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1939年9月1日にドイツはポーランドへ侵攻する、 独ソ不可侵条約により合意していた、東欧の独ソの分割占領が始まる。 ポーランドへの侵攻に対して、英・仏はドイツに宣戦布告をするが、積極的な参戦はしない。 8ヵ月後の1940年5月10日、西欧へのドイツ軍の攻撃にフランス・イギリス軍は敗退。 イギリス軍とフランス軍の一部はダンケルクから脱出。 その後フランスのヴィシー政権はドイツ軍に降伏。 ドイツは欧州本土を勢力圏に納め抵抗勢力は英国のみとなる。 英国はドーバー海峡を挟んで、ドイツとの戦いを継続する。 イタリアは6月10日に英仏に宣戦布告し、南からフランスに侵攻。 ドイツ軍の英国への侵攻が行われると思われたが、ドーバー海峡の制空権を奪えず延期。 米国は中立法改正と武器貸与法により、欧州での独伊(ソ)vs英仏の戦いに参加(英国援助)。 枢軸国側は元々は防共協定の延長線であった三国同盟を、 対米とソ連との戦争不可と各エリアに於ける指導的地位の認証として締結。 戦闘状態にある英国をそのままにドイツは再び西欧へ、そしてソ連に侵攻する。□簡単年表1939.09.01:ドイツ軍はポーランド侵攻、その後ソ連と分割占領1940.05.10:ドイツ軍は西部戦線に攻撃開始1940.05.27:ダンケルクから英国軍は撤退、英国軍は欧州本土の足場を失う1940.06.22:独仏休戦条約が締結される1940.07.22:米内内閣->第2次近衞内閣1940.09.23:日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐1940.09.26:アメリカ政府、対日鋼・屑鉄輸出禁輸措置を決定1940.09.27:日独伊三国同盟調印、ベルリンで調印された3ヵ国の条約に基づく軍事同盟1940.10.12:「大政翼賛会」結成(政党ではなく、軍人・官史も参加可能)1940.11.05:ルーズベルト大統領3選される1941.03.08:日米政府間交渉開始(野村吉三郎大使とハル国務長官)1941.03.11:武器貸与法成立、連合国への軍事援助に関するアメリカ合衆国の法律1941.04.28:日ソ中立条約の公布(調印は4月13日)1941.06.22:独ソ開戦■ソ連とドイツ(主に「第2次世界大戦 欧州戦線/毎日新聞社」による) 独ソ開戦は1941年6月22日、独ソ不可侵条約は2年間もたなかった。 ドイツのポーランド侵攻からは2年弱、フランス侵攻からは1年強の月日が経過している。 【1940年】 7月22日にソ連はバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の正式併合を決定 8月にはドーバー海峡を挟んだドイツと英国の長距離砲・航空機による戦闘が始まる。 イギリス軍はベルリンを爆撃し、ドイツ軍はロンドンを爆撃する。 9月13日にイタリア軍はエジプトへ侵攻、12月に撤退。 9月17日、ヒトラーは空の優位を確立できない為、イギリス本土侵攻を延期した。 10月7日、ドイツ軍はルーマニアに侵攻 10月12日、ルーズベルト大統領は日独伊三国同盟(9月27日調印)に対抗し、 英・中への援助継続を宣言 10月28日にイタリア軍はギリシャへ侵攻、29日に英国軍がクレタ島に上陸 11月12日にモロトフ(ソ連外相)はベルリンへ、リッベントロープ(ドイツ外相)は ソ連の三国条約参加を勧める。 ヒトラーの説明でも納得しないモロトフ。 モロトフは述べる、具体案がない・大東亜共栄権の範囲は何か。 (モロトフのドイツ滞在中もイギリス空軍による襲来がある。) ソ連からの条件付三国同盟加盟の返答があるが、ヒトラーは興味を示さなかった。 主としてソ連侵攻のバルバロッサと呼ばれる作戦が改訂され、 総統指令代21号が発令される。(1940年12月18日) 対ソ連戦の準備が進められる。 【1941年】 2月6日、ドイツのロンメル将軍はリビアに上陸 2月11日、ルーズベルト大統領は、日米戦が始まっても英国への援助は変わらないと言明。 3月2日にドイツ軍はルーマニアからブルガリアに進駐 3月25日にユーゴスラビアは三国同盟に加入したが、軍部のクーデターにより中立を宣言し、 三国同盟を取り消し、ソ連との不可侵条約を結ぶ(4月5日) 4月6日にドイツ軍はギリシャ・ユーゴスラビアに侵攻、 (ギリシャの北・中部はドイツに4月21日降伏、4月23日イタリアに降伏)、 (ユーゴスラビアはドイツに4月17日降伏、5月9日にソ連はユーゴスラビアとの国交断絶) 4月13日にドイツ・イタリアはエジプトに侵攻 5月27日、ドイツ潜水艦が米貨物船を撃沈、ルーズベルト大統領は国家非常事態を宣言 6月14日、ルーズベルト大統領はドイツ・イタリアの在米資産を凍結を命令 (ドイツ領事館の閉鎖命令<6月16日>、イタリア領事館の閉鎖命令<6月20日>)〓勝手な感想〓 イタリアがエジプト・ギリシャに侵攻するが、結局ドイツの助けが必要。 ソ連とドイツの間には、 ポーランド・スロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ユーゴスラビア・ブルガリア等がある (近くの国としてはバルト三国・アルバニア・ギリシャ) 1940年に三国同盟に加盟した国、 ハンガリー(11月20)・ルーマニア(11月23日)・スロバキア(11月24日) 1941年に三国同盟に加盟した国、 ブルガリア(3月1日)、クロアチア(6月15日) 東欧との三国同盟はうまく行っていない。 4月3日にハンガリーのテレキ首相はドイツが強要する対ユーゴスラビア参戦に抗議し自殺。 三国同盟を取り消し、ソ連との不可侵条約を結んだユーゴスラビアはドイツの侵攻を受ける。 ポーランドは独ソにより分割占領されており、 ユーゴスラビアは、 三国同盟を取り消し、ソ連との不可侵条約を結び、ドイツに侵攻された(4月6日) 日本から松岡外相が独・伊・ソを訪れ、日ソ中立条約を結び(4月13日)帰国する。 本来、三国条約をソ連を加えた四国条約への推進派のリッベントロープ(ドイツ外相)が、 日ソ中立条約に乗り気でない、大島駐独大使は独ソ開戦を松岡外相に伝える。 「昭和天皇独白録」の日米交渉の項で、 「松岡は日米交渉を挫折させた上に更にソ連との中立条約で独逸をも憤慨させた」 と述べているのは興味深い。 ドイツは日ソ中立条約を望まなかった。 独ソ開戦が近い・開戦には日ソ中立条約が邪魔、独ソ開戦時に日独による挟撃が可能。 を、昭和天皇は述べているのか。 独ソ開戦後、松岡外相が日ソ中立条約を破り、イルクーツクまで兵を進めるを天皇に勧める、 天皇は却下し近衛首相に松岡の単独罷免を告げる。 西欧州本土を勢力下にしたが、ドイツは英国上陸は断念、東欧に進む。 イタリアがギリシャ・エジプトを押さえて、ユーゴスラビアが三国同盟に入っていれば、 ドイツ軍がバルカン半島に進まなくてもよかったかもしれない、 バルバロッサ作戦の発動が遅れてしまった。 ドイツ軍がソ連に侵攻する情報は多々あった、ソ連はドイツ戦に対して準備不足 スターリンはドイツ戦が始まるのを信じたくなかったのか。 スターリンは欧州での毛皮が高騰しないのは、ドイツが冬の戦いを備えをしていないと判断、 情報としてどの程度の重みがあったのかは解らないが、ヒトラーは冬までに終わる予定。■ドイツ軍のソ連侵攻後 チャーチルはソ連を同盟国と表明し援助方針を述べ、7月12日には英ソ相互援助協定調印 ルーズベルト大統領は6月24日にソ連への援助を約束 米軍アイスランドに進駐(7月7日) 米国のソ連への経済援助を規定(8月2日) 大西洋憲章を発表(8月14日)■バルバロッサ作戦(「独ソ戦史 バルバロッサ作戦(上)」p378より) 総統兼国防軍最高司令官 統合大本営1940年12月18日 OKW/WFSt/Abt.L(I)Nr.33 408/40g.K.Chefs 総統指令第21号 <バルバロッサ作戦> ドイツ国防軍は、対英戦終了以前にも、ソ連邦を電撃戦により打倒する準備を進めるべし。 (バルバロッサ作戦) 最高指導部は、次の原則に基づいて準備するものとする。1.全般構想 ロシア西部のソ連軍を、装甲兵力の大胆なる使用により殲滅し、戦闘力を有する敵軍が奥地へ後退するのを阻止すべし。 しかる後、急追によりソ連空軍がわが領土の攻撃を不可能ならしむる線に到達する。 作戦の最終目的は、ヴォルガ=アルハンゲリスクの線でロシアのアジア部を分離することにある。 それにより、必用とあらばウラル周辺のソ連最後の工業地帯を空軍によって無力化できる。2.予定される同盟国とその任務(-省略-)3.作戦指導A.陸軍(余に提出された計画を承諾した上で) プリピャチ沼沢地によって南北に二分される作戦地域において、北半分に作戦重点をおくものとす。 ここには2個軍集団を充当の予定。 この2個軍集団の南側の軍集団は全戦線のほぼ中央部に位置し、特別に強力な装甲・機械化部隊をもってワルシャワ周辺およびその北部より進撃、白ロシアの敵兵力を撃滅すべし。 これにより快速部隊の大半を北方に転じ、東プロイセンによりレニングラード方面へ作戦する北方軍集団と協力させ、バルト地域の敵兵力を壊滅させる前提を作為するものとす。 この任務を達成し、レニングラード、クロンシュタットを占領した後に、交戦の要衝にして軍事的中心たるモスクワ占領作戦に移行すべし。 ソ連軍の抵抗が予想以上に弱く、壊滅した場合にのみ、両目標の同時攻撃を行うものとする。 プリピャチ沼沢地南方に配置された軍集団は、ルブリンよりキエフにいたる地域に主攻撃を指向し、強力な装甲兵力をもって敵軍側面と背面を衝き、ドニエブル流域にて撃滅すべし。 プリピャチ沼沢地南方もしくは、北方の戦闘に勝利を収めた後の、戦果拡張の目標は左のごとし。 南部では経済的に重要なドネツ盆地の速やかなる占領。 北部ではモスクワへの進撃。 モスクワ占領は政治的、経済的に決定的効果をもたらすほか、鉄道網を麻痺させる結果を生む。 アドルフ・ヒトラー
2005.10.30
