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私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:1-3) 「失敗者は常に言いわけをもっている」という言葉があります。 聖書の初めに、アダムとエバの話があります。神様はエデンの園の木の中で、善悪を知る木の実だけは食べてはならないと命令しました。ところがエバは悪魔にだまされて食べてしまい、アダムもまた食べました。神様にどうして食べたのかと尋ねられると、アダムは「この女がくれたので食べた」と弁明しました。エバもまた、「悪魔にだまされたので食べたのです」と、自分の罪を認めませんでした。 自分の失敗を棚に上げて人のせいにする。これはもう人間のもっている本質なのかも知れませんね。小さな子どもでも同じです。上の子を叱ると、「だって妹が悪いんだ」と言います。妹を叱ると、「お兄ちゃんが悪い」と言います。自分の能力を十分に伸ばせなかった人たちも、常に言いわけをもっていますね。交通違反した人たちも必ず、言いわけをもっています。また、あらゆる法律や規則に違反した人たちも例外ではありません。 また多くの人が、成功できなかった言いわけをもっています。このような人々は自分が成功できない理由を、いつももっているのです。ハンディキャップがあったからだと言います。それは事実である場合もありますし、その人の頭の中で想像されただけの場合もあります。確かに、人生にはいろいろなハンディキャップがありますね。まず肉体的なハンディキャップがあります。体が不自由であるとか、病気がちだとか・・・。 対処の方法は二つです。1 自分自身を悲しんで、他人から同情を受けることを期待する2 意志と精神力、信仰の力でハンディキャップを克服する イエス・キリストは肉体的にも力を与えてくださる救い主です。あなたが信じるなら、イエス・キリストはあなたの病気を治してくださいます。イエス・キリストこそ、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになっ」てくださった方だからです(イザヤ53:4)。どうか、イエス・キリストを信じて、強い意志と精神力をもってください。また、体の健康も守られるよう、いやしを信じましょう。 貧乏もまたそうですね。非常に貧乏で、十分な教育を受けていないというハンディキャップを背負う場合があります。しかしいつまでも貧しいままでいてよい理由はありません。聖書にはこう書いてあります。 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9) 信じてみてください。必ずそこに奇跡が生まれ、新しい人生が始まります。 年をとりすぎている、また若すぎるというハンディキャップもあります。日本は世界最長寿国と言われるようになりました。感謝なことです。リーダーズ・ダイジェストに次のような記事がありました。「年齢を気にすることはない。強打者でならしたテッド・ウィリアムズが彼の引退試合でホームランをかっ飛ばしたのは42歳の時である。ゴルダメイアがイスラエルの首相になったのは71歳の時だった。イギリスの政治家ウィリアム・ビット二世は、24歳の若さで首相になっている。イギリスの劇作家バーナード・ショーには94歳の時初演となった作品がある。モーツァルトの作品で初めて出版されたのは、彼がわずか7歳の時に作曲したものである」 人は年齢に関係なく、偉大なことが成し遂げられるのです。体が不自由だとか、病弱だとか、不運に見舞われたとか、学校へ行けなかったとか、年をとりすぎたとか、いろいろなハンディキャップを言いわけにしてみても解決はありません。 イエス・キリストを信じて、進んでみましょう。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)
2010/11/30
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私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3:22~23) 聖書のことばには、力があります。人を生かすことばです。 新聞の宗教欄に、「周五郎と聖書」と題する一文が載っていました。 山本周五郎夫人、清水きんさんの回想によると、周五郎が聖書を読み返していたということです。周五郎は少年時代、父に連れられて教会に通ったことがあるそうです。その後もさまざまな形で、聖書を読んでいました。 ところで、この教会に通った時期は、父親がお金に困って、周五郎をだまして、質屋へ丁稚奉公に出し、その給金を巻き上げていた時期でした。幼い彼は、この質屋を自分の親戚だと信じ込んでいました。しかし、自分が売り飛ばされたということがやがてわかり、絶望の底に投げ込まれてしまいます。後に父親が死んだ時、彼は葬式にも参列せず、いきなり現れて、香典を鷲掴みにして姿を消しました。十三歳から二十歳近くまで、人間の生涯の大切な時期を売り飛ばされた憤懣と悲しみがあったからでしょう。 その父親が彼を教会に導いたのです。子どもを売り飛ばそうとして教会のベンチに座り、神に祈っている父親の側で、彼もまた神の前にうなじを垂れていました。見栄っ張りで、屁理屈ばかりこねているくせに、何度も女に失敗した父。その父が、子どもを売り飛ばすことに、いささかの罪の思いにかられて、教会のベンチに座ったのです。それが周五郎がキリスト教と接した事情でした。 彼は生涯、この父に対する憎しみを語ることはありませんでした。当然、父に対する憎しみが、「何がキリスト教だ」となっても不自然ではないような条件です。しかし、彼はキリスト教会にかかわっていきました。聖書を読み返し続けた山本周五郎は、聖書の中に何を見出したのでしょうか。 まず第一に、人間の罪を見たのです。悲しみを見たのです。 自分を売り飛ばした父、そして自分の苦悩を語らなかったこの作家の苦悩は、どんなに深く悲しかったことでしょうか。しかし、彼は罪を赦し、悲しみを癒すキリストの愛と涙を、聖書の中に見出したのではないでしょうか。キリストは悲しみの人で涙を知っていました。そのキリストの愛に、きっと山本周五郎の心は洗われたのでしょう。多くの作品を残し、しかもそのすべてが人間の情感を、悲しみを、そして勇気を描いているのは、聖書を読み返し続けたからなのでしょう。 そして、彼が聖書を読み返すということは、自分が流した血や涙と面と向き合うことを意味していたと結んでありました。 聖書は語っています。イエス・キリストは私たちの悲しみや罪、病気や悩みのすべてを背負って、十字架の上で死なれた、と。その十字架の血のあるところ、すべての罪はきよめられる、と。その愛のあるところ、どのような傷も癒される、と。いいえ、そればかりではありません。私たちもまた、そこから、きよめる人として、癒す器として、出て行くことができるのです。 今日、あなたもいかがですか。イエス・キリストの愛に触れて、新しい日々の歩みをお始めになりませんか。希望に向かう新しい人生がそこに始まるのです。 幸せをお祈りします。
2010/11/29
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今日は富雄キリスト教会(奈良市富雄川西1-19-18)礼拝からスタートです。午後2時は大阪エリムキリスト教会(大阪市浪速区西恵美須2-3-4)、夕方5時半からは堺エリムキリスト教会(堺市堺区南瓦町1-15)で礼拝です。お祈りください。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)小さな国で こんな話があります。 昔、アフリカ奥地にある小さな国に、イギリス人夫妻が訪れました。小さな国の王様は彼らをもてなし、ためらいながら、「実は、イギリスの女王様から大きなプレゼントが届いたのですが、何だかわからないので倉庫に入れたままにしているのです。ちょっと見てくれませんか」。 倉庫に入ってみると、何と、立派なグランドピアノではありませんか。しかも、ひっくり返して置かれているのです。イギリス人夫妻は、そのピアノを正しく置き直し、ピアノの前に座り、すばらしい音楽を奏でました。王様をはじめ、みんなはビックリしたということです。ひっくり返した人生 神様は、すばらしい贈り物を人間にくださっています。人間は誰もが、偉大な人生を生きるように、喜びに満ちた幸せな人生を送るように、責任と持ち物を与えられているのです。ただ、多くの人は、それをひっくり返したまま、倉庫の中に、虚しく放り込んでいるのです。 確かにある面、人間は罪深い、弱い、どうにもならない代物です。最近の血生臭い事件の連続。中学生がイライラしたからといって、小学生の女の子を殺す。高校生の暴走族・通り魔殺人、主婦のアルコール中毒患者の増加。年々、上昇し続ける離婚率。大人の世界にも、子どもの世界にも、ドロドロしたものが、いっぱいです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・。」(ローマ3:23)「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9) 聖書には、このように書かれていますが、まさにそのとおりです。わたしは決して拒まない しかし、神はこのどうしようもない人間を愛してくださっています。 イエス・キリストは、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26) と教えなさいました。いいえ、教えただけでなく、ご自身のいのちを犠牲にして、私たちのために、死んでくださったのです。 あなたは今の現実がどうであれ、神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです。神の愛が限りなく、あなたの上に注がれているのです。たとえ、無学であっても、人に嫌われ、「お前なんか、いないほうがいい」と言われていたとしてもです。 イエス・キリストは、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37) と言われ、ご自分のところに来た者のすべての汚れや、罪の重荷を、ご自分で引き受けて、十字架上に死んでくださいました。「キリスト様は、自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは、罪ときっぱり手を切り、正しい生活を始めることができたのです。キリスト様が傷つくことによって、私たちの傷が治ったのです。」(1ペテロ2:24、リビングバイブル) だから、あなたの罪や汚れ、のろいや病気、責められる心や不安、恐れ、重荷や苦しみのすべてが、十字架上で葬られたことを信じるなら、救われるのです。自由となり、解放が与えられるのです。心のピアノ イエス・キリストは、十字架の上に死んでくださいました。そして三日目に復活し、今も生きておられる神様です。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20) イエス・キリストを、あなたの尊い心の中にお迎えください。 復活のキリストが、あなたの心のピアノの前に座ってくださいます。 その時、神と調和し、自分と調和し、人と調和する、すばらしいメロディーとハーモニーが、あなたの内から湧きあふれ、流れ出るようになります。
2010/11/28
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昨日は、七年ぶりに生駒聖書学院時代(10歳年長・牧師退職)の同級生と会い、大丸心斎橋店八階にとうふ料理の鈴丸屋(新装開店初日)へ案内されました。 豆腐料理や湯どうふ、湯葉も美味しく楽しい昼食でした。食後は中二階の喫茶室ヴォーリスで、近江兄弟社とヴォーリスを話題に時間を忘れてのお交わり。隣席の立派な紳士じっとこちらを見つめているので、声が大きいかな?と思いましたが、近づいてきて榮牧師ですねと挨拶、先月出かけた教会のクリスチャンでメッセージを聞いたとのこと。 同級生との話題をたくさん書きたいけれども、ププライベートに触れることも多くありカットします。 高齢期を恵まれて生活し、なお夢とロマンを語る同級生に長寿を祈って別れました。 聖書は年齢についていろんな書き方をしています。詩篇90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 平成21年の日本人の平均寿命が男性79・59歳、女性86・44歳と、ともに4年連続で過去最高を更新しました。肺炎や心臓病による死者の減少が寄与したようです。 海外と比べると、女性は25年連続の世界一だが、男性は前年の4位から5位に順位を下げています。 それでもモーセが述べた70年、健やかであっても80年との、年齢を越えているので長寿国家ですね。 イザヤ書65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。 ここには祝福の時代、100歳が普通だと述べられており、百歳になっても活躍する方々を多くあり、召される日まで健やかに活躍したいと願っています。 もう一か所には、神様の年齢宣言には120歳とあります。創世記 6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。 最近の研究によると、人間の寿命は全能の神の宣言、「それで人の齢は、百二十年にしよう」が事実だと言うことが分かります。 高齢化社会が恵まれた健やかな国になるように祈り日々です。お元気でお過ごしください。 ルカの福音書2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。 2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。 2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。 2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。 2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。 2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」 2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。 2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」 2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、 2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。 2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
