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VA SAVOIRJacques Rivette155min(桜坂劇場にて)本文は後日アップ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.31
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GRANDS SOIRS ET PETITS MATINSWilliam Klein90min(DISCASにてレンタル) 本文は後日アップ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.30
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DREAMGIRLSBill Condon131min(レンタルDVD)本文は後日アップ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.29
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RICORDATI DI MEGabriele Muccino120min(レンタルDVD)モニカ・ベルッチが出ているからそのうち見るものがなかったら借りようかと思っていたが、知人がレンタルしてきたので一緒に見た。夫婦とほぼ成人した一男一女の4人家族。崩壊とまでは言わないけれど各自バラバラ。そんな家族の絆のお話。家族が主人公という考えかも知れないが、家族4人(と父の愛人)の誰か1人か2人をもっと中心に据えて描いた方が良かったと思う。このバラバラの家族だけでなく、映画そのものも求心力に欠けた。最後にほんのちょっとヒネリがないわけではないけれど、ある事件をキッカケに家族が再統合の様相を示す持って行きかたもちょっと疑問だった。夫は同窓パーティーで若い頃つきあいのあったアレッシア(モニカ・ベルッチ)に再会する。彼女には夫も子供もあって、目下夫と関係修復中とか言っているのだけれど、たちまち2人は焼け木杭に火がついて不倫の逢瀬を始める。この夫、軟弱と言うか、夢見がちというか、ロマンティストと言うか、若い頃に書きかけの小説かなんかがあって、その続きをまた書き始め、上司と喧嘩して仕事も辞めちゃったりしてしまう。その夫と仲が特に悪いというのではないけれど互いに無関心で家庭内離婚とでも言った状況にある妻は、かつて舞台女優だったのだと思うけれど、再び舞台にカンバック。バラバラの家庭生活で生き甲斐を求めたのか。でもブランクがあるから自信がないのだけれど演出家が励ます。で夫が不倫してることもあって、段々にその演出家に惹かれていく。で告白すると彼はゲイだった。娘はダンスをやっていて芸能界デビューを狙ってオーディションを受けたりだけれど、歌うと音痴で落選。でも彼女に目を付けた人気芸能人に家を出て押しかけ恋人になったり。息子は自信のない性格で好きな女の子には相手にされない。で親のカードでお金下ろしてマリファナを大量に買って家でパーティーを開くのだけれど、慣れない彼は気持ち悪くなっちゃって、薬がなくなるとみんな帰ってしまう。ネタバレの結末は後で書くけれど、最初からもの凄いテンポで、まあイタリア人は早口でしゃべる、しゃべる。でも最後までほぼ同じ感じで、各登場人物をこっち、あっちって次から次へと描いていく。編集はかなり大変だったんじゃないでしょうか。どの人物にもリアリティーがないとまでは言えないけれど、そして上の方でも書いたように 家族 を描きたかったのかも知れないけれど、結局どの人物の描き方も中途半端な感じ。夫と妻の2人ぐらいをもう少し丁寧に描いていたら面白かったと感じた。でも家族って何なんでしょうね。自分勝手なんて非難もあるかも知れないけれど、所詮はそれぞれ独立した個人であるはず。それをはっきり踏まえないで家族という集合に幻想を抱いてはいけないんでしょうね。放っといたって実は子供だ親だって感情はあるはずだし、一緒に家族の歴史を生きてきたわけだから親しみとか愛着はあるはず。これは夫婦なんてカップルについても言えることだろうけれど、それぞれがそれぞれの個人であることを前提とした上で家族という組織や愛情関係を築くべきなのだと思います。この映画の妻(母)はなかなか魅力的でもあるけれど、娘や夫に対してどこか支配欲のようなものがある。娘の行動にとやかく口を出して娘に「ママは私に嫉妬してるのよ」なんて言われもしていたけれど、自分の人生を充実させればそういうのって人はないはずだと思います。最後のちょっと「でも・・・」って終わらせ方は結局本質的に何ら変わっていない家族を描いているのかも知れません。で、以下ネタバレを含む映画の結末なんですが、これが結構拍子抜けと言うか安易で安っぽい。夫は家を出て愛人アレッシアのもとに走ろうとするのだけれど、言い争って引き止める妻を逃れるように家から道路に飛び出した時、なんとなんとなんと車に轢かれてちゃうんですね。夫と別れてきたアレッシアだけれど、事故で病院に運ばれてしまった男はもちろん約束の場所に来ないし、何の連絡もない。で2人はそれっきり。夫は重傷を負ったものの幸い生命はとりとめ、リハビリをすれば再び歩けるようになるという。この事故がキッカケとなって家族は再び統合していく。ちょっと安易な、哲学のない物語ですね。アレッシアの方は夫と別れて暮らしているのだけれど、スーパーマーケットで2人は再会。で再び彼は彼女に電話を・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.28
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HANGING UPDiane Keaton95min(所有VHS)メグ・ライアンを見る の4本目(通算5本)。ダイアン・キートンの監督作品を見るのは初めて。ありがちと言うか、平凡な発想の物語で、メグの役自体は良いけれど、必ずしも十分に使われていないし、作品自体も弱い脚本に不十分な演出と言った感じ。同じ設定と役者でもっとまともに作って欲しかった。長女ジョージア、次女イヴ、三女マディの三人姉妹。父は母と離婚しているのだけれど、その父が痴呆症で入院。老人性痴呆症って言えばそうなのかも知れないけれど、単なる老人ボケと言うよりも脳いっ血とか生命にも関わる事態らしい。父を入院させ世話をするのは次女イヴ(メグ・ライアン)。彼女は夫も小さな息子もいて、しかもイヴェント会社の仕事もあるから大変。てんぱっちゃていて駐車場で事故を起こしたり。もともと気は良いけれどちょっと不器用な彼女。姉や妹に応援を求めて電話するのだけれど、姉ジョージアは自分が発行する女性雑誌の5周年で忙しく、ソープオペラ女優の妹マディは久しぶりの休暇だと、2人ともイヴに任せっきりで見向きもしない。今は携帯電話・自動車電話の時代だから、四六時中姉や妹から、病院や父親から、そして仕事の電話がかかって来てイヴは電話ノイローゼとでも言える状態にも追い込まれていくけれど、父親の突飛な行動に悩ませられながらも何とか一人犠牲になって不器用ながらもこなしていく。出来、不出来の評価はともかく、たいていの観客は、権威的姉と子供っぽい妹にはさまれた次女といった姉妹の問題とか、老人介護問題を云々しているけれど、実はもう一つ見逃してはならない点が描かれていたような気がした。それは親子のアンバランスな人間関係の問題。それに気付かなかったり、見過ごすことの出来る観客は(皮肉ではなく)幸せだ。自分の中にこのような葛藤や悩みがないのだから。この映画に原作があるのかどうかは知らないが、あればその原作者、脚本家、監督がどれだけ意図的であったかはわからない。でもイヴが事故を起こしたイラン人の母親とのシーンなどを見ると、あながち無意識ではない気がする。イヴの回想シーンで描かれていたのは、例えばイヴの息子の誕生日&ハロウィンのシーン。酔いつぶれた父親は突然娘イヴ夫婦の家に現れ、場をメチャクチャにする。耐え切れなくなったイヴは父親を追い出すが、それに対する父親のセリフは「それが親に対する言葉か。ありがとう。」で、逆切れして去っていく。親は平気で子供の人生や幸せを踏みにじり、でもそれが当たり前と何の反省もないのだ。でも子供の方には払い切れない罪意識がある。姉妹との問題はもちろんある。現在の父親のボケの問題もあるけれど、それとも関連して、この 子供であることの不条理 を物語の中心に据えたらもっと重厚になっただろう(それがこの作品にとって良いかどうかは別だが)。普通の他人同志の人間関係ならば決して許されも、長続きもしない一方的な勢力関係。それを親は当然と思い、子はその理屈は分かっていても簡単に切ることのできない。父親との楽しい思い出を回想することで自分を納得させようとする悲哀。それを親の立場から正当化しようとする発想が 孝行 という言葉だ。離婚した母親にも「私は子供の母親ということで幸せを感じる女じゃないの。」なんて言わせていた。この映画には核がないように感じた。物語の扱いもそうだし、演出自体がそうだ。姉や妹との問題はこのままで良いから、イヴの父親に対するこのアンビバレントな気持ちをもっと物語の中心に据えて描いていたら、映画自体もメグ・ライアンの演技も見どころが多かっただろうと残念だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.27
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JE NE SUIS PAS LA POUR ETRE AIMEStephane Brize93min(DISCASでレンタル)なにせ正反対に近いから度胆を抜かれるけれど、内容を全く無視した 誤訳 の邦題。原題の意味は「私は愛されるために、ここにいるのではない」で、「反語なのかな?」なんて書いている人もいたけれど、映画を見れば「愛される ためではなく 愛する ためにここにいる・生きている」であることが解る。数学的に言えば真なのは対偶なわけで「愛するために、ここにいる」がむしろ正しい。期待が低かったけれど、良かった、良かった。お薦めの作品だ。バツイチの50才の独身男性と、30代後半でもう若くはないけどまだ若い(←??ちょっと変な表現?)、結婚間近の女性との出会いのお話。設定といい、やや重厚な環境といい、主演のアンヌ・コンシニ(コンシニィと表記したいところ、監督の方はステファンヌ・ブリゼと)がサンドリーヌ・ボネール似でもあり、パトリス・ルコントの世界に酷似。ラブシーンと言えるのは1回限りのキスだけで、あとはルコントの『橋の上の娘』がナイフ投げのエロスだったけれど、ここではもう少し直接的だがタンゴが使われている。ルコントの映画は彼の押し付けがましさ、品の無さ、独善性が苦手なのだけれど、そういう意味ではこのブリゼの作品は良かった。描写の細部の詰めという意味では多少物足りないし、アメリカ映画とは言わないけれど説明過剰で冗長性もあるのはちょっと気になるけれど、全体としては愛すべき良い作品だった。主演のパトリック・シェスネも良かったし、なんと言ってもアンヌ・コンシニィが魅力的に好演。ボネールも魅力的だけれど、見慣れないせいもあってか演技がよりわざとらしくなく感じられた。難を言うならルコントの『親密すぎるうちあけ話』同様2人の出会いで女性が男性に惹かれる「何故」がやや描き足りなかった。ルコントとのもう一つに違いは、主人公の男性ジャン=クロードの父と息子との2つの父息子関係が、中心であるフランソワーズとの愛情関係と絡めて描かれていることだろうか。最初にタイトルのことを書いたが、原題ではフランス語的に「私」は男性でなければならず、端的にはジャン=クロードのことだろう。余談だけれど、兄弟の中でただ一人老人ホームの父親に会いに行く子供は、タノヴィッチの『美しき運命の傷痕』にも似た設定があって、こちらでは娘が母親に会いにいくのだけれど、土産に子供が持っていったチョコレートがいつものと違うと気分を害する親の話が同じだった。また夜雨の中を走る車の2人をフロントガラス越しに捉えた映像はルルーシュの名作『男と女』を連想させられた。話自体は恐ろしく単純だ。成人した息子を持つ51才のジャン=クロードは父親の後を継いで法務執行官。子供・学生時代は優秀なアマチュア・テニス選手だったが、今は運動不足で階段を登るにも息を切らす。医師の勧めで事務所の窓から見える向いのタンゴ教室に通い始める。裁判所の判決の結果を執行するのが仕事で、それぞれ人生の事情で借金の払えない人に通告を伝え、アパートあけわたしに立ち会うなどだ。この感情を排さなければならない仕事と多忙で、感情生活を無視して生きている。それは愛情を示そうとしない父親も実は同じだった。窓から見えるタンゴ教室では男女が情熱のダンスを踊るのが見え、たぶん彼の満たされない何かを刺激していた。息子が車で帰っていくのをホームの窓からこっそり眺める父親の姿は、タンゴ教室を窓から眺める主人公ジャン=クロードと同じ姿だ。どちらも愛情を示す、愛する、感情生活をする、そういうことへのなかなか実現できない憧れなのだろう。だから軽度の運動を勧められた彼はタンゴ教室に通い始めるわけだ。そこで出会うのがフランソワーズ。御近所だったのか知り合いだったのか、彼女が子供の頃ジャン=クロードの母親に子守りをされたことがあり、彼と気付いた彼女が声をかける。そして2人は段々に惹かれ合うようになっていく。彼女は高校の進路相談員で、元教師で小説家を目指すティエリーと暮らしていて、近々結婚する。結婚披露パーティーで新郎新婦でタンゴを踊ろうという計画で彼女はタンゴ教室に通っていたのだ。しかし彼女はそのことをジャン=クロードには言わなかった。彼女が黙っていたのはティエリーを愛している、あるいは愛していた、あるいは愛していると思いたいからで、結婚も予定通りするつもりだったが、それでも実際にジャン=クロードに惹かれていく自分に戸惑っていたからだろう。先にも書いたように、キスシーンが一度あるだけで、あとは2人の感情は見詰め合う視線と一緒に踊るタンゴで示されている。それにしてもタンゴとは情熱的なダンスだ。実際のセックスよりも官能的かも知れない。見詰め合い、手と手や肩・腰などが触れ合うのみで、性的欲求の直接的充足も肉体的快感も伴いはしない。そこに純化され、濃縮された情熱がぶつかり合う。(以下ネタバレ)しかしジャン=クロードは、彼女には婚約者との結婚が控えていたことを知って、自分が弄ばれ、侮辱されたと思い、彼女に会うのをやめ、タンゴ教室にも行かなくなる。そんなときホームの父親が死に、遺品から実は息子を愛していたけれど父親がそれを表現できなかったことを知る。また同じようなケースで意地を張って素直になれなかった後悔を秘書に忠言され、彼は再びタンゴ教室に行くのだった。(ラストは書かないでおきます。)作り自体には甘さや安易さ、安っぽさもないわけではありませんが、主演・助演の好演もあって、なかなか良いラブストーリーでした。(物語70点、キャスト85点、演出75点、音楽80点、全体80点、好き度90点と言ったところでしょうか。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.26
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JOURNAL D'UN CURE DE CAMPAGNERobert Bresson白黒111min(所有VHS)先日見たピアラの『悪魔の陽の下に』同様、20世紀前半のフランスの作家ジョルジュ・ベルナノスの代表的小説の映画化作品です。同じブレッソンは後に(1967)ベルナノスの『少女ムシェット』も映画化しています。文芸映画っていうのは難しいですね。見るのも、たぶん作るのも。マルグリット・デュラスとかアラン・ロブ=グリエとか、20世紀戦後しばらくして出てきた、場合によってはヌーヴォー・ロマンなんて言われるこの2人の作家のように、アラン・レネ監督の映画の脚本書いてから自分も映画作るようになった人もいます。そのデュラスがインタビューでこんなこと言っています(フランス語ですがたぶんYouTubeで見られます)。「たとえばギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』なら、読者はそれぞれ自分の『ボヴァリー夫人』像を持っている。小説を読みながら読者一人一人が自分の監督した映画『ボヴァリー夫人』を見ているとも言える。だとすると例えばアラン・レネが『ボヴァリー夫人』を映画化しても、読者でもあった観客は自分が見ていた『ボヴァリー夫人』とは違うと感じる。だからそれには抵抗があるし、見なくても良いとさえ言える。でもその映画化が他ならぬフローベール自身が監督した映画だとしたら、それは見るに値するのではないか。そんなことを自分は考えた。」と。デュラスの言ともつながりますが、ボクはあまり文芸映画っていうのは見ません。見るのはこの作品がどう映画化されているのかな?、この作品をどう解釈しているのかな?、って興味があるときが多いと思います。ベルナノスに関してはその両方があって、で惹かれてしまいます。これで3作すべて見たのですが、今回の『田舎司祭の日記』とピアラの『悪魔の陽の下で』は90分~120分の映画にするにはやはり原作が大部過ぎる感じでした。それでもそれぞれ良く出来ていました。見たのはもうかなり前ですが、小編の『少女ムシェット』が映画としてはいちばんまとまっていると思います。(以下ネタバレ)文芸映画なので、自分もそうですが小説を読んだことがある人が映画を見るわけなので、ネタバレを気にせずにストーリーを書かせていただきます。20世紀前半のフランス。1930年代なのでしょうか。北フランス・アルトワ地方の寒村アンブリクールに若い司祭が赴任してくる。ここでちょっとだけカトリックの組織的ことを説明すると、行政の地域区分に県とか市とか村があって、それぞれに県知事や市町村長がいるように、カトリック教会も国土を分割して人々の信仰生活を統治(?)している。その最小単位が小教区で、そこには教会が一つあって、司祭(や助祭)がいて小教区の信者の精神生活を司り、ミサ等の儀式を行うわけです。というわけでアンブリクールの小教区に主人公の若い司祭が赴任してくる。ところが信者たち、信者と言っても村民すべてが信者であるわけですが、このアルトワの人々になかなか受け入れてもらえない。カトリック教会では公教要理っていう授業みたいなもので子供たちに信仰を教えるんですが、そこでもセラフィタなんて女の子にバカにされたりする。敬愛するトルシーの司祭に相談すると信者たちに受け入れられるように慎重に行動することを忠言される。でも彼はそれに従わない。あまりに真面目で真直ぐなんですね。加えて彼は以前から胃の具合が悪く、パンと砂糖と(節約のため低質な安い)赤ワインしかのどを通らない。アル中の家系的影響もあるらしい。トルシーの司祭に勧められて彼の友人の医師デルバンドの診察を受ける。デルバンドは他の人々とはちょっと違う人間なんですが「彼には衛生観念がない」との噂が広まり、患者を失っていた。そんなデルバンドが自殺とも思える猟銃での事故死をとげ、司祭は動転する。村の名士の伯爵は愛人のマドモワゼル・ルイーズを娘シャンタルの家庭教師に雇っていて、そんな伯爵は真面目一本の彼をあまり良く思っていない。この娘シャンタルは母親を憎んでいるのだけれど、母親(伯爵夫人)は息子を幼くして失って絶望し、それゆえに神を信じることができなくなっていて、それで葛藤がある。ある日この伯爵夫人との会話で司祭は夫人に再び信仰を持たすことに成功する。この場面が原作を読んでいると小説の山場なのだけれど、映画ではちょっとあっけない感じがした。何も上手くいかずに思い悩む若い司祭は、このことで初めて少し達成の喜びを感じるのだけれど、その晩夫人は心臓発作で死んでしまう。娘シャンタルが2人の会話の一部を聞いていたりで、夫人を心理的に追い詰めたとか、アル中らしいというのもあって、司祭の悪い噂がますます広まってしまう。そんな状況で信仰さえも疑問に感じ、少なくても自分のやっていることの無力さで懐疑的にもなっていくが、ある晩大量の吐血をしたこともあって、司祭は詳しい診察を受けるために教区を後にし、地方の大都市リールへ向かうことにする。駅に向かう彼は、外人部隊を指揮しているというシャンタルの従兄弟に出会い、バイクで駅まで送ってもらう。高速で走るバイクの後部座席で風を受けながら、司祭はこれまで彼の知ろうとしてこなかった生きる喜びを感じた。しかしリールで受けた診察の結果、結核だと思っていた彼が知らされたのは胃癌で余命も長くないということだった。神学校時代の友人で今は還俗して女と暮らすデュフルティーの家にやっかいになり、彼に見守られて死ぬ司祭の最後の言葉は「すべては神の恩寵だ」だったことがトルシーの司祭に書き送られる。一種の青春映画とも見れるんですが、ホント暗いです。題名からもわかるように生徒用の質素なノートに綴る日記の文字、それに司祭の声が重なったり無かったり、そしてその場面の映像という映画作りで、作り自体に監督の解釈などもないような簡潔な映画。文体に何の色気もない質素かつ地味な映画だ。最後は司祭の墓なのか十字架のアップの映像で終わる。神の不在とか沈黙というのは例えば戦後のベルイマン映画のテーマであるわけだけれど、ベルナノスの世界、あるいはこのブレッソンの映画はその前触れを捉えたもので、そういう不信仰の人々の罪ないしは苦悩をこの敬虔な司祭が一身に引き受けて死という形で、キリスト受難の物語になぞらえられているのだろうか。『スリ』などブレッソンのファンは意外と多いが、評価はするもののやはりイマイチ性に合わない感じの監督だ。『少女ムシェット』は嫌いではないが。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.25
