2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全14件 (14件中 1-14件目)
1
「ポツダム宣言」の受諾条件として「国体護持」を連合国に告げる、 日本時間の8月12日の未明には「バーンズ回答」を日本は受信する。 「国体護持」に対する条件は厳しいものだったが、天皇は決断する。□「バーンズ回答」(1945年8月11日付け:12日朝接受、正式回答は13日に受ける) 米国・英国・中華民国・ソ連による回答(ソ連が「ポツダム宣言」に加わった) 以下は概要 天皇と日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令長官の制限の下に置かれる。 天皇は軍・官憲に戦闘中止と武器引渡しを命じる。 日本政府は降伏後直ちに俘虜・拘留者を安全な場所に移す。 日本国の政府形態は日本国民が決定する。 連合国軍隊は、「ポツダム宣言」が完遂するまで日本国内に留まる。------------------------------- 「バーンズ回答」はワシントン11日付けでスイス国経由で日本に送られるが、 サンフランシスコ放送が12日に「バーンズ回答」を放送している、 サンフランシスコ放送を受けて、日本は正式回答が到着する前に、 外務省・陸軍省等は「バーンズ回答」に対する検討を始めている。 12日時点での軍務局作成の説明資料では、 「国体護持」に関して否定されていると、受け取っている。 8月12日 午前8時に、梅津参謀総長と豊田軍令部総長は上奏した。 「天皇統治」ではなく、「民主主義」等が「国体」破壊を招くとして、 「バーンズ回答」による「国体護持」は不可能との見解を述べている。 「バーンズ回答」は 日本占領時に於いては、「天皇大権」は連合国の下にある事とし。 独立後は民主主義国家としての日本が予定されている。 「天皇大権」の復活は日本の独立後も困難な事を示している。 日本が望んだ「天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まない。」 は、満たされていない。 「バーンズ回答」に対して12日~14日と検討・議論は進められるが決定に至らない。 8月14日午前8時半、木戸内大臣は天皇に拝謁し、 連合軍の飛行機が「バーンズ回答」をビラにして散布している状態を告げ、 早急な決断の必要を述べる。 情報が拡散されることは、更なる混乱を呼ぶ事を木戸・天皇は予想した。■8月14日:御前会議(「ポツダム宣言」受諾の決定) 午前11時より御前会議が開催された、閣僚全員と統帥部が参加。 天皇の意志は決まっていたため、「ポツダム宣言」受諾反対者が意見を述べる。 梅津参謀総長・豊田軍令部総長・阿南陸相が 連合国の回答では「国体護持」は困難で一億玉砕を期し戦争継続が必要である事を説く。 天皇は戦争継続は国体の破壊・民族の絶滅をまねくと述べ、受諾する決意を告げる。□御前会議終了後 阿南陸相は東郷外相に挨拶し、兎に角全て終了してよかったと笑って別れる。 14日深夜中立国を通じて、米英中ソに対して「ポツダム宣言」受諾を申し入れる。 鈴木内閣は解散、東久邇内閣が発足する。〓勝手な感想〓 第二次世界大戦が終った。 決定は、昭和天皇・木戸内大臣・米内海相・阿南陸相・東郷外相・鈴木総理が主たる人物。 東郷外相の行動は比較的明確で解りやすい。(ソ連を当てにしないしない、和平交渉) 米内海相・阿南陸相は解りにくい。(海軍は米軍に既に負けている、和平しかないと思う) 鈴木総理はもっと解りにくい。(「国体護持」の為に必死で最善を尽くしたのかもしれない) 木戸内大臣は昭和天皇とセットとして考えるべきと思う。 阿南陸相が東郷外相に行った最後の挨拶はなんだったのだろうか。 「死を決意」は別として、 阿南陸相は散々戦争継続を述べてきた。しかし、 内閣を解散させる為に大臣を辞める事をせず、 米内海相が辞意をもらすと、止めようとする。 6月8日の御前会議で戦争継続が決まったから、戦争継続だとは言わない。 鈴木首相は侍従長、阿南陸相は侍従武官を務めている。 天皇と鈴木・阿南には共通する感覚が存在したのかもしれない。 ドイツの敗戦、想定外の兵器としての原爆、中立条約を結んでいたソ連の侵攻で、 陸海軍は終戦に同意しやすくなった一面がある。 (戦争継続が無謀の結論に達したではなく、言い訳がしやすくなったの意) 戦争終結は最終的に天皇が決断した、軍部・国民に対しては戦争継続が叫ばれていた。 終戦の決断が困難だった要因は、軍部を抑え、敗戦の責任を取る者が必要だった。 陸軍・海軍を抑えてかつ責任を取る者は、陸軍は阿南陸相、海軍は米内海相。 軍部と政府は主として誰に対して責任を取ったのか、無答責たる天皇の責任は誰が取るのか。 対外的な責任・道義的な責任・敗戦責任に対して責任をどのように考えるべきか。 天皇・皇族・政府・国会議員・軍部・財界・役人・マスメディア・教育者、 徴兵で兵となった者・銃後の国民の責任とは何か。 (これに関しては、別テーマで行ってみたい。) 天皇・政府・軍部による、敗戦に対する国民への説明と結果責任が残った。■8月15日:終戦(玉音放送)□玉音放送の概要(勝手な意訳) 天皇は帝国政府に米英支蘇四国に対し、「ポツダム宣言」を受諾する事を通告させた。 米英二国に宣戦したのは、帝国の自存と東亜の安定とを心から願った為であり。 他国の主権を犯したり、領土を侵すが如きは天皇の意志ではない。 米国との戦争を始めて4年経つが、天皇の陸海軍将兵・政府・官僚・国民は努力したが、 戦局は好転しない、世界の大勢も日本に利あらず、加えて原子爆弾を使用して、 一般民衆が殺害された、その殺傷力は計り知れない。 戦争を継続することは、我が民族の滅亡を招くのみならず、人類の文明も破滅してしまう。 天皇が帝国政府に「ポツダム宣言」を受諾させた理由である。 天皇は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表す。 戦陣に死し、職域に殉し、非命に斃れたる者、及び其の遺族を思うと五内為に裂く。 戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者が良くなる事を願う。 今後、帝国の受ける苦難は尋常ではない。 臣民の本当の気持ちも、天皇は良く知っている。 天皇は「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍び」万世の為に平和な世を作ろうと思う。 天皇は国体を護持し、臣民を信頼し、臣民と共にありたい。 信義を世界に失う行為を謹んで欲しい。 挙国一致で子々孫々、信州の不滅を信じて、総力を挙げて将来の建設に向って欲しい。 世界に取り残されないよう頑張って欲しい。 原文を見ていただくのが一番と思います。〓勝手な感想〓 「ポツダム宣言」の受諾の決定・戦争の現状・戦争を始めた理由・受諾に至った理由を述べ、 協力してくれた国に対し遺憾の意を表し、 戦争で亡くなったり・苦労している国民への天皇の気持ちを述べ、 困難に打ち勝ち、今後の平和な日本の建設を願う。 終戦はクーデターの様な事もあったが、結果的に天皇の意図する所に収まった。 また、「国体護持」は「ポツダム宣言」下では安泰とは思えない。 安泰にする為に戦争継続をするわけに行かない。 1937年に中国との戦争(支那事変)が始まって、結末はこれ以外無かったのだろうか。 連合国に対する降伏は、天皇の決断により行えることができた。 昭和天皇本人は、日本は立憲君主制で閣議決定には拒否権を使わなかったと述べているが、 「御前会議」「奏上・下問」「御召」等により天皇の意志が、閣議決定に反映されている。 閣議の決定には「YES」と言うとしても、閣議決定が天皇の意志であれば、 天皇の「YES」は当然の事となる。 注:天皇は能動的な関与として、「終戦時」「2.26事件」「田中首相退陣」を述べる。 天皇の意志が良いことであれば、どうでも良いではないかとの感覚も存在する。 何かの決断により、良くなるか悪くなるかは解らない事が多い、 判断材料に問題があったを前提に、天皇は中国・米国との戦いを、 プラス或はしかたがないと判断したと思う。 (日本が米国に勝つではなくドイツ頼み、満州事変はプラスと判断した為の追認) 1945年8月15日に於いて、ぼろぼろになっていた日本と日本国民。 戦争は、国民の生命と財産を守る為の戦いだったのか、 降伏は、国民の生命と財産を守る為の降伏だったのか、 国民は戦争中、何を知っており・何を知らなかったのか、 日本は東アジア・西太平洋の諸国と人々に何を行ったのか・しなかったのか。 テーマはどんどん増えて、地道にコツコツお勉強 「昭和天皇の決断(終戦」は次回で終了の予定。
2005.08.30
コメント(0)
8月10日の御前会議では「ポツダム宣言」受諾条件として「国体護持」が決定され、 中立国経由で、連合国への受諾条件申し入れが行われた。 昭和天皇は重臣(過去の首相経験者)を集め自分の意見を主張し意見を聞く、 8月12日には連合国側(ソ連を含む)の「バーンズ回答」が知らされる。 皇族会議が開かれ、終戦への意識統一が図られる。 政府・統帥部は閣議などにより分析・日本の対応が協議される。 日本は、「バーンズ回答」が「国体護持」を可能としているのかを検討する。■8月10日:重臣会議(天皇・木戸、若槻・近衛・平沼・岡田・広田・東條・小磯) 8月10日の15時ごろから重臣会議が行われた。 全員が天皇の決定(「ポツダム宣言」受諾の方針)に従う、各自の意見として、 「ポツダム宣言」受諾は近衛・平沼・岡田・広田 「戦争継続」は東條・小磯■8月12日:皇族会議 皇族会議は8月12日15時から17時20分まで行われた(茶会を含む)、 「ポツダム宣言」受諾に対する皇族の意思統一がなされた。 (参加者:梨本宮・三笠宮・賀陽宮(恒憲王・邦寿王)・久邇宮・朝香宮・ 東久邇宮(稔彦王・盛厚王)・竹田宮・閑院宮・李王・李鍵公・高松宮) 「バーンズ回答」は既に天皇に伝えられている状態、 閣議は皇族会議と同時刻の15時に始まり、「バーンズ回答」の審議が行われている。□「昭和天皇独白録」に於ける、「皇族会議」の一部抜粋と概要 「皇族会議」で昭和天皇は意見を述べて大体賛成を得た。 最も強弁論者である朝香宮が、 「講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか」 との問に、勿論だと答えた。 賀陽宮・東久邇宮・久邇宮は終始一貫、弱い意見だった。 秩父宮は日独同盟は主張したが、その後病気となったので意見は判らない。 高松宮は常に当局者の意見には余り賛成せず、 周囲の同年輩の者や、出入りの者の意見に左右された。 日独同盟以来、戦争を謳歌しながら、東条内閣では戦争防止の意見となり、 その後は海軍の意見に従った、 開戦後は悲観論で、陸軍に対する反感が強かった。〓勝手な意見〓 昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮は兄弟。 昭和天皇は1901年生まれ、3男の高松宮は1905年、三笠宮は1915年。 東久邇宮稔彦王は8月15日から首相となる。 朝香宮鳩彦王は南京事件当時の上海派遣軍司令官。 李王・李鍵公は「ポツダム宣言」受諾は朝鮮の独立を意味する為、微妙な立場。 梨本宮は皇族では唯一、戦犯として逮捕される。(4ヵ月後釈放) 朝香宮の主張「国体護持が出来なければ、戦争を継続する」は、一般的な日本首脳部の考え 昭和天皇がわざわざこれを述べているのは、「バーンズ回答」により 「国体護持」は不安定なものとなった事に起因すると思える。 秩父宮・高松宮に対する感想がきつい、弟なのに(弟だからこそか?)。●高松宮 高松宮に関しての昭和天皇の論評は、 支那事変には賛成、日米開戦には反対したが最終的には海軍の意見に従い。 