2010/11/27
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今学期最後の授業。朝の祈りとチャペルは来週まで続きます。神学生たちは最終回授業で教室です。 今日は午前中から大阪へ。生駒聖書学院時代の同級生(10歳年長)の快気祝いで会う約束です。今月入院していましたが手術も成功し、健康で退院しました。牧師は辞めていますが、夢をいつまでも失わず、元気で楽しく一人暮らしだそうです。 今日もまた天国の一日です!今朝届いたメールには、今日もまた幸せな天国の一日です!とあり嬉しい気持ちになりました。 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。(箴言12:14) このことばには、満ち足りる幸せが、力強く約束されていますね。神と共に人生を歩む人は幸いです。私たちは誰でも、神と共に生きる人生を体験できるのです。 こんな話があります。アインシュタイン博士は、相対性理論を発表した後、あちらこちらで講演を依頼されました。いつもお抱えの運転手と出掛けます。ある大学の講演に行く途中、体の具合が悪くなってしまいました。博士は「今日の講演は中止してもらおう」と言いました。ところが運転手は「それでは今日は、私が先生の代わりに講演しましょう」と言ったのです。 博士はビックリして何も言えません。運転手はいつもアインシュタイン博士の講演を聞いているので、すっかりその内容を覚え込んでしまったというのです。その当時、アインシュタイン博士の顔はそれほどよく知られていなかったので、二人は洋服を交換しました。博士は教室の後ろに座り、運転手は並び居る研究生の前で、見事に講演をしたそうです。 ところが、今まで一度も出たことのない質問が飛び出しました。そこで運転手は少しも慌てず、「それはとても簡単な質問です。なぜなら私の運転手でさえも答えることができますよ」そこで運転手の服を着た博士、スラスラ答え、大拍手となったとのことです。まあ、ユーモアのある、アメリカらしい話ですね。 物理学の勉強をしたことのない人も、同じ話をしつこく何回も聞かされていると、やがて自分でも話すことができるようになります。ある意味では、私たちの語ることばは、いつもどのようなことばを聞かされているかに由来するようです。コンピュータはインプットしたものしかアウトプットしないように、私たちの人生もどのようなことばを聞いているかによって決まってくるのです。 新約聖書のヤコブの手紙の中に、「馬を御するためにはくつわ、船を動かすためにはかじ、人生を制するのは舌」と書かれてあります。舌、つまりことばですね。いつも否定的なことばを聞かされて育った人は、他人にもそうするものです。 聖書のことばは人を活かします。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)とありますが、聖書のことば、つまりイエス・キリストのことばは、常に新しいいのちの喜びを与えてくれるのです。 イエス様は出会った人々に、「お前はだめな人間だ」とは言われませんでした。人々から罪人、取税人とののしられていたザアカイに、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(ルカ19:9)と、彼の人生を変えてくださったのです。 ペテロに出会った時もそうでした。彼の最初の名前はシモンでした。「風にそよぐ葦」という意味で、頼りない、すぐ怒ったり、変わったりする弱い人間に、「ペテロだよ」と語ってくださいました。ペテロとは、「岩、岩石」という意味ですね。みんなに嫌われる汚れた病気にかかっている男には、「お前はまあ何と汚いね」とは語られず、「わたしの心だ。きよくなれ」(ルカ5:13)と言われました。イエス・キリストのことばに触れた者は、その生涯が変化するという大きな恵みを受けたのです。 そして、今日もイエス・キリストは、私たちをご自身のみもとに親しく招いてくださっています。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) 今日、イエス・キリストの救いのことばをインプットしてください。必ず、そのことばどおりの救いが、アウトプットされてきます。十字架に生命を捨て、三日目に復活したキリストの生命を体験する時、そこに新しい生命の喜びが湧き出てきます。幸せをお祈りします。ありがとうございます。今日もまた幸せな楽しい天国の一日でした!感謝します。
2010/11/26
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昨日は午前中講義でした。今日も説教学最終講義で、今学期の授業がすべて終わり、来週試験でクリスマス伝道期間に入ります。 午後からインプット歯科治療の検査でした。歯科医院で先生自ら検査し、大丈夫とのことでしたが、小さな虫歯があるとのことですぐ治療してもらいました。一度で済むように長い時間かけてしっかり歯茎の掃除もしてもらい、来るたびに良くなっていますよとのことで感謝しています。 今年はクリスマス・イルミネーションの贈呈があり、ものすごい量なので今年はその三分の一を装飾しようとしています。全部つけると電気のアンペアが飛んでしまい、もうクリスマスの時期なので取り付けが間に合わず、来年は全部をクリーン車を入れて11月初めごろからのイルミネーションにしたいと願っています。神学生の青い鳥ブログを紹介します。 クリスマスイルミネーション学院に巨大なクリスマスイルミネーションが届きました。空気を膨らませると動き出す動物の風船も色々あります。電気代だけで20万円はかかるそうです。電気代を賄うために入場料で500円を取るべきではないか、自由献金を促すかと色々対策を考えました。早速業者を呼び、作業が始まりました。食堂に青いシートを引いて色々なイルミネーションを並べました。トナカイの組み立てが始まり、私も1匹組み立てました。8匹の中の7匹は二人がもうすでに終わりました。しかし、最後の1匹はとても私を悩ませました。他の副院長と1年生のS姉妹のトナカイは素直に言うことを聞いたのですが私のトナカイはなかなか言うことを聞きません。どうしても立ちたがらないのです。とうとう私は諦めてしまい、最後はS姉妹が足で踏んだり手で延ばしたりしてやっと立たせることが出来ました。後はいらない針かねを取る作業をしました。食堂の周りに少しづつ完成されていくイルミネーションはとてもきれいです。冬休みに韓国に帰る前に食堂の前で記念写真をたくさん取ろう。詩篇27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。 27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。 27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。 27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。 27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。 27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。 27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。 27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。 27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。 27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。―― 27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
2010/11/25
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今学期も残り少なくなり、午前中3時間連続講義。特に今日は洗礼を受けてクリスチャンになった記念日(1957年11月24日)でもあり、神学生たち胸襟を開いて語り合う時を持ちます。 すべてのことが働いて益となる約束を、最善への逆転とすべてのことに感謝しつつ、今日もまた楽しい天国の一日です! 最善への逆転 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1) こんな話があります。あるところにお菓子屋さんがありました。「あん」を作るためには小豆が必要ですね。ある日、小豆を煮て、ザルの中に入れておきました。ところが、そこを通りかかった少年店員が足を滑らし、スッテンコロリンと倒れました。倒れた拍子に、小豆はあちらこちらの器の中や地面に落ちました。少年店員はそれを見て真っ青になり、おろおろして立ちすくんでしまいました。 店の主人が出て来て、この有り様を見て驚きました。大変なことになったぞと思いましたが、主人は思慮深い人物だったので、大声でどなったり、怒ったりしないで、ジックリと後始末を考え始めました。 主人が散らばった小豆を見ていると、小豆の一部分が側にあった白砂糖の中に落ちているのに気がつきました。それを手ですくい上げて食べてみると、なかなか良い味がしました。その途端、主人の頭の中にアイデアが浮かびました。小豆に白砂糖をまぶしたものを作ることができたら、すばらしい名物ができあがるかも知れないぞということでした。主人は滑って転んだ店員を叱る代わりに、新しいお菓子を作るために考えたんですね。 こうして考えた末にできあがったのが、甘納豆でした。最悪の状態が最善の状態に、逆転したのです。 人生の幸、不幸も、これと似たことが多くあります。不幸な出来事とばかり思ったのに、それがやがて幸福になる原因となっていくんですね。 アフリカでの話です。ある日突然、空が真っ暗になるほどのイナゴの大群が押し寄せて来ます。青々と育った作物の上に、イナゴは次々と落ちて来ます。イナゴが通り過ぎた後には、緑が一つも残らないほどです。そして、あの大収穫が約束された農場の畑という畑には、イナゴの死骸が、多い時には1メートルも積もって残るそうです。 多くの農夫たちは、もうそこで農業をするのを諦めます。彼らは土地を捨て、家を畳んで引っ越して行きます。しかし、勇気のある農夫たちは、イナゴが通り過ぎた後、くわを持って畑へ出掛けて行きます。そして、イナゴの死骸を食い荒らされた畑の中へ耕し込むのです。額には汗があり、目には涙があります。今までの努力が一瞬のうちに消えてしまったからです。 しかし、彼らにはまた、希望もあります。イナゴの死骸が肥料になって、土地を豊かにすることを知っているからです。次の年、すべてを失ってしまった倍以上の収穫の刈り入れをすることができるのです。 聖書は私たちの人生に、逆転勝利を約束しています。イエス・キリストを信じている限り、不幸はやがて幸福に逆転するのです。あなたがイエス・キリストを信じる時、あなたの流した悲しみの涙は、やがて喜びの嬉し涙に変わるのです。だから、クリスチャンはいつも希望に輝いて人生を生きることができるのです。 それはなぜでしょうか。それは神の子イエス・キリストが十字架の上にいのちを捨ててくださったからです。私たちの罪や病気、弱さや失敗を全部、背負って死なれたのです。そればかりでなく、三日目に復活し、今も生きていてくださる救い主です。 イエス・キリストを信じる時、イエス・キリストに信頼する時、幸せはあなたの心を支配します。新しい生命と力に溢れて生きることができるのです。 どうかどんな時にも失望しないで、大胆に生きてください。あなたの最悪の状態は、イエス・キリストによって、最善の状態へと必ず逆転します。十字架はあなたの人生をプラスに、最善に変えることのできる鍵です!コリント人への第二の手紙4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。 4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。 4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。 4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。 4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。 4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
