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LE HEROS DE LA FAMILLEThierry Klifa103min(DISCASにてレンタル)この映画を見てから3週間ぐらい経ちました。忙しい、時間がない、寝不足で何かを書いている気力がない、と言った条件があったのは事実だけれど、この映画について書く気があまり起こらなかった。3週間たった今思い起こしてみると、見ているときはそこそこ面白かったし、かなり細部は記憶しているけれど、印象としてはあまり強くない。映画やテレビドラマを見たり、本を読むと、作品自体の質とは別に、(作中人物への)感情移入とは限らないけれど、小さい頃からボクは物語の世界を感傷的(?)に持ち続ける、言ってみれば夢見勝ちな傾向があるのだけれど、この作品にはそれがありません。何故かな?、って考えてみました。この物語の世界や人物に関心・共感が持てないか、あるいはリアリティーの欠如が原因なのだと思います。何仏ニースで伝統的な小さなキャバレー 青いオウム、そうパリのムーランルージュの規模を小さくさたような、そして地元の人々の生活に溶け込んできたような店を経営する初老のオーナー・ガブリエルが突然死ぬ。この映画の原題は「一家のヒーロー」といったような意味で、そのヒーローとはこの死んだガブリエルのことだろう。そんな彼の葬儀で散り散りになっている家族が集まってくる。家族と言っても血縁ではなく、オーナーを助けて中心的存在として(あるいはそう自分では思って)いたニッキ-の元妻や子供たち。ニッキ-はアルジェリアからの移民の子で、15才のときにオーナーに拾われ息子同然に育てられ、一時は手品師としてテレビ番組をも持っていたほど人気があった。ニッキ-には元妻アリスと間に息子ニノ、彼の手品の胴を切られるアシスタント役をしていたシモーヌと一夜限りの情事で出来た娘マリアンヌの2人の子供がいた。公証人の下で遺書を開封してニッキ-はびっくり。なんと家屋敷も店鋪も自分ではなくこのニノとマリアンヌに託されていたのだ。2人の義孫(?)はガブリエルおじいちゃんを慕って育ったようだけれど、父親ニッキ-には反発があり、そのせいか2人は堅気の仕事について父親からは離れていた。ニノは会計士であり、マリアンヌは出版者の編集者。そんな2人が経営状態も思わしくない店 青いオウム を続けようとするはずもなく、結果ニッキ-は路頭に迷う身となる。邦題『輝ける女たち』は意訳ながらなかなかの名訳かも知れない。この映画の主要登場人物は既に上に紹介したニッキ-と元妻など女性2人、息子と娘、そして現在 青いオウム で歌う歌手レアで、死んだガブリエルを除くと女4人と男2人。(男1人息子ニノもだけれど)女4人はそれぞれに人生を切り開いて「輝いて」生きている。それに比してニッキ-は、なるほど手品の技術は高く、一時はマジシャンとして名声を博したことはあっても、いつも受け身の人生で、もしかしたら一種のダメ男かも知れない。そんな彼の人となりをガブリエルは良く知っていたんでしょうね。だから店を彼に継がせることは、彼のためにもならなければ、時代の流れで既に今のままでは経営も難しくなっている店の将来もおぼつかない。それで彼に対して反目している子供2人に店を託したのでしょう。(以下ややネタバレ)物語はそれぞれ過去の秘密等を抱えた人々が反目し合い、理解し合い、結局は予定調和的に安易に収束する。つまり子供たち2人が店を改装・変革して経営を続けることになり、それでもニッキ-は留まらずに外の世界に一人旅立つ。もちろんそこに予想(期待)されるのはひと回りも二回りも成長したニッキ-がいずれ店に戻ってくること。言いたいことは判らないではないけれど、あまりにも安易で、その 何故 が思わせぶり、ないしはちゃんと描かれていない。人生観や喜怒哀楽もありきたりで、ありきたりならそれも良いけれど、そこに必要な説得力がない。二流映画に良くあるパターンで、「そういうものとして理解してね」ってだけで実際に深く追求されることも描かれることもない。ベアール、ミュウミュウ、ペラス、ドヌーヴ、ブラッスール、ランヴァン、コーエンと新旧の錚々たる俳優陣を集めているから華やかで、見応えがないわけではないけれど、せっかくこれだけの人を使ったのなら、もっと重厚な人間描写・ドラマであったらと、残念でした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.29