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北朝鮮は、今、子供たちが食料不足で大変らしいんですよ。 でも、いろんな問題があって、日本も十分には支援できないじゃないですか。 日本側からしてみれば、拉致とかされた相手に支援したくないだろうし。 だけど、子供は悪くないんだから、国同士の問題とは関係なく支援すべき。 国交正常化と、北朝鮮の子供たちが苦しんでるのは別問題です。 上記は、沢尻エリカさんが、sabra(2002年12/26号:No022)で述べた内容。 「日朝平壌宣言」は2002年9月17日。 沢尻エリカさんは1986年4月8日生まれなので、当時16歳で高校一年生。 現在は「1リットルの涙」を主演(全く見ていない、テレビドラマは苦手) 兵糧攻めはきついと思う今日この頃、 「子供は悪くないんだから、国同士の問題とは関係なく支援すべき」 と言われると、反論はあるが後味が悪い。★下の画像は購入サイトの「DVD:沢尻エリカ/COLOR」宣伝画像です。 (問題であれば消します)□関連年表(2002年北朝鮮関連)10.15:5名帰国:地村保志さん、浜本富貴恵さん、蓮池薫さん、奥土祐木子さん、曽我ひとみさん10.16:アーミテージ米国務副長官は、「北朝鮮が核開発を進めていることを認めた。」事を公表10.24:蓮池薫さん「戻る気ない、子供迎えて」、政府方針決定前に中山参与に伝える10.24:日本政府「5人戻さず」を決定10.29日朝国交正常化交渉、第12回本会談 2002年10月29~30日(於 クアラルンプール)11.14:アメリカはKEDOを通じての北朝鮮への重油供給を12月以降凍結。11.15:「週刊金曜日」は曽我ひとみさんの夫ジェンキンス氏一家の取材を15日に販売。12.02:北朝鮮、IAEA決議受け入れ拒否
2005.10.22
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第二次世界大戦前夜、 東欧のポーランド・ルーマニア・フィンランド・バルト三国が問題とするのは、 ソ連と・ドイツに挟まれ、両方から狙われている事。 ソ連はドイツと不可侵条約を結び、ドイツとソ連は東欧の分捕りを行う。 英仏はドイツには宣戦布告をしたがポーランドを助けることは出来なかった(しなかった)。 北欧はドイツに協力的なスウェーデン以外は、ドイツに占領される。 ドイツは西欧へ向かい、オランダ・ベルギー・フランスはドイツの影響下となる。 残るは英国。 欧州本土から締め出されても英国はドイツとの戦いを止める気はない。 英国のドイツとの戦いは、ポーランド・北欧・フランス国境、 ドイツ軍が西へ向かってからは、英首相はチャーチル、ドーバー海峡を挟んでドイツ軍と対峙。 もし、英国がドイツに占領されれば、大西洋の制海権をドイツは米国と争う事となる。 (日本側の発言では、ドイツ海軍は大した事はない、Uボートはどうなのだろうか) ドイツは制空権を奪えず、ドイツ軍の英国への上陸作戦は延期となった。■ドイツのポーランド侵攻と英仏のドイツへの宣戦布告 ドイツはオーストリア・ズデーテン・チェコスロバキアと勢力範囲を広げ、 ドイツは独ソ不可侵条約を締結後、ポーランドへ侵攻。 ソ連は日本とのノモンハン事件の休戦協定締結後、ポーランドへ侵攻。 ポーランドはドイツとソ連により分割占領された。1939.08.23:独ソ不可侵条約締結1939.09.01:ドイツ軍はポーランド領内に侵攻1939.09.03:イギリスはドイツに宣戦布告(フランスも追随)1939.09.15:ソ連は日本との休戦協定締結(ノモンハン事件)1939.09.17:ソ連軍はポーランド領内に侵攻1939.10.05:ポーランド軍降伏->ドイツ・ソ連による東西分割占領□ドイツのポーランド侵攻○ドイツは1934年にポーランドと10年間の不可侵条約を結んだ。 チェコスロバキアの分割にドイツはポーランドを招待した。 ポーランドはテッシェン地方を獲得。○1939年3月31日にチェンバレン英首相は、ポーランドの独立が脅かされる場合、 英国政府はポーランド政府は支持、フランスも参加すると下院で述べた。○ヒトラーはドイツの生存権に関する問題に口を出す権利を英国は持たない、 英国人は祖国の為に立ち上がったパレスチナのアラブ人を打ち倒す権利があるのかと述べる。○英国・ポーランドの相互援助協定(4月6日調印)では、 チェンバレン英首相は両国とソ連を含めた、反ヒトラー戦線を提案、 ポーランド側はソ連参加を拒否。○鋼鉄条約が5月22日ドイツとイタリア間で調印された。(戦争突入に於ける相互軍事援助)○独ソ不可侵条約が8月23日にモスクワで調印された。 スターリンは英仏ではなく、ドイツと共にポーランドの分割統治・東欧の分割を選んだ。 8月26日(25?)に予定された、ドイツのポーランド侵攻 8月25日に英国とポーランドは相互援助条約が調印される。 イタリアはドイツのポーランド侵攻に同調する事を拒否、ポーランド侵攻は延期される。 8月31日にソ連は「独ソ不可侵条約」に批准○ドイツ軍はポーランドに侵攻 ソ連は9月17日に参戦した。□英仏のドイツへの宣戦布告 ポーランドはドイツとソ連に挟まれた国、当時のドイツ・ソ連に対する態度は、 「我々はドイツ人に従えば自由を失い、ロシア人に従えば魂を失う危険を冒すことになる」 (「第二次世界大戦1/チャーチル」より) 1939.09.03:英仏はドイツへ宣戦布告 1939.09.05:米国は欧州の戦いに対して中立を宣言 1939.11.30:ソ連はフィンランドに侵攻 1940.04.09:ドイツはデンマークとノルウェーの占領を強行 1940.05.10:ドイツは西欧に侵攻(オランダ・ベルギーに始まり6月14日パリへ) 1940.06.10:イタリアは英仏に宣戦布告 1940.08.03:ソ連はバルト三国を併合 1940.10.28:イタリアはギリシアへ侵攻 ドイツ軍の西欧への侵攻後に独英仏の本格的な戦争が始まる。 ドイツ軍の勝利の拡大により、イタリアは参戦し、日本は南進し、三国同盟が結ばれる。 ドイツとフランスの休戦協定の調印は6月22日、残るのは英国だけの状態となった。■米国と欧州□「中立法」 1935年:交戦国に対する武器の輸出を禁じた中立法を制定。 1936年:交戦国に対する貸付けの禁止を追加,スペイン内乱の翌年に内乱にも適用とする。 1937年:「現金自国船輸送」方式を導入,交戦諸国は米国港で現金決済・自国の船舶で輸送。 1939年:第2次世界大戦の勃発で,武器禁輸条項を除去,連合国側に軍需物資を供給可能に。□「ニューヨーク・タイムズ」による中立声明書と中立法改正記事の概要(1939.11.5) 交戦国への武器、弾薬、資・機材の売却禁止 (交戦国はドイツの事と思われる、英国には売却可能になった) 米国の国籍を持つ者と船舶の戦闘地域立ち入り禁止(大統領が特別に許可した場合を除く) 修正中立法では英・仏・独などの交戦状態の国に対しアメリカ船舶が荷物を運ぶのを禁止 戦闘区域に関する声明書ではベルギー・オランダなどの中立国との通商を禁止 ソ連・フィンランドには大西洋経由は許可、ソ連には黒海への船舶出入りも許可 貨物輸送許可地域: イタリア・スペイン・ポルトガル・ユーゴスラビア・トルコ・ルーマニア・ブルガリア、 ノルウェーのベルゲン北部 戦闘地域の設定の概要: ノルウェーからベルギー南部、バルト海からイギリス、アイルランド、イギリス海峡 地中海は除外 潜水艦に関する声明: 交戦国の潜水艦によるによる米国内の港湾・領海内の航行の禁止 民間人を爆撃している国家への航空機売却の輸出禁止措置は有効(日本に適用)□1940年6月~7月:米国はイギリスに武器を供与 50万梃(一梃に250発の弾丸が付く)、75mm野砲と砲弾百万発、機関銃八万梃など (「第二次世界大戦1/チャーチル」p103より)□1940年11月:ルーズベルト大統領は三期目の当選、「民主主義の兵器廠」を目指す。□大統領が再選された3日後、英国は発注してあった1万1千機に1万2千機を追加発注 11月までに英国は米国に現金で45億ドル支払い、20億ドルが残っていた。 英国のドルを増やす方法は、南アフリカの金の産出と対米輸出品(ウイスキー・毛織物など) (「第二次世界大戦2/チャーチル」p235より)□1941年3月:「武器貸与法」が制定、英国・中国(6月)・ソ連(11月)に適用される。〓勝手な感想〓 欧州本土がドイツに席巻され、英国は欧州本土から締め出され、米国が登場する。 ドイツとしては植民地と英国を分断できれば良いのだが、 ソ連・米国がいるし、イタリアは頼りないし、日本も協力的でないし。 ドイツも大変だと思える。 1941年10月8日には、 ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所が設立される ドイツのバルバロッサ作戦により、状況が変わる。
2005.10.20
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〓勝手な意見〓 今回の小泉首相の靖国参拝は、 小泉純一郎個人が参拝したいから靖国に行くのであり、日本国首相が靖国に行くのとは異なる。 (公用車は使っているし・日本国の首相だけれど) 大阪高裁の違憲判断(9月30日)に照らして、違憲となるかは私には判断できないが、 配慮と言う意味では、今回の首相参拝は大阪高裁の違憲判断・中国・韓国に配慮している。 中国・韓国が「A級戦犯が合祀されている靖国神社に、日本の首相が参拝する事」 を、問題としているについては、靖国参拝問題に於いて分祀が一つの解決方法と思われるが、 靖国神社が分祀などできないと言う以上、強制するわけにもいかない。 内外からの問題が少ない、首相の靖国公式参拝ができる方法はないのだろうか。 今回の、小泉首相の靖国参拝方法は、首相の公式参拝から見ると後退してしまった。 また、小泉首相なりに譲歩したと思えるのに、中国は何の評価もしていない。 王毅中国大使は、今回の小泉首相の靖国参拝に対して、 「小泉首相は中日関係を壊すという歴史的責任を負わなければならない」 と述べたが、 今年の4月、北京の日本大使館が反日デモ隊に囲まれ投石を受けたが、 中国当局は投石を制止しなかった。 また、日本政府の抗議に対し、中国外務省は非を認めなかった。 を、中国政府は思い出して欲しい。 以下は、自分なりの今回の小泉参拝のまとめです。■王毅駐日大使の17日の談話 読売新聞(読売新聞HPより)では 「中国政府は小泉首相がいつ、いかなる形であれ A級戦犯がまつられた靖国神社に参拝することに断固として反対する」 毎日新聞(/YahooのHPより)では 「中国政府は小泉首相のいかなる時期、形式での靖国参拝にも断固反対する」 と伝えている。 読売新聞の「A級戦犯がまつられた靖国神社」が正しい前提で考えた。