2010/11/24
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メル友にking soromonさんがいます。とてもユニークな牧師で、映画館での映画鑑賞も大好きです。 鑑賞した映画評をいつも画像とともに短く送ってくれます。見たいと思って御今年は一度も映画館に行く機会がありませんでした。 メールで今上映中の、ふたたび・swing me agein を紹介され、昨日は授業もなく雨で午後の予定も変更したので、阿倍野アポロまで行き午後の上映を感動とともに鑑賞しました。 50年ぶりに仲間と再会するための旅に出た元ジャズ・トランぺッターと孫との姿を、往年のジャズナンバーと共に描く心温まる映画でした。 ハンセン病に冒されて50年以上もの隔離生活を強いられた主人公を、俳優でコメディアンでもあるベテランの財津一郎が、味わい深く演じています。 ハンセン病の療養所を50年ぶりに退院した健三郎(財津一郎)を迎えた家族、その家の大学生の大翔には、祖父が生きていたことは初耳。 しかも、その祖父が幻のジャズバンド“COOL JAZZ QUINTETTE”のトランぺッターだったことを知ります。 祖父は若かいときにハンセン病に罹り、さあ、いよいよ!というところだったジャズも諦め、お腹に子供を宿した恋人とも引き離され、50年以上も隔離された生活を送っていて息子夫婦のもとに戻ってくるところから物語が始まります。 ハンセン病ということで未だに根強い差別や偏見があり、間違った考えがどんなに人間関係を損なうかもと思わされました。 昔のジャズ仲間を心筋梗塞を抱えながら孫と捜し続け、ふたたびの出会いで思い出のジャズ喫茶で演奏。ジャズはいままで聞いたこともないままでしたが、サックスやトロンボーン、チェロ、手が不自由になっても島の療養所で50年間トランペットを吹き続けた主人公の満足そうな顔等々、美しいシーンがいっぱいの映画でした。 特にラストシーンは、キングソロモン牧師と同期の聖公会現役の牧師出演し、美しい教会堂とともにすばらしい幕切れした。 キリスト教の映画ではありませんが、人間関係の美しさに感動し、「血液の流れが止まると人は死ぬように、対話が止まると人間関係が死ぬ」と言う、何かの本で読んだことばを思い出しました。ルカの福音書(良いサマリヤ人の話)10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
2010/11/23
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日曜日の礼拝説教のメッセージは、真夜中の賛美と題して話しました。 聖書のことばは、テサロニケ人への第一の手紙5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 感謝ができません。現実は厳しんですよ。感謝する意味が分からないのですが・・・・。この聖書言葉を話すとよく問われます。すべてのことに感謝できればいいいんですがとも。 このことばをモットーとしているので、どんなときにも感謝します!が口ぐせ二までなっています。小川へ落ち水に中にしばらく寝転んでいたときも、冷たいと思う前に感謝しますと口に出していました。 やせがまん?ではないですかとも聞かれましたが、やせ我慢だったらもっとスリムになっていますと、へたなジュークで怒られました。 感謝ができない、ということは自分の身の回りに、ありがたいなと思えることがない、と感じているからだと思います。 03年10月19日より、ゆとりの一万歩と名付けて毎日散歩を継続しています。早いもので7年1ケ月が過ぎました。 山道を歩きながら聖書のことばを口ずさみ、また賛美歌や聖歌、短いコーラスを歌います。喜びがわき上がり、イエス様のお名前による祈りの声に変わり、アーメン。ありがとうございます。答えてくださいました。与えられました。祝福されました。感謝します。 自分のためや家族、教会員や神学生、与えられている働きや宣教活動、さらには全国のキリスト教会と全世界のクリスチャンの祝福、日本のリバイバルを祈るとき、その願いが聞かれたと信じ、素直にありがとうございますと感謝しています。 それは無理にではなく、ヨハネの福音書のイエス様の約束を信じているからです。14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 ヨハネの第一の手紙のことばはさらに確信を与えてくれます。5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。 イエス様のお名前によって祈るなら、すべてのことに感謝する恵みが豊かに与えられます。 感謝できないと思うことも多々あります。それはそれで素直にそう感じていることを認めますが、信仰により勇気を出して、微笑みつつ言葉を変えて不平や不満が出る前に、感謝しますと宣言したいものです。 歩きながら、すべてのことに感謝しようと、種子島に生まれたこと、母や父のこと、少年時代のあれこれをすべて有り難く感謝だったと指折り数え、数えきれない感謝に取り巻かれている恵みに驚きます。 いつの間にか、詩篇103篇を告白しながら歩いています。103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。 神様への感謝とともに、人にもありがとうございますと言う習慣も身につけることができれば最高です。店で買い物をしても、こちらから先にありがとうと言うこともあります。子どもや孫にもありがとう。ともかく良いことだけでなく、どんなときにもありがとうと言えたらいいと思いながらです。 どうしても結果的な感謝にばかり目を向けていると、感謝の代わりに不平不満に支配されることが多くなります。こちらの期待通りになることより、期待はずれのことが起こるからです。そうると感謝ができないという気持ちになり、起こったり文句を言ったり、悪口になったりします。 伝道者の書 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 その先を見極めることができない事を認めて、神の最善を先取りで感謝できればすばらしいと思います。ローマ人への手紙8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 神様の生きていて力のある聖書のことばどおりに、すべてのことに感謝を発してゆくから、結果的にも感謝するべき状況がどんどん生まれ、神の栄光が輝くようになると信じます。 今日もまたすべてのことに感謝する天国の一日です!と朝を迎え、ありがとうございます。今日もまたすべてのことに感謝でした一日でした!感謝します。と安眠、熟睡の日々を生きれる幸いを感謝しています。
2010/11/22
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13日(土)の昼過ぎ散歩中に、山の小川に転落びしょぬれになり、携帯電話も水に濡れて使えずでしたが、幸いすべてを新しい(保険に入っていたので)同型のものを月曜日に用意され感謝でした。 9月~11月の第二日曜日は津市のベテル・リバーサイドチャペルでの礼拝と聖書講義。14日が最後の日で車で日帰りでした。土曜の真夜中に目が覚めたら小川の岩に打ちつけた左手が大きくはれ上がり運転が無理かなと思いましたが、アーメン。ありがとうございます。安全運転で大丈夫でした!感謝します。ハレルヤと感謝して熟睡。 朝早く起きだしてメール、ブログ書き、テレフォンメッセージと常の日課を終え出発。高速道路を走るのでパーキングエリアごとに1000歩余りを歩き、亀山ではサービスエリア内に遊歩道があり、時間をかけて祈りつつ歩きました。教会へ着いたときは8000歩を越え、帰路は西名阪でゆとりの一万歩でした。月曜日は午前8時のチャペルとともにスタート。午前中人間学とモーセ五書の講義。クリスマス電飾を贈呈するとの連絡で、午後からはトラック2台が到着し、今まで自宅で飾っていたものをそのままいただきました。毎年増やし続け総額500万円にもなる電飾で、学院のアンペアでは電気が足りず、とりあえず今年は三分の一くらいのクリスマス電飾になりそうです。 神学生でその道の専門家に頼んで今週きれいに飾り付けをします。きっと子どもたちが大喜びするだろうと今から楽しみです。 火曜日から金曜日までは、神戸や東京、さらにはソールからの講師の講義があり、お二人は宿泊も含めての接待でした。 火曜日は大阪エリムでの神学生集会。今学期の伝道実習も祝され、木曜日には感謝の夕食会。都ホテルでの集会を早めに切り上げ、近くの和食の店さとが、しゃぶしゃぶ&すしなど食べ放題だったので予約をして出かけました。(青い鳥ブログを転載します) 珍しく院内にいる時間が多い一週間でした。掃除もしたり、梅の木に肥料をとの専門の兄弟姉妹の指導で、周りを掘り起こし竹の根を取り除き、そのあとでお話をシッカリお聞きし、駅までお送りしたり、ゆとりの一万歩も院内を歩き回るだけで、いつの間にか一万歩になっていました。あっという間に一週間が過ぎた充実の天国の日々でした。感謝します。 今日は久しぶりという感で、午前10時学院教会礼拝&子ども祝福式。午後は大阪エリムへ。夕方5時半は堺エリム(三回留守にいたのでほんとに久しぶり)での礼拝です。詩篇 100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。 100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。 100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
2010/11/21
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左脳内出血で倒れ12年目の朝を元気で迎えています。1999年11月19日(金)その頃は、毎月一度東京で「元気の出る聖会」を金曜日二回と土曜日一回行っていました。聖会も二年目を迎え、19日の夜の集会を終え近くの序宿のビジネスホテルへ。 シャワーを浴びて寝ようとした時、突然手がしびれ初め立っておれなくなり、やっとフロントへ電話ができました。 すぐ救急車が到着、自分で担架に乗ろうとすると、救急隊員の方に任せてくださいと抱かれて写されました。そのまま近くの救急病院に運ばれ、点滴を打たれて安静にと命じられました。 朝になり調べるとまた救急車に乗せられ、北区赤羽の脳内外科病棟・集中治療室へ写されました。幸い手術はしなくての一ヶ月余りの入院で、クリスマスの礼拝には間に合い、座ったままでメッセージを語れました。 その時の証を、「ハレルヤと歌いつつ」と題して、一万部発行しましたがもうほとんど残っていないので、再発行をしたいと思っています。 先週は山の中の小川に滑り落ち、背中を水の中に浸けたまましばらく起き上がれず、感謝します!イエス様助けてください!で、打ち身や手が腫れたりでしたが、そのままで一週間ほっておいたら少し楽になっています。手当てもしないでそのままでも良いくらいの軽いけがでした。感謝して、今日もまた天国の一日ですと、元気な朝を迎えています。 珍しく朝から夜まで来客の多い週でした。外へ出たのは大阪集会と都ホテル集会だけ。あとはずっと院内でゆとりの一万歩もやっと歩けたくらいでしたが、継続は力なりで7年と1ケ月続けています。 左脳内出血で守られた聖書のことばを引用します。出エジプト記 15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト記 23:25 あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。イザヤ書53:4 まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。ペテロの第一の手紙:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。ヨハネの第三の手紙1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。テサロニケ人への第一の手紙 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。 そのほかにも多くの癒しと健康の約束があります。そのことを告白しアーメンと祈ったら必ず、ありがとうございます。イエス様の打たれた傷によって癒されました!感謝します。 同時に現実には、多くの病がありそのときはどうするのですか?と問われます。その時も生かされていることに感謝します。朝目が覚めたことをありがとうございますと言うことをお勧めしています。 東京での脳内外科病院での治療中、いつも目が覚めたらそう思い、「わたしは主であってあなたを癒すものである。その打たれた傷によって癒されました」感謝しますと、口に出して祈り告白を続けました。 いま息をしている恵みを思い、イエス・キリストを16歳のときにアーメン信じますと受け入れた日から、永遠のいのちが与えられ天国が保証されました。生きていても今日もまた天国の一日です!たとえ寿命が尽き死んでもその時は、文字通り永遠の天国です!死を恐れることなく受容できる心も与えられるのです。 聖書の約束は真実のことば、生きていて力がある神のことばです。すべてのことに感謝して生きる幸いを楽しめたら最高ですね。ヨハネの福音書3:16 神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ヨハネの第一の手紙5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