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THE DREAMERSBernardo Bertolucci114min(Discasにてレンタル)ポストレンタルDISCASのジャンル区分は「洋画エロチック」で、タイトルにもR-18ヴァージョン。でも決してポルノチックな作品ではありません。この映画、どうも日本での評価はイマイチと言った感じだけれど、傑作ではないにしてもベルトルッチらしい面白い作品でした。すべてではないけれど、ベルトルッチのテーマには政治ないし社会と個人の関係があると思う。そのうちレビューをちゃんと書かなければならないと思っている『シャンドライの恋』もそう。日本語タイトルが示すようにシャンドライの恋の物語ではあるけれど、背景は彼女の場合も相手のキンスキー氏の場合も、かなり政治的&社会的。最初期の作品『革命前夜』から既にその傾向がある。誰しもプライベートな生活に専念して生きられれば幸せなのだけれど、そのプライベートな生活の基盤にあるのは社会であり、政治であり、だとするとプライベートな生活の平穏を犠牲にしても社会・政治に、例えば反政府運動とか革命とか、そういうことにも関与しないわけにもいかない。この葛藤が描かれた(少なくとも暗に描かれた)作品が多いような気がします。そして個人的な、プライベートな生活の一つの究極は、性愛を含めた個人の愛情的生活で、だからこの映画にしても、『ラストタンゴ・イン・パリ』にしても性描写もある程度深く追求されるということでしょう。この映画の背景は68年の五月革命。この1968年というのは世界的に学生紛争の年だった。第二次世界大戦が終わって十数年。戦後の復興期も一段落して社会の制度上の色々なことに目が向けられたのだろう。また世界には東西対立とベトナム戦争があった。東大紛争もこの68年の1月にインターン制度の廃止に抗議した医学部の学生のスト突入に始まり、この年の卒業式は中止され、翌69年の入試も中止された。フランスでもキッカケは教授制度に反対するストラスブール大学で2年前に起きた民主化要求の学生運動だったが、ただフランスでは学生運動にとどまらず、労働者も合流してゼネストに突入し、社会全体を巻き込んだ紛争となった。フランス人にとっては各自が各自、社会や自分の存在の意味を問う事件だった。ド=ゴール大統領は議会解散・総選挙を余儀無くされた。フランス語では単に Mai 68 で「68年5月」だが、日本等で 五月革命 と呼ばれるゆえんだ。この映画に主演したルイ・ガレルは『内なる傷痕』『白と黒の恋人たち』『ギターはもう聞こえない』などの映画の監督、ゴダ-ルの再来と言われたフィリップ・ガレルの息子(ちなみにフィリップは俳優モ-リス・ガレルの息子)。フィリップ・ガレルはこの68年に20才だったが、そんな20才の自分の分身として『恋人たちの失われた革命』では20才の息子ルイ・ガレルを使った。息子ルイは結局21世紀初頭に父フィリップ・ガレルとベルトルッチ2人の映画で五月革命の若者を演じることになる。五月革命は解散・総選挙を勝ち取り、またいくつかの制度改革にはつながったが、結局は一種の挫折に終わる。赤い革命も黒い革命も成功はしなかった。ウィリアム・クラインのドキュメンタリー『革命の夜、いつもの朝』ではマルグリット・デュラスやアラン・レネの顔も見えたが、このフィリップ・ガレルをはじめ、当時熱くなった人々、特に知識層にとってのその後は、この挫折感からのスタートとなり、心に消すことのできない傷痕を残していると言えるだろう。その背景には旧植民地などアフリカ系国民との問題もあれば、労働者などの無産階級と有産ブルジョワ階級という社会構成、労働者と知識層の対立等の根本問題もある。 