一枚づつの方が干す場所に困らなくていいです。毛布はとりあえず、これで終わりなので、明日から、掛け布団のカバーなんかも、洗って、半てんも、洗って、シーツも洗って、ベッドパッドも洗おう。それから、枕とか、クッションとか、暑い時じゃないと乾かないものも、どんどん。でも、毎日一個づつだと、夏中かかってしまうかもしれない。お、朝は曇っていた空が晴れてき始めました。
2008年07月17日
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物語を書く上で読者の感動を呼ぶ結末にするのに、一番はなしが早いのは、出てくる登場人物、特に主人公を殺すこと。これが、一番手っ取り早くて簡単だ。なんでも、登場人物を殺すことで感動の傑作を作り出すという、ストーリーを書く作家たちのその安直さをなじっているような物語だと、思う。 だから、この物語では、ストーリー構成に悩む小説家のところに、突然彼女が書いている物語の主人公がやってきて、「俺は死にたくないんだ。殺さないでくれ。」と、頼んでくる。架空の物語の中の人物であるはずの主人公が、突然ほんもののナマの生きた人間として、彼女の前に現れたことで、彼女は動揺し、主人公の死の結末までタイピングしてもなおその動揺を抑えられない。 結局、彼女は主人公を殺すことが出来なかった。主人公が死ななかったことで、物語のテーマはかわってしまい、超傑作だったはずの彼女の作品は、ただの普通の作品なってしまう。けれど、それでもやっぱり、主人公が死なない方がいいと、作家は思う。 主人公も登場人物も殺すことなく、人の感動を呼ぶ物語を書くのは、難しい。登場人物たちを殺すことなく、感動できる傑作を書き上げることができた時初めて、その作家は本当の文豪、名作家になるんじゃないのですか。と、思う。まあ、自分の人生を作ってるのは、自分なんだから、自分の人生は自分で作れ、他人の意見に左右されずに、自分の意志で生きろという、そういう物語とも取れると、思う。ところで、外国の映画ってどうしていい年したおじさんとおばさんがまじめに恋愛してるような映画があるのでしょう。ぐずぐずしてないで、さっさと結婚して子育てでもすればーと、私は毎回イライラします。でも、ヒロイン役の女優さんがなかなか素敵だった。ロースクールにいってたはずが、結局お菓子屋さんになっちっゃたというエピソードが素敵。これを見ていて、おもわず、チョコいりクッキーが食べたくなってしまいました。 主人公は僕だった@映画生活
2008年07月15日
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とにかくわかりにくい映画だ。 展開が早い上に、新聞社編集部内の専門用語も飛び交うし、前半はわけわかんない感をあじわいつつ観てる、という感じ。 夏の感動大作風な作りのわりに、見終わった後の感動もない。なにを訴えたいのか、監督は何を考えているのか。 この映画は、もしかすると、原作とはテーマが違うのかもしれない。 堤真一が演じる主人公悠木和雅は、さわやかで人間的で有能そうに見えるわりには、話のエピソードのひとつひとつを検証していくと、すごく嫌な奴なのだ。 編集部内で悠木と敵対する同僚等々力との話し合い、言い合いをする場が、他の同僚によってセッティングされた料理屋の一室なのだが、そこで悠木は、用意された料理にほとんど手を付けず、手に火のついたタバコを持ちながら、等々力と言い合う。その間、食べられないでいる料理の上にタバコの灰がふっているだろうなあと、そのことばかりがやたら気になった。昨今ニユースになった、「船場吉兆」のお客さんよろしく、出された料理には目もくれず、残そうが、タバコの灰がかかろうが、自分の意見を相手に言うことにだけに夢中で、まったく気に留めていない様子。たとえ、あの場で料理を食べないにしても、せめて、タバコを持ってないならましなんだけど。 