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しょぼい桜ですが今年は結構咲いてくれました。それももうそろそろ散るのです。かわりに色んな花が咲いてくれます。でもどうしてでしょう?梨は花の時は良いのですが、後がいけません。鳥取のおじさんが言ってました。梨は難しいからやめといたほうがいい、と。でも私達一家は梨が一番好きなんです。鳥取のおじさんはお元気でしょうか?五月に上坂されたら嬉しいのですが・・・年を取ると、大阪は結構遠く感じるのでしょう。そういえば私も長いこと鳥取には行っていません。若い頃は、アルプス以外では砂丘に一番たくさん行ったように思うのですが、特に意識して行っていたわけではありません。ただ砂の山を裸足で駆け下りたり、駆け上ったり、、、そして海を眺めたり、、、それは結構気に入っていたと思います。大島弓子を知ったのも砂丘近くの民宿ででした。懐かしいですね。
2017.04.17
『車入れぬ山頂暮らし一家を取材 不便さに「生」実感 兵庫』というヤフーニュースを見た。宍粟市というからちょっと興味を持った。宍粟には何十年ももう行っていないから余計懐かしい。記事を読んでいて、飛騨の高天原を思い出した。あそこは宍粟のそのご一家どころではない、逆鉾の名水汲み場からは人っ子一人いないどころか、山の動物しか住まないような道を車で三十分は走ったところに、いまだ一軒だけが住んでおられる。口伝の方の家は崩れかかったままそこにある。飛騨の山は深い。そこは車が一台なら通れるから、そういう意味では宍粟のほうだ大変かもしれないが、飛騨の山は深い。そこでそのご一家は、なんという苗字だったか・・・日本最古と言われる日抱きの宮を護っておられる。私達はそこで古代人のように講義を受け、日抱きの御霊鎮めをした。細い道を、その方の家のほうに帰りながら、キリストのあの解釈はそう単純ではないですよね、とかなんとか、今ではすっかり忘れてしまっている講義の話を、姫について九州から来られた尼さんに私が言うと、あれ、あんたは理解が早いね、と仰って、もう一人の人が何かが見えますかと聞くに、今、うさぎがそこを走って行ったねと、古代のその山を瞼に浮かべておられるようで、そうこうする内に、名も知らぬその山の住人の家に着いた。暑い日で、私達は、そのご一家が毎日使っておられる山水をおいしくいただいた。その家の主さんの息子さんはここから学校に通い、成績は抜群に優秀で、今はアメリカなのだと理事長が色々説明されていた。なるほど。こういう山に住み、こういう水を飲み、テレビはなく、そういう環境の子は頭脳明晰であるふだろうなどと一人思うことだった。高岡の方は日抱き宮で頭を深く垂れお祈りされていたが、理事長は、今、ここの宮に神様はおられませんよ。今は留守になさってますと、すげなく仰った。しょっちゅう出張されているというのが本当のところらしかったが、高岡の方はそうと聞いても頭を下げておられた。なんでも白山だったかの中社に行った時、ポンポンとお祓いをしてもらったら、体が浮いたように軽くなったとかで、そういうことも、例えそこにおられなくても、目に見えない神様に頭を下げることに繋がっていたのだろう。体が飛べるかのように軽くなる、あれは私も石切さんで体験した。宍粟のご一家はお告げがあって以来そこに寺を建て住んでおられるらしいが、その不便さに「生」を実感、そこに暮らし続けたいと皆が言っているらしい。私は、今となっては遥か昔のことのような高天原での一日を思い出しながら、そのご一家もやはり、高天原の住人のように清清しい雰囲気をもつのだろうと想像した。
2017.04.16
昔、「鳥葬の国」という本を読んだ時は、鳥葬はいいとして、死者を山まで運んでいく身内の者達の心情はいかばかりか、その亡骸に鳥たちが群がる姿を見ている心情はいかばかりか、残された者たちの方が気になって仕方がなかった。しかし、私も年を取ったのだろう。自然死にしろ、病死にしろ、赤ちゃんや若者ならともかくも、長命にせよ短命にせよ、命あるものはいつかは死ぬわけで、そして人の生も、鳥達や動物達の生も、等しく同じと言う意味では、人間が死んで、その体が鳥たちの餌になり、姿かたちを変えながら、永遠の生命の一端をつないでいくという様はごく自然に思える。ましてやこの地上で一番多くの殺生をしながら生きる人間である。人が死んで草草の、或いは動物達の餌になるは、一番自然な姿のようにも思える。人は善も行うだろうが悪も一番多く働く。いやそうではないか。。。そもそも本来のこの世には善や悪という概念はないのだ。社会的に、集団的に生きる中に善悪は生まれ育つにすぎない。いつだったか、鳥葬が理想だと言ってチベットにしばしば向う人がいた。鳥葬場や鳥葬師なんていうのはぞっとしないが、そういう場があるということは、日本から行った人もそのようにしてもらえるのかもしれない。今ではどこの山で鳥葬してもいいというわけにはいかないのだろう。しかし私の理想はあくまで、どこでもいい、どこかの山のてっぺんの鳥葬である。灰でなく、この体そのものが、どこかの山上の土に眠るというのもいいのではないかと思える。
2017.04.02
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