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ドレミファ娘の血は騒ぐ(女子大生・恥ずかしゼミナール)黒澤清83min寸評:黒澤清監督のごく初期の作品。最初『女子大生・恥ずかしゼミナール』という題で日活ロマンポルノとして撮られたが、あまりの前衛性にお蔵入り。撮り足したフィルムを加えて再編集され、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』として完成された。(主演の)洞口依子ファンと黒澤清ファンにとっては必見お映画かも知れないが・・・。日本映画の斜陽期に日活ロマンポルノの果たした役割は大きかった。低予算で次から次へと作られたわけだが、ポルノチックであれば、つまり裸とセックス場面さえあれば、監督はかなり自由に映画を作れたらしい。今日一般映画の監督などとして活躍する人材を育てる場であったとも言える(結果的に)。そのロマンポルノで黒澤清がかなりやりたい放題に作り、結局前衛的過ぎてお蔵入りになってしまった。冒頭から超長回しの凝った映像、8mm映像(っぽいもの?)の挿入や、洞口依子を正面から撮って "わけのわからぬ" 妙に哲学的・政治的(?)なセリフを独白する彼女を延々と写したり。若き黒澤監督がゴダール好きだったんだな~、って感じさせる映画だ。もっとも今回見たのはもちろん撮り足して再編集された『ドレミファ・・』で、もとの『女子大生・・』の方がどのようなものであったかはわからない。撮り足しの部分だろうが最後は河原の草むらで銃を持っての戦闘(?)シーン。マシンガンの鈍い銃声が響き、ゴダールの『カラビニエ』でも見ている感じ。長め広めのスカートの白い衣装の洞口が銃を持っているラストは、正に『ワン・プラス・ワン』。ゴダールの映画と同じで、論理で筋を解釈・分析をしようとせずに、ただただフィルムに身を任せていると良い。アンナ・カリーナをただただ撮りたいって感じのゴダール映画のシーン同様、洞口依子をただ撮りたいって感じのシーンもイイ。洞口さんて一種独特の雰囲気持っているから、二十歳そこそこで既に。ボクはテレビを見ないからテレビドラマの洞口さん知らないけれど、黒澤と伊丹の映画以外で、こういう洞口さんの独特のキャラを活かした重厚な作品がもっと撮られたら良い(良かった)と思います。5月に『マクガフィン』シリーズの沖縄編の上映が沖縄の首里劇場っていう超趣きのある映画館で上映され、そのとき洞口さんにもお会いしたけれど、その映画の中の彼女も実物の彼女も実に独特の雰囲気があって、それはこの『ドレミファ・・』や『カリスマ』の時と変わっていませんでした。この『ドレミファ・・』、ゴダールと黒澤清の両方のファンで一緒に見たら話がはずむかも知れない。黒澤の廃虚(廃屋)好みの面なんか既にここでも出ているし。もちろん若き日の洞口さんのフル・ヌードも出てくるから、依子ファンにもお勧め。こういう作品がDVD化され、しかもDISCASのような大衆的なレンタルショップで借りられるというは素晴らしいですね。もっと他にも色々DVDして欲しいものです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.30
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家(&店)から歩いて10分の映画館。3年前に閉鎖された「桜坂シネコン琉映」が1年後「桜坂劇場」として生まれかわった映画館。大中小3つのホールをフルに使って、かなり良い作品をたくさんかけてくれます。半分以上、見てもいいかなって作品ですね。会員になると入場料も安く、月曜日はさらに会員割引デーなので、月曜に行くことが多いでしょうか。今年6月までの半年に上映された作品は約100本。下がそのリストですが抜けてしまったものもあるかも知れません。長く上映されるものもありますが、基本は1週間で、しかも1日1回の作品もあるので、どうしても見に行けないものもあって残念です。特に夜だけのものには仕事があって行けません。この映画館はずっと存続して欲しいと思っています。ここがなくなったら、沖縄には他には、メジャー中のメジャーな作品をやる映画館しかほぼないから、映画を映画館で見られるのは1年に2~3回程度になってしまうのでは・・・。『フラガール』『君の名は- 総集編』1953日本大庭秀雄『ヅラ刑事』『ラジニカートン★チャンドラムキ 踊る!アメリカ帰りのゴーストバスター』『海でのはなし』『この世の花』1955穂積利昌『真昼ノ星空』『FIRE! ファイア』『WINDS OF GOD -Kamikaze-』『青春☆金属バット』『海流』1959堀内真直『ディア・ピョンヤン』『エコール』『ヘンダーソン夫人の贈り物』『ブロックパーティー』『ヒョンスンの放課後』『マダーボール』『トリノ、24時からの恋人たち』『クリムト』『花子』『キング 罪の王』『悦楽共犯者』1996チェコ英スイス(ヤン・シュヴァンクマイエル)『長い散歩』2006日本『コワイ女』2006日本『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』『ルナシー』2005チェコ(ヤン・シュヴァンクマイエル)『ビッグ・リバー』『いちばんきれいな水』『パビリオン山椒魚』『久高オデッセイ』2006大重潤一郎『こま撮りえいが こまねこ』『そよかぜ』1945佐々木康『赤線玉ノ井 ぬけられます』1974神代辰巳『壇の浦夜枕合戦記』1977神代辰巳『四畳半襖の裏張り』1973神代辰巳『実録阿部定』1975田中登『無花果の顔』『ダーウィンの悪夢』『拳銃無頼帖・抜き射ちの竜』1960野口博志『拳銃無頼帖・電光石火の男』1960野口博志『拳銃無頼帖・明日なき男』1960野口博志『錆びた鎖』1960齋藤武市『ウール100%』『麦の穂をゆらす風』『ピクシーズ』『ベルリン・天使の詩』『霧の中の風景』『明日へのチケット』『酒井家のしあわせ』『キャッチボール屋』『黒猫・白猫』1998ユーゴスラビア(エミール・クストリッツァ)『ピアノ・レッスン』1993オーストラリア(ジェーン・カンピオン)『魂萌え!』『ひめゆり』『家の鍵』『13歳の夏に僕は生まれた』『プレスリー VS ミイラ男』『SMILE 人が人を愛する旅』『口裂け女』『ジョジョの奇妙な冒険 ファントム・ブラッド』『シリーズ憲法と歩む - 戦争をしない国 日本』『ブラックブック』『子宮の記憶 ここにあなたがいる』『西瓜』『百年恋歌』『迷子』『落日』『恋しくて』2007中江裕司『沖縄730 道の記録』『あけもどろ』『海の祭典 -海洋博総集編-』『ダニエラという女』『キャプテントキオ』『ポリス インサイド・アウト』『ストリングス -愛と絆の旅路』『フランキー・ワイルドの素晴らしき世界』『永遠と一日』1998アンゲロプロス『はなればなれに』1964ゴダール『楊貴妃』1955溝口健二『祇園囃子』1953溝口健二『夜の女たち』1948溝口健二『赤線地帯』1956溝口健二『武蔵野夫人』1951溝口健二『お遊さま』1951溝口健二『善き人のためのソナタ』『孔雀 我が家の風景』『叫』『監督・ばんざい!』『キリクと魔女』1998仏(ミシェル・オスロ)『ベルヴィル・ランデブー』2002仏(シルヴァン・ショメ)『アボン 小さい家』2002日本フィリピン(今泉光司)『グアンタナモ 僕達が見た真実』『アコークロー』『松ケ根乱射事件』『星影のワルツ』(上記は映画館の全上映リストで、自分が見に行ったのは30本弱です。)桜坂劇場HP:www.sakura-zaka.com/監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.29
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SOUS LE SABLEFrancois Ozon95min寸評:オゾン節としてはまあまあの出来か?。シャーロット・ランプリングは『スイミング・プール』よりはるかに良い。F・オゾンの作品を見るのは3本目だろうか。どれも一風変わった話法・筆法の映画だ。『スイミング・プール』は現実と妄想と書かれつつある小説の混交。『ふたりの5つの分かれ路』は物語の時間的逆行。そしてこの『まぼろし』は日本語題が示しているようにまぼろしだ。こういう変わった筆法を使うと、内容のない映画でも観客の関心をひきつける一見意味ありげな作品となる。映画などというのは面白ければそれで良いのかも知れないが、できれば筆法の妙だけではなく実際に描かれた物語がしっかりしていて欲しい。そして更に欲を言えば、そういう独特の語りでなければ表現できない何かが含まれていて欲しい。そういう意味でのボクの印象は、『スイミング・プール』は内容のないまやかし、『ふたりの5つの分かれ路』はなかなかの秀作、この『まぼろし』はまあまあと言ったところだろうか。なぜ辛口な批評かと言えば、それはここまでまぼろしとして夫の姿をスクリーンに出さなくとも主人公マリーの心情は十分に描くことができると思うし、やるならもっと大胆にまぼろしを現実のように描いてくれた方がボク好みだからだ。マリー50歳、ジャン60歳と言ったところだろうか。子供はいないけれど、結婚してもうかなり長いらしく、仲の良い夫婦だ。パリ住まいの2人はヴァカンスでフランス南西部、ボルドーの南の大西洋岸ランド地方のジャンの故郷の家に車を走らせやってくる。ほとんど会話らしき会話はないのだけれど、長年連れ添っている夫婦の雰囲気をシャーロット・ランプリングとブリュノ・クレメルは実に良い感じに醸し出している。何の説明もいらないといった感じ。余談だけれど、スパゲティーを茹でるのにお湯の沸いた鍋にパスタを入れて木ベラで湯に押し込む。自分は当たり前のように菜箸を使っているので「あっ、西洋人は箸使わないよな~」なんて妙に感心してしまう。海岸、それも人気のあまりない静かな浜に行って、砂浜に寝そべって甲羅干しするマリーにジャンは泳いでくると言って水辺へ。しばらくして居眠りしていたマリーが目を覚ますと夫の姿がどこにもない。海水浴場の監視員とか呼んで、警察のヘリも捜索するのだけれど、ジャンは見つからない。事故か自殺か失踪か。捜索願いを出して、マリーは一人パリに帰るしかない。もともと英国人のマリーが大学で英文学を教える日常、友人宅に招かれるなどの生活が再開する。これ以上物語を語ろうとするとどうしてもネタバレになってしまうのだけれど、彼女は文字通りまぼろしと生活をしている。あれは何の映画だったろうか、いつものように2人前のコーヒー入れて、でも相手がもう居ないこと思い出して2つのカップの1つのコーヒーを捨てるシーンがあったけれど、英国人のマリーは紅茶でフランス人のジャンはコーヒーで、両方用意したりしている感じで、映像としてもジャンの姿がちらちら出てくる。マリーのまぼろしということなんだろうけれど。ごく最初は見ていて「あれあれ?、何何?」って思うけれど、夫が居なくなったことを受け入れられないマリーの妄想、まぼろしであるとすぐに理解できる。ヴァンサンという別の男と付き合うようになるのだから、彼女がジャンの不在をまったく理解できていないわけでもない。そういう状態で横たわる彼女にジャンとヴァンサン2人の男の手が愛撫する妄想とか、まったく同じ画面でジャンをヴァンサンに入れ替えて朝食とるシーンとか、オゾン節もちょっと安っぽ過ぎるところもありますね。上にも書いたようにこんな中途半端な小細工しなくてもマリーの心理は十分、そしてもっとスマートに描けると思うし、やるならもっと徹底的にやって、彼女の現実と妄想を浮き彫りにして欲しかった。やがてランド地方の警察から「ご主人らしき水死体が上がった」と連絡受けてマリーは死体確認に向かう。遺留品の時計を見て「違う」と言い、相当に原形を逸した遺体を敢えて見て「夫じゃない」と答える彼女。本当は時計も遺体も夫のものだって彼女にはわかっているのだろうけれど、それを認めないのは、ここに及んでまだ現実を認めようとしないという彼女の心理ではないですね、たぶん。直前に描かれるジャンの母親との会話がそのヒントでしょう。息子独占欲の強いこの母親に「あなたより私の方が息子のことは知っている」って言われた結果だとボクは思う。夫ジャンを自分だけのものにしておきたかったのではないでしょうか。どうせ遺体が見つからなくともいずれ失踪して10年経てば同じことだと知ってもいるわけだし。それで一人去年の夏の浜辺に行って涙を流すんですね。最後は遠くに夫らしき小さな人影を見つけてマリーはその方へ砂浜を駆けていく。走っていく先の人影は最後には消し去って欲しかったですね。実際にでもいいし、走り寄るマリーの陰にでもいいですから。涙を流して夫の死を受け入れたのだから、それでもまだ妄想を続ける彼女というのはしつこ過ぎます。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.28