日米開戦後は枢軸国は第二次世界大戦に勝利するとは思わなかった。 「当局者の意見に反対」「陸軍に対する反感が強かった」 は、日米開戦後、東條内閣・小磯内閣と陸軍の内閣が続いたが、 高松宮には気に入らなかったと思える。 日米開戦時の1941年の11月30日(日米開戦決定を決断した御前会議の一日前)、 高松宮は昭和天皇に「海軍は手一杯で、出来るなれば日本の戦争は避けたい」と告げる、 天皇は木戸内大臣に相談する。 木戸は、日米開戦の決断は重大な事なので、天皇が納得しなければならない。 と答え、海軍大臣と軍令部総長と首相に確認することを勧める。 天皇は3名に確認、何れも相当の確信を以って答えたと認識し、 日米開戦を予定どうり進めるよう首相に伝える事を、木戸に命じる。 翌日、御前会議で日米開戦が決定される。 この時点では、高松宮は日米開戦反対で、天皇は反対ではない。●国体護持 「国体護持」は昭和天皇が天皇である事と同義ではない。 昭和天皇以外が天皇となる選択肢を連合国は考えたか? 日本国民はどうだったか、以下一例 「戦後秘史1」に於いて、 児玉誉士夫氏は大森実氏のインタビューに答えて、昭和天皇の退位を述べている。 児玉誉士夫氏は言う、 タイミングは2回、「独立の日」ともう一回は、 A級戦犯の判決の直前、理由はA級戦犯の命を一人でも救う為。 「昭和天皇独白録」が作成されたのは昭和1946年3月18日~4月8日1945.11.20:ニュルンベルグ裁判開廷1945.12.04:梨本宮守正(元帥 陸軍大将 伊勢神宮祭主)、戦犯として逮捕1945.12.06:近衛・木戸、戦犯の逮捕命令1945.12.16:近衛文麿自殺(出頭期限日)1946.01.01:天皇の人間宣言1946.04.13:梨本宮守正釈放、郷古潔(元三菱重工社長)釈放1946.04.29:極東国際軍事裁判「起訴状」発布1946.05.03:極東国際軍事裁判開廷 天皇制に関しては「大日本国帝国憲法」が改正され「日本国憲法」が誕生する1946.02.03:マッカーサーが3原則を提示、民政局にGHQ草案の作成を指示。1946.02.08:日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。1946.02.13:GHQは要綱を拒否、日本側にGHQ草案を手渡す。1946.03.06:日本政府、GHQとの協議に基づいた改正要綱を発表。1946.06.20:第90回帝国議会に改正案を提出。1946.11.03:日本国憲法を公布。1947.05.03:日本国憲法を施行。○マッカーサーの3原則(概要)1.天皇は国家元首で天皇制の世襲制度は継続される、天皇は憲法下に置かれる。2.国家主権としての戦力の放棄、紛争・安全保障の為の戦力を否定。3.封建制度の廃止、天皇家以外の皇族・華族の廃止。 天皇制は「日本国憲法」により保証された。
2005.08.28
コメント(0)
ドイツとの三国同盟は今は昔、日本全国への空襲と広島への原爆投下、 「ポツダム宣言」を黙殺できる状況ではなくなってきた。 原爆投下の三日後、日本の首脳部は、最後の決断を迫られていた。 重要だったのが「国体護持」、終戦での「国体護持」はどの程度の事を言うのか、 「国体明敏」の世界で「大日本帝国憲法」に拘束されない「天皇制」が続く事。 「天皇を元首」とする「立憲君主制」が護持される事。 「大日本帝国憲法」が変更されない事。 「天皇制」が国家機能として続く事。 「皇室」の安泰。 「天皇は現人神」は無理、「国家元首」として「天皇・天皇制」の存続が最低条件と推察。■御前会議にいたる状況 1945年8月9日 未明 :ソ連は日本に宣戦し満州に侵攻(ソ連からの宣戦布告は伝わっていない) 11時 :「最高戦争指導会議」構成員会議が始まる 14時 :閣議が始まる 15時頃 :閣議の席に長崎へ原子爆弾が落とされた事が知らされる。 24時直前:御前会議が始まる、~8月10日2時半□広島原爆投下についての米英の宣伝(要旨)/「時代の一面」より 日本が「ポツダム宣言」を受諾しない場合は、更に連続使用して日本を滅亡させる。□ソ連は日本に宣戦し満州に侵攻(要旨)/「時代の一面」より 8月9日未明、ソ連は日本に宣戦し満州に侵攻、外務省ラジオ室より電話で東郷外相へ 正式通告は到着しなかった。 陸軍は7時過ぎに、ソ連が8月9日零時に満州・樺太の国境を突破し攻撃開始を知る。 8月9日は「最高戦争指導会議構成員会議」と「閣議」が続き、深夜には「御前会議」 「ソ連の参戦に伴う戦争指導大綱(案)」では、ソ連に「宣戦布告」しない事を決定、 終戦の交渉に「ソ連」と中立国をあげている。 (案)であるが、ソ連参戦後の日本側の一部の空気が伝わってくる。 「ポツダム宣言」受諾と条件に「国体護持」とするのは、全員が賛成するが、 陸相・参謀総長・軍令部総長は受諾条件として「国体護持」以外に、 (「領土」)・「占領」・「武装解除」・「戦争犯罪人の処分」に対して条件を求めた。 連合軍が上陸時に戦うことが有利かの選択、 東郷外相は、一時的に勝っても、日本の戦力は落ちるだけ、条件は悪くなるとの意見。 条件を「国体護持」のみとした「ポツダム宣言」受諾条件通達を述べる。 通常、結論が決まって「御前会議」となるが、未決定事項が提出される。 天皇の前で決を採るとすると票を持つ者は、 鈴木首相・東郷外相・阿南陸相・米内海相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長・平沼枢密院議長 外相案に同意は、鈴木首相・東郷外相・米内海相・平沼枢密院議長。 反対は、阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長。■8月10日:御前会議(「国体護持」を条件とする交渉) 御前会議は8月9日の深夜に始まった。 「最高戦争指導会議構成員」+平沼枢密院議長での結論は出ず、鈴木首相は聖断を願う。 昭和天皇は、 外務大臣の意見(「国体護持」を条件に「ポツダム宣言」受諾) に賛成である事を述べる。 10日の午前2時30分頃会議は終了し、3時から閣議、全員賛成し決定。 天皇の聖断により、「ポツダム宣言」をベースにした終戦への交渉が始まる。 御前会議の決定は、 「国体護持」の為の「ポツダム宣言」受諾、「国体護持」が満足できなければ、 戦争継続が一致した意見。□米英支三国宣言の受諾に関する8月10日附け帝国政府申入(概要) 「ポツダム宣言」(米英中により7月26日発表、その後ソ連が参加)を 以下の条件で受諾する、条件の了解を明確・速やかに表示する事を切望する。 日本側条件:「天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まない。」〓勝手な感想〓 「ポツダム宣言」受諾する事に関して、最高戦争指導会議構成員は合意していたが、 日本側の受諾条件の確定に紛糾した。 東郷外相はできるだけ条件を付けたくない、外相案の条件は 「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まない」 所謂「国体護持」のみを、条件とする。(国体護持の概念は場合により微妙に変わる) 「国体護持」のみでは駄目という意見は、以下の項目を条件として望んだ。 1.日本皇室に関する事を包含せず。 2.在外日本軍隊は自主的に撤収の上復員する。 3.戦争犯罪人は日本政府に於いて処理する。 4.保障占領を行わないものとする。 私の素人感覚では、4項目とも連合国が要求を飲むとは思えない。 何を意味するかを考えて見ると。 (1.)は「国体護持」だが、(4.)も関係する。 (2.)(3.)も「国体護持」に無関係ではないが、別の意味が大きい。 (2.)に関しては、国内に帰還後武装解除となるので、ソ連抑留等は避けられたと思う。 (3.)に関しては、連合国側が納得するはずがない。 (4.)の保障占領は「ポツダム宣言」が履行されるかを見張る為に一部を占領する事だが、 現実には、日本は主権を否定され、完全に占領される。 日本は北部仏印に対して援蒋行為を行わない事を見張る為に、仏印に駐留した事がある。 国民全体に対して影響が大なのは、(4.)の保障占領。 (2.)の帰還後武装解除は徴兵された兵士に大きな影響がある。 (1.)(3.)に関しては一般国民・一般兵士に影響はあるが、精神的な影響が大きい。 御前会議の出席者は、外地にいる一般の国民に対する配慮を考えて居ない。 御前会議は、外相・海相・陸相・参謀総長が意見を言い、その後平沼枢密院議長が 其々の意見などに対して質問する、平沼は聖断により決めるべきと述べる。 鈴木首相は、天皇に聖断を求め、天皇は外相案を取る。 (文言は平沼枢密院議長の主張で変更される)
2005.08.27
コメント(0)
朝日新聞社は8月25日、「月刊現代9月号」に掲載されたインタビューは、 朝日新聞社の社内資料が流出したものである事を認めた。 流出経路に関しては明確ではない。 社内調査を継続し、9月中にも社幹部を処分する見通し。 「月刊現代9月号」に掲載された流出インタビューは、 松尾武NHK元放送総局長、中川昭一経済産業相、安倍晋三自民党幹事長代理に対するもの。 朝日新聞社は上記3名に対し、 24日付で「流出によってご迷惑をおかけした」との趣旨の文書を郵送した。 また、 朝日新聞社は松尾元総局長に対して、漏えいの事実関係の説明と謝罪を申し入れた。 松尾元総局長は、 「その前にまず、朝日新聞が持っている取材記録なり、取材資料なりを全て示して欲しい。 取材を受けた当事者として、どのような取材内容であったか、 どのように取材記録がまとめられたのかを確認したい」 と改めて要望したが、朝日新聞社は拒否した。注)2005年の「月刊現代9月号」に掲載されたインタビュー、とは 「NHK番組改変問題」における政治家からの圧力に関してのインタビューで、朝日の記者が 松尾武放送総局長には2005年1月9日、中川昭一議員には10日午後、安倍晋三議員には10日夕 に行なった。 松尾氏へのインタビューは朝日新聞記者による「無断録音テープ」存在の可能性があった。 また、「月刊現代9月号」は8月末に発売され、掲載されたインタビューは長文であり、 松尾氏への「無断録音テープ」が存在する事を思わせた。〓勝手なツッコミ〓 現状は、朝日新聞社が「月刊現代9月号」に掲載された流出インタビューが、 朝日新聞社の所持している情報の一部である事を認めただけで、 流出に関った者を特定できていない、特定できないままだと、 犯人が特定できないのか、会社ぐるみなのか解らなくなってしまう。 犯人が明確になり処分が行われてほしい。 朝日新聞社が「漏えいの事実」を認めたと言っても、 朝日新聞社は「「月刊現代9月号」に掲載された流出インタビューは事実だ」と 言っているだけ。 朝日新聞社が行った「松尾元総局長」へのインタビューに於いて、 朝日新聞社の記者による「無断録音テープ」が存在するかは、明確にしていない。 無いのであれば、無い事を明言すればよいと思う、しないのは存在するのだろう。 無い有るの問題は、機密にする問題ではなく、情報提供者に対する信頼関係の問題だ。 24日付で「流出によってご迷惑をおかけした」との趣旨の文書を郵送 は、タイミングが悪い、(本日は首都圏に台風が上陸するところ) 甲子園期間中は、朝日新聞社もNHKも、これには触れたくなかったと思える。 ゆえに、朝日新聞社は甲子園が終ってからと思っていたと推察するが、 衆議院が解散してしまった。9月の中旬に「流出によってご迷惑をおかけした」は 流石に遅いと思ったので、24日となったとは思う。 9月11日には、自民党・公明党が与党とは限らない。 野党になった、中川・安倍氏では間が抜けているし、民主党が与党のNHKでは変。 自民党が与党の方が意味があるように思うが、選挙が終ると自民党の勝敗に関係なく、 「朝日新聞社の取材資料流出事件」はどうでも良くなっているかもしれない。 朝日は運が良いと言うべきか、改善できる機会を逃してしまったと言うべきか。 (まだ、おわっていない) NHKと朝日新聞社は曖昧にして終るのではなく、 責任の所在を明確にして、今回の経験(2000年からの問題)を今後に生かして欲しい。