全権デスクとして、自分が任されている「日航機墜落事故」の紙面のことに対しては、ものすごく気を使っていて、その紙面やその記事をよんだ読者がどう感じるか、不快感を与えないかということには、非情に気配りをしている。とにかく、自分の仕事にだけは、すごく熱心だ。けれど、そのためには、それ以外の他人の仕事をコケにしたり、つぶしたり、他の人間がその人たちなりに、責任と誇りをもってやっている仕事に対して、全く配慮も気配りも思いやりもない。 自分のスクープを出すためには、新聞を配達する立場の人の仕事の手順なんかは、どんなに相手が拒絶して、説明しても、無視するし、営業が必死に取ってきた広告も、自分の担当する紙面に載せたい記事をあげるために、抜いてしまうし、女性部下が調べてきたネタを土壇場で他の男性記者に担当代えするし、そこまでいろいろしながら、記事を載せる最終決定の段階で、やめてしまうし。せっかく女性記者が自分の感と能力で、持ち上げてきたものなのに。 部下が、ナマの現場を見てきて必死に村中の電話を探して送ってきた記事は、落とすし、生の現場を見て、精神的にまいっている部下に対しても、怒鳴りつけるだけで、心理的な気配りや気遣いもしない。 とにかくすごく嫌な奴なのに、なんでこんなかっこよい人物のように描かれているのか、分かりかねる。 ところが、この映画の中で、ものすごく嫌な奴として描かれているのが、この新聞社の社長であり、実は悠木の実の父である白河瀬三。 悠木はまったく自覚していないけれど、彼のこの他人をコケにするような嫌な部分は、この父親から受け継いだのだろうか。彼は、父親にいきなり、日航機墜落事故の全権デスクという大任を任されるけれど、いざとなると、肝心なところでじゃまされたり、同僚を死に追い込んでいるのがこの父親だったり、同僚がこの新聞社に見切りをつけて、東京の新聞社に移っていったとにもかかわらず、未だに、この新聞社に残っている。 母親を娼婦呼ばわりして、馬鹿にしたり、とにかくすごいいやなやつなのに、なぜ悠木はこの父親の元にいるのだろう。 彼はどうしても父親を乗り越えることが出来ない。 その悠木を救い出し、成長させ、父親にするのが、実に、彼の息子なのだ。 彼の嫌な部分は社長である父親からのもので、その悠木の嫌な部分を受け継いでいるはずのその息子じゅんが、自分の父親悠木を救う手を差し伸べているのは、なぜだろう。 悠木が父からもらった遺伝子は、彼の中で半分。その遺伝子は、悠木の息子じゅんの中では、さらに半分になって、四分の一。世代が受け継がれていく中で、だんだん「嫌な奴の遺伝子」は薄まっていく。 ものすごく「嫌なやつ」なのに、乗り越えられず、逃れられない、父からの遺伝子。決して切り捨てることのできない運命。けれど、人は、持って生まれたものをどうすることも出来ずに、その身のうちにもち続けてその生涯を送らなくてはならないけれど、人生は、さだめだけではなくて、その育っていく環境、生まれた後に手に入れる別のもの、そんなものによって、その人間性を変化させていく。 悠木が乗り越えられなかった父の存在。嫌なやつである自分。けれど、そのさだめから逃れられずにいた彼を救い出し、父親として成長させたのは、悠木から嫌な奴の遺伝子をもらっているはずの、悠木の息子自身だったのだ。 じゅんは父親から受け継いだ遺伝子を乗り越えて、悠木の知らない間に男として成長し、父を救い出す存在にまでなっていた。 成長した息子自身は映画の中では、まったくでてこない影の存在になっている。けれど、ラストで自分から息子に会いに行く悠木は、そこで初めて、父となり、自分のプライドを捨てて、人として自由になり、父としての成長を遂げることができる。 父となることではじめて悠木は父をのりこえられたのではないのだろうかと、思う。 ところで、悠木が「衝立岩」に上るために助けてくれるのは、彼のもと同僚であり、友人であり、悠木の父によって間接的に殺された安西、の息子だ。安西の息子がなぜここまで、悠木にしてくれるのだろう。