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アコークロー岸本司97min那覇・桜坂劇場にて寸評:んんん~、なかなか良い映画で~、特に着想は良いけれど~、ちょっと中途半端なのが~、残念でもある。(歯切れの悪い寸評ですが、そんな感じなんです。)アコークローっていうのは沖縄の言葉で「明るくて暗い」というような語源で、昼が夜に移行する時刻を表す言葉なんでしょうが、けっこう年輩の沖縄の人でも聞いたことないって言います。沖縄は南国で、しかも海岸だと空と水平線が広く見渡せて、夕焼けとか赤い暗い空と海、それとまだ明るい青い空が共存して、しかも夕日で照らされた陸地が段々暗くなって見えなくなって、ちょっと幻想的で無気味な雰囲気があります。昼間は明るいイメージがあって、人間の健全な心理のイメージがあって、暗くなるとドロドロした人間の黒い情念が浮上してくる感じがあり、そういう象徴としてはイイ感じのタイトルですね。一方キジムナーっていう沖縄の妖怪?、妖精?、化け物?、そんな生き物が民間伝承にあります。背は小さくて、赤い髪をしていて、好物は魚の目で、ガジュマルの木に住んでいて、日本本土のカッパに合い通じるというか、寂しがり屋で、人に良いこともするけれど裏切られると恨んで復讐するとか、そんな存在。それを人間心理の表と裏の象徴として使っています。アコークローの無気味な雰囲気と人間心理のドロドロを象徴するものとしてのキジムナー、そういう沖縄的なものを組み合わせて人間ドラマをホラータッチで描こうとした発想は実に良くって、基本はかなり成功しているものの、結果は脚本の練りが力不足といった感じなのがとっても残念でした。(以下ネタバレ)物語は、日本本土から来て気の合う友人仁成(尚玄)に出会って沖縄に住み着いた浩市(忍成修吾)というナイチャー(内地からきた人)のもとに、1年前に沖縄に来て浩市と仲良くなった美咲(田丸麻紀)がやってきて一緒に住み始める。仁成は小学生の息子ジンタと暮らしているのだけれど、2人目の子供を死産か何か(あるいはもっとオドロオドロしい何か)で失ってから頭のおかしくなった別れた妻早苗(菜葉菜)がいて、髪の毛を赤く染め、仁成の家の周囲をうろついたり、ジンタの髪を赤く染めようとしたり、色々おかしな行動をとるので、仁成は彼女が家に近付くことを嫌っていた。(以下完全ネタバレ)ある日早苗が鎌を振り回して仁成の家を襲い、居合わせた美咲が経緯上殺してしまう。死体は浩市が近くの大きな池に沈めてる。その日以来仁成や浩市に幽霊となった早苗が姿を現すようになる。そして仁成は首を吊って死ぬ。やがて美咲にも幽霊が見えるようになり、浩市も幽霊に常時監視されて日常生活も安らかに送ることができなくなり、浩市はユタ(霊媒のような、巫女のような、シャーマンのような、そんな霊能者)の影美(エリカ)に殺人と死体遺棄のことは隠して相談する。そこで幽霊の早苗を前にしてユタ影美が行うのは『エクソシスト』の悪魔払いに似ていた。影美は浩市が隠していたことを幽霊との霊能的対話で知り、庭にいた浩市は目を自ら抉り始める。やがて早苗の幽霊は怪物、これがキジムナーだと言うのだろう、その怪物を口から吐き出し、それをユタ影美は飲み込んでしまい、悪魔払いならぬキジムナー払いが終了する。早苗は成仏し(?)、浩市と美咲は自首したのか拘置所に入っている。しかし早苗の死亡推定時刻は鎌で美咲が殺してしまった日ではなく、キジムナー払いをした日だった。拘置所内ですれ違って無言で目と目を合わす浩市と美咲はすべてをさらけ出して浄化された清々しい雰囲気だ。映画では先祖や家の色々な問題を早苗が一人で負わされてしまっていたとかいうことで、その人々の悪意を象徴するのが彼女が身の内に抱えていたキジムナーだということなのだろう。また物語には美咲がかつて姉の子供の子守りをしていて過って死なせてしまったことが絡められていた。しかしこの2人の女性の「何故」に関してほとんど、いやまったくと言ってよいほど何も語られない。また演技的にも示されない。たとえば美咲の演技には陰りがまったくない。ただ「そういうことらしい」とおぼろげに示されているだけだ。ホラーならもっとホラーとして作るか、人間ドラマならドラマとして仁成、美咲、早苗の心理を深く描くか、そのどちらでもないのが中途半端だった。もちろんドラマとして深い人間心理を描く方をして欲しかったが、脚本・監督にはもともとそこまでの深い人間洞察をする能力がないようにも感じられた。映画で詳しく描かないまでもそれが少しでも意識にあれば、こんな中途半端でフラストレーションの残る映画にはならなかったと思うからだ。ただ映画冒頭の長いシークエンスにはこの監督の才能を感じたことを書き添えておく。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.27
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BARNIE ET SES PETITES CONTRARIETESBruno Chiche85minこういう映画は気張って見るものではないけれど、テレビの放送やDVDではなくって、映画館で気楽に見られると良いですね。完全熱烈恋愛モードにはまだなっていない仲の良い友達+αカップルとか、はらはらドキドキの時期を過ぎて関係の安定した恋人や夫婦、そういう状態の人間関係でちょっとしたデートの折に気軽に映画館でこういう映画が見られる生活っていうのは良いと思います。問題は地域的映画館環境と入場料ですが、こうした生活に溶け込んだ映画の受容がなくなったことが蓮實重彦の言う「映画はいかにして死ぬか」っていう論拠でもあるのでしょう。残念ですね。何でこんなことから書き始めたかというと、この作品が映画として物凄く良いとか、感動の超大作だとか、そういうことはなくって、ただただ平凡なヴォードヴィルで、でも捨てがたく、またこういうのを上記のような人と環境で映画館で見ると良いんだろうな~、って一種の感慨や希望のような、ややノスタルジックな気持ちがあったからです。ファブリス・ルキーニの演じるバルニーは45才。結婚15年とかでナタリー・バイ演ずる妻リュシー、中学か高校生の娘セシルと大西洋岸フランス北部の都市カレーに住んでいる。勤めていたフランスの会社が英国企業に買収されて、海底トンネルを走るユーロスターに乗って毎日ロンドンまで遠距離通勤。この普通に家庭を愛しているらしいバルニーは平凡な中年サラリーマンっぽくて、また妻とも表面的にはそこそこラブラブに見えるけれど、実はロンドンに男と女2人の愛人がいる。25才くらいの若いフランス女性マルゴとイギリス人男性マーク。でもここでバルニーって男女バイセクシュアルなの?、とか深く詮索するべきではない。軽いドタバタ恋愛喜劇だから、そこはまあそういう設定だ、ってくらいで良い。ちょうどバルニーの45才の誕生日で、誕生日のプレゼントにオリエント急行で一緒にヴェニスに行こうという同じ日のチケットをマルゴ、マーク、リュシーの3人からもらってしまう。エマニュエル・べアールの出た『恋は足手まとい』の原作なんかもそうだけれど、ヴォードヴィルっていうのはもともと舞台劇で、2人の愛人とか主人公にとっては出会ってもらっては困る2人の人物が同じ家に来たりして2人を会わせないよう奔走したり、誤魔化して紹介したりっていいうどたばたが演じられるわけですが、この映画の物語もその流れです。考えてみれば17世紀のモリエールの喜劇とか、18世紀ペルゴレージやモーツァルトのオペラ・ブッファとかも筋には似たりよったりな部分があり、西洋の娯楽の伝統なんですね、こういうの。(ややネタバレしますが)バルニーは妻からの招待を受けるべくマルゴとマークには断りの手紙を同封してチケットを送り返すんですが、手紙を入れ違えて2人に互いのことが知れてしまい、で2人は共闘してカレーのバルニー家に乗り込みます。経緯上夫婦ってことにしたりして・・・。この辺の芝居で言えば第一幕に相当する部分は筋の流れも小気味良いし、洒落たセリフもあって面白いです。(以下かなりネタバレ)実は妻の方も娘の学校の教師と火遊びしてたりなんですが、夫婦は当日駅で再会して仲良くオリエント急行で出発。ところがマルゴもマークも返されたチケットがあるわけで、それぞれ別の新しい愛人と同じ列車に乗っている。結末をも含めてこの第二幕は第一幕ほどの出来ではありませんが、ともかくも楽しもうと思えば楽しめます。舞台だと幕ごとくらいにしか場面設定を変えられないのに対して映画ではそれが自由ですから、そういう制約がない現代のヴォードヴィルとしてのこういう映画は良いのではないでしょうか。要は単純に楽しむことです。人を判断するのに年令のことは考えたくない自分なんですが、必要なので書くと、この映画の撮影時のナタリー・バイは50才を過ぎていました。どなたが30才の女性の役を50才の女優が演じるような伝統がフランスにはあると書かれていました。また「結局フランス人って、とにかく "やりたい" だけなのよね」なんてレビューも良く目にします。またどなただったかフランスの年輩の女優さんが「フランスの男だって結局のところ若い女の方がいいのよ」とかどこかで言ってました。でも実際ここでのナタリー・バイ、もちろんアップで見ると目の周りなどにシワはあるんですが、それでも女性として魅力的ですね。25才のマリー・ジランなんかより魅力的かも知れない。幾つになっても「恋愛をする女性として現役である」っていう(もちろん男性も)文化がフランス女性の魅力かも知れません。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.26