2005.08.25
コメント(0)
8月23日に東京地検は所謂「百人斬り訴訟」を棄却した。 1937年の「百人斬り競争」の第一報は東京日日新聞と大阪毎日新聞に掲載された。 何れも後の毎日新聞 東京日日新聞は1937年11月30日朝刊に浅海、光本、安田特派員発 大阪毎日新聞は1937年12月1日夕刊に光本本社特派員発 (注:当時の夕刊は一日ずらしての発行となる、12月1日夕刊は11月30日の夕刊) 記事内容は、二人の少尉が日本刀を使用た白兵戦で累計百人の敵兵を斬る競争。 東京日日新聞では、その後の進行を3回記事として掲載した。 常州->丹陽->句容->紫金山麓、にて取材した事になっている。 現在の日本では、このような記事を肯定的な意味で掲載する事はありえない、 少なくとも、否定的な表現をするかコメントを付けるだろう。 当時の東京日日新聞はそうではなかった。 「新聞記事の一字一句が事実を伝えていた。」 「二人の少尉(或は一方の少尉)から聞いたままを記事にした。」 は無いとして、「新聞社側の創作」がどの程度であるかが争点だったと思う。■判決のまとめ 東京地裁は棄却したが、その論拠を新聞社のHP(2005年8月23日)等から 最小公倍数的に情報を得ると。(読売・朝日・毎日・産経より:朝日・毎日は被告側)□土肥章大裁判長は 「真偽について見解が分かれ、歴史的事実としての評価は定まっておらず、 明白な虚偽とは認められない」 と述べ、請求を棄却した。□初めて百人斬りを報道した東京日日新聞の記事について、 「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載された」 「1人は報道後、百人斬りを認める発言をしたことがうかがわれる」 などの点から、 「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、 何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」 と判断した。□本多氏の著作関連について 「本多氏が論拠とした関係者の著述なども一概に虚偽とは言えない」 書籍の記述が「一見して明白に虚偽だとはいえない」□原告側の「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張に対する判決理由 「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」 「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」□「百人斬り」の真偽について 「さまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」 とした。〓勝手な感想〓 新聞記事による東京地裁の判決は 「歴史的事実としての評価は定まっていない」という前提で作られたようで、 原告側としては不満足な結果となっている。 「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載された」 は、何故正しいかは新聞からは解らない。 「1人は報道後、百人斬りを認める発言をしたことがうかがわれる」は、 志々目影証言に於ける野田少尉の講演、 大阪毎日新聞の鹿児島沖縄版(1938年1月25日付朝刊)に於ける野田少尉からの書信、 のどちらかと思える。 志々目影証言を信じると、 「白兵戦の中で斬ったのは四、五人で、 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけると シナ兵はぞろぞろと出てこちらへやってくる。 それを並ばせておいて片っぱしから斬る」 で、1937年の新聞記事とは異なる。 野田少尉からの書信を信じると、 「極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、 敵も頑強でなか~逃げずだから大毎で御承知のように 百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来た」 と、勇ましい事となり、白兵戦の百人斬りが事実との事となる。 私的には、「歴史的事実としての評価を決める」つもりで行って欲しかった。 判決が公表された時点で、再度考えたい。<以下は資料>■「大阪毎日(1937年12月1日夕刊)」/「昭和ニュース事典」 「百人斬り競争」記事<全文>『日本軍の2将校”百人斬り競争”』(常州にて29日 光本本社特派員発) 常熱、無錫間の40キロを6日間で破った○○部隊の快速は、これと同一距離の無錫、常州間をたった3日で破ってしまった。 神速といおうか何といおうか、たとえようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が2名ある。 しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、一人はすでに56人を斬り、もう一人は25人を斬りを果たしたという。 一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である。 この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、「南京に着くまでに百人斬りの競争をしようじゃないか」という相談がまとまり、柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといったふうでお互いに競争するところあり、無錫進発後、向井少尉は部下を率いて鉄道線路北6,7キロの線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分かれ分かれになったが、出発の翌朝、野田少尉は無錫をさる8キロの無名部落で敵トーチカに突進し、4名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣に部下とともに踊りこみ、52名の敵兵を切り捨ててしまった。 その後野田少尉は横林鎮で9名、威野関鎮で6名、最後に29日、常州駅で6名と合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅附近で4名を斬り、記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行ったとき、この2人は駅頭で会見している光景にぶつかった。 両少尉は語る。<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺のほうが百人ぐらい斬る事になるだろう。 野田の負けだ。 俺の刀は56人斬って、刃こぼれがたった一つしかないぞ。<野田少尉> 僕らは二人とも、逃げるのは斬らない事にしています。 僕は○官をやっているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にして見せる。 記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と80幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること■読売新聞(2005年8月23日の裁判結果の記事概要) 土肥章大裁判長は 「真偽について見解が分かれ、歴史的事実としての評価は定まっておらず、明白な虚偽とは認められない」 と述べ、請求を棄却した。 判決は、 初めて百人斬りを報道した東京日日新聞の記事について、 <1>2人が記者に話したことが契機となった <2>1人は報道後、百人斬りを認める発言をしたことがうかがわれる などの点から、 「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないが、記者の創作とまで認めるのは困難」 と判断した。■朝日新聞(2005年8月23日の裁判結果の記事概要) 土肥章大裁判長は請求をすべて棄却した。□原告側の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張に対する判決理由 記事は「両少尉が記者に百人斬り競争の話をしたことがきっかけで掲載された」 「本多氏が論拠とした関係者の著述なども一概に虚偽とは言えない」 書籍の記述が「一見して明白に虚偽だとはいえない」□原告側の「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張に対する判決理由 「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」 「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」■毎日新聞(2005年8月23日の裁判結果の記事概要) 東京地裁(土肥章大裁判長)は23日、原告の請求を棄却した。 記事は2人が記者に「百人斬り」の話をしたことが契機となっている 百人斬りの真否が歴史的事実として定まっていない ことなどから 「虚偽であるとまでは認められない」 と判断。■産経新聞(2005年8月23日の裁判結果の記事概要) 東京地裁は二十三日、 「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」 として遺族側の請求を棄却した。 「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載された」 「報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」 「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」 と判決理由を述べた。 「百人斬り」の真偽については、 「さまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」とした。
2005.08.23
コメント(0)