この映画の主演の双児の姉弟(イザベルとテオ)も、革命を標榜し、部屋には毛沢東の写真が貼られていたりするが、知識階層で有産階級の作家の父親の庇護のもとに生きている。そこに一種の傍観者としてアメリカ人留学生を登場させる。彼(マシュ-)はシネマテックに通い、映画狂として映画狂の姉弟に気に入られるのだけれど、過去の名作のシーンが挿入され、映画狂の映画談義が繰り広げられる。その1本にゴダ-ルの『はなればなれに』(1964)がある。この映画にアンナ・カリーナ、サミ-・フレイ、クロード・ブラッスールの女1人・男2人でルーブル美術館を駆け抜ける有名なシーンがある(アンナ・カリーナの楽しそうな笑顔が忘れられないシーン)。記録は9分43秒。映画狂のテオとイザベルはマシュ-を加えて3人で記録に挑戦。結果は9分28秒で新記録樹立というわけなのだが、一緒にこの記録に挑戦する男性を待っていたのはテオとイザベルではなく、映画狂の女1人・男2人を主演させた映画でこのシーンのパロディーを撮りたかったベルトルッチだろう。見ているボクも楽しかった。イザベルは1959年生まれと言う。それでは68年には9才となってしまい本当ではないのだが、1959年はゴダ-ルの長編デビュー『勝手にしやがれ』の年だ。(ヌーヴェル・ヴァーグまっただ中なのだけれど、それにしても1958~59~60年は名作揃いの年。『勝手にしやがれ』『二十四時間の情事』『甘い生活』『いとこ同志』『大人は判ってくれない』『獅子座』『情事』『唇によだれ』『太陽がいっぱい』等々。)グレタ・ガルボやバスター・キートンの映画シーンも挿入され、自殺もどきシーンではロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』のラストシーンの引用、ヌーヴェル・ヴァーグの代表俳優とも言えるジャン=ピエール・レオも登場させるなど、古い名作映画をその価値とともに知っているシネフィルにとっては見ていて実に楽しい映画だ。話が映画の中心的ストーリーからそれてしまったけれど、五月革命の紛争でパリの街は騒然とする中、両親が旅行に行って留守なのを良いことに、イザベル・テオの姉弟はマシュ-を家に連れ込んで引きこもり、奇妙な三角関係の怪しい生活を始める(これは社会・政治からの逃避)。姉弟は近*親*相*姦的に結ばれているのだけれど、これはもともと双児の二人の個我が未分化で、二人が子供であることに固着して大人になれていないことの表現だろう。マシュ-は映画狂として二人に気に入られるのだけれど、そうした未分化の二人の精神的成長の内なる欲求・葛藤があって、そのための触媒としてマシュ-を必要としたのだと思う。だからテオは映画クイズに答えられなかった罰ゲームとしてマシュ-とイザベルに目の前でセックスすることを要求し、イザベルはマシュ-を相手に初めての男性経験をすることになる。しかしこれはまた実際の肉体的近*親*相*姦には至らないでいたテオがマシュ-に同化してイザベルと関係することでもあったのだろう。結果としてイザベルはテオ抜きのマシュ-との恋人関係を持つことにもなり、彼女としてのテオからの分離でもある。ドリーマーズとは夢見る者の意味だけれど、ちょっと笑える毛沢東の行灯が象徴するように、二人にとっての革命もいわば現実性の薄い夢の世界でもある。マシュ-はあくまで触媒であり、役目を果たせば自分は変わらずに残る(捨てられる)のみだ。姉弟は暴力的闘争を良しとしないマシュ-を残して、革命の闘争に身を投じてゆく。二人はここでも一緒だけれど、これは夢から現実へ出て行ったのだろうか。それともまだ二人一緒という夢の中だろうか。いずれにせよ革命の夢の後に待っているのは挫折感だろう。(註:「近*親*相*姦」は*を入れないと禁止されているワードとしてアップできなかった。ここに表現の自由はない。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.28
