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最近は、新しいハードの発売、DSの好調もあって、ゲーム機が手に入りにくい状態が続いてしまう事があります。然し、そんな状況に拍車をかけているのが転売屋の存在です。以前であれば、ゲーム機の購入を考える方は、ゲームに興味を持っている方のみでした・・・ところが、最近は、転売目的で通常価格よりも高く売る事によって、差額を利益として儲けようという輩が増えてまいりました。私は、この転売屋に対して非常に強い憤りを感じております。この存在によって、本来は手に入るはずだったユーザーが、ゲーム機を手に入れる事が出来ない事や、無駄に値段が吊り上ってしまう等の弊害が多くでてきております。このような存在は、ゲーム産業を考える上で、今後も、益々、大きな問題になっていくのではないかと考えています。この種の問題は、業界だけでは対処が難しい問題でもありますから、政府や公的機関の助力がほしいところです。尚、このような転売屋は、個人単位で行っているものから、組織的なもの、挙句の果てには、ゲームショップ自体が関与してしまっているケースもあるようです。色々と対処が難しい問題ではありますが、この転売屋の存在がゲームに深刻な被害を与えないように祈るばかりです。最後に、ユーザーにおかれましては、このような転売屋は基本的には利用しないようにお願い致したく思います。一時的には、欲しい物が手に入るという利を得る事が出来ますが、長期的な観点からは、欲しい物が手に入り辛くなる可能性が高くなります。ゲーム業界、ユーザー、共に協力し、ゲームで不当な利益を得ようという方々を排除していきたいと思っておりますので、何卒、ご協力をお願い致します。
2006.11.28
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世の中にゲームは数多くリリースされております。その中にはユーザーに感動を与える事が出来る素晴らしいゲームもあれば、ユーザーに怒りや憎しみしか与えない駄目なゲームも数多く存在しています。今回は、その駄目なゲームを生み出す人間についてブログしたいと思います。さて、駄目なゲームを生み出す原因ですが、主に二つの原因が考えられます。一つは会社側の問題によって、もう一つは製作側の問題によってです。然し、ここで特に着目すべき点は製作側の問題です。駄目なゲームに共通する事は、製作側に問題があるという事です。会社が最高の環境を提供したとしても製作側に問題がある場合、駄目なゲームは必ず生まれます。逆に、状況が反対の場合においては、そうとは限りません。要は、ゲームの責任からは開発者は免れないという事になります。そして、最大の問題ですが、そのようなゲームを生み出す開発者に限って、その事を理解しない、しようともしない開発者が多いという事です。どのような原因があれ、開発者は、自分が作ったゲームに対しての責任を負います。失敗してしまった時、それは間違いなく自分の問題であり、何かに失敗の原因を求めるよりも、まずは、自分の中に失敗の原因を求めるべきであります。ところが、私が過去に出会った駄目なゲームを毎回のように生み出す者達に限って、会社が期間をくれなかった、会社の規模が・・・、大手だったら・・・、部下が・・・、というように自分に原因を求める台詞を聞く事が出来ません。これでは、面白いゲームを作れなくて当然です。会社に原因を求めても、その会社を選択したのは、その開発者自身です。部下について文句を言うのは自分の無能を曝け出しているようなものです。仮に、このブログを見ている方々の中に、自分が作ったゲームが毎回のようにユーザーに酷評されている開発者がいらっしゃったら、その原因を何処と見ていたのか、自分自身に確認してみて下さい。それが自分以外という結論だった場合には、今直ぐに目先を変え、何故、そのようなゲームしか作れなかったのかと自分に問うてみて下さい。何度も言いますが、毎回のように駄目なゲームを生み出している原因は、間違いなく開発者自身にも問題があり、そのようなゲームを生み出す者に限って、それを自覚しようともしない傾向にあります。面白いゲームを生み出せる可能性がある者、それは、自分自身の中に原因を求められる者、そこから発展しようという意識のある者です。そして、面白いゲームを生み出せる可能性がない者、それは、自分自身の中に原因を求められない者、まるで発展しようとしない者です。もしも、ゲーム開発者に出会った場合に、良い開発者か否かを見分けるのは簡単です。このように、質問してみて下さい。「仮に、あなたが作ったゲームがユーザーから酷評されました、その原因は何ですか?」どのような回答が悪い開発者の例であるのかは前述から、ご理解頂けているものと思います。
2006.11.14
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さて、今回も私事で申し訳ありません。私の転職ですが、正式に決定致しましたので、報告致します。詳しくは申し上げる事が出来ませんが、来年から心機一転、違うゲーム会社で頑張っていこうと考えております。そのゲーム会社は、ゲーム会社としては最大手の一つであり、最古参メーカーの一つであります。全てのプラットフォームに対して優秀なコンテンツを供給しているメーカーです。その会社様にお邪魔してお話をさせて頂いた際に、私にとって非常に興味のある事業に携わらせて頂けるとの事でしたので、この会社のお世話になり、この会社の新しい仲間と共に、面白いゲーム作りに挑戦していこうと決心しました。新しい会社という事で苦労する面もあるかとは思います。然し、現職の会社においては同じようなゲームを作り続け、続編の連鎖に埋もれてしまっているような状況でした。ゲームクリエーターとして一度、続編の連鎖の中から脱出し、今とは違うゲーム作りに挑戦する事が必要であると考えました。この点、現職の会社自体には不満があったわけではありませんから、引き止めて頂いた経営者、職場の仲間には申し訳ないという気持ちです。尤も、経営者、仲間共に私の気持ちを理解してくれ、極めて和やかな雰囲気の中で退職を決める事が出来ました。経営者からも数年後には、また戻ってきてほしいという有難いお言葉を頂き、今の会社も素晴しい会社だったという思いを辞める身ながら強くしました。ゲーム業界とは不思議な業界とも言えるもので、辞めたとしても、結びつきは消えないままである事が多くあります。実際に、会社を辞めた後に、また、その会社で仕事をするという例も多くあります。私も、また、この会社の仕事に携わる可能性もゼロではないと思います。当然、それは次の会社を辞める前提で行くというわけではなく、それだけ、今まで働いた会社の仲間達とも強い絆を持っていた、そして、それは、これからも変わらないであろうという事です。机の上で個人個人が勝手に仕事をしている印象の強いゲーム業界ですが、その実は、極めて仲間意識が強く、横の結びつきが強い、素晴しい奴等が多い業界です。私も現職の会社の更なる発展を願っております。さて、今回の退職ですが、有難い事に、辞めるのであれば来ないかというお言葉を他の会社様よりも頂く事が出来ました。また、他の会社様とのお話し合いの場にもご招待頂きました。私如き人間に対しての温かいお声の数々に、辞めるという一つの転機を機会にして、皆様の温かいお心に触れる事が出来、改めて、この業界で働いてきて良かったという想いが溢れ出てくるのを感じました。遂に、来年からは新職場で新しい挑戦に身を投じていく事になります。然し、環境は変われど、その本質はユーザーに面白いゲームを届けたいという事に変わりはありません。また、来年からもユーザーに楽しんで頂けるゲームを開発するため、一心不乱にゲーム製作に取り組んでいきたいと考えております。以上、私事で申し訳ありませんが、転職報告となります。追伸:私の現職の会社で携わっていたゲームですが、辞めるには丁度良いタイミングでした。彼らとは色々な話もし、私の挑戦を応援してくれました。今後は、私の優秀な上司、仲間、部下達がそれを引き継ぎ、シリーズとして、より成熟させていってくれるものと思います。
2006.11.12
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皆さん、お久しぶりです。また、更新が滞ってしまいました・・・近日中にも、皆様のところにもお邪魔させて頂くつもりでおります。一部の方からは、私書箱にメールまで頂き、ありがとうございました。今回のブログ題材は完全に私事でありますので、ご興味無い方は、読み飛ばしてやって下さい。さて、私は、この間まで旅行に行っておりました。旅先でもカフェ等にネットが接続されているところもあり、自身のブログも、不定期に少しはチェックはしておりました。いつもは、考える暇も無い毎日ではありますが、今回は、ゆっくりと色々な事に対して考える時間を設ける事が出来ました。そこで、現状から現在の私のゲームクリエーター生活を振り返ってみたところ、今の会社を辞め、違う会社で新しい挑戦をしたいという気持ちが湧き上がってくるのを感じました。今の会社が嫌いになったわけではありません。給与面での不満は全くありませんし、好きな事もやらせて頂いていた事も考えれば、むしろ、恵まれた環境にいたのではないかと感じます。然しながら、新しい環境に身を置き、新しい自分を試してみたい、今とは違ったゲーム作りに挑戦したいという衝動は抑え難いものになっておりました。幸いにして、私が魅力を感じるゲーム会社は現職の会社以外にもありました。そこで、実は最近、その会社の一つにコンタクトをとってみる事にしました。その会社は、最大手ゲーム会社の一つです。知人も勤めている会社ではありますが、知人頼みで何かをする事は気が進まず、また、その人の目を通した会社という目線から外れたかったため、完全に私個人として、その会社様とコンタクトを取らせて頂きました。有り難い事に、早速、お会いする機会を作って頂けるとの事で、先日、その某ゲーム会社様にお邪魔してまいりました。結果としては、先方からも私という人間を欲しいというご回答を頂き、私個人としてもご提示頂いた事業内容、採用条件ともに魅力的だと感じられるものでした。さて、今後ですが、私としては、次の挑戦、違う会社へ移籍しようと考えています。現職の会社の経営者とも先日、お話をさせて頂き、退職する意思を伝えてまいりました。経営者側からは辞めないでほしいというお言葉をいただきましたが、現時点のように迷いがある状況では、現職の会社に対しても失礼になるのではないかと思います。これから、次の会社様、現職の会社と複数回の打ち合わせを持つ予定です。その中で、現職の会社に残るのか、次の会社へ移籍するのか、自分が進むべき道をしっかりと見定め、歩んでいきたいと思っております。今年から来年にかけては、私のゲームクリエーター人生の転機となるかもしれません。自分が信じる物を、自分が面白いと感じる物をユーザーに提供していきたい、その気持ちを再度、胸に刻み込み進んでいきたいと考えています。尚、現職の会社については、優秀な部下、後進ともに育ってきております。私が抜けた穴を彼らなら十分に補ってくれる事でしょう。会社側は抜けたダメージを心配しておりますが、私という蓋が無くなる事で飛躍的に伸びる人材も出てくるのではないかと思います。人はやらなえればいけない状況では飛躍的に成長する事があります。会社を移籍する場合には、部下は部下ではなくなります。今後、彼らに会う時には一人の対等なゲーム開発者として接する事が出来るよう望みます。
2006.11.07
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多種多様のゲームが発売されている昨今において、ゲームの販売価格というものも多大な関心を寄せられております。その中において、何故にゲームの販売価格は似通ってしまうのかという疑問があります。私も開発者側の人間であり、販売価格を決定する立場に無い事から、明確な理由については、全く知り得ない立場にあるのですが、この価格の画一化には常々と疑問を感じている次第です。この問題については、何もゲームというメディアだけに代表されるものではありません。音楽、映画、その他、多種のエンターテイメントにおいて、価格の画一化は起っており、消費者の立場からすれば、これは不利益に当たるのではないかと感じる事もあります。まず、画一化の利点を探せば、価格というものに対しての吸引力が画一化によって失われるため純粋に、その商品の内容に対して、自分がどのような判断を下すかが重要になります。それは、商品の品質に主眼を置けるという点においては非常に有効に作業していると考えられます。では、逆に不利益な点とは何かを考えた時には、真っ先に、消費者の選択範囲の縮小化が挙げられるかと思います。世の中は、その価格に見合ったサービス、商品を受け取る事が出来ますが、ゲームや、その他のエンターテイメントにおいては、この価格の選択という選択が一つ抜け落ちている事になり、それが、消費者の選択権を奪っているのではないかという疑念が残ります。私としては、開発費の高騰や大作嗜好の強まり、それ以外のお手軽ソフトの台頭、諸々を含めて考えれば、今こそ価格の画一化を壊すべき機会ではないかと思います。そもそも、ゲームというカテゴリー以外は、それにかけるお金も人数も全ての環境が違うのですから、倣え右で価格を合わせる必要性は無いと考えます。大作は今よりも価格が高くとも良いかもしれませんし、逆に、お手軽のゲームであれば、今よりも価格が安くとも良いかもしれません。ゲーム及び、それ以外のエンターテイメント産業に価格の選択権の復活を。それが私の願いです。
2006.09.29
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ゲーム開発者がゲーム雑誌に代表されるメディアに露出する機会が増えています。この傾向は、主にPS時代以降に見られるようになった現象です。ゲーム雑誌においてのインタビュー、対談、形態は多種多様ではありますが、ゲーム開発者という名の元にメディアに取り上げられる事は珍しい話ではありません。この露出については開発者の顔が見え易いという点に限れば、肯定的に捉えてもよいであろうと考えています。然し、実は、私は今のゲーム開発者のメディア露出の在り方については否定的な意見を持っています。何故、否定的かという点を説明させて頂きますと、メディア露出という公的な露出に値しない人間がメディアに露出し、ゲームについて講釈をたれているのが我慢出来ないという事が最大の原因です。以前に、売れないゲームを作っていたクリエーターがインタビュー記事の中で、「このゲームが売れるか否かは、ユーザーが真に面白い物を判断出来るかどうか、ユーザー側への挑戦なのです。」というような記述がありました。極めて傲慢な話であると感じました。私は、このようにゲーム開発者としての力量に疑問符が付く段階のクリエーターは、メディアに露出すべきでは無いと考えています。そのような人間の記事を誰が読みたいと思うのでしょうか?そのような機会には、それに相応しい人間が応じるべきであるかと思っております。彼らは、スターでも何でもなく、ただの開発者にしか過ぎないのです。自己のタイトルを一定量以上を売り上げて、尚且つ、ユーザーの評価を勝ち得てから講釈をたれるべきなのです。その点において、任天堂の宮本氏に代表されるぐらいの面白いタイトル、ヒットタイトルを飛ばす方については、メディア露出に関して異を唱える必要性は皆無であり、むしろ、積極的な露出を促すべきであると思います。その理由は、彼らは露出に足る人間だからに他なりません。昨今のメディア露出は、それに足る人間がどうかの判断に欠けているように感じます。ゲーム開発者にスポットライトを当てる事については、私も開発者と喜ばしい事であるとは思っておりますが、それは、それに相応しい位置まで登りつめた人間が担うべき役割であり、それによって始めてメディアに露出する意味を見出せるものであると考えています。作られた偶像のようなゲーム開発者を多く生み出さないためにも、実を伴った偶像にならないだけのゲーム開発者だけが露出するように望みます。最後に、皆さんは、このメディア露出問題、どのようにお感じになっておりますか?