日本が受諾した「ポツダム宣言」は「カイロ宣言」と「バーンズ回答」がセット 「カイロ宣言」(米・英・中:1943年11月27日署名) 「ポツダム宣言」(米・英・中:1945年07月26日発表) 「バーンズ回答」(米・英・中・ソ:1945年08月13日に正式版が日本に届く) 当初、鈴木首相は「ポツダム宣言」を「黙殺」と声明する。 「広島への原爆」「ソ連侵攻」「長崎への原爆」に対して、 「国体護持」の条件での「ポツダム宣言」受諾を通告するのが8月10日。 「バーンズ回答」は12日には日本に伝わる、日本の条件「国体護持」に対する回答は 天皇と日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令長官の制限の下に置かれ、 日本国の政府形態は日本国民が決定する 日本は8月14日に「ポツダム宣言」受諾を決定する。 「ポツダム宣言」は日本・日本軍・日本人に対して、 降伏・処罰・領土・人権・占領・侵略の永久除去・独立が述べられている。 「ソ連」仲介での和平交渉は何の進展も無く、8月9日の「ソ連」の満州侵攻により終る。 「ソ連」は日本が「ポツダム宣言」を受諾しないからと侵攻する。 「ソ連」侵攻の意思決定は「ポツダム宣言」からではなく、「ヤルタの密約」に存在する。 此処に来て、「日独伊三国条約」・「日ソ中立条約」・「日独伊共同行動協定」は 意味が無く、「ヤルタの密約」・「ポツダム宣言」・「原爆」が力を持つ世界となる。 「大西洋憲章」の理想的な宣言(第一次世界大戦でも「ウイルソンの14ヶ条」があった) の現実的な妥協の世界。■黙殺(「時代の一面/東郷茂徳」を主とした内容) 「ポツダム宣言」黙殺声明は、二度の原爆投下とソ連による侵攻の大義名分となる。 「ポツダム宣言」の政府対応は、当初は黙殺声明を出すことではなかった。 「最高戦争指導会議」の構成員会議により、「ソ連」の出方を見て処理することに一致。 意思表示をしないことになった。 (構成員の首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長は「ソ連」頼みとなっている。) 政府統帥部間の情報交換会で、「ポツダム宣言」拒否の意見が出され、 首相・陸海軍大臣・両総長(外相以外の意)が協議、 28日午後の新聞記者会見での黙殺声明となる。 「海軍大将 米内光政覚書」では、米内海相は「ポツダム宣言」は黙殺(何も発表しない) としている、鈴木総理の黙殺声明を米内海相は同意したと思える。 軍令部は政府に対して「ポツダム宣言」拒否を求めており。 軍務局長が米内海相に動揺を抑える訓示を出すように求めている、海軍内も一枚岩ではない。■三種の神器 八咫鏡は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は皇居に、天叢雲剣は熱田神宮 日本本土に艦砲射撃が加えられ始める。 木戸内府は奏上し、三種の神器が米軍に奪われる可能性について言及する。 7月31日に天皇は木戸を召し、神器は天皇の身近に移す事が一番良いと述べる。 7月29日に米艦は野島崎・新宮を砲撃している。 「昭和天皇独白録」では、神器の確保の見込みが立たないと国体護持は困難としている。 故に、天皇の一身を犠牲にしても講和のしなければならない、の結論となる。■簡単年表 7月17日:「ポツダム会談」(米英ソによる)始まる。 7月25日:木戸の奏上、三種の神器の護持について 7月26日:「ポツダム宣言」(米英中による)発表。 7月28日:鈴木首相は「ポツダム宣言」黙殺を声明。 7月29日:米艦は野島崎・新宮を砲撃。 7月31日:木戸の御召、伊勢と熱田の神器は天皇の身近に移す事が一番良い。 8月06日:米軍は広島に原爆を投下。 8月09日:ソ連は「日ソ中立条約」を破り、満州に侵攻 8月09日:米軍は長崎に原爆を投下。 8月10日:「国体護持」を条件に「ポツダム宣言」受諾を決定、連合国に条件を申入れ。 8月12日:連合国の「バーンズ回答」が明確になる、「国体は国民の意志による」。 8月14日:「ポツダム宣言」受諾を決定。■データ:厚生省引上援護局の調査を主として□艦艇(1945年) 隻数 :459隻 トン数:約71万トン□航空機数(1945年) 総数:10,938機 陸軍: 2,472機 海軍: 8,466機□兵員数(1945年) 総数:826万人 陸軍:640万人 海軍:186万人□兵員死亡者(1937年7月7日~1945年8月14日) 総数:194万人 陸軍:148万2千人 海軍: 45万8千人□兵員死亡者(1945年8月15日~) 総数:18万1千人 陸軍:16万5千人 海軍: 1万6千人□戦時下銃後人口被害(昭和23年調:[調査]経済安定本部) 空襲被害 死亡 :29万8千人 行方不明: 2万4千人 艦砲射撃その他被害 死亡 :1,739人 行方不明:46人注)沖縄・朝鮮半島・台湾・樺太等のデータは含まれていない。 昭和23年当時日本の管理下にあった地域に対してのみのデータを思われる。□沖縄戦死亡者数(1945年3~6月:[調査 昭和54年6月]沖縄県生活福祉部援護課) 軍人軍属:94,136人(内沖縄出身軍人軍属は28,228人) 住民 :94,000人 米軍 :12,520人(参考)□原子爆弾による人的被害(現在の認識) 広島原爆による人的被害(広島平和記念資料館/HP) 死者:約14万人(±1万人)(1945年12月末までの推定) 長崎原爆による人的被害(長崎原爆資料館/HP) 死者:約74,000人、負傷者約75,000人(1945年12月末までの推定)。□原子爆弾による人的被害(当時の発表) 広島原爆による人的被害(広島県知事報告1945年8月20日現在) 死者:32,959人、行方不明:9,591人 長崎原爆による人的被害(長崎県発表1945年8月31日現在) 死者:19,748人、行方不明:1,924人〓勝手な意見〓 日中戦争からの日本人の被害(非戦闘員・軍人・軍属)、250万人を越えるのは確実。 (テレビでは300万人と言っている人もいる) 非戦闘員でも朝鮮・台湾出身者の人達の数字が明確ではない。 (北海道より北の樺太・千島列島は含まれているのか不明) 陸軍省・海軍省の調べでは、終戦時の隻数は 戦艦:4(-)、航空母艦:6(2)、巡洋艦:11(3)、潜水艦:59(50) ()内は航行可能隻数 航空機が残っている、終戦後の陸海軍の調査では。 陸軍で1万機(内練習機が3千機)、海軍6千機ほど残っていた。 実態はどうだったのだろうか。
2005.08.21
コメント(0)
1945年6月23日に沖縄守備軍の牛島司令官は自決、その一日前 昭和天皇は「最高戦争指導会議」の構成員に「終戦の意図」を伝える。 14日前の6月8日には、「御前会議」で「戦争完遂」と「本土決戦」が決定。 翌日の臨時議会では、鈴木首相の「施政方針演説」は「御前会議」に沿ったもので、 「戦争完遂」「本土決戦」を主張するが、戦争継続の無謀さも、ささやかに主張している。 「戦争完遂」「本土決戦」から「終戦の意図」には流れがあった。■昭和天皇の終戦の意図の表明(1945年6月22日)□「最高戦争指導会議」の構成員による終戦への模索(5月11日~14日の討議) 5月11日より、首相・陸海軍大臣・陸海両総長・外務大臣による、 終戦に関する会議が始まる。 6人の秘密とし一切部下にも内密にするとした。 終戦に対する論の違いはあるが、 鈴木首相・阿南陸相・米内海相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長・東郷外相、 そして昭和天皇・木戸内大臣が終戦への舵取りを行う。 陸軍は「ソ連」の対日参戦防止、海軍は「ソ連」との親和・石油の購入等の意見、 外相は「ソ連」が日本に「好意ある態度をとる」ことは無いと主張。 「ソ連」の仲介による和平は、「ソ連」以外選択では「無条件降伏」となる為。 (東郷外相は「ソ連」の仲介に関して否定的) 「ソ連」の好意ある態度への対価は、日露戦争以前の状態に戻す等。 軍部(陸軍・海軍)は戦争は負けていない、の意見で講和条件に関して紛糾する。 1.「ソ連」を参戦させない。 2.「ソ連」を好意的態度にする。 3.連合国との和平交渉・講和条件はpending 上記の決定を受けて、「ソ連」との交渉を広田弘毅(元首相・外相)に依頼 広田弘毅とマリク(駐日ソ連大使)との会談が行われる。(6月3日~)□6月8日の「御前会議」 「戦争完遂」と「本土決戦」が決定されるが、「最高戦争指導会議」構成員全員が 本気で言っているとは思えない。 東郷外相以外は陸海軍の出身、軍出身者には暗黙の諒解があったのかも知れない。 翌日の臨時議会での鈴木首相の「施政方針演説」を考えると、 国会議員の反応・他国の反応・(国民の反応?)を見るための 終戦に向けての第一歩のようにも思える。 (様子見と互いの肚のさぐりあいとも言える) ただ、臨時議会を開き「施政方針演説」で「御前会議」を網羅した内容を話し、 暗示的に和平が見え隠れする状態を、内外に知らせた事は、意見が分かれた。 この議会では、「戦時緊急措置法」と「国民義勇兵役法」が成立している。 米内海相は「臨時議会」開催に反対、新たな法律は研究を要するを前提で、 憲法第31条を広義解釈して緊急勅令などにより措置できるとの意見 第三十一条 本章に掲けたる条規は戦時又は国家事変の場合に於て天皇大権の施行を妨くることなし 米内海相が問題としたのは、政府の見通しと対処が明確ではなく、 表現がどうであれ、肚がきまっているか、を問題としている。 (負けるに決まっているから講和(降伏)を進めるは、対外・内・議会に言えない状態 必勝を表明しつつ和平工作か、講和が決まって発表。状況は悪い、講和は急がれる) 米内海相の問いかけに、総理と陸相は、 「戦争をトコトンまで遂行する決意」と述べる、 またトコトンまで遂行する事により、皇位・皇統が守られ国体護持でき、 そこまでやらなくて済む事になる、の内容を述べる。 (米内海相と総理・陸相とのやりとりは、御前会議の前の5月30日の出来事) 米内海相は辞意を表明、阿南陸相は引き止める行為を行う。 阿南陸相の行為が、米内海相を引き止める主要因かは解らないが。 阿南陸相の行動は、終戦を前提にしたものと思える。 東郷外相・米内海相は講和・終戦の姿勢は変わらない、海相は「ソ連」経由を主張。 阿南陸相は本土決戦と思うが、行動・結果で表現するタイプのようで、真意は不明。 鈴木総理はふらふらしている。(木戸・天皇がホローしている感がある)□6月20日の東郷外相による上奏 上奏で東郷外相は、 6月18日の「最高戦争指導会議」構成員の会合により、 「ソ連」仲介による、和平交渉を行う事に合意した事。 「ソ連」には思い切った代償が必要で、広田元首相に交渉を依頼した事 を伝える。 天皇は同意、速やかな終結を希望。 理由として、参謀総長・軍令部総長・長谷川大将の報告で支那・日本内地の 作戦準備が不充分であることが明らかになった為。 東郷外相は、戦時外交は戦局の推移に影響する、有利な条件の終結は不可能、と答える。 6月18日の「最高戦争指導会議」構成員の会合で東郷外相は 木戸内府より「天皇は戦争終結を希望」が伝えられた事を述べている。□6月22日の御召 天皇は「最高戦争指導会議」構成員に対して、速やかなる戦争の終結を求める。 また、天皇は一撃を加えてからの講和でないことを確認する。〓勝手な意見〓 まとめると、6月22日の天皇発言「終戦の意図」は 6月15日:木戸内府が東郷外相に天皇の「終戦の意図」を伝える 6月18日:外相は「最高戦争指導会議」の構成員に天皇の「終戦の意図」を伝える 6月20日:外相は「最高戦争指導会議」が「ソ連」仲介による終戦に合意を天皇に伝える 6月22日:天皇は「終戦の意図」を「最高戦争指導会議」の構成員に伝える 天皇発言「終戦の意図」は木戸内府と天皇によりコントロールされ、進められたと推察する。 東郷外相は、此処に於いては使い走り。 この件については、東郷外相が頑張れば頑張るほど回りは白ける構図があったと思える。 5月10日より「最高戦争指導会議」の構成員により、ソ連の仲介による終戦交渉の合意が 固められつつあり、その一つの表現が、広田・マリク会談。 6月8日の「戦争完遂」「本土決戦」は「御前会議」での決定だが、その後意味を持たない。 昭和天皇は陸海軍や木戸内大臣よりの意見や事実を聞いて、終戦の決意を固める。 東郷外相(鈴木総理ではなく)は昭和天皇に上奏、6月20日に 「最高戦争指導会議」の構成員による、「ソ連」仲介による終戦の合意 戦局が不利の為、有利な条件の終結は不可能 の意味を上奏。 6月22日の天皇発言「終戦の意図」の、お膳立ては結果的に東郷外相と思えるが、 「海軍大将 米内光政覚書」では高木惣吉の考えとして木戸と米内の合作となっている。 「木戸幸一日記(下)」では木戸の影響があったように思える。 昭和天皇は終戦に向けて東郷外相の意見を尊重しているように思う。 ただ、東郷外相の意見は内容に納得できても、回りが付いていかない面があり、 故に、天皇の後押しが必要だったのではないか。 「最高戦争指導会議」の構成員は海軍3名・陸軍2名・外務官僚出身が東郷で 戦争責任・講和・戦争遂行・敗北など、意識のずれが多々あったと思う。○和平交渉 「ソ連」・「ダレス」・「バッゲ公使」の道があった。 (「ダレス」は海軍・「バッゲ公使」は重光前外相からの情報) 「バッゲ公使」の道はいつのまにか消え、「ダレス」の道は米内海相が積極的ではない。 和平交渉の記述では、重光前外相・米内海相・東郷外相の、主張が異なる。 「ダレス」・「バッゲ公使」の交渉が進展しなかったのは、 「バッゲ公使」に関しては重光は東郷、東郷は重光の責任と言い、 「ダレス」に関しては米内は東郷、東郷は米内の責任と言う。 「ソ連」経由は米内海相を中心に進める事を望む。 東郷外相は「ソ連」経由に反対と思えるが、代案も無いようで、 「ソ連」経由での「終戦交渉」を進める。 「ソ連」への特使は近衛文麿に決まる、「ソ連」への申し入れは7月13日。 「ソ連」は断る(7月19日に東郷外相は電報を受け取る) 「ポツダム」での会談が近い事を認識して、 東郷外相は会談が始まる前に戦争での戦果を期待する。 (この時点の東郷外相は陸海軍の戦果に期待するが、その後急速に期待を持たなくなる) 「ポツダム会談」は7月17日に始まる。(「ポツダム宣言」は7月26日)