それは、かつて、安西が倒れた時に、悠木が忙しい仕事の合間をぬって何度も病院を訪れ、安西のことをきずかい、手助けしていたからだろうと思う。それを安西の息子である燐太郎は見ていたのだ。 携帯もないこの時代にさらに、現場と編集部の間の連絡のための無線機すら導入しようとしない会社の上層部に、不平をいう若手社員たち。けれど、群馬の偉人が国定忠治であるように、県民の目の前で新聞者の人間がいかに苦労し、頑張っているかを見せなければ、県民や読者の支持は得られないという、意識の元に、無線機を導入しない。携帯が当たり前のようにあって、それを上の方の人間がそんなもの使うななんて止めることは出来ない今の時代には、すでに不可能な価値観なのだけれど。そんな風に目の前で見る他者の行動は、その人間に確実に伝えるものがある。 「衝立岩」のぼりの途中で落ちそうになった悠木を救ったのは、悠木のクライミングを予想して、はるか前に衝立岩に上って、父のためにハーケンを打ち込んでいた息子じゅんの行動、そのものだった。じゅんに会いたいと悠木を思わせたのは、その一本のハーケンだ。それでもまだ、足踏みして、決定的に決断できずにいる彼に「自分から会いにいけばいいじゃないですか。」と、最後の一押しの言葉をかけるのは、悠木とも、じゅんとも一緒に「衝立岩」を登った燐太郎だ。 安西のためにした悠木の行動と、そのやさしさや、思いやりは、回りまわって、息子たちを通って、最後に彼に戻ってきた。 いやな奴だったはずの悠木の中にも、人としてのやさしさはあったのに、仕事の場ではなぜそれがなくなってしまうのだろう。 父を乗り越え、同僚を圧倒して、自分の能力を他人に示したい。自分が思い描く能力と、現実の自分の能力とのギャップと、能力に伴わないプライドを、自分の中で折り合いを付けられずに苦しむのが、男性の人生というものなのかもしれない。 女性が他者との関係性に生涯悩み続けるように、男性は、自分の能力とプライドとの誤差に生涯悩み続けるのかもしれない。それゆえに仕事にこだわり、成果をあげようとしていく仕事の現場の中で、クライマーズ・ハイに近い感覚に埋没していってしまうのだろう。 「なにか、できすぎていませんか。」という、電話の向こうの部下佐山の言葉に、水をあびせられたように、冷静になった悠木は、そこまでの準備の全て、部下の苦労を前にして、それでもなお、スクープを、一面に載せることをやめてしまう。 仕事のために、自分のプライドのために、他者を傷つけ、引き落としていく仕事の世界の中で、見失ってしまいがちな大切なもの。 それが、他者への配慮であり、仕事の成果や、能力への評価、プライド以上に守るべきもの。それが、真実というものであり、決してなくしてはいけない、誠意なのであるのだと、たぶん、そういう結論になるんじゃあないのかなと思う。確約が取れずに、スクープとして載せるのをやめてしまった、日航機墜落事故の原因はなにかという、問題。スクープは、ほしい。けれど、真実かどうか、わからない段階で記事にしてしまうことを悠木はよしとしなかった。スクープをあげること、仕事で成果をだして、周りからの評価を獲得し、プライドを満足させること。そんなことにとらわれて、いつのまにか、真実を偽装してしまいそうになる、仕事の世界。この翌日に大手新聞社から彼の上げようとしたネタがスクープ記事として出された。やはり、彼のスクープは、正しかったのだろうか。彼も、スクープを載せればよかったのだろうか?けれど、結局今現在にいたっても、日航機事故墜落の本当の原因は、不明なままなのだ。 「チェック、ダブル、チェック」 真実を追い求め、真実を見失うな。自分のプライドのために、真実を偽装するな。と。 でも、この映画。見終わっても、感動できません。残念なことに。ところで、この映画を見に行ったのは、堺雅人が出てたから。いつもは、時代劇なので、落ち着いて大人びて見えていたのですが、スーツ姿だと、なんか幼げで、かわいかったです。それにしてもなぜ彼はいつも、いい役どころをもらっているのでしょうねえ。 クライマーズ・ハイ@映画生活