2006.08.28
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完全に回復した私は、再びゲーム業界で色々な仕事に関わらせて頂きながら、周りのプロの人間からも、徐々に仲間として認められるようになり、ゲーム製作と学生生活の両立した充実した毎日を送っておりました。そして、ここで更に私にとっての運命の出会いが待ち受けておりました。私には、学生時代に特にお世話になったプログラムの師と呼べる方がおります。その方との出会いを果たしたのです。彼は、某老舗PCゲームメーカーのプログラムセクションを束ねる人間であり、有名シリーズを生み出した偉大な人物でした。通常であれば、学生の私に対して何かを教えてくれるわけも無い人間なのですが、ゲーム業界で仕事をするようになって、偶然に出会い、そして、偶然に彼が忙しくない時に、偶然に私と出会ったのです。私も、そのような方と直接に色々なやり取りをする機会は無かったものですから、この機会を是非とも活かしたいと考えるようになりました。そして、彼に教えを請う事にしたのですが、驚いた事に彼は快く受け入れてくれました。仕事と教えの中から、プログラマーとして成長していく自分を感じながら、毎日が輝くほどに充実している時間を過ごす事が出来ました。然し、この毎日も就職戦線の出現によって変化を余儀なくされる事になりました。尤も、毎日が充実していると感じていた私は、就職活動に全く興味が沸きません。たくさんの学生が周りで就職先を決定し、両親、祖父、祖母からは、就職への圧力が日増しに強まっていきますが、それすらも、全く意に介さないのが当時の私の姿勢でした。考えてみれば、やりたい事を既にやっているわけですから就職という形に拘りが無かったのかもしれません。そんな親不孝者であり、就職浪人間違い無しと思われた私にも転機が訪れます。突然に、複数のゲーム会社から就職のお声が掛かかるようになったのです。バイト経験のある会社から熱心な正社員雇用のお誘いを受け、何故か過去に接点の無い会社からも、無試験での入社を保証され勧誘を受け、更に、うちを受けに来てほしいと会社の人事担当官から、私に会いに来て直接に名刺を手渡されたりと、一ヶ月の間に何社からも、大手中小問わずに正社員雇用のお誘いを受ける事態となりました。これには、非常に戸惑いを覚えました。何故に学生である私如きに、そこまでの扱いをなさるのかと思いましたが、恐らくは、私を可愛がってくれた沢山の業界の先輩方がそこに影響していたのだと思います。両親も、これを聞いて胸を撫で下ろし、何処に就職するのかが両親の話題の争点でした。そして、肝心の私がとった選択・・・それは、全ての会社にお断りを入れる事でした・・・狂っていると思われるかもしれませんが、これが当時の私の選択です。その中で、バイト経験のある会社からは、入社日である翌年の4月1日の前日までお誘いの電話を受ける事になり、その選択をした私としては、非常に心苦しい思いでした。然しながら、この選択には私なりの複数の意味がありました。一つ目の意味は、あちらから自分を選んでくれた会社に関しては、自分を認めて頂いて非常に嬉しかったのですが、既に認めて頂いている前提がある分、そこにチャレンジがありませんでした。二つ目の意味は、自分が望む分野の仕事が出来るかの保証が無かったからです。勿論、プログラマーという分野は同じですが、もっと細かいところでの話です。その後、私は自分が望む仕事が出来るであろう会社を一社だけ受験する事になります。その結果、めでたく合格を勝ち取り、私は社会人としてゲーム業界の一員になる事になったのです。思い返せば、私が業界に入る事になった全てのきっかけは出会いでした。ファミリーベーシックに出会わせてくれた友人との出会い、C言語、アセンブリ言語に出会わせてくれた友人との出会い、プログラムの世界へと誘ってくれたフリーのプログラマーとの出会い、熟練されたプロのゲームプログラマーの方々との出会い、学生時代に成長を助けてくれたゲームプログラマーの師との出会い、これらの出会いが連鎖し、私の人生に多大な影響を与えたものと考えられます。やはり、人間は人間として生きる以上、人との繋がりこそが大事なのだと思います。私のゲーム業界への就職、それは、たくさんの方との貴重な出会いによって無事に成りました。最後に、これから、ゲーム業界を志望される方も、それとは全く無関係の方も、全ての人々が出会いを大切にしてくれる事を願います。以上、長い事、つまらない私の過去の話をしてしまいましたが、これが、私が社会人としてゲーム会社に入社するまでの経緯です。その後、ゲーム業界人として色々な経験をする事になりますが、それは、私個人を特定出来る情報を多分に含むため、又、私の略歴に関しては、然程の意味を感じないため、この場で公開する事は控えさせて頂きたいと思います。宜しくお願いします。・・・ふと考えてみれば、他の会社の就職をお断りしておいて、その後に受験した会社に落ちていたらと思うと怖いですね・・・あの当時は、何も考えていない若者でしたが、今、同じ選択を迫られたと仮定したら違う結末を迎えるかもしれません。
2006.08.15
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ゲーム会社へアルバイトとして出社初日、私は、複数のプロのプログラマーの方と挨拶を交わす事が出来ました。その中で、私が、今後、どのような仕事をやっていくのか、私自身の実力は現場に入って、どの程度のものなのか、より詳細なところをテストしたいとの事でした。そして、この方々と一緒に仕事をする事になって数日間が経過したのですが、この時ほどに、自分の無力さを痛感した事はありませんでした。今だからこそ幸いであったと言えるのですが、この配属されたチーム、選りすぐりのプロであるプログラマーを数多く抱えるところでした。彼らは、数学的にもプログラム的にも一流と呼ぶに相応しい人間であり、それと比較し、自分が三流にも満たない存在である事を、しっかりと思い知らされました・・・彼らからの私への評価は低くはありませんでしたが、それは、私が学生だからと低く想定しているからに他ならず、プロとして生きていく上では実力が不足している事は自分自身が一番、理解出来ました。この時、私の頭を占めていた事は、彼らに追いつきたい、追い越したいという事でした。それには、どうするべきであるのか、この当時は暗中模索が続き、とにかく苦しかった記憶が残っています。私が出した結論は、とにかく勉強する事、その一点でした。この当時の私の睡眠時間は、常に平均3時間を切っておりました。然し、それだけ勉強しているにも関わらず、彼らとの差は縮まっている感じがしません。そんな生活を続ける中で、精神的、肉体的に疲労が溜まっていき、ついに、それが弾けてしまう日がやって来る事になりました。倒れたのです・・・夜中の病院に搬送され、意識は朦朧とし、世界がぼやけて見えます。医師の声も遠くに聞こえるのですが、良い話では無い事だけは明らかでした。倒れた原因の診断結果は、過労でした。実は倒れる1ヶ月以上前から両親に過労を再三に渡って注意を受けていたのですが、自己を成長させるためには、止まるわけには行かなかったのです。医者から絶対安静を言い渡され、休むしかない状況に追い込まれた私は、例えようの無い無力感に苛まれる事になりました。病院のベッドの上で途方に暮れ、ゲーム業界に通用しなかった自分を嘆きました。そんな無意味な日々も病状の回復と共に変化が訪れるようになります。思えば、毎日が焦りに満ちており、ゆっくりと考える暇もありませんでした。然し、これを機会に、色々な事を思い返してみました。その結果、冷静ではなかった自分に気付く事が出来たのです。確かに、彼らは一流の人間です。然し、それらに一朝一夕で追いつこうと考える事自体が、そもそもの間違いだったと気付いたのです。恐らく、彼らの実力も長い期間、自分を磨いた結果に身についたものです。この心境の変化で、私の気持ちも、ようやくに落ち着きを取り戻す事が出来ました。何も焦る必要は無かったのです。自分自身に妥協せずに最善を尽くして、自己を磨く事が重要なのであり、他人と比較する事ばかりに囚われ、闇雲に走るのは愚かな事でした。私は、自分がゲーム業界に通用する人間だと証明したいが為に、ただひたすらに焦っていただけだったのです。それに気付く事が出来てからは気持ちも晴れやかで、毎日を穏やかな気持ちで充実した日々を過ごす事が出来るようになりました。これから先は、その日々の中で、ゲーム業界の仲間として認められるためのステップへと話が進んでいきます。本当に私事が長くなってしまい申し訳ありません。次回が最終回ですので、お付き合いお願いします。
2006.08.14
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人生において、貴重な出会いというのは誰しもが訪れるものであると思っておりますが、私にも、その出会いがやってくる事になりました。最初の貴重な出会い、それは、偶然にパソコンの授業に協力するために来ていたフリープログラマーとの出会いです。この方はゲーム関係のプログラマーではありませんでしたが、その方とプログラムの話をする間に意気投合し、ゲーム外のアプリ作成のお仕事を頂ける関係までに発展していきました。これは、私にとって初の商品化されるものをプログラムした経験であり、非常に貴重な経験だったと思っております。私は、この経験を土台にプログラマーとしての第一歩を踏み出せたのです。今でも、その当時、私に仕事をくれた方へも、その出会い自体にも感謝しております。そして、この仕事を終えた私が向かった先は、ゲーム業界です。このゲーム外アプリの経験を元に、目標へ向かってのステップアップを目論見、私はゲーム業界のドアをノックしました。尤も、学生だったためにアルバイトでの採用のお願いに向かいました。はじめての接触するゲーム業界、本来であれば極度の緊張が襲うのでしょうが、若さ故か、事の重大性を考えずに、全く緊張を感じる事はありませんでした。私は、筆記試験と面接試験を受ける約束まで取り付ける事に成功したのですが、本番当日になって愕然とする事になります。この筆記試験ですが、信じられない程に難しかったのです・・・試験は、数学、プログラム、物理を基本に複数科目のテストを受験したのですが、膨大な問題数、高度な内容、そして問題数と全く比例しない短い制限時間、私は、この試験に全力を投じましたが、はっきりと不合格を確信しました・・・そして、この後に面接試験へと挑む事になるのですが、不合格を確信していた私にとっては、面接で良い印象をアピールする事に意味を見出さずに、この機会を何とか自分の技術を進歩させる機会にしたいという気持のみでした。そこで、面接という機会を使って、プログラムの技術的な話に焦点を絞り、色々と技術を盗む方向へと面接を持っていきました。例え、僅かでも技術を盗む事が出来れば、不合格だったとしても一歩前進する事が出来る、私の頭の中には、そのような考えしかありませんでした。そして、試験を終えた次の日に、一本の電話が鳴りました。その電話は、その会社からのものであり、何と採用という通知の電話でした。採用を諦めていた私にとっては、何よりも嬉しいお知らせです。ここで、ついに私はゲーム業界へ足を踏み入れる事に成功したのです。思い返せば、筆記試験の後に開き直れた事が結果的に良い方向に作用したのかもしれません。面接での行動も、熱意の表れと受け取って頂けたのかもしれません。数日後、遂にゲーム会社へと出社する日になりました。ここからは、順調に活躍して上へと飛翔していく野望を企てておりましたが、野望は儚く散る事になります・・・そこには、高い壁が聳え立っていたのです。
2006.08.11
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C言語とアセンブリ言語に出会ったきっかけですが、これは、友人の紹介で出会う事になりました。私の高校時代の友人でプログラムが好きな人間が何人かいたのですが、そこから、今の時代の主流はC言語という話を聞き、それに影響されてC言語へと移行していく事になりました。ベーシックと違い、たくさんの事が出来るC言語は、今までの世界の枠を取り払ってくれる非常に便利な言語でした。私は、更なるプログラムの可能性を感じました。加えて、アセンブリ言語との出会いも、これと同時になります。より早いプログラムを習得するために、アセンブリ言語の習得は必須だったのです。この友人の紹介を経て、私は15歳から、この二つの言語の習得に力を注ぐ事になりました。然し、この時点でも、まだゲーム業界に入るという明確な意識はありませんでした。この当時以前は、バブルと呼ばれていた時代であり、良い大学、良い会社、サラリーマンになり終身雇用が望ましい時代でした。私も、その道を歩む事に関して疑いを持っておらずに、ゲーム業界への就職というのは憧れはあっても、実際に進もうという意識まではありませんでした。プログラムに関しては、金銭を稼ぎたいという意識はありましたが、それは副業的なもの、或いは、ビジネス系ソフトウェアの就職という意識でした。ところが、突然にバブル崩壊が訪れました。これは、皆さんもご存知であると思いますが、これを境にして日本の就職に対する考え方は大きく変わっていく事になります。私も、これを機会に、再度、自分の将来を考え直すようになっていきました。これからの未来は終身雇用等は望むべくも無く、だとしたら、職業的な安定に拘る必要が果たしてあるのだろうか?そのような自問自答を続ける内に私の考え方にも変化が訪れるようになりました。どうせ、どんな業種についたところで、今後は実力社会に移行し、終身雇用など夢物語になってしまうのだろう・・・今、高い報酬が得られる仕事が、今後も同じだとは限らない、だとすれば、自分が本当にやりたいと思える仕事に就く事こそが一番、良いのではないか?そのような考え方に変化してから、ゲーム業界を志す気持ちが溢れ出すまでに、然程の時間はかかりませんでした。私は、バブル崩壊を最大の機会としてゲーム業界への道を歩み出す事になったのです。その道を心に決めたのは17歳の頃です。然し、どのようにゲーム業界を目指していいのか当時の私には皆目、検討も付かずに闇雲にプログラムに打ち込む日々でした。然し、そんな日々にも終わりがやって来る事になりますが、それは、一つの出会いがきっかけでした。
