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・下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。(小林一三)・気は長く、心は広く、色(欲)薄く、勤めは固く(勝小吉)・己を知るを、ものを知れる人というべし(吉田兼好)・学問とは、飛耳長目の道だ(荻生徂徠)
2005/07/31
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宮城大学には4年生を対象とした「総合研究」という科目がある。事業構想学部の計画・デザイン・情報の3つの学科から任意に召集された7人の学生が、これまたたまたまアサインされた教員とチームを組み、数ヶ月で課題をみつけ、発表するという科目である。今日は4つのグループの共同発表会に参加したが、改めて4年生の学生のレベルの高さを感じた。テーマ設定、調査、提言の組み立て、IT技術、プレゼンテーション、、、。私が担当した今年のチームはやる気があり、力もあったので、こちらが出て行く場面は少なかった。街の単館系の映画館は文化を継承するとして、仙台駅東口のチネ・ラヴィータという映画館の生き残り策を考え、提言した。つくった資料も膨大で、発表もうまかったと思う。終了後、メンバーを連れて、大学の向かい側の会員制テニスクラブのレストランで一緒に食事をしながら、総括する。
2005/07/30
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東京は人物記念館の宝庫だ。以下は、折りをみて訪問したい記念館だ。徳富蘇峰(大森)野口英世(千駄ヶ谷)林芙美子(新宿)牧野富太郎(練馬)三木武夫(渋谷)樋口一葉(台東区)森鴎外(千駄木)武者小路実篤(仙川)山本有三(三鷹)宮城道雄(新宿)長谷川町子(世田谷)坪内逍遥(西早稲田)竹久夢二(文京区)古賀政男(上原)黒田清輝(上野)賀川豊彦(上北沢)吉川英治(青梅)植村直己(蓮根)いわさきちひろ(練馬)市川房江(代々木)朝倉文夫(谷中)池波正太郎(西浅草)海音寺潮五郎(経堂)
2005/07/29
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NPO法人知的生産の技術研究会の機関誌「知研フォーラム」も、いつの間にか283号を数えるまでになった。年10回から11回の発行だから、もう25年ほどになる。この間、「知研ニュース」、「ちけんだいがく」、「知的生産の技術」、そして「知研フォーラム」と名称や体裁を変えながらだんだん充実の度合いを深めてきた。市販の雑誌にも負けない内容を継続してきたのは、創業者の八木哲郎さんの素晴らしい功績だ。283号の内容ニュース 愛知万博・知研プロジェクトは大成功・支部の動き人物記念館の旅・センティメンタルジャーニーin中国 久恒啓一コマシラバスは学校と教育を変える 芦田宏直名著の早読み図解読み「斉藤一人 ついている話」 柴田高明見晴らし台から アメリカ研究アントレプレナーシップとベンチャーの失敗 吉田雅紀今月のセミナー 東京 久保田達也「勝ち続ける企画の技術」 関西 村上肇「中小企業ネット研究」協力講師・会員の本人生の古典を読む「阿部一族」寺島ノート猫を笑わせろ宣教師東漸、風邪と濤と 八木哲郎J1フォーラムhttp://www.tiken.org/
2005/07/28
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大学のゼミで、現在選挙運動期間中の仙台市長選は、大型首長選初のマニフェスト選挙だ。6人の候補者のマニフェストの図解に取り組んでいたが、一応完成した。国土・環境分野、産業・経済分野、生活・社会分野の3つに分けながら考えていったが、全般的に言えることは、産業・経済分野の施策が極めて貧弱なことだ。他の2分野についてはそれ相当にアイデアが散りばめられているが、その基盤としての経済活性化策は物足りない。また、争点となってきた「地下鉄東西線」については、推進派から撤回派まできれいに並んでいる。投票日は、今週末の31日(日曜日)。
2005/07/27
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夕刻、国土交通省東北整備局の「調査課長会議」で講演をする。12日に出した新著「合意術」と同じテーマでの講演である。サブとして「説得型行政から納得型行政へ」をつけた。新著「合意術」がテキスト。整備局道路部の計画課、地域道路課、道路管理課、交通対策課の課長・課補以下の職員、企画部の職員、そして青森河川国道事務所、岩手河川国道事務所、三陸、仙台、秋田、湯沢、能代、山形、酒田、福島、郡山、磐城、など河川事務所の調査課長が聴いた。この調査課長は地域対策が主な仕事である。道路や河川にかかわる事業を推進するときに、住民との折衝を行う。行政の本質があらわれる場所だけに、社会的合意形成にかかわる関心は高かった。「合意」の考え方、その方法論などを興味深く聴いてもらった。終了後、懇親会で反応を聞きながら、酒を飲む。
2005/07/26
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今日の河北新報夕刊をみて驚いた。「合意術」(12日発刊)が早くもビジネス書ランキングで9位に入っている。ジュンク堂書店仙台店調べで13-19日、とある。仙台の人は買ってくれる人が多い。ありがたいことだ。細田真宏・藤田晋・熊谷正寿・大前研一・小林よしのり・長谷川慶太郎・須崎恭彦・堀江貴文というのがランクインの著者。ITと大御所、話題の人物が入り混じっている。
2005/07/25