2005.08.19
コメント(0)
久しぶりの、映画館での映画鑑賞。 圧倒的な存在感、ストーリーは説得力がイマイチ 特に、 アナキンがシスの力に平伏する瞬間とパドメが絶望する過程。 圧倒的なシスの力が示される事は無い、 またパドメの絶望は、間接的な情報が多く、 直接的な事(燃えるアナキン)を増やして欲しかった。 映像はすばらしい、僅か数分間の為に膨大な才能と労働と金がつぎ込まれたと思う。 最後はちょっとくどい、もう少し短くても良いのではと思う。 感動があったのかが問題、 鑑賞後の自分の感情に戸惑う、感動しているという意識は無い、爆発する感情がない。 しかし、静かに燃える物が心を支配している。 静かに燃える感情、初めての経験だ。 時期が時期だけに、原爆映像を見すぎて、原爆の被害者とアナキンの映像が重なり、 わけのわからない感情が出てきたのかもしれない。 DVDで見るときは、どのように感じるか、今から楽しみ。
2005.08.17
コメント(0)
■鈴木貫太郎内閣施政方針演説(1945年6月9日、鈴木内閣発足は4月7日)〓勝手な感想〓 6月8日の「御前会議」を受けての鈴木首相の「施政方針演説」となる。 6月9日の「施政方針演説」には『勝』という発言が少ない、以下の2文に表れる。「凡そ戰に『勝』つの道は、之を古來の戰史に徴しまするも、敵の戰意を挫くことにあります、 而も敵の戰意を挫くことは我が戰意が敵を壓倒することであり、 是が爲には我の戰意の日々益々昂揚することが肝要であります」「敵国の國内情勢の動向を推しましても、又國際情勢の機微を察しまするに、 我々としては唯此の際飽くまでも戰ひ拔くことが、 戰『勝』への最も手近な方法であると云ふことを痛感せざるを得ないのであります、 私は此の信念に基きまして大命を拜し、内閣を組織致した次第であります」 本土決戦を主張し、本土では地の利が在るとの主張、 しかし、鈴木首相本人が、英米に勝つとは思っていない、 本土決戦は国民の困窮と多量の死者が予想され、食べ物は無くなり・武器の補充も不充分。 しかし、国体護持の為に一切を捨てて奉公しなければならない。 鈴木首相の建前は「本土決戦」、本音は 「ドイツ負けたし、もう無理、戦争止めようよ、問題は『国体護持』、どうすればいいんだ」 と推察する。 この時期「ポツダム宣言」はまだない、 連合国側との交渉は「カイロ宣言」がベースの「日本の無条件降伏」と思える。 本気で「本土決戦」を望む者も存在する、当時は普通かもしれない。 「戦中派不戦日記/山田風太郎」は山田風太郎氏の日記で当時23歳の医大生、 山田青年は8月15日の天皇の放送は、ソ連に対する宣戦布告と思っている。 学校の授業中に「休戦・降伏・宣戦布告」の紙が回ってきて、宣戦布告を選ぶ。 山田青年は、最後まで戦うのが当然と思っている。 放送では「降伏」、天皇が「戦争を止める」と決意すると従っている。 しかし、日本が負けるのは信じられないとの思いを持っている。 善悪での判断は難しい、長年の日本の教育とマスメディアとプロパガンダが主となって 当時の日本人の感覚や美意識・行動様式を作り出していたと思う。 情報を持っている者は、戦況をどのように判断していたのか。 「実録朝日新聞/細川隆元」では、 細川氏(朝日新聞東京編集局長)は親友の大本営陸軍部報道部長との、 1943年11月頃の会話で、細川氏は「早く降参すれば負け方が少なくてすむ」 親友氏は「米軍艦隊が瀬戸内海に入ってきてケリがつく、本土決戦はない」 終戦1年9ヶ月前の、マスメディアのトップと陸軍の上層部の二人の会話とは 興味深い。 1943年はガダルカナル撤退・山本五十六戦死・アッツ島玉砕・イタリア降伏 昭和天皇は「昭和天皇独白録」に於いて、 ニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから勝利の見込みを失った。 と述べている、「スタンレー山脉を突破」は1943年9月 最初から勝利はないと思っていた人は別だが、 1943年で多くの情報に接する事の出来る人間は、 日本の勝利が無くなったと感じた人は多かったのかもしれない。 天皇・皇族・華族・政府・陸軍・海軍・財閥・官僚・徴兵された者・国民・マスメディア 1945年のドイツ敗北以後に勝利を確信し戦争継続を望んでいる者は、 「徴兵された者・国民」以外に誰がいたのか。 「責任を取りたくないために、戦争を継続する」や「負けたくないから、戦争を継続する」 の感覚やが大きかったのではないかと思う。 以下は、鈴木首相の「施政方針演説」の概要と「今後採るべき戦争指導の基本大綱」□現状認識を主に 敵の空襲に依り、宮城及び大宮御所が炎上致した、三陛下竝に賢所は安泰。 米軍は本土の一角たる沖繩に侵寇、沖繩に於ては敵に多大の損害を與へて居る。 今日沖繩の戰況は憂慮すべきものがある。 本土の他の地點にも敵の侵冦を豫期せざるを得ない情勢に立至つた。 本土が戰場となれば、地の利、人の和、悉く敵に優ること萬々。 島嶼に於ける戰況とは全く異つて、敵を撃攘し其の戰意を壊滅せしむることが出來る。 戰に勝つの道は、敵の戰意を挫くことにあり、我の戰意の日々益々昂揚することが肝要。 政府は別に今般地方總監府を設置、國内態勢の整備確立を圖り、國民義勇隊を結成。 生産及び防衞の一體的強化を圖り、國防上萬全の施策を講ずる。 以て本土決戰態勢の整備に遺憾なきを期したいと存ずる次第であります。 今後食糧も十分ではなく、交通運輸も圓滑ではなく、軍需生産も困難の度を増す。 敵国の國内情勢の動向、國際情勢の機微を察するに、 戰ひ拔くことが戰勝への最も手近な方法であることを痛感する。 空襲は今後更に苛烈を加ふることは必然。 其の地域は尚ほ極めて局限せられて居り、重要生産施設の疎開、復舊も相當進捗して居る。 目のあたりに見る状況に依つて判斷を誤るべきではない。□主張を主に 私は諸君と共に謹みて、聖旨を奉戴致し聖慮の奉行に邁進致したいと存ずる。 天皇陛下程世界の平和と人類の福祉とを冀求遊ばさるヽ御方はないと信じて居る。 帝國の戰爭は實に人類正義の大道に基くものであり、斷乎戰ひ拔くばかり。 英米の無條件降伏を揚言は、國體を破壊し、民族を滅亡に導かんとする事、 我々の執るべき途は唯一つ飽くまでも戰ひ拔くこと、帝國の自存自衞を全うすること。 今次の戰爭は畢竟敵米英が東亞を奴隷化せんとするのに對する東亞開放戰である。 此の戰にして蹉跌せんか大東亞民族の自由は永遠に失はれ、世界の正義は蹂躙される。 帝國の世界秩序に關する根本方針は政治的平等、經濟的互惠、固有文化尊重の一般原則の下に 各國各民族の共存共榮を確保する。 強國本位の利己的な國際處理に對しまして、帝國は抗争する。 要は國民の旺盛なる戰意である。 我々は何處までも皇土を保衞し、帝都を固守し、敵の暴戻を反撃すべき時期の到來を期する。 我々は全力を擧げて戰ひ拔くべきで、一部の戰況に依り失望したり落膽するは愚か。 國民諸君に信頼し、軍官民眞に一體となり、一億が力を出し切る態勢を整へ、 其の最前列に全生命を捧げて奮鬪致す所存。□「今後採るべき戦争指導の基本大綱」/御前会議決定(1945年6月8日) 方針 七生尽忠の信念を源とし地の利人の和を以て飽くまで戦争を完遂し 以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す 要領1.速やかに皇土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中す 爾他の疆城に於ける戦力の配置は我が実力を勘案し主敵米に対する戦争の遂行を主眼として 兼て北辺の情勢急変を考慮するものとす2.世界情勢変転の機微に投じ対外諸施策特に対「ソ」対支施策の活発協力なる実行を期し 以て戦争遂行を有利ならしむ3.国内に於いては挙国一致皇土決戦に即応し得る如く 国民戦争の本質に徹する諸般の態勢を整備す、 就中国民義勇隊の組織を中軸とし益々全国民の団結を強化し愈々戦意を昂揚し 物的国力の充実特に食料の確保並特定兵器の生産に国家施策の重点を指向す4.本大綱に基づく実行方策は夫々担任に応し具体的に企画し速急に之か実現を期す
2005.08.16
コメント(0)
ソ連を軸に終戦への和平交渉を調べてみる。(ダブリが多いのは、ご容赦) 1945年5月7日のドイツの降伏文書に署名、 自ら望んだ「日独伊共同行動協定」の「単独不講和」から日本は解き放たれる。 米国は大西洋・太平洋の両面戦争から解放され、ソ連は極東に色気を見せる。 日本は勝機のない戦争が残り、和平交渉に力を入れ始める。 ドイツは最後まで戦い、降伏前にヒトラー等の要人は自殺したが、 日本の選択はご承知の通り、一億玉砕ではなく、「国体護持」の条件付降伏だった。 ドイツ降伏の前から「重光外相/小磯内閣」は和平交渉を進めようとしていたので、 当時「日独伊共同行動協定」の「単独不講和」がどの程度意味を持ったか解らない。 鈴木内閣(4月7日~)はソ連との友好は絶対に必要なものとして認識していた、 「日ソ中立条約」は1946年4月まで有効だったが、 ソ連は1945年4月5日に佐藤大使に、1946年4月以降の延長破棄を通告した 鈴木内閣は発足と同時に、ソ連からの重圧が加えられることとなる。 東條英機が上奏(2月26日)で「ヤルタ会談」に言及しているように、 スターリン・チャーチル・ルーズベルトはドイツ戦終了後のソ連の対日参戦と 極東に於ける領土の分け前が密約されている。 (この時点では、原子爆弾は不確定要素、対日戦へのソ連の参戦は重要だった) その後チャーチルは選挙に負け、ルーズベルトは病死、原子爆弾は完成、 対日戦へのソ連の参加が重要で無くなり、ソ連は早期に対日戦参加を望む。注)原爆の完成日 広島型原爆(ウラニュウム型)の完成日を知らない 長崎型原爆(プルトニュウム型)の実験成功は7月16日でポツダム会議の最中■鈴木内閣(1945年4月7日~)での和平交渉 5月7日のドイツの降伏、4月5日には「日ソ中立条約」の1946年4月以降の延長破棄 第二次世界大戦は既に収束に向っている。 「日本が降伏して終わる」以外の収束は無い。 日本としては、一億玉砕し降伏か、少しでも有利な条件での降伏かのどちらか。 決戦で勝利し有利な条件を得ようとする、沖縄での決戦が最後のチャンスと考えたようだが、 戦況は悪い。 鈴木内閣の外相は東郷茂徳 外務官僚で妻はドイツ人、駐ドイツ大使・駐ソ連大使、日米開戦時の外相 外相を受けたのは、和平・終戦の為、「ヤルタ会議」後ではつらい、 鈴木内閣は表面上、戦争継続を表明している。 5月11日:~13日、東郷外相は終戦和平にソ連の利用は不可、米内らはソ連利用を主張 :米内は「日本から軍艦を譲り交換に石油や飛行機をもらう」と述べる。