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THE GIFTSam Raimi寸評:なかなか面白かった。ホラーやサスペンスをあまり見慣れない自分にはけっこうドキドキさせられた。なによりもケイト・ブランシェットが良かったが、『ヘヴン』のかたわれジョヴァンニ・リビシも良い味出していた。細かな不満はあるこの映画の成功はブランシェットの功績か。1年前に工場の爆発事故で夫をなくしたアニー(ケイト・ブランシェット)は息子3人と暮らしている。映画の題名は『The Gift』。giftとは神や妖精に与えられた天賦の才能のことだ。彼女に与えられた才能は予知等の霊感だった。占いを商売にすることを禁じられたジョージア州の小さな町で、占いを使って人々の相談に乗り、寄付金として受け取るお金と遺族年金のようなものでどうにか生計を維持している。彼女には信奉者も多いと同時に、保守的な田舎の小さな町のこと、彼女を魔女呼ばわりする者もいる。映画冒頭のシーンは、久しぶりに訪れた医者嫌いの男性客に「身体の調子が良くないでしょ、出血もあるわね、膀胱炎か結石で重い病気でないから心配せずに病院に行った方がいいわよ」などと言い当てるアニーを描いている。観客に彼女の霊感の信憑性を知らしめるシーンだ。学校からの電話で長男が喧嘩をしてケガしたことが知らされ、アニーは担任のウェイン(グレッグ・キニア)に会いに行く。そこでちょうど彼を訪ねてきた婚約者ジェシカ(ケイティ・ホームズ)に紹介される。彼女は町の名士の企業家キングの娘だ。二人の将来を占ってと言われるが、アニーに見えたのは水に浸かる女の血だらけの足だった。アニーは話を濁して立ち去る。主人公アニー、彼女の客で夫の暴力に悩まされながらも夫から離れられないヴァレリー(ヒラリー・スワンク)とその暴力夫ドニー(キアヌ・リーヴス)、教師ウェインと婚約者ジェシカ、そして父親による子供時代の虐待で精神を病み、アニーだけが理解者だと信じている自動車修理工バディ(ジョヴァンニ・リビシ)の男女3名ずつの計6名の物語が進んでいく。(以下ネタバレ)あまり家に引きこもってばかりのアニーを友人リンダが会員制の社交クラブに誘う。そこでアニーが目にしたのは教師ウェインの婚約者ジェシカが判事ダンカンと抱き合う姿だった。そしてその翌日からジェシカが行方不明となる。警察の捜査も行き詰まり、父親キングは信じないながらも占ってもらおうと警官を伴ってアニーの家を訪れる。彼女が霊感で見たのは、白い花が咲いていて、大きな冊があり、その敷地の中の池だった。そして夜悪夢で目を覚ましたアニーが庭に出て見たのは、鎖を巻かれたジェシカの血だらけの死体が空中に漂っている映像だった。ジェシカが失踪する前夜、バーの主人は外の駐車場でヴァレリーの暴力夫ドニーがジェシカを殴っているのを目撃していた。ドニーの所有地の外には白い百合が咲き乱れ、大きな冊があり、中には大きな池があった。警察が池を浚うと全裸で血だらけのジェシカの死体が鎖を巻き付けられて沈められているのが発見される。ドニーは逮捕され、裁判が行われる。容疑者ドニーの妻ヴァレリーに夫との離婚を勧めていたことや、怪しげな占いをしていることで、法廷ではドニーの弁護人にさんざんイヤミを言われるが、ドニーは有罪の判決を受ける。その頃精神的に難しい状況になった自動車修理工バディは話したいとアニーに助けを求めるが、裁判で疲れているいるアニーは断り、その結果バディは父親を椅子に縛りつけてベルトで殴り、最後には油を撒いて火をつけてしまう。アニーも駆け付けるが時既に遅く、バディは彼女の言葉に耳を貸すゆとりはもうなかった。バディは捕まり、精神病院に収容される。その後アニーはドニーが真犯人ではないことを霊感で感じる。判事ダンカンにそのことを話し、事件前夜にダンカンが被害者と抱き合っていたのを知っていることも出して再審を要求するが、ダンカンは取り合おうとはしない。被害者と婚約していた教師ウェインにも会いに行って話す。ウェインは真犯人が誰だかわかるかを尋ねるが、アニーにはまだ見えない。そして「ジェシカの衣服とか、あるいは現場の池に行けばわかるかも知れない」と答える。その晩ウェインがアニーの家を訪れ、婚約者を殺した真犯人が知りたいから事件現場の池に行こうと、無理矢理彼女をドニーの所有地の池に連れていく。しかしそこで彼女にわかったのは真犯人がこのウェインだったことだ。アニーはウェインに襲われるが、彼女を助けたのは精神病院を抜け出してきたバディだった。懐中電灯でバディに頭を殴られ気絶したウェインを車のトランクに入れ、警察に向かう車の中で、アニーが以前バディに渡したハンカチを彼は渡してくれた。警察に着きアニーは中に入って事情を話し車に戻るとバディの姿はなかった。ウェインはすべてを自供したことが知らされるが、彼を倒したのはアニーだった。バディはその前に精神病院で首を吊って自殺していたのだ。しかし彼女のポケットにはバディに返されたハンカチがあった。映画冒頭で語られた学校で問題を起こしたアニーの長男、彼は毎晩ベッドでアルバムの父親の写真を見ていた。占い客との関係に追われて母アニーが死んだ父親をないがしろにしていると感じた長男の心理だったのだ。事件も解決し、家族4人は久しぶりに死んだ父親の墓を訪れ、そこで暖かく4人抱き合うのだった。ストーリーや描き方は平凡なものなのかも知れないし、色々突っ込むことのできる穴が多いのかも知れませんが、ケイト・ブランシェットのキャラクターと好演のたまものでしょうか、とてもいい映画になっていたと思います。風景描写などの映像もとても美しいものでした。暴力的なドニーを怪しく描き、あるいは事件前夜に化粧室で被害者と判事を抱き合わせてここにも多少の疑惑を持たせて、最後は結局婚約者だった教師ウェインが真犯人だったわけです。冒頭で教師を訪れたアニーの見る不吉な映像はあるわけですが、それ以後はあまりに疑惑の対象から教師が外されたような描き方だと感じました。実際には教師ウェインは殺人を隠しているわけですから、その心理を持った人物としての描写が不足していたと思います。それにしても、暴力をふるわれながらも女たらしの夫ドニーから離れられないヴァレリーとか、権威的に子供を虐待して育てる父親とか、そしてジェシカの浮気性とその婚約者を殺すウェイン、こういうことはどこの社会でもあることかも知れませんが、その根底の性格がアメリカの男性権威主義的性格を感じました。また普段は表面的に平穏なのでしょうが、田舎の小都市の一軒家に女子供だけで住むことの怖さのようなものも。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.28
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久高オデッセイ大重潤一郎(68min)那覇・桜坂劇場にて久高島は沖縄本島南部から5キロの沖に浮かぶ小さな島。琉球の始祖アマミキヨが降臨した場所で、神の島とされる。本島最重要聖所の斎場御嶽(セイファウタキ)は久高を望み祈祷を行うようになっている。信仰は生きており、小さな島内には数々の聖所があり、年間27の祭礼が人々の1年を秩序づけている。祝女ノロ(神女)組織制度が維持されている。現在の人口は200人強。島全体が神の島であり、土地の私有制もなく、信仰をもとにした共同体として地割制で土地を分けあっている。しかし若い者で島を去る者も多く、12年に一度午の年に行われる秘祭イザイホーは1978年を最後に、1990年、2002年は行われていない。そんな久高島の再生を願いつつ、人々の生活を記録した映画です。1950年代末から70年頃イタリアの監督アントニオーニは「愛の不毛」で総称される映画群を、スウェーデンのベルイマン監督は「神の不在」でくくられる映画群を作った。その根底は、一つには米ソ対立という核戦争の脅威もあったけれど、生きる目的や信仰を失った人々の空虚感だった。また1968年には今村昌平は全くのフィクションではあるが、信仰・因習と近代化の問題を沖縄の架空の孤島を舞台にして『神々の深き欲望』にした。この『久高オデッセイ』を見ながらこれらの映画のことが思い浮かんだ。久高島には信仰や共同体は地下水脈として生き続けている。そして人の生き方としては幸せな生き方なのかも知れない。しかしその存続、単なる昔返りではなく、クリエイティブな意味で現代にそれの生きた社会の創造はほんとうに可能なのだろうか。今村の映画のように観光開発されてはいないが、久高島には郵便局も出来、携帯電話のアンテナも建ち、観光客も訪れる。本島までは高速船やフェリーで20分前後で結ばれている。テレビは日本や世界の映像を毎日映している。オシャレな都会の若者の姿も。この映画の感想として久高島のあり方を安易に賞賛する発想は多いが、他人事ではなく自分の問題として考えた場合、そんなに簡単なことなのだろうか。久高の人々の選択と今後を静かに見守りたい。オフィスTEN『久高オデッセイ』公式サイトNPO法人沖縄映像文化研究所『久高オデッセイ』サイト監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.27
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憂國The Rite of Love and DeathLes Rites de l'Amour et de la MortRitus der Liebe und des Todes監督:三島由紀夫出演:三島由紀夫、鶴岡淑子(ca.27min22sec)寸評:何はともあれネガが残っていて見られて良かった。こういう映画は世界でも唯一なのではないだろうか。物語:昭和十一年二月、兵をひきいて重臣たちを殺し、いはゆる二・二六事件を起こした青年将校たちは、ただ一人だけ盟友を誘はなかった。彼はまだ新婚で、その妻と愛し合っていたからである。彼、武山信二中尉は、そのため、皮肉な境遇に置かれた。近衛輜重兵(シチョウヘイ)大隊勤務の将校として、帝都の守備に任じ、やがて事態の変化と共に、反乱軍の烙印を押されたかつての親友たちと、殺し合はねばならぬ運命にあった。もっとも不幸な皇軍相撃の時が迫っていた。それは生一本な中尉の、到底耐へがたい事態であった。勅令が下れば、親友たちは叛乱軍の汚名を着、中尉は彼らを討たねばならぬ。忠ならんとすれば友を殺し、友を助けんとすれば逆臣となる。軍人として中尉は腹を切る他はない。中尉は妻麗子と最後の交情を交わす。二人ははじめて、今までつつしんでいたもっとも眞率な情熱に身を委せ、お互いの肉体のすみずみにまで、念入りに別れを告げる。中尉の切腹。麗子は夫の切腹を新婚の白無垢の姿で見届け、自らも短刀で自害し夫の亡骸の上に身を重ねる。私的エピソード:小学生の頃からボクは三島由紀夫に凝っていました。どちらかと言えば学校を休むことがない程に健康だったんですが、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で切腹した11月25日の前の晩から吐き気がして体調不良でした。そういうことはごく幼い頃以来なかったことでした。それでも翌25日朝は総武線・市ヶ谷の隣の駅飯田橋にあった学校へ行きました。でも吐き気と嘔吐は収まらず、何度か教室には戻ったものの、ほぼ1日医務室のベッドで寝ていました。終業時間がきて家に戻り、自室で寝ていたのですが、隣の居間で点いていたテレビから流れる夜7時のNHKニュースが報じる三島事件の音で目を覚ましたのでした。 / 三島死去の結果、瑶子夫人の意志ですべてのプリントが焼却処分されることになり、見たいながらも結局一生見られないと思っていましたが(海外の粗悪海賊版が存在することは知っていました)、昨年DVDが発売され、今回やっと見ることが出来たわけです。一般公開される映画に関しては法定納本制度は必要だと思います。感想:特典映像を見ていたら、この映画は30分の短編ではあるけれど、隠密裡に大蔵映画(ピンク映画制作会社)の設備のないスタジオでたった2日間で撮られたらしい。予算としても麗子の白無垢の衣装など1着のみで血で汚してしまえば撮り直しはできない。そういう限られた条件に加え、三島自身色々な映画に出演はしているけれど役者としては素人だし、もちろん監督としても素人。その意味で色々映画的面での不備はあるけれども、三島の情念がそのまま映画に乗り移ったような作品で、こういうものは映画史上他に類を見ないのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.02.26
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LA MACHINEDIE MASCHINEFrancois Dupeyron(96min)寸評:駄作は駄作なりの見どころもあるが、これは最悪。思い出せる限りで自分がこれまで見た最悪の映画。でも機会あればもう一度見て印象を検証してみたくもなっている。お金持ちのお屋敷の中、12、3歳の少年レオナール(エルヴァン・ベイノー)が男が女に迫るホラー映画をテレビで見ている。そこに「何見てるの?」と母親マリー(ナタリー・バイ)がやってくる。レオナールはすかさずリモコンでアニメ番組に切り替える。隣に座ったマリーが「お腹はまだ痛いの?、疲れた?。」の問う。少年は無気味な無表情をしていて、口をひん曲げるチックのような仕草をする。マリーがシャワーを浴びているのがすりガラス越しに写る。部屋のベッドの中の少年にマリーが「おやすみ」を言いにきてキスをする。母の去り際少年は何かを言おうとするがただ「おやすみ」とだけ言う。母が去ると箪笥の引き出しの洋服の下に隠した拳銃と包丁を手にする少年。廊下をゆっくり母の部屋に向かう。寝室のベッドの中で本を読んでいる母マリー。少年のノックの音にドアの方に不安げに目をやると、ドアの把っ手がゆっくりと回転する。場面は変わって大病院の駐車場に入っていく四駆車。「18ヶ月前」と文字がでる。ここまで見てきて、この18ヶ月前から何らかの物語が進行し、少年が拳銃と包丁を持って母マリーの部屋をノックするシーンに至るのだろうと想像がつく。そして口のチックが何かの伏線であろうことも。さて四駆車でマルク・ラクロワ医師(ジェラール・ドパルデュー)が病院に出勤だ。脳のレントゲンやエコーの写真などが写り、マルクが人の脳の働きを研究してきて、ある装置を作りあげたことがモノローグとして語られる。彼の関心は犯罪者等の異常心理の者に関心が強く、そういう異常者に会って精神分析のようなことをしてきたことも語られる。マルクは妻マリーの友人で女優のマリアンヌ(ナタリア・ヴェルネル)と不倫関係にあり、妻も疑っている。マルクのモノローグで、妻との愛にはイヤになっていて、マリアンヌといると安らぐと語られる。ある日マルクの働く病院に4人の女性を惨殺し、精神病院送りの判決を下されたミッシェル・ジト(ディディエ・ブルドン)が入院し、監禁病室に収監される。女性に対して嫌悪を抱き不能で、関係した女性を惨殺した人物だ。マルクは彼こそ自分の研究に最適な人物と思い、カウンセリングを定期的にし、彼に近付き、自分の秘密の研究の実験台になることを提案する。それはマルクとジトそれぞれの脳を読み取って互いに入れ換える実験だ。マルクは10年来の研究で今は空家となった生家に脳情報交換装置を完成していた。そのことはマリアンヌには話していたが、妻マリーにも病院にも秘密だった。ジトの同意を取りつけ、密かに彼を連れ出して生家に行き、そこで脳の交換を行う。ジトを装置の片方の椅子に座らせ、自分はもう片方の椅子に座り、その横には装置のスイッチがあった。スイッチを押し、2人の脳は入れ換わる。この数分間でそれぞれが別人の意識で世界を感じるだけがマルクの目的だった。しかし殺人鬼ジトの脳は医師マルクの肉体を得ることができた。そしてスイッチはそのジトの意識を持ったマルクの座る椅子の横にある。ジトの意識が元の殺人鬼ジト自身の肉体に戻ろうとするわけはない。殺人鬼ジトの肉体を持った医師マルクはスイッチを押すことを求めるが・・・。(以下ネタバレ)以下ややこしいのですが、マルクの肉体を持ったジトの意識を「ジト(体:マルク)」等と記します。こんなこと書きながら思うのは、人のアイデンティティーにとって重要なのは肉体よりも精神だということですね。下世話なたとえですが、魔法か何かで自分が女性の身体に化けることが出来て女湯に入れば、男の意識の自分として女性の裸を楽しめるわけです。映画に戻ると、マルク(体:ジト)は殺人鬼として病院に収監されてしまい、ジト(体:マルク)が医師に成りすまして行動をとる。一方マルク(体:ジト)は病院を脱走してマリアンヌの所へ行く。最初はもちろんジトだと思われて信用してもらえないのですが、研究のことは以前から聞かされていたし、体はジトでも意識や記憶や言動や彼女に対する優しさがマルクであるとマリアンヌは理解する。ここで2人のラブシーンが実際に描かれれば、この映画は5倍ぐらい良い映画になっていたかも知れないと思います。人を愛するというのはその外見(肉体)であるのか、それとも優しさ人柄などその精神なのか、面白いテーマです。そしてマルクの精神の宿ったジトの肉体と関係を持ってしまって、もしマルクが元のマルクの体に戻ったとしたら、それはマルクを裏切ったことになるのかどうか。ところが実際に描かれるのはジト(体:マルク)が持っている合鍵でマリアンヌの部屋に入って、マリアンヌをメッタ刺しにして殺してしまうスプラッタシーンです。ジトが予想もしていなかったのは、マルクの肉体は脳に腫瘍があって、不治でいずれは死ぬということでした。それでジト(体:マルク)は次の計画を練る。息子レオナールの肉体を得ることです。マルクの姿で息子レオナールの部屋の引き出しに拳銃とピストルを隠す。ジトの口のチックも描かれているので、ここまでで冒頭の18ヶ月後のシーンの意味が観客には予想されます。父親マルクとして振舞ってレオナールを空家の実験室に連れて行き、そこで脳を入れ換える。結果として殺人鬼ジトは少年レオナールの肉体、少年レオナールは父マルクの肉体、そして医師マルクはジトの肉体を持ったわけです。そして夫婦としてマリーに求められ、関係を持ったマリーをレオナールの姿でメッタ刺し惨殺するんですね。それぞれジトとマルクの姿をしたマルクとレオナールはなんとか現場に来るんですが、マルクが見たのは息子の姿が妻マリーを惨殺する光景であり、少年レオナールの意識が見たのは自分自身の肉体が母マリーを惨殺する光景だったわけです。そして最後は、2人を実験室に連れて行って脳と肉体を元に戻し装置を破壊したと精神病院の院長に語るマルクで映画は終わります。ここでマルクは自分自身の肉体が母を殺すのを見てしまった息子レオナールのことを案じています。この映画、この最後を受けて、語りの中心を事件後のレオナールにしていたら2倍ぐらい良い作品になったかも知れませんし、原作小説から離れてマリアンヌとマリーを殺さずに、入れ代わった肉体と精神での心理を中心に描けば面白かったでしょう。でもそれではスプラッタ・ホラー映画にはなりませんが。ナタリー・バイがしっとりとした良い感じの役を演じていただけに残念な映画でした。監督のデュペイロンは映画会社の求めで無理にこの作品を作ったらしいですが、ドイツとの合作に関してはマリアンヌを演じたのがドイツの女優ナタリア・ヴェルネルである以外には資本関係などどうなっていたのでしょうか。スプラッタ趣味はフランス的であるよりもドイツ的だと感じましたが・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.25
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SUR MES LEVRESJacques Audiard(115min)寸評:たんなるサスペンス調のラブストーリーである以上に、人間の孤独と愛を深く描いた名作。土地開発会社で働くOLカルラ(エマニュエル・ドゥヴォス)は難聴。補聴器をつければ電話の応対などもできるから、そこそこ社会に順応して生きている。これが男好きのする美女だったりすれば話は違ってくるんだろうけれど、そういう美女ではない。耳が不自由だから話している人の唇を見て会話を読み取る読唇術が出来る。だからオフィスや喧騒の食堂にいても他人の会話がわかっちゃう。それで人が陰で何言ってるのかもわかっちゃうから、ある意味人間不信っていうのもあるのかも知れない。自分に子供預けて浮気している女友達なんかを見てるせいもあるかも知れない。で結果として難聴と人間不信で自分の殻に籠り気味で生きている。オシャレして明るく生きればそれなりに魅力的で奇麗だとも思うんですが・・。仕事はテキパキとこなして、かなり能力もあるように見えるんだけれど、そんな彼女だからつまらない仕事しか与えてもらえなくって、せっかく乗り気でやってる仕事も男の同僚に奪われてしまったり。「どっちだって給料は変わらないでしょ」って上司には言われるのだけれど、他に何もない彼女の生活だから本当は責任ある仕事をしたいって欲求がある。なのに毎日単調な雑務ばかりだから、ある日彼女はオフィスでストレスのため気絶しちゃう。そうすると社長は「アシスタント雇ったらどう?」って提案。首とかになるのとは反対の状況。ある意味恵まれた環境と言ってもいいかも知れない。もしかしたら障害者を雇うと補助金とか何か出てるのかも知れませんね、よく分からないけど。それで彼女は職安にアシスタントを求人に行く。彼女は「25~30才男性」とか条件出すのだけれど、「性差別になるから男性限定はできない」って係員に言われて「じゃ歳は25で」とか。男に飢えていると言ったら言い過ぎだろうけれど、若い男性と日々仕事が一緒に出来たらいいだろうってぐらいの発想かも知れないし、30才、35才のオフィスの周囲の男性に嫌気がさしているということかも知れない。それでやって来たのは仮釈放中の青年ポール(ヴァンサン・カッセル)。殺しはしてないって言うのだけれど、まあチンピラのような生活をしてきたんでしょう。カルラは上司に「以前ゼロックスで働いていた」とか嘘つくのだけれど、実はコピー機やファックスの操作もよく知らない。でもそんなポールをカルラは雇ってのオフィスでの日々が始まる。住む所もなくオフィスに隠れて寝泊まりしていたのを知って、会社の物件の改装中の部屋を世話してやったりする。ポールは仮釈放中の身だから、毎週火曜(だったと思う)に保護監察官マッソンのもとに出頭しなければならないのだけれど、来なかったものだから保護監察官マッソンがオフィスに来たりするけれど、そうすると「私がポールを現場に行かせてしまった」とかかばったりする。金を取りにきたヤクザに殴る蹴るされてケガをすると介抱する。血のついた彼のシャツを捨てるために家に持ち帰るけれど、シャツの匂い嗅いで、身につけてみたり。でも結局ポールはヤクザのボスの経営するバーで働くことになる。(以下ネタバレ)バーの仕事っていうのはカウンターでお酒作ったりっていうものなんだけれど、ここでやたらと彼の忙しさが描かれる。ほんとうに休む暇もなくこき使われる。