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ペナン島に来て4日目、ジョージ・タウンでの朝です。宿泊したイェン・ケン・ホテルでの朝食宿泊棟の隣のテラス横にあるレストランに行きます。Yeng Keng Hotel Penangビュッフェになっていて好きなものを選べました。飲み物は係りの人が好みのものを持ってきてくれます。マレーシアの伝統菓子「クエ・ラピス」も置いてありました。なかなか食べる機会が無かったので嬉しいもちもちした食感でまるでういろうのよう、美味しかったです。フルーツもたくさんあって朝からたくさん食べました。ゲストは私たち以外は全員西洋人でした。 客室の様子は、こちらチェックアウトまでまだ時間があったので近くをお散歩トライショー(人力車)とショップハウスが立ち並ぶチュリア通り。どのトライショーにもお花が飾ってあります。行く手にモスクのミナレット(尖塔)が見えてきました。カピタン・クリン・モスクです。 とても美しいモスクはインドのムガール式建築だそうです。Kapitan Kling Mosque内部にも入れるそうですが、この日は門が閉まっていました。次はヒンズー寺院のアハ・マリアマン寺院へペナン最古のヒンズー寺院の一つだそうです。Maha Mariamman Temple鮮やかなヒンズー神話の神々の彫像がたくさんあり、神秘的な空気が漂っています。入るなり左上の上半身裸の僧侶らしき人に、眉間にポチッと赤い印し「ビンディ」をつけられました。わーん、私たちはヒンズー教からすれば異教徒なんですけれどこれが拭いても吹いても取れなくて困りました。このヒンズー寺院の前には仏教寺院がありました。多用な文化や宗教を受け入れてきたペナンの懐の深さを感じます。さて朝の散歩もここまで。ホテルに戻るためチュリア通りへ途中にレインフォレスト・ベーカリーというパン屋さんがありました。友が口コミを見たことがあるという事で入ってみると、Rainforest Bakery本格的なパン屋さんでケーキ類もあり目移りします。美味しそうなのをいくつか買ってみました。翌朝食べてみましたが、とてもおいしかったチュリア通りにはセブンイレブンもあります。宿泊するには何かと便利かも。さて、ホテルに戻りチェックアウトをして、運転手さんにピックアップしてもらい再びジョージタウン観光です。ここで日記をいったん切ります、つづく。
2012年11月21日
ペナン3日目のつづきです。 前の日記は、こちら本日の宿、チュリア通りにあるイェン・ケン・ホテルに到着Yeng Keng Hotel Penang19世紀半ばの歴史的な邸宅を改装した、趣のある落ち着いた感じのブティック・ホテルでした。個人的にはプラナカン様式の建物に宿泊できるなんて嬉しいチェックインの後にウエルカム・ドリンクのサービスがありましたお花や植物が館内の至る所に置かれていて癒されます。客室のインテリアも素晴らしかったです。お部屋にはルームナンバーが付いているのですが、ドアの上に額が掲げられてあってそれぞれ言葉が書いてあります。私たちの部屋は「致祥」(幸せに到る)でした。なんだか嬉しい館内のパブリック・エリアもとても素敵螺鈿の中国家具や、鳥かご、小さなプール、どこを撮っても絵になります。2階から下を眺めたところです。イェン・ケン・ホテルは漢字では「燕京旅社」と言うようです。建物の前は広場になっていてベンチやパラソルが置かれ、外国人旅行客が思い思いに時間を過ごしていました。ここは朝食もとても美味しかったです。 翌日の朝食の日記は、こちらしばし休んでから夕食に出かけますチュリア通りと茶水郷チュリア通りも基本的にショップハウスが立ち並んでいるのですが、先ほどのアルメニア通りと比べると雑然としています。 アルメニア通りの日記は、こちらしかもそれぞれの軒下の通路部分に物を積み上げてしまっているので、歩行はきわめて困難です。バスや車に注意を払いながら車道を歩きます。そしてお目当ての大東酒楼へTai Tong Restaurant 大東酒樓評判の飲茶のレストランです。ワゴンで点心を運んできてくれます。またメニューから頼んでもOK。オーダー時に中国語の普通話が通じました何を頼んでも美味しかったです。しかも安い、2人でたらふく食べて約37RMなり(800円くらい)こうして3日目の夜も更けていきました。夜のイェン・ケン・ホテル4日目に、つづく。
2012年11月19日
ペナン第3日目です。これまでは食べては寝る&買い物という飽食の日々でしたが、今日と明日の2日かけていよいよペナン島の観光をすることにしました。しかもペナン州の州都でもあり世界遺産のジョージ・タウンに宿泊する、という気合の入れようです。午前中は友が習い事ゆえコンドでのんびりと。親切な友がコンドのタイ式マッサージ、ネイルケアなどを紹介してくれたのですが、午後に備えコンド内でゆったりと過ごすことにしました。さて習い事が終わった友と、ヨットハーバー沿いのイタリアレストランでランチですSpasso Milanoイタリア人シェフによる本格的なイタリアンだそうで、オープンキッチンになっていてガラス越しに厨房が見えます。友はスタッフやシェフともすっかり顔なじみです。パスタもアルデンテでとても美味しかったランチの後はジョージ・タウンへその前にガーニー・プラザのキム・ファッションに寄りました。 キム・ファッションの日記は、こちらどうしても青色のニョニャ・クバヤが欲しかったのですが在庫切れでしたそうしたらお店の方が工場から生地を取り寄せるので、翌日以降見に来くることは出来ないか、と親切にもおっしゃってくれました。ええ、もちろん行きますとも、喜んで。明日また立ち寄ることを約束して一路ジョージタウンへまずはペナン博物館からスタート。Penang State Museumマレーシアやペナンに関する歴史、文化、自然などが紹介されています。でもやっぱり私が一番興味あるのはプラナカン文化Penang State Museum and Art Galleryブラナカンのビーズ刺繍と、ニョニャ・クバヤです。こんなクラシックなミシンを使ってクバヤに刺繍していくのですね。以前シンガポールで一目ぼれしたビーズ刺繍とクバヤですが、実際に展示を見ることが出来て感動です。 シンガポールの日記は、こちらそして次は楽しみにしていたペナン・プラナカン・マンションへPinang Peranakan Mansion 左側のペパーミント・グリーンの建物が博物館になっています。まず建物や内装、家具などが素晴らしいペナンの有力者がお金に糸目をかけず作っただけあって、東洋と西洋が混在したエキゾチックな空間となっています。そして展示されている宝石のようなプラナカン文化の数々ビーズ刺繍をほどこしたサンダルやプラナカン食器、そしてニョニャ・クバヤに大興奮のひと時でした。そして「やっぱりクバヤを作るのなら青だ」と再確認したのでした。華麗なるプラナカン芸術を見た後はコーンウォリス要塞へゲートをくぐると、英国東インド会社のフランシス・ライト提督の銅像がお出迎え。Fort Cornwallisこのライト提督が初めてペナンに上陸した場所に築かれた要塞だそうです。海に向かって大砲が置かれています。ジョージタウンの歴史的史跡の中で最も古い部類に入り、マレー半島の要塞の中でも保存状態が良いらしいです。が、はっきり言ってわざわざ訪れて見る価値はあるのか(謎)車で横付けの恵まれた私たちでも周囲に遮る物が何もないのでかなり暑いです。またジョージタウンの中心部に戻り今度は町歩きここまでずっと車移動でしたがジョージタウンは道幅も狭く一歩通行も多いです。駐車スペースを探すのも一苦労で運転手さんもかなり大変だったと思います。さて、マレーシアは基本イスラム国家なのでモスクもあるし、中国風建築やプラナカン建築の可愛らしいショップハウスもあり楽しいアルメニア通りには可愛らしいお店もありました。Sentuhanセントゥーハンというお店で左が雑貨屋さん、右がガラス製品のギャラリーになっていました。FUAN WONGという方のギャラリーです。ギャラリーだけあってどちらかというと大物作品中心でした。でも何か欲しいなぁと思っていたところ、友のコンドにも取り扱い店があるそうなので後日行ってみることにしました。アルメニア通りもショップハウスが立ち並ぶ綺麗な街並みです。赤い提灯が多いのは元宵節だったからだと思われます。このアルメニア通りには孫文の家(孫文のペナン基地記念館)があります。Sun Yat Sen Museum Penang建物の作りはプラナカン建築のショップハウスになっていて、間口は小さいのですが奥行きが長い なんと40mあるそうです。ちょっと京都の町屋に似ているかも。歴史的なプラナカンのショップハウスに入れるのは嬉しいプラナカン建築によく見られるタイル、中国風の黒檀家具が置かれ、吹き抜けの中庭があり、そこには木々が配されていてして癒されます。ここのスタッフがとても親切な方で、ぜひ映画『孫文—100年先を見た男』を観ていってくださいと。何でも全編ペナン島にてロケが行われた映画なんだそうな。私が中国語を使ったためかもしれません。畏れ多くも孫文たち革命家が使っていたテーブルに案内してくれて、お茶まで出してくれました。でもこの映画、終わるまでいったい何分かかるのか。。。幸い普通話のようですが内容が難しすぎてサッパリわからん。大変失礼ながら途中で退席させてもらいました。今度日本語字幕付きで観てみたいと思います。こうしてアルメニア通りを後にしました。ここから車でチュリア通りにある今宵の宿イェン・ケン・ホテルへ歴史的な邸宅を改装したホテルとのことで楽しみここでいったん区切ります、つづく。
2012年11月18日
ペナンに来て初めての朝日部屋のラナイから見たマラッカ海峡(アンダマン海)。これがインド洋までつながっているのね今日はお買い物の日。朝食の後はコンドのショッピング・モールを見て、昨日行ったガーニー・プラザへ前から気になっていたニョニャ・クバヤの第一人者のお店キム・ファッションに行ってみました。Kim Fashion華麗な刺繍をほどこした「着る宝石」と呼ばれるクバヤの数々。もうため息ものです。これ、絶対に作りたい後日また訪れることにしてクイーンズ・ベイ・モールへQUEENSBAY MALL店内はまだ春節の飾り付けでした。ここはペナン空港近くにある巨大ショッピング・モールで、友には来馬前から「連れてって」とお願いしていました。とてつもなく大きなショッピング・モールです。この手の巨大モールはアメリカでいくつか見ていますが、全く遜色ない規模だと思います。日系のジャスコ、ダイソー(ここではすべて5RM)、映画館、西側ブランド店からローカルブランドまで何でもあります。ダイソーとジュリークマレーシアの靴ブランド「ヴィンチ」などでサンダルを選んだり、インド系のジュエリーショップで石を見たり、コスメを選んだり、などなどあっという間に時間が過ぎていきました。このモールは上階がフード・コートになっていました。友おすすめの担担麺とマレーシア名物のアイス・カチャン友夫婦はこれを目当てに週末わざわざ車を飛ばして食べに来るのだそうな。これが美味しいこの後ペナン大橋でマラッカ海峡を渡りマレーシア本土へ橋の長さ13.5km、東南アジア最長の橋梁だそうです。向かう先はマレーシア本土のバターワース、海を渡る風が心地よいです。福建系の道教寺院、北海斗母宮に到着Rumah Berhala Tow Boo Kong 北海斗母宮もうキラッキラの派手派手中国でも寺院はたくさん見ていますがここまで絢爛豪華なの初めてかも。しかも大きな寺院で、奥行きがあります。靴を脱いでどんどんと奥へ上がっていきました。 九皇大帝とは東南アジアの華僑たちに信仰されている神らしいです。ゆっくりと時間をかけてお参りさせていただきました。そして近くのスチーム・ボート(マレー風寄せ鍋)のお店へZi Wei Yuan Steamboat 紫薇園魚頭火炭爐潮州式のスチーム・ボートの名店・紫薇園です。席につくなり真っ赤な炭火が中央に詰まった基本の鍋セットが登場。「常夏の南国でお鍋?」と思っていると、注文した肉団子や魚介類、野菜類や海苔などの具材が登場。これらをがんがん入れて、どんどんと食べていきます。スープが減ってくるとお店の方が注ぎ足してくれます。うーん、これも美味しい暑い国のお鍋もいけるあまりのおいしさに撮影も忘れて食べまくる。そう言えば昨日も撮り忘れてたっけマレーシアは食の宝庫だなぁ。こうして夜もふけていきました、第3日目につづく。
2012年11月17日
マレーシアのペナン島に住む友を訪ねる旅をしてきました。ペナン島は東洋の真珠と呼ばれジョージタウンは世界遺産にも登録されています。今回は往復一人旅、滞在は友のコンドに1週間の滞在です。友よ、ありがとう また厚かましくてスミマセン今回は往復ともマイレージ使用で、往路は羽田から。一人旅ということでPCも持って行った方がよいかと設定を行っていたら、空港行きシャトルバスの時間ギリギリになってしまいバタバタでした。友へのお土産(預かりもの含む)がつまったトランクは23kg越え往路の方が重いのは初めてと思ったら、結局復路も結構な重さになってしまったのでした。まずはANAのラウンジへ成田のANAラウンジは今一つですが、羽田は豪華ですいつもは激混みですが出発3時間前だったのでガラガラ、余裕でシャワールームが使えサッパリした後に夕食ここではいつもカレーとお蕎麦を食べることにしています。 ANAラウンジの詳しい日記は、こちらペナン島への直行便はないのでシンガポールで乗り換えです。23時30分発のNH151でまずはシンガポールへ搭乗後はすべての機内食を断りひたすら睡眠チャンギ国際空港の第2ターミナルに朝の6時20分到着。外はまだ真っ暗です、眠いです。。。ここからシルク・エアーに乗り換えですが、同じ第2ターミナルで搭乗口がとても近かったのでよかった。チャンギ空港は以前この中のクラウンプラザに3泊したことがあるので、もう慣れたもの、シンガポール航空のラウンジへ その時の日記は、こちら当然ラウンジが使えるものと思っていたら、シルク・エアーは使えないんだとか、ゴーンけっこう食い下がったんですけどね。同系列のはずなのになぜ。。。(謎)仕方がないので免税店を見たり、PCチェックしたりして時間をつぶします。夜が明けて朝日が昇ってきましたシンガポール8時5分発のシルク・エアーに搭乗ペナン島へは約1時間半のフライト飛行機はマレー半島上を北上、ペナン島の熱帯雨林が見えてきました。ペナンには9時30分に到着。入国審査の後にすべての荷物検査がありました。案の定一人では持ち上げられず空港スタッフが「日本人か?」とすぐに助けてくれました。マレーシアは親日のようです。さてゲートをくぐって久々の友との再会運転手さん付きの高級外車でのお出迎えに感涙です。ああ、持つべきものはセレブな友。そしてそのままバクテー(肉骨茶)のお店・ジーランドへZealand Bak Kut Teh & Seafood Restaurantここで遅めの朝食です。友がいろいろ食べ比べた結果ここのが一番なのだそうです。初めてのバクテーでしたが、これが美味しい~中国漢方茶が使われているので長旅で疲れた体にもやさしいアツアツの鍋に入っているのですがこれに飽きたらご飯を入れてもよいし、スライスされた油条(揚げパン)を入れてもよし。そして友のコンドミニアムへ私邸なので画像は控えますが超豪華な高級コンドで、全室オーシャンフロント、窓の外にはマラッカ海峡が広がっていました。コンドにはショッピングモールやレストラン、カフェ等の複合施設も併設、専用プールやヨットハーバーもあって観光名所になっているようです。荷解きをして、ちょっと休んでから今度はシャングリ・ラ ラササヤン リゾート&スパ ペナンへShangri-La’s Rasa Sayang Resort and Spa, Penangラグジュアリーなリゾートホテルです。このプールを抜けると、プライベートビーチが広がっていました。パラセーリングが見えます。なんだかハワイみたいです。広がる海はマラッカ海峡(アンダマン海)ですが。このオンザビーチのカフェで、トロピカル・スムージーを飲みながら友と喋る、ひたすら喋る。この間運転手さんは当然ですがずっと待っています。なんだかすごいなぁ、と思ってしまう。そしてガーニー・プラザへGurney Plaza この時は元宵節だったので飾り付けが春節仕様です。ペナン島に限って言えばマレー系よりも中国系の方が多いそうです。ガーニープラザは大きなショッピングセンターで、西側ブランド店をはじめ、ローカルなお店も入っています。ここでショッピング大きなスーパーも入っていて楽しい、楽しい。こういうお買い物は女友達と一緒に限りますね結局ガーニーへは滞在中ほぼ毎日通いつめ、運転手さん(温厚なナイスガイです)に呆れられ笑われました。次はコンドへ戻ってデリシャスというケーキ屋さんへDelicious Cafeショーケースには大きなケーキがたくさん迷わずチョコレートケーキを選びました。ここのケーキはハンパなく大きいいわゆるアメリカンタイプのケーキで、激甘です写真では分かりにくいですが上に乗っているアイスクリームはゲンコツくらいあります。下にはショコレートソースがなみなみと敷き詰められています。しかも老舗イースタン&オリエンタル・ホテル系列のようです。ああ、美味しい、美味しすぎるまさかマレーシアでこんな美味しいケーキが食べられるとは。結局かなりの甘党の私でも食べきれず一部テイクアウトしました。そして「絶対に日本に持って帰るぞ」と心に誓ったのでした。夕食は友のご主人様と合流してシーフード料理のバリ・ハイへBali Hai Seafood Market友夫婦がちゃんと予約しておいてくれましたとても人気があるお店で飛び込みでは難しいそうです。なぜかというと、こんな生け簀からお魚を指定して、好みのお料理に仕上げてくれるのです。たくみな中国語でてきぱきと注文されるご主人様、素晴らしいしかも普通話でも通じるのね。よし、明日から私も使ってみよう。お料理はどれもこれも新鮮で、美味しかったです初日から大盛り上がりです。こんなに贅沢をしてよいのだろうか。。。こうして長い初日が終わろうとしています。さて眠りにつこうと思ったら外でバンバンと爆発音が何事かと思って窓を開けると、マラッカ海峡対岸のマレーシア本土で花火が上がっていました。元宵節の花火です。これで春節も終わりですね。第2日目に、つづく。
