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移植・リメイク作品の劣化パターンについては、先のブログで触れましたが、今回は、私なりの移植・リメイク作品を成功に導くには、どのようなケースが望ましいかを考察してみます。まず今回は、移植について考察致します。さて、移植には、そのままの移植と追加要素を加えた移植があります。その事例によって望ましい形が変わってくるであろうと考えています。単純な移植の場合は極々、簡単な話ですが、優秀な技術屋を揃える事が出来れば劣化する可能性は皆無になります。元々からゲーム性をいじる必要性が無いため、後は、技術屋が移植に際しての技術を不足無く持っているかが重要となります。逆に、追加要素がある移植は難しい話になります。追加要素によって、元々のゲーム性との統一性を必ずとらなければいけない事や、再度、ゲームバランスの調整を行う必要性が生じます。それらを行うためには、オリジナルゲーム作成者の中でも、特にディレクターに類する人間が必ず必要になります。その人員を確保出来ないと、作品から統一性が失われて駄作に成り下がります。纏めます。単純な移植であれば、優秀な技術屋が必要です。それによって、移植は成功致します。追加要素の移植であれば、オリジナルのゲームディレクターと、その思考をゲームに再現してくれる優秀な技術屋が必要です。これらの条件が満たされた場合には、移植作品は劣化移植を免れて、皆様の前に作品として届く事になるのです。移植については、会社が安い価格に固執し、スタッフィングを疎かにしがちな面があります。今後は、如何にして優秀なスタッフを移植に確保出来るかが、重要な課題となりそうです。残念ながら、私は移植に関わった事がありませんので、今後、周りで劣化移植が誕生しそうな状況がありましたら、改善するように働きかけていきたいと思っています。そうした結果、劣化移植が無くなって、ユーザーに楽しんでいただける移植作品をしっかりとリリース出来る環境にしていきたいですね。私も微力ながら力を尽くして頑張ります。
2006.02.24
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先日に、移植・リメイク作品についてのブログのリクエストを頂きました。ご期待に沿える程の文才はございませんが、今日は、その点について、ブログしていきたいと思います。長くなりそうですので、複数回に分けて掲載致します。さて、昨今は、空前のリメイクブームかと思う程にリメイク作品やシリーズ復活作品が増加しております。その中にあって、リメイクや移植なのに、前作よりも品質が落ちてしまう劣化版も横行しております。その点、疑問に思われる方が多くいらっしゃるかと思いますので、今回は、何故、劣化版が世の中に出るのか仕組みを解説したいと思います。移植やリメイク作品についてですが、劣化してしまう要因は複数あります。その中で、特に原因として多いものを列挙致します。1.移植、リメイク作品を安価に上げるために、オリジナル作品とはまったく関係の無い安価な外注スタッフにゲーム作りを担当させます。オリジナルがある以上は、それ以上の開発費を出来るだけ掛けずに、収益の拡大を狙います。場合によっては、外国の安い労働力を導入し開発します。その結果、そのゲームのアイデンティティが失われ、劣化作品へと成り下がります。2.社内の違うスタッフに作成させるケースです。リメイクや移植される程の作品を作り上げたスタッフは、優秀なスタッフのケースが多いです。その場合に、違う挑戦や、違う新規作品の開発に、その優秀な人材を回してしまうケースが多くあります。その結果、そのチームより力が劣ったチームが移植やリメイクを担当します。結果、チーム力の差から劣化作品へと成り下がります。3.会社の都合によってゲームを開発させる場合です。開発費は潤沢にあり、スタッフにも金銭的な余裕があるのですが、元々、そのゲームに対して熱を持っている開発者ではありません。ですが、会社の収益のために、その時期にそのゲームが必要です。その結果、オリジナルに愛を持っている開発者以外の人間を集めて、開発を担当させる事になります。当然ですが、劣化作品に成り下がり、ユーザーの怒りを買うケースが多いです。4.開発担当者の力量が落ちてしまったケースです。過去に名作を作った人間でも、成長が止まってしまうケースや、実力が落ちてしまうケースというのがあります。他の業界でも、昔は凄かったのに今はという方が、必ずいらっしゃるかと思いますが、それです。その方がリメイク作品等を担当された場合に、昔のようなゲーム作りの創作技術・魂を失ってしまっているために結果として、オリジナルスタッフが手がけながら駄作へと変貌します。大体において、以上が劣化作品が生まれてしまう要因になっていると考えられます。このような安易なリメイクや移植は、ゲーム産業に対して、なんらメリットが無いものだと考えています。確かに、売り上げの面から言えば間違いなく確保は出来ます。ところが、適当な作品を作ってしまっては次に繋がらなくなってしまいます。名作だからこそ、リメイクや移植の決定には慎重になっていただきたいと思います。安易な名作ゲームの移植、リメイクを私は悪だと考えています。