2008年07月10日
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長男の大学でちょっとした学祭があって、もういい加減恥ずかしいのだけど、長男のでるイベントがあるということで、見に行ってしまった。学祭では、周りはもう、在学生ばかりで、高校までのような親の見学なんてことはそうはない。少しだけ、親御さんらしいご夫婦を見かけたけど。それは承知でまあ、見に行ったのだけれど。でも、その学祭での彼の様子を見ていて、彼が家で最近いろいろと愚痴る、その彼の状況が、うきぼりになってよく見えてきた感じがした。家にいて、わが子だけ見ていると、分からないものが、大学内で、他の大学生、同級生たちを見たり、その中にいる彼を見ることで、彼の特性がよく分かった。見に行ってよかった。と思う。 大学生なんだから、いいかげんもう手をかけなくていいと、思いつつ、やっぱりまだまだ、子供なのかもしれない。どこまでが、子供で、どこからが、おとなになっているのか。その加減の見極めがむずかしいなあと、思う。 昔は、大学生って大人な存在だったけど、自分自身が年をとってきた、その目で見ると、大学生もマダマダ子供なんだなと、思う。所詮まだ、20歳前後の集団なんだし。いろいろな学祭のイベントの企画でも、矢張り所詮は素人、テレビなんかに見慣れた目には、お粗末だけれど、それはそれ。そんなことをいろいろ経験しながら、成長して、社会に出て行くのだろう。 長男には、自分の人生のたくさんの失敗、自分の欠点なんかをそっくりわが子に見つけて、自分とは同じ失敗をしないようにと、いろいろ注意するのだけれど、やっぱり、彼は彼なりの失敗と経験をこなしていかないと、駄目らしい。やはり、人間というのは、同じテッを踏んでしまうものらしい。 だんなや私のちょっとしたくせとか、それをそのまま遺伝していることに驚く。能力とか、性格が遺伝することは分かっていても、個人的なくせまで遺伝することに驚いている。たとえば、夫のジャンパーを上まできっちり締めるところとか、男なのに、内股で立つところとか、中学生の頃母ともめて玄関のドアをバーンと思い切りしめて登校した私の過去の行動を息子にまた、再現されるとは、思いもしなかったので。 なんてことをいろいろ考えつつ、見に行った、学祭なのでした。
2008年07月09日
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『サイレント・ヒル』というプレステのゲームがある。映画化もされたほどの人気ゲームで、シリーズ化されていて、何作かある。私もそのうちの一つを遊んだのだけれど、シリーズのうちのドレなのかよくわからない。グロイゲームなので、やっていてちょっと気分も悪くなってくるし、シリーズ全てをやる気にもなれなくて、遊んだのは、一作だけなのだけれど、それが、死んだはずの妻から手紙が届いて「私はここで待っているから、来て」というもの。その場所がサイレントヒル。静かな丘。美しいタイトルのような、怖いタイトルのような、含みたっぷりのタイトルなんだけど。ゲームにも、映画のように物語があって、ゲームをしていくと、主人公の男の妻が実は病気で死んでいる。その妻の看護をずっとしていたのが、この主人公の男で、妻が死んでからすでに何年もたっている。彼の中で薄れ始めていた記憶が、サイレントヒルの町の中をさまよいながら、思い出されていく。おどろおどろしい病院、看護婦のようなモンスター。なぜか一人だけまともな人間として登場する妻と同じ名前の美しい見知らぬ女性。これはつまり、まだ病気になる前の健康で美しかった妻そのものなのだろう。そして、ラストボスは、ベッドごとかつての病院だった建物の最上階をとびまわって、彼に攻撃してくる病気の妻そのもの。愛する妻を看護しながら、彼の意識の奥で、彼にひどい言葉をあびせて悪態をつく妻は、彼にとってモンスターそのものだったのだろう。