2012年11月16日
前回の日記からずいぶんと時間が経ってしまいました書きかけの日記と画像が奇跡的に残っていたので旅行記を完結させたいと思います。いよいよアメリカから始まった世界一周も最終日となりました。ヒルトン・ドナウ・ウィーンの部屋から見たドナウ川朝食後はドナウ川を散歩ヒルトン・ドナウの詳しい日記は、こちらそしてホテルからシャトルバスで空港へ旧市街のホテルを巡回した後なので停車は1つだったと思います。まずウィーン・シュヴェヒャート国際空港のオーストリア航空ラウンジへここであまり食べてはだめだよ、と家人に言われました。その理由は後で判明ウィーンから成田へはオーストリア航空OS051便、ウィーン国際空港を13時30分発のフライトでしたほぼ定刻にテイクオフ窓からドナウ川が見えました。そして評判どおりオーストリア航空(OS)は素晴らしかったOSはファーストクラスが無く2クラス制、ビジネスクラスにはスカイシェフなる専属のコックさんが搭乗しています。この帽子をかぶった方がスカイシェフで、お料理をサーブしてくれたりするのです。食前酒オードブルスープメインディッシュそしてコーヒーのメニューが配られメニューの中から選んだものを作ってくれますデザートのワゴンが登場ちょっと欲張ってしまいました機内食とは思えないほど豪華な夕食でした。翌日の朝食この時のコーヒーはユリウス・マインルこうして成田に戻ってきました。長い旅行記にお付き合いくださいましてありがとうございました。この後もいろいろなところへ行っているのですが、おいおいとアップしていこうと思います。
2012年03月06日
ベルヴェデーレ宮殿からトラムDに乗ってハイリゲンシュタットへ行きます。それまでの日記は、こちらトラムのハイリゲンシュタット駅今回はベートーヴェン関連はまわらずホイリゲ直行ですベートーヴェンの家をまわった日記は、こちらベート-ヴェンガング(ベートーヴェンの小径)の入口ベートーヴェン・ガングここを歩いていると自然と頭の中で交響曲第6番「田園」が鳴ります。ハイリゲンシュタットの街並み Heiligenstadt そして着きましたお目当てのホイリゲです。Mayer am Pfarrplatz(マイヤー・アム・プファールプラッツ)プファール広場のマイヤー、ホイリゲであるとともにベートーヴェンが交響曲第9番を作曲した家でもあります。ベートーヴェン・ハウスであることを示す銘板そして新酒のワインが置いてある目印入り口の軒先に小枝の束が目印としてぶら下げられています。マイヤー・アム・プファールプラッツの入口中庭中庭をはさんで左側がビュッフェ・コーナー(デリ)、右側がレストランに鳴っています。ビュッフェ・コーナーの入口ビュッフェ・コーナーホイリゲでの食べ物はビュッフェ・コーナーで購入します。チーズや自家製ハム、ソーセージやサラダなどがあり目移りします。店内ウィーン名物のゲシュプリッター Der G’spritzteその奥のワイングラスに入っているのが今年の新酒です。当然ですがまだ若いです。お料理ドイツ風のお料理はボリュームがあって美味しい長い旅の最終日ということもありゲシュプリツターをがぶ飲みしてしまいました。最高に楽しい一時でした帰りはU4のハイリゲンシュタット駅まで歩いたつもりが、道を間違えてドナウ川に突き当たってしまい。。。ドナウ川通りかかった犬の散歩のおじいさんに道をきき、トラムでU4のハイリゲンシュタット駅までカール・マルクス・ホーフ Karl Marx Hof駅前にはオットー・ワーグナーの弟子であるカール・エーン設計によるカール・マルクス・ホーフという集合住宅がありました。こちらもユーゲントシュティルの建築で、長さが全長1km以上にもおよぶそうです。ハイリゲンシュタット駅こうしてヒルトン・ドナウ・ウィーンの最寄り駅スタディオンに戻ってきました。ヒルトン・ドナウの日記は、こちら駅前のスタジアムの広場にあるバスターミナルでびっくりなんとハイリゲンシュタット行きのバスがある今度来ることがあったらこれに乗ろう。。。ヒルトン・ドナウのエグゼクティブ・ランウジこうしてロサンジェルスから始まった長い旅は終わろうとしています。明日はいよいよ帰国です、つづく。
2012年02月05日
アウエンブルク通りのマーラーの家から斜め前のベルヴェデーレ宮殿へマーラーの家の日記は、こちらベルヴェデーレ宮殿入口こちらの入口からだと下宮が近いです。下宮には昨年入っているので今回はパス。下宮にはハプスブルク帝国の総司令官であったオイゲン公(1663~1736)関連の展示品が多いです。昨年はこのオイゲン公が誰だかさっぱりわからなかったのですが、今回はイスタンブールから回ってきたのでわかりますオスマン帝国を撃破した英雄だそうです。逆にトルコ側の言い分としてはウィーンがあまりにも田舎なので、取るべきものが無かったという事らしいです。そもそもベルヴェデーレ宮殿はこのオイゲン公の夏の離宮でした。下宮から見た上宮下宮 Belvedere - Unteres Belvedere上宮が近づいてきます上宮入口 Belvedere - Oberes Belvedereグスタフ・クリムトの「接吻」をもう一度みたかったのです。シーレやココシュカの様々な代表作も展示されていて至福の時でした。宮殿内のシャンデリアイスタンブールのドルマバフチェ宮殿を見た後だから、なんだかしょぼく見えてしまいます悔しまぎれでしょうが「取るべきものが無い」といったオスマン帝国側の言い分も、なんとなくわかるような気がしました。さて、ここからまたトラムDに乗ってハイリゲンシュタットへ行きます。このトラムDはウィーンのリンク沿いを走るので、ウィーンの名所を車窓から見ることが出来ます。Schwarzenbergplazにあるフランス大使館美術史美術館自然史博物館国会議事堂中央にアテナ女神像があるギリシャ神殿風の建物。1週間前に見たギリシャの首都・アテネの国会議事堂はなんとなくドイツ風。不思議です。。。。アテネのシンタグマ広場の日記は、こちらこうして郊外のハイリゲンシュタットに着きました。ハイリゲンシュタットは新酒のワインが飲めるホイリゲの街でもあり、ベートーヴェンゆかりの地でもあります、つづく。
2012年02月04日
アーノルド・シェーンベルクセンターから歩いて、グスタフ・マーラー(1860年~1911)が住んでいた家へアーノルド・シェーンベルクセンターの日記は、こちら昨年来た時は住所をきちんと控えてなかったので、見つけることが出来ず悔しい思いをしました。今回はすぐに見つけることが出来ましたアウエンブルク・ガッセにあります。トラム71の線路に面していて以前何度も通った場所でしたマーラーが住んでいた家 Mahler-Auenbruggergasse1階の角はカフェになっています。建物はユーゲント・シュティル(アール・ヌヴォー)の巨匠、オットー・ワーグナーの設計です。オットー・ワーグナー・パビリオン・カールスプラッツの日記は、こちら現在も現役のアパートメントとして使われています。なので外から眺めるだけです。銘板には「1898年から1909年までグスタフ・マーラーが住み作曲した」と書いてありました。この間作曲家としては交響曲第4番から第8番、大地の歌まで作曲、指揮者としては国立歌劇場の芸術監督→1907年に辞任、個人としては1902年にアルマと結婚、二人の娘の誕生、長女の死、そして自身は心臓病と診断。新婚で幸せいっぱい、仕事も順調な絶好調期から夫婦間に陰りが見え、音楽監督を辞任、アメリカへ渡るまでの激動の時期です。ちなみにマーラーがアルマと結婚式を挙げたのは、カールスプラッツにあるカールス教会です。カールス教会の日記は、こちらシュターツオパーも、カールス教会も、ここからですと全部徒歩圏です。建物の中の様子さてここから斜め前のベルヴェデーレ宮殿へベルヴェデーレ下宮の入口 Unteres Belvedereウィーン世紀末散歩のしめくくりはベルヴェデーレ宮殿のクリムトやココシュカ、シーレなどの絵です、つづく。
2012年02月03日
シュターツ・オパーの前からトラムDに乗って、アーノルド・シェーンベルクセンターへ行くことにしました。今回はウィーン世紀末散歩なので、音楽ではやっぱりシェーンベルクとマーラーははずせません。空港のインフォメーションでもらったウィーンカードのパンフレットには、トラムD、2、71のいずれかでSchwarzenbergplaz下車と書いてありました。広場をはさんでトラムは2方向に分かれるので、西側に着くトラムDよりも東側に着くトラム71の駅の方が近いように思います。シェーンベルクセンター外観 Arnold Sch?nberg CenterHaus der Industrieという美しい建物の中に入っています。まず入口のインターホンを押して正面玄関を開けてもらい、受付のガードマンに行き先を告げて入館します。この建物には石油会社のルクオイル(LUKoil)も入っていて、セキュリティーは若干きつめです。H階がルクオイル、M階があって、1階がシェーンベルクセンター、おそらくセンターは日本の2階部分にあたるかと。シェーンベルクセンターの入口センターのロゴは12音を表しています。研究所としての活動も行っていて、奥がオフィスになっています。まずビデオコーナーがありセンター監修によるビデオが上映されていました。この時上映されていたのは「ピエロ・リュネール」「ペレアスとメリザンド」「モーゼとアロン」と「5つの管弦楽曲」の演奏でした。たくさんの演奏会プログラムが飾られています。作曲家としてはもちろんのこと、指揮者や教育者でもあったシェーンベルクの業績を見ることが出来ます。ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)の楽譜シェーンベルクの肉声を聞けるコーナー晩年のロサンジェルスの仕事部屋の再現シェーンベルクはユダヤ人であったため、第二次世界大戦中にアメリカに移住しています。この書斎は作曲家のお嬢様の監修の下、再現されたようです。センターでは自画像や家族との写真なども展示されていて、家庭人としての一面もうかがうことが出来ました。センターにあった売店シェーンベルクに関する書籍や楽譜がたくさんありました。楽譜に関してはほぼ全部揃っているのではないかと思います。自画像の絵葉書やノートなどもありました。それでつい購入してしまいました。青い顔の自画像はかなりマニアックで、ちょっと怖いシェーンベルクのファンにはたまらない場所でした。さてここからすぐ近くのマーラーの住んでいた家へ昨年探せず涙をのんだ場所でもあります、つづく。
2012年02月02日
U4のケッテンブリュッケンガッセ駅からシューベルト最期の家へ行きます。ナッシマルクトからケッテンブリュッケンガッセ駅までの日記は、こちらStadtbahn Station Kettenbrueckengasseオットー・ワーグナー設計の美しい駅からシューベルトの家までは、ゆっくり歩いても5分もかかりません。じつは昨年も訪れています。その時の日記は、こちらそれから約1年半しか経っていないのに、周囲の風景は随分変わったように思います。中華系のお店がものすごく増えたような。。。周囲の景観をまったく無視したド派手な看板にビックリです。さて、1828年11月19日シューベルトが息を引き取った部屋は、現在は博物館になっています。水曜日と木曜の10時から13時、14時から18時の2日間のみという短い時間しか開館していません。集合住宅の2階(実際は3階)の一部屋が博物館になっています。昨年訪れた時は閉館日で入ることが出来ませんでした。まず入口で博物館のインターホンを押して共有の正面玄関を開けてもらいます。ドアを開けて中に入ると中庭になっていした。これは中庭から見上げたところです。今でも普通にマンションとして使われています。3階の博物館の入口 Schubert Sterbewohnung兄フェルナンドの住まいであったこの家で、フランツ・シューベルトは人生最後の日々を送りました。 この家では弦楽五重奏曲や最後の3曲のピアノソナタが作曲されました。あの偉大な弦楽五重奏曲はここで生まれたのか。。。ここはずっと来たかったところなので静かな感動に浸っていました。U4の駅に向かって歩いていたら、ちょうどバスが来たので乗ってみますバスの車窓から見たセセッシオンカールスプラッツ駅の近くの国立歌劇場(シュターツ・オパー)の前で下車シュターツオパーと言えばやっぱりお隣のホテル・ザッハです。もちろん食べましたよザッハトルテやっぱり美味しいです個人的にはデメルよりもホテルザッハの方が好きです。さてここからトラムに乗ってアーノルド・シェーンベルクセンターへつづく。
2012年02月01日
カールス教会からカールス広場の工科大学沿いに歩いて、セセッシオンへ行きます金のドームが見えてきましたセセッシオン Secession この日は観光バスが横付けされてますセセッシオンの前を通過ここは昨年来た時に入ったので今回は外からみるだけ。セセッシオンの日記は、こちらそのままナッシュ・マルクトへNaschmarkt, Wien「ウィーンの胃袋」と呼ばれる食品市場で、うなぎの寝床のように細く、長く続いていました。ドライフルーツのお店トルコ系、アラブ系のお店も多かったです。ドライフルーツ類はイスタンブールのエジプシャン・バザールの品物を品よく並べたかんじ、これだと買う気がしてきますね。八百屋さんまだお昼前でしたので活気はそれほど無かったのですが、ピクルスやデリのお店などもあって見ていて飽きません。このナシュ・マルクトを抜けると見えてきましたユーゲント・シュティール(アール・ヌーボー)を代表する建築家、オットー・ワーグナーの設計した集合住宅です。昨年近くまで行って見逃して涙をのんだ建物です。その時の日記は、こちらメダイヨンハウス Medaillon Hausオットー・ワーグナーが1890年代に設計した金色の硬貨の飾りのついたマンションです。そのお隣がマジョリカハウス。Majolika hausバラの花模様のマジョリカ焼きタイルを壁面に使っているそうです。お天気が今一つなのが残念。。。マジョリカハウスの左隣もとっても綺麗そのままウィーンツァイレを真っ直ぐ行きますきれいな建物がたくさん並んでいました。ツァイレとは川筋という意味でこの地下にはウィーン川が流れているそうです。そしてU4のケッテンブリュッケンガッセ駅に着きました。カールスプラッツ駅から地下鉄1駅分歩いたことになります。Stadtbahn Station Kettenbrueckengasseこちらもオットー・ワーグナーの設計。現在も地下鉄の駅舎として現役で使われています。さてここから念願のシューベルト最期の家へこの日は週に2日しかない開館日でした、つづく。
2012年01月30日
オットー・ワーグナー・パビリオン・カールスプラッツを見た後は、お隣のカールス教会へハプスブルク家の皇帝・カール6世が、1713~14年にウィーンを襲ったペストの流行の早期終息を願って建設した教会です。この時期のもう一つの大きな歴史的な背景としては1689年に16年に及ぶオスマン帝国の侵攻を撃破した事があげられます。これによりハプスブルク家は対トルコ戦争に終止符を打ち、ウィーンの市街地がリンク(城壁)外へと一気に拡大、華麗なバロック建築がたくさん建てられるようになったそうです。 Karlskircheバロック建築の傑作だそうです。でもアテネからイスタンブールと旅をしてきた私には、とても奇妙なファザード&建築に思えてしまいます。。。正面はギリシャ神殿のイオニア風、ドームはローマカトリックの大本山・バチカンのサンピエトロ大聖堂にそっくり、おまけに両脇に2本のモニュメント(記念柱)。この記念柱はローマのトラヤヌス帝の記念柱や、マルクス・アウレリウス帝の記念柱をモデルにしたそうです。マルクス・アウレリウス帝の記念柱の日記は、こちら ですがローマでもコンスタンチノープルでもローマ帝国の記念柱と言えば広場やピッポドローム(競技場)のド真ん中にドーンと建っているものです。ハプスブルグ家がローマ帝国の正当なる継承を見せつけアピールしたかったのか、など深読みしたりして興味はつきません。内部は天井画修復のための足場が組まれていましたが、なんとこの足場に登ることが出来ました途中まではエレベーター(右側)で、そして最後は階段です。階段を一段上るごとに足場全体がミシッと揺れて怖かった途中のフレスコ画はヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤー作で、聖カール・ボロメウス(1538?1584)をはじめ天国の様子などが描かれています。聖母マリアに支えられる聖カール・ポロメウス Carolus Borromeusこの聖人はカール6世と同名の守護聖人で、1576年にミラノで流行した伝染病(ペスト)に立ち向かった聖人です。階段を登りながら至近距離でゆっくりと見ることが出来ます。当然ですがイスタンブールのローマ帝国時代のフレスコ画とは、全然趣が違いますねぇ。。。カーリエ博物館の日記は、こちら最後の登り、高さ55.5メートルの天井部分ちょうどこの部分にあたるかと最上部のドームの天井画鳩が描かれていました。さて下へ降ります。中央の主祭壇ドイツ的というよりはローマの教会に近いですね。こうして興味はつきませんがカールス教会を後にしました。次はユーゲント・シュティルの建築を見に行きます、つづく。
2012年01月29日