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FRENCH KISSLawrence Kasdan111min(所有VHS)しばらく間があきましたが、メグ・ライアンを見るの3本目です。メグ・ライアンを見てみようというキッカケとなった『シティ・オブ・エンジェル』を入れて4本目ですが、メグ自体は『シティ・オブ・エンジェル』の次ぐらいに良かったでしょうか。ただ映画全体の出来は まあまあ といったところ。メグ・ライアンのキュートな魅力を見るのにそこそこそれを邪魔しないと言った程度の物語でした。アメリカ人の歴史教師のケイト(メグ・ライアン)はカナダへの研修旅行で医師チャーリーと出会い、ケイトはチャーリーの家族にも受け入れられていて2人は結婚間近。ケイトはカナダに住んでカナダ国籍取得を申請している。ケイトは飛行機超恐怖症で、チャーリーのパリ出張にはついていかない。毎日何度もパリのチャーリーから電話があるのだけれど、あるときフランスである女神に出会って恋をしたから、ケイトとの婚約は解消と電話がある。彼女は意を決して飛行機に乗り、チャーリーを奪い返すべくパリに向かう。この映画、ほぼ大部分を占めるフランス部分で、フランス人同志はちゃんと(英語ではなく)フランス語で話すのは良かったけれど、フランスやフランス人をかなり戯画化して描いていて、人生観や恋愛観など堅苦しいケイトがフランス的にもっと開放されるというのを筋立てとして使ってはいるものの、やはりリアリティーがなさ過ぎる感じでした。監督のカスダンがケビン・クライン好きというのもあるし、アメリカの観客向けには メグ・ライアン&ケビン・クライン っていう宣伝文句が必要だったのだろうけれど、映画のストーリーとしてケイトに対するフランスないしフランス人を代表する役がアメリカ人というのはやはりいただけませんでした。フランスやフランス人を戯画化 と書いたけれど、フジヤマ、ゲイシャ、タタミ、オジギ ってイメージで、でも中国文化と混じったような日本が描かれるのにも似ています。アメリカ人の浅薄なフランスイメージです。加えてエッフェル塔やルーブルのガラスのピラミッドを写したり、メグ・ライアンに凱旋門の前の電話ボックスで電話させたり、フランスには452種ものチーズがあると言わせたり、1995年の映画でシトロエンのDSが走ってたり等々、劇場公開用長編映画と言うよりも、シリーズもののテレビドラマの「パリ編」程度の安っぽい乗りですね。ワインのテースティングの話も出てくるけれど、ケビン・クライン演ずるリュックというこのフランス人をワイン生産者とした物語の根幹も、アメリカ人の安易なフランスイメージに頼っただけですね。さっきフランスの映画サイトをいくつか見てきたのですが、フランス人の観客もやはりその点に抵抗示したものが多かった。日本人観客にはどういう印象か分かりませんが、知らない人に間違ったとまでは言わないまでも必ずしも正しくないフランスのイメージを植え付けるとしたら、それはやはり良いことではないのではないでしょうか。その辺と、物語の浅さを我慢すれば、メグ・ライアンの演技は良かった。キュートでチャーミングで、いいスタンスの役作りと演技でした。やや子供っぽくも描かれていますが、大人の女の魅力と可愛らしさの同居が良いですね。ただここで問題となっているフランスの恋愛観、やはりアメリカ人の理解するもので、フランス人が描く 本物 とはかなり性格が違いました。ケビン・クラインは名演してましたが、やはりアメリカ人。チャーリーの新しい恋人ジュリエットを演じたスーザン・アンビーも、母はフランス系ながら、父はイラン系でドイツ生まれ。フランス人的香りは薄いですね。それをアメリカ人の理解する浅薄なフランス的恋愛観で演出されては、やはりつまらない。これ、フランス人役はフランス人役者にやらせて、フランス人が監督したら面白かったでしょうね。アメリカとは違う人々・文化・恋愛観に触れてケイトが変貌するのが筋書きなわけですから。(以下ネタバレ)そんなわけなので物語の詳細をあまり書く意欲は湧かないのですが、簡単に書いておきますね。ケイトがカナダからパリに向かう飛行機でとなりに座ったのがリュックというフランス人。交配するためのアメリカのブドウの苗木と、ブドウ園のための農地を買う資金としてカナダで盗んだダイヤのネックレス、これを空港で通関の際に見つからないようにケイトのバッグに隠す。ケイトはチャーリーの泊まっているホテルでチャーリーが新しい女と親密にしていのを見て失神してしまい、バッグを奪われる。もちろんリュックが必死で奪い返してくれる。でもパスポートも現金もカードも既になかった。一方リュックはバッグの中のネックレスを取りかえしたい。それで結婚のために南仏カンヌへ行ったチャーリーを追って、彼を取り戻そうというケイトに同行して、初で不器用なケイトの指南役となる。計画は半ば成功するけれど、ケイトはリュックを愛していることに気付く。フランスの刑事ジャン=ポール(ジャン・レノ)がケイトに接触するが、彼とってリュックは悪党ながら命の恩人でもあった。ネックレスをジャン=ポールに返すことで見逃してくれる。ネックレスはケイトが貯めていた4万5千ドルで宝石店に売ったことにして、買取りの小切手をリュックに渡し、その金で土地を買い、そのブドウ園で幸せに暮らすケイトとリュックだった。アメリカ映画や日本映画を見た後に、フランス映画を見るといつも感じるのですが、フランス人ってホントにフランス人らしい存在感があって、男女の場面なんかでもホントにフランス人的雰囲気が、濃厚っていうのではなく、自然に体現されているのに感心します。フランス人は「ただやりたいだけ」って揶揄する方もいらっしゃるけれど、日本における男女のあり方とは根本的に違いますね。男女の関係っていうのが生きて行く根本的何かと完全に結びついているんです。フランス人のこの 実存と恋愛 が理解されるともっとフランス映画が受けるのでしょう・・・。(メグ・ライアン90点、総合65点)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.24
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THE FIGHTING TEMPTATIONSJonathan Lynn123min(レンタルDVD)自分からは決して見ようとする映画ではないと思いますが、知人がレンタルしてきたので、何人かで一緒に見ました。キューバ・グッディング・Jr演ずるダリンはニューヨークの広告代理店に勤めているけれど、その生き方はその場しのぎの機転だけで、多額の借金はあるし、学歴詐称で会社をクビになってしまう。ちょうど故郷ジョージア州モンテ・カルロから叔母(厳密には母親の叔母?)が亡くなったという知らせを受け故郷へ向かう。遺言でダリンには時価15万ドルの株券が遺贈されることがわかったが、それには条件があった。それはジョージアに戻って住み、教会の聖歌隊を指導・指揮してゴスペル大会で優勝させることだった・・・。まあ後のストーリー、色々邪魔や困難がありながらも最後には成功する展開はおおかた想像出来ると思います。いたって単純です。幼馴染みで美しいクラブ・シンガーに成長したリリー(ビヨンセ・ノウルズ)とのロマンスも絡みますが、その彼女の歌の他ゴスペルやラップなどの音楽的には豪華で面白かった。コメディー・タッチの作りとストーリーは添え物で、メインとしてミュージック映画だと割り切って見られれば楽しいかも知れませんが、自分としては子供向け映画よりも単純・安易なストーリー展開には辟易しました。どうせならもう少し鑑賞に耐える物語にして欲しかった。少なくとも一人で見る映画ではないと思います。何人かで軽く見たのでそれなりに楽しみました。ビヨンセがセクシーで可愛く、魅力的だったのが救いでしょうか。(音楽面80点、総合55点)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.23
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HARD CANDYDavid Slade103min(DISCASでレンタル)DISCASのレンタルは2枚ずつで、意図したわけではないんですが、ある意味共通する部分のある『白い家の少女』とセットで送られてきました。共通性はサスペンスもの、カナダ関連、13~4才の少女が主人公、低予算の室内劇、ロリコンなど。もっともこのエレン・ペイジは17~8才で14才を演じていますが。どちらも主演のジョディとエレンの好演に尽きるとも言える映画でした。製作費は約100万ドル(1億2千万円)と推定されています。アメリカ映画の製作費は1億ドルなんて当たり前だから、その100分の1で作られたと思えば、立派・立派・立派!(ちなみにボクは高額の製作費の駄作が必ずしもいけないとか無駄だとかとは思っていませんが、そのことはまた別の機会に)。この映画、なかなか楽しませて(?)もらいましたが、最終的にイマイチ何かが欠けていた感じで残念です。32才の写真家ジェフは出会い系サイトか何かで知り合った14才のヘイリーとチャットをしているんですが、会おうということになって喫茶店で会う。ヘイリーは早熟で頭が良く、大学教授の父親の大学院の授業も聴講しているとか語り、ジェフはそんな彼女の魅力に一目で惹かれてしまう。で彼女と郊外のリッチな自宅に向かう。そこで和やかに話をしたりしているのだけれど、彼女の作ったドリンクを飲んだジェフは気絶して倒れてしまい、気が付くとキャスター付きの椅子に縛り付けられていた。彼女の目的は何なのか?。室内に貼られた女性を撮った彼の作品をなじり、何かの証拠をヘイリーは探している。やがてある証拠らしきを見つけ、ジェフを罰するためにある手術を施すとヘイリーは彼に告げる。(以下ややネタバレ)14才の少女と出合い系サイトで知り合ってよろしくやろうっていうのはあるけれど、最初はある意味ごく普通の男としてジェフは描かれている。一方友達の復讐をするためのように描かれていたヘイリー。でも話が進むにつれて、実はどちらも異常者であることが分かってくる。正確にはジェフは異常と言ってもロリコンで、過去のある少女の死にかかわっていたらしい。ヘイリーは全女性を代表して男性を罰するとか、復讐するとか言っているけれど、実はかなりの異常者。そのヘイリーの異常性によるサイコ・ホラーないしサスペンスで、ボクの感じとしてはこの室内劇を3つの部分に分けたい。(1) 出会いからジェフの催眠まで、(2) 主要部分、(3) エピローグの3つ。(2) の部分でエレン・ペイジの好演したヘイリーの異常性、そこでの言葉のやりとり、そういうのは良かったですね。ヘイリーの異常性が段々にわかってくるのだけれど、その異常性が必ずしも異常性だけでもない。幼い女の子が既に示すことがある、何を考えているか解らないような、理性では解釈できない不思議な雰囲気、それと異常性が一体となって描かれているのが巧みだったと思います。映画をつまらなくした問題はたぶん (3) の部分。異常なヘイリーの行動であったはずなのだから、そのまま描けば面白かったのに、妙に倫理的というか道徳的な発想で物語を要約して終結させてしまったのが不釣り合いなのだと思います。まあ "ある手術" というショッキングな筋に頼った映画作りなのだろうけれど、全体を貫く哲学のようなものがたぶんないのでしょう。そこが残念と言うか、単に楽しめるだけの映画になってしまった原因だと思います。ヘイリーにあのような行動を取らせた異常なりの彼女の心理の "何故" も、追い込まれたジェフが最後に取る行動の "何故" が説得力を持って描かれてはいないと思います。それにしても「何故」という問いに絶えない映画が多いですね。ジェフが逃げようとして色々とドタバタも演じられるけれど、セリフのみの心理劇となっていたらもっと面白かったような気もしますが、そこまでの脚本力はなかったのでしょうか。でもまあかなり楽しませてもらいました。(総合評価60点)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.22
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THE LITTLE GIRL WHO LIVES DOWN THE LANELA PETITE FILLE AU BOUT DU CHEMINNicolas Gessner92min(DISCASでレンタル)この映画は20年くらい前にテレビ放送かレンタルビデオで見て、またいずれ見たいとずっと気になっている作品でした。この映画カナダとフランス(そして米国)の合作映画ということになるのでしょうか。言葉は英語だけれど、カナダはもともとフランス語圏もある国で、クレジットロール見ていてもフランス人やフランス系の名前が多いですね。13か14のジョディ・フォスターの演技には脱帽ものです。最後のカットはジョディのアップで、なんと3分以上もある。この映画のことかどうかは知りませんが、当時「私は子役じゃなくって女優よ」と生意気な発言をインタビューでしているらしいですが、それも当然といった堂々とした演技です。映画の雰囲気も上記のような理由もあってややヨーロピアン・テイストですが、それがそう成り切っていない中途半端さが映画の弱さかも知れません。それでもボクの好きな映画です。レンタルしてしまいましたが、千円以下の廉価盤もあり、DVDを買ってしまうべきだったかも知れません。場所は米国ニューイングランドなのでしょうか?。海岸に近い村外れの家に13才のリン(ジョディ・フォスター)が詩人の父と一緒に暮らしている。もともとイギリス人で、夏頃父と娘はこの家を家賃3年分前払いで借りて越してきたらしい。映画はハロウィンの夜で始まり、地方の名士であり家主でもあるハレット夫人の息子、ロリコン変質者のフランクが訪ねてくる。ちょうどリンの誕生日らしく、リンはバースデーケーキに立てた13本のローソクに独り火を点したところだった。しつこくまとわりつくフランクに、母は既になく父と二人暮らしで、父は今書斎で仕事中だとリンは言う。しかしこの後も父親は書斎に籠っていると言い、疲れて既に寝たと言い、ニューヨークに行っていると言い、決して姿を現さない。彼女はひとりで住んでいるのだろうか?。父親っていうのは本当に存在するのだろうか。この映画は1976年12月が初公開。雪のシーンもあるが、撮影されたのは1976年秋冬だろうか。1962年11月生まれのジョディが14才の誕生日をむかえた頃だ。はっきりとした価値観を持ち、頭が良い聡明なリンの物語なのだけれど、早熟な聡明さを持ち頭が良く、大人顔負けの演技をするジョディ・フォスター自身がどうもリンの役と重なって見えてしまう。それがこの映画の魅力の一つでもある。父親と共同名義だという銀行の貸し金庫に入れてあるトラヴェラーズチェックを独り出して現金に換えに行くのだけれど、サインの確認のために別紙にしたサインを、確認が済むと返してくれと言って受け取って破り捨てる。決して13才の子供とは思えない行動だ。余談ながら、海外旅行で詐欺やトラブルに合うことの多い日本人観光客だが、こういう映画を見ると西洋的に慎重な大人の行動(笑)を学ぶことができる。(以下少しネタバレ)詩人の父とリンは2人暮らし。ところが父は病気で先が長くないことを知る。たぶん離婚した詩人の妻が俗物の性悪女で、自分が死ねばこの妻が母親としてリンのもとにやってきてリンを虐待し、また金をいいように自分のものにするだろうこと、そうなれば娘リンは苦しめられ、またせっかくの才能や個性のある娘が潰されてしまうと危惧する。でも娘はやっと13才で成人にはまだまだ。その状況で父親が一計を案じる。つまり自分が死んでも生きていると世間には見せかけ、娘が大きくなるまで一人で暮らせるようにすること。それがこの物語の背景。そこにこの計画を邪魔する状況や人々が出てきて、それがこの物語のサスペンスになっている。娘が18か20才くらいならきっと何も問題はない。まだ子供で精神的成長が不十分ならしょうがないとして、リンの場合は早熟でもう既に独りで自分の価値観で生きていくことができる。なのに実際に13とか14とかの年令では何故自己決定権がないのか?。この映画の原作&脚本のレアード・コーニッグ、あるいは監督のニコラス・ジェスネールにそういいう意図があったのか無かったのかは分からないが、そういいうことを考えさせらる。この映画でリンがかかわらなければならない大人はハレット夫人であり、またロリコン変質者の息子であり、性悪なリンの母親であり、決して良い人々ではない。そういう大人の社会と比べればリンの価値観の方が立派なわけで、そのリンの側にいるのがやはりまだちょっと未成年のマリオ。フランクにしてもロリコンゆえの何らかの事件の容疑もあるらしいけれど、母親が名士で揉み消されているようなのがこの大人の社会なわけです。リンは「教師の価値観を押し付けられるだけだから」と言って学校には行っていないけれど、結局はこういう欺瞞の大人社会への順応を強いるものでしかないかも知れない。特異な才能と個性を持ったリンは、父親が存在すれば父親に保護されて個性を全うすることも可能なのだけれど、一人となってしまったとき、あるいはバカな母親と一緒にされてしまった場合、どうして潰されてしまうのか。その辺の不条理が強く感じられる。ヨーロピアン・テイストが中途半端と上で書いたけれど、こういいう点をはっきり描くのでなくとも、映画を作る基本的意識としてもっと強く持っていれば、フランス映画的な良さを持ったのではないかと思い、ちょっと残念な気がする。(以下完全ネタバレ)13才であるゆえに母親が迫って来たときに抗する術はない。だからこうなることを父親が予想して用意しておいた青酸カリで母を抹殺する以外に方法はない。2人目のハレット夫人の死は事故死。しかし自分を守るためには隠すしかない。そして最後はそのことを知ってロリコンとしてリンに迫るフランク。これも抹殺する以外に方法はない。リンは2件の殺人・死体遺棄と1件の死体遺棄という犯罪を犯すことになるのだけれど、1件は事故死で、2件の殺人は彼女に危害を加える2人であって、大人になってないゆえに殺すことでしか対応はできないのだから、一種の正当防衛として犯罪性は無いと言ってもいい。そういう状況に追い込まれたリンの孤独な人生が痛くも美しい。父親の価値観を押し付けられたリンの不幸と見る向きもあるようだけれど、それは少し違う。それは対するものとして描かれる社会はハレット母・息子やそれを許容する欺瞞の社会なのだし、利己的で性悪なリンの母親であり、一方リンの父親の価値観は個性の全うにある。リンの物語を離れても、ここには欺瞞の社会糾弾という雰囲気さえ見てとれる。そこに染まることを良しとしない少数者の苦悩を物語的に体現したのがリンの孤独であるような気がする。深読みと言えばその通りだけれど、そういいう背景を感じさせる中での13才のジョディの演技が魅力的な映画だ。無関係な人々の死はなく、派手な殺害シーンなどもない。どちらかと言うと静かなサスペンス性が良い。死の恐怖が迫るようなサスペンスではなく、状況のサスペンスの物語だ。最後のシーンでフランクはシルクハットにマントというマジシャンの服装で、びっこをひくマリオに自分を見せかけていて、また懸賞の賞品を届けるのを電話でリンが断ったのを誉めるが、どちらも結局自分のためではなく実はリンのためになっているという落ちなど、脚本も良く練られている。(ボクの好き度90点。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.21