2006.08.10
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私の学生時代に関して、ご質問を頂きました。当ブログには、ゲーム業界を志す方々もいらっしゃいますので、その点に、ご興味を持たれるのも自然な事であると思います。そこで、今回は私が社会人としてゲーム会社に入社するまでのあらましをブログしたいと思います。完全な私事でありましため、大多数の方にとってはお耳汚しとは存じますが、お付き合い頂ければ幸いです。尚、今回の話題に関しては文章が長くなってしまうために、複数回に分けてアップさせて頂きたいと考えております。まず最初に、再度、申し上げる必要があるかと思いますが、私の本職はプログラマーです。勿論、そのプロジェクトによってプログラマ以外の役割を担う事もありますが、私の基本はプログラマーという職種だと覚えて頂ければ間違いはございません。さて、では、私とプログラムとの出会いから話を始める事にします。私がプログラムと出会ったのは小学生時代ですが、二つの要素によってプログラムの楽しさに目覚める事になりました。まず、一つ目の要素はファミリーベシックの存在です。その当時はファミコンが全盛の時代だったのですが、当時、ファミリーベーシックという製品が発売されました。これは、ファミコンを使用してベーシックを使いゲームを作ろうという主旨の製品で、ゲーム好きの私にとっては、ゲームが作れるというコンセプトが何とも魅力的に思えました。結果、この製品を通して私とプログラムの最初の接点が生まれたわけですが、この製品は比較的簡単にゲームを作成する事が出来るため、プログラムの面白さ、ゲーム作りの面白さが子供心に強烈にすりこまれる事になりました。次の二つ目の要素は友人の存在です。私の友人の親が幸運にも、プログラムが出来る人間でした。その友人宅にはPCがあり、その親が作ったオリジナルゲームでよく遊ばせてもらいました。その影響によって、プログラムが出来るという事は、自分の大好きなゲームを自分で作れるようになる事と同義だと感じるようになりました。プログラムさえ出来れば、自分の大好きなゲームを買わないでも好きなだけプレイ出来る、子供らしい安易な考えではありますが、強烈なモチベーションになった事は間違いありません。これら二つの要素によって私はプログラムの楽しさに目覚め、ベーシックを基本にしてプログラムの世界へと足を踏み入れる事になりました。この後、暫くは、それを基本として進み、簡単なゲームをいくつか作成しては自分で楽しんでおりました。この当時は、まだゲーム開発者になろうという明確な目標も無いままに、ただ楽しいという理由だけでプログラムで遊んでいた時代です。そして、次の大きな分岐点は15歳になってから訪れました。この分岐点というのがC言語、アセンブリ言語との出会いです。ゲーム開発における主流言語は、この二つの言語であり、この出会いが、ゲーム業界への出会いのきっかけとなっていきます。
2006.08.09
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最近、ユーザーのゲームの楽しみ方について、多少、思っている事があります。それは、ゲームの楽しみ方がネガティブになっているのではないかという事です。時代は進んで、ゲーム発売前からたくさんの情報を手に入れる事が可能になりました。そこから、発売前のユーザーの反応を開発者も手に入れる事が容易になったのですが、その反応の仕方が、以前とは違う傾向にあるように感じます。ユーザーの目が肥えた事も一因であるかと思いますが、ゲームを楽しむ前に、最初に欠点を探すような傾向が強くあるような印象を受けています。勿論、ユーザーという立場からすれば、ゲームを貶す事も、褒める事も全くの自由です。プレイしたゲームをどのようにも評価する権利があります。その権利については侵害されるものではありませんが、ゲームを楽しむ上で、減点法は適さないように思います。減点法では、あくまでもゲームの楽しさの最高は100点にしかなりません。欠点によって、点数が減っていくのみです。それよりも、加算法の楽しみ方が良いのではないでしょうか?最高点が100点なんて、誰が決めたのでしょうか?欠点、欠点と欠点を探すよりも、ここが面白いというところを楽しむ法が建設的であり、また、ゲームをより楽しめると思うのです。最近は、発売前からゲームの評判が悪い、ゲームのシステムが発表される前からゲームの出来に対しての不安の書き込みがあったりと、ユーザーの多くがネガティブな気持ちに支配されてしまっているように感じます。これは、楽しみ方が下手になってしまっていると言い換える事も出来るかと思います。どうせ、楽しむならポジティブに楽しむ方が絶対にゲームを堪能出来ます。せっかくのゲームです、まずは面白い物だと思ってプレイしてみてほしいと考えています。ユーザーも開発者も、頭の中を真っ新にしてポジティブにゲームを楽しみたいものです。その方が、遥かに徳であると思いませんか?蛇足ですが、つまらないゲームを面白いと思えという事ではありません。まずは、ポジティブな気持ちでゲームに触れてみた方が、ゲームを堪能出来るだろうという事ですね。
2006.08.02
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世界も21世紀に入って時間が経ちましたが、相変らず世界は人種差別という問題に悩む日々を過ごしています。人種差別という問題は解決の糸口が見つからない闇へと迷い込んでいるようです。この人種差別についてですが、この点において、私はゲーム業界に誇りを持っています。昨今のゲームの表現の進化は誰の目に見ても明らかであると思います。然し、これだけの表現力を持ったメディアのわりには、人種差別的な問題が起こる事は、まずありません。これは、他のメディア(例えば、映画や本等)と比較しても、非常に珍しい例だと言えるのではないでしょうか。これは、一重にゲーム産業に従事する人間、個人単位での差別意識が非常に低い事が起因しているのではないかと考えております。以前にも、当ブログにおいて述べた事だと思いますが、ゲーム産業は多国籍な人間が協力し合ってゲームを作る場合が増えてきている事については触れた事であります。この多国籍な職場というのは、他の産業においては人種的な問題が起こりやすい環境でありますが、ゲーム産業においては、この問題が起こる事は殆どありません。何故かは分かりませんが、ゲーム業界に集まる人間は、人種、信じる宗教、生まれの環境等は気にしない傾向があります。重要なのは、個人の努力であり、能力であるという事をこの業界の人間は知っております。ゲームを面白くするためには、人種なんて関係無い事を知っているのです。この事はゲーム業界の働く一員として、他の産業に対しても非常に誇れる事だと思っております。差別が多い世の中で、差別が極端に少ない世界を構築しているゲーム業界、差別に嫌気がさしている方にとっては魅了的な業界であると言えます。この部分をもっと内外にアピールして、この業界の一員に加わってくれる方を増やしていきたいと思います。最後に私の意見を付け加えさせて頂きます。私も、人種差別を憎んでおります。人種、学歴、色々な点において、世の中は差別する人間が多い傾向にありますが、それらの差別する人間は、自分が弱いから差別しているに過ぎません。自分が弱いからこそ、他人を差別して安心しているだけに過ぎないのです。自己の弱さ、劣等感を他人を不当に落としてめて安心する・・・私が、最も下劣だと感じる行為の一つです。差別それは、差別する側の人間の心の弱さであり、無知である事の証明です。世界から差別が一掃される事を願ってやみません。私の会社でも、日本人以外の人もいますが、日本人も外人も一緒に昼食を取ったり、一緒に宴会で盛りがったりと、本当に日本人同士と変わらない付き合いをします。そこには、外国人だという意識はありません。同じ人間です。付き合ってみれば、そこに大きな差なんて無いのです。・・・稀に他業種の方の話を聞いて、外国人の扱われ方、日本人と外国人に広がる溝の話を聞くと非常に悲しく情けなくなります。何故、同じ職場で同じ目標に向かう仲間なのに仲良く出来ないのでしょうか・・・差別という心の闇が、人の心から無くなる日が早く来てほしいですね。
2006.07.23
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最近、考える事があります。それは、エンターテイメントの未来です。ゲームに限らず、世の中にはエンターテイメントと呼べる物が数多く存在しております。それらは、細かな違いこそ多くあれど、消費者に楽しみを提供しようという理念において一致した存在であると思っております。そして、そのエンターテイメントの未来についてですが、私は、ゲーム、アニメ、映画という細かなカテゴリーが消失すると考えています。以前までは、全てのエンターテイメントは、明確に分ける事が出来ました。然し、最近では、そのカテゴリー分けも怪しい時代へと突入してきたように思います。映画のようなゲーム、ゲームのようなアニメ、アニメのような映画、以前と比較して、これらの言葉が組み合わさる事が圧倒的に増えている事は、気のせいでは無いと思っております。突き詰めるところ、楽しませたいという欲求は貪欲であり、その方法論に関しては、枠にはめるべき物ではないと考えています。その考えに従うと、各カテゴリーにおけるエンターテイメントは、違うエンターテイメントの楽しみ方の方法論を吸収し、肥大化していくと考えられます。そして、その収束がもたらす結果は、エンターテイメントの統合です。この収束した形態こそが、究極のエンターテイメントであり、究極のゲームと言える物なのかもしれません。話を人間に例えさせて頂きますが、個々は弱い存在ですが、それらが力を結束し、一つになり力を発揮する時に凄い力を発揮する事は、人間なら誰しも理解している事です。それと同様の考え方が、ゲームというエンターテイメントにも通じるのかもしれません。個々のエンターテイメントには限界がある、然し、それらのエンターテイメントの枠を完全に崩した時こそ、今までの常識を覆した凄いエンターテイメントが誕生するのかもしれませんね。上記は戯言かもしれません。然し、そんな未来もあるのではないかと最近、考えています。同じエンターテイメントに付く職業の方と力を合わせる機会が年々、増えておりますが、それらは、この統合への序章と言えるのかもしれません。
2006.07.21
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最近は、ゲームの公式サイトに開発者のブログのようなものを載せる機会が増えてまいりました。それ自体については、やりようによっては面白くなると思いますから否定的な気持ちはありませんが、一部の節操が無いブログに関しては、遺憾に思います。ゲームの公式サイトに載せる以上は、ユーザーがそのゲームの楽しみを促進させる事が出来るように、楽しみをアシストするようなブログにするべきです。ところが、一部の開発者ブログについては、内輪ネタの嵐、2ちゃんねる用語乱発での公式サイトとしての品性の欠如、悪ふざけの嵐、はっきり言って産業廃棄物に等しき存在であると思います。ゲーム開発者において最悪の状態は自己満足にあると考えています。このようなブログからは、それが、はっきりと感じる事が出来ます。自分達が楽しみたいだけなのであれば、世にゲームを出す必要なんて無いのです。それを理解せずに、自分達の見せたいところ、自分達だけで盛り上がるような姿勢は、強烈に非難されて然りです。ゲームという物は、全ての要素が最上級の物で揃っていたからと言って面白いとは限りません。それらの方向性が違う方向を向いていれば、全く統一感が無い作品になってしまいます。このようなブログを書く開発者が作るゲームは往々にして、その傾向があります。どうだ、俺が作った箇所は凄いだろ。私が作ったところも凄いぞ。確かに、その通りかもしれません。然し、全体を考えてみれば、ゲームとしての統一性に欠け、作品から独創性を消失しています。皆さんは、開発者が、そのようなブログを作っていたとして楽しめますか?今後、ゲームをご購入される方については、是非、公式サイトをご覧になってみて下さい。その際に、上記のような開発者ブログが載っているゲームについては、どうか、ご購入を再検討してみて下さい。上記は、つまらないゲームを見つける上での一つの判断基準になると私は思っております。私としては、このブログによってゲーム業界の人間が、常識知らずだと思われてしまう事も耐え難い苦痛です。このようなブログの存在によって、開発者は何でも有りなんだと勘違いしてしまう志望者の出現を恐れています。ゲーム業界の人間という以前に、一人の社会人なのですから、最低限の常識だけは守ってほしいと思います。同じ業界の人間として非常に嘆かわしいです・・・