2010/11/20
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2学期最後の伝道集会には1カ月早いクリスマス会が開かれました。クリスマスツリーを飾り、電気を消し薄暗い中て蝋燭の光がいい雰囲気を出してました。何週間前から練習したプログラムに合わせて兄弟たちの賛美や姉妹たち、そして学院生全員のパート分けの合唱もありました。兄弟たちの賛美は練習のたび不安になったものですが、本番の時はなかなかいい歌声を聞かせてくれました。学院生全員の合唱の時は並び方のせいでプロゼックターの光がじょうど顔の半分に差し掛かって笑いを誘った兄弟もいたそうです。192センチの大きい身長に胴回りも大きいO兄弟はガウンが着られるだけでも注目の的でした。S,M,Lサイズのガウンが用意され学院生全員が着てクリスマス会をしました。1か月も残っているクリスマスですが一つ、一つプログラムをこなしていくうちにいつの間にか、すっかりクリスマス気分になっていました。肺炎になり熱と咳に苦しめられているT姉妹は病気のの中でも素晴らしい説教を用意してました。「僕の家においでよ」と言う説教題であるクリスマス劇で起きた感動的な話を聞かせてくれました。発達障害の子が宿屋の主人として出演したある教会のクリスマス劇の話です。宿屋に来たマリアとヨセフの二人を断るセリフでした。短いセリフを無事に終えたその子は宿屋を離れていく二人の姿をじっと見つめていました。そして、思わず「僕の家においでよ」と言ってしまったのです。劇はそれで終わってしまいました。勿論、劇は台無しです。しかし、そこには人々の心を熱くする感動がありました。人々に断られ馬小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんは全人類を愛し人々を救うために十字架に掛って死なれたイエス様でした。人間の罪の問題を解決するために人間の姿で神様がこの世にきました。その名はイエスキリストです。そして、イエス様の誕生を祝う日がクリスマスです。プレゼントを貰う、ケーキを食べる、恋人のイベントの日になっているクリスマスがどれほど私たちには嬉しいことでまた神様に感謝する日なのかを人々は知っているでしょうか。私たちを愛して命を捧げるために来られた神様を覚えるためのクリスマスが近ついています。まだまだそんなことを知らずに生きている人々がクリスマスの本当の意味を知りその神様の尊い愛に答えてくれるよう心から祈ります。伝道集会の食事会にはどんな美味しいものが出るのだろう。わくわくしています。一つだけ気になることは体重のことだけです。食べても太らない方法はないのかしら。
2010/11/19
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ゆとりの一万歩で散歩を心がけています。院内を朝早くから歩いて気が付いたら一万歩になる日もときにはあります。 先週13日の土曜日、午前中は津市の教会での聖書講義の準備であっという間に昼になりました。昼からも机に向かいましたが眠気が襲い、まだ千歩も歩いてなかったので気分転換に裏山に出かけました。山の中を歩いていると小川に出たので川沿いに帰ろうと思いました。 道もないし飛び石しながらでしたが、きれいな苔の岩に気を取られて足が滑り、そのまま後ろ向きに小川に落ちてしまいました。 お尻と背中が水につかり、幸いかばい手をしたので頭は打ちませんでした。しかし、両足がバンザイのように前の岩にひっかかり、両手はかばい手で後ろ向きになっています。 手を動かせば身体全体が水浸しになるし、両足でそのまま腹筋しても苔の岩で滑るばかりです。 すべのことに感謝しますと言いながら、しばらくそのままで水に浸ったまま、その人は流れのほとりの木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える!ハレルヤ。感謝しますと青空を眺めていました。 イエス様。助けてください。と声に出して背中を上げながら手を出して岩をつかみ、足を少し曲げるとやっと体が動き、水の中から這い出ることができました。 そこから道なき道を約2000歩で家に帰り、シャワーを浴びてホッと一息の眠気覚ましの午後でした。 携帯電話も水に浸かり機能不全。その足で携帯会社まで出かけ、幸い保険に入っていたので代わりの形態を3日間借り、月曜日には新しい同型のものが届き、データも失われずで感謝しながらです。 種子島の山の中で過ごした少年時代を思いつつ、生駒聖書学院の裏山をときどき歩く日々です。今日もまた天国の一日です!感謝します。 2011年3月7日(月)~12日(土)6日間の聖地旅行(復路にバチカン観光)へ行きます。今回で6日間のイスラエルへの旅は4回目ですが、かなり充実した聖書の旅です。 イスラエルでは安全な所をごいっしょするので大丈夫です。申し込みは下記へよろしく。 費用は参加者が9人以上で24万6千円。15人以上だと20万5千円。諸税は3万5150円。ホテルで一人部屋希望の場合は4万円追加。飛行機でビジネス・クラス希望の場合は37万5千円追加。 問い合わせ・申し込みは、株式会社アイエイシイ・トラベル大阪支店(電話:06・6265・3339、FAX:06・0265・3332、担当:川村淳司)締め切りは1月末。詩篇 121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。 121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。 121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。 121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。 121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
2010/11/18
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失敗の最大の原因は、あまりにも簡単にあきらめてしまうことです。人はちょっとした障害や失敗で、何と簡単にあきらめてしまうことでしょう。 アメリカのゴールドラッシュの時代の話です。 R・U・ダービは宝探しの熱に浮かれて、西部へ出かけました。シャベルとピックを持って西部へやってきた彼らは、間もなく金鉱を掘り当てました。そこで、さっそく借金して掘削の機械類を買い入れました。そうして掘り出された金鉱石は、最も良質のものと認められました。ドリルで掘り進むほどに、彼らの夢もふくらんでいきました。借金もたちまちのうちに返済してしまいました。 しかし、大失敗はその直後に起こりました。ある日突然、金の鉱脈が消えたのです。夢ははかなく崩れさりました。そこにはもう、一かけらの金も残されてはいませんでした。 だが、彼らはあきらめきれません。絶望と闘いながら、祈るような気持ちで、さらにドリルで掘り下げていきました。が、結局彼らはすべてが水の泡と消えてしまった現実を認めざるをえませんでした。 最後の決断を下しました。そして、採掘設備のすべてを、わずか数百ドルの捨て値で、解体屋に売ってしまい、故郷へ帰ったのです。 設備を買い取った男は、念のために鉱山技師を雇って、本当にこの鉱山がダメなものかどうかを調査してもらいました。調査の結果、ダービたちがあきらめた地点のわずか三フィート下から、金鉱脈が発見されたのです。それは豊かな金鉱脈でした。ダービたちは、もうちょっと頑張っていれば、忍耐していればと悔やみましたが、後の祭りでした。 人生でも同じことが起こります。失敗の中にいる人、せっかちな人は、もう少しの辛抱ができません。そうして、すぐにあきらめ投げ出してしまう人が多いのではないでしょうか? しかし、投げ出したり、あきらめたりすれば、それで終わりです。何も良い結果を得ることはできません。 聖書は約束しています。 あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。(ヘブル10:35) それではどのような報いが約束されているのでしょうか?1 まず平安です。 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1) わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)とイエス・キリストは約束されました。神がともにおられる時、常に平安があります。2 罪の赦しです。罪意識からの解放です。 あなたの心の中にある罪の意識や良心のとがめは、イエス・キリストによって清められます。 詩篇 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。3 喜びです。 キリストを信じる者は罪を赦され、神の子となります。平安と喜びに満ちて生きることができるのです。 クリスチャン生活は喜びと楽しみ、すべてのことに感謝し生きる、今日もまた天国の一日です。 生きていても天国、死んでも天国の日々なのです。詩篇16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6) 信仰によってこそ、神の存在を信じることができます。信じるがゆえに神が分かるのです。また、求めてくる者には必ず報いてくださる神です。信仰こそ、神の祝福を受ける道なのです。 イエス・キリストを信じる時、病気はいやされます。すべての呪いから解放されるのです。貧しさからも自由になります。そしてこの人生を成功的に積極的に生きることができるのです。仕事は成功します。家庭は幸せになります。 あなたの確信を投げ捨ててはなりません。それには大きな報いがいつでも伴っているのです。神の報いがいらない人は、一人もありません。また神の報いは一つも漏れることがありません。 今日、あなたに向かって大きく開かれている神の愛の手の中に飛び込んでください。あきらめる前にその愛の力と大きさを体験してください。 十字架にいのちを捨て、全人類の罪を贖い、三日目に死を打ち破り復活されたイエス・キリストを今、心に信じてお迎えください。 アーメン。信じます。私の心にお迎えします。お入りください。イエスキリストのお名前によって祈ります。アーメン。
2010/11/16