ウィーンの2日目の朝です。ヒルトン・ウィーン・ドナウの朝食はアメリカン・ブレックファーストでした。ヒルトン・ドナウの詳しい日記は、こちら今日は個人的な趣味で「ウィーン世紀末散歩」をすることにしました。世紀末建築や美術、そして音楽をめぐる散歩はこちらの本を参考にしました。ヒルトンの最寄駅スタディオン駅前のスタジアムへここはショッピングセンターになっていました。ちょっとスーパーマケットをのぞいてみます。バート・イシュルのハーブソルトや、チョコレート、フルーツティーなどがたくさんあったので明日買うことにします。さてスタディオン駅からU2に乗ってショッテンリンクまで行き、U4に乗り換えてカールスプラッツへ所要時間は20分もかからないと思います。意外と近いウィーン世紀末散歩は楽友教会(ムジーク・フェライン)からスタートこの時ウィーン・フィルハーモニはちょうど日本ツアー中ガッカリというか、行き先が日本というのが悔しすぎます。さてその楽友教会の前でガックリとうなだれている(ように見える)ブラームス像そして遠くに見えるのが、オットー・ワーグナー・パビリオン・カールスプラッツとカールス教会です。まずパビリオン(展示室)に行ってみます。Otto Wagner Pavillon Karlsplatz1898年、Sバーンの駅舎としてオットー・ワーグナーが設計。白い壁と緑の鉄骨、そして金色の向日葵の装飾文様が美しいです。中は展示室になっていたので入ってみました(2ユーロ)。展示室にはオットー・ワーグナーの年表や写真、絵画代表作アム・シュタインホーフ教会などの模型などが展示してありました壁面の金の装飾が印象的イスタンブールから来たので、このような無駄を削り落としたシンプルな装飾は新鮮に見えます。床の黒と白のシンプルなタイルがユーゲント・シュティル(Jugendstil)まさにアール・ヌヴォーですね。向かい側に同じ建物がありそちらはカフェになっていました。これはパビリオンの中から見たカフェです。まだ朝が早いので開店準備中。オットー・ワーグナー・パビリオンはとても小さな博物館でした。さて次はお隣のカールス教会へ、つづく。
2012年01月28日
イスタンブールからウィーンへは約1時間遅れで到着到着後はまずツーリスト・インフォメーションでウィーン48時間フリーパスを購入。10ユーロなり、これでウィーンの交通機関は乗り放題です。今回の滞在は2泊と短いのです。それにしても空港のインフォメーションはいつも丁寧で感心してしまいます。美術館割引特典がつくウィーンカードもあるよとか、打刻を忘れないでねとか、市外の空港から市内直前の乗車券も必要だよとか、親切に教えてくれます。この時点で夜の20時、家人は空港からタクシーを強く希望していましたが、せっかくフリーパスがあるのだから公共交通機関を使って自力で行きます今回のホテルはヒルトン・ドナウ・ウィーンです。まずウィーン空港駅からSバーンに乗ります。このSバーンがバリアフリーじゃないんだな電車に乗る時に段差があってトランク上げがツライです。そしてプラーター・シュテルン駅でUバーンに乗り換え。U2でスタディオン(Stadion)駅まで行きます。駅を降りると大きなスタジアムがありました(翌日撮影)。そうか、スタディオンってスタジアムのドイツ語なのね。「シュターディオン」の方が現地の発音に近いかも。ここからドナウ川方向へトランクをゴロゴロと転がしながら歩くこと約5分、ヒルトンが見えてきました。この間住宅街なのですが車が斜めにビシッと揃って駐車してあり感動「ああ、ドイツ語圏に来たのね」とあらためて思う。今までのアテネとイスタンブールは車の無法地帯、カオスと化していました。気のせいか空気まで澄みきっているように感じる、いや、実際きれいなのかも。旅の最後がウィーンでほんとうによかった(感涙)。Hilton Vienna Danube hotel本当はミッテ駅に近くアクセス抜群のヒルトン・ウィーンを希望していましたが、誰もがそう思うのか満室で取れませんでした。前回は旧市街のヒルトン・ウィーン・プラザに宿泊したので、今回はヒルトン・ドナウ・ウィーンにしてみました。ヒルトン・ウィーン・プラザの日記は、こちらエントランスツインルームお部屋はモダンなアメリカン・タイプ窓の外はドナウ川が流れています。部屋から見たドナウ川アメニティはおなじみのクラブツリー&イヴリンクラブ・ラウンジへ行ってみました(写真は最終日の撮影)。こちらもアメリカン・タイプで、大型ビジョンではサッカーのドイツ国内リーグが放映されていました。ヨーロッパ風のヒルトン・ウィーン・プラザのラウンジと大違いです。プラザのラウンジの日記は、こちらヨーロッパのホテルを期待していくとガッカリすると思います。飲み物類も全部セルフサービスです。でも私はこの方が気がラク~でいいです。好き勝手にいろんなものが飲めるって、何て良いのでしょう。紅茶はロンネフェルトでした。美味しいです。ドナウ川と反対方向にはライトアップされたプラーターの大観覧車が見えます。カクテルタイムの軽食朝食ドナウ川から見たヒルトンお天気の良い日は散歩にいいかもこのまま川沿いに根性で歩けばハイリゲンシュタットです(後で気づいた)。ドナウ川が近くて、静かで、とても居心地の良いホテルでした。この日はこれでおしまい、明日からウィーンの街歩きです、つづく。
2012年01月24日
イスタンブールのアタテュルク国際空港からウィーンへ移動ですエアーはオーストリア航空のOS822便、イスタンブールを17時35分発、ウィーン着は19時00分予定です。まず空港のフライトボードを見てビックリ。アテネ便が全便欠航ですとおそらく大規模ストのため空港が閉鎖されたのだと思われます。もしアテネとイスタンブールの旅程が逆だったら、ウィーンどころか日本にも帰れなかったと思います。波乱に満ちたアテネの日記は、こちらからさて、気を取り直してラウンジへアタテュルク空港にはオーストリア航空単独のラウンジは無いので、同じスターアライアンスのトルコ航空のラウンジ使用になりました。ほとんど予備知識無しで行ったのですが、このトルコ航空のラウンジの豪華さ、太っ腹さに度肝を抜かれたのでした。トルコ航空ラウンジの入り口入ってすぐにライブラリーとビリヤードホールおそらく初対面であろうビジネスマン同志が、ジャケットを脱いでビリヤードに興じていました。そして奥がウィーン風のカフェこれが「ウィーン風」ではなく「真のウィーン」であったザッハトルテでおなじみのウィーンの老舗・デメル(DEMEL)のトルテなんとこのデメルのケーキが食べ放題もちろんザッハトルテもありました。ザッハトルテの上に乗った三角形のチョコがデメルの証まずチャイ(紅茶)と共に食べる、食べる。ああ、なんて美味しいのでしょういままでアテネやイスタンブールの激甘のお菓子しか食べてなかったので、もうここぞとばかりに食べました。そしてコーヒーは同じくウィーンの老舗・ユリウス・マインル(Julius Meinl)でした。ユリウス・マインルのロゴは「赤いトルコ帽をかぶった少年」です。そうか、ウィーンにコーヒーをもたらしたのはオスマン帝国だったっけ。ソーサーにちょこんと乗っているのはトルコ菓子のロクムです。トルコ菓子もたくさんおいてありました。そして横の大型ビジョンには、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートの映像。ウィンナ・ワルツを聞きながらデメルのお菓子とユリウス・マインルのコーヒー。なんて幸せなんだろう、こんなに贅沢をしていいのか。ウィーンに行く前から気分はもうウィーンちなみにチャイをいれるためのサモワール(セマヴェル)サモワールにはDO&COと書かれていました。オーストリアを中心に高級レストランチェーンなどを展開する企業です。トルコ航空は機内食もこのトルコDO&CO社が開発していて、スカイシェフがフライトへ搭乗しているのだそうです。デメルもDO&CO社の傘下に入っているようです、なるほどね。まだ時間があったのでちょっとラウンジを探検してみました。オリーブ・ガーデン風のエリアここには自動演奏のピアノがありました航空会社のラウンジでピアノを見たのは初めてです。しかもメーカーはドイツのFEURICH(ホイリッヒ)、これも実物は初めて。ちゃんと専属のシェフがいました豪華すぎるトイレ平日のラウンジは圧倒的に男性の方が多いので、女性トイレはいつも空いていますね。とにかく夢のようなラウンジでした。今度ヨーロッパに行くことがあったらイスタンブール経由にしようと心に誓ったのでした。さて飛行機は定刻に出発、と思ったら機内待機で1時間遅れで出発。オーストリア航空の機内食もう見た感じが「まんまドイツ風」きっと美味しいんだろうなぁ、でもお腹いっぱいで食べられませんでした1時間遅れでウィーン・シュヴェヒャート国際空港に到着ウィーンの旅の始まりです、つづく。
2012年01月23日
ボスポラス海峡クルーズの後ウィーンへの移動までまだ時間があったので、旧市街まで行ってみました。カバタシュからトラムヴァイに乗ってスルタンアフメットまでブルー・モスクブルーモスクの6本のミナーレを全部撮影するのは難しい。。。スルタンアフメット広場にある「ドイツの泉」 Alman ?e?mesiドイツの泉はドイツ政府が1900年に、1898年のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のイスタンブール訪問を記念して建築。結局トルコは第1次世界大戦でドイツ側につき敗戦国となり、オスマン帝国はますます弱体化の一途をたどることとなります。ピッポドローム(ローマの大競技場跡)のオベリスクとドイツの泉ピッポドロームの日記は、こちらドイツの泉はピッポドローム(現スルタンアフメット広場)の北端に位置しています。内側が金色のモザイクでできたネオ・ビザンチン様式の巨大な泉亭です。ヴィルヘルム2世自身が主導した3B政策を思い起こされ、なんだか意味深長です(ベルリン・ビザンチウム(イスタンブール)・バグダード)。アヤソフィアへ向かう道アヤ・ソフィア博物館旧市街の街並みトルコ菓子のお店(パスターネ)トルコのお菓子はとにかく甘いパラクワ、カダイフ、ロクムなどなど、いろいろ食べました。さて、ギュルハーネ駅からトラムヴァイに乗ってカバタシュへ、そこからフィニキュレルでタクシム広場へ戻りました。タクシム広場のノスタルジック・トラムヴァイ Taksim伝統トルコ料理店「ウルファ」 ?z Urfa Kebap & Lahmacun笑顔が素敵な厨房のお兄さん、作っているのはラフマジュンの皮です。美味しかったそしてとうとうイスタンブールともお別れです。チェックアウトしてタクシム広場からハワシュに乗り空港へバスはアタテュルク橋を渡り、ヴァレンス水道橋をくぐります。これは嬉しかったヴァレンス水道橋へ行った日記は、こちらこうしてアタテュルク空港へ着きました。いよいよ最後の都市・ウィーンへ移動です、つづく。
2012年01月21日
ボスポラス海峡クルーズのつづきです。カバタシュ埠頭からの日記は、こちらボスポラス大橋を渡ったところしばらく行くとルメリ・ヒサルが見えてきます。Rumeli Hisar?征服王・メフメット2世がコンスタンチノープルを攻略中の1452年に、わずか4か月ほどの短期間で造営し、攻略の拠点とした要塞です。ボスポラス海峡の幅が一番狭くなったところに位置しているそうです。城壁&要塞好きとしてはいつかは下船して登ってみたいところ。対岸のアジアサイドにはアナドル・ヒサルがあり、黒海からマルマラ海へ抜けようとする船に対して攻撃を仕掛けました。今はここにファーティフ・スルタン・メフメット橋(征服王橋)が架かっています。Second Bosphorus Bridge第2ボスポラス橋ともよばれ日本政府の開発援助のもと、日本企業により建設され1988年に完成したそうです。クルーズ船でもちゃんと解説していました。ちなみに同年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋だそうです。この橋を越えたあたりで船はUターンしカバタシュ港へ戻ります。復路はアジアサイド寄りの航行になりましたアナドル・ヒサルが近づいてきます。Anadolu hisar?アナドル・ヒサルはメフメット2世の曾祖父バヤジット1世が築いた要塞。ルメリ・ヒサルがびしっと修復されたのに対し、こちらは民家に埋もれていました。海峡沿いにはこのような海に面して玄関を作る別荘(ヤル)がたくさん立ち並んでいます。自家用クルーズ船の船着き場もあったりしてとても優雅です。住むなら対岸の眺めが良いアジアサイドがいいなぁ(妄想)ボスポラス大橋のアジアサイドのたもとに、ベイレルベイ宮殿が見てきました。ベイレルベイ宮殿 Beylerbeyi Palace1860年代、オスマン帝国がすでに「ヨーロッパの瀕死の病人」と言われた頃、スルタン・アブドゥウルアジズにより建造されたそうです。ドルマバフチェ宮殿の完成とほぼ同じ時期で、こちらもかなり豪華なようです。ドルマバフチェ宮殿の日記は、こちらユスキュダル埠頭 ?sk?dar観光クルーズ船なのでユスキュダルは通過乙女の塔 Kiz Kulesiこうして船はカバタシュ埠頭へ戻り約90分のクルーズは終わりました。最高に楽しかったですまるでオスマン帝国の栄光から滅亡までの一大絵巻物を見るようなクルーズでした。ウィーンへの移動にはまだ時間があるので、ここから旧市街へ晴天時の写真を撮りに行くことにしました、つづく。クルーズ・データ デントゥル社(Dentur Avrasya) ホームページ(トルコ語) カバタシュ発 10時30分(土日は運休)航行時間90分 12.50TL 備考:1日2便(あと1便は14時45分~) 以上2011年10月のデータ
2012年01月20日
イスタブール最終日になってしまいました。ウィーンへの移動は夕方なので半日は観光ができます。今日はボスポラス海峡の観光クルーズ船に乗ることにしました。そして最終日にしてやっと朝日を見ることが出来ました。Ceylan InterContinental Istanbul窓の外はボスポラス海峡です。どうやら今日は晴れのようです。まず新市街のタクシム広場まではるかに2本の塔を持つフランスゴシック様式風の教会が見えます。Taksim Square昨日調べたクルーズ船の出発の時間にはまだ時間があったので、ちょっと行ってみることにしました。聖トリニティ教会 Aya Triada Rum Ortodoks Kilisesi一見するとカトリック教会のようですがギリシャ正教会でした。トリニティとは三位一体のこと、正教会風に言うと「聖至聖三者教会」になるかと。ギリシャ・アテネの教会は門戸を開放していつでも入れたのですが、イスタンブールの教会はなかなか厳重です。結局この日は聖堂の中には入れませんでした。イスラム教国家でキリスト教が存続していく難しさがあるのでしょうか。あと滞在中ずっと感じたことですが新市街はフランス語を話す人が多いです。こんなにフランス語を浴びるように聞いたのは初めてかもしれません。さてタクシム広場まで戻りフニキュレル(地下ケーブル)に乗ってカバタシュへ。昨日ドルマバフチェ宮殿へ行く途中、カバタシュ埠頭から出発するクルーズ船の時間を調べておきました。朝の10時30分発の観光船に乗ります。Dentur Avrasya Ferriesこれはデントゥル社のクルーズ船で1日2便(次は14時45分発)の航行、途中下船不可の観光クルーズ船です。ファーティフ・スルタン・メフメット橋付近で折り返して、またカバタシュ港まで戻る90分のクルーズになります桟橋からは旧市街が見えます。イスタンブールの第1の丘に建つトプカプ宮殿とアヤ・ソフィア博物館、その奥がブルーモスクです。いよいよ出発往路は海峡のヨーロッパサイドを航行します。まず最初に現れるのがドルマバフチェ・ジャーミィそしてドルマバフチェ宮殿ちょうどセラムルクとスルタン専用の桟橋の前を通過。ドルマバフチェ宮殿の日記は、こちら宮殿の奥の高台に見えるのが宿泊したインターコンチネンタル・ホテル、そして岸辺の絶好の場所に位置しているのがリッツ・カールトンです。インターコンチネンタルの日記は、こちらケンピンスキー・ホテル1847年に夏のスルタンの離宮として建てられたチュラーン宮殿を改装した最高級ホテル。ガラタサライ大学 Galatasaray University サライは「宮殿」という意味なので「ガラタ宮殿大学」になるかと。(トプカプ宮殿はトプカプ・サライ(Topkap? Saray?)と言います)大学としては最高の立地ですね。超難関校だそうです。日本ではサッカーで有名かな。ボスポラス大橋 The Bosphorus Bridgeボスポラス大橋をくぐったところ。このあたりから海の色がエメラルドグリーンになってきました。画像が多いのでここでいったん区切ります、つづく。
2012年01月16日