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外務省飯倉公館(外国の賓客をもてなす場所)の隣に建つ外交資料館別館。この別館は財団法人吉田茂記念事業財団(現 財団法人吉田茂国際基金)から外務省に寄贈されたものである。入り口を入った真正面に和服姿の大きな吉田茂の上半身像が体の前で手を組んでおり、「宰相吉田茂像」とある。製作者は誰かと探したがわからなかった。また階段の上り口には、昭和27年11月のメガネをかけた吉田の写真が飾ってある。 受け付けの前に貼ってある年譜をみる。吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁を発見する。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。この養子制度を含む日本の「家」に思いを馳せる。確か斉藤茂吉も養子だった。江戸時代から家は法人格的な性格を持っていたから、優秀な番頭に実務を任せたり、子供がいない場合にはできのいい子供を養子に迎えて家の存続を図るなどの工夫が見える。明治維新後、株式会社が輸入されたが日本人は違和感無く導入して大きな成果をあげている。要するに会社というものに慣れていたのだ。日本の家は実は会社と同じだったのである。 明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だったことを系図を見て発見する。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、小泉内閣の麻生太郎総務大臣というわけだ。 サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。吉田は「歴史を知らない国民は滅びる」という言葉をよく使った。 89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。昭和の20年代は吉田ワンマンに率いられた時代だったのだ。在任期間一位は2798日の佐藤栄作、3位は1806日の中曽根康弘である。 吉田の後を襲った鳩山一郎とは協力と競争の関係にあったようだ。吉田は日米安保をやり、鳩山は日ソ国交回復を実現している。---------------------------------------------------------外交資料館別館の常設展示には、開国期・明治期・大正期・昭和期の条約などが並んでいる。開国期では、1854年の日米和親条約調印書、1858年の日米修好通商条約、リンカーン大統領、ナポレオン三世、ビクトリア女王からの親書など。明治期では、1871年の日清修好条規調印書(伊達宗城・李鴻章)、樺太・千島交換条約批准書(榎本武楊・ゴルチャコフ首相)、1895年の日清講和条約調印書(伊藤博文首相・陸奥宗光外相、李鴻章)、1902年の日英同盟協約、1905年の日露講和条約調印書・批准書(小村寿太郎とウイッテ)など、、。大正期では、ベルサイユ講和条約認証謄本、ワシントン海軍軍縮条約認証謄本など、、、。昭和期では、ロンドン海軍軍縮条約認証謄本、1932年の日満議定書、1936年の日独防共協定、日独伊三国同盟条約調印書、幸福文書、1951年の対日平和条約認証謄本、、。まさに明治以降の日本外交史である。
2005/07/24
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東京・音羽にある鳩山会館は「日本の洋館」という歴史遺産を扱った写真誌にも出てくる。「バラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室」(藤森照信東大教授)。鳩山御殿とも呼ばれていたらしい。両脇に木々が豊かな長い坂道を登りきると洋館が現われる。赤い絨毯を踏んで階段を上る。 この洋館は、鳩山和夫(衆議院議長・早稲田大学校長・弁護士)が居を構えた地に鳩山一郎(総理大臣・自由民主党初代総裁)が建てたもので、一郎、威一郎(外務大臣・大蔵事務次官・参議院議員)、由紀夫(民主党代表・衆議院議員)・邦夫(文部大臣・労働大臣・衆議院議員)の三代が住んでいた。そういえば鳩山兄弟が自民党を脱党したときか民主党を結成したときだっか忘れたが、小沢一郎を招いた酒宴を張ったことがある。それはこの建物だったと記憶している。 この洋館は、一郎の親友であった岡田信一郎の設計で、1995年7月から1996年5圧まで修復・復元されたものである。延床面積901.61ヘーベ。第二応接室は一郎(総理大臣)が病を得てから使った応接室である。一郎愛用の椅子がある。この応接室には、各界の要人が多く訪ねている。政治家では、三木武吉、河野一郎、山村新次郎、松村謙三、岸信介、石橋湛山、それ以外にも野球の水原監督、川上選手、相撲の栃錦、ソ連のミコヤン外相など、、、。 一階は、他にダイニング、8畳の和室、そして庭に面したサンルームがある。庭に出てみると、芝生が一面にひかれており、先のほうは花園でその先は山で木が茂っている。ここで由紀夫・邦夫の兄弟も遊んだのだろう。鯉の泳ぐ小さな池があり、そこに老夫婦の像が立っている。これは一郎の父である和夫とその妻の春子である。この像はやはり、朝倉文夫の作品だった。2階は、各部屋が鳩山家の人物を紹介する間となっている。10畳の和室は、鳩山薫記念室である。1888-1982年。一郎の妻である薫は、共立女子学園理事長など女子教育に力を注いだという理由で、勲一等瑞宝章を昭和41年に佐藤栄作首相から授与されている。 一郎記念室はもともとは書斎だった。「精神集中」という一郎の大きな書がかけられている。一郎の父和夫の「公徳」の書も。1883-1959年。一郎は大勲位をもらっている。縦書きの小さな日記帳。書棚には「鳩山一郎・薫日記 上下」があった・威一郎は、勲一等瑞宝章。古いオルガンがあったが、一郎存命中は家族でオルガンを伴奏に聖歌を歌っていたそうだ。「友愛」「以和為貴」という書。中曽根総理と大学同期で、「渡辺美智雄君を総裁に推薦する」という墨字の手紙も陳列されている。威一郎は大蔵次官、衆議院議員、外務大臣。趣味人で囲碁、謡、ゴルフ、、、。平成4年7月の期末手当(月給)は1148269円、支給は711929円。6月の期末手当(ボーナス?)は2916240円、支給は1808070円。2階の大広間はパーティができる大きさだと思ったら、今でも披露宴などに使っているとのことだった。鳩山家の書物が売っていたが、政治家・鳩山一郎を描いたものなどは全く無い。あるのは一郎が薫に送ったラブレターが本になったものや、邦夫の環境に関する書物などしかない。これはこの会館の最大の弱点だろう。仕方なく「鳩山家の勉強法」というキワモノを買うはめになった。5代全員が東大現役合格というのが本の売りだった。この鳩山会館は、政治の色がほとんどない。むしろ個人に焦点があたっている感じだ。 帰り際に門のところに貼ってあったポスターには「鳩山太郎」という名前があった。邦夫の息子だ。鳩山家の宿命を背負った新たな人生が始まりつつある、ということだろう。
