2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全12件 (12件中 1-12件目)
1

RECONSTRUCTIONChristoffer Boe92min寸評:文学の世界ではもう何十年も前から使われて(探究されて?)いたナレーションの実験or遊びを使った恋愛物語。主演女優マリア・ボネヴィーが魅力的かつ好演で、なかなか好きな作品。重層的にいくつかの物語(の可能性)が同時に描かれる。ある作家が仕事でコペンハーゲンに妻アイメとともにやってくる。一人街に出たアイメは写真家アレックスと出会い、一夜をともにする。朝アレックスはホテルの部屋を去るが、家に戻るとあるはずの自分の部屋はなく、近所の人も友人も、前夜一緒に食事をした父親や恋人シモーネも、誰も彼のことを知らない。それまでの自分の恋人や生活のすべてを捨てて運命的出会いのアイメを選ぶべきなのか?という究極の選択が主題であるかのように宣伝されていたが、必ずしもそういう物語ではないように思った。(以下ちょっとネタバレ)登場人物でもある作家のアウグストのナレーションで主要登場人物の日常の物品が示される。そして彼はホテルの部屋に着いたとき妻アイメに「(小説の)出合いのシーンを思いついた」と語る。そして物語の中でアイメとアレックスの出合いが何度も描かれる。二人は彼女が夫と泊まるホテルの部屋で一夜を過ごす。このラブシーンは固定映像風のアップのモンタージュで、暖色系の映像と言い音楽と言い、露骨な性描写ではないが、ロマンティックで官能的。とても美しかった。アレックスはル・ソムリエ13:00というワインレストランでの再会のメモを残して部屋を去る。廊下でアウグストとすれ違いタバコの火を求められるが、メモと一緒にデュポンのライターは残してきていた。ところがアパートに帰って階段を昇ると自分の部屋がない。階段の最上階に彼が見たものは有ったはずのドアではなく、30cm位のミニチュアのドアだけだ。下の階の隣人は彼のことを知らず、これより上に部屋はないと言う。友人宅を訪れても彼のことは知らないと言われてしまう。家に入れなかった(家がなくなっていた)のでお金を借りに来たのだが、見ず知らずの者にお金を貸してくれるはずもない。やむなく彼は持っていたカメラを売ってお金を作る。ライカM6だから叩かれても10万円以上にはなったことだろう。そして約束のル・ソムリエに行く。既にアイメは来ているけれど、彼女はアレックスとの約束で来たわけでもなく、またそもそも彼を知らない。そこでまた新しく出会いが描かれるわけだ。公園でダンスをし、口づけを交わし、再会を約束し、その印に彼女は指輪をアレックスに預ける。(以下ほぼネタバレ)前夜アイメと出会う前に恋人シモーネと3人一緒に食事をしていた父親に公園で出会うが彼はアレックスを知らない。シモーネにも出会っても彼女はアレックスを知らない。その晩アレックスが歩いてくるとその先にはアイメとシモーネが佇んでいた。究極の選択を迫られているのだろうか。(完璧ネタバレですが)この2人の女性は同じ女優マリア・ボネヴィーの二役なんですね。そしてアイメとの約束の時刻、アイメは夫を去るつもりで約束のバーに来ているのですが、アレックスは来ない。途中でシモーネと出会ってもたもたしてるんですね。電話の連絡も行き違いになり結局会えません。そしてアレックスはホテルの部屋に指輪を返しにくる。ベッドで眠ったままのアイメの指に指輪をはめてアレックスは去っていきますが、この部屋は夫と泊まっていたホテルの部屋、最初の方でアレックスが彼女と一夜を過ごした部屋ではない。話的に一貫性もなければ非現実的。この物語は登場人物でもある作家アウグストによって語られている。最初に街にアレックスを登場させ、最後は同じモノトーンな映像の街をアレックスが去っていく。作家のナレーションは「作り話ではあっても心が痛む」というもの。つまり映画っていうのはそもそも作りごとなんですね。そして作家が小説を書く、ホテルで妻に言っていたように「出会い」を書く。しかしその作家アウグストにしても、どこからどこまでが現実とも言えない。大体が語る作家だって映画という作りごとの登場人物でしかない。そしてそれを象徴するかのように、最初と最後はタバコを宙に浮かせるマジックをする男という枠に更に収められている。そして最後はこのマジック男も煙とともに消えてしまう。じゃあ訳の分からない話かって言うとそんなことはない。アレックスとアイメの運命的出会いとそれに続く駆け落ち(?)の物語のいくつかの可能性。あるいはシモーネと改めて見知らぬ者同志として出会わせて2人の意味や相性を問いなおす。あるいはもしかしたらちょっとすれ違い気味になっている作家夫妻の心の物語。あるいは単にすべて作家アウグストの心の中の思いとして。そういう色々な物語、出会い、可能性を同時に重層的に描いているのはなかなか見事だった。こうしたことに伴う不安感をアレックスが誰からも認知されなくなるという焦燥感・不安感と重ねているのも巧みだ。でも最初に書いたように主演のマリア・ボネヴィーの魅力がこの映画を見る大きな楽しみかも知れない。映画の原題は「再構築」とか「再構成」を意味するけれど、物語の「再構築」とも考えられる他、作家アウグストと妻アイメの関係の「再構築」という意味もあるように思われた。ちょっと気付いたのは、当たってないかも知れないが、彼女の役名はAIMEEで、作中ではアイメと発音されていたようだがもともとフランス語のエメで、エメと言えばフランスの女優アヌーク・エメを連想する。似ているとまでは言えないかも知れないけれど、マリア・ボネヴィーはルルーシュの名作『男と女』のアヌーク・エメを連想させた。もう一つ、体格は違っているもののアレックスがフランスの俳優ドニ・ラヴァンになんとなく似ていて、名前もカラックスの映画の登場人物同様「アレックス」。どちらも暗示、オマージュのようなことを監督は意図していたのだろうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.31