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いまだに画面に飛ぶホタル昔はどんな映画を見ても、少しでも局部のヘアが写っているとボカシ、そうあのホタルが飛びました。最近はこういうのも随分減って、ヘアが堂々と写るのは良いことです。何故って監督自身がそのように作ったのだから、それをそのまま見たいわけです。以前、ボクがまだ学生の頃だから相当以前ですが、お茶の水のアテネ・フランセでロブ・グリエの映画の上映会がありました(ロブ・グリエって言うとフランス・ヌーヴォーロマンの作家&映画監督で、日本の映画ファンにはアラン・レネ監督の『去年マリエンバードで』の脚本を書いた人としていちばん有名でしょうか)。1週間で5本ほど上映されたのですが、ほとんど、いやもしかしたらすべて日本未公開作品で、フランス大使館提供のプリントだったりで、フランス語に英語の字幕。もちろん修正(ボカシ)もありませんでした。こういう一般性の低い文化的な催しでは警察も黙認していたようです。ところが最終日に上映された『危険な戯れ』LE JEU AVEC LE FEUだけは日本語字幕入り、ボカシ入りプリントでした。シルビア・クリステルが出ていることもあって、そういう映画ではないんですが、大ヒットした『エマニエル夫人』のようなソフト・ポルノとして公開しようと日本の配給会社が計画したらしいんです。上映後に監督ロブ・グリエ氏と観客の質議応答があったのですが、このボカシのことについて、これも一つのイデオロギーでなされたことであり、政治的反対思想を検閲する体制の姿勢と本質的には同じだと氏は言っていました。たかが毛なんですが、表現されているものの一部がある権力の意志によって削られると言う意味では、本質は同じなんですね。こんなことを今書き始めたのは、ヘアが解禁になって女性の黒いデルタが当たり前のように画面に映されるようになって、それでも残るホタルがかえって最近気になるからです。いちばん最近見たのではウイリアム・クラインの『モデルカップル』。上の写真のカットではボカシはないんですが、次のカットでややアップになって、男性の方の股間のみホタルが飛んでました。映画館で見たものでは『ブラックブック』。こちらでもほんの1カットで写る男性器がボカされていました。どちらも性交とはまったく無関係のシーンです。たしかに女性のは単なる茂みですが、男性の方はよりリアルではある。ボクは男性のアレを特に見たいとも思わないですが、だから監督が最初から写していなければそれで良いのですが、なんらかの意図、あるいはそういうものが写ることを気にしないという背景にある思想を含めて、監督がそう作ったものはそのまま見たいと思います。DVDや映画館というのは見る者が自分の意志で選んで見るものなのですから(実は垂れ流しのテレビも究極的には同じ)こういうボカシはやめて欲しいと思います。ボカシっていうのは入った瞬間に見ている者の意識を映画外のことに向けてしまいます。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.20
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L'AMOUR EN DOUCEEdouard Molinaro87min(DISCASでレンタル)ただ若い頃のエマニュエル・ベアールを見るためだけの映画なんて言う人もいます。たわいもないラブコメディーって言ってしまえばそれまでですが、ボクはどこか好きな映画です。ベアールだけでなく、ソフィー・バルジャックも綺麗で魅力的だし、男性陣ダニエル・オートゥイユとジャン=ピエール・マリエルも良いですね。全体を通しての物語がどうのっていう不満を持つ人もいるかも知れないけれど、それぞれのシーン、芝居的に言えば 場 の演技や演出がなかなか良い。監督のモリナロは『Mr.レディMr.マダム』で有名だけれど、コメディーの流れ作りが上手いと思います。ボクは同じベアールの出た『エレベーターを降りて左』って数年後の映画も好きです。こちらは舞台がほぼアパルトマンの一室(プラス隣家とエレベーターホール)のみのどたばた喜劇で、芝居的な作り。やはり共演の女優ファニー・コタンソンは綺麗で魅力的。美男・美女による軽いコメディーは良いものです。南仏の古都エクス・アン・プロヴァンス。弁護士のマルクは美人の妻ジャンヌと結婚してたぶん8年。子供はいない。仲が悪いっていうのでもないし、愛し合ってもいるのだろうけれど、そして何よりも 情 のようなもので結びついていて、別れるとかになると一抹の心残りのようなものもあるような関係。もちろん女たらしで、妻を放ったらかして女や仲間と遊んでばかりの夫マルクが無責任ではあるのだけれど、でもどこかで互いに深く想っている感じ、この辺の心理がよく描かれている。ジャンヌはビデオ店をやっているのだけれど、マルセイユか何処かに彼女が行って不在なのをいいことに、マルクは女を家に連れ込んでいて、まさに女を脱がしているところにジャンヌが予定を変更して帰ってきてしまう。さすがにジャンヌは愛想をつかして出ていってしまう。ある日マルクが朝帰りをすると誰もいないはずの家に物音が。キッチンに行くとバスローブを着たジャンヌとやや年輩の男性が朝食中。「こちらアントワーヌで、こちらは夫のマルク。」とジャンヌは2人を紹介する。以下少々ネタバレ一方マルクは高級コールガールをしているサマンタと知り合う。彼女の職業を知って最初はお金でサマンタと付き合い始めるが、二人はそれぞれ相手を想うようになっていた。そして2カップル4人の共棲生活が始まる。4人でいると2カップルともとってもほのぼの上手くいくんですね。映画の原題はL'AMOUR EN DOUCEで、「優しく愛して」はまずまずの訳題だけれど、EN DOUCEって言うと「秘かに」とか「そっと」って感じですね。それぞれのカップルが独立していて、それぞれ互いに「しっかり」愛し合うって感じでなく、4人がなんとなく仲良くって、ジャンヌとマルクの 情 のような気持ちもほのかに存在しながら、そして全員を優しく受け入れるアントワーヌがいて、でなんとなく2つのカップルがそれぞれいい感じに上手く行っている。相手を「そっと」愛しているって感じでしょうか。はたしてこんな関係が長続きするものなのか、あるいはまた何時か2つのカップルが離れて独立していくのか、ジャンヌとマルクの縒りが戻ってトラブルが生じるのか、そんなことは解らないんですが、4人の微妙な気持ちっていうのがなんとなく良く解るんですね。それがボクにとってはこの映画の魅力の一部だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.19
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LE COUPLE TEMOINWilliam Klein105min ウイリアム・クラインって言うとボクにとっては写真家ウイリアム・クライン。60年代70年代に流行った「ブレ・荒れ・ボケ」写真の元祖的存在。ブレはカメラのブレた写真、荒れは粒子の荒い写真、ボケはピンボケの写真で、森山大道とか中平卓馬など日本の写真家にも影響与えています。ニューヨーク生まれの彼はずっとヨーロッパにいて、故国に戻って肌で感じた馴染むことのできなかったニューヨークの非人間性と言うか、そういうのを表現するために使ったんですね。もともと絵画を勉強していた彼は写真も始め、生活のためにVOGUE誌のファッション写真とかも撮ってますが、ドキュメンタリーや劇映画も撮るようになる。写真集『ニューヨーク』もそうですが、ベトナム戦争に反対して良心的兵役拒否をして世界ヘビー級チャンピオンもボクサー資格も剥奪されたモハメド・アリ(カシアス・クレイ)を追ったドキュメンタリー等黒人映画も数本撮っているし、彼の目はこの世界の非人間性、不平等、不正義に向かっていると言えるのではないでしょうか。この映画もそうですね。フランスが舞台の1976年の映画ですが、2000年の生活を想定して政府未来省が新しい都市を建設している。この都市のモデル・ルームにフランス人の典型的夫婦をモニター&実験台として住まわせる計画が実施される。選ばれたのはジャン=ミッシェルとクロディーヌの若いカップル。未来的なモダーンな家具に囲まれて生活し、キッチンやバスルームの設計や機具も超最先端。寝食から夜の生活まですべて社会心理学者に監視され、全国にもテレビ中継され、識者による座談会も放送される。最初は有頂天だった二人も、実験、実験、実験の日々が段々に嫌になってくる。それはすべてを数値や選択肢に還元されることであり、また与えられたスタンダードを押し付けられることなどだ。企業にとっては新開発製品の売り込みの場であり、政府にとっては詰まるところいかに国民を懐柔するかの資料集めでしかない。そして実はこれは我々が政治や社会や企業の営利活動や、そういう社会体制の中で人間性が無視されて、結局は幸せではないという姿を、実験台という仮定の下に極端に描いているにすぎない。つまりは現代社会への痛烈な諷刺・批判の映画なのだ。(以下ややネタバレ)新都市建設反対派の若者テロリスト(?)の立て籠り事件とかもあって、結局計画は途中で中止され、二人がお払い箱になるまでの物語。全体はコメディータッチと言って良いのだろうが、何かここでの二人の数週間がこの社会での人生そのものを象徴しているようにも感じられ、最後にはある種の儚さのような情緒を残し、良いラストだった。ここでは詳しくは書かないが、社会諷刺の映画だから、ちゃかして描かれた科学者や政治家の姿、テレビで語る識者たちの様子、そんな細部の一つ一つが見ていて面白かった。写真家クラインのこんな映画がレンタルで見られるとは期待していなかったので、見られて嬉しかった。写真好きでクラインの写真に興味のある方にはお勧めだ。ちなみにまったく個人的趣味の余談だが、映画の中で使われるカメラとしてクラインはモータードライブ付のNikon F2を選んでいた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.18
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L'ENNUICedric Kahn120minアルベルト・モラヴィアの小説の映画化作品。モラヴィアの作品は映画化されることが多いけれど、結果的に映画自体が良い映画かどうかは別として、なかなかモラヴィアの世界の映画化は難しい。性描写も多いのでともするとポルノ的に堕してしまうこともある。中ではゴダールの『軽蔑』とベルトルッチの『暗殺の森』が名作だろうか。セドリック・カーンのこの『倦怠』も良く出来ていた。主人公を画家から哲学教授・研究者としたことは、この多弁ですべてを言語化しようとする主人公に合っているし、母親を元妻にかえ、彼女を問答無用の聞かされ役とすることで、小説のモノローグを会話化した脚色は上手いと思う。ただ印象としては読書というのは静かな行為であり、それと比べてこの映画の機関銃のような早口の多弁、せわしない車での移動、どちらもその映画的効果は認めた上で、読書との違いという意味で違和感があった。でも映画としては名作だ。四十歳前くらいの哲学教授・研究者マルタン。夜の街、パリ・ピガール辺りのいかがわしい地区をBMWで走り回る。たぶん確たる目的もないこと、また自分の現在に飽いている主人公の心情が、ピントのぼやけた映像で映画的に表現されている。ふと目に入った老人と小娘のカップル。老人は小娘を御し切れず、別れてバーへ入る。マルタンは同じバーに入るが、そのぼったくりバーもどきでトラブルとなった老人をマルタンが救う。老人は画家で、手にしていた絵をマルタンに渡す。マルタンが画家を訪れると画家は死んでいた。小娘とのセックスで腹上死したらしい。アトリエには小娘をモデルに描いたヌードが並ぶ。そこに荷物を取りにきた小娘セシリア。画家と彼女の関係が知りたくてマルタンはセシリアを問いただすが、既にマルタンは自分でも解らずに彼女に惹かれていて、彼女もそれを本能的に見抜いていた。こうしてマルタンはどんどんセシリアにはまっていく。知識で、つまりは言語ですべてを説明し、理解しようという彼だから、彼女の行動を分析し早口で彼女に色々と問いただすけれど、セシリア何の感情も感動もない無味乾燥な答えを悪びれずに口にするのみだ。「愛されていると感じれば女は嬉しいもの」とも言い、「愛するのに相手のことを知る必要はない」とも言う。問いと答えの会話は成立しているようで、マルタンの期待する答え、それが彼を愛していないという言であったとしてもだが、そういう答え、彼女の感情を示すような答えは返ってこない。毎日会うと言ってもすべて彼女ペースで、親への言い訳が難しいから週2回だけにしよう等とマルタンを翻弄する。マルタンは相手かまわず別れた妻ソフィーを聞き手に話をするが、ソフィーはマルタンの状態が良くないと言い、彼もセシリアと別れると言うが、実際にはセシリアから別れを告げられることを恐れている。セシリアをややストーカー的に追い回すのを含め彼がせわしなくBMWで走り回るシーンが何度も出てくるが、これが映像的にマルタンの焦燥感をよく表現している。モラヴィアの発想というのはいつも辛辣に物事の本質をついている。誰かを愛するとき人は相手を所有しようとする。所有と言っても独占とか支配という意味ではない。自分の言語で相手を捉えようとすることだ。自分の発想の範疇に相手を取り込むことだ。それは相手との「愛」という関係も同じことだ。でもそれは本来不可能なことであり、結果は幻想でしかない。そこにあるのは「ただその関係」であり、「そういう相手」でしかない。だからこそここで繰り返されるのは感情を排したような即物的セックスで、やさしい愛撫すらない。それ以外は究極思い込み、思い入れでしかない。もちろんここでは女が本来的に持つ男を翻弄するある種手練手管のようなものとして描かれ、そういう見方も出来るけれど、それをも含め男と女、ひいては人と人の関係に内在する本質を突いている。だからモラヴィアの原作は1960年だったと思うけれど、永遠のテーマだから古くはならない。パリに広いアパルトマンを持ち、BMWを乗り回すことからも分かるように、また特に後半で物語としても語られるけれど、マルタンがもともと金持ちの家の出であり、ブルジョワ的価値観に生きていることも重要なファクターとなっている。(以下ネタバレ)別れると言い、別れられず、別の若い愛人モモをも同時に持ったセシリアをつなぎ止めようとマルタンは結婚をしようと言う。しかし結婚とは何か?。結局のところ不倫をしないという契約ではないか。結婚したからと言って配偶者以外の誰かを好きになることもあるだろうし、あるいは単純に誰かとセックスしたいということもあるのに。つまりはこれもブルジョワ的、常識的価値観以外の何ものでもない。セシリアは「結婚するならあなたとだけれど」と言いながら、モモとも会いたいから結婚はしないと言う。マルタンはすぐ手元にある預金をおろして6000フランを彼女に渡そうとするが彼女は受け取ろうとはしない。しかしいつものように即物的スピーディーなセックスの後、今モモは失業中でお金がないから3000フランだけ貸してくれないかと言うしたたかさ。マルタンもさすがに理性をなくして彼女の首を絞めてしまうが、我にかえる。それでも「どうしたの、痛かったわ」と冷静なセシリアだ。金が目的かと問うマルタンには「最初お金なんてもらわなかったけれどつきあっていたでしょ」と答えるセシリア。意図的手管というより本能的に男を虜にする女の本性であり、またマルタンを中心に考えればセシリアに翻弄されているのではなく自分の矛盾した価値観に苦しめられているだけだとも言える。彼女の父親は喉頭癌で死にかけていて、あと2~3日だという中、まだ死んだわけじゃないでしょと平気でモモと2週間のコルシカ旅行に出かけてしまう。彼女の家を訪ねたマルタンに母親は「あの子には愛情なんてないわ」と言われ、いたたまれなくなった彼は車を走らせブーローニュの森かどこかでセシリアに体型の似た娼婦を乗せると、娼婦をセシリアに見立てて彼女にしゃぶらせ、そのまま事故か故意か木に突っ込む。病院のベッドで脚をつり下げられ、「自分は兎に角生きなければ」と理性が戻ったのだかどうか、ソフィーに手紙を送るのだった。しばらく前に『愛してる、愛してない...』にオドレイ・トトゥの友人役でソフィ・ギルマンっていう珍しくちょっと太めの女優さんが出ていてちょっと注目し、調べたらカーン監督に見い出されてこの映画でデビューしたことを知って、モラヴィアの原作でもあったのでビデオを入手して見たのですが、初映画出演にして好演です。ルノワールの絵のような豊満な肉体。ボクはデブが好きなわけではないけれど、そして現代は特にファッション的審美要請から細めがもてはやされるけれど、服を脱いでも着ていても、こういうグラマーな肉体には本質的に女の肉感的魅力がありますね。感情を示さない、でも悪気もないセシリアを上手く演じていたと思います。彼女以外に誰がこのセシリアの役ができるかな?と考えても思いあたりません。監督というのも本当に適切な役者を見つけてくるものです。太めの女優さんって少ないから、これからも良い作品で良い役を演じて欲しいものです。もう1人の主演シャルル・ベルリングも適役、名演。脇を固めたアリエル・ドンバールとロバート・クレイマーも良かったです。ソフィ・ギルマンは肉感的だし、セックスシーンも多いけれど、まったくポルノにはなっていないところがこの映画には不可欠で、その点で実に実に成功していると思います。こういうスタンスはアメリカ映画では絶対に近いほど無理でしょう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.17