旧市街から新市街のドルマバフチェ宮殿へ行きます。ここはイスタンブールの観光の目玉になりつつあるようです。最新版「地球の歩き方」では巻頭にカラーページを掲載するようになりました。さてイスタンブールのかつての支配者・オスマン帝国のスルタンは、有史以来ずっと旧市街に坐していました。19世紀半ばにその伝統を打ち破りヨーロッパ色の濃い新市街の岸辺に渡り、ヨーロッパの王宮さながらのドルマバフチェ宮殿を新築したのです。1843年にアブデュルメジト1世の命によって着工され1856年に完成。オスマン帝国がすでに「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれた時です。クリミア戦争でオスマン帝国の財政はさらに厳しくなる中、外国からの負債金の一部を豪華な西洋風の宮殿建築にあて、新宮殿でスルタンやハレムの住人達は必要以上の贅沢をし続けたとか。国費のみならず負債金までつぎ込んで建設しただけあって、ため息の出るほど豪華な宮殿で帝国落日前の最後の輝きを放っていました。エミノニュからトラムに乗って金角湾を渡り終点のカバタシュで下車、そこからは歩いて行きました途中にあった時計台宮殿の入り口から振り返ったところ Dolmabah?e Camii世界一細いミナーレを持つドルマバフチェ・ジャーミィが見えます。アブデュルメジト1世が自分の母のために建てたモスクだそうです。ドルマバフチェ宮殿「皇帝の門」 Dolmabah?e Saray?門前の衛兵宮殿は今も現役の迎賓館として使われているので警備は厳重、入場前にはセキュリティーチェックも行われます。小雨降る寒い日でしたがこの衛兵は微動だにしませんでした。右後ろ手にはナイフを持っています。かつて最強を誇ったオスマン帝国の末裔かも。。。セラムルク(女子禁制の場)宮殿内部はガイドツアーでのみ入ることが出来ます。ツアーはトルコ語と英語の2種類ですが、トルコ人以外はすべて英語ツアーに参加することになります。しかも館内は一切撮影禁止です、残念です公式HPは、こちら内部はバッキンガム宮殿やベルサイユ宮殿さながらと言われていますが、両方行ったことがないので比較出来ないのが残念両方見たことのある人にぜひ意見を聞いてみたいところです。少なくとも私が今まで見た宮殿の中で一番豪華だったのは間違いないです。ハレム(男子禁制の場)建築様式では東西の壁はゆうに超えても宗教の壁は越えられないのか、イスラムの慣習どおり厳格にセラムルクとハレムに分けられています。ツアーのガイドはハレムのことをしきりに「スルタンのプライベートな空間」と強調していました。セラムルクとハレムの間にある壮大な広間「儀式の間」には、宮殿一の見物である重さ5トンのクリスタル製大シャンデリアがあります。最初に広間が使われたのはクリミア戦争終結後の記念行事ですが、贅を尽くした饗宴の賓客全員が男性だったそうです。ハレムの2階の廊下には女性たちが祝宴の様子をそっと眺めるための、飾り格子のついた窓がありました。スルタン専用の船着き場目の前はボスポラス海峡です。宮殿のツアーはセラムルクとハレムでガイドが変わるのですが、待ち時間を含めると所要時間はゆうに2時間を超えたと思います。すべてのツアーが終了した時点でもう閉館時間を過ぎていました。衛兵の行進この宮殿はいろいろと考えさせられました。かつては遊牧民族として馬を駆り、草原に天幕を張って暮らしていたオスマン帝国のスルタン達。そしてその名残を持つ質実剛健なトプカプ宮殿を捨て対岸に渡り、西洋風な宮殿で西欧の王さながらの贅沢な暮らしをした帝国末期。ふと隣国の清王朝末期に西太后が国費をつぎ込んで建築した頤和園(サマーパレス)のことを思い出しました。頤和園の日記は、こちらそれにしても日本の明治維新の偉人たちは偉かったんだなぁ。さてここからタクシム広場のインターコンチネンタルまで徒歩で広場へはゆるやかな坂をのぼっていきます。こうして1日が終わろうとしています。翌日はいよいよイスタンブールの最終日でウィーンへの移動です、つづく。
2012年01月11日
ブルー・モスクからまずビザンチン帝国の遺構であるミリオンへ昨日見るのを忘れたものです。ビザンチン帝国の0km地点の「ミリオン」Miliarium Aureum帝国各地との距離を測るローマ街道の基点となった里標石(マイルストーン)かつては黄金のマイル塔だったはず。今はただの石片になりながらも確かに存在していました。ここから歩いてイスタンブール考古学博物館へIstanbul Archaeology Museums, Arkeoloji Muzesiギリシャ建築を思わせるイオニア式の堂々としたファザードが見えます。まずその手前にあるある古代オリエント博物館へ行ってみました。入り口にあるバビロンのイシュタル門のレリーフベルリンのペルガモン博物館にイシュタル門の復元がありますが、まさかここに断片があるとは思わなかったです。紀元前17世紀ごろからヒッタイト王国をはじめバビロニア、エジプトなど古代王国の遺品を展示してありました。でもこの時代は興味の対象外なのでさくさくと通過そしてお向かいの旧館と新館へ。ライオン像 紀元前400年頃に栄えたカリア王国ハリカルナッソスから出土した遺物の一つ。この博物館の目玉はアレキサンダー大王の石棺です。アレクサンダー王の躍動感溢れる戦闘シーンや狩りの様子など、素晴らしいレリーフで飾られた石棺でした。写真でみたかんじよりもはるかに大きい立派な石棺で、私の背丈をはるかに超えてました。館内にはアレキサンダー大王の立像もありましたが若いんですね、32歳で亡くなったそうです。嘆き悲しむ女たちの石棺女性のレリーフが美しかったです。イスタンブールは掘れば今でも遺跡がざくざく出てくるようで、地中から、海底から見つかるとここへ運ばれるそうです。館外にも遺跡らしき物がごろごろと置いてありました。この地下に眠っている遺跡のおかげで旧市街の歴史地区には地下鉄を通せないのだそうです。さてここからエミノニュへ金角湾の向こう側に見えるのが新市街で、その中のひときわ高い塔がガラタ塔です。ガラタ橋名物の船上サバ・サンド店に寄ってみました。Deniz Yildiziデニズ・ユルドゥズという昔ながらの船上で調理するお店で、厨房が船で、レストラン部分が屋台になっています。この時は雨足が強くて船が左右上下に半端なく揺れていました。でもコックさん達はまったく意に介せず平然と調理しています。もし私だったら間違いなく船酔いすると思う、というか見ているだけで気持ち悪くなってきました。こうまでして船で焼く意味があるのだろうか。。。(謎)名物のサバ・サンド(バルック・エキメッキ)はさんであるのが焼き鯖なんですね。塩とレモン汁をかけて食べます、おいしかったです。そしてものすごく寒かったのでチャイも頼んでみました。当初の予定ではこの後ボスポラス海峡のクルーズを予定していましたが、悪天候のため急きょ予定を変更新市街のドルマバフチェ宮殿へ行くことにしました。そのあまりの豪華さに度肝を抜かれたのでした、つづく。
2012年01月07日
アヤソフィア博物館の次はお隣のブルー・モスクへアヤソフィアの日記は、こちらビザンチン帝国を代表する建築が聖ソフィア大聖堂だとすると、オスマン帝国を代表する建築がこのブルー・モスクにあたると思います。ブルー・モスクと猫 Sultanahmet Camiiなんとミナーレ(ミナレット)が6本もあります。6本のミナーレを持つモスクは世界で唯一ここだけブルー・モスクの正式名称はスルタンアフメット・ジャーミィと言います。女性はスカーフで髪の毛を完全に隠し、靴は脱いで入ります。まずその広い空間と、ステンドグラスから差し込む淡い光の美しさに目を奪われます。内部は数万枚のイズニック製の白地に青の装飾タイルが使用され、ブルー・モスクと呼ばれているそうです。ただ実際はほんのり淡いブルーなので、デジカメで青く撮影するのはとても難しい現在もモスクとしてイスラム教の祈りの場となっています。じつは昨日も訪れているのですが、1日5回ある礼拝の一つと重なり入れませんでした。おまけの画像、最終日の晴れた日のブルー・モスク次は国立考古博物館へ、つづく。
2012年01月05日
イスタンブール3日目の朝、火曜日です。この日はあいにくの冷たい雨10月の半ばなのにものすごく寒い、寒かったです。ダウン、マフラー、耳当て、手袋の完全防備でやっと寒さがしのげるくらい。イスタンブールの秋は日本の秋よりも早いときいていたけれど、ここまで寒いとは思いませんでした。。。まずは昨日休館日だったアヤソフィア博物館からスタートちなみにお隣のトプカプ宮殿は火曜日が休館日です。Ayasofya気高く赤い巨大な大聖堂、遠くからでも威容を誇っています。キリスト教会というよりはまるで要塞のよう。ビザンチン帝国時代にギリシャ正教会の大聖堂として325年から建設され、帝国第一の格式を誇る教会であったとともに、コンスタンチノープル総主教座がおかれていました。360年の創建から1453年にオスマン帝国が征服するまでの1093年間はキリスト教会として、1934年にトルコ共和国の博物館になるまでの約480年間はモスクとして利用されてきました。本堂への中央入り口上部にあるモザイク画「祝福を与えるハリストス」ハリストス(キリスト)にひざまずいているのは皇帝レオン6世。皇帝の門をくぐり外陣から堂内へ足を踏み入れたとたん荘厳で神秘的な空間に圧倒されますしかもとてつもなく巨大な空間で、想像以上の広さに驚くばかりでした。2階ギャラリーから見た内陣でもカトリックの総本山・バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の方が大きいはずです。サン・ピエトロ大聖堂の日記は、こちらそもそも西のローマ・カトリックがサン・ピエトロ大聖堂を建てるにあたって、絶対に東のアヤソフィアよりも大きく作ってやるぞと意図した部分があります。でもサン・ピエトロ寺院が建てられたのはアヤソフィアの約千年も後で、技術力の進歩を考えると大きいのは当然かもしれません。ではアヤソフィアがバチカンよりもなぜ広く感じるのでしょう?ちょっと自分なりに考えてみました。まず柱が少なく大ドーム下の空間が巨大であること、あと現在は無宗教の博物館となっているため、イコノスタスのような宗教的な飾りが一切取り去られているのも理由の一つかもしれません。コンスタンチノープル陥落の前夜、最後の皇帝コンスタンチン11世と僅か4万人に減った市民が聖ソフィア大聖堂に集まり最後の祈りを捧げたそうです。その史実を最初に知った時は全員が入るなんてあり得ないと思いましたが、この広さなら余裕で入る規模だと納得しました。後陣のアーチの中央にある「聖母子」イスラム教の円盤もかかげられています。そして聖堂の2階のギャラリーには巨大な聖堂にしては僅かで、損傷の激しい、でも今もなお輝きが失せることのない至宝のモザイクイコンがありました。ビザンチン美術の最高傑作と言われている「ディシス」「聖母子と皇帝家族」「ハリストスと皇帝コンスタンティヌス9世、皇后ゾエ」2階のギャラリーは窓からの光が多く入る場所なので、モザイクイコンが日の光を浴びてキラキラと輝いて美しかったです。出口の屋上にある「聖母子に献上する皇帝」コンスタンチノープルの街を献上するコンスタンチヌス1世と、アヤソフィアを献上するユスティニアヌス2世が描かれています。聖堂内はフラッシュ禁止なので上手く撮影できませんでしたが、本当はもっと金色に輝いていて美しいのですベルガマの壺イスラム教のモスク時代の名残で、お祈りの前に身体を清める時に使ったそうです。聖堂内の猫たち町の人に愛されているのでしょう、どの猫も人懐っこいです。カメラを向けるとこちらに寄ってきてしまうので撮るのに一苦労でした。出口から見上げるアヤソフィアおまけの画像、最終日の晴れた日のアヤソフィアイスラム寺院だった名残の4本のミナーレ(ミナレット)が、波乱に満ちたアヤソフィアの歴史を物語っています。晴れた日の写真はミナーレがくっきりと目立ちすぎますねアヤソフィアに関しては曇りの写真の方がよいかもしれません。こうして感動のアヤソフィアを後にしました。次はお隣のブルーモスクへ、つづく。
2011年12月27日
感動のカーリエ博物館(コーラ教会)から徒歩で、コンスタンチノープル世界総主教座へ旧市街の西、城壁近くのカーリエ博物館から金角湾のフェネル港近くの正教会の総主教座までの道のりは、住宅街を抜ける細い路地が続きとても分かりにくかったです。カーリエ博物館を出たところまず海に向かってゆるやかな下りになっています。途中の町並みがなかなか趣がありました。このあたりに来るとぐっと庶民的な雰囲気になってきます。もう夕方なのでたくさんの子供達がサッカーなどをして遊んでいました。すると1人の人なつっこい男の子が笑顔で「正教会に行くの?」と英語で聞いてきました。「そうだよ、ルム・パトリックハーネに行きたいのだけど」と、総主教座のトルコ語の呼び名で答えました。イスタンブールでは英語の呼び名は馴染みが無い事が多いのです。例えば金角湾を“Golden Horn”と言ってもまず通じません。トルコ語で「ハリッチ」と言わなければ分からないのです。さて、その男の子は「じゃあこっちだよ、着いてきて」と言って前をどんどん歩いていきます。でも悲しいかな、アテネから来た私はどうしてもこの子供を信用することが出来ません。アテネではジプシーの子供達に神経をすり減らしていたのです。子供ながら完全なプロの窃盗団で囲まれたらアウトです。「のこのこついていった先が絨毯屋だった」なんてことない?など悪いことばかり考えてしまいます。。。男の子に道を教えてもらいながらも必ず地図で確認する、という実に感じの悪い旅行者でした。かなり古びた家々の間からそれらしき建物が見えました。遠くに見える高台の赤い建物は飛行機の中に置き忘れた『地球の歩き方』に載っていたものと同じ。「あっ、あれだよね」と言うと、男の子は「違うよ、こっちだよ」と違う道を指している。うー、ますます怪しい。。。結局近くの大人の男性に再度聞いてみました。すると男の子と同じ方向を指しています。そちらの方向へ行ってみると確かにありましたイスラム教の真っ只中の総主教座という立場にあってか、外からは目立たないようひっそりと壁に囲まれた小さな一画でした。高台の赤い建物はギリシャ人学校だそうです。(後日確認した『地球の歩き方』にもそのように書いてありました)。がっかりした男の子の顔が今でも心に残ります、ごめんね。ほんとうに申し訳ないことをしてしまいました。総主教座の入り口から今来た道を振り返ったところRum Patrikhane総主教座の聖ゲオルギオス大聖堂のファザード中央にビザンチン帝国(ローマ帝国)の紋章である「双頭の鷲」が掲げられていました。コンスタンチノープル世界総主教座の聖ゲオルギオス大聖堂では、平日の夕方にもかかわらず祈祷が行われていました。Cathedral Church of St George,Ecumenical Patriarchate of Constantinople世界各国から正教徒が集まるそうですがこの日は2組だけでした。後からわかったことですが過去に何度もテロの被害にあっていて、厳戒態勢が敷かれているそうです。ここで歌われていた聖歌はアテネと同じギリシャ語によるビザンツ聖歌でした。アテネでの聖体礼儀の日記は、こちらビザンチン帝国時代のギリシア正教会の総主教座は、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)に置かれていました。1453年のビザンチン帝国陥落で聖ソフィア大聖堂がモスクに改修された後、約1世紀半に渡る長く辛いさすらいの歴史の後、1601年にようやくこのフェネルの地に総主教座が置かれたそうです。フェネル・ギリシャ人学校の建物Phanar Greek Orthodox College身の危険を感じるほどのすごい急坂の上にありました。学校というよりはお城のような威風堂々とした建物です。正面の銘板は確かにギリシャ語でした。歴史は古くコンスタンチノープル陥落の翌年1454年まで遡るそうです。なんと征服王・メフメット2世が自ら推奨しギリシャ人の教育拠点とし、フェネルを正教会の中心に定め特別な措置を取ったそうです。フェネルはオスマン帝国の優秀な人材の供給源となったのですが、1950年代にトルコ・ギリシャ関係が悪化したことにより状況は一変。1964年にギリシャ人の国外退去命令が出され、多くのギリシャ人が突然トルコから追放されたそうです。フェネルに古くて痛んだ建物が多いのは、一度町全体が棄てられたことによるものかもしれません。ここからフェネル港へ向かって歩きます。フェネルからみたギリシャ人学校港から金角湾の連絡船があればエミノニュあたりまで行けるのですが、もう時間が遅く船着き場はクローズしていました。残念ですがタクシム広場までバスで行くことにします朝出かける時にフェネル行きのバスを見かけたのできっとあるはず。エミノニュ行きのバスはバンバン来ます。待つこと約10分、タクシム行きのバスが来ました。アタテュルク橋で金角湾を渡り新市街のタクシム広場へ昨日から気になっていた焼き栗の屋台ケスターネ・ケパブといって、イスタンブールの冬の風物詩だそうです。素焼きなんですが甘くて美味しかったです。これを毎日食べていました、だいたいTL4~5なり。こうして長い一日が終わろうとしています、2日目につづく。
2011年12月25日
テオドシウスの城壁からカーリエ博物館(コーラ修道院)に着きました。ここまでの日記は、こちらKariye M?zesi The Church of the Holy Saviour in Chora 建物はビザンチン帝国末期の1320年頃に修復されたものです。オスマン帝国の脅威が城壁外に迫り、帝国の運命明日をも知れぬ時期です。そしてテオドシウスの城壁に近いこの教会は、帝国陥落劇の一部始終を見届けたことでしょう。もともと5世紀の初めに正教会のコーラ修道院として建てられ、その後オスマン帝国時代はカーリエ・ジャーミィとしてモスクに転用されました。ビザンチン帝国時代のモザイク・イコンやフレスコ画は漆喰で塗りつぶされたそうです。それらは20世紀中頃に発見、補修され博物館として現代に蘇りました。内部は主に聖書の各場面を描く精緻なフレスコ画やモザイク画など、帝国最後の渾身の力を振り絞った至宝の芸術の数々で覆い尽くされています。まず葬祭用礼拝堂(パレクレシオン)のフレスコ画が現れます。上部は最後の審判、下部は復活(アナスタシス)のフレスコ画です。パレクレシオン・ドームの聖母子と大天使たちのフレスコ礼拝堂ドームのハリストス(キリスト)のモザイクドームの下のルネットに描かれたハリストスと生神女マリヤのモザイク拝廊の北のドームに描かれた生神女のモザイク内拝廊への入口上部のルネットに描かれたモザイク、「祝福を与えるハリストス」カーリエ博物館を代表するモザイク画の一つでルネサンス様式の傑作。ギリシャ正教のイコンやモザイクのハリストス(キリスト)像は、西のキリスト像のように柔和だったり、悲哀に満ちた表情ではなく、どれもきりりと引き締まった厳しい表情です。どのモザイク・イコンのハリストスも同じ表情に見えるのは、ユダヤで生まれた「まさにハリストスその人」が描かれているからです。なので「金髪」や「青い目」などは絶対にあり得ません。西のキリスト教の「画家の解釈によるキリスト」が描かれた西洋絵画と違い、イコンはまさに「信仰の対象」なのです。博物館の白眉、聖堂中心にあたる身廊のモザイク「生神女就寝」死の床に横たわる生神女マリヤを底辺に、ハリストスとその弟子達が三角形の構図で描かれています。中央の回廊部分実際のフレスコ画やモザイクは写真よりもはるかに素晴らしいのです。小さな教会ながら保存状態が良く充実した時間を過ごせました。コンスタンチノープルの中央から離れた城壁近くのこの小さな教会で、これだけ素晴らしいビザンチン芸術があったのなら、在りし日のアヤソフィア大聖堂はどれだけ素晴らしかったのだろう、と思わざるを得ません。さて、カーリエ博物館からこの日の最後の訪問地、コンスタンチノープル世界総主教座へ行きますここはギリシャ正教の総主教座になります、つづく。