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UN COUPLE PARFAITNobuhiro Suwa108min(桜坂劇場にて)物凄い美人っていうのではないかも知れないけれど、どこか不思議に恐ろしく魅力的で、そしてきっとかなり知的な女優さん。オゾンの『ふたりの5つの分かれ路』でも良かったけれど、ちょい役ながらヴァンサン・ペレーズの『天使の肌』の弁護士役は彼女の人間に対する理解や優しさが表現されていてとっても魅力的だった。そんなヴァレリアが主演で、一方監督としてはかなり好きな諏訪敦彦(←これでスワ・ノブヒロと読むらしいのだけれど、パソコン入力のときはスワ・アツヒコにしている)。最近は時間があまりなく常時寝不足気味で、夕方の4時~7時までの3時間は通常の睡眠時間なのだけれど、見に行かないわけにもいかないでしょっ!、ってわけで桜坂劇場16時10分の回を見に行ってきた。自分にとっては今年見たベスト5、少なくともベスト10には入る作品だった。諏訪敦彦の作品はこのブログでも『2 デュオ』、『M/OTHER』、『H Story』を取り上げている。印象として『2 デュオ』はやや薄いけれど、3作どれも面白かった。特にアラン・レネの名作『二十四時間の情事(ヒロシマ、モナムール)』の一種のリメイクの『H Story』はフランス盤DVDを安価に買って持っているものの1度半しか見てなくて、それも約1年前。でも今でも鮮烈に印象が残っている。諏訪監督の映画の撮り方はセリフ台本がなく、事前に役者と綿密に話し合い、役者の即興に任せるという演出。でもあの叙情は何なのだろう?!ってくらいに『H Story』は心に沁み入るものだった。先日ある人と映画の話をしていた。その人曰く「車はあんな風に爆発はしない」とかとか・・。確かに映画ってリアリティーがあるように見せ掛けながら、実はそれらしい作り事。でも車の爆破といった物的なことでなくても、映画における会話の場面なんていうのも現実にはあり得ないようなもの。映画では10分なんて1シーンは物凄く長いのだけれど、例えば男と女の別れ話なんて10分そこいらで終わるものではない。何度も同じことを蒸し返したり、長い沈黙があったり、そんなこんなで現実には数時間や一晩の場面なのだ。それを10分なら10分の場面に(現実にはもっと長い場面の抜粋ではなく、あたかもその10分ですべてが生起したかのごとく)上手いこと要約した脚本、それが映画。そう言えばアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』は別れ話をきっと一晩して夜が明けた重苦しい早朝の場面から始まる。これは正直なリアリティーかも知れない。この映画は15年連れ添った夫婦が別れる、別れない、というお話。夫ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)は建築家、妻マリー(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)は元写真家というアーティストカップルで、今はリスボンに住んでいる。友人の結婚式でパリにやってきた2人がホテルに向かうタクシーの場面で映画は始まる。ホテルに着いて、部屋にエクストラベッドを入れてもらう。離婚を決めたらしいから、セパラシオン・ドゥ・コール(肉体の分離)というやつですか。こういう点ははっきりしていますね、フランス人は。なんとなくギクシャクで、会話も少ないのだけれど、自分の方が(簡易の)エクストラベッドに寝ると言い合ったり。なんとなく不満とかやり場の無さとか、意地の張り合いとか等々。複雑な思いですね。どちらかに愛人が出来たとか、そういう明らかな離別の理由はない。ただ相手に対する不満のようなものも感じてしまっている。でもそれって自分の人生の不満を相手に転嫁している感じでもある。そして何より互いに未練がないわけではない。そういう揺れ動く心理を描いている。レストランでの友人との食事。マリーがロダン美術館に行って物思う場面。結婚パーティー。ニコラの深夜の徘徊と、カフェでの老人との会話とパーティーで知り合った女性を呼んでの会話。再びロダン美術館を訪れたマリーがボルドーの高校時代の友人に偶然会っての会話。そういう場面を経て、ポルトガルには戻らず一人ボルドーに汽車で発つというマリーとそれを見送るニコラの最後の駅のホームの場面。