■問題点□中華人民共和国と大韓民国が問題としているのは、 「A級戦犯が合祀されている靖国神社に、日本の首相が参拝する事」□国内で問題となるのは、「首相参拝が憲法違反かどうか」、と中国・韓国と関係悪化 今回で小泉首相靖国参拝は5回目■Yahooに掲載された、読売新聞(10月17日12時53分更新)による、事実確認□今回の参拝 服装:グレーのスーツ 移動手段:公用車 拝礼:拝殿の前で一礼後、さい銭箱にお金を入れ、30秒間ほど手を合わせた後、再び一礼 献花:献花料や玉ぐし料は出さなかった 参拝日:10月17日の秋季例大祭中□過去4回の参拝 服装:モーニングか羽織はかま姿 移動手段:公用車 拝礼:本殿に昇って祭壇に一礼、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳 献花:私費で献花料を納める 参拝日:01年は8月13日、02年は4月21日、03年は1月14日、04年は1月1日□高裁での判断 大阪高裁(9月30日):「職務行為で、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と違憲と判断 東京高裁(9月29日):「私的行為」として憲法判断をしなかった■2005年9月30日の大阪高裁判決による小泉首相の違憲性 以下、朝日新聞のHPでの記事 「首相の靖国参拝は違憲」大阪高裁判決、賠償は認めず(2005年09月30日13時20分) をベースにした。 訴訟の対象になったのは、小泉首相の昨年までの4回の参拝のうち、 01年8月13日、02年4月21日、03年1月14日に行ったもの。 (04年1月1日の参拝が対象外は訴訟時期の問題?)□参拝が首相の職務にあたる 公用車を使用し首相秘書官を伴っていた 公約の実行としてなされた 小泉首相が私的参拝と明言せず、公的立場を否定していなかった 「内閣総理大臣の職務と認めるのが相当」と判断□参拝実施の意図が強固 3度にわたって参拝、 1年に1度の参拝をする意志を表明 「国と靖国神社の間にのみ意識的に特別にかかわり合いを持ち、 一般人に国が靖国神社を特別に支援している印象を与えた」と判断□参拝の効果 「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、 我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」として、 憲法20条3項の禁止する宗教的活動にあたると結論づけた。□判決 首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、 その祭祀に賛同するよう求めたりしたとは認められない。 原告らの権利や利益は侵害されていないと判断。 「損害賠償請求は一審に続いて退けた。」□日本国憲法 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
2005.10.17
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日米開戦は1941年12月8日、ヒトラーは11日国会を召集し米国との開戦を発表した。 米国では、日独伊それぞれに対する開戦が決定される。 「外交(上)/キッシンジャー」p531によると、 1940年5月まで、 アメリカ人の64%は平和の維持はナチスの敗北より重要だと考えていた。 8ヵ月後の1941年12月、真珠湾攻撃の直前、比率は逆転した。 ナチスの勝利を妨げることより平和を望むのはたった32%になっていた。注)上記の「1940年5月まで」(原文)は「1941年5月まで」の間違い。(たぶん)注)キッシンジャーはユダヤ人で1938年にドイツから米国へ、ナチスとの戦いの賛成論者 「ナチスとの戦いを望む」を選択しているパーセントが明確ではないのが問題だが、 米国の世論が「ナチスとの戦いを望む」方向に動いているのは確か。 しかし当初は、 第一次世界大戦の教訓により、米国が欧州(英仏)の為に何もしてやる必要はない。 ソ連に援助する必要はない。 ドイツとソ連は永遠に戦っていればいいのだ。 など、 米国の為に血を流すのはいいが、他国の為に血を流す必要はない。 が、主流な考えだったと思える。 キッシンジャーによると、 「アメリカの参戦は、 偉大で勇気のある指導者の並たいていでない外交努力が達成した大きな成果だった。」 となる。■資料による米国の参戦への道(提示する文は概要を私の判断でまとめたもの)□「ニューヨーク・タイムズ」より (『ニューヨーク・タイムズ』が見た第二次世界大戦(上)より) 下記の記述は部分的な概要で記述内容に修正が入っています、 原文及び詳細は「『ニューヨーク・タイムズ』が見た第二次世界大戦(上)」で確認ください注)「☆」で始まる文はニューヨーク・タイムズの記事ではない。 日付はニューヨーク・タイムズの発効日○1939年11月28日:プリンストン大学一年生による人気投票 「現在存命中の、もっとも偉大な人物」 1.アドルフ・ヒトラー 2.アルベルト・アインシュタイン 3.ネヴィル・チェンバレン英首相 4.マハトマ・ガンジー 5.ルーズベルト大統領 「大統領が三期目を継続するか」 賛成60、反対368、大半は出馬するも再選にはならない。 外国との戦争が起きると答えたプリンストンの一年生は120人、 413人が侵略から祖国を守ると答えた。☆1939年8月22日:アインシュタインは大統領に警告書を送る 大統領に届いたのは、10月11日 原子爆弾の可能性と、 ドイツの占領下のチェコスロバキアの鉱山からのウラニウムの販売を実際に停止している。 などを述べる。○1939年9月3日:英仏が参戦、ヒトラーはポーランドへの攻撃を継続〓疑問〓 前出、1939年11月28日掲載の「プリンストン大学一年生による人気投票」が、 ドイツのポーランドへの侵攻が明確になった時点で行なわれたかは不明。 侵攻後なら、「プリンストン大学一年生」は侵攻をある程度肯定的に見ていた事になる。○1939年11月5日:米国の欧州への対応 交戦国への武器、弾薬、資・機材の売却を禁止 戦闘地域への立ち入り禁止(大統領が特別に許可した場合を除く) 修正中立法では、交戦状態にある国々(イギリス・フランス・ドイツなど)へ、 アメリカ船舶が荷物を運ぶ事を禁止。 中立声明書からは、慣例の武器の全面的輸出禁止に間する声明が無効となり、 特定品目の輸出が禁止された。 フィッシュ議員は、大統領が戦争を回避しようと誠意をもって行動しているとは思えない。 と述べる。○1940年6月15日:6月14日ドイツ軍のパリ入場○1940年9月28日:9月27日ベルリンにて、日独伊三国同盟の署名 全文と6か条からなる。 大東亜共栄権についての情報が錯綜、 インドの東側全域なら、仏印・蘭印・米領フィリピンとイギリス領のいくつかが入る。☆1940年12月:ルーズベルト大統領の「炉辺談話」、 主に英国への武器供与を増やす事について。○1941年1月11日:「武器貸与法」が議会に提出(10日)された。☆「武器貸与法」に対する反論、「兵隊は棺に入って帰還する」/ウィーラー民主党議員 第一次世界大戦は価値のあるものだったのか、大統領はイギリスは借りを返すと言った。 イギリスより第一次世界大戦の戦時負債を返してもらおう。○1941年4月24日:リンドバーグのアメリカ第一委員会大集会での発言 イギリス政府には最後のあがきとも言える筋書きが残っている。 アメリカ海外派遣部隊をヨーロッパに再派遣してもらい、 この大失敗と言える戦争を軍事的にも経済的にもイギリス軍とともに分かち合いたいと、 考えている。☆1941年4月23日:リンドバーグ孤立主義者の集会で予言 「このイギリスの為の戦争には勝てない」○1941年6月22日:バルバロッサ作戦 おおかたの予想通り、本日夜明けと共にドイツ軍はソ連に攻撃を開始した。 ○1941年7月27日:アメリカの対日禁輸 石油の100%の対日禁輸が制度化すれば「戦争もあり得る」との大統領の発言にかんがみ、 完全な禁輸は考えにくい。 インドシナ諸島から日本への石油の販売が大幅に禁止されれば、日本の海軍はただちに 資源豊かなインドシナ半島を占領しようとすると思われるので、対日禁輸はないだろう。○1941年8月17日:英米首脳洋上会談(大西洋憲章) 米国の即時参戦に関して大統領は否定的。(大統領は正式発表としては使わない事を希望)○1941年11月1日:ルーベン・ジェイムズ襲撃される 10月30日夜駆逐艦ルーベン・ジェイムズは護衛任務でアイスランド西を航海中 魚雷攻撃(Uボートによる)によって沈没。 ルーズベルト大統領は記者会見で、 この沈没でアメリカの国際的立場は何ら変わるものではないと述べて、慎重さを示した。☆1941年11月8日、ヒトラーのミュンヘンでの演説 (「アドルフ・ヒトラー3/ジョン・トーランド」p453) 「ローズヴェルト大統領はアメリカ船舶にドイツ船舶を見つけしだい砲撃することを命じた!」 「わたしはドイツの船にアメリカ船舶を発見しただけで砲撃してはならない、 攻撃されたら即座に自衛するようにと命じた。 わたしは自衛手段をとらなかったドイツ海軍将校を軍法会議にかけるつもりはない。」○1941年12月8日:日本は米英と開戦、ハワイ奇襲攻撃に出る 英国は米国が日本と戦争すれば米国に対し全面的支援を行うと半ば公式に報じた。 ロンドンに亡命中のオランダ政府はオランダと日本は戦争状態に入ったとの声明を発表した。 カナダ・オーストラリア・コスタリカも同様の行動をとった。○1941年12月9日:米宣戦布告○1941年12月12日:米国は独伊と戦争状態に ドイツ・イタリアは米国に宣戦布告、米国も独伊に宣戦布告する。 下院ではジャネット・ランキン共和党議員は出席(対日戦では唯一人反対) アメリカはドイツ・イタリア・日本・満州と戦争になり、ハンガリーと国交断絶した。■対米戦に於ける日本の外相とその周辺□松岡外相(第二次近衛内閣) 「杉山メモ(上)」よりの概要○1941年07月10日 松岡外相:「アメリカ」は「アイスランド」を占領した当然参戦も同様であるにも拘らず、 参戦にあらずと言っている。○1941年07月12日 松岡外相:諸般の情勢上米大統領は引続いて参戦に持っていこうとして居る、 但しそれに米人がついて行かぬかも知れぬと云う一縷の望みあり。□東郷外相(東條内閣) 「時代の一面」p214、よりの概要 1941年11月5日の御前会議に向けての検討時、 検討事項の5:戦争に入る際英米を切り離し得るや。 日本が万一米英の何れかと戦ふ場合に他の一つが対日戦に参加すべきは極めて明瞭なり との外務省意見が提出せられたので各出席者は之に一致した。〓勝手な感想〓 ルーズベルト大統領が、ドイツと戦争をしたかったのは確かと思う。 日本とはどうかと言うと、戦わないほうが良いとの判断だったと思う(独ソ開戦あたりまで) 米国は欧州との戦いに参戦する為には、キッカケが必用だった。 その為に、日本が利用されたとも思えるが、 ルーベン・ジェイムズがドイツのUボートに沈没させられた時に、 米国はドイツに宣戦布告していない。 (準備不足だったのか) 日本による真珠湾攻撃によって、米国が日本に宣戦布告をするのはわかるが、 ついでにドイツに宣戦布告するわけにはいかない。 (ドイツとの開戦に日米開戦がルーベン・ジェイムズ沈没より説得力があるかの問題) ドイツは、米国から日本に攻撃を加えられた場合は開戦の義務はあるが、真珠湾攻撃は逆、 米国への参戦の義務はない。 ドイツから米国に宣戦布告をしなかった場合は、米国も問題が増えたと思う。 ヒトラーは日米開戦から3日後の12月11日に米国と戦うことを決心し発表する。 結局、米国からの開戦は発生しなかった。 冗談ではない、米国は宣戦布告はしていないが、とっくに戦争状態になっているじゃないか。 の意見もありで難しい。 次回は、他の資料と比べながら、考えてみたい。