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生駒の星空はきれいですが、星が一番輝くのは暗黒の真夜中です。少年時代まで電気の光もない種子島の中で過ごしました。片道9キロの中学時代は、いまの時期だともう帰り道は真っ暗でした。月のない時期は星空を見上げながら帰ったものです。 幸い生駒に来ても聖書学院は山の中(今は住宅地に囲まれいますが)だったので、夜の祈りで山へ入るとこなど星空に輝きにホッとしたものです。 でもいつの間にか朝から晩まで充実の時が流れ、夜空に輝く星を眺めることも少なくなたようです。 九月から昨日まで第二日曜日に津市のベテル・リバーサイドチャペル礼拝説教&聖書講義でした。牧師夫妻は、生駒聖書学院時代の同級生で、九名入学で四人卒業、現在まで牧師をしているのは三人です。必然的にお訪ねすれば同窓会になります。すばらしく祝福された教会で、礼拝も聖霊の臨在が豊かなときでした。 午後の聖書講義が終わり、牧師室でお茶をいただいていると、婦人牧師が大きな紙袋を持って入って来ました。おもむろに取りだしたのは、切り取ったアボガドの小枝で、その先に大きな実が一つ。プレゼントと思ったら、アボガドの実を庭に植え、やっと五年目に一つだけ実がなり、聖書どおりだとのことを見てほしいのでとのこと。 さらに話は弾み、イスラエルのナツメヤシの種を蒔いたら芽が出て花も咲供養になり、実はまだだが楽しみに育てているとのこと。イチジクも発芽したし、イナゴマメの木やからし種も目を出したと、いつも間にか聖地の星空の輝きにまで話が広がりました。 毎日の生活にも、今日もまた天国の一日です!と告白していても真夜中のような経験があります。 身体のこと生活のこと、人間関係や教会生活の中でも、特にこのような時代ん愛が起こるか分かりません。牧師の生活は人生の真夜中を通る方との出会いも多く、全能の愛の神様にイエス様のお名前によって祈り、聖れに助けをお願いする日々です。 しかし、星は真夜中にもっとも輝くように、イエス様の十字架と復活の福音により救われたいる人は、どんなときにも祈り、すべてのことを感謝し続けることができる助けを与えられ幸いです。使徒の働き16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。 16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、 16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」 16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、 16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。 16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。 16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。 16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。 16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。 16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
2010/11/15
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今日は津市のベテル・リバーサイドチャペル礼拝説教&聖書講義で日帰りです。 その講義の準備を続け昼過ぎに気分転換のため、ゆとりの一万歩へ近くの山へ出かけました。小川沿いに道なき道を歩き、苔むした岩に足を乗せて渡ろうとしたら、滑ってそのまま背中から小川へ落ちてしまいました。 起き上がろうとしたが両足が上向きになり、両手は岩で強く打ち付けて痛くて力が入れられずでした。しばらくお尻と背中を水につけたまま、幸いなことよ。その人は流れのそばに植わった木のようだ!流れのほとりに根を伸ばし、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えると、聖書のことばを口ずさみました。 イエス様。助けてください。アーメン。感謝します!とやっとのことで水から這いあがれました。そこからずぶぬれで2000歩歩いて帰宅。 ところがポケットの携帯も水につかり使用不能になり、日曜日は津市まで出かけるので、急いでシャワーを使い着替えると、携帯電話会社へ。 若い社員に事情を話すと、幸い保険に入っていることが分かり、5000円余来月の引き落としで同携帯が月曜日に届くことになりました。それまでの期間は別の携帯電話を貸し出すとのこと。三日間でも水につかったら今度は17,000支払ってもらいますと言うので、大丈夫ですよと言うと笑っていました。 係りが調べている間、別の案内する若者たち数人と会い、一人はキリスト教の幼稚園だった美しいお嬢さん。福音の証をするチャンスも神様がくださいました。もうひとりの青年は素敵な笑顔で生駒には短期間です。また別の会社に案内に行きますとのこと。イエス様を信じるように話すこともでき幸いでした。 貸し出された電話機にはそのままデータが入っておりホッと安心でしたが、かなりの時間を使い帰宅したのは5時前になっていました。 今朝はこれから津市へ向かって、新名神道路を通ろうと思います。礼拝は10時始まりなので、パーキングエリアで少しずつ歩き、夜帰宅した時にはゆとりの一万歩も達成の日曜日です。コリント人への第二の手紙2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。 2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。 2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
2010/11/14
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今週は葬式があったり、神学生ピクニックだったりであっという間に一週間が過ぎました。 明日は9月より第二日曜日に出かけていた、津市のべテル・リバーサイドチャペルでの三ヶ月目の礼拝説教です。日帰りで出かけ朝10時礼拝、午後1時より聖書講義です。 朝は5時30分より生駒聖書学院チャペルで神学生とともに猛声祈祷(しっかりした声を出して祈る)時間を6時半まで過ごします。 日課の聖書を声を出して朗読し、生駒聖書学院の理念と目標を告白します。可能性への挑戦は可能となる!マルコの福音書 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」ピリピ人への手紙 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(新共同訳=わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です) みことばの告白を終えると、主よ!ハレルヤ!との声とともに、一斉に声を出して祈りがはじまります。 聖書の使徒の働きには、心を合わせて熱心に祈っていたときに、聖霊が来てくださりキリスト教会が誕生したことを証言しています。 何かあるごとに初代教会は心を合わせて祈り続けました。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。(4:24) 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(4:31) また使徒ペテロが牢獄で処刑を待つその厳しい現実のときも、「12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていたと記録されています。 明日は処刑と決まっていましたが、寝ているペテロの脇腹を天使が突っつき起こし、牢の扉が自然に開き、第一の門、第二門の扉も開き続け、町の門の扉も開いて救われた事実が記録されています。 使徒の働き16章には、使徒パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時のことが下記のように記録されています。16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、 16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。 16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。 16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。 16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。 16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。 16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。 真夜中ごろとありますが、人生には真夜中の経験が多くあります。病の床での真夜中、失業や借金など経済的な真夜中、人間関係の複雑さの中での離婚や家庭内暴力の真夜中、あるいは現今の最も多い精神的な真夜中、追い詰められ自殺しかないと思うような真夜中、またパウロのように直接迫害を受ける真夜中もあります。 真夜中ごろ、神に向かい声を上げて祈り賛美したとき、不思議なことが起こり始めるのです。朝ごとに、真夜中に祈ったクリスチャンは真実にそのことを体験しています。ネバーギブアップ!は、神に向かって声を上げ祈り時に、いつでもそのように生きる力と勇気が与えられるのです。 聖書を読むとき胸が弾み心が震えます。紅海をさえ真っ二つに分けエクソダスの奇跡をなされた全能の神、肉体を取ってこの世界に人間として来られたイエス・キリスト、聖書の記録は事実であり現実です。それは過ぎ去った記録だけではなく、イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも同じです。主なるわたしは変わることはないと宣言なさる愛の神は、あなたが叫び求める声を聞いてくださいます。 思い切ってアーメン。信じますと告白し、救いを与えられてください。イエス様。私の心にお迎えします。お入りください。アーメンと受け入れて見てください。 十字架上で死に、墓に葬られ、三日目に復活されたイエス・キリストの復活(人類史上最大の唯一)の奇跡が、あなたの人生に不思議なできごとを現わしてくださいます。 朝の目覚めとともに、今日もまた天国の一日です! 一日の終わりの時にも感謝とともに、今日もまた天国の一日でした!詩篇118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。 118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。 118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。 118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。 118:27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。 118:28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。 118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2010/11/13
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昨日は山麓公園の紅葉黄葉の下で、松阪牛でバーベキューでした。学期一度のピクニックは、アルバイトの者もあるので昼食後解散で、大体いつもバーベキューです。ここ二年間、差し入れの松阪牛があり、また韓国人主婦が韓国料理を持参したり、直輸入のキムチもあり御馳走の時です。 神学生たちとピクニックに行く機会がなかったのですが、昨日は生駒縦走もあり食事に間に合うよう、「シュークリームのデザートを持って参加でした。 午後1時半に片付けも終わり、生駒山縦走で大阪側を上り、生駒市側を山麓講演まで14000歩の縦走で、ゆとりの二万歩の天国の一日でした。詩篇16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
2010/11/12
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昨日は、葬式を終えた教会員が訪ねてくれ、積もる話に時があっという間に過ぎて行きました。 その地域(法隆寺近く)では初めてのキリスト教葬式でした。前夜式、葬式とも出席した自治会の方々や親族の皆様で、キリスト教式はなかなか良いなあという感想だったようです。 特に奥様の母親(90近い高齢)は、自分もキリスト教式でと言っているそうです。召された母親とも友達でその枕元で、アーメン信じますと祈ってくれましたが、天国を身近に感じる葬式だったと話していたそうです。 会社経営の秘訣などにも話が広がり、クリスチャンになっていてよかったと喜んでいました。 ありがとうの反対語は何か、それはあたりまえです。でもそれでは会社は立ち行きません。 自社の製品を使ってくれる方々にありがとうございます。取引先のありがとうございます。社員にありがとうございます。すべての人にありがとうございます。そのように言うだけでなく、ありがとう感謝しますの心を与えてくださった、いイエス様の愛と救いに心からありがとうございますと、感謝し礼拝する時、さらに感謝が与えられるから幸いです。 あたりまえだと思う心が人を裁いたり、文句や不平や批判、はては相手を否定したりして結局は、ありがとうございますと言うへりくだった愛の心を失ってしまうのです。 いつも喜べ。絶えず祈れ。すべてのことに感謝せよ。イエス様を信じる者は、この三つですべてのことを乗り越え、すべてのことにありがとうございます。と心から感謝する幸いが与えられちるのです。そしてのすべての感謝を神様におかえしできるから嬉しい限りです。コロサイ人への手紙3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。 3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。 3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。聖書の世界を訪ねて イスラエル周遊6日間の旅 生駒聖書学院は来年3月7日から12日まで、イスラエル周遊6日間の旅を計画している。同学院の榮義之院長と神学生ら参加。今回で14回目のイスラエル訪問となる榮院長が充実した聖書の旅をガイドする。 関西国際空港から、アリタリア(イタリア)航空でローマを経由してイスラエルのテルアビブへ到着。死海、エリコ、誘惑の山、ガリラヤ湖、ナザレ、エマオ、ベツレヘム、園の墓、ドロローサなど、聖書にゆかりのある地を訪れる。帰路ではローマ市内の観光時間も設けられている。 費用は参加者が9人以上で24万6千円。15人以上だと20万5千円。諸税は3万5150円。ホテルで一人部屋希望の場合は4万円追加。飛行機でビジネス・クラス希望の場合は37万5千円追加。 問い合わせ・申し込みは、株式会社アイエイシイ・トラベル大阪支店(電話:06・6265・3339、FAX:06・0265・3332、担当:川村淳司)まで。院長メール;elimyoshi@kcn.jp