2005/07/23
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2005年の愛知万博からさかのぼること35年、1970年の大阪万博のプロデューサーは岡本太郎だった。「太陽の塔」の奇妙な姿を見るたびに岡本太郎を思い出す。大阪万博はアジアで初の万博だった。大学時代にあらゆる「選択」に悩んでいた時、岡本太郎の「原色の呪文」という厚い本を読んだ。その中に、私の迷いを解決する言葉があった。「迷ったら、失敗する可能性が高い方、自分がダメになる方を選べ。そうするとエネルギーが湧いてくる」この衝撃的な言葉で、いい方を選んでもよくない方を選んでも、どちらでもいいんだと思った。それからは、決断がはやくなった。就職して広報の仕事をしていた1980年代後半のバブルの真っ最中に岡本太郎本人に会ったことがある。世界の腕のいいシェフを招いてのグルメ料理の会があり、会社の担当として出席した。私が座ったテーブルには、池田満寿夫と佐藤陽子夫妻、そして岡本太郎がいた。岡本太郎はもうかなりの年配だった。酒を飲んでいたが、目はらんらんとしていた。一緒にトイレに向かう途中で、大学時代に本を読んだ話しをしたが、酔っ払っていてよくわかっていないようだった。佐藤陽子が「センセー、センセー」と呼んでいたのが今でも印象に残っている。岡本太郎記念館 青山の骨董通りの近くの一角にある素敵な建物が「芸術は爆発だ!」で知られる岡本太郎記念館だ。自宅とアトリエを兼ねていたが、そのままに公開している。岡本太郎が50年近く生活し、「太陽の塔」をはじめ、モミュメント、彫刻、絵画、膨大な著作などを生み出した創造の基地である。訪問した時は、専属秘書で後に養女となった記念館館長であった「岡本敏子の60年展」をやっていた。岡本敏子は2005年4月に急死した。「私は岡本太郎と共に五十年走ってきた。自分らしくとか、何が生き甲斐とかなんて考えるヒマはなかった。十分に、ギリギリに生きた。極限まで」。天才に魅了されて一緒に突っ走った人の偽りの無い言葉だろう。「岡本敏子と語る広場」という空間には、黒川紀章、筑紫哲也、梅原猛、よしもとばなな、糸井重里、中村桂子、山口昌男、石田えり、、などからのメッセージが飾ってある。 庭に面した部屋には、岡本本人の像を含め様々な造形物がそれぞれ自己主張をしながら並んでいる。奥のアトリエは、画材、刷毛、筆、椅子、ピアノ、そしてゴルフバッグなどがある。 庭には、座ることを拒否したイスというのが17脚あるが、その一つに座って庭を観察する。大きなソテツの木、さまざまなモニュメントなど、とてつもないエネルギーのたまった場所だ。 岡本太郎(1911-1996年)の写真には、目を力いっぱい開いた写真が多い。司馬遼太郎万国博のとき「どういうわけか、やるべきかどうか、私に相談してくれた」中国北京の人民大会堂で「中国もいいところがたくさんあるが、現代絵画はだめだ。こんなものは絵じゃない」といって満堂を白けさせたという話を仄聞している。五味康祐 「ぼくはピカソなんかよりずっと偉いんだ。岡本太郎の方が偉いんだ。そうでなくて、どうして僕に現在絵が描けるんだ」金子兜太の「シャーマン的文化人」の中で、「原色の呪文」(文藝春秋社)を取り上げている。丹下健三の「縄文的なもの」の中で 「伝統とは、過去と未来とを橋かけるという、もっとも創造的な、現代的な課題であるからである」岡本太郎の素敵な言葉「他人が笑おうが笑うまいは、自分の歌を歌えばいいんだよ」「やろうとしないから、やれないんだ。それだけのことだ」「ぼくはこうしなさいとか、こうすべきだなんて言うつもりはない。 ぼくだったらこうする といううだけだ。 それに共感する人、反発する人、それはご自由だ」
2005/07/22
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先日訪問した広島平和記念館で戦後60年を意識し、乃木神社で日露戦争100年を知り、今日買った文藝春秋の特別版の「昭和と私」特集で昭和80年を知った。私の前後の昭和20年代生まれは、22年の久田恵、23年の船曳建夫、24年の黒川博之、24年の林望、28年の金田一秀穂、29年の林真理子がそれぞれ「昭和と私」というエッセイを書いている。特別鼎談2「昭和20年」を語ろう、がなかなか面白い。大正14年生まれの丸谷才一、昭和9年生まれの井上ひさし、昭和4年生まれの鳥居民という顔ぶれ。この鳥居さんが書き続けている「昭和20年」というシリーズを題材とした鼎談である。このシリーズは11冊目でまだ途中。読まねば、、、。・ギボンの「ローマ帝国史」、頼山陽の「日本外史」のように 広い読者が面白がって詠む本。・昭和20年の百科事典・昨日があり一昨日があるから今日があるという、語り口・群像的、集団的な人間の把握・日本の社会の上から下まで縦断して捉えるという視界、視野、視力の広さ・ものすごい望遠レンズと、ものすごい接写レンズを備えた高精度のカメラ・ゴシップ、エピソード、それから仮定の形。そういったいろんな方法が大 きな流れとなって、大きなリズムを刻みながら進み、結局は読者を飽きさ せない。・ルビが、この本全体に風通しのよさを与えている・風通しのよさというか見晴らしのよさがとても魅力・教科書であり、哲学書である鳥居民「私は情報整理のためにカードを作っていまして、新巻き鮭の箱に入れているんです。一箱にカードが3500枚入るんですが、その箱が、横に5列、縦に九段積んで45箱あるんですね。ですからカードはざっと15万枚以上あるんですが、末次、長谷川でカードを引けばすぐに出てくるようにしてあります」
2005/07/21