2011年12月24日
ヴァレンス水道橋から旧市街の西にあるテオドシウスの城壁を見て、カーリエ博物館(コーラ修道院)まで行きます ヴァレンス水道橋の日記は、こちらまずアクサライ駅まで歩きますヴァレンス水道橋の近くにはイスタンブール大学があり、自然と人の流れがアクサライ駅の方向へ流れていて、おおよその方向の目安をつけて行くと駅前広場にでました。アクサライからメトロ1号線でトプカプ・ウルバトルまで行きますメトロの駅を上がると城壁がありました。Theodosius Surlari5世紀初頭から建造されたテオドシウスの城壁で、旧市街の西側をマルマラ海から金角湾まで7キロに渡って伸びています。ここまでオベリスク→水道橋→城壁と好きな建造物の連続で、ほんとうに嬉しいテオドシウスの城壁はビザンチン帝国のテオドシウス2世がコンスタンチノープルの防衛のために建造しました。約1000年に渡って難攻不落の城壁として知られ、本来は三重構造になっていたそうです。この本に詳しく書いてあります。この『コンスタンティノープルの陥落』を初めて読んだ時は、イスタンブールの地理がまったく分からなくて閉口しました。こうして実際に歩くとよく分かり、静かな感動がわき起こってきます。ここからトラム(TR4)に乗り換えます。トラムの駅名はヴァタン(VATAN)でした。ヴァタン駅から見た城壁このトラムは高架で城壁に沿って走っています。本当は城壁沿いに歩きたかったでもカーリエ博物館に16時までに入らないと閉館してしまうので、泣く泣くあきらめましたヴァタンから一駅のエディルネカプ駅(地下駅)で下車。駅を登ったところからみた城壁です。オスマン帝国がコンスタンチノープル攻略した際、メフメット2世が入城した門がこのあたりにあるらしいです。かなり交通量が激しい新幹道路を命がけで渡りながら、カーリエ博物館を目指して歩きます世界遺産にも登録されているのですが、これといった看板が出ていないのでまた周りの人に聞きながらです。自力で行く人は少ないのかなぁ。。。「カーリエ博物館」より「コーラ教会」と言った方が通じました。Kariye M?zesi (Chora Church)ありました カーリエ博物館です。大型バスやタクシーがたくさん横付けされています。ここにはビザンチン美術の最高傑作とされるモザイクとフレスコ画に彩られた夢のような空間でした、つづく。
2011年12月23日
イスタンブールに持って行ったガイドブックはまずこれ、最新版の『地球の歩き方 イスタンブールとトルコの大地』。何たって地図は一番詳しい。でもアテネからの飛行機の中に置いてきてしまいましたお次は『イスタンブール路地裏さんぽ』と最新版『るるぶ』 両方ともショップやレストラン等の情報は満載ですが、地図は大雑把、小さな通りはまったく書いてありません。そして渡航前に原宿のトルコ大使館の中にあるトルコ観光局へ行って、パンフレットと地図をたくさんgetしてきました。これらは一部HPからもダウンロードできますが、地図に関しては詳細とは言い難いし、情報もちと古め。イスタンブールは7つの丘を要する坂の街で、道は複雑に入り組んでいて迷路のようなのです。あと念のためにデンバー国際空港で英語のガイドブックを購入しました。結果的にこちらの地図を一番よく使いました。今思えば『地球の歩き方』を無くすことを予言した行動だったのか。。。でも金角湾やボスポラス海峡を運行する船に関する情報は、結局わからずじまいでした。さて、グランバザールからまずスレイマニエ・ジャーミィへこのモスクへの道のりは地図上では至近距離に見えるのですが、7つの丘の一つの「第3の丘」の上にあるので登りがきつかったアタテュルク橋から見たスレイマニエ・ジャーミィ(最終日に撮影)道も複雑で急な坂道は見通しがきかない上に、狭い路地でも車は猛スピードで走り抜けていきます。仕方がないので何度も周りの人に尋ねました。はい、英語で。でもイスタンブールの方はとても親切で助かりました。ああ、この時『地球の歩き方』さえあれば。。。S?leymaniye Camiiオスマン帝国が最も繁栄した時代にスレイマン大帝が作らせたモスクで、天才建築家ミマール・スィナンの設計です。内部の繊細な装飾がとても美しい柔らかな光が差し込むステンドグラスも綺麗でした。さて、ここからヴァレンス水道橋へここからも細い道を水道橋に向かって歩いていきます。行く手に城壁のようなものが見えました。家人が「あれが水道橋か?」と言ったのですが、「ヴァレンス水道橋はセゴビアのような2段式だから違うよ」と、アーチをくぐってさらに先へ行くでもどこまで行っても水道橋は無くまた周りの人に聞くと、大きな通りに出て右に曲がれとのこと。シェフザーデバシュ・ジャーミィを通り過ぎると、それらしきものがありましたが1段アーチです。その隣を見ると、Valens Aqueductありました2段アーチ式の水道橋です。ということはさっきくぐったのは水道橋だったに違いない。途中から1段になるということなのか。。。(謎)ビザンチン帝国のコンスタンティヌス大帝の時代に建築が始まり、378年のヴァレンス帝時代に完成した水道橋です。ローマ水道橋&城壁ファンとしては押さえておきたい一つです。ローマの水道橋の日記は、こちらイスタンブールの水道橋のすごいのは、水道橋の橋脚の下をガンガン車が通っていること。旧市街の南北を貫くアタテュルク大通り(6車線)をまたぐように、翼を広げた格好で建っています。運んできた水は地下宮殿へ送られたそうです。地下宮殿の日記は、こちらああ、素晴らしい近くから、遠くから飽きずに眺めた後は、次の目的地のテオドシウスの城壁へ、つづく。
2011年12月22日
「セリム・ウスタ」での昼食の後はグランドバザールへ最寄りの駅はトラムのチェンベルリタシュ駅ですが、スルタンアフメット駅から一駅なので歩いてしまいます駅前にあったイスタンブール最古のモニュメント、チェンベルリタシュの記念柱です。Column of Constantineコンスタンティヌスの柱とも言います。これはどうしても見たかったものの一つ330年にビザンチン帝国(ローマ帝国)の皇帝コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープルに都をおいたことを記念して建てたもの。旧市街のはずれの第2の丘に作られた広場にこの柱は建てられ、柱上に置かれた皇帝の像はどこからでも見ることが出来たそうです。焼かれた柱(Burnt Column)とも言われていて、火災や腐食による損傷でかなり痛んでいます。これでも長期改修工事が終わってやっと足場が取れた後だそうです。創建時の画像は、こちら(ウィキペディアより)ここからグランド・バザールはすぐです。Grand Bazaar, Istanbul(Kapali Carsi)昨日行ったエジプシャン・バザール(スパイスバザール)よりも、はるかに規模が大きく、通りも多くて複雑です。エジプシャンバザールの日記は、こちらオスマントルコ帝国時代の1461年から続く歴史的建造物で、時代と共に増築が繰り返されたためまるで迷路のよう。屋内市場としては中東最大の規模だそうです。とにかく活気にあふれていて見ているだけで楽しいでもここではタイルを買っただけです。値札がないので相場がよくわからないんですよね。14番出口のオリュチュレル門を目指します出口には番号が付いているのでわかりやすいです。さて、ここから本格的なイスタンブール散策の始まりです。今までは大きくて目立つ、有名な観光名所を回ったのでガイドブックが特に必要ではなかったのですが、これからが複雑な町歩きになります。まずはヴァレンス水道橋へ、つづく。
2011年12月21日
地下宮殿から地上にあがると青空が見えました。地下宮殿の日記は、こちらアヤソフィア博物館かつてはビザンチン帝国(ローマ帝国)の総主教座として君臨、いわばギリシャ正教の大本山、そしてビザンツ建築の最高傑作です。ああ、なのにイスラム教のミナーレが立っている。。。今日は月曜で休館、また明日来ることにします。そしてお隣のブルー・モスクの横にあるピッポドロームへHippodrome (At Meydan?)ヒッポドロームとはローマ帝国時代の大競技場跡のことで、かつては広大なU字型競技場があり戦車競技が行われていたそうです。ビザンチン帝国のコンスタンティヌス1世の時代には10万人の観客を収容可能。今のブルー・モスクの位置にビザンチン帝国の大宮殿があり、大宮殿と競馬場の貴賓席は通路で結ばれていたそうです。現在のヒッポドロームは当時の面影はなく3本の柱が建っているだけ。トトメス3世のオベリスクヒエログリフがはっきりと確認できて、オベリスク好きにはたまらない空間です。390年にテオドシウス1世がエジプトのカルナック神殿から略奪して運んできたものだそうです。このトトメス3世のオベリスクの隣に蛇の柱、そしてコンスタンティヌス7世のオベリスクと横一列に3本並んでいます。コンスタンティヌス7世のオベリスクは工事中青銅の蛇の柱は途中からバッキリと折れています。ギリシャのデルフォイのアポロ神殿から持ってきたものだそうです。さて、ここからトラムのスルタン・アフメット駅前にある名物キョフテの元祖「セリム・ウスタ」へ香ばしく焼き上げられたキョフテとレンズ豆のスープ、とっても美味しかったお腹がいっぱいになったところでまたイスタンブール散策です。次はグランドバザールへ、つづく。
2011年12月20日
トプカプ宮殿を後に次は地下宮殿へトプカプ宮殿の日記は、こちらトプカプ宮殿から近いというだけで寄ってみたのですが、ここは思ったよりもずっと面白かったです。入口は小さな建物ですが行列が出来ていたのですぐわかりました。まずチケットを購入、TL10なり。階段を下って地下に降りていきます内部はライトアップされていて神秘的、そして驚くほど広いのです(140m×80m×8m)Yerebatan Sarnici (Basilica Cistern)4世紀から6世紀にかけて作られたビザンチン帝国(ローマ帝国)の遺構で、地下宮殿と呼ばれていますが実際は地下の貯水池です。黒海に近い水源から19キロかけて、この後行くヴァレンス水道橋経由でここに水が運びこまれ、アヤソフィアやトプカプ宮殿などに供給されていたそうです。これは、すごいまるで「オペラ座の怪人」のセットのようではないですか。「オペラ座の怪人」ファンとしてはテンションあがります。イントロのテーマが頭の中で鳴り響きます。The Phantom of the Opera is there inside my mindそういう人が周りにもいるに違いないと思って見渡しましたが、そんなおバカな人はいませんでした宮殿の一番奥にはメデューサの顔が2体横たわっています。それぞれ柱の土台部分にメデューサの顔が使われているのですが、なぜか一つは横向きで、もう一つは上下逆さ。イスタンブールはオスマントルコ帝国の遺跡と、ローマ帝国の遺跡が一度に見られて面白いです。次はピッポドローム(ローマの大競技場跡)へ、つづく。
2011年12月19日
イスタンブール2日目は月曜日でした。イスタンブールの滞在は日曜日から水曜日までの3泊4日、世界的に博物館関係が休館日の月曜日を含みます。月曜日はアヤソフィア博物館と国立考古学博物館が休館日で、火曜日がトプカプ宮殿が休館日、この3カ所は距離的にとても近く本来なら一度で回れるのに2日に分けて回らなければなりませんでした。まず最も混雑すると言われているトプカプ宮殿から回ることに。オスマントルコ帝国の最盛期を約400年にも渡って支えた宮殿です。新市街にあるインターコンチネンタル・ホテルから、フニキュレル(地下ゲーブル)→トラムヴァイと乗り継いで、最寄り駅のギュルハーネ駅で下車。ここから国立考古学博物館の前を城壁沿いに歩くと、トプカプ宮殿のチケット売り場の前に出ました。朝早かったのでチケット売り場はそれほど混んではいません、入場料はTL20なり。外廷の正門「挨拶の門」(バービュッ・セラーム)をくぐります。Topkap? Palace (Topkap? Saray?)挨拶の門の内側は第2庭園になるのですが、その前にセキュリティーチェックがあります。これがおそらく混雑の原因その1だと思われます。ここをまっすぐ行くと皇帝の門ですが、まず左側のハレムへ行くことにしました。ここも大人気で混雑するそうなので先に行ってしまいます。ハレムは別料金でTL15なり。最初に現れるのは黒人宦官の部屋です。ハレムは女性の居住区なので女性と黒人宦官以外はスルタンとこの皇太子のみしか入場が許されなかったそうです。システムとしては中国の後宮や日本の大奥と同じ。渡り廊下でつながっている部屋が次から次へとあらわれ、その廊下や部屋が入り組んでいてまるで迷宮のようです。これはオスマントルコ帝国が中央アジアから移動してきた遊牧の民で、最初はテントを張って暮らしてた歴代スルタンたちが、発要に応じて増改築を繰り返してきた結果だそうです。またこれが混雑の原因その2だと思われます。ブルーのタイルが綺麗ですが豪華というよりはむしろ暗くて地味、昨日見たイェニ・ジャーミィ(新モスク)の方がはるかに立派です。意外に質素だったんだなぁ、と思わざるを得ません。第3庭園のハレムを出たところには謁見の間がありました。なんとなくテントの中っぽいかも。そして宮殿の一番奥の第4庭園あるメジディエ・キョシュキュのオスマン宮廷料理レストランのテラスからの展望です。ボスポラス海峡からマルマラ海までが見渡せます。お天気が曇りで今ひとつなのに海の色が綺麗なのが不思議。バーダット・キョシュキュ(バクダット館)のイフタリエ金の天蓋付きの東屋からは金角湾が見渡せました。バーダット・キョシュキュの内部は美しいイズニックタイルで覆われ、トプカプ宮殿の中でも最も美しい舘と言われているそうです。トプカプ宮殿の見どころは何と言っても宝物館残念ながら撮影禁止ですが86カラットの巨大ダイヤが輝かしい「スプーン職人のダイヤモンド」、柄の部分に世界最大のエメラルドが3つあしらわれた「トプカプの短刀」、数千個のダイヤがちりばめられた「黄金の燭台」などなど。これらの宝石はあまりにも大きくて、本当に本物なのだろうか、と疑ってしまうほど。確かに本物らしいです。オスマントルコ帝国は一度も侵略を受けていないので、膨大な宝物が略奪されることなく残ったのだそうです。トプカプ宮殿の建物はヨーロッパの宮殿に比べるとかなり地味ですが、この宝物館を見るとかつての帝国がどれほど豊であったかわかります。正義の塔こうしてトプカプ宮殿を後にしたのでした。帰りはチケット売り場が長蛇の列で早く来て正解でした。次は地下宮殿へ、つづく。
2011年12月18日
ホテルにチェックインして荷物を置いた後は、まずタクシム広場まで行きますこの日はアテネから着いたばかりでもう夕方ということもあり、明日以降の下見を兼ねてとりあえず旧市街へ行ってみることに。ここでの最初のミッションはアクビルを購入すること。アクビルとはほとんどの公共交通機関に使えるプリペイド式のチケットでチケットを買う手間が省けるほか、割引料金にもなるそうです。週末は売り切れも多いとの情報がありましたが、タクシム広場のバスターミナルのチケット売り場で簡単に手に入りました。デポジット込みで60TLのチャージなり。二人で共有出来るそうなので一つしか購入しませんでしたが、複数利用の場合は割引適用が無いような気がする。。。そしてタクシムからフニキュレル(地下ケーブル)に乗ってカバタシュへ。この間一駅で所要時間は1分。カバタシュからトラムヴァイ(路面電車)に乗り換えて旧市街へ。トラムはガラタ橋を渡って金角湾を渡ります。海の向こうにアヤ・ソフィア、トプカプ宮殿などが見え、イスタンブールに来たことを実感し胸が高まります。新市街からガラタ橋を渡ると最初に目に飛び込んでくるのが、旧市街の入口にたたずむイェニ・ジャーミィです。イェニは新しい、ジャーミィはモスクという意味なので、「新モスク」という意味になるかと。最寄り駅のエミノニュでトラムを下車。Yeni Camii, New Mosque本格的なモスクに入るのは初めてなのでどきどきします。1597年に建造が開始され、1663年に完成した、という銘板がかかげられていました。女性は髪の毛をスカーフなどで覆わなければいけません。また土足厳禁なので必ず靴を脱ぎます。モスクの中はあっと驚くような広さでした。アテネの正教会の教会に何となく似ていると思われた方、それはある意味正解です。アテネの正教会の日記は、こちらオスマントルコがコンスタンチノープルを征服した時、アヤソフィアを初めとする正教会の教会があまりにも立派だったので、破壊せずにそのままモスクに改装し転用しました。その後アヤソフィアを超える巨大モスクを自力で建築しようと頑張ったのです。その際のお手本が教会だったのでおのずから建築様式が似ているのです。礼拝堂の内部は全面装飾タイル貼り、光溢れる壮麗な空間となっていました。ジャーミィの中庭と泉亭イェニ・ジャーミィの裏にはエジプシャン・バザール、別名スパイス・バザールが広がっていました。Spice Bazaarイェニ・ジャーミィを運営するための財団(ワクフ)の一環として建築されたそうです。色鮮やかな数々の香辛料やドライナッツ&フルーツが店先に並び、活気に満ちあふれています。あとお土産やお菓子、食材などを扱うお店も多かったです。しかも何故か日本語ペラペラの店員も多いまだイスタンブールに着いたばかりなので、この活気と香辛料の独特な香りに完全に圧倒されてしまいました。こちらはアテネから着いたばかりということもあり、警戒心丸出しのとても感じの悪い客だったに違いないさて帰りは往路と違うルートにしようと、まずトラムに乗ってガラタ橋で金角湾を渡ってすぐのカラキョイで下車。ここからテュネルというヨーロッパで一番古い地下鉄に乗りました。終点のテュネル駅まで一駅、所要時間はわずか3分。イスタンブールには短い鉄道が多いなぁ。テュネル駅からはノスタルジック・トラムヴァイという、アンティークの路面電車に乗ってタクシム広場へ。トラムが通るイスティクラル通りもたくさんのお店が建ち並び、とても活気があり華やかです。今までアメリカの田舎→アテネと夜は寂しいところばかりだったので、頭がクラクラ、目もチカチカしてきました途中にあるガラタ塔に行きたかったのですが、ものすごく寒いし、雨も降ってきたので諦めました。こうしてイスタンブールでの初日は終わろうとしています。明日からは気持ちを立て直してしっかりと回る予定、つづく。