2010/11/11
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聖書の世界を訪ねて・イスラエル周遊6日間の旅2011年3月7日(月)~12日(土)関西国際空港発アリタリア航空でローマ経由テルアビブへ着死海遊泳やエリコ&誘惑の山観光、さらにガリラヤ湖周辺観光、ガリラヤ湖周遊も楽しめます。ナザレやエマオ、ベツレヘムやエルサレムの園の墓やドロローサを歩き、イエス様の十字架の苦しみを偲び、復活のいのちにも触れる充足の旅です。帰路にはローマ市内観光時間もあり短期間で8日間分の聖地旅行を楽しめます。費用は9名まで246000円。15名では205000円です。諸税は35150円。 一人部屋希望はプラス40000円。ビジネス希望はプラス375000円です。生駒聖書学院神学生と院長も参加します。日曜日を入れない聖地旅行ですが、来年で4回目の経験ですので、すごく充実した聖書の旅をご案内できると思います。お申し込みは下記へ、お名前をご登録ください。株式会社 アイエシイ・トラベル大阪支店電話 06-6265-3339 FAX06-6265-3332 担当;川村淳司(生駒聖書学院榮義之紹介と一声お願いします)イザヤ書32:15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。 32:16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。 32:17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。 32:18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。 32:19 ――雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。―― 32:20 ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。
2010/11/10
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月曜日は朝早くから葬式もあり、式から納骨までの流れで学院から斑鳩町、とんぼ帰りでまた斎場へ、そこから大和郡山市小泉町の墓地へ、さらに奈良市経由で帰宅と一日中、昼食も食べる間もなく動き回っていました。 昨日は緊急の支払いがあり銀行へ。カードを忘れたので振り込みができずタクシーで帰宅し、また銀行まで出かけて支払いが完了。銀行へはほとんど行かないのに、受付の方とは顔なじみになり、挨拶といろいろ教えてもらいながらの振り込みでした。 講師接待での話題も広がり、ラジオ放送原稿書きも気になり、3時に出かけるので大急ぎで準備でした。5回の水曜日でクリスマス・メッセージでは、喜びの知らせ=福音を三つのポイントで6分30秒語りました。 喜びの知らせは、第一に、救いがある知らせ。第二に、愛されていると言う知らせ。第三に、勝利の知らせですと語りました。 特に、勝利のことを英語ではOvercome(打ち勝つ、圧倒する)とも言います。上を越えていく超越的な勝利です。 イエス様は、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)とおしゃいました。 勇敢であり勇気を持って生きれるのは、「わたしはすでの世に勝ったのです」と、十字架にいのちを捨て、墓に葬られ三日目に復活されたイエス・キリストは、きのうも今日も永遠に生きておられるからです。 死に打ち勝ち(overkome)今も聖霊により私たちの内に住んでおられるイエス様によって、超越した勝利=病で身体が弱くても、精神的にまいっていても、失敗しても成功していても、どんな状態の中でもそれらを超越して、キリストともに生きる勇気が与えられるのです。 2010年を超越した勝利で送りたいものです。ローマ人への手紙 8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
2010/11/10
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教会員の母親(82歳)が6日の夜、天に召されました。キリスト教で葬式をと遺言していたので、日曜夜に法隆寺町にある葬儀会館グランドホテルで前夜式を行うため、葬儀社にも相談を受けたりでバタバタでした。 堺市の礼拝を伝道師に委ね、大阪エリムキリスト教会礼拝を終え大急ぎで帰宅し、式服に着替えるとその足で、ほとんど寝ていなかったので神学生に運転を頼み、法隆寺の式場へ向かいました。 その地域では初めてのキリスト教式とのことでしたが、もう参列者が会場にあふれるほど集い、花で飾られた式場は天国さながら・・・・今日もまた天国の一日です!と告白しつつの善前夜式でした。 月曜日は学院のチャペルからスタート。オリエンテーション、授業と続きます。二時間目の授業は葬式が11時より始まるので、新垣勉さんのDVD鑑賞の時間に切り替え、大急ぎで式場へ着くとすぐ葬式の時間。 天国さながらのきれいな式場で、召天式を行い満場の親戚や自治会の参列者とともに、賛美歌や祈りをともにし、天国のメッセージを短く語りました。 斎場で火葬前式、骨上げまでに一度大急ぎで学院へとんぼ帰り。長野県から四名の来客予定で葬式との連絡を入れていたが、やはり合わなくてはとキリキリ挨拶だけはすることだでき感謝でした。 挨拶もそこそこに斎場へ。斎場の電話でナビに入れたが全然違うところへ着き、大急ぎで葬儀会館へ電話するが何度聞いてもその電話番号。あとで分かったが斎場の電話が市内の別のところに設置されてたそうだ。 やっと斎場に着くと、今度は藻主が鍵をホテルに置き忘れ、斎場の相鍵で開けてもらいました。家族の親戚もおおらかなもので、母親の伸びやかな明るい生涯の終わりにふさわしい雰囲気が骨上げの場にもあふれていました。 それからすでに用意されてた地域の墓地で納骨式。大きな地域の墓地の中で十字架が目立つただ一つのキリスト教と一目でわかる墓碑。死んでからもイエス・キリストを証できるように用意された記念碑だと祈りの中で納めました。わたしの墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません、死んでなんかいません。主イエス様と、主イエス様と一緒に、天国であなたを、お待ちしています。 葬式で初めて出会った高齢のご婦人は、ラジオ放送をよく聞いておられ、良い出会いも与えられました。 またキリスト教の葬式もなかなか良いもんだとの声を残しながら帰る方々も多くあたっとの感想を後で聞きました。 今日は午後からラジオ放送の録音で朝日放送スタジオです。恵まれたクリスマス・メッセージを語れるよう祈りつつの朝です。 ピリピ人への手紙3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。 3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。 3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。 3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
2010/11/08
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ヨハネによる福音書、他の三つの福音書と趣きが異なっているので、第四福音書と呼ばれています。 ヨハネ福音書における、人を超越した存在としてのイエス様は、同時に肉体を持った、疲れ、空腹になり、眠り、悲しみ、憤り、愛し、心を騒がせ、血を流して死ぬ存在、人間そのものお方です。 まことの神でありまことの人であるイエス様に語り、み声を聞き、呼びかけ、生きて働くイエス様と人格的に出会うことが、ヨハネ福音書の願いです。 ヨハネ5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」 「わたしは~である」「わたしはある」「わたしである」というヨハネ福音書の特徴、イエス様の自己紹介の言葉は、ギリシア語では「エゴー エイミ」です。8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。8:28「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。18:5「彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。」「わたしは~である」「わたしはある」「わたしである」はいずれも「エゴー エイミ」であってまったく同じです。日本語では訳し分けられていますが、本質的に同じ言葉、同じ内容です。 これはモーセへの神の名「ヤハウェ YHWH(わたしはある)」の啓示(出エジプト記3:14)につながります。 「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」出エジプト記3:14 「神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名。』」3:15 モーセに語られた神ご自身がいまイエス様の中に存在し語っておられるのです。かつてモーセに対してご自分を現された神は、いま、イエス様においてご自分を現しておられるのです。 イエスを捕らえようとしてやって来た人々は、「わたしである」というイエスの言葉に圧倒されて地に倒れました(ヨハネ18:6)。 「わたしはある」と言われる神、「わたしである」と言われるイエス様は、私たちを無力と失望から救い出し、しっかりと立たせ、主とともに歩ませてくださいます。そして私たちも、私はある人生に生きる幸いを経験できるのです。 私たちはすぐ、私はないと答えます。わたしは・・がないがと、否定的な消極的な告白人生です。子どもたちは成人するまで毎日親から、その否定的なことばを何回となく聞かされます。まるで人間の遺伝子がマイナスだけであるかのように!親だけでなく、教師から、友達から、上司から、世間の情報から・・・・。そしていつの間にか、自分の口からも絶えず・・・・そしてそれをまた伝えて行く ヨハネの福音書6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。ヨハネの第一の手紙5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。 5:19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。 5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
2010/11/08