2006.02.23
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本日は、この場を借りて少し宣伝・報告させていただきます。私が開発に関わった作品が、今日から3月末までの間の何処かの日で発売されます。ブログを書き始めてから、初の関わったゲームの発売となりますので、皆様にも、ご報告させていただきます。数々のご意見、ご助言に対して感謝致します。ゲームは現行機での発売となります。タイトル名は申し上げる事は出来ませんが、所謂、シリーズ物、続編物と呼ばれるようなナンバリングタイトルと思って下さい。もし、このブログをご欄になっている方で、上記に類するゲームをご購入していただいたゲームがあれば、もしかすると、その作品かもしれません。というわけで、興味がある方は、ここから3月末までの間に発売される続編、シリーズゲームを全てご購入下さい!!(冗談です。)*注意関わったといってもメインに関わったわけではありません。作品への梃入れや、技術供与等を行いました。前にヘルプのお話をしたかと思いますが、そのような関わり方になります。私が今、携わっているタイトルは次世代機向けの作品です。また、機会が来ましたらタイトル名が特定出来ない範囲で報告させていただきます。それでは、今後とも宜しくお願い致します。
2006.02.22
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昨今のマスメディアによって、ゲームと犯罪の因果関係は、実際には、事実無根の論拠が無い話ながら、まるで科学的に証明済みかのように語られるケースが増えております。そのような悲観論的且つ、意図的な悪役作りによる視聴率稼ぎに終始するマスメディアに対して大きな遺憾の意を表します。この論調について、ふと聞いていて思ったのですが、一見してマイナス方向のみの意見ではありますが、逆手にとる事によって、大きなプラス方向に向かうのではないかという気がします。仮にゲームの影響力がそこまで大きかったと仮定すると、人間の性格や思考に対しての影響力を行使出来る事になります。ならば、犯罪の発生に影響しているのではなく、犯罪の抑止に影響している、影響させる事が出来るという考え方も出来るわけです。私としては、何故、こちらに話の重点がいかないのかが大いに疑問です。何事においても、大きな力は良い面に使えば社会全体に対して多大な貢献をする事が可能です。ゲームに関しても、その影響力の大きさを認めるのであれば、こちらの方向に使う道を評論家連中は模索すればよいのです。ところが、彼らはそれをしません。何故ならば、意図的に不安感や悪役を作った方が自身の利益に繋がるからです。私達、開発者は当然ながら犯罪者を育成するつもりは毛頭ありません。犯罪を憎んでおりますし、社会全体の安穏を願っております。開発者は一般の人間であり、普通の生活を送っている一個人です。自分が帰属する社会の不安を望むわけがありません。その影響力を本当に信じるマスメディアの方に問い掛けたいです。そのような大きな力があると信じているならば、私達と協力して犯罪を無くすためのゲーム作りにご協力いただけませんか?その方が、社会に貢献出来ますし、建設的です。悪い影響への証明が出来るという事は、良い影響のさせ方も必然として分かるという事になります。開発者もゲームによって、犯罪を起こしたいという気持ちは微塵もありません。私達も、ゲームのイメージ払拭のため、ゲーム性の改善に努力していきたいと考えております。そのような悪い影響を与えているとお考えの方がいらっしゃいましたら、どうか一緒に良い影響を与える方法作りにご協力下さい。そのアイデアが犯罪を防止出来るかもしれません。
2006.02.21