コメント(2)

お遊さま/Miss Oyu溝口健二白黒 95min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.22
コメント(0)

没後50年ということで溝口健二特集を近くの映画館でやっていたので6本のうち4本を見てきた。その中の『夜の女たち』(1948)の音楽は大澤壽人、『武蔵野夫人』(1951)の方は早坂文雄だった。(ちなみにどちらも生まれは獅子座。大多数の人にはこれはあまり関係ないかな。)『夜の女たち』の音楽は冒頭から、そしてエンディングの音楽がベートーベンの交響曲第5番(運命)の引用というか、自由なアレンジというか、何食わぬパクリというか。『武蔵野夫人』の冒頭は同じくベートーベンの交響曲第6番(田園)の引用?orアレンジ?orパクリ?。何か安易な(そして姑息な?)感じがしてちょっと不快だった。はっきりとした引用(カバー?)なら良いのだけれど、他のメロディーに埋もれさせて巧みに使っているのが気にくわない。もちろん『赤線地帯』の黛敏郎だって(ちなみにこちらは魚座)、あれは何の楽器だろう、オンドマルトノかな(?)、黛敏郎の音楽自体メシアンとか色々影響受けているor悪く言えば真似と言えないことはないけれど、ボクの知る限りでは特定の曲のアレンジ/パクリではないからまだよい。この時期、そして今日でも、映画音楽担当は現代音楽の作曲家の大きな収入源だろう。だとしたら「お金貰ってやっているんだから」自分のちゃんとした「お芸術!」作品と同じように真面目に仕事して欲しいと思った次第。(実際の経緯は知らないのでの感想なので、その点はお含みおき下さい。) 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.21
コメント(2)

武蔵野夫人/The Lady of Musashino/La Dame de Musashino溝口健二白黒 92min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.20
コメント(0)

赤線地帯/Street of Shame/La Rue de la honte溝口健二白黒 85min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.19
コメント(0)

夜の女たち/Women of the Night/Les Femmes de la nuit溝口健二白黒 73min那覇・桜坂劇場にてこの日はちょっとした上映ミスがあった。予告編が終わってスクリーンを覆うカーテンがスタンダードサイズに両横が狭まって、そうしたらカラーで大映のロゴが映った。???!!!、『夜の女たち』って白黒だし、大映だっけ?、別の映画?。そう思っていたら『楊貴妃』のタイトル。そこで映写が中断され「しばらくお待ち下さい」のアナウンス。改めて上映が始まり、白黒で松竹のロゴ。そう、そう、そうだよな!。2~3分待たされただけだから別にどうってことないのだけれど、後の方で「何やってんだ!」って年輩男性の非難の叫びも。このおやじの叫びは不快だった。でもボクが思ったのは、『楊貴妃』のタイトルが出る前、カラーであることと大映のロゴで映写技師さんには気付いて欲しかった。たまのミスはやむを得ないとしても、映画についてもっと知っていて欲しい。例えばこれから上映する『夜の女たち』は白黒で松竹作品である、とか・・・を。敗戦後の大阪、田中絹代演ずる大和田和子は小児結核の子供を抱えて夫の復員を待っている。終戦後のこと寄宿する義兄の家とてゆとりがあるわけでもなく、和子に対する扱いは冷たい。病気の子供を抱えて働きにも出れず、着物を売るなどの日々だ。そんなある日夫の戦死の情報がもたらされ、また子供も死んでしまう。戦争と貧困によって夫も子供も失った女性の悲哀だ。(以下ネタバレ)一人になった彼女は小和田家を出てアパート住まいをし、貿易会社社長栗山の秘書として働くが、栗山の目的は和子の体で、和子は当然の成り行きとして栗山と深い関係になる。和子は大陸から引揚げてきてダンサーをやっている妹の夏子と偶然再会し一緒に住むようになるが、やがて栗山は夏子とも関係を持つようになり夏子は妊娠し、和子もそのことを知ってしまう。街娼になった和子はこうした男たちに復讐することを決心し、自分が性病に罹り専用の施設に収容されると、そこを抜け出して「出来るだけ多くの男に病気をうつしてやる」とも考える。栗山はアヘンの密輸で逮捕され、夏子は栗山に性病をうつされていたことがわかり、和子は慈善の婦人ホームに妹を連れて行くが、そこでの出産は死産だった。和子は夜の街の姉御になっていたが、そんな暗い思いの中で夜の街に戻ってくると、そこの仲間たちは若い小娘をリンチしている。それは夫の妹の久美子だった。彼女は派手な生活に憧れて家からお金を持ち出して家出したのだったが、すぐに男に騙されて飲めない酒を飲まされ金も体も奪われ、落ちぶれてこの街にやって来たのだ。こんな久美子を見て和子はそんな生活から足を洗う決心をして久美子を連れて街を去っていく。社会批判の映画で、夫を奪った戦争を含めて男性世界に対する批判だろう。しかし和子に妾の口を斡旋しようとした古着屋の女、久美子を騙した自称学生の取り巻きの女たち、久美子をリンチし和子の足抜けに暴力を振るう街娼仲間など女の敵は女でもある。また街娼に身を落とさなければならい事情を無視して、自分は安全な場所にいながらキレイ事で娼婦を批判する女性活動家なども描かれている。人が内面に持つ暴力性を描いた作品でもあるのだろう。精神的と経済的にゆとりのあるときは良いが、そのようなゆとりを失ったときどれだけ人が他者に対して身勝手となり、内なる暴力性を顕在化するかということだ。唯一好意的に描かれていた男性は施設の院長だった。リンチを受ける和子の明るい将来を願う好意的な街娼仲間もいた。最後に2人が去っていくのが教会の廃虚で、そのステンドグラスの聖母子像が写るが、これは希望なのだろうか、それとも世界の道理や人の性[さが]に対する無力感としての皮肉なのだろうか。付記すると、それほど多くを見ているわけではないが、この映画での田中絹代はいちばんのはまり役だと感じた。この点に関しては、今回溝口健二没後50年の企画で見た他の映画のところで詳しく書きたいと思っている。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.14