2005.10.14
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米国案の「1941年6月21日案」と「1941年11月27日案(ハル・ノート)」 を比較してみたい。 二つの米国案の間には、 独ソ開戦と日本の南部仏印への進駐があり、内閣は近衛内閣から東條内閣へ、 日本の外交交渉が11月末が期限であることを知っている米国は、 「ハル・ノート」を渡す。 「1941年6月21日案」と「1941年11月27日案(ハル・ノート)」 あたりの出来事は、06.22:独ソ開戦07.02:御前会議:情勢の推移に伴う帝国国策要綱、 南仏印への進駐が決定、対英米戦を辞せず、独ソ戦は日本に有利となれば武力を行使する07.17:第三次近衛内閣成立、外相が松岡から豊田貞次郎海軍大将に変更07.28:日本軍は南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐07.29:仏印共同防衛に関する日仏間議定書調印。08.01:米国ルーズベルト大統領、対日石油輸出を全面禁止08.08:近衛総理米国に対し直接ルーズヴェルト大統領との会見を提議08.14:英米共同宣言(大西洋憲章)09.06:御前会議:帝国国策遂行要綱、対米英戦決意、10月中旬まで外交交渉。10.18:東条英機内閣発足11.05:御前会議:帝国国策要領を再決定、11月末まで外交交渉、 「武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ、陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」11.26:ハルノートが渡される(米国時間)、日本へは27日午後12.01:御前会議:日米開戦が決定される【米国案の比較】 「1941年6月21日案」と「1941年11月27日案(ハル・ノート)」 (ハル・ノート全文が必用な場合は「日米交渉-6」を参照願います)注)▽と△について ▽で始まる文は「1941年6月21日案」、 △で始まる文は「1941年11月27(26)日案(ハル・ノート)」 比較項目は、両国が行うべき具体的項目のみに対して行う(抽象的な内容は記述しない) 項分類は独断です。 また、「ハル・ノート」に関しては、文をそのまま、関係する項目に記述した。■欧州戦争に対する両国政府の態度▽日本は三国同盟の目的をを防御的とし、欧州戦争の拡大防止に寄与する。 米国は防衛・自衛的措置で欧州に関与する。△合衆国政府及日本国政府は英帝国支那日本国和蘭蘇連邦泰国及 合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし〓勝手な感想〓 日本と英国・支那・オランダ・ソ連・泰国・米国との不可侵条約が提案された、 「6月21日案」では、三国同盟の形骸化のイメージが強かったが、 三国同盟の破棄、連合国へ参加する事の提案と思える。■日支間の和平解決に対する措置▽米国は中華民国(蒋政権)に日本との和平を勧告(原則は善隣友好・主権・領土の尊重) 付属追加書などの討議により変更される△日本政府は支那及印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及警察を撤収すべし△合衆国政府及日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の 支那に於ける如何なる政府若くは政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せざるべし△両国政府は外国租界及居留地内及之に関連せる諸権益並に 1901年の団匪事件議定書に依る諸権利をも含む支那に在る 一切の治外法権を抛棄すべし両国政府は外国租界及居留地に於ける諸権利並に 1901年の団匪事件議定書による諸権利を含む支那に於ける治外法権抛棄方に付き 英国政府及其の他の諸政府の同意を取付くべく努力すべし〓勝手な感想〓 「1901年の団匪事件議定書」は 北清事変の講和に於ける、「辛丑条約(北京議定書或いは団匪(義和団)事件議定書)」の事。 「6月21日案」では、日本と中華民国(蒋政権)の和平交渉の仲介だったが、 「ハル・ノート」ではきびしい、 中国に於ける利権を捨てて、中国より撤退。 満州に関しては、中華民国(蒋政権)との交渉となっていたが、 明確ではない、対応しだいで満州は中国に含まれると主張する含みを持たしたのか。■両国間の通商▽了解が両国政府に公式承認された時、両国の通商関係復帰及び新通商条約の締結へ△合衆国政府及日本国政府は互恵国待遇及通商障壁の低減 並に生糸を自由品目として据置かんとする米側企図に基き 合衆国及日本国間に通商協定締結の為協議を開始すべし△合衆国政府及日本国政府は夫々合衆国に在る日本資金及 日本国にある米国資金に対する凍結措置を撤廃すべし△両国政府は円弗為替の安定に関する案に付協定し右目的の為適当なる資金の割当は 半額を日本国より半額を合衆国より供与せらるべきことに同意すべし〓勝手な感想〓 「6月21日案」では、すぐ「両国の通商関係復帰及び新通商条約の締結」と、 経済制裁が解除されそうだが、 「ハル・ノート」では、完全な経済制裁解除は長引きそうである。■太平洋地域に於ける両国の経済活動▽平和的手段と国際的通商関係に於ける無差別待遇の原則に基づき、資源の商業的供給△両国政府は米、英、支、日、蘭、及泰政府間に各国政府が 仏領印度支那の領土主権を尊重し且印度支那の領土保全に対する脅威発生するが如き場合 斯る脅威に対処するに必要且適当なりと看做さるべき措置を講ずるの目的を以て 即時協議する旨誓約するべき協定の締結に努むべし 斯る協定は又協定締約国たる各国政府が印度支那との貿易若は経済関係に於て 特恵的特遇を求め又は之を受けざるべく且各締約国の為仏領印度支那との 貿易及通商に於ける平等特遇を確保するが為尽力すべきものとす〓勝手な感想〓 南部仏印に日本が進駐しているため、仏印に対する項目が発生している。 まず、仏印を日本から取り返すとの印象を受ける。■太平洋地域に於ける政治的安定に関する両国の方針▽両国は領土的な企画を持たない事△合衆国政府及日本国政府は英帝国支那日本国和蘭蘇連邦泰国及 合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし△両国政府は米、英、支、日、蘭、及泰政府間に各国政府が 仏領印度支那の領土主権を尊重し且印度支那の領土保全に対する脅威発生するが如き場合 斯る脅威に対処するに必要且適当なりと看做さるべき措置を講ずるの目的を以て 即時協議する旨誓約するべき協定の締結に努むべし 斯る協定は又協定締約国たる各国政府が印度支那との貿易若は経済関係に於て 特恵的特遇を求め又は之を受けざるべく且各締約国の為仏領印度支那との 貿易及通商に於ける平等特遇を確保するが為尽力すべきものとす△日本政府は支那及印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及警察を撤収すべし△両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しをる如何なる協定も同国に依り 本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及保持に矛盾するが如く 解釈せられざるべきを同意すべし〓勝手な感想〓 「太平洋地域に於ける両国の経済活動」と関連する、 日本の蘭印・仏印などへの進出を完全否定。■フィリピン群島の中立化▽フィリピンの独立と中立化(米国が希望する時期に於いて)△合衆国政府及日本国政府は英帝国支那日本国和蘭蘇連邦泰国及 合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし〓勝手な感想〓 フィリピンに関しては明確な記述が無くなっている。 日本がとやかく言う問題ではないと方針を転換したと思える。 あるいは、「多辺的不可侵条約の締結」で十分。 米国は植民地の解消を明確にしなくなった。■付属追加書▽日本国政府の付属追加書(「日支間の和平解決に対する措置」について)1.善隣友好2.防共と支那領土内に於ける日本軍隊の駐屯3.経済協力(無差別特遇の原則)4.各国固有の相互尊重5.日支の協定の締結と日本の武力撤退6.支那領土の非併合、7.無賠償8.満州国に対する交渉▽米国政府の付属追加書(「両国間の通商」について) 輸出は最低限の数量として戦前に戻す 安全・自衛目的の物資は例外とする〓勝手な解釈〓 「1941年6月21日案」と「1941年11月27日案(ハル・ノート)」 の差は大きい。 出来事としては、日本の南部仏印進駐とドイツのソ連侵攻。 南部仏印への侵攻は、蘭印及びその周辺を狙っている。 米国による経済制裁は北部仏印進駐の時もあったが、今回は全面禁輸で他の国も同調。 日本の選択の範囲が狭められていく、米国と戦うか・米国に従うか。 日米交渉で何らかの妥協を成立させたいところ。 日本案は甲案・乙案、「御前会議」で決定された日米交渉の期限は11月末。 「ハル・ノート」は日本がドイツと手を切って、米国側に付くことを述べている。 また、仏印・中国からの完全撤退、中国の諸利権の放棄、 (満州に関しては明確でないが、良くても日中による交渉になると思える) 中国に関しては、「6月21日米国案」では、米国は日中の仲介役を引き受ける、 だったのだから差が大きい。 「ハル・ノート」は「暫定協定案」とセットで出される可能性があった。 次回は、「暫定協定案」関連。