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最近、矢継ぎ早にゲーム会社の合併が行われております。これには、今後の開発費高騰化に備える意味合いであったり、お互いのコンテンツを相互利用する事によって相互価値の向上を図る狙い、得意分野の相互のノウハウ提供等によって会社単体時よりも、幅広い価値や幅広い技術等を獲得するための目論見があります。然し、このシナジー効果を狙った企業合併ですが、企業合併意外の箇所でも、積極的に取り組むように変化してまいりました。このシナジーの波は、間違いなくゲームの開発現場へまで入り込んできております。例えば、ゲーム会社には、業務用ゲーム部門、家庭用ゲーム部門等の部門がございますが、これらは単体で動作する事が多く、幅広い交流があるとは言えないような状況でした。ところが、最近は、会社内でもシナジー効果を狙って、幅広い交流や、相互のコンテンツを高めるための取り組みが圧倒的に増えてまいりました。今までは、業務用単体で企画が通っていたものが、家庭用とどう連結していくのか、そういった副次的な効果が、今後のゲームの企画承認において、重要な要素となってきております。他にも、他の会社との共闘関係の深まりも見逃せません。身内意外の会社とも、お互いの会社のノウハウを相互利用する機会が圧倒的に多くなり、ゲーム会社同士の仲は急速に深まっていると言えます。このシナジー効果の波ですが、それだけ、ゲーム業界全体が過渡期を迎えていると言えます。昨今の開発スタイルでは、現行規模の会社単体での開発は難易度を増していく一方であり、開発費の高騰によって、開発費の回収も難易度は増すばかりです。それらを解決するためにも、相互の得意分野を合わせ合理化を図るとともに、相互コンテンツの有効利用、副次的な効果を高める事によって、過渡期を乗り切っていく事が必要になっております。さて、この波ですが、会社にとっての利益ではなく、ゲームとしての利益に繋がる可能性もあります。ゲームを面白くするための強力や、幅広いコンテンツの相互協力によって、今まででは、発売出来なかったようなゲームが多く市場に出回る事になるでしょう。既に、その流れは始まっておりますが、今後は、更にその勢いは増すことが予想されます。この過渡期の流れを利用して、面白いゲーム開発のノウハウが合わさって、今までにない面白いゲームの開発の誕生に期待したいです。また、私もそのようなゲームを開発出来るように尽力していく所存です。
2006.02.16
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最近、お邪魔したサイトで引き抜きの件が話題になりました。今回は、その引き抜きの件についてブログしたいと思います。ゲーム業界では、引き抜きというものはそんなに珍しい話ではありません。特に、スーパーファミコン時代からプレイステーション時代への移行期、所謂、2Dから3Dへと時代と共に変遷する中で引き抜き合戦は熾烈を極めました。特に某超大手会社の行った引き抜きは凄まじいものであり、業界の人材の配置図は、それを機会に大きく塗り替えられたといっても過言ではないでしょう。その中で、A社が開発していた類似のゲームがB社から発売されるなどの混乱が起こった事は記憶に新しいところです。何故、このような大規模な引き抜きが起きてしまったかについては、幾つかの要因があると考えられます。まず、恐らく第一に頭に浮かばれる事でしょうが、お金と環境の問題です。これは、ゲーム業界に限った話では無いと思いますが、より多くのお金、より良い環境を求める心は誰もが持っているものです。それを、提示された時に、そちらを選択すれば引き抜きが成功となるわけです。引き抜く側にとっても、即戦力の人材を雇えるために教育費、所謂、投資が必要ありません。自社で育てて、そのレベルに持っていくよりは遥かに投資額が少なくて済む計算になるために、お互いにとってメリットがあるわけです。次に、開発者の境遇にも原因があったと考えています。一昔前は特にそうでしたが、ゲーム開発者の境遇は悪辣なものでした。(*当然、全ての会社がそうと言っているわけではありません。)徹夜の毎日、勿論、残業手当等頂けるはずもなく、過激な表現を使うと、正に奴隷のような扱いであったと言えます。それでも、開発者は情熱を持ってゲームをヒットさせました。ところが、その利益が殆どといっていいほどに開発者に還元されません。経営者陣の贅沢に使ってしまったわけです。酷い例を挙げましょう。某社は、リラクゼーションルームをゲームの売り上げから作りました。開発者も利用出来ると思い喜んでおりました。ところが、開発者が足を踏み入れて利用しようとところ、たまたま、経営者の一人と遭遇しました。その瞬間、怒号が飛び、即時に出て行かされました。何を言われたのか・・・それは、お前達のために作った場所ではない、出て行けという事でした。挙句の果てには、連日の徹夜で疲弊している開発者に向かって、その場で汚いと吐き捨てられた事も付け加えておきます。このような扱いを受けて会社に仁義を通す必要があるのでしょうか。少なくとも開発陣は、その必要を感じませんでした。そこに、ヒット作を生んだ人間に他の会社から声が掛かったわけです。その結果は、言わずとも分かると思います。