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今日生きている、生かされているということはすばらしいことですね。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118篇24節)と聖書に書かれています。 今日生きている、この日は新しい一日です。今まで誰も経験できなかった新しい日が始まるのです。疲れ果てた昨日の延長ではなく、全く新しい日なのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22~23)とあるとおりです。 聖書をお読みになってみませんか。世界のベストセラー、読む人の心を生かし、人生を変えるいのちのことばです。 先日、「もはや悲しみも痛みもなく」という本を読みました。 ジョン・ハガイとクリスは、1945年夏に結婚しました。それから5年後、クリスは赤ちゃんができたことを知り、名医と言われた産婦人科医師にかかりました。出産の時が来ましたが、その名医は居所がわかりませんでした。ようやく探し出した時、彼はカクテル・パーティーで酔っ払っていたのです。そして、大丈夫、大丈夫と繰り返すだけで、適切な処置さえできませんでした。男の子が生まれたのですが、異常な状態でした。2分半に1回しか呼吸しない状態だったのです。 後でわかったことですが、手当てが遅れたため、そして分娩時の不適当な処置のため、赤ん坊は脳内出血を起こし、その結果、広範囲の脳損傷が起こりました。特に下顎部はひどい損傷を受け、その上、両側鎖骨が骨折し、右足は成長点を中心に分離していました。 彼らは男の子にジョニーという名を付けました。クリスは1週間後に退院しました。生後数カ月は、またたく間に過ぎました。 その頃、聖書を開いた時、ヨブの叫びが目に留まりました。「神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る」(ヨブ23:10)、また「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)という聖書のことばにも慰められました。 牛乳を強制的にのどを通して入れる装置を使わなければ、ジョニーはミルクも飲めません。また何の反応も示しませんでした。多くの医者たちは二人には育てることはできないし、望みがないと忠告しました。しかし二人は心を合わせてこの子を育てる決心をします。ジョニーの感覚は、ほとんど正常ではありません。ジョニーが大きくなって話すことのできたことばは、ウーンとヤーの二つの発音だけでした。 けれども、クリスは常に前向きの姿勢をとりました。「今日、それをしなければ、明日はその好機を失ってしまう」というのが彼女のモットーでした。 ある日、電力会社の若いメーター係が来ました。クリスは「今日はいい天気ね」とほがらかに言いました。「さあ、それは奥さんの考え方一つで決まることでさ」と、メーター係は愚痴っぽく言います。「でも、これは主の設けられた日・・・・・・」彼は大声で、「あなたは牧師の奥さんで、立派な家も何でもあるし、主人は車を持っているし、苦労を知らない結構な身分だから、そんなことが言えるんですよ」と怒鳴りました。 クリスが「1分間でいいから、私の息子に会ってくれない」と言うと、若い男はしぶしぶついて来ました。特殊なベッドで、ジョニーは無様に転がっていました。けれども、その黒い瞳は顔中で笑っていました。 この日の午後、このメーター係は友人の家を訪ね、ジョニーのことを話しました。友人は隣に住む脳性麻痺の娘を持つ夫婦に、また話しました。その夜、この悲しみに打ちひしがれた夫婦は教会に行き、救われました。 ジョニーは8歳の時、イエス・キリストを信じました。そして温かい両親の愛に包まれて、接する全ての人々に希望といのちを与えました。1975年2月13日、24歳の時、彼はイエス・キリストの天国へ安らかに召されました。彼が息を引き取る間際、父親はジョニーの片手を握り、静かに聖書を読みました。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4) ジョニーの手に力が入るのを感じました。そして、ジョニーは静かに目を閉じたのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28) ヨハネの黙示録14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。 7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
2010/11/07
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ジョージタウン大学のフットボールコーチをしていたルー・リットルは、ある日、大学総長に呼ばれて、メンバーの一人の学生についてたずねられた。「ええ、もちろん、その生徒は知っています。もう四年間もメンバーですが、まだ一度も試合に出していません。いい選手なのですが、いま一歩ガッツが足りないのです」 そうルーが答えると、総長は顔を曇らせた。「たった今、彼のお父さんがなくなったと言う知らせが届いた。彼にそう伝えてくれないか」 ルーは、その生徒に父親の訃報を伝え、「一週間、練習は休んでいいよ」とつけ加えた。 ところが翌日、ルーは驚いた。例の生徒が、ロッカールームで試合のために身支度をしているではないか。「君は、いったいどういうつもりなんだ?」「今夜の試合は大事な試合です。ぜひプレーさせてください」「しかし、君は先発メンバーにははいっていないよ」「ええ、分かっています。でも、今夜だけはどうしてもやらせてください。絶対迷惑はかけません」 生徒は一歩も譲らない。とうとう、根負けしたコーチは、もしコイントスに勝てば、第一試合出してやると約束した。 ジョージタウン大学はコイントスに勝ち、父を亡くした選手はボールを抱えて竜巻のようにコート内を走り回った。 ビックリしたルーは次の試合にも彼を残したが、ブロック、パス、タックルと彼の素晴らしい活躍で、ついにジョージタウン大学は勝利を収めた。 「おい、いったいどうしたというのだ?」ロッカールームに引き揚げてきたヒーローに、ルーは思わず聞いた。 「コーチ、僕の父のことはよくご存じありませんでしたね。父は目が見えませんでした。だから今日はじめて、父は天国から僕のプレーを見ることができたのです」 誰にでも家族がいる。仲間がいる。友がいる。きっとカムバックするだろうと自分を信じて見間守ってくれる人がどこかにいる限り、出口を出て階段を上ることができるのだ。(ロバート・シューラー著、いかにして自分の夢を実現するかより) 失敗は終点ではなく、成功は終わりということでもない。天国を見つめていれば、颯爽と出口を出て、堂々と次の入口に入ることができるのです。 人生はチャレンジの連続です。一度や二度うまくいかないからと言って座り込んだり、黙りこんだりしないことです。 生駒聖書学院のモットーは、 IKOMA BIBLE COLLEGE=IBC=Impossibiliteies Become Challenges!です。 不可能は挑戦となり可能性の扉は開かれます。人生は不可能への挑戦し続けることです。 イエス様は、「できればと言うのか。信じる者にはどんなことでも出来る」(マルコ9:23)と約束してくれました。 その約束を真正面から受け止め、「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでも出来るのです」(ピリピ4:13)と信じ、告白し実行し続けたいものです。 そのことを継続していくとき、きっと「これはすがなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(詩篇118:23)と驚くような奇跡が出現することでしょう。ヨハネの福音書 10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。 10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。 10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」 10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。 10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。 10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
2010/11/06
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悪魔が働く時代だとよく言われます。世界情勢を見ても国内でも、政治経済は困窮に向かい、不道徳は氾濫し暗黒が支配する時代になりつつあります。 21世紀は黄金の時代と期待されましたが、テロの時代、戦争の世紀、最後の時代の感がします。 悪魔について聖書は教えています。人類の創生から悪魔は存在していました。アダムとエバを誘い堕罪に導いたのは悪魔でした。 多くの人々が人生の悩みを抱え、悪戦苦闘しています。自分ではどうすることもできないジレンマに陥り、なぜ?どうして?と答えを求めています。 イエス・キリストのことばに耳を傾けて見てください。、 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。せすから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:32、36) 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6) 十字架に死なれ、墓に葬られ、三日目に復活されたイエス・キリストは、人類を不幸にしていた最大の問題である罪を完全に購い、信じる者を義としてくださいました。 そればかりでなく聖霊により、イエスを主と信じ告白した人を神の子とし、信じる者のうちにお入りくださり、決して離れず見捨てず世の終わりまでともにいてくださいます。 ですからイエス・キリストを信じたものは悪魔を恐れずおびえません。 その理由の第一は、十字により悪魔は滅ぼされたと聖書は宣言しています。ヘブル人への手紙2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 第二の理由、よみがえられたイエス・キリストが内住しておられるから大丈夫です。 ヨヘネの第一の手紙 4:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。 第三の理由は、その事実を知っているので、悪魔を恐れず抵抗し、勝利することができるということです。ペテロの第一の手紙 5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。 しかもその勝利はさらに徹底したものとなります。ローマ人への手紙 16:20 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。 これらの真理を聖書のことばで知ると、ほんとうに自由になります。 ではなぜ悪魔がと多くの人々が恐れおびえるのでしょうか。 第一の理由は、イエス・キリストが悪魔は偽りの父と語った通り、悪魔のウソに騙されているのです。ヨハネの福音書あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 第二の理由は、悪魔・サタンが光の天使に偽装しているからです。コリント人への第二の手紙 11:13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。 11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 11:15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。 第三の理由は、人々の思いをくらませているだけなのです。コリント人への第二の手紙4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。 第四の理由は、もっと現実的でキリスト教文化の影響です。確かに苦しみがあり、様々な原因が分からない悩みがあるので、それは悪魔だ、悪霊だと思うとそう思える事ばかりです。 つい悪魔のせいにし悪魔よ出て行け!と、まるで悪魔が心にいるように思っていましますが、悪魔は遍在ではありません。悪魔は一人だけなのです。悪霊は無数ですが、その悪霊ですら、イエス・キリストを信じる者の中には住むことができません。ヨハネの福音書14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。 結論的には、クリスチャンは聖書に親しみ、キリスト教文化や、様々な違った教えや、悪魔払いや悪霊追い出しの体験的教えから解放され、真の聖書的な理解の中で、自由で伸び伸びと救われた幸せな生活ができることを体験したいものです。マタイの福音書15:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。15:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。 15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 15:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」 22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
2010/11/04