コメント(1)

5×2 CINQ FOIS DEUXFrancois Ozon90min寸評:ベルイマンの『ある結婚の風景』を文字ってオゾン版『ある結婚の5つの風景』とでも言おうか。離婚の風景から始めて時間をさかのぼり2人の出会いまでの5つの風景を描く。離婚に至る原因を謎解くものと言うよりも、あるカップルを5つの風景で浮き彫りにしたもので、面白かった。ジルとマリオンの離婚手続。双方同意による離婚だろうが、夫ジルの方により躊躇が見られる。手続が終了して法的に離婚が成立した2人はホテルの一室へ。ジルは服を脱いでベッドに入り、バスルームでシャワーを浴びタオルを身体に巻いたマリオンが入ってくる。「太ったのか?。」「そんなことないわ。」「じゃあ何でタオルで隠すの、もう結婚してないから?。」「わからないわ。」離婚手続で判事が別居期間のことを言っていたが、2人は2ヶ月ほど会っていないらしい。2人が行為を始めようとしたときマリオンの携帯電話が鳴る。彼女は母親とお昼を一緒に食べる約束を忘れていたのだ。2人は気分をそがれるがマリオンが「抱いて」と。しかし行為が始まるとマリオンには耐えられなかった。それでも続けるジルに叫び声をあげて抵抗するが、ジルはかまわず無理矢理に行為を進める。映画はこのように始まる。そしてこの後時間をさかのぼって4つの風景が描かれる。ジルの兄とそのホモの恋人を招待しての晩餐、マリオンの出産、2人の結婚式、そして最初の出会いの4つだ。もちろんそこに何らかの「出来事」が無いわけではないが、だからと言ってそれは2人が離婚に至る決定的な原因を示すものではない。どれも2人の日常の1風景として描かれていて、そこに微妙なカップルのあり方のようなものを感じるのは観客だ。直接的に監督が何かを示すことはない。この構成がウソっぽくなく、実に見事に演じられ、演出されている。普通のラブストーリーは出会いから結末までを時間を追って描かれ、悲恋やハッピーエンドに導かれる。しかしこの映画では最後が離婚に至ることを観客は最初から知らされていながら、ラストに描かれる最初の美しい出会いを一種のハッピーエンドとして見せられてしまうのではないだろうか。ほろ苦さを持ちつつも美しいラストシーンだ。他のシーンがごく現実的な映像であるのに対して、夕日の海に入っていくこのジルとマリオンのラストシーンだけが超ロマンチックな映像だった。このカップルは、そして特にヴァレリア・ブルーニ・テデスキが好演のマリオンはどの段階でも幸せを求めているのが良くわかる。(以下ネタバレ)各場面での普通に感じられる重要事以外に、この映画でボクとして印象に残った、あるいはボクがこのカップルや映画を理解する上で重要と感じたセリフや事態を書いてみよう。◆第1の風景では、ホテルの部屋を出ていこうとするマリオンにジルが言う「君は強いよ。(・・・)君の勝ちだ。」という言葉。最後の最後に「もう一度やり直せないか?。」とジルが問うのに対して、マリオンがはっきりと「Non!」と言い放つことなくただ去っていく彼女の心情。◆第2の風景はジルの兄とそのホモの恋人を招いての家での食事だが、ここではマリオンが背中の大きく開いたロングドレスを着て粧し込んでいること、ジルの兄がホモであること、あるパーティーで男性とも関係を持ったとジルが語ること。◆第3の出産の風景では、産後のマリオンの病室でマリオンの両親は言い争い、父が先に去ると父の悪口を母は言うが、マリオンは「行けば、お父さんは車で待っているわよ。」「そう思う?。」「お母さんもわかっているんでしょ。」「そうね。」という会話から窺うことのできるマリオンの両親の関係。マリオンが子供の名前の選択を結局ジルに任せたこと。◆第4の結婚式の風景では、やはり仲睦まじくいつまでも踊るマリオンの父と母。◆第5の風景では4年の付き合いだという元(現)カップルであるジルとヴァレリーは半ば醒めてもいる感じで肉体関係もあまりないような感じだが、マリオンの登場で激しく抱き合う点。ちなみにマリオンの両親を演じたミッシェル・ロンスダ-ルとフランソワーズ・ファビアンはどちらも好演で良い雰囲気を醸し出していた。オゾンの作品はこれ以外には『スイミング・プール』しか見たことはないのだが、この映画を見ていて感じたのは「男が男であることを受け入れて、男として男になること」の難しさ、あるいはそれに対する男の心理的抵抗をオゾンは感じているのではないかということだ。潜在的であれそういう本質を持った男だから、男自身がそれを秘かであれ自認し、女もそのことを受け入れられればカップルとして継続し得るとオゾンは言いたげだと感じた。最後に再び寸評:好きな映画。マリオンを演じたヴァレリア・ブルーニ・テデスキが魅力的。邦題は原題のまま「5×2」ないし「2×5」、あるいは「ふたりの5つの風景」とか「あるカップルの5つの情景」(カップルは夫婦、情景は風景でも可)にして欲しかった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.06
コメント(2)