2005.10.12
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1940年第二次近衛内閣、欧州ではドイツがパリを占領して、オランダ政府は英国に亡命、 欧州に於いて英国は風前の灯火と見る者もいた、 日本は南進において、英国との戦いは避けられないとしながらも、 米国との戦いは避けたいと思っていた。 日本は「南進進出に対する武力行使を辞さず」を決定して、三国同盟を結ぶ。 まず、北部仏印進駐が行われる。(援蒋行為を止めるのが主な理由) フランス(ヴィシー政権)に対しては交渉を行いながらの進駐となる。 1941年3月の米国の武器貸与法が、状況を一変させる。 戦争中の国に対して、中立を守らず、特定国に武器を貸すし修理もするの法律。 「民主主義の兵器庫」となる米国(英国が金がないから貸すしかない) ソ連は民主主義ではない、の突っ込みは置いておいて、連合国の兵器庫となった。 ドイツはソ連に侵攻、日本は米国の反応を見ながらの南部仏印侵攻、 米国による対日石油禁輸が待っていた。 石油がないと、軍艦や戦闘機は動かない。 この頃、石油の備蓄は1年から2年、艦隊決戦などがあると消費が増大する。 蘭印の石油は英国(オランダ)と米国との資本に抑えられていた。 日本は蘭印の石油が欲しいが、最低でも英国との戦争が発生する。 (当時の東南アジアはほとんどがフランス・英国・米国・オランダの植民地) 米国とは戦いたくないが、米領フィリピンが不気味な存在。 「民主主義の兵器庫」の米国領土が日本と蘭印と英領の真ん中に存在する。 臥薪嘗胆して米国に経済制裁を解除してもらうか、英米蘭との戦いを決意するか、 日本は英米蘭との戦いを決意し、日米交渉を行う。 東條内閣では、近衛内閣で決定した「帝国国策遂行要領」を白紙還元して見直したが、 日米交渉は1941年11月末まで、12月には開戦と決められた。 「帝国国策遂行要領」で作成された、日米交渉案の甲案と乙案、 甲案で交渉が行われ、乙案も提示される。 米国からの回答は「ハル・ノート」と呼ばれる物だった。■分類した項目について□米国抜きの英蘭との戦いを考慮したか 「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が 1940年7月27日に「大本営政府連絡会議」で決定。 対南方武力行使に関しての記述では、対米戦の準備は行うが、 「武力行使に当たりては戦争対手を極力英国のみに局限するに努む」 「日独伊三国条約:1940年9月27日調印」では、 ソ連との関係は変更しない(「独ソ不可侵条約」が締結されていた)。 欧州戦争・支那事変に参戦していない国(米国)からの攻撃があった場合に、 三国は政治的・軍事的相互援助をする。 1940年代の日本は、南進により仏印・蘭印の資源を獲得したい、 英国との戦いは仕方がないが、米国とは極力戦わない、の方針だったと思える。□日本の南部仏印に対する米国の経済制裁と蘭印の石油 1941年7月27日の「THE NEW YORK TIMES」によると、 「石油の100%の対日禁輸が制度化すれば『戦争もあり得る』との 大統領発言にかんがみ、完全な禁輸は考えにくい。」 (8月1日に完全禁輸) 当時の蘭印での会社別産油量 449万トン:BPM(英系:英蘭系?) 214万トン:NKPM(米系) 182万トン:NIAM(英蘭系) (「杉山メモ(上)」p487の「第四表 蘭印重要物資地域別生産額(1939年)」より) ルーズベルトは「対日禁輸により日米戦が始まる可能性」を認識。 1941年3月の武器貸与法では、英国へ航空機・戦車などの貸与、 巡洋艦の修理が可能など、欧州戦に片足を突っ込んでいる状態。 蘭印の石油は米英蘭の管理下にある、 日本軍が蘭印侵攻で石油を得ようとした場合、英国だけの戦争で済むかは疑問、 だが、米国が参戦するかも疑問、日本への経済制裁が増す方向に進むと思われる。□米国の参戦(欧州・アジア)の可能性 米国は戦争が可能だったか、 1941年10月17日ドイツのUボートは米軍の駆逐艦カーニーに魚雷を打ち込む、 11人の乗務員が死亡、10月30日夜には、 Uボートは米軍の駆逐艦ルーベン・ジェイムズに魚雷を発射、沈没した。 ルーズベルト大統領は米国の国際的立場の変更を否定。 「ハル回顧録」では、日米交渉は日本が南部仏印へ進駐した時点で、 ハル国務長官は外交ではなく軍事の問題に移ったと認識している。 日米交渉は米国にとって、 欧州とアジアに於ける戦いに対する準備と、その時間稼ぎの一面がある。 米国は、日本の交渉期限が11月中であることを知っていたし、 その後、日本から米国に戦争をしかける可能性も認識していた、 ただ、三国同盟は、米国から戦いを挑まれたら、互いに軍事的にも協力するとなっていたが、 日本から米国にしかけた場合には、ドイツ・イタリアにその義務はない。 ドイツがソ連に侵攻した際、日本がソ連に宣誓布告する必要はなかった。 (ソ連からドイツに仕掛けた場合は、日本が軍事的に協力する義務が発生したと思われる) 現実には、日米戦争は日本からの攻撃で始まり、米国議会は日本との戦いに賛成した。 ドイツも米国に宣戦布告した。□日本が南進の為に英蘭ではなく米英蘭との戦争になった理由。 1940年には、日本は米国との戦い抜きでの蘭印進出を考えていたが、 1941年12月には英米蘭と戦う事になる、 1941年3月に米国で成立した「武器貸与法」の影響が大きいと思う。 米領フィリピンは消極的な英国の味方となる事が予想され、 フィリピンで英国に潜水艦・爆撃機を貸与されてはかなわないと思える。□武器貸与法(1941年3月11日制定) 以下は一部の概要 「アジア歴史資料センター」の 「8 第二次欧洲戦争ニ於ケル国際法律問題関係資料(四) 2」より 現行法規に抵触する場合に於いても大統領が米国防衛上絶対緊密なりと認めたる 外国政府の為に 国防器材(武器・爆薬・船舶、各種機械、農業用品など)、 国防情報(国防器材に関する情報を含む) を、13億ドルを議会の協賛を得ることなしに売却・交換・貸与・処分する事が可能 議会の協賛を得た予算の限度に於いて外国政府の為に兵器を試験・修理することが可能
2005.10.09
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「日米交渉-Q」を作るために、まとめた物です。■「海軍戦争検討会議記録」概要(かなり手抜き)□大東亜戦争開戦前-国内情勢に関する座談会(1945年12月22日) 主な出席者: 極東国際軍事裁判に起訴された、岡敬純(開戦時軍務局長)、永野修身(開戦時軍令部総長)。 (嶋田繁太郎(開戦時海相)は9月12日に拘束) 及川古志郎、豊田貞次郎、澤本頼雄、近藤信竹など、 (<関連資料>の海軍人事を参照、豊田は第三次近衛内閣で外相を務めた)○1941年9月6日の御前会議にて「帝国国策遂行要領」決定。 「帝国国策遂行要領」の第一項は対米戦準備、第二項は外交交渉に関して、 第三項は、十月上旬まで外交、目途が立たないと、直ちに対米(英蘭)開戦を決意。 米ソの対日連合戦線を防ぐ。 豊田(当時の外相):対米開戦はないものと考えていた。 岡(当時の軍務局長):再び検討されるとの認識、対米戦の決意は12月1日の御前会議。 永野(当時の軍令部総長)は対米戦積極派だったが、9月5日に天皇への説明内容は、 盲腸炎にかかった子供を放置すれば死ぬ、手術では30%の確率しかなくとも、 親は断固として手術を行う。 これで、天皇は納得したように記述されている。 また、原案の一項(開戦)と二項(外交)の順を変更するかとの問いに、 天皇は其のままで良いとの発言。○日独伊三国同盟に関して 海軍は米国と戦争をしない為に三国同盟に賛成した。 及川(当時の海相)は三国同盟に賛成は陸軍との関係が悪化しているため同意した。 また、1941年6月22日の独ソ開戦により、海軍は同盟破棄を主張。 独ソ開戦後に松岡外相は対ソ開戦を主張、 海軍は対米戦はできるのに、対ソ戦はできない理由を問うが、永野は答えず。○その他の内容 日米戦がなかったら、国内に大騒乱(陸・海軍の戦い)が起こっていた。 近衛文麿は陸海軍を利用して国内問題を処理しようとした、 海軍は「下駄をはかせられてはならぬ」といって逃げていた。 岡は東條内閣決定時、及川内閣ができれば大変として米内に連絡、 「大したことはあるまい」が米内の回答、「東條内閣に協力せよ」となった。 及川は「重臣は戦争をするのだな」と直感した。□第一回特別座談会(1946年1月17日) 三国同盟の締結時(1940年9月27日に調印)の第二次近衛内閣では、 及川が海相、豊田貞次郎が海軍次官、阿部勝雄が軍務局長(前任者は井上成美)、 伏見宮が軍令部総長、近藤信竹が軍令部次長○三国同盟に関しての座談会の概要 第二次三国同盟の座談会をチェック。 第二次三国同盟の目的は日独伊ソで米国に対抗し米国の欧州参戦を牽制する。 (ドイツの利益は日本の東アジアでの利益、南の資源確保は海軍の方針と思うが会話に出ない) 近藤によると、松岡外相の米とは戦争をしない・和戦は天皇の大権に属し自主的に決める、 に対し従来の海軍の反対理由が無くなったと述べる。 及川(当時海相)・豊田(当時海軍次官)は近藤の意見に同意。 豊田は陸軍のクーデター・国内動乱の勃発を避けたと述べる。 井上は陸軍が脱線する限り、国を救うものは海軍より他にない、内閣なんか何回倒してもよい。 及川は着任早々の為、山本長官に意見を求めた、山本がやむなしと言った為決心したと述べる。 (注:山本五十六は三国同盟に反対だった/近衛・吉田の情報) 井上は、海軍は三国同盟に反対であれば閣議で反対意見を述べ合意しなければ内閣が倒れる。 また、陸海軍大臣の現役大・中将制(伝家の宝刀)により、海軍による倒閣が可能。 南部仏印進駐の時に永野修身(当時の軍令部総長)が使わなかったと指摘。 (井上は三国同盟締結も問題とするが明示的でない、三国同盟締結時の軍令部総長は伏見宮) 吉田は海軍大臣在任中(三国同盟締結の少し前まで、及川海相の前任者)、 伏見宮(軍令部総長)が対米強硬論に対して否定的な発言をしたと述べる。 