このように、引き抜きをされる状況は色々な状況があるのです。一般的に言えば、間違いなく引き抜きよって違う会社にチームが移籍する、似たようなゲームを作っている事は気持ちの良いことではないでしょう。むしろ、仁義から外れている行為に感じるのは当然であると思います。私も、このような事については賛成する気持ちは基本的には持っていません。然しながら、開発者同士で同情する気持ちもあるのも確かです。会社には恩がありますが、だからといって、自分を一人の人間として見てくれないと働いている人間が思ってしまったら、その場で働き続ける事を選択する事は出来ません。特に、一昔前はゲーム業界自体が未熟な業界でした。つまりは、未熟な経営者が多かった時代です。労働法をまったく無視した会社が多かった時代でした。それが、この引き抜きの嵐を引き起こしてしまった主因だと私は思っております。人間は、自分が認められると思える環境で働きたいと思うはずです。それが満たされていれば、仮に引き抜きがあったとしても、そうそう多くのチームが話しに応じるはずはありません。類似ゲームのお話については、私は基本的には開発すべきでは無いと思っております。ところが、開発者にとっては、自分のアイデアを具現化させたゲームは自分の作品、子供だと思っている方が多いのも事実です。その中で、会社を変える事は、販売会社を変えるだけともとれます。権利的には会社に帰属すると思われますが、何処までが許されるかについては、法的にも判断が難しいところです。繰り返し申し上げますが、私は会社を移籍した場合に類似ゲームを製作する事については反対の意見を持っております。然し、ゲームを作った当人が、自分が作った作品をより昇華させ世の中にリリースしたいという気持ちについては同じ開発者として理解出来ますので難しいところです。最終的に、私が願う事は、引き抜き云々がゲームの質を下げないようにだけ願っております。全てはゲームの質が上がるために、開発者も会社も動いて欲しいですね。最後に、私自身が開発者のために、開発者寄りな意見になってしまっている事については異論はございませんが、上記の話について、一つの意見として受け取っていただければ幸いです。追伸:最近も、まだ引き抜きはあります。もっとも、昔よりは遥かに少なくなりましたが・・・
2006.02.14
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先日に、趣味を仕事とする事に関してご質問いただきましたが、とても興味深い題材だと感じましたので、この点についてブログという形で纏めさせていただきたいと思います。趣味を仕事にする事については、私は最高に幸せな仕事となる可能性もあり、最低の地獄のような仕事となる可能性もあると考えています。まず、趣味という言葉の意味を考えてみます。以下は辞書によって調べたい内容です。そこには、こう書かれています。「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしている事柄。」仕事・職業としてでなくと書かれている点に着目して下さい。私としては、この点から、以下のように考察致しました。まずは、趣味を仕事とする場合の危険性について考察致します。趣味というのは楽しいものです。つまりは、楽しいが前提であって、辛い事は趣味とは言いません。ところが、趣味を仕事としてみるとどうでしょうか。楽しいだけの仕事は、この世の中に絶対に無いと断言出来ます。ここで、楽しいはずだった事柄に対して、辛さが介入してくる事になるのです。人間は仕事の辛さやストレスを、自分の趣味等によって発散し、また仕事への英気を養う方が多いのではないでしょうか。ところが、趣味を仕事としてしまった場合には、楽しいはずだったものが、楽しい事であり辛い事でもある事に変わっているのです。つまりは、趣味での楽しさが奪われているのです。それが趣味を仕事とする最大の危険性です。癒しの場を奪う事に繋がる危険性が非常に高いのです。仕事場だけで済んだはずのストレスがプライベートを侵食している事になるのです。何故、辛さが介入してくるのかを簡単にですが説明してみます。趣味というのは自分がやりたい時に始めて自分がやめたい時にやめられます。気分が乗らない時には、やらなくていいのです。趣味に対しては、自分は自由に振舞えるのです。ところが、仕事としたらどうでしょうか。やりたくない時でもあなたはやらなければいけません。また、仕事は好きな事だけを選んで仕事とする事は出来ません。つまりは、自分がやりたい事をやるためには、その代償として、沢山の大変なやりたくない事もやらなければいけません。このような事が起った場合に、趣味を仕事とする事の良い面ばかりを見ていた場合に、趣味も仕事も同時に憎むようになります。