2011年12月13日
アテネからエーゲ航空でイスタンブールのアタテュルク国際空港に着きましたエーゲ航空の日記は、こちらイスタンブールのホテルは新市街にあるジェイラン・インターコンチネンタル・イスタンブールです。まずアタテュルク空港で必要最低額だけ両替しました。でも結果的に旧市街や新市街の両替商と比べてもレートはたいして変わりなかったです。空港からはハワシュという会社のシャトルバスで新市街のタクシム広場へHAVAS Shuttleシャトルは30分間隔で料金は10TL(約400円)、バスは新型でとても快適でした。ハワシュに乗ること約30分、直通でタクシム広場に到着広場からインターコンチネンタルが見えるので迷うことはありません。トランクをゴロゴロと転がしながら、タクシム公園をぐるっと迂回し約5分でホテルに到着アテネのホテルもインターコンチネンタルでしたが、イスタンブールはもう華やかというか、豪華というかアテネの日記は、こちらエントランスからまばゆいばかり入り口には屈強なガードマンがいて、空港と同じようなセキュリティーチェックがあります。出入りの度に毎回チェックがあってちょっとめんどくさいですが、泊を重ねるごとに顔なじみになってフリーパス状態になっていきした。見上げるばかりのドーム天井、太い柱。まるでモスクか宮殿のようです。螺旋階段の手摺の支柱がクリスタルですこれはドルマバフチェ宮殿のイメージなのかな、と後で気づきました。今回はたまりにたまったPriority Clubのポイント泊で、部屋はクラブフロアでした。部屋からはボスポラス海峡が見えました。海峡の向こう側がアジアサイド、こちら側がヨーロッパサイドです。テーブルの上にあるのはウェルカムフルーツ&お菓子です。部屋にはいるとTVの画面がウェルカムボードになっていて、名前が表示されていました。部屋は金と赤が基調で、アテネのインターコンチネンタルに比べると明るいです。エグゼクティブ・クラブラウンジでの朝食ここからもボスポラス海峡が見えます。朝食のメニューは毎回違っていました。しかもラウンジのウェイターはプロ中のプロでした。お客の飲み物の好みを初回利用の際覚えていて、次回からは黙っていても出てきます、素晴らしい朝食のバターとはちみつホテルにはハマム(蒸し風呂)もありました。イスタンブールで一番綺麗なハマムだそうです。宿泊者は無料で、お隣にはスパもありました。2日目に行ってみましたがじわーっと体が暖まります。難点はハマムが男女兼用なこと。私が行ったときは全員男性だったのでさっさと引き上げましたとにかく何から何まで豪華なホテルでした。さて、まだ時間があるのでちょっと旧市街まで行ってみることに。イスタンブールの旅の始まりです、つづく。
2011年12月12日
いよいよアテネからイスタンブールへの移動です。アテネ国際空港13時40発のエーゲ航空3992便で、イスタンブールへは14時55分着、とても近いです。エーゲ航空はあまり馴染みが無いエアラインですが、スターアライアンスに加盟していて評判も良いようです。 まずホテルのシャトルバスでシンタグマ広場まで行き、そこからリムジンバスでアテネ空港へ行くことにしました。ところがバスに乗ったものの途中の道路が封鎖されていて、これ以上先に行けないから降りろですと一瞬「大規模ストライキか」とドキッとしましたが、そうだ、今日は日曜日11時から国会議事堂前の無名戦士の碑で、大がかりな衛兵交代式を行うため道路を封鎖するのだそうです。でもここで相手の言いなりになって降りてはいけないのです。「荷物もあるので最寄りのメトロの駅まで行って」と強く主張。結局メトロのアクロポリ駅近くで下ろしてもらい、アテネ空港まではそのままメトロに乗って行くことにしました。またこの空港行きのメトロが死ぬほど時間がかかったなぜ各駅ごとの停車時間がこんなに長いのか。時間に余裕を持っていたからよかったものの、そうでなかったらかなり焦ったと思う。空港に着いたらタックスリファンド(免税手続き)のため税関へ税関はパスポートコントロールの直前にありました。店舗で作成してもらった書類と購入品を持って並ぶのですが、周りの大半の人(外人)は購入品を持っていないのです。どうなることかと見守っていたら、税関のお姉さんは「今度来るときはちゃんと持ってきてね」と言いながら、バンバンとスタンプを押していました。いいかげんな国は良いこともあるものだこれがドイツ語圏だったら間違いなく受理されないであろう。そして出国審査のすぐ後に、払い戻し手続きのためのカウンターがありました。グローバルブルー社のカウンター還付金の受け取り方法ですが私はクレジット決済にしました。クレジットカードをその場で読み取るので絶対に間違いなし。もう翌月に還付金が振り込まれていました(処理上マイナス請求になります)。やるなぁ、アテネ。セキュリティエリア内には免税店が並んでいて、あのコレス・ナチュラル・プロダクトのお店もありました。ここで少し買い足しましたが化粧品なので液体物です。ただ今回は乗り継ぎがないので袋にシールドをしてもらい大丈夫でした。ちなみにアテネ空港の液体物を含む手荷物検査は、搭乗の直前にあります。お買い物の後はラウンジへ行ってみるとオリンピック航空のラウンジでした。Olympic Airあまりお腹が空いていなかったのでケーキとコーヒーのみその後ランチの時間になると軽食が並べられました。飛行機へはバスでの移動でした。Aegean Airlinesエーゲ航空の現地での発音ですが、当然の事ながらエイジアンになります。エーゲ航空のCAはビックリするほど綺麗な方が多かったです。この方は機内安全説明のために黄色いベストを着用していますが、私はこれほどまでに美しいCAを見たことがありません。エーゲ海を思わせるサファイアブルーの瞳、ギシシャ彫刻のような美しい顔立ち。まさに、Wind is blowing from the Aegeanううっ、古いなぁ。。。飛行機は定刻に離陸さようならアテネ、まさに波瀾万丈の3泊4日でした。そして機内食はとても美味しかったでも今まで気が張っていて、その緊張が一気に解けたせいか、途中でうとうとしてしまい半分しか食べられなかった食後に配られたチョコレートはレオニダスだったようです。イスタンブールのホテルでしっかり食べました。そうこうしているうちに着陸態勢となり、マルマラ海のかなたにイスタンブールが見えてきました。もう少しエーゲ航空を楽しみたかったかも。そしてあわただしく飛行機を降りたためここで大失敗を一度も開くこともなく座席のポケットにつっこんだままのこちら、最新版の「地球の歩き方 イスタンブールとトルコの大地」を、完全に忘れて機内に置いてきてしまいました。じつはイスタンブールの街並みはものすごく複雑で、これが無いために後々ものすごく苦労する羽目になったのでしたこうしてイスタンブールの旅がはじまります、つづく。
2011年12月11日
いよいよアテネ最終日、午後からイスタンブールに移動です。午前中は時間もあり、また日曜日ということで、正教会の聖体礼儀(カトリックのミサにあたる)に行くことに。インターコンチネンタルのコンシェルジュに聞いて、ホテルから一番近い教会を教えてもらいました。休日で静かな住宅街を歩くこと約5分、Lagoumitzi通り沿いに近代的な教会が見えてきました。アテネでは多くの教会に入ってきましたがやはり主日の教会は特別で、祈祷者もたくさんいてまさに生きた祈りの場となっていました。シャンデリアなどのすべての灯りが照らされ、イコノスタスやイコンの前にたくさんのろうそくが灯され、まばゆいばかりに輝いていました。ドーム天井のハリストス像そして堂内に朗々と流れる聖歌の響きに引きこまれます。聖歌はモノフォニー(単声)で無伴奏、テキストはギリシャ語でした。西方教会のローマン・カトリックのグレゴリオ聖歌に近い、と言うとわかりやすいかもしれません。もちろん東方教会の正教会の方が歴史が古いのです。この教会で歌われていた聖歌はニコライ堂などの日本正教会や、ロシア正教会の和声付けされた聖歌とは全く違う、まさにビザンチン聖歌(ビザンツ聖歌)でした。生まれて初めて聞くビザンチン聖歌。西洋音楽の調性の範疇に入らない独特の神秘的な響きでした。また教会内には椅子が置かれているのですが、終始起立したままでお祈りする日本正教会と違って、大事なお祈り以外は座ったままで良いようです。ロシアから伝導された日本正教会は、ロシア正教会寄りなのだとはっきりと認識しました。参拝者は時間がたつに連れどんどん増えて活気があります。長く厳しいトルコ支配下でも失われることなく守り抜いたビザンチン式の奉神礼を見ることが出来て、言葉では言い表されない深い感銘を受けました。私にとっては貴重な体験でした。こうしてアテネの旅は終わりに近づいてきます。さて旅はいよいよ現在はトルコのイスタンブール、その昔はビザンチン帝国の首都・コンスタンチノープルへ、つづく。
2011年12月10日
ダフニ修道院からアテネ市街へバスで戻ることにしました。ダフニ修道院に入れなかった日記は、こちら修道院前のバス停 MONI DAFNIOYバスを待っていたのですがなかなか来なかったので、最初に来た845番のバスに乗ってしまいました。アテネまでは東へほぼまっすぐの道なのですが、バスは途中で右折してしまいそのまま一向に曲がる気配がないこのままではどこへ行くかわからないのであわてて下車降りたところは「T.E.I. PEIRAIA」というバス停でした。道路の反対側へ行きバス待ちしている人に、とりあえずメトロの駅へ行くバスがあるか聞いたところ、親切に教えてくれました。教えてもらったバスでしばらく行くと、メトロのライン3の終点エガレオ駅(EGALEO)に無事到着。ちなみにバス停の名前は「ESTAYROMENOS」でした。あとから調べたところによると、845番バスはピレウス港まで行くらしい。ピレウスは紀元前490年に建築されたアテネを守る軍港で、そうと判っていればバスの終点まで行ってもよかったかもしれない。でもギリシャ語が読めなかったし、バスの行き先はどう見てもピレウスでは無かったし。。。さて、エガレオ駅の前にも正教会の教会がありました。中は立派なビザンチン様式の教会でした。ここからメトロへ乗ってモナスティラキ駅へお腹が空いたのでタベルナが立ち並ぶ通りを歩きます。このあたりはアクロポリス帰りのたくさんの観光客が通るので、俗に「ツーリスト・トラップ」といわれる呼び込みの激戦区です。でも今日はアクロポリスも48時間ストライキでクローズ見上げると無人のパルテノン神殿がむなしくそびえてます。Dia Taytaというタベルナのウェイターさんが感じが良かったので、入ってみることにしました。Dia Tayta典型的なギリシャ料理だそうです。すべてのお料理にチーズが入っています。グリーク・サラダはチーズと野菜をかき混ぜてしまった後です。Dia Taytaは昨日行ったタナシスより美味しかったここからまたメトロ・ライン3に乗って、2つ目のエヴァンゲリスモ駅(Evangelismos)へ国立美術館やビザンチン・クリスチャン博物館の最寄り駅ですが、ここも48時間ストライキ中なので閉館です民間の博物館はスト中でも関係ないのでベナキ博物館へ行ってみました。故ベナキ氏のコレクションで彫刻や絵画、イコンなどが所蔵されています。 Benaki Museumここのミュージアム・カフェが落ち着いていて良かったです。テラス席から国会議事堂からアクロポリスまで見渡せました。ここでゆっくりとくつろいでからシンタグマ広場へ広場のど真ん中にはアフリカ系の黒人が偽ブランド品を並べたお店がたくさんありました。国会議事堂の方に眼をやるとたくさん人が集まっていました。時計を見るとちょうど5時だったので急いで無名戦士の墓へちょうどの時間に衛兵の交代式があるのです。最後の方を見ることが出来ました。衛兵が交代し終わったら写真撮影の許可がでますので、観光客が一斉に衛兵の元へ駆け記念写真を撮ることが出来ます。大規模ストライキがなければこんなに平和なんですね。こうしてアテネの2日目はシンタグマ広場で終わりです。ここからトラムに乗ってホテルへ。インターコンチネンタル・アテナウムああ、やっぱり落ち着くなぁ。インターコンチネンタルの詳しい日記は、こちら明日はイスタンブールへ移動なのでパッキングです。香水や化粧品などのたくさんの液体物を免税手続きしたものの、どうやって空港の税関まで持って行くのか? つづく。
2011年12月05日
ケラミコス遺跡を高台から眺めた後、ダフニ修道院へのバスに乗るためエレフテリアス広場へケラミコス遺跡にストで入れなかった日記は、こちらダフニ修道院は世界遺産に登録されているビザンチン様式の教会ですが、ここもアテネの遺産にもれなく長期改装中で、わざわざ行ったのに入れないことも多々あるそうです。なのでホテルでの朝食後クラブラウンジのスタッフに確認したところ、すぐに調べてくれて「毎日空いているようだから大丈夫」とのこと。ギリシャで物を尋ねる時は3人に聞けという掟があります。それだけいいかげんな人が多いということらしいです。でもクラブフロアのマネージャーが言うのだから間違いないだろう、ということで行ってみることにしました。ああ、何故ここで3人に確認しなかったのか、悔やまれます。。。さて、エレフテリアス広場に着きました。驚くことにこの広場は中華街と化していました。この後ウィーンにも行っているのですが、ウィーンの街角も中華街化が着々とすすんでいました。周囲の景観をまったく無視したド派手な看板の嵐にしばし呆然とたたずむ。アテネの中国系の店のほとんどは偽ブランドショップで、なるほど偽物売りの黒人さんはここで仕入れるのね、と納得。偽物売りの日記は、こちらダフニ修道院行きのバスに関しては渡航前に綿密に調べおきました。A16、B16とΓ16(ガンマと読みます)が該当バスです。バス停にいたのはΓ16で念のため切符売りのおじさんに「ダフニ修道院へ行きますか?」ときいたら英語がよくわからないらしく携帯で運転手に連絡を取ってくれました。しばらくしてごく普通の私服姿の男性がやってきて「一緒にダフニへ」と言ってくれたその人が運転手さんでした。事前調査のA16とルートが若干違っていてあせっていたら、「さぁ、ダフニに着いたよ」と教えてくれたので助かった教えてくれなかったらわからなかったと思う、この間30分弱で意外に近かったです。降りたところはダフニ修道院の一つ前の停留所でしたが、何とかききながらも入口に到着Monastery of Dafniしかし扉はしっかりと施錠されています。開けようと扉をガシガシと鳴らしていたら、奥の建物の窓が開いて1人の女性が顔を出して言うには、今日は休館日、開いているのは火曜日と金曜日よですと今日は土曜日。こうして無情にも窓は閉められたのでしたううっ、インターコンチネンタルめ、毎日開いていると言っていたのにクローズじゃないかでも3人に確認しなかった自分も悪い明日はイスタンブールへ移動なので諦められず、また扉をガシガシと鳴らすと先ほどの女性が呆れてやって来ました。インターコンチネンタルからもらったペーパーを見せながら、「ほらここに毎日オープンしていると書いてあるし」と交渉するも、オープンしているのは2日だけとの一点張り。どうやらこの女性は工事関係者のようでした。仕方がないので「修道院の全景が見える場所を教えて」ということで教えてもらった場所から撮った写真です。ああ、ダフニ修道院。あの建物中に世界遺産のビザンチン様式のフレスコ画やモザイクが。。。こういう場合必ずリベンジを誓う私ですが、アテネに行くことはもう無いと思う。あまりにも社会情勢が悪すぎる。しかも良くなる見込みは残念ながら当分無いであろう。こうしてとぼとぼと元来た道を戻るのでした。それにしても帰りのバスがなかなか来ないダフニ修道院前のバス停 MONI DAFNIOY昨日までストだった影響なのか、20分待ってようやく来たバスにとりあえず乗ってみた行き先は該当番号ではない845番バス、つづく。
2011年12月04日