UN LONG DIMANCHE DE FIANCAILLESJean-Pierre Jeunet133min寸評:基本的には感動の大作で、ジュネらしい映像作りが好きな人にはお勧めだが、内容的には朝の連続テレビ小説の総集編を見ているような感じ。部分部分には役者の良い演技(演出)はあるものの、全体としては主人公マチルドを含め人物一人一人の感情の描写が希薄。ボクにとってはオドレイが鬼門。あとはやはりまたコルシカ問題など。自分としてはフランス語で出演のジョディー・フォスターの演技がよかったのと、出ていると知らなかったのでジュリー・ドパルデューが出てたのが嬉しかった。この人を初めて見たのが『リリィ』だったか『恋は足手まとい』だったか忘れたが、初めて見て大ファンになってしまった。今回故障する前にはパソコンの壁紙もこの人にしていた。この2人以外では、主演のオドレイ.トトゥはボクとしては『アメリ』よりも良い印象だが・・・(?)。いくつかの場面でとってもいい演技をしていたと言っておこう。セザール賞で助演女優賞のティナ役マリオン・コティヤールも良かった。この人の部分なんかはそれだけで1本の映画になりそう。ジョディー・フォスターの部分だって映画半本くらいにはなる。連続テレビ小説ならば何回かを費やしてティナやエロディーの物語を詳しく描けるのだろうけれど、寸評に総集編を見ているようだと書いたのはそういう意味だ。ドイツ女性を演じたエリナ・レーヴェンゾーン良し、叔母さん役のシャンタル・ヌーヴィル良し。ギャスパー・ウリエルはじめ、カラックス映画のドニ・ラヴァン、男性陣もおおむね良かった。 ではそんな理想的な配役でいったいどんな映画となっているのか。特にメインのオドレイの物語は?。オドレイ・トトゥ演じるマチルドは幼い頃両親を事故で亡くし叔父・叔母に育てられた。場所はブルターニュの田舎の海岸に遠からぬ所。子供の頃の小児まひで片脚が不自由だ。学校を長期に休んだり脚が不自由なので友だちもいない。そんな彼女に声をかけ親しくなったのは灯台守の息子のマネクという少年。やがて成長した2人は結ばれ、結婚の約束も。しかし第一次世界大戦が勃発し19才のマネクは前線へ。戦争が終わるがマネクは帰って来なかった。復員した兵士達からマネクが死んだらしいことを知らされるマチルドだが、彼女は恋人の死を信じようとせず、調査を開始する。マネクを含む5人は手を自ら撃って自傷するなど、故意の負傷(一種の敵前逃亡?)の罪で死刑を宣告された。物語はこの5人とその女達などの消息と謎解きという推理ドラマとして進んでいくので見ていて退屈することはなかった。戦争の扱いはどうか?。意味のない悲惨な戦い、不条理な戦争を描いており、見る人によって反戦映画ともなるが、ある方が指摘されているように第一次大戦という90年前のやや古臭い戦争を描く中には一種のノスタルジーがあるかも知れない。特にドイツを悪者扱いはしていないが、少なくも「戦争によって我が祖国フランスを守る」というやや右翼的な思いは根底にあるように感じられた。監督は残された記録写真等をもとに塹壕やそこでの兵士たちの一次大戦前線の様子を再現しようとしたと語っている。その辺の忠実性の判断はボクにはできないが、過去にもっと簡単なセット等で撮られた白黒映画等にあった戦場のシーンと比べて、印象としては必ずしも戦場のリアリティーがあるとは感じられなかった。CG等も使い画質自体がリアルなので稚拙な白黒映画のように想像力で補う部分がなく、結果としてかえってウソっぽく見えてしまうということだろうか。ここでついでに関連することを書いてしまうと、たとえばコルシカ島のカフェのシーンで壁の「CAFE」の文字はCGらしいが、これはロケの際に実際に壁にペイントして、風化の雰囲気も出して、撮影が終わったら元に戻すために消去する、というのよりは遥かに簡単だろう。こういうのは画像的違和感も少ないので良いが、画面に2つのショットを合成するとか、一部のみ着色するとかいった技巧はどうも好きになれない。映画の歴史は例えば狼男の変身のシーンなど特撮技術開発の歴史でもあるのだろうが、こういうドラマにデジタルを使い過ぎた画面はどうも好きになれない。デジタルならデジタルオンリー、フィルムならフィルムらしく映画を作って欲しい。『アメリ』でもそうだったがここでもオドレイ・トトゥの演じる人物は悪気はないのだろうが、どうも問答無用の自己中心性をもっている。マチルドの思いはそのものは良いのだが、自己に酔っているような、周囲に対してはしてやったりのような感じは、どうも純愛とは相容れないように感じられてしまう。その意味でこのメインの物語以上に面白く、もっと詳細に見せて欲しいと思ったのはティナ(マリオン・コティヤール)の物語とエロディー(ジョディー・フォスター)の物語だった。2人の演技は実に役に合った相応しく深いもので見ごたえがあった。『アメリ』の方はフィクション性が強い、わざとらしい物語だからあれはあれで良い。この『ロング・エンゲージメント』は『アメリ』の過大な成功でアメリカ資本を得て作った映画、いわば「アメリの夢再び」の映画だからオドレイの起用もやむを得ないが、もっと別の女優、しっかりと深い情念を内に秘めたような雰囲気を持つ役者さんにやって欲しかった。そうジョディー・フォスターでもよい。映画のフランス語原題は「婚約の長い日曜日」だから(ややネタバレにはなるけれど)「長い(=何年も続いた)」マチルドとマネクの「婚約の日」の話だから、婚約成立、そして映画の終わったあとの結婚へという物語と考えてよいのだろう。この映画には原作があって、舞台はブルターニュではなくアキテーヌだ。自治・独立などの問題をも歴史的に孕むフランスの他民族・他文化地区と言えばケルト系のブルターニュと大西洋岸スペインとの国境にまたがるバスクがある。そして言語も文化も異なるコルシカ島もそうだ。原作を変えて監督は舞台をブルターニュとした。ペテン師のウソつきとして描かれるアンジュは原作ではイタリア系となっているらしい。このアンジュに監督は「私はコルシカ人でフランス人ではない」と叫ばせている。ブルターニュでは当時やっとフランス語教育が始められた頃で年輩者はブルトン語しか話せなかったという。しかしマチルドの叔父叔母その他はきれいなフランス語を話している。それでも良いが南仏訛りはちゃんと使わせているのは不整合というものだ。この辺りには『アメリ』のときと同様に監督の政治的思惑が感じられ、それはやはり不快だ。ちなみにこの映画はコルシカ島で撮影されたが、コルシカ島では上映中止となった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.05