病気ゆえにその苦しさゆえに、夫を傷つける言葉を吐き続ける妻。ゲームの中で主人公に硫酸を吐きかけるモンスターは、夫にひどい言葉を吐きつける妻そのもの。病人の吐く悪言を、硫酸で、このゲームは、表現しているのだが。彼にとって、妻はモンスターとなり、妻を看護する場である病院はおどおどろしいスリラーゲームの場そのものになる。愛する妻ですら、その看護は、怖いモンスターだらけのゲームの場所にかわりうるほど、看護というのは、厳しく辛いものなのかもしれない。京都で体調不良にあえぎ、空腹で目の前のレストランを前にしながらおろおろする夫を前にして、気持ち悪くて頭が痛くて、もう、ご飯食べないで、民宿に戻りたいと、ごねた妻は私です。優しい言葉をかけられながら、自分の頭痛や腹痛や、体の痛みやに徹底的にわがままを言う自分に、サイレントヒルの中のラストボスになって、夫に硫酸を吐くモンスターになったら、困るな、怖いなと、思いながら、途方にくれたのも私です。今はまだしも、将来私が寝たきりになったりして、大病で長期入院したら、毎日お見舞いに来て、看護してくれる夫に、硫酸を吐くような女になったらどうしようと、ちっょと、怖かったです。私自身は、介護なんてしたことないから、わからないけれど、愛する妻が、モンスターに見えるほど、介護とか、看護って、過酷なのかなぁ。ちなみに映画でも、やつぱり、ベッドにのったまま、飛び回るラストボスが出てきます。その上、鉄条網のような、茨のようなものが生えてきて、しばりつけるシーンも。怖いですね。最後は異世界からでられなくなっちゃうし。でも、ゲームの中では、主人公の妻への愛が、全編哀愁タップリに描かれていたり、するんですよね。ホラーゲームなんだけど、そのあたりが心に残ってしまったのでした。
2008年07月07日
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好評判の作品なので、気にとめていたですが、やっと、借りてきました。原作が群ようこと、最後のところで知って、なんとなく、納得。 でも、私には、女だてら、たった一人で遠い北欧までいって、たった一人で経営のなりたつかわからない、食堂をはじめるなんて、そんな勇気はないです。ぜんぜん知らないところにたったひとりで、ぱっと出かけていったり、踏み込んでいける人というのは、基本的にだいたい人間の好きな人なんだろうなあと、思います。ピーター・フランクルの本を読んでいた時も彼の友人で、しらない異国の地で浮浪者の集団に入り込んで仲良くなってしまう人がいたそうです。その人は、全ての人に善意があると信じていたような人。 知らない異国の地でも、食堂が流行らなくても、不安そうでもなく、日々たんたとすごす主人公サチエ。彼女は、窓から怖い顔で店内をのぞく人にもにっこりと微笑みます。 最初ほとんどお客さんのない状態で、町で知り合ったミドリさんや、マサコさんが、お店の手伝いをしはじめます。そのうちちらほらと、お客さんがきはじめて、ラストでは、店内満席のお客様たち。でも、三人もいるので、あわてることなく、速やかに、お食事の用意はなされていきます。 普通こんなお店を開くと、最初は店長一人だけでやっていて、お客さんが増えて人手が必要になってから、新たに店員をやとうものです。だから、不慣れな店員や、人手不足で料理のくるのが遅いことにお客さんたちはいらいらさせられるものですが、かもめ食堂の場合は、早い時期から、三人のスタッフがそろっていたので、あわてることもありませんでした。 いくら、ただのお手伝いでも、誰もお客さんのない状況で、二人三人と、店側の人間ばかりが増えるのでは、経営が破綻しないのかなと、こんなほのぼの系の映画なのに、そんな、経済的なことを心配して見てしまったのですが、最後には、かもめ食堂は繁盛したので、ああ、よかったと、思ったのでした。 まず、迎える側の準備が整って初めて、人が訪れる。人をむかえる場ができていれば、自然に人は、やってくる。いれもののないところに、水を入れることが出来ないように。 