FLESH&BLOOD 二次創作小説:Rewrite The Stars 6
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄 1
火宵の月 芸能界転生パラレル二次創作小説:愛の華、咲く頃 2
火宵の月 ハーレクインパラレル二次創作小説:運命の花嫁 0
火宵の月 帝国オメガバースパラレル二次創作小説:炎の后 0
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻 10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士 2
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ 5
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て 5
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法 7
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁 12
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:幸せの魔法をあなたに 3
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は 10
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁 1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華 14
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う 2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女 0
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜 18
火宵の月 昼ドラ大奥風パラレル二次創作小説:茨の海に咲く華 2
火宵の月 転生航空風パラレル二次創作小説:青い龍の背に乗って 2
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊 1
火宵の月×薔薇王の葬列 クロスオーバー二次創作小説:薔薇と月 0
金カム×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:優しい炎 0
火宵の月×魔道祖師 クロスオーバー二次創作小説:椿と白木蓮 1
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月 10
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:それを愛と呼ぶなら 1
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華 1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母 13
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫 20
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黄金の楽園 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳥籠の花嫁 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:蒼き竜の花嫁 0
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん 6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥 7
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師 4
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国 1
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている 3
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚 2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥 27
火宵の月 転生昼ドラパラレル二次創作小説:それは、ワルツのように 1
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計 9
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師 1
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉 54
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~ 6
FLESH&BLOOD×黒執事 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧の器 1
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華 0
火宵の月 現代ファンタジーパラレル二次創作小説:朧月の祈り~progress~ 1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:ガラスの靴なんて、いらない 2
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師 1
火宵の月 吸血鬼オメガバースパラレル二次創作小説:炎の中に咲く華 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黎明を告げる巫女 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:光の皇子闇の娘 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:闇の巫女炎の神子 0
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く 1
火宵の月 昼ドラファンタジー転生パラレル二次創作小説:Ti Amo~愛の軌跡~ 0
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~ 3
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら 2
PEACEMAKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で 9
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して 20
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:花びらの轍 0
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達 1
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花 2
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔 6
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~ 1
火宵の月 千と千尋の神隠し風パラレル二次創作小説:われてもすえに・・ 0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~ 15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて 10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう 8
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇ 2
火宵の月×天愛クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー 0
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい 4
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう) 10
魔道祖師×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想うは、あなたひとり 2
火宵の月×ハリー・ポッタークロスオーバーパラレル二次創作小説:闇を照らす光 0
火宵の月 現代転生フィギュアスケートパラレル二次創作小説:もう一度、始めよう 1
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火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風パラレル二次創作小説:愛の名の下に 0
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火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず 1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師 1
薄桜鬼×天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿 1
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰 2
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風昼ドラパラレル二次創作小説:砂塵の彼方 0
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※BGMと共にお楽しみください。『一体何があったんだ?』『ルドルフ様を殺そうと信孝さんが家に来て・・そこへたまたま、幸さんがやって来てしまって彼と鉢合わせてしまったのです。』 環の話によると、幸と鉢合わせした信孝は彼女の腹部目がけて発砲した後、自殺したという。ルドルフが幸の方を見ると、彼女は苦しそうに喘ぎながらルドルフの方へと手を伸ばした。「ルドルフ様・・」「サチさん、しっかりしてください!」「赤ちゃん・・わたしの赤ちゃんを、お助け下さい・・」幸はそう言うと、静かに息を引き取った。ルドルフが彼女の腹に手を当てると、微かに胎動を感じた。「社長、お医者様を呼んでください!」「わかった!」直樹が大宮医師を呼びに彼の自宅へと向かうと、大宮医師は不安そうな顔を直樹に向けた。「幸ちゃんの身に、何かあったんだね?」「はい。彼女は拳銃で腹を撃たれ、先程息を引き取りました。ですが、お腹の子供は無事です。」「彼女の元へ案内してください。」 同じ頃、環は亡くなった親友に向かって手を合わせると、彼女の見開いた目をそっと両手で閉じた。「幸さん、数時間前は嬉しそうに笑っていらしたのに・・どうして、こんなことに・・」「わたしの所為だ、わたしが彼女を抱いたりしたから・・」「いいえ、貴方は何も悪くはありません。悪いのは、幸さんを撃った信孝さんです。」環はそう言うと、震えているルドルフの手を握った。「こちらです、大宮先生。」「幸ちゃん、何て事だ!」 白衣の裾を翻した大宮医師は、息絶えた幸の手を握って嗚咽した。「先生、幸さんのお腹の子供はまだ生きています。」「幸ちゃんを、ベッドに寝かせてください。これから帝王切開手術をします。環さん、清潔な布と、熱湯を持ってきてください。」「はい、解りました!」 環が清潔なシーツを一階から持って行き二階の部屋に入ると、ベッドの上では大宮医師が幸の子宮から臍の緒がついた女の赤ん坊を取り出したところだった。 赤ん坊は羊水を飲んでしまっているせいなのか、なかなか産声を上げなかった。だが、大宮医師が赤ん坊を逆さにしてその尻を叩くと、赤ん坊は元気な産声を上げた。「元気な女の子だ。流石幸ちゃんが命懸けで守ろうとしただけある。」 そう言った大宮医師は、白衣の袖口で乱暴に涙を拭った。「先生、この子はこれからどうなるのですか?」「幸ちゃんのご両親が、この子を引き取ってくださると思います。」 しかし初孫の誕生とともに娘の死を知らされた藤宮夫妻は、初孫の養育を放棄した。「申し訳ありませんが先生、この子は乳児院へやってくださいな。この子に罪はありませんが、娘が死んだ原因はこの子の所為だとわたし達は思ってしまうのです。」 藤宮夫妻の決断を、大宮医師は受け入れた。「そうですか・・この子は乳児院へ・・大宮先生、差し出がましいお願いなのですが、この子をわたし達夫婦が引き取っても宜しいでしょうか?」「その方がいいでしょう。幸ちゃんは、貴方の親友でしたから、貴方が彼女の子を育てた方が、乳児院にやるよりもいいです。」 こうして、ルドルフと環は、幸が自らの命と引き換えに産んだ娘を引き取ることとなった。『ルドルフ様、この子の名前はどういたしましょうか?』『そうだな・・菊というのはどうだ?菊の花のように、高潔な女性に育つようにとの願いを込めて。』『そうですね、菊に致しましょう。』 ルドルフと環は、幸の娘を正式に養女に迎え、彼女を菊と名付けた。『また泣いたな。』『ええ・・わたしがあやして来ます。』 環は夫婦の寝室から出て、隣接した子供部屋に入ると、ベビーベッドの中で泣き喚く菊の小さな身体を抱き上げ、静かに彼女をあやし始めた。にほんブログ村
2016年01月05日
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1892年2月・長崎。「環さん、来てくださったの?」環が臨月を迎えた幸の元を訪ねると、彼女は生まれて来る子供の靴下を編んでいるところだった。「もうすぐ産まれそうね。」「ええ。元気にお腹を蹴っているわ。」「赤ちゃんの産着を持って来たのよ。」環が風呂敷の中から産着を取り出すと、幸は笑顔を浮かべてそれを受け取った。「有難う、環さん。」「幸さん、あの方とはどうなさったの?」「信孝さんとは、婚約を破棄してから一度もお会いしていないわ。まぁ、彼もわたしに会いたくはないだろうけれど。」「そうね・・」 環は信孝が幸との婚約を破棄してから、酒と女に溺れている事を知っていた。「環さん、もしあの時信孝さんと結婚していたら、わたしはお腹の子と共に死んでいたのかもしれないわ。」「幸さん・・」「お父様とお母様は、この子の誕生を楽しみにしてくれているのよ。何と言っても二人にとっては初孫ですもの。」「そうね。幸さん、今は何も心配せずに、元気な赤ちゃんを産む事だけを考えてね。」「ええ、解ったわ。」 藤宮家を後にした環が自宅に戻ると、居間のソファには信孝が座っていた。「どうして、貴方がうちに?」「用があるのはあんたじゃない、あんたの旦那だ。俺の婚約者を孕ませた張本人だよ!」信孝はそう叫ぶと、環を睨みつけた。「貴方、わたしの夫に何をするつもりです?」「それはあんたには関係のない事だ、退け!」自分の前に立ちはだかる環を乱暴に押し退けると、信孝は二階へと上がった。「ルドルフ、何処に居やがる?隠れていないで出て来い!」信孝は拳銃を構えながら、二階の部屋を物色し始めた。 その頃、ルドルフは仕事を終えて退社しようとしていた。「ルドルフ、ちょっといいか?」「何でしょうか、社長?」「実は今朝、会社の受付にこんな物が置いてあった。」直樹から封筒を受け取ったルドルフがその中身を確かめると、その中には血文字で書かれた手紙が入っていた。“お前を必ず殺してやる”「社長、これから帰宅します。タマキが危ない・・」「手紙の差出人が誰なのか、知っているのか?」「はい。その人物は、今家に来ている筈です!」「わたしも行こう。」 直樹とルドルフが帰宅すると、屋敷の中から銃声と悲鳴が聞こえた。「今の銃声と悲鳴は何処から聞こえたんだ?」「二階からです。」 ルドルフは嫌な予感を抱きながら、直樹と共に銃声と悲鳴が聞こえた二階へと向かった。『ルドルフ様、叔父上・・』『タマキ、無事だったのか。』 ルドルフが安堵の表情を浮かべながら妻の方へと駆け寄ると、環は震える手で床に倒れている信孝と幸を指した。 拳銃を握っていた信孝は既に息絶えていたが、幸はまだ息があった。にほんブログ村
2016年01月05日
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「環様ですね?」 環がパーティーを楽しんでいると、突然彼は背後から声を掛けられた。環が背後を振り向くと、そこには幸の乳母・滝の姿があった。「幸お嬢様が貴方にお会いしたいと仰せです。」「幸さんが?」 滝と共に幸の部屋に入った環は、彼女の顔が赤紫色に変色していることに気づいた。「どうなさったの、その顔?」「婚約者の方に、貴方の旦那様の子を妊娠している事が知られてしまったわ。」幸はそう言うと、寝台から降りて環に土下座した。「環さん、貴方の事を裏切ってしまったわ。どうか、わたくしを・・」「幸さん、頭を上げて頂戴。」「わたしは、許されないことをしてしまったのよ。どうして貴方は、わたしに怒りをぶつけないの?」「貴方は、大切な友達だからよ。」環はそう言うと、幸に微笑んだ。「幸さん、わたしは貴方が宿している子の父親が、ルドルフ様だということは知っているわ。でも、その事で貴方を責めたりはしないわ。わたしに出来ることがあったら、何でも言って頂戴。」「環さん・・」「その顔は、信孝さんに殴られたのね?」環の問いに、幸は静かに頷いた。「信孝さんは、わたしの事を金で買った女中としてしか見ていないの。だから、わたしさえ我慢すれば・・」「それは違うわ、幸さん。」環は何処か投げやりな態度の幸を見てそう言うと、彼女の肩を抱いた。「貴方が不幸な結婚をすることを、貴方のご両親は望んでいらっしゃるの?」「だって、わたしが信孝さんと結婚しなければ、うちは破産してしまうのよ?わたしが信孝さんと結婚しなかったら、お父様が・・」「幸、わたしの事は心配するな。」 突然ドアの向こうから、幸の父・直孝の声が聞こえた。「家の事は何とかする。だから、お前は自分と、お腹の子の事だけを考えろ。」「お父様・・」 直孝はドア越しに娘がすすり泣く声を聞くと、一階の大広間へと降りていった。「皆様、大変申し訳ないのですが、娘の婚約は白紙に戻させていただくことになりました。」「小父様、突然何を言い出すのですか!」「信孝君、わたしは娘を不幸にさせるような人間とは結婚させたくはないのだよ。」「小父様・・」 直孝にそう言われた信孝は、憤怒の形相を浮かべながら藤宮家を後にした。「お父様、本当に宜しいのですか?」「馬鹿な事を言うな、幸。娘の幸せを願わない親が何処に居る?」直孝は幸の頭を優しく撫でると、彼女に優しく微笑んだ。 突然幸から婚約破棄された信孝は、自棄酒を呷っては遊郭で女と戯れる日々を送っていた。(幸の奴、よくもこの俺を虚仮にしやがって・・いつか必ず痛い目に遭わせてやる!)「どうなさったの、信孝様?今夜はいつにまして機嫌が悪いわねぇ?」「女に振られたんだから、機嫌が悪くなるのは当たり前だろう?」「ああ、そうでしたわね。あたしったら無粋なことを聞いてしまったわね。」「いや、いい。」 自分にしなだれかかる女から香る白粉の匂いを嗅ぎながら、信孝は金髪碧眼の男が廊下を歩いて行くのを見た。「おい、さっき廊下を歩いていった男を知っているか?」「ああ、あの金髪の美丈夫のことですかい?確か彼は、長谷川商会の経理部長の、ルドルフ様とおっしゃったかねぇ・・」「へぇ、そうか・・」信孝はそう言うと、ルドルフの背中を睨みつけながら猪口の中に残った酒を飲み干した。にほんブログ村
2016年01月04日
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幸が妊娠し、女学校を退学処分となったことは、すぐさま彼女の婚約者である松阪信孝の耳にも入った。「誰の子だ?俺以外の男に抱かれたんだろう、このあばずれめ!」「違います、お腹の子は貴方の子です!」「嘘を吐け!」激昂した信孝は、そう言うと幸の頬を拳で殴った。悲鳴を上げて床に倒れ込んだ彼女の上に馬乗りになった信孝は、更に彼女を拳で殴った。「眞一郎坊様・・」「幸ちゃんは何処だい、滝さん?」「幸お嬢様なら、ご自分のお部屋で信孝様とお会いに・・」幸の乳母・滝がそう言った時、二階から幸の悲鳴が聞こえた。「ちょっと失礼するよ。」「お待ちください、眞一郎様!幸お嬢様は誰ともお会いになれないと・・」眞一郎は滝を振り切り、幸の部屋に入ると、そこには信孝に殴られ気絶している彼女の姿があった。「しっかりするんだ、幸ちゃん!」「眞一郎様、助けて・・」「お医者様を呼んで参ります!」 眞一郎は、自分の腕に抱かれている幸の顔を見た。信孝によって殴られ、彼女の美しい顔は変形し、青あざが出来ていた。「幸ちゃんに酷い目を遭わせたのは、お前だな?」「この女がいけないんだ、俺を裏切って他の男と・・」「黙れ!」眞一郎は信孝を睨みつけると、彼の頬を拳で殴った。「お前の事は絶対に許さない!」「よくもこの俺に暴力を振るったな!」 眞一郎と信孝が互いに睨み合っていると、そこへ幸の主治医である大宮医師が部屋に入って来た。「二人とも、暫く部屋から出て行きなさい。患者の前で喧嘩は止すんだね。」「ですが先生、こいつが幸ちゃんに暴力を振るったのですよ!」「君の話は後で聞こう、眞一郎君。」大宮医師はそう言うと、幸の部屋に入っていった。「酷いね・・信孝君に暴力を振るわれたのは、これが初めてなのかい?」「いいえ。結納を交わしてから、何度も彼から暴力を振るわれました。お前なんか金で買われた女中なのだから俺の言う事に黙って従えと・・」幸はそう言うと、溢れる涙をハンカチで拭った。「幸ちゃん、辛いことがあったら何でもわたしに打ち明けてもいいんだよ?」「先生、今からわたしが言う事は秘密にしてくださいますか?」「ああ。」幸は、大宮医師にお腹の子の父親の名を告げた。「それは、本当なのかい?」「はい。」「お腹の子は、産むつもりだね?」「先生、お願いです・・どうかこの事は・・」「わたしは何も聞かなかった事にしよう。それよりも幸ちゃん、君はこのまま信孝君と結婚するつもりなのか?」「家を救う為ですもの、仕方ありませんわ。」「君がそう言うのなら、わたしは止めないよ。ただ、これだけは覚えておいて欲しいんだ。どんなに辛い事があっても、決して一人で抱え込まないで欲しい。」「解りました。」 環と美千代は幸の婚約披露パーティーに出席したが、そこに幸の姿はなかった。「幸さん、どうなさったのかしら?」「何でも、体調が優れないとかで欠席為さったそうよ。」「そう・・」パーティーの主役である幸が欠席した理由は、体調不良だけではないと、環は勘で解った。にほんブログ村
2016年01月04日