コメント(2)

DEDALESRene Manzor99min寸評:逮捕される6日前から刑事マティアスが連続殺人犯を追う軸、裁判も終わって専門施設でブレナック医師が精神鑑定と治療を行う軸、犯人の過去のトラウマ、それらが平行して描かれ最後のどんでん返しに至る脚本と編集は見事。その意味で楽しませてもらった。しかし主要3人物の心理の「何故?」については人間心理に関する監督の洞察不足で説得力がなく、ありきたりの浅い知識に頼っただけ。患者(犯人)のファイルを抱えたブレナック医師が白衣の別の職員と病院の廊下を歩いている。途中ブレナックはすれ違う患者に「ドクター」と呼び掛けられたりするが、実はこのセリフ自体が既に伏線と言ってもいい。同行の職員が部屋の扉の鍵を開け、ブレナックは室内へ。三脚に固定されたビデオカメラを準備し、椅子に腰掛ける。映画の画面はビデオカメラのモニターを写し、そこに映ったブレナックが語り始める。クロードという27人を殺害した連続殺人犯のとの出会いからだ。ブレナックは「私の人間としての存在に衝撃を与えた患者だ(字幕とは別訳)」と語る。犯人クロード逮捕の6日前。クロードの行動が描かれる。警察の捜査は難航していて、マティアス刑事が助っ人に呼ばれ、マティアスは霊媒か透視のような幻視を見ながら事件と犯人に迫っていくが、その幻視は彼を苦しめる睡眠中の悪夢とも重なっている。一方3ヶ月の鑑定・治療期間も2ヶ月過ぎたが上手くいかない担当のカール医師(ちなみにこの医師の姓はFREUD、日本式に言えばフロイトとなっている)の方はブレナック医師に助っ人を頼む。ビデオカメラを設置してブレナックは犯人クロードに面接するが、あまり協力的でないクロードはカメラをソファーに座ったブレナックに向ける。ちょうど冒頭と同じ光景が現出するわけだ。翌日の面接では7才半という人格の少年となっていて、前日の面接の記憶はない。そしてやがて子供・大人・男性・女性の7つの人格があることがわかる。病院内で他の患者達から彼(and/or彼女)はドクターと呼ばれているが、面接で登場する人格の名前はテーセウス、ダイダロス、アリアドネ等で、どれもギリシア神話でミノタウロスを閉じ込めた迷宮の物語に登場する人物たちの名前だ。一方マティアス刑事も9年ごとに少年と少女各7人ずつをミノタウロスに生け贄とした神話にクロードの連続殺人が重なっていると推理する。(以下少しネタバレ)一方カール医師はクロードが少年時代を過ごした地方の家等を訪れて彼(or/and彼女)の母親をめぐる過去のトラウマを調べに行くが、これと逮捕に至る軸、鑑定・治療の軸、マティアス刑事の内面と人格の問題、ブレナック医師の内面と人格の問題、これらすべてがアッと言わせる最後のどんでん返しで1つに統合される物語構成で、寸評にも書いたようにその脚本力と綿密な編集は見事だ。しかしこと3名の各心理と病理、例えばそういうトラウマがあって人格分離に逃げて自分を守ったクロードならクロードの心理の必然とか、それが原因で(迷宮の物語の絵本を子供の頃から愛読していたにせよ)連続殺人を彼(or/and彼女)が犯すようになる必然が描かれていない。説明的に描かれていないだけではなく、その辺に関する深い考察をもともと欠いているのだ。それゆえ単なる常識的発想による心理サスペンスになってはいても、深い人間心理のドラマには決してなってはいない。その点がこの映画の限界であろうし、もし2つが両立していたら恐ろしいほどの傑作になっていたに違いない。本能的には分離したくない自分の中の多数の人格を、社会生活を送るために意識(理性)で無理に統合していると言っているのだが、ここで原語のconscienceを「良心」と字幕に訳しているのはやや意訳が過ぎ、「意識」とか「理性」と解した方が相応しいと思った。クロードを演じたシルビー・テステューは見事。男女色々な年令の人格を適格に演じ分けていた。女性でありながら、決して特に男装しているわけではないが、男性の若者や子供にも見えてくる。色々な役を演じられる有能な女優さんだ。ブレナックを演じたランベール・ウィルソンも良かったが、マティアスを演じたフレデリック・ディファンタールにはやや不満。大袈裟な演技で役をしっかりこなせないことを誤魔化しているといった感じだった。(以下もう少し、でも決定的ではないネタバレ)この映画はラストを知らずに見るのが面白いので結末は書かないが、ヒントとしてはクロードClaudeというフランス名が男女に共通であること、クロードが病院内で他患者に「ドクター」と呼ばれていたこと、人物を入れ替えての同じような似たようなショット(ビデオで撮られるのがクロードであったりブレナックであったりとか、2人の座る位置とか・・)、こうしたことが全て伏線となっている。またギリシア神話の予備知識はなくても十分見られる。それと最後の結末は、全部が統合された1つの物語として解釈することも出来る他に、あくまで3つ別々の物語の比喩的表現による単一化とも解釈できると思う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.04
コメント(0)