ミドリさんが、いろいろと心配して、メニューを工夫しようとしたりと、いろいろと考えている時もサチエさんは、そのスタンスをかえませんでした。かつて、母のいない家庭で、遠足の時に父が作ってくれたおにぎり。おにぎりと一緒に味わった父の愛情を自分もまた、他の誰かに伝えたくて、そんな思いで始めた食堂なのでした。 おにぎりが、食堂のメニューの中で、ライスボールではなくて、onigiriと、書かれているところがよかったです。 もし、彼女が結婚していれば、その愛情は彼女の夫と子供たちに伝えられたかもしれません。でも、結婚していない彼女は、自分のもらった愛情を伝える誰かをもたないままでした。 人は自分がもらった愛情を、また、誰かに伝えたいと、思うのかもしれません。父からもらった愛情とおにぎりは、なぜか日本から遠い北欧の町の食堂で、誰かに伝えられることになったのでした。 こんな風に誰かにあげたいと思うほどの愛情を、私は子供たちに伝えているかなあと、思ったのでした。 かもめ食堂@映画生活
2008年07月04日
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ほぼ原作どおりの映画化で、よい作品に出来上がっていました。原作を読んだ時は、それほどおもしろいと思わなかったのですが、こうして映画でもう一度じっくり見ると、あらためていい作品なのだなあと、思いました。 日常の現実の女の子の学校生活の大変さ。友達がたくさんいて、楽しいところという、一般的なイメージとはちがう、学校という場の、現実、真実。もちろん、私の世代も経験してきた女の子の世界の流儀が描かれています。これは、本当に本当の事で、この本を読んだ娘は、「そうそう、本当にそうなんだよ、大変なんだよ。」と、感動して読んでいましたっけ。 この作品については、かなり昔の記事で書いたので、そちらを読んでいただけたらと、思います。 ところで、物語の中で、ジャムをつくるシーンがあるのですが、そのジャムづくりに使われていたのが、スプーン印の白砂糖でした。え、白砂糖?黒砂糖とか、さんおん糖じゃないんだー。 と、この部分かやたら気になった私です。 主人公まいが、一時的に一緒に暮らすことになる彼女のおばあさんの家は、田舎の一軒家。周りにはほとんど家のないところでの大自然の中での暮らしです。イメージとしては、今流行のターシャおばあさん風。自分で畑をつくり、野菜をつくり、イチゴを作る生活。まさに、流行のオーガニック、スローフードの生活ぶり。 でもでも、このおばあさんは、たぶんそんな意識はないのでしょうね。もともと自分が祖国のイギリスで暮らしていた生活をそのまま日本でもやっているだけ。オーガニックとか、スローフードなんて考えているわけではないのでしょう。 だとすると、自分で作れるもの以外は、少し距離のある田舎の近くの町の雑貨屋さんや、小さな食品店で、買ってくるのでしょうか。そんなお店には、今流行のちょっと値段の高い黒砂糖や、三おん糖なんて置いてないでしょうね。ネット通販で買うなんてことももちろんしてなさそうだし。 このおばあさんの生活は、そんな力の入ったものではないのだろうなと、思いました。 だから、ジャムは手作りだけど、使うお砂糖は、ごくごく普通の白砂糖、日本でもいちばんポビュラーで、田舎の町の雑貨屋さんにも当たり前に置いてありそうなスプーン印のお砂糖になるのでしょう。 さて、主人公まいは、大人になり始めています。自分の意志でいろんなことを決めたり、行動したりしたいと思い始めている彼女には、なんでも集団の意識に合わせて、自分の意志は押し殺さなければならない、女の子の集団に、違和感を感じ始めてるのですね。そして大人の男の人そのものの源治さんの存在自体がいや。ヌード雑誌なんて不愉快以外のなにものでもない少女そのものでもあります。 大人になりはじめたまいが自分の中の不調和をうまく認識できずに、自分の中の違和感がなんなのかわからずに、人生を立ち往生している。