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SOUS LE SOLEIL DE SATANMaurice Pialat98min1987年カンヌ国際映画祭・パルム・ドールこの映画の原作は20世紀前半のフランスの作家ジョルジュ・ベルナノスの同名小説。学生のとき、昨年末に亡くなられたベルナノスとセリーヌの研究者であったK先生の講議でベルナノスを知り、その作品に親しみました。その作品はカトリック幻想小説で(幻想と言ったのは非現実な出来事も書かれているという意味)、実のところなかなか難解。この作品もロベール・ブレッソンが映画化した『田舎司祭の日記』も主人公はカトリックの親父で、どちらもキリスト教の信仰や罪の物語で、一介の田舎司祭が奇跡らしきことを起こしたり悪魔が登場したりです。我々日本人はキリスト教信仰には知識が浅いのですが、それを取り払って、あるいは読みかえて、人の罪の問題や実存の物語として見ても十分に深い作品だと思います。ベルナノスの文学はボクにとって何処か気になる存在で、まだ実現はしていないけれどじっくり読んでみたいものでもあります。このベルナノスの作品は『田舎司祭の日記』と『少女ムシェット』をロベール・ブレッソンが1951年と1967年にその究極に虚飾を排した作風で映画化していて、ベルナノス映画と言えばブレッソンという構図が既にある中での『悪魔の陽の下に』の映画はピアラにとってはプレッシャーもあり、一つの挑戦でもあったと思います。見事1987年第40回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得しました。この監督についてはあまり詳しくなく、これまでに『ソフィー・マルソーの刑事物語』を見たのみで(たぶん)、『愛の記念に』もまだ見ていません。たまたまソフィー・マルソーとかが出演していればともかく、日本ではなかなか見る機会の少ない監督さんです。まあ寡作と言えば寡作でもありますが、本人かなり偏屈な人間で敵も多かったらしく(2003年没)、カンヌでの受賞も1966年ルルーシュの『男と女』以来フランス作品の受賞が20年間なかったからだなどと悪口を言う人もいるようです。(ちなみにその間のパルム・ドールは米6本、伊5本、英4本、日本2本、西独2本、そしてポーランド、トルコ、ユーゴスラビア、アルジェリアが各1本です。)神学校で平凡な成績だったドニサン(ジェラール・ドパルデュー)は北フランスの寒村の主任司祭ムヌ・スグレ親父(監督自身の出演)に拾われていたが、自らの信仰や聖職者としての神からの召命に疑問を持ち、身体を笞打つ等の苦行を隠れて行っていた。一方没落貴族カルディニャンの愛人である16才の少女ムシェットは彼の子を妊娠していたが、たぶん事故だろうが猟銃で彼を殺してしまう。彼女は別の愛人である医師で代議士のガレに救いを求めるが、名声が傷付くことを恐れ、また家庭を守ろうと取り合ってはくれなかった。ドニサンが補助の仕事でエタンプに歩いて向かっていたとき、途中1人の馬喰と出会い道中を共にしたが、その馬喰が悪魔の化身であることにドニサンは気付くが悪魔との出会いで人の心を見透かす力を得てしまう。(以下ネタバレ)その後ドニサンはムシェットと出会って彼女と対決する。彼女の罪や彼女が先祖から負わされている因果をドニサンは見抜き、彼女を神の信仰に戻し、彼女の魂を救おうとする。しかし結果として彼女を追い詰めて自殺させてしまう。そしてそれを発見したドニサンは彼女を神の元へ返そうと、彼女の血だらけの死体を教会の祭壇に置き、大スキャンダルとなってしまう。司教は彼をトラピスト修道院に送り謹慎を命ずる。その後彼はランブルの村の司祭に任ぜられるが、信者たちはドニサンを聖人と見なすようになっていた。彼に触れようとし、病人や不具者は彼に奇跡を求めるのだった。そして幼く死んだ子供を蘇らせることを求められたた彼は、自らの魂の救いと引き換えに子供の再生を願い、子供を生き返らせることに成功する。ドニサンは自らに課した厳格な生活と過労から、教会の告解室で息絶えた。それを発見して静かにドニサンの目蓋を閉じたのは、彼への友情や励ましを惜しむことのなかったムヌ・スグレだった。このムシェットという少女は16才。カルディニャンやガレの愛人で、妊娠もしている。何かとても自堕落な少女のようではあるけれど、ベルナノスが彼女をムシェットと名付けていることからしても(『少女ムシェット』のムシェットとは別人)彼女は無垢なのだと思います。彼女の親・先祖の業、あるいは世界の悪を一身に引き受けてしまった存在。悪魔と神、宗教性を払拭するなら悪と善と言ってもよいでしょうが、そのせめぎ合いに巻き込まれた存在。あるいは神が遣わした存在であるかも知れない。しかしそんな彼女をドニサンは救うことが出来なかった。だからこそ神の元に彼女を返そうとするわけだ。世界には悪がはびこっている。まさに悪魔の陽の下の世界。宗教的な意味を排して考えたとしても血だらけの彼女の死体を教会の祭壇に置き、彼女を神に返そうという行為がスキャンダルになることは確実。だからこそドニサンの行為は外聞というようなことを考えない純粋な信仰のなせるわざ。この不器用な彼のあり方こそが善(神)への志向なんでしょう。しかし彼が自らの魂の救いを差し出しての子供の蘇生は人々の目を善(信仰)へ向けることではあるけれど、そんなドニサンは最後に死んでしまう。よく出来た映画ではあったけれど、そして決してベルナノスを裏切ってはいないけれど、表面をなぞっただけの感もないではない。原作がかなり長い小説であるので、その脚色としてこういう形にまとめたのだろうけれど、98分というまだゆとりのある長さであり、もう少しムシェットの心情等を描いて欲しかった気もする。小説を読んである程度作品を知っているから映画で実際に表現されていないことまで補って見てしまっているのだと思うが、映画として独立して見た場合にはもっとその感が強く感じられるのではないだろうか。苦行までする厳格な生活を送っていて、最後には心的&肉体的過労で死んでしまうドニサンをデブのドパルデューが演じることに最初ちょっと抵抗があったが、見ているうちに素直に見られるようになっていた。ボクはこの俳優の魅力や能力についてまだ「?」が多いのだけれど、やはりここでは名演なのだろう。サンドリーヌ・ボネールのムシェットも良かったが、この役をもう2年くらい前に演じていてくれたらもっと良かったかも知れない。無垢でありながら悪を犯し、しかし孤独であるという難しい役を良く演じてはいたけれど、やっぱりやや年令が上過ぎた感がある(当時20才)。とりあえずVHSソフトを入手しての鑑賞で、学生の頃映画の音声のみの録音を聞いたことがあるだけのブレッソンの『田舎司祭の日記』のテープも購入したので、これを見てからどこかに感想をまた書いてみたいと思っている。ベルナノスにはブレッソンのように白黒の方が合っている気もする。あとはやっぱり原作をもう一度ちゃんと読まないと・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.16
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THE FAMILY STONEThomas Bezucha103min寸評:アメリカ映画としてはある種ヒネリが効いていて、まあ楽しめる作品でした。ただ作り方がやや中途半端で、最初の方のテンポ感がやや遅かったように思います。豪華(なんですよね、良く分からないけれど)俳優陣はそれぞれに良かったでしょうか。と言うわけで最初はちょっとテンポがのろくて退屈気味でしたが、段々に面白くなってきました。この映画、スタイルとしては舞台喜劇、ヴォードヴィルとかオペレッタとか、映画でいうとこのブログで紹介したものとしては『恋は足手まとい』とか『巴里の恋愛協奏曲』と同じです。そういう意味でのドタバタ喜劇が根底にあると思いました。そこに少し面白いヒネリが加わっている。そんな印象です。作り自体も2つドアのある部屋から誰かが出ていってドアを閉めたとたんに、もう1つのドアから別の人物が入れ違いに顔を合わせず入ってくるとか、舞台的です。西洋の古典的芝居には三単一の法則という規則のようなものがあります。場所の単一、時間の単一(1日)、筋の単一の3つが満たされていなければならない。現在ではもちろん戯曲の必須条件ではありませんが、こういう伝統も何処かに生きているんですね。ここでは時間は1日=24時間でこそありませんが、クリスマスの数日ということで良いと思います。だから映画(芝居)の時間の単一を満たすために、その単一の時間の経過の内にすべての物語的変化が完了しなければならず、そのためには人物の状態がある意味始めから臨界状態にあるわけです。だから恋人が簡単に入れ代るからと言って、それはそれで良いわけです。最初からかなりネタバレになってしまいますが、そうでなくても最初の20~30分を見ればラストは完璧予想できるので、基本構成を書いてしまいます。クリスマスに兄弟姉妹が両親の住む実家に集まります。長男エヴェレットは恋人のメレディスを連れていく。メレディスは居辛さから妹のジュリーを呼ぶけれど、結果そのジュリーがエヴェレットとカップルになり、メレディスの方はエヴェレットの弟のベンとカップルになる。また家族の末娘エイミーと今は離れている恋人を酔ったメレディスが呼ぶことでこの2人も結ばれ、めでたく3組のカップルが成立するというもの。基本はこれだけです。この家族やメレディスの特殊性とか、そこでメレディスが歓迎されないとか、母シビルの病気の問題とか、そういうことは味付けでしかありません。ではその味付け、ヒネリ、臨界状態の人物、あるいは物語を動かす原動力とは何か?。その中心となるのはメレディスという家族の部外者です。このストーン家の人たちはものすごくリベラル。たとえば息子がゲイで黒人の恋人がいればそれも良し。息子の彼氏を家族は当たり前のように迎えている。なのにメレディスは直感的に家族全員から受け入れられない。何故か?。それは好みや性癖等々がどうのというのではなく、生き方自体がこの家族が受け入れられない生き方だからなのだ。簡単に要約してしまえば、体裁や世間的価値に合わせた人生を送り、自分に正直でないということ。彼女の恋人である長男のエヴェレットは中途半端な位置に存在する。だからこそ両者を仲介してメレディスを家に連れてくることにもなる。たぶん普段のニューヨークでの生活ではややメレディスに近い面もある。だから母シビルなんかともやや葛藤がある。しかしエヴェレットもメレディスも実はウソの生き方に疲れてもいる。そんな2人を回心させるには、メレディスにはベンが、エヴェレットには姉とは生き方の違う妹のジュリーが必要なのだ。ではどうしてこのストーン家の人々は、ゲイの息子の黒人の恋人を受け入れるほどリベラルで、「○○はエイミーの初体験の相手」とエイミー本人の前で平気で言えてしまうほどに隠し事もないような家族なのか。それは最初からではなかったとボクは思う。段々にそうして生きていくことの幸せ、互いに相手に自分の理想を押し付けるのではなく、容認し合った家族関係がいちばんスムースであり、また葛藤がないから愛し合えること、そういうことに気付き、作りあげてきたのだ。そしてその要になったのは知的で優しい夫ケリーに愛され支えられた母シビルだろう。子供が難聴であったり、ゲイであったり、黒人の恋人であったり、ドラッグをやったり、母は乳ガンになって・・・と色々な家族の苦難がある中で、世間価値にすがっての生き方では幸せでいられないことを知ったのだ。そしてあまりにリベラルで、世間常識からは少し逸脱もしているだけに、同志であり愛し合う家族としてその生き方原則には頑なであり、だからこそ最初のメレディスを受け入れることはできない。そして「段々に」と書いたように、末娘が生まれた頃より長男が生まれた頃の方がまだこの家族のあり方は完成していなかった。なので兄弟姉妹の中でエヴェレットがいちばん世間的傾向もあるわけだ。(以下結末もネタバレ)世間価値を引きずるか渦中にあったエヴェレットとメレディスが、家族が長年をかけて成したのと同じ変化をクリスマスの数日ですることにより、すべては収まり、幸せに3組のカップルも成立し、また乳ガンの母の死を母本人も母を愛する家族も受け入れられる気持ちになるのだ。その契機を象徴するのがドタバタが演じられる前にメレディスがみんなにプレゼントするエイミーを妊娠している頃のシビルの写真の額。これは現在妊娠中の娘スザンナの姿とも重なり、母シビルが築いたこの家族の継続を表してもいる。そして何年か後のクリスマスに、既にシビルはこの世の人ではないがこの同じ家に、養子を迎えたゲイの息子デヴィッドと黒人パトリックのカップル、子供を出産したスザンナ等々すべて家族が集まり、母シビルの築いたストーン家の幸せは確実に続いていた。こうして見てくると、映画としてそれが解りやすく描かれているかどうかは別にして、この家族が母シビルを中心として、今あるような幸せを築いた過程やその思いを読み取るべきなのだ。そうしてこそラストが感動的となる。単にあのクリスマスにはまだ生きていた母シビルが今はもう居ない、というだけの感動ではない。この幸せな家族を成したのが他ならぬ母シビルで、本人はもうこの世にはいないが、彼女の愛と努力の結晶がこうして今も生きているということなのだ。ところでこの映画、単に1個人や1家族を描いているだけではなく、社会や政治に対する9・11後的メッセージを読み取ったら深読みのし過ぎだろうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.15
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GARDE A VUEClaude Miller87minこれもミッシェル・セロー追悼鑑賞。この作品、日本で劇場公開されたのかどうかは知りませんが、DVDのタイトルはなんともひどいもの。「レイプ殺人事件」がまったく間違っているとまでは言えないけれど、この副題から想像されるものではありません。連続少女暴行殺人事件の犯人として疑われた身分もある男が警察で尋問を受ける一夜の物語で、舞台は回想シーン以外はほとんど警察署の一室で、レイプなどのシーンはまったくありません。一方「検察官」という主題は誤訳ないし不適切な意訳。原題のGARDE A VUEというのはフランスの法律に定められた警察による被疑者の一種の身柄拘束ないし拘留のようなもので、検察も検察官も無関係。この映画で言うと警察に呼ばれて任意で質問にのらくら答えていた被疑者の公証人に対してガリアン刑事が「マルティノ先生、ではポケットを空にしていただけますか」と言った時点でGARDE A VUEという身柄拘束状態になったわけで、もちろん容疑が濃いからの処置であり、だからマルティノも「そんなバカな」と言うわけだ。まったく違う内容だが、この映画を見ていてジェラール・ドパルデューをロマン・ポランスキーが尋問する映画『記憶の扉』を思い出した。『記憶の扉』も雨の降る一夜の警察署一室での明け方までの尋問の映画だった。どちらも被疑者は真犯人なのかというサスペンスで観客を引っ張っていくが、終わってわかるのはその種明し自体よりもその背後のドラマが主題だということだ。『記憶の扉』では高名な作家、この映画では身分ある公証人でどちらも被疑者に尋問する警官の態度は丁重だ。『記憶の扉』の発想の元にこの映画があるような気がしてならない。先日亡くなったミッシェル・セローはこの映画で3度の内の2度目のセザール賞最優秀男優賞を獲得しているし(あとの2度は『Mr.レディ Mr.マダム』と『とまどい』)、アメリカの名優ジーン・ハックマンはこの作品が好きでリメイク『アンダー・サスピション』を作っていることからもわかるように、この映画は名作だ。なによりも原作とその脚色が実にしっかりしていると思う。12月31日21時。公証人のマルティノが警察に出頭してくる。年越しのパーティーにでも呼ばれているのだろう、マルティノはきっちりとタキシードを着ている。尋問するのはガリアン刑事。2件の少女暴行殺人事件があって、一方の事件では死体の発見された海岸近くにマルティノが車を長時間止めていたのが確認されており、またもう一方の事件ではマルティノが第一発見者なのだ。リノ・ヴァンチュラ演じるガリアン刑事はマルティノが犯人だと思っている。問題はどうやって自白を得るかだ。身分もあるし頭も良いので、ただ強引に荒っぽい取り調べをしても自白は引き出せないと考えていて、丁重だが執拗な彼なりのやり方で尋問を続けていく。ここは一種の心理ゲームだ。マルティノは自分の持つ偏執的性の趣味や、それゆえの新婚当時からの妻シャンタル(ロミー・シュナイダー)との夫婦関係の破綻等を語るが、ガリアンの事件の想定に対しては違う想定を語り、あくまでも犯行を認めようとはしない。電話を許されてもマルティノは妻にかけようとはしなかった。彼としては妻を巻き込みたくないといったニュアンスを示していたが、何か特別な思いがあるようだ。しかし恐らくガリアンに呼ばれて妻シャンタルは警察署にやってくる。マルティノが会うことを拒否するのでガリアンが別室でシャンタルに会う。物語には直接関係ないことだけれど、ガリアンが「タバコを吸ったら迷惑ですか?」と問うのに対して「ええ、自分が吸ってないときは」とシャンタルが答え、ガリアンは彼女にタバコを差し出すのだけれど、こういう会話の妙っていうのはフランス語だと出来るけれど、日本では無理ですね。なんか羨ましいです。(以下ネタバレ)彼女は問わず語りに屈折した親に育てられた子供時代、そして世襲の裕福な公証人マルティノ家のジェロームと自分で選んで結婚したこと等を語り、また夫婦破綻の経緯に関して夫マルティノとはやや違ったことを語る。10年前のクリスマスにマルティノの妹の家へ行ったときのこと。ディナーも済んで彼女が義妹と別室にいて、ふとクリスマスプレゼントのオモチャで遊ぶ義妹の8才の娘カミーユ(エルザ・ランギーニ)と夫のいる部屋に行くと、夫が姪カミーユに、ここで口にすることをはばかるような、大人の女に語るようなことを話していたと。そしてそれ以来夫婦の関係には亀裂が入ったと言うのだ。そしてガリアンの問いに対して、2つの事件に関わる証拠があると彼女は答える。しかしこの10年前のクリスマスのシーンは無音のシャンタルの回想映像で、恵まれた姪カミーユと自分の少女時代の記憶を重ねている感もある。妻との会見を終えてガリアンがマルティノのいる部屋に戻ると、クリスマスの姪とのこと等を話したことをマルティノは知っていた。しかし事件の翌日に血のついたレインコートを洗濯屋に出した預り券までも彼女が提出したことを知って、マルティノは一転自白を始める。役目を果たして外に出てきたガリアンを署長が労ったとき、事故を起こして運び込まれた盗難車のトランクに少女の殺害死体が発見される。2件の連続少女殺人はマルティノの仕業ではなかったのだ。がく然とするガリアン。ちょうど帰っていくシャンタルもその様子を見ている。ガリアンが部屋に戻るとマルティノが供述を続けていたが、係官のタイプうる供述書を取り上げるとガリアンは破いた。マルティノは釈放されるが、「必要だったらカミーユも尋問したのか?」と言って去っていく。彼が外に出ると駐車した車の運転席に妻のいた。マルティノは助手席に乗り込むが、ふと気付くと妻は不動で、手にはピストルが握られていた。ちょうど出てきたガリアンに怒りを露わに「ガリアン!、ガリアン!」と叫ぶマルティノだった。1月1日7時。マルティノの異常性愛が実際にあったのか、どういうものであったのか、そして裕福な生活と名流婦人の地位が目的で愛がなかったのかも知れないシャンタルとの関係、たぶんマルティノはシャンタルを愛しており、地獄のような生活ではあってもそれを受け入れある意味幸せな日々であった。ガリアンによる事件の冤罪捜査でその微妙なバランスが崩されてしまったとき、マルティノは殺人犯となることで終止符を打とうとしたのだ。しかし容疑が晴れて釈放されたとき、夫を落とし入れるまでに走ってしまったシャンタルは生きていることは出来なかった。*監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.14