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「貴方が幸ちゃんと同じ女学校に通っていると聞いて、学校の方からこちらの住所を聞いて伺いました。」神谷青年はそう言うと、環の隣に立っているルドルフの方を見た。「そちらの方が、貴方の旦那さんなのですね?」「はい。神谷様、こちらには何のご用でしょうか?」「いえ、貴方が心配だったのでこちらに伺っただけです。では、わたしはこれで失礼いたします。」 神谷青年はそう言うと、長谷川家を後にした。「若様、お帰りなさいませ。」「徳田、わたしが留守の間、何か変わった事はなかったかい?」「いいえ。それよりも幸様が、最近体調を崩されているそうです。」「幸ちゃんが?」「ええ。幸様は夏風邪をひいてしまっただけだとおっしゃっておられますが、メイド達は幸様が妊娠されたのではないのかと、噂しております。」“妊娠”という言葉を耳にした神谷の眦が微かにつり上がった。「もしその噂が本当だとしたら、幸ちゃんの結婚は破談になる。何としても、それだけは避けなければならない。徳田、その噂を流したメイドの始末はお前に任せる。」「かしこまりました、若様。」 神谷家の秘書・徳田はそう言うと、次期当主の部屋から出た。部屋で仕事をしていた眞一郎は、ふと机の上に飾ってある一枚の写真を見つめた。それは、昔倫敦(ロンドン)で従妹の幸とハイドパークを訪れた記念に撮ったものだった。 母親同士が姉妹であったので、従兄妹同士でありながら、眞一郎と幸は本当の兄妹のように育った。幸が成長するにつれ、眞一郎は彼女を妹としてではなく、一人の女性として見るようになった。 しかし、幸には親から決められた許婚が居た。相手は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの松阪重工の御曹司・信孝だ。 信孝とは、英国で同じ寄宿学校に通っていた同窓生だったので、彼がどんな性格なのか、眞一郎は知っていた。松阪男爵の一人息子として、信孝は両親から溺愛されて育ち、使用人達は自分に従って当然だという考えを持っている自己中心的な性格の持ち主だ。 信孝は、幸の事を婚約者ではなく、金で買った女中としてしか見ていない。親同士が勝手に決めた結婚に、彼は渋々と従っているだけなのだ。そんな結婚で、幸が幸せになるとは思えない。眞一郎が溜息を吐いていると、そこへ愛猫のマルコが彼の足元に擦り寄って来た。「お前はいいな、気楽に生きられて。」マルコの白い毛を撫でながら、眞一郎がそう呟くと、マルコは円らな目で主を見た。「御機嫌よう、美千代さん。」「御機嫌よう、環さん。ねぇ、幸さんの事、もうお聞きになった?」「幸さんが、どうかなさったの?」「あのね・・彼女、退学になったのですって。何でも、妊娠されたとか。」「妊娠?」環は、美千代の言葉を聞いて蒼褪めた。「環さん、大丈夫?」「ええ、大丈夫よ。」「環さん、貴方にお客様よ。」「わたしに、お客様?」「中庭で若い殿方がお待ちよ。」 教室を出た環が中庭へと向かうと、そこには神谷眞一郎の姿があった。「神谷様、わたしに何かご用ですか?」「もう幸ちゃんの事は聞いただろう?」「はい。幸さんが妊娠して退学されたって、本当なのですか?」 環の言葉に、眞一郎は静かに頷いた。「環さん、幸ちゃんのお腹の子の父親は、誰なのか知らないかい?」「いいえ、存じ上げません。」 環はそう言いながらも、幸のお腹の子の父親はルドルフではないのかと思ったのだった。にほんブログ村
2016年01月03日
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「もしかしたら・・環さんは、わたし達の事に気づいてしまったのではないかと・・」「何故、そう思うのです?」「わたし、いつも水仙の香水をつけているのです。もしかしたら、貴方のお召しになられている服にも、その匂いが移ってしまったのではないかと・・」 幸の言葉に、環の様子がここ数日おかしかった理由がルドルフに解った。「サチさん、タマキが貴方の家を出てどちらへ向かわれたのか、解りませんか?」「それは、わたくしにも解りかねます。でも、まだ環さんが近くに居るかもしれません。」「二手に分かれて探しましょう。」 ルドルフと幸が環を探しに藤宮家から出た頃、環は馬車で病院に運ばれていた。「気が付かれましたか?」「あの、貴方は、どなたですか?」 病室のベッドに横たわった環は、そう言って自分の手を握っている青年の顔を見た。「ああ、申し遅れました。わたしは、神谷眞一郎と申します。額の傷はどうですか?」青年の言葉を聞いた環は、彼が乗っていた馬車の前に飛び出し、怪我を負ったことを思い出した。「はい、もう大丈夫です。」環がそう言ってベッドから降りようとすると、青年が慌てて彼を止めた。「まだ起きてはいけません。他に怪我をしていないか、お医者様に診て貰いましょう。」「いいえ、家に帰ります。夫が心配してわたしの事を待っていますから。」 環は青年に病院まで運んでくれた事に礼を言うと、病院を後にした。「父上、母上、只今帰りました。」「環、今まで何処に行っていたのです?心配していたのですよ!」「母上、何かあったのですか?」「貴方が行方不明になったと聞いて、今ルドルフさんと幸さんが必死になって貴方の事を探しているのですよ!」 母の言葉を聞いた環は、ルドルフと幸を探しに家から飛び出した。環が暫く二人を探して歩いていると、丸山遊郭の近くで何かを話している事に気づいた。「幸さん、ルドルフ様!」「環さん、無事だったのね?」「御免なさい、二人とも心配をかけてしまって。」「今までどちらにいらしたの?」「馬車に撥ねられて、少し怪我をしてしまって、今まで病院に居たのよ。」「そう。じゃぁ、わたしはこれで失礼するわね。」幸は去り際に、ルドルフに一枚のメモを手渡した。「タマキ、何処か静かな所で話さないか?」「はい。」ルドルフに誘われ、環は港近くにあるカフェに彼と共に入った。「お話とは、何でしょうか?」「誰かに聞かれて困るから、ここからはドイツ語で話そうか?」『解りました。』『さっき、お前を探しにサチさんの所に行った時、彼女はわたしとの関係にお前が気づいているのではないかと言っていた。』『えぇ、知っていました。貴方の服から、幸さんがいつもつけている香水の匂いがするので・・』環はそう言って俯き、必死に涙を堪えた。『何故、黙っていらしたのですか?わたしが傷つくと思っていたから?』『済まない、わたしは・・』『ルドルフ様、わたしは貴方の事を愛し、信じております。貴方の裏切りを知った後でも、それは変わりません。』『タマキ・・』ルドルフは環の手を握ろうとしたが、それを彼は冷たく拒んだ。『ただ、今は頭が混乱していて、貴方に触れられたら酷い言葉で貴方の事を罵りそうで怖いのです。』『解った。』 環とルドルフはカフェを出て家に帰ると、居間には環を病院に運んでくれた神谷青年の姿があった。「貴方は、昼間の・・」にほんブログ村
2016年01月03日
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「どうした、環?さっきから上の空だぞ?」「いいえ、何でもありません。」環がそう言って重正の顔を見ると、彼は何も言わずにダイニングルームから出て行った。「母上、ひとつお尋ねしたいことがあります。」「何ですか?」「父上は、外に女を作ったことがあったのですか?」「まぁ、それはありましたよ。ですが、わたしは知らない振りをしました。環、知らないほうがいい事もあるのですよ。」「そうですか。」 育と話した後、環は二階の部屋でミシンを動かした。仕事に打ち込んでいると、ルドルフの服から微かに香る水仙の香りの事などすっかり忘れてしまった。『ただいま。』『お帰りなさい、ルドルフ様。今までどちらにいらしていたのですか?』『人に会っていたんだ。』環はルドルフと抱擁を交わしながら、また彼の服から水仙の香りがしている事に気づいた。『ルドルフ様、最近誰とお会いしているのですか?』『それは、言えない。』『何故です?』『言ったら、お前を傷つけてしまう。』『もしかして、わたし以外に好きな方が・・』『それはない。お願いだタマキ、わたしを信じてくれ。』『はい、解りました。』 環が結婚を控えた幸の元を訪ねると、彼女は何処か浮かない顔をしていた。「どうなさったの、幸さん?もうすぐ花嫁となるのに、浮かない顔をしているわね?」「ええ・・」幸はそう言って紅茶を一口飲もうとした時、急に吐き気に襲われて慌てて口元を覆った。「幸さん、大丈夫?」「夏バテかしら。最近食欲がないの。」「そう・・きっと、結婚の準備で疲れているのでしょうね。」「そうかもしれないわ。」幸がそう言ってソファから立ち上がった時、微かに彼女から水仙の香りがした。(まさか、ルドルフ様と会っていた方というのは・・幸さんなの?)「どうなさったの、環さん?」「いいえ。わたしはこれで失礼するわ。」藤宮家を後にした環は、ルドルフと密会していた相手が幸だということを知り、激しく動揺していた。(どうして幸さんが、ルドルフ様と・・) 環がそんな事を思いながら歩いていると、突然目の前に馬車がやって来た。避ける暇もなく、環は馬の蹄を額に受けて気絶した。「大丈夫ですか?」 馬車の中から人が出て来て、誰かが自分を抱き上げてくれたのを感じた環は、そのまま意識を失った。「タマキ、遅いですね。何かあったのでしょうか?」「そうね。いつも学校が終わったら真っすぐに家に帰って来るのに。そういえば、今日は幸さんの家に寄ると言っていたわね。」「お義母さん、藤宮家に行って参ります。」 ルドルフが家を出て藤宮家を訪れると、蒼褪めた顔をした幸が彼を出迎えた。「ルドルフ様・・」「サチさん、タマキがここに来ていなかったか?」「はい、ですが急に体調が悪いとおっしゃって、お帰りになられました。」にほんブログ村
2016年01月02日
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「ルドルフ様。」 会社を出てルドルフが家路を急いでいると、背後から突然声を掛けられ、彼が振り向くとそこには幸の姿があった。どうやら学校の帰りらしく、彼女は袴姿だった。「どうなさったのです、サチさん?わたしに何かご用ですか?」「実は、ルドルフ様にお話ししたい事がありまして・・ここでは人目がつきますので、場所を変えませんか?」幸はそう言うと、ルドルフを近くの喫茶店へと連れて行った。「それで、わたしにお話ししたい事とは何でしょうか?」「あの・・正直貴方にこうおっしゃるのも変だと思いますけれども、わたくし、貴方の事をお慕い申し上げております。」 幸の言葉を受けたルドルフは、驚愕の表情を浮かべながら彼を見た。幸はそんなルドルフを見ると、羞恥で頬を赤く染めて俯いた。「突然告白されて、迷惑ですよね?ルドルフ様には、環さんという奥様が居られるのですし・・」「サチさん、何かわたしに隠していらっしゃいますか?」「実は、来月ある方と婚約することになったのです。」「お相手の方は、どなたです?」「父の知り合いで、松阪重工のご子息です。」(政略結婚か・・) 幸の浮かない顔を見たルドルフは、彼女がこの縁談に乗り気ではないことに気づいた。親同士の利害が一致した結婚―そこには、当人同士の意思など関係ないものだ。かつて自分も、シュティファニーと不幸な結婚をしたことを、ルドルフは思い出した。「そうですか・・それはおめでとうございます。」「ルドルフ様、わたくしを抱いてくださいませんか?」突然の、余りにも直截的な幸の告白を受け、ルドルフは思わず飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。「サチさん・・」「お願いです、一度だけでもいいのです。そうすれば、貴方の事を諦めることができますから・・」そう言って自分を抱いて欲しいと懇願する幸を、ルドルフは拒むことが出来なかった。 喫茶店から外へと出ると、先程まで晴れていた空が急に曇り出したかと思うと、激しい土砂降りの雨が降って来た。「何処かで休みましょう。」「はい・・」ルドルフと幸が雨宿りの為に入ったのは、丸山遊郭の近くにある待合茶屋だった。「どうぞ、ごゆっくり。」部屋の襖を女中が閉め、二人きりとなったルドルフと幸は、暫く互いに黙り込んでいた。「本当に、いいのですか?」「はい・・」「この事は、誰にも話してはいけませんよ。」「解りました。」 ルドルフは幸の唇を塞ぎ、ゆっくりと彼女が穿いている袴の紐を解いた。幸の乳房に唇を落とすと、彼女は微かに喘いだ。 自分のもので幸を貫くと、彼女はルドルフの背中に爪を立てた。「痛かったら、止めましょうか?」「いいえ。」幸は快感の波に呑み込まれ、ルドルフのものを締め付けた。「では、わたしはこれで。」ルドルフは身支度を整えると、待合茶屋の部屋に幸を残して帰宅した。『お帰りなさいませ、遅かったですね。』『残業で遅くなった。』『そうですか。』 環はルドルフと擦れ違った時、彼の服から微かに水仙の香りがした。にほんブログ村
2016年01月02日
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丸山遊郭の一角にある料亭『双六亭』に直樹達と共に入ったルドルフは、女中に奥の座敷へと案内された。「久保様、連れて参りました。」「そうか、入ってくれ給え。」「失礼いたします。」直樹はそう言って襖を開けて座敷の中へと入ると、そこには背広姿の男が金屏風の前に座り、酒を飲んでいた。「そちらが、君の会社で経理を担当しているという男かね?」久保の絡みつくような視線が自分に向けられ、ルドルフは吐き気を催した。「ルドルフ、こちらは久保商会の社長をしておられる久保子爵様だ。」「初めまして。」「おや、日本語が話せるのか。てっきり日本語が話せないのかと思っていたよ。」久保が少し馬鹿にしたような顔をしてそう言うと、ルドルフは彼を睨みつけた。「どうやら彼の気を悪くさせてしまったようだ。」久保はそう言って手を叩くと、彼の近くにある襖が開き、衣擦れの音とともに芸妓達が座敷に入って来た。「あら子爵様、今夜は良い殿方をお連れになったのですねぇ。」「さぁさ、みんなで客を楽しませておやり。」 直樹達が双六亭で芸妓達に囲まれている頃、環はルドルフがいないことに気づき、不安になった。「どうなさったの、環さん?」「ルドルフ様のお姿が何処にも見当たらないの。」「ああ、そういえばさっき貴方の叔父様がルドルフさんを何処かへお連れするのを見かけたわ。」「そうなの・・一体叔父上達は何処へ行ったのかしら?」「恐らく丸山遊郭辺りでしょうね。先ほど貴方の叔父様が、久保子爵様とお話をされていたのを聞いたけれど、丸山辺りで落ち合うとかなんとかおっしゃっていたわ。」幸はそう言うと、環を心配そうな顔で見た。「環さん、ルドルフさんに限って浮気なんてする筈がないわ。あの方は貴方の事を愛していらっしゃるもの。」「そうね。」 その日の夜、ルドルフと直樹は帰って来なかった。 翌朝、環が寝台の中で寝返りを打つと、隣には酒と白粉の臭いをさせたルドルフが寝ていた。『ルドルフ様、起きてください。』『済まない・・昨夜は朝まで飲んでいて、帰れなかった。』ルドルフはそう言うと、二日酔いの頭痛に襲われて呻いた。『今、お水を持ってきます。』環が寝室から出て一階へと降り、水が入ったグラスを持って二階へと戻ろうとした時、客間の方から話し声が聞こえた。「どうやら、あの件についてルドルフが色々と調べているらしい。」「それは厄介ですね。彼は仕事が出来る男ですが、敵に回すと厄介です。」「いくら環の夫とはいえ、わたしの邪魔をする者は排除する。環には悪いが、彼には消えて貰う事になるだろう。」「社長、それは不味いです。」杉下が少し声を落として直樹にそう言うと、彼は少し苛立ったかのように机を叩き始めた。「では、どうすればいいんだ?」「それはこれから考える事に致しましょう。」 二人の会話を廊下で聞いてしまった環は、そのままグラスを持って静かに二階の寝室へと戻った。『どうした、タマキ?顔色が悪いぞ?』『昨夜は久しぶりに社交の場に出たので、疲れてしまいました。』『そうか。』ルドルフはそう言って環の手からグラスを取り、水を一口飲むと、再び寝台の中へと潜り込んだ。『お前も休め。』『はい。』 夫の腕の中で環は休みながら、客間の前で聞いた叔父と杉下の恐ろしい内緒話を忘れることにした。にほんブログ村
2016年01月01日
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「まぁ、貴方のような身分の方が幸さんのパーティーに招待されるなんて、思ってもみなかったわ。」「あら、それは一体どういう意味かしら?」環がそう言って富貴子に詰め寄ろうとした時、ルドルフが笑顔を浮かべながら彼の方へとやって来た。『タマキ、こちらの方は?』『ルドルフ様、こちらはわたしの友人の、幸さんです。』『初めまして、サチさん。』自分に笑顔を浮かべながら挨拶したルドルフに、幸は一瞬見惚れていた。「どうなさったの、幸さん?」「いえ・・環さんの旦那様が、余りにも素敵な方だったから、思わず見惚れてしまったわ。」「あら、そうなの。折角だから、ルドルフ様と踊っていらっしゃいよ。」「まぁ、いいのかしら?」「いいに決まっているじゃないの。」 幸とルドルフが踊りの輪の中へと加わると、踊っていた招待客達が二人に好奇の視線を向けた。―まぁ、あれは確か長谷川さんの所の・・―見て御覧なさいな、幸様の嬉しそうなお顔・・―踊っていらっしゃる方も、まんざらではないようね。 幸が踊る度に、裾の部分に縫い付けたエメラルドが美しい輝きを放った。「あのドレス、貴方がお作りになったのですってね?」「ええ、そうよ。」「どうせ安物の生地で作ったのでしょう?そのドレスも、何だか幼すぎるわね。」富貴子はそう言って環の粗を探すかのように、彼の全身を見た。「貴方のドレスの生地の方が安物ではなくて?それか、誰かのお下がりなのかしら?」環は富貴子のドレスに紅茶の染みを見つけてそう彼女に指摘すると、彼女は顔を赤く染めながらそのまま大広間から出て行った。「環さん、こんばんは。」「あら杉下さん、こんばんは。貴方がこのような場所に居るなんて珍しいわね?」「わたしは社長のお供でこのパーティーに出席しているだけです。」杉下は素っ気ない口調でそう言うと、環を見た。「そのドレス、素敵ですね。」「有難う。」「では、わたしはこれで。」杉下は直樹の姿を見つけると、彼の方へと駆け寄った。「社長。」「あぁ、杉下か。」商談相手と談笑していた直樹は、忠実な部下の顔を見て持っていたワイングラスを使用人に渡した。「先ほど話していらっしゃった方は、久保商会の久保子爵様ですね?」「今考えている計画について、ちょっと話し合っていたところだ。杉下、ルドルフを呼んで貰えないか?」「はい、解りました。」杉下はそう言うと、幸とダンスを踊り終えたルドルフを呼んだ。「ルドルフさん、社長がお呼びです。」「解った。」ルドルフが環の元へと行こうとした時、杉下が少し苛立った様子で彼の腕を掴んだ。「環さんには、わたしから後で伝えておきます。」有無を言わさず杉下に直樹の元へと連れて来られたルドルフは、そのまま馬車に乗せられた。「何処へ行く?」「それは着けばわかる。」 馬車で暫く坂道を走っていると、それは丸山遊郭の前で停まった。「ここに一体何の用があるんだ?」「それは来てみればわかる。」にほんブログ村
2016年01月01日
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「まぁ、素敵なドレスだわ!無理を言ったというのに、こんなにも早く仕上げてくださって有難う!」 放課後、環は自分にドレスを依頼した藤宮家で夫人の美知子に仕上げたドレスを見せると、彼女は感嘆とした声を上げて環からドレスを受け取った。「これなら幸(さち)も喜ぶと思うわ。今呼んできますから、ここで待っていてくださいな。」「はい・・」環が暫く居間のソファに座って美知子と彼女の娘・幸が二階から降りて来た。 幸は5月の誕生日に16歳となり、その誕生パーティーに社交界デビューすることになっていた。「環さん、ご機嫌よう。素敵なドレスを有難う。」「いいえ。幸さんが気に入ってくださって嬉しいわ。ドレスの生地は、パリから取り寄せたものにしたの。」「何だか今からパーティーが楽しみだわ。そうだわ、環さんも是非パーティーにいらして。」「ええ、必ず伺うわ。」「今日はいらしてくださって有難う、環さん。また学校でお会いしましょうね。」「幸さん、これで失礼するわね。」 藤宮家を後にした環は、そのまま帰宅した。「母上、只今帰りました。」「お帰りなさい環、ドレスは藤宮様に気に入っていただけましたか?」「ええ。幸さんが、誕生パーティーにわたしを招待してくださったのです。」「まぁ、それは良かったこと。パーティーで着るドレスも、貴方が作るのですか?」「いいえ。昔ジゼル様から頂いたドレスを作り直そうかと。」「あの素敵な薔薇色のドレスを?」「ええ。少し型が古くなってきたので、少し手を加えようかと思っております。」「貴方の好きなようにおやりなさい。但し、無理は禁物ですよ。」「はい、解りました。」 自室に入った環は、クローゼットからジゼルから贈られた薔薇色のドレスを取り出した。『そのドレス、まだ持っていたのか?』『ええ。今度幸さんの誕生パーティーで着ようと思っているのですが、少し型が古くなってきたので、手直ししようかと。』『そうか。わたしも行ってもいいのか、そのパーティー?』『ええ。幸さんも、是非旦那さんもお連れ下さいとおっしゃっておりました。』『最近家と職場との往復ばかりで、社交の場に出るのは久しぶりだな。』そう言ったルドルフは、何処か嬉しそうな顔をしていた。「環はまた、二階で縫い物か?」「ええ。何でも、幸様から誕生パーティーに招待されたそうです。幸様は、環と同じ女学校に通っている誼(よしみ)で知り合ったのですって。」「いい出会いをしたのだな、環は。良き伴侶と友に恵まれて、あいつは充実した生活を送っているな。」「ええ、そうですね。わたし達も充実した生活を送るように致しましょう、貴方。」「ああ。」 環は、富貴子とその取巻き達から相変わらず陰湿な嫌がらせを受けていたが、環はそれを徹底的に無視した。彼女の相手をする事よりも、環には他にはやらなければならない事が山ほどあった。 環は学校から帰宅するとすぐに自室に籠り、ドレスの手直しに掛かった。『手直しは済んだのか?』『ええ。』ハンガーに掛けられたドレスを見たルドルフは、裾の部分のレースが二段から三段になっていることに気づいた。『細かい所を少し直してみました。』『見事だな。パーティーの日が楽しみだ。』 5月、幸の誕生パーティーが藤宮家で開かれ、環はジゼルから贈られた薔薇色のドレスを纏い、ルドルフと共にパーティーに出席した。「まぁ環さん、そのドレス、良く似合っているわ。」「有難う。」「幸さん、御機嫌よう。あら、環さんもいらしていたのね。」 幸と環が話していると、紫のドレスを纏った富貴子がそう言いながら二人の間に割って入って来た。「何故、貴方がここにいらっしゃるのかしら、環さん?」「幸さんに招待されたからに決まっているからじゃありませんか。」にほんブログ村
2015年12月26日