また、ソ連交渉の基本的な方針を決める 6月 3日:広田弘毅はソ連駐日大使マリクを訪問、翌日ソ連との友好関係の向上を打診 6月 8日:御前会議で「戦争の完遂」「徹底抗戦」「本土決戦」を確認 6月22日:天皇は戦争の終結を示唆、米内はソ連の斡旋による終結を述べる。 6月24日:広田弘毅は再びソ連駐日大使マリクを訪問、マリクは具体案を求める。 6月29日:日本は具体案をマリクに渡す、その後マリクは病気として会わない。 7月12日:近衛は天皇よりソ連特使を依頼される 7月13日:ソ連外相は佐藤大使の会見要求を多忙理由で拒否、近衛特使の件を次官に伝る 7月13日:米国は、日本から佐藤大使への電文を傍受、トルーマン等の要人に伝わる 7月17日:ポツダム会談が開催される 7月18日:ソ連は天皇メッセージの具体性を否定、特使派遣を拒否 7月27日:日本側はポツダム宣言を受信 7月28日:陸海軍大臣・陸海軍総長は「宣言」を鈴木首相に無視する事を迫る(->黙殺) :NHKと同盟通信電報は「黙殺」を「ignore」で海外に、外国通信は「reject」 8月08日:ソ連外相は佐藤大使に「ポツダム」宣言を拒否したからソ連は参戦すると述べる 8月09日:ソ連は満州に侵攻、ソ連軍130万人・飛行機5千機・戦車4千輌 8月15日:天皇による終戦のラジオ放送 (上記の経緯は「昭和の宰相 第三巻」よりの概要) 「昭和の宰相 第三巻」では、ソ連の仲介を望んだのは「米内海相」達、 米内は「日本から軍艦を譲り交換に石油や飛行機をもらう」と述べる。 譲る程の軍艦があるかは別として、米内の発言に東郷は反発するが、 ソ連仲介が決定される。 米内は、親米で三国同盟には断乎反対、終戦には和平賛成で、 「ポツダム宣言」の受諾では「東郷案」賛成。 イメージが異なる、じっくり調べたい。〓勝手な感想〓 ソ連に関しては、 ドイツとの「ポーランド」分割占領 「ヤルタの密約」での、対日参戦の対価として領土の取得 原爆によりソ連の対日参戦が重要でなくなると「日ソ中立条約」無視の「駆け込み参戦」 日本へ「宣戦布告」はするが、日本には伝わらない。 (NHKによると、佐藤大使はモスクワで「宣戦布告」を伝えられたが、 日本へ伝える術はソ連により閉ざされていた。) 「満州」におけるソ連軍の日本の非戦闘員に対する殺害・掠奪・暴行 「ソ連長期抑留」 第一次世界大戦の日本も似たような事を行ったが、これほどではない、が現在の認識。●家永三郎氏の「戦争責任」での「ソ連の戦争責任」ついて1.ソ連が「日ソ中立条約」の有効期限内に対日戦争を開始ししたのは、 1941年の日本の対ソ侵略戦争の「予備陰謀」「未遂」がある為、 日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格はない。2.ソ連の対日開戦がアメリカの希望に基づいて行われた(「ヤルタの密約」)ので 米国も同罪、南樺太・千島列島のソ連への「引渡し」も同様。3.ソ連の対日責任は「日ソ中立条約違反」「南千島の不法占拠」に求めるべきでなく、 「ソ連軍の在満日本人非戦闘員に対する残虐行為」と「ソ連の日本軍将兵多数の長期拘留」 に求めるのが相当。 家永三郎氏の「戦争責任」に於ける意見だが、 「予備陰謀」「未遂」と本当に実行するは別だし、 米英(中:明示的でない)が望んだからソ連は参戦し、 見返りに領土を取ったは米国も同罪 は、ソ連が参戦しなければよいだけの事、「ポツダム宣言」に加わっていないのに、 「ポツダム宣言」を受諾しないから対日参戦は、領土と利権の問題だろう。 家永三郎氏の主張は 「予備陰謀」「未遂」があれば、その国に侵略しても責任はない。 は言いすぎだが、 「侵略された側」に「予備陰謀」「未遂」があれば、 「侵略された側」は「侵略した側」の「開戦責任を論ずる道義的資格はない」 との主張に思える。■鈴木内閣と戦争遂行と雑文 「非国民」という言葉があるが、この時期「非国民」は重い言葉(今はどうか?) 「戦争反対」を言ったら「非国民」 「天皇の悪口」を言ったら「非国民」 「共産党関連の本を所持」していたら「非国民」 特高(特別高等警察:内務省管轄)や警察に目をつけられ、引っ張られる。 (陸軍大臣管轄の憲兵は、一般国民の思想取締も行った) 松本清張の「半生の記」では、思想犯でつかまり、小倉警察署の留置所へ、拷問は竹刀。 「容疑が薄い為か逆さ吊りや煙草攻めはなかった」との事。 釈放後も刑事が来て、父親が酒を出して応対した。 と、記されている。 小林多喜二は特高が逮捕、築地署内での拷問で死亡。 竹刀で叩くぐらいは日常茶飯事と思える。 吉田茂や西園寺公一(西園寺公望の孫)も捕まっているが、 小林多喜二や松本清張とは扱いが異なる。 東條英機は総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼任している、 国内を武力的に押さえる力を全て(言いすぎ)握っていることが解る。 「昭和天皇独白録」に於いて、昭和天皇は東條に対して 「東條は憲兵を余りに使い過ぎた」とコメントしている。 鈴木貫太郎内閣の決定時には、東條は陸軍の畑俊六元帥を推薦、 本土決戦は陸軍が主体となる為が理由。 鈴木に決まりかけると「陸軍がそっぽを向くおそれがある」と述べる。 脅しだろう。 「近衛上奏文」を近衛が出せたのが不思議、 日本は負ける・和平交渉を行う・陸軍人事の刷新は、言えるものではなかったと思う。 何故、1937年や1941年にこれが出来なかったのか。 戦後、近衛はマッカーサーから憲法改正を依頼され、取り消されれる。 その後、戦犯指名を受けて、出頭日に自殺。 天皇の為の自殺なのか、プライドの問題なのか。 私にはわからない部分が多い、魅力的な人物。 鈴木内閣は表向きは戦争遂行内閣、ドイツの敗北により、和平が動き出す。■条約・協定・宣言□独ソ不可侵条約:後に、ドイツはソ連に侵攻□日独伊三国条約:三国同盟、対米軍事同盟、米国参戦に共同で立ち向かう□日ソ中立条約:1946年4月まで有効、継続しない場合は一年前に申し出る□日独伊共同行動協定:勝手に連合軍と講和しない、戦後は三国で山分け□カイロ宣言:英米中による戦後の日本領土の規定□ヤルタ協定:英米ソによる日本に関しては秘密協定、対日ソ連参戦、極東でのソ連の取り分□ポツダム宣言:ドイツ降伏後、英米中による日本に対する降伏条件提示。カイロ宣言を含む□バーンズ回答:英米ソ中による「国体護持」に対する回答、「日本国民の自由意志」□ポツダム宣言受諾:日本の英米ソ中に対する「バーンズ回答」を含む「受諾」通知、■和平交渉に於けるソ連以外の選択□重光葵外相/小磯内閣 当初はドイツとソ連の和平を日本が仲介するというスタンス。 連合国と日本の和平は、 ソ連に対しては、小磯首相・東久邇・緒方竹虎と重光外相のラインがある、 (謬斌問題でも小磯首相と重光外相は対立) 重光外相は広田弘毅元首相の特使派遣を考える。 また、スウェーデン公使バッゲ経由での講和を進めようとするが、 小磯内閣は鈴木内閣(1945年4月7日発足)となり 重光葵外相の留任は小磯前首相の反対で東郷外相(日米開戦時の外相)となる。 東郷外相はバッゲ経由での講和を断わる。□スイスでのOSS(後のCIA)経由の和平交渉 1945年4月25日よりの藤村義朗(海軍中佐、スイス日本公使館駐在海軍武官) による、和平交渉。(和平交渉と言えるのかは疑問、糸口程度) アレン・ダレスとの会見は1945年5月2日、ソ連がベルリンを占領した日、 アレン・ダレスは米内海相・豊田軍令部総長とのスイスでの会談を望む(はったりか?) 内閣は鈴木内閣、米内海相・豊田軍令部総長・東郷外相はまともに取り上げない。 日本海軍は陸海軍離反の策謀と見る。 (「戦後秘史/大森実」よりの一部の概要)
2005.08.13
コメント(0)
■近衛上奏文(1945年2月14日) 重臣達が個別に天皇に拝謁し、意見を述べた。 重臣は平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東條英機 近衛はその内の一人として上奏。□近衛上奏文の概要 敗戦は必至。 現在の米英の主たる考えでは「国体の変革」はない。 国体護持は重要だが、敗戦後の日本に於ける共産革命が大きな問題。 ソ連は近隣諸国を赤化し、世界赤化を進めている。 日本の職業軍人は中流以下の家庭出身者で共産的主張を受け入れやすい環境。 彼等が、「満州事変」「支那事変」を起し「大東亜戦争」まで導いた。 「一億玉砕」を叫ぶ者は右翼だが、扇動しているのは共産分子。 内外に「共産革命」に進む条件が成長しつつある。 速やかなる「戦争終結」が必要。 「戦争終結」の抵抗者は戦争を進めてきた軍部、一掃する必要がある。 当時の状況は、 1945年1月11日の「最高戦争指導会議」では 参謀次長が「日本本土に敵軍が上陸」について考慮の必要を述べる。 米内光政海相は早すぎるとの意見。 米軍の硫黄島上陸は2月19日、3月10日に東京大空襲、4月1日に米軍沖縄本土上陸。 「近衛上奏文」に関った吉田茂は、憲兵隊に逮捕される(4月15日) 天皇は近衛の「すぐ戦争を止めたほうが良い」を極端な悲観論と見て。 「陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦いを止めるのは適当でない」と答える。 この時点の天皇の感覚は、「講和」を行うには一度戦果をあげる必要があるだが、 近衛は、戦果の可能性は低いと見ている。〓勝手な感想〓●東條英機の上奏は2月26日(大雪)に行われた。(首相は東條から小磯に移っている) 「ヤルタ会談」は裏面において、太平洋問題が大きく扱われ、基礎的諒解をとげたと推察。 ドイツは降伏しない。(していない。) 「日ソ中立条約」の延長をソ連はしない可能性がある。 ソ連の対日参戦の可能性は五分五分。 東條は他にも色々述べている。(「侍従長の回想」よりの一部の概要) ドイツの降伏(5月7日)の可能性を否定すると、納得できる部分もあるが。 「ヤルタ会談」について、「米英ソの密約で太平洋問題に基礎的諒解をとげた」 と、分析している人間が、ドイツの降伏を明言しないのは苦しい。 当時の政治の中枢にいる人間は ドイツの降伏は近い。 日ソ中立条約は延長されず、ソ連はドイツ降伏後に対日戦参戦する可能性がある。 の認識を共有していたと思う。 東京にいる天皇・政府首脳・統帥部は間接的にしか、戦況を知らない。 しかし、直接的・身近な現実が現れだす。 B29による東京空爆は、1944年11月24日に始まる。 東京大空襲(数字は「Wikipedia」と「多夢・太夢」氏のHPより) 3月10日の午前零時すぎの深夜、B29爆撃機344機が東京を2時間半空襲。 死者8万3793人、負傷者4万918人(警視庁調査) 焼失家屋は約27万戸、罹災者数は100万余人 空襲の8日後、天皇は焼け跡を視察。 4月28日:ムッソリーニは愛人と共にバルチンザン部隊により処刑 5月01日:ヒトラー総統夫妻自決 前後するが 4月01日:沖縄へ米軍上陸 4月07日:大和沈没(支援で沖縄に向う途中で) 4月05日:モトロフ外相、佐藤大使に「日ソ中立条約」不延長を通告(7日?) 「近衛上奏文」から3ヶ月で、ドイツ軍降伏まで進んでしまった。 5月25日の東京空襲では、宮殿(皇居)が消失。 消火に従事した者が33人(34?)死亡。 天皇は半年前から吹上御苑(皇居の内苑西側)の御文庫に住んでおり、 御文庫の北東100mには地下防空壕があった。 防空壕は地下10m、壁の厚さ1m~1.5m、会議室等がある(御前会議が開かれた)注)御文庫は平屋で15部屋あり、ホールは60畳、寝室、天皇皇后の其々の湯殿、 政務室、謁見所、女官の詰め所など、1961年に南に隣接して吹上御所が建てられる。 日本は本土決戦の準備を行いながら、主にソ連仲介による和平交渉を進める。 内閣は鈴木内閣(1945年4月7日~8月15日) 御前会議が3度開かれ、終戦への道を進む。
2005.08.11
コメント(0)