そして、趣味も仕事も一度に奪われる事になるのです。これは、最低の地獄です。では、逆に最高の幸せを得るというのは、どういう場合でしょうか。趣味を仕事とする上での、メリットを考えてみます。趣味を仕事とする上で、幾つもの代償を差し出す事は上記について軽く触れましたが、それによって得られる喜びや楽しさは段違いに大きいものとなるという事が最大のメリットであると思います。ゲームが遊ぶ人間が趣味だったものが仕事とした場合に、幾つもの辛さを乗り越えた先には、自分の理想通りのゲームを世の中に出せる喜び、また、それを自分で作り出して遊べる喜び、と同時にユーザーに喜んでもらえる喜び、大好きなゲームに毎日、触れる事が出来る喜び、沢山の喜びや幸せを手に入れる事が出来るのです。しかも、それによって報酬を得る事が出来るのです。好きな事をやって報酬をいただける、これ程に幸せな事があるのでしょうか。最高に幸せな仕事と呼べるものがそこにあります。今回は簡単にではありますが、纏めましたが、要約しますと、趣味を仕事にする事は最高の幸せを生み出す可能性もあり、最低の不幸を生み出す可能性も同時に併せ持っています。そして、どちらになるかは自分次第という事です。私は、最高に幸せな方向へ進むために必要なものは覚悟だと思っています。趣味を仕事とする事をじっくりと考えて、考え付く全ての辛いシチュエーションを頭に思い描いて下さい。やらなければいけない努力を思い描いて下さい。それでも、進みたいという覚悟があるのであれば、その仕事に就けた時に、最高の喜びを得られる可能性は高いと思います。趣味を仕事としている私は断言します。明確な意思と覚悟さえあれば、趣味を仕事とする事は最高に幸せな事なのです。
2006.02.13
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職業への誤解と話が近いのですが、ゲーム業界を誤解した新卒採用応募者が多くいます。確かに、面白いゲームを作るのには奇抜な発想も必要です。然し、それは常識をまったく知らないという事と同義ではありません。それ以外にも色々な面で勘違いしている方がいらっしゃいます。その中でも、特異な例を今回は取り上げてみたいと思います。志望者の方が、このブログを閲覧する事があれば、間違っても、このような行為に及ばないようにご注意下さい。ケースA:履歴書に落書きを書いてアピールしてきます。そこに自分の似顔絵や、面白かった事を絵で書いてアピールしているつもりになっています。言うまでもなく不採用です・・・真面目にやるところは真面目にやって下さい。ふざける事と面白い事はまったく別です。分別を持って下さい。最低限の常識を持ち合わせている事はどんな職業であれ必須条件です。ケースB:ゲーム業界は学歴社会ではありません。その意味を勘違いした志望者がいます。以下、志望者の言葉です。「僕は大学は、勉強が出来なくて不合格でした。バイトも学歴のせいで何件受けても、1件も受かりません。でも、ゲーム業界ならば、学歴は関係無いので働いて出世が出来ると思いますし、働かせて下さい。」・・・確かに、学歴社会ではありません。私の会社にも、専門卒、大卒、大学院卒等、幅広い人材がいます。然し、残念ながら実力社会なのです。自分を磨いてきてから勝負しにきて下さい。バイトも本当に学歴で受からなかったのか考えてみて下さい。ケースC:ゲーム業界はゲームを作る職業です。ゲームで遊ぶ職業ではありません。志望者の中に、自分が如何にゲームで遊ぶのを好きなのかを延々とアピールしてくる志望者がいます。作るのが好きなのはアピールしてきません。酷い志望者になると、遊ぶのが好きだから作る事も出来ると勘違いしている志望者がいます。一年中、ゲームで遊んでいたいと言ってくる輩もいます。もう一度、何の職業なのかを調べてきて下さい。ゲームを好きなのは当たり前ですが、それ以外に何を持っているのかが重要なのです。以上、数点を抜粋して非常にまずい例を挙げてみました。そろそろ、年度も終わりです。また、面白い新卒採用志望者が来るかもしれませんね。
2006.02.10