そんなまいの心中をはっきりと言葉にして、彼女に自覚させてあげる。「これからは、自分で全部決めるのよ。自分の意志で行動するのですよ。」と。 それはまさに、まいが心の奥で望んでいながら、心の上層までは浮き上がらせることのできなかった、彼女の望みそのものなのでした。 予定外に涙が出てしまいました。見終わった後もしばらくそのまま泣いていたいなあと思ったほどなのですが、そういうわけにも行かないので、立ち上がって劇場を出ました。でも、映画を見た後に泣いていても不思議じゃないので、泣き顔でも大丈夫でしょう。映画館を出る頃には、普通の顔に戻っているはず。 最後に、ターシャ・テューダー様のご冥福をお祈りいたします。 西の魔女が死んだ@映画生活
2008年07月03日
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こんなサイトを見つけた。折田先生を讃える会京都大学に受験期に毎年出現する張りぼての折田先生の銅像。今年は、「てんどんまん」だったそうですが、もともとは、「本物の銅像の折田先生」にされていたずら書きが毎年どんどんエスカレートしていき、たえかねた大学側が、しまいこんでかたづけてしまったら、その場所に毎年、ハリボテでつくった「折田先生の銅像」が置かれるようになったとか。昨日ずーっとこれを見て楽しませてもらった。銅像にいたずら書きってのは、よくある話だけど、私自身が自分の学校で見たことなんてなかった。そもそもこんな目立つところに銅像なんてあったかな。そもそも銅像を作るほどの人のたてた学校なんて行ったかな。考えてみたら、ぜんぜん記憶にない。まあ、それはいいとして、こんないたずらが伝統として、現在に至るまで、えんえんと、学生の間に受け継がれて、残ってるなんて、すごい。きのう、帰ってきた、子供たちにも、みせたら、すごく受けました。そろそろいってる大学に飽きてきた長男とか、これからどこを志望校にして勉強するか悩んでいる娘とかに、大うけ!京都大学にいきたーいと、二人で盛り上がっていました。特に変人であることにもんもんとしてる長男には、自分の個性を肯定してくれそうということで、受けました。ところで、縦看板に書かれているこの文言折田彦市先生は 第三高等学校の校長として 京大の創設に尽力し、 京大に自由の学風を 築くために多大な功績を残した人です。 どうかこの像を汚さないで下さい。自由の学風ってほんとはなに?大学の校風ってどこもそもそも「自由」なものだと思ってた。自由じゃない学風の大学ってどんな学風なんだろう。自由じゃない大学ってそれはもう大学ではないのでは。とか、思っちゃったんだけど。一般に「自由な校風」とかいう、高校だと、ようするにまあ、校風が厳しくない。と。校則というと、靴下の長さとか、髪型はみつあみとか、バイト禁止とか、まあいろいろあるので、そんなものがないところとか、思ってたけど、もしかすると、大学の場合の「自由な学風」ってそもそもそういう高校レベルの認識とは、別物なのか?かつて、政府とか、国レベルで、国民に対して、言論統制とか、思想統制とか、出版統制とか、そんなのがあった時代に大学の中だけは、どんな思想の研究も、どんな考え方も、言葉も、みんなが心のままに、思うままに、発言できたことなのか。今でこそどこの大学でも当たり前の自由な学風って、別に、茶髪も赤毛もロンゲもパンクもオーケーで、授業とか、講義とかも聞こうが休もうがかまないよーって言うのとは、違うのでは。そのあたり、今の学生は一般社会がそもそも自由でありすぎて、そして、高校までが、規則五月蝿すぎて、それから開放された途端に、なんでもありなんだーっと、誤解してるのかも。うーん。「自由な学風」とは…。研究してみるべきですね。調べなおしだ。それにしても、京都大学、楽しそうだ。経済的な制限がなけれは、受けさせたかったかもね。京都大学の学生さんは、あれを見て、どう思ってるんでしょうか。
2008年07月02日