それで段々解ってくるのは、実はポールとカルラは似た者だったということなんですね。カルラの方は、真っ当な会社とでも言えばいいでしょうか、そんな普通の社会の中でノケ者にされた存在であり、一方のポールはヤクザの世界でいいように使われる小者とでも言うか。どちらもそれぞれの社会の中で不遇な位置にあるというか。それでどちらもそれぞれの社会に一泡吹かせることを考える。もともと自分が担当していて外され、その仕事を奪った同僚の車から、カルラはポールに書類を盗ませる。その書類持って大事な説明会には自分が行って、怒る同僚に対しては横領的に金を使っていた証拠を提示して辞職に追い込む。ポールはボスのマルシャンの部屋を隣のビルの屋上から双眼鏡で覗かせ、読唇術で得た情報から取引のための組織の大金を盗み出そうとする。カルラにとっては同僚の仕事を自分の手に取りかえすとか、ポールにとっては大金を入手するとか、そういう実利的意味はあるのだけれど、どちらも自分の属する社会に対する復讐なんですね。カルラは問答無用のポールに寒空の下でビルの屋上から毎晩双眼鏡で窓を観察させられるわけだけれど、それはポールに対するストレートな愛とかではないですね。社会違えど同じ境遇にあるからこそ素人の彼女が犯罪的なことに関わっていく。カルラはオフィスでの仕事、つまり自分の世界にポールを引き込もうとするし、ポールはヤクザの犯罪の世界にカルラを引き込もうとするという意味でも同じ関係がなりたっている。それで一緒に活動をする中で男女的にも微妙に相手のことが気になり、惹かれていくんですね。物語の大詰めは、捕まってボス・マルシャンの部屋に監禁されたポールにカルラが懐中電灯で合図をし、消えた金を盗んだのはマルシャンだとするポールの計画をカルラが読唇術でポールの唇を読んで知り、それを実行してめでたく大金をせしめる。朝車で帰ってくるのはちょうど火曜なんですが、保護監察官の家の前に来ると監察官マッソンは妻殺しの容疑で警官に護送されるところ。2人に気付いて振返ったマッソンの唇に「妻を愛していた。でももう終わりだ。」とカルラは読むのだった。停めた車の中、カルラがポールの手を誘い、2人は激しく抱き合う中で映画は終わります。この映画の日本語タイトルは英訳題そのままの『リード・マイ・リップス』で、「私の唇を読んで」という意味でしょうか。フランス語の原題は『SUR MES LEVRES』。「MES LEVRES」は「my lips」で「私の唇」ですが、「SUR」は前置詞で英語の「on」のような意味で、「SUR MES LEVRES」と言うと、頬やオデコじゃなくって「唇に」キス、というような場合に使われます。物語が難聴の主人公の読唇術に関係するから「唇」という語を使ったと思いますが、それを外せば『唇にキスして』とも訳せるような題です。そういう意味でこの物語は、アウトサイダーである主人公カルラが真実の愛を求める物語と解釈してよいのではないでしょうか。だから決して長くはない最後の車内でのラブシーンはものすごく重みがあります。それまで社会にも人間関係にも、そして愛にも恵まれなかったカルラが、ここまで1時間50分で描かれた経緯の末にこの濃厚な愛の一時に至ったと見ると、人として生きることの孤独と愛が切実に胸に刺さってきます。副ストーリーとしての保護監察官マッソンの妻殺しに関しては、ただ主ストーリーだけでは映画として何処か物足りなくなるからの刺身のツマのようにも考えられますが、真実妻を愛した男の愛も最後には妻殺しにも至るという人の愛の現実を、カルラとポールの話に対比して描くことで、その直後に描かれるラストのラブシーンの2人の愛の絶対化、つまりは本当の意味でおめでたいハッピーエンドになることを避けているのだし、逆にだからこそ今一瞬の2人の愛が真実で深く避けられないものであることを強調していると思いました。余談ですがこの映画を見ていて思ったのは、我々は普通に受け入れていますが、ナレーションの不思議です。主人公は難聴で補聴器を外すと音のない世界にいるわけですが、映画の映像は外からの視点で彼女を撮っていながら、音は彼女の感覚である無音の世界であるという矛盾です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.24
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HISTOIRES EXTRAORDINAIRESRoger VadimLouis MalleFederico Fellini寸評:ポーの幻想怪奇小説3つを映画化したオムニバス映画。三話三様で、第1話はジェーン・フォンダを見る(監督にとっては撮る)ためだけでOKの作品、第2話はいちばん物語として映画になっていて、ドロン/バルドーもいい、第3話はフェリーニの人工的映画世界を見るだけで楽しい。どれも映像・音楽・俳優が美しい。もう何年ぶりでしょうかね、久しぶりにDVDをレンタルして見ました。ポーの幻想怪奇小説3つを映画化したオムニバス。今見ると1話30~35分というのはちょっと冗漫かも知れないと感じます。もとの計画ではジョセフ・ロージー、クロード・シャブロル、オーソン・ウェルズ、ルキノ・ヴィスコンティの4人も加えた7話オムニバスだったらしい。7話だと全体を180分ぐらいにしたとして1話25分程度になりますか。そのくらいが良かったのかも知れません。3~4回見たことあるから、ストーリーも映像も知っちゃってる。でもまあ美しく、そして貴重な映画です。第1話『黒馬の哭く館』ジェーン・フォンダ演じるメッチェンゲルシュタイン伯爵家の娘フレデリックは20才そこらの若さで莫大な財産を相続して、わがまま放題に暮らしている。彼女はある日こともあろうに親族でただ一人そんな彼女を批判してはばからないウィルヘルムに一目惚れ。このウィルヘルムはジェーン・フォンダの弟ピーター・フォンダが演じてる。もちろんウィルヘルムはフレデリックの誘惑には乗らない。誰にも逆らわれたこともないフレデリックはプライド傷つけられて・・・。初めて見たときは燃えたタペストリーの修復過程と同時進行の彼女の物語は面白かったと記憶しています。まあとにかく監督ヴァディムが奥さんジェーン・フォンダを撮りたかっただけみたいな作品。射手座のフォンダだから馬に騎乗させたんでしょうね。ジェーン・フォンダがセミヌードチックな衣装着せられて頑張ってます。ボクはジェーン・フォンダ昔から好きだけれど、あらためて今見ると、頬から下が長めなのがアメリカ人といった感じで、やや品がないですが、それでもやっぱり美しいですね。驕ったり怒った表情より、陶酔したり不安な表情の方が魅力的です。第2話『影を殺した男』物語としてはいちばん直な映画作りです。ストーリーを知って見ていても物語として再度楽しめたのはこの第2話でした。冷酷なサディスティックなウィリアム・ウィルソンの役を、美男だけれどやや品性が下劣な雰囲気ももったアラン・ドロンが好演しています。悪の自分が、分身のような善の自分に苦しめられるお話。子供時代を演じた子役が目つきとかドロンそっくりです。ドロンのウィルソンとトランプの賭けをするブリジット・バルドーがまたいいですね。バルドーって女優さんは、外見もさることながら声というかしゃべり方が独特で、それが魅力的です。第3話『悪魔の首飾り』物語はアル中のイギリスの役者トビーがフェラーリ貰えるっていうんで映画出演のためイタリアにやってくる。トビーはアル中の妄想なのか白い服を着て大きなボールで遊ぶ少女の姿をした悪魔に取り憑かれている。空港到着とかテレビ出演のスタジオ風景とか『甘い生活』なんか他のフェリーニ映画に共通しますが、冒頭の航空機のコクピットのシーンからもうフェリーニの人工世界が美しいです。トビー役のテレンス・スタンプの雰囲気もいいですが、とにかくストーリーの結末を知って見る自分にとっては、このフェリーニの人工世界の映像を見られることが嬉しい作品です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.23
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KATIA ISMAILOVAKATYA ISMAILOVAValeri Todorovski寸評:単純な物語で、サスペンスとして見れば品のいい土曜サスペンスドラマだが、インゲボルガ・ダプコウナイテが女性の微妙な心の揺れを演じていている。94年カンヌ映画祭・監督週間正式出品作、94年ジュネーヴ映画祭・女優部門グランプリ。この監督さんを女性とするサイトもあって、でもトドロフスカヤじゃないな~?って調べてみましたが、1962年ソ連(現在ウクライナ)生まれの男性でした。この映画で描かれていると感じた点は2つあります。一つは恋愛を中心とした人の生き方での男性論理と女性論理の違い。もう一つは法律など社会の決まりからの拘束を外されて倫理的に自由を与えられたときの人間です。カチア(インゲボルガ・ダプコウナイテ)32才は、夫ミチアの母で売れっ子小説家イリナの原稿をタイプで打つ仕事をしている。夫との仲が特に悪いわけでもないけれど、そしてマザコンとまでは言えないだろうけれど、お母さんを崇拝していて何でも彼女の言いなり。まあ冴えない平凡な男。イリナもそんなに性悪で意地悪ってわけではないのだろうけれど、有名作家っていうプライドがあるから、この3人家族の中で自分中心に勝手放題で、他の2人に対して一種の支配者となっている。カチアはもともとタイピストとしてイリナの仕事をしていたのを、原稿を取りにきた息子ミチアと会って結婚したらしい。夫にとってカチアは、居て邪魔にならないとりあえず居た方がいい妻、って存在のように感じられる。愛だ何だってのではなく、そして母親の方が重要と言うか。カチアは子供もいないし、ピチピチの若さではないけれどまだまだ女として若く美しいし、平凡で閉塞的な日常に飽いている。女として生きたいって情念のようなものは枯れていない。でももともとそういのを外に出して生きるってことが苦手な、控え目とでもいった彼女なんですね。夏を過ごす別荘に3人はやってくる。カチアは義母の新作をタイプする。義母イリナにはロマノフってかなり親しい予審判事をしてる男性がいて、この新作の結末もロマノフのアイディアらしい。男は女を捨てて去るのだけれど列車で暴漢に殺されてしまい、女は気が狂うという悲劇的結末。別荘には家具なんかの修理をずっとしてもらってるセルゲイって男が出入りしていて、ある晩カチアが一人のときにこのセルゲイがやってきて、でカチアは彼の誘惑に負けて身を任せてしまう。それから段々にカチアの生活がおかしくなっていく。(以下ネタバレ)抑圧されていた女の情念。セルゲイとの官能的関係。カチアはどんどん彼に惹かれていく。前夜カチアがセルゲイに身を任せた翌朝、別荘のテラスで一緒に朝食とりながらイリナはめざとくカチアに言う。「今朝のあなた活き活きしてるわね。夫から解放された喜びかしら。」そしてある夜、夫は仕事でたぶんモスクワで、イリナは居るのだけれど、セルゲイが訪ねてきてカチアと激しく抱き合っているのを、義母イリナは目撃してしまう。翌朝別荘のテラスで朝食とりながらイリナはカチアに言う。「息子には黙っていましょう。ちょっとした過ちで、なかったことにしておきましょう。」でもカチアはセルゲイに出会って、死んだような今の生活ではなく、愛に生きたいって思っている。それに対して「年上の女を若い男が真剣に愛するなんてないわよ。」ってカチアを諌める。そんな会話で興奮したイリナは持病の心臓発作を起こし、はやく薬を持ってくるようにセルゲイに言われるのだけれど、薬を取りに行ったカチアはすぐには持っていかない。殺意っていうのかどうかはわからないけれど、躊躇するんですね。イリナに対する恨みっていうよりも、今の無味乾燥な死んだような生の象徴なんですね、イリナは。ニトログリセリンか何かでしょうか、薬が遅れて彼女はそのまま死んでしまう。母親に死なれて夫ミチアは意気消沈。だからってカチアに精神的支えを求めるっていう感じはしない。そういう心の交流が2人にはない。カチアはそれを求めては来たのでしょうが。夫にとっては母親でもあり、崇拝する著名な小説家でもあるイリナがいて、何のとりえもなく積極的に気持ちを表せないカチアを理解することなどなかったんですね。ただ「冷たい女」って言うのみです。だから別荘に来た夫ミチアは妻とセルゲイのただならぬ雰囲気にも気付かない。言われて初めて激怒するんですね。それも愛する妻を寝取られたとかではなくって、有名作家を母に持ち、財産もあって、ホワイトカラーの自分に対して、下働きの修理工だからこその怒りなのだと思います。実質がからっぽのプライドですね。夫とセルゲイは口論になって、成りゆきでセルゲイは夫を殺してしまう。そしてカチアと庭に穴掘って死体を埋める。カチアはセルゲイと生きるようになって、義母の最後の小説の悲劇的結末を受け入れたくない気持ちがある。それはセルゲイとの愛の生活の成就を求めるからで、それでセルゲイと一緒にハッピーエンドに原稿を書き換えてしまう。これには編集者もロマノフももちろん賛成はできない。ある日セルゲイとカチアが車を走らせているとヒッチハイクの若い2人の女性がいて車を止める。セルゲイを見て女性は断るんですが、カチアは2人を乗せる。カチアは気持ちが悪くなって車外に出るんですが、それは妊娠のツワリらしい。車内ではヒッチハイクで乗せた若いソニアとセルゲイが話しているんですが、しばらく居なかっただけで2人はもともと愛人関係にあったらしい。セルゲイは若いソニアと付き合うようになって、カチアを捨てる。死ぬ直前の会話で義母イリナが言っていたように「若い男が年増おんなを真剣に愛しなどしない」ってことですね。疑惑を持ちつつも「力になる」ってカチアに言っていた義母の親友/愛人?のロマノフ予審判事のところに行って、カチアは2つの死に関するすべてを告白する。でもどの件にも証拠がないし、「君の力になる」って言った以上告発とかできない、ってロマノフは言う。この辺のロマノフの心理はよくわからないけれど、真実や法律よりも人と人との信義を重んじるということならちょっと面白いですね。西洋映画見ていると同種のことが出てきます。個人の責任を持った生き方とか人と人のつながりの方が制度的法律よりも重大というか。とにかく結果としてカチアは、自己に関するすべての自由を与えられてしまったわけです。思い起こされるのは書き換えられた小説のハッピーな結末と、オリジナルの悲劇的結末です。カチアはどうするんでしょうね。この映画は機会があれば見ていただきたいと思うから最後の結末は書かないでおきます。お知りになりたい方はgoo映画でご覧になって下さい。結末も書かれています。この映画を見ていて感じたのは、カチアが見殺しにした義母イリナと、カチアからセルゲイを奪った若いソニアの2人の女性なんですが、なんかこの3人は女性同志として実は理解し合える3人のような感じがしてなりませんでした。年齢や環境や性格なんかは違うんですが、同じ女性の三態のようでもあるんです。女性とは違う男性原理の男たちに対してどう自分が振舞うかの差のような気がします。3人はいわば互いに滅ぼし合ってしまうんですが、ソニアとイリナの間にカチアを置いて、実は男性と女性の本来的断絶のようなものを描いているような気がします。そういう意味でインゲボルガ・ダプコウナイテがそのような女性の心理を上手く演じていたと思います。サスペンス調ではありますが、セルゲイやカチアに警察の手が迫っていくという作りではないので、土曜サスペンスとは全く違います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.22
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『アンディ・ガルシア 沈黙の行方』THE UNSAIDTom McLoughlin(111min)寸評:期待しないで見たらけっこう良かった。難くせはいくらでもつけられるが、この種のアメリカ映画としては上出来では(?)。サスペンス性をもう少し減らすことになっても、最初からもう少しネタバレさせて重厚な人間ドラマにして欲しかった。この映画、なんとなく良さげかな(?)と思って、でもまあ苦手なアメリカ映画、あまり期待しないで見たらそれなりに良かった。最初どうしようかと思ってネットで少し調べたのだけれど、あんまり記述がない。どうも内容(ネタバレになるのでここでは書かないけれど)のために劇場公開は短期間で打ち切りだったらしい。もっと見られて良い映画のような気がします。最初刑務所の面会ルームで金網はさんで対話する中年男性2人のシーンがタイトルロールに挿入されて始まる。物語は(カナダで撮ったらしいけれど)米国のカンサス。一見幸せそうな家族。子供は14、5才位の姉と弟と両親。姉のシェリーが、アメリカのこういの良くわからないけれど学芸会(?)かなんか、とにかくステージに立って歌歌うんで家族で一緒に行こうと。でも息子カイルは行かないって言うんですね。両親や姉と仲悪いわけじゃなさそうだけど、とにかく行きたくないと。で3人は出かけていくのだけれど、その間にカイルは睡眠薬飲んで、車庫に鍵かけて、排気ガスをホースで車内に流して自殺してしまう。夜雨の中を3人が帰ってきて、異変を感じた父マイケルが車庫の窓壊して中に入ると息子が自殺している。車からひっぱり出して人工呼吸をするのだけど・・・。そして3年後。そう画面に出るんだけれど、この表示は不必要ですね。3年という数字には特別の意味はないし、娘の成長具合とか見ていればおおよそ解ることだから。こういうの出さないとアメリカ人観客ってついて来れないんでしょうか?。マイケルが大学で臨床心理学の講演か特別講義をしている。終わるとかつての教え子バーバラに声をかけられる。彼女は精神に問題のある子供を収容している施設のカウンセラーやっていて、博士論文の準備中。やがて18才になり、精神も正常になったので施設を出る予定のトミーって男の子のことを相談する。他の担当者がすべてトミーはもう問題はないって言う中で、バーバラだけは疑問を持ってるんですね。マイケルは執筆と講演だけで臨床は今はやってないって断るけれど、バーバラに渡された資料だけは持って、マイケルは独り暮しの家に帰る。妻とは息子の自殺以来上手くいかなくなって、妻と娘は妻の新しい夫と暮らしている。マイケルは資料の封は開くものの、そのままゴミ箱に捨てる。でも気になるんですね。この辺の演出も過剰親切っていうか、ゴミ箱を写してマイケルの心理の揺れを表現しようっていうのかも知れないけれど、アリキタリ過ぎます。もっと人物の演技で見せて欲しい。なぜバーバラに渡された資料が気になるかっていうと、ここではマイケルが息子を失っていることと関係するらしいっていうのはわかりますが、それ以上の理由は映画をサスペンス仕立てにするために観客には示されない。映画の原題はThe Unsaidで「言われなかったこと」なんでしょうか。英語は苦手ですがunsayには「前言を取り消す、翻す」って意味もありますね。日本題は「沈黙」はいいけれど「行方」はどうでしょうか。『沈黙の裏側』ぐらいではないでしょうか。資料を見るとトミーの父親が母親を殺して、それでトミーおかしくなったらしい。(以下ネタバレ)マイケルは施設にトミーに会いにいって、バーバラの手助けを始める。ある金曜の晩に施設から遠からぬところの、鉄道の操車場か工場の引き込み線のある大きな駐車場で若者たちがパーティーを大規模にやる。トミーも仲間と抜け出して会場に行く。そこでクロエって女の子に会うんですが、トミーは女性との関係に何か異常性を持っていたんですね。外で彼女に迫られるとトミーは殴ってしまい、彼女は倒れ、トミーはそのまま会場に戻る。マイケルの娘のシェリーも会場に来ていて、彼氏のトロイが別の女の子といちゃついてるのを見て怒って帰ろうというのを、トロイと喧嘩になりながらもトミーが連れて帰る。施設に来た父親の車に乗っていたシェリーを見ていて2人は互いに知っていたんですね。そして2人は急速に仲よくなっていく。シェリーは今の家やかつて弟が生きていた頃に家族4人で住んでいた空家とかにトミーを連れていき、弟の自殺とかの話もする。やがてクロエが操車場で死んでいるのが発見される。マイケルは妻殺しの終身刑で服役中のトミーの父親に会いにいく。仕事で疲れて家に帰ると妻が他の男と寝ていて、男は窓から逃げ、彼は妻を殴り殺し、警察に連行されるのを学校から帰ってきた息子トミーが見ていた、と父親は語る。マイケルがトミーに会いにいくと、自殺した息子カイルが好きだったゴムボールを使ったスカッシュのような壁打ちゲーム、トミーがボールを出して仄めかすので一緒に勝負をする。そしてマイケルのことを「お父さん」と呼んだりしてマイケルの心理を刺激する。トミーはシェリーから聞いて知っているのだが、マイケルは2人がつき合っていることも知らない。マイケルは息子カイルと目の前のトミーが増々重なって感じられて苦しむ。マイケルは再び刑務所のトミーの父親に会いに行く。ここでの面会シーンが冒頭タイトルロールに挿入されたシーンだったんですね。マイケルはトミーの父親に語る。「自分はあなたと共通点がある。息子カイルは思春期に鬱状態になり、妻は薬物治療を主張したが、自分は友人の心理療法士にカウンセリングを受けさせに行かせた。自殺後に息子の遺書に書かれていたのは、その心理療法士が息子にイタズラをしていて、それを言えずに独りで悩んでいたことだった。激情した自分は友人の療法士の家に殴り込みに行ったが家には入れてもらえなかった。家の中の彼はピストルを出すと最初窓の外のマイケルに向けるが、結局自分に向けて自殺した。これは偶然の違いであって、そうでなければ自分も友人療法士を殺していた。」話し終わって帰ろうとするマイケルを父親は呼び止め語りだした。「これは一度だけしか言わない。あの日仕事から家に帰ると寝室で妻が男と寝ていた。寝室に男の姿はなかったがクローゼットを開けると、そこにいたのは裸の息子トミーだった。そして怒り狂った自分は妻を殺した」と。まあここまでで種明かしはされたわけだけれど、この後バーバラの家を訪ねてきたトミーにバーバラは母親とのことを知っていることを話し、沈むトミーに優しくしようと肩に手を置いた瞬間、女性に触られて狂った彼はバーバラに殴りかかり彼女を殺してしまう。電話に出ないのを不審に思ったマイケルが駆け付け救急車を呼ぶ。彼女は瀕死だが生きていた。一方トミーは家からシェリーを連れ出して車で逃げる。車で追いかけるマイケル。配備されたパトカーとぶつかって車は止まり、トミーはシェリーにピストルを突き付ける。多数の警官が銃を向ける中でトミーを説得するマイケル。銃をマイケルに預けたものの、列車の走ってくる線路の方に駆け出したトミー。間一髪で生命を賭けてマイケルが救う。精神病に収容されたトミーを訪ねてきたマイケル。室内の椅子や机を隅に寄せる。マイケルは(施設を出ることを切望していた)トミーに「精神の自由を持とう」と言うとボールを取り出し、2人壁打ちの勝負を始めるのだった。この作品、「何故?」という質問を突き付けていくと穴だらけではあるんですが、それなりによく出来ていたと思います。主演のアンディ・ガルシアは、キャラクター的には彼に合った役だったのではないでしょうか。名演です。ただ最後のシーンはカッコ良く描かれ過ぎていますか。あとはシェリーとトミーを演じた2人もなかなか良かったですね。この映画の公開が限定されてしまったのは、母子相姦と療法士の子供に対する性的虐待らしいです。それでも物語としてはいけると思うんですが、サスペンスの手段としてこういう問題を持ち出しただけだと安っぽいです。だからもう少し最初から伏線とかで2つの問題をネタバレさせて、その上で息子2人と父親マイケルの心理をもっとしっかり扱うべきだったのかも知れません。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.21