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中国に行く機会が増えそうなので、大学に来ている留学生から、中国語を習うことにした。会話ができるようにして欲しいと言う注文をつけている。第1回は、中国語の音節表を見ながら発音の練習。母音と子音の組み合わせ。四音調。代名詞、方向、数字、季節、年月日、曜日、数字。1時間ほどの練習だったが、中国への扉が少し開いたような気がする。
2005/07/20
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17日に訪ねた尾道での人物記念館巡りの詳報。-------------------------------------------------------東海道新幹線の福山で降りて山陽本線に乗り換え、尾道に向かう。海と山のはざまの町である。駅前には数人の高齢者ボランティアがいて尾道で訪れるべき場所を熱心に語りかけてくれる。教えられたとおり駅から伊予銀行尾道支店を目指して歩くと、支店の前に旅行鞄と傘を携えた林芙美子像が立っている。その先のアーケード商店街にNHKの連続ドラマにちなんで「うず潮小路」と命名されたまことに小さな小道があり、海側に少し下ると芙美子の自宅跡と書いた石碑が目に入った。瀬戸内海の沿いの海岸通りを歩き、直角に折れて千光寺新道の急坂を登る。まず山の中腹に立つ3軒長屋の一角を占める志賀直哉旧居を訪問。小説の神様として知られる志賀直哉は、1883年(明治16年)に宮城県石巻の家老職だった名家に生まれている。1912年29歳の時に半年あまり尾道で借家住まいをしていた時の家である。1917年「城崎にて」を発表、代表作「暗夜行路」は1921年から1937年まで実に26年間をかけて書いた大作である。1949年文化勲章、そして1971年88歳で没している。旧居にある写真で見た志賀直哉は、俳優と見まがうほど凛々しい男前だった。和室には「清兵衛と瓢箪」から題材をとった大きな瓢箪が飾られている。この和室には以前、林芙美子の書斎の様子が再現されていたが、志賀直哉のファンから「格が違う」とのクレームがあり、この書斎は引っ越さざるを得なかったそうだ。ファンによれば、文豪たちが小説の先生として尊敬していた神様・志賀直哉と流行作家・林芙美子とでは格が違うとの主張である。ファンの心理はわかる面もあるが、そうかなあと疑問も湧く。奥には6畳間と3畳間がある。部屋からは美しい尾道水道と向島などの島々が一望できる。この景色はお気に入りだったようで、小説の中に寝そべった姿で眺めている風景の描写がでてくる。志賀はこの家で「暗夜行路」の構想を練った。さらに坂道を登ると尾道文学記念室に着く。建物はもともと大手の会社の重役の家で現在は有形文化財となっている。尾道は商いの町である。江戸時代に蝦夷地や越後と、江戸や大阪との間を行き来した北前船の西回り航路の中継地として栄えた歴史を持っている。このため富裕な商人が生まれ、数多くの文人墨客招き、後援をした。この気風は近代においても受け継がれ、志賀直哉、中村憲吉、吉井勇、山口誓子なども来遊し尾道をうたった作品を残している。山にはお寺が多いのも尾道の特徴である。現世の幸福を実現した尾道の豪商らは来世が恐かった。そのため、お寺を数多くつくり死後に備えた。林芙美子は1903年生まれ。1916年(大正5年)に12歳で北九州から尾道に移り住んでいる。この6年の間に作家の基礎を築いた。貧乏であった芙美子は「偉くならねばならない。一流になるために一級に学ぶ」という言葉を残しているように上昇志向の強い女性だった。この記念室には芙美子の自筆の額が飾ってあった。 花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき森光子の連続公演記録とでんぐり返しで有名な「放浪記」が出版されたのは、1930年(昭和5年)で、この作品で27歳の芙美子は一躍、流行作家となった。大学卒の初任給が1万円程度だった昭和26年に芙美子の月収は120万円だったという証言がある。現在の初任給は20万円だから、月収2400万円という計算だ。年収では約3億円である。芙美子は恋多き女で生涯6人の恋人を持った。1951年に48歳で心臓麻痺で亡くなるが、その数時間前に撮った写真が飾ってあった。雑誌の食べ歩きの取材の時の写真だが、顔にむくみが現われていた。暑い中、千光寺の階段を汗をかきながら登りきったところに吉井勇の碑があった。「千光寺の御堂へのぼる石段は わが旅よりも長かりしかな」吉井勇が51歳のときに詠んだユーモアと実感のこもった歌であるが、50代の私も共感した。山の頂上付近に安藤忠夫設計の尾道市立美術館がある。ベルギーの作家の展示をやっていたが、展示室から見える瀬戸内海の風景は絶品である。最近、「自分の家に飾りたいか」という基準で絵を見るとよいと教えてもらったが、いいアドバイスだと毎回思う。ロープーウエイでたった3分で山麓に着いて拍子抜けする。明治時代に建てられた白壁を利用した「おのみち映画資料館」を訪問。尾道ゆかりの映画作品の資料を展示する資料館だ。小津安二郎監督(1903年――1963年。60歳で永眠)。家族をテーマとしたこの監督には今もファンが多い。名作「東京物語」で冒頭と最後に尾道が出てくる。老夫婦が息子や娘のいる東京を見学するという物語だが、笠智衆の名演技もいい。「秋刀魚味」「蓼科日記」「麦秋」など小津監督は生涯で54本の映画を撮っている。「一番苦労するのが脚本」という完全主義者であった監督は、シナリオ、ロケハン、撮影、美術、衣装、証明。編集、音楽とあらゆる部分にこだわっている。14歳でアメリカ映画「シヴィライゼーション」を見て、映画監督になる決心をする。20歳で松竹キネマ蒲田撮影所助手、23歳助監督、24歳監督。映画作品の印象深いシーンを解説した映像をしばらく鑑賞した。90歳を超えてなお現役の新藤兼人監督と、尾道出身の大林監督の展示もあった。山陽本線で三原に出て、新幹線で広島へ。
2005/07/19
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平和記念資料館で井伏鱒二の「黒い雨」とともに買った朝日選書「原爆体験記」を読んだ。昭和25年に書かれた18編と昭和40年に募集した11編をもって一冊にしたものである。「あっ、落下傘だ」「爆心に生き残る」「友に助けられつつ」「汚水の味」「ケロイドを残して」「ガラスの破片に想う」「めしいとなりて」「兄も間違えた顔」、、、、。平和記念資料館の惨状を示す写真や音声や像などを思い浮かべながら読みすすんだ。今年は原爆投下から60年にあたる。投下直後、75年間は草木も生えないと言われた(それは2020年)が、現在の広島は緑豊かな一大都市として見事に復興を果たしている。自然の生命力と人間の力の大きさに改めて感銘を受ける。