アテネ2日目の朝、お天気は曇り。昨日にアテネの主な観光地のほとんどを回ってしまったので、今日はほぼ自由です。ちょっと遠出して郊外にあるダフニ修道院へ行くことにしました。ビザンチンのフレスコ画とモザイク画が有名で、世界遺産にも登録されているそうです。ダフニへはエレフテリアス広場から出るバスに乗るのですが、そこへ行く途中にケラミコス(ケラメイコス)遺跡があるので寄ってみることに。古代アテネの墓地があったところで、昨日のアクロポリスの共通チケットで入場出来るそうです。ホテルを9時出発のシャトルバスに間に合ったので、まずシンタグマ広場までああ、今日は地下鉄もバスも、タクシーも動いている当たり前のことなのに有り難くて涙が出そうになります。今まで2日間、交通機関がストで運行していなかったのですが、動いていると広場もこんなに活気があるのね。ここからメトロ3号線でモナスティラキ駅まで行き、1号線に乗り換えてティシオ(Thissio)駅下車です。まずシンタグマ駅で1日共通乗車券のデイリー・チケットを購入。そしてお隣のモナスティラキ駅へ行ったのですが、なぜだか1号線のピレウス行きの乗り場が無いどこを探してもないので周囲の人に聞くと、なぜだか反対方向のオモニア駅へ行けと言われる、謎である。ギリシャ人に物を尋ねるときは3人に聞けと物の本に書いてあったので、いろいろ聞いてみても皆さんオモニア駅へ、とのみ仰る。ついに何番目かの人に聞いて真相が判明しました。「この駅は工事中で閉鎖されているのでいったん反対方向の駅へ」ということらしいです。モナスティラキ駅ってアクロポリスの最寄り駅なんですよね。閉鎖ですか、そうですか。。。仕方がないのでいったんオモニア駅まで戻り、確かに工事中のモナスティラキ駅を通過し、ティシオ駅へ駅前広場にはギリシャ正教の教会がありました。中にも入ってみました。ビザンチン様式の教会でした。アテネのこういうところが好きです今日はアテネの街歩きの日でもあるので少し周囲を歩いてみました。日本だったら仏壇屋にあたる教会の神具やイコンが売っているお店や、シナゴーグなどもあってなかなか面白かったです。ケラミコス遺跡が見えてきました。Keramikosむむむ、資材などが積み上げられていて、何だかほったらかしの遺跡のように見える。。。遺跡の向こう側にも教会が見えたのでぐるりと回って行ってみました。かなり大きいギリシャ正教の教会でした。ここからしばらく歩くと遺跡の入口が見えてきましたが、そこには入口で呆然とたたずむ西洋人観光客が2人、そして彼らの目の先には1枚の張り紙が。いやーな予感がして読んでみると、美術館・博物館が48時間ストライキですと交通機関のストが終わったと思ったら、今度は博物館関係のストですかっええい、こんな遺跡、どうせほったらかしだし見る価値なんか無いや日本語で毒づいていたら西洋人カップルがその怒りを感じたのか、「あそこに高台があるから登って全景でも見てみよう」と誘ってくれました。上からみた景色左奥の教会が先ほど行った教会です。おそらくここら辺りが遺跡のメイン付近だと思うのですが、あえて入ってみることもないとあらためて思ったのでした←完全な負け惜しみふと後ろを振り返ると白中堂々と違法な取引をしている地元民達。しかも相手はどう見ても未成年の少女。やっぱり病んでいる、負のオーラがみなぎってる。。。複雑な思いでエレフテリアス広場へ、つづく。
2011年11月25日
アテネの宿泊ホテルはインターコンチネンタル・アテナウムでした。計画当初はシンタグマ広場に近くてアクセスのよいヒルトン・アテネか、クラウンプラザを希望していました。ただ皆さん考えることは同じなのか、両方とも満室仕方がないのでアクセスは悪いですがクラウンプラザと同じ系列、Priority Clubのインターコンチネンタルにしました。インターコンチネンタルはPriority Clubの最上位のホテルでありながら、何故だか宿泊料はクラウンプラザよりも安かったのです。Athenaeum InterContinental Athensシンタグマ広場からトラムでNeos Kosmos駅で下車、ここから徒歩で約200mです。トラムの駅を出たところに青い看板が出てます。公共の交通機関の駅ではここが一番近いと思いますが、降りた所はわりと寂しい住宅街でした。メトロの最寄り駅は2号線のシングル・フィクス(SYNGROU/FIX)駅。シンタグマ駅から2駅ですが降りてから1キロほど歩かなければなりません。ホテルのシャトルバスを利用することが多かったので、結局この駅は利用しなかったです。ホテルからのシャトルバス1時間に1本(朝は30分に1本)、シンタグマ広場のマクドナルド前までシャトルバスが出ています。あとタクシーを含めた交通機関が全部ストでストップした日は、緊急措置として空港までシャトルバスを出していました。エントランスのところにあったオブジェホテルとしてはかなり規模が大きいと思います。1階にはブランドショップもありました。泊まった部屋は最上階(9階)のエグゼクティブ・フロアです。エーゲ海の青が基調なのかな、と思いました。フロアは大理石でカーペットが敷かれています。ウエルカムフルーツ箱に入っているのはギリシャの伝統菓子「ルクーミ」。この後イスタンブールに行ったら同じ物が「ロクム」と呼ばれてました。オスマン帝国占領時代にギリシャに伝わったお菓子なのだそうです。ホテルのアメニティインターコンチネンタルのアメニティはエレミスですが、ここはコレス・ナチュラル・プロダクト(KORRES)でした。コレスはギリシャのブランドですがとても良かったのでアッティカ・デパートと空港で購入しました。お買い物の日記は、こちらデンタルリンスとバスソルトだけは、イギリスのブランドのGILCHRIST & SOAMESでした。このバスソルトも素晴らしくて1日の疲れが吹き飛びました。また客室は毎夜ターンダウンサービスが入ります。それとは別に夜の9時くらいになるとメイドさんがワゴンで各部屋を回り、タオルやアメニティの補充をききにきてくれました。クラブラウンジでの朝食3泊しましたが朝食のメニューは毎回違いました。このラウンジが素晴らしいのはテラスからの眺めです。左手にアクロポリスのパルテノン神殿、右手にリカベトスの丘ライトアップされたアクロポリステラス席でのお食事クラブフロアに関してはラウンジのスタッフも、客室係も最高のホスピタリティを誇っていると言ってよいと思います。観光の中心部から離れてはいますが、それほど不便にも感じず快適に過ごすことが出来ました。アテネはストが多く、驚くようなことも多かったのですが、ホテルが最高だったのでかなり救われた部分があります。さて次からはまた旅行記へ、つづく。
2011年11月24日
コロナキ地区でのショッピングの後は、リカベトスの丘へ登りますお買い物日記は、こちらひときわ高い印象的な3角形のこの丘はアテネのランドマーク。街のどこからでも見ることが出来ます。アクロポリスから見たリカベトスの丘標高273mで傾斜もきつそうなのでケーブルカーを利用することにして、早速ケーブルカー乗り場へ コロナキから両脇はブーゲンビリアの咲く住宅街へと変化。これが結構キツイ登りで、しかもずっとこんな階段が続きます。なぜケーブルカーの乗り場なのにこんな坂の上にあるのか?なぜもっと下から通さないのか、これじゃ意味が無いよブツブツ文句を言いながら登ります。登ること10分くらいでやっと着きましたTeleferikが、ストで運休だそうです今日は交通機関がストだとは知っていましたが、ケーブルカーもストなんですねっおそらくこの乗り場あたりで、リカベトスの丘の中腹までは来ているのではないだろうか?戻るのも悔しいので登山道を歩いて登ることに人通りが少なくて結構寂しい山道ですもう疲労も怒りもMAXなところに、日本から来た一人旅の青年に出会い一緒に頂上まで登ることに。「よくこんな所に来たねぇ」「個人で来るなんて勇気あるよねぇ」などお互いを讃えあったのでした。途中怪しげな男性が道を塞ぐように立っていたりしていましたが、こちらも固まって大声を出しながら歩き、事なきを得ました。頂上です でもここは登った甲斐はあった展望台からはアテネの町を一望の下、絶景が広がります。Lycabettus夕方の神々しいばかりのアクロポリスのパルテノン神殿丘の上にはアギオス・ヨルギオス教会19世紀の正教会の教会です。そして絶景のレストラン、オリゾンテス・リカヴィトウへOrizontes Lycavittouここでしばらくまったりとしていました。帰りは下りなのでラクです。帰路は犬の散歩をしている地元の方もいて人通りもそれなりにありました。途中の展望台からの景色ピレウスの海が夕日に映えてはっきりと見えました。そしてシンタグマ広場へ最近よくニュースに出る国会議事堂です。インターコンチネンタルのシャトルバスは、シンタグマ広場のマクドナルドの前から1時間に1本の割合で出ます。どうせ遅れてくるだろうと思ったら、時刻表の時間ピッタリに来ました。素晴らしいこれに乗ってホテルへ長い一日が終わろうとしています、つづく。
2011年11月23日
アテネの金曜日は遅くまでお店が開いているので、観光の後にショッピングをすることが出来ました。この後イスタンブールからウィーンへ行くのですが、そこでは時間全く取れないのでこれが最初で最後のショッピング。力が入ります高級ブランドが並ぶコロナキ地区へ行きます。まず腕時計のベルトを求めて、ヴクレスティウー通りにあるオメガへクロコのベルトが痛んでしまったので新宿伊勢丹へ行ったら在庫が無く、日本総代理店にも無くて取り寄せで5万円かかると言われたのです。でもアテネのブティックにはちゃんとありましたしかも在庫がたくさんあり選ぶことも出来たのです。その場で付け替えてくれました。OMEGA Boutique, Athensとても穏やかで紳士的な方でした。日本からのお客は珍しかったのかオメガのキャップも頂きました。お値段は218ユーロでした。ギリシャは120ユーロ以上のお買い物でタックスリファンド(免税手続き)が出来ます。免税手続きをしたので後日20ユーロ戻ってきて、198ユーロになりました、よかったですさて次はコレス(KORRES)という化粧品を買いに、パネピスティミウ通りにあるアッティカ・デパートへコレスはアテネに来るまで全く知らないブランドだったのですが、宿泊したインターコンチネンタルのアメニティがコレスだったのです。使ってみたらとっても良かったのです持っていた「るるぶ」にはアッティカ・デパートにあると書いてありました。こういう時に「るるぶ」は使えるなぁAttica, Panepistimiou G.Athensアッティカはとても大きくて綺麗な高級デパートでした。2005年にオープン、300もの有名ブランド店が入っているそうです。入口には眼光鋭い屈強なガードマンがいます。ガードマンというよりはもはや軍人に近いかも。アテネの高級店や高級ホテルには必ず私設ガードマンがいるので安心です。一方こちらの格好はというとアクロポリスから来たので、一昨日のグランドサークルを回ったときとほぼ同じはい、靴はもちろんトレッキングシューズですショッピングの後にはリカベトスの丘にも登る予定、コロナキはリカベトスの丘への通り道でもあるのです。中に入るとまずジョー・マローンを発見Jo Maloneアテネにジョー・マローンがあるなんてあまりにも嬉しかったので買ってしまいました、前から欲しかったレッド・ローズの入ったセット、80ユーロなり。あとアッティカも120ユーロ以上買うとタックスリファンド出来るというので、ネクタリンプロッサム&ハニーのコロン(30ml)を追加、45ユーロなり。これは友人にヒースローのT5で買ってきてもらったばかりです。ヒースローの日記は、こちらお気に入りでかなり減ってしまっていたのでこれで安心して使えます。こちらは免税手続きをしてセットが73ユーロ、コロンが41ユーロにあとここのジョー・マローンはサンプルをたくさんくれました。さて、次はお目当てのコレス・ナチュラル・プロダクトへKORRES NATURAL PRODUCTSたくさんの商品が並べられていて、テスターで試すことが出来ます。ここではアメニティとほぼ同じアイテムを購入。アメニティのボディ・ローションはレモンの香りだったのですが、ジャパニーズ・ローズという香りにしました。会計の時ジョー・マローンでの免税書類を手に持っていたので、コレスでの購入品も追加記入していただくことが出来ました。結局タックスリファンドして1本750円くらいになりました。帰国してから伊勢丹にも売っていることが判明なおアッティカ・デパートでタックスリファンドする商品は、6階のカウンターで手続きしてからの引き渡しになります。そして再びヴクレスティウー通りへVoukourestiou Street この写真のあたりは特に高級ブランドが密集した所ですが、ご覧のように人通りはまばらです。左側にエルメス、カルティエ、ラルフ、プラダ、ルイ・ヴィトン、右側にブルガリ、ディオールなどの蒼々たるブランドが並んでいます。驚くべき事にこの写真の手前でアフリカ系の黒人男性が、偽物のルイ・ヴィトンのバッグを道のど真ん中に広げています。偽物売りは何故か「背の高い黒人」と決まっていてとても目立つ。レストランのテラス席で食事している人々に売り歩いたりもしています。「一体どこで仕入れてくるのだろう?」と不思議でしたが、翌日ひょんなことから分かってしまいました。あとアテネのゴミは最初にちょっとふれましたが、このコロナキ地区も例外ではありません。通りに積み上げられたコミの山ゴミ収集人のストによるものです(撮影:2011年10月中旬)。さて、ここではルイ・ヴィトンへヨーロッパに行くと必ずその都市のヴィトンに立ち寄るようにしています。大型書類を持つことが多いので、私にとってはファッションというより必需品なのです。購入した物はこちらこれから国境を越える移動があるので軽くて折りたためるダミエ・アズールのネヴァーフルMMにしました、560ユーロなり。ここでの買い物所要時間はおよそ5分品物を告げ、中身をチェックし、免税手続きをして終了。結局タックスリファンドして後日80ユーロ返金され、480ユーロでした。お客さんは中国人が多かったです。以上購入した物は袋から出してすべてエコバッグへ。アテネの高級店ではどの店も最高のホスピタリティを誇っています。品揃えも接客も完璧で申し分ありませんでした。ただ一歩外に出ると偽物売りやジプシーの子供が目を光らせ、アル中、薬中がうつろな目をして俳諧していて恐いのです。また大規模ストの抗議集会が行われるシンタグマ広場も、ここから徒歩5分ととても近いです。タクシーで乗り付け、タクシーで帰る、というのがスマートなやり方かもしれませんね。こうしてショッピングを終え、リカベトスの丘へ向かいました。アテネの絶景が眺められる丘です、つづく。
2011年11月22日
モナスティラキ広場近くのタナシスでランチの後、ミトロポレオス通りを歩きます後にも先にもこの通りが一番活気に溢れていました。両端にタベルナが並んでいて「ヤーサス!」と威勢の良い呼び込みの声が響きます。とにかくレストラン関係の皆さんは勤勉で働き者一方地元の方はカフェでまったりと過ごされています。カフェは地元民でどこも満員御礼状態。なぜ平日の真昼間に働き盛りの年代が大挙カフェに?と思いましたが、そうか、今日はストの日なんだと納得。ミトロポレオス通りをしばらく行くと、アテネ随一の格式を誇る教会が見えましたMitropoleos Cathedral アテネおよび全ギリシャの大主教の主教座聖堂、ミトロポレオス大聖堂(生神女福音大聖堂)です。19世紀半ばに完成したのでアテネの中では新しい建築物で、大統領の宣誓式など国家的行事もここで行われるそうです。でもファサード全体に足場が。。。内部も足場+養生シートでほとんど見ることができなかったここは一番楽しみにしていた所だったのになぁ。この足場、いつ取れるのだろう。。。Web上の写真を見ても足場がかかったものばかりなので、かなり長期間この状態だと思われます。大聖堂の正面にある広場には二つの像が建てられていました。一つはビザンチン帝国の最後の皇帝、国の致命者聖コンスタンチン(コンスタンチン11世)。銅像のアップは、こちら(ウィキペディアより)ローマ・シリーズでおなじみ塩野七生の著作「コンスタンティノープルの陥落」を読んだ方なら感慨ひとしおかと。もう一つは第二次世界大戦中にアテネ大主教であり、1945年にギリシャの首相を務めた大主教ダマスキノス。さて次はミトロポレオス大聖堂のすぐ隣にあるアギオス・エレフテリオス教会へChurch of Agios Eleftherios12世紀のビザンチン帝国時代に建てられた元主教座教会、別名ミクリ・ミトロポレオスです。これは「小さなミトロポレオス」という意味で、ギリシャの教会名に付いているアギオスは「聖」という意味です。教会の中にも入ってみました。小さくてもビザンチン様式のたたずまいでとても落ち着きました。さてここからニュースでよく見るシンタグマ広場へそしてコロナキ地区でショッピングです、つづく。
2011年11月21日
古代アゴラを出てローマン・アゴラへ行くことにこの間のアドリアノウ通りは土産屋やカフェが立ち並んでいてとても雰囲気の良い通りでした。右側にはモナスティラキ駅から地上に出たメトロが走っているのですが、今日は交通機関すべてストなので静かです。まずアドリアノスの図書館へ2世紀頃にローマのアドリアノス帝が建てたのだそうです。Hadrian's Library建物の一部であろうこの壁しか残っていませんこれが図書館と言われても。。。柱の下に横たわる犬死んでいるのかと思いギョッとしましたが、ちゃんと生きてました。ただいまお昼寝中。アテネの野犬の日中はだいたいこんなかんじで、特に警戒心もなくだらだらと過ごしています。こちらの方がインパクト大でした。そしてアドリアノスの図書館のお隣のローマン・アゴラへRoman Forum先ほどの古代アゴラが紀元前5世紀の古代アテネの遺跡であるのに対し、こちらはローマ時代初期(紀元前1~2世紀)の遺跡だそうです。いずれにせよ古いことには変わらないのですが、もう廃墟というか、ただのがれきの山にも見える。。。風の塔 Tower of Winds八角形の塔が風の塔で、壁面には風神の浮彫りがあります。古代の時計塔をかねた風見塔だそうです。アクロポリスから始まってここまで世界各国の観光客に会いましたが、皆さん自国の歴史的遺産とその管理に自信を深めたに違いない。特にイタリア人とか、中国人とか。。。せっかくはるばるアテネまで来て(まぁイタリア人は近いからいいとして)、これではガッカリでしょう。古代遺跡が古いのは分かるけど、放置状態では駄目だと思う。ちなみにこの二つはアクロポリスの共通チケットで入れます。単独チケットだとそれぞれ2ユーロ、あくまで個人的な意見ですがここは柵の外から眺めるだけでも十分かと。朝から歩き回りおなかも空いたのでここでランチタイム各種ガイドブックがイチオシのモナスティラキ広場近くのタナシスへThanasis左がスブラキで、右がグリークサラダ。スブラキは一口大に切った肉を串刺しにし炭火焼きにしたもので、ここでは牛肉を指定。グリークサラダの上にはどーんとチーズが乗っています。サラダはかき混ぜてチーズをからませるのが正式の食べ方のようです。スブラキはトルコ料理のケパブだと思って良いです。ギリシャ料理はトルコ支配が長かったせいかトルコ料理の影響が大きく、この後イスタンブールへ移動してその感をより強く持ちました。でもギリシャの方が香辛料が強く、チーズもコッテリ系、やはりトルコ料理の方が格段に洗練されていると思うのです。またオリーブオイルを多用するなどイタリア料理に近い部分もあります。もちろんイタリア料理の方が美味しいのは言うまでもないでしょう。さてお腹もいっぱいになったので次はシンタグマ広場方面へ、つづく。