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ルドルフは直樹が経営する会社の経理を担当していたが、最近伝票の中に不備を見つけ、それを直樹に問い質すと、彼は何も知らなくていいとの一点張りだったという。 その伝票での一件以来、ルドルフは直樹と気まずくなってしまったと、環に話すと、彼の顔が不安で曇った。『まぁ、そんな事が・・』『この話は、誰にもしないでくれ。折角お前が家族と一緒に暮らせるようになったのに、波風を立てたくないんだ。』『解りました。会社の方とはどうですか?』『会社の人達とはたまに昼食を食べに出掛けたり、雑談したりして良い関係を築いているよ。ただ、ナオキの部下であるスギシタって男が、妙にわたしの事を警戒しているよ。』『杉下さんですか・・確か彼は、叔父上の信奉者ですから、貴方の事を警戒するのも無理はありません。』『そうか・・』ルドルフはそう言うと、髪の右手に包帯が巻かれていることに気づいた。『タマキ、その怪我はどうした?』『ミシンでドレスを縫っていったら、誤って針を指に刺してしまって・・』『怪我には気を付けろよ。何をするにしても、自分の身体が資本だからな。』『はい、解りました。』環はそう言ってソファから立ち上がると、ドレスを仕上げる為に二階の自室へと向かった。「環、遅くまで仕事をしているわね。」「いくら華族のご婦人からドレスをお願いして貰っただけだというのに、あんなに張り切って。」「いいじゃないか、打ち込める物があって。ルドルフさん、仕事はどうだ、捗っているか?」「ええ。」重正から酌をして貰い、ルドルフは彼に礼を言うと猪口の中に注がれた酒を飲み干した。「飲みっぷりがいいな。」「ワインも美味しいですが、日本酒もいいですね。ワインにはない深い味わいがあります。」「そうだろう?つまみはどうだ、美味いだろう?」「はい。お義父さんが作ったのですか?」「ああ。家に居てすることがないから、飯を作るだけでもしないとな。」「兄上、男が料理などするものではありません。家の事は女に任せておけばよいのです。」重正の言葉を聞いた直樹は、そう言って顔を顰(しか)めた。「直樹、お前は若いのに考えが古いな。今は女でも自立して立派に働いている人も居る。必死に手に職を持って生きることに、わたしは、性別は関係ないと思っているよ。」「そうですか。では勝手にしてください。わたしは先に部屋で休みます。」重正はそう言って仏頂面を浮かべると、ダイニングルームから出て行った。「・・やっと出来た。」 環は溜息を吐いて仕上げたドレスを手に取ると、溜息を吐いた。『タマキ、お疲れ様。』部屋に入って来たルドルフは、妻にねぎらいの言葉を掛けると、彼の前に紅茶を置いた。『有難うございます。』『綺麗なドレスだな。』ルドルフは環が仕上げたドレスを見ると、それは真珠色で裾の部分にエメラルドが縫い付けてあった。『依頼された藤宮様のお嬢様が、社交界デビューする際に着るドレスです。お嬢様の誕生日が5月なので、誕生石であるエメラルドを使いました。』『お前は裁縫の腕だけではなく、センスもあるのだな。女学校を卒業したら、洋装店でも開くのか?』『それは、考えておきます。』『もう休め。根を詰めると体に悪いぞ。』『はい・・』 環はルドルフに笑みを浮かべると、彼と共に寝室に入って休んだ。「おはようございます、母上。」「環、昨夜は遅くまで起きていましたね。ドレスは仕上がったのですか?」「はい。今日学校の帰りにドレスを藤宮様の元へ持って行くおつもりです。」「そうですか。」「ではお母様、行って参ります。」「気を付けて行ってらっしゃい、環。」 育は玄関の掃き掃除を終えると、そう言って環を笑顔で送り出した。にほんブログ村
2015年12月26日
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県令令嬢として、富貴子は何不自由なく育てられ、菊水女学校では県令の娘として一目置かれる存在となっていた。 菊水女学校へ彼女が入学する前、父親が莫大な金を学校に寄付した事で、教師達は彼女を何かと特別扱いするようになった。 富貴子が試験でカンニングをしてもそれを黙認し、彼女が宿題を提出しなくても良い成績を付けた。彼女の機嫌を損ねれば、県令の機嫌を損ねて学校を去ることになってしまう。 校長の木綿子や一部の教師達は富貴子を特別扱いしなかったが、それでも自分の首が飛ぶことを恐れて多くの教師達が富貴子の言いなりとなっていた。 だが環が菊水女学校へやって来て、富貴子の状況は一変した。良家の令嬢として華道・茶道などの花嫁修業は一通り身に着けていた富貴子だったが、長年欧州で暮らしていた環は、テーブルマナーなどをはじめとする西洋のマナーを身に着け、ワルツのステップを正確に踏める非の打ち所がない彼女に、富貴子は勝てる気がしなかった。富貴子はいつしか環を羨み、妬み、憎むようになった。そして、彼女に対する幼稚な嫌がらせを始めたのだった。だが、いくら嫌がらせをしても、環は毅然とした態度を取り、自分の前で泣き喚いたり、怒り狂ったりしなかった。「富貴子様、どうかなさったの?」「別に何も。それよりも貴方達、うちで今度パーティーをするのだけれど、いらっしゃらないこと?」「ええ、勿論伺うわ!」「招待状は明日配るから、皆さん是非いらしてね。」 富貴子はそう言うと、級友達に笑みを浮かべた。「環さん、貴方も富貴子様のパーティーにいらっしゃるのでしょう?」「富貴子様が、パーティーをされるの?」「ええ。明日招待状を富貴子様が配ってくださるそうよ。何だか楽しみだわ。」 翌日、富貴子は環を除く級友達全員に、パーティーの招待状を配った。「環さんは、色々とお忙しいようだから今回は誘わない事にしましたの。悪く思わないでくださいね?」「あら、わたしは何も気にしてはいなくてよ。わざわざそんな事を言ってくださって有難う。」富貴子の嫌味に、環はそう即座に言い返すと、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。『只今帰りました。』『タマキ、またあのフキコと何かあったのか?』『ええ。大したことではありませんから、心配なさらないでください。』『さっきお前の友人が来た。何でもフキコが、お前にパーティーの招待状を配らなかったそうだな?』『彼女はわたしを嫌っていますから、パーティーに招待しないのは当然でしょう?』環がそう言ってソファに座ってルドルフを見ると、彼は溜息を吐きながら紙巻き煙草を吸った。『陰湿な女は何処にでも居るものだ。』『皇太子妃様と比べたら、彼女は可愛いものですよ。』 ウィーン宮廷に居た頃、環はシュティファニーとよく衝突したが、彼女のような陰湿さと凄まじい悪意は富貴子からは感じられなかった。『シュティファニーよりはマシ、か・・お前からしてみれば、フキコははじめから眼中にないという訳か。』『ええ。子供の嫌がらせに、いちいち相手をしていては疲れるだけです。』『お前が彼女から虐められているのではないかと心配していたが、大丈夫そうで良かった。』ルドルフはそう言ってソファから立ち上がり、環の隣に座った。『まぁ、こちらが何も反応しないとなれば、いずれ向こうも飽きるでしょう。』『そうだな。』 環とルドルフがソファで寛いでいると、そこへ直樹が居間に入って来た。「二人とも、呑気なものだな。」直樹はそう言って二人を睨むと、二階の自室に引き籠ってしまった。『わたしよりもルドルフ様の方が心配です。叔父上に何かされていませんか?』『ああ、大丈夫だ。』ルドルフは環の問いにそう答えて笑ったが、その笑顔はどこかぎこちないものだった。にほんブログ村
2015年12月25日
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「お父様、一体どうなさったの!?」 富貴子は、帰宅した父の背広が泥だらけだということに気づいた。「どうしたも、こうしたもない!お前を侮辱した娘をここへ連れて行こうとしたら、その父親がわたしを侮辱した上に、投げ飛ばしおった!」「まぁ、何て乱暴な事を!“子は親の鏡”とはよく言ったものですわ。」富貴子は美しい眦を上げてそう言うと、義貴は彼女の肩を優しく叩いた。「富貴子、安心しろ。この件はわたしが上手くやっておくから、お前は気にしなくていい。」「はい、お父様。」 翌朝、環が教室に入ると、自分の机の前には数人の女学生達が何やら話をしていた。「皆さん、どうかなさったの?」「環さん、貴方の机にこんな物が・・」環が自分の机を見ると、そこには汚物が撒き散らされていた。「あら、誰かしら?このような幼稚な嫌がらせをしたのは?」環はそう言うと、教室の後ろで固まっている富貴子達の方を見た。「まぁ、困ったわねぇ環さん。この机じゃぁ、お勉強が出来ないわねぇ。」富貴子は口元に笑みを浮かべながら環にそう言うと、取巻き達と目配せした。「あら、代わりの机を持って来ればいいのでしょう。」「貴方、机があるのはここから遠い倉庫なのよ。そこまで行って机を教室まで運んでいたら、授業に間に合わないのではなくて?」「それはやってみなければわからないでしょう?」富貴子とこれ以上話すのは時間の無駄だと思った環は、彼女に背を向けて教室から出て行った。 彼女が言った通り、机や椅子が置かれている倉庫は校舎から遠い所にあった。「どうしたね、お嬢さん?」「机が汚れてしまいまして、代わりの机をこちらに取りに参りました。」「そりゃぁ災難だね。」 環が倉庫へ向かうと、初老と思しき校務員の男性がそう言って倉庫の奥へと引っ込んでいった。「これなんかどうだい?」「まぁ、わざわざ探してくださって有難うございます。」「ここから教室まで運ぶのは遠いだろう?手伝ってあげようか?」「いいえ、結構です。お気持ちだけ受け取っておきます。」環は男性に礼を言うと、新しい机を教室まで運んだ。「環さん、どうなさったの、机を運んで?」「木綿子先生、机が汚れてしまったので、新しい机を倉庫まで取りに行ったんです。」「誰かが貴方の机を汚したのね。困った人が居たものだわ。」「大丈夫です、わたしは気にしていませんから。」「授業が始まるまでまだ時間があるから、教室に入りなさい。」 環が新しい机を教室まで運ぶと、富貴子が悔しそうな顔で自分を睨みつけていることに気づいた。「富貴子さん、貴方の幼稚な嫌がらせに付き合うほど、わたしは暇ではないの。貴方は県令様のご令嬢様なのですから、今後子供じみた嫌がらせを為さるのは止めてくださらないかしら?」「まぁ、貴方、わたくしに向かって口答えするなんて・・」「口答えではなく、意見を申し上げているだけですわ。」環と富貴子が睨み合った時、一限目の授業開始を告げるチャイムが鳴った。「皆さん、おはようございます。」「おはようございます。」「昨日の宿題を、皆さんに提出して頂きます。」環は持っていた手提げ袋の中から裁縫の宿題を取り出し、教師にそれを提出した。「長谷川さんが縫った襦袢は、いつも縫い目が綺麗ね。皆さんも長谷川さんをお手本に為さい。」 教師に環が褒められ、富貴子は彼に対して嫉妬の炎を燃やした。「富貴子様、あんな方気に為さらないほうがいいわ。」「そうよ、武家の娘だというけれど、とっくに没落した家の娘なんて、県令令嬢の富貴子様には敵わないわ。」 取巻き達の慰めの言葉は、富貴子を却って苛立たせるだけだった。にほんブログ村
2015年12月25日
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「直樹さん、理由もなくルドルフさんに暴力を振るってはなりませんよ。彼が県令様に暴力を振るったのは、理由があるからでしょう?」 育はそう言うと、直樹に殴られ唇から血を流しているルドルフの元へと駆け寄った。「理由はどうであれ、こいつが県令様に暴力を振るったことは間違いないんだ!」「叔父上、ルドルフ様は・・」「言い訳など聞きたくない!環、明日わたしと一緒に県令様の所に行くぞ、解ったな!」直樹は環にそう命じると、そのまま居間から出て行ってしまった。「一体何があったのです、環?わたし達に解るように説明為さい。」「母上、実は・・」 環は放課後に義貴から一方的に理不尽な言いがかりをつけられ、暴力を振るわれそうになったところをルドルフに助けられた事を両親に話した。「まぁ、貴方の話を聞いた限りでは、先に手を出そうとしたのは県令様の方ではありませんか。それなのに、直樹さんは一方的に貴方達を悪者扱いして・・」育は怒りで震え、思わず口汚い言葉で義弟を罵りしたい衝動を抑えた。「これから直樹さんと話して来ます。貴方達は安心してもうお部屋で休みなさい。」「はい。母上、ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。」「気にするな、環。誰にだって勘違いがある。直樹の事はわたし達が説得するから、何も心配はするな。」「解りました、父上。」 その日の夜、環とルドルフは自分の部屋で休もうとしたが、環は目を閉じたら義貴の怒り狂った顔が夢に出て来て一睡もできなかった。『タマキ、今日は学校を休んだらどうだ?』『はい、そう致します。』翌朝、目の下に隈を作った環の事を心配したルドルフがそう言うと、彼は両親に女学校を休むことを告げた。「学校にはわたしが連絡しておきますから、お前は部屋で休みなさい。」「申し訳ありません、母上。」環は母に詫びると、二階の寝室で休んだ。 一時間後、自宅のドアが何者かに荒々しくノックされた。「はい、どちら様でございますか?」「ここにわたしの娘を侮辱した女が居るだろう、早く出せ!」ドアから聞こえて来た怒鳴り声は、義貴のものだった。「申し訳ありませんが、娘は体調を崩しており、誰とも会いたくないと言っております。どうか、お引き取り下さいませ。」「貴様、わたしを誰だと思っている!早くお前の娘を出せ!」今にも育に対して殴りかからんとする義貴の姿を見たルドルフは、彼女を守ろうと二人の間に割って入った。『一体ここに何の用だ、帰れ!』「おい、こいつは何と言っているんだ?」「どうぞお引き取り下さいませ。」「ええい、そこを退け!」「そこで何をしているのです、県令様!」育を押し退け、強引に家の中へと入ろうとした義貴を重正はそう一喝すると、義貴は少し怯んだ。「貴様の娘に用があるのだ、家の中に入れろ!」「人の上に立つ県令様ともあろうお方が、そのような横暴な振舞いを為さるなど、恥ずかしいと思わないのですか?」「何だと、貴様~!」重正は怒り狂う義貴に対して冷静な口調でそう言うと、義貴はますます怒り狂い、持っていたステッキで彼を打とうとした。 だが重正は義貴の攻撃を躱(かわ)し、彼の手首を掴んで彼の身体を宙へ放り投げた。「おのれ・・わたしにこんな真似をして許されると思うなよ!」「貴方は嘘を吐き、わたしの娘を一方的に悪者として断罪しようとしている。貴方の行動の方が、許しがたい事ではありませんか!」 重正の声で、周囲の空気が微かに振動するのをルドルフは感じた。「これ以上騒ぎを起こしたくなかったら、お帰り下さい。そしてご自分の胸に手を当てて、ご自分が為さった事を考えるがいい。」 義貴は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、秘書に助け起こされながらそのまま長谷川家から去っていった。「貴方、お怪我はありませんか?」「大丈夫だ。育、後で塩を撒いておけ。」にほんブログ村
2015年12月24日
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『ルドルフ様、わざわざ迎えにくださらなくても宜しかったのに・・』 放課後、ルドルフと共に坂を下りながら環がそう言うと、ルドルフはクスクス笑った。『わたしを教室の窓から見ていた女学生達の顔と来たら!古今東西、女は美男子に夢中になるのだな。』『喜んでいる場合ではないでしょう?』環が呆れ顔でルドルフを見た時、後方から雷鳴のような馬の蹄の音が聞こえたかと思うと、環とルドルフのすぐ傍を一台の馬車が猛スピードで通り過ぎていった。『怪我はないか、タマキ?』『はい・・』『全く、あんなに急いで何処に行くというんだ?』ルドルフが馬車を睨みつけてそう呟いた後、走り去った馬車が急停止し、その中から洋装姿の男が出て来た。 男は辺りを暫く見渡した後、彼はルドルフが自分の方を見ている事に気づいた。「貴様、何を見ている!?」『別に何も見ておりませんよ。それよりも、一体急いで何処へ行くのです?』「おい、ここは日本だ!ちゃんと日本語で話さんか!」男は持っていたステッキを振り回しながらそうルドルフに怒鳴り散らすと、彼の背後に立っている環の姿に気づいた。「お前か、うちの娘に喧嘩を売ったのは?」「まぁ、聞き捨てなりませんわね。貴方様はもしかして、県令の楢崎様でいらっしゃいますか?」「ああ、そうだ!昨日、娘からお前に侮辱されたと泣きつかれて、わたしは今学校に苦情を言いに行こうとしていたところだ!」 富貴子の父であり、長崎県令である楢崎義貴(ならさきよしたか)は環を睨みつけた後、突然彼の手首を掴んだ。「わたしと一緒に来い!」「何を為さいます、お離しください!」『わたしの妻に何をするんだ!』 ルドルフが義貴と環の間に割って入ると、義貴はルドルフに突き飛ばされて派手に尻餅をついてしまった。「貴様、よくも県令のわたしに暴力を振るったな!タダで済むとは思うなよ!」まるで蒸気機関車の湯気のような荒い鼻息を吐いた義貴はルドルフに唾を吐き散らしながら怒鳴ると、馬車の扉を荒々しく閉めた後二人の前から去っていった。『ルドルフ様、あの方は県令様ですよ。』『あんな下品な男が県令だと?信じられないな!』ルドルフは不快感を露わにしながら吐き捨てるような口調でそう言うと、やや早足で坂を下り始めた。『あの方は、この街を支配なさっているようなお人なのです。余り刺激なさらないほうがよろしいかと・・』『あんな暴君にこの美しい街が支配されているのかと思うと、残念でならないよ。』環はルドルフが必死に怒りを鎮めようとしている事に気づき、そっと彼の手を握った。『日が暮れる前に帰りましょう。』『あぁ、解った・・』 二人が帰宅して居間に入ると、直樹がルドルフの方へと近づいたかと思うと、拳で突然殴りつけた。「叔父上、何を為さるのですか!?」「ルドルフ、よくもわたしの顔に泥を塗ってくれたな!」叔父の突然の行動に驚いた環がそう彼に抗議の声を上げると、直樹はそうルドルフに怒鳴って彼を睨みつけた。「一体何があったのですか、直樹さん?」「さっき県令の使者からこんな手紙がわたしの所に届いたんだ!」直樹はルドルフの鼻先に、一通の手紙を突きつけた。そこには、“告訴状”と、達筆な日本語で書かれていた。「叔父上、これは・・」「ルドルフに暴力を振るわれたから、訴えると県令が脅してきた!訴えられたくなければ、明朝自宅に謝罪に来いとその手紙には書かれている!」「そんな・・ルドルフ様は、わたしを助けてくれたのですよ!」にほんブログ村
2015年12月24日
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「おやめなさい、美砂子さん。」「ですが、富貴子様・・」「わたくしの命令が聞けないの、美砂子さん?」 環に絡んでいた女学生は、主の言葉を受けて渋々と環を睨みつけて引き下がった。「わたくしのお友達が貴方に無礼な事をして、済まなかったわね。」「いいえ、気にしておりませんわ。それよりも貴方、随分と偉そうな態度を為さっておられるけれど、どのような御身分の方なのかしら?」「あら、長崎に住んでいて、県令令嬢であるわたくしの事をご存知ないの?」 藤色の振袖の袖口でわざとらしく口元を覆った女学生はそう言って笑うと、円らな瞳を環に向けた。「初めまして、わたくしは楢崎富貴子(ならさきふきこ)。貴方は?」「長谷川環と申します。」「環さんとおっしゃるのね、貴方のお名前、覚えましたわ。」女学生―富貴子はそう言った後不敵な笑みを口元に浮かべ、取巻き達を引き連れて教室から出て行った。「環さん、駄目よ。富貴子様を怒らせては。」「富貴子様は、この教室の中では偉いの?」「偉いも何も、この教室だけはなく、女学校の先生方が富貴子様に一目置いていらっしゃるの。お父様が県令様ですもの。」急に声を潜めた美千代は、そう言うと環を見た。「余り富貴子様に逆らわない方が貴方の為よ。」美千代の忠告の意味を、環はまだ知らなかった。 女学校に入学し、環は日々学問に励み、気が合う友人達と他愛のないお喋りをしたりして、毎日を楽しく過ごしていた。彼女達のお喋りの話題は、今流行りのドレスや髪型など、ファッション関係のものばかりだったが、恋愛の話などでも盛り上がった。「やっぱり、結婚するのなら、それなりの財産をお持ちの方としたいわ。」「そうよね。良く大衆小説では身分違いの恋を乗り越えて結ばれたカップルの話があるけれど、あれは無謀だと思うわ。」「一時的な感情のままに任せていると、後で後悔すると思うわ。環さんは、どうお思いになって?」「そうねぇ、身分違いの恋を貫くのは簡単ではないし、結果がどうであれ、それは本人達が選んだものだから、一概に悪いとは言えないわ。」「まぁ、環さんってリベラルな考えをお持ちなのね。長い間欧州で暮らしていらしただけあるわ。」「そんな事はないわ。」環はそう言って友人達に愛想笑いを浮かべたが、彼女達にまだ自分が結婚していることを話さなかった。「ねぇ、欧州での事を聞かせてくださらない?向こうではどんなデザインのドレスが流行っているの?」「向こうでは、お尻を膨らませるバッスルタイプのドレスが流行っているわ。でも、そのドレスを着るにはコルセットできつくウェストを締め付けないといけないし、着替えにも時間がかかるから大変よ。」環が友人達の方を見た時、突然教室の窓に女学生達が駆け寄って外を指しながら黄色い悲鳴を上げていた。「どうなさったの?」「窓の外に、素敵な殿方がこちらを見ていらっしゃるのよ。先ほどからずっと・・」 環が窓から外を見ると、校門の前にルドルフが時折自分が居る教室の様子を見ている姿があった。「ねぇ、あの方どなた?」「まだ貴方達にはお話ししていなかったけれど・・あの方は、わたしの夫なの。」「まぁ、結婚していらしたの、環さん!?」「皆さん、少し失礼するわ。」 環は友人達にそう断ってから教室から出ると、校門の前で待つ夫の元へと向かった。『ルドルフ様、どうしてこちらにいらしたのですか?』『お前の事が心配になって来た。女学校では上手くやっているのか?』『ええ。それよりも皆さん、貴方の事が気になっているので、余りここに長居しない方がいいですよ?』『そうか・・では奥様のお言葉に従って、わたしは家に帰ることにしよう。』 ルドルフはそう言って環に微笑んだ後、彼の頬にキスした。その光景を見た女学生達は、一斉に黄色い悲鳴を上げた。にほんブログ村
2015年12月24日
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1891年4月、環は菊水女学校に入学することになった。「まぁ環、その着物と袴、とても素敵よ。」「有難うございます、母上。入学式の日までに間に合うように袴を仕立てた甲斐がありました。」 育からそう褒められ、環は照れくさそうに笑いながら藤色の袴を指先で軽く摘まんだ。環が着ているのは、白地に桜の刺繍が施された振袖だった。「では、行って参ります。」「気を付けて行っていらっしゃい。」 意気揚々とした様子で自宅を出る環の姿を、育は慈愛に満ちた目で見つめた。 彼が坂へと上がると、そこには煉瓦塀に囲まれた菊水女学校の白亜の校舎が姿を現した。この女学校でこれから学ぶのだ―環が期待に胸を弾ませながら校門をくぐって校舎の中へと入ると、廊下には色とりどりの美しい振袖姿や袴姿の令嬢達が集まり、笑いながら談笑し合っていた。 彼女達は自分よりも一回り年下で、最年長なのは自分だけだと解った。その時、環は急に惨めな気持ちになり、自分がとてもみすぼらしい物を纏っているように見えた。「あら、環さんではなくて?」 背後から声がして環が振り向くと、そこには糊の利いたワンピースに紺色のスカート姿の木綿子(ゆうこ)が立っていた。「校長先生、これからお世話になります。」「まぁ、そんな他人行儀な呼び方はお止しになって。わたしの事は、木綿子先生と呼んでくださっていいのよ?環さん、入学式にはご出席なさらないの?」「えぇ、これから帰ろうかと・・」環はそう言うと、好奇に満ちた目で自分を見つめている女学生達の視線に気づいた。「環さん、その袴、素敵ね。何処で仕立てて貰ったの?」「これは、自分で仕立てました。今までドレスばかり着ていたので、和裁をするのが久しぶりで、上手く仕立てられるのかどうか心配でしたが、入学式の日までに間に合って良かったです。」「まぁ、貴方が仕立てたのね。」木綿子が感心したような口調でそう環に言った後、彼女は優しく彼の肩を叩いた。「いいこと環さん、学問を修めるのに年齢は関係ないのよ。貴方はここでは最年長かもしれないけれど、彼女達にはないものが、貴方にはあるわ。」「木綿子先生・・」「さぁ、入学式が始まる前に講堂へ行きましょう。」「はい・・」 入学式に終えた環が、他の女学生達と共に教室に入ると、好奇心を抑えきれなかった数人の女学生達がたちまち彼の事を取り囲んだ。「ねぇ貴方、その振袖、何処でお仕立てになられたの?」「その袴、木綿子先生が褒めていらしたけれど、ご自分でお仕立てになられたのですって?」「貴方、ご出身はどちら?」 彼女達から矢継ぎ早に質問を浴びせられ、環は戸惑いながらも彼女達の問いにひとつずつ丁寧に答えた。「わたしは会津の生まれですが、幼い頃会津を離れたので、故郷の記憶もないし、言葉も喋れません。」「まぁ、そうだったの。記憶を失ってしまうほど、悲しい事がおありになったのね。」環に出身は何処なのかと尋ねて来た女学生・神崎美千代(かんざきみちよ)がそう言って憐みの目で環を見つめた時、教室の後ろから氷のような冷たい声が聞こえた。「あら、却って記憶を失くしてしまった方が好都合ではなくて?だって会津は、天子様に弓引いた逆賊ですものね。」 環が眦を上げながら声がした方を振り向くと、そこには数人の取り巻きを引き連れた藤色の振袖と、朱色の袴を着た女学生の姿があった。「あら、そのお言葉、聞き捨てになりませんわね。確か、天子様がおわす御所に大砲を打ち込んだのは、長州ではなくて?」環が女学生にそう鋭く言い返すと、彼女は怒りで顔を赤く染めた。「貴方、この方がどなたなのかご存知の上で、そのような生意気な口を利いていらっしゃるの?」「いいえ。ただ、初対面の相手に失礼な物言いを為さる方が、どのようなお育ちなのか、知りたいですわ。」「まぁ、何ですって!?」にほんブログ村