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LE TROUJacques Becker白黒115minジャック・ベッケルと言うと『現金に手を出すな』とか『モンパルナスの灯』が有名でしょうか。息子のジャンは『殺意の夏』『エリザ』『クリクリのいた夏』等の映画監督です。その父ベッケルの遺作で、完成後公開前に亡くなりました。1947年に実際にあったパリ・サンテ刑務所からの脱獄事件の映画。事件の犯人の一人ジョゼ・ジョヴァンニの書いた体験小説を元にしています。カトリーヌ・スパークがちょい役で出ていますが、彼女のデビュー作です。基本はいたって単純な話。パリにあるサンテ刑務所の同じ房に収監されている5人の囚人が秘かに穴を掘って脱獄しようとする。そして元々見ず知らずだった5人が目的のために一致団結して脱獄用の地下トンネルを掘ることに成功するというものです。鉄格子で仕切られた通路、その左右に並ぶ房の扉、その錠前、すべてサンテ刑務所の実物そっくりのセットを作って撮影され、囚人を演じる役者も実際に刑務所から脱獄したことのある者の他素人を中心に使って、ストレートで適格なカメラで、リアリティーがあります。こういう脱獄っていうのが可能なんですね。映画は見つかりそうになりながら穴を掘り進めるサスペンスに5人の互いの微妙な人間関係が絡み、飽きさせることなく進んでいきます。既に4人が収監されている房に5人目の若者ガスパールが加わる。4人は穴を掘っての脱獄を計画していた。ガスパールが加わったことで4人は迷うが、協議の末ガスパールにも打ち明け、5人で脱獄計画を実行に移す。ガスパールはたしか25才とかで、妻の17才の妹ニコルと恋仲。で妻との言い争いで妻が持ち出した猟銃が暴発して妻に怪我をさせてしまい、妻の告発で殺人未遂容疑。他の4人と比べればガスパールはお育ちも良いし、妻は金持ちだし、なんか甘やかされた子供って感じ。フランス的恋愛観からして不倫だろうと妻の妹だろうと、出来てしまった関係は致し方ないのだけれど、このガスパールって男は責任感とか自立性が低くって、自己中のイケスカナイ人物に感じられる。映画冒頭から育ちが良さそうなので刑務所長にも気に入られ、金のライターで裕福さも暗示されている。つまり5人の中で最初から1人だけ異質な存在なのだ。それを4人のうちのマニュは最初から見透かしている感じもあるのだけれど、脱獄のドラマとしてはそんなガスパールが来たことで動かされている。親の仕事で子供の頃にフランスに3年ほど住んでフランス人の小学校に通ったボクは、当時は子供だから日本とは異なった人間や社会にただ順応するだけだったけれど、帰国してから段々大きくなって色々とフランスを解釈するようになり、また大人になってからは何度か旅行で2~3週間フランスを訪れ、そういう中で感じるようになったのは、フランス人の個人主義の意味であり、また三色旗に象徴される共和国の標語の意味。もちろん個別の人間関係には色々な形や例外もあるけれど、この自由・平等・友愛というのが(少なくとも日本と比べれば)実際に生きている。その根本は人と人との究極的対等性で、この映画に描かれる人々のあり方にも(囚人間であれ、囚人と看守の間であれ)それが色濃く感じられた。既に4人いる房に歳も若い5人目のガスパールが来るわけだけれど、新入りだ何だっていう差別はない。互いに対等であるから友愛も可能で、差し入れ物を共有して食べたりしている。そして看守との関係にしても、犯罪者ではない役人である看守と犯罪者である囚人という立場の差はあるけれど、基本的に関係は人として対等なんですね。そんな中である出来事がある。房に備え付けの水道の調子が悪くなって2人の配管工が房に派遣される。ちょうど散歩の時間になって5人の囚人は房を空けるのだけれど、戻ってみると色々な差し入れ物が奪われている。怒ったマニュ(←たぶん)は看守を呼んで事情を話す。すると修理した栓が固すぎるという名目で2人の配管工を再び呼んでくれる。後は自分たちで解決しろという計らいだ。ぶん殴って横領物を出させる。だからって過剰に暴行するとかではないん。これで思い出すのがNHKのパリ特派員だった人が書いた本にあったこと。パリの路上でかっぱらいか何かをある男が捕まえた。非難し殴ったりして、周囲の人々も集まってきて彼を誉めた。しかし執拗に非難や暴力を続けたとき、人々は既にいなくなっているのに男は気付いた。つまり物事には適度というバランスがあるわけで、限度を超えた正義に名を借りた暴力を人々は嫌うんですね。アメリカ映画にはその正義に名を借りた暴力を楽しむためのものが多々ありますね。でこの挿話を見ても解るのは、犯罪者の囚人たちではあるのだけれど、だから法的に何か悪事を働いたのだろうけれど、人間関係における人の道とか信義というのはしっかり持った人たちで、そういうことに関してガスパール絡みでドラマが生まれることになる。囚人の一人ロランは脱獄に関してものすごいノウハウを持っている。その彼の計画に従って夜な夜な穴(トンネル)を掘るのだけれど、それにしてもあんなことが出来てしまうのは驚きでもある。パリの街は下水道網が整備されているのだけれど(見学も出来る)、地上の道路の下に同じように下水道が走っている。だから地上でサンテ街を行ってアラゴ大通りを曲がって・・・等々と進むように、地下の下水道でも同じことが出来る。だから下水道に出てしまえば脱獄は成功なわけで、適当な地点でマンホールから地上に出ればよい。しかし下水道は刑務所の所だけ水が流れる穴を残して1メートルもの厚い壁が作られていた。(以下ネタバレ)5人で協力してトンネルは完成に近付くが、終盤になってジョーは自分は脱獄しないと言い出した。脱獄すれば警察が家に捜査に行くだろうから、病身の祖母に心配をかけるからだと言う。そして遂にトンネルが完成する。その晩の穴掘り担当だった2人は実際にマンホールから外の世界を見るが、決して2人だけで先に逃げてしまったりはしない。房に戻り翌夜の脱走決行が決められる。しかし運命の偶然。昼間にガスパールは所長室に呼ばれる。妻が告訴を取り下げたので判事が免訴の書類にサインすれば釈放になるという知らせだった。ガスパールの心中は複雑だ。このまましばらく待っていれば合法的に釈放されるが、その夜脱獄してもしなくても彼は罪を犯してしまうことになる。房に戻ってくるが、2時間も時間が経過していたので同房の4人は訝しがる。特にマニュは密告を疑う。ガスパールは告訴が取り下げられても免訴はあり得ず、10年の刑にはなるだろうと嘘をつく。そしていよいよ夜になって居残るジョーを除いて皆服装も整え脱獄の準備をしているが、手製の鏡で房の外の廊下を確認すると、何とそこには多数の看守が集結していた。ガスパールに飛びかかるマニュ。オレじゃないと叫ぶガスパール。看守が房に突入して暴れる4人を取り押え廊下に並ばせる。やはりガスパールは別扱いだ。1人独房に移される。そんな彼と目を合わせたロランは「哀れな奴!」と蔑むように低く呟いた。この映画はたしかに脱獄の物語で、単純には脱獄の成功を観客は期待するのかも知れない。トンネルが完成して実際に2人は刑務所外の道路のマンホールまで辿り着いていているので、脱獄計画は成功したんですね。でも人間ドラマでもって実際の脱獄は実行されない。いつものようにimdbでの観客評を見たけれど、US-USERの評価がN0N-US-USERよりもハッキリと低かった。アメリカ人は脱走の成功を期待するんでしょう。でもそれでは単なる冒険物語か困難克服物語でしかない。このガスパールという人物の存在までもが実話なのかどうかは知らないけれど、この人物こそがベッケルが描きたかったことではないでしょうか。そういう意味でスカッとした脱獄物語ではなく、あくまでも人間を描いたジンワリとしたドラマで、名作です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.13
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LE MONDE DE MARTYDenis Bardiau89min寸評:まったく期待していなかったのだけれど思わぬ見つけ物だった。治癒が困難で余命のわからない10才の少年と、思考はしっかりしていて人の話も理解できるが全身不随で話すこともできない70才の老人との心の交流という、決して明るくはないテーマだけれど、お涙ちょうだいではない清々しい後味の、静かに感動できる良い映画だった。7月29日に亡くなったフランスの名優『ミッシェル・セロー』が出演しているので、DISCASの予約リストの下の方にあったのを繰り上げてレンタルした。予約リストの下の方に入れてあったのは、セローだからフランス映画だと思いつつも題が「約束 ラ・プロメッサ」とイタリア映画っぽいので、お涙ちょうだいの泣かせ映画ではないかと警戒していたのだ。「約束」はフランス語なら「ラ・プロメス」で「ラ・プロミッセ」と副題もイタリア語風。と言ってもイタリア語なら「ラ・プロメッサ」のはず。一体何語なのだろう。原題はフランス語で LE MONDE DE MARTY。「マルティーの世界」だ。映画を見て解るのはマルティーは主人公の10才の男の子マルタンの愛称。北フランスの海岸から遠くない都市という設定だろうか。病院の小児病棟に入院している10才の少年マルティー。特別な治療を終えたマルティーは治療室のガラス張りの向う側で病状の思わしからぬことを母親に話している主治医の唇を読んでいる。でも治療後のマルティーは元気だ。スケボーで病院内を走り回る。廊下の壁に張られたクストーの映画『沈黙の世界』LE MONDE DU SILENCE の文字にイタズラ書きをして「沈黙のマルティーの世界」LE MONDE DU SILENCE DE MARTY にしてしまうが、これが映画の原題だ。そして消したのが「沈黙」であることは映画の内容そのもと関わっており、巧みな思いつき(シャレ?)だ。マルティーは小児病棟を抜け出して高齢者病棟へ。留守の病室に忍び込んではお金を盗んだりと、ややイタズラが過ぎる感じだが、辛い治療を我慢しても効果は悲観的で、やがて自由に動くこともできなくなり、場合によっては死んでしまう10才の少年が、自分に科された過酷な運命を受け入れるための、自分以外の世界に対する反抗としての行動だとすれば、誰が安易に批判などできよう。老人病棟には脳内出血か何かで全身不随の70才の老人アントワーヌ・ベラン氏がいた。随意的に動かせるのは目蓋の開閉、眼球を左右に動かすこと、そしてたぶん食物のスプーンを差し出されたときの口の開閉、それだけだ。アルツハイマー病とされていて、周囲の人々は他人の話も理解しなければ正常な思考もないと思って接している。本人も自分をアルツハイマーと思っているのだろうが意識はいたって正常だ。例えば病室にあるコイン式のテレビで映画を見ていてもいいところで切れてしまい、テレビの上に用意してあるコインを入れれば続きを見れることを知っていてるが、自分でそのコインを入れることも出来なければ、それを誰かに要求することも出来ない。正に「沈黙の世界」を余儀無くされている。映画では彼の考えることがモノローグとして語られる。そんな不動で沈黙の老人をある日マルティーは病室に発見する。最初彼にとっては面白いオモチャだ。生きているのに動きも話しもしない不思議な人間、あるいは物体か(?)。マルティーは老人の病室をしばしば訪れるようになる。調子が良ければ今はまったく元気だけれど、やがて訪れるだろう病身と死を10才にして待つマルティーにとって、周囲の人間は恐らくマルティーにとって皆同じように自分とは違う人々だ。そんな彼が興味を示したのは不動で沈黙の老人アントワーヌ。心を通わせることのできる何かをマルティーはアントワーヌの存在に見たのだろうか(?)。寂しく不安な夜、彼はアントワーヌの病室にもぐり込み、空いている隣のベッドで寝た。マルティーの母親はそんな子供の姿を知り、老人の病室に息子を同室させてくれと依頼する。最初は拒否されるが特例的に入れられ、マルティーはアントワーヌと同室することになった。イタズラをも伴っていたから、老人アントワーヌも心中ではうるさいガキと最初は敬遠していたが、マルティーの一方的なアプローチで(なにせアントワーヌは何も意思表示することもできないから)段々に互いに心を通い合わせるようになっていく。マルティーが質問をし、アントワーヌが目蓋の動きの違いでOUIかNONで答えることが出来るようになる。アントワーヌはOUIかNONを表明するしかないから、すべてマルティーの側が必要な質問をしなければず大変だが、トランプのゲームも出来るようになる。カードを配って机の上に置いたアントワーヌの手にカードを握らせ、出すカードを端から「これ?、これ?、これ?」とマルティーが問えばアントワーヌは目蓋でそれを示すことが出来る。アントワーヌの意志の表明によってゲームは立派に成立する。こうなると大人のアントワーヌはマルティーより強かったりする。我慢できないとアントワーヌの示したカードを無視して別のカードを取り上げマルティーはズルで勝ったりするが、不随のアントワーヌにはそれを阻止できないが、そんなことも互いに心を通わせる結果ともなっただろう。たかがカードだけれど、2人の関係にはない実際の健常人の友人関係ならば、甘え、我の張り合い、小さな裏切り、和解などが色々あるはずで、そんな象徴でもあるだろう。こうしてアントワーヌは「沈黙の世界」から引き出され、意志の表明が出来るようになるが、それはそれはマルティーが「マルティーの世界」にアントワーヌを無理矢理引き込むことでもあり、正に冒頭のマルティーのイタズラ書きだ。(以下ネタバレ)しばらくしてマルティーがアントワーヌの病室に何日も戻って来ない。アントワーヌは寂しくもあり、また不安でもあった。どちらかと言えばコミカルな映画の作りで、病院や医師・看護士等の適当さを表立って批判してはいない様子だけれど、これがけっこうひどい。そんな中で交代した若い新任のアントワーヌ担当看護婦ミリアムはまともで献身的、心がある人物として描かれている。アントワーヌは病気以前からもともと偏屈ジジイだったらしいけれど、ミリアムは美人で優しく献身的なのでアントワーヌもお気に入り。そんな彼女もやがてアントワーヌとの目蓋によるコミュニケーションを解するようになる。やっとのことでアントワーヌの疑問を知ったミリアムは、車椅子にアントワーヌを乗せ集中治療室に連れていく。ガラス張りの治療室の中でマルティーが特殊な治療を受けているのを廊下からアントワーヌは見た。元気そうでやがて退院するだろうぐらいに思っていたマルティーが実は小児ガンにおかされていたことをアントワーヌは知るのだ。同じ頃、毎日元気そうに夫アントワーヌを見舞っていた妻が病に倒れて死んでしまう。治療を終えてマルティーはまたアントワーヌの病室に戻ってくる。アントワーヌにとっては自分には何も言わなかった妻が死に、またマルティーが小児ガンであることを知ったこと、マルティーにとってはガラスの向う側で話す医師の唇を読んで、治療の効果が薄くいよいよ自分の状態が思わしくないことを知り、また自分も仲良くしていたアントワーヌの妻が死んだことを知って、2人の心のつながりは更に深くなっていた。クリスマスの晩マルティーはアントワーヌと病院を抜け出す計画を実行する。以前アントワーヌを見舞いにきた友人が今は店をやっていることをマルティーは知っていた。そこにはアントワーヌのかつての同僚たちや友達が集まるのだ。マルティーはアントワーヌに服を着せ、車椅子に乗せて深夜病院を脱走した。街のオモチャ屋のショーウインドウで好きなレゴのディスプレーを一緒に見た後、マルティーは道に迷いながら何処かに向かおうとしていた。アントワーヌはなされるがままに任せるしかなかったが、マルティーがやっと到着したのは見舞いに来た友人の店だった。そこでアントワーヌはかつて親しかった友人たちと楽しい時間を過ごすことができた。そんな友人の一人の車で2人は夜明けの海岸にやってきていた。車椅子を押して砂浜を海辺の方へ向かうマルティー。そんな2人の様子を友人は遠く車から優しく見守っていた。アントワーヌは何かを言おうとしていた。それを察したマルティーはアントワーヌのポケットに自分宛ての封筒を発見した。中にはミリアムに書いてもらった手紙とテーマパーク・レゴランドのパスポートが入っていた。喜ぶマルティーを見ながら「生きるんだぞ!」と心の中で叫ぶアントワーヌだった。この映画はやはりセローが名演ですが、明るくはないはずの背景を暗くは描いておらず、病院や医師の問題点も茶化している感じで、全体をコミカルなタッチにしているのが良かったです。こういう方が派手な暗さやお涙頂戴よりかえってジンワリと心に沁み入ります。人はどんな状況になっても最後まで誰か人との心の交流を必要とすることがしみじみと描かれていました。そして医療の場ではそういうQOLを大切にするべきだとも語っているようでした。 --- 追記 ---この映画の主人公は小児ガンの10才の少年でしたが、ムコ多糖症という先天的な子供の難病があることを、良く訪問してくださり、またボクもしばしばお邪魔するブログのオコ*ジョーさんが日記に書かれていました。ここにご紹介させていただきます。http://plaza.rakuten.co.jp/okojyo3/diary/200709010000/監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.12