そんな108分の映画は、揺れる2人の心を良く描いている。あるいは2人の役者が演じている。上の方に書いたように映画には普通セリフ台本があって、監督なり映画全体が一つの物語を観客に物語って見せる。でもそこで役者は何をするかと言えば、作り話である人物を演じる。中には本人が役に成り切るタイプの役者さんもいるけれど、そうでなくても役者が自分の経験等に則してその作中人物を理解して演じる。アニメや人形劇映画と違って、どんなに独断的独裁的演出の監督の下であっても、この役作りをする役者という人間が存在するのが映画の面白さだ。「自分の俳優たちのドキュメントを撮る」と言ったのはユスターシュだし、「自分の映画は映画作りに関するドキュメンタリーだ」と言ったのはフィリップ・ガレルだ。それなら設定だけを与えて役者に自ら演じさせるのはそのような方向性の一つのやり方ではないだろうか。そしてそのようなやり方で巧みに映画に仕上げていく諏訪監督の手腕は大したものだ。撮影開始2、3日後くらいに一緒にラッシュを見ながら諏訪監督はヴァレリアに言ったと言う。「ねえ、マリー、君は女優じゃなくて、ただの一人の女性なんだ」と。ブルーニ=テデスキは「感情表現のレベルを下げるように」という監督の注文だと理解したようだが、その背後にあるのは、役者的に役を演じ表現することのある種の否定だ。ここで監督が「ねえ、ヴァレリア・・」ではなく「ねえ、マリー・・」と言っているのも面白い。今回も前作『H Story』と同じくフランスの名撮影監督キャロリーヌ・シャンプティエがカメラを担当している。彼女はゴダール作品のカメラも回しているし、フィリップ・ガレルの『ギターはもう聞こえない』も撮っている。ちなみにこの『ギターは・・』も大好きな作品でレビューを書かねば・・と思っている。今回はあまりフランス語の出来ない諏訪監督がフランスでの撮影であり、単なる「カメラ番(cf:小津安二郎)」からは程遠い大きな役割を果たしているらしい。エンドロールでもNobuhiro Suwaと2人同時に同サイズの文字でCaroline Champetierとクレジットされていた。それにしてもヴァレリアは素敵ですね。カップルの別れ話ということでオゾンの『ふたりの5つの分かれ路』とも多少つながるけれど、彼女の自分や他者の人間の尊重という性格でしょうか。『M/OTHER』の渡辺真起子、『H Story』のベアトリス・ダル、そして今回のヴァレリア・ブルーニ=テデスキと、思うに諏訪流の撮影法は男優より女優に有効なような気もします。やはり男性よりも女性の方が頭ではなく生理で演じる面が強いのかも知れません。ヴァレリアのそういう自己表現的演技が見られるのが嬉しい作品でした。先日『沙羅双樹』が良かった河瀬直美監督のカンヌ・グランプリ作品『殯の森』も桜坂劇場でやっていて、こちらも見にいかねばと思っているのですが、もう一度この『不完全なふたり』を見てしまいそうな気もします。ちなみに原題「Un Couple Parfait」は英語訳すれば「A Perfect Couple」で「ある完全なカップル」。日本語とは真逆のような感じですが、皮肉でも反語でもないと思います。あまり上手くいっているカップルというのは、ある種欺瞞と言わないまでも、信じ込みとか思い込みとか我慢のようなものがあるのかも知れない。そんな意味で2人あくまで別々の人間が作るカップルというのは、決して1つにはなれない、あるいはなるべきではない、こういうものだという意味で、このカップルは完璧にカップルらしいカップルだ、という意味なんだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.26