2015年12月24日
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『今日の味噌汁は美味しいな。お前が作ったのか?』『はい。アサリを使ったお味噌汁を作りましたが、お口に合いましたか?』『ああ。お前は帰国してから料理の腕が上がったな。』『お褒め頂き、有難うございます。それよりもルドルフ様、お仕事の方は順調ですか?』『はじめは慣れなかったが、ナオキさんから色々と教わったらコツが掴めるようになってきた。』『そうですか、それは良かったですね。』『さてと、もうそろそろ行かないと。』『お気をつけて行ってらっしゃいませ。』 玄関先で環とキスを交わしたルドルフは、自宅を出ると坂を下って会社へと向かった。『ルドルフさん、おはようございます。』『おはようございます。』 会社のロビーで社員達と挨拶を交わしたルドルフは、自分の職場である二階の事務室へと向かった。 着ていた外套と被っていた帽子を脱ぎ、それらを外套掛けに掛けたルドルフは自分の席に着いて仕事を始めた。『ルドルフさん、ちょっといいかな?』『はい、構いませんよ。』 直樹からそう言われ、ルドルフが書類から顔を上げたのは、正午過ぎの頃だった。『これから外回りに行かなくてはいけないから、暫く留守を頼めないか?』『はい、解りました。』『では、頼んだよ。』 直樹が部屋から出た後、ルドルフは凝り固まった肩の筋肉を解そうと、両腕を大きく回した。『社長、今宜しいですか?』『社長は今外回り中だ。』『そうですか・・』 事務室に入って来た杉下という社員は、手に持った書類をルドルフに渡した。『社長がお戻りになられたら、この書類を渡してください。』『解った。』杉下から書類を預かったルドルフは、昼食を抜いて仕事を再開した。『社長、この書類をスギシタさんから預かりました。』『ルドルフさん、今日は朝早くから来てくれて有難う。今日はもう帰ってもいい。』『解りました、ではこれで失礼致します。』 外套を着て帽子を被り、足早にロビーから外へと向かったルドルフは、向かいの通りに環の姿があることに気づいた。『タマキ、どうした?』『いえ・・家で貴方のお帰りになるのを待つよりも、会社へ伺った方がいいかなと思いまして、来てみました。』 環の言葉を聞いたルドルフは苦笑すると、彼に右手を差し出した。『一緒に帰ろう。』『はい。』 手を繋ぎながら坂を上ってゆく環とルドルフの姿を、直樹は社長室の窓から密かに見ていた。「社長、例の件についてですが・・」「済まない、少し考え事をしていた。申し訳ないが、最初から説明してくれるかな?」「は、はい・・」杉下は訝し気な表情を浮かべながら直樹を見つめた後、彼に取引の事について話した。「どうした杉下、何か言いたそうな顔をしているな?」「あの・・最近ここに入って来たルドルフさんは、一体どういうお方なのでしょうか?」「あぁ、あれはわたしの甥の、夫だ。」「甥御さんの、ですか?」「君が混乱するのも無理はない。詳しい話はまた後でするから、例の件については君が思うように進めてくれていい。」「はい、解りました。」「君の事は頼りにしているよ、杉下君。」にほんブログ村
2015年12月23日
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『そうか、お前とわたしの結婚を、お前のご両親は認めていないのか。』『両親の気持ちも解るような気がします。長い間音信不通だった息子が、いきなり女装姿で、しかも夫となる男性を連れて帰国したのですもの。』環はそう言うと、ルドルフを見た。『両親に貴方との結婚を認めて貰えるまで、頑張りたいと思います。ルドルフ様・・』『解った。タマキ、女学校で沢山学んで来い。時間を掛けて、お前の両親に結婚を認めて貰おう。』『はい。』 翌日、環は直樹と共に、4月から通うことになった菊水女学校を訪ねた。「学校長殿、環は男性ですが・・」「大丈夫ですわ、長谷川様。貴方の甥御様は立ち居振る舞いを見ても女性よりも女性らしく見えますもの。女学生達と机を並べても、違和感がないことでしょう。」「校長先生、4月から何卒宜しくお願いいたします。」環がそう言って菊水女学校校長・名水木綿子(なみずゆうこ)に挨拶すると、木綿子は優しく彼に微笑んだ。「何か解らないことがあったら、わたくしに遠慮なくお聞きなさい。これから宜しくね、環さん。」「はい。」直樹と共に女学校を後にした環は、彼が経営している貿易会社へと向かった。会社のロビーには人が溢れ、背広姿の社員達は忙(せわ)しなく働いていた。「この会社では、アメリカの小麦粉や英国の紅茶、フランスの絹などを取り扱っている。会社を立ち上げた時、社員はわたしと友人の3人しか居なかったが、苦労してここまで大きく出来た。」「叔父上、何故東京や横浜ではなく、長崎で会社を立ち上げたのですか?」「昔、江戸で遊学をしていた時、友人に誘われて長崎を一度訪れた事があってな。当時鎖国していた日本の中で唯一諸外国と貿易していた長崎の街に、すっかり魅了されてしまい、ここでいつか会社を立ち上げようという夢を抱いた。」「その夢が叶って良かったですね。わたしも、出来ることがあれば叔父上のお力になりたいと思います。」「いや、お前は女学校に行って学問を修めて来い。」「はい。」「さてと、そろそろ昼時だから、近くで昼飯でも食べようか?」 直樹と共に昼食を食べに入ったのは、中華街の一角にある中華料理店だった。「初めて清国の料理を食べますが、余り脂っこくないですね。」「そうだろう?この店の料理長はわたし達と同じ日本人で、上海で料理の修行をしていたそうだ。」「まぁ、そうですか・・叔父上、ルドルフ様の事なのですが・・」 環はそう言って箸を置き、姿勢を正した後叔父にある事を話した。『只今帰りました。』『お帰り、タマキ。随分と遅かったな?』『ええ。ルドルフ様、叔父上が自分のお部屋に来て欲しいそうです。』『解った、すぐに行こう。』 ルドルフが直樹の部屋に行くと、彼は窓から海を眺めていた。『ナオキさん、わたしにお話とは何でしょうか?』『ルドルフさん、単刀直入にお尋ねいたしますが、うちの会社を手伝う気はありませんか?』『貴方の会社を、ですか?』『うちは小さいながらも貿易会社をしておりましたね。最近急に忙しくなって、人手が足りないのです。』『そうですか。では、お言葉に甘えさせて頂きます。』ルドルフがそう言って右手を直樹に差し出すと、彼は笑顔でルドルフの手を握り返した。『明日から、宜しくお願いしますね。』『ええ、こちらこそ。』 4月に女学校へ入学するまで、環は育から家事を習うことになった。「料理の腕前は手慣れたものね、環。向こうでしていたのですか?」「ええ。地元の食材を使って、栄養に良い物を作っていました。」「向こうではお屋敷で暮らして、女中さんを雇っていたと聞きましたよ?」「必要最低限の事は、自分でしておりました。」「まぁ、そうでしたか。お前は何処に行っても変わらなかったのですね。」 育はそう言って笑うと、出来上がった味噌汁の味見をした。にほんブログ村
2015年12月23日
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『ルドルフ様、そんな暗い顔を為さってどうなさいました?』『いや・・急に、家族が恋しくなってな。』『そうですか・・』環は、彼が今何を考えているのかが解った。『エルジィは、元気にしているかな?』『エルジィ様とバート・イシュルでお会いした時、お元気そうでした。ただ、突然貴方が自分の前から消えてしまったことに少し混乱されているようでした。』『無理もない。あいつはまだ6歳だ、父親の死を受けとめ難い年齢だろう。』ルドルフはそう言うと、空に浮かぶ月を眺めた。 時折開いた窓から、潮風が吹いて微かにカーテンを揺らした。『今まで一度も、海を見たことがなかった。だが、お前と長い船旅をした時、こんなにも世界は広いのだと実感した・・』『ルドルフ様、これからはわたしが貴方を支えます。だから、もうそんな悲しい顔は為さらないでください。』 環はいつの間にか涙を流しているルドルフを抱き締めると、彼の涙をそっと手の甲で拭った。『わたしが、貴方のお傍におりますから。』環の言葉を聞いたルドルフは、彼の華奢な背中を抱いた。 翌朝、環が起きると、隣に寝ていた筈のルドルフの姿がなかった。『ルドルフ様、どちらに居られますか?』環が部屋から出てルドルフの姿を探すと、彼は中庭に置いてあるベンチに座って海を眺めていた。『このような所にいらっしゃったのですか。そんな薄着ではお風邪を召しますよ。』『済まない、お前が余りにも気持ちよく眠っているから、起こすのを止めたんだ。心配を掛けてしまったな。』『いいえ。』 環とルドルフが手を繋ぎながら家の中に入るのを見た直樹は、溜息を吐いて二人を見た。「二人とも、人前で余りそんな事をするものではないよ。」「申し訳ありません、叔父上。」「まぁ、新婚なんだから仕方がないね。環、朝食の後で話があるから、わたしの部屋に来なさい。」「はい・・」 朝食の後、環が直樹の部屋に入ると、彼はソファの上に座り紙巻き煙草を燻(くゆ)らせていた。「叔父上、お話とは何でしょうか?」「環、突然だが・・お前を女学校へ行かせようと思う。」「わたしを、女学校へ?」「ああ。」「叔父上、わたしは女の格好をしていますが、れっきとした男ですよ?それなのに、何故突然そのような事をお決めになられたのですか?」「お前がいくら欧州で長く暮らしていたとしても、それに見合う学歴がなければ説得力がない。それに、わたしはお前達の結婚をまだ認めた訳ではない。」「叔父上・・」「環、酷な事を言うようだが、育義姉さんはお前が外国人と結婚した事に戸惑っている。昨日はお前達を歓迎してくれたが、長い間日本を離れていたお前が夫を連れて帰って来たという事実を受け止めきれなかったのだろう。」「そんな・・」 叔父の口から衝撃的な言葉を聞き、環は戸惑いを隠せなかった。「わたしの女学校行きは、決まった事なのですか?」「ああ。オランダ坂の上にある菊水女学校だ。学校長にはお前が結婚している事は事前に話してある。」「そうですか。では叔父上、わたしはこれで失礼いたします。」 直樹の部屋を出た環は、深い溜息を吐きながら夫が待つ居間へと戻った。『どうしたタマキ、浮かない顔をしているな?』『さっき叔父上が、わたしを女学校へ行かせるとおっしゃって・・それで、少し戸惑っております。』『そうか。他に何か彼から言われたのだろう?わたしには隠さなくてもいい。』『ルドルフ様・・』 環が俯いていた顔を上げると、ルドルフは優しい笑みを自分に浮かべていた。『ルドルフ様、実は・・』にほんブログ村
2015年12月23日
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『ルドルフ様、見えてきましたよ!』『あれが、お前の故郷なのだな?』 遥か水平線の向こうに見える島国を眺めながら、ルドルフは恋人の故郷に想いを馳せた。 環とルドルフを乗せた船が、エジプト・カイロ、シンガポール、上海などを経由した後、最終目的地である長崎港に到着したのは、イタリア・ナポリから出航して半年が経った1891年1月の事だった。 戦国の世から明治の世に至るまで、外国との貿易が盛んだった長崎の街は、中国や朝鮮、西洋の文化などが混ざり合い、活気を見せていた。『ナポリもそうだが、ナガサキも活気がある街だな。』『そうですね。』17年ぶりに帰国した環は、船から降りると思い切り故郷の空気を吸い込んだ。「環、こっちだ!」雑踏の中から声がしたかと思うと、一人の男がルドルフと環の前に現れた。「直樹叔父上、大変ご無沙汰しております。」「環、すっかり会わない内に大きくなったな。」環の叔父・直樹はそう言って甥っ子の成長ぶりに目を細めると、彼の隣に立っているルドルフの方を見た。「環、そちらの方は?」「この方は、わたしの夫です。」環は叔父にルドルフを紹介すると、彼の顔が少し曇った。「久しぶりに帰って来たかと思ったら・・まさかお前が結婚していたなんて驚いたなぁ。」「叔父様、父上と母上はどちらにいらっしゃるのですか?」「二人は、わたしの家に居る。今から案内しよう。」 港を後にした環とルドルフは、直樹と共に馬車で彼の自宅へと向かった。そこは、海が一望できる高台に建っている卵色の瀟洒(しょうしゃ)な洋館だった。「父上、母上、只今帰りました。」「環、お帰りなさい。」 環が家の中に入ると、居間で直樹の帰りを待っていた環の両親が彼の元へと駆けつけて来た。「漸く、帰って来てくれたのですね。」環の母・育(いく)はそう言うと、愛しい我が子を抱き締めた。「長い間、日本へ帰らなくて申し訳ありませんでした、母上。」「涼介は、残念な事になりましたね。」「環、よく日本へ帰って来てくれた。」環の父・重正はそう言って目に涙を潤ませながら環の肩を叩いた。 環が家族と再会を果たしている姿を、ルドルフは少し離れた所から見ていた。彼には、自分の帰りを待ってくれる家族が居る―それが、少しルドルフには羨ましかった。「環、あの方はどなたです?」「父上、母上、紹介致します。わたしの夫の、ルドルフです。ルドルフ様、わたしの父と母です。」「ハ、ハジメマシテ・・」拙い日本語でルドルフが環の両親にそう挨拶すると、彼らは一瞬戸惑ったような顔を浮かべた後、ルドルフに笑顔を浮かべた。「初めまして、ルドルフさん。環の母の、育と申します。」「父の、重正と申します。」「こんな所でお話をするのも何ですから、お食事でも致しましょう。」 環とルドルフはダイニングルームで叔父と両親と共に昼食を取った。「いつ、二人は結婚したんだ?」「正式に結婚はしていませんが、13年前に指輪の交換をしました。」「そうか・・環が幸せそうなら、わたし達は何も口出しはしない。」「ええ。環、向こうでは色々と大変だったでしょう?」「はい。ですがその分、楽しい事も沢山ありました。」「ルドルフさんとの馴れ初めを、今度詳しく聞かせてくださいね。」「はい、母上。」 両親達と昼食を済ませた後、ルドルフと環は二階にある自分達の部屋へと入った。「どうだ、気に入ったか?」「ええ。叔父上、これからお世話になります。」「何か困ったら遠慮なく言ってくれ。今日は長旅で疲れただろうから、ゆっくりと休むといい。」 直樹はそう言ってチラリと横目でルドルフを見た後、甥夫婦の部屋から出た。にほんブログ村
2015年12月23日
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※BGMと共にお楽しみください。『嘘よ、そんなの。お父様は自殺したから天国に逝けないって、お母様がおっしゃっていたもの。』『そんな事はありませんよ。エルジィ様、貴方に渡したい物があって来ました。』環はエルジィにそう言うと、ルドルフのハンカチと自分の懐剣を彼女に手渡した。『これは、お父様のハンカチ・・』『エルジィ様、この懐剣は、災難から貴方の事をお守りする事でしょう。どうか、お父様の代わりにこの国を守ってくださいね。』『タマキ、何処かへ行くの?』『ええ。エルジィ様、約束ですよ。』『わかった。』エルジィがそう言って環を見ると、彼はエルジィに優しく微笑み、彼女に背を向けて去っていった。『エルジィとは会えたか?』『ええ。エルジィ様は、貴方が急に居なくなってしまわれて、悲しんでおいででした。貴方の代わりにこの国を守ってほしいと伝えました。』 オルト城へと向かう馬車の中で環はそう言うと、隣に座っているルドルフを見た。『エルジィには、済まない事をしてしまったな・・』『エルジィ様は、貴方の代わりにこの国を守ってくださいます。貴方の娘ですから。』『そうか・・それを聞いて安心した。』 ルドルフは馬車の窓から、次第に遠ざかってゆくバート・イシュルの風景を眺めた。『エルジィ、今まで何処に行っていたの?』『森を散歩していたの。余りにも日差しが気持ちがいいから、昼寝をしてしまったの。』そう言った姪の首に、環の懐剣が提げられている事に気づいたヴァレリーは、彼がエルジィに会いに来たことを知った。『エルジィ、怒らないから森で誰と会ったのかわたしに話してくれる?』『タマキに会ったの。タマキからこのナイフを貰ったわ。タマキは、このナイフが災難から守ってくれる物なんだって言っていたわ。』 姪の話を聞きながら、ヴァレリーは兄が生きていることを知った。一方、オルト城に着いたルドルフと環は、ヨハンの到着を待っていた。『遅くなって済まなかったな、お二人さん。』『大公、ウィーンの様子はどうだった?』『あれから一年も経つから、漸く落ち着きを取り戻してきたぜ。それよりもルドルフ、ひとつお前に伝えないといけないことがある。』『何だ?』『俺は皇籍から離脱することに決めた。お前が居ない宮廷に居る意味がないからな。』『そうか。皇籍から離脱してどうするつもりだ、大公?』『南米でも行って、そこで第二の人生を送るかな。』『そうですか。大公様、ミリさんとはどうなさるおつもりなのですか?』『あいつには長い間待たせたから、幸せにしてやらないと捨てられそうだ。タマキ、これから大公と俺を呼ぶのは止めろ。ルドルフが皇太子ではなくなったように、俺もハプスブルクの大公じゃなくなる。』『では、何とお呼びすればいいのです?』『ヨハン=オルトと呼んでくれ。暫くは慣れないだろうが、そのうち慣れてくるだろう。』『解りました。』 ヨハン=サルヴァトールは皇籍を離脱し、ミリと共に船で南米へ向かうことになった。『ここでお別れですね、大公様。』『おいタマキ、もう大公と呼ぶなと言っただろう?』『申し訳ありません、まだ慣れなくて・・』『いいじゃないの、ジャンナ、そんな事くらいで怒らないの。タマキさん、ルドルフ様とお幸せにね。』『ミリさんも、大公様と幸せになってくださいね。』 港でヨハンとミリと別れたルドルフと環は、船で日本へと向かった。『ねぇジャンナ、気づいていた?さっき港でタマキさんの隣に居たルドルフ様、穏やかな顔をしていたわ。』『あいつは漸く、安息の地を見つけたんだな。まぁ、俺はお前の隣が安息の地だけどな。』『ふふ、そんな事を言われると照れるわね。』にほんブログ村
2015年12月23日
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皇太子の死は、皇帝一家が彼の訃報を受けてから一日経ってウィーン市民に知らされた。そしてそれは、環の故国・日本でも大きく報じられた。『信じられないよ、皇太子様がお亡くなりになられたなんて・・』『それに、噂じゃぁ皇太子様は女性を道連れにして自殺したっていうじゃないか?』『そんな、まさか皇太子様が自殺だなんて・・』 ルドルフの死の真相についてそんなことを話し合っている市民達の脇を通り過ぎながら、小春は環と過ごした最後の会話を思い出していた。「本当に、ルドルフ様の元へ行くのかい?」「はい。姐さん、わたしが居なくなったら、この屋敷は処分してください。わたしの荷物は、もう別の場所へ移していますから、大丈夫です。」「そうかい。そのロザリオ、優駿さんのものだね?」小春が環の首に提げているロザリオを指すと、彼は、姐さんは目敏いですねと言って苦笑した。「ルドルフ様と、何処に行くんだい?」「日本へ。もう10年以上も戻っていないので、漸く里帰りが出来ます。」「そうかい。あんたが居なくなると寂しいよ。気を付けて行くんだよ。」「はい。」小春はルドルフの元へと旅立つ環の背に火打石を打つと、笑顔で彼を見送った。(今頃環ちゃん、ルドルフ様と一緒に居るんだろうねぇ・・幸せにお成りよ、あんたの兄さんと優駿さんの分まで。)小春は笑みを浮かべ、天を仰いだ。1889年2月5日、カプツィーナ教会に於いてルドルフの葬儀が行われ、教室には10万人もの市民が駆けつけた。 夫を謎の情死という形で失った皇太子妃・シュティファニーはますますウィーン宮廷内で孤立し、姑からはルドルフの死の責任の一端は自分にあると事あるごとに責められた。 そしてシュティファニーは宮廷を離れ、犬猿の仲であった姑と同様、旅から旅へと渡り歩くようになった。突然大好きだった父が居なくなり、母が宮廷を留守にして、幼いエルジィは悲しみに沈み、愛情に飢えていた。 ルドルフの死から一年が経ったある日の事、エルジィは結婚を控えたマリア=ヴァレリーと、ジゼルと共にバート=イシュルを訪れていた。『ヴァレリー叔母様、森を少し散歩してもいい?』『行ってらっしゃい、ヴァレリー。但し、余り遠くに行っては駄目よ。』『解ったわ、叔母様。』初夏を迎えた緑の木々は太陽に照らされて鮮やかな光を放ち、エルジィは暫し時を忘れて太い木の幹に凭れて眠った。『エルジィ様、起きてください。そんなところでうたた寝をしたら風邪をひいてしまいますよ?』 頭上から誰かの優しい声が聞こえ、エルジィが目を覚ますと、そこには日傘を差した環が自分を見下ろすような形で優しく微笑んでいた。『タマキ、タマキなの?』『えぇ、エルジィ様。』『ねぇタマキ、どうしてお父様はわたしの元から居なくなってしまったの?お母様もお祖父様も、お父様が何故居なくなってしまったのかを教えてくださらないの。タマキなら、知っているでしょう?』 エルジィの言葉を聞いた環の顔が少し曇った。『エルジィ様、今貴方のお父様は天国で穏やかな日々を過ごしておりますよ。』にほんブログ村
2015年12月22日
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『タマキ、一体何がどうなっているんだ?わたしに解るように説明しろ。』 環と共に馬車に乗り込むなり、ルドルフはそう言って彼を見た。『実は、ルドルフ様がマイヤーリンクで計画を立てていることを、ヨハン大公様から聞かされ、わたしはその計画に協力することになったのです。』『大公が、お前に知らせたのか・・まったく、余計な事をしてくれたものだな。』ルドルフはそう言うと、溜息を吐いた。『大公様は、貴方がマイヤーリンクで命を絶たれる事を知っていたのでしょうね。だから、わたしにこの計画に協力するように言って来たのだと思います。』『タマキ、わたしはもうこの国の皇太子でも何でもない、ただの男だ。それでも、お前はわたしを愛することが出来るのか?』『愚問ですね。わたしが、貴方の地位に惹かれていただけならば、こんな計画には乗ったりはしません。』環はルドルフの質問にそう答えると、彼に優しく微笑んだ。『一緒に二人で生きていきましょう、ルドルフ様。』『ああ、わかった。』館の中で皇太子の心中現場を偽装したヨハンとエルンストが裏口から外へと出ると、ルドルフと環を乗せた馬車がまだ停まっていた。『ルドルフ、遅くなって済まなかった。』『もう偽装工作は終わったのか、大公?』『あぁ。エルンスト、汚れ仕事をさせてしまって済まなかったな。』『いいえ。わたしも共犯者ですから、あれくらいの事をしないと。ルドルフ様、タマキ様とお幸せに。』『有難う、エルンスト。長い間わたしを支えてくれて有難う。エリザベス達に宜しくと伝えてくれ。』 ルドルフはそう言うと、エルンストと抱き合った。『では、わたしはこれで失礼致します。』エルンストは袖口で慌てて涙を拭うと、そのままウィーンへと荷馬車で戻った。『お帰りなさい、貴方。計画は上手くいったの?』『ああ。エリザベス、わたしは皇太子様にお仕え出来て良かったと思っているよ。だけど同時に、もう皇太子様のお傍に居られなくなるのが寂しくて堪らないんだ。』『それはわたしも同じよ、エルンスト。タマキ様と会えなくなるのが辛いわ。』帰宅したエルンストはそう言って涙を流すと、エリザベスはそっと彼の涙を手の甲で拭った。『大丈夫よ、タマキ様ならあの方を幸せにしてくださるわ。』『そうだね・・今は、二人の幸せを願おう。』エルンストとエリザベスは、窓から静かに空から舞い散る雪を眺めた。『陛下、皇太子様がマイヤーリンクでお亡くなりになりました。』 重臣からルドルフの訃報を聞いたフランツは、一瞬顔を強張らせた後静かに目を閉じた。(ルドルフ、お前はこれから、自由に生きていけ・・)『陛下?』『葬儀の準備をしろ。』『かしこまりました。』 一人息子の突然の死に、エリザベートは深く嘆き悲しみ、狼狽えた。『ルドルフが、どうして・・』嘆き悲しむ母の姿を傍らで見ながら、マリア=ヴァレリーは母親同様婚約者の胸に顔を埋めて泣き崩れ、シュティファニーは突然の夫の死に涙を堪えていた。そして、彼女とルドルフの一人娘・エルジィは何故父親の姿が居ないのかが解らず、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。『お母様、お父様は何処?』『エルジィ、よくお聞きなさい、貴方のお父様は天国に逝かれたのよ。』叔母がそう言って自分を抱き締めてくれたが、エルジィは父親が亡くなった事が実感できなかった。にほんブログ村