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POLA XLeos Carax寸評:映像がどうのという意味ではなく、そして心安らぐようなものとは正反対だが、映画として美しい。ある意味で究極的な映画。それゆえ嫌いな人も多いだろう。ギョーム・ドパルデュー演じるピエールの父は今は亡き高名な外交官ジョルジュ・ヴァロンブルーズで、今は母マリー(カトリーヌ・ドヌーヴ)とノルマンディーの城に暮らしている。小説『光の中で』を匿名のアラダン(アラジンのこと)というペンネームで発表し、若者層に評価されて20万部も売れた。彼はリュシーというやはり金持ちの娘と婚約していて、結婚も間近。そんなある日従兄ティボーとカフェのテラスで話をしているとき、ティボーに指摘されて、黒髪のジプシー風の娘がピエールを窺っているのを彼は見る。ピエールはバイクで追いかけ、街の中を探しまわるが、バイクを転倒させてケガをしてしまう。そしてある夜結婚の日取が決まったことを知らせにリュシーの住む屋敷に向かう途中、森の中を歩いている黒髪の娘(カテリーナ・ゴルベワ)に出会う。彼は逃げる娘を追って森の中に入っていくが、彼女が東欧訛りのフランス語で語ったのは、自分がピエールの父ジョルジュの娘イザベルで、ピエールの異母姉だということだった。ピエールはリュシーに別れを告げ、姉イザベラと、彼女の連れのペトルーツァとミハエラ母娘と4人パリに出て暮らすことにする。(以下ネタバレ)どこでどうネタバレしてしまうかわからないので、以下全体的にネタバレだと思って下さい。リュシーに別れを告げに彼女の屋敷向かおうとしてバイクのエンジンをかけようとするがかからない。これまでリュシーに会いに行くとき、この父の形見のバイクは快調だった。ジプシー女を追いかけると転倒してケガをした。森で女に出会ったときも、バイクは倒れる。そしてやがてマリーが死ぬのはこのバイクに乗ってだ。死んだ父の思いを象徴しているかのようだ。ジプシー女に近付こうとすると転倒し、息子が去ってうちひしがれたマリーを亡き者にするのはこのバイク。ピエールは城の上階の壁に塗り込められた扉を破壊して隠された部屋に入る。イザベラは幼いときフランスで父親と暮らしたと言っていた。小さな赤ん坊がいたとも。赤ん坊とは自分であり、ここは彼女のいた部屋だったのか?。そもそも母マリーは知っているはずだ。だから扉を破ることに反対した。しかし中は空。呆然とするピエールだがマリーは何も語らない。4人はパリに着くが連れの3人はジプシー風で、タクシーの運転手は子供がシートを汚すんじゃないか、なんて厭味を言って喧嘩になる。ホテルも3人の姿を見ると泊めてはくれない。ピエールはいいがジプシー風の3人には冷たい社会なのだ。ティボーを訪れるとパーティーの真っ最中。仲の良かったはずの従兄ティボーはピエールを知らないと言い、家から追い出される。最初の方のティボーとピエールのカフェのシーン、2人は久しぶりの再会だったが、その様子はただならぬものに描かれていた。同性愛的雰囲気。むかしはリュシーを加えて3人離れがたい特別の関係だったらしい。しかしそのうちのピエールとリュシーが結婚することになり、その彼女を捨ててピエールがイザベラに走ったとき、ティボーは彼を拒否したのだ。移民の多い貧民地区。そこの安ホテルにやっと4人は落ち着く。4人はイザベラの希望で動物園に行き、中国人客が中国語でカラオケを歌う庶民的中華レストランで食事をする。庶民的華僑のレストランでは拒否されることもない。さながら仲の良い家族のようだ。しかしホテルの入り口の路上で憶えたてのフランス語「臭い」を通行人に連発していたペトルーツァの幼い娘ミハエラはフランス人男性に殴打されて倒れ、それが原因で夜間に死んでしまう。残った3人は郊外の場末の殺伐とした工事現場の中にあるテロリスト集団のアジトに住むことになる。塀の中には犬が放たれ、武器など(?)を作っている工場でもあり、ボスは訳の分からない前衛的騒音音楽の指揮をとっている。隠していた過去、あるいはヴァロンブルーズ家の真実の姿、それがピエールがイザベラと去ったことで重くのしかかり、マリーは打ちひしがれてピエールが乗っていた父の形見のバイクで森を疾走するが、自爆事故で死んでしまう。姿を隠して埋葬の様子を見るピエール。婚約者のリュシーがピエールの住むアジトにやってくる。男1人と女2人の共同生活。彼は経済的にも恵まれた環境にあった。なぜこの転落の人生を選択したのか?。彼にとって今まで母マリー、そして婚約者や従兄ティボーとの人生、それはきっと壁に塗り込められた隠し部屋に象徴される、幼い頃から何か隠されたウソの人生だったのだ。そんなウソの明るさで書いた小説が『光の中で』で、世間の若者にも受け入れられた。それはウソに安住しようというマヤカシの世界だからこそ受け入れられた。しかし暗さを伴った世界の本当の姿、それを象徴するのが父も隠そうとし、フランス社会で受け入れられなかった異母姉イザベラだった。彼が夢に見る血の激流に溺れるイザベラと自分。彼は異母近親相姦にまで至りこの暗闇の世界にどっぷりはまっていく。この忌むべき関係こそその世界への旅立ちの完成であるかのようだ。前作の延長で書こうとしていた小説第2作にはもう興味もない。もっと世界の本当の真実を書きたい。パタシュウ演じる編集者マルグリット、名前も風貌もマルグリット・デュラスを模している彼女は、ピエールの欲求は理解しつつも「時代に恨みを抱けば必ず時代に罰っせられる」とロベルト・ムージルの言葉を引用して諭そうとするが無駄だ。彼女の計らいで匿名作家アラダンが姿を明かすというテレビ番組に出演するが、今の彼の姿にスタジオの観客は誰もアラダンだとは認めてはくれない。リュシーの弟とティボーがリュシーを無理矢理連れ戻しにやってくる。マヤカシの平和な世界のティボーらと、開いてはならない悪意の世界の扉を開けようとするピエールの対決だ。ピエールはティボーを撃ち殺してヴァロンブルーズ家の血を絶やすしかない。そこに駆け付けたリュシーとイザベラ、ピエールは護送され、イザベラは道に飛び出して到着した警察車両に身を投げる。これでヴァロンブルーズ家の血は護送されるピエールだけだ。彼の脳裏に浮かぶのは真実を隠していた森の木々だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.20
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SINGLE WHITE FEMALEBarbet Schroeder107min(所有VHS)寸評:主演者2人は美人だし、サスペンス映画として2時間弱十分楽しませてもらいました。でも見終わって何かが足りない気もする。まず邦訳タイトルのこと書いちゃうと、『ルームメイト求む』ぐらいにして欲しかったですね。『独身女性のルームメイト募集』まですると日本語のタイトルにはならないでしょうか?。でも洋画にはもともとこういうタイトルの付け方があるわけだから、少し日本語でも普及すると良いと思います。『SINGLE WHITE FEMALE』って原題は「独身・白人・女性」という意味だけれど、新聞のルームメイト募集広告ってすぐわかる言葉なんでしょう。仏訳題も『JF partagerait appartement』で新聞広告の文面になっている。劇場公開やDVD化さえしてくれれば邦題なんてなんでもいい、って考えるように最近はしてるけれど、できれば原題の雰囲気を活かして欲しいです。映画の舞台となるアパートが「家賃統制アパート」だって出てきて、これ何かと調べてみたら、1940年頃の住宅難の頃に出来た制度で低家賃に押さえられたアパート。だからアパートは古くて味わいがあるけれど、家主は家賃収入が低いから修理とかあまりしないらしい。エレベーターや水道栓の不具合とか窓のグリルの破損、あるいは通風口からの他家への音漏れなどが映画の中に出てくるけれど、そういう背景なんですね。アリソン・ジョーンズ(ブリジット・フォンダ)、愛称アリーはコンピューターのファッション系ソフトなんかを開発して売り込んでいる若い美人キャリアウーマンで、ニューヨークの家賃統制アパートの11階に住んでいて、結婚しようっていう彼氏サムと住んでいる。でもこの恋人サムの浮気を知ってしまって、彼とはサヨウナラってことで追い出しちゃう。その晩は寂しいから上の14階に住んでるグラハムの所に泊めてもらう。グラハムは親切だし、男だけれどゲイだから心配ないんですね。翌朝寝坊しちゃうのだけれど遅刻しながらもミッチェルにソフト売り込みに行って、値切られながらも商談成立。アリーは独りも寂しいから独身女性のルームメイト募集広告を新聞に出す。米国じゃ当たり前で、この映画にとりわけ人種差別意識はないのだろうけれど、「白人」ってのが付くところがアメリカ社会の現実ですね。何人もやってきた希望者の面接して、みんな帰った後にサムの電話を切ったりして涙流したりしていると、開けっ放しだったドアから控え目そうな女性が入ってくる。不具合の水道栓から水が吹き出して2人ビショ濡れになったりでなんとなく意気投合して、この彼女ヘドラ(ジェニファー・ジェイソン・リー)、愛称ヘディをルームメイトにすることにする。そのヘディ、まずは犬を買ってきたりして、アリーがいい顔しないから「返品可能だから明日返す」なんて言ってるんですが、バディと名付けたこの犬がアリーになついたりで、そのままこの犬を飼うことになる。それで段々にヘディはアリーにまとわりつくと言うか、彼女のファッションや髪型真似たり、おかしな行動をとり始めて、アリーも戸惑い始める。(以下ネタバレ)アリーはサムと縒りを戻してアパートに出入りするようになるのだけれど、ヘディのサムへの接し方がおかしい。アリーに成り代わってサムを求めている感じ。犬のバディもヘディではなくアリーになついちゃっている。それでヘディは犬のバディを窓から落とす。サムの修理していたグリルの割れ目から落ちたことにはなるのだけれど、少しずつアリーはヘディに疑惑を強くしていく。ヘディに美容院に無理矢理誘われて行くと、ヘディは髪型をショートの金髪にしてアリーそっくりにする。アリーがヘディのクローゼット見ると自分と同じ服が何枚もある。アリーがヘディの秘密の箱を調べると、サムがアリーに出した手紙もあれば、9才の双児姉妹の一方が事故死の新聞記事の切り抜きがある。入居のときにヘディは生まれた時に双児の姉妹は死産だったと言っていたのだが。それでアリーは上階のグラハムに相談すると「彼女は精神異常だ」と言うのだけれど、通風口から漏れ聞こえる会話をヘディは聞いて、アリーそっくりの姿でグラハムを殺してしまう。サムはとりあえずホテル暮らしなのだけれど、いずれは自分が追い出されるか、アパートを別に借りて一緒に住むことになって、自分がアリーを失うことになると思ったヘディはアリーの姿でサムの部屋を訪れ、寝ていた彼と関係を持つ。これで2人の仲をさけると考えたのだけれど、自分から告白すると言われたヘディはハイヒールでサムの頭を殴り、ピンヒールが頭部に刺さって死んでしまう。ホテルを去るときにフロントも「おやすみなさい、ジョーンズさん。」って、彼女がアリーだと勘違いしている。アリーはテレビでサムの死を知るのだけれど、ヘディのハイヒールのヒールが血まみれなのを見て、ヘディがサムを殺したのだということを確信する。ヘディは髪も元の黒に戻し、アリーに化けるために買った服は焼却炉で処分し、自分の存在は誰も知らないから犯人はアリーになると言って、一緒に逃げようと提案する。無理矢理上階のグラハムの部屋に連れて行かれたアリーは抵抗したので椅子に縛りつけられてしまう。しかし殺されたはずのグラハムは仮死状態だったらしくその彼に助けられる。アリーは格闘の末ヘディを刺し殺す。サスペンスとしては良くできていて、結末はおおよそ想像はつきながらも、最後まで退屈せず見せてもらいました。でも見終わってみると「何か足りない」って感じ。それが何かというと、やっぱりヘディの心理背景と描写の曖昧性です。単に精神異常者を登場させるだけでは、サスペンスは成立してもそれだけなんですね。最後の方でヘディはアリーに言います。「一卵性双生児といっても2人同じわけではなくって、片方は美人で人気があり、もう片方はそれに仕えるだけなのよ。」と。ヘディは後者で、アリーとの関係でもそうだったわけです。もちろんこれは双生児でなくても一般に2人の女友達の関係がそうである場合に普遍化はできる。見ているとヘディという女性は精神異常ではあっても頭はものすごく良い。その上で、彼女がアリーに自分を同化したかったのか、アリーを保護して彼女の愛を独占しようとしたのか、髪型や服装を似せたのは同化のためか殺人のためか、もちろんこれが微妙に推移するからではのサスペンスなのだけれど、死んだ双児の姉妹への感情も含めて、いまいち彼女の異常な心理が浮かび上がってこない。そこがこの映画の深みのなさのような気がします。フランス映画を見慣れていると、サスペンス映画でもホラー映画でもアクション映画でも、そういうところがしっかり根底に描かれている。アメリカ人がサスペンス等によるエンターテインを求めるだけなのに対して、フランス人の関心はいつも「人」にあるということでしょう。そういう意味では監督がフランス系のこの映画は両方の中間にあると言えるのかも。ボクはアメリカの女優さんに関してはよく知らないけれど、ジェニファー・ジェイソン・リーのようにどちらかというとクールな感じの人が良かったのか、もっとドロドロな雰囲気の女優を上手く使っても面白かったのかも知れません。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.02.19
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POINT OF NO RETURNTHE ASSASSINアサシン 暗・殺・者John Badham寸評:ベッソン監督のフランス映画『ニキータ』のリメイク。娯楽作品以外の背景的社会性を骨抜きにした駄作。娯楽作品としても演技や演出、本家ベッソンと変えた後半のストーリーとラストがつまらない。殺人を犯して死刑判決を受けた不良娘マギーが、訓練を受け政府秘密組織の工作員(殺し屋)になって外の世界に出るが・・・。ストーリー詳細は『ニキータ』のネタバレレビューやgoo映画(『アサシン』http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10979/story.html、『ニキータ』http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15856/story.html)等他の映画サイトを参照して下さい。ここでは本家『ニキータ』との比較で感じたことを書かせていただきます。(以下ネタバレ)<社会構造の批判に関して>ベッソンの映画の背景的テーマの一つが骨抜きになっている。監督の意志か?、プロデューサーや映画会社の意志か?、世論に対する配慮あるいは迎合か?。ベッソン作品で重要だったのは、30年以上の終身刑という絶望的な心理のニキータの弱みにつけこみ、死で脅しながら、国民の幸福のためという大義名分で国家の殺し屋として使おうという国家による個人に対する暴力とエゴイズムについて考えさせること、あるいはニキータが麻薬常習の不良娘になり警官殺しに至ったことの責任をニキータひとりに着せてよいのか、それとも社会にも責任があるのか、そういうことを考えさせることだった。そういうことがすべて捨象されてしまったのがこの『アサシン』だ。<バイオレンス描写に関して>最初任務のレストランでのドンパチシーンで、本家ベッソン版では厨房のコックが流れ弾で死ぬ映像はないが、『アサシン』ではどんどんコックが撃たれる。また要人の泊まるホテルの爆破作戦では、ベッソン版は爆発のシーンが写らないがバダム版ではしっかりと写る。不必要な暴力描写は不快。<物語の分かりやす過ぎることに関して>誕生日にボブはニキータ/マギーを外のレストランに連れ出し、そこで初の暗殺指令を出すわけだが、これが「最後のテスト」だったとわざわざ言葉に出して説明する。任務を遂行したら辞職したいマギーの相談に乗るというボブ、そして最後にはマギーが独り去ったことを知って彼女が死んだと組織に報告するなど、説明過剰の分かりやすさだ。こういう差がアメリカ映画は分かりやすい、フランス映画はわかりにくいと言われる差なのだけれど、微妙で複雑な事態・状況・心理を明確には描くことなどできない。映画を見ながら考え、見終わって考えるあり方のほうが重要だ。アメリカ人はそういうことを決定論として描き、考えようとしないから、アメリカの世界政治も単純なものとなる。<男性中心主義に関して>主人公の不良娘ニキータ/マギーは死刑の際に母を呼ぶ。一方彼女が埋葬されたことになっている葬儀の写真で、マギーの方では父親が写っていてそれが指摘される。これはニキータの場合は兄弟だった。母よりも家長としての父の存在を重視しようというアメリカ的男性中心主義が見えて不快。(もちろんこの映画だけ見れば気付かなかっただろうが、本家と比べると作為を感じる。)<ブリジット・フォンダ演技と演出に関して>本家『ニキータ』では当時ベッソン監督と結婚していたアンヌ・バリローが事前に1年もの訓練を受けたらしいが、ブリジット・フォンダの演技は悪くはないが、銃器の扱いなど素人っぽかった。主人公の娘がライフルで狙撃をしているというだけで満足のアメリカ。そこに真実味を求めるフランス。そういえばピアニストや指揮者が主人公の映画などでも、アメリカ映画では本当らしからぬ演奏振りで気持ちの悪いことが多い。それと外の世界に出てからの主人公の若い女性としてのキャラクターがあまりにも普通過ぎた。<恋人JPの人物設定に関して>ここで描かれるべき愛とは、相手が精神的に求めるものを与えられる自分がいて、それを相手に与えることに自分も喜びを感じられるという一つの愛の形だ。しかしこのアメリカ版リメイクでは主人公の恋人の愛の姿が十分描けていない。だから映画が終わったときもマギーとJPの関係はその辺の悲恋程度にしか感じられない。<アマンダの演出に関して>本家のジャンヌ・モローがその人間性の重みと優しさで不良娘の心を捉えるのに対して、この作品のアン・バンクロフトは権威的に過ぎ、不良娘マギーが心を開くことに現実味が薄い。<余談>アメリカ映画では「ドンペリ」、フランス映画では「テタンジェ/コント・ド・シャンパーニュ」。は、は、は、は。<最後に>ブリジット・フォンダは魅力的だし、前半などあそこまで同じに作ってるのだから、舞台をアメリカに移し、ストーリーもセリフもほとんど変えないで、そのままリメイクしてくれた方が、ボクにとってはありがたかった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.18
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NIKITALuc Besson寸評:ラブ&アクションの娯楽作品として見てもよいだろうが、背景に描かれた社会の構造に対する批判も興味深い。フランス映画として米国で初めて500万ドルを超える興行収入をあげた作品ですが、このベッソンという監督は有能で、しかもある種の巧みさを備えてもいると思います。捉え方は人それぞれでしょうが、バイオレンス?、アクション?、ラブストーリー?、サスペンス?、としての娯楽性は高いから観客を動員できる。しかも根底には監督の持つしっかとした人間観や社会観があって、そのメッセージ性も描く。その一つはここでは国家のエゴイズムでしょうか。映画作法的にも独自のベッソン色があってそれもいい。19才の麻薬常習の不良娘、通称ニキータは警官を撃ち殺す。彼女の薬切れで仲間と薬局を襲撃したのだ。仲間はすべて死ぬ。彼女のこの殺人自体薬切れ状態でのもので、相手も良くわからずに「薬はない」と言われての発砲だった。裁判所で、彼女の人生になど気のなさそな弁護士や周囲の無関心の人々を彼女は見つめる。彼女にとっては無情にも判決は最低30年以上の無期懲役。世界は、多少の欺瞞には目をつぶって生き、自分たちには有害な彼女のことなど考えたくない人々と、彼らが厄介者とする自分に2分されているかのようだ。ここではニキータとその他の人々の2分だけれども、もっと普遍的な世界の2分を描いている。そもそも麻薬常習の不良娘、いったい彼女がこうなった責任をすべて彼女に着せて良いのか?。社会全体の失敗ではないのか。そんな彼女の適性に目を付けたのは秘密諜報局のボブ。彼女を国家の秘密機関の殺し屋に仕立てようというのだ。いわゆる薬物注射、英語でlethal injectionと呼ばれる死刑を執行される彼女。彼女は「お母さんを呼んで」と願うが注射がなされる。しかしそれは第1薬の睡眠薬のみだった(ちなみにlethal injectionでは通常第2薬が筋肉弛緩、第3薬が心臓停止)。白い殺風景な部屋のベッドで彼女は目を覚まし、そこにボブがやってくる。「ここは天国なの?」と問う彼女にボブは「天国にすることもできるかも知れない」と答える。ボブは彼女は獄中で自殺、埋葬も行われたと説明し、写真を見せる。その写真に写った男を指差して「ティティ!」と言う彼女。写真の男の姿はテレビの画面では良く見えないが、ティティという呼び方から兄弟ではないかとボクは解釈した。訓練を受けて国のために働くという第2のチャンスだとボブは言う。断れば彼女が埋葬されたことになっている墓に入るだけだと。生き延びるためには彼女には選択の余地はない。ここで特に注意しなければならないのは、死刑制度を廃止したフランスでの彼女の刑は無期懲役で、最低30年は出られないというものだ。言い換えれば30年後に49才で出所できるかも知れないし、少なくも死ぬまで獄中で生きることは彼女の法的権利だ。それを訓練を受けて政府の殺し屋となって釈放されて生きるか、さもなくば殺されるというのは、既に国家による個人に対しての暴力である。彼女は秘密の訓練所での訓練を受ける。射撃や格闘技などの教育はもちろんだが、人間としての再教育でもあった。しかし訓練での彼女は柔道の教官の耳に噛み付いたり、パソコンの教官にネズミ(マウス)をプレゼントしたり、羽目を外して歌い踊ったりの問題行動ばかりだ。踊った後にはボブは彼女の部屋にドガの踊り子の絵のポスターを張って踊りの成績は褒め、同時に他の成績は0点だと言う。20本のローソクの立ったケーキを持参し彼女の20才の誕生日を祝い、同時に2週間以内に彼女に改善がなければ自分にはもうどうすることもできないとも告げる。最初ニキータが拳銃を奪ってボブに突きつけ逃亡しようとしたときは、彼は奪い返した拳銃でボブは彼女の脚を撃った。ボブとニキータの間の感情は複雑だが、ここでは明かにボブは厳しさと優しさを持った父性を象徴している。殺されようとするとき彼女は母を求めたが、母性を象徴するのはジャンヌ・モローが演じ、人間らしさや女らしさを教えるアマンドかも知れない。秘密養成所の設備等の立派さを見るにつけても、親の愛と適切な教育制度に恵まれれば彼女は不良少女にはなっていなかったとでも言っているようだ。彼女の殺人の罪さえ、どこまでが彼女の責任であり、どこまでが社会の責任であるかに疑問を提出している。そして23才の誕生日にボブに与えられた最初の暗殺任務もこなし、訓練所を卒業したニキータは看護婦マリー(コードネーム:ジョゼフィーヌ)のもと、秘密諜報局の政府に雇われる殺し屋として3年ぶりに外の世界に出ていくのだが・・・。(以下ネタバレ)ニキータ(以下マリー)はマルコという恋人ができ一緒に暮らし始める。途中から彼はマリーの看護婦ではない本当の仕事を察していたことが最後にわかるが、彼女は彼を愛し、彼も彼女を愛した。彼女との約束で何も尋ねないという約束を守って。愛の一つの姿というのは、相手が精神的に求めるものを自分が相手に与えることができ、そしてそれを与えることが自分の喜びにもなるということではないだろうか。人としての感情やプライドや常識を持つことなく成長したマリーに課された訓練所での再教育は、諜報員としての専門知識だけではなく、彼女に欠けていた社会の中で人として生きることのすべてでもあった。しかしボブやアマンダとの心理的交流、そしてマルコとの愛情生活の中でマリーが得たものは、皮肉にも訓練所の目指したものを超えてしまった。ごく普通の幸せを求める彼女にまで成長してしまった。国家のため、あるいは国民の幸せのためという大義名分で国のために殺人をして生きることではなかった。彼女は最後の仕事となったソ連大使館の機密文章の写真をマルコに託して独り去る。一緒に行きたいと言うマルコを巻き添えにすることは出来ないと考えられるまでに成長していたのだ。最後のマルコとボブの会見。マリーはこれまでの仕事で十分彼女の負っているツケは払ったのではないかとボブに言うが、マリーは警官殺しの罪を負っており、社会的ツケはそう簡単には消えないとボブは言う。代償として国家のために何人彼女は殺したのかと反駁するマルコ。マリーが殺人を犯すようになった社会の責任、無期懲役の権利を奪い、彼女を死の恐怖で脅し、国民のためという理屈で国家のために働かせた国家権力、結局のところそれは弱い立場の人間を利用しようという国家の暴力、エゴイズムなのではないだろうか。そもそも国家の安全を害する人物の暗殺という殺人を正当化する論理とは何なのであろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.17