2005/07/18
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午前中。原爆ドームは、原爆の爆風が真上だったので、辛うじて残った建物で、その頭の姿が円形だったため、いつしか市民から命名された。チェコ人建築家ヤン・レツルの作品で広島県物産館別館として使われたが、1945年8月6日に8時15分の原爆投下により全員死亡。997年保存工事、1996年には世界遺産。原爆の子の像。2歳で被爆、12歳で白血病で死亡。「これはぼくらの叫びです これはぼくらの祈りです。 世界に平和を きずくため」「千羽鶴」「地に空に平和を」は湯川秀樹博士の字。広島平和記念資料館。音声ガイドは原爆詩の朗読をライフワークとしている吉永小百合さんの朗読だった。1938年12月、ドイツで原子の核分裂が大量のエネリギーを発生させる。亡命したレオ・シラードのドイツでの原爆開発の恐れ。アインシュタインの署名ももらい、F・ルーズベルト大統領に研究を促す。1939年10月原爆の研究開始。1942年マンハッタン計画。3年の歳月、20億ドルの予算、12万人以上の関与。1945年7月16日 実験成功1945年 広島・小倉・新潟・長崎8月2日 広島・小倉・長崎の順。(広島には連合国の捕虜がいない)1945年3月からは空襲禁止(効果測定のため)8月6日 広島 20万人死亡8月9日 長崎 10万人死亡ハベル大統領(チェコ)、スカルファロ大統領(イタリア)、ローマ法王パウロ二世、フジモリ大統領、ゴルバチョフ大統領、カーター大統領、マザー・テレサ、、、、。世界の要人がこれほど訪れる施設は日本にはない。午後。安芸高田市教育委員会主催の講演会。13時から16時まで。校長・教頭・教務主任100人。テーマは「今求められる新しい力 図解仕事人」。この合併で発足した新市は広島市と島根県との間の中山間地域で面積は広大。人口は3万人超。本来8万人が条件だが、合併特例で市に認められた。終了後、新幹線で名古屋へ。セントレアホテルに宿泊。
2005/07/17
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本日の日経新聞(別冊)の「接客マジック」特集にコメントをしている。若者にマジックが流行していることをビジネスやコミュニケーションの観点から切った特集。私のコメントは割りと大きく、「一瞬で引きつける」というタイトル。「・・・・。見るだけでなく演じるマジックがブームになる背景には、コミュニケーションに悩む現代ならではの表現方法としての期待が込められている。(談)」。40行。日本経済新聞社の本の広告。今日は、私の「合意術」が大きく出ていた。「全員の納得なしに、仕事は前に進まない」「その結論、皆が納得していますか?なあなあ主義や駆け引きなどによる合意では本当の問題解決にはなっていません。定性情報に着目する、図で理解するなど合意を導く手法を提唱」というPRでした。
2005/07/16
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110時半から11時半、市民パビリオンで講演45分、質疑15分。「図解思考であなたの人生は確実に変わる」笑い声もあり予想よりも楽しくつとめを果たした。13時半からは、NPO知研の顧問でもある日本総研の寺島実郎字理事長。寺島さんは世界潮流の話。寺島さんは、直前に来て、終了後は豊橋と大阪へ。先週はアメリカとのことだった。体(経済)は大中華圏・アジアに依存しているが頭(政治・情報)はまだアメリカ頼りという日本のいびつな姿が目に焼きついた。表日本と裏日本の逆転。瀬戸愛知館。森の鼓動と呼吸ーーかつてない自然発見の場。博覧会終了後恒久部分は「里山学びと交流の森」に。仮説部分の外壁や床に使用した木材は、下山村の新設の小学校で再利用。シアター空間「森の劇場」、移植された20メートルの「コナラの木」。ノンフィクション作家の山根一真さんがプロデュース。瀬戸日本館。「群読 叙事詩劇」である「一粒の種」が圧巻だった。「自然とともに生きる日本人の知恵・技・こころ」から生まれた言葉の数々を、15分間の上演時間に凝縮。「伝統としての日本人」という言葉が響いた。劇場は真ん中の丸い舞台を観客席が囲んでいる。数十人の若い男女が一人で、あるいは集団で、そして全員で日本人の生んだ言葉の数々を口にする。15分という短い時間とは思えないほどの濃い時間が流れる。興奮が冷めやらぬ次の間は、「光と風の庭」。ここでもモチーフは日本である。紅葉、独楽、唐傘、焼き物、自然など日本独特の美しい映像が次々と現れては消えていく。この館は、日本の自然と風土、そしてその中で育まれた日本人の精神を考えさせる。NPO知的生産の技術研究会の加藤さん、熊倉さん、八木会長らと写真を撮って帰る。
2005/07/15
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中部国際空港セントレアをまず見学。トヨタ館、日立館などは5時間待ち。入り口の「接客ロボット」は人気がある。日本語、英語、中国語、韓国語を話す美人の接客ロボットが応対をする。「私はいくつに見えますか?」「えー、お若いですね!」、そしてプログラムしてある話題以外では、「その話は置いといて、、、」と逃げるなど気が利いている。瞬き、黒目の左右への移動、手の振り付けなど面白かった。曼荼羅を中心としたネパール館、「曼荼羅は、自己の姿を映したものであり、宇宙の縮図である」「宇宙が自らの姿を顕現させたものが曼荼羅」ハーブやヨガなど癒しをテーマとしたインド館。国連館。国連加盟国は191か国。2002年のスイスと東チモールが最後。バチカン市国はオブザーバー。2005年7月14日の13時48分現在で世界の人口は6,448,783,544人。ほんの5年ほど前はまだ59億人台だった記憶がある。映像「多様性の祝祭」のテーマは「みんな違う、それが世界」。UNEP(国連環境計画)の世界環境フォトコンテスト。金賞は「野生の難民」(シカがゴミをあさる姿・インド)、銀賞「北ザンビアの飢えに苦しむ農夫」、銅賞「乾いた大地」(中国江西省)、「路上の死」(カンガルー・オーストラリア)、「嵐の後の子供たち」(ドミニカ共和国)。世界遺産は788.危機遺産というのがあって、バーミヤンなど。ゴンドラでメインの長久手会場から瀬戸会場へ。NPO知研が力を入れている「市民パビリオン」では、モハメド君の出演もあったが、アスキー創業者の西和彦さんも講演に駆けつけてくれて、旧交を暖めた。西さんは「ベンチャービジネスで夢を開け、一流を目指せ」だった。