2015年12月22日
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※BGMと共にお楽しみください。『わたしにお話とは、何でしょうか、皇帝陛下?』『ルドルフはわたしに何か隠していることがあるだろう?それを、お前ならば知っていると思ったのだ。』『皇帝陛下は、大変慧眼でいらっしゃいますね。』環はそう言って溜息を吐くと、フランツにルドルフが立てた計画を話した。『あいつが、そんな事を・・』『もはや、ルドルフ様の計画は誰にも止められる事は出来ません。皇帝陛下でさえも。』『わたしは、どうすればよいのだ?』『ルドルフ様の計画が成功した後、彼が亡くなったと・・皇太子が謎の情死を遂げたという事実を、全国民にお伝えしてください。』『解った。』フランツはそう言うと、環の手を握った。『ルドルフの事を、宜しく頼むぞ、タマキ。』『解りました、陛下。』 ドイツ大使館から出た環は、裏口に停まっている馬車に乗り込んだ。『タマキ、皇帝陛下とは話したのか?』『はい。陛下はわたしに、ルドルフ様の事を宜しく頼むと・・ただそれだけをおっしゃいました。』『そうか。さてと、こんな所で無駄話をしている暇はない。』『ええ。』 運命の日は、刻一刻と近づいていた。 1889年1月29日未明、ウィーン郊外マイヤーリンク。 この日ルドルフは、マリーを自分の狩猟用の館に誘った。『何だか静かな所ね。』『二人きりで死ぬには、邪魔が入らなくていい所だろう?』『昨日、お母様に遺書を書いた後、泣いてしまったわ。』マリーはそう言うと、ルドルフに抱きついた。『わたし達、天国で幸せになるのね。』『そうだね・・でもマリー、天国へ行くのは君だけだ。』『皇太子様、一体何を・・』ルドルフの言葉にマリーが不審を抱き、彼を見ようとした。その時、ルドルフが放った銃弾が、マリーの左側頭部を貫通した。マリーは悲鳴も上げず、銃弾の上に倒れた。美しいペルシャ絨毯が、若い男爵令嬢の血を吸っている頃、環とヨハンはルドルフが居るマイヤーリンクへと急いでいた。(どうか、間に合いますように・・)『見えたぞ、あそこだ!』『ルドルフ様!』環が館の中へと入ると、そこにはマリーの遺体の傍に座り、虚ろな目でそれを見ているルドルフの姿があった。『タマキ、どうしてお前がここに居る?』『ルドルフ様、貴方を迎えに参りました。』『わたしを迎えに来ただと?』『はい、皇帝陛下から頼まれました。』環はそう言うと、ルドルフの手からそっと拳銃を取り上げた。そして、その銃口を窓へと向け、引き金を引いた。『ルドルフ、無事か!?』『大公、何故ここに居る?』『詳しい話は後だ、ルドルフ。裏口で待っている馬車に乗れ。』『さぁルドルフ様、参りましょう。』環がそう言ってルドルフを促すと、彼は素直に環の言葉に従った。『済みません、遅くなりました!』『エルンスト、例のものは用意できたか?』『はい。』ヨハンとエルンストは、ルドルフとよく似た男の遺体を館の中へと運び込み、その遺体にルドルフの服を着せ、心中現場の偽装を始めた。にほんブログ村
2015年12月22日
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※BGMと共にお楽しみください。『ルドルフが、最近マリー=ヴェッツェラと交際している事を知っているな?』『はい。それがどうかなさいましたか?』『あれは、カモフラージュだ。ルドルフが計画を立てている事を周囲に悟られない為のな。』『カモフラージュ?』『あいつはマリーがドイツの手先だと、お前に以前話した事があっただろう?その親玉であるヴィルヘルムの陰謀によって、自分が暗殺されたという計画を今、あいつは密かに立てているんだ。』『そうですか・・では、大公様はわたしに何をお望みなのですか?』『お前に手伝って貰いたい事はただ一つ。ルドルフの計画を成功させた後、人知れずこの国からあいつを連れ出して欲しい。』『解りました、協力致しましょう。』『詳細は後を追って知らせる。それまでは何も知らなかった振りをしていろ、いいな?』『はい。』 ヨハンが出て行った後、小春は環の前にコーヒーを出した。「環ちゃん、あんた大変な話を聞いちまったねぇ。」「それは姐さんも同じじゃないですか?さっき厨房でコーヒーを淹れながら、こちらの様子をドア越しに窺っていらっしゃったでしょう?」「あらら、バレちまったら仕方がないねぇ。あたしも出来ることがあったら、あんたを助けるよ。」「有難うございます、姐さん。」「なぁに、困った時はお互い様だよ。」 1888年12月24日、マリア=ヴァレリーとフランツ=サルヴァトールの婚約が成立したことが公式に発表された。『おめでとう、ヴァレリー、フラン。』『有難う、お母様。』愛娘の結婚を祝福したエリザベートは、彼女に笑顔を浮かべながらヴァレリーの頬に軽くキスした。『フラン、ヴァレリーの事を宜しくね。』『はい、必ず彼女を幸せに致します!』『ルドルフ、貴方の代となっても、ヴァレリーの事を宜しくね。』『解りました、母上。』ルドルフはそう言うと、ヴァレリーの元へと歩み寄り、彼女の頬に唇を落として優しく抱き締めた。『フランを幸せになれよ、ヴァレリー。』『有難う、お兄様。』その年のクリスマスは、穏やかなものとなった。 年が明け、ルドルフはシュティファニーと離婚する許可の旨を書いた手紙を、法王宛に出した。その事はフランツの耳に入り、ルドルフは彼から激しく叱責された。『お前は、わたしの跡継ぎに相応しくない!』『それが父上の本心ならば、わたしは喜んで父上に従いましょう。』『・・ルドルフ、何を言っている?』 フランツが怪訝そうな表情を浮かべながらルドルフの方を見ると、彼は何故か笑っていた。『父上は、わたしが邪魔なのでしょう?』『ルドルフ、わたしはお前を愛しているんだ!』 だが、皇帝の言葉はルドルフに届くことはなかった。 1889年1月27日、ドイツ大使館に於いて皇帝・ヴィルヘルム2世の誕生を祝う宴が華やかに開かれた。 そこでルドルフは、妻であるシュティファニーを完全に無視して、マリーとダンスを踊った。『陛下、あの女をすぐに摘まみだしますので・・』『タマキを呼べ。』にほんブログ村
2015年12月22日
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『マダムから聞いたが、今日お前は路上でマリーとやり合ったんだってな?』『ええ。あの子が余りにも得意げに貴方を付き合っていることをわたしに話したので、ついカッとなって彼女に手を上げてしまいました。』『わたしは、マリーと付き合っているのは、彼女を差し向けたドイツの企みを知る為だ。』『あの子が、ドイツの手先だとおっしゃりたいのですか?』環の言葉を聞いたルドルフは静かに頷いた。『最近、ドイツのヴィルヘルムがわたしの周辺を探っていると、エリザベスから手紙が届いたんだ。何でもその手紙によれば、彼女がロンドンのハイドパークを歩いていたら、突然ドイツ大使館職員と名乗る男が話しかけて来たそうだ。』『それで、エリザベスさんはどうしたのですか?』『余りにも気味が悪かったので、エリザベスは大声を出してその場から逃げ出したそうだ。後日、彼女がドイツ大使館に自分に話しかけてきた職員の名を告げると、そんな職員は居ないと受付で言われたそうだ。』『まぁ、怖いですね。エリザベスさんは無事で良かったです。』『エルンストはエリザベスからその事を知らされて恐怖のあまり卒倒したと、手紙には書いてあった。』『エルンストさん、お舅さんと仲が悪いようだと以前おっしゃっておりましたけれど・・ロンドンでの暮らしに馴染んでいらっしゃるのかしら?』『仲違いしていた舅は昨年の春に死んで、エルンストは姑と上手くいっているようだ。子供達の写真も同封されていた。』 ルドルフはそう言うと、環に手紙に同封されていた家族写真を見せた。『パールちゃんもアーサーも、すっかり大きくなって・・』『エルンストは、英国の料理が口に合わなくて、ウィーンが恋しいと嘆いているようだ。まぁ、無理もない。』ルドルフは軽く咳払いすると、コーヒーを一口飲んだ。『話を戻そう。エリザベスに声を掛けて来た自称ドイツ大使館職員・カインは、ドイツの諜報員ではないかとわたしは睨んでいる。』『ドイツの諜報員?』『ドイツ皇帝が、何かわたしの弱みを握ろうとしているのだろう。カインにわたしに関する情報を集めさせ、わたしの事情を知っている人間に接近させている。マリーを背後で操っているのは、そのカインという男に違いない。』『これから、どうなさるおつもりなのですか?』『マリーとは交際を続けるが、それはあくまでもドイツの動きを探る為だ。』『そうですか。』『タマキ、そんな顔をするな。わたしが愛しているのはお前だけだ。』不安そうな顔をしている環の頬をルドルフはそう言って撫でると、彼の唇を塞いだ。『今夜はここに泊まってもいいか?』『わたしが貴方のお願いを一度でも断ったことがありますか?』環の言葉を聞いたルドルフは、彼の手を取り、二階へと上がっていった。『良かった、貴方が浮気でも為さったのではないかと心配しておりました。でも、あの子は所詮ただの捨て駒だと聞いて安心いたしました。』『捨て駒とは、酷い言い草だな。』ルドルフはそう言うと、自分の隣に寝ている環を抱き締めた。『マリーがこうしてお前と一緒に居る事を知ったら、あいつはどんな顔をするだろうな?』『さぁ・・とても悔しがることでしょうね。』環はクスクス笑いながら、ルドルフの頬に軽く口づけた。 その後、ルドルフはマリーと交際を続け、周囲からは彼がマリーに夢中である事を見せつけた。マリーはそんなルドルフの策略など知る由もなく、ルドルフに夢中になっていった。『マリー、君に頼みがあるんだ。』『何かしら、皇太子様?』『わたしと一緒に死んでくれないか?』 突然ルドルフから心中を持ち掛けられ、マリーは一瞬戸惑ったが、彼女は歓喜に満ちた表情を浮かべてルドルフにこう答えた。『ええ、勿論よ!』『有難う、マリー。』ルドルフはマリーを抱き締めながら、ある計画を立てていた。『ヨハン大公様、お話とは何でしょうか?』『タマキ、お前に手伝って貰いたいことがある。』『詳しくそのお話をお聞かせください、大公様。』にほんブログ村
2015年12月22日
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『お母様、聞いて頂戴!明日の夜に開かれる舞踏会に、皇太子様がわたしを招待してくださったの!』『まぁ、それは凄いじゃないの、マリー!』『あと少しで、お母様の願いをわたしが叶えて差し上げるわ!』 マリーはそう言うと、母親の胸に飛び込んだ。『ねぇ、皇太子様は貴方の事を気に入ったの?』『ええ。皇太子様は、皇太子妃様と別れてわたしと一緒になりたいと仰ってくれたのよ!』『それでこそわたしの娘だわ、マリー。』 野心家の娘に対してヘレーネは少し心配していたが、このまま彼女が皇太子と交際を続けると、ウィーン宮廷入りもいつか実現するかもしれない。 そうなれば、今まで自分を馬鹿にしていた者達を見返すことが出来る―ヘレーネは、そんな一縷の望みをマリーに託した。『貴方が、東洋の舞姫ね?』 救護院からの帰り道、環は突然見知らぬ少女から声を掛けられて振り向くと、そこには自分を睨みつけて仁王立ちしている少女の姿があった。『そうですが、貴方はどなたです?』『あら、宮廷に勤めていらっしゃる貴方なら、わたしがわざわざ名乗らなくてもわたしが誰だかご存知だと思うけれど?』『皇太子様と最近お付き合いなさっているとお聞きしましたけれど、貴方のお母様は昔確か皇太子様を誘惑為さって振られたそうですね?母親が叶えられなかった夢を娘の貴方が叶えようと為さるなんて、何て親孝行な娘さんなのでしょうね。』環の挑発に乗った少女―マリーは、環を殴ろうとして腕を振り上げたが、その腕は環によって掴まれた。『ちょっと、離しなさいよ!』『皇太子様は、貴方のような小娘に本気になる訳がないでしょう?あなたは恋の熱に浮かされているだけ。身の程を知りなさい。』環はそう言ってマリーを睨みつけると、彼女に背を向けて歩き出した。『待ちなさいよ!』マリーは環の腕を掴んで自分の方へと振り向かせると、彼の頬を打った。『身の程を知るのは貴方よ、わたしの家は金持ちだけれど、貴方は所詮平民の娘でしょう?平民の癖に、女官になって皇太子様に取り入ろうとするなんて汚い女ね!』『平民でも、貴方のような野心家の薄汚い金持ちよりはマシよ!男爵令嬢ですって?笑わせないでよ。貴方達一家が金で爵位を買った成り上がり者だということは、宮廷の貴族達はみんな知っているわ!』 環はそう叫び、マリーの頬を平手で打った。『これはさっきのお返しよ。』 路上でマリーとやり合った後、帰宅した環は厨房でパンを捏ねていた。今頃、ルドルフが彼女と会って、彼女の耳元に甘い言葉を囁いているのかと想像するだけで吐き気がする。マリーへの怒りをぶつけるかのように、パン生地をまな板の上に叩きつけた。「あんた、嫌な事でもあったのかい?」「ええ。今日、マリーとかいう生意気な娘と路上でやり合いました。」「マリーって、最近皇太子様と噂になっている小娘かい?皇太子様があんな小娘相手に夢中になるなんて思えないんだけどねぇ。」「わたしもそう思います。ルドルフ様は、何かお考えがあってあの娘に近づいているんじゃないかって・・」『タマキ、居るか?』 厨房で環が小春とそんな話をしていると、居間からルドルフの声がした。『まぁルドルフ様、こちらにおいでになられるのなら、お手紙でお知らせになってくだされば宜しいのに。』『お前に会いたくて堪らなかったんだ。どうした、顔が粉塗れだぞ?』『済みません・・さっきまで、パン生地を捏ねていました。今から着替えて参ります。』 二階の部屋で着替えを済ませた環がダイニングルームに入ると、そこには小春とルドルフが夕食前のコーヒーを飲んでいた。『お待たせ致しました。』『お前も来たところだし、夕食にしよう。』ルドルフと夕食を食べながら、環は彼にマリーの事を尋ねようとしたが、出来なかった。『タマキ、わざわざわたしがこうしてここに来たのは、お前に話したいことがあるからだ。』『話したいこと、ですか?』『ああ。マリーの事だ。』ルドルフの口からマリーの名が出て来て、環は驚きの余りフォークを落としそうになった。にほんブログ村
2015年12月22日
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『お帰りなさいマリー、皇太子様にはお会いできたの?』 自宅前に馬車が停まった音を聞いたヘレーネ=ヴェッツェラは、馬車から降りて来た娘にそう話しかけると、彼女は何処か暗い表情を浮かべていた。『皇太子様にはお会いできたけれど、皇太子様はわたしには目をくれなかったわ。』『まぁ、そうなの。マリー、そんなに気を落とさないで。』『えぇ、お母様・・』娘の落胆した顔を見たヘレーネは、かつて皇太子を誘惑し、相手にされなかった時の悔しさを思い出した。 あの時の悔しさをバネにして、ヘレーネは外交官であるアルビンの妻となり、男爵夫人となった。 しかし、男爵とはいっても、ウィーン宮廷からすれば、“金で爵位を買った成り上がり者”という軽蔑の目で見られ、ヘレーネもマリーも、宮廷入りすることは許されなかった。(成り上がり者の何が悪いの?貴族だからといって、何でも偉いわけじゃないわ!) ヘレーネは小アジア・スルミナ出身のギリシャ人銀行家・バルタッツィ家の娘で、夫亡き後、銀行家の兄弟達を頼り、金で爵位を買って念願の貴族となった。彼女は自分が感じた惨めさや悔しさを娘達に味あわせまいと、娘達に良い嫁ぎ先を探していた。そして、知人であるマリー=ラリッシュ伯爵夫人がマリーと皇太子をフロイデナウ競馬場で引き合わせてくれることになった。『ヘレーネ、マリーが皇太子様とお会いしたのですって?皇太子様は、どうだったの?』『マリーは、皇太子様は自分の他に好きな方が居ると言っていたわ。』『もしかすると、皇太子様の好きな方は女官であるタマキとかいう日本人ではなくて?』ヘレーネの話を聞いていたラリッシュ伯爵夫人は、そう言うと彼女を見た。『まぁ、貴方その日本人を知っているの?』『知っているも何も、彼女は皇太子様のみならず、皇帝ご夫妻のお気に入りの女官よ。元はサムライの娘だったそうだけれど、日本文化を広める為に渡欧してきたのですって。』『そう、それじゃぁ彼女もうちと同じような身分じゃないの。それじゃぁそのタマキに取り入れれば、皇太子様がマリーを気に入ってくれるってことね?』ヘレーネの言葉に、ラリッシュ伯爵夫人は呆れ顔を浮かべた。『それは、難しいと思うわよ。』 フロイデナウ競馬場で憧れの皇太子で出会った日から、マリーは彼の事を想わない日はなかった。 そんな中、ヴェッツェラ家の元に皇太子の紋章が捺された手紙が届いた。“愛しいマリー、再びフロイデナウ競馬場にてお会いできることを願っております。―R―”『お母様、皇太子様からお手紙が届いたわ!』『やったじゃないの、マリー!』『お母様、わたしはきっと皇太子様を虜にしてみせるわ!そうしたら、お母様が果たせなかった夢を叶える事が出来るわ!』 マリーはそう言うと、母親と抱き合った。 数日後、フロイデナウ競馬場でマリーは再び皇太子と会った。『皇太子様、またお会いできて嬉しいですわ。』『わたしもだよ、マリー。この前は冷たくしてしまって済まなかったね。』『いいえ・・こうして皇太子様とお会いしてお話しするだけでも嬉しいのです。』マリーは頬を羞恥で赤らめながら、そう言うとルドルフを見た。『また会おう、マリー。』『はい、皇太子様。』 ルドルフが成り上がり者の男爵令嬢と最近密会しているという噂が宮廷内に流れ、シュティファニーのヒステリーは益々酷くなった。『あぁ、まただわ・・』『タマキ様との事で神経を擦り減らしておしまいになって、その上マリーとかいう男爵令嬢の事を聞いて、皇太子妃様は大層お怒りのご様子だとか。』『タマキ様は別として、あの男爵令嬢の出自は胡散臭そうね。』 皇太子妃の部屋から何かが割れる物音がして、女官達は互いの顔を見合わせながら扇子の陰でそんな事を囁き合っていた。『皆さん、何をお話し為さっているの?』『タマキ様、最近マリー=ヴェッツラとかいう男爵令嬢が皇太子様と親しいのですって。』『マリー=ヴェッツラ?聞いたことがない名前ね?』『男爵令嬢だけれど、その出自は怪しいものだわ。』 マリー=ヴェッツェラという名を聞いた環は、何だか嫌な予感がした。にほんブログ村
2015年12月22日
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1888年3月9日、長らく病床に臥せっていたドイツ皇帝・フリードリヒ1世が死去し、フリードリヒ3世が皇帝として即位していたが、不治の病に罹り在位99日後の6月15日に死去した。 相次いでドイツ皇帝が二人も逝去し、その座は若干29歳の皇太子であるヴィルヘルムが即位することになった。 皇帝の名代としてフリードリヒ3世の葬儀に出席していたルドルフは、そこで初めてヴィルヘルムと対面した。 黒髪で精悍な顔つきをしており、猛禽類のような鋭い目をしているヴィルヘルムは、自分と同世代であるルドルフを何かとライバル視していた。『おや、これはルドルフ皇太子ではありませんか。貴方とは一度、お話してみたいと思っておりました。どうです、これから一緒にお茶でも如何です?』『申し訳ありませんが、先約がありますので。』自分からの誘いをそう断ったルドルフに、ヴィルヘルムの顔が怒りで歪んだ。『ヴィルヘルム陛下、お気になさらず・・』『ハプスブルク家の皇太子だからって偉そうにしやがって・・絶対にあいつを潰してやる!』 ヴィルヘルムはそう叫ぶと、遠ざかるルドルフの背中を睨みつけた。『お帰りなさいませ、ルドルフ様。ドイツで何かありましたか?』『いや、何もなかった。ただ、ヴィルヘルムの機嫌を少し損ねてしまったようだ。』『ヴィルヘルムといいますと、新しく皇帝として即位された方ですか?』『流石宮廷勤めをしているだけあって情報が早いな。まぁ、向こうがわたしをどう思おうが、わたしには関係のない事だ。彼は好きにはなれないが。』ルドルフはそう言うと、ソファの上に腰を下ろした。『またここに泊まるおつもりですか?王宮に戻らないと、エルジィ様が寂しがりますよ?』『ああ、そうだな。お前の言うことを聞いて、今夜は王宮に戻るとしよう。』『玄関までお送り致します。』『いや、いい。表に馬車を待たせてあるから、人目につく。』ルドルフは自分を見送ろうとする環にそう断ると、そのまま彼の自宅から出た。 だが、外に出たルドルフは、表に待たせていた馬車がない事に気づいた。これはシュティファニーの差し金だとルドルフは思いながら、王宮まで歩いて帰った。『ねぇ、昨夜皇太子様が徒歩で王宮まで戻られたそうよ。』『何でも、皇太子様の馬車を皇太子妃様が勝手に帰されたそうで・・皇太子妃様も大人げない事を為さるのね?』『そういう事を為さるから、ますます皇太子様から嫌われるのだわ。』『そういえば、皇太子様は今どちらにいらっしゃるのかしら?』『さぁ・・フロイデナウ競馬場で女の方と密会されるのですって。』『皇太子様も懲りないお方ね。』 女官達が王宮内でそんな噂に興じている頃、ルドルフはフロイデナウ競馬場でレースを鑑賞しながら、環が来るのを待っていた。 だが、約束の時間から一時間を過ぎても、彼はなかなか現れなかった。(事故にでも遭ったのか?)ルドルフがフロイデナウ競馬場を後にしようとした時、一人の少女が彼の方へと近づいて来た。『あの・・失礼ですが、ルドルフ皇太子様でいらっしゃいますか?』『娘、何者だ?』『わたくし、マリー=ヴェッツェラと申します。今後ともお見知りおきを。』『そこを退け、お前には用はない。』 自分に纏わりつく少女をそう一蹴したルドルフは、慌てた様子で自分の方へと駆け寄って来る環の姿に気づいた。『申し訳ありません、支度に時間がかかってしまって・・』『いや、今から帰るところだ。』 ルドルフは背後から絡みつくような視線を感じて振り向くと、そこには先ほど自分に纏わりついてきた少女が柱の陰からこちらの様子を窺っていた。『ルドルフ様、どうかなさいましたか?』『いや、何でもない。』にほんブログ村
2015年12月22日