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VALBORGSMASSOAFTONGustaf Edgren寸評:バーグマンはやはりこの頃からバーグマン。1935年の素朴な物語と作りの映画、素直に感動して見られます。世の中複雑になって映画も複雑になったけれど、映画ってこの単純さで良いのかも知れない。アメリカ映画をあまり見ない自分なので、20世紀の大女優イングリッド・バーグマンと言ってもそれほど見ているわけではない。イメージとしては『カサブランカ』のバーグマンでしょうか。『カサブランカ』は1942年だからバーグマン26才頃の作品。この『ワルプルギスの夜』はまだハリウッドに行く前のスウェーデン時代、彼女19才頃の作品。やっぱり美しいですね。情熱とかを内に秘めながら冷静風を装う表情がいいです。下にネタバレで物語は書きますが、ストーリー自体はその構成も含めていたって単純。映画の作りもなにせ70年以上前のものだから、難しいことは何もしていない。むしろ技術的に今よりはるかに制約は多かったことと思う。でもしっかりと作れば、そしてそこにバーグマンや(その父を演じた、映画監督でもある)シェーストレムとか、役者としての魅力や見せる演技があれば、それだけで映画っていうのは良いのだな~、なんても感じました。新聞社の編集主幹の部屋で、主幹のパルム、主筆かなんかの老ベルイストレーム(ヴィクトル・シェーストレム)、若い記者が、出生率低下のことなどを話している。スウェーデンはもうこの頃から低出生率が社会問題だったんですね。そのベルイストレームの娘レナ(イングリッド・バーグマン)は家で日記を見ている。レナがその秘書をやってる会社の上司で既婚のユーハン・ボルイが好きなんですが、このままではいけないって思っている。それで老齢の父の面倒みたいからなんて理由で会社辞めますってボルイに言うんですが、ボルイの方は妻との関係もあまり上手くいってなくて、別れてレナと結婚したいと思っているからレナが辞めるのを止める。ボルイが妻と上手くいってない理由はまあ色々あるのだろうけれど、ボルイとしては妻に子供を作って欲しいと思ってるのに、妻は育児に縛られるのは嫌だって子供を作ろうとしないあたりが大きな原因らしい。時は1934年4月30日。その夜は映画の題名でもある「ワルプルギスの夜」。シェークスピアの『夏の夜の夢』やムソルグスキーの『禿げ山の一夜』は夏至の聖ヨハネ祭で、夜に妖精や魔女が活動する日なわけだけれど、北欧の場合は冬が寒くて長いのでこの春の到来は嬉しいのでしょう。5月1日はもともとケルト暦のBELTANEらしいけれど、古くはケルト暦は日没で1日が始まったらい。だから前夜をワルプルギスの夜としてやはり魔女なんかが活躍するんですね。知識不足で詳しいことは分からないけれど、とにかくこの日に愛を誓うと幸せになるとか、そんな迷信がスウェーデンにはあるらしい。その晩ボルイは妻と予約したレストランで一緒に過ごす約束だったらしいけれど、妻は行けない、親戚だか友達のところに行くって言う。実は数日の旅行にかこつけて非合法の堕胎をやっているスミス医師のところで中絶手術を受けようっていうことらしい。別に不倫の子とかではなく夫の子供だけれど、とにかく子供は欲しくない。それでボルイはその日を最後に会社を辞めるレナを誘い、彼女も結局OKして半屋外のレストランで食事をする。その仲睦まじい様子をカメラマンが撮って、春の到来のコラムの写真として良いのじゃないかってコラムを書くベルイストレームに持っていくんですが、ちょっと気掛かりだった娘レナが既婚の上司とつき合っている写真を見て心配になる。その頃スミス医師のところではボルイの妻が中絶手術受けてそのまま入院してるんですが、警察が踏み込むって情報を聞き付けた男がスミス医師に知らせに来て、医師と入院中の妻を連れ出す。そしてそのとき妻のカルテ33番をポケットに入れる。医師は逮捕されるんですが、このカルテ33番がないから警察もボルイの妻のことはわからない。でこの男がこのカルテで妻をゆするんですね。男の要求額を妻は自分では工面できないから夫に打ち明け、2人で男の家に行くのだけれど、足元見て男は増額を要求したので、夫と男は格闘になって夫が危ないので妻が男を拳銃で撃ち殺してしまう。二人は部屋を去りますが、そのときボルイはカルテの33っ書かれた切れ端とネーム入りの万年筆を落としてしまう。たまたま隣室に住んでいたのは新聞社の若い記者で、物音聞き付けて部屋に入って死体とカルテの切れ端や万年筆を見て、特ダネだとベルイストレームに知らせに行く。娘を信じていた父ベルイストレームだったんですが、ワルプルギスの夜の食事の写真とボルイがカルテでゆすられて男を殺したということで、中絶したカルテ33番の患者は娘のレナだったと勘違いして、ボルイに会いに行き「娘の前から消えろ」と迫る。ボルイは殺人の罪をかぶった形で国外に逃亡する。夫が殺人犯として逃亡し残された妻はいい気なもので、妻子ある男性と楽しくやっていて、一緒に長期のアジア旅行に行こうということになるのですが、「可愛い息子のため」と最後になって男性は旅行を断る。妻は失望のあまり事件の真相を自白して自殺する。ボルイが無実であったことを知って、レナの父ベルイストレームは娘や娘が純粋に愛した男を信じられなかったことを悔やみ、娘がまだボルイを愛していることを知っているので手を尽くしてボルイを探すが見つからない。ボルイはフランス外人部隊に行っていた。現在は身元が厳しく問われるが、当時のフランス外人部隊は匿名でも参加できたらしく、犯罪者も多かったという。ちなみに第3歩兵連隊ということは仏領ギアナということになる。しかしボルイは5年の契約期間を満了することもなく、スウェーデンに戻って警察に出頭することがレナへの愛を果たすことだと思うに至り、帰国して警察に出頭するが、彼は無罪放免だった。そしてえ偶然にもレナと1年後のワルプルギスの日に再会し、レナは父のもとにボルイを伴い、2人はめでたく結ばれる。結婚をして子供も生まれた幸せが写り、彼女が幸せを綴った日記で映画は終わる。家庭もよいし、父親の人柄ということもあるのだろうけれど、頭ごなしに叱るというのではなく、それぞれの人格や名誉を尊重し合う父と娘の姿はいいですね。互いの信頼があってこその父娘愛が美しかったです。どうも出生率を上げるのは住宅事情とか経済事情ではなくって愛なのだって言っているようなのですが、当時のスウェーデンの映画事情を知らないので、この映画に社会問題としての低出生率に関してのメッセージが含まれていると理解すべきかどうかまではわかりません。いずれにせよ女性を子作りマシーンと捉えることではなさそうですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.16
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八月はエロスの匂い藤田敏八寸評:前年の『八月の濡れた砂』は一般映画として公開された藤田敏八の青春映画の傑作だが、この『八月はエロスの匂い』は経営難の日活がロマンポルノ路線に転換した初期の藤田作品。時代をよく捉えているし、それなりに見どころがある。映画の観客数の減少で経営の難しくなった日活は成人映画のロマンポルノ路線で生き残ろうとした。製作費用や製作日数を削ってのアダルト作品だが、設備は既存の本格的ものを使えるし、裸さえ出していればストーリーや演出も自由にでき、監督としてはかなり自由な表現ができたようだ。最終的にうち切られた1988年まで、映画斜陽期に俳優や監督を育てる場にもなっていたわけだ。この『八月はエロスの匂い』は、自分の年齢から考えても公開から何年もたった頃、何かの映画と2本だてで上映されたのを最初の20分ぐらいだけ見た。その前に上映された作品が何であったか憶えてはいないのだが、それを見ることが目的で、時間の都合で最初だけ見たわけだ。それ以来見ることも、ウワサを聞くこともなかったが、本命だった作品の方は全く忘れてしまっているのに、この最初だけ見た『八月はエロスの匂い』の方は、冒頭のデパートでの強盗シーンで主演の圭子が血を流すシーンなどが鮮明に記憶に残っていた。今回安価にビデオが入手できたので何十年かぶりに続きを見ることになった。ロマンポルノ、成人映画と言っても、今日の状況から見れば、一般映画と言ってもいい程度の性描写だ。前バリなどという言葉があるように、もちろんヘアも性器も出てはならない時代。またストーリー性も強く、性描写のシーンもそれほど多いわけではない。2週間程度の短期間に低予算で作られた70~80分の短い作品群だが、ポルノという属性から離れても見る価値のある面もあると思う。(以下ネタバレ)田舎から東京に出てきた中原圭子(川村真樹)は、従妹の武上英子(片桐夕子)と安アパート暮らし。デパートの宝石売り場の店員だ。かつての高校の恩師で、今は大学の司書をしている芝木正秋(永井鷹男)と愛情関係にあるが、刺激のない単調な日常に疲れている。相手にする客もしみったれた有閑マダムだ。そんなある日、閉店間際で疲れ時計を見る彼女だが、そこに長い髪を後ろで束ねた若い薮睨みの青年が彼女の売り場のレジを襲う。刃物を持ってレジを襲おうというのだから彼は必死だ。彼女と犯人は見つめ合うが、その鋭い生きた視線に彼女は動くことも声をあげることもできない。次の瞬間彼女は青年に刃物を突き付けられ、手のひらを刺されて血が流れる。呆然とするうちに犯人はレジのお札をわしづかみにして消える。彼女にとってそれは倦怠の日常とは違う生きた瞬間だったのだ。そしてそれを象徴するように生きた彼女の赤い血が流れる。思うにこの演技と演出にしっかりとした内容があったからこそ、忘れがたく記憶に残ったのだと思う。真実に生きる何かを刺激された彼女は恩師で愛人の芝木の部屋を訪れ、彼に抱かれるが、それは何かが違っていた。芝木は男の自分勝手な愛で彼女に接するだけだ。彼女が話そうとした事件の折の感情なども、芝木は真面目に聞こうともしないし、理解もできない。不満の解消をしてくれない芝木の部屋を彼女は去る。自宅近くの小さな公園でブランコに乗る圭子。うずくまった少年が彼女のスカートの股間の方を見ながら「見える、見える、はいてない、はいてない」と繰り返すが、これは彼女の生きる衝動の存在を表現しているかのようだ。従妹が通りがかり、2人はアパートに帰る。そこで彼女が食べるのはカップヌードルだ。翌日彼女がデパートの勤めが終わって帰ろうとすると、外には芝木の姿があった。彼女は上司がいつか食事でもと誘ってくれていたので、上司と飲みにでる。芝木を避けたかったのだ。芝木は後を追ってくる。バーに姿を現した芝木を残して彼女は上司をホテルに誘い、彼に抱かれる。まだ癒えていない手のひらの傷口から生きた赤い血が男の背中に流れる。上京してきた従妹英子の恋人福田一郎(粟津號)と3人読売ランド遊園地に行き、そのカフェテラスでボーイをする犯人の青年を発見するが、うまく捕まえられなかった。圭子は公休日に芝木を誘い、読売ランドに行くが、もうそのボーイは辞めていた。帰り道川岸の土手に停めた車の中で圭子と芝木は抱き合うが、パーキングブレーキが上手くかかっていなかったのか、2人の愛の行為で揺れる車は川に向けて動きだす。気付いた彼女は芝木に指摘し、危うく車は水の直前で止まる。川に向かって土手を落ちていくのに圭子は気付いたわけだが、このシーンには2つの含意があると解釈するのは行き過ぎだろうか。一つは芝木に抱かれながらも恍惚と忘我の境地になっていない、抱かれながらも醒めていること。もう一つはそのまま車が川に落ちて死ぬことを慌てて阻止しようとしたことは、圭子が人生に絶望しているわけではないということだ。夏休みをとった彼女は芝木と旅行にでる。車で横浜からフェリーに乗って木更津に向かうが、船上で男女5人組の怪しいフォーク集団の中に犯人の青年がいることに圭子は気付く。圭子は5人の乗ったオープンカーを追うように芝木に命じるが、芝木は彼女のペースに逆らうことはできない。道すがら犯人の青年が他の4人には溶け込めずにのけ者にされ、いじめられているのを知る。5人はキャンプ場のバンガローに向かったので圭子たちもバンガローを借りる。青年が海岸で他のメンバーに殴られ、波で呼吸も出来ないようなリンチを受けるのも目撃する。夜目を覚まし別棟のトイレに行った圭子。個室から出ようとして、戻ってきた青年が嗚咽し、やがて大声をあげて泣いているのを彼女は見る。そんな彼を誘って海岸近くの花畑へ。そこで彼女の方から青年を襲い、青年に身を任せる。常識的世界の日常に飽き、自分が真に生きることのできる居場所を見出せなかった圭子は、常識を逸した犯罪的でもある不良集団の中でもやはり自分の居場所を見出せない青年に同じ何かを感じたとでもいうのだろうか。高度経済成長の世の中で人が人らしく生きることが出来ない現実を批判しているかのようだ。2人が抱き合う姿を発見しながらも芝木はただ見ていただけだ。彼も常識の世界に生きるだけの人間なのだ。圭子に嘲弄され芝木は青年と殴り合いの喧嘩になる。明るくなった中、芝木の車を運転する圭子。助手席には芝木、後部シートには青年が何も言えずに乗っている。後から走ってくるフォーク集団4人を乗せたオープンカー。別れ道で圭子の運転する車は右に進路をとり、オープンカーも後を追おうとするが、ちょうど対向車が走ってきたのでオープンカーは直進という別の方向へ向かうのだった。このラストは圭子が別の生き方を選んだ象徴だろう。そしてその真に生きようとする原動力となるのは圭子という女であり、性衝動を含めた女の生きる力であり、結局は男はそれに従うだけで自分からは何も出来ないと言っているかのようだ。しかし圭子が青年と抱き合うのは海岸とかではなく花畑で、それは楽園の象徴かも知れないが、その楽園すら花がまばらに咲く程度の楽園でしかない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.15
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でらしね中原俊寸評:非常によく出来た映画。難を言うなら、すべてが少しずつ物足りない感じ。でもお薦め作品。脚本が小林政広ということなのでレンタルした。タイトル『でらしね』はフランス語で「根を抜かれた」という意味で、日本語なら「根なし草」という訳ででいいのかな?。画廊勤めの若い女がホームレスの画家の男に入れ込んで作品を描かせるという物語で、山梨の山中にこもって画家が絵を描く物語が、女が男に絵を描かせようとした経過や男の過去などの物語と平行して描かれ、最後に絵が完成することでひとつの物語として終結する。寸評に書いたように、物語、登場人物のキャラクター設定、役者の演技、撮影や編集、そうしたそれぞれが各80点の出来で、結果として全体の完成度は70点程度になっていると言ったらよいか。でもなかなか良くできていて、見せてくれるし、好きな映画でもある。ホームレスの描き方には小林政広の社会的な目も感じられる。(以下ネタバレ)この映画、脇役も含めて主な登場人物は5人。ホームレス画家水木譲司(奥田瑛二)、画商の橘今日子(黒沢あすか)、彼女が勤める画商社長の岡本光太郎(益岡徹)、ホームレス仲間の赤ちゃんと黄ちゃん(三谷昇、田鍋謙一郎)。映画の一つに軸は、時間的にはより後で、これを映画の基本的時間の流れ、あるいは現在時制としてよいのだろう。一人の画家が山梨山中の旅館に泊まり、そこに画商の女が来て絵を描くように促し、別の方の軸の回想的シーンの挿入でこの画家が今は女を描かなくなっていることを観客は知らされているのだけれど、その彼が画商の女今日子に裸を見せるように頼み、やがて彼女が彼のヌードモデルとなり、約束の50号以上の大作を森の中で彼女を裸にして描くことで完成し、病身で倒れた画家を彼女が抱き起こし、肉体的に結ばれる。帰り道に湖に面するパーキングエリアに車を停め、湖面に向かったベンチで画家は対岸の山を見つめ、今なら「山が描ける」と今日子に画材を要求するが、彼女が車から画材を持ってベンチに戻ったとき画家は死んでいた。別の時間軸の方は上に書いた主要な軸の物語に至るまでを描くのだが、フラッシュバックと言うにはそれぞれ長く挿入される。画商岡本の愛人でもある今日子はホームレス画家水木の絵に出会い才能を感じた。水木は「青ちゃん」と呼ばれ、仲間の「赤ちゃん」と「黄ちゃん」が路上で彼が段ボールに描いた絵を売っていた。水木を売り出そうという計画を今日子は社長岡本に提案するが、彼は協力はできないと言う。彼女は私財を投げうって企画を進める。実は岡本は水木を知っていたことがやがて明かされる。水木譲司は学生時代から「池之端のエゴン・シーレ」と呼ばれ、岡本の言葉によれば「デッサンはシーレより上だったかも知れない」ほどの天才画家だった。女をモデルとしてヌードを描き、肉体関係ももち、そして描き終わる女を捨てる。岡本の恋人も同じように捨てられ、自殺した。主要時間軸の中で水木が今日子に過去を語るシーン回想として、女が裸でポーズをとり、水木はデッサンをし、画家は手しか写らないが、画家がモデルを見る視線のためなのだろうか?、モデルの女はやがて恍惚として悶える映像が挿入される。水木はある頃からまともに絵を描かなくなっていたらしいが、仕事(サラリーマン?)も家庭もズタズタだったらしい。しかしかつて岡本の恋人を自殺に追いやった頃からはずいぶん年月があるはずで、その間の事情は説明されない。たぶん絵を描きたい欲求と描けない自分と生活のための仕事や家庭など、その葛藤なのだろう。しかし半年前仕事探しをしていたある日、雨宿りに飛び込んだ画廊で河鍋暁斎の絵を目にして、絵を描きたいという欲求に襲われる。彼は家族を捨ててホームレスとなり、段ボールに描きたい絵を描いては、たまたま知り合った赤ちゃんと黄ちゃんと組んで、自分が描き、2人が路上で売るという生活をすることになったのだった。今日子は最初岡本が水木を知っていることは知らない。水木の絵に才能を感じ、自分の仕事として彼を売り出したいと思った。今日子は岡本に画商としての知識を教えられた。同時に彼の愛人にもなり、いわば彼女は仕事においても女としても岡本の従属物、あるいは所有物だった。岡本はそういう男として描かれる。だから彼女はその束縛から精神的に自由になりたかったのだろう。画商として独り立ちすることにはそういう意味がたぶんあった。50号以上の大作を1枚描くという要求を水木に一度は承諾させるまでにはこぎ着ける。水木は肺ガンのために倒れて病院に担ぎ込まれるが、彼は病院を抜け出し、結局彼は酒に溺れるだけだ。ホームレス3人組だった赤ちゃんと黄ちゃんは、水木(青ちゃん)に去られ、国に食わせてもらおうと、コンビニに忍び込み、自ら通報して捕まる。このコンビニはかつて赤ちゃんの店だったが、大手企業の攻勢で倒産し、乗っ取られていたのだ。個人商店の経営を食い物にする大資本の論理への批判。黄ちゃんの方はかつては警察官だったらしい。また食事の配給に列を成す(たぶん)本物のホームレス達の映像も挿入される。人間らしく生きられなくなった社会への批判は脚本の小林政広の主張だろう。無一文の水木が3人仲間の住処に戻ると、2人は逮捕されたから彼らの巣はすでに撤去されていた。そんな彼を探しまわっていた今日子が発見し、彼は絵を描かせてくれと訴えるが、ここで最初の時間軸の映画冒頭の山梨の旅館につながるわけだ。そして最後は過去と現在の2つの時間軸が合流し、今日子の催した水木の個展の場面となり、そこに既に出所した赤ちゃん、黄ちゃんが訪れ、彼女をモデルにした大作を眺める3人の後ろ姿で映画は終わる。この脚本は実によく書かれている。ある種ずる賢いと言ってもいいかも知れない。山梨の山中で絵を水木に描かせようとし、また彼の要求で全裸のモデルになっていく過程で、観客にはまだ知らされてないけれども、作中の今日子は既に過去の水木、岡本の彼女を自殺に追いやった事実を知っているのだ。一方水木は今日子が自分の過去を知っているかどうかは知らない。この物語は過去から現在へ1つの時間の流れで描いても映画は成立するだろうが、作中人物のそれぞれと観客が知っていることがそれぞれ違い、不確かにすることで、物語に見せるための牽引力を与えている。である以上各シーンでの役者がかもし出す雰囲気が重要となってくる。なかでもこの映画で重要なことの一つは画家水木の人物設定だろう。実際に絵を描く奥田瑛二は絵を描くシーンでの筆運びなどは、絵を描かない他の俳優よりは良かっただろう。精神的にうらぶれた水木を演じる奥田の演技もよい。でも画家としての面で奥田のものとされているある種のオーラに頼ったことが映画の失敗であった気がする。奥田のオーラは実のところ深いものではない。実は普通の人である奥田瑛二は、ある種の変人を自ら気取ることで自分に酔っているだけだ。その意味ではもっと役作りをしてこの役を演じる役者の方が望ましかったように思う。女画商橘今日子を演じた黒沢あすかは全体的に良い感じだが、最後に水木に身を任せるに至る心理を表現し切れていない。山中で水木が樹木などを描くシーンで、描く途中の紙面と描かれる樹木などが対比されるようにしつこく写されるが、このカメラはうるさいし、映画を安っぽくしていた。そんなこんなで、少しずつ不足のある要素の集合で出来た映画で、ただ2つの時間軸の交差する脚本力によって見せてくれる映画だと思う。この脚本にもっと適切な配役と演出が与えられたら、きっとかなりの名作になっていたことだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.14