2005/07/14
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本日の日経文化欄の「交遊抄」。池松邦彦アルプス技研社長の「知的向上心」の中で、NPO法人知的生産の技術研究会が紹介されている。--------------------------------------------------------------------------「知的生産の技術研究会」は、ビジネスマンの勉強会の老舗として知られる。この勉強会を知ったのは、日本航空広報部に勤務していた十七年前、三十二歳のころ。「わたしの知的生産の技術」という本を書店で見つけ、ビジネスマンが自主的な勉強会を開いていることを知り、入会した。その代表者(現会長)が八木哲郎さん。偶然にも職場の先輩の久恒啓一さん(現宮城大教授)も幹部として活躍していた。 中略 この五月、何年ぶりかに研究会の会合に出席した。ただし、今回は講師としての立場であった。社内や関係者向けに話をする場面ではあまり緊張することはなくなったが、この会だけは別。昔、未熟な自分が研さんした場で、八木さんや会員諸先輩を相手に話をすることは、冷や汗ものであった。-------------------------------------------------------------------------
2005/07/13
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8時:打ち合せ11時:国土交通省東北地方整備局来訪。講演の打ち合せ。「合意術」50部予約。13時半:大学院ゼミ14時半:大学院講義16時:三笠書房の編集者来訪。取材を受ける18時:広報室ミーティング本日、「合意術」配本日。
2005/07/12
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午後の四限目の授業はビジネス・プレゼンテーションの授業。7月4日に第一回、11日の今日が第2回の大プレゼン大会。ビジネス・プレゼンテーションの授業の最終コーナー。1チーム6-7人で、計17チーム。プレゼンを要請されて「逃げる・苦痛・仕事なら・自ら」と4つのタイプのどれかと最初に聞いて、最終講義までにはワンランクアップを目指そうという趣旨の授業だが、毎回プレゼンの実習と他人からの評価をもらうというスタイルで貫いた結果、目標を達成したと思う。その仕上げとして、自ら選んだテーマを題材として企画した内容を全員の前でプレゼンするという授業。各回、1位から4位まで投票で選び、1位には私から景品を渡すことにしている。
2005/07/11
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「自分時間」へ連載中のエッセイ。今回は中国旅行がテーマ。7月に発売中。-------------------------------------------------------------------------この4月に反日デモで大きく揺れた中国。その直前の3月末から4月初めにかけて中国の長春、青島、北京を訪ねた。主目的は客員教授をしている吉林大学(長春)での講義だが、娘時代を中国で暮らした78歳の母を同行した。昭和11年から19年1月までの少女時代(10歳から18歳)に住んでいた青島は北京オリンピックでヨットの会場となるが、新市街の発展ぶりや海岸沿いのリゾートマンション群に驚く。まず、母の父、つまり私にとっては祖父にあたる大野清吉が校長をしていた青島中学校(旧制)を訪ねる。石造りの校舎は当時のまま残っていて、今は、中国海洋大学となっている。この中学校で講義中に59歳で脳卒中で倒れた講堂を見せてもらうことができた。この講堂の入っている建物には「勝利楼」との看板があり、その命名のいわれがかいてある。その中に「日軍第一次侵占青島封建的日本中学校舎」を1950年に命名したという記述がある。「封建的」という言葉に反応して母は苦笑しながら「そうだったねえ」と述懐していた。鍵の閉まってあった講堂は今は会議室として使用されているが、事情を聞いた海洋大学国際交流担当の女性が親切に案内してくれた。祖父の倒れたであろう位置に座って写真を撮ってもらった。写真でしか見たことのなかった厳格そうな祖父が身近に感じられた。車でグルグルまわった挙句、旧市街にあった母一家の住んでいた住宅を発見する。旧市街の一角にあった当時白かったという壁は、今は茶色に塗りなおしていた。一階は、青島第一小学校の校長をしていたお父さんと一緒に住んでいたジャズピアニストの故・中村八大さん一家が住んでいて、「はっちゃんはピアノが上手で、足の指で弾くこともできたんだよ」と繰り返し母から聴いていた記憶がある。4階建ての2階の部屋を覗いてみると、思いがけず、88歳と75歳の老夫婦が出てきた。元海軍軍人の二人は親切に中に招き入れてくれた。母にとっては懐かしい場所で深い時間を過ごすことができた。当時3階建てだったこの家は、今は増築して4階建てになっている。また庭だったところには家も建っている。そして一家族で住んでいた2階は、3家族で住むという具合に変化している。辻に立って改めて眺めてみると、この家はセピア色に染まっている感じがした。翌日も母校である青島高等女学校の場所を訪問する。女学校が取り壊されて、高層ビルが建築中だったが、隣にあった寄宿舎は青島大学医学部として活用されていた。石でつくった日本の建築物は頑丈で、60年以上の歳月でもびくともしていない。息子として60年前の母の娘時代を訪ねる旅だったが、母の時間も自分の時間の中に内包されている様な感じがして不思議な感覚にとらわれた。