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恋しくて中江裕司(原案 BEGIN)99min寸評:良い評価と同時に酷評もあり、また中江監督の沖縄との関わり方に対する批判まであったが、迷った末見にいって良かった。かなり勝手な見方なのかも知れないが、若い主人公のラブストーリーやBEGINに模したデビュー物語など表面的にストーリーと思われるものは実は素材ないし道具に過ぎないのであって、映画のテーマはもっと別のところにあるような気がする。中江監督や中江作品のファンでもなければアンチでもない。中江裕司というと、沖縄で生活するようになって街で見かけたり、ときどき色々うわさを聞いたりする以外は、沖縄に来る少し前にDVDで見た『ナビィの恋』という一種独特の時間感覚の不思議な映画の印象がおぼろげにあったのみだ。ところが今回この『恋しくて』を見始めて少したった頃、急に『ナビィの恋』が蘇ってきた。蘇ったと言ってもストーリーやら映画作法ではない。時間の感覚だ。マルセル・プルーストは「ある作家の本を読むとき、初めて読む1冊目の読書は本当の読書ではない。2冊目を読んで1冊目との共通することに気付いたとき、それが本当の読書だ。」というようなことを言っている。今回映画でこのことを体験した。ストーリーではなくその底に流れる時間が『ナビィの恋』と『恋しくて』で共通しているのだ。そしてそれに気付いたとき、この時間感覚こそが実は中江映画の真のテーマなのではないかと思えてきた。(以下ちらほら少しネタバレ含みます)映画は真っ黒いスクリーン、真っ暗やみに何か微かに音は聞こえるか聞こえない、ほとんど何も聞こえない、そんな始まりだ。やがて少しずつ画面が明るくなる。窓の外が明るくなっていき、夜明けを時間を短縮して描いている。ベッドに女の子らしき寝姿が見え、高校生になった加那子の部屋の朝だとわかる。目覚めた彼女はハンガーに吊るしてあった真新しい制服を身につける。この出だし、別に大して凝っているわけでも目新しいものでもなく、高校生の下着姿を写したりして中江監督は何考えてるるんだって感じなのだけれど、映画の途中にも海と空の風景が夕暮れなどを時間を短縮して描かれたものが挿入され、最後は映画の物語のバンド「ビギニング」の演奏風景が巧みにBEGINに入れ代わって、映画の作中の時間と現実の時間が混交されるラストで、これらは実は一貫した時間の描き方の各要素なのだ。そう言えば『ナビィの恋』でも若い二人の結婚披露の席でカチャーシーが踊られ、その間に時間が経過して二人には既に子供が出来ているというのがラストだった。具体的な映画の筋としては、高校生になって再会した幼馴染みの栄順と加那子のラブストーリーに、加那子の兄セイリョウの一声で始めたバンドのサクセスストーリーが実在のバンドBEGINの物語をなぞる形で絡めて描かれ、それに兄妹が幼い日に奄美に行ったまま消息の分からない父親の物語が加味されている。しかし見ようによってはそのどれもがとりとめない。描かれ方も半ばコミカル、半ばシリアス。この辺と、やや冗長に描かれる高校生バンドの音楽、そして妙に沖縄紹介的な部分、そうしたことがこの映画を批判する人の根拠であるようだが、これらは実は真のテーマではないと気付くと納得が可能となる。実はある種の「人間的時間」と人の生きる人生観のようなものがこの映画のテーマではないか、と。中江監督は沖縄でばかり映画を撮っているが、このある種の「人間的時間感(観)」はことさら沖縄のものではない。人が生きるとき、それが何処であっても根本にあることだ。カラテ部に入って情熱を燃やす加那子、加那子と栄順の恋、バンドにかける情熱と成功への物語、行方不明の父の記憶、『ナビィの恋』で言えばオバアの古い恋物語や現代の若い2人の恋、時間感覚が曖昧なオペラ歌手やバイオリンを弾くアイルランド人の物語、と言うより生活の一齣、そして結婚式でカチャーシーを踊って一時の現在の喜びに酔う人々、こういう人が生きるときに持つひとつひとつの出来事や情熱・情念、要するに時間の流れの中での人の生のはかなさ。ただそういうものとの一体感が沖縄の人々の生き方には強いのだ。それは人間存在の哀しみであるのだけれど、自然やその時間の流れの中にそのことと一体となって生を営むことを知ったとき、それは大いに慰めに満ちたことでもある。中江監督の映画のテーマはこの点で一貫しているのではないだろうか。冒頭で夜明けの時間の経過とその中での加那子の日常を描き、ラストでは映画の作中のバンドであるビギニングの時間を現実の(映画外の)BEGINの時間に移行したこと、これは単なる安っぽい常套的映画表現である以上に、映画的時間やそこに描かれた人々の生を長い自然の時間の中に位置付ける作法なのではないかと思う。中江作品、ちょっと他のも見てみたくなった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.25
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正確に言うと「日本の古い映画」と「日本に限らず時代劇映画」と言う意味で、どちらかと言うと、もちろん例外はあるけれど、ボクの苦手とするタイプの映画だ。ここでもっと正確に説明を加えるなら、日本の古い映画とはおおむね戦前の映画で、時代劇映画の時代とは特に近代以前の時代設定の映画のことだ。SF映画には(SF小説も同じだが)、方向性として2種類あると思う。1つはかなり芸術的ないし実験的映画になると思うが、未来の社会や人間の心性を想像・探究する試みのもの。人が権力欲を持たなくなった社会や、戦争などの争いなどない社会などを考える映画とかだ。このタイプのものは皆無ではないにしても、そう多くはない。しかしこのタイプの映画に現代人の心性を持ち込んでしまうと、たちまちもう1つのタイプに転落してしまう。第2のタイプ、ありきたりのタイプは、時代設定を未来にしているだけで、描かれる人間が現在と大して変わらない映画。時代を未来に設定すれば、東京⇔大阪を5分で移動できるという設定だって可能だし、人間の転送やタイムマシーンだって可能だ。たんにそういう技術の変化そのものに魅力を持たせる映画も可能だし、そういう設定を使って現代の現実的道具だてでは表現しにくい「現代の」人の心性を描くことも可能だろう。ソ連映画にはSFが多いと言う人もいるが、あまり見ていないので良くはわからない。ソ連のSF映画で思い浮かぶのはタルコフスキーの『惑星ソラリス』が筆頭か。ソ連映画にSFが多かったのは、現代を舞台にするよりも抽象性が高く、検閲にかかりにくいかったからだという。反体制的と断罪される映画を作れば監督といいう職を失うことだってあったし、下手をすれば国家によって暗殺されたり、刑務所に入れられてしまう社会だったからだ。そういう意味ではソ連のSFは保身のための第2のタイプだったのかも知れない。古い映画や時代劇の話をするのにSF未来劇の話になってしまったが、説明として分かりやすいので使ったまでだ。なぜなら時代劇にもSFと同じ2つのタイプがあるからだ。1つは中世なら中世の社会や人々を描いた作品であり、もう1つは時代設定を中世にしているだけで、描かれる人の心性はおおむね現代のものというタイプ。前者にはどうしても後者の性格が混入してしまい、ウソっぽさを感じてしまうので好きになれない。後者では古い時代設定と登場人物の現代とかわらぬ心性のギャップにやはりウソっぽさを感じてしまう。古い時代設定の映画でこの違和感なしに見られた映画で、今すぐ思い出すことのできたのはパゾリーニの『デカメロン』と『カンタベリー物語』、あるいは『豚小屋』だろうか。それでは何故古い映画については「日本の」という限定を付したのか。ボクは決して歴史に詳しいわけではないので、あくまで勝手な思い込みだが、日本の江戸時代250年というのは、社会や人々の心性の変化がのろかった時代ではないだろうか。少なくとも鎖国で海外との交流は少なかったし、人口だって3千万くらいでずっと変化がなかった。それが開国や明治維新による急速な近代化・西洋化で社会や人々の心性は大きく変わった。250年を一気に消化しなければならなかった。そして戦後の民主化でまた大きく変わった。そしてボクが生まれたのはこの民主化以後の時代なのだ。だからそれ以前の人々、映画に描かれる社会や人々も、映画を作った監督などの人々も、その心性が自分のとはある種の断絶があるような気がする。だから考古学として当時の人々や社会を知るための資料にはなっても、映画として直には楽しめないものが多いのだ。しかし欧米、特にヨーロッパの映画は違う。たとえばここしばらくの間に見た古いヨーロッパ映画は、イングリッド・バーグマン初期スウェーデン時代の『ワルプルギスの夜』(1935)やヒッチコックの『バルカン超特急』(英1938)だけれど、時代や映画のテンポがゆっくりとしている点はあっても、あるいは女性の地位が今ほど自由ではなかったりするけれど、人々の心性や社会は本質的に何も変わっていない、現代に連続しているのだ。物的な面でも自動車の存在は現代と同じだし、着ている服だってモードの変化はあっても今と同じく洋服だ。こんなわけで、古い日本映画と広く時代劇映画が苦手なのですが、みなさんはどうですか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.24
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THE LADY VANISHESAlfred Hitchcock白黒93minヒッチコックの作品はとりあえず目を通しているものが多いのですが、この作品は見ていませんでした。『バニー・レイクは行方不明』(米1965)とともに『フライトプラン』の下敷きになった作品だということで、『フライトプラン』を見たのでに見ました。『バニー・レイクは行方不明』の方はそう簡単に見られないようですが、リメイクの計画もあるそうです。1人のレディー(子供)が走行中(飛行中)の列車(航空機)という密室空間から消えてしまって、それは主人公の妄想かという疑問があって、その謎が明かされてしまうとサスペンスではなく、最初の失踪を仕組んだ悪党との対決というアクションになってしまう。監督の関心は前半のサスペンスを描きたいという方にあるのだろうけれど、映画全体はどうしても途中で明かされる謎、つまり悪党がやろうとした行為の枠に統合されてしまう。この辺のバランスを上手く取るのが難しいのだろうけれど、ヒッチコックのこの作品にもそこに無理があったように感じました。そしてそれを下敷きにした『フライトプラン』も同じ印象です。前半のサスペンスと後半のアクションを2本の別の映画のようにしっかりと作ってくっつけるか、あるいは悪党がやろうとしたことの物語をしっかり構成して、その一部にサスペンスを上手く組み込むか、そのどちらかが必要なのだと思います。まあそういう不満が根底にはあっても、これはボクがこの種の映画に期待する個人的趣味の問題でしかないわけで、映画としては1938年制作ということをも考え合わせて、超一級の娯楽作品だと思います。最初の方のテンポがややのろいのと、かなり強引な筋運びも、時代的な素朴さと捉えれば、現代でも十分楽しめます。サスペンスの描き方といい、様々な人物描写といい、伏線的構成といい、ユーモアといい、実に楽しく見られる作品ですね。ナチスの台頭で微妙だった国際的政治状況を物語の基本に据えていることなどは、当時のイギリス人観客にとってはアクチュアルな味でもあったのだと思います。バルカンのリゾート地からロンドンに向かう列車の中で、主人公アイリスが一緒に食堂車でお茶まで飲み、同じ車室にいたはずのレディー・フロイが、アイリスが居眠りから目を覚ますと消えていていない。