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10歳前後の少女。20代の若い女性。40代の中年女性。60前後の高齢期入り口の女性。70から80歳くらいの高齢のおばあさん。それぞれの世代の五人の女性たちが登場する物語。一人の女の一生を五人の女に分けて語られる、物語。 房総の海辺の町に残る古い大きな民家を舞台に、五人の女の人生の戸惑いが語られる物語。 妊娠したのに、結婚のための堕胎か、未婚のままの出産かを恋人に迫られる明美(宮地真緒)。夫婦の折り合いが悪くて、夫に出て行かれてしまった光子(浅田美代子)。うまくいかない現実、仕事から逃れるようにしてこの家にやってきた美土里(樹木希林)。戦争によって死んだかつての恋人の遺品を捜すために戦時中の疎開先であるこの民家に、恋人との約束を思い出してやってきた保恵(香川京子)。 男の身勝手に泣かされる女たち。そんな女の業というものが、それぞれの世代にそれぞれにあって、女ゆえにもつ業に悩む女たち。 結婚にも、子供を産むことにも戸惑う明美。でていってしまった夫とよりを戻せない光子。 女が生きていくことは辛くて、難しい。 物語の中に語られる白い蛇は、女の業そのものをあらわしているのではないのかと思う。 けれどでは、男の方がいいかといえば、男は男で、戦争があれば、戦場に行き、命をかけて戦わなければならないし、女を養い、家を守り、それなりの責任をひき受けていかなければならない。明美が妊娠にとまどったように。明美の恋人もまた、恋人の妊娠に戸惑い、結婚や家庭に戸惑ったのだろう。全てを正悪でとらえる光子に息苦しさを感じて、でていった光子の夫もまた、家庭というものをひきうけなければならないその重さ、男の業から逃げようとしたのかもしれない。 ラスシ近くで登場する潜水艦、つまり赤い鯨とは、また、男の業をあらわすものなのだろう。 この物語は、そんな女の業、男の業、人の人生に定められた運命を受け入れる物語なのだろうと思う。 そしてまた、赤い鯨は、「女の子宮」を、白い蛇は、「男性」をあらわしているのだろうと思う。「白い蛇と話す」ということは、女としての自分の業を受け入れるということを意味するのではないかと思う。だから、「白い蛇と話すと幸せになれる」ということは、女は女としての自分の業を受け入れることでやっと、しあわせになれるのだと、そういうことなんだろうと思う。 家出した美土里は結局家に戻る。光子の夫は、家に戻ろうと、館山の駅まで来て戸惑っている。里香(坂野真理)は初潮を経験し、保恵は、かつての恋人とのかなわなかった恋に別れを告げる。 それぞれがそれぞれの業を受け入れるに至るまでの物語だった。 妊娠に戸惑っていた明美もまた、ラストでかわいらしいわが子を抱きしめて、幸福そうに微笑む。辛くて苦しいことばかりのようでいて、受け入れて見ればそこにはまた、幸せを伴っていることにもまた、気づくのかもしれない。 明美がはたして、恋人と和解したのか、結婚しえたのか、それとも、未婚のままの出産なのか。それはわからないけれど、それでも、たとえ、どちらの人生であったにしろ、この先にもまた、明美には明美の人生の運命、女の業が、それぞれの人生のポイントに用意されていることに変わりはないのだから。 監督のせんぼんよしこさんのコメントが本編の後に収録されていて、主演の香川京子さんの着物の着こなし、着付けへのこだわりなど、女性監督らしい気配りがすばらしい。 そして、浅田美代子さん、宮地真緒さんが、それぞれに素敵だった。 宮地さん。背が高くて足が細くて、きれいで、いいなあ。ただ、ラストにでてきた赤ちゃん、一年の間に出産したとしても、あんなに大きいはずないのでは。女の人いっぱいこの映画見たとおもうのですけど、不思議に思った人いるかしら。監督が女性のわりにそのあたりがお粗末なのでは。 赤い鯨と白い蛇@映画生活
2008年07月01日
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