2005/07/10
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7月5日夕刊(一都3県版)の一面を全部使った市民満足学会(日下公人会長)の報告の本物の記事をやっと入手。第一部では「市民満足度向上のための7つの課題」(大島章嘉)という基調報告に続き、パネルディスカッション(私は司会を担当。日下公人・国領二郎・北矢行男・望月照彦)。第二部では「市民満足大賞」の表彰式。市・区議会議員満足度、警察署満足度、病院満足度、国道満足度、観光地満足度、河川流域満足度、、、。今年からはワーストも発表。以下、理事でもある私の発言。------------------------------------------------------------------「行政の側が、市民ニーズの全体像をつかめていないがために、個々の利害がどう関係してくるかをうまく説明できていない、という印象を持っています。合意形成に向けて情報をうまくまとめる技術や方法論を探っていかなくてはならない。」「結局、問題が何かという合意がとれないまま、いろいろなことを言い合っているという気がします。問題相互の影響も、うまく説明できていない。これは民主主義の方法論の欠如ではないかと。」「行政評価などでいう『評価』という言葉には緊張感が伴います。人事評価がその例です。むしろ『評判』を上げようとすると行動が変わり、結果として評価がよくなるということでしょう。キーワードは『評判』ではないか。結局、社会的合意形成に向けて問題解決を図っていくための方法論が未熟なのです。市民満足学会への期待は大きいものがあります。」-------------------------------------------------------------------
2005/07/09
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9時:大学へ出勤10時:猪俣先生(看護学部)との共同研究(学長特別研究費)の打ち合せ10時半:日本経済新聞社仙台支局の篠原支局長夫妻来訪13時--15時:JR東日本仙台支社にて研修講師・鈴木支社長とも面談15時24分の新幹線「はやて」で東京へ17時半:東京丸ビルにて日経新聞出版局の編集の山田さんと「合意術」の総括18時半:虎ノ門のJTビルにてPHP研究所の編集者の川上さんと新著の打ち合せ19時:JTビルにて日本航空広報部時代の仲間との懇親会(20名参集)・挨拶22時16分の新幹線で仙台へ(金曜日のみ運行する最終便)----------------------------------------------------------中味の濃い一日だった。
2005/07/08
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1948年に彫刻部門初の文化勲章を受章した朝倉文夫は、1883年に現在の大分県大野郡朝地に生まれ、東京オリンピック開催の1964年に没している。荒城の月で有名な竹田市の岡城址に立つ瀧廉太郎の像も、同じ小学校で4つ下だったという因縁で制作にあたった朝倉の作品で、像の後ろ側には廉太郎の想い出が詩情豊かに記してあったのを訪問時に見つけて二人の交遊を偲んだ。 美校在学中「一日一点」の塑像作成を日課とした朝倉は、明治40年の卒業制作「進化」(猿が人間になろうとする進化のプロセス、文明に反抗を示す男と恐れる女の群像)、41年「闇」で第二回文展最高賞の二等賞を受賞。第3回文展で「山から来た男」、第4回文展で「墓守」など賞を次々に受ける。「自然な姿を自然なままに」という写実主義で、一度もヨーロッパに行かなかったため独特の作風が生まれた。朝倉によれば「彫刻とは自然を立体的に見る学問」である。 朝倉は独自の骨相学を用いて写実彫刻である肖像彫刻に豊富な作品を残している。フロックコート着用の加藤高明、モーニング姿の後藤新平、ガウン姿の大隅重信、羽織袴の加納治五郎などを含めて実に400点を数える。この過程で、同時代の有力な人物との交流が生まれ、「政治」を楽しんだ形跡も感じられる。 記念館の入り口で最初に目につくのが二人の乙女の裸像だ。このモデルは娘の朝倉摂と朝倉響子で、当時裸婦のモデルになってくれる女性はなかなか見つからなかったためやむなく娘をモデルにしたという。このエピソードは子供の頃に聞いた記憶がかすかにある。義務教育も一般の学校教育にまかせずに、自分の家庭に教師を入れて娘を教育している。後に姉の摂は舞台芸術家、妹の響子は彫刻家となる。摂さんとは一度だけビジネスマン時代に仕事で縁があった。 女性群像の第二展示室、猫を中心とした動物彫刻の第三展示室、若い男性彫刻の第四展示室は、斜めの土地をうまく生かして、階段を登っていく構造になっていて、設計した清家清の構想に新鮮な驚きを覚える。コンクリと木を用いた明るい展示室には、生涯にわたって作り続けた驚異的な量と高いレベルの彫刻作品の一部が展示されていて、その旺盛なエネルギーに圧倒される。 朝倉は家や庭づくりにいたるまでこだわった生活を送ったが、「質朴労働、努力の連続、血みどろの苦労、生命を打ちこんだ仕事、終始緊張の連続、苦心の境涯、体験、よく見る、道具、体、手」などの儒教の精神を大切にした厳しい姿勢をあらわす一連の言葉を好んだ。書画、俳句、茶道、釣りなどどの分野にも一流の才能を示して多芸多才の人の趣もあったが、「一日土をいじらざれば 一日の退歩である」は、実は努力の人だったことがうかがわせる、朝倉文夫の人生と生活を象徴する言葉である。
2005/07/07