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MOJ NIKIFORKrzysztof Krauze(100min)那覇・桜坂劇場にて寸評:ニキフォルという画家の映画であることを抜きにしても見られる良い作品。やはりポーランドの映画文化は質が高い。また絵画に興味のない人も楽しめる映画。フランス、イタリア、スウェーデン、ポーランド、日本。これら5つの国の映画が自分の性に合うようだ。もちろんこれらの国の映画で大嫌いなものもあれば、他の国の映画にも大好きな映画はある。ところで実在の画家とか作曲家とかを題材とした映画はつまらないものが多いような気がする。同じ映画館で現在上映中の『クリムト』の方は最初から見にいくつもりはない。何度も予告編を見せられているし、海外の別バージョンの予告編や抜粋映像もネットで見たが、豪華絢爛な駄作のような気がする。あてになるとは限らないがフランスでは観客の反応も酷評。『カイエ・デュ・シネマ』誌も酷評だ。この『ニキフォル』も画家映画だから、期待はありながらも、あまり期待しないように見に行ったのだが、さすがポーランド映画。いい映画だった。原題は『私のニキフォル』、邦題には「知られざる天才画家の肖像」と付されているが、実在した画家の晩年を描いたということを抜きにしても、ドラマとして人間を描けていた。ポーランド南部クラクフに近い温泉保養地クリニツァ。1960年。役所の美術担当か何かをしている画家でもあるマリアン・ヴォシンスキのアトリエに60歳を過ぎた小柄な老人が入ってきて、勝手に机に着くとそこにあった絵の具で絵を書き始めてしまう。彼の名はニキフォル。1895年生まれだから65歳だ。父親はよくわからず、母親が言語障害だったために、彼も言葉が不自由だ。彼は独特の素朴な絵を描き、保養地やウィンタースポーツのスポットでもある土地柄観光客も多く、路上で絵を売ってはわずかな収入を得ていた。頑固でわがままな彼は、何を言われても自分のペースでしか動かない。マリアンが追い払おうとしても上手くいかない。そのうちに自分の家でも世話を始める。ニキフォルは問答無用でマリアンの絵を酷評する。家族に自分は三流画家だと自嘲するマリアンだが、社会主義リアリズムとでも言えばいいのだろうか、彼自身自分の描く絵に決して心から満足はしていないのだろう。だから純粋素朴に描きたいと思ったものを描くニキフォルの絵や人柄に魅力も感じてるのだ。やっかいなお荷物と感じながらも、やがてマリアンは歴史ある地方の大都市クラクフへの転任の話も断り、ひとりニキフォルの世話をするのだった。(以下ネタバレ)ニキフォルが肺結核であることがわかり、感染を恐れられてマリアンの家族も周囲から遠ざけられていく。ニキフォルを無理矢理療養施設に入れたりするが、結局彼はひとりでニキフォルの面倒をみるのだが、新しい借家に入っても結核のウワサが広がって同じ建物の住民に嫌われ、出ていくしかないような状況だ。そして何年かたった1967年に場面はかわる。2人はワルシャワに向かうべく鉄道の駅にいる。以前からクリニツァを訪れた画家などに知られるようになっていたが、ワルシャワのザヘンタ美術館で大回顧展が催されることになったのだ。その翌年の秋、ニキフォルは悪化した結核のために療養所の病室でマリアンに見守られながら息をひきとる。この映画を見て感じたことは、ニキフォルと晩年その世話をしたマリアンの物語を語りながら、絵とか芸術以外の2つのことを語っていたことだ。この2つは互いに無関係ではないのだけれど、1つはこの時代のポーランドの社会だ。始めの方でマリアンと2人の娘との対話が出てくる。より幼い妹は「馬車に乗ったお姫さまになりたい」と将来の夢を語るが、姉の方は「夢は何もない」と答える。単なる子供のこれだけのセリフなのだが、そう語らせるにはそれなりの意味があるはずだ。この映画の製作はソ連が崩壊し、共産党独裁も終わり、ポーランドの民主化が進んだ2004年。(ちなみにポーランドは1999年にはNATOに加盟、2004年にはEUにも加盟している。)共産党時代のポーランドについて映画監督のキェシロフスキは言っている。「反体制的なことを描けば映画は検閲でカットされたり、上映禁止になる。しかしどこまでならOKが出るかがある程度わかっているので、検閲に引っかからないように比喩や仄めかしで描きたいことを撮る。そうすると観客もその裏をちゃんと理解してくれる」と。そういう意味でポーランドの賢い観客は、些細な表現を通して監督が言わんとしたことを理解する。その方向でこの幼い姉娘の言葉を解釈すると「個人が自分の将来に希望を持てない社会だ」という意味になるのではないか。そしてこの1つ目と無関係ではない2つ目のことだ。やはり姉娘のセリフなのだが、ニキフォルの結核騒ぎで死ぬの死なないのという母娘3人の会話で、「あなたが死んだら、私があれ貰っていいわね」と姉が妹に言う。これは「自分さえよければ他人はどうでもいい」と言う社会批判と解するべきであって、キェシロフスキが自伝の中で共産時代のポーランドの社会風土を批判して言っていることでもある。映画最後のクレジットロールである歌が流され、歌詞も字幕にでる。詳細は憶えていないが「もっと他人を理解して、理解し合って、優しくなろうよ」というようなものだ。これはもちろん感染の恐れや他人への無関心から、言語障害で、老齢で、ひたすら絵を描くことしか出来なかった人間としてのニキフォルに対する社会の無理解を批判している。この映画でマリアンの幼い2人の娘は端役中の端役だ。別にこの姉娘の人物描写などする必要はもともとない。何の関係もない別のセリフでも映画全体にほとんど影響を与えはしない。なのにこの2つのセリフをわざわざ言わせているということは、なんらかの意図があるということだ。この映画の邦題に「知られざる天才画家の肖像」と付して、また公式サイトやビラでもニキフォルの画家としての面を強調する宣伝で、それはそれでいいと思うが、最後に流される歌の歌詞も考え合わせると、マリアンのニキフォルへの理解あるいは愛、ひいては人と人の理解や愛、そのことの方が監督の意図したテーマなのだと思う。だからこそ原題はもっと親密性を感じさせる『私のニキフォル』と「MOJ」が付されている。そして2人の相互理解が成立し、愛し合うに至っていたからこそニキフォルの最後の言葉は「未完の絵は君が完成してくれ」となるのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.13
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MONSIEUR HIREPatrice Leconte寸評:苦手なルコントの作品の中では好きな方。でもちょっと時代錯誤を感じる。あまり好きにはなれないルコントの作品の中では良い映画だと思います。原作はシムノンの小説『イール氏の婚約』で、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が既に1946年に『パニック』として映画化している。デュヴィヴィエの『パニック』がフィルム・ノワール的側面が強く、原作でもあまり描かれていない(らしい -- 読んでないので -- )エミール(作中ではアルフレッド)がヤクザ者として登場するが、このルコントの映画ではイール氏の愛を中心に描いていると言えるだろう。この映画、時代感があまりないのだけれど、特に古い時代設定には感じられない。そんな気分で見ていると、イール氏はいいのだが、サンドリーヌ・ボネール演じるアリスのキャラクターがどうも現代的(1989年の)女性という現実味に欠ける。彼女の恋人であるエミールのキャラクターも、彼女のエミールへの愛の実態もはっきりしないだけに、ともすると物語全体が嘘っぽく感じられてしまう。まあそれを外せば80分間十分に楽しませてくれる作品だった。(以下ネタバレ)主人公のイール氏(ミッシェル・ブラン)、まあ40がらみといった年齢だが、過去には強制ワイセツ罪かなんかで捕まったこともある。孤独に一人で生きていて、神経質で几帳面な人間嫌い。彼としては普通なのだろうけれど、社交性がないというか、バカにされた嫌われ者、そう社会のいじめられっ子のような存在とでも言えばよいだろうか。周りの人々が彼を好いてくれないから、彼もその人々を好きになれない。ボーリングの名手で、ボーリング場から小遣い貰ってパフォーマンスなんかもしてるんだけど、そんな観客とのその場限りの関係としては、彼は受けている。でもだからって特に愛想良く振舞うでもない。彼は駅で人を観察するのが好きなのだけれど、人に対する洞察力が強過ぎるのかも知れない。社交的な笑顔の裏にある人間心理を見透かしてしまうのだ。身なりは仕立て屋らしくしっかりと背広やコートを着こなした紳士。そんな彼はそれまでは売春宿に通ったりだったらしいのだけれど、3年だか前に道路を挟んだ向かいのアパルトマンにアリスが越してきて以来、彼女を覗き見、恋をしてしまった。夜は部屋の電気を点けない彼なのでこれまでアリスには知られていなかったが、ある雷の夜に稲光りで窓から見ているのを見つかってしまう。彼女は覗かれていたことを知って、何故か性的に挑発的な行動を取ったりしてイール氏に近付いてくる。イール氏は最初は彼女の接近をはねつける。彼としては覗くだけの恋までで押さえていたんですね。イール氏は実はアリスが婚約者のエミールの犯した殺人の死体遺棄と証拠隠滅の共犯者であることを見ていた。刑事はイール氏を疑って彼につきまとうのだけれど、彼女が逮捕されればもう彼女を見ることが出来なくなってしまうからその事実を言わない。彼女が積極的に迫ってくるので話もするようになり、食事も一緒にしたりするのだけれど、そこで彼は事件のことを知っているけれどアリスを愛しているから警察には通報しなかったと告白する。アリスは最初は、覗かれていたことを知って、もしや事件も目撃されているかも知れないと思ってイール氏に近付いたのかも知れない。彼に愛を告白されても「私にはどうもしてあげられないわ」って答えるのだけれど、イール氏の一途な愛に少しずつ心を動かされているようでもある。彼はスケート場とかボクシング観戦とか、エミールと一緒のアリスをストーカー的に追いかけたりするのだけれど、ボクシングを男友達と夢中に観戦するエミールから離れたところでアリスの腕や胸に触れる。彼女も拒絶はしない。嫌悪よりも官能を感じているようだ。ボクの感想としては、エミールを愛していると言う彼女なんだけれど、その実どこかでエミールの自己中心的な愛が少々イヤになっている感じがする。で全く違うイール氏の愛し方に惹かれてもいるのだ。イール氏はスイスに家を持っているから一緒に逃げようと言って、彼女に列車の切符を渡す。イール氏は人から嫌われる存在として自分と似ているネズミを飼っていたのだけれど、そのネズミも放し、駅で彼女を待つけれど彼女は来ない。悩んでいる様子の彼女が描写されるのだけれど、何をどう悩んでいるのか。彼女は隠していた被害者の遺留品のバッグをイール氏の部屋に隠して、警察に通報する。イール氏が駅から部屋に戻るとアリスと刑事が待っていた。イール氏はアリスにはめられたわけだけれど、「君を恨んではいない。ただ死ぬほど切ないだけだ。」って言うんですね。隙を見て彼は屋根の上に逃げる。足を滑らせて落ちそうになって両手で宙にぶら下がるのだけれど、力尽きて落ちてしまう。イール氏の部屋の窓から冷ややかにその様子をアリスは見ている。(ここで映画はまだ終わらないのだけれど、落ちは最後に書きます。)まあ考えてみれば相当にひどい女なんだけれど、だって自分を愛していると告白し、疑われながらも自分を守ってくれようとし、どこかで惹かれてもいた男を自分の婚約者の身代わりに殺人犯に仕立てるわけだから。彼女にはそこに至っても彼が彼女をかばって真実は言わないという確信があったわけですね。精神的力関係で彼女の方が優位にあることを知っているしたたかさです。でもなんで彼女がイール氏を殺人犯に仕立てて、真犯人の婚約者エミールの方を選んだのか。それは彼女のエミールに対する愛からでもなければ、何がなんでも自分の共犯の罪から逃れようとしたのでもない気がする。純粋すぎるイール氏の愛は自分にとって負担だと感じたのではないだろうか。それでその愛を断ち切るためにイール氏をはめたように思える。まあそれはボクの勝手な解釈なのだけれど、最初に書いたようにどうも(1989年の)現代にそぐわない女性像のようで、現実的に想定できないんですね。『死刑台のエレベーター』(1957)とか『太陽がいっぱい』(1960)頃の映画か時代設定なら解るんですが。サスペンスをもっと中心に作られた映画ならばまだいいのですが、イール氏(とアリス)の愛を描いた作品としてみると、やっぱりどこか絵空事過ぎる感じを拭えませんでした。それで最後の落ちなんですが、イール氏は2人でスイスに逃げられると思っていたから、公園で発見した血のついたエミールのコートなどの遺留品と、アリスは殺人そのものには無関係だったことを告げる手紙を駅のコインロッカーに入れて、その鍵を担当刑事宛てに送っていた。だから結局エミールとアリスの犯罪はばれるというラストです。勧善懲悪というわけではないけれど、報いを受けるべき者は当然に報いを受けるという、この種の映画では必要な結末かも知れません。それは上記の2つの映画でもそうでした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.12
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HEAVENTom Tykwer寸評:本人以外が作り上げたキェシロフスキの世界。やや不十分な面もあるが、立派な出来。主演の2人もよい。好きな映画。キェシロフスキ監督は『トリコロール』三部作を終えた後「もう監督はしない」と言った。その後『デカローグ』のときと同じように「若い監督のために」とダンテの『神曲』に着想を得た新しい三部作『天国』『地獄』『煉獄』の脚本を共同脚本家のピェシェヴィッチと書き始め、未完のまま世を去った。もし死んでいなければ『デカローグ』のときと同じように完成した脚本に愛着が湧いて自分で監督したかも知れない。彼が嘘つきだと言うのではなく、表現者というのはそうしたものだ。その時の気持ちとしてはもう「監督はしたくない」というのは本心だったのだ。もし彼が生きていて、彼が最初に計画したように3人の若いヨーロッパの監督に撮らせるというような状況だったら、仮にその一人がティクヴァだったとして、ティクヴァはもっと自由に、そしてある種の重圧感なしに映画を作れただろう。キェシロフスキは単なる脚本家ではない。脚本を自分で書いて、それを監督して映画を作ってきた人だ。そして好みは別として高い評価も得ている。そんな監督の遺稿を監督するとき、ティクヴァにはキェシロフスキならどんな映画を作ったかなという問いもあったろうし、観客が期待するキェシロフスキの世界を考えないことも出来なかったと思う。そんな条件の下で、エピゴーネンに堕することなく、いい具合にキェシロフスキの世界を映画にしたティクヴァに拍手を贈りたい。イタリアに住むイギリス人フィリッパ(ケイト・ブランシェット)は英語教師だ。彼女の夫は麻薬のオーバードーズで死んだ。それに関係したのは夫の知人でもあった大企業の社長ヴェンディーチェ。彼のためにフィリッパの学校の生徒も麻薬の犠牲になっていた。フィリッパはこのヴェンディーチェを殺害しようとする。夫が死んだときフィリッパは離婚手続き中だったが、それは彼女の愛が醒めたからではない。麻薬にはまって生活の乱れた夫との結婚生活の継続ができなかったのだ。だから彼女にとって夫を奪い、また教え子までも犠牲にしているヴェンディーチェを憎んでいた。離婚係争中だった夫の復讐のためにヴェンディーチェを殺そうとするのはおかしい、とする感想を持つ観客もいるようだが、それは浅薄な解釈だ。愛し合っている夫を麻薬で奪ったのはヴェンディーチェなのだ。彼が2人の幸せを壊したことに変わりはない。彼女は警察にヴェンディーチェの捜査などを陳情したがことごとく無視されてきた。そこで周到に計画を練って自ら彼を亡き者にしようとする。高層ビルの彼のオフィスに時限爆弾をセットし、秘書には「駐車場の車のアラームが鳴っている」と電話をして爆弾を仕掛けたオフィスから避難させる。彼女の目的はヴェンディーチェだけを抹殺することであり、他の者に危害を加えたくはないのだ。しかし運命の偶然。爆弾をセットしたオフィスのゴミ箱は清掃係の女性に持ち去られ、同じエレベーターに乗った善良そうな父子3人と清掃婦の合わせて4名の無関係な人を殺してしまうことになる。目的のヴェンディーチェは無傷だ。彼女はテロリストとして逮捕されるが、尋問に立ち会った若い警官フィリッポ(ジャヴァンニ・リビシ)は彼女を逃がそうとする。(以下ネタバレ)フィリッパは計画が成功したと思っていたんだろうが、尋問の過程でヴェンディーチェは無事で、善良そうな父親と幼い子供2人、それと清掃婦を誤って殺してしまったことを知って失神してしまう。警察は実はヴェンディーチェと癒着していて、本部長は彼女の陳情とかの証拠もすべて抹消する。別にテロ捜査の係官も来てるのだけれど、こちらはもちろんテロ集団の解明をしたい。だからフィリッパがヴェンディーチェを狙ったなんていうのはないことにして、彼女をテロ犯として捜査を継続することで、ヴェンディーチェとの癒着を隠したい警察(本部長ら)とテロ捜査官の利害が一致しているわけだ。本部長は彼女がヴェンディーチェを狙ったのであってテロリストでないことを知っていると言ってもいい。この辺、警官がイタリアの制度では憲兵隊で軍服着てることもあって、無実を知りながらスパイ容疑で尋問するといったスターリン時代のポーランドの雰囲気と相通ずる。例えばブガイスキーの『尋問』なんかとつながる。無実だと知りつつ役目がら自白させようという制服の軍人。尋問される女主人公の毅然とした態度に尋問官のタデウシュは彼女に惚れてしまう。それでここではフィリッパは爆弾殺人に関しては無実ではないのだけれど、夫や教え子の復讐をしようとした純粋さ、そして無関係の4人を殺してしまったことを心から悔いる彼女の無垢な姿に恋をしてしまう。だいたい事実から言っても、本部長らはヴェンディーチェと癒着して甘い汁を吸っていて、結果としてフィリッパの夫だけでなく子供とかも多数死に至らしめていて、それを自分の権限で覆い隠しているわけだから、同じように人を殺しているわけで、なら人としてどっちが憎むべきかって言えばフィリッパよりも本部長の方。フィリッパの4人殺人は偶然の結果でしかない。キェシロフスキ的世界は、善は最初から善として存在するのではなく、悪こそ善を生む可能性のあるものだ。キリスト的世界とも言えるかも知れないが、人の弱さを否定しない考え方だ。そのためにもフィリッパを現世的弱い人物と描く必要がある。だから彼女に「愚かなことをたくさんしてきたし、一度は夫を裏切ったこともある」と語らせている。そういう過ちを経て、今彼女の魂は浄化されているのであり、天国へ入る資格を得たと言える。フィリッポの計画が成功してフィリッパはヴェンディーチェを撃ち殺し、2人はトスカナへと逃亡する。このとき警察署に配達に来た牛乳屋のトラックに隠れて脱出するのだが、これが牛乳屋であったことはキェシロフスキ・ピェシェヴィッチの原案小説にすでに書かれており、キェシロフスキが人々の日々の生活を象徴する牛乳がここでも使われているのは面白い。フィリッパの女友達がいると知ってか知らずか、2人はモンテプルチアーノに。女友達は最初「何てことしたのよ」と言ってひっぱたくが、直ぐに抱き合い、彼女は危険を犯して一夜の宿をも提供する。かつて憲兵隊本部長だった父に連絡して郊外のサン・ビアッジオ教会で会う。父親として息子に言いたいことはたくさんあるだろうが、とやかくは言わない。ただそれぞれに愛しているかを問うのみだ。父親は金を渡し、抱き合って永久の別れをし、静かに去る。もちろん映画の世界のことではあるが、女友達や父親の考え方は、フィリッパなりフィリッポなりの人生であり、止むに止まれない人生の事情で自ら選択した行動であり、とやかく責めたり止めたりするのではなくそれぞれの意志を尊重し、できる協力はするという友情や愛情だ。「人間は最も大切なとき何故無力なのだろう」という父親の言葉も重い。フィリッパとフィリッポの誕生日は同じ。フィリッポが生まれたのは1978年5月23日午前8時。その日をフィリッパはよく憶えていた。初聖体拝領で、白いドレスを着ていた。その日生まれたフィリッポとのウェディングドレスだったのかも知れない。偶然の一致。あるいは必然。2人は同じフィリップという名前の各国語男女名であり、最初から出会うべく出会って、一つであるべき2人だったのか。夕映えの美しい空の下の大きな木の下で初めて結ばれ一つとなる。キェシロフスキにとって、愛することの不在がこの世の地獄ならば、無私に他者を愛することこそが天国への扉だ。2人を捕らえるために来た警官隊のヘリコプターを奪った2人、フィリッポは操縦桿を引き、2人を乗せたヘリはどんどん上昇していき、やがて青い空に消える。映画冒頭でシミュレーターでフィリッポはヘリ操縦を習っているが、そこで語られたようにどこまでヘリは上昇できるのだろう。そんな散文的なことを考えるよりも、2人は天国へ旅立ったと捉えるべきだろう。ダンテの『神曲』自体が、魂の浄化と天国の物語でもある。最初にも書いたように、大監督の遺稿を死後監督する重圧は大きかっただろう。シンプルなピアノの音楽など『デカローグ』を思わせるものがある。キェシロフスキと比べてしまえば人物描写に不十分さ、またそのテンポの早過ぎるところもあるが、逆に冒頭のサスペンスタッチの描き方や、全体のカメラの動きなどキェシロフスキとは違った雰囲気もあり、上手くバランスを取って作られていると思う。本人以外が脚本のキェシロフスキの世界を実現した映画としては、不満がないわけではないが、かなり優れた出来だと思う。残る『煉獄』の原案は誰かによって映画化される可能性はあるのだろうか。結果的に失敗作となっても誰かに実現して欲しいものだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.11