吉田は(海軍大臣の時)、ドイツが欧州を席巻していて、ドイツの味方にならないと、 蘭印の利権がどうなるかわからない空気があったが、海軍は便乗気分には反対だった。□第二回第一次特別座談会:満州事変から太平洋戦争へ(1946年1月22日) 「支那事変までの経緯」は飛ばし、「日米交渉の経緯」からチェックする。 1941年6月22日に独ソ戦が起こる、陸軍はおおむね熟柿主義(ソ連がまいるのを待つ) 7月2日の御前会議で決定された「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」での、 「対英米戦を辞せず」に対し、及川(当時の海相)は避戦と答えている。 大野竹二(軍令部所属)は開戦を辞せずの意味ではない、 独ソ戦に陸軍は2・3ヶ月で終わると考え、積極論者があった。 予算・資材も陸軍にとられるので、海軍として戦備充実の為、南に備えざるを得なかった。 井上は南部仏印進駐後に山本五十六が永野軍令部総長に「対米英戦を辞せず」に関して問う。 永野は「政府がそういうから仕方がない」と答える。 山本は9月26日頃、日本は戦うと結局は総力戦となり負ける、朝鮮・満州民族が離反する、 と澤本頼雄に述べる。 また、澤本は当時は永野軍令部総長は主戦的で及川海相は対米英戦に反対、 永野は近藤次長に仏印進駐は考え直せと言い、あれをやれば戦争になると言った。 海軍省は外交での解決を望む。 戦争の見通しはなく、 欧州でドイツが圧倒的勝利を得ることが日米戦争終結の転機と考えられた。 海軍としては、面子にかけても仮想敵国たる米国と戦争できぬと言えなかった。 海軍は日本が南部仏印に進駐しても、米国は立たないが結論。 海軍内部では軍令部は早期開戦を望み、海軍省は1942年の1月・3月まで待つことを望む。□第二回第二次特別座談会:日米開戦に至るまでの用兵、戦備(1946年1月22日) 澤本:嶋田海相は入閣条件は、1.外交交渉、2.軍備促進、3.行政機構改革 井上:海軍の想定敵国は米国、米国に勝つ手なし、 日本と戦えば米側の被害が大きいことを認識させて、米国が戦いを避ける事を最上とする。 永野・山本は一・二年戦争可能、井上は企画院の情報では一年以上は不可能。 吉田:嶋田は鈴木貞一(企画院総裁)はどんな数字でも出してくるといっていた。 澤本: 近衛手記に海軍は和戦の決を首相に一任とあるが「海軍は戦えない」と言える状況にない。 1.海軍の存在の意義を失う 2.艦隊の指揮に影響する 3.陸海の物資争奪、陸軍は「戦えざる海軍に物資をやる必要なし」と言うだろう 4.統帥部としては、両軍分かれるは不可、表面のみにても、一致しなければならないの空気 「海軍は戦えぬといってくれないか」と、陸軍よりいわれたこともある 及川海相: 「海軍は戦えない」と言えない理由。 1.谷口軍令部長が満州事変に反対した、理由は対米戦になる恐れがあるが、 対米戦に備えるには軍備に32億を要する、日本の国力では不可能。 東郷平八郎元帥は、以下の内容で谷口を面罵、 「軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉じている、いまさら対米戦をできには、 陛下に嘘を申し上げたことになる。 自分(東郷自身)も毎年計画によろしいと奏上しており、嘘を申し上げた事になる。」 2.近衛首相に下駄をはかせられるな、は海軍にて非常に警戒していた。 海軍は近衛に一任ではなく、近衛に陣頭に立てのつもり。 井上は上記の及川首相の発言に対して、近衛ができるとは思えない、 また、及川の首相ができなくて、海軍ができるかとの問いに 海相が内閣を引けばよいと述べる、また永野軍令部長が対米積極派で、 及川海相と意見が違ったことに対して、大臣は人事権を有すから、 軍令部総長を変えればよいと述べる。○以下、嶋田海相の入閣時と11月5日の御前会議関連について 及川は東條に組閣の命が下り、天皇が東條内閣に協力することを要請したので、 嶋田を出したと述べる。 澤本:嶋田の入閣条件は、外交交渉優先・戦備を進める・機構の改革はなし、 東條は海軍軍備優先を認める。 陸軍は海軍に戦争できないと言わせ撤兵するつもりだった。(近衛談) 及川は東條が来て「海軍にて反対」を頼んだと述べる。 伏見宮は海相に嶋田を第一、第二に豊田とする。 11月5日に向けての会議で日米開戦反対は、東郷外相と賀屋蔵相、 東條首相は嶋田海相に助けを求める、嶋田は二人を説得した。 永野軍令部総長が期限を切って開戦時期決定を要求して政府も天皇も困った。 <関連資料>■歴代首相(HP[首相官邸」の「歴代総理の写真と歴代内閣閣僚名簿」よりの部分引用)1936.03.09:廣田弘毅1937.02.02:林銑十郎(陸軍大将)1937.06.04:近衞文麿(第1次)1939.01.05:平沼騏一郎1939.08.30:阿部信行(陸軍大将、井上成美は義弟)1940.01.16:米内光政(海軍大将)1940.07.22:近衞文麿(第2次)1941.07.18:近衞文麿(第3次)1941.10.18:東條英機(陸軍大将)1944.07.22:小磯國昭(陸軍大将)1945.04.07:鈴木貫太郎(海軍大将)1945.08.17:東久邇宮稔彦王(陸軍大将・皇族)■海軍省・軍令部の人事(HP「参拾壱頁/管理人:三十一・西田寛氏」よりの部分引用)□海軍大臣1936.03.09:永野修身1937.02.02:米内光政1939.08.30:吉田善吾1940.09.05:及川古志郎1941.10.18:嶋田繁太郎1944.07.17:野村直邦1944.07.22:米内光政□海軍次官1936.12.01:山本五十六1939.08.30:住山徳太郎1940.09.05:豊田貞次郎1941.04.04:沢本頼雄1944.07.18:岡敬純1944.08.05:井上成美1945.05.15:多田武雄1945.11.20:三戸寿□海軍省軍務局長1935.12.02:豊田副武1937.10.20:井上成美1939.10.18:阿部勝雄1940.10.15:岡敬純1944.08.01:多田武雄1945.05.15:保科善四郎1945.11.17:山本善雄□軍令部総長1932.02.02:伏見宮博恭王1941.04.09:永野修身1944.02.21:嶋田繁太郎1944.08.02:及川古志郎1945.05.29:豊田副武□軍令部次長1935.12.02:嶋田繁太郎1937.12.01:古賀峯一1939.10.21:近藤信竹1941.09.01:伊藤整一1944.11.18:小沢治三郎1945.05.29:大西瀧治郎1945.08.20:高柳儀八■極東国際軍事裁判に起訴された28名海軍: 岡敬純(開戦時軍務局長)、嶋田繁太郎(開戦時海軍大臣)、永野修身(開戦時軍令部総長)陸軍: 荒木貞夫、板垣征四郎、大島浩、梅津美治郎、木村兵太郎、小磯国昭、佐藤賢了、鈴木貞一、 東條英機、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、松井石根、南次郎、武藤章外務官僚出身者: 重光葵、白鳥敏夫、東郷茂徳、広田弘毅、松岡洋右司法官僚出身者: 平沼騏一郎大蔵官僚出身者: 賀屋興宣、星野直樹農商務官僚出身者: 木戸幸一(内大臣)その他: 大川周明(満鉄調査部勤務・法学博士)参考1:1945.08.15:阿南惟幾陸軍大臣自刃1945.08.16:大西瀧治郎軍令部次長自刃参考2:1945.09.11:東条英機 元首相・陸相・参謀総長 自殺未遂1945.09.12:杉山元本土防衛総軍司令官 自殺(夫人も自刃)1945.09.13:小泉親彦 開戦時厚生大臣 自殺1945.09.14:橋田邦彦 開戦時文部大臣 自殺1945.12.16:近衛文麿 出頭期限日に服毒自殺
2005.10.06
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「海軍側関連の情報」の続きです。□三国同盟の機会は2度あった。 一度目は対ソ(防共)としての三国同盟(第一次近衛内閣・平沼内閣時代) 独ソ不可侵条約が締結され、ポーランドを独ソが分割占領して説得力がなくなる。 二度目は対米としての三国同盟(ソ連を味方にする)、 米内内閣に於いて、欧州ではドイツがパリを占領し「バスに乗り遅れるな」との意見も出る。 三国同盟による独米開戦に対する日本の参戦義務等が問題視される。 米内内閣は解散、 1940年7日22日に第二次近衛内閣が発足する。○第二次近衛内閣では7月26日・27日に、 「基本国策要綱」が閣議決定、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が連絡会議で決定。 「皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」とし、 対外的政策としては、支那事変の解決・情勢の変転を利用した南方施策の推進。 (重点を支那事変から南方へ) ドイツとの政治的結束の強化、ソ連との国交の飛躍的調整、 米国に対しては公正なる毅然たる態度で施策を遂行、自然的関係悪化は止むを得ないが、 摩擦の増加を日本からは求めない。 対南方武力行使について、 支那事変処理が終了していれば、内外情勢がゆるせば武力を行使する。 支那事変処理が未処理の場合は、第三国との開戦しない限度で施策、情勢有利なら武力行使、 武力行使の相手は極力英国に限定、米国との戦いに準備しておく。○第二次近衛内閣で三国同盟は締結され、日本は北部仏印へ進駐。 日本は、欧州でドイツと戦う英・仏・蘭の東アジアに於ける植民地を狙う。■「海軍戦争検討会議記録」 海軍の生き残りの人達と戦犯で捕まっていない人たちが、座談会で開戦までの日本を語る。 開催日は1945年12月22日、1946年1月17日、1946年1月22日(この日は2回行われた)〓勝手な感想と概要〓 「海軍戦争検討会議記録」では、 海軍は何故に「米英蘭との戦争に同意したか」と、何故に「三国同盟に同意したのか」、 が大きな問題となっている。 また、座談会の時期には「極東国際軍事裁判」に向けて、 逮捕者や自殺者が発生している。 「極東国際軍事裁判」に海軍から起訴されたのは、 嶋田繁太郎(開戦時海軍大臣)、岡敬純(開戦時軍務局長)、永野修身(開戦時軍令部総長) 主な自殺者は、 1945.08.15:阿南惟幾陸軍大臣自刃 1945.08.16:大西瀧治郎軍令部次長自殺。 