そして同乗のどの乗客もそんなレディーは居なかったという。出発の際に駅で落ちてきた植木鉢が頭に当たったための彼女の妄想なのだろうか。ただ1人彼女に協力的なギルバートと2人で列車中を探しまわる。意外な展開が2人を待っているが、その伏線は映画冒頭、雪崩による鉄道不通で避難していたホテルでの出来事に既に描かれていた。もう70年近く前の古い映画だけれど、サスペンスなので完全ネタバレはしないでおきます。この時代の欧米映画を見ていると、確かに登場人物が比較的有産な階級だということもありますが、女性が既に現代にも通じる独立した女性(意志を持ち、その意志を外に表すことができる等)であるのが、古い日本映画と違って違和感なく見られるのが好きです。(ちょっとネタバレになりますが)、ロンドンに着いて列車を降りるときにアイリスが着ているテーラードな細身のスーツ、これを着た彼女が車の中で抱き合うシーンがあるけれど、こういうファッションは女性を美しく見せますね。現代の薄地でルーズで、直に身体の線を出すファッションも良いけれど、しっかり着込んだこういうファッションは慎みの中に強く女性を強調しているのではないでしょうか。キスをしながら首に回されるスーツの細い細い袖の腕などはとてもエロティックにさえ感じられます。男女関係の距離感などもそうですが、こういう古い文化・習慣の中に、実は今と本質的に変わらぬ姿の女性を見せてくれるところが、このような古い映画を見る楽しみでもあります。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.23
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別の日記にいただいたコメントへのレスを書いていたら長くなったので、ここに独立した文として掲載させていただきました。Nさん、天国はティクヴァ監督の『ヘヴン』(リビシが出てます)、地獄はタノヴィッチ監督の『美しき運命の傷痕』(原題は「地獄」)、煉獄はまだ予定なし。「まだ」と言ってもどれだけの遺構があるかはわかりません。キェシロフスキという人は、いつの頃からかは知らないけれど『デカローグ』の時は既に、まず「原案小説」のようなものをピェシェヴィッチと一緒に書く。これは「小説」と言っても、独立した小説として読めるようなものでもない。あくまでセリフも入った映画の詳しい筋書と言えるかも知れない。そしてそれをもとに映画脚本を書いていく。そういう意味でいちばん形を成していたのはたぶん『天国』で、『煉獄』は「原案小説」プラスα程度かも知れません。共同脚本家ピェシェヴィッチとの間のメモとか。キェシロフスキは『トリコロール』三部作を終えて、「もう監督はしないっ!」って宣言した。そして若手の監督のための脚本としてこのダンテ『神曲』三部作を書き始め、完成前にベロニカのように心臓病で急逝してしまった。もし生存して脚本を完成していたら、『デカローグ』のときのように愛着が湧いて自分で監督したかも知れない。表現者の「もう映画は作らない!」等といったことは、そのときの偽らざる気持ちではあっても、生涯変わらないという保証などありはしない。キェシロフスキ存命中に完成された脚本を渡されて映画を作る監督は、大監督の脚本というプレッシャーはあるだろうけれど、これは通常の映画作り。でも死後に遺構を演出するとなると、キェシロフスキの「代役」というプレッシャーがあったと思う。そんな状況で中途半端な映画作りをしてしまったのがダニス・タノヴィッチの場合だったのではないかと思います。キェシロフスキの名前を外してタノヴィッチの『美しき運命の傷痕』を見たらどうかというと、妻と3人の娘の物語を統合する要素、あるいは4人それぞれの物語の何故などの描き方が、希薄でリアリティーを欠く三文ドラマになってしまってますし、キェシロフスキの映画からの引用があまりにも多過ぎます。それでもまあ、『美しき豪華なる駄作』としてそこそこ楽しんで見ることはできますが・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.22
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LOVERSJean-Marc Barr99min寸評:愛と自由の関係を描いた辛辣な人間観察の物語。製作費は480万フラン程度で、普通の映画の約1/5の予算でも立派な映画が作れるという見本。以前エロディ・ブシェーズとジャン=マルク・バールが出演した『日曜日の恋人たち』という作品を見て、エロディ・ブシェーズの別の出演作を見てみたくての鑑賞。共演だったジャン=マルク・バールが監督してます。この作品はフランス映画なのにタイトルは英語で『LOVERS』。パリが舞台ですが主人公の男性がユーゴスラビア人という設定でフランス語があまり話せず、フランス人の恋人と主に英語で会話をする。だからタイトルも英語にしたのでしょうか。それを受けて日本語タイトルも『ラヴァーズ』なのかも知れませんが『LOVERS』でないのはかえって中途半端ですね。「愛し合う2人」くらいが適当かも知れません。と言うわけで、愛の物語、あるいは愛の自由の物語、更に愛と社会の物語でしょうか。フランスに不法滞在のユーゴスラビア人男性の画家とフランス人女性の恋の物語です。多少ネタバレになりますが書いてしまえば、男がビザ切れ不法滞在を見つかって国外退去を命じられる。でも2人は愛し合っているのでそのまま隠れて一緒の暮らしを続けます。2人の心には常に再度見つかって強制国外追放になって別れなければならないかも知れないという不安がある。その意味では愛し合う男女の愛と社会制度の対立の物語であることは確かです。別の言い方をすると2人はそれぞれ社会を背負って存在する個人だということです。そしてそれはここではフランスという社会を背負った彼女と、ユーゴスラビアという社会を背負った彼の、フランスという社会の中での自由や拘束なんですが、ボクの印象としては、たとえフランス人同志であってもやはりそれぞれ何らかの社会を背負っているという意味で、もっと普遍的なものを描いていると感じました。例えば男性であることと女性であることで既に背負っているものが違っていて、必然的対立の可能性があるということです。以下完全ネタバレ結局ユーゴスラビア男性は警察に見つかって強制送還になり、2人は別れなければならなくなります。彼が連行され、残された彼女はアパルトマンの階段を呆然と昇ってゆき、それは手持ちカメラでずっと追われ、5分くらいの長い一続きのシークエンスで、彼女の喪失感がひしひしと伝わってくる見事な演技&カメラです。でも見終わって思うのは、もし本当に2人が別れ難く結びつき、愛し合っているならば、一緒になる方策はあるわけです。たとえば正当な手続を踏んで彼女がユーゴスラビアに行き、彼と結婚するとか。でもそういう希望的ラストではない。社会制度に拘束されて2人は別れなければならないのではなく、実はそれぞれが背負う社会(別の言い方をすれば自分自身で自分を拘束している思い込み、更に言い換えればアイデンティティー)から自由になって愛を成就することが出来ないということなのだと思います。障害を克服して純愛を成就するハッピーエンドのラブストーリーはたくさんあり、そして夢物語としてそれはそれで良いのですが、実はこの映画のような見方の方がより我々人間の現実を直視しているように思います。2人が ほ ん と う に 深く愛し合っているのは事実なんですが、しかし 自 分 からは自由になれないという辛辣な人間考察だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.21
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IRREVERSIBLEGaspar Noe99min寸評:好きな映画か?、人にお薦めの映画か?、楽しい映画か?、もう一度見たい映画か?、と問われれば NO と答えるだろうが、あって良い映画か?、評価するか?、名作か?、真面目な映画か?、できれば見て欲しい映画か?、と問われれば YES とボクは答えるだろう。強姦と暴力を扱った映画だが、モニカ・ベルッチの役が女性なのに アレックス と名付けられている点と映画ラストにベートーベンの交響曲が流れる点が、この映画を解釈するポイントかもしれない。映画を見てひとときの楽しみを得ようという向きには決してお薦めはしない。特に映画とはストーリーを語り、演じるものだと考える人にはお薦めできない。原題は IRREVERSIBLE(不可逆的な、元に戻せない、取り消せない)。日本題『アレックス』はモニカ・ベルッチの演ずる役の名前だが、本来女性の名前ではない。では何故アレックス?。想像するに『時計じかけのオレンジ』の主人公の名前からきている。このキューブリックの傑作の中でマルコム・マクダウェル演じるアレックスはその暴力性の精神改造治療のために椅子に縛りつけられ、まぶたを開いたままに固定され、残虐な映像を無理矢理長時間見せられる。BGMはアレックスの好きなベートーベンの第九交響曲。治療の結果アレックスは暴力の衝動が湧いたりベートーベンの第九を聞くと吐き気を催すようになる。ギャスパール・ノエのこの映画はいわばこの『時計じかけのオレンジ』のアレックスの位置に観客を置く映画なのだ。映画の最初の30分間には28ヘルツの超低音が鳴っているらしい。ヒトの可聴域ギリギリのこの低音は必ずしも耳では聞こえないが、胸郭から知覚され、ヒトに吐き気やめまいを催させると言う。(以下完全ネタバレ)物語はいくつかのシーンが時間的に逆行して描かれる。それを時間順に立て直してストーリーを書いてしまおう。かつてピエールと恋人(夫婦?)関係にあったアレックス(モニカ・ベルッチ)は今はマルキュス(ヴァンサン・カッセル)と暮らし幸せな日々を送っていた。どうやら妊娠したらしい。ある晩ピエールと3人で一緒に行ったパーティーでマルキュスはドラッグとアルコールで羽目を外していた。そんな彼を見てアレックスは家に帰ると言い出し、一人では危険だとマルキュスやピエールが送っていくと言うがそれを断って彼女は一人外に出る。タクシーに乗るため広い通りを渡ろうと横断地下道を使うが、そこで男に襲われ、強姦された上にボコボコに暴行を受けてしまう。ピエールとマルキュスが外に出るとパトカーや救急車が来て騒然としていたが、2人はアレックスが襲われたことを知り、血だらけのアレックスが救急隊に運ばれるところだった。そんな2人に話し掛けたのは地域を島にしているというチンピラ。「警察に任せたって犯人が捕まるかどうか分からないし、捕まったところで刑務所に入るだけだ。オレ達に任せれば警察より先に見つけ出してやるから、復讐すればいい。」と取引きを促す。そして浮上した人物はル・テニアというホモでポンビキの男。マルキュスはピエールを無理矢理連れてそのル・テニアがいるというホモSMクラブ ル・レクトゥム(=直腸)に潜入するが、SMゲイプレーで渾沌とする中をマルキュスはル・テニアを狂ったように探し回る。マルキュスは腕をへし折られ、犯されそうにもなるが、ル・テニアは別の男に消化器で頭をめった打ちにされて息絶える。警官隊が来て男は逮捕され、暴行を受けたマルキュスは救急車で運ばれていく。