「ポツダム宣言」受諾の決定(1945年8月14日)の顛末を調べてみたい。 まずは、和平交渉関連の概要です。■本土決戦に向けた当時の雰囲気。□義勇兵役法(昭和20年法律第39号)、昭和20年6月22日に公布、即日施行(中野文庫を参照)第一条1.大東亜戦争に際し帝国臣民は兵役法の定むる所に依るの外本法の定むる所に依り兵役に服す2.本法に依る兵役は之を義勇兵役と称す3.本法は兵役法の適用を妨ぐることなし第二条1.義勇兵役は男子に在りては年齢15年に達する年の1月1日より 年齢60年に達する年の12月31日迄の者(勅令を以て定むる者を除く)、 女子に在りては年齢17年に達する年の1月1日より 年齢40年に達する年の12月31日迄の者之に服す2.前項に規定する服役の期間は勅令の定むる所に依り必要に応じ之を変更することを得 (以下略)注)「国民義勇隊組織ニ関スル件」は小磯内閣で閣議決定(3月23日)されている、 「義勇兵役法」の施行は鈴木内閣だが、小磯内閣からの流れが存在すると思う。 上記の「義勇兵役法」では、男子は14歳~60歳、女子は16歳~40歳が兵役となる。 「義勇兵役法」は徴兵の年齢拡大と女子兵の採用、 当時は、本土決戦を考えると必要な措置と考えたのだろう。 (「義勇兵役法」に関して勉強不足、竹槍や手榴弾での戦いなんだろうか) 本土決戦が、1945年6月頃には現実的なものとなっている。 日本の目的は敗戦覚悟の「国体護持」に収束していく。□終戦の1年半前の毎日新聞(1944年2月23日朝刊) 「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」 は、毎日新聞の記事、東條英機首相は発禁処分としたが、配達は終わっていた。 記事は海軍担当キャップの新名丈夫記者が紳士協定を利用して執筆。 毎日は廃刊は免れるが、抵抗は終わる。 37歳の新名は陸軍に二等兵として「徴罰召集」されるが、海軍に報道班員で救われる。 (「朝日新聞の戦争責任」より抜粋の概要)■ソ連仲介による連合国との和平交渉 1945年4月7日に鈴木貫太郎内閣は誕生する。 その日にソ連は「日ソ中立条約」破棄を日本に通告。 (1941年4月から5年間有効、破棄の通告は1946年4月以降の延長はしないの意) 5日後、米国大統領ルーズベルトは病死、副大統領のトルーマンが大統領となる。 ドイツ軍降伏(5月7日)、日本は戦い続けるの声明を出す。 6月8日の御前会議でも、戦い抜く事を確認。 7月26日の「ポツダム宣言(英米中)」に対しては、政府は黙殺(7月28日)。 8月15日には終戦、 日本はいつから本腰を入れて、終戦に対する交渉を行っていたのか。 ドイツ軍の降伏で、連合軍との講和は問題がなくなった。。 (「日独伊共同行動協定」での「単独不講和」の意味がなくなった) 6月22日頃には沖縄戦が終了(7月以降も掃討戦が続く) により戦争終結への交渉が本格化する。 6月22日に天皇の「御召」により、最高戦争指導会議の構成員6名が集められ、 天皇は講和の意志を伝える。 構成員はソ連の仲介による戦争終結を行うと回答する。 「御召」は「6月8日の御前会議」にて戦争完遂を決定して14日後だった。 東郷外相は、ソ連が「日ソ中立条約」継続を破棄(4月7日)を通告後しているのに、 ソ連の仲介による連合国との和平交渉を行う。 7月11日には近衛公爵に対し天皇はソ連への特使を依頼し、特使派遣をソ連に伝える。 スターリンは7月17日にポツダム会議へ出発。 7月26日に「ポツダム宣言(米英中)」は公表された。■「ポツダム宣言」(1945年7月26日)と「ヤルタの密約」 「ポツダム宣言」は米・英・中による日本の降伏条件を定めた宣言 (カイロ宣言の履行を含む、「カイロ宣言は戦後の日本領土を規定している」) 日本を侵略(世界征服)に導いた権力・勢力の永久除去 上記の権力・勢力の除去と戦争遂行能力の破壊が確証されるまで、日本を占領する。 日本国軍隊は武装解除後、各自の家庭に復帰(現地での武装解除の意) 日本の戦争犯罪人に対する処罰、基本的人権の尊重の確立 軍需産業の禁止 日本国軍隊の無条件降伏 鈴木首相は黙殺、ソ連への仲介依頼の回答待ちなのか? この時の「ポツダム宣言」にはソ連は加わっていない、 「ポツダム宣言」より良い条件を得ようとすると、ソ連を頼るしかなかったかもしれない。 「ヤルタ(秘密)協定」は1945年2月11日に作成されており、 米・英・ソによりソ連の参戦と、 日本の領土と勢力範囲に対する、ソ連の取り分が決められている。 「ポツダム宣言」の時期には、プルトニュウム型原爆(トリニティー)の実験は成功 米国は「ヤルタ(秘密)協定」によるソ連の参戦は不必要、と考え始めている。 ソ連は早く日本と戦争状態に持ち込み、極東での領土を主張したい所だ。 ソ連への仲介依頼は外交的な失敗と思う、当時も疑問視する者は存在した。 注)「ヤルタ」と「ポツダム」の出席者で異なるのは米国大統領の死亡による交代と、 チャーチルの選挙に於ける敗北、「ポツダム」での蒋介石の参加、 スターリンは「ポツダム」にいたのに、「ポツダム宣言」には署名していない事。■原爆とソ連の日本への宣戦布告 日本は、米国の原爆完成はかなり時間がかかると考えていたようだ。 1944年秋に高松宮出席の下、大倉男爵が日本有数の物理学者を集めて懇談会を開いた。 「原爆」に対する湯川秀樹博士等の結論は、原子爆弾の原理は既に世界周知だが、 ウラニュウム原子濃縮の技術完成には数年を要するから、戦争が今後5年10年続けば 可能性はあるが、米国も当分は作れない。 (正論2003年9月号 「終戦の真相」よりの一部の概要) 広島に原爆(ウラニュウム型)投下(1945年8月6日) ソ連政府は中立条約を破棄し、対日宣戦布告(「ポツダム宣言」を拒否した、が理由) 長崎に原爆(プルトニュウム型)投下 当時の日本は米国・ソ連どちらによる占領を望んだか、 米国と思う、ソ連では天皇制は否定される可能性大。 故に、主としてソ連参戦が日本の「ポツダム宣言」受諾を行わせたと思う。■国体護持 日本の「ポツダム宣言」受諾に関する注文は「国体護持」 米国側は「国民の意思」によると回答(この回答にはソ連も入っている)○陸軍大臣・参謀総長・軍令部総長の「ポツダム宣言」受諾に関する注文は 「国体護持」 在外日本軍の自主撤退(国内に戻っての武装解除) 戦争犯罪人の国内での処理 保障占領(外国の軍隊が日本に入ってくる事)の拒否 御前会議(1945年8月9日~)では天皇の決断で「国体護持」のみが採用される。 海外に居住する民間人の安全な帰国と占領後の国民の安全と生活を優先して考え、 職業軍人や政府関係者以外の徴兵・徴用された者で海外にいる人達を優先すべきと思うが そのような感覚は、「御前会議」には少ない。■日米開戦から終戦までの簡単な流れ□「日米開戦」後の「日独伊共同行動協定(1941年12月11日調印)」で 「単独不講和」と「戦後処理」に関して取り決めを行う。 勝手に、米英との講和を行うな、戦後(勝つ事が前提)は三国を中心に利益配分を行う。 ぐらいの意味。□戦後公表される「ヤルタ協定」は1945年2月11日に作成される。(一部密約) ドイツ戦終了後の日本へのソ連参戦の了承と、 日本の領土を樺太・千島などをソ連の物とする事を認める事の米英ソによる密約。□近衛上奏文が1945年2月14日に天皇に上奏される。 敗戦は必至。 国体護持は重要だが、敗戦後の共産革命が大きな問題。 速やかなる戦争終結。□沖縄本島への艦砲射撃が始まる(1945年3月28日)□鈴木貫太郎内閣の誕生(1945年4月7日) 東條英機内閣・小磯国昭内閣と続いた陸軍に於ける内閣は海軍に移る□ドイツ降伏に関しての政府声明(1945年5月9日)では 自存自衛のために戦い続けるとの声明。□御前会議(1945年6月8日)では、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定。 戦争の完遂して国体護持と領土の守り、征戦の目的の達成。□ポツダム宣言(1945年7月26日) 米国・英国・中華民国による三国宣言□御前会議(1945年8月9日・10日)、ポツダム宣言受諾に関して 国体護持(天皇大権に変更が無い)を条件に受諾と決定。□バーンズ回答(1945年8月11日:12日朝接受、13日朝接受とされる) 米国・英国・ソ連・中華民国の名に於ける回答 天皇と日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令長官の制限の下に置かれる 天皇は軍・官憲に戦闘中止と武器引渡しを命じる 日本国の政府形態は日本国民が決定する□御前会議(1945年8月14日)、バーンズ回答を踏まえた「ポツダム宣言」受諾決定□東久邇宮(稔彦王)内閣発足(1945年8月17日)■鈴木貫太郎内閣と国家の決定に関る主な人物 総理大臣:鈴木貫太郎(海軍大将) 外務大臣:東郷茂徳(外務官僚:4月9日~) 陸軍大臣:阿南惟幾(陸軍大将) 海軍大臣:米内光政(海軍大将) 参謀総長:梅津美治朗 軍令部総長:及川古志郎、豊田副武(5月29日~) 枢密院議長:平沼騏一郎(司法官僚) 内大臣:木戸幸一(侯爵) 阿南惟幾陸相の本心は、わからないが、 「戦争継続」は阿南惟幾、梅津美治朗、豊田副武 「反対」は東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎、(鈴木貫太郎)■鈴木貫太郎内閣の簡単年表1945.04.07:鈴木貫太郎内閣成立、鈴木は7年間侍従長、妻たかは天皇の乳幼児のころの保母1945.04.07:ソ連は日ソ中立条約破棄(1946年4月以降の継続拒否)を日本に通告1945.04.12:フランクリン・ルーズベルト大統領は脳溢血で急死。副大統領トルーマンが昇格1945.04.28:ファシスト党総帥ムソリーニは愛人と共にバルチンザン部隊に処刑される1945.05.01:ヒトラー総統・ゲッペルス宣伝相・軍幹部自決1945.05.07:ドイツ軍、無条件降伏文書に署名。1945.05.09:政府、ドイツ降伏後も戦争遂行すると声明1945.06.03:広田弘毅、マリク駐日ソ連大使と会談1945.06.08:御前会議、「国体を護持し、皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す」1945.06.22:沖縄陥落(主要戦闘の終了)1945.06.22:天皇は最高戦争会議の構成員に講和の意志を伝える。1945.06.22:義勇兵役法が公布、即日施行1945.07.13:佐藤(駐ソ)大使、モトロフ外相に近衛訪ソを申し入れる1945.07.16:アメリカはニューメキシコ州の試験場でプルトニウム原爆実験に成功1945.07.26:米・英・中の3首脳は、ポツダム宣言を発表1945.07.28:政府、ポツダム宣言を黙殺すると発表1945.08.06:広島に原爆(ウラニュウム型)投下1945.08.08:ソ連政府は中立条約を破棄し、対日宣戦布告1945.08.09:長崎に原爆(プルトニュウム型)投下1945.08.09:御前会議、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決定1945.08.14:御前会議、昭和天皇は終戦を決定、連合国回答を受諾する通告を行う1945.08.15:阿南陸軍大臣自刃1945.08.15:終戦のラジオ放送1945.08.16:大西軍令部次長自殺。1945.08.17:東久邇宮(稔彦王)内閣発足
2005.08.09
コメント(0)