FLIGHTPLANRobert Schwentke98min寸評:素直に身を任せて楽しめる映画。飛行中の航空機から6才の子供がいなくなる話で、子供がいたこと自体母親の妄想なのかという疑問が湧き、前半は心理サスペンスだが、後半はアクションとなり、2本の映画をくっつけたという感じで統一性を欠く。結果として前半の心理描写も後半のアクションも中途半端な感じ。ジョディー・フォスター他の演技はなかなか良い。こういう映画を自分から見ることはあまりないし、もともとアメリカ映画はほとんど見ようとしないけれど、色々な映画サイトを見てたら何となく見たくなってレンタル。深い人間心理ドラマや芸術系、難解系(?)ばかり見ていると、たまにはこういうアメリカ映画も見たくなるのだ。けっこう楽しめた。でもこの監督さんの名前はドイツ風、最初の場面はベルリンで言葉もドイツ語、調べたらドイツ生まれのドイツ人で、大学までドイツにいた人。だから純粋アメリカ映画ではなくやはりヨーロッパ風味が入っているのかも知れない。ちなみにこの監督は9才の時から家の納屋で見つけた祖父のスーパー8カメラにはまっていたという根っからの映画作家(以上はWikipediaドイツ語版より)。最初の場面はベルリンの地下鉄の駅。ホームにひと気はなく主人公のカイル・プラット(ジョディー・フォスター/ちなみにカイルは男性名だが、この役は最初ショーン・ペンがやるはずだったという)しかいない。。やがて夫の姿を見つけて一緒に無人の車内へ。列車は動き出し、駅で降りた二人は階段を昇っていく。外は夜で小雪が舞っている。二人は家に着くがカイルの願いで夫と中庭でちょっと話をすることに。ベンチに積もった雪を夫は手ではらう。しかしいつの間にかベンチの前にはカイル一人。雪の積もった地面にはカイル一人の足跡しかない。平行して死体安置所の様子が描かれ、彼女は転落死した夫の遺体と娘を連れて祖国アメリカに戻るのだということがわかる。夫とのシーンは彼女の空想・妄想だったわけだ。ベルリン空港。6才の娘ジュリアを連れたカイル。アナウンスがあり子供連れの彼女は優先搭乗でいちばん最初にひと気のないジャンボ機の中に。最新鋭のE474型700人乗りジャンボ機。これは航空機生産会社に勤めていたカイルが設計チームに属して開発した機種だ。隅から隅まで彼女はこの飛行機を知り尽くしている。窓からは積み込む荷物が運ばれる様子が見え、その中には夫の棺もある。窓ガラスに息を吹き掛け小さな手の指でハートを描く娘。離陸し、カイルとジュリアは後方の空き座席に横になって寝入るが、3時間してカイルが目を覚ますと娘の姿がない。乗員と探すが、やがて娘は搭乗者名簿になく、誰も目にした者がいないことがわかる。搭乗前の空港のシーンでも一度娘の姿が見えなくなり必死で探すカイルの様子が描かれていたが、これを含めて冒頭の夫とのシーンのようにこれはすべてカイルの妄想なのだろうか?。(以下少しネタバレ)やがて夫の遺体を扱ったベルリンのカイザー・ヴィルヘルム病院の死体安置所所長からはジュリアも夫と一緒に死んだという情報。搭乗券の入っているはずのバッグを含めジュリアが乗っていたという痕跡がない。この所長を演じたのは『ブラックブック』でカウトナー将軍を演じたクリスチアン・ベルケルというドイツの俳優さんだが、この人はある種ドイツ的な独特の雰囲気もっていて好きだ。機長は事情を知って彼女に慰めの言葉をかけ、同乗していたカウンセラーは「妄想に逃避するのは慰めにはなるが、悲しい現実でも受け入れなければ。」と諭す。本当に娘も死んでいて、娘と一緒に乗ったというのは妄想なのかとカイル本人も自信がなくなるが、荷物室に棺は1つしかなかったこと、娘がいつも持っていたクマのぬいぐるみが娘が寝ていたはずの座席の毛布の下にあったこと、そして何よりも窓に残されたハートの絵、これらがカイルにとって娘が機内に実在したという心の拠り所だ。この後意外な展開に物語は進んでいくが、この辺の不確かな不安な彼女の心理をもっと深く描いて欲しかった。(以下もう少しネタバレ)この後映画はアクション系に移っていくのだが、その展開は実は冒頭の方で既にいくつかの伏線が示されていた。ひとつは何をしでかすかわからないカイルを監視する航空公安官カーソンとスチュワーデス(註)の最初の方での会話。客を装っているカーソンが「映画は何で、ヘッドホンはちゃんと大きな音が出るか?」って尋ねるとスチュワーデスは「(近くにうるさい子供がいるので)耳栓になるかって言いたいんでしょ」って答えるけれど、この返事って乗務員の客に対する体のものではない。スチュワーデスは公安官の彼と顔なじみなのかも知れないけれど、何かもっと深い関係もあるかも知れないことも予想される。離陸前に乗客の人数をカウンターを片手に数えるのも同じスチュワーデスだ。(註)アメリカ発の過度のポリティカル・コレクトネスで「客室乗務員」とか「キャビン(フライト)アテンダント」などと呼ぶ方向性については疑問があります。それにここでの話で「女性CA」等と「女性」を付すのは面倒です。冒頭のカイルの妄想シーンや空港で子供が見当たらなくなるシーンは、娘の同乗もカイルの妄想かも知れないという方向へ観客を誘う伏線なのだが、終わってみて感じたのはこの映画にはつじつまの合わない不自然な設定が多いことだ。(以下完全ネタバレand種明かし)共犯の2人が業務で搭乗することになるこの日のこの便(しかもカイル設計の機種)にカイルが乗ることを、病院関係者の共犯があるにせよ、どうして1週間前にカイルの夫が死ぬ前からわかっていて犯行を開始できるのかという点があまりにも荒唐無稽だ。カイルが別の便に乗ってしまえば計画は失敗してしまう。次に映画は関係のない同乗者に対して乗客は無関心だということを言いたげだけれど、乗客はその多くが暇で時間を持て余しており、ジュリアは座席の下の方にもぐったりはするものの、離陸時にはシートベルトを締めているはずだし、その後後部座席に母親と移って横になって寝、その睡眠中に犯人が子供を連れ去るのだから、それを誰も見て気付かなかったということもややあり得ないのではないか。航空保安官である立場を利用してカーソンがカイルに罪を着せて金を得ようとした犯罪なのだろうけれど、娘ジュリアが本当に死んではいなかったということだって後で捜査すればわかることだろうし、犯罪の計画自体つまりは映画のストーリーに最初から無理があるような気がする。架空の飛行機であることと機内の設備などの一部が航空機マニア等から見ればウソっぽいのかも知れないが、これには正当な理由があると思う。