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LA DOUBLE VIE DE VERONIQUEPODWOJNE ZYCIE WERONIKIKrzysztof Kieslowski(92min)那覇・桜坂劇場にて(& DVD)寸評:人によって好き嫌い、解釈は色々ある映画だろうが、自分にとっては最も好きな映画の1つ。危うくも微妙に完璧なバランスを保った作品。イレーヌ・ジャコブが魅力的。イングマール・ベルイマンは、ボクが映画好きになるキッカケの一つだったかも知れない。そのベルイマンとこのキェシロフスキ、年代(1918と1941生まれ)は違うし、育った環境も、作風も違う。キェシロフスキがウッチの映画学校に在籍していた60年代には、『第七の封印』(1956)は既に世に出ていたし、60年代に公開されたベルイマンの『鏡の中にある如く』『沈黙』『ペルソナ』等はキェシロフスキにとっては研究の対象だったろう。結果としての作風は違っているが、この2人の底に流れるものにある種の共通性を感じる。どちらも人間関係のドラマを描き、非現実、直感、神秘性がどこかにある。スウェーデンとポーランド、たぶん暗く寒い冬が人の目を内面に向けさせるということかも知れない。明るい太陽のイタリアのフェリーニ(パゾリーニやベルトルッチさえ含め)とは明らかに違う心性だ。2人の女性の同一性というとベルイマンの『ペルソナ』を思い浮かべるが、この『ふたりのベロニカ』は全く違う映画でありながら、こういうテーマに気がいくというのは、どこかにつながるものを感じる。『ペルソナ』は結果としてはああいう形而上学的映画にはなったけれど、これだってキッカケはビビとリヴが似ているということだった。物語は同じ日に生まれたポーランドのウェロニカとフランスのヴェロニック。互いに血縁など何の関係もないが、瓜二つで、歌の才能や金の指輪で眼の淵をなぞるクセなど共通性も多く、まるで同じ人物の2つの人格のよう。そう言えばウェロニカはピアノを勉強していたが、ピアノ科の大学入学資格試験に合格した日に、ドアに左薬指を挟まれてケガをし、ピアノを断念しなければならなくなった。指には傷跡が残っているが、その同じ指にヴェロニックはいつも指輪をはめている。そしてどちらももう一人の自分がいるような気がしている。ここまでは多少ネタバレでも書いてしまっていいと思うが、映画の最初30分くらいでポーランドのウェロニカは死んでしまう。残りの70分はフランスのヴェロニックの物語だが、ヴェロニックはウェロニカの失敗を教訓とするかのように、自分がどうすれば良いかを知っている。無理な高音の歌を歌ったために心臓発作で死んだウェロニカの教訓なのか、理由は解らないながらも歌をやめるべきだということは知っていて、まるでウェロニカに導かれるように歌手の道をあきらめ、病院で心臓の検診も受ける。ウェロニカとヴェロニックはどちらも幼く母を失い父に育てられるのだけれど、映画はタイトルロールの前に、まだ母の生きていた頃のクリスマス・イヴの夜、母親が幼い娘に語る会話で始まる。まずはポーランドのウェロニカ。彼女はたぶん母親に抱かれ、頭を後ろにのけぞらしていて、逆さに夜の星空を見ている。映画のカメラも夜の風景を上下逆にとらえている。画面の上が建物群、下が夜空だ。建物群には窓に明かりが点っていて、下の空はぼんやりしているので、あたかも街の明かりが夜空に輝く星々に見える。ここで世界を転倒させたのは、ウェロニカがヴェロニックと鏡像を成していることを表そうとしたのだと思う。次のフランスの幼いヴェロニック。幼いヴェロニックは一枚の木の葉を手にしている。そして母親が娘に喚起するのは「見てごらんなさい、葉脈を」なのだが、この葉脈という語はフランス語でveine。葉脈も意味するが、もともとの意味は静脈(血管)のことだ。気付かれてはいないが先天的心臓病を持った2人に対する暗示か?。母親は「やがて春になって若葉が茂り」とも言い、こちらは生命を象徴する言葉だ。逆さ向きに映されるウェロニカと正の向きに映されるヴェロニック、2人は鏡像の2人なのだが、ポーランドのウェロニカが逆さであることは、フランスのヴェロニックをメインと考えるための暗示であろうか。(以下少しネタバレ)この映画には特に美しい美しいシーンが3つある。ヴェロニックはクレルモン・フェランの自宅の椅子で昼寝をしているが、ケガの療養中か何かで退屈している向かいの若い男性が鏡で夕日を反射させて寝ているヴェロニックの顔にあて、それで彼女は目を覚ます。そして窓越しに男に気付く。しかし彼がすでに鏡のイタズラをやめた後、ほの暗い室内にまたちらちらと鏡の反射のような光があたる。彼女は窓から男が既にいないことを確認する。光は心臓の張りつめた糸を象徴する楽譜バインダーのヒモを照らす。さっき彼女が帰ってきたときにゴミ箱に捨ててしまった、手紙で送られてきたヒモを喚起するためだ。それに気付いてヴェロニックは天井の方へ視線をあげる。姿は見えないがそれは天のウェロニカが指示しているのだ。ヴェロニックが音楽教師として勤める学校で移動人形劇公演が行われ、公演をおこなったアレクサンドル・ファブリなる人物が色々な謎掛けの手紙やカセットテープをヴェロニックに送ってくる。その謎を解いたヴェロニックはパリに行き、謎解き通りにアレクサンドルを駅のカフェに見つけ、色々あった後2人はホテルの一室で愛し合う。そのときバッグの中に彼女がポーランドに観光旅行した折に彼女の撮った写真があって、それまで彼女は気付いていなかったが、アレクサンドルに指摘されて、その写真の中にポーランドの自分の分身ウェロニカが写っているのを知る。自分が一人ではなく、どこかに分身のような存在がいると感じていたヴェロニックは、言い様のない悲しみに襲われ涙するのだが、そのときにアレクサンドルが彼女を抱きしめるラブシーン。映画に撮られた肉体的愛のシーンとしては、ボクの知る限りでは最も美しいシーンだ。そして何よりも美しいシーンは、前半ポーランド編で、ポーランドのクラクフの中央広場で、ちょうど学生デモが行われ、警官隊などがいて騒然とした状況の中で、観光旅行中のフランスのヴェロニックをポーランドのウェロニカが遠くから見つけるシーン。なまじの映画を100本くらい持ってきてもこの数分のシーンの美しさには太刀打ちできないと思う。感覚的ことだから説明は難しいけれど、予感していたもう一人の自分をそこで実際に見、この瞬間にウェロニカは自分の生きている意味を感じて至福感を持ったのだ。自分の生の意味の確認といってもいい。全くの個人的余談だが、ボクが遥か昔この映画を最初にレンタルビデオで見たとき、キェシロフスキの名はまだ知らなかった。そして1日3時間睡眠という超睡眠不足的生活を当時送っていたボクは、この映画の再生を始めて間もなく寝入ってしまった。そしてほぼ最後まで寝続けてしまったのだが、3つのシーンだけが記憶に残っていたらしい。ただ何の映画のシーンであったのかも、『ふたりのベロニカ』という題名も忘れてしまっていた。そして何年もしてニュープリントを劇場公開で見たとき、まさに上の3つのシーンだけを記憶していた。明確な記憶として強く強く焼きつけられていた。寝入ってしまった最初の観賞後、他のことは、ウェロニカが歌手であったことも、それぞれの父親の存在も、人形劇のシーンも、何も記憶していなかったのに。(以下ネタバレ)いちおうストーリーらしきを書いておこう。ワルシャワに父と住むウェロニカにはアンテクという恋人がいて雨に降られて軒下で抱き合うなどのシーンもあるが、実のところ運命の人として愛してはいないようだ。彼を置いてクラクフの叔母さんの家に行ってしまう。そこで歌手として大抜擢されて、ブッデンマイヤーのカンタータを歌うことになるが、自分自身でも知らなかった先天的心臓異常のためにステージ上で発作を起こし死んでしまう。ちなみに心臓が悪くてブッデンマイヤーが歌えないというテーマは、『デカローグ 9』にも登場する。ちょうどその頃フランスのヴェロニックは久しぶりに会った男友達とベッドで抱き合っていたが、分身ウェロニカの死を感じとったのか、突然悲しみに襲われ涙を流す。彼女は理由はわからずに、でもただそうしなければいけないと知っていて、歌をやめると声楽教師のところに行き、また心臓専門科で診察を受ける。学校ではブッデンマイヤーの曲を生徒たちに教えている。人形芝居の移動公演をしに来たアレクサンドル・ファブリを運命の男性だと感じた彼女はウェロニカの導きや、アレクサンドルの著書、また彼が謎掛けとして送ってきた品々から彼の所在をつきとめ、パリで再会する。その直前、何故かワルシャワでのウェロニカがオーディションを受けたときにいた帽子の女が怪訝そうにヴェロニックを見ていた。アレクサンドルが自分のことを好きだと思っていた彼女はそれを否定され、彼から去ってホテルに泊まる。部屋番号はクラクフのウェロニカを訪ねてきたアンテクが泊まっていたのと同じ287号室。追ってきたアレクサンドル。和解し部屋で愛の一時。その後ヴェロニックはアレクサンドルの家で目を覚ますが、作業部屋でアレクサンドルが二つのベロニカ人形を作り、彼女にとって親密で大切な自分とウェロニカの物語を作品の題材にしたことを知って幻滅する。彼女は自分を再び見つめ直し、これからの人生を考えるべく、自分にとっての心の原点である父親の住む家を訪ねる。自分が生まれ育った原点としての「家」をイメージできないアメリカ人用の別バージョンでは、最後に父親と抱き合うらしい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.10
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LA FILLE SUR LE PONTPatrice Leconte寸評:自分にとってはヴァネッサ・パラディを見るためだけの映画。思うにこの監督、自分の「好み」はあっても「哲学」がないのでは?。思いつきだけをそれなりに映画としただけの作品?。ヴァネッサ・パラディを見るためにレンタルしたDVD。だから内容への期待はあまりなかった。見終わって感じたのは「あらっ?!」って印象。コントラストの強い濃いめの白黒画像は『ボーイ・ミーツ・ガール』の真似?(夜のセーヌの川面も写ってたし)。物語全体は『ポンヌフの恋人』の影響?(人生に目的がないか絶望した2人の橋で始まり橋で終わる物語)。主人公アデルのキャラクターは『エリザ』でクロティルド・クローが演じた脇役ソランジュの延長線?(男と見れば幸せを期待して接近して結局捨てられる)。あれまあ、これら3本ともこの映画と同じフェシュネールの製作だ・・。(追記:フェシュネール製作の3本って『ポンヌフの恋人』『エリザ』『橋の上の娘』のこと。そう言えば船上のダンスのシーンも『エリザ』を思い起こさせた。)ネタバレにならないことを最初に書いておけば、白黒映像はなるほど奇麗だけれど、そして作品の内容ともマッチはしているだろうが、ルコント監督が自分の表現として使い切れているかって言うと、どうも一見斬新風になっているだけ。一つの重要なショットを何回もパッパッパッと繰り返す編集などはウザイうるさい。うるさいと言えば音楽の趣味も使い方もあまり良くはない。まだ予告編しか見てないけれど、『ドゴラ』なんてのの音楽もウンザリしそう。この監督ってフランスの監督の中では日本で人気も知名度も高いけれど、自分の好みを思いつきで映画にするだけで、根本的に哲学もなければ、エンターテインに徹するのでもない、そんな監督なのではないだろうか?、という思いを更新した。でもパラディをこれだけ見せてくれたことには感謝しましょうか。この作品、まずヴァネッサ・パラディ演じる主人公アデル22才マイナス2ヶ月へのインタビューのようなもので始まる。あれは何なんだろう。「現代の若者に聞く」とでもいったテレビの公開収録なのだろうか、そんなもので始まる。画面はほぼパラディのアップで、ショットによって背後にアウトフォーカスで観衆のようなものが見える。髪がまだ長いからオートゥイユと出会う前なんだろう。親しげに優しく、さも理解を示すような口調で語りかけるありがちな女性パーソナリティの質問に答えて、自分の生い立ちから今の状況、自分の人生が思うようにいっていないことを、最後には涙を流して語るパラディ。両親と一緒に暮らす家を出るいいキッカケだったからある男についていき捨てられ、その後も色々な男の悩みを吸い取る掃除機のような自分で、自分は幸運には決して恵まれていない等と語り、将来を問われて涙を流す。これが8分くらい続く。次のシーンはセーヌにかかる橋から身投げしようとしているパラディで、自殺願望に至る彼女の思いをインタビューシーンで説明していると言えるか?。このシーンはパラディを見るにはいい(ありがとう、パトリス!)。でもこのシーンのドキュメンタリー風の作りは、残りの映画全体との整合性がない。この辺にこの監督が思いつきだけである種の斬新風な映画作りを真似ているだけなのでは、と感じてしまう。こういう作風で行くなら最後まで通して欲しかった。さもなくば最初からこんなシーンでパラディ演ずるアデルの心境を説明するべきではなかった。(以下ネタバレ)でセーヌにかかる橋の欄干の外に立つアデルは身投げをしようとしている。インタビューでも幸福でもなければ絶対的不幸でもないと語るアデルが自殺しようとする心理自体がよくわからない。生きることに無意味やつまらなさを感じてはいるのだろうけれど、決して絶望しているわけではないとボクには見えた。その彼女に(最後に明かされるように)やはり自殺を考えていたガボール(ダニエル・オートゥイユ)が声をかける。彼はサーカスのナイフ投げとしては有能なんだろう。40歳らしい。彼も絶望っていうのとはどこか違う。的(マト)となる女性を探していると言って、アデルに提案するけれど、彼女は川に飛び込む。彼も飛び込み彼女を助ける。救急車で病院に運ばれる2人。ああだ、こうだ、色々経緯はあるけれどアデルはガボールの的となって、2人はショー出演のためにモナコに向かう。そんな間もアデルは今までのように男を見つけてはつかの間の愛を求める。彼女が求めているのは本当に愛し合える男なんだろうけれど、その理想の男を求めて失敗するこれまでの彼女を続けるのみ。まあドン・ジョバンニの女版と言ってもよかろうか。モナコのショーの楽屋裏。ガボールはかつてのマト(?)、愛人(?)のイレーヌと再会する。彼女はガボールがいなくなって、最初はずっと彼を探したらしい。お互いに、特にイレーヌはガボールを理解しているらしい風に描かれるけれど、どうもこの辺も何が何だかよくわからない。思わせぶりなだけ。ステージで的(マト)のアデルに布のカーテンを被せてのナイフ投げ。実際にナイフ投げというのがどういうものなのかは知らないけれど、橋の上でガボールが語ったように、人生に絶望していて、何の未練もなく自分を投げ出せる者でなければマトにはならないらしい。そんなマト女との交感がガボールにとってのナイフ投げらしい。自分の身を彼に差し出したマト女と、その女に向けてナイフを投げる自分との究極の愛の行為。この後また色々ありながらイタリアに向かい、と2人はショーを続けていく。途中でアデルはまたカフェの男と一時の情事をするが、自分の求めている愛はガボールだっていうことに気付いて、彼女は求め、鉄道線路脇の小屋でガボールにナイフを投げてもらう。生命を含めて自分を全的に男に差出し、それに答えるナイフ投げの男。このシーンは究極のセックスシーンといってもいい。1本1本のナイフが彼女の身体をかすめるように投げられ、音をたてて後ろのボードに突き刺さっていく。それに究極の官能的陶酔を感じるアデル。実はここに既にアデルとガボールの究極の愛は成立している。だからガボールが普通にナイフ抜きでアデルを愛することが出来れば2人の愛は成就してハッピーエンドとなるはず。アデルの求めているのはそれだ。しかしガボールは、最初の橋の上でも「マトの女とは寝ない」と言ったように、普通に女としてのアデルを愛しはしない。ナイフ投げによる究極の愛の表現(確認)は理解できるけれど、何故にガボールが普通に女を愛せないのか、その理由が明確にはなってこない。セーヌに飛び込んだ後に救急隊員にガボールは「(水中無呼吸?)3分42秒のヨーロッパ記録を自分は持っている」と言うけれど、ナイフ投げもそうで、彼のプライドはそういう自分の能力や技にあるからなのだろうか。だから映画の最後にぼろぼろズタズタとなって初めてアデルの愛を普通に受け入れることが出来るようになるのか。そんなことなのだろうがはっきりとは描かれてない。ラストを上に書いてしまったが、そんな彼なので、アデルは客船上で新婚のギリシア男性タキスと恋に落ち、ボートを下ろしてもらって2人は駆け落ちをする。しかし結局これもまた一時の情事に過ぎず、ギリシアに着いた彼女はお払い箱。一方のガボールはアデルを失い、アデルと駆け落ちして去ったタキスに捨てられ絶望している新婚のイタリア人妻をマトにしてショーを行うが、アデルの影がちらついてマトの捨てられ新婦の脚にナイフを刺してしまう。ガボールがアデルを愛しているという確認と解釈すればいいのだろう。船はトルコに着き、彼はイスタンブールへ。ナイフ投げを試みるが、アデルというマト無しには上手く投げられない。アデルらしき姿を見て彼はある女を追いかけ、車に撥ねられるが、女は別人だった。身も心もボロボロになって今度こそ身投げしようとするガボールに声をかけたのはアデルだった。2人は抱き合い愛を確認し合うのがラスト。そういうわけでこの映画、色々想像はできるけれど、人物のWHYが何も浮かんでこない。物語はごくありふれて単純で、互いに愛し合える、そして愛している2人がいて、でも何らかの(ここではガボールの思い)理由で2人の関係は成就しなくて別れてしまい、結局色々あって最後に再会して愛を確認するというもの。ヴァネッサをたくさん見せてくれたことと、ナイフ投げを愛の交感として上手く描いたこと、この2つが評価できるだけで、内容的には月並み、平凡、描き足らず。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.09
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EN FACEMathias Ledoux寸評:クロチルド・クローのファンなので見た。良く出来た土曜サスペンスドラマか。映画としては・・・(?)。物語の基本構成はよく出来ているんですが、詰めが足りないというか、このままでは良く出来たテレビドラマ程度でしょうか。この監督さん、テレビでたくさん仕事をしていて、これが劇場用映画初監督作品らしいんですが、もう少し頑張って欲しかった。作品がサスペンスものなので、ネタバレ・タネ明かしは最後の方に書こうと思います。なんとか小説第一作の出版はでき、評判も悪くはなかったが、次作がなかなか書けないでいるジャン・ドルセ(ジャン=ユーグ・アングラード)は、妻ミッシェル(クロチルド・クロー)とパリ・モンマルトルの安アパルトマンに、結婚(あるいはつき合って)7年ながらまだまだラブラブの生活を送っている。ミッシェルは花屋で働き、ジャンは何かのバイトを夜しているらしいけれど、家賃も滞納といった状況。そんなある日某公証人から出頭の知らせを受け、二人が行ってみると見ず知らずのジャン=ユーグ・ギメ氏からの遺贈の話。彼らの住む向かいの大豪邸の持ち主で死んだ富豪ギメ氏が「若さと愛への贈り物として」家・家財をドルセ夫妻に贈るという遺言の執行というわけだ。条件は2つ。一つは書斎の書類等の保管と10年間は売却できないという条件、二番目は15年間ギメ氏の世話をしてきた女性クレマンスを使い続けるという条件。パリのほとんどの地区は高さが決められた5階程度のアパルトマンで、高級であっても集合住宅だ。一軒家の屋敷は数も限られ、多くはモンマルトルにある。でも価格は5億円とかする。そんな法外な遺贈の申し出なわけだけれど、妻ミッシェルは乗り気ではない。躊躇を示す。だが夫ジャンが喜んで乗り気、これでゆっくり小説の執筆もできると言う。そんな彼の言葉にミッシェルもこの話を受けることにする。彼女の夫への最大の愛は、夫に作品を書いてもらい、それが成功することなのだ。二人は移り住むが、クレマンスに世話される生活、部屋が20室もある古くさい家での生活に最初な馴染めない。しかもこのクレマンス嬢(クリスティーヌ・ボワッソン)の行動・態度が気味悪い。クレマンスは一体何者なのか、何故見ず知らずのギメ氏が自分たちに財産を遺贈したのか、本当にミッシェルはギメ氏を知らないのか。そんな疑惑を感じながら、ジャンはギメ氏の書斎の書類・手紙・写真などを探り、この老人の物語を小説のテーマにし、ギメ氏のかつての愛人に話をきいたりしながら、秘密を追求していく。そしてそれと平行して思わぬ事態が彼らの身に起こっていく。この映画、ヒッチコックへのオマージュで、各所に『裏窓』や『レベッカ』などからの引用が見られる。それはそれとして、物語の主人公はジャンとミッシェルで、重要な人物としてクレマンスとギメ氏のかつての愛人「赤いドレスの女」と、死者だから姿は登場しないギメ氏がいる。物語はサスペンスでジャンの疑惑を中心に進んでいくわけだが、その疑惑の中心である妻ミッシェルの思いが十分に描けていない。また物語を進める重要な要素となっているクレマンスの思いもはっきりしない。この物語のお膳立てをしたギメ氏についてもあまり実像が浮かび上がってこない。物語の筋立て自体はよく出来ているだけに残念です。何かすべてが少しずつ描かれているだけと言った感じで、だから土曜サスペンスドラマ程度かな、ってとこなのだ。ネタバレせずに書けるのはこの程度で、以下は完全ネタバレです。(以下完全ネタバレ)この作品の原題は"EN FACE"でまあ「向かい」といった意味でしょう。ビデオ化の際に「裏窓の女」がついたようですが、もともとの邦題は『甘い嘘』。この題名が示すようにミッシェルが嘘をついていたことが最後に向けて明かされていく。この嘘がジャンを愛する故の嘘だということで「甘い」嘘なんでしょう。ただ捉えようによってはこの「甘い」は「浅はかな」とも解釈できます。ストーリーは次のようなものだ。ギメ氏の母はロシアの没落貴族で、フランス人男性に恋をして夫を捨ててフランスに男を追いかけてきた。でもやがて男に捨てられ、売春をして生計を維持したが、ギメ氏7才の時に梅毒で死に、彼は孤児となった。しかし時代に上手くのって12年後には金持ちになった。まずエドヴィージュと結婚したが、1年後には捨てる。彼女は自殺。