1945.09.11:東条英機(元首相・陸相・参謀総長)、ピストル自殺未遂 1945.09.12:杉山元本土防衛総軍司令官 ピストル自殺(夫人も自刃) 1945.09.13:小泉親彦 厚生大臣(日米開戦時の東條内閣に於いて) 自殺 1945.09.14:橋田邦彦 文部大臣(日米開戦時の東條内閣に於いて) 自殺 1945.12.16:近衛文麿 出頭期限日に自宅にて服毒自殺(青酸カリ)●海軍は何故「米英蘭との戦争に同意したか」 近衛内閣で1941年9月6日に決定された「帝国国策遂行要領」が主として問題にされる。 (東條内閣で11月5日に修正版が決定されたが、重きを置かないのか、あまり触れない。) 「帝国国策遂行要領」では第一項では英米蘭との戦争準備、第二項では米国との外交交渉、 第三項では外交交渉の期間に制限を設け(10月上旬)、目途が付かなければ開戦を決意。☆第三次近衛内閣での9月6日の御前会議の時点では、 海軍大臣・海軍次官・海軍軍務局長・軍令部総長・軍令部次長は 及川古志郎・澤本頼雄・岡敬純・永野修身・伊藤整一、 豊田貞次郎は外相(五ヶ月前は海軍次官) 9月6日の御前会議に向けて、軍令部は早期開戦を望み、海軍省は外交を優先。 7月の南部仏印進駐後、山本五十六は永野軍令部総長に「対米英戦を辞せず」を問う。 永野は「政府がそういうから仕方がない」と答える。 戦争の見通しはなく、 欧州でドイツが圧倒的勝利を得ることが日米戦争終結の転機と考えられた。 海軍としては、面子にかけても仮想敵国たる米国と戦争できぬと言えなかった。○まとめと言うべき「海軍は何故米英蘭との戦争に同意したか」に対する会話(概要) 井上成美: 海軍の想定敵国は米国、米国に勝つ手なし、 日本と戦えば米側の被害が大きいことを認識させて、米国が戦いを避ける事を最上とする。 (永野・山本は一・二年戦争可能、井上は企画院の情報では一年以上は不可能。) 吉田善吾(及川海相の前海相): 嶋田は鈴木貞一(企画院総裁)はどんな数字でも出してくるといっていた。 澤本頼雄(海軍次長): 近衛手記に海軍は和戦の決を首相に一任とあるが「海軍は戦えない」と言える状況にない。 1.海軍の存在の意義を失う 2.艦隊の指揮に影響する 3.陸海の物資争奪、陸軍は「戦えざる海軍に物資をやる必要なし」と言うだろう 4.統帥部としては、両軍分かれるは不可、表面のみにても、一致しなければならないの空気 「海軍は戦えぬといってくれないか」と、陸軍よりいわれたこともある 及川古志郎(海相): 「海軍は戦えない」と言えない理由。 1.谷口軍令部長が満州事変に反対した、理由は対米戦になる恐れがあるが、 対米戦に備えるには軍備に32億を要する、日本の国力では不可能。 東郷平八郎元帥は、以下の内容で谷口を面罵、 「軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉じている、いまさら対米戦をできには、 陛下に嘘を申し上げたことになる。 自分(東郷自身)も毎年計画によろしいと奏上しており、嘘を申し上げた事になる。」 2.近衛首相に下駄をはかせられるな、は海軍にて非常に警戒していた。 海軍は近衛に一任ではなく、近衛に陣頭に立てのつもり。 井上成美は及川海相の発言に対して、「近衛ができるとは思えない」と答える。 及川海相の「首相ができなくて、海軍ができるか」との問いに、 「海相が内閣を引けばよい」と述べる。 また、永野軍令部長が対米積極派で、及川海相と意見が違ったことに対して、 「大臣は人事権を有すから、軍令部総長を変えればよい」と述べる。 及川海相は第三次近衛内閣の辞任後、東條英機に組閣の命が下り、 天皇が東條内閣に協力することを要請したので、海軍は海相に嶋田を出したと述べる。 澤本頼雄(海軍次長): 嶋田の入閣条件は、外交交渉優先・戦備を進める・機構の改革はなし、 東條は海軍軍備優先を認める。 陸軍は海軍に戦争できないと言わせ撤兵するつもりだった。(近衛談) 及川は東條が来て「海軍にて反対」を頼んだと述べる。 11月5日の御前会議に向けての会議で日米開戦反対は、東郷外相と賀屋蔵相、 東條首相は嶋田海相に助けを求める、嶋田は二人を説得した。○簡単なまとめ 海軍省は基本的に米英戦反対、軍令部は早期に米英戦を望むが、勝てる自身はなく、 欧州情勢の変化を待つ。 井上成美は近衛文麿首相に期待せず、海軍省が戦争を回避することが出来た事を示す。 及川古志郎(海相)と澤本頼雄(海軍次長)は「海軍は戦えない」と言えない理由を述べた。 1.海軍の存在の意義を失う 2.艦隊の指揮に影響する 3.統帥部として陸海軍が表面のみに於いてでも、一致しなければならないの空気があった。 4.東郷平八郎元帥の、 「軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉じている、対米戦をできないとは陛下に言えない。」 の内容を述べる。 そして、もう一つの理由がある、 陸海の物資争奪、陸軍は「戦えざる海軍に物資をやる必要なし」と言うだろう。 嶋田の入閣条件は、外交交渉優先・戦備を進める・機構の改革はなし、 東條は海軍軍備優先を認める。 主に澤本頼雄(海軍次長)の意見だが、予算と物資を減らされる事を懸念し、 あたかも、海軍軍備優先が対米英戦賛成の海軍側の条件のように成ってしまっている。☆東條内閣発足・11月5日の御前会議・日米開戦時の時点では、 海軍大臣・海軍次官・海軍軍務局長・軍令部総長・軍令部次長は 嶋田繁太郎・澤本頼雄・岡敬純・永野修身・伊藤整一 「第三次近衛内閣での9月6日の御前会議の時点」との相違点は海相が及川から嶋田へ●海軍は何故「三国同盟に同意したか」☆三国同盟調締結の時点では、 海軍大臣・海軍次官・海軍軍務局長・軍令部総長・軍令部次長は 及川古志郎・豊田貞次郎・阿部勝雄・伏見宮博恭王・近藤信竹 海軍は米国と戦争をしない為に三国同盟に賛成した。 及川(当時の外相)は三国同盟に賛成は陸軍との関係が悪化しているため同意した。 また、1941年6月22日の独ソ開戦により、海軍は同盟破棄を主張。 独ソ開戦後に松岡外相は対ソ開戦を主張、 永野(独ソ開戦時の軍令部総長)に対して海軍は対米戦はできるのに、 対ソ戦はできない理由を問うが、永野は答えず。 第二次三国同盟の目的は日独伊ソで米国に対抗し米国の欧州参戦を牽制する。 (ドイツの利益は日本の東アジアでの利益、南の資源確保は海軍の方針と思うが会話に出ない) 近藤によると、 松岡外相の主張する、米国とは戦争をしない・和戦は天皇の大権に属し自主的に決める、 に対し従来の海軍の反対理由が無くなったと述べる。 及川・豊田は近藤の意見に同意。 豊田は陸軍のクーデター・国内動乱の勃発を避けたと述べる。 井上成美は 陸軍が脱線する限り、国を救うものは海軍より他にない、内閣なんか何回倒してもよい。 及川は着任早々の為、山本長官に意見を求めた、山本がやむなしと言った為決心したと述べる。 (注:山本五十六は三国同盟に反対だったと思われる/近衛・吉田の情報) 井上成美は、 海軍は三国同盟に反対であれば閣議で反対意見を述べ合意しなければ内閣が倒れる。 また、陸海軍大臣の現役大・中将制(伝家の宝刀)により、海軍による倒閣が可能。 南部仏印進駐の時に永野修身(当時の軍令部総長)が使わなかったと指摘。 (井上は三国同盟締結も問題とするが明示的でない、三国同盟締結時の軍令部総長は伏見宮) 吉田は海軍大臣在任中(三国同盟締結の少し前まで、及川海相の前任者)、 伏見宮(軍令部総長)が対米強硬論に対して否定的な発言をしたと述べる。 また、ドイツが欧州を席巻していて、ドイツの味方にならないと、 蘭印の利権がどうなるかわからない空気があったが、海軍は便乗気分には反対だった。 とも述べる。○簡単なまとめ 伏見宮博恭王は私には謎の人物、(他の人も十分謎だが) 1941年10月10日ごろには、昭和天皇に対して、 「対米問題に極めて急進論を進言」をして、天皇は失望している。 だが、伏見宮は三国同盟締結までは対米強硬論に対して否定的だったようだ、 三国同盟締結と同時に強気になった人は多かったのかもしれない、 ドイツが味方だったら、米国との戦いもなんとかなるかもしれない、の考え。 海軍が三国同盟に同意した理由は、吉田は否定するが、 「ドイツが欧州を席巻していて、ドイツの味方にならないと、 蘭印の利権がどうなるかわからない空気があった」 が大きいと思う。
2005.10.04
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「御前会議」(1941年11月5日)での「帝国国策遂行要領」の決定前後に於いての、 海軍側関連の情報を集めてみたい。 東條内閣が発足した前後の、海軍関連の人物は、 海軍大臣の嶋田繁太郎、前海軍大臣の及川古志郎 前外務大臣の豊田貞次郎 軍令部総長の永野修身、前軍令部総長の伏見宮博恭王 連合艦隊司令長官の山本五十六 首相経験者・重臣の米内光政・岡田啓介 大将になった順は 伏見宮、鈴木貫太郎、岡田啓介、 永野修身、米内光政、及川古志郎、山本五十六、嶋田繁太郎、豊田貞次郎、井上成美 鈴木貫太郎は2.26事件当時の侍従長で終戦内閣の首相■「木戸幸一日記(下)」には以下の内容(本文そのままではない)が記されている。□1941年10月7日には、米国の覚書に対して、 陸軍は望みなし、海軍は見込みありで交渉継続を希望、陸海軍とも中堅は強硬決意を要望。 海軍は近衛首相が決意(交渉継続)を表明して政局を指導することを要望する。□10月10日(日米開戦の決断が近づいていた)では、 昭和天皇は木戸内大臣に対して、過日伏見宮と会見の際、対米問題につき伏見宮は、 極めて急進論を進言し、天皇は失望した。□10月12日の萩窪の近衛首相邸に於いての陸海外相・企画院総裁による会合で 東條陸相は日米交渉案成立は見込みなし、重大決意の要望、納得いく説明があれば交渉継続。 及川海相は交渉継続賛成。 豊田外相は交渉は見込みがある。 申し合わせとして、日米交渉に於いて、 駐兵問題を中心とする政策の変更なし、支那事変の成果に動揺を与えない、 統帥部が開戦を主張している時期までに交渉の確信を得る、交渉継続、戦争準備の打ち切り。 10月15日に企画院総裁の鈴木中将が木戸を訪ね東條陸相の意向を伝える。 近衛首相が翻意しないと政変となる、後任は陸海軍を纏めうる皇族の東久邇宮殿下が適切。 近衛首相は東條陸相との関係悪化、東久邇宮内閣を要望する。 --------------- 10月17日には東條陸相に組閣が命じられる。 海相は及川古志郎から嶋田繁太郎に、陸相・海相・参謀総長・軍令部総長では海相だけ変更。 及川は対米戦に反対だった(積極的な賛成者ではない)、嶋田も同様のはずだが。 嶋田海相は「連絡会議」「御前会議」での発言は少なく、 海軍の予算と修理と造船ついて発言している。