2006.07.18
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世間では、子供の学力の低下が著しいと騒がれております。子供達の能力は即ち日本の未来ですから、それだけ騒ぐのも当然と言えば当然です。然し、騒ぐばかりで学習させるための方法論については、古いしがらみに縛り付けられたままの方法であり、そこには、勉強を楽しませるという工夫に圧倒的に欠けているのではないかと思います。そこで提案したいところなのですが、ゲーム業界とタッグを組めないものでしょうか?今、色々な勉強教材が出ておりますが、それを思い切ってゲーム業界に仕事を任せてほしいと思っています。例えば、DSを使って学習をしたりする事によって、小学生はまるでゲームをしているような楽しい感覚で勉強に取り組めると思うのです。(今も似たようなゲームソフトが出ていますが、それらを発展させる形です。)現在の勉強の仕方は楽しませ方が工夫されていないように感じます。そこで、楽しませ方を研究しているゲーム業界とコラボレートする事によって、楽しさと学習の混在を成立させる手法を模索するわけです。古い考え方に縛られずに勉強を楽しいものだと小学生に分かり易く感じさせるには、有効な方法ではないかと思います。今までは、勉強は勉強でしかありませんでした。ですから、勉強をゲームに、ゲームを勉強にという発想を試してみる事は無駄ではありません。よくゲームは中毒性が高いというご指摘を受けますが、それを良い方向に利用すれば、必ずや国にとっても有益な結果を導けるのではないかと考えています。ゲームを学習教材に!是非、政府は検討してほしいところです。ゲーム業界にとっては、子供がゲームに慣れ親しむ機会を得られるために有益ですし、国にとっては子供の学習意欲を自然に向上させる事が出来るために有益であると考えます。もし、当ブログをご覧になっている政府関係者がいらっしゃいましたら、是非、ご検討下さいますようにお願い申し上げます。
2006.07.12
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”くそゲー”と呼ばれるゲームが存在します。ゲーム発売後には、製作者も、この烙印を押されないか戦々恐々としています。ユーザーの皆さんも、この”くそゲー”に出会って怒りを感じた事もあるでしょう。さて、この”くそゲー”ですが、ゲーム業界に必要でしょうか?全てのゲームが完成された面白いゲームという状況は素晴らしい状況であると言えます。然し、私としては、時には、このような物もゲーム産業には必要では無いかと考えています。過去、ゲームにおける草創期には愛すべき”くそゲー”が存在しました。振り返って、今はどうでしょうか?確かに、今も変わらずに存在はしております。然し、そのくそゲーは単純に面白くないゲームでしかありません。愛す事の出来ない”くそゲー”となってしまっているわけです。ゲームという物も時代を経て、ゲームとしての文法が確立されてまいりました。それは、どのゲームであれ、一定以上の面白さを提供する事が容易になった事を意味します。但し、それは、愛すべき”くそゲー”が誕生する機会を失ってしまったと言えるのではないでしょうか?現在は、中途半端に面白く無いゲームは数多くあれこそ、悪い意味で極めたゲームという物は存在しなくなってしまいました。ゲームの技術、文法が確立した今だからこそ、愛すべき”くそゲー”が再び生まれる事が必要なのではないでしょうか?ただの”くそゲー”はゲーム業界には必要ありません。何事も中途半端が一番、いけない事です。”くそゲー”を作るなら志を持って、”くそゲー”を作れという事です。私も、稀に意図的に”くそゲー”を作りたくなります・・・勿論、会社側はそんな事は許すわけもありません。時間があれば、作ってフリーで配る等したいですね。(くそゲーでは、お金を取ってはいけませんよね・・・)
2006.07.07
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ここ数年、原油価格の高騰が続いております。それにともなって、原油を使った製品は軒並み卸売りねや販売価格への転化が相次いで起っており、経済に深刻なダメージを与える事が懸念されております。まず、この原油価格の問題が早期に修正される事を願います。然し、この高騰ですが、意外にもゲーム業界への追い風ではないかと思う節があります。これには、ガソリンの価格が非常に高くなっている事が影響しています。このガソリン価格は、即ち、各家庭、各個人での外出頻度の減少に繋がります。そうなると、家にいる時間が増えるわけですから、家で出来る娯楽に対しての需要が増加する事に繋がると考える事が出来ます。実際のデータとしても、同時多発テロ以降の北米では旅行が減少し、ゲームの売り上げが伸びたというデータもあります。その事を考えますと、この高騰によって世間の景気とは反転して、ゲーム業界に対する追い風となる可能性を感じます。私としては、このような追い風は到底、嬉しいとは思えませんが、この奇妙な反転現象には興味を覚えるところです。今回の例からも分かるように、何かの影響によって景気が好転する業界もあれば、景気が悪くなる業界もあります。総じて考えれば、結局は同じ量のお金が何処に回っているかの違いであると考えられます。以下、社会主義的、共産主義的な考え方ではございますが、全ての業界が手を取り合って、相互の利益の誘導を正確に行う事が出来れば、貧しい人を減少させる事が出来るのではないかと思います。尤も、これは、ただの夢物語でしかありません。思えば、人間は文明を進歩させる事によって人間としての進化を勝ち取ってきました。ところが、人間の意識、思考という面での進化は停滞しているのではないでしょうか。話が逸れたように思いますが、この事はゲームにも共通している問題だと考えられます。ゲームという技術(文明)が進化し、人がそれに追いついていない状況、人が作りだすゲームだからこそ、人としての問題が反映されている、そのように思います。今後のゲームをより進化させるためには、やはり人自身が、もっと進化出来るようにする事が必要だと今回の例を通して思います。
2006.06.27
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私事ではありますが、私がブログを始めてから1年が経過致しました。偏った話題、拙い文章と酷い内容のブログではありますが、幸いにして、コメントを付けてくれる方もいらっしゃいまして、私としては色々と勉強させて頂いております。最近は、平均アクセス数も増加傾向にあり嬉しい限りです。この場を借りて、謹んでお礼申し上げます。私がブログを始めたきっかけというのは、ネットでのユーザーと開発者の関係性を、もう少し踏み込んだものとしたかったからです。何故、このように思ったかと言いますと、ネットというものが、ゲーム開発者にとっては単方向性のメディアになっていたためです。確かにネットという利便性があるものが発達し、ゲーム開発者はユーザーからのご意見をより多く聞く事が出来るようになりましたが、そららは、開発者が発言出来るわけでもなく、完全なる単方向のものとなってしまっていました。せっかくネットという場でユーザーと開発者が触れるための機会があるのに、そのチャンスを喪失しているという事を残念に思っておりました。また、ネット自体がゲームソフト単体に対する意見が主であって、ゲーム業界全体に対するユーザーの意見というのは聞ける機会は少ないものでした。そこで、私自身が開発者として日々、思った事を更新し、開発者からの一つ意見をネットを通して情報として流す事によって、ネットメディアを双方向のものとしたいと考えました。その結果、私の意見にコメントを付けて頂ける方も現れました。沢山の方のご意見に触れる事が出来るようになり、私としては有意義なやり取りをさせていただいていると思っております。この点、皆様に対する、感謝の念が絶えません。1年を経過するにあたって1年を振り返ってみると、更新も少なく、開発が忙しい事もあって2ヶ月弱も更新を休んでいる事もありました。皆様にとっては、読みづらいブログであったかと思いますが、今後共一層のご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます 最後に話が変わりますが、当ブログに他ゲーム会社の方もいらっしゃっているようです。このページで話題として扱った事のある会社の方からもアクセスがあります。私も開発者という立場上、最低限の守秘を守りつつブログを運営していきたいと心掛けております。そこで、各社の皆様に、この場で申し上げたい事があります。時に、各社様にとっては否定的な意見を述べることもございます。然し、それら全てはゲーム業界への愛故でありますし、私はゲームに携わる全ての会社の皆様を同業者として尊敬しております。同じ業界の仲間として、このゲーム産業全体を盛り上げていきたいと思っております。どうか私と私のブログを温かく見守っていただけるようにお願い申し上げます。仮に、私の意見によって迷惑を感じている、誤っているという事があれば、お手数ですが、私書箱までメールをお願い致します。その内容の如何によっては、速やかに該当内容の削除或いは補足・訂正も検討させて頂きます。それでは、皆様、今後とも当ブログを宜しくお願い致します。追記:本ブログはあくまでも個人的に行っている事であり、私という一開発者の視点を通して書かせて頂いております。つまりは、同じゲーム開発者の方でも個人によって物の見え方は変わってくるという事です。私の意見、ブログが必ずしも正しいとは私自身思っておりません。あくまでも一つの意見、一つの視点という事で宜しくお願い致します。今年1年のブログ更新率は25%強でした・・・4日に1回しか更新していない計算になります。今後の目標は更新率のアップは難しいかもしれませんので、長期間ブログを留守にしない事が一つの目標です。
2006.06.21
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任天堂DSの躍進は留まる事を知らず、現在のゲーム業界の中でも異例の売り上げ速度を維持しております。任天堂の発表によれば、今夏にも1000万台以上の普及となる見通しのようです。これは、据え置きゲーム機を含めたとしても異例の速度であり、現代のゲームに対して求められている事が、DSの在り方と正確に合致した結果によって、このような圧倒的な売り上げに結びついているのでしょう。然し、この圧倒的な躍進で目立っておりませんが、相変わらずに未解決な問題は残ったままになっています。その問題こそがサードパーティーのゲームの売り上げです。任天堂は言わずとも知れた圧倒的な開発力を誇る一流のソフトウェア会社でもあります。その結果として良質なゲームの提供を可能にしているところは任天堂の魅力でありますが、それによって、ハードメーカーがソフトにおいても支配者になってしまっている構図があります。ここに、任天堂ハードの最大の問題点が潜んでいます。つい最近の6月14日の週のゲームソフトの売り上げからですが、DSのゲームソフトはベスト20位以内に、なんと13本ランクインしております。複数のハードが存在する中で、このランクイン数は驚異的ですが、この13本のうち、実に11本が任天堂のゲームソフトなのです。これは、ソフト支配率にすれば、単純計算で85%の支配率になりますが、実際の売り上げベースで考えれば、任天堂の支配率は、更に上と言えるでしょう。任天堂にとっては、良い事尽くしと考えられる数字ですが、この数字こそが任天堂ハードにとっての最大の泣き所とも言えるのです。まず、これだけにソフト産業まで支配されているハードに、サードパーティが参入するメリットがどれだけあるのでしょうか?わずか、15%の層を喰い合う結果でしか無いとしたら、サードパーティーの参加は減少するか、或いは見送られるケースが増えてくる事が想定出来ます。ハードの魅力を維持する上で、コンテンツの多様性は必要不可欠の要素でありますが、任天堂のハードからは、この多様性に関しての欠陥が残ってしまう事が考えられます。何故、ソニーがPSで覇権を握れたのか、それはサードパーティーのチャンスが多かった事も決して無関係では無いのです。そのチャンスが今のDSからは、僅かしか感じ取る事が出来ません。任天堂のソフトは素晴らしい事に対して疑問の余地はありませんが、コンテンツの多様性、ユーザーに飽きさせない事を考えるのであれば、今後は、もっとサードパーティーのソフトも盛り上げていく事が必要です。現在、圧倒的に好調を維持している任天堂だからこそ、サードパーティーと協力する事によって業界を盛り上げていってほしいと思います。