既に書いたように映画は時間を逆行して進むが、まず娘を強姦して服役していた脂ぎったデブが部屋で男に語っているシーンから始まる。外が騒がしくなり、ル・レクトゥムの事件のシーンとなり、そして更に逆行してル・レクトゥムでの暴行シーン。そしてアレックスが地下道で強姦・暴行を受けるシーンとなる。このル・レクトゥムでの過激な暴行シーンや9分とかの映画史上最長の強姦シーン等が批判された。しかしそういう現実があることを観客に示すことが必要なのだ。まさに観客は『時計じかけのオレンジ』のアレックスの位置に置かれる。肌を露出した服で深夜の街に一人で出るアレックスを自殺的行為だと言う人もいるが、正に物語のこの 平凡性 こそが不可欠な点で、特異な物語では強姦や暴力の現実を普遍化できない。そして時間は更に逆行して幸せだったアレックスとマルキュスが描かれ、妊娠を確認して喜びに浸るアレックス、そして昼間の公園で明るい服を着たアレックスが日光浴をしていて、周囲には戯れる無邪気な子供たちが描かれる、平穏な明るい世界の描写に戻って映画は終わる。そして「時はすべてを破壊する」というテロップ。妻子が暴行されたり殺されたりして、夫が復讐をするという物語はよくある。しかしそういう映画はその夫の個別の物語を描くことになってしまうし、また場合によっては復讐のためということで正当化しておいて、バイオレンスを描くことが目的と思われる映画もある。そして最後に復讐が成功したとき観客はスカッとする。しかしこの映画は違う。最初の30分に吐き気やめまいを起こさせる28ヘルツの音が入っているように、過激な暴力や強姦のシーンを見せ、観客に嫌悪感を催させる。そして時間を遡って平穏で幸せだったアレックスやマルキュスを見せる。それによって観客は、現実に存在する暴力や強姦のおぞましさを再認識させられ、思い起こさせられ、考えさせられるのだ。地下道でアレックスが襲われかけているところで、長い地下道の遠い向こう側に現れた通りすがりの男が写される。しかし彼は事を避けて立ち去ってしまう。現実に存在する暴力を考えないようにしている多くの人々のあり方を象徴しているのがこの人物だ。そこから抜け出して必要な現実直視を促そうというのがこの映画の目的だと思う。そのためにはこの映画は マイナーな 映画ではならなかった。それでは 特殊な映画 で終わってしまう。だからモニカ・ベルッチやヴァンサン・カッセルという人気俳優の起用が是非とも必要だったのだと思う。また観客が見たくないと感じるような過激な暴力・強姦シーンがなければ映画の目的は達成されない。その観点からこの映画の過激な部分は正当化されると思う。また最後にベートーベンの交響曲第7番が流れるが、ここでも『時計じかけのオレンジ』への関連を監督は示している。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.20
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DSCENTE AUX ENFERSFrancis Girod85min寸評:悪く言えば土曜サスペンス的ですが、それなりにやっぱり映画。特に後半はソフィー・マルソーの演技も良く、なかなか楽しめました。タイトルについて:カタカナのタイトルが気になります。ENFERSは地獄の意味ですが、読みはアンフェール。だから『デサント・オ・ザンフェール』ですね。DSCENTEは「下りて行く」という意味で、全体をなかなか良い日本語にしにくかったのでしょうが、自分なら『地獄への道行き』くらいが内容的に考えてしっくりくる感じです。ソフィー・マルソーっていうとどうしても『ラ・ブーム』と切り離せないところがあって、しかも(orなのに?)この映画は『ラ・ブーム』でマルソーの父親役だったクロード・ブラッスールと年令の離れた夫婦役。なんとも妙な感じがしました。最初の方はやっぱり彼女の「あのイモ演技」(←批判の対象であると同時に彼女の味でもある)なんですが、後半はなかなか微妙な心理の役作りが出来ていて、そこそこ見応えがありました。映画冒頭、場所は夜のハイチ・ポルトープランスのひと気のない場末。男の叫び声が聞こえ、服が血で汚れたアラン(クロード・ブラッスール)が逃げるように歩いてくる。アランは宿泊中のリゾート・ホテルに戻ってきて、人に見られないように自室へ。若い妻ローラはベッドに寝ているが、物音で目を覚まし明かりをつけると服を血で汚した夫アランがいた。「何をしたの?」と問うローラだがアランは何も答えない。場面は変わって2人がフランスからここハイチの空港に到着したときの映像となる。この映画には原作があって、トリュフォーの『ピアニストを撃て』(1959)やジャン・ジャック・ベネックスの『溝の中の月』(1982)と同じアメリカの作家デイヴィッド・グーディスの小説だ。その小説の原文の朗読なのだろうか?、「上手く行かない愛をカバンに詰めてハイチにやってきた」とかいったナレーションが重なる。アラン自身もそこそこ有名な推理小説作家で、ここハイチでもタイプライターで執筆をしているが、アランによって書かれている小説は自分と妻のことを書いているもので、それがこの映画の物語をも説明する。アランはローラの姉と5年間つきあっていたらしいが、妹ローラと出会い首ったけになったらしい。一緒に街に出ても望遠レンズを付けたカメラで遠くから彼女を撮影している。撮られる彼女も夫の方を見てポーズをとったり、微笑んだりと和やかな感じだ。しかし一緒にホテルにいても彼女は部屋に閉じこもっていて、夫には悪意はないが冷たく、ほとんど相手にしない。そんな状況でアランは飲んだくれている。彼女はホテルで知り合った若いハンサムな男性に誘われベッドをともにするが、彼女は不感症だ。そんな部屋の様子をアランは外で立ち聞きしている。そんな彼女だが、部屋で先に寝ているベッドに酔った夫が戻ってきて横になると、後から夫の背中を静かに抱き締める。そんな日々の中でちょっとした経緯からアランは現地人の男を殺してしまう。映画冒頭のシーンに戻るわけだ。(以下ややネタバレ)ここまでにも、そしてこの後も、ローラがたぶんアランと知り合う以前の、トラウマとなったある恐怖の体験のフラッシュバックが挿入されている。パリのメトロで男に襲われたらしい断片的記憶映像だ。このトラウマの全貌は最後に観客に明かされるが、この出来事があってから彼女は普通の人々、彼女の言葉で言えば「鏡に表側」ではなく「鏡の裏側」に住むようになってしまっていた。そして夫が殺人犯になることでアランも同じ「鏡の裏側」の住人となる。これまでアランに求められながらも決して口紅を塗らなかったローラは怪我で入院している夫の病室を訪れ、口紅を塗って夫を抱きながらすべてを告白する。(以下ネタバレ)それまで無気力のような、感情を表すこともなかったローラだが、彼女は血の付いた夫の服をひと気のない場所で焼くなど証拠隠滅に奔走する。しかし2人は結婚するという現地黒人ビジューとベルギー女性に5万ドルを強請られる。ビジューが夫の犯行を見ていて、指紋のついた凶器も持っているというのだ。お金の工面はなかなか上手く行かないが、彼女は単独行動で宝石類を売ってお金を作り、直接ベルギー女性と会って証拠の凶器を返してもらう。ローラは凶器を海に投げ捨てる。一方その頃アランは死体から腕時計を奪った黒人の青年が殺人罪で捕まっていることを知り、警察所長に自供しに行くが、証拠もないので取り合ってはくれない。実はこの警察所長と殺人容疑の黒人青年は、同じ美貌の若者をめぐる恋仇だったのだ。アランはビジューを訪ねるが、ベルギー女は金を手に入れると彼を捨てていなくなっていた。そして麻薬でラリったビジューは何を思ったかアランを襲い、格闘となった2人はどちらも怪我をして入院してしまう。知らせを受けたローラが病院を訪れ、口紅を塗って夫を抱きながらすべてを語る。かつてメトロで彼女は男に襲われた。ひと気のない地下通路で男にナイフを突き付けられてキスをされ、犯されそうになるが、男の持っていたナイフで男の股間を刺して逃げたのだ。その日から彼女は「鏡の裏側」に住むようになった。そして今アランも同じ「鏡の裏側」の住人になったと言う。鏡の裏側という「地獄」への2人の道行きというわけだ。夫のアランが殺人を犯してからのソフィー・マルソーの役作りはなかなか雰囲気をもっていた。映画としてはこの「鏡の裏側」という彼女の心理がイマイチ明確ではないのだけれど、あるトラウマにより正常な精神生活を持てなくなったローラの喪失したような心理を良く演じていたと思う。このフランシス・ジロという監督の映画はこれまで『見憶えのある他人(悪魔の囁き)』と『ピンク泥棒』を見たことがあるが、どちらも伝統的手法で手堅く映画作りをしていた。読んでいないので詳しくはわからないが、デイヴィッド・グーディスの原作小説の雰囲気を映画化するのは難しさがあったと思う。時間的には85分というまだまだ余裕のある長さであり、もう少しローラの心理やなぜ20才も年長のアランに惹かれたのかが明確に描かれていたらもっと面白かったのかも知れない。しかしそれでも特に後半のマルソーは見甲斐がなかなかあった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.19
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THE ROAD TO GUANTANAMOMichael WinterbottomMat Whitecross96min那覇・桜坂劇場にて寸評:米国がキューバの粗借地にあるグアンタナモ基地にテロリスト容疑者を収容して虐待・拷問等を行っている事実を広く知らしめる価値は高く認めるけれど、映画作りとしては「甘い」と感じた。でも多くの人に見てもらいたい映画だ。アシフの両親はパキスタン人だが、イギリスはバーミンガムの生まれでイギリスに住み、国籍もイギリスだ。彼は両親の勧める結婚をするためにパキスタンへ。そこで結婚相手にも会い、結婚を決めるとイギリス住む友人ローヘル、シャフィク、ムニールの3人を呼び寄せる。4人は合流するが、時はちょうど米英軍によるアフガニスタン侵攻の頃。4人は隣国アフガニスタンの惨状をこの目で見ようと国境を越えた。最初は良かったがパキスタンへ戻ろうとしてやがてタリバンと北部同盟の抗争に巻き込まれ、タリバンの一味として北部同盟軍に捕まってしまう。またその過程でムニールとははぐれてしまう。3人はアフガニスタン北部の収容所に移送される。狭い場所に溢れる捕虜を収容し、交代しなければ横になって寝ることも叶わず、食料もほとんど与えられず、そこは劣悪な環境の収容所だったが、国際赤十字が来てからは少し良くなった。しかし英語を話す彼等3人はテロリストとして米軍によってキューバにあるグアンタナモの収容所に移送・収監されてしまう。ここはキューバの返還要求を無視して米国が租借し続けている場所。「キューバ国内でもアメリカ国内でもなく軍法のみが適用される治外法権区域」「容疑者はテロリストと見なされれば裁判にかけられる事もなく逮捕・長期拘留されるようであり、"犯罪者"と"捕虜"の処遇を使い分けるアメリカ連邦政府の都合で無期限に拘留される」(以上引用Wikipediaより)。挿入されるニュースフィルムのブッシュ大統領やラムズフェルド国務長官は「人道的処遇をしている、おおむねジュネーブ条約に準拠している」と語るが、捕虜ではないので捕虜の処遇を定めたジュネーブ条約に従う必要はなく、またアメリカではないので合衆国憲法の定める被疑者の権利を尊重する必要もないので、彼等3人を待っていたのは何十年続くのかもわからない虐待と拷問の日々だった。