今回は日米開戦前の石油問題をチェックする。 資源の少ない日本が、主要資源をストップされた状態で何故米国に戦いを挑んだか? 短期決戦(1・2年)で米国に勝利するとは考えていなかったから、 ドイツが欧州を征服してしまわないうちに、実績を作ることが必要だったと思う。□日本の必要とした主な資源は、 米・砂糖・綿・石油・石炭・鉄・錫・ゴム・ニッケル・ボーキサイト インドネシア(蘭印:蘭領東インド)とマレー半島(仏領・英領)は重要。 フィリピン(米領)は鉄鉱石が取れる。 1940.06.14:ドイツ軍パリに入城1940.06.19:日本はフランスに仏印経由の援蒋物資の禁絶を要求、 西原一策(陸軍少将)機関はハノイで橋頭堡を確保1940.06.22:ドイツとフランス休戦協定の調印1940.07.02:米国は日本への輸出(武器・工作機械・航空用ガソリン等)を許可制に。1940.07.05:前田一派検挙、 目標は米内首相・町田・牧野(伯爵)・原田(男爵)・一木・池田・岡田大将・ 湯浅(前内大臣)、木戸は為政者も反省要と言上1940.07.22:米内内閣->第2次近衞内閣1940.09.23:日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐1940.09.26:アメリカ政府、対日鋼・屑鉄輸出禁輸措置を決定1940.09.27:日独伊三国同盟調印、ベルリンで調印された3ヵ国の条約に基づく軍事同盟□蘭印との石油等の商談 1940年9月12日に商工大臣小林一三はジャワ・バタビアに到着 5年間にわたり年間315万トンの石油輸出を要求、不成立10月21日帰国 12月に元外相芳沢謙吉を派遣、1941年1月に芳沢謙吉は再度蘭印にて交渉した。 当時蘭印の石油は米国とオランダと英国の石油資本が大きな力を持っていた。□蘭印の会社別産油量 449万トン:BPM(英系:the merger of Royal Dutch and Shell Oil Companies) 214万トン:NKPM(米系:A subsidiary of Standard Oil Co.) 182万トン:NIAM(英蘭系:A venture between the BPM and Dutch Government) (数字は「杉山メモ(上)」p487の「第四表 蘭印重要物資地域別生産額(1939年)」) BPMも「英蘭系」と思うが「杉山メモ(上)」には「英系」と書かれている。□「臥薪嘗胆(米国と戦わない)」の場合は、石油の最低民需は年間180万トン、 他の本では、一時間400トンの消費との記述もある、年間350万トンが必要となる。(かなりいい加減な数字です、また 航空燃料・重油など種類により消費量が異なる為、原油量だけでは明確でない) 蘭印との取引は合意に達しなかった。 蘭印との交渉では、日本は可能な取引も確保せず交渉を打ち切ったとの論もある、 日本は蘭印が仏印同様、日本の半植民地となる事を望んだと思う。 蘭印は立場的に仏印に近いものがあるが、地理的な位置、石油・鉱物資源により異なる。 蘭印は仏印より強い立場にある。(オランダ政府はイギリスに逃げている)1941.06.22:独ソ開戦1941.07.01:ドイツ・イタリア・ルーマニアの3政府、汪兆銘政府を承認1941.07.02:御前会議、情勢の推移に伴う帝国国策要綱、 南仏印への進駐が決定、対英米戦を辞せず、独ソ戦は日本に有利となれば武力を行使する1941.07.02:関東軍特種演習1941.07.28:日本軍は南部仏印に進駐(「ハル回顧録」では7月21日に南部仏印占領)1941.07.28:日蘭石油民間協定停止1941.07.29:仏印共同防衛に関する日仏間議定書調印(8月1日公布)1941.08.01:米国ルーズベルト大統領、対日石油輸出を全面禁止〓勝手な感想〓 当時の日本の石油輸入は88%、アメリカからは80%。 アメリカの石油・石油製品の対日輸出は1940年5460万ドル、 1941年は毎月平均400万ドル、1939年は4528万ドル、 単価が変わっていなければ、1941年の3月まではそこそこ輸入できていた。○日本の歳出(「昭和ニュース事典」より) 1940年度一般会計歳出:約 59億、内軍事費:約28億、臨時軍事費:約 57億 1941年度一般会計歳出:約 81億、内軍事費:約41億、臨時軍事費:約 95億 1942年度一般会計歳出:約 83億、内軍事費:約27億、臨時軍事費:約188億 1943年度一般会計歳出:約126億、内軍事費:約44億、臨時軍事費:約298億 1944年度一般会計歳出:約199億、内軍事費:約72億、臨時軍事費:約735億 1940年度の一般会計の軍事費と臨時軍事費は中国戦線での使用金額が主ではなく、 備蓄の為の費用が多いものと思われる。 「杉山メモ」では、松岡外相が中国との戦いを縮小する事を述べるが、 陸海軍は貯蔵に大きく金を使っているため、戦線の縮小により経費削減とはならないと述べる 海軍:第一線の消耗は一年6000万程度、他は全部貯蔵 陸軍:消耗は17・18億で他は全部貯蔵 (1941年2月3日の連絡懇談会より) 1940年度の総軍事費が約85億、使用しているのが約18億、67億が貯蓄費用となる 海軍は臨時軍事費を必要も無いのに請求し、貯蔵している事となる。 貯蔵は石油・鉄・ボーキサイト等かもしれないので、なんとも言えない。 海軍の貯蓄は南進と英米戦の準備が主目的と思える。 海軍は、準備はしたが米国に勝てないとは言えなかったのだろう。 海軍が米国には勝てない、米国と戦争をしたくないと言えば、日米の戦争はなかったと思う 「1年半ぐらいはもつ」を意味する海軍の発言もあり、 その間にドイツが勝ってくれて、敵は米国・中国となり、ドイツがどうにかしてくれると 思っていたのかもしれない。○日本の原油需要(陸海軍石油委員会の提出資料より米国調査団がまとめたもの) 1940年度:輸入2505万bbl・国内生産206万bbl 1941年度:輸入 313万bbl・国内生産194万bbl 1942年度:輸入 815万bbl・国内生産169万bbl 1943年度:輸入 985万bbl・国内生産179万bbl 1944年度:輸入 164万bbl・国内生産159万bbl注)1(bbl:米バレル)=158.991(l:リットル)、原油の比重は約0.85 1940年度:輸入2505万bblは約338.5万トン 上記の数字から、1941年4月からは、米国等の石油の制限が始まる、 ABCD包囲網による経済制裁は、石油に関して大きなダメージを日本に与えている。 8月の米国の「対日石油全面禁輸」が大きな意味を持つと思える。 日本の石油生産量は30万トン以下(人造石油がどの程度作られたか知らない) 「魔性の歴史/森本忠夫」によると、日本の石油備蓄量は1939年が頂点で開戦前日には 4300万(bbl)、戦闘や大規模な移動がなければ、2年弱もつ 日米戦争が始まり(1941年12月)、南方の石油資源を確保して、 石油の輸入に若干の伸びを示す、この時点で既に海上輸送が正常に行われていない。 (軍艦等は現地で製油して現地で給油していたのかは、未調査) 米国の潜水艦などが日本の海上輸送船を沈没させたようだ。 1944年になると、海上輸送が殆ど困難となっているのがわかる。 制海権がないと日本には原料が入ってこない、石油がないと日本は戦え(動け)ない。 日米交渉中(1941年)に、ドイツのソ連侵攻(6月22日)によりソ連は連合国側へ。 一月後の日本の南部仏印進駐に対する、米国の反応の 「対日石油輸出全面禁止」は米国の戦争を辞さない意思表示と思う、 日本は枢軸側に留まるか、連合国側につくか、米国とドイツでは提示条件が違いすぎる。
2005.08.06
コメント(4)
「証言記録を独占入手 NHK番組改変問題」の記事は「月刊現代」2005年9月号。 内容は、 2005年7月25日の朝日新聞朝刊「NHK番組改変問題」での 中川昭一・安倍晋三・松尾武(元NHK放送総局長)へのインタビュー の詳細版を記載している。 asahi.comのHPで確認したが、07月30日01時53分に、 「社内資料の一部が流出した疑いがある」として社内で調査、となっている。 また、「本紙7月25日付朝刊の報告記事に掲載された一問一答とかなり似ている」 との表現を使っている、今後の対応を注目したい。 流出とすると「朝日新聞」と「月刊現代」に倫理的に問題となる存在の可能性がある。 「月刊現代」の記事を見れば、流出かどうかは解るはず。 朝日新聞は流出の有無を明確にし、流出の場合は社内の該当者を処分し、 そうでない場合は「月刊現代」の記事は、捏造記事である事を表明し、 「月刊現代」に謝罪・訂正を求めるべきと思う。 流出は情報提供者の機密保持ができていない事で、とんでもない事と認識する。 もし、上記の行動をとらない場合は、 「月刊現代」の記事内容は朝日新聞の意思であり記事内容に同意していると推察する。 朝日新聞は、リスクを少なくして記事として公開したかった為となる。【松尾武(元NHK放送総局長)氏へのインタビュー】 問題となっていたのは、 「2時間のインタビューを記憶だけでは不可能、無断録音テープが存在するか」 「政治家(安倍・中川氏)の圧力がどの程度だったのか」 もう一つ「改正だったのか、改悪だったのか」が必要だが、見ていないので論評できない。 以下は、「月刊現代」の記事の概要(初めの部分)と私のコメント■「無断録音テープ」の有無 「月刊現代」記事では、「無断録音テープ」の有無については言及していない。 記事は約11ページなので、「無断録音テープ」の存在の可能性は高い。 にも拘らず、完全版ではなく、内容がカットされているように感じる。■質問者と質問の主旨 「月刊現代」の記事では、質問者は朝日新聞の本田雅和記者だけで、 高田記者はメモを取っていたようだ。(途中でメモはストップ、廃棄したかは不明) 本田氏がNHK内部告発者の長井暁氏から経緯を詳しく取材したうえでとの事 (この辺り、「月刊現代」側が本田記者から直接聞いたのか、推測かは明確ではない) 本田氏は、2001年の放映(1月30日)の一日前29日の政治介入について、 「NHKの現場からの取材と自民党の関係者からの取材」が一致したので、 中枢に居た松尾氏に本当の事を聞きたいと言う。 「自民党の関係者からの取材が一致」に対して松尾氏は「何が一致したのか」と問うが、 「月刊現代」での本田氏の回答は「二十九日の・・・・・・。」で、書かれていない。 「二十九日の・・・・・・。」に対して松尾氏は「僕は肯定も否定もしない」となる。 「自民党の関係者」が中川・安倍氏の事なのか、他の人物かが明確であればと思う。■本田氏による29日夕方から30日(放送日)夜にかけての説明に関して 松尾氏は政治家の圧力の存在は否定しないが、NHK側は圧力に屈したのではないと主張。 「朝日・読売でも政治家への説明は昔から存在する」の松尾氏の発言に 本田氏は「電波ではそういうことが日常的にあるのはわかる」と自分達は違うとの発言 「テレビ朝日」は同様の事があるとの発言となる。 松尾氏は中川・安倍氏の放送への介入に関しては否定も肯定もしない、 「放送中止を求められた」に関しては覚えていないと答える。 本田氏の質問に松尾氏は否定はしないが暗に肯定しているように思えるが、肯定ではない。 このあたり、本田記者は何度も尋ね、松尾氏の表現は毎回微妙に異なる、 「察してくれよ」という感じ。■実名を使わない・メモを取らない 本田氏が急に「実名を使わない・メモをしない」と言い出す。 多分、松尾氏からの要請がその前にあると思えるが、カットされている。 松尾氏のメモ拒否は、後日に「あった、ないの議論はしたくない」為。 メモを拒否したのだから、メモを処分したと思うがどうだろうか、 「あった、ないの議論はしたくない」は記事にする事の拒否と思う、 また、「月刊現代」の記事によると本田記者は、 「自分の談話としてこれなら書いていいよときちっと区分けして言って下さればありがたい」 と述べている。 朝日新聞は記事にして、松尾氏は朝日新聞の記事を否定する。修正:表現の修正と名字の間違いを修正
2005.08.01
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1