子供が迷子になるほど機内が広くなければならず、またカイルが設計を担当したという点で新規の航空機ではなければならなかったという物語的要求。更に現在就航中のボーイングやエアバスでは、航空機内の細部の様子などを描写する関係上、ハイジャック犯などのためのレクチャー映像になってしまうということだ。ちなみに乗員の無能力とその1人が共犯であるということで、アメリカの民間航空機乗員組合のような組織はこの映画をボイコットしようとしたらしい。ボクが1つ解らなかったのは、緊急着陸するのはニューファンドランドなのだが、カナダ領でありどうしてFBIなのかなということ。こういう警察権のことなど御存知の方は教えて下さい。でもまあとにかくも楽しめた。常套的表現と言えるけれど、アラブ人ということで疑われてイヤな思いをしたはずの乗客が最後にカイルにカバンを渡してやるシーン、こういうのは好きです。映画全体の主ストーリーよりジーンときたりして・・・。これとその直前の機長がカイルに謝る2つのシーンがこの映画でいちばん好きなシーンかも知れません。あと収穫だったのはスチュワーデスの一人を演じたエリカ・クリステンセンという女優さん。いいですね。彼女の出演している映画を何本かDISCASの予約リストに入れてしまいました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.03
コメント(4)

MANINA... LA FILLE SANS VOILEWilly Rozier86min 寸評:主演としてのブリジット・バルドーの初作品。映画自体はテンポが遅くやや退屈だが(アメリカ版は10分短縮で76分)まあ悪い作品ではない。物語は文学に例えれば小説ではなく寓話とかお伽話だろうか。ストーリーの類似性が特に大きいわけではないが三島由紀夫の『潮騒』(小説or/and映画)を思い出した。若い(17or18歳)のバルドーは魅力的。主人公のジェラール(ジャン=フランソワ・カルヴェ)は25歳くらいだろうか。彼が大学で講義を受けている場面から始まるが、古代ギリシアの時代、海底に沈んだトロイロスの財宝ことを教授が語る。それを聞きながらジェラールが思い出したのは5年前に友人たち2カップルでバカンスを過ごしたコルシカ島沖の小島ラヴェジ島でのことだった。そこの海底で壊れた古代のアンフォラ(壷)を見つけたのだ。教授の話ではアンフォラに金貨が詰められていたという。ジェラールは資金を集め、このトロイロスの財宝を探しに行くことにする。ジェラールが5年前でのラヴェジ島のことを回想するシーンで、島の灯台守の13歳の娘マニーナが登場する。5年後(映画の現在)の18になったマニーナを演じるのはブリジット・バルドーだが、この回想シーンではまだ別の子役が演じている。しかし最初の「ヴォァラ、ヴォァラ」というセリフはブリジット・バルドーの声だ。これがいい。ブリジット・バルドー。DVDポストレンタルDISCASのページで人名検索したらたったの4本の作品があったのみだった。若い映画ファンの中にはこのかつての大女優BB(べべ)を知らない人も多い昨今だけれど、彼女は60年代には代表的世界女優、またセックスシンボルでもあった。彼女の魅力は顔やスタイルだけでなく、それよりもボクにとってはその声、舌足らずのような、自分に向かって甘えるような、でも確固としたような、その独特のしゃべり方にあった。映画後半から登場するバルドーのマニーナの声・言葉は、後のもっと出来上がった彼女のディクションではまだないが、それだけに妙にしっかりと区切るような、芝居か朗読とも感じられる彼女独特のセリフ回しがもっと素朴な形で聞けるのは嬉しい。「マニーナ!」とジェラールに呼ばれて小走りにやってくる子役の少女の発する(バルドーのアフレコの)「ヴォァラ、ヴォァラ」という第一声を耳にしたとき、懐かしさと嬉しさを感じた。そういえばバルドーの映画を見るのはもう7年か10年ぶりくらいだ。船を調達しなければならないジェラールはモロッコのタンジールへ向かい、そこのキャバレーで経緯で喧嘩をしたタバコ密輸人で船を持つエリックと親しくなり、彼に話をもちかけてラヴェジ島へ向かう。そこでジェラールは5年前の少女マニーナに再会するのだが、ここまでで86分の映画の約半分。最初に書いたように文学で言えば小説ではなく寓話とでもいったものなので、後半のジェラールとマニーナの恋愛も長々と描けるものではないのだけれど、それにしてもここまでタンジールのキャバレーでのフランチューチャ嬢の歌とか、途中寄港したコルシカ島のボニファシオか何処かで歌われる民謡とか、まあ「ビキニの裸女」に至るまでのテンポがゆっくりでまどろっこしい。(以下ネタバレ)ネタバレと言っても複雑なお話があるわけではない。ジェラールは18の美しい娘になったマニーナと再会。2人は恋に落ちる。マニーナは5年前にジェラールが残したハンカチを今も大切に持っていると言う。5年前の回想シーンで一緒に遊びにきた恋人に「13歳じゃ誘惑するには小さ過ぎるわね」とか言われるけれど、ジェラールとマニーナは実はこのとき既に運命的出会いだったのかも知れない。一方タバコ密売人のエリックは海底の財宝はウソでただでマニーナに会いにきただけだとジェラールを疑い始め、また若いグラマーなマニーナに邪な思いを持ちモノにしようとするが失敗。そんな状況で財宝らしき沢山のアンフォラ(壷)は発見されるが、それを入れた網をエリックは引き上げようとしない。2人の船員に中の金貨を見られたくないのだ。そしてジェラールが島にマニーナに会いに行っている隙に船を出航させる。財宝を独り占めしようというだけではなく、女にまつわる嫉妬だろう。気付いたジェラールは泳いで船を追うが力尽きて溺れてしまうが、それをマニーナが救う。しかしエリックの船は難船して沈没し、船員2人は泳いで逃げ助かるがエリックは船と財宝とともに海に沈んだ(←この詳細は字幕には訳されていなかった)。こうして海は財宝を取り戻し、邪なエリックは死に、罪なき船員は助かり、そしてジェラールとマニーナの純愛は成就する。これはやはり寓話というしかないが、清々しいお話と言えないこともない。後に大女優となり、そして映画界や女優業がイヤになって辞めてしまったブリジット・バルドーだが、そして以後もっと独自のスタイルを完成させたバルドーはもちろん魅力的だけれど、このまだ演技も上手とは言えない若いバルドーは魅力的だった。そしてまたそんな彼女のこれ以後の人生を考えると、自分で選んだ道だとはいえ、なにかとっても不憫にも感じられてしまう。マニーナのようにジェラールとの純愛が実り島で幸せな生活、それはバルドーにはなかったのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.02