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今回はゲーム製作中においての対人間での激しい憤りを感じた事についてブログします。私のこれまでの人生の中で何回か同じ質問をされた事があります。そして、その質問は私の最も嫌いな質問です。その質問の内容とは、「私には才能が無いのでしょうか?」です。気の迷い程度での一言なら許しますが、本気で発せられた一言が嫌いです。私は、最終的な才能の有無は他人が決める事ではないと思っています。その人がどれだけ努力しているかは正確なところは分かりません。努力してそこまで到達したのか、才能によってなのかを外部から断定するべきではないと考えます。ましてや、この質問の結果として無いという返答が来たらどうするというのでしょうか?上司から才能が無いという言葉を貰うのは死刑判決の判を押された事と同じではないでしょうか。 この質問は唾棄すべき一言だと思っています。自分自身の価値を、引いては自分自身の人生に対しての選択を他人のただ一つの言葉に委ねる結果になり兼ねないからです。自分の選択は自分がするべきなのです。それに、本当に進みたい道であるならば才能が仮に全く無かったとしても関係無いです。 私は、この質問をする事によって才能が奪われると考えています。自分の才能を自分が信じられないならば、何か行動を起こす際に、絶対に諦めの気持ちが入り混じってしまうと思うのです。それに他人に負けた場合に、必ずこのように思います。私は努力では勝っていたのに才能だけが足らなかったと・・・そのような言葉を何度も聞いてきました。そんな状況で努力しても努力が実を結ぶはずもありません。自分を信じて1年間努力した人間と、才能が無いと諦めながら1年間努力した人間のどちらが上を行くでしょうか。私には後者としか思えません。綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、私にとっての才能は、才能があると信じる者に宿ると考えています。、才能が無い私にとってはゲーム製作はつまらないと言われた事があります。この言葉に対して、私は激しい怒りを覚えました。では、あなたはどれだけの時間を自分を磨く事に費やしてきたのでしょうかと。それにゲーム作りを楽しまない人間を私は信頼出来ません。ゲーム作りは面白い物を作るのが仕事です。その製作に携わっている人間が自身の才能の有無だけを思い悩み、仕事をゲーム製作をつまらない物だと吐き捨てる。そんな姿勢は私には到底に許せないのです。自分の才能が無いからと理由付けをする、自分からの逃げの姿勢が許せませんし、その結果として、ゲームの面白さの追求という課せられた責任からの自分の才能への責任転嫁による逃げが許せません。再度、言いますがエンターテイメントを作りたい人間は自分の努力や才能に疑問を持ってはいけないと思います。疑問に支配された人間の作るゲームは悲劇的です。ゲームにも、必ずその影響が出てしまうからです。疑問だらけのゲーム、それはとてもつまらないゲームです。疑問を持たないぐらいの努力をし、ゲーム製作に邁進しなければいけません。それが出来るかどうかが、ゲームクリエーターの才能の有無では無いかと思います。最後に少し付け足しを致しますが、決して傲慢になれという事ではありません。ただ、自分の作っているものを信じる事はゲーム製作での最低必要条件だと言いたいのです。そして、自分をまるで信じる事が出来ない人間は、自分が作ったものも絶対に信じられないのです。文章の中にいささか配慮を欠いた文面があるかもしれません。然し、これが私の嘘偽ざる気持ちです。
2006.02.08
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よく日本人開発者よりも外国人開発者の方が相対的に技術レベルが高いのではないかというイメージを抱かれている方が多くいらっしゃいます。実態はどうなのでしょうか?これは、あくまでも個人的な意見ですが、そのような事は一切、無いと思います。勿論、日本人開発者対海外全ての開発者となれば数の理論からも劣勢になる事は否めませんが。では、どうしてそのようなイメージがあるかを考えた時に、従来からある日本人開発者と外国の開発者でのゲームにおける製作スタンスの違いに要因があると考えます。日本人開発者はゲームの気持ちよさを重要視し、絵についてもリアリィティよりも見易さを重要視します。そのため、高度な技術を使ってそれが損なわれるよりは、それをきっぱりと切り捨ててしまいます。ところが、外国の開発者は見易さよりもリアリィティを重視します。日本のゲームと海外のゲームを比較した場合にゲームのフレームレートに大きな違いがあるのも、そこが原因です。日本の開発者の大半は、それを損なって気持ちよさが減少するぐらいならグラフィックを抑えます。海外は別です。グラフィックを抑えるぐらいならその点での気持ち良さを減少させる事も厭いません。そのような製作スタンスで作成した場合に、当然ながら、海外のゲームの方が高度な技術を多く導入する事になります。日本のゲーム開発者は出来ないわけではなく、意図的に入れていないという事に着目して下さい。そのような結果の蓄積が海外のゲームは技術的に高いが面白さが足りない。日本のゲームは技術的に高くないが面白さがある。というイメージの定着に繋がったのではないでしょうか。私は、それが真実であると考えます。尚、最近は、この法則が崩れてきました。日本の開発者も、ここで言う外国よりのスタンスで開発されるゲームが増えてきましたし、その逆も然りです。これは、加速度的に各国の感性が近づいている事の証明なのかもしれません。時代はグローバルです。ゲームもグローバルな面白さへ進化していきたいですね。