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ツェプスが環のインタビュー記事を新ウィーン日報の一面記事に載せたのは、“タイマン事件”から数日後のことだった。 その記事には、皇太子妃が一方的に環に対して絡んでいる事や、陰湿な嫌がらせをしていた事などが書かれていた。『タマキ様も良くやりますよね。これだと皇太子妃様に宣戦布告しているようじゃないですか?』『あいつはいじめられても必ずやり返す奴だ。このまま様子を暫く見るか。』ルドルフはクスクス笑いながら、新ウィーン日報で誇らしげに自分が贈ったダイヤが鏤めた真珠の指輪をつけて笑顔を浮かべている環の写真を見た。『何なのよ、この記事は!?まるでわたしが一方的にあいつをいじめているように書かれているじゃないの!』『皇太子妃様、お気をお鎮めください。』『新聞社に抗議してやるわ!』 シュティファニーはすぐさまツェプスに新聞の発行を止めるよう電報を打ったが、ツェプスは“事実を報じたまでのことです。”との一点張りだった。 一方的に悪者扱いされて黙っているシュティファニーではなかった。彼女は貴族階級出身の者達が読む新聞や雑誌のインタビューに応じ、いかに自分がウィーン宮廷で蔑ろにされ、惨めな思いをしているのかを記者達に訴えた。 こうして、環とシュティファニーの報道合戦は、火蓋を切って落とされた。『シュティファニー、マスコミを使ってまでして、タマキを潰したいのか?』『陛下、わたくしは当然の事をしたまでですわ。』 シュティファニーが雑誌の記者の取材に応じたという事を知ったフランツがそう彼女を窘めると、彼女はそんな言葉を舅に返した。『陛下は何故、あの女を皇太子様のお傍に置くのです?あの女はウィーン宮廷の評判を落とすだけではなく、妻でありベルギー王女であるわたくしへ喧嘩を売って来たのですよ!』『それは、お前の行動が原因ではないのか?』舅が自分の味方になってくれない事を知ったシュティファニーは、落胆した表情を浮かべながら彼の部屋を後にした。 皇太子妃と、皇太子の愛人の争いという格好のゴシップは、ウィーン市民を熱狂させた。皇太子妃寄りの女官達は、環がいかに宮廷を我が物顔で歩き、自分達の主人を貶めているのかを記者達に語り、環の評判を落とそうと躍起になっていた。しかし、彼女達が必死になればなるほど、環の評判は上がり、シュティファニーの評判は瞬く間に落ちていった。そんなある日の事、貴婦人向けの雑誌にある記事が載った。『今回の騒動について、皇太子妃様の大人げない行動は目に余る。自分の行動を棚に上げ、気に入らない相手を執拗に絡んでは中傷を繰り返す。これが、ベルギー王女として誇り高く生きていた女性の本質なのだろうか。だとしたら、ハプスブルク家は大変な人物を皇太子妃に迎えたものである。』 この記事が決定打になり、ウィーン市民達は二人の争いに興味を失い、平穏な日常へと戻っていった。『皇太子妃様、お顔の色が悪いようですが、どうかなさいましたか?』 シュティファニーが廊下を歩いていると、環がそう言って彼女に話しかけてきた。『貴方、憶えていなさいよ!』 シュティファニーは環を睨みつけ、そのまま自室に引き籠った。「皇太子妃様相手に容赦ないねぇ、あんた。」「わたしは皇太子妃様にやられた分をやり返しただけです。それに、理不尽な事には納得できません。」「解っているよ、あんたの性格は。」小春は溜息を吐きながら、環に紅茶を出した。「有難うございます。」「まぁ、これで一段落ついたところだし、ゆっくりできるね。」「はい。」 環は紅茶を一口飲むと、シナモンの味が口の中に広がった。「シナモンティー、試しに淹れてみたんだよ。」「美味しいです。」にほんブログ村
2015年12月22日
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※BGMとともにお楽しみください。『お兄様、ヴァレリーです。入っても宜しいかしら?』『どうした、ヴァレリー?お前がここに来るなど珍しいな。』『お兄様とお義姉様が言い争っている声が廊下まで聞こえていましたわ。一体お義姉様は何を怒っていらっしゃるの?』『あいつは自分に手を上げたタマキに軽い処分を下された事が気に入らないらしい。尤も、あいつはタマキを敵視しているから、わざと自分を殴らせるように仕向けて王宮から追い出そうと企んだのだろう。』『お義姉様は、何故そこまでタマキを目の敵にされるのかしら?』『わたしが妻であるあいつに見向きもせず、タマキばかりを愛しているから気に入らないのだろう。それに、娘のエルジィがあいつにばかり懐いていて、自分には反抗ばかりするのも気に入らないんだ。』『お義姉様にも困ったものだわ。タマキはお義姉様の事は何も気にしていないというのに、お義姉様はタマキに変な言いがかりをつけては絡んでくるんですもの。』『まぁ、放っておいた方がいいだろう。タマキは最初から相手にしていないし、わたし達が横から口を挟むべきではない。』『そうね・・』自分の妻と恋人の問題に、ルドルフは暫く静観することに決めた。下手に口を挟めば、解決する筈の問題が大きく拗れてしまうことがある。それに、環はシュティファニーからどんなに言いかがりを付けられても、彼女から陰湿な嫌がらせを受けても、それを歯牙にもかけない。 時間が解決してくれることだろう―ルドルフはそう思いながら、溜まった書類の処理を始めた。「自宅謹慎処分だけで済んで良かったねぇ。本当なら王宮から追い出されるところだったのに、皇太子様があんたの肩を持ってくださったお蔭で追い出されずに済んだねぇ。」「ええ、ルドルフ様には感謝しております。」 自宅の居間で環は刺繍をしながら小春とそんな話をしていると、コーヒーが入ったカップを載せた盆を持った春が居間に入って来た。「環様、これからどうなさるのですか?」「暫く大人しくしています。それに、今まで忙しくてゆっくりと休む暇がなかったから、ゆっくりと読書や刺繍をします。」「そうですか。環様、皇太子妃様は何故環様を嫌うのでしょうね?」「あんた、それを直接本人に聞くのかい?」小春が呆れ顔を浮かべながら春にそう言うと、環はクスクス笑いながらコーヒーを一口飲んだ。「皇太子妃様は、ルドルフ様がご自分よりもわたしの方を愛していらっしゃるから、わたしの事が目障りなのでしょうね。まぁ、わたしは皇太子妃様のお相手をするほど暇ではありません。」「環様はお強いですね。わたしだったら、たとえ相手が悪くても、自分の非を認めてしまうかもしれません。」「そんな事をしては駄目よ、お春ちゃん。自分が何も悪さをしていないのに、それを認めてしまったら、後でその事を否定するのは難しいものなのよ。正しい事は正しい、悪い事は悪いと、はっきりと主張しなければ駄目よ。」「わかりました、肝に銘じます。」 春がそう言った時、外のドアが誰かにノックされた。『どちら様ですか?』『ウィーン日報のツェプスです。タマキさんは居られますか?』「環様、ウィーン日報のツェプス様と仰る方がお見えです。」「お通しして。」『タマキさん、お久しぶりです。聞きましたよ、貴方が皇太子妃様とタイマンを張られたようですね?』『まぁ、ツェプスさん、流石記者さんでいらっしゃいますこと。本日こちらにいらっしゃったのは、わたしにそのお話を伺う為ですか?』『ええ。できればその時の状況も詳しくお聞かせ願えますかな?』『喜んでお話し致しますわ。どうぞお掛けになって。』 ツェプスに微笑んだ環は、春にコーヒーを淹れるように言った。「何だか嬉しそうですね、環様。」「そうだね。あたし達は邪魔だから、暫くここで世間話でもするかね。」 小春は笑みを浮かべながらツェプスのインタビューを受ける環の様子を厨房のドア越しに見た後、ポットに入っている湯を沸かした。にほんブログ村
2015年12月21日
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『タマキ、皇太子妃様がお呼びよ。』『はい、すぐに参ります。』 翌朝、環がシュティファニーの部屋に行くと、彼女は不機嫌な顔で環を迎えた。『貴方、夫から贈られた物を身に着けているそうじゃないの?』『皇太子妃様、何処からそのようなお話をお聞きになられたのですか?』『だ、誰だっていいじゃない、そんな事!』環にそう突っ込まれたシュティファニーは激しく狼狽しながらも、彼の右手薬指に嵌められた真珠の指輪を見た。『その指輪をわたくしにお寄越しなさい!』『申し訳ありませんが、この指輪は皇太子妃様には分不相応な物です。貴方にお渡しするつもりはございません。』 環がシュティファニーの命令を拒否すると、彼女の顔が憤怒で歪んだ。『わたくしの命令が聞けないというの!』『はい。他の物ならばいくらでも差し上げますが、この指輪だけは皇太子妃様にお渡しすることは出来ません。』環がそう言ってシュティファニーを見ようとした時、彼は頬に痛みを感じた。『貴方、夫の寵愛を得ているからっていい気にならないで!夫の・・この国の皇太子の妻は、このわたくしなのよ!一介の女官風情が、わたくしに逆らうなんて生意気よ!』『お言葉ですが皇太子妃様、王族である事に誇りを持たれるのは結構ですが、その権力を振り翳すのは間違っていらっしゃいます。』『何ですって!?』再び自分を殴ろうとして腕を振り上げようとしたシュティファニーの頬を、環は平手で打った。『殴ったわね、ベルギー王女であるわたくしを殴ってタダで済むとでも思っているの!?』『皇太子様に告げ口したければ、どうぞ為さってください。皇太子様がわたしと貴方、どちらの証言を信じられるのかは、貴方とてお分かりになる筈ですよね?』 悔しそうに唇を噛むシュティファニーに向かって薄笑いを浮かべた環は、そのまま彼女の部屋から出て行った。『どうしたの、その顔?』『いいえ、何でもありません。皇太子妃様は今ご機嫌がお悪いようですから、その書類は後で持っていかれた方がよろしいと思います。』環がそう言うと、皇太子妃付きの女官は首を傾げながら主の元へと向かった。「あんた、皇太子妃様を殴ったって?エルンストさんから聞いたよ。」「ええ、殴りました。ですが、先に手を出してきたのは向こうです。“目には目を、歯には歯を”がわたしのモットーですから。」「あんたの気持ちは解るけれど、ベルギー王女である皇太子妃様を女官のあんたが殴ったら、一大事になるんじゃないかねぇ?」小春がそう言って心配そうな顔をして環を見ると、彼の頬にはうっすらとシュティファニーの手形が赤く残っていた。「大丈夫です。」「あんたは気が強い所があるけれど、その気の強さが仇にならないといいけどねぇ。」 シュティファニーを環が殴った事件は、彼女の夫であるルドルフの耳に入った。『シュティファニーは、先にお前が殴って来たと言っているが、本当なのか?』『いいえ、違います。先に殴って来たのは皇太子妃様です。皇太子妃様はわたしが大切にしている指輪を寄越せと仰せになられたので断ったら、皇太子妃様は口汚い言葉でわたしを罵倒した後わたしを殴りました。なので、わたしは皇太子妃様にやり返しただけです。』『そうか。だがタマキ、暴力は駄目だ。まぁ、それはシュティファニーにも言えることだが。』『ルドルフ様、わたしはこれからどうなるのですか?』『暫く自宅謹慎処分になるだろう。』『そうですか、それでは失礼いたします。』 シュティファニーは自分に暴力を振るった環が軽い自宅謹慎処分となったことに納得がゆかず、ルドルフの執務室へと怒鳴り込んだ。『貴方、納得がいきませんわ!何故あの女官が自宅謹慎処分ですの?わたしはあいつに暴力を振るわれたのですよ!』『先に殴って来たのはお前だろう、シュティファニー?自分の行動を棚に上げて何を言う?』ルドルフは一度も妻の顔を見ることなく、書類の決裁をした。にほんブログ村
2015年12月21日
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その日の夜、ホーフブルク宮で皇帝主催の舞踏会が開かれた。 シャンデリアの輝きの下、美しい宝石やドレスで着飾った貴族の令嬢達や貴婦人達の姿を、ルドルフの一人娘・エリザベートことエルジィは茂みの中から覗き見ていた。『エルジィ様~』『エルジィ様、どちらにおられますか~?』 遠くから、世話係達の自分を探す声が聞こえ、エルジィは慌てて茂みの中に隠れた。一方大広間では、ルドルフがシュティファニーをダンスに誘ったが、彼女はそれを断った。その様子を見ていた貴族達は、宮廷内に流れる皇太子夫妻の不仲説が決定的な事実であることを確認したのであった。妻にダンスを断られたルドルフは、近くに居た社交界デビューしたばかりの令嬢とダンスを踊った。 茂みの中からダンスを踊っている父親の姿を見ながら、エルジィは彼が童話の中に登場する王子様のように思えたのだった。『エルジィ様、そんなところで何を為さっておられるのですか?』 突然頭上から声が響いて来て、エルジィが顔を上げると、そこには盛装した環の姿があった。『だって、きれいだから見に行きたかっただもん、舞踏会。でも、おかあちゃまはわたしにはまだ早いっていうの。』『そうですか。この事は、お父様やお母様には内緒ですよ。』環がそう言ってエルジィを抱き上げると、彼女は環の言葉に静かに頷いた。『あらタマキ、それにエルジィまで・・』『あらあら、誰にも見つからないようにお部屋に行こうとしたのに、ヴァレリー様に見つかってしまいましたね、エルジィ様。』 部屋に戻る途中でヴァレリーと鉢合わせしてしまった環がそう言ってエルジィの方を見ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。『エルジィ、もしかしてお部屋を脱け出して舞踏会の様子を覗いていたんでしょう?』『どうしてわかるの、ヴァレリーおばちゃま?』『わたしも昔、貴方と同じような事をしたからよ。あの頃は、舞踏会の様子が綺麗で輝いて見えたものよ。でも、今は違うわ。』ヴァレリーはそう言うと、エルジィに微笑んだ。『ヴァレリー様、くれぐれもこの事は内密にお願いいたします。』『ええ、解ったわ。じゃぁタマキ、またね。』『はい、ではこれで失礼いたします。』 ヴァレリーと廊下で別れた環は、いつの間にか眠ってしまったエルジィを抱いて彼女の部屋へと運び、寝台の上にそっと寝かせた。『良い夢を、エルジィ様。』 エルジィの部屋から出た環を、舞踏会から脱け出してきたルドルフが呼び止めると、彼はバツの悪そうな顔をした。『タマキ、そんなところで何をしていた?』『ルドルフ様・・』『もしかして、エルジィがまた部屋から脱け出して舞踏会を覗いていたのか?』『ええ、まぁ・・ルドルフ様、何故それをご存知なのですか?』『ヴァレリーから、あいつが度々部屋から脱け出しては世話係を困らせているという話を聞いてな。全く、誰に似たんだか・・』 ルドルフはそう言いながらも、柔らかな笑みを浮かべていた。『タマキ、昼間は済まなかったな。』『いいえ、わたしの方こそ、差し出がましい事を言ってしまって申し訳ありませんでした。』『いや、謝るな。今夜はシュティファニーをダンスに誘ったら、断られた。お前と踊りたかったが、居なかったから適当な相手を選んでダンスを踊って、つまらない時間を過ごしたよ。』『それは大変でしたね。』『お前、そう言いながら顔が笑っているぞ?』 ルドルフがそう言って環を睨むと、彼は苦笑した。『ルドルフ様、エルジィ様の事を余り叱らないでやってくださいませ。』『あぁ、解っている。さてと、ここで立ち話をするよりも、わたしの部屋に来て二人きりでわたしとダンスを踊らないか、タマキ?』『はい、喜んで。』 環はそう言ってルドルフに微笑むと、彼の手を握った。にほんブログ村
2015年12月20日
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『そ、それは・・』『そんな事が出来ない癖に、わたしを知ったような口を利くな。』ルドルフの言葉に、環は胸をナイフでぐさりと抉られたかのように傷ついた。『失礼致します。』 涙を彼に見せまいとして、環が逃げるようにルドルフの部屋から出ると、廊下でマリア=ヴァレリーと鉢合わせした。『タマキ、どうして泣いているの?』『いいえ、泣いてなどいません。目にゴミが入っただけです。』『お兄様と喧嘩したのでしょう?』『ヴァレリー様に嘘を吐くのは、難しいですね。』環はそう言ってハンカチで目元を拭うと、ヴァレリーの方へと向き直った。『そう・・お兄様が貴方にそんな事を言ったのね。』『わたしは、今までルドルフ様の事を解っているのは自分だけだと、そんな烏滸(おこ)がましい事を思っていたのです。その罰が当たったのですね。』 ヴァレリーの部屋に招かれた環は、そう言葉を切ると、紅茶を一口飲んだ。『ねぇタマキ、わたし今までお兄様から嫉妬されていた事を知っていて?』『ルドルフ様が、ヴァレリー様に嫉妬されていたなんて、初耳です。一度もルドルフ様はそのような事をおっしゃっておりませんでした。』『それは当然よ。自分の家庭の問題を、他人に話したりはしないわ。わたしは、お母様から溺愛されて、お母様といつも一緒だった。でも、お兄様はそんなわたしに何度か冷たく接した事があったわ。それほどまでに、お兄様はお母様の愛情に飢えていたのね。』 ヴァレリーの話を静かに聞きながら、環はルドルフが生まれてすぐに皇妃と引き離され、祖母であるゾフィー大公妃の下で育てられたという話を彼から聞いた時の事を思い出した。 ゾフィー大公妃の下で育てられたルドルフは、教育係であるレオポルド・ゴンドレクール伯爵から厳しい軍隊式の教育を受け、精神耗弱状態に陥ったこと、その様子を見かねた皇妃がゾフィー大公妃に意見し、ゴンドレクール伯爵を罷免するまでの経緯を、ルドルフは環と初めて結ばれた日の夜に話してくれた。『あの時、母上がわたしを救い出してくれた。わたしは母上に感謝してもしきれない。』そう言ったルドルフは、母親を恋しがっているかのような寂しい笑みを浮かべていた。『わたしはお兄様やジゼルお姉様とは違って、ブタペストで産まれたの。お母様はわたしの事をとても溺愛していて、宮廷に居る貴族達はわたしの事を、“皇帝夫妻の一人娘”と呼ぶようになったわ。でも、わたしにはお母様の愛情が苦しくて仕方がなかった。ドイツ人なのに、ハンガリー語を話すようお母様から強要されるのが嫌で堪らなかったわ。』ヴァレリーは環に胸の内を話すと、溜息を吐いた。『タマキ、同じ血を分けた兄妹同士でも、自分の本心を話しはしないものよ。』『ヴァレリー様、何故わたしに本音を話してくださったのですか?』『貴方なら、誰にも口外しないと思ったから、打ち明けたの。それよりもタマキ、お兄様は多分本心で貴方に酷い事を言ったわけではないと思うのよ。ただ、お兄様は貴方に対して意地を張っていらっしゃるんだわ。』『意地を、張っていらっしゃる?』『ええ。愛している人に弱みを見せたくないのよ、お兄様は。そういう意地っ張りなところがおありだから。』 ヴァレリーはそう言うと、そっと環の手を握った。『お兄様は、貴方の事を心の底から愛していらっしゃるわ。その事を忘れないで。』『はい、ヴァレリー様。ヴァレリー様は、すっかり大人の女性となられましたね。9年前のヴァレリー様のお姿からは想像も出来ません。』『あの頃はお転婆娘だったけれど、今は違うわ。貴方は9年前から少しも変っていないわね、タマキ。』『そうでしょうか?』『ええ。けれど、今の貴方は昔よりも艶めいているわ。それはお兄様のお蔭なのでしょうね、きっと。』 ヴァレリーと環がそんな話をしていると、そこへフランがやって来た。彼は、9年前はあどけない少年だったが、今は軍服が似合う凛々しい青年へと成長していた。『フラン様、お久しぶりです。』『タマキさん、ご無沙汰しております。貴方がヴァレリーの部屋にいらっしゃるなんて珍しいですね。』『少し、ヴァレリー様と話しておりました。』『どんな話をしていたの?』『ふふ、それは秘密よ。』にほんブログ村
2015年12月20日
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『わたしにお話とは何でしょうか、陛下?』『最近、ルドルフの様子がおかしいことにお前は気づいているか?』『ええ・・最近、ルドルフ様が時折何かを考え込んでいらっしゃることがあります。わたしが何を思っていらっしゃるのかとお尋ねしても、答えてくださらないのです。』『そうか・・ルートヴィヒ2世の事があった所為で、あいつは自分の中を流れる血が、ハプスブルク家のものよりもヴィッテルスバッハ家の方が濃いのだと思っているのかもしれん。』 皇帝の言葉に、環は英国でルドルフが自分に話してくれたことを思い出した。『ルドルフ様、まだ起きていらっしゃったのですか?』 書斎から漏れる光に気づいた環がガウン姿で執務机の前に座るルドルフにそう声を掛けると、彼は環の姿に気づいて彼の唇を塞いだ。『少し、月を見ながら考え事をしていた。あの月を見ずとも、わたしはいつか狂気に囚われてしまうのではないかと。』『何故、そうお思いになるのです?』『お前も宮廷で何度かヴィッテルスバッハ家について女官達が噂をしているのを聞いたことがあるだろう?』『は、はい・・』 ヴィッテルスバッハ家とは、ルドルフの祖母・ゾフィー大公妃や彼の母であるエリザベート皇妃がその出身であり、血族結婚を繰り返した結果、精神に異常を来す者が突出しているという呪われた家系なのだと、女官達が噂をしているのを聞いたことがあった。 ルドルフは、その“狂気の血”が自分の中に流れていることを恐れている。『わたしはまだ正気だが、いつか自分の中を流れる血が・・わたしを狂気へと誘うのだろうかと思うと、恐ろしくて堪らない。』『ルドルフ様、そのような事はありません。』『うるさい、お前に何が解る!?』怒りに満ちた蒼い瞳を環に向けたルドルフは、そう叫ぶと彼の首を絞めた。『お前に、わたしの苦しみなどが解るものか!』『ルドルフ様、おやめください・・』環が苦しみに顔を歪ませると、ルドルフは我に返って自分の両手を環の首から離した。『済まない、わたしは・・』『ルドルフ様、貴方は大丈夫です。貴方の事を、わたしがお守りいたします。』あの時、ルドルフは寂しそうな笑みを浮かべていたが、あれは自分がやがて狂気に囚われるという諦めの笑みだったのだろうか。『陛下、ルドルフ様は英国で、わたしにいつか自分が狂気へと・・ヴィッテルスバッハ家の血が狂気へと誘うのではないかと恐れていると話してくださったことがありました。』『ルドルフが、お前にそのような事を・・』フランツはそう言うと、溜息を吐いた。『タマキ、わたしにはルドルフの事が解らなくなってきた。子供の頃のあいつは、ただ純粋にわたしに憧れていたし、わたしもあいつの事を愛していた。それなのに、わたしはあいつが少しずつ遠くなっていくような気がしてならないんだ。』『陛下、わたしがルドルフ様をお守り致します。』『頼むぞ、タマキ。』 皇帝の私室から出た環がルドルフの部屋があるスイス宮へと向かうと、丁度ルドルフがエルンストを伴って部屋に入るところだった。『ルドルフ様、今までどちらへ行かれていたのですか?』『フロイデナウ競馬場で、女と逢引していたと言えば、お前は怒るか?』『いいえ。』『・・お前は本当に、気が利くな。』ルドルフはそう言うと、環に優しく微笑んだ。『では皇太子様、わたしはこれで失礼致します。』エルンストはそう言うと、ルドルフに頭を下げてスイス宮を後にした。『先ほど、皇帝陛下に呼び出されました。陛下は、ルドルフ様の事を愛していらっしゃるのに、ルドルフ様がご自分の元から遠ざかっていくような気がしてならないとおっしゃっておりました。』『そうか、父上がそんな事を・・』『ルドルフ様、わたしでも貴方のお力になる事が何か出来るかもしれません・・ですから、貴方が今何を悩んでいらっしゃるのか、話してください。』 黒真珠のような美しい環の瞳に見つめられ、ルドルフは一瞬驚いた顔をした後、突然大声で笑い出した。『ルドルフ様?』『いきなり会ったかと思えば、突然そんな事を言い出して・・お前が、わたしの魂を救ってくれるとでもいうのか?』 ルドルフの言葉を受けた環はまるで金縛りに遭ったかのようにその場から動けなくなった。にほんブログ村
2015年12月19日