映画は再現フィルムとでもいったののにニュースフィルムや生還した3人のインタビューが挿入され、ドキュメンタリー風に作られていた。この映画を見て比較してしまったのが、スターリン時代のポーランドやチェコを扱ったブガイスキの『尋問』やガヴラスの『告白』だ。2作品ともある日主人公は突然逮捕・拘禁され、身に憶えのない犯行の自白を迫られる話で、どちらも劇映画だが後者は実在の事件に基づいている。『尋問』の方は見終わった後にある種の清々しさを与えてくれる作りだが、2本とも国家権力が個人におよぼす力の恐ろしさを身にしみる形で描いている。『グアンタナモ』のパキスタン青年3人は2年間も拘留され虐待・拷問を受けたのだし、グアンタナモにはまだ750名も収監されえいるというのだから、決して軽い話ではないはずである。虐待・拷問の各種が品位を保った形で描かれてはいたのはよい。米国が行っていることの周知や批判の目的は達せられているし、その意味では評価はしたい。しかしそれなのに胸にグッと来るような恐怖感というのが残らなかった。ブガイスキ作品、ガヴラス作品と比べて、思うに2つの違いがあるのではないかと今思っている。1つは尋問する側の者が、1人1人が細切れで短く登場するだけで、その欺瞞や卑怯さなどがあまり描かれていなかったこと。つまり人としての尋問者と人としての被疑者の「人」がやや描き足りない。第2点は、このグアンタナモの物語が根底に持つ人間や政治一般に関する「人間や社会の本質」への普遍性に繋がっていないことだ。米国のグアンタナモを批判する、ただそれだけなのだ。ブガイスキ作品、ガヴラス作品だって扱っていたのは1つの事件であり、一般性への言及があるわけではなかった。しかし見る者は人間や社会の悪にまで考えることを誘われた。『グアンタナモ』にはそれが希薄だ。思うに2人の監督には米国を批判する意識はあっても、虐待する兵士や権力の側に立ったときに自分も同じ悪を犯してしまう可能性のある存在であるという意識が少ない、あるいはそこを敢えて排除したのではないだろうか。イギリスのドキュメンタリーに少なくないとボクが感じている「自分を部外者の立場に置いて他人の出来事を高みから描く」というものの1本のような気がした。そういう意味で物足りなかった。(以下ネタバレ)彼等は結局2年間拘留されるが、イギリスでのアリバイがあり、特にイギリスで軽い犯罪を犯していた1人のアリバイを証明するのは英国警察でもあり、3人はイギリスに移送されて釈放される。しかしここグアンタナモには750名もが収監されており、そのうち起訴されたのはたったの10名、有罪判決を受けた者は1人もいないという。しかし米国はテロ容疑者の大量収監を続けている。イギリスで解放された3人は再びパキスタンを訪れ、そこでアシフの結婚式が行われた。ちなみにアフガニスタンで離れ離れになってしまったムニールの消息は分からない。この事件をきっかけとして3人の青年が成長したこと、また世界の見方が変わったことも語られるが中途半端な感じだった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.18
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ILS SE MARIERENT ET EURENT BEAUCOUP D'ENFANTSYvan Attal104min寸評:前に同じイヴァン・アタル監督3年前2001年の『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』を見たけれど、またまた細君シャルロット・ゲンズブールと自身も夫婦役で登場する、私的ホームビデオとでもいった作品。ボクの印象ではやや公私混同気味。シャルロット・ゲンズブールとイヴァン・アタルはリアルで夫婦。前の『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』ではシャルロット・ゲンズブールは女優シャルロット・ゲンズブール役、イヴァン・アタルは映画俳優/監督ではなくスポーツ記者のイヴァン役で、夫婦で夫婦を演じていた。今回シャルロットは不動産会社勤めのガブリエル、アタルは自動車ディーラー勤めのヴァンサンで2人は夫婦。前回はシャルロットの浮気の話だったけれど、今回はヴァンサン(アタル)の方の浮気話。ヴァンサンにはジョルジュとフレッドの2人の仲の良い友達がいるけれど、ジョルジュは妻と喧嘩が絶えず、フレッドは独身主義で何人もの女と付き合っている。妻子持ちのヴァンサンとジョルジュは身軽に遊ぶフレッドを羨むが、フレッドの方は独り身の生活の寂しさを語る。(以下ネタバレ)ヴァンサンはマッサージ師の愛人を作り、妻ガブリエルは薄々そのことに気付いて悶々とした気分でいるが、愛人はレストランで偶然隣の席にいたヴァンサンの妻ガブリエルを知ってしまい、それが原因でヴァンサンと愛人は上手くいかなくなって別れる。夫婦は都心ではなく郊外の一軒家に住むことにして引っ越すが、喧嘩しながらも続いているジョルジュ夫婦、恋人の1人が妊娠してよろこぶフレッドのカップルが食事に招かれる。3カップルはそれぞれ色々ありながらも一応幸せそうだ。最後は不動産会社勤めのガブリエルが、偶然にも以前レコード店で目にして心惹かれた男性を物件に案内し、エレベーターの中でその男性との熱烈な抱擁をする妄想シーンで終わる。原題は文字通りには「彼等は結婚してたくさん子供ができた」だけれど、ちょっとフランス語文法のことを説明すれば、ここで動詞は会話などで普通に使われる複合過去ではなく書き言葉の単純過去が使われていて、「そして2人は結婚して、たくさんの子供ができ、幸せにくらしましたとさ」というお伽話か童話の最後によくある文だと分かる。映画の中でジョルジュは「妻1人と他すべての女性」と嘆き、またヴァンサンとガブリエルの小学生の息子ジョゼフ(演じたのはアタルとシャルロットの実子ベン・アタル)はベビーシッターの女性や通学のバスで出会った綺麗なお姉さんに惹かれていて、母ガブリエルに「どうして好きになる女性は1人だけじゃなきゃいけないの?」と質問したりする。童話の最後の書かれた「結婚して末永く幸せ」という物語と、現実の男の浮気心と、どちらが正しいのかなんて疑問を提起した物語だった。前の『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』でもアタルが知合いの俳優やモデルなどの有名人や自分の両親等を出演させ、今回も名俳優・女優のクロード・ベリやアヌーク・エメを自分の両親役で出演させたり、なんかいい加減この人は何考えてるのかな、って反感のようなものも感じてしまう。実生活でのシャルロットとアタルの関係がどんなだかは知らないけれど、実際の妻シャルロットを自分ヴァンサンの妻役で出演させ、自分の浮気に悩む妻役をシャルロットに演じさせる。それをさせられるシャルロットでどんな気分なのだろう。仕事としてそういう夫婦役を演じるだけではなくって、それを仕組んでいるのは監督でもある夫なわけだから。いい気になってるのはやめて真面目に映画作ったらどうなんだ、イヴァン・アタル君よ!!。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.17
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SWIMFANJohn Polson85min寸評:サイコ・エロチック・サスペンス・スリラーとしては、まあまあそこそこというか、暇つぶしになる程度だろうか。自分はエリカ・クリステンセン見たさで見た映画。少し前に『フライトプラン』を見たときに、アメリカ映画音痴のボクはジョディ・フォスターしか知らなかったのだけれど、乗員の1人を演じていた女優さんが妙に目に止まった。人は良さそうで優しそうにも見えるのだけれど、どこか一歩身をひいて他人を冷徹に見ているようで、女の色気を発しているようで、どこか醒めているようでもあり芯が強そうで、何でもない端役なのだけれど、兎に角何かオーラがあって、グラマーではあるのだろうけれど、やや太めでいわゆるスリムな美人女優さんというのでなく、不思議な魅力を感じました。主演のジョディ・フォスターを除けば、この映画の中でいちばん存在感を感じた人だった。それで調べてみたらエリカ・クリステンセンという人で、DISCASで検索したら他に出演作が3つあったのだけれど、他の2本は自分の見るような映画ではなさそうなので、この『プール』を見ることにした。ニューヨーク郊外か何処かの高校に通うベンは、水泳では次期オリンピックの有力候補なんて言われるぐらいで、優しく綺麗な恋人エイミーもいるし、周囲の友達にも恵まれているし、充実した幸せな高校生活を送っていた。ある日親がヨーロッパにしばらく行くということで、従兄のいるこの高校にマディソンという女子高生が転校してくる。ベンはロッカーの鍵を開けてあげて彼女と知合うのだけれど、気ままでエロっぽく、でも自分の中に籠るようで静かな彼女に何処か惹かれてしまう。彼女を車で轢きそうになって彼は送っていくのだけれど、帰ってみると車には楽譜の書かれた彼女の手帳が忘れられていた。そして泳げない彼女に泳ぎを教えたとき、彼女に迫られてベンはプールの中で彼女と関係を持ってしまう。このときベンは自分には恋人もいるし・・とか言うのだけれど、彼女の魅力と押しに負け、このときだけ一度きりということで関係をしてしまうのだが、その後何かとマディソンはベンに付きまとってくる。そんあことからベンは悩み、ちょうど名門大学からスカウトが来るというのをひかえていながら、邪念のために思うような成績があげられない。その上彼の周囲には色々な事件が起き始める。(以下ネタバレ)バイトをする病院で誰かに患者に配る薬をすり替えられて患者は死にそうになり、責任を取らされてクビになったり、水泳のライバル選手がベンの指紋のついた野球バットで殺されて殺人を疑われたり、身に憶えはないのに禁止されているステロイド剤の使用が発覚して水泳生命を絶たれてしまう。まあそんなお話なのだけれど、サスペンスでもあり結末を書くのは控えよう。この映画は公開されたときアメリカでは「全米初登場第1位」ってことでヒットしたようだけれど、内容的には大したことはない。この映画、85分という短さだけれど、もっとじっくりベンと犯人の心理を描いていたらもっと面白くなったと残念だ。マディソンについて言えば親はヨーロッパに行ったということだし、他の女子高生と違って1人フォーマルっぽい服装で、奏するのもチェロでクラシック音楽だし、そういう彼女の特異な雰囲気をもっと描いてくれたら良かったと思う。死んだ同窓生の葬式の場面で彼女がしていたフォーマルな喪服にベールのついた帽子、ちょっとクラシックなスタイルの衣装なんか良かった。そういう意味で描き足りず、ちょっとガッカリ。あとは犯人がパトカーで護送されるシーン、銃声が聞こえるだけで映像では写されないが、安易に警官殺しを使ってしまうところもちょっと疑問だ。事件の内部に関わる人以外の死は描かない方が良い。不必要だから。あとは脚本にちらほら穴もありました。エリカ・クリステンセンは、ややわざとらしい化粧で登場させられているが、演技はあまり上手くないながらもある種の存在感はやっぱりあって良かった。ほとんどこのままのストーリーで良いから、フランス映画風にもう少し人物の心理を深く、たとえそれが浅薄な内容であっても、描いていたらもう少しマトモな作品になったかも知れないし、クリステンセンを楽しませてくれたかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.16