コメント(2)

父の仕事の関係で子供の頃の数年間パリに住んでいたことは前回書きましたが、そこでボクは普通の公立のパリの小学校に通っていました。当時は日本人学校のようなものは、補習校すらありませんでした。パリに行ったのは小学3年生の終わる直前の2月だったのですが、もちろんフランス語のフの字もわからず、最初は1年生のクラスに入れてもらい、少しずつ上の学年にお引越し。さて前回のように具体的映画作品の中のシーンをあげるのは難しいのですが、つまり記憶にあまりないのですが、『男と女』でしょうか。これは普通の学校ではなく私立の寄宿制の学校ですが、子供を預けてあるドーヴィルの寄宿学校に日曜日子供に会いにきたアヌーク・エメが夜子供を学校に送っていくシーンがあります。映画的にはここで遅くなって列車に間に合わなくなってしまい、同じくパリに帰るジャン=ルイ・トランティニャンに紹介され車で送ってもらうことになり、それが2人の出会いとなるわけです。このシーンで階段をよちよち登り学校の門に向かう子供をアヌーク・エメは「早く、早くして」って急いでいます。この学校の扉が2つの責任世界の境界なんですね。それで自分の責任世界にまだいる子供が学校の責任世界に入るまで見届けているわけです。『ピアニストを撃て』もう1本やはり古い映画ですがトリュフォーの初期の作品です。兄のしでかしたことで主人公シャルル・アズナヴールを待ち伏せしている悪党2人の車のフロントグラスに、まだ子供の弟が友達と牛乳か何かをひっかけるシーンがあります。怒った悪党は走って逃げる子供たちを追いますが、子供たちが道に面する学校の扉をくぐったとたん、それ以上追うのをやめてしまいます。これって実は悪党でなく子供の親であったとしても学校の中には無断で入れないからなのです。あとは『Le Pellican』(1973)というジェラール・ブランの映画にも学校出てきましたが、これは本国フランスでもあまり知られていない映画ですね。良い作品なんですが。そこでボクが体験したパリでの学校生活を描写してみます。あくまでボクがパリで通った2つの小学校の例であり、またかなり以前のことであり、他地域や現在の状況とは同じではないと思います。学校は木曜と日曜をのぞく週5日間で、朝8時半から11時半と午後1時半から4時半でした。現在は土曜の午後が休みだったり、1972年9月新学期からは木曜ではなく水曜が休みのようです。この日はまだ小さい子供なので休息デーでもあり、またカトリックの国ですから公教要理、つまり教会などに行って宗教教育を受ける日なわけで、公教育は宗教に関わらないということでもあります。11時半から1時半は2時間の昼休みで、希望者には給食もありますが、生徒の9割以上は家に一度帰っていました。つまりは毎日8時半と1時半の登校、11時半と4時半の下校と、各2回ずつあるわけです。まずカバンを持って(あるいは背負って)8時半前に登校します。低学年の子供は親や姉・兄や、お金持ちの家庭では女中さんとかが学校まで送ってきます。そしてそれは既に書いたように学校の扉に子供が入るまでで、そこから先へは生徒以外は入れません。生徒である自分はそのまま校庭に向かいます。入ったすぐにはコンシエルジュ(門番)がいますし、校庭に向かう途中にも先生がいたりするのでイヤでも校庭まで行かされます。フランス文学を読むと学校の描写でプレオー(雨天練習場と訳されている)というのが出てきますが、校庭よりはやや狭めだけれど屋根のある校庭のようなもので、雨が降っていればそこに行く。そして校庭やプレオーで始業の時間がくるまで遊んで待つ。見張りの先生が当番制かなにかでいつも1~2人いるので、喧嘩とかあれば引き離すし、トイレは別室ではなく校庭に面して個室のドアが並んでいます。時間が来ると各担任が決まった位置に立ち、各クラスの生徒は順不動に担任のところに整列し、揃うと整列した生徒を担任が教室まで導きます。教室では必ず担任がいるわけで、音楽とか別の教師が担当の時間にはその教師が教室に来るのを待って入れ代わります。休み時間になると担任が生徒を廊下に整列させ、校庭まで導きます。休み時間の校庭やプレオーでのあり方は朝と同じ。また休み時間が終わると始業時と同じく整列して教室へ。11時半頃になると同じように担任が生徒を整列させて玄関へ。特に低学年では親等迎えの人の顔を見るまで各生徒を外には出しません。これが午後またもう一度繰り返されます。まあ何とも面倒臭いシステムのように感じられる方もいらっしゃるかも知れませんが、ポイントは子供は一時も大人の目から離れないということと、学校の門を境とした徹底した責任所在の明確化です。登校時刻が終われば入り口には鍵がかけられるわけで、訪問者はコンシエルジュを介してしか学校内に入ることはできない。つまり神戸での事件のようなことはあり得ない。あるいは子供が大人の目から離れることはないので休み時間にベランダでふざけていて生徒が落ちて死んだなんてこともあり得ないわけです。当時のフランスの成績表(原本は学校保管なので写しです)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.01
コメント(2)
全12件 (12件中 1-12件目)
1