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『ルドルフ、最近皇太子妃が公の場で愛人とダンスを踊ったりして仲睦まじい姿を貴族達に見せていると聞くが、お前はそれに対してどう思っているのだ?』『シュティファニーの事については、わたしは何も口出しは致しません。わたしの女性問題の事で以前の彼女は口煩くわたしを執拗に責めたてていましたが、エルジィが生まれてからはそれもしなくなりました。彼女が愛人と火遊びをしても、子供が出来ないのですから心配することはないでしょう。』『お前は、あいつの事を放っておくというのか?』『ええ。』フランツは、淡々とした口調で妻の愛人の存在を黙認するような発言をしている息子の事が解らなくなってしまった。『ルドルフ、お前は一体何を考えている?』『それは、わたし自身でもわかりません。では、仕事があるのでこれで失礼します。』ルドルフが部屋から出て行った後、フランツは溜息を吐いて執務机の前に座った。そこには、美しい妻の肖像画が置かれてあった。(シシィ、ルドルフはお前に似ている・・お前がわたしの傍に居てくれれば、ルドルフを理解できるのに・・) ルドルフとフランツは、政治的な意見の相違で対立し、ルドルフは皇太子という身分でありながら貴族制度を批判し、ドイツと親しくなろうとするフランツを遠回しに非難する論文を新ウィーン日報へ投稿していた。その事をフランツは知っていたが、自分が何を言ってもルドルフが考えを変えるつもりがないということくらい、解っていた。 ルドルフが子供だった頃、彼は自分を憧憬の目で見つめ、いつか自分のような皇帝になりたいと目を輝かせながら自分に話してくれたことがあった。それなのに、今のルドルフは最近一種の絶望と諦めを纏っているようにしかフランツの目には見えないのだ。(わたしには、あいつの事が解らない・・)『陛下、どうかなさいましたか?』『・・タマキをここへ呼べ。あいつに聞きたいことがある。』 環が皇帝の私室に呼び出された頃、ルドルフはフロイデナウ競馬場のロイヤルボックスでレースを鑑賞していた。『どうです、うちの馬は見事なものでしょう?』『あぁ、そうだな。』『ねぇ皇太子様、わたくしと素敵な時間を過ごしませんこと?』自分をあからさまに誘惑して来るラリッシュ伯爵夫人にルドルフは嫌悪感を滲ませながら、彼女にそっぽを向いた。『済まないが、わたしには妻が居るのでね。』『あらあら、皇太子様はいつから身持ちが固くお成りに遊ばせたのかしら?今まで数々の女性と浮名を流してきた方のお言葉とは思えませんわね?』しつこく自分に食い下がるラリッシュ伯爵夫人に対して内心舌打ちをしながら、ルドルフは気分が優れないと嘘を吐いてフロイデナウ競馬場を後にした。『ラリッシュ伯爵夫人はしつこいですね。まだ皇太子様の事を諦めていらっしゃらないみたいです。』 ロイヤルボックスでの一部始終を見ていたエルンストは、そう言って溜息を吐いた。『しつこい女は嫌いだ。エルンスト、折角の休日だというのにこんな場所に付き合わせてしまって済まないな。』『いいえ。エリザベスが子供達を連れて英国に行っているので、寂しく広い家に一人で居るよりはいいです。』『エリザベスの父親の容態はどうだ?かなり悪いとタマキから聞いたが・・』『元々心臓が弱いお方でしたから、出来るだけ傍に居てやりたいとエリザベスは申しておりました。わたしは義父に嫌われておりますので、英国行きを断りました。』『何処の家でも、義理の親子関係は上手くいくのか、いかないのかのどちらなのだな。まぁ、わたしの所でも同じようなものだが。』ルドルフはそう言うと、寂しげな笑みを口元に浮かべた。にほんブログ村
2015年12月19日
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『タマキ、エルジィ様が貴方をお呼びよ。』『解りました、すぐに参ります。』 翌日、環がエルジィの部屋へと向かうと、中から彼女の甲高い泣き声が聞こえて来た。『おかあちゃまなんて大嫌い!』『エルジィ、待ちなさい!』 ドアが開き、部屋から駈け出してくるエルジィを慌ててシュティファニーが追いかけようとした時、エルジィは環に抱き留められていた。『エルジィ様、どうなさいましたか?』『タマキ、来てくれたの?』先程まで自分に対して駄々を捏ねていた娘が、環の顔を見た途端、笑顔を浮かべたのを見たシュティファニーは、彼に対して憎悪と嫉妬の感情が湧き上がるのを感じた。『エルジィ、お部屋に戻りなさい、お母様の言う事が聞けないの!』『やだぁ、タマキと一緒に遊ぶの!』『いい加減にしなさい!』エルジィが再び駄々を捏ね出したので、苛立ったシュティファニーは彼女の頬を平手で打った。母親から打たれ、一瞬エルジィは驚愕の表情を浮かべた後、火がついたかのように泣き始めた。『どうした、一体何の騒ぎだ?』『あ、貴方・・』 ルドルフは環の腕に抱かれながら泣き叫ぶエルジィと、それに狼狽えるシュティファニーの姿を交互に見た後、愛娘に優しい口調で話しかけた。『エルジィ、どうして泣いているのか、お父様に教えてご覧?』『おかあちゃまが、わたしを打った!』『シュティファニー、それは本当なのか?』『だって、エルジィがわたくしの言う事を聞かないから、カッとなってつい・・』『タマキ、エルジィを連れてわたしの部屋へ来い。』『はい、解りました。』『あの、貴方・・』シュティファニーがルドルフの手を掴もうとすると、彼はその手を乱暴に振り払った。『お前の弁解など、聞きたくない。』彼の冷たい視線と態度に耐え切れず、シュティファニーはそのまま彼に背を向けて自分の部屋に引き籠った。(どうして貴方は、あのタマキの事を愛していらっしゃるの?わたくしは、貴方の妻だというのに、貴方はわたくしを愛してくださらない!) ルドルフの妻でありハプスブルク家の皇太子妃として、そしてベルギー王女としての誇りを夫から深く傷つけられ、シュティファニーはその日一日中寝室に籠ったまま出てこなかった。 一方、ルドルフはスイス宮の自室でエルジィにシュティファニーから叩かれた理由を聞き出した。『おかあちゃまが、もうタマキのお家に行ったり、遊んだりしちゃ駄目だっていうの。』『そうか、シュティファニーがそんな事をお前に言ったんだな。エルジィ、お前はどうしたいんだ?』『タマキと一緒に遊びたい。だってタマキの事、大好きだもの。』『そうか。』 愛娘の頭を優しく撫でながら、ルドルフはシュティファニーの精神状態が不安定になっていることに気づいた。 恐らくその原因は、自分と環の関係を彼女が知ってしまったからだろう。 だからといって、ルドルフは環と別れるつもりはなかった。 シュティファニーと結婚し、エルジィという後継者を残したのだ。 皇太子としての義務を果たしたのだから、ルドルフはもうシュティファニーを抱く事はない。 何故なら、シュティファニーは自分が性病を感染(うつ)してしまい、二度と子供が産めない身体になってしまったからだ。 彼女は最近自分へ当てつけるかのように、公の場で愛人とイチャついていると噂に聞いている。 いちいち女性関係について口煩く文句を言われるよりはマシだと思い、ルドルフは彼女の事を放っておいた。 すると、シュティファニーの事を聞いた皇帝がルドルフを自分の私室へと呼び出した。にほんブログ村
2015年12月19日
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「この家を放火しようとした男が警察に捕まったんだってね?」「ええ。でも、彼は頼まれてやったとの一点張りで、自分に仕事を依頼した人の名前を教えてくれませんでした。」 環はそう言いながら、ジャガイモの皮を包丁で器用に剥いた。「まぁ、家に放火される前に捕まって良かったよ。もしお春ちゃんが警察に通報していなかったら、あたし達無事じゃなかったかもしれないねぇ。」「そうですね。姐さん、今日はお春ちゃん、お休みですか?」「ああ。何でもあの子、ここの仕事と貴族のお屋敷の仕事を掛け持ちしていてね。今日は貴族のお屋敷でパーティーがあるから、お休みさせてくださいって今朝ここに来たんだよ。」「そうなのですか。お春ちゃん、家族は居るのですか?」「さぁねぇ。あんまり家族の事を話さないからね、あの子は。」小春はそう言って溜息を吐くと、剥いたジャガイモを包丁で細長く切り始めた。「人には誰だって話したくない過去や秘密があるさ。詮索するよりも、相手が自然とこちらに話すまで静かに待っている方がいいよ。」「そうですね。」「そういえば環ちゃん、あんた最近エルジィ様の世話係になったんだって?」「ええ。エルジィ様は他の世話係の方の言う事は聞かなくて、わたしの言う事だけを聞くのです。」「やっぱり、親子だから好みも似るのかねぇ?」「止めてください、姐さん。」 小春と出来上がった夕飯を食卓に並べていると、そこへエルジィを連れたルドルフがやって来た。『あら、皇太子様ようこそいらっしゃいました。今日はエルジィ様も一緒なのですね。』『ああ。どうしてもここに来たいと、エルジィが聞かなくてな。』『エルジィ様、こんにちは。』『タマキ、こんにちは。』 ルドルフによく似た彼の一人娘・エルジィは、そう言うと環に抱きついた。『あらあら、すっかりエルジィ様はあんたに懐いているねぇ。』『マダム、少しタマキと二人きりで話をしたいのだが、いいかな?』『解りました。エルジィ様、あたしと二階に行って遊びましょうね。』 小春がエルジィを二階の部屋へ連れて行くのを見たルドルフは、環の隣に座った。『お話とは何ですか、ルドルフ様?』『お前の家に放火するようアンセルムに依頼した人間がわかったぞ。』『そうですか。一体誰が彼に指示を出したのですか?』『聞いて驚くなよ。』ルドルフは環の耳元で、アンセルムに放火を指示した人間の名を囁いた。『シュティファニー様が、そんな恐ろしい事を・・』『あいつには証拠の手紙を見せて、おかしな真似をしたらそれを皇帝陛下に見せると脅しておいたから、暫くお前には手を出さないだろう。』『そうですか。皇太子妃様が最近わたしの顔を見て怯えるのは、そういう理由だったのですね。』『まぁ、これからはあいつの好きにはさせない。』ルドルフがそう言った時、廊下から慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、ダイニングルームに小春とエルジィが入って来た。『おとうちゃま、これみて!コハルから貰ったの!』『可愛いリボンを貰ったんだね、エルジィ。良く似合っているよ。マダムにお礼を言おうね。』 そう娘に言った時のルドルフの顔は、優しい父親のそれだった。「子供の遊び相手は疲れるねぇ。少しでも目を離したら、何処かへ行っちまうんだから。」「でも、あの時期が一番可愛い時期だって、ルドルフ様はおっしゃっておりましたよ。」「皇太子様は皇太子妃様との夫婦仲は悪いようだけれど、エルジィ様の事は可愛がっておられるようだねぇ。“子は鎹(かすがい)”って言葉は、本当なのかもしれないね。」 環に按摩を施されながら、小春はそう言うと呻いた。「結婚しても、必ずしも幸せになるとは限らないのですね・・」「まぁ、そうさ。子供が欲しいのに出来ない夫婦が居て、子供が欲しくないのに沢山出来る夫婦もいる・・この世は、不平等の名の下に成り立っているんだよ。」「そうですね・・」にほんブログ村
2015年12月19日
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警察の通報を受け、環の自宅周辺をうろついていた不審者は逮捕され、警察署で取り調べを受けた。『何故あの屋敷の周りをうろついていた?』『一体何の目的があって、うろついていたんだ?』 警察からの取り調べで、不審者は黙秘を続けた。『ったく、昨日取り調べた奴、自分の名前も言わないなんて、厄介な奴だ。』『ああ、大抵何処の誰だか判れば、経歴を調べられるんだが。』不審者の男が黙秘を続けている為、警察の取り調べは困難を極めた。『タマキ、お前の自宅をうろついていた不審者の男だが、捕まって一週間経っても黙秘を続けているそうだ。』『そうですか。ルドルフ様、わたし、その男に会ってみようと思います。』『それは止めておけ、危険過ぎる。お前の自宅周辺をうろついていたとなれば、お前を襲おうとしてお前が一人になる機会を狙っていたかもしれないんだぞ?』『ですが、このまま何も解らないなんて、納得がいきません。』 環に押され、ルドルフは自分が同行するという形で彼と共に警察署へと向かった。『ルドルフ様、わざわざこのような場所にお越しいただけるとは、恐縮です。』 署長はルドルフと環を出迎えると、そう言って恭しく二人にコーヒーが入ったカップを置いた。『一週間前に逮捕された不審者の男に、タマキが会いたいと言って聞かなくてな。』『そうでございますか。ではお二人とも、面会室へどうぞ。わたしが案内致します。』 署長に面会室へと案内された環は、その中に俯き加減で椅子に座っている男の姿に気づいた。『では、何かあったら見張りの警官に知らせてください。』『解りました。』 環がルドルフと共に面会室へ入ると、椅子に座っていた男は突然立ち上がり、二人の前に跪いた。『お願いだ、許してくれ!俺はただ、頼まれてやっただけだ!』『最初に名を名乗りなさい。話はそれからです。』『わかった・・』男は二人にアンセルムと名乗り、環の自宅をうろついていた理由を彼らに話し出した。『俺は、ある方からあんたの家を放火する為に下見をしていたんだ。そしたらあんたの家の女中が警察に通報して、俺は牢屋に入れられちまった。』『貴方は、誰にわたしの家を放火しろと頼まれたの?』環がそうアンセルムに尋ねると、彼は酷く狼狽えた。『済まねぇが、それは言えねぇ。言ったら、殺されちまう。』彼の怯えている様子が尋常ではなかったので、ルドルフは彼に環の自宅を放火するよう依頼した相手が、誰なのか解った。『お前が真実を話さなければこのまま牢屋暮らしだな。お前が依頼人の事を話したくないのなら、お前の自宅を捜索するよう警察にわたしが命じるだけだ。』ルドルフはそう言うと、環とともに面会室から出た。『アンセルムの自宅を捜索しろ。何か証拠が出て来るかもしれない。』『かしこまりました、すぐに捜索致します。』 警察がアンセルムの自宅を捜索すると、そこから彼に環の自宅を放火するよう指示した人物の署名がされた手紙が発見された。『やはり、な・・』 警察で押収された手紙に目を通したルドルフは、その手紙を持ってシュティファニーの元へと向かった。『あら貴方、わたくしの所に来るなんてお珍しい事。何かご用かしら?』『シュティファニー、この手紙に見覚えはあるか?』ルドルフがそう言って手紙をシュティファニーの前に突き付けると、彼女は飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。『何故、その手紙を貴方が持っているの?』 シュティファニーはルドルフから手紙を奪い取ろうとしたが、ルドルフはそれを阻止した。『どうやら、お前はこの手紙の内容を知っているようだな?』『貴方、どうなさるおつもりなの?』『さぁ・・それはお前の行動次第だな。』 ルドルフは恐怖で蒼褪めたシュティファニーに背を向け、スイス宮へと戻った。にほんブログ村
2015年12月18日
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1886年6月13日、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は、シュタルンベルク湖で侍医・グッデンと共に水死体となって発見された。 謎めいた国王の死に、国民達は嘆き悲しんだ。ルートヴィヒ2世と生前親交があったルドルフの母・エリザベート皇妃は、その死の精神病が原因であるという噂について、“彼は精神病ではありません。”と頑なに否定した。 ルートヴィヒ2世の葬儀に、ルドルフはエリザベートと妹マリア=ヴァレリーとともに参列していた。『お兄様?』『何でもない。あの人の様子はどうだ?』『お母様はとてもショックを受けていらっしゃるわ。』『そうか・・』 ルドルフは妹から窓の外に広がるシュタルンベルク湖へと視線を移した。そして、彼と初めて会った日の事を思い出した。 あれは、ルドルフが15歳の時、初めて母と共にバイエルンへ行った時だった。『君が、エリザベートの息子か。』美しい装飾に施されたソファに座ったルートヴィヒは、均整の取れた美しい身体を軍服に包み、蒼い瞳でルドルフを見つめていた。『その瞳はハプスブルクのものだが、君の気質や美貌はエリザベートに似ているね。』『あの人に、わたしが似ている?』『ああ。エリザベートがオーストリアに嫁ぐ時、何かあればバイエルンに気晴らしに来て欲しいと言ったよ。』 ルートヴィヒはそう言って、ルドルフの頬を優しく撫でた。『何か悩んだ時は、バイエルンに来るといい。力になってあげよう。』『有難うございます。』 それが、ルドルフがルートヴィヒと出逢った日だった。それ以来、ルドルフは彼とは暫くの間文通をしていたものの、いつの間にか疎遠となり、ルートヴィヒの弟・オットーが狂気に囚われてしまったことにより、ルートヴィヒもまた精神を病んだという話を風の噂に聞いた。 シュタルンベルク湖の蒼い湖面を窓から眺めながら、いつか自分も彼と同じ狂気に囚われてしまうのではないかという恐怖にルドルフは襲われた。『お兄様、もうすぐ葬儀が始まりますわ。』『・・解った。』妹の声に我に返ったルドルフは、窓から離れ、部屋から出て行った。 一方、ウィーン市内の自宅で環が久しぶりにルドルフから贈られた会津桐の箏を奏でていると、そこへ春が居間に入って来た。「そのお箏、素敵ですね。皇太子様からの贈り物ですか?」「ええ。暫く弾いていなかったのだけれど、やっぱり会津桐の箏は音がいいわ。」「そういえば環様は、会津の出身なのですよね?故郷の桐を使ったお箏が、環様の指に馴染んでいらっしゃるから、良い音が出るのかしら?」「わたしには、故郷の記憶はないの。」「すいません、わたしったら無神経な事を・・」「いいのよ、気にしていないし。それよりもお春ちゃん、今日は遅くなっても大丈夫なの?」「はい。それよりもバイエルンの国王様がお亡くなりになられたなんて・・しかも、湖で自殺されたとか・・」「ルートヴィヒ様の死が自殺なのか、それともグッデンに殺されたのか、真相が解っていないわ。無責任な噂を流しては駄目よ。」「はい、解りました。」「そろそろ小春姐さんが帰ってくる頃だから、お昼ご飯の支度をお願いね。」「解りました、では失礼いたします。」 春が居間から出て厨房へと向かおうとした時、ドアの硝子窓に人影が映っているのが見えた。「どちら様ですか?」春がそう声を掛けると、ドアの前に立っていた不審者は慌ててそこから立ち去っていった。(変な人ね・・) その時、春はその不審者の事を余り気にも留めなかった。 だが、不審者は翌日から屋敷の前で中を窺う様な行動を取り、春はその不審者の事を環に報告した後、警察に通報した。にほんブログ村
2015年12月18日
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環が部屋から出て行った後、シュティファニーは自分が切り裂いた真紅の振袖を素手で引き千切った。(あの女、わたしに逆らう気ね・・いいわ、望むところよ!) 部屋に戻った環は、寝室のクローゼットに入っている衣類をトランクに詰め、自宅に戻った。「只今帰りました。」「お帰り、環ちゃん。あんた、怖い顔をしてどうしたんだい?」「王宮で色々とありまして・・詳しい話は後で致します。」環の様子がおかしいことに気づいた小春は、黙って彼の衣類が詰まったトランクを彼の部屋へと運んだ。「あの振袖、どうしたんだい?」「あれは、皇太子妃様が無断でわたしの部屋に入って滅茶苦茶にしていきました。」「何だって!?酷い事をするね、ベルギーのお姫(ひい)様は。自分が旦那に見向きもされないからってあんたに嫌がらせしたのかい?幼稚な女だねぇ!」「さっき、皇太子妃様に言いたいことは全部ぶちまけましたから、スッキリしました。」「そうかい。これで皇太子妃様があんたの嫌がらせを止めるといいんだけれどねぇ。」「さぁ、それはどうでしょう?」 小春の言葉を聞いた環は、そう言って不敵な笑みを浮かべた。一方、ルドルフが執務室で書類仕事をしていると、そこへシュティファニーが入って来た。『シュティファニー、ノックもせずに人の部屋に入るとは無礼だぞ。』『申し訳ありませんわ、貴方。ですがわたくし、あの女官の態度が我慢ならないのです!』『あの女官とは誰の事だ?』書類から顔を上げずにルドルフがシュティファニーにそう聞くと、彼女はルドルフに真紅の振袖を見せた。『あの女、わたくしにこんな物を贈って、わたくしにお似合いですと嫌味を言って来たのよ!皇太子妃であるわたくしに対して、何て酷い態度なのかしら!』『・・シュティファニー、この振袖は何故切り裂かれている?』『それは、わたくしが腹いせに裁ち鋏で切ったから・・』自ら墓穴を掘ってしまった事にシュティファニーは気づいたが、既に遅かった。『つまり、お前はタマキの態度に腹を立て、タマキの部屋に無断で侵入して部屋を荒らした後、振袖を滅茶苦茶にしたと?』『あの女が悪いのですわ、わたくしに対して生意気な態度を取るから・・』『黙れ。』ルドルフはシュティファニーに氷のような冷たい視線を投げつけると、彼女はまるで金縛りに遭ったかのようにその場から動けなくなった。『シュティファニー、お前はわたしとタマキが疚しい関係にあることを疑っているようだが、タマキはわたしの良い遊び相手に過ぎん。』『そうかしら?妻であるわたくしよりも、貴方はあの女と昼間から乳繰り合っているじゃありませんか?』シュティファニーの言葉を聞いたルドルフの美しい眦が微かにつり上がった。『お前はわたしに何を望む?』『ひとつだけですわ。あの女官と別れてくださいな。妻であるわたくしだけを見てくだされば、何も文句は言いませんわ。』『愛人を囲っているお前が、言える立場か?』『そ、それは・・』愛人の事を言われ、狼狽えるシュティファニーの姿を見たルドルフは、口元に嗜虐的な笑みを浮かべた。『わたしを脅すつもりだったようだが、詰めが甘いな。他に用がないのなら出て行け。』ルドルフはシュティファニーに背を向け、書類仕事に没頭した。(悔しい・・ベルギー王女であるわたくしが、あの女官に負けるなんて・・そんな事、絶対に認めないわ!) この一件以来、シュティファニーの環に対する敵愾心(てきがいしん)はなくなるどころか、ますます激しくなっていったのである。 そして、シュティファニーとルドルフとの間には、徐々に価値観の不一致からくる溝が生まれ始めていった。 それは二人の間に娘・エリザベートが生まれてからも埋まることはなかった。にほんブログ村
2015年12月18日
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数日間寝込んだシュティファニーが寝室から出ると、皇太子妃付きの女官達は彼女の精神状態が安定していることに気づき、安堵の表情を浮かべた。『タマキは何処?』『タマキ様なら、ご自分のお部屋におります。』『その部屋まで、わたくしを案内為さい。』『ですが・・』『わたくしの言う事が聞けないの!』シュティファニーの剣幕に押され、女官は彼女を環の部屋まで案内した。 幸い、環は外出していて部屋には居なかった。『お前は暫く外で見張りをしていなさい。』『はい・・』シュティファニーは見張り役を女官に命じ、環の寝室に入ると、彼女はクローゼットの引き出しに仕舞ってある畳紙(たとうがみ)に包まれた振袖を取り出した。それは、夫と結婚式を挙げた日の夜に開かれた夜会で、環が着ていた真紅の振袖だった。妻である自分に見向きもせず、黒髪の女官と終始笑顔で話している夫の姿が脳裏に浮かび、シュティファニーはその振袖を持参していた裁ち鋏(はさみ)で無意識に切り裂いていた。『もう用は済んだわ。』『はい・・』見張り役の女官は、シュティファニーの手に裁ち鋏が握られていることに気づき、彼女が部屋で何をしていたのかを聞かずにそのまま環の部屋を後にした。「環ちゃん、あの振袖、何処にあるんだい?」「ああ、それなら王宮の部屋に置いてあります。今から取って来ます。」環はそう言うと、自宅を出て王宮へと向かった。 スイス宮の廊下を環が歩いていると、女官達が自分の部屋の前に集まって何かを話していた。『何かあったのですか?』『タマキ様、ご無事だったのね!』『貴方の部屋に、強盗が入ったみたいなのよ。今部屋の中に入らない方がいいわ。』『通してください。』環はそう言うと女官達を押し退け、部屋の中に入った。 するとそこは、壁やテーブル、カーテンや寝具に至るまで刃物のようなもので傷つけられ、寝室の引き出しから取り出された畳紙の中からは、無残な姿となった真紅の振袖が顔を覗かせていた。(酷い、誰が一体こんなひどいことを・・) 環は真紅の振袖を見ながら、ヴァレリーの言葉を思い出していた。“今のお義姉様は貴方を目の敵にしているわ。気を付けた方がいいと思うの。”自分の振袖を切り裂いた犯人は、シュティファニーかもしれない―そう思った環は、振袖を畳紙に包み直すとシュティファニーの部屋へと向かった。『タマキ様・・』『皇太子妃様はご在室かしら?』『はい。』『では失礼致します。』『お待ちください!』 皇太子妃付きの女官の制止を振り切った環は、ノックもせずに皇太子妃の部屋に入った。『なぁに、騒がしいわね。』鏡台の前で髪を整えていたシュティファニーは、自分の背後に立っている環の姿を見てブラシを床に落としそうになった。『貴方、どうしてここに居るの?』『先ほど失礼致しますとご挨拶したのですが、聞こえなかったのでしょうか?』『ノックもせずに入って来るとは、無礼な人ね!』『他人の部屋を勝手に荒らした貴方に言われたくはありませんね。』環は自分を睨みつけたシュティファニーを睨み返すと、彼女に切り裂かれた振袖を投げつけた。『これはお近づきのしるしに取っておいてくださいな。貴方にお似合いですわ。』にほんブログ村