2006.06.19
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とある米企業がビデオゲームを五輪の種目にという提案を行っているそうです。実現する可能性は極めて低いながらも、興味を示す関係者もいるとの事です。途方も無い話に聞こえますが、私としては、このアイデアは面白いとアイデアであると感じました。流石に、スポーツの祭典でビデオゲームの大会を行う事の是非はありますが、こと、五輪規模の大きな大会をビデオゲームでも開催出来れば、非常にユーザーにとっても業界にとっても面白い試みになると思います。ビデオゲームは、世界中に浸透しています。競技人口という言葉を借りるのであれば、五輪種目の大多数の種目よりも競技人口は遥かに上と言えるでしょう。その中で、大きな大会を開いて腕を競うというのは自然な流れであるように感じます。現在は、プレイする側のプロというのも出てきており、大会を開催し世界中のプロ同士で腕を競っておりますが、まだまだ、一般に浸透しているとは言い難い状況です。この動きを促進し、ゲームの世界大会を世に認知される規模で出来れば、この上なく面白い事になると思うのですが、どうでしょうか?その結果、プロゲーマーの数も飛躍的に増え、昔の高橋名人のような存在が出てくるようになるのであれば、ゲームの楽しみも、より深いものへと進化していけるのではないかと思いました。最近は、ネット対戦も主流になってきておりますが、このような人と人が顔をつき合わせての対戦こそが、本来のゲームの面白さの原点ではないでしょうか。是非、世界大会を開催出来るようになればよいと思います。
2006.06.05
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私の親戚の子供がゲーム業界を志望しております。私としては、仲の良い親戚の子供でありますから、基本的には協力しても良いという姿勢でおりました。 そこで、先日、その家にお邪魔した際に、その子供と話す機会があったのですが、恥ずかしいのか、質問は特に無いと言って直ぐに自分の部屋に篭ってしまいました。彼から、質問を受けた事はありません。その部屋からゲームの音だけが響いてきます・・・私としては、この瞬間に、彼がゲーム業界で活躍する事を諦めたと言えます。 私は寛容な人間ではありません。自分の将来に対して活動的でもない人間や、目的のために生かせる環境がありながら生かそうとしない人間に対して、優しく教えてあげる気持ちは一切、持ち合わせていません。自分から向かってくる人間以外に物事を教えるのは時間の無駄です。人対人、しかも血のつながり、いくらでも情報を引き出す環境はあります。ネットよりも、遥かに詳しい情報を集める機会があるのです。何を持って、彼がチャンスを放棄するのか私には理解が出来ません。 彼の遊ぶゲームには私が開発に携わったゲームも置いてあります。但し、彼には敢えてその事は教えてはいません。・・・どのような作品を作っているのか興味すら示しません。勿論、私が業界の人間である事は知っています。呆れて物も言えません。 自分の夢が明確に決まっているのに何も動き出さない、ただ、好きなゲームをプレイし、ゲーム業界で働くと言う。夢があると言う、然し、それに対して動かない、これは、夢ではなく妄想と言います。彼はゲーム業界で働きたいと夢を持っているのではなく、ゲーム業界で働く妄想を持っているのです。夢を持つのは素晴らしい事です。然し、それに対して受動的である事は夢を諦めているのと同じ事です。志望者全ての方にとって、夢が妄想とならない事を切に願います。その親戚の子も、まだ若いです・・・いつの日か彼が夢に対して能動的になってくれる事を願います。然し、気付いた頃には手遅れになるかもしれません。世の中の厳しさは厳しいと実感が伴った頃には手遅れになる危険性が高いのです。ですから、自分の頭の中でシミュレートし、しっかりと目標を持って動き出す事が大切なのです。
2006.05.30
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ネットの普及に伴ってユーザーレビューの重要度が上がってまいりました。なかには有名なレビューサイトもあり、各ユーザーの判断材料とする方も多いのではないでしょうか。このサイト自体は開発者にとっても、貴重な情報収集の場であり、私もよく拝見させていただいております。然し、最近は荒し目的のレビューや、ストレス発散を目的としたいいかげんなレビューが増えているようです。レビューサイトで色々なゲームのレビューを拝見していると、稀に未発売のゲームに対してのプレイレビューが書かかれている場合があります。発売まで1ヶ月以上もあるゲームですからプレイした可能性はゼロでしょう。このようなレビューはゲームユーザーにとっても、ゲーム開発者にとっても百害あって一利なしだと考えます。どのような意図で書かれているのかは分かりませんが、正しい事をしているのかどうか再考していただきたく思います。つまらないゲームに出会ってしまって、それ以来、適当なゲームを捌け口にしてしまっているのかもしれません。それ自体はつまらないゲームに責任があると思いますが、本当に面白いゲームを遊びたいという気持ちでやっている事であるならば、そのゲームに対して怒りをぶつけるべきです。何故、つまらなかったのか、何処がつまらなかったのか、そのレビューでぶつければよいのです。それをしなければ、そのゲームを作った開発者も貴重な意見を聞けずに終わりますし、意見を聞いた事によって次に面白いゲームを作れる機会を失うかもしれません。結局のところ、どのような意図にせよ、愉快犯的なレビューは止めるべきです。ネットというのは公共の場です。その場に、意見を書くという事は本来であれば現実世界と同じように、自己の意見としての責任を持つべきです。最近、その責任を放棄したレビューが多い事を非常に憂いております。つまらないゲームをつまらないと言うなという事ではありません。自分の意見が公共の場にアップされ、他のユーザーや開発者も見る場合がある事を想定するべきという事です。現実世界で荒し目的の発言など普通はしないですし、発言の責任は自己が負っております。ネットも、それと同じであるという事が言いたいのです。匿名性は維持されておりますが、それが無責任でOKというわけではありません。ゲームを面白くしたい気持ちでやっているのであれば、やり方を再考お願いしたく思います。
2006.05.22
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ゲームソフトの売り上げを考える時に、3万本という売り上げに対しては、どのようなイメージを抱くでしょうか?実は、ゲームにおいて3万本というラインは、殊更に重要度の高いラインだと考えられます。まず、この3万本という数ですが、一昔前までは、一般的なソフトの採算分岐ラインと言われる事もありました。然し、3万本以上売り上げる事が出来るタイトルはなんと、全体の3割未満しかありません。このデータも一昔前のものですので、現在、恐らくは全体の7~9割のソフトが上記を達成出来ないソフトという状態だと考えられます。これは、言い方を返れば、そこに到達出来るクリエーターは全体の1~3割の人間であると言い換える事が出来ます。つまり、このラインを越える事が出来るかどうかはクリエーターの価値を計る上で、重要な物差しの役割を果たします。このラインを越える場合と越えない場合では、世間の認知度にも圧倒的な差が出ます。このラインに到達出来ないソフトは、口コミベースでも売り上げの向上は望めません。ゲームが大好きな人間でも知らない人間が多いタイトルです。ところが、到達出来るあたりから、認知度にも違いがあり、口コミベースで売り上げが伸びる可能性が残される事になります。クリエーターは、まずは、この3万本というラインを越えられるような実力を身につけなければいけません。何故ならば、そこがスタート地点だからです。そこに到達出来ないクリエーターは売れる可能性が無いソフトを作ったクリエーターという烙印が待ち受けています。今後、売り上げを見る時に、3万という、この数に着目してみて下さい。ここに、クリエーターの運命の分岐点も隠されているかもしれません。通常通りに考えるのであれば、この境界線に到達出来なかったディレクターに、次も、ディレクターという話はありません。これが、クリエーターの未来を分ける境界線になるのです。100万本売るソフトは、王道を追求したソフトです。3万~100万本弱を考える時は、奇をてらった企画も可能です。最低、3万人以上のユーザーの共感を得るゲームを作れるかどうかが、クリエーターの腕の見せ所であり分岐点です。3万以上の売り上げが達成出来なかったクリエーターは、猛反省の必要ありです。私は学生時代からゲーム作成に携わっておりますが、学生時代最初のゲームは、このラインを到達出来ませんでした。自分がディレクターではありませんでしたが、非常に苦しかった記憶があります。社会人1本目のソフトは売り上げ○十万本を達成しました。チャンスにも恵まれ、途中からラインの中心スタッフに抜擢され、クリエーターとしての喜びを、ここで味わう事が出来ました。
2006.03.20
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皆さん、突然の質問ですが、マイクロソフトを多少、侮っていませんか?書き込みを拝見する中で、これは、マイクロソフト(以下、MS)の力を過小評価しているのではないかと思いましたので、その点についてブログ致します。現時点では、MSはゲーム業界でトップシェアを握っていない事は周知の事実です。ところが、未来においても、その可能性は無いのでしょうか。私は、そうは思ってはおりません。そもそも、MSだけが、他の会社と圧倒的に違う立場でビジネスを展開している事こそが最大の脅威であると考えております。通常の会社は赤字のビジネスを継続する事が出来ません。これは、世界中で、ほぼ全ての会社に共通する常識です。ところが、MSの場合は、このルールが適用されていないのです。あまりにも巨大な資金力は赤字ビジネスさえ容認の対象になるのです。これが、どれだけ凄い力かお分かりいただけるでしょうか?信じられない程の脅威の資金力です。仮に、現時点でソニーに惨敗しようが対極的に見れば、ソニーの体力を削り取っていけば、MSの勝機が見えてくるのです。今回のXBOX360においては、ソニーに負けたとしても、XBOX時代よりシェアを伸ばす事が出来ればMS陣営にとっては、勝利に近づいた事になります。仮に、現行機支配率:ソニー75%、MS25%次世代機支配率:ソニー60%、MS40%次・・ソニー45%、MS55%と長期的なビジョンに立ってトップシェアを握ればMSにとっては成功になります。これが通常の会社であれば、途中で撤退になります。XBOX360は間違いなく、XBOX時代よりも、世界規模で見てシェアを伸ばすと予測しています。これは、MSが勝利への道を歩んでいる事になるのです。過去、PC業界においてソフト面を含めてシェアなしからトップシェアを奪ってきた事実を忘れてはいけません。誰しもが、その時点ではトップシェアを握る事は無理だと予測しておりました。他に見逃せない要素なのが、開発者の育成です。ゲーム開発者になるには、色々な技術を身に付けなければいけない事は周知の事だと思います。では、その技術を何処から習得していくのか・・・これは、WindowsつまりはMSからとなるのです。MSは、この環境を長年に渡り構築してきました。これは、非常に大きなアドバンテージです。今後、MS技術に精通した開発者は増える事はあっても、減少する事は考えられません。MSプログラムを勉強する環境は世の中に敷かれていても、PS3プログラムを勉強する環境は敷かれていないのです。このアドバンテージはMSに対応可能な技術者を圧倒的に増やす事に繋がっています。ソニーのゲーム機に対応可能な人材、MSのゲーム機に対応可能な人材、後者の方が圧倒的に数が多いのです。どんなに良いハードでも、開発者を確保出来なければ宝の持ち腐れとなってしまいます。MSは、この問題を長期に渡る計画の中で既に解決済みなのです。この資金力と開発者育成の二つの問題を長期的な見地から解決を模索してきたMSは間違いなく業界で強い存在です。この会社の力を見くびってはいけません。今は惨敗中でも、水面下では勝利への道を着々と歩んでいるのです。私は、開発者のために必要以上に脅威を感じているとご指摘を受ける部分があるかもしれません。しかし、MSの力は着実に世界へと浸透しているのです。これは、脅威の会社を作り上げた男です。MSの長期的な計画力は他の追随を許しません。ゲーム開発者にも、その力は浸透中です。写真は借り物です。
2006.03.12