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HUMAN DESIREFritz Lang白黒91minフリッツ・ラングと言うとジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』に自身の役で出演した彼であり、また1927年のサイレントの名画『メトロポリス』で、他は新旧色々な『マブゼ』も『M』も何も見ていません。まあこれから少しこの穴を埋めようかと思い、まずは簡単にレンタルできたこの『仕組まれた罠』を見ました。ユダヤ系だったラングがナチから逃れてアメリカに渡ってからの作品です。この映画の邦題の「仕組まれた」は、そうではないとは言えなくもないとしても、そう言い切ってしまって良いかどうか疑問です。フランスの作家ゾラの『獣人』のかなり自由な脚色であり、小説『獣人』の1938年の映画化であるジャン・ギャバン主演・ジャン・ルノワール監督の『獣人』のリメイクということにもなります。ゾラの小説では主人公はマッカール家のアルコールによる精神異常の血をひいて殺人衝動を持つ人物なのですが、この映画ではそういう面はすべてなくなっていて、1人の女にまつわる愛と殺人の物語になっています。結末も変わっています。汽車がもう一つ(一人?)の主人公といして描かれていることと、基本的人物設定以外はゾラとは無関係に見た方が良いと思います。冒頭タイトルロールから5分以上機関車の運転台から見た前方の線路やすれ違う列車、機関車を運転する主人公、終着駅に着いて切り離される機関車、ポイントや転車台などが写され、途中にもそういう鉄道の映像が写されていて、とりわけ鉄道マニアでなくても鉄道の世界を楽しめます。そしてこの映画に出てくる主要人物たちは、鉄道が好きで離れられない鉄道員であったり、鉄道の音が窓の外に聞こえないと落ち着けないという鉄道員の妻など、鉄道の魅力が映画全編の背景となっています。物語全体に 鉄道が存在 しているっていう世界がいいです。兵役の3年間の朝鮮戦争から故国に戻ってきたジェフ(と言うことは1950年代初頭、たぶん1953年頃)。ジェフは機関車の運転士に復職し、以前と同じように年長の同僚アレックの家に間借りした。そこには娘のエレンがいたが、3年見ないうちに大人の女性になっていた。エレンは秘かにジェフを想っていたが、ジェフもまんざらではなさそうだ。操車場長助手に出世していたカール・バークリーは若く美しいビッキーと結婚していた。カールは操車場長と喧嘩をして仕事をクビになり、復職するために鉄道会社の大顧客であるオーエンズ氏に口利きを頼んでくれと妻ビッキーに言う。ビッキーの母はかつてオーエンズの屋敷で女中をやっていて、ビッキーはそこで育ったのだった。しかしビッキーは夫の願いに良い顔をしない。シカゴ(?)を訪れ、彼女はオーエンズと会って夫の復職は入れられた。夫は友人宅で待っていたが、その間4時間も5時間も彼女は帰って来なかった。夕方になってビッキーは帰ってくるが、夫カールは何をしていたかを妻に問いただし、その曖昧な返答から妻が今もオーエンズと関係があることに勘付く。カールは暴力でその事実を妻に白状させる。オーエンズが列車で旅立つことを知ったカールは彼を誘う手紙をビッキーに書かせた。カールは一等個室内でオーエンズを殺害するが、片道運転の仕事帰りで同じ列車に乗っていたジェフは2人を目撃してしまう。そしてジェフとビッキーはやがて愛し合うようになる。(以下少しネタバレ)密会の場でビッキーは「男の人って解らない」と言い、ジェフも「解らないのは女も同じだ」と言う。たぶんまだ若い若い頃オーエンズに屋敷のプールで関係を迫られ、そんなオーエンズと今も関係を続け、生活の安定のために好きでもないカールと結婚した女ビッキー。嘘さえついてジェフに近付くのは彼を愛するからなのか、今では嫌悪すら感じるようになっている夫から逃れるためなのか、あるいは更に夫を殺害させるためなのか、たぶんそのすべてなのだろう。夫による殺害の後、夫が目撃されないためにジェフに声をかける前にコンパクトで化粧を直すビッキー。警察の集合尋問の際に秋波をまじえた哀願の視線でジェフに偽証をさせる彼女。愛しているなら夫殺しも出来るはずだと詰り唆す彼女。そんな女性の複雑な心理をグロリア・グレアムが巧みに演じていた。映画的にはこういうそれぞれの場面の出来は「さすがにフリッツ・ラング」と言ってよいのか解らないが、なかなか見応えがあった。でも映画全体としてそれらをつなげて見ると、やや安易な展開とも感じられた。根っからの悪人ではないかも知れないが不器用で、女を好みながらも本音では男より下と蔑んでいて、自己本意で単細胞、そしてそのために結果として哀しい人生しか送ることのできない男がカールだろう。演じたのはブロデリック・クロフォード。余談ながら調べてみたらこの俳優は双子座の生まれ。容貌も考え方や性格も双子座の男性に少なからずいるタイプ。ある知人の双子座男性にあまりにも似ていた。その意味では名演である以前に名配役だろう。そしてそんな双子座男性とは決して上手くはいかない射手座のグロリア・グレアムがその妻役だったのが上手すぎる。英王室は占星術で王(女王)の行動を決めているという話もあり、欧米の配役担当者の中には占星術的知識をキャスティングに利用している人もいるのかも知れない。(ちなみにこの映画でグロリア・グレアムという女優を初めて見てかなり好きになってしまったが、実人生と芸能人のどちらでもボクが好きになる女性の2/3は射手座の女性だ。)この映画の原作小説の題は『獣人(LA BETE HUMAINE)』(英語題 The Beast in Man =人間の中の獣性)で、この映画は『Human Desire』(=人間の欲望)だけれど、邦題の『仕組まれた罠』は、複雑な心理の物語をビッキーが意図的・計画的に 女の魅力でつって男(ジェフ)に偽証と夫殺害にはめようとした かのような物語の一面的解釈であまり適切ではない気がする。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.11
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火星のカノンTHE MARS CANON(aka : CANON ON TUESDAY)風間志織121min見始めて最初の15分か20分、映画が良い悪いというのではなく、それを言うならむしろ良く出来ているからだと思うが、描かれている世界にちょっと違和感を感じた。ここのところあまり日本映画を見ていなかったせいかも知れない。登場する日本人に違和感を感じたのだ。それはつまり毎日見慣れている欧米映画に出てくる人物たちとかなり違うからなのだが、それは日本人を日本人として的確に描いているということでもある。前にもどこかで書いた日本語の性格とも関連するのだが、気持ちを言語化しないあり方だ。それは自分の相手に対する気持ちを と りあ え ず 客観化して、それを自分にも相手にも提示するということの不在。その点ではたとえば公平の娘ありみは子供だからか(?)もっとストレートだ。あるいはある言葉に対する万人共通の客観的理解の共有の不在、ないしある場合には拒否。それはある事態の本質の明確化の不在や拒否でもあり、すべて個人的 特 殊 性 に帰せしめようという欲求でもある。社会通念や常識の問い直しをしようという意志が有ろうと無かろうと、言葉にまつわる手あかに対する拒否が有ろうと無かろうと、妻子ある公平とつきあう絹子の関係は 不 倫 以外の何ものでもない。こういう情緒性が良く描けていて、そのために違和感あるいはもどかしさを感じてしまったのだ。(ただ誤解があってはならないのは、この絹子と公平のような心理状況のカップルが欧米世界にはないということではない。)今、上に書いたことと矛盾するようにも感じられるかも知れないが、そうした日本人や日本語の特殊性を除けば、映画自体はものすごくフランス映画的だと感じた。ある状況下における人々の孤独、他者を必要として求め、それぞれがエゴイスティックでもある。その心理状況が淡々と語られ、特別の劇的展開があるわけでもないし、明確な結論が示されるわけでもなく映画は終わる。ゆっくりとした、間合いの長い、結果2時間を超える編集の仕方も成功だと思う。絹子は妻子ある公平の週1回火曜日だけの不倫相手なわけだけれど、絹子にとってたぶん公平は運命の男でもなければ、特に魅力的なわけでもない。公平の存在はいわば麻薬であり、アルコールであるだけだ。孤独を紛らわすために好きでなくてもやめられない麻薬中毒のようなものだ。熱海旅行に行った2人は浴衣を着て部屋で夕御飯を食べる。公平の差し出すお茶碗に絹子が御飯を盛ったりして、絹子が口にするように2人の家での夫婦水入らずの生活のひとコマのようだ。中毒患者絹子の夢は公平が離婚して自分と結婚することだけれど、仮にそれが実現しても決して幸せは待っていないように辛辣に描かれているような気がした。そんな絹子を演じた久野真紀子も公平の小日向文世もとても良い。絹子を好きで、絹子に冷たく拒否されても怒らず淋しいだけで、お腹が減ったと言われれば甲斐甲斐しく御飯を作る聖。しかし日本女性一つの姿として旧来から描かれた演歌的日陰の女ではない。4人の主要人物の中で聖がいちばんしっかりと自分の欲求を行動に移す。自分を抱いて絹子の悦ばせかたを教えてと公平に迫る聖でもある。こういう静かな激情の女というのは恐くもあるが魅力的だ。演じた中村麻美が良かった。最初に違和感と書いたが、それほどまでに真鍋や焼き鳥屋の男も含め、すべての役者がリアリティーをもって人物を表現していた。これはボクの見た最近の日本映画としては稀に見ることだ。小学生のありみの子供の直截な物の見方を描いて大人の人物の心理のヒダを浮き彫りにした脚本も巧い。聖は絹子と同性愛として描かれてはいるが、その点は特に重要ではないと思った。聖という1人の人物を描きたかったのと、絹子と公平の関係で必要とした副人物を一緒にしたようなものだ。そしてその聖は絹子のある一部分の人格化にも感じられた。(以下ネタバレ)絹子29才。独身。チケットビューロー勤め。彼女には火曜日だけの恋人公平がいる。公平は会社員43才。共稼ぎの妻と小学生の娘。絹子が病気になれば火曜日以外でもなんとかやってくるが朝までには帰って行くし、一緒に温泉旅行に行って、夜「このままもう帰らない」と(ウソでも?)言っていても娘が病気と妻から連絡があれば途中で帰ってしまう。路上の詩人・占師の真鍋は聖の姉の元カレ。聖を仄かに想い、一緒に暮らしているが、聖にとっては友情の対象。絹子に再会した聖は絹子を愛するようになり、空いていた絹子のアパートの隣室に引っ越してくる。公平との気持ちのすれ違いから絹子は真鍋と一夜の関係を持つが、真鍋は絹子に惹かれながらも愛を強要しない。やがて一軒家を借りて聖と二人住むようになる絹子だが、聖とベッドをともに眠る彼女が夢に見るは公平との幸せだった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.10
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かつてはDVDもビデオもなかったから劇場公開される映画以外はほとんど見ることが出来なかった。見たくても見られない映画はボクの場合はフランス映画中心なのだけれど、ビデオが登場してもビデオ化されない作品も多く、またビデオ1本は1万5千円くらいだったからレンタル店になければほぼ見ることは不可能。せいぜい日仏会館、日仏学院、アテネフランセ等で英語字幕のものが見られたぐらいだけれど、たった1回か2回だけの上映だったりするので、その日時に予定を組むことは必ずしも簡単ではなかった。(ちょっと加筆:テレビのことを忘れていました。ベルイマンの『恥』と『狼の時刻』が住んでいた地方のUHF局で放映されることを知って、それがキッカケで当時まだ27万円もしたβIIのビデオデッキを買ったのでした。)今は劇場公開されなくてもDVD化されるものがあって状況は少し良いけれどそれにも限りはあるので、フランスPAL盤DVDや米国NTSCビデオを買わなければ見られないものもある。それでも送料込みで安いと千円~2千5百円くらいで買えるものもあり、まあ映画館に行ったと思えば大して料金は変わらない。とりあえず自分はある程度フランス語が解るので、フランス映画以外でもフランス語字幕があればポーランド映画でもイタリア映画でもスウェーデン映画でもなんとかなる。この最後の点で思ったことがある。それはフランスならフランスにも、そしてもちろん世界各国にも、日本映画ファンや、日本文化ファンがいる。海外でDVD化などされない日本映画を見たがっている少数ではあってもマニアックな人々が存在する。フランス人のブログ等を読んでいると、AMAZON.JP等で日本盤DVDを買って見ている人が存在する。そういう人々は必ずしも日本語が解る人ではない。それでも彼等は字幕のまったくない日本語オンリーであることを承知の上で、必ずしも安くはないだろう日本盤DVDを買っている。そこでなのだけれど、そして自分にとっては何の直接的利益はないけれど、日本映画の日本盤DVDに英語字幕を入れるようにしたらどうだろう。業者としては経費的に無駄だからそんなことはしたがらないだろうが、文部科学省とか文化庁でも外務省でも、そういうことに助成金を出せないものだろうか。UNESCOの統計によれば2004年に商業上映用に日本で作られた映画は294本という。そのうち何本がDVD化されているかは分からないけれど、そして旧作も含めて1年間に日本でDVD化されている日本映画がどれだけあるかは分からないけれど、日本映画を、日本文化を、そして日本を海外に紹介し、振興するには安い費用ではないだろうか。確かにほんの一部の外国人が対象であり、また映画というのは芸術や文化であると同時に単なる商売や娯楽であるものも多いけれども、長い目で見て日本の国益に必ずつながることだと思う。フランス映画のクレジットを見ていると多くのフランス映画にはフランスの国立機関CNC(Centre National de la Cinematographie)が助成金を出している。映画文化の興隆や映画産業の保護というまずは国内的目的が中心だろうが、フランスは自国の文化の海外での振興が国益につながると知っている。だから(今の制度は知らないが)かつては国の指定する海外の学校等で一定期間フランス語を教えることで兵役が免除された。それで多くの思想家・学者・作家等の文化人が日本を含め世界各国に滞在してフランスの文化を広める役割を担った。経済や軍事関係とは違って直接目に見えないが、こうした草の根の人々の文化理解や交流は長い目で必ず国益となる。そのためには歌舞伎だ能だ相撲だと言った伝統日本ではなく、映画・マンガ・アニメといった現代日本の紹介も重要だ。たしかに表面的には単なる趣味としての「日本映画ファン」や「日本文化ファン」でしかないけれど、こういう人々を増やすことを蔑ろにしてはならないと思う。以上、偉そうなことを書きましたが、単純には自分と同じようなマニアックな海外の映画ファンとの仲間意識であり、また良い日本映画をなるべく多くの海外の方に見て欲しいという気持ちです。引用画像は上から以下の各作品です。(これらの映画には既に英語字幕DVDがあるわけです。)『秋刀魚の味』小津安二郎監督(1962)『カリスマ』黒澤清監督(1999)『ツィゴイネルワイゼン』鈴木清順監督(1980)『あずみ』北村龍平監督(2003)『菊次郎の夏』北野武監督(1999)『極道戦国志 不動』三池崇史監督(1996)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.09
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7月30日に20世紀後半を代表する2大監督ベルイマンとアントニオーニがそれぞれスウェーデンとイタリアで亡くなりましたが、その前日のフランスでは名優ミッシェル・セローが亡くなっていたことを遅ればせながら知った。享年79。ミッシェル・セロー氏は日本で広くは『Mr.レディMr.マダム』で有名だけれど、フランスの映画賞のセザール賞で唯一3度の最優秀男優賞をとっています(1979『Mr.レディMr.マダム』、1982『拘留』GARDE A VUE(検察官 レイプ殺人事件)、1996『とまどい』)。一般大衆向けの娯楽映画から知識層を満足させる映画まで色々な映画、長編約135本に出演しています。ボクが最近見てこのブログで取り上げた作品としては『死への逃避行』『クリクリのいた夏』『とまどい』がありますが、どれも渋い演技が光っていました。セザール賞をとった作品のうち『拘留』GARDE A VUEが日本で劇場公開されていないのが残念です。DVDは『検察官 レイプ殺人事件』という安っぽい題で発売はされているようですが。ご冥福をお祈りします。氏の出演作で見ていないものはまだまだたくさんあるので、これからゆっくりと氏を偲びながら鑑賞していくつもりです。ミッシェル・セローはいつも目による演技が魅力的でした。まずはビデオを持っているので『とまどい』を見ようと思います。この映画は名作だし、賞をとったくらいでセローも名演です。共演のエマニュエル・ベアールも良いし。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.08