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8 FEMMESFrancois Ozon103min(DISCASにてレンタル)フランソワ・オゾンという人は現代のフランスの映画監督の中では日本でも知名度が高く、好きな方も少なくないようですが、ボクは好きでも嫌いでもない、まあ関心の薄い監督さんです。なのでそれほど多くは見ていませんが、『スイミング・プール』も『まぼろし』も特に面白くはなかった。中では『ふたりの5つの分かれ路』が良かったけれど、それは主演のヴァレリア・ブルーニ=テデスキが素敵だったかも知れません。現実と妄想と小説を混交させたり、死者のまぼろしを画面に登場させたり、時間を遡ったりとやや奇をてらったところはあるけれど、映画作りとしてはどちらかと言うと古風な好みを持った人だと思います。そして感覚としてはこの人は女性恐怖症なんではないでしょうかね?。ゲイらしいけれど、女が本当は好きなんだけれど、だから強く惹かれもするのだけれど、でも勢力的に負けてしまうというか、勝てないというか、で女性が恐いっていう人のような気がします。『まぼろし』でブリュノ・クレメルは妻シャーロット・ランプリングや母親に勝てなくて何となく生きる気力をなくしてしまうし、『スイミング・プール』のイギリス人編集者は作家シャーロット・ランプリングに翻弄されるし、『ふたりの5つの分かれ路』の夫も妻の おんな性 を上手く受け入れてやっていけないし、ストーリー的にもそうですね。そんな彼の女性観の集大成とでも言えるのがこの『8人の女たち』かも知れませんね。ほとんど登場しない一家の主人が冒頭で殺害されているのが見つかる。妻やその母やその妹、2人の女中、自分の妹、2人の娘、合計で8人の女性たちが雪で閉ざされて密室となった屋敷に閉じ込められて、誰が犯人なのかと女同志のやり取りが繰り広げられる物語なのだけれど、いかに彼がその女たちに翻弄されていたかが描かれるわけです。カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・ユペール、エマニュエル・ベアール、ファニー・アルダン、ヴィルジニー・ルドワイヤン、ダニエル・ダリュー、リュディヴィーヌ・サニィエ、フィルミーヌ・リシャールと新旧の豪華な女優陣が演じているのは壮快です。サスペンスものなので詳しいストーリーを書いてネタバレはしません。一人いちばん父親の味方のような登場の仕方をするいちばん若いリュディヴィーヌ・サニィエですが、そんな彼女も実は父親(男)の本当の味方ではないですね。彼女は結局父を絶望に追い込むわけですし、したり顔の彼女の愛情自体が実はこの父親(男)にとっては女のうざったさなのかも知れません。上に掲載したポスターに赤い文字で「L'une d'entre elles est coupable. Laquelle?」(彼女たちの誰かが犯人。それは誰?。)とあるんですが、実は全員が犯人だと言いたいのかも知れないですね。この映画は半ばミュージカル仕立てと言うか、ところどころでそれぞれがシャンソンで気持ちを歌うという構成なのですが、もともとフレンチポップスっていうのは歌詞による表現重視で気持ちや物語を歌う側面が強いので、ある種似たような作りの『ドリーム・ガールズ』なんかより遥かに気持ち良く見られました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.16
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沙羅双樹 aka SHARA河瀬直美 Naomi Kawase99min(DISCASにてレンタル)河瀬直美というと『萌の朱雀』でカンヌ最年少カメラドール受賞、『殯の森』ではグランプリ(審査員特別賞)受賞で有名ですが、彼女の映画を見るのは今回がはじめて。今月末から桜坂劇場で上映される『殯の森』を見にいく予定なので、一種の下勉強としてレンタルしました。ある種の雰囲気を持っていて、それに合わせた適切なエクリチュールを持った映画だと思いました。故里性と、なんと言うのか素朴主義のようなところが、ある意味大林宣彦なんかに近いかも知れませんね。故郷奈良に対する自分の思いを語り、また生活観・人生観・生死観のようなものを語り、自らも出演して演じ、それを長回しの手持ちカメラで追い、ポエティックでもありまたドキュメンタリー風でもあって、とっても私的な映像が美しいのだと感じました。高校生の主人公 俊 が幼馴染みの同級生 夕 をモデルにデッサンをしているシーンがあります。最初スケッチブックを手にデッサンしている俊を正面