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今回は、私が考えるリメイク作品を成功に導くには、何が必要なのかを考察してみます。私は、リメイク作品を成功に導くには、その元タイトルのファンだった開発者が開発する事が成功の秘訣ではないかと考えています。勿論、その開発者は、開発者として優秀な人間である必要がある事については言うまでもありません。何故、元の開発者ではないかという点についてですが、元の開発者は、過去の作品開発の中で一度、挑戦を終えてしまっています。それによって、リメイクをするにあたっても、元のゲーム以上の情熱を持って、開発に臨む事が非常に困難になってきます。それよりも、新しい挑戦をしたいと思うのが開発者の常です。しかも、元の開発者は、どうしてもゲームを主観的に見てしまう傾向があります。その点において、ゲーム性の昇華に失敗する危険性があります。その点、ファンだった人間にとっては、愛するべきゲームであり、開発する事に対しての迸る程の情熱を持っています。その人間にとっては、自分の愛するゲームを作るという大変な挑戦なわけですから、元の開発者よりも熱い気持ちで開発者に臨める可能性が高いのではないかと考えています。また、自分がユーザーとして、そのゲームに触れたという経験は貴重です。開発者は、どうしても、そこに主観が入ってしまいますが、ユーザーは、完全に客観的にゲームを捉えています。そのため、どこをリメイクするばいいのかという的確な意見を持っている場合が多いのです。ここで、映画の話になりますが、「キングコング」という映画がリメイクされました。賛否両論はあるでしょうが、リメイクとしての価値は十二分に発揮していた作品だと思っています。これは、監督がオリジナル作品のファンだったからこそ、作りえた作品だと思っています。例えが、適切かどうか疑問はありますが、リメイクを成功に導くには、オリジナルのファンの人間が、優秀な開発者魂を持って、開発に臨む事が成功の一番の近道だと私は考えています。
2006.03.03
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移植・リメイク作品の劣化パターンについては、先のブログで触れましたが、今回は、私なりの移植・リメイク作品を成功に導くには、どのようなケースが望ましいかを考察してみます。まず今回は、移植について考察致します。さて、移植には、そのままの移植と追加要素を加えた移植があります。その事例によって望ましい形が変わってくるであろうと考えています。単純な移植の場合は極々、簡単な話ですが、優秀な技術屋を揃える事が出来れば劣化する可能性は皆無になります。元々からゲーム性をいじる必要性が無いため、後は、技術屋が移植に際しての技術を不足無く持っているかが重要となります。逆に、追加要素がある移植は難しい話になります。追加要素によって、元々のゲーム性との統一性を必ずとらなければいけない事や、再度、ゲームバランスの調整を行う必要性が生じます。それらを行うためには、オリジナルゲーム作成者の中でも、特にディレクターに類する人間が必ず必要になります。その人員を確保出来ないと、作品から統一性が失われて駄作に成り下がります。纏めます。単純な移植であれば、優秀な技術屋が必要です。それによって、移植は成功致します。追加要素の移植であれば、オリジナルのゲームディレクターと、その思考をゲームに再現してくれる優秀な技術屋が必要です。これらの条件が満たされた場合には、移植作品は劣化移植を免れて、皆様の前に作品として届く事になるのです。移植については、会社が安い価格に固執し、スタッフィングを疎かにしがちな面があります。今後は、如何にして優秀なスタッフを移植に確保出来るかが、重要な課題となりそうです。残念ながら、私は移植に関わった事がありませんので、今後、周りで劣化移植が誕生しそうな状況がありましたら、改善するように働きかけていきたいと思っています。そうした結果、劣化移植が無くなって、ユーザーに楽しんでいただける移植作品をしっかりとリリース出来る環境にしていきたいですね。私も微力ながら力を尽くして頑張ります。
2006.02.24
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先日に、移植・リメイク作品についてのブログのリクエストを頂きました。ご期待に沿える程の文才はございませんが、今日は、その点について、ブログしていきたいと思います。長くなりそうですので、複数回に分けて掲載致します。さて、昨今は、空前のリメイクブームかと思う程にリメイク作品やシリーズ復活作品が増加しております。その中にあって、リメイクや移植なのに、前作よりも品質が落ちてしまう劣化版も横行しております。その点、疑問に思われる方が多くいらっしゃるかと思いますので、今回は、何故、劣化版が世の中に出るのか仕組みを解説したいと思います。移植やリメイク作品についてですが、劣化してしまう要因は複数あります。その中で、特に原因として多いものを列挙致します。1.移植、リメイク作品を安価に上げるために、オリジナル作品とはまったく関係の無い安価な外注スタッフにゲーム作りを担当させます。オリジナルがある以上は、それ以上の開発費を出来るだけ掛けずに、収益の拡大を狙います。場合によっては、外国の安い労働力を導入し開発します。その結果、そのゲームのアイデンティティが失われ、劣化作品へと成り下がります。2.社内の違うスタッフに作成させるケースです。リメイクや移植される程の作品を作り上げたスタッフは、優秀なスタッフのケースが多いです。その場合に、違う挑戦や、違う新規作品の開発に、その優秀な人材を回してしまうケースが多くあります。その結果、そのチームより力が劣ったチームが移植やリメイクを担当します。結果、チーム力の差から劣化作品へと成り下がります。3.会社の都合によってゲームを開発させる場合です。開発費は潤沢にあり、スタッフにも金銭的な余裕があるのですが、元々、そのゲームに対して熱を持っている開発者ではありません。ですが、会社の収益のために、その時期にそのゲームが必要です。その結果、オリジナルに愛を持っている開発者以外の人間を集めて、開発を担当させる事になります。当然ですが、劣化作品に成り下がり、ユーザーの怒りを買うケースが多いです。4.開発担当者の力量が落ちてしまったケースです。過去に名作を作った人間でも、成長が止まってしまうケースや、実力が落ちてしまうケースというのがあります。他の業界でも、昔は凄かったのに今はという方が、必ずいらっしゃるかと思いますが、それです。その方がリメイク作品等を担当された場合に、昔のようなゲーム作りの創作技術・魂を失ってしまっているために結果として、オリジナルスタッフが手がけながら駄作へと変貌します。大体において、以上が劣化作品が生まれてしまう要因になっていると考えられます。このような安易なリメイクや移植は、ゲーム産業に対して、なんらメリットが無いものだと考えています。確かに、売り上げの面から言えば間違いなく確保は出来ます。ところが、適当な作品を作ってしまっては次に繋がらなくなってしまいます。名作だからこそ、リメイクや移植の決定には慎重になっていただきたいと思います。安易な名作ゲームの移植、リメイクを私は悪だと考えています。
2006.02.23
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昨今のマスメディアによって、ゲームと犯罪の因果関係は、実際には、事実無根の論拠が無い話ながら、まるで科学的に証明済みかのように語られるケースが増えております。そのような悲観論的且つ、意図的な悪役作りによる視聴率稼ぎに終始するマスメディアに対して大きな遺憾の意を表します。この論調について、ふと聞いていて思ったのですが、一見してマイナス方向のみの意見ではありますが、逆手にとる事によって、大きなプラス方向に向かうのではないかという気がします。仮にゲームの影響力がそこまで大きかったと仮定すると、人間の性格や思考に対しての影響力を行使出来る事になります。ならば、犯罪の発生に影響しているのではなく、犯罪の抑止に影響している、影響させる事が出来るという考え方も出来るわけです。私としては、何故、こちらに話の重点がいかないのかが大いに疑問です。何事においても、大きな力は良い面に使えば社会全体に対して多大な貢献をする事が可能です。ゲームに関しても、その影響力の大きさを認めるのであれば、こちらの方向に使う道を評論家連中は模索すればよいのです。ところが、彼らはそれをしません。何故ならば、意図的に不安感や悪役を作った方が自身の利益に繋がるからです。私達、開発者は当然ながら犯罪者を育成するつもりは毛頭ありません。犯罪を憎んでおりますし、社会全体の安穏を願っております。開発者は一般の人間であり、普通の生活を送っている一個人です。自分が帰属する社会の不安を望むわけがありません。その影響力を本当に信じるマスメディアの方に問い掛けたいです。そのような大きな力があると信じているならば、私達と協力して犯罪を無くすためのゲーム作りにご協力いただけませんか?その方が、社会に貢献出来ますし、建設的です。悪い影響への証明が出来るという事は、良い影響のさせ方も必然として分かるという事になります。開発者もゲームによって、犯罪を起こしたいという気持ちは微塵もありません。私達も、ゲームのイメージ払拭のため、ゲーム性の改善に努力していきたいと考えております。そのような悪い影響を与えているとお考えの方がいらっしゃいましたら、どうか一緒に良い影響を与える方法作りにご協力下さい。そのアイデアが犯罪を防止出来るかもしれません。
2006.02.21
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先日に、趣味を仕事とする事に関してご質問いただきましたが、とても興味深い題材だと感じましたので、この点についてブログという形で纏めさせていただきたいと思います。趣味を仕事にする事については、私は最高に幸せな仕事となる可能性もあり、最低の地獄のような仕事となる可能性もあると考えています。まず、趣味という言葉の意味を考えてみます。以下は辞書によって調べたい内容です。そこには、こう書かれています。「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしている事柄。」仕事・職業としてでなくと書かれている点に着目して下さい。私としては、この点から、以下のように考察致しました。まずは、趣味を仕事とする場合の危険性について考察致します。趣味というのは楽しいものです。つまりは、楽しいが前提であって、辛い事は趣味とは言いません。ところが、趣味を仕事としてみるとどうでしょうか。楽しいだけの仕事は、この世の中に絶対に無いと断言出来ます。ここで、楽しいはずだった事柄に対して、辛さが介入してくる事になるのです。人間は仕事の辛さやストレスを、自分の趣味等によって発散し、また仕事への英気を養う方が多いのではないでしょうか。ところが、趣味を仕事としてしまった場合には、楽しいはずだったものが、楽しい事であり辛い事でもある事に変わっているのです。つまりは、趣味での楽しさが奪われているのです。それが趣味を仕事とする最大の危険性です。癒しの場を奪う事に繋がる危険性が非常に高いのです。仕事場だけで済んだはずのストレスがプライベートを侵食している事になるのです。何故、辛さが介入してくるのかを簡単にですが説明してみます。趣味というのは自分がやりたい時に始めて自分がやめたい時にやめられます。気分が乗らない時には、やらなくていいのです。趣味に対しては、自分は自由に振舞えるのです。ところが、仕事としたらどうでしょうか。やりたくない時でもあなたはやらなければいけません。また、仕事は好きな事だけを選んで仕事とする事は出来ません。つまりは、自分がやりたい事をやるためには、その代償として、沢山の大変なやりたくない事もやらなければいけません。このような事が起った場合に、趣味を仕事とする事の良い面ばかりを見ていた場合に、趣味も仕事も同時に憎むようになります。そして、趣味も仕事も一度に奪われる事になるのです。これは、最低の地獄です。では、逆に最高の幸せを得るというのは、どういう場合でしょうか。趣味を仕事とする上での、メリットを考えてみます。趣味を仕事とする上で、幾つもの代償を差し出す事は上記について軽く触れましたが、それによって得られる喜びや楽しさは段違いに大きいものとなるという事が最大のメリットであると思います。ゲームが遊ぶ人間が趣味だったものが仕事とした場合に、幾つもの辛さを乗り越えた先には、自分の理想通りのゲームを世の中に出せる喜び、また、それを自分で作り出して遊べる喜び、と同時にユーザーに喜んでもらえる喜び、大好きなゲームに毎日、触れる事が出来る喜び、沢山の喜びや幸せを手に入れる事が出来るのです。しかも、それによって報酬を得る事が出来るのです。好きな事をやって報酬をいただける、これ程に幸せな事があるのでしょうか。最高に幸せな仕事と呼べるものがそこにあります。今回は簡単にではありますが、纏めましたが、要約しますと、趣味を仕事にする事は最高の幸せを生み出す可能性もあり、最低の不幸を生み出す可能性も同時に併せ持っています。そして、どちらになるかは自分次第という事です。私は、最高に幸せな方向へ進むために必要なものは覚悟だと思っています。趣味を仕事とする事をじっくりと考えて、考え付く全ての辛いシチュエーションを頭に思い描いて下さい。やらなければいけない努力を思い描いて下さい。それでも、進みたいという覚悟があるのであれば、その仕事に就けた時に、最高の喜びを得られる可能性は高いと思います。趣味を仕事としている私は断言します。明確な意思と覚悟さえあれば、趣味を仕事とする事は最高に幸せな事なのです。