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メイン機(これもかなり古いPowerBookだが)が昨夜から不調で、予備機(10年近く前のiMac)を2年ぶりに起動してネットにアクセスしている。ブラウザ等も古く機能が足りないので、みなさんからのコメントへのレス等遅れるかも知れません。ここに予めお詫びしておきます。ご理解のほどを。また日記自体書くのも手間がかかってちょっと大変。映画のDVDはテレビで見られるものの、PAL盤など一部のものはしばらく見られない。早くなんとかしないと・・・!。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.08
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テレビ(放送)は見ない自分なので、映画を見るのは映画館かDVD等なのだけれど、映画館やレンタルDVDはある程度何を見るかが意図的。購入DVDも価格が高いから同じだ。でもときどき何の気なしに何か映画が見たくなることがある。そんな時のためにネットオークションで格安VHSを何本も買ってある。レンタル落ちのVHSはまとめて買うと送料や振込手数料を含めても1本あたり80円とか120円くらいで買うことができる。最近はそれも少なくなってきたけれど、結構良い作品がまだまだある。DVDをレンタルするより安いし、場所はとるけれど好きなときに何度でも見ることができる。4~50本買っても普通のDVD1枚分の価格。めぼしいものを見つくろって時々買っている。昨夜と一昨夜でまた15本ほど買ってしまった。で家に既にある在庫を調べたらまだ未見のものが30本もあった。まだ見ていないPDの格安DVDを含めればこれで50本以上。VHSはDVDと比べれば色々な意味でクオリティーは落ちるけれど、かつてはレンタルVHSを見ていたわけだし、映画を見るには十分だ。DVDで見ても駄作は駄作だし、VHSで見ても傑作・名作は傑作・名作だ。中にはDVD化されていない作品もあるし、世の中のDVD化の流れの恩恵を受けている。嬉しいことだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.06
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WICKER PARKPaul McGuigan114min寸評:ジル・ミモーに監督の1996年フランス(伊西)映画『アパートメント』のリメイク。かなり忠実なリメイクで、しかしラスト(結果的に物語全体)が変えられていた。このラストにすると元の映画では必要だった色々な部分が無意味となり、無断ではない体の良いパクリというか脚本作成の省略ではないのか。この映画としてだけ見ると、2人の基本ストーリーとそれ以外の部分との整合性がない。結局人間を描こうとするフランスとハッピーエンドのラブストーリーの好きなアメリカとの差か。物語の主要登場人物は主人公マシュー、彼が現在働く会社の上司(or経営者?)の妹でマシューの婚約者レベッカ、マシューのかつての恋人で2年前に姿を消したリサ、マシューの親しい友人で靴店経営のルーク、ルークの恋人、2年前の時点で既にリサの友人だったアレックス、現在のリサの愛人でリサと結ばれるために妻を交通事故に見せかけて殺したらしいor本当に事故で妻を失ったばかりのダニエル、この男3名女4名の計7人(と一応しておく)。物語の現在はシカゴ、レベッカとの婚約を控えたマシューが中国に出張するというところで始まる。レストランでマシューはレベッカの兄とともに中国の企業家と商談をしている。元の映画『アパートメント』でリサを演じたのはモニカ・ベルッチだが、笑えるのはこのレストランがBellucci's Restaurantと名付けられていたこと。そこにレベッカも登場。彼女は店に入るとき慌てて外に出る女性にぶつかられるが、このシーンは巧みに構成された物語の伏線でもある。電話をしに席を立ちマシューは店内の電話キャビンに向かうが女性客がすでにいた。彼がトイレに入ると隣にあるキャビンから女の声がした。それは2年前に突然姿を消した恋人リサらしいことに気付くが、後ろ姿だけの彼女は急いで店を出て行き、急いでいたのでハイヒールのヒールを片方折ってしまう。これも伏線。とにかく元映画の脚本はこういう意味では実に綿密に練られている。マシューが彼女の去った電話キャビンに入ると新聞とホテルのカードキーが忘れられていた。夜レベッカが中国に発つマシューを空港まで見送るが、上海に向けて出発すると見せかけてマシューは出発せず、中国企業にはマシューは食中りで行けなくなったことを電話で伝え、電話キャビンにあったカードキーのホテルの部屋を訪ねるが、そこにはリサは不在。しかし飛行機の中で眠るためにと飲んでいた薬の影響で部屋のベッドで眠ってしまう。目を覚ますと朝。メイドが洗濯物を届けにきたりして、慌てたマシューは部屋に忘れられていたコンパクトと破り捨てられた新聞記事を持って部屋を去る。記事は隣のトイレから電話キャビンでリサらしき女性が話していたのを聞いたダニエルという男の妻の葬儀の広告だった。マシューはルークの靴店を訪れ、車を借り、その葬儀に行ってみる。こうしてマシューは2年前に姿を消した恋人リサ探しを始める。そして映画はマシューとリサの出会いや別れなど2年前の回想と、出張に行かなかったマシューがリサを探す現在とが平行して描かれ、その2つが現在に至るように合流して、その後ラストの結論的部分が描かれるように巧みに構成されている。(以下ネタバレ)映画はそういう複雑な構成をとっていて、サスペンス性もある。だから映画の進み方をその通りにここに書くことはちょっと無理なので、完全ネタバレにはなりますが、だからどういうことだったのというのを書いてしまいます。実は2年前、アレックスが誰にも知られずマシューを好きになるんですが、マシューはリサと恋仲になってしまう。自分に自信がなく引っ込み思案のアレックスは自分の気持ちを外に出すことが出来ずただただ陰ながら思い続ける。そしてリサが急な仕事で去ったときに彼女の伝言をマシューに知らせない。そして2年後の現在、マシューがリサを探しているのを知り、マシューの友人であるルークに近付き、またリサをしつこく追いかけるダニエルから逃れたいリサを家に泊めたりで、ようするにマシューとリサ両方の動静を知ることで2人が再会するのを巧みに阻止する。登場人物紹介で上に「一応7人」と書いたが、それはネタバレを避けるためで、ルークの恋人とリサの友人アレックスは同一人物だ。悪い女のようだけれど、ただただ一途なんですね。鍵を手に入れたマシューは現在のリサの部屋に入るんですが、そこに帰宅してきたのはアレックス。アレックスは警察を呼ぶとかドタバタを演じるけれどそれも作戦で、最終的にマシューを上手く誘って彼と一夜をともにする。アレックスはマシューに抱かれるのだけれど、マシューが好きなのはリサなわけで、彼女の念願が成就されるといっても悲しい形です。そしてアレックスはルークに別れを告げて去る。マシューはロンドンに発つというリサを求めて空港に行きますが、それは行っているはずの中国出張からちょうどマシューが戻る日で、迎えにきたレベッカと出会う。マシューは2年前から好きな人がいたとレベッカに告白して別れを告げ、空港内で座り込むリサと再会して抱き合うというハッピーエンド。ようするにこのリメイク版の基本ストーリーというのは、色々な障害でなかなか結ばれない2人が、結果として最後に結ばれるという物語で、アレックスの手管やダニエルの存在は2人の障害を構成するに過ぎないわけです。これを元の『アパートメント』と比較してみましょう。元の作品ではリサはリザ、マシューはマックス、アレックスはアリス、ルークはリュシアン、レベッカはミュリエル、ダニエルはダニエルですが、混乱を避けるためにフランス版の方の説明にも米リメイク版の名前を使います。映画の冒頭でマシューはレベッカの婚約指輪を宝石店で選んでいて、どれにするか決められないマシューに宝石商が言うのは、米版では「目でなく心で決めて下さい」ですが、仏版では宝石商が3つの指輪を解説し、それが3人の女性を象徴している。つまりマシューは3人の女性の1人を選べないということです。事実仏版マシューは思いを残すリサがいながら、現在はレベッカと婚約中で彼女を嫌いではなさそうだし、出張をさぼってまでリサを探していながら偽リサ・アレックスに誘われればベッドインしてしまうし、仏版ではアレックスが思いを綴った日記を読んでほだされたマシューはローマに発つ寸前の彼女を空港で捕まえて一緒になろうとするし、でも結果的に迎えにきたレベッカと会えばそれもやめてレベッカと元の鞘に収まるし・・・。つまりマシューというのは優柔不断で、自分が求められ惚れられればその女のもと走る男。リサはリサで2年前のマシューに未練があるものの、金のためだか何だか解らないけれどダニエルの愛人になっているし。つまりこの物語というのは、リサとマシューという本当に深く愛しているのか、愛していたのか、あるいは一途であると言えるのかどうかややあやしい2人に、深い情念をもったアレックスとダニエルという2人が関わる物語なのだと思います。仏版のそれぞれの人物を見てみると、ルークとレベッカには大きな性格的意味はないとして、マシューは上に書いたような人物。深い情念でリサを愛し、リサと結ばれるためにもしかしたら妻を事故に見せかけて殺したのかも知れないという、謎と怖さを持ったダニエル。米版では窓のカーテンに映るリサ(実はアレックス)とマシューの陰を見て諦めたらしいだけだけれど、仏版では部屋で待ち伏せしてリサが帰ってくると部屋に火を放って無理心中するという男の情念。またリサがそうした仕打ちを受けるのも、ダニエルを弄んだのだから当然の報いだ。アレックスは陰ながら一途にマシューのことを思い、彼とリサとの関係を妨害するけれども、一夜マシューに抱かれ、思いを綴った日記を渡すと去っていく。空港に追いかけてきたマシューと一緒になる風を見せ、ローマ行きはやめて荷物を取ってくると言うけれども、彼女は出国手続きに向かう。マシューに本当に愛されはしなかったことを認め、マシューとリサとの恋を妨害し、ルークを利用しただけの彼女の責任の取り方であり、情念のなせるわざだ。米版ではたんなる横恋慕をする子供のようなアレックスで、このような深い情念は描かれないし、結局最後はどうなっちゃったの?って感じだ。このように原典では人物の設定や、その因果等にしっかりとした辻褄があり、アレックスとダニエルの恐ろしいほどに強い情念があるから、映画のサスペンス性にも実体があるのだ。だから結局たんなるハッピーエンドのストーリーとしてしまっては、そうしたすべてが死んでしまう。オリジナルを見たときは、まあまあの出来で75点程度かなと感じたが、このリメイクを見ることでオリジナルの内容がさらに良くわかり、オリジナルの評価を80点か85点まで上げてくれる効果があった。リメイク自体の採点は50~55点といったところだろうか。リメイク版で一つだけ面白かったのはマシューが中国にいるということにしてレベッカに電話をするシーン。ルークの店でのことなのだが、この靴店のインテリアが中国趣味でガラス扉に書かれた店名も漢字なので、あたかも本当にマシューが中国から電話をしているようだったのが面白い。あと気付いたのはリサを演じたダイアン・クルーガーがオリジナルのベルッチにやや似ていて、またフランスの女優サンドリーヌ・ボネールに似ていたこと。アレックスを演じたローズ・バーンは目の化粧や髪形からイザベル・アジャーニを思わせるところがあったこと。しかし演技は深い情念ではなく幼い横恋慕といった感じだった。細かいことで言えば、1996年のフランスと2004年のアメリカという差があるのだが、マシューは携帯電話を持っており、リサに知らせる電話番号をその携帯ではなくルークの家の番号にしたところが不自然だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.05