2006.02.06
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日本全体で、英語の必要性は高まっていると言えるでしょう。学校教育の現場でも英語の授業への取り組みは以前よりも遥かに重要性を増して取り組んでいるようです。ゲーム業界でも同様に英語の重要性は増しています。これには、日本以外のゲームメーカーが台頭してきた事が多いに関係しています。今までは、ハードレベルでは、任天堂やソニーのように日本のゲーム会社を中心として周ってきました。然しながら、最近はマイクロソフトのハードも世界的に見てそれなりの市場を形成しつつあります。更に、PCのゲームへの注目度は世界規模で増しつつあります。このような流れの中で、海外のメーカーと関係した仕事をする機会は増加傾向にあります。必然的に英語の出番です。例えば、マイクロソフトの某ゲーム機のドキュメントは日本語ドキュメントと呼ばれるものは一応は用意されていますが、トップメニューから入った詳細な説明は英語のままです。PC用のプログラムで主流になっているDirectX等は、まず英語版のドキュメントが発行され、日本語版は随分と後になって発行されます。つまりは、日本語版を待っていたら最新の状態から取り残される事を意味します。ネットの普及も見逃せません。そこには、各種最新の専門技術が多々、公開されています。ネットで勉強するのがスタンダードな時代になりました。ここでも、英語の出番です。実は、日本語の専門技術サイトよりも海外の専門技術サイトの方が数が豊富にあります。この数の違いの原因は、国民性も関係しているかもしれませんし、(日本人はあまり技術を公開したがらない人が海外よりも多い)英語圏の人口の方が純粋に多いという事もあるかと思います。原因はどうあれ、専門技術を習得するには英語が重要であるという事は間違いのない事実です。このように英語の重要性はゲーム業界においても増しています。これから、ゲーム業界を志望される方、従事される方は英語にも着目して勉強されてはいかがでしょうか。大きなアドバンテージをもたらしてくれる事でしょう。追伸:私は、恥ずかしながら英語は得意ではありません。よく海外の方の技術講演会にも足を運ぶのですが、同時通訳機を介さずに、講演を聴く日本人開発者の多さに舌を巻きます。半数近くは同時通訳機をかけずに生の英語で聞いているような状態です。英語を完全に理解しているという事ですね。自分の勉強不足を痛感させられます・・・
2006.02.03
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ゲーム機というのは、据え置き機、携帯機とありますが、主流はあくまでも据え置き機で遊ぶ事でした。実際の販売数においても据え置き機の方が売り上げが上でありそれは常識となっていました。ところが、最近、DSの躍進によって逆転現象が起きています。そこから考える事があります。最近、売れるゲームの条件として、直感的である事や限られた時間内に直ぐに楽しめるとう事が重要な条件の一つとなっています。そういう意味で、DSのゲームはその条件に非常に適合していると言ってよいでしょう。ご存知の通りにゲーム業界は大作嗜好や、より複雑なゲーム性を追い求める一途でした。それが、ユーザーの楽しみを促進・追求出来た部分もありますが、逆に、ユーザーを知らないうちに切り捨てていました。ところが、この逆転現象において、ユーザーが何を求めているのかという事をゲーム業界の人間は強烈に訴えかけられました。それは、ゲームは原点回帰するべきであるという事です。昔のゲームは、アイデアが勝負でした。ところが、何時頃からか、お金が勝負の時代になってしまいました。お金があれば、安定した無難なゲームが作成出来ます。アイデアが無くとも、無難なゲームを作成可能なのです。ところが、やはりそれでは駄目です。限られた時間でユーザーに訴えかけるのは複雑なゲーム性や大作嗜好の豪華絢爛な演出ではありません。輝くようなアイデアこそがユーザーに訴えかけるのでしょう。今回のDSを見ていると、そういう事を痛切に感じます。大作嗜好、安定嗜好が更に加速する時代になってしまったからこそ、ゲーム業界の人間は、もう一度、原点に回帰しなければいけません。今回の現象から、特にそう考えさせられました。
2006.02.02
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