2015年12月18日
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『ルドルフ様、何を・・』『お前の声が聞きたい。』ルドルフはそう言うと、激しく腰を振り、環の中を掻き回し始めた。『あぁ、だめぇ!抜いてください!』環は喘ぎながらルドルフの背に爪を立てたが、ルドルフはますます腰の動きを速めた。 快感の渦が全身を包み、環はルドルフと共に果てた。しっかりと彼と抱き合ったまま、環は荒い呼吸を繰り返した。『たまにはこういう場所でするのも、刺激的だろう?』『はい・・』『このまま、お前と離れたくないな。』『そのような事をおっしゃっても無駄ですよ?』『ふん、相変わらずつれないな。』ルドルフはそう言って環を睨むと、彼から離れた。 環は手早く浴室で後処理をしていると、そこへルドルフが入って来た。彼はドレスの裾から見えた環の秘所を見た後、驚愕の表情を浮かべた。『お前、下の毛は剃らないのか?』『はい。手入れをしても、すぐに生えてしまうので。そんなに珍しいですか?』環はそう言うと、恥ずかしそうにドレスで秘所を隠した。『ああ。普段他人に見せない所でも、手入れするのが当然だと今まで思っていたのだが・・お前の国では違うのだな。』『ええ。滅多に人には見せない場所ですから、手入れなど一切しておりません。幻滅されましたか?』『いや、ますますお前の事が好きになった。』ルドルフは環に微笑むと、彼を抱き締めた。『今度は、ここでしようか?』『ご冗談を・・』『冗談ではないぞ。』環はルドルフのものをズボン越しに感じ、頬を赤く染めた。『そんなに恥ずかしがるな。』 何度も身体を重ねたというのに、未だに初心な反応を見せる環がルドルフには愛らしくて堪らなかった。夫が自分の見舞いに来てくれたと女官から聞いたシュティファニーは、その礼を言おうとシュティファニーがスイス宮にある夫の部屋へと向かうと、夫はそこには居なかった。『貴方、皇太子様が何処に居るのか知らない?』『申し訳ありません、存じ上げません。』『そう。』 そう言ったシュティファニーは落胆した表情を誰にも見せまいと早足で廊下を歩いていると、夫の隣の部屋から微かに夫が誰かと話している声が聞こえた。シュティファニーがそっとドアの前に立ち、ドアに片耳を押し当てていると、やがて中から肉同士がぶつかり合う音と、夫の呻き声と誰かのか細い喘ぎ声が聞こえた。 部屋の中で夫が何をしているのか、その音を聞いたシュティファニーは悟った。混乱した彼女は、そのまま部屋の前から立ち去ると、自室に戻った。『皇太子妃様、どうかされましたか?』『今すぐ出て行きなさい、今日は誰とも会いたくないの!』『ですが、皇帝陛下がおいでに・・』『さっさと出て行きなさい、また痛い目に遭わされたいの!?』 シュティファニーが女官を睨みつけ、彼女をそう脅すと、彼女は慌てて部屋から出て行った。 一人になったシュティファニーは、寝室に入って内側から鍵を掛け、寝台にうつ伏せになって嗚咽を漏らした。 夫であるルドルフが、王宮内で恋人と密会し、昼間から情事に耽っている―その汚らわしい事実を知ったシュティファニーの心は、絶望の淵に叩き落とされた。『皇太子妃はどうしている?』『申し訳ありませんが陛下、皇太子妃様はご気分が優れず、今日は誰ともお会いしたくないとの仰せです。』『そうか。身体を大事にするように伝えろ。』 フランツは皇太子妃の閉ざされた扉を暫く見つめた後、踵を返して自室へと戻った。 同じ頃、浴室で愛し合った環とルドルフは、欲望の赴くままに互いの身体を貪り合っていた。にほんブログ村
2015年12月18日
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環が奥の方へと進むと、靴音がまた奥の方から聞こえて来た。『ルドルフ様、そちらにいらっしゃるのですか?』『全く、お前相手に隠れ鬼は無駄だったな。』ルドルフはそう言って溜息を吐くと、環の前に現れた。その顔は蒼褪め、少し彼は疲れているように見えた。『何故、ここにわたしが居ると解った?』『貴方が一人で自殺しようとするとき、人気のない場所を選ぶだろうと思いました。』『そうか・・お前は、まるで超能力者のようにわたしの心を読むのだな。』ルドルフは、隠し持っていた拳銃を環に手渡した。『安心しろ、弾は全部抜いてある。』『王宮へ戻りましょう、ルドルフ様。皆さん心配していらっしゃいます。』『解った。』 ルドルフと共に環が馬車で王宮へと戻ると、ルドルフの姿を見たロシェクが安堵の表情を浮かべた。『皇太子様、ご無事で良かった!』『迷惑を掛けて済まなかったな、ロシェク。少しイライラしていたから、気晴らしに散歩へ出ていただけだ。』 本当は自殺しようとしていた事をロシェクに隠し、ルドルフはそう言ってロシェクと侍従達を安心させた。『お兄様、心配していたのよ!』『ヴァレリー、お前にも心配を掛けてしまったな。』涙声で自分を責める妹の頭を、ルドルフは優しく撫でた。『皇太子様、皇帝陛下がお呼びです。』『わかった、すぐに行く。』 皇帝に呼び出されたルドルフは、彼から皇太子妃が寝込んでしまったことを知った。『気晴らしの散歩に行くだけで、これほどの騒ぎを起こしたのだ。必ず時間を設けて皇太子妃の見舞いに行くように。』『解りました、陛下。』 本当は皇太子妃の見舞いに行くよりも、環と愛し合いたかったが、妻が寝込んでいるのに皇太子である自分が見舞いに行かないとなると、変な噂が宮廷中に広まるだろう。これも自分に課せられた義務だと思い、ルドルフは皇帝の私室から出た後すぐに、皇太子妃の部屋へと向かった。『シュティファニーは?』『皇太子妃様なら、お部屋でお休みになっております。』『そうか。わたしは無事だと皇太子妃に伝えてくれ。』『かしこまりました。』皇太子妃に直接会わず、彼女の見舞いを済ませたルドルフは、そのままスイス宮にある環の部屋へと向かった。『ルドルフ様、これからの予定は・・』『こんな騒ぎを起こした後だから、午後の予定は全てキャンセルしろと父上から言われた。久しぶりに、お前と愛し合えるな。』『まぁ、そのような事をおっしゃって・・』 環がそう言ってルドルフを見ると、彼は環をソファの上に寝かせ、環の唇を塞ぎ、啄むようなキスをした。 ルドルフから何度もキスをされ、環は身体の奥から快感の渦が生まれるような気がした。『ルドルフ様、焦らさないでください。』『別に焦らしているつもりなどないが?』意地の悪い笑みを浮かべるルドルフを、環は恨めしそうな目で見た。『まぁ、わたしもそろそろ限界だ。』ズボン越しに自分の硬くなったものを環の腰に押し付けたルドルフは、ドレスの裾を捲り上げた。『こんな所でしたくはありません。寝室で・・』『ありきたりの場所でするのは飽きた。内側から鍵を掛けているから、誰も入って来ない。』『そういう問題では・・』環はルドルフに抗議しようとしたが、その前に彼に唇を塞がれた。 ルドルフからのキスと愛撫を受け、環が甘い声を漏らさないように耐えていると、ルドルフが突然自分を貫いてきた。にほんブログ村
2015年12月18日
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『ルドルフ兄様、閣議室で一体何が・・』『お前には関係のない事だ、フラン。』自分を心配して駆け寄って来たフランに対して、ルドルフはそう冷淡な言葉を放つと、彼を廊下に残してそのまま王宮から脱け出した。『ルドルフ様、どちらへ行かれるのですか?』『暫く王宮には戻らないと、父上に伝えろ。』『お待ちください、勝手な事をなされては・・』『馬車を出せ。』皇太子付きの馭者・ブラッドフィッシュは、尋常ではない様子の主の顔を見た後、馬車を出した。 背後でロシェクや侍従達の慌てふためく声が聞こえたが、次第にそれは遠のいていった。『何ということだ・・』『早く皇太子様を探し出せ!』 廊下を環が歩いていると、ロシェクや侍従達の切迫した声がスイス宮から聞こえた。『ロシェクさん、何かあったのですか?』『タマキ様、皇太子様が閣議室で陛下と言い合いになった後、王宮を脱け出してしまわれたのです!』『ルドルフ様の行き先は、解りませんか?』『いいえ。これから皇太子様が行きそうな場所を当たってみるつもりです。』『そうですか。では、わたしは一旦自宅に戻ります。』 環はそう言ってロシェクと廊下で別れると、王宮を出て自宅へと戻った。「姐さん、ルドルフ様は来ていませんか?」「いいや。何かあったのかい?」「ええ。ルドルフ様が、誰にも行き先を告げずに王宮を脱け出しておしまいになったようです。」「何だって!」「今ロシェクさん達が手分けしてルドルフ様が行きそうな所を探しているのですが、もしここにルドルフ様が来られるようなことがあったら、わたしが戻るまで引き留めておいてください。」「わかったよ。」 環は小春にそう頼み事をした後、再び王宮へと戻った。 皇太子であるルドルフが突然王宮から姿を消したとあって、王宮中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっており、先程までヒステリーを起こしていたシュティファニーさえも、夫の身を案じる余り寝込んでしまった。『ああタマキ様、戻って来てくださって良かった。』『エルンストさん、ルドルフ様の行方は解ったの?』『いいえ。タマキ様のお宅にはいらっしゃいませんでしたか?』『ええ。でも、小春姐さんにもしルドルフ様が来られるようなことがあれば、わたしが戻るまで長く引き留めておいでくださいとお願いしたわ。それよりもエルンストさん、一体どうしてルドルフ様は王宮から脱け出してしまったの?』『それは、僕の方からお話しいたします。』 二人の背後からフランが姿を現したかと思うと、彼はルドルフが王宮から脱け出すまでの経緯を彼らに話した。『皇帝陛下と、ルドルフ様が閣議室で口論をされたの?』『はい。詳しい内容までは聞き取れませんでしたが、陛下がルドルフ兄様を酷く詰っていらっしゃったのは憶えています。』 フランの言葉を聞いた環は、ルドルフが人気のない場所で自ら命を絶ってしまうのではないかという恐怖に襲われた。『エルンストさん、フラン様、わたしと一緒に来ていただけないでしょうか?』『何方へ行かれるおつもりですか?』『ルドルフ様の行き先に、心当たりがあります。』 環達は誰にも知られぬように王宮から脱け出し、辻馬車である場所へと向かった。 そこは、謎の男達に監禁され、命からがら環がルドルフと共に脱け出した廃修道院だった。火災によって建物の大部分が焼け落ちてしまったが、まだ原形を留めている所が幾つかあった。『こんな所に、ルドルフ兄様がいらっしゃる筈がありません。』フランがそう言って環を見た時、奥の方で人の気配がした。次いで、誰かが瓦礫を踏む靴音が聞こえ、環はゆっくりと靴音が聞こえる方へと向かった。『ルドルフ様、そちらにいらっしゃるのですか?』にほんブログ村
2015年12月17日
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『これで、少しは良くなると思いますわ。』『有難うございます。』シュティファニーから折檻を受けた女官は、そう言うと自分を手当てしてくれた環に頭を下げた。『皇太子妃様がヒステリーを起こされた原因はわかりますか?』『いいえ。紅茶を皇太子妃様にお出しして、皇太子妃様に怒られた女官によると、あれは八つ当たりに近いものだと話しておりました。』『八つ当たり・・』女官の言葉を聞きながら、環の脳裏に昨夜の出来事が浮かんだ。 夫である皇太子が愛人である自分の元に居るのが気に食わず、シュティファニーは鬼の形相を浮かべながら自分を詰っていた。二人が馬車に乗って王宮へと戻った後何があったのか環には知る由はないが、恐らくシュティファニーはルドルフからきつく叱責されたのたのだろう。その憂さを晴らす為に、女官に言いがかりをつけて折檻をしたのだ。『皇太子様は、この事をご存知なのですか?』『いいえ。皇太子妃様はほぼ毎日といっていいほどヒステリーを起こされます。皇太子妃様のお立場が少し危ういものとなっておりますから、無理はないと思いますが・・』『それにしても、皇太子妃様の行動は常軌を逸しているわ。誰かが止めないと、被害者が増えるばかりよ。』環がそんな事を皇太子妃付きの女官と話していると、ドアの向こうから躊躇いがちなノックの音が聞こえた。『タマキ、わたしよ。入ってもいいかしら?』『どうぞ、ヴァレリー様。』 マリア=ヴァレリーが部屋に入ると、環と話をしていた皇太子妃付きの女官は彼女に軽く会釈し、部屋から出て行った。『さっきの人、手に怪我をしていたわ。あれも、あの人が・・お義姉様がやったの?』環はヴァレリーの問いに、静かに頷いた。『ヴァレリー様、何かわたしに隠していることはありませんか?』環の言葉に、ヴァレリーは一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに平静さを取り戻した。『お義姉様がヒステリーを起こされるのは、決まってお兄様が女の方に会いに行ったり、娼館に行ったりした後よ。お義姉様は潔癖で、自分以外の女の方とお兄様が遊ばれるのが許せないみたいなの。自分だって愛人が居るのに、おかしいと思わない?』 13歳の少女はそう環に思いの丈をぶちまけると、恥ずかしそうに俯いた。『皇太子妃様は、今までずっとベルギーの宮廷で可愛がられてお育ちになられたのでしょうね。皇太子様には、自分だけを見て欲しいと思っていらっしゃるのかもしれませんね。』『あのね、さっき廊下でお義姉様が昨夜貴方の家に乗り込んだという噂を聞いたわ。タマキ、大丈夫なの?』『大丈夫です。ルドルフ様があの後皇太子妃様と馬車で王宮へと戻られましたし、おかしな事はひとつもありません。』『でも、今のお義姉様は貴方を目の敵にしているわ。気を付けた方がいいと思うの。』『ご心配してくださって有難うございます、ヴァレリー様。』『じゃぁ、わたしはそろそろ失礼するわ。ピアノの先生は、遅刻に厳しいの。』 ヴァレリーは環の部屋から出て自室へと向かおうとした時、険しい表情を浮かべたルドルフと擦れ違った。『お兄様。』ヴァレリーは思わずルドルフに声を掛けたが、ルドルフはヴァレリーに気づきもせず廊下の角を曲がっていってしまった。『ヴァレリー、どうしたの?』『フラン、さっき廊下でお兄様と擦れ違ったのだけれど、何処か様子がおかしかったわ。』『ルドルフ兄様の様子がおかしかったって・・』フランがそう言った時、閣議室の方からルドルフと皇帝が言い争う声が聞こえた。『ルドルフ、お前はドイツと手を組むのを止めろと、本気でわたしに進言しているのか?』『これは進言ではありません、忠告です、父上。ドイツはやがてこのオーストリアを属国とするでしょう。その前に何とか手を打たないと、とんでもないことになります。』『自由主義にかぶれ過ぎだぞ、ルドルフ!それでもハプスブルク家の皇子が言う事か!』『父上、わたしは・・』『お前の言葉は、もう聞きたくない。出て行け。』フランツの言葉を聞いたルドルフは唇を噛み締め、彼に背を向けて閣議室から出て行った。にほんブログ村
2015年12月17日
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春が環に馬車の事を話そうとした時、玄関ホールに誰かが入ってくる気配がした。『貴方、ここに居るのでしょう!』玄関ホールから響いて来た声は、シュティファニーのものだった。「環様、どうしましょう・・」「お春ちゃん、ここはわたしに任せて、貴方は早くお帰りなさい。」「はい。」 春が裏口から外へと出て行くのを見送った環は、深呼吸をしてシュティファニーが居る玄関ホールへと向かった。『まぁ皇太子妃様、こんな夜遅くにわたしに何かご用ですか?』『とぼけても無駄よ、夫はここに居るのでしょう?早く夫を出しなさい!』『皇太子様はこちらにはいらっしゃいません。何でしたら、わたくしの部屋を調べてみますか?』『貴方、誰に向かって口を利いているの?皇太子妃であるわたくしに向かって、その態度は何!貴方、今までどんな教育を受けて来たのかしら?』自分に怒鳴られても毅然とした態度を取っている環に、シュティファニーは苛立った。『ではわたしの方からも言わせて頂きますが、こんな夜中に何の断りもなく他人の家に押し入るなど、皇太子妃様は一体どのような教育を受けていらっしゃったのですか?』『何ですって、言わせておけば・・』 激昂したシュティファニーが環を殴ろうと腕を振り上げた時、居間から出て来たルドルフが彼女の腕を掴んだ。『妻が無礼な事をしてしまって済まなかった、タマキ。わたしに免じて、彼女を許してくれ。』『貴方、こいつはわたしに対して無礼な口を利いたのよ、懲らしめてやらないと!』『話は後で聞く。馬車に乗れ。』『貴方、離してよ!』 喚き散らすシュティファニーを、ルドルフは有無を言わさず馬車に乗せた。『シュティファニー、一体どういうつもりだ?』『貴方こそどういうつもりよ、一介の女官を庇うなんて!よくも皇太子妃であるわたくしに恥を掻かせたわね!』『頭を冷やせ!』ルドルフはそう言うと、妻の頬を平手で打った。『今までお前がわたし宛ての手紙を勝手に開封したり、わたしが娼館通いをしていることをしつこく責めたてたりしていたことに何も言わなかったが、タマキに危害を加えることは許さない!』『貴方、わたくしとあの女官の、どちらが大事なの?』『タマキが大事に決まっている。シュティファニー、今後タマキの屋敷には近づくな。』『貴方、何処までわたしに惨めな思いをさせるのよ!』ルドルフの言葉を聞いたシュティファニーは金切り声でそう叫ぶと、両手で顔を覆って泣き出した。 翌朝、環が王宮へ出勤すると、皇太子妃の部屋から女官達の悲鳴が聞こえた。『一体何があったのです?』『皇太子様がお気に入りの女の所に入り浸って居る事を知って、皇太子妃様はヒステリーを起こされているのよ。余り皇太子妃様の所に行かないほうがいいわ。』『そうですか・・』『それにしても、皇太子妃様には困ったものよね。ヴァレリー様がお嫌いになるのも、解るような気がするわ。』 同僚がそんな事を言いながら溜息を吐いていると、皇太子妃の部屋から髪が乱れた女官が泣きながら出て来た。『貴方、どうしたの?』『皇太子妃様にお茶をお出ししたら、こんなに熱いものを出してどういうつもりだといきなり怒り出して・・』そう言った彼女の顔には、シュティファニーから折檻を受けた痕があった。『酷い怪我ね。手当てしないと。』『有難うございます。』 環が皇太子妃付きの女官を自分の部屋に連れて行く時、皇太子妃の部屋から金切り声が聞こえて来た。『タマキ、その人はどうしたの?』『ヴァレリー様、今は何も聞かないでくださいませ。』『またあの人が暴れているのね、そうなのでしょう?』ヴァレリーはそう言うと、不安そうな顔を環に向けた。にほんブログ村
2015年12月17日
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フランス語圏のベルギーからやって来たシュティファニーは、ドイツ語圏のウィーンに嫁いで間もなくドイツ語をマスターし、朝晩の礼拝にも毎日欠かさず出席し、公務を真面目にこなしていたので、舅(しゅうと)である皇帝に気に入られた。 しかし、姑に当たるエリザベート皇妃からは、彼女の自作の詩で「力持ちの田舎娘」、「ふたこぶラクダ」と、その容姿を揶揄され、自分の公務を彼女に押し付けるようになった。 義理の母娘の間に深い溝が生まれるようになり、それはエリザベートがレマン湖で無政府主義者の手によって暗殺されるまで埋まる事がなかった。 彼女の夫であるルドルフは、自分が行きつけにしている酒場へ彼女と変装して連れて行ったが、宮廷で贅沢な暮らしをしていた彼女にとっては、ルドルフのお気に入りの酒場は、卑しい身分の者が集まる汚らわしい場所であると認識してしまった。 彼女は、叔母のシャルロッテ同様、ベルギー王家の出身であることに誇りを持っており、平民と混じって酒場やカフェで飲み騒ぐ同じ王族出身のルドルフに理解を示さなかった。 ルドルフは新妻を大切にしようと色々な努力をしたが、結局無駄に終わった。潔癖なシュティファニーは、やがてルドルフの女性関係についても口出しするようになった。『貴方、この手紙は何ですの?』『シュティファニー、それはお前には関係のないものだ。それを返せ。』『いいえ、関係ありますわ!貴方はわたくしの妻ですもの、夫宛ての貴方の手紙を見て当然でしょう?』 シュティファニーはそう言うと、ルドルフの承諾なしに手紙の封を切り、その中身を見た。『貴方って人は、わたくしという妻がありながら、こんな汚らわしい女と情熱的な文通を為さっていたなんて、信じられないわ!』怒り狂ったシュティファニーは、千切った便箋をルドルフに投げつけると、ヒステリックに叫んだ。ルドルフはそんな妻に背を向けると、脱いだばかりの外套を再び羽織って彼女の部屋から出て行こうとした。『貴方、またあのタマキとかいう女官の所ですの?』『ああ。タマキは少なくともお前よりも寛容で、わたしのプライバシーを勝手に侵害したりはしない。』 ルドルフは自分の腕を掴んでいるシュティファニーの手を乱暴に振り払うと、そのまま彼女の部屋から出て行った。背後で何かが割れるような音がしたが、ルドルフは引き返すこともせずにそのまま王宮から出て、環の自宅へと向かった。『ルドルフ様、こんな夜遅くにどうなさったのですか?』『息抜きに来た。』『今、コーヒーを淹れますね。』 環はルドルフが外套姿のままソファに座るのを見ると、黙って厨房へと向かった。「また皇太子様がいらっしゃったのですか?」「ええ。きっと奥様と何かおありになったのでしょうね。」環はコーヒーを淹れながら、新しく雇った日本人の女中・春を見た。「お春ちゃん、今日はもう遅いから帰ってもいいわ。」「解りました。それじゃぁ環様、失礼いたします。」『コーヒーにお砂糖はいりますか?』『要らない。タマキ、こっちへ来い。』『はい。』 環はテーブルの上にコーヒーカップを二つ載せた銀製のトレイを置くと、ルドルフの隣に座った。『また、奥様と何かあったのですか?』『ああ。シュティファニーのやつ、勝手にわたし宛ての手紙を開けた上に、ビリビリに破いた便箋をわたしに投げつけながらわたしを詰ってきた。嫉妬深い女は嫌いだ。』『それは大変ですね、新婚早々。』『わたしはシュティファニーに自分の事を理解して貰おうと、わたしが行きつけの酒場にも連れて行ったし、わたしの友人達にも会わせたが、あいつは興味すら示さなかった。』ルドルフはそう言って溜息を吐くと、環の膝の上に己の頭を乗せた。『結婚は人生の墓場だと以前大公から言われたが、今のわたしは生ける屍同然だ。』『そのような事をおっしゃらないでください、ルドルフ様。』環がルドルフの髪を優しく梳くと、彼は暫く経って安らかな寝息を立て始めた。「すいません、忘れ物をしてしまって。」「お春ちゃん、まだ居たの?」「はい。あの、さっき裏口から外へ出ようとしたら、見慣れない馬車がお屋敷の前に停まっていました。」「どんな馬車なの?」「はい、それが・・」にほんブログ村
2015年12月17日
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