2011年11月20日
パルテノン神殿からアレオス・パゴスを経て古代アゴラへ アレオス・パゴスの日記は、こちら古代アゴラの中にあるアギイ・アポストリ教会を見たかったので、正面入口からではなく南の入口から入りました。アゴラは「市場」と言う意味でもちろん紀元前の古代アテネの遺跡。古いのは分かるのですが、ただほったらかされているようにも見えるローマのフォロ・ロマーノの方がしっかり管理されていると思いました。 フォロ・ロマーノの日記は、こちら入口入ってすぐに教会がありました。アギイ・アポストリ教会小さいですが典型的なビザンチン様式の教会でした。聖堂を上から見ると十字の形、東向き(入口は西)、ドーム天井など。中に入るとろうそくの光からイコンや壁画が浮かび上がります。とても神秘的ただ古代アゴラの中では11世紀の教会と比較的新しい建物です。ろうそくはろうそく献金として購入可能。アテネは砂の上に挿すタイプの燭台が多かったです。古代アゴラ博物館博物館のアタロスの柱廊。ギリシャ建築の中でただ一つ完全に復元された建造物だそうです。古代アゴラで発掘されたほとんどの物が、この古代アゴラ博物館に収蔵されているそうです。羽のついた勝利の女神・ニケ像古代アゴラ内のゼウス神殿から発見された紀元前415年の像。「るるぶ」に必見と書いてあったのですが、こういう顔のないものとか、逆に顔だけの物とかが多いです。ここからどう判断しろと?アテネの遺跡はものすごい想像力を必要とします。古代アゴラの正面玄関あたり Ancient Agora高台にヘファイストス神殿(テセイオン)が見えます。今まで見た遺跡の中で最も原型を残している建造物かも。登ってみますTemple of Hephaestus パルテノン神殿とほぼ同時期(紀元前450~440年)のもの。ヘファイストスは鍛冶の神で、美の女神アフロディテの夫です。近くによるとその大きさに圧倒されます。ここは人も少なく、落ち着いていてよかったさて古代アゴラを後に、次はローマン・アゴラ方面へ、つづく。
2011年11月19日
アクロポリスのパルテノン神殿の次は古代アゴラへ行くつもりでしたが、飛行機の中で読んだこちらの本に、聖使徒パウロがアテネで初めて伝導した場所「アレオ・パギト」がある、と書いてあったので寄ってみることにしました。でも最新版「地球の歩き方」には載っていません。一方「るるぶ」には「アレオス・パゴス」と書いてあります。正教会の表記は通常の言い方と違うことが多いので、ひょっとしたらここかもしれない、と思い行ってみました。アレオス・パゴス Arios Pagosパウロの説教を記したギリシャ語の銘板が確かにありました。古代アテネの時代は政治や裁判の集会が開かれた場所でもあったそうです。アクロポリスのパルテノン神殿の方が高い眼下に古代アゴラが見えます。パウロは西暦54年にアテネが見渡せるこの丘のから、民衆に教えを説いたと言われています。史実の場所に実際に立ち静かな感動を味わいました丘をぬける風も心地よかったです。それにしても食べ物とショッピング中心の「るるぶ」肝心な地図が間違っていたり大雑把で使えないと思っていましたが、ここで役に立って見直してしまいました。ガイドブックは複数持って行った方がいいですね。次は古代アゴラまで降りていきます、つづく。
2011年11月18日
新アクロポリス博物館からディオニシウ・アレオパギトゥ通りを、アクロポリス遺跡のパルテノン神殿へ向かいます途中にあったヘロド・アティクス音楽堂現在も現役の劇場として使われているとか。はるか上にパルテノン神殿が見えます。ここから高台への登り道ですアクロポリスとは「高い丘の上の都市」という意味ですが、思ったよりも傾斜がきつく、ほぼ登山と思ってよいかも。チケット売り場の近くにあった郵便局ΕΛΤΑ(=ELTA)と書かれたのがギリシャのポスト、黄色です旅の記念にさきほど買った絵葉書を投函しました。こんなストだらけの国だから日本に着かないかもしれないと思いましたがアメリカから出したものより早く着きました。ごめんよ、アテネ。。。ちなみにここには絵葉書は売っていません。私が書いていると「どこで売っているんだ?」とかなりの人に聞かれました。売れば儲かるだろうに。。。またチケット売り場は案の定長蛇の列だったので、ゼウス神殿で共通チケットを購入しておいてよかったプロピレア(前門)世界中から集まった観光客でごった返しています。さすがに世界の観光地です。でも後から聞いた話によると昨日はストでクローズだったそうです。それもあってより混雑していたのかもしれません。ちなみに翌日もストでクローズでした。たまたまこの日だけストとストの狭間でオープンしていたという。。。世界遺産なのにそんな頻繁にストしていいのかアクロポリスから眺めたヘロド・アティクス音楽堂フィロパポスの丘とワンコアテネには野犬化したワンコが多かったです。しかもたいていは寝ています。踏んづけそうになりビックリすることもしばしば。そしてパルテノン神殿が見えてきました今から遡ること2,500年前に建てられた神殿やっぱり壮大壮麗、見る者を圧倒するパワーがあります。神殿の前がカルコテケ。昔の宝物館で今は礎石だけが残っています。角度を変えてもう一度パルテノン神殿展望台にはためくギリシャ国旗展望台からの眺め右側がリカベトスの丘、この後登る予定です。エレクティオンこの少女像の柱はレプリカで、本物は先ほどの新アクロポリス博物館にありました。次はアレオス・パゴスから古代アゴラへ、つづく。
2011年11月17日
アテネでの最初の朝です。今回のホテル、アテナウム・インターコンチネンタル・アテネのクラブフロアでの朝食。Athenaeum InterContinental Athens並べられた銀器や陶磁器、そして窓の外にはアクロポリスこうやってあらためて写真を見ると、やっぱりヨーロッパなのだなぁとしみじみ思います。ビュッフェスタイルなのですが暖かい飲み物が見あたらないので、「紅茶はどこですか?」と聞いたら「お持ちします」と言われてしまった「そうだ、ここはヨーロッパなんだ」と気づく。いちいちお願いするのが面倒だと思う私はやっぱり庶民なんだなぁ。でもコーヒー・マシンから好き勝手に入れる方が気が楽です。そして紅茶はロンネフェルトでした。ああ、やっぱり美味しいですこの日も昨日に引き続き交通機関はすべてストだそうです加えてタクシーまでもがスト。でもそこはさすがにインターコンチネンタル、空港行きのシャトルを出すそうです。あと平常時でも30分~1時間の間隔で、シンタグマ広場までシャトルバスを走らせています。アテネの見どころは一点集中型なのでこれで充分またシンタグマ広場まで地下鉄2駅分ですので、いざとなったら徒歩でも大丈夫です。今日はアクロポリスをメインに回る予定で、まずシャトルバスでメトロのアクロポリ駅付近までそれにしてもアマリアス大通りはすさまじい渋滞でした。皆さんマイカー通勤だからだと思われます。ちなみにストが解除された翌日は空いていました。まずゼウス神殿からスタートここを起点とした理由は、パルテノン神殿を含む6カ所の遺跡が共通チケットなので、一番空いていると思われるゼウス神殿でチケットを購入したかったから。実際チケット売り場はガラガラでしたが、大通りからかなり離れたところにあります、なぜだ。。。アドリアノス門 Hadrian's Archローマ時代、2世紀に建てられた門で、奥に見える高台がアクロポリスです。ゼウス神殿 Temple of the Olympian Zeusかつては計104本のコリント式の柱が並んでいたそうです。今はわずか15本。。。うーん、ギリシャの遺跡は想像力を必要とします。「昔は美しく壮大だったのだろう」と、柱と柱を頭の中でつなぎ合わせ在りし日の姿を想像します。さてここから新アクロポリス博物館へディオニシウ・アレオパギトゥ通り Dionissiou Areopayitouゼウス神殿からアクロポリスへと通じる遊歩道で、入り口付近にカフェやタベルナが立ち並んでいます。ここで絵葉書を購入、とても安くてびっくり。新アクロポリス博物館2009年にオープンした新しくてピカピカの博物館。アクロポリスにあった展示物をすべてここへ移転したそうです。展示物はアテネの最盛期、パルテノン神殿が建てられた頃の物が多いのですが、破損がひどく完璧に残っているものが無いに等しいです。保存状態が悪いのか、長い歴史の中で破壊されてしまったのか、良い物は列強国に持って行かれてしまったのか。。。ここでも残っているパーツを頭の中で組み立てて、在りし日の姿を想像するしかありません。さて再びディオニシウ・アレオパギトゥ通りをアクロポリスへ途中にあった小さな教会アテネで出会った初めてのギリシャ正教の教会です。この後街の中でたくさんの教会を見ました。しかもほとんどの教会は扉を開放して中に入ることが出来ます。イコン、ろうそくの光、ドーム天井の壁画、イコノスタス、ギリシャ正教の神秘的な世界が存在していました。そして地元の人が気軽に立ち寄り祈りを捧げては帰って行く。まさに信仰の場であり、現在も生き続けている空間となっています。こういうところにアテネの日常を垣間見ることが出来ました。さていよいよアクロポリス遺跡に登り、パルテノン神殿へ、つづく。
2011年11月16日
コロラド州のデンバーから大西洋を越えてまずフランクフルトへ、そして乗り継ぎでギリシャの首都・アテネへ行きますすべてルフトハンザ航空での移動でした。ルフトハンザ航空・LH447便デンバーを定刻の18時5分に離陸。しばらくして夕食が運ばれました。オードブルサラダメインディッシュルフトハンザのアメリカ発ドイツ行きフライトのスターシェフ、リッツ・カールトンのAndr?s Jim?nez氏監修だそうですが、正直いってあまり美味しくなかったですルフトハンザの食事は美味しいと思っていたのですが、アメリカだからでしょうか、ほとんど残してしました。デザート結局ガチンゴチンに冷凍されたハーゲンダッツのみ完食。機内ではこれから行くギリシャに備えて、ひたすらこちらを読んでいました。むかし著者の高橋保行神父の講義を受けたことがあるのですが、こうして改めて読み直すと奥深いです。そして朝食これもかなり今ひとつなお味で、ほとんど食べずああ、お腹がすいた(涙)さてフランクフルトは同日のお昼の11時35分に到着入国審査を経て、ルフトハンザ航空のセネターラウンジへここはいつも混んでますね。ラウンジのお食事がとても美味しいのです。ソーセージに暖かいスープ、じゃがいも、ああ、ドイツのご飯は美味しいなぁここで念のため在ギリシャ日本大使館のHPをチェック。なんと、アテネの交通機関がストですべてストップですとほ、本当ですかっ渡航前にギリシャ政府の観光局に何度も確認して、旅程が大規模ストと大規模ストの間だからまず大丈夫と言われていたのです。こういう時、皆さんでしたらどうされますか?とりあえず現地へ行って様子を見るか、ここで対策を打っておくか。。。我が家はもちろん後者です。電話をしましたよ、ここから今日のアテネのホテル、アテナウム・インターコンチネンタル・アテネに。大使館の情報と実際の現地の情報が違うことはあるし、アテネの場合ストが行われていても途中で中止になることもあります。でもやはりストが行われてました、バス、地下鉄はじめ交通機関すべて。アテネ着は18時予定なのでコンシェルジュにタクシーの手配をお願いしました。ただし55ユーロだそうです。話のやりとりを一部始終を聞いていた隣の席のギリシャ人男性が「高すぎる」と自分のことのように憤慨していました。「通常の2倍だぞ、乗るときに再度交渉しろ」とアドバイスしてくれました。ラウンジにはたくさんの人がいるのに隣がギリシャ人だなんてビックリです。この方、ものすごく強面でしたがとても良い方でした。さて、フランクフルトからアテネへルフトハンザ航空LH1282便は14時10分発のところ、約1時間半のディレイで出発この時配られた夕食ヨーロッパ内の近距離国際線のスターシェフマリオ・コタスカ氏監修によるもので、こちらは美味しかったただラウンジで食べ過ぎてほとんど食べられず。。。配られたチョコレートは後日食べましたが美味しかったそしてエーゲ海上空からアッティカ半島が見え、アテネへ近づいてきました空港ではバゲージクレームでも、税関でも職員を見ることなく、フリーパス状態で外に出る、いいのか?そして手配しておいたタクシーですが、いました、いました。「インターコンチネンタル」の紙を持った運転手さんが。何だかんだで予定より約2時間の遅れでこの時点で夜の20時、結果的に手配しておいてよかったです。ここからアテネ市内へアテネの街は上から見たかんじと違ってあまり綺麗ではない。古いコンクリートの無味乾燥な建物が多く、しかも落書きだらけ。しかも何ですか、道の角ごとに積み上げられたゴミの山は?このゴミの山、どう見ても1~2日の量ではなく、少なく見積もっても1週間以上は経過していると思う。このゴミの山と道の両脇の違法駐車がタクシーの行く手を阻む。取り締まりとかないのかな?うう、やっぱり噂どおりスゴイところに来ちゃったんだなぁ。。。そしてインターコンチネンタルに到着場所は中心部のシンタグマ広場から地下鉄で2駅のところです。ちゃんと決められた額+チップを支払いましたよ。運転手さんはとても誠実な人だったし。部屋は最上階(とは言っても9階)のクラブフロアです。やっぱり安全第一なんで。Athenaeum InterContinental Athensでも普通クラブフロアはエレベーターで上がる時、ルームキーを差し込まないと動かないはずなんですが、なぜだか普通に押して最上階へ行けちゃいました、いいのか?でもここのクラブラウンジの展望は素晴らしかったアテネで見る満月+1日の月。リカベトスの丘が見えます。そして左側に目をやるとライトアップされたアクロポリスのパルテノン神殿とりあえず無事にアテネに着いたのでテラス席で乾杯セドナから始まって、長い1日でした。そしてこれから波乱に満ちたアテネの旅がはじまるのでした。アテネでは「ええっ、どうして?」と驚いたり「なぜだ?」と困惑したり、日本の常識がまったく通じないことの連続でした、つづく。
2011年11月15日
この日はセドナからギリシャの首都・アテネへの移動です。まず早朝にセドナを出発して、アリゾナ州の州都・フェニックスへフェニックスが近づくと背の高いサボテン群が増えてきます。レンタカー・センターで車を返却して、シャトルバスでスカイハーバー国際空港へ。このあたりは2回目なのでもう慣れたものです。ガーミン(GPS)もよく頑張ったフェニックスからアテネまでは、デンバー→フランクフルトと2回の乗り継ぎです。アメリカのチェックインは自動が多いですが、ここは地上係員にお願いして慎重に手続きを進めます。ロスト・バゲージはいやだし、目的地がアテネだし。。。まずフェニックスのスカイハーバー国際空港から、コロラド州の州都・デンバーへ約2時間40分のフライトです。12時57分発のユナイテッド航空UA714この時のフライトは今回の旅行で行った上空を通るという、信じられないような、夢のような飛行ルートでした。まずフェニックス上空左端に流れているのがソルト川で、その横がフェニックス砂漠植物公園です。フラッグスタッフ上空付近白い雪を頂いた山がサンフランシスコ・ピークス(標高3,851m)そして極めつけのセドナ上空セドナで一番高いサンダーマウンテンを中心に、4大ボルテックスがはっきりと確認出来ました次はモニュメント・バレー上空写真ではわかりにくいのですが、肉眼ではビュートがはっきりと見えました。そして飛行機はロッキー山脈を超え、デンバー国際空港に定刻に到着ここから国際線で大西洋を越えてフランクフルトそしてアテネへ、つづく。
2011年11月14日
レッド・クロッシングからセドナでの最後の訪問地、四大ボルテックスの一つ、ベル・ロックへベル・ロックの駐車場は2カ所あります。前回はロックの姿が綺麗に見えるビレッジ・オブ・オーククリーク側の駐車場から入りました。 その時の日記は、こちら今回は登山口に近い駐車場からベルロックへ向かいました。こちらから見るとまるで炎のように見えます。登山口から見たベル・ロック四大ボルテックスの中でも一番赤みが強いと思うのですが、夕暮れが近づきより赤く染まりまりました。夕日に染まるベル・ロック Bell Rockお隣のコートハウス・ビュート Court House Butte自分自身を見つめ直し、多くの変化をもたらしてくれたことに感謝しながら、夕闇迫るベルロックを後にしました。そしてホテルへ戻る車の中から撮影した一枚、赤く染まるホーリー・クロス教会のマドンナ・ロックです。Chapel of the Holy Cross幼子イエスを抱くマリアに見えるロックを中心に、ナンズという「3人の尼僧の岩」が囲んでいます。左下に教会の建物も見えます。こうしてセドナの一日が終わろうとしています。宿泊したスカイランチ・ロッジから見たサンセット明日はいよいよギリシャの首都・アテネへ移動です、つづく。
2011年11月13日
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