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DAS LEBEN DER ANDERENFlorian Henckel von Donnersmarck 138min那覇・桜坂劇場にて寸評:壁崩壊による東ドイツ消滅直前の国家保安秘密警察シュタージを扱ったヒューマン・ドラマ。『ヒトラー 最期の12日間』や『白バラの祈り - ゾフィー・ショル、最期の日々』がごく平凡で、表層的に観客の心をつかもうとしているのに対して、この映画では淡々と静かな演出が登場人物の心を描き、また歴史的東ドイツを描いている。日本語タイトルとそれを中心としたコピーは誤解を招く。邦題はなるべく直訳に近いものが望ましいが、この映画の原題は「他の人々のLEBEN」で、このLEBENの和訳が難しかったのだと思う。英語・仏語等は簡単にLIVESとかVIEで良いのだが、「生、生命、生活、人生」等々を同時に表す日本語はないのではないか。また日本は自分以外の人々を「身内と外部者」に分ける文化で、ANDERENの訳語も実はない。他者ではピンと来ないし、他人では別のニュアンスがついてしまう。ただ一義的に捉えるなら盗聴をするヴィースラーから見たドライマンとクリスタの生活と捉えればよいのではないかと思う。「善き人のためのソナタ」というのはベートーベンの『熱情』ソナタに関してレーニンが言ったという「この曲を真剣に聴くと悪人にはなれない」という言葉をなぞらえて映画に登場する「善き人のためのソナタ」という曲であり、またその題名をとってドライマンが出版する本の題名だから見当違いの訳題とも言えない。しかしこのソナタの映画の中での扱いはそれほど大きくない。ヴィースラー大尉はなるほどドライマンがこの曲を弾くのを盗聴で聴いて涙を流すけれども、それは盗聴することでドライマンとクリスタという心の通った人の生活を知ることの一部でしかない。チラシや予告編のコピーは「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」を中心としていて、日本版予告編でも終始このピアノが流れている。しかしドイツ版やフランス版の予告編ではこのピアノは流れない。日本のあらすじ解説では必ずこのソナタのことが語られるが、英語やフランス語の解説を読むとこのソナタにはほとんど触れられていないことの方が多い。(日本以外上のどのチラシにもソナタへの言及はない。)この映画のレビューを見ていて「ピアノ・ソナタがヴィースラーの心を変えたのが描かれてない」という不満も目にしたが、明らかに予告編とコピーが誤解を招く予備知識を与えてしまった結果だ。『ゾフィー・ショル、最期の日々』も『白バラの祈り』という情緒的なタイトルを付して、それをメインとしている。この映画についても各国の題を調べたが、イタリアで『La Rosa bianca(白バラ)』が付されていただけで、あとはだいたい原題の『ゾフィー・ショル、最期の日々』のまま。このイタリア語題も「祈り」などという情緒的な語はない。とりあえずは観客を呼び寄せることは必要でも、誤解を与えるようなコピー等はあまり望ましいとは言えない。情緒に訴えることで観客を呼ぼうというやり方はそろそろ卒業してもよいのではないだろうか。思想的に国家体制を維持するための国家保安機関。スターリン時代のソ連では国民5830人に1名のKGB、ナチドイツでは国民2000人に1名のゲシュタポ、そして東ドイツではなんと国民63人に1名の割合のシュタージがいたという。この映画を見ながら(聞きながら)ちょっと思ったのはドイツ語という言葉の存在だ。国民性や文化が言葉を作るのか。言葉の性格が国民性や文化を作るのか。恐らくその両方だろう。シュタージのような徹底した綿密な管理システムは、やはりドイツ語と不可分のような気がした。ヒトラーの演説にしてもそうだ。チャップリンの『独裁者』の中のヒンケルの演説も英語ではあるけれどドイツ語を模していた。1984年東ベルリン。この映画で監視されるのは体制に認められた劇作家のドライマン。この人物はブレヒトになぞらえられてもいるのだが、決して反体制思想の持ち主ではなく、理想主義的社会主義者だ。「ネクタイはブルジョワ文化の残滓」と言いネクタイも結べない。彼もヴィースラー同様真摯な人間で、問題は現実の官僚体制の腐敗であり、結果としての生活の非人道性や表現の不自由なのだ。彼はやはり評価の高い舞台女優クリスタのパートナーで、彼女と一緒に暮らしている。しかしこのクリスタに文化大臣ヘンプフが関心を持ち、恋人であるドライマンを葬り去ろうとシュタージに監視を命ずる。担当はヴィースラー大尉。またヴィースラーとシュタージ養成学校で級友だったグルビッツ中佐はこの一件の成功で出世をしようと目論んでいる。(以下ネタバレ)ヴィースラーという人物、映画の最初の、40時間眠らせない尋問の仕方を養成学校で講義するのなんかを見ていると、その無表情さもあって冷酷で無慈悲な冷血漢に見えるけれど、ようするに真面目で真摯な人間。その辺が地位を利用して女をモノにしようというヘンプフ大臣や出世のためならなんでもするというグルビッツ中佐とは違う。ヴィースラーは「社会主義は身近なところから」と言い、役所の食堂では幹部席ではなく一般席で食事をするような人物であり、社会主義体制を信じている。ところが盗聴することでドライマンとクリスタの愛ある心の通った生活を知り、何か違うんではないかなと思い始める。そんな2人の生活に接していたたまれなくなり、人との交流を求めて娼婦を呼ぶけれど、ことが済むとその娼婦が時間でさっさと帰ってしまうのは寂しい。人とのつながりを希求するようになる。ようするに孤独。そしてクリスタがドライマンに嘘をついてヘンプフ大臣に会いに行くのに出会ったとき、「今あなたのしようとしていることは、本当のあなたではない」と言い、彼女を思いとどまらせもする。(以下完全ネタバレ)ドライマンの親友で演出家のイェルスカは反体制の烙印を押されたのか、有力権力者の不興を買ったのか、演出家としては葬り去られていた。ドライマンは大臣に彼の名誉回復を進言するがそれも虚しく、悩んだ彼は自殺をしてしまう。ショックを受けたドライマンは1977年以来統計が中止された東ドイツの自殺に関する真実を暴露する記事を西ドイツ『シュピーゲル』誌に隠れて寄稿する。ことに巻き込まないためにクリスタには秘密にしていたが、機種を特定されないために西側の記者が提供したタイプライターを床下に隠すのを彼女に見られてしまう。クリスタに拒絶されたヘンプフ大臣は彼女の抹殺を指示するが、ヘンプフと関係をイヤイヤ持ち、心ならずもドライマンを裏切っているストレスから常習していた非合法な薬の所持でシュタージに逮捕される。尋問を任せられたのはグルビッツ中佐には既に怪しいと勘付かれているヴィースラーだ。彼は助かる道はタイプライターの隠し場所を白状することだと迫り、自分の女優生命や身の自由さえ脅かされ、あるいはまた常習となってしまった薬が入手できなくなることを恐れ、彼女は保身から隠し場所を言ってしまう。しかしグルビッツ中佐らの家宅捜査の直前にヴィースラーはドライマンの家に忍び込んでタイプライターを持ち去る。家宅捜査が行われ、目の前で床板が外されることになったとき、彼女は道路に飛び出し走ってきたトラックに身を投げる。ヴィースラーの助けでドライマンは救われたが、ヴィースラーは手紙の開封作業という最低の地位に左遷される。そして5年後ベルリンの壁は崩壊し、翌年1990年には東西ドイツ統一で東ドイツは消滅。自由になったドイツでドライマンの作品が前衛的なスタイルで上演されている。それはかつて恋人クリスタがヘンプフもいる前で演じた作品だ。いたたまれず途中で席を立ったドライマンがロビーに出ると、やはり途中で席を立ったヘンプフがいた。そして何も知らないドライマンに彼が盗聴・監視されていたことを教える。ドライマンが資料館に行くと膨大な彼の盗聴記録があった。その資料の最終部でコードネームHGW XX/7なるシュタージが自分を助けたらしいことを知る。調べるとかつてのシュタージ幹部ヴィースラーは広告のポスティングで細々と暮らしていた。仕事中の彼を見つけ話しかけようとするが思いとどまったドライマンは『善き人のためのソナタ』という本を書いて出版した。書店の広告を目にとめたヴィースラーが店に入りその本をめくると、「感謝を込めてHGW XX/7に捧ぐ」と献辞があった。レジの係に「贈り物包装にするか?」と問われたヴィースラーが「この本は自分のための本だ」というセリフで映画は終わる。大袈裟な動作もなく、冷徹そうな無表情でヴィースラーという人物を演じたウルリッヒ・ミューエは見事な演技だ。この映画ではドライマンを裏切るクリスタが悪者に感じられがちだが、この点は実は監督は深く追求していないのかも知れない。監督の人間的な関心としては女性よりもドライマンとヴィースラーという男と男の触れ合いにあったような気がしてならない。実際に会うことなく本の献辞によるやり取りがそういう男の美学ではないかと思うからだ。その範囲ではクリスタを演じたマルティナ・ゲデックの微妙な心理を演じた演技も中々のものだと思う。この映画を見て一つ印象に残ったシーンは役所の食堂でのシーンだ。前述の通りヴィースラーはグルビッツと一般席で食事をするが、近くに若い所員か学生が数名がいた。一人が国家評議会議長ホーネッカーを揶揄ったジョークを言おうとして近くにシュタージ幹部の2人がいることに気付き話を思いとどまる。グルビッツに巧みにそそのかされた青年はジョークを話すが、彼が話し終えるとグルビッツは真顔になり名前と所属を問いただし「どうなるかわかってるな」と言い、青年は青ざめる。しかしグルビッツは「これはジョークだよ」と話をおさめる。後日談が描かれないので青年がお咎めなしだったか処分されたかはわからないが、誰を、何を、信じてよいのかわからない監視社会の恐ろしさを描いているという意味で重要なシーンだ。わが国だって共謀罪が成立すれば本質的に同じ状況になる。そういう意味で20年前の東ドイツのお話というだけではなく、現代的意味も持っている。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.04
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