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ED WOODTim Burton白黒127minティム・バートンと言うと最近では『チャーリーとチョコレート工場』が有名だけれど、見てません。ボクにとっては『ビートルジュース』という大好きな作品の監督です。7月27日の日記『プラン9・フロム・アウター・スペース』に書いたような事情でオコ*ジョーさんのページでこの映画のことを知り、『死霊の盆踊り』で知っていた最低の映画監督と言われるエド・ウッドの『プラン9・フロム・アウター・スペース』を見て、そしてこのバートンの伝記映画『エド・ウッド』を見ました。とっても良く出来た、楽しく、また感動的な映画でした。オコ*ジョーさん、ありがとう!。映画好きで自分でも映画撮ってみたいとか思って短編とか撮る人、ほとんど実践はしてないけれどボクもその口なのだけれど、そういう人っていうのは普通は物凄い映画マニアで、少し以前ならゴダールとかの映画が好きだったりして(たとえば初期の黒澤清とか)、映画作法に関して物凄くオタクだったりする。だから出来た作品全体の良し悪しは別として、それなりの凝った映像を作る。ところがこのエド・ウッドという人は、その方面に関心がないのか才能がないのか、それとも多額の製作費が得られなくても思い通りの全体を作ろうとするためなのか、エキセントリックな内容の映画を、映画作りとして破綻があろうとなかろうと兎に角作ってしまう人なのでしょう。エド・ウッドの監督作品は『プラン9・フロム・アウター・スペース』しか見たことがありません(『死霊の盆踊り』は脚本)。この映画では他に『グレンとグレンダ』『怪物の花嫁』の製作過程が描かれていて、なんとなくそれらの映画の雰囲気も想像できるんですが、何処かやはり『ビートルジュース』と相通じる感じがしました。まあティム・バートンが作っているからなのかも知れませんが。と言うわけでバートンはウッドに対して親近感もあって好きなのだと思います。そんな興味や敬意があって、とっても暖かい作りだと思います。『プラン9・フロム・アウター・スペース』は実際には上映されなかったのですが、この映画を完成してプルミエが成功しているような場面で映画を終わらせているのが嬉しいです。その後の半生については最後にテロップで紹介されていますが、アルコールに溺れていくなど必ずしも幸せではなかったのでしょう。そこは描いていません。エドが自分の最高傑作とする『プラン9・フロム・アウター・スペース』が完成したところで映画は終わるわけです。この映画で感動的なのは往年の名ドラキュラ役者のベラ・ルゴシとの友情関係。ベラは人々から忘れられ、生活保護で生活し、もう長らく麻薬中毒なんですね。療養のために病院に入っても入院費の支払いができないないだろうからと病院を追い出されてしまう。夜中に電話で呼び出されても駆け付けて支えとなるエド。ベラにはかつてのドラキュラ名役者としてのプライドがあり、また体調も優れないんですが、そんな中で池に入って作り物の大蛸とエドのために格闘するシーンは涙ものです。そして死の直前に撮ったベラのフィルムを何度も試写室で見るエドの様子も感動的です。この映画で特筆すべきは出てくる役者が『プラン9・フロム・アウター・スペース』に出てくる役者に本当に似ていることです。そして映画の始まりのクリズウェルの登場から『プラン9・フロム・アウター・スペース』をもじったものなので、『プラン9・フロム・アウター・スペース』を見ているとより楽しめます。言ってみれば後で再現されたメーキングフィルムなわけです。家でエドの恋人がUFOに絵の具を塗ってたり・・・。どうしてその映画がああいう配役で出来るに至ったかが描かれていたりで、エドの映画作りの過程がわかって面白かった。そして逆に彼の映画を見たことがないと見てみたくなるかも知れません。エドは『市民ケーン』のオーソン・ウェルズを尊敬していて、どこか自分と同一化している要素もある。架空のエピソードですがそんなウェルズとの出会いのシーンが描かれます。ウェルズに「自分の夢ではなく他人の夢を実現してどうなる?。」と言われてエドは自信を取り戻すんですが、エドっていう人は自分の夢を追い続けた人なんでしょうね。製作費を出してもらうために随分口八丁なことを言うエドですが、きっと彼には悪気は全然ないんでしょう。愛すべき人物です。女装趣味もあるそんな彼を理解して支えたキャシーが存在したことも、見ている自分がエドのために良かったな~、などと幸せに感じさせてくれます。映画の配役がどんどん決まっていき、難航する資金調達も上手くいき・・・っていう流れは、結果が分かっているからかも知れませんがややトントン拍子に進んでいく感じですが、映画を作っているときがたぶんエドにとって最高の幸せだったのだと思うので、その流れは見ていて一つの爽快感です。そして作品完成とキャシーとの結婚で映画を終わらせて、エドを始め各人物のその後を荘重な音楽をバックにテロップだけで示した作りは、余韻を残す感動的なものでした。本当の意味での悪人が出てこない映画で、望んでであれ、巻き込まれてであれ、夢に生きたエド・ウッドを周囲で支えた人々の物語という感じで、たいへん気持ちの良い映画です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.07
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DIEU EST GRAND, JE SUIS TOUTE PETITEPascale Bailly100min決して成功はしていないので、駄作と言えばその通りだけれど、日本での無理解は邦題にもあるのではないだろうか。無理に直訳すれば「神は大きい、私はほんとに小さい」とでもなる。「大きい」は「偉大」と訳した方が日本語らしくなるが、ここでは grand と petite(大きいと小さい)との対比があるわけだし、toute petite には「ほんの子供」と言ったニュアンスもある。その辺を良く理解して見る方が良いかも知れない。駄作ではあるけれど、それなりに楽しめた。オドレイ・トトゥの演技の感じもボクは『アメリ』より好きだ。ミシェルは二十歳そこそこ。前の彼氏とは別れたが、中絶(流産?)もした。彼女の父親は継父だったりで、そういう家庭の事情もあったのかも知れないが、精神的に成長した独り立ちはできていない。TOUTE PETITE、つまりほんの子供なのだ。だから彼女は人間関係に、家族でも友人でも恋人でも、まだ解らぬ 自 分 を与えてくれる何かを求めている。だからといって彼女には彼女なりの何かもあるわけで、ただ誰かに頼って追随すれば済むわけでもない。それで家族とも中々上手く行かないし、恋人ともそうだ。彼女は幼児洗礼のカトリック教徒だろうが、キリスト教も指針を示してはくれないので仏教を試す。そんなときユダヤ人で、もちろんユダヤ教徒のフランソワ、32才とかなり年長、つまりは大人の彼氏ができる。それで彼女はこの彼氏とユダヤ教にのめり込む。それが良いかどうかの是非ではなく、フランソワもその両親も敬虔なユダヤ教徒ではあるが、と言うかユダヤ教はユダヤ人としてのアイデンティティーなだけで、決して必ずしも実践的信者でもないし、原理主義でもない。断食や安息日を厳格に守ったりはしない。そこが良くも悪くも(欺瞞をも含む)大人の宗教感なのだ。フランソワのミシェルへの態度を身勝手な男の無責任と批判する観客もいるようだが、この辺の子供ミシェルのフランソワ(や他の人々)に対する態度のあり方を読み取るべきだ。そしてこのフランソワやユダヤ教も結局ミシェルに回答を与えてはくれず、彼女はGRANDE 大きくなることはできない。そんな彼女の成長の試みと困難がこの映画のテーマだと思う。だから最後に描かれる結婚式の友人ヴァレリーは、成長をして大きくなって結婚まで至ることのできたヴァレリーなのであり(その前にヴァレリーの分析医としての独立も描かれている)、そんなヴァレリーを眺めるミシェルで映画は閉じられ、彼女の成長への道はこれからも続くという意味で「続く」のテロップも出るのだ。この映画ではユダヤ教がずいぶんと描かれているし、フランソワの口からは「ホロコーストはナチの言葉であり、(ヘブライ語の)ショワが正しい。」と言わせている。このバィイーという女性監督のことはよく知らないのですが、映画界にはユダヤ系の人が多いんですね。だからユダヤ問題が映画の端々に登場することが多いようです。子供的原理主義でユダヤ教を学び実践しようとするユダヤ人でないミシェルの態度に、本当のユダヤ人ユダヤ教徒のフランソワが戸惑うという作りは面白いですね。ヴァレリーがはまりをうになったエセ新興宗教、フランソワがユダヤ人であることをご近所に隠している事実、こういうすべてから宗教や人種差別問題に関して何を監督が言いたかったのかはちょっと不明でした。『アメリ』以外のオドレイ・トトゥの同じ頃の、同じく女性監督の作品として『愛してる、愛してない...』の方がはるかに良いという人もいるが、『愛してる、愛してない...』は 見 せ る 映画ではあるし、それで楽しませてくれるが、内容的にはほとんど皆無であり、不成功ながらこの『ミシェル』の方が原案は内容豊かだと思う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.06
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CQRoman Coppola88min言わずと知れた大監督フランシス・コッポラの息子ローマン・コッポラの第一作。2001年のカンヌで上映されたとき、映画祭に間に合わせるために急いだ仮の編集であったこともあってか冷たく遇されようだ。今回見たDVDはやや短くなり最初も最後もかなり変わっているという再編集版だけれど、ボクはなかなか良い・楽しい映画だと感じた。2000年頃撮影されたこの映画の舞台は1969年フランスで、トリュフォーの『アメリカの夜』(1973)のように映画の中で映画の製作過程が描かれているが、その映画中映画の物語はキューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)同様当時の近未来である2001年が舞台だ。今2本の映画の題名をわざわざ挙げたのは、この映画が60年代70年代の主にヨーロッパの映画への思い、憧れ、敬意、ようするに信仰告白のような作品だからだ。映画製作の映画という意味では元になるのは『アメリカの夜』と同時にゴダールの『軽蔑』(1963)でもあり、同じようにプロデューサーの監督に対する干渉が描かれ、アンジェラ・リンドヴァルの肢体の写し方はブリジット・バルドーのそれだ。トリュフォーに戻れば「ラストの拳銃はどの形にしますか?」というセリフは『アメリカの夜』のトリュフォーへのオマージュ。映画中映画のSF『ドラゴンフライ』はロジェ・ヴァディムの『バーバレラ』(1968)へのオマージュであり、月から見た青い地球の画面やパリの風景の書割のセットは、より新しい映画だが『ティコ・ムーン』(1996)をも連想させる。ローマが舞台の部分で年越しのパーティーの人々がグロッタを見にいく様子はフェリーニの『甘い生活』(1960)を思わせるし、そうでなくとも端々『81/2』他のフェリーニ作品を連想させる。映画への情熱でパートナーの女性との生活をないがしろにし、映画製作の世界で知合う別の女性への恋情を持って、パートナーに去られる主人公の様子はポーランド映画だがキェシロフスキの『アマチュア』(1979)をも思い起こさせた。それとはまた別に、この映画に出演する2人のフランス人俳優の雰囲気が良い。プロデューサーに解雇される監督を演じたジェラール・ドパルデューと主人公の恋人マルレーンを演じたエロディ・ブシェーズは、どちらもセリフは英語だけれど、このアメリカ映画的、あるいは無国籍テイストの映画に、濃厚なフランス人の雰囲気を醸し出していたのが面白い。特に主人公のアメリカ青年との絡みで見せたブシェーズの雰囲気は正にフランス女性であり、同じ役をアメリカ人とかの役者が演じても決して出すことの出来ないだろうフランス女を体現していた。非フランス映画で、非フランス人が演じるフランス人を見る時にある種の抵抗とか物足りなさを感じることが多いけれど、こうして全体の異空間の中にコントラストをもって置かれると、フランス人の持つフランス人的個性の強さを改めて見せつけられる思いだった。キェシロフスキが『ふたりのベロニカ』を撮る時に、プロデューサー等に主演女優はフランス人でなければフランスの観客は納得しないと言われて抵抗を持ったようだが、実際そういう要素は訳あることなのだ。ちなみに革命家の方が勝利するというラストにこだわり解雇されるドパルデュー演じる監督の名前がアンドレイというのはポーランドの映画監督アンジェ・ワイダへの仄めかしだろうか。若いアメリカ人(?)のポールはヌーヴェル・ヴァーグのフランスにやって来ていた。時はメ・68(フランス5月革命)の頃。彼はスチュワーデスをするフランス人の恋人マルレーンと一緒に暮らしていた。彼は自分の真実を探究し記録するとして、映画カメラを自分に向けてシネマ・ヴェリテ風、あるいはゴダール風の白黒映画を自費で撮っている。正面からアップの人物がカメラに向かって語る映像はゴダールだし、コーヒーカップの渦巻くコーヒーは『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966)だ。ポール(ジェレミー・デイヴィス演じるポールの小柄で端正な風貌はトリュフォーやその分身たるアントワーヌ・ドワネル [ジャン=ピエール・レオ] に似ていなくもない)は映画の編集の仕事で生活をしているが、B級SF映画『ドラゴンフライ』にも編集や第2班監督などとして関わっていた。映画のことが最重要の彼は久しぶりにマルレーンがフライトから帰ってきても映画関係の用事があれば彼女を放ったらかしだし、もともと彼が大枚注ぎ込んで撮っている映画に彼女の理解はない。そんな中彼は『ドラゴンフライ』の主演女優ヴァレンタインに心惹かれ始める。(以下ネタバレ)プロデューサーとの意見の相違で最初の監督アンドレイは解雇され、引き継いだデ・マルコも交通事故に起こしたりですぐに辞退し、結局ポールが抜てきされる。ラストのことで大晦日ローマにプロデューサーのエンツォに会いに行くが、帰ってみるとマルレーンは荷物をまとめて去っていた。革命的思想から『ドラゴンフライ』は革命家が勝利するラストにしたいという最初の監督アンドレイが編集室に忍び込んでフィルムを細切れにしたり、撮影済みのフィルムを強奪したりするが、革命家が勝利するラストを彼に約束してポールは映画を仕上げた。たぶん映画として成功だったのだろう。それまで最廉価車2CVに乗っていたポールが同じシトロエンの高級車DSを運転している。映画の途中に『悪魔の首飾り』のフェリーニ風に挿入されるポールへのインタビュー(空想映像)はポールのやろうとしていることを批判・非難していたが、商業映画で成功した彼は「作家の映画」映画祭のようなものでも上映され、講演もするようになっていた。でも講演後に彼に話し掛けた聴衆の1人の若い女性の用件は自分の書いた脚本をデ・マルコ監督に渡してくれという売り込みだった。自分の作品『69/70』が上映される部屋のドアの隙間からポールがスクリーンを覗くと、そこにはマルレーンの姿が写っていた。懐かしい彼女との愛の記録だ。ラストはポールが監督・撮影する新しい映画のためのカラーテストのフィルム画像。そこに写っているのはヴァレンタインだった。なんとも微妙なバランスを保った面白い映画ではないだろうか。ベタに作られた『ドラゴンフライ』もそれなり魅力的だし、1965年パリ郊外生まれのローマン・コッポラが描いた自分のほとんど知らないメ・68等のフランスもいいし、何よりも全編にただよう60年代70年代の色々な映画の引用がいい。彼が愛するこうした映画に詳しく、更にそれが好きな観客であれば、それだけこの映画を楽しめると思う。しかも難しくではなく軽い気持ちで。映画中でポールが撮ったゴダール風の白黒映画もローマンが撮りたかったものだろうが、それだけでは作品として成立しない、というよりも広く興行することは不可能だろうが、上手く商業長編映画に溶け込ますことで我々も見ることができるのだ。映画作家のやりたいことと実際に大資本を得ての商業映画の制約、この関係を描いたものでもあるのだろう。最後にこの映画で印象に残ったセリフを1つ。アンドレイがポールに言うのだけれど、「いいかいポール。常にカメラの横に立て。役者が君の存在を感じ、君のために演じられるように。」最近の映画監督は役者に背を向けてモニターを見ていたり、別室でモニターを見たりしている。それはカメラの撮影する映像をモニターで同時に見られるという技術の進歩なのだけれど、これは役者の演技に従来との変化をもたらしてしまうだろう。リヴ・ウルマンはHDで撮られた『サラバンド』でベルイマンが今までのように自分の演技を近くで見ていてくれなかったことの戸惑いを洩らしている。「最近の監督は演ずる役者を直接見なくなった」と嘆いていたキェしろフスキはカメラに写らない範囲で演ずる役者に超接近していた。映画というこの虚構と現実の交差した世界の魅力はこうした撮影方法でこそ可能なのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.05
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LA LECTRICEMichel Deville97min寸評:こういう映画は結局のところ日本では流行らないのか?。好きな映画だな~!。主演のミュウ・ミュウが素敵。この映画たぶん十数年前に見て、気持ちの良い印象がありました。1~2年前に中古ビデオを見つけて買ってあったのを見ました。気にもとめていなかったのですが、半年ぐらい前に見てやはり気持ちの良かった『恋は足手まとい』と同じミッシェル・ドヴィル監督でした。ビデオジャケットには「日比谷シャンテ・シネ開館以来の初日動員新記録達成!」とありますが、恐らく今では殆ど忘れ去られた作品だと思います。残念です。とっても良い映画です。日本ではたぶんDVD化はされておらず、中古ビデオが入手できるのみだ。物語はミュウ・ミュウ演じるコンスタンスがベッドで夫に『読書する女』という本を読み聞かせるという枠組みがあって、その本の内容を映像化したしたのが映画の本体となっています。読書好きで声の良いマリーが出張朗読をするという新聞広告を出します。依頼を受けて色々な人々の家で本を朗読。そこでの人間模様が冬の南仏アルルの美しい街並の中に描かれます。映像でマリーを演じるのはもちろんコンスタンスと二役のミュウ・ミュウで、このマリーの物語はコンスタンスのイマジネーションでもあり、また原作であるレイモン・ジャンの小説『読書する女』の映画化でもあります。事故で半身不随になった15才の少年エリック、マリア・カザレス演じるルーマニア出身の将軍未亡人、裕福ではあるけれど両親とも仕事が忙しくかまってもらえない少女、欲求不満の中年実業家、マリーが若く美しく溌溂とした女性なので、朗読を聞く男性には15才のエリック始め彼女の女性としての性的魅力も関係してくる。そしてマリー(あるいはコンスタンス)の性的妄想も交錯する。でもこの物語の登場人物はマリーの朗読を聞く人の周辺の人々、つまりエリック少年の母親や祖父、将軍未亡人の家のメイド、少女のキャリアウーマンの母親なども含め皆が孤独を抱えている。そして性愛も含めて孤独の対処薬である人と人の関わりや愛、そういうことが描かれていると思います。職業として確立された形があるわけではない、いわば思いつきの仕事だから、その場その場で色々な躊躇、疑問、トラブルもある。でも明るい曲調のベートーベンの曲をバックにアルルの街を闊歩するマリーは溌溂としている。これが映画の魅力でもあり、また孤独な人々が性的欲望をも含めてマリーに期待するゆえんでもある。以下ややネタバレ最後の方で元司法高官であった老人の求めでサドの『ソドム百二十日』の卑猥なくだりを、それまでに彼女の職業に疑問を提示していた警察官と医師と老司法官3人の前で朗読しなければならないことになるのだけれど、これがマリーないし彼女の職業に対する裁判のような体をもって描かれ、最初の枠組の夫に『読書する女』を朗読するコンスタンスに戻って映画は閉じられる。朗読というのは不思議なものだ。朗読で聞く名作のカセットテープのこともちょっと話題になるけれど、不特定多数相手の朗読と、面と向かっての個人的朗読は意味が違う。サドの卑猥な文章を老司法官の前で読まなければならなくなったときマリーは躊躇するけれど、これは男性が若い女性に性的描写を読ませるということに意味があるわけだ。そうでなくても朗読者は相手に対する愛とか、思いやりとか、その他その他の相手への感情を前提として読み聞かせる。つまりは朗読行為とは人と人とのコミュニケーションなのであり、それを描くために登場させたのが読書する女マリーなのかも知れない。そしてそこに読書の楽しみや朗読される本の文面自体の内容が交錯し、とてもとても気持ちの良い映画だ。冬のアルルも美しいし、なんと言ってもミュウ・ミュウが素敵だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.04