それから次から次へと裕福な女を愛人にしては、女が惚れると捨てるということを、母への恨みからなのか、繰り返す。たぶん愛などというものの存在を信じないことで彼は自我を保ってきたのだろう。そんな彼は15年前半身不随となり、クレマンスに世話をさせながらこの屋敷に住んでいた。そしてクレマンスはたぶん特別な感情をギメ氏に対して持つようになった。3年前に向かいのアパルトマンに死んだ妻エドヴィージュと瓜二つのミッシェルが越してきた。ギメ氏は望遠レンズを付けたカメラでミッシェルの入浴や着替え、愛の行為を盗撮していた。その頃ジャンは初めての小説『黒い空』を完成しながら出版を受け付けてもらえなかった。そんな彼は車を飛ばして自爆し、自殺を試みた。ジャンが入院した日、ミッシェルは夫の小説の出版とひきかえに、出版社のオーナーのアンリに体を許した。事情を知らずにその様子をギメ氏は写真に撮っていた。彼にとっては妻エドヴィージュと瓜二つで恐らく惹かれてもいた女が、夫への愛を裏切る行為だったのだ。ギメ氏は彼女を屋敷に呼びつけるが、彼女は苦しんでいる夫への愛から出版社オーナーと寝たこと、またそれを後悔していないし、ジャンにも決して言わないと語る。そして最後に「愛は存在するのよ」とも。(この様子はたぶんクレマンスによってビデオに収められていて、消去しそこなった乱れた画像・音声としてテープに記録されていおり、ミッシェルに惹かれてもいるジャンの友人の弁護士ユゴーが特殊な再生法で再生し、映画ラストに向けて事実が観客に明かされる。)愛は存在すると言ったミッシェル。そんな彼女に接して、半身不随ながら75才にしてまだまだ健康だったギメ氏は生命を賭けての最後の復讐、ないし愛を否定した自分の人生の正しさを証明するために、その相手はかつての愛人だった赤いドレスの女だが、一計を案じる。まずジャンとミッシェルのカップルに家を遺贈し、必要な書類や写真やビデオ等が二人(特にジャン)の目に触れるようにし、ジャンがミッシェルを疑い始めるようなお膳立てを整える。そして自分をミッシェルに同化して実際には得られないギメ氏やジャンの愛を得ようというクレマンスを上手く使って、二人が彼女を殺し、二人の愛も壊れる。そんなストーリーの実現によって愛の不在を証明しようとした。この死人の策略に二人ははまっていく。最後にミッシェルはクレマンスに銃を向けられて格闘の結果彼女を撃ってしまう。外は警官隊に包囲される中でジャンはミッシェルに誰と寝たのかを迫るが、彼女は決して真実を答えない。しかしミッシェルの「愛してる」という言葉に「まさか出版社のアンリ?」と気付き、すべてを理解したジャンは窓から飛び下りようとするが、優しく「ジャン」とミッシェルに声をかけられ、手を後ろに伸ばして彼女を招く。二人は見つめ合い、微笑みあって、屋根の上へと向かう。フラッシュバックで過去の2人の楽しかった愛の思い出が走馬灯のように流れ、音楽は冒頭の愛のシーンと同じ優しい音楽が流される。ビデオの解読を終えて現場に車で駆け付けていた友人ユゴーは、屋根に登った2人を知ってか、車で何処かへ走り去る。事件がどう推移したかは示されず、屋敷で赤いドレスの女が手紙を読んでいる。ことが予想通りに行ったら送られるようになっていた生前のギメ氏の手紙だ。そこには計画の内容が書かれ、自分の死が実は自殺であることも書かれており、最後は「愛は永遠に死んだのだ」と結ばれていた。読み終えた赤いドレスの女は「あなたの負け」ともらし、窓から見える向かいのアパルトマンの窓には愛し合う若い男女が見えるのだった。ラストの解釈は観客に委ねられている。二人が心中したと考えることもできるし、二人は愛を確認して合って死ななかったとも解釈は出来ないこともない。どうなったかの結末は描かれないし、友人ユゴーが急いで車をどこかに走らせたことも伏線と捉えられなくもない。赤いマントの女には「あなたの負け」と言わせているし、いちばんハッピーなエンドを期待する観客は、ラストで向かいの部屋で仲睦まじくしているカップルがジャンとミッシェルだと解釈すれば良いわけだ。以上のネタバレ記述を読んで、なかなか良く出来た映画じゃないか、と思われる方もいるかも知れない。しかしこれは観客であるボクの補足を交えた理解だ。実際には、それぞれの人物は描き切れていない。冒頭からミッシェルはジャンに秘密を持っているわけだが、彼女の愛のための選択、つまりジャンの幸せを、そして二人の幸せを願って出版社オーナーに体を許し、またギメ氏との一件もありながら、その秘密を守っていた彼女は途中十分には描かれていない。クレマンスの思いもそうだ。この物語の仕掛人であるギメ氏の心情すら、最後の手紙をしても浮かび上がってこない。赤いドレスの女が読むギメ氏の手紙はギメ氏の声で朗読されるが、文面自体も単なるタネ明かしをしているだけでわざとらしいし、これだけのことを自分で生命を絶ってまでした人物のものには聞こえない。そして映画は赤いドレスの女がギメ氏の葬儀に向かうシーンで始まり、この手紙のシーンで終わるわけで、途中ビデオに少しだけ後ろ姿が写っている以外は登場しないギメ氏、そして最後にはジャン・ミッシェルのカップルもやはり登場しないわけで、この赤いドレスの存在が映画全体の枠になっているが、その人物の描かれ方がなんとも浅薄過ぎた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.08
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LA DOLCE VITAFederico Fellini寸評:やはり名作。全然別のタイプの映画だけれど、結局のところ1960年頃の時代、特にイタリアでの精神風土を反映したものとしてアントニオーニ等ともつながると今回感じた。ぽろっと入ったBOOK-OFFに安い中古DVDがあったので買いました。見るのは何回目か。でももう10年以上見ていない。ここのところアントニオーニの60年代の作品を見返しているせいだろうか、表現はまったく違うが、相通じる時代の心性のようなものを感じた。冒頭のヘリコプターのシーンで、ヘリ上のマルチェッロとビルの屋上で日光浴をする水着の女性たちとの会話は、エンジン音がうるさくて通じない。そして最後の海辺のシーンでは少女とマルチェッロは潮で超えられない位置に隔てられ、やはり周囲の音で会話も通じない。相互交流あるいは理解、コミュニケーションの不可能性が表現されている。また作中でスタイナーは「秩序ある社会に守ってもらう生活、予測通りに進む生活」に憧れ、「家に閉じこもっても救いはない」「未来は明るいというが、見方によっては電話一本ですべてが終わるかも」「見かけは平和でも裏には地獄がある」等と語り、絶望している。アントニオーニの描いた心性と同じではないか。ただ例えば『赤い砂漠』のジュリアナは精神不安定、精神錯乱として描かれるのに対して、マルチェッロは救いを捨てて享楽的世界に逃避する。この作品には筋といった筋はない。マルチェッロは登場人物として描かれる主人公でもあるが、同時にそれぞれの場面は独立したスケッチで、そこに我々を立ち会わせてくれる案内人でもある。新聞記者という職業がそれを象徴している。(以下ネタバレもあり)この作品は公開当時イタリアでは宗教界、上流社会などからの批判が強かった。スペインでは公序良俗に反するという理由で20年間も公開禁止だった。それほどにカトリック教会、ないし信仰についての批判が表現されている。フェリーニ自身は批判はしながらも、カトリックに対する信仰とは言わないまでも憧れはあったようだ。しかし現状に対する冷たい目だ。だからヘリに吊るしてキリスト像を運び、グラマー女優には聖職者の衣装を着せ、またエセ奇跡に熱狂する盲信の人々を皮肉たっぷりに描いている。しかしスタイナーの求めるような救いを、教会は人々の精神にもたらしてはくれないのだ。恋人エンマはマルチェッロと結婚しての平穏な家庭に憧れ、マルチェッロに付きまとうのだが、彼女の理想を支える根拠はマルチェッロにとっては薄弱だ。彼女はスタイナーの家庭を理想として見たが、そのスタイナーは根拠のない世界や人生に不安を感じて自殺をしてしまう。決して心の平安のある家庭生活ではなかったということだ。大金持ちで何でもしようと思えばできるはずのマッダレーナ。しかしその彼女も無為を持て余しているだけだ。田舎からマルチェッロの父がローマを訪れる。キャバレーで羽目を外すけれども、踊り子の家に行った彼は心臓発作か何かで倒れ、椅子に座って窓から夜のローマを寂しく眺める。もちろん事態としては高齢で飲み過ぎ、いい気になったからではあるのだけれど、再三彼が昔のことを話すように、昔は楽しむことも出来たが、今は楽しみすら空虚で実体がないことの比喩のようにも感じられる。ニコことクリスタ・ペフゲンが出演していて、ちょい役ではあるけれどやはり存在感、ある種のオーラを感じました。彼女の麻薬にはまっていく後の(実)人生を考えると、この映画が描く精神風土の一つの帰結のようにも感じられれてきます。乱痴気騒ぎの後の浜辺。死んで、腐敗して悪臭を放つ異様な魚が水揚げされる。その怪物的で腐った姿はマルチェッロらの姿そのものでしかない。救いの可能性である無垢の天使である少女とのコミュニケーションも結局は成り立たない。その彼女がマルチェッロあるいは映画の観客を見つめる映像で映画の幕は閉じられる。時代は1960年のイタリアではあるけれど、そしてヨーロッパ世界としては、特にフランスでは1968年の5月革命の試みと挫折とその結果からの現在へのつながりだとは思うが、今の日本の状況を見ていても、この『甘い生活』で描かれたような根拠と目的を持たない世界や人生の問題を人々は解決したのだろうか。この映画、ある意味で今の日本の状況を見ているようにも感じられた。(上左の絵はペルージャのコレッジョ・デル・カンビオにあるペルジーノの作品)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.07
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MAX MON AMOURNagisa Oshima寸評:人間ではない猿を不倫相手(?)にしたことで浮き上がってくる人間の社会や愛のあり方への疑問。シャーロット・ランプリングとマックス(猿)の純愛が美しい。大島渚という監督さんは、評価はしつつも、感性がちょっと違う感じがあって、でなかなか見ない自分で、この20年前の作品もかなり以前からビデオは持っていたものの、今回やっと見ました。いやぁ感動です。シャーロット・ランプリングと猿の純愛、美しいです。製作がセルジュ・シルベルマン、共同脚本家がジャン=クロード・カリエールで、これはブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』や『自由の幻想』と同じで(撮影はラウール・クタールでエドモン・リシャールではありませんが)、ブニュエルの作品と雰囲気は似ています。フランスのブルジョワの人間や社会や家具調度をしっかりとした重厚な背景にして、ちょっとエキセントリックな物語が展開するという辺りです。駐フランス英国大使館員ピーター・ジョーンズのフランス人妻マーガレット(マルグリット)がチンパンジーのマックスと不倫(?)関係になる物語ですが、これが人間の愛人であったなら話はある意味単純で、それによる人間関係のドラマを描いたような作品は沢山あります。それを猿とすることで、人間の社会や愛や不倫に対する根本的な疑問が見えてくるというわけです。(以下ネタバレ)マーガレットは英国大使館員ピーター(アンソニー・ヒギンズ)の妻で、10才くらいの息子ネルソンがいて、夫は実は秘書かなんかのカミーユと不倫していたりするんですが、それでも息子を含めて円満な家族。最後まで夫婦仲自体は悪いって感じはありませんね。そのマーガレットはある日友人と動物園に行って1匹(1人)のチンパンジーと相互的に一目惚れの純愛に陥る。彼女はその猿を買い取って、アパルトマンを借りてそこに住わせ(飼い?)、毎日その部屋に通って午後の一時、愛の時間を持つ。夫は彼女の行動に不審を感じて興信所に調査を依頼する。まずここでこのピーターの、社会的に容認されている面もある男の身勝手さが表現される。自分はカミーユと不倫関係ありながら、妻の不貞は許せないんですね。探偵は彼女が毎日通っている部屋はつきとめたものの、猿は一度も外出しないから、相手はわからない。合鍵を作らせて夫ピーターが見たものは、ベッドの裸の妻と1匹の大きなチンパンジーだった。最初はシーツ被っていて猿だとはわからないから男に「服を着なさい。冷静に話をしよう。」なんて言ってるのも笑えます。激怒して取り乱すのでなくって、実は自分の方が優位にあるのに、着衣の自分に対して全裸の間男に同じ着衣の対等の立場を恵んでやるというような、まあ大人のやり方でしょうか。この辺にもある種の皮肉も感じます。猿と妻の不貞。ピーターには信じられない部分もある。本当に不貞なのか、それともペットを可愛がる延長線上にあるのか。相手が人間だったらそうはならないんでしょうが、相手は猿なんで、家に一緒に飼う(住む)ことを妻に提案して、妻も同意する。夫は疑惑と嫉妬があるからなかなか馴染めない部分もあるんですが、息子ネルソンはすぐ仲良くなる。このマックス、猿ではあるけれども、かなり異質な人間の象徴とも捉えられる。ブルジョワ社会にとっての異質なもの。異人種や異教徒や階級違いの(ここで言えば低身分の)人でもいい。そう言えばこの映画の約10年後のダイアナ妃の事故死についても、彼女が異教徒のエジプト人の子供を妊娠していたということで、英国情報局の暗殺説があったりするわけですね。そんな意味で、子供は社会的約束事に発想が縛られていないから、いい人(猿)なら、それだけで偏見なく仲良くなれる。でもブルジョワ社会のただ中の人々にはそうは行かないんですね。最後に車のルーフキャリアーの上のマックスと箱乗りのマーガレットがパリの街の中を走るシーンで描かれるのも、庶民の目は2人に好意的に描かれている。だから根底はブルジョワ道徳の批判なのかも知れません。ピーターはマックスがペットなのか、それとも肉体関係をも伴った真の意味での愛人なのか、それが知りたくて妻の不在の折に街娼を部屋に連れてきてマックスと関係させてみようとする。ここで娼婦はマックス好みでなかったのか拒絶されるわけですが、もともと相手選ばず関係をするのが商売の娼婦、つまり貴族であれ労働者であれ、お金を払ってくれれば同じ男として愛の相手をするのが娼婦ですから、相手が猿だからって同じ男として偏見ないんですね。ここで笑ったのは娼婦が近付こうとしても尻込みするマックスにリンゴを差し出して「リンゴで男を誘惑するなんて初めて」っていう彼女のセリフ。肉欲的愛の原型であるアダムとイヴの物語への暗示ですね。そう言えば動物学者ってのが登場しますが、その描かれ方も皮肉たっぷりですね。彼女と猿の部屋にマイクを仕掛けて、同意してもらえばカメラも設置して、そうすれば「ベストセラー間違いなし」なんて言います。研究のための研究なのか、名声や金のための研究なのやら。だいたいどうして猿の生態を研究して「楽しむ」ことが人間には許されるのでしょうね?。ピーターは段々精神的に追いつめられていく。人間の愛人と同じ意味の関係であるのかどうか、つまりセックスをしているのかどうか、知りたくてもそれが解らないわけです。でも嫉妬の対象であるマックスがいることは確か。「服を着ろ」云々のことともつながるけれど、決して人間と人間として対等に向き合うことの出来ない相手でもある。一方では妻にも言われるように、殺したければ撃ち殺すこともできる。人間ではないから何の罪にもならずに不倫相手を抹殺できる。もっとも妻との精神的関係は終わってしまうでしょうが。ここで感じるのは夫婦という社会的制度にしても、結婚していないカップルの場合にしても、既にある愛情関係の相手が誰か、あるいは何か(物でも)を好きになってしまった場合って、それって何なのかって問題です。一方では『愛のコリーダ』的世界もあるわけですが、それは日常から離れた隔離的世界でもある。自分自身経験したこともあることですが、愛の関係を純粋化しようとしても日常の中では決してできない。どっぷり、そうデュラス的な狂気のような愛のただ中だけに生きることは普通できない。どんなに二人抱き合っているだけで充足した愛の状況であっても、お腹も空けば、トイレにも行きたくなる。そしてもっと日常的なことで言えば、たとえ2人がともに好きな映画を一緒に見ていたとしても、その映画を楽しむ1人の男と、その映画を楽しむ1人の女が、一緒にいるだけなんですね。妻が女友達と仲良くしていれば、そこに夫は入り込めない。夫が何かの趣味に没頭していれば、そこには妻は存在しないわけです。日常に於ける相互独占的愛の常時接続は不可能だということです。ならば女友達や趣味を延長していったら、それが夫や妻以外の別の異性への愛でも同じことではないんでしょうか。そんな疑問が浮かび上がってきます。そしてこの映画的には、相手を猿としたからこそその辺を描くのが可能だったんですね。ある日ピーターが家に帰るとマックスのいる檻になった部屋で妻と息子が食卓に着いて仲睦まじく夕食をとっている。檻には鍵がかけてあって夫は入れない。逆上した夫はライフルを持ち出してマックスを撃ち殺そうとする。マーガレットは身を呈してマックスを守ろうとする。銃声で通報されて警察が駆け付けてピーターは逮捕される。彼が外交特権を持った外交官であることがわかって留置所から出されようとするんですが、自分は捕まったことに値すると言って釈放を拒否する。相手は猿ではあったけれど、人間の愛人を殺そうとしたのと同じことをしてしまった(つまりは殺人未遂)という思いでしょうか。妻の愛するものを抹殺しようとしたことは事実であるという思いでしょうか。マーガレットの母親が転んでケガをして、郊外の高級療養施設に入院した。マーガレットは病院に付き添いに行って何日も家を不在にする。するとマックスは寂しさから食事も喉を通らなくなってしまい、段々衰弱していく。その純粋な姿にピーターもほだされていく。純愛の美しさを理解したとでもいうように。高級食料品店フォションで熱帯産の果物を買ってきて食べさせようとするけれどマックスは見向きもしない。病院の彼女に電話をしてマックスと話させると、マーガレットは歌を歌い、マックスはうっとりと寂しそうにその歌声に聴きいっている。英国女王来仏での重要な仕事もそっちのけでピーターはマックスを連れて息子ネルソンと郊外の病院へ向かう。再会を喜び合うマーガレットとマックス。マックスとネルソンを連れて車で森の中にドライブに行った母親が車外にマックスを出すと、自然を喜んだマックスはいなくなってしまう。夫婦はマックスを探し回るがみつからない。マーガレットは「マックスは今まで自由も、自由の意味も知らなかった」と。翌日家族3人がパリに車で戻るのだけれど、いつの間にかマックスが木から車のルーフキャリアーに飛び乗っていた。自由選択のできる状況でマックスはマーガレットの愛を選択したという意味だろうか。パリに戻り凱旋門前のシャンゼリゼを凱旋するのは屋根の上のマックスと箱乗りになってマックスと抱き合うマーガレットの姿だ。マックスとマーガレットの純愛は美しく、感動的です。散文的に捉えてこれが獣姦だなんだというような物語ではありません。大島監督は「人間以外なら何でもよかった」とか言っているようですが、上に色々書いたように相手が人間でなかったから色々なことが描けたわけです。さすがにシャーロット・ランプリング、猿相手の純愛を実に美しく表現していました。ピーター役のアンソニー・ヒギンズも、ネルソン役のクリストファー・ホビックも難しい役を好演です。愛すべき一編です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.06
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THE KINGJames Marsh(105min)那覇・桜坂劇場にて寸評:見始めてしばらくすると最後がおおよそ想像がついて退屈した。あとはリアリティーの薄い人物たちを見ながら、このわざとらしい物語が実際にどう進み終わるかを確認するのみ。ある程度の話題作らしいし、ガエル・ガルシア・ベルナルなるメキシコ出身の俳優が一部でかなり人気らしいので、S劇場月曜の会員割引デーなので見に行った。監督が米国ではなく英国出身ということで少し期待もありましたが、寸評に書いたような印象で映画としては大したことはなかった。物語は作為的で、深みもほとんどない。ガエル・ガルシア・ベルナルは中々いい俳優のようだが、この映画では平凡な演技。もっと上等な監督の演出で見てみたい。好みとしては牧師の妻役のローラ・ハーリングが良かった。あと音楽を活かすのではなく、音楽に頼る映画作りの音楽は、少しうるさかった。テキサスの町コーブス・クリスティ。バプティスト教会の牧師デビッド(ウィリアム・ハート)は、妻トゥワイラ、息子ポール18歳(?)、娘マレリー16歳と4人、裕福で平穏、幸せな家庭を築いている。20年以上昔にデビッドが金で関係したメキシコ女性との間の息子エルビス21歳は、海軍を退役し、父を訪れる。自分の過去の過ち(過ちと本当に思っているのかさえ実は疑問)の産物であり、現在の平穏な生活を危うくするものとして、デビッドはこの息子を拒絶する。こんな人物が牧師なんてのをやっていて人々を導いているんですから、「聖書、聖書」「神、神」なんて言っていながら、ボクの感覚からすればキリスト教の理念からはほど遠い、もの凄くいい加減な宗教。ようするに魂の救済であるよりも、アメリカ南部白人の常識的社会に安住するための、現世的護国宗教ですね。やがてエルビスは娘マレリーを誘惑して腹違いの兄妹という近親相姦に至るわけだけれど、ビラなんかの解説にあるように妹と知って誘惑するのは確かだけれど、彼が最初にマレリーに惹かれるのは妹と知る前であったことが描かれているのは見落とすべきではないと思う。(以下ネタバレ)この辺まで観てくると、エルビスのもっているライフルやら、狩にデビッド親子が使っている弓やらが執拗に映されるから、きっとこの家族崩壊の物語は皆殺しの方向へ向かうんだろうなって想像ができる。ところで物語の進行で重要な要素となっているのはマレリー。兄妹であることを知らずに誘惑されるわけだけれど、やがて反対する兄ポールをエルビスが殺してしまったことを知って、それでも彼女はエルビスとの関係を続ける。そしてもともと実の兄であるかどうかを別にしても、権威的な父親との問題がある。そういうかなり微妙な状況に置かれたマレリーなんだけれど、それにしてはまあ何ともサラリと描かれちゃっている。まったくリアリティーのカケラもありませんね。16歳だとはいえ、いや16歳だからこそもっと葛藤があるはずですね。それなのに彼女が授業中に退席してトイレで妊娠検査薬を使うシーンはしっかり描写する。実にエゲツナイですね。便器に太ももむき出しにして座って放尿する場面を写す必要はないです。お品が悪すぎ。興味本位です。陽性反応の出た妊娠検査薬を彼女が見つめるだけでこと足りますね。むしろその方が妊娠を知っての彼女の心理を描けます。牧師デビッドも現実感が希薄。彼がいかに自己本位であるかだけは演技ではなく、散文的事実からはわかります。ポールが行方不明になって悩み、でもそれは神の思し召しと合理化して、今度は過去の罪の懺悔と正当化し、ポールに代わる二番手の息子としてエルビスを受け入れる。なんか本当に自己本位でいい加減なわけだけれど、この辺の彼の彼なりの心理的葛藤と移行は全く伝わってきません。まあちょっと良かったのが妻トゥワイラで、役者ローラ・ハーリングがそれなりの役作りをものにしていた結果でしょうか。ガーデニングの会話なんて良かったですね。でももっともっと描いて欲しかった。基本ストーリーはこのままでいいから、この家族にエルビスが闖入してきて、それで欺瞞の上に成り立っていた家族の平穏が崩れていく心理関係が深く描かれていたらきっと面白い作品になっていたと思います。(参考採点40点)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.05