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来週(7月12日)発刊の新著「合意術」の見本が出来上がり、出版社から届いた。毎度のことながら、最終的にどのような姿に仕上がっているのか、包みを解くときは心が昂ぶる。特に今回は気合が入っているだけに軽い興奮状態。いい感じに仕上がっていると思う。表紙は、オフィス街をバックにビジネスマン2人が握手をしているイラスト。腕だけで顔などを省略している。タイトルは黒く大きな文字で三文字「合意術」だから目立つ。今までの本で最も短いタイトルだろう。そしてその下に朱色を引いたバックに白抜きで「『深掘り型』問題解決のすすめ」の文字でサブテーマが書かれている。その左下には名前。オビは黄色で、「納得ずくで仕事をうまく進める法」というキャッチが大きい。その下に「なあなあ主義や問題の先送りはもう限界。この手法を使えば、難しい問題もたちまち決着。「図解」に続く「仕事革命」を提唱する意欲作、とある。230頁で厚みがちょうどいい。「図で考える人は仕事ができる」よりは厚く、その「実践編」よりは薄い。今回も日経はハードカバーを採用。「まえがき」は、こんなエピソードから始まる。「『それは根回しのことですか?』 私が「合意」に関する講演をするという話を仲間内でしたときに、友人である女性市会議員がこんな質問を投げかけてきました。議員と言う職業柄、『合意=根回し』という図式が即座に頭に浮かんだのでしょう。、、、、、、、」久々に、世の中に一石を投じる「問題作」。
2005/07/06
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天下り容認、市民感覚とズレ 外郭団体のスリム化遠く--------------------------------------------------------------------久恒啓一宮城大教授(サービスマネジメント論)は「ニーズを的確に把握できる住民が外郭団体の中心にいなければ、住民と市とのパイプ役になれない。天下りでは、住民が期待する団体にはなれない」と指摘する。市債残高は約7433億9800万円(5月現在)久恒教授は「民間でできる業務をする団体は、市から切り離せばよい。財政は悲惨な状況で、本来業務ができなくなっていることをもっと真剣に考えるべきだ」と話す。-----------------------------------------------------------------------
2005/07/05
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授業を終えて、宮城県民会館で行われた音楽会へ。ドイツ室内管弦楽団は、国内の主要なオーケストラの一流の管弦楽奏者と国際コンクール入賞者から構成されている。第一部はドイツ室内管弦楽団の演奏とショーン・ケナードのピアノ、そして管弦楽団をバックに渋谷るり子と津田裕也(ともに仙台市出身)のピアノの競演。第二部は同じく管弦楽団をバックに、フルートの山形由美とハープの竹松舞(仙台市生まれ)の競演。全曲がモーツアルト。ティヴェルティメントK.136。ピアノ協奏曲大23番K.488.2台のピアノのための協奏曲K.365(ピアノ協奏曲第10番)。フルートとハープのための協奏曲K.299。会場では、古川電気の茂泉社長、宮城大学の生嶋教授とも遭遇。
2005/07/04
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1年生対象の基礎ゼミ合同発表会が行われた。テーマは「東北楽天ゴールデンイーグルス」。1チーム10分のプレゼンテーション。ほとんどのチームがパワーポイントを駆使しての発表だった。レベルも相当高く、今年から始めた基礎ゼミは成功だった。4月の蔵王での合宿から2ヵ月半。私の受け持ちのチームの発表もいい出来だったと思う。学生の取材先は、フルキャストスタジアム、東北楽天ゴールデンイーグルス、東北電力、河北新報社、鐘崎、産経新聞社、キリンビール、セルコホームなど。「看板から見た地域密着の現状と提言---楽天は地域密着が出来ているのか?」提言・仕組み面 1日や、1週間などの短期間での貸し出しを行う。 小さな地元企業、個人でも看板を出せる・価格面 観客から見やすい内野などに1枚あたりの面積が小さく低価格な看板・デザイン面 企業名だけでなく、応援メッセージも入れる (「イソベ ガンバレ」「楽天ファイト!」) 山田ゼミ:ファン総会・ユース横森ゼミ:NPOファンクラブ会員限定温泉旅館(ソーシャルエンタプライズ旅館三橋ゼミ:「きっかけ」の提案宮原ゼミ:ベスボールテーマパーク構想天明ゼミ:スポーツイベント・ショッピングマーケット唐沢ゼミ:イベント(高校との対戦)・下部組織(野球高校・ユース)久恒ゼミ:看板から見た地域密着(仕組みの提案・価格の提案・デザインの提案)坂本ゼミ:イメージアップ(ユニフォーム・チーム名・三木谷オーナーのイメージ金子ゼミスポーツビジネス・東北からの集客糟谷ゼミ:宿泊プラン・歩きたくなるまちずくり・デポジット制大野ゼミ:若者へのアプローチの提案大泉ゼミ:楽天応援歌・応援リーダー・応援レクチャー・敗戦責任者インタビュー生嶋ゼミ:ミニテレビ番組の提案
2005/07/03
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土曜日は、丸一日大学院の入試対応。大学院では、今年度から新たに設置された推薦入試。9月には一般入試が行われる。私の研究科長時代に定員を2倍の20人に増やしたが、入試制度自体も変更した最初の入試となる。小論文と口述。留学生、社会人のまじる面接風景。
2005/07/02
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夕刻、毎日新聞の記者から仙台市長選挙にからんで電話取材を受けた。説得型行政から納得型行政への転換、ニーズに沿った行政を行えば結果としてコストが削減できる、行政と市民とのパイプ論の逆転、不完全燃焼型組織、市長選の意義、真似とパクリからの脱却、足元を掘る大事さ、合意形成の方法論不在、、、。来週の記事の中で少しだろうが取り上げられる予定。朝日新聞の7月5日(火)の夕刊(東京都と千葉・埼玉・神奈川版)に先日の市民満足学会(シンポジウムの司会を担当)の記事が一面のほぼ全部を使って掲載されることになった。合意形成についての私の発言も載る予定。
2005/07/01
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