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VISKNINGAR OCH ROPIngmar Bergman87minこの作品は随分昔、たぶん中学生の頃に、ただ1度だけ映画館で見た映画です。大好きな映画ですが、以後見る気は起こりませんでした。同じベルイマン監督の作品でも『ペルソナ』などは7~8回は見ています。1回切りで十分味わい尽くしてしまった感動を薄めたくなかったと言うのでしょうか。先月末にベルイマン監督が(アントニオーニ監督と同じ日に)他界し、俄にまた見てみたくなり、価格など気にせずにDVDを買ってしまいました。監督が死んでからDVDを購入しても現世的に監督には何ももたらしはしませんね(イングマール、生前に購入しないでゴメン!)。一種の回顧・追悼鑑賞です。ベルイマンと言うと、50年代60年代には『ペルソナ』であるとか『鏡の中にある如く』『沈黙』『狼の時刻』など、病的精神や形而上学を扱った難解と言うか「尖った」映画も多いけれど、世界、自然、宗教、他者といったものとのかかわりから現代の人間の条件を考察するのが基本的テーマだ。そしてこの『叫びとささやき』以降『ある結婚の風景』『秋のソナタ』『サラバンド』など人間間の愛情や憎悪などを描いているのだけれど、この『叫びとささやき』は彼の後期の作品への橋渡し的作品に思えてならない。そういう意味で作る彼も力が入っているし、出来上がった映画も彼の作品を代表する一つの傑作ではないだろうか。『狼の時刻』でちょっと使われたモーツァルトのオペラ『魔笛』は後年オペラ映画の傑作『(ベルイマンの)魔笛』となるが、この映画中に使われたバッハ無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンドは彼の遺作となってしまった『サラバンド』でまた取り上げられている。そういう意味でも彼にとって特別な作品だったのではないだろうか。物語は19世紀末、スウェーデンの領主の館といったところだろうか。ベルイマン組とでも言うのか彼の映画の昔からの馴染みの女優イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソン、リヴ・ウルマンが演じる3姉妹カーリン、アグネス、マリア。両親は既に死しておらず、長女カーリンと三女マリアは結婚している。女中アンナ(カリ・シルヴァン)と今も屋敷に暮らす次女アグネスが末期ガンで、最後の看病と死を看取るために姉カーリンと妹マリアが屋敷を訪れている。映画の現在時は病床のアグネスの死と葬儀が終わり、残ったカーリンとマリア(と女中アンナ)が別れていくまでを描いている。そこに子供時代の回想が入り、かつてこの屋敷を訪れたカーリンやマリアの夫との関係などが回想される。それによってこの3姉妹の不幸や互いの愛憎混じった人間関係が明らかにされていく。以下ネタバレ末娘のマリアは子供の頃から親に気に入られる術を知っていて、甘やかされて育ったが、そのせいで今も子供のままで成長が出来ていない。かつて屋敷に泊まっていたとき、女中マリアの娘が病気になり、往診に来た医師を誘惑して関係を持つ。誰からも愛されていなければ満足できない彼女なのだ。翌朝商用から戻った夫はそのことに勘付き自殺未遂を計った。一方長女カーリンは歳の離れた外交官と結婚していた。ある晩この屋敷に泊まったときのこと、食事を終えると夫が口にするのは「もう遅い、ベッドに入ろう」という言葉だったが、夫が大切にするのは外交官夫妻としての格式であり、プライベートでの妻への期待は性的欲望の解消相手としてだけだった。そこに愛はない。日本語字幕は上記のようになっていたが、スウェーデン語ではたぶんもっと直接的に「さあ早くセックスだ」ぐらいに聞こえる。そんな外面だけの格式と愛情のない夫婦関係にカーリンは悩んでいた。そして割れたグラスの破片で彼女は性器を傷つけ、好色な表情の夫にその傷と血を示すのだった。幼い頃次女アグネスは素直に母親に甘えられなかった。母親を演じるのは三女マリアと同じリヴ・ウルマンの二役だが、彼女も幸せではなかった。ある日母親は幼いアグネスを呼び止めた。アグネスはまた小言を言われるかと恐れたが、そうではなかった。母は憂いに満ちていた。アグネスは母に触れ、きっと母の憂いを理解した。医学的なことはよく解らないがたぶん子宮ガンだろうか。アグネスは肉体的苦しみの末に死ぬ。牧師は「アグネスは自分よりも信仰があつかった」と言い涙も流すが、死んだ彼女の魂を静めることは出来ない。ベルイマンのそれまでの映画で再三描かれているようにこの牧師も「神の沈黙」に苦しみ、結果牧師としては無能な存在でしかない。アグネスの死で残された長女カーリンと三女マリア。誰からも愛されたい願望のマリアは、心の交流を拒絶する姉カーリンとの対話を試みる。心を閉ざすことでアイデンティティーを保っているカーリンは冷たく、そして恐れから拒否しようとするが、アグネスの死という非日常の中でマリアを受け入れる。語り合う2人の会話は聞こえないが、ここでバッハのサラバンドが美しく響きわたる。ここからやや幻想的なシーンとなる。死んだアグネスが姉カーリン、妹マリアを1人ずつ呼ぶ。カーリンやマリアの愛を確認して魂の安らぎを得たいのだ。しかしもともと愛の不在に苦しみ、愛など考えないように生きているカーリンは冷たく彼女を拒否をする。マリアは子供的優しさでアグネスの願いを受け入れようとはするが、やはり成長不全で我がままな彼女であり、現世的自分の幸せ、あるいは自分が誰からも愛されることだけを求めているだけなので、姉への愛のために自分を差し出すことなどできない。そして最後は女中のアンナが幼子イエスを抱く聖母マリアのような図像の構図でアグネスを抱き、彼女の魂を慰めるのだった。葬儀も終わりそれぞれの夫と屋敷を去っていくカーリンとマリア。互いに心を開き理解し合ったと思えたあの瞬間、それは現実の日常に戻った2人にはなかったかのようだ。再び互いに心を閉ざして2人は別れる。慇懃に「ありがとう」と言って解雇したアンナを去っていく2組夫婦。マリアだけは少しだけ心があるのか?。夫にお金を要求してそれをアンナに渡して去っていく。やがて出ていかなければならない屋敷に1人残った女中アンナ。彼女は秘かにアグネスの日記帳を隠し持っていた。「久しぶりに体の調子もよく、子供の頃のように庭をみんなで散歩した。姉と妹とアンナ、好きな人がみんなそばにいる。これが幸せだ。」アンナが優しく揺らすブランコに3人姉妹は乗り、一時の幸せを噛み締めるように穏やかに微笑むアグネス。そんな美しくも苦い回想シーンで映画は閉じられる。ベルイマンの再三の中心テーマであった神の沈黙。それはようするに愛の不在だ。この映画の時代設定は19世紀末だけれど、描いているのは現代の人間の条件だろう。たぶん高位の外交官のカーリーン夫妻、今風に呼べばたぶんビジネスマンのマリア夫妻、この2組の裕福なカップルを現代人の象徴として位置付け、子供の頃は親に愛されず、その後も病弱であるがために現世的普通の幸福から疎外されたアグネスと、恐らく貧しい農家か何かの出身であるアンナ、この両者に心や愛、ひいては信仰の可能性を託したのだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.03
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CHARLOTTE GRAYGillian Armstrong122min寸評:かなり良い映画だし、後半のケイト・ブランシェットもいいだけに、もったいないな~っ!、って言うのが正直な感想。この映画、ケイト・ブランシェットはいいし、かなり感動もさせてもらったのだけれど、ちょっと中途半端な感じ。ここに自分で物語を書こうと思ったのだけれど、どうも筆(キーパンチ)が進まない。なのでとりあえず公式のものを引用します。1943年、第二次世界大戦下のロンドン。看護婦だったシャーロットは、英国空軍兵士と恋に落ちるも、彼はフランスの戦闘で消息を絶つ。恋人への募る想いに女は決断した。諜報員としての特訓を受け、レジスタンス活動に合流するために、南フランスの山あいの村へ。そこでシャーロットを待っていたのは理想家肌の闘士ジュリアンと命の危険にさらされた幼いユダヤ人兄弟だった…。恋に揺れる女から、いつしか見えざる使命感に衝き動かされていく情熱のヒロインをケイト・ブランシェットが熱演!サスペンスとロマンの香り高き戦争映画の必見作。彼女は汽車の中でフランス語の本を読んでいて、いわばスカウトされるのだけれど、フランス人に成りすましてフランスに潜り込み、反独の諜報活動を行うのが任務。でもここでまず感じてしまったのは、フランス人に成り済ますには、セリフにあるようにイギリスではなくフランスの生理用品を使うことだけではなくって、フランス人に遜色がないほどに英語訛りのないフランス語が話せなければならないんじゃないのかな?、って疑問。彼女はフランスに留学していたってことらしいけれど、だから彼女がそうではないとまでは言わないけれど、フランス人並みにフランス語が訛りなく話せるイギリス人などそう簡単にいるはずがない。そんな意味で冒頭から、ちょっと荒唐無稽な物語だな、って感じたわけです。で見続けたら全編英語でフランス語は出てこない。だから彼女のフランス語のボロが出るなんてことはなくて済むことは確か。でも出てくるフランス人役の人々はアメリカやイギリスやアイルランド人の役者さんで、これまたフランス人には見えないからリアリティーが更ににないんですね。でもまあ、そのことはちょっと置くとして、今度は物語の内容。ケイト・ブランシェットの演じるシャーロット/ドミニックがなぜ危険な諜報員になってフランスに赴くのかがはっきりしていない。国や正義や「希望」のためなのか、それとも最初の動機は恋であったのか。その辺はゴッチャで、自分でもハッキリとした信念はなかったという設定だって良いけれど、それならそれなりの描き方があるはず。そしてそれによってラストも変わってくるはず。恋人に対する深い思いをまず描き、最初は行方不明の恋人を追うためにフランスに行き、そこで現実に接して彼女の中で信念のようなものが生まれ・・・っていう流れをもっと明確に描いて欲しかった気がする。フランスに来た彼女が恋人の消息を知りたかったためにフランス側の諜報員と無駄な話をしてしまい、その諜報員の女性を死に至らしめてしまうという見方もあるようだけれど、それはちょっと間違いかも知れない。あの話をしてなくても諜報員は捕まっていた感じだから。現実の恐ろしさを伝えるという効果をもった挿話に過ぎないと想う。ちなみにボクの見たビデオでは手渡した物 bulb の訳は字幕で「バルブ」になっていたけれど、ちゃんと「真空管」と訳すべきでしょう。無線機を作るのに必要なのだけれど「バルブ」じゃ何のことだか解らない!!。で彼女は暇を見つけて恋人の空軍兵士がいるらしい場所に汽車で向かおうとする。でもかくまっていた幼いユダヤ人の兄弟を駅で見つけて、危険だから兄弟を連れて帰る。ここに「恋人の消息目的」から「信念」への変化が描かれていると言ったらよいのでしょう。3つの言葉の中から彼女が愛情ではなく希望を選ぶセリフが彼女の心境を表現しているとも言える。(以下ややネタバレ)映画もこの辺からは面白くなってくる。色々な点で良く作られていたし。それはつまり「恋のために」という最初の設定自体があやふやだったということでもある。この後半でのケイト・ブランシェットはいい演技しているのだけれど、イギリスでの空軍兵士との恋という部分は、どうも彼女のガラじゃない感じ。そういう深い女の想いは伝わってこない。だから最後に無事だった空軍兵士と再会したときの彼女の選択の場面も薄っぺらい感じになってしまっていた。セリフとして重要なのはジュリアンの父親が語ったのだと思うけれど「国のために戦うんじゃなくて、家族のために戦う」というもの。このセリフは実は映画全体に深くかかわっているのではないだろうか。「国のために戦う」というのはナチ・ドイツ人だって同じこと。だとしたら自分たちの活動は根拠を失ってしまう。家族のために戦うというのは愛する者のために戦うと読み代えても良いし、また守りであって攻めではない。だからこそユダヤ人の子供やジュリアンの父親が連れ去られたとき、身体的に3人を救うことができない彼女が、あれほどまで必死になって子供たちの精神に救いを与えようとすることにも意味があるわけだ。(以下ネタバレ)ユダヤ人の子供をかくまっていたことで身に危険の迫ったジュリアンはスペインへと逃げることになり、ドミニック(シャーロット)は別れ、信念として最後の仕事をしてからイギリスに戻る。そこで死んだと思っていたけれど無事だった空軍兵士の恋人と再会するのだけれど、彼女にとってはもう過去の人であった。そして戦争が終わるとフランスに戻りジュリアンを訪れるのだ。上に書いてきたようにシャーロットの空軍兵士に対する想いが良くわからないので、最後の心変わりもやや空虚ではあるけれど、映画を見ていて予想できた最後だった。そしてその伏線かも知れないのは最初に彼女が汽車の中で読んでいた小説がスタンダールの『赤と黒』だったことだ。『赤と黒』の主人公はジュリアン・ソレルだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.02
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ZABRISKIE POINTMichelangelo Antonioni112min7月30日に亡くなったイタリアの大監督ミケランジェロ・アントニオーニ、追悼というわけでもないが何か見ようと思い、所有のビデオ・DVDから最近(たぶん10年以上)見ていなかった『砂丘』を見た。アントニオーニの初期の映画は白黒で、ずっとイタリア本国で撮っていた。その最後の『赤い砂漠』が初めてのカラー作品。そしてイタリアを出てイギリスで『欲望』を撮り、アメリカでこの『砂丘』を撮った。次の『さすらいの二人』はイギリスとドイツも出てくるが主にスペインとアフリカが舞台。『ある女の存在証明』でイタリアに戻り、途中脳障害に苦しむが、残る『愛のめぐりあい』と『愛の神、エロス』を撮る。前者はややフランス寄りの映画で舞台も一部南仏だけれど、結果として主な彼の劇映画で自分の外の世界を撮ったのは『欲望』のイギリスとこの『砂丘』のアメリカ、それと意味は少し違うが『さすらいの二人』のアフリカ・スペインだろう。初めて『欲望』を見たとき、大陸ヨーロッパの南のイタリアのアントニオーニが捉えた60年代のイギリスが面白かった。アントニオーニのイタリアと比べれば暗い黒いロンドンの街並。イギリスの伝統的世界と、主人公の写真家が撮るミニスカートに代表されるような新しいカラフルなファッションや最後のモッズ族(?)、長髪、またロックバンド・ヤードバーズ等、新旧が対立 and/or 共存した不思議な世界、アントニオーニが感じたこの独特な雰囲気が物語とも絡まって描かれていて面白かった。そしてこの『砂丘』は70年頃のアメリカ。利益追求で自然を開拓し住宅や別荘を開発する不動産業者のビジネス、冷戦やベトナム戦争の社会や国家的権力、機動隊、その反対側に学生運動や自然回帰的ヒッピー文化。『さすらいの二人』はアフリカと「ピレネー山脈の向こう側はアフリカだ」と言われるスペインが舞台になるが、ここでのザブリスキー・ポイント(映画の原題)や死の谷、荒れ野(砂漠)地帯の延々と続く広いアメリカの地理的自然環境。大都市の中心には近代的な高層ビルが建つが、場末に出れば広い殺風景な空間にアメリカ的安楽を歌う色々な製品や商店のカラフルで巨大な看板。町を出た廃れた村の酒場には40年前の栄光に思いを馳せて酒を飲む老人の止まったような時間。荒涼とした岩山の上にプール付きの快適な別荘を持つ有産階級。アメリカ文化の批判とかいう以前に、この南西アメリカのカリフォルニアやアリゾナの姿に違和感、珍しさや衝撃さえアントニオーニは持ったに違いない。そしてそんな中に生きる人間を彼は描いた。この北イタリア出身の文化人アントニオーニの目で捉えられたこうしたアメリカが何よりこの映画の魅力だ。カリフォルニアのとある大学。学生集会が開かれ、まさに学生紛争のさなか。学生達は大学をロックアウトし立て籠るが、警官隊が武力で介入する。先鋭的な一匹狼のマークはピストルを持って単独行動で大学に来ていた。学生が警官に射殺されるのを見て彼は警官を撃とうとするが、誰かが先にその警官を撃った。彼の姿はテレビにも写ってしまう。そんな彼は大学を抜け出すと飛行場で小型機を盗んでアリゾナの砂漠地帯の方へ飛び立つ。一方ダリアは砂漠に住宅・別荘地を開発する不動産業者のアレンのアルバイト秘書をしていた。彼女はアレンに気に入られていているが、彼女は自然回帰派というか、ヒッピー的思想の理想主義者だ。フェニックスの別荘での商談が予定されていたが、ダリアは飛行機でのアレンの同行を断り、一人車でアリゾナへ向かう。砂漠の中の真直ぐな一本道を走るダリア。上空からそんな車を見つけたマークは車の屋根スレスレに低空飛行して彼女をからかう。最初は怒る彼女だったが、いつしか2人はどこか心が通っていた。砂漠に着陸した小型機の方へ彼女は車を走らせる。ガソリン代は払うから30マイルほどの所に連れてってくれないかというマークの希望を受け入れ、2人は彼女の車で走りだす。目的地はザブリスキー・ポイントだった。湖底が隆起し食塩とホウ砂の砂丘が広がる美しくも奇妙な景勝地(?)だ。この誰もいない、音も何もない自然の中で2人は抱き合うのだったが、幻想として砂丘には無数のカップルが抱き合い、近代文明を離れた男と女の愛の行為そのものが繰り広げられ、謳歌されているかのようだ。バックに流れるジェリー・ガルシアの静かなギターが美しい。すべてではないけれど、アントニオーニの描く男性に、ボクはどことなく男の弱さとか卑怯さとか、そういうものを感じてしまう。アントニオーニというと 愛の不毛 とすぐ言われるけれど、それは必ずしも現代の人と人とのディスコミュニケーションだけの結果ではなく、男と女の関係の深淵にかかわるような部分もある。男の欲望と女に対するズルさとでも言ったら良いだろうか。それが強く描かれているのは前作『欲望』かも知れない。この映画でもダリアをとらえるカメラのあり方や、マークのダリアへの視線の一部とかにそれを感じた。だからこの2人も「この一時は」純愛のようで、決してアントニオーニは純愛の可能性は信じてはいないだろう。その辺が男である自分に対する正直な自己分析の結果なのかも知れない。(以下ネタバレ)ダリアはラジオのニュースで聞いていたので、マークの素性を薄々知っていた。マークは撃とうとしたら誰かが先に撃ったと言い、彼女もそれを信じた。マークは飛行機を返すべく一人カリフォルニアに飛び立った。ダリアはフェニックスの別荘に向かった。しかし彼女がラジオで知るのは空港で待ち構えていた警官隊にマークが射殺されたことだ。荒れ野を開発して岩山の上に建てられた豪華な別荘、そこで文明的リゾートを楽しむ妻たち、そこで行われる金儲けのための商談、そういったものが当たり前のごとく存在した。世界の不条理に喪失感を感じる彼女の妄想は別荘の爆破を見るのだった。そしてそこに描かれるのはアメリカ物質文明の破壊でもあり、もしかしたら世界の破壊でもある。『太陽はひとりぼっち』にも核の脅威がちょっと描かれていたが、爆破された別荘から立ち登る火炎や煙の姿はキノコ雲を連想させた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.01
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