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L'ENFANTJean-Pierre et Luc Dardenne2005年第58回カンヌ映画祭パルムドール受賞作寸評:議論はあるがかなり良い映画。けっこう好きです。この映画、カンヌでパルムドールを受賞したように、どちらかと言えば批評家受けが良かったようです。映画評には、映画作法・演技・音楽・物語・・と多面があって、観客の評価は最後の物語を中心とする場合が多いですが、主人公ブリュノがあまりに子供で身勝手で、それへの批判が観客の評価の低さになっていると感じます。批評家的な評価という意味ではなく、ボクにとっては、好き嫌いとして好きな映画でした。生まれたばかりの自分の子供を売ってしまうというのは、センセーショナルな感じもありますが、実はこの映画の中では一つの契機、つまり物語を動かす原動力のようなもので、サブテーマとしての父性・母性の問題を別にすれば、あまり重大視する必要はないと思います。他の別の何かでも良いということです。(以下ネタバレ)物語:舞台はベルギー・リエージュ郊外の労働者都市スラン。20歳のブリュノは中学生を使ってカッパラったものを売ったお金でその日暮らし。同棲中の18歳の彼女ソニアが出産で入院中には勝手にアパートを短期賃貸ししていて、新生児を抱いて戻ってきたソニアも自分の家に入れない始末。夜は結局2人で簡易宿泊所へ。ブリュノはカッパライで儲けた金でお揃いのジャンパーをソニアに買い、乳母車を買い、車を借りて2人でドライブ。子供のように楽しそうにはしゃぐ2人。ソニアの求めでブリュノは快く子供を認知の手続きもする。ある日ソニアが職安に仕事を求めて並んでいるとき赤ん坊の世話を頼まれたブリュノは、盗品のバイヤーから聞かされていた赤ん坊売買の話を思い出して5000ユーロ(約70万円)で売り飛ばしてしまう。それを知ったソニアはショックで倒れて入院。彼は思い直してお金を返却し子供を返してもらい、ソニアの手に赤ん坊は戻ったが、彼女はブリュノを拒絶した。行くあてもなく一人となってしまった無一文のブリュノ。お金は返したが、更なる違約金として要求された5000ユーロが残ってしまう。彼女が拒絶した乳母車とジャンパーをリサイクルショップに売るが、それでできたのはたったの66ユーロ。赤ん坊の密売人に襲われ、その66ユーロは巻き上げられ、残り4934ユーロの支払いを要求される。ブリュノはカッパライ仲間、14歳の中学生スティーヴを誘って店の売上金を銀行へ持っていく女性店員を襲い、バッグを奪って逃走するが、目撃者に車で後を追われてしまう。冬の冷たいムーズ川(撮影時の気温は10度、水温は6度)に浸かって隠れるが、凍えて脚が動かなくなってしまったスティーヴだけ捕まってしまう。パンクしたバイクを押してソニアのアパートを訪れるがドアのノックに反応はない。またバイクを押して警察へ。スティーヴに面会し、バイクの鍵を返し、盗んだ金を出して自分が主犯だと警官に言う。刑務所の面会ルーム。ソニアが服役中のブリュノに面会に来た。手を握り合い、涙を流し合う2人のアップがラスト。この映画は手持ちカメラのドキュメンタリー風な映像で主人公たちを追っているが、巧みな脚本に重要なポイントがいくつか折り込まれている。それは警察に対して口裏を合わせるようにブリュノが頼みに行く母親であり、盗品売買のこと細かな金額であり、違約金の残りを要求するヤクザであり、子供の引き渡し時に自分のジャンパーを脱いで子供の下に敷く姿だ。もちろん多くの人が気付いているように凍えたスティーヴを介抱するブリュノの姿もそうだし、あとは荒漠・無味乾燥な工業都市の寒々とした背景もそうかも知れない。ブリュノは中学生を使ってカッパライをさせているのだろうが、それをバイヤーに売りに行って得られた金額を決して誤魔化しはしない。ビデオカメラが450ユーロで売れれば少年たちにも450ユーロと伝えて規定の率の分け前を与える。また仲間が溺れそうになれば助け、凍えれば介抱もする。それは決して自分に足がつくことの予防ではない。つまりあくまで子供であるだけで、悪気はない男なのだ。この主人公がどうしようもないヤツで、最後に涙なんて流したって務所を出たら元の木阿弥だ、って非難する観客評をたくさん目にした。でもそういうのってどうなんだろう。自分は大人として、我慢もして社会的責任を果たしているのに、こんなヤツは許せないという一種の嫉妬、あるいは自己アイデンティティーを守ろうとするエゴがないだろうか。このブリュノ、確かにどうしようもないヤツではあるけれども、我々はその存在自体を否定していいのだろうか。こうして現にこういう彼が存在しているのだ。母親に会いに行って子供が出来たと言っても、今の男とどういう事情にあるかはわからないけれど、家にも入れないような母親なのだ。そんな子供への愛情のない母親に育てられて大きくなったブリュノがまともに成長できなかったのは彼の責任が100%なのだろうか。親だけではなく社会全体というのも含めて。もちろん同じような環境でもまともに大人になっているいる人はいる、と人は批判する。しかし全く同じ環境など存在しないし、生まれながらのDNAだって違う。そもそもこのブリュノをそんなに批判するなら、どうして赤ん坊売買斡旋のヤクザの方は非難しないのか。ブリュノのような存在は、親を含めて社会全体の失敗作であって、それには多かれ少なかれ我々社会の構成員すべてに責任があることなのだ。そういうことをこの兄弟監督は提示していると思う。そして映画を突然終わらせ無音のクレジットロールを流すことで、観客に考えることを促しているのだ。せめてブリュノを見放すのではなく、彼の改心とこのカップル、そして赤ん坊ジミーの将来の幸せを願おうではないか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.04
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2 デュオ諏訪敦彦寸評:こういう映画ばかりでは嫌になるだろうけれど良い映画。昨今のある種の映画に対するアンチテーゼの意味は大きい。諏訪敦彦監督の作品、ボクは『H story』、『M/OTHER』そしてこの『2 デュオ』と、製作と逆順に見てきた。諏訪監督の、構成台本だけでセリフは役者の即興に任せるという作品作りに最初のものだろうか。映画の中のカフェのシーンで圭が「結婚しようか」と言うのに対して優が「次のセリフは?」と問い、圭が「セリフなんかねえーよ、セリフなんかもう言わねえよ」と言うが、これが映画の作り方を暗示している。またカメラが主演の柳愛里や西島秀俊にインタビューするようなシーンが挿入されている。そこでは例えば監督が「圭から結婚しようと言われて、何も答えませんでしたが、何故ですか」と問い、優を演じる柳愛里が優として優が何をどう考えているかを問い、柳が柳として、また優として、それに答える。そういう形で基本設定だけを役者に与え、そこからの役作りやセリフは役者に委ねられ、映画の撮影が進行しているのだ。映画というのはフィクションなわけだが、特にヌヴェルヴァーグ以来、そう単純にフィクションとしては捉えられなくなってきた。役者は監督の思うがままに演技する操り人形ではないからだ。たとえしっかりと(セリフも)書かれた脚本があって、演技に対して監督の指示があったとしても、役作りをするのは役者であり、その役は演じる役者が自分の内部で捉えた役であり、そこには人間としての役者が表現される。配役を変えればもちろん作中人物は変わってしまうし、仮に瓜二つの一卵性双生児の2人の役者でも、どちらが演じるかで作中人物は変わってしまう。だから誰かが言ったように、映画というのは役を演じる役者のドキュメンタリーでしかないとも言えるのだ。その考えを押し進めれば、たとえばカップルの破局というこの映画にしても、そのような状況の中で「実際の人間としてのその役者」なら何を言い、どういう行動を取るかというのを、脚本の指示ではなく、本人にやらせる方が、ある種の深い人間の真実が表現されるということだ。それと関連して、最近の映画、あまり多くを見ているわけではないけれど特に多くの日本映画に感じるのは、役者の役作りの不足だ。その役がもっているはずの人間を役者が自分の中でしっかりと捉え、それに沿って演ずるということの不足、つまり役作りが浅過ぎるのだ。それがこの『2 デュオ』ではしっかりとしている。なまじ脚本に与えられた役がないから、役者は自分の全身全霊でその役を捉えて演じるしかないからだろう。いつからは明示されないけれど、一緒に暮らすハウスマヌカン(ちょっと表現が古い?)の優(柳愛里)と役者志望ながら上手くいっていない圭(西島秀俊)の関係が破局するまでの物語。一言にしてしまえば、ピーターパン症候群の圭とウェンディ症候群の優と要約できるかも知れない。しかしこれはかなり重要なことで、そのような役作りが決して脚本や監督の指示ではないことだ。すぐ上に書いた同棲カップルの状況を与えたら、少し補足するなら圭にはほとんど収入がないということだが、そうしたら役者の西島と柳がそういう役作りをしていたという事実である。それは必ずしも実人間西島や柳がピーターパンやウェンディであるという意味ではないが、その状況でこういう役作りを2人がしたということは、現代の日本の社会の反映だからだ。そういう意味で、ヘタクソなと言っては失礼だが、浅い出来のシナリオを元に映画を作るよりも深く現代の人々や社会の真実が現れてくる。もう一つ感じるのは結婚の問題だ。これももちろん脚本ではなく役者から出てきたセリフだ。結婚には親族との関係とか社会的ことが関わるし、それと無関係ではないことだが一応は離婚を前提としない永続性への期待がある。他から縛られると感じるか、好んで自分を縛ろうとするのか、どちらであれ結婚の2文字の心理的インパクトは大きい。この圭と優が親族のいない天涯孤独の2人だとしても、恐らく同棲と結婚は心理的に違いがあるのだろう。『M/OTHER』でも「結婚しようか」というセリフが役者から出てくる。日本人は結婚願望が強いが、実質的に自分たちがどういう2人であるかという本質よりも概念が勝った世界なのだ。社会学者のデュルケイムは『自殺論』の中で、自殺の原因は破産や失恋という個々の理由にあるのではなく、社会にあると言った。つまり同じ破産や失恋をしても自殺を簡単にする社会とそうでない社会があるということだ。そういう意味で捉えた社会、勝手にちょっと敷衍して社会の深層心理とも言えるかも知れないが、そういう目で捉えた社会を浮き彫りにするところが、諏訪監督の手法にはあるかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.02.03
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DOPO MEZZANOTTEDavide Ferrario(93min)那覇・桜坂劇場にて寸評:監督の映画への思い、作品の意図はわかるが、結果としては中途半端。あるいは安易にちょっと上手いことやろうとしたのかも。近くの桜坂劇場での上演が今日までだったので行ってきました。予告編を見て予想した通りの感じ。映画オタクのマルティーノを主人公にして、その彼をトリノの映画博物館の夜警にして、毎晩毎晩広い博物館全体を独り占めにできる環境におき、色々な名画の引用・挿入・オマージュ豊富な作品作りだから、監督の映画への思いは理解できると言ってもよいのだろう。でも結果として作られたこの作品は中途半端でさほど面白くはなかった。映画好き、って言うか彼でなくとも、もともとほとんどの映画監督は映画好きなんだろうけれど、映画好きならこの1本の作品としてもっと充実して物語を鑑賞できる映画を作って欲しかった。あるいは逆にもっと映画マニア向きの、物語は二の次の映画にするか。なにか本末転倒な印象。(以下ややネタバレ含む)『突然炎のごとく』になぞらえた男2人と女1人、その3人の主人公の1人マルティーノは既に書いたようにトリノの映画博物館の夜警で、毎晩毎晩この博物館を独り占めにして所蔵のフィルムなんか見放題。映画マニアとしてはどんな大金持ちのマニアよりもきっと豊かなコレクションを自分で持ってるようなもの。こんな環境にあったらいいですね!。羨ましい限り。映画の世界に生きていた彼が現実世界で好きになった女性(アマンダ)と一緒に暮らしたいって思いで、この超恵まれた環境を捨てようっていう。それ程までにアマンダを愛してしまったということなんだろうし、あるいは非現実の映画の世界から現実の恋愛の世界への移行を描いているとも言えるわけだけれど、これってけっこう重要な部分。見ていれば上司との会話でそれははっきりとわかるけれど、何か重みがないですね。そういうのは結果できあがるアマンダ・マルティーノ・アンジェロの3人、あるいはバルバラも含めた4人、その人物や関係が、もちろん心理も、見ていて全然迫ってこない。中ではアマンダがいちばんよく描かれてはいるけれど物足りないし、マルティーノは寡黙だとしても、ただの寡黙で、寡黙に隠れた心理とかはやはり迫ってきません。前に西川美和監督の『ゆれる』についても書いたことだけれど、こういう状況だからこういう心理なんだと、観る側が勝手に想像するしかない。そういうスタイルを敢えて使って映画を作るってのはもちろん可能だろうけれど、この映画の4人の物語はそういう作りではない。この映画は約90分で長い方ではないから、あと20分ぐらい使ってちゃんと心理とか描いて欲しかった。それとも今の若い人っていうのはこういう軽いのがいいんでしょうかね?。と言ってもフェラーリオ監督は50歳くらいで、決して特別若いわけでもありませんか。この監督の他の作品見たことないから、監督の力不足なのかどうかは解らないけれど。かと言って、引用、引用、オマージュ、挿入・・・、だけで楽しめるほどのものでもないし、予告編で予想した通りとはいえ、ちょっとフラストレーションの残る映画でした。映像についても、一部とっても美しいけれど、全体としての監督の筆致に統一感が感じられませんでした。名画っていうのはどこか1分くらいを見ても、映画全体が感じ取れるものです。女性主人公アマンダを演じたフランチェスカ・イナウディとかいう女優さん、役アマンダの雰囲気をも含めて、ちょっと魅力的だったのが救いでしょか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.02
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IL DESERTO ROSSOMichelangelo Antonioni寸評:アントニオーニ初のカラー作品、初期イタリア時代およびモニカ・ヴィッティ最後の作品。ヴィッティは美しいし、映画の完成度はほぼ完璧。この映画にはアクションが全くなく、テンポも超ゆっくり。だから合わない人には誘眠効果絶大。モニカ・ヴィッティ演ずる主人公ジュリアナが他者や世界と接点を見出せずに精神不安定の状態にありますが、何かがあってそういう精神不安定になることを描いたのでもなければ、その精神不安定からの回復を描いたものでもない。ただその精神不安定の状況自体を描いたとも言え、とりたてた出来事などは出てきません。ジュリアナは彼女と対になる人物コラドと出会う。正常な精神を保ちながらもコラドも同類。自分の問題の解決の糸口を見出すためもあってか、少なくとも他の登場人物の中で一人ジュリアナの孤独や不安を理解し、手を差し伸べるけれど、結局ジュリアナの状態は映画の最初と最後で何の変化もありません。アントニオーニ初のカラー作品で、普通には色のあるこの世界を無反省にカラーで撮ったのではありません。もちろん非現実的な色が出てくるわけではありません。全体を霧や煙や曇天の生彩のない背景の中に、大化学工場の配管やドラム缶などを赤等に原色で表現した。そのために息子に語るお話の空想の映像を除いて晴天の青空は出てきません。この撮影のために草や木の葉などの緑を、彩度の低い色に着色もしたらしいです。全体が彩度のない灰色の背景に、特に黄色は毒・死・恐怖を表す色として、赤は情欲や情熱を表す色として使われています。ちなみに画家アンリ・マティスにLA DESSERTE ROUGE(赤い食卓の下げもの)、日本ではたぶん「赤のインテリア」という絵画作品があって、アントニオーニはタイトルをここから取ったらしい。一場面でこの絵画と同じ画面構成が一瞬再現されています。(以下ネタバレ)ジュリアナの夫はウーゴは工場経営の大企業家。二人には10歳くらいの息子ヴァレリオがいる。普通的には幸せなはずの3人家族。ジュリアナは息子を連れて工場の敷地を徘徊している。工場ではストが行われていて、路上にはスト中の労働者の姿。その一人がハンバーガーを手にしている。ジュリアナは突然彼に近付き、店まで行けば買えるという男から問答無用で食べかけのハンバーガーを買い取り頬張る。そんな異様な彼女の行動から映画は始まる。夫ウーゴの旧友コラド。彼は父親を継いでやはり企業家だが、目的意識もなければ、ジュリアナ同様やはりこの世界や人々との接点を持てないらしい。工場内でウーゴはジュリアナにコラドを紹介する。コラドはパタゴニアに工場を起業するためのイタリア人技術者や労働者を募集するためにウーゴに相談に来ていた。ジュリアナは慣れない運転で事故を起こし、それ以来精神が不安定で入院していたとウーゴは言う。でもこの事故の話が本当なのか、それとも精神不安定でジュリアナが自殺をして入院し、それを隠すための作り話なのか、どちらかはよくわからない。とにかく彼女が自殺未遂をしたのは確からしい。退院した彼女は近くの小都市に店を開くと言うようになった。その店の彼女。まだがらんどうだ。そこをコラドが訪れる。何の店をするのか問われたジュリアナは、まだ決めていないけれど陶器の店にしたいと言う。現実的な営業意識など彼女にはない。コラドは自分の居場所が見つけられずに、これまで同じ場所に長く住んだことがない。引越してばかりだと語る。外に出た二人。そこは人は誰もいなければ、近くに商店などもない寂しい通りだ。商売などが成り立つ場所ではない。その日コラドはある技術者を訪ねてフェラーラに行くというのでジュリアナも同行する。訪れた技術者の家。妻が応対で出るが、この夫婦にも2人と同じような無目的不確かな生活を感じる。報酬が良くてもそのつもりはないと、妻はコラドの提案を断る。ある日港の岸壁に面した知人の小さな小屋別荘に集う人々。ウーゴもジュリアナもコラドもいる。酒を飲んで、ベッドだけの小さな小部屋での男女の乱痴気騒ぎ。ジュリアナにはここでも人々との接点が見出せない。寒いと言って暖炉に薪をくべるが、薪は足りない。たまたま狭いベッドの上でコラドが足で踏み抜いてしまった赤い壁板を火にくべる。次から次へと壁板を剥がしては火に。いちばん熱心なのはジュリアナとコラドだ。コラドは木製の椅子まで破壊して薪にする。2人にとって部屋の寒さは心の寒さの象徴でもあり、だから心の寒いこの2人が熱心なのだ。やがて岸壁に入ってきた大きな外国船。伝染病者の発生を知らせる黄色い旗が掲げられる。(余談ですが、調べてみたら黄色い船旗は「船上すべて健康なので、検疫を求む」という意味らしい。この辺はよくわかりません。)ジュリアナは恐怖から小屋を後にし、皆も車のところに戻るが、霧の中でただ不安そうなジュリアナを見守るだけの人々。突然一人車のハンドルを握ったジュリアナは岸壁を先端の方へ走り去る。コラドなどが行ってみると海に落ちる寸前で車は止まっていた。彼女は再び自殺を考えたのか。夫が出張で出かける。ある日息子のヴァレリオが脚が動かなくなったと訴える。心配するジュリアナ。息子にせがまれ小島の海岸の少女のお話をする彼女。このお話は、映画の他の大部分の現実世界との対比で、美しい晴天の空と海の映像で描かれるが、彼女の心の状態を表すかのような内容だ。しかし息子の脚は意識的か無意識かの息子の仮病であった。ちゃんと歩いている息子を見て彼女は錯乱する。自分にとっての唯一の現実世界との接点と思っていた息子にも否定されてしまったのだ。錯乱状態の中でコラドの部屋に来たジュリアナ。錯乱状態のまま彼女はコラドに身を任せるが、唯一の解決の糸口かと思われたコラドも何の解決にもならなかった。あてどのなく港のロシア船に乗ってアナザーワールドに行きたいと思う彼女だが、出てきた船員とは言葉は通じず、最後に船員はただ「I love you!」と実体的に無価値な言葉を口にするだけだ。再び冒頭と同じく息子を連れ工場の敷地を徘徊するジュリアナ。最初と何も変わってはいないのだった。ヴィッティ4部作の最後ですが前作の『太陽はひとりぼっち』まではどちらかと言えば、ヴィッティ演じる主人公女性と特定の誰かとの「愛の不毛」や「人間間のディスコミュニケーション」でしたが、既に『太陽はひとりぼっち』でもその傾向が見られた、世界全体、あるいは人々全般との「無接点感」や物の世界との関係を描いていると思います。だから意味は少し違いますが、題名的に考えるなら「『ある女の存在証明』の不能性」と言えるかも知れません。アイデンティティーというのは自分と外界との関係から自分の中に構築されるものだからです。その外界との関係を持てないのがジュリアナなわけです。しかしそれはここに描かれた工場に象徴されるような「単純な工業化による人間疎外」などというものではない、もっと根源的な現代人の心の問題だと思います。だから工場のカラフルな配管などの風景は、美しいものとして描かれています。また2人(特にジュリアナ)は経済的には金持ちで、生活のための嫌でもの仕事の必要性がない有閑な環境にあるわけですが、それは有閑だからこうした精神に置かれるということではなく、有閑だから描き易いということで、フェラーラの技師の場合もそうであるように、誰もにもありうる空漠感だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.01
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