■山本五十六連合艦隊司令長官から嶋田繁太郎に送った手紙□1941年10月24日(「パールハーバー/源田実」)の一部分の概要 なお大局より考慮すれば、日米英の衝突は、避けらるるものならば之を避け、 このさい隠忍自戒、臥薪嘗胆すべきはもちろんなるも、それには非常の勇気と力とを要し、 今日の事態まで追い込まれたる日本が、果たして左様に転機し得べきか。 申すのも畏きことながら、唯のこされたるは、尊き聖断の一途のみと恐懼する次第に御座候。 山本は天皇の決断のみが日米戦争を回避することができるとしている。■「帝国海軍作戦計画」の裁可(1941年11月5日) 「帝国国策遂行要領」は9月6日と11月5日の御前会議で二度決定されるが。 外交交渉の期限を設け、期限後早い時期に米国に戦いを挑むを決定した。 開戦時期が一月延長されたが、同じ結果となった。 統帥部事項の12月8日の武力発動が裁可され、「帝国海軍作戦計画」も裁可された。□「帝国海軍作戦計画」要点(「海軍軍令部/豊田穣・講談社文庫」より) 作戦目的: 在東洋敵艦隊及び航空兵力を撃滅するととともに、東亜における米国・英国・及び蘭国の 主要なる根拠地を攻略して、南方要域を占領確保し、 終局において敵の戦意を破壊するにあり。 第一段作戦:1.南西方面においては、陸軍と協定してフィリピン、マレー両方面から作戦を開始し、 でき得る限り短期間に蘭印のジャワの線までを攻略する。 その要領は、フィリピン方面でまず航空撃滅戦を行った後、 マレー方面では有力な先遣兵団の奇襲上陸によって地歩固め、航空撃滅戦を強化した後、 それぞれ主力攻略兵団を揚陸し要地を攻略する。 ついで航空制圧下に要地を攻略しながら、航空兵力を進出させ、 東西からジャワ島を包囲して航空撃滅戦を強化の上、 攻略兵団を東西から揚陸させて同島を攻略する。2.開戦劈頭、空母基幹部隊をもってハワイを奇襲し、 米艦隊主力の西太平洋機動作戦を未然に封止し、かつその勢力の漸滅を図って、 主として南方作戦を間接的に支援する。3.南方方面においては、米艦隊の動静を警戒しつつ、 開戦劈頭グアム、ウェーキ両島を攻略し、状況によりラバウル方面を攻略する。 第二段作戦: 第二段作戦は伝統的な要撃、持久戦。〓勝手な感想〓 単純に分類すると、対米英戦に対して、 連合艦隊司令長官の山本五十六は反対だが、しかたがないと思っている。 海軍大臣の嶋田繁太郎・前海軍大臣の及川古志郎は反対だが、其々の御前会議では賛成する。 軍令部総長の永野修身は開戦2年を過ぎると、負けに転じると認識して、早期開戦を望む。 前軍令部総長の伏見宮博恭王は積極論者。 伏見宮が東條内閣時代、どのような役割を果たしていたのか、 伏見宮は海軍関係のドンで、反対意見を述べるのは少数だったと思えるが、確証はない。 それよりも、米国と何年間戦えると答えるのではなく、 米国と戦うと負けるから戦争したくない、と答える事ができる海軍かどうかと思う。 二年間戦う間に、世界情勢が変わるが陸海軍の感覚(ドイツ頼み)。 米国に負けるの発言は海軍にとって、多くの物資や金・人を無駄に使ってきたことなり、 予算の減額や陸軍の優遇、海軍の否定につながり大変な事と思うが、 日本国民が海軍の為に無駄に死ぬことを肯定する事にはならない。 11月5日には外交交渉が優先としながらも、「帝国国策遂行要領」と共に 「帝国海軍作戦計画」により、12月8日の真珠湾攻撃が天皇に裁可された。 次回も海軍関連、「海軍戦争検討会議記録」を調べてみたい。
2005.10.02
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朝日新聞社は2005年9月30日に秋山耿太郎社長が記者会見を行い、 朝日新聞社の「NHK番組改変報道」に対して取材不足を認めるが、訂正・謝罪はしない 事を述べた。 また、「月刊現代9月号」への社内情報流出に対して、社内責任者の処分を行った。 (流出データは朝日新聞社内で整理したもの、生データやそのコピーではないの意?) 朝日新聞記者による「NHKの松尾武放送総局長」に対する、無断録音取材に対しては、 明確にしなかった。■朝日新聞朝刊(2005年10月1日)の「NHK番組改変報道」関連記事<1面の「NHK番組改変報道」関連の表題>□最初の記事 相応の根拠□詰めの甘さ反省します□資料流出 編集担当ら更迭<16面・17面の詳細記事> 記事の経緯(最初の記事・反論と批判・7月27日付け記事での総括報告)、 朝日新聞の考え方、「NHK報道」委員会による朝日新聞の対応の審議経過、 「NHK報道」委員会の見解とそれぞれの委員の意見が述べられている。 1面記事よりは詳細となっている。 社内資料の流出に関しては、1面では社内での処分が主だが、17面では異なる。□社内資料の流出について 「月間現代」9月号に掲載された「証言記録」が朝日新聞社の流出資料が元である事は、 7月29日に記者会見で社内調査を実施することを明言した。 50人以上から事情を聴き、保管状況を調べたが、流出経路・関与した人物を特定できない。 調査を継続し、判明しだい公表する。<38面の記事> 他紙の記事と同様、客観的な報道記事となっており、取材テープの有無に関しての記述や NHKと松尾元NHK放送総局長のコメントもある。〓勝手な意見〓 朝日新聞社の基本姿勢は、記事は間違っていないが確実な確認がされていない。 朝日新聞の取材した「証言」は正しいから読んで欲しい。 と思える。 ただ、記事に関して「証言」をバランスよく記事にせず、 NHKへの政治介入に重点を置き過ぎたところが問題点。 また、対応の遅さも反省材料としている。 公的な立場の人に対する取材には、「無断録音」も例外的に可としている。 ただし、朝日新聞は「NHK報道委員会」の主張として述べ、 「NHK報道委員会」は今回のケースは「無断録音」も可の例外的なケースかどうかは、 述べていない。 もし、「無断録音」テープが存在しないのであれば、問題とする必用もない。 わざわざ、言及しているところに怪しさを感じる。 「社内情報流出」に関しては、「流出」は犯罪と思えるが、 最終的な流出先である「月刊現代」に対して協力を求めているのか? 社内告発は無いようだし、警察にも届けていないようだ。 「月刊現代」に流出した資料から指紋を検出できれば、かなり限定できると思える。 (警察に捜査してもらえば、会社ぐるみでない事が証明されると思うがどうだろうか?) 「月刊現代」9月号の記事内容を見ると、記事を書いたのは魚住昭氏だが、 文中の()は魚住昭氏が補足したとある。 「月刊現代」9月号のp34の中段に、松尾氏の発言がある 松尾 メモを取らないでくれというのは、そういうことも含め、 あった、ないの議論はしたくないと。 (ここで高田記者はメモをとるのをやめて、メモ帳をポケットにしまった) の記述で、()内は魚住昭氏の補足、 なぜ、 「ここで高田記者はメモをとるのをやめて、メモ帳をポケットにしまった」 を補足できたのか、 このタイミング以外でも、メモを取るのをやめるタイミングはあった。 高田記者以外に本田記者がいたがメモを取っていたのが高田記者だけとなぜ解ったのか、 メモ帳をポケットにしまった(机に置いたや鞄に仕舞ったもありえる)を、 魚住昭氏が補足できたのかが解らない。 取材時にその場にいた人間が魚住昭氏に説明したのか? 朝日新聞社内で記事に関わった人間に近い者の犯行と思われる。 他の可能性も考えれるので断定はできない、推測である。■朝日新聞による「NHK番組改変報道」の経緯□2005年1月12日付け朝日新聞朝刊 NHKの2001年1月30日放送の番組(「女性国際戦犯法廷」の内容を主とする)に対して、 放送内容に中川・安倍両議員が圧力をかけ、番組を改編させたという記事を掲載した。□2005年1月13日午前にNHKの幹部職員が東京都内のホテルで記者会見(内部告発) 「放送現場への政治介入を許した海老沢勝二会長らの責任は重大。退陣すべきだ」と訴えた。□2005年1月14日にNHKは朝日新聞社に対し厳重に抗議 謝罪と釈明、そして訂正記事の掲載を求めた。 NHKが問題とした「2005年1月12日付け朝日新聞朝刊」の記事は、「2001年1月29日午後、当時の松尾武・放送総局長(現NHK出版社長)、 国会対策担当の野島直樹・担当局長(現理事)らNHK幹部が、 中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した。」「番組改変指示は、中川、安倍両議員の意向を受けたものだった」□NHKの公開質問状(2005年1月21日に朝日新聞社に対して) 「朝日新聞の2005年1月12日付け記事」の根拠と取材方法の正当性が問われた。 また、朝日新聞記者による「NHKの松尾武氏」に対する、 無断録音取材が問題となったが、朝日新聞社側は明確な回答をしていない。 (取材された松尾武本人による取材の原資料(録音テープ等)の開示にも答えていない)□2005年7月25日の朝日新聞朝刊○検証 番組改編の経緯○取材報道への指摘について 中川氏と松尾氏は放送前日面会したのか 中川・安倍両氏は松尾氏を「呼び出した」のか 取材は強引だったのか、結論ありきの誘導か 「すりあわせ」をもちかけたのか (「無断録音テープ」の有無に関する記載なし)○当時の取材(2005年1月) 松尾武放送総局長(9日、自宅での記者2人による2時間の取材) 中川昭一議員(10日午後、電話取材) 安倍晋三議員(10日夕、インターホン越しの取材)□「月刊現代」2005年9月号の記事「証言記録を独占入手 NHK番組改変問題」 2005年7月25日の朝日新聞朝刊「NHK番組改変問題」での 中川昭一・安倍晋三・松尾武(元NHK放送総局長)へのインタビュー の詳細版を記載。 「asahi.com」HPの07月30日01時53分の記事では、 「社内資料の一部が流出した疑いがある」として社内で調査、 「本紙7月25日付朝刊の報告記事に掲載された一問一答とかなり似ている」□朝日新聞社は2005年8月25日に「月刊現代9月号」掲載記事の中間報告を発表 「月刊現代9月号」に掲載されたインタビューは、 朝日新聞社の社内資料が流出したものである事を認めた。□朝日新聞社は2005年9月30日に秋山耿太郎社長が記者会見 朝日新聞社の「NHK番組改変報道」に対して取材不足を認めるが、訂正・謝罪はしない。 を述べる。
2005.10.01
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