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昨日は珍しく教会行事のない文化の日で、しばらく裏手の山の中をゆとりの一万歩。学院事務所へ降りて行く途中、イタリア料理大好きの神学生に出会い、10月の誕生日に案内できななかたので夕食に誘い、みんなで6名でサイゼリアへ出かけることにしました。 サイゼリアという名前は知っていたが、店に入るのは初めての経験。神学生たちは慣れたものでそれぞれ好みの料理(ピザやスバゲッティ、ドリアやサラダ、デザートのケーキやアイスクリーム等)を注文。取り分け皿でお互いに分け合う。 一人だけイタリア料理が苦手な者はセットメニューのステーキ?とご飯でデザートはなし。さすが祭日だけあって、食べ終わって出るころ(午後7時40分)には、席待ちで並んでいる。 サイゼリアは、昭和48年(1973年)5月1日に36席の店でスタート。昨円8月には836店舗 (国内803店 海外33店)、20014年度の目標は10億円だとありました。 メニューの数もたくさんあり、気楽に家族で食べることができるし、ウエートレスやウエイターの接客も明るく、楽しい雰囲気がいっぱいのレストランだと思います。 ほとんでど外で食べないので、サイゼリア入店が生まれて初めてだと言ったらあきれていた神学生もいました。 いずれにしろ生まれて初めて経験することが多いのは楽しいことで興味もあり、今日もまた天国の1日です!と告白する喜びもひとしおです。 今日と明日は、講師のい都合などで連続の講義です。現在は説教学を2年生と3年生合同で教えています。前回から発声練習をDVDを使って行い、神学生にとって楽しい時間になっていると思います。 通常は別棟の教室で授業ですが、上のチャペルで一年生が小預言者について紹介メッセージを15分間行います。 ホセア担当になった神学生が、ゴメルの名前の意味が分からないと大騒ぎしていました。昨日聞いたら副院長ら教えてもらったと喜んでいました。そんなにすばらしい名前(ゴメルの意味は完全?)なのに、なぜあんなに堕落したのだろうと、今日の発表でどういう発言をするかも楽しみです。 生駒聖書学院への入学をお待ちしております。 願書希望者は elimyoshi@kcn.jp へお申し込みください。マタイの福音書6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
2010/11/04
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昨日は一日だけでしたが、85歳の婦人牧師の講義でした。43歳のときに家族全員が救われ、それ以来礼拝を一度も休むことなく信仰生活を続けました。 救われた喜びを黙っていることができず、早朝3時間の祈り、家族を送り出し掃除洗濯等の仕事を片付け、買い物に出かけます。 その行き帰りには教会案内を持ち、出会うすべての人に声をかけイエス様の救いを語りました。その結果120名もの方々が教会に導かれ幸せなクリスチャンとなり、彼女の家族全員とも中心的なメンバーでした。 ある問題があり聖書的に納得できず、牧師に直言したところ怒りを買い、家族全員が教会員との交わり禁止令が出され、礼拝でも挨拶しても声はかえってきません。それでも神様を礼拝するため出席し続けました。 やがて、出入り禁止となりご主人とともにアメリカの牧師に按手を受け、会場を借りて教会としてスタートしました。 ご主人の牧師が天に召された後、残された教会を牧し現在まで活躍し続けておられます。教会堂は自宅を改造し、礼拝には大勢が詰めかけ入りきれないほどの集まりです。病のいやしや霊の解放などもあり、多くの傷ついた方々が救われ続けている、すばらしい教会で、85歳を感じさせない若々しさで、3時間の講義を一度も座ることもなく語り続けてくれました。 クリスチャンとして、牧師夫人として、牧師としてのそれぞれの立場の経験から、聖書の言葉が真実であり、アーメンと信じて実行すれば、聖霊により生きて働くことを42年間の信仰生活から生身の体験でした。 神学生へのチャレンジは、聖書を頭で覚えるのではなく、腹で受け止めて実行しなさい!と力強く語り、質疑応答にも経験を積み重ねることを強調されていました。 ヨシュア記に登場するカレブ(男性)のようですねと言ったら、自分がしなければ誰もするものはいないので、でも実際に働いておられるのは聖霊様ですよと、微笑みながら答えてくれました。 若い献身者が次々と日本の救いと世界宣教のために立ちあがり、生駒聖書学院で生きた学びをし、すばらしい牧師となるよう励ましをいただいた一日でした。ヨシュア記 14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。 14:7 主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。 14:8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。 14:9 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。 14:10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 14:11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。 14:12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」 14:13 それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。 14:14 それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。 14:15 ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバであった。アルバというのは、アナク人の中の最も偉大な人物であった。そして、その地に戦争はやんだ。
2010/11/03
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先月と今月、二つのマンション入居が祈りの答えとして与えられました。二つとも条件的にかなり難しい体調を抱えていました。一つは介護マンションですが、新築マンションで臨時的ですが三ケ月の入居が決まり、快適に暮らしているので感謝です。 もう一人は今月入居ですが、今までよりも地下鉄一本で教会に来れるので喜んでおられます。 牧師としては、イエス様の約束「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)に従って、ともに祈るだけです。 しかし不思議に、素晴らしい医者や介護士、ケアマネジャーさんなどが協力してくださり、問題が感謝とともに解決していきます。聖書の約束を心底信じ、祈りつつ感謝するとき、感謝しつつ祈るとき、「これは主がなさったことだ。私たちの目には不思議にみえても!」と感謝し続けています。今日もまた天国の一日です!と、喜びをともにしながらの朝です。 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19) S・B・フラーは、ルイジアナ州の貧しい黒人小作農の7番目の子として生まれました。5歳の時にはもう働きに出され、9歳の時には紡績の機械を動かしていました。母親はいつでも子どもたちに語りかけました。「私たちが貧乏でなければならないなんてことはないのよ。お母さんに向かって、私たちが貧乏なのは神様のせいだなんて、絶対に言ってはなりませんよ。私たちが貧乏なのは、お父さんが金持ちになろうという希望を持たなかっただけなのよ。私たち家族の誰一人、今までより、もっといい暮らしをしたいなんて、望まなかったじゃないの。聖書を読みなさい。神様に祈りなさい。一生懸命働きなさい。そして成功するという希望を持ちなさい」。 この母親のことばは、フラーの一生を変えました。彼はその日以来、自分の希望していることだけを考えました。望まないことは、いつも頭の中からも、心の中からも追い出しました。フラーは、豊かになれるという燃えるような願望を持ちました。 フラーは石けん売りになり、家から家へと売り歩きました。十二年間もコツコツと売り続けたのです。そんな時、石けん会社が売りに出されました。15万ドルでした。彼は2万5000ドルを手付金として、残り12万5000ドルは10日以内に支払うと契約しました。友だちや知り合いと、借りられるところからは全部借り、11万5000ドルできましたが、まだ1万ドル不足がありました。 フラーは、明日支払い日だという前夜、暗い部屋にひざまずいて祈りました。「神様、1万ドル貸してくれる人に、今夜巡り会わせてください」。彼が祈り終わって立ち上がったのは、もう夜の11時でした。外へ飛び出したフラーは、シカゴ61番街を歩き始めました。いくつかの通りの灯が目に止まりました。そこには一人の残業で疲れ切った男が、机に向かい座っていました。 フラーは勇気を出して声をかけました。「1000ドルもうける気はありませんか」。男は物憂げに、「そりゃあるさ、もちろん」と答えました。男は請負師でした。フラーは、「それじゃ、今、1万ドルの小切手を書いてください」と言うと、自分の計画を情熱を込めて語りました。 夜が明ける前に、フラーは1万ドルの小切手をポケットに入れていました。その後、S・B・フラーは4つの化粧品会社、メリヤス会社、ラベル製造会社、新聞社など、7つの会社の支配権を持つようになりました。 S・B・フラーはその成功の秘訣を語っています。「それは聖書をよく読んだことです。また、目標を達成する方法と力をくださいと祈ったことです。聖書は私に大きな感化と感動を与えてくれました」。 聖書は、神が私たちの父であり、すべてを備えてくださるお方であると語っています。 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19) その豊かな神が、私たちのお父さんです。だから、信じる者に乏しさはありません。その豊かな神から資源を引き出す鍵は「信仰」です。「積極的な信仰」です。否定的な考えはすべての良いものをはねつけますが、積極的な考えはすべての良いものを引きつけます。それは経済的にも物質的にも、人に対しても同じです。 神様はあなたの人生に、豊かな祝福と栄光の冠を備えてくださっています。それを受け取るのは、信仰です。イエス・キリストを信じて、祝福の人生へ踏み出しましょう。ハレルヤ。
2010/11/02
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生駒聖書学院は月曜から学びがスタートします。今日は臨時休校で、神学校交流スポーツ大会に朝早く出かけました。 他の神学校は月曜日が休みで、神学生たちが休みを利用してスポーツ大会を計画しました。生駒聖書学院は休みにして神学生が参加するように配慮しています。 関西には27(情報ブック)あり、全寮制は奈良県生駒市にある生駒聖書学院と関西聖書学院だけの二つだけです。 例年の常連校は、生駒聖書学院、関西聖書学院、神戸改革派神学校(今年は会場)、神戸ルーテル聖書学院?、関西聖書神学校、福音聖書神学校です。今年はさらに加わる神学校があるかもしれません。 すべての神学校や聖書学院は、日本の福音化と世界宣教のために日々祈り、聖書を学び、伝道訓練を研鑽さんしています。日本にあるすべての教会の目的は一つ、日本人が救われることです。そのことを神学生たちは、教団教派を越えて一致できるチャンスが与えられている交流の時です。 使徒パウロは、 「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません」(ピリピ1:15-22)と大胆に書いています。 使徒のヨハネが、「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」自慢そうにと言ったとき、 しかしイエス様はは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」(ルカ9:49-50)とイエス様は教えられました。 日本中にイエス・キリストの福音が満ちるために、すべての神学校に献身者があふれるように祈っています。 生駒聖書学院への見学や体験入学、あるいは聴講希望の方はご連絡ください。来週も月曜から金曜まで松本市より体験湯学申し込みがあり、お会いするのを楽しみに待っています。コリント人への第一の手紙9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。 9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。 9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。 9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。 9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
2010/11/01
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