2006.02.13
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今回はゲーム製作中においての対人間での激しい憤りを感じた事についてブログします。私のこれまでの人生の中で何回か同じ質問をされた事があります。そして、その質問は私の最も嫌いな質問です。その質問の内容とは、「私には才能が無いのでしょうか?」です。気の迷い程度での一言なら許しますが、本気で発せられた一言が嫌いです。私は、最終的な才能の有無は他人が決める事ではないと思っています。その人がどれだけ努力しているかは正確なところは分かりません。努力してそこまで到達したのか、才能によってなのかを外部から断定するべきではないと考えます。ましてや、この質問の結果として無いという返答が来たらどうするというのでしょうか?上司から才能が無いという言葉を貰うのは死刑判決の判を押された事と同じではないでしょうか。 この質問は唾棄すべき一言だと思っています。自分自身の価値を、引いては自分自身の人生に対しての選択を他人のただ一つの言葉に委ねる結果になり兼ねないからです。自分の選択は自分がするべきなのです。それに、本当に進みたい道であるならば才能が仮に全く無かったとしても関係無いです。 私は、この質問をする事によって才能が奪われると考えています。自分の才能を自分が信じられないならば、何か行動を起こす際に、絶対に諦めの気持ちが入り混じってしまうと思うのです。それに他人に負けた場合に、必ずこのように思います。私は努力では勝っていたのに才能だけが足らなかったと・・・そのような言葉を何度も聞いてきました。そんな状況で努力しても努力が実を結ぶはずもありません。自分を信じて1年間努力した人間と、才能が無いと諦めながら1年間努力した人間のどちらが上を行くでしょうか。私には後者としか思えません。綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、私にとっての才能は、才能があると信じる者に宿ると考えています。、才能が無い私にとってはゲーム製作はつまらないと言われた事があります。この言葉に対して、私は激しい怒りを覚えました。では、あなたはどれだけの時間を自分を磨く事に費やしてきたのでしょうかと。それにゲーム作りを楽しまない人間を私は信頼出来ません。ゲーム作りは面白い物を作るのが仕事です。その製作に携わっている人間が自身の才能の有無だけを思い悩み、仕事をゲーム製作をつまらない物だと吐き捨てる。そんな姿勢は私には到底に許せないのです。自分の才能が無いからと理由付けをする、自分からの逃げの姿勢が許せませんし、その結果として、ゲームの面白さの追求という課せられた責任からの自分の才能への責任転嫁による逃げが許せません。再度、言いますがエンターテイメントを作りたい人間は自分の努力や才能に疑問を持ってはいけないと思います。疑問に支配された人間の作るゲームは悲劇的です。ゲームにも、必ずその影響が出てしまうからです。疑問だらけのゲーム、それはとてもつまらないゲームです。疑問を持たないぐらいの努力をし、ゲーム製作に邁進しなければいけません。それが出来るかどうかが、ゲームクリエーターの才能の有無では無いかと思います。最後に少し付け足しを致しますが、決して傲慢になれという事ではありません。ただ、自分の作っているものを信じる事はゲーム製作での最低必要条件だと言いたいのです。そして、自分をまるで信じる事が出来ない人間は、自分が作ったものも絶対に信じられないのです。文章の中にいささか配慮を欠いた文面があるかもしれません。然し、これが私の嘘偽ざる気持ちです。
2006.02.08
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よく日本人開発者よりも外国人開発者の方が相対的に技術レベルが高いのではないかというイメージを抱かれている方が多くいらっしゃいます。実態はどうなのでしょうか?これは、あくまでも個人的な意見ですが、そのような事は一切、無いと思います。勿論、日本人開発者対海外全ての開発者となれば数の理論からも劣勢になる事は否めませんが。では、どうしてそのようなイメージがあるかを考えた時に、従来からある日本人開発者と外国の開発者でのゲームにおける製作スタンスの違いに要因があると考えます。日本人開発者はゲームの気持ちよさを重要視し、絵についてもリアリィティよりも見易さを重要視します。そのため、高度な技術を使ってそれが損なわれるよりは、それをきっぱりと切り捨ててしまいます。ところが、外国の開発者は見易さよりもリアリィティを重視します。日本のゲームと海外のゲームを比較した場合にゲームのフレームレートに大きな違いがあるのも、そこが原因です。日本の開発者の大半は、それを損なって気持ちよさが減少するぐらいならグラフィックを抑えます。海外は別です。グラフィックを抑えるぐらいならその点での気持ち良さを減少させる事も厭いません。そのような製作スタンスで作成した場合に、当然ながら、海外のゲームの方が高度な技術を多く導入する事になります。日本のゲーム開発者は出来ないわけではなく、意図的に入れていないという事に着目して下さい。そのような結果の蓄積が海外のゲームは技術的に高いが面白さが足りない。日本のゲームは技術的に高くないが面白さがある。というイメージの定着に繋がったのではないでしょうか。私は、それが真実であると考えます。尚、最近は、この法則が崩れてきました。日本の開発者も、ここで言う外国よりのスタンスで開発されるゲームが増えてきましたし、その逆も然りです。これは、加速度的に各国の感性が近づいている事の証明なのかもしれません。時代はグローバルです。ゲームもグローバルな面白さへ進化していきたいですね。
2006.02.06
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日本全体で、英語の必要性は高まっていると言えるでしょう。学校教育の現場でも英語の授業への取り組みは以前よりも遥かに重要性を増して取り組んでいるようです。ゲーム業界でも同様に英語の重要性は増しています。これには、日本以外のゲームメーカーが台頭してきた事が多いに関係しています。今までは、ハードレベルでは、任天堂やソニーのように日本のゲーム会社を中心として周ってきました。然しながら、最近はマイクロソフトのハードも世界的に見てそれなりの市場を形成しつつあります。更に、PCのゲームへの注目度は世界規模で増しつつあります。このような流れの中で、海外のメーカーと関係した仕事をする機会は増加傾向にあります。必然的に英語の出番です。例えば、マイクロソフトの某ゲーム機のドキュメントは日本語ドキュメントと呼ばれるものは一応は用意されていますが、トップメニューから入った詳細な説明は英語のままです。PC用のプログラムで主流になっているDirectX等は、まず英語版のドキュメントが発行され、日本語版は随分と後になって発行されます。つまりは、日本語版を待っていたら最新の状態から取り残される事を意味します。ネットの普及も見逃せません。そこには、各種最新の専門技術が多々、公開されています。ネットで勉強するのがスタンダードな時代になりました。ここでも、英語の出番です。実は、日本語の専門技術サイトよりも海外の専門技術サイトの方が数が豊富にあります。この数の違いの原因は、国民性も関係しているかもしれませんし、(日本人はあまり技術を公開したがらない人が海外よりも多い)英語圏の人口の方が純粋に多いという事もあるかと思います。原因はどうあれ、専門技術を習得するには英語が重要であるという事は間違いのない事実です。このように英語の重要性はゲーム業界においても増しています。これから、ゲーム業界を志望される方、従事される方は英語にも着目して勉強されてはいかがでしょうか。大きなアドバンテージをもたらしてくれる事でしょう。追伸:私は、恥ずかしながら英語は得意ではありません。よく海外の方の技術講演会にも足を運ぶのですが、同時通訳機を介さずに、講演を聴く日本人開発者の多さに舌を巻きます。半数近くは同時通訳機をかけずに生の英語で聞いているような状態です。英語を完全に理解しているという事ですね。自分の勉強不足を痛感させられます・・・
2006.02.03
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近年になって開発費が高騰している事は話題に触れましたが、それよりも、今後において問題になりそうな事が品質の維持です。開発費が上がれば、潤沢になって品質が維持出来そうだと単純に考えれば思いそうですが、事はそう簡単ではありません。逆に、品質維持においての危険性が増している部分があります。現行では、XBOX360では、開発費最低ラインが10億円等と噂される事がありますが、実際に、これだけの人材を動かすという事は途方もない人数をかけて、仕事をする事になります。ここで、問題になるのが意思の疎通です。小さいゲームにおいては、ディレクターの意向が、隅々まで正確に伝える事が可能でした。ところが、現代の開発においては、規模が大きくなりすぎたために少人数での管理に無理が出てきています。そこから、綻びが発生します。ゲームのデザインを企画していた人間、絵をデザインした人間、プログラムをデザインした人間が全てを見て修正し指示を与える事は実質的に不可能です。そのため、ディレクターの意向が反映しきれない箇所が存在する事になります。これが、ゲームデザインの破綻に反映する危険性を生みます。他にも、人員の能力差が顕著になります。大多数の人間を確保する必要性が生じますので、中には、プロジェクトに携わるのに力が不足している人間をも抱えなければいけない状況になる場合があります。これは、同じゲーム内での出来、不出来の差となって現れる可能性があります。同じゲームでもキャラクターによって大きく出来が違うゲーム等に出くわした事がある方も多くいらっしゃるでしょう。それらの問題が起こる可能性が高まるわけです。これらのリスクを最小限に抑えるために各小セクション毎のディレクターの育成が急務になります。今後においては、ゲームディレクターのみではなく、それに付随する人員の力の重要性は更に増す事になるでしょう。大金を掛けても、上記の問題を解決出来なかったゲームは今よりも、お金を掛けた分に悲惨な出来となるでしょう。今までは、開発費が高いゲームは最低でも、それなりに遊べるというイメージが定着していたかと思いますが、今後は、そのイメージも変化してくる可能性があります。この変化は、肯定的に捉えれば、開発費に囚われない時代が来る可能性を高めたとも言えます。そういった肯定的な変化に出来るように力を尽くすのみです。
2006.01.24
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"2ちゃんねる"に代表されるようにネット掲示板という物が現在は数多く存在しています。その中では、ユーザーの方々から各ゲームに対しての色々な書き込みが行われているのが日常です。さて、本日の本題ですが、その中の書き込みで開発者宛に書かれた書き込みを多く見る事が出来ます。掲示板に書いた本人は開発者に届いて欲しいという気持ちで書いているのだと思いますが、実際はどうなのでしょうか。開発者には、届いていないのでしょうか。そこで、そんな疑問に対しての答えですが、「届いています!」開発に携わった人間である以上はユーザーの意見というのは何物にも変えがたい物でありますし、非常に参考になるものであります。勿論、開発者のうちの全員が見ているとまでは言いません。私感ではありますが、半数近くの人間が頻度の大小はあれ、自分のゲームの評価を気にかけてネット掲示板や個人のブログを見る、聞く事があります。場合によっては、ネットに載っていた要望の中から本当に面白いと思えるものがあったら採用する場合もあるのです。仮に本当に続編が欲しい。こういうアイデアはどうであろうか?という物があれば、どんどん葉書やネットで書き込みを行っていただければ、開発者に届き採用される可能性が本当にあります。このネット掲示板の存在によって、ユーザーと開発者の距離は確実に縮まっているように感じています。ユーザーから、色々なご意見をいただいて、ゲーム製作者が、より面白いゲームを作るべく努力する。この相互関係があれば、ゲームをもっと面白いものに出来るかもしれません。ゲームが好きな方、嫌いな方、是非、ネットを通して開発者に色々なメッセージをお送り下さい。私達は、そのメッセージを参考にさせていただき、ゲーム開発に活用させていただきます!
2006.01.11
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本日は中古に関して常々、思っている事をブログに纏めました。数年間にですが、ゲームショップとゲーム会社の間でゲームの中古に関しての争い(裁判)がありました。その当時の結果としては、ゲームショップ側が勝訴し、中古販売は合法という結果となりました。然し、依然として中古の問題については解決したとは、言い難いのが現状です。業界でも賛否両論渦巻いております。まず、個人的な意見ではありますが、中古市場については、基本的には賛成の意見を持っています。ユーザーが購入したゲームを自由に出来ないというのはお金を払った以上はおかしいと思いますし、また、中古で売ったお金で違うゲームを購入していただく機会も増えると思います。無い場合と比較した場合には、明らかに、市場の活発化が期待出来ると思っております。然しながら、一部の問題については修正の必要があるのが現状だと感じています。私が感じている問題は下記のような状況での開発会社に入る売り上げ金がまったく違うからです。1、100万本を新品で販売2、50万本を新品で販売、50万本を中古で販売2の方が、単純計算で1の場合に比べて売り上げ金が2分の1しか入らない事になります。これは、次のゲームへの開発資金を調達する上で非常に苦しい状況となります。これは、極端な例でしたが、デジタルメディアは劣化しないため、中古が市場において非常に力を強く持っているのは事実です。今後は、中古市場を継続していくにあたり、双方が歩みよりをして改善していかなければならないと考えています。まず、中古に関しては、売り上げ金の何パーセントかを開発会社にバックしていただくようなシステムを構築する必要性があります。これによって、開発会社も資金の回収が可能になります。次に、これではショップ側にはデメリットしか無いように感じますので、新作の卸値を引き下げるようにします。これであれば、ショップの新作へのリスクが少なく出来ますし、新作導入に関しても多少、積極的になれるのではないでしょうか。ゲーム会社にとっても、ユーザーにより遊んでいただけたゲームに関して、それに見合った資金を回収出来るので良い結果になるであろうと思います。今は、歪な形で進んでしまった中古問題ですが、今後を睨んで双方ともが歩みよって新しい市場を形成出来ないものでしょうか。デジタルメディアは、今後において法改正しないとも限りません。その時々で片方が不利になってしまわないように共闘体制の構築が急務であると思います。
2006.01.08
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最近はゲームの倫理問題について取り上げられる機会が増えてまいりました。一部の報道等で少年犯罪の増加の原因にTVゲームの影響がある等と根拠に乏しい報道がなされているのが現状です。現在、ゲーム業界では、政治家等による倫理規制や販売規制等の要請があります。先日ですが、某社のプロデゥーサーと飲みに行ってきまして、そこで、この問題について話題に上ることがありました。話題の中で規制の話になったのですが、業界の中では、主に二つの意見があります。1つ目は、規制等はとんでもない事だという意見です。表現は自由であるし、ゲーム産業だけ規制したところで、犯罪抑止効果があるのか疑問であるし、そもそも犯罪との因果関係の立証がされていないという意見。2つ目は、あえて規制するという意見です。これは、販売層を規制する事によって、一つの例としては、18歳以上には絶対に売ることが出来なくなったりするという事を逆手にとって、より過激な表現を促進したり、表現の幅を広げてはどうかという意見です。この意見に関しては、現在もゲームの倫理機構でも熟慮している最中であります。このプロデゥーサーも倫理機構に呼び出しをうけ、意見を求められたとの事でした。さて、私の意見ですが、規制には断固として反対です。そもそも、何故にゲームだけが規制の対象となるかが分かりません。(残虐な映画、TVは規制の対象では無いのか?)犯罪との因果関係もTVゲームより前に改善しなければならない問題があるのではないでしょうか?子供がゲームをやっていて現実とゲームの区別が出来なくなるという意見がありますが、そもそも、それだけの状態になるのに一体、一日何時間ゲームをプレイしているのでしょうか?常識のある親であれば、そんな長時間、一人で遊ばせませんよ。どう考えて注意します。TVだって、ずっと長時間、見ていれば脳の活動に影響ありますよ。小学生がゾンビゲームをやっている事でゲームを責めるよりも買い与えている親を責めるべきではないでしょうか?ゲーム業界も注意すべきところは山程あるとは思います。然し、問題の本質はもっと別のところにあるのではないでしょうか?だからこそ、解決が出来ていないのだと思います。ゲームを規制しただけで解決出来るのであれば、とっくに解決されていると思います。安易な規制によって表現が束縛されたり、悪いイメージがつかない事を祈ります。
2006.01.07
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ゲーム雑誌というものは世の中に数多く販売されております。その中には、必ずといっていいほど発売日付近のゲームのレビューが載っております。私も学生時代よりゲームという商品の開発に携わってきました。結果として、某有名雑誌で殿堂入りするような作品や、それが叶わなかった作品、色々な作品の開発に携わってきました。今回はこの雑誌のゲームレビューに関して個人的に思っている事を書きます。私は、この雑誌のレビューが好きではありません。すべての雑誌において言える事なのですが、一つのゲームをプレイしレビューを書く人数が多くありません。つまりは極々、少数の意見がレビューとして載っている事になります。ここに問題の本質があります。このレビューがあくまでも少数の意見として参考程度にとらえられている状況であれば、問題はありません。然し、実態としては、このレビューが販売に対して多くの影響を与えてしまっていますが現実です。本来、気にしなければいけないのはユーザーの反応です。ところが、ここまでレビューの力が強くなってしまうと、ユーザーよりも、まずは雑誌レビューに対しての評価を気にしなければならなくなります。実際に、そのような事はないのですが、下手をしたら、雑誌レビューアーに評価してもらえるようにゲーム自体をレビューアーの好みに合わせて作成してしまうような危険性もあります。冗談ではありますが、そのような言葉が現場で出たこともあるのです。雑誌会社も、その影響力をきちんと認識していただきたいと思います。他にも、プレイ時間に対する疑問です。それを参考にするユーザーが多いからには、レビューを書く人間は、多くの時間を用いてプレイしレビューを行うのが当然だと思います。然し、レビューを見ていると中には、30分もプレイしていないだろうというレビューに遭遇する事があります。単純に考えれば、一人の人間が一週間に発売するすべてのゲームのレビューを書くのです。原稿を書く時間や、その他の作業の時間を考慮すればそれも当然かもしれません。然し、30分以下のプレイ時間で点数をつけられてしまったゲームはたまったものではありませんね。実際に、ユーザーの評判とまったく違うレビューをどれだけ多く耳にしてきたか・・・この意見は、私の携わったゲームが非常に良い点数をいただいた時でも同じなのです。私としては、レビューを継続したいのであれば、そのやり方自体を再考していただきたいと考えています。その影響力に見合うだけの、正当性のあるレビューを期待したいのです。追伸:思い切って、レビューアーをユーザーに任せる等の手法は出来ないのでしょうか・・・バイトであればコストも安いでしょうし、多くの人間を雇って意見を集めれば今よりもユーザーに近い意見を集める事が出来るでしょう。今のままでは、編集者の好み、雑誌会社の好みで点数が支配されてしまいます・・・
2005.11.08
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先日の日記への書き込みでゲームと映画等のCGの相違性についてご質問がありましたので、そこらへんについて、専門外の私が話すのも恐縮ですが、知る範囲で書き込んでみたいと思います。私が思う一番の違いですが、それは、リアルタイム性と非リアルタイム性にあります。ゲームのCGというのは、リアルタイムに処理をする前提において作成されます。ムービーのCGは、非リアルタイム性です。極端な例ですが、ゲームのCGを画面に表示するために要する時間は、通常のアクションゲームでいえば、60分の1秒以内です。非常に高速に処理している事になります。かたや、ムービーのCGは多大な時間を要します。一昔前の超精細ムービーなどは2日という例もある程です。単純計算ではありますが、60分の1秒と2日を比較した場合に、開発コストが膨大な差になる事は明白です。これが、ゲームのCGが今後に注目される理由になります。PS3の動画をご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、ムービーとPS3の動画の区別がついた方というのはどれくらいいらっしゃるでしょうか?それぐらにゲームのCGは進化しているのです。グラフィックスを表現する手法もゲームは有限時間内に計算を終える必要があるために近似計算を使用する事が主流ではあります。ムービーは非有限時間であるため、近似計算に依存する必要がありません。然し、昨今の近似計算の差と非近似計算の差を見分ける事が出来るのは専門家ぐらいではないでしょうか。そうした一つ一つのリアルタイム性と非リアルタイム性の違いがゲームとそれ以外のCGを分ける一番の大きな要因になってくると思われます。今後、CG技術は更に進化していく事になるでしょうが、上記の例において、開発費が肥大化するCG業界にゲームCGが注目される理由というのが、ご理解いただけるかと思います。
2005.10.10
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ゲームの発売日の延期についてですが、ユーザーから厳しい意見を頂く事が多くあります。開発者の責任感の欠如等、色々と指摘を受けます。当然の反応であると思います。さて、ユーザーから見れば、開発者はどんな気持ちで延期しているんだという意見を頂く事が多いですので、今回は、それについて私の個人的な気持ちです。まず、延期についてですが、これは、苦渋の選択の結果でしかありません。適当な理由で延期する事はありません。会社側から見ても、当初の売り上げ計画からずれが生じてしまったり、広告活動を途中までしていた予算が、まったくとは言わないまでも無駄になってしまいますので、大きな損失を出す事になります。開発者からしても、自分達で立てた予定を守る事が出来なかったという自責の心と内外からのプレッシャーも、あわせてきつくなってきます。延期後は、それと向かい合いながら開発するしかなくなってしまいます。これは、精神的には、大きな負担になります。発売日が延びてしまう理由というのは基本的にはスケジュールの遅れが理由の大半ですが、遅れる理由は色々とあります。その中でも、多い理由としては、1.面白いと想定して作ったものが想定通りの面白さではなかった。 その際に、面白くするために作り直しが発生し、 当初の予定になかった作業が発生し、 スケジュールを圧迫してしまいます。2.予想されていないバグが出てしまった。 開発終了直前で、 まったく予期していなかったバグが出てしまう事があります。 修正し、再度、チェックをかけるために発売日が延びてしまいます。3.純粋なスケジュールの遅れ。 人間がやっている以上は、遅れが出る人間もいます。 それが積み重なってしまった場合に、発売日に影響が出ます。理由としては、大きなところでは上記のような形が多いです。例外としては、版権物等の場合に、権利者の許可をなかなかいただけず延期になったり、他のソフトとのバッティングを避けるために意図的にずらしたりとあります。私達、開発陣も延期は相当の苦しみをともないますので、最大限努力して延期しないように開発していくつもりです。
2005.10.01
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私はゲーム開発に携わっている者です。日頃、TVゲームについて色々な意見を耳にします。そこで、私はゲーム開発者として意見をどう受け止めているのか。また、世間に訴えかけたい内容等を不定期にアップさせていただこうと思っております。厳しい意見等もいただく事になるかもしれませんが、このブログというものを通して、ゲームというものを理解していただけるきっかけとなれば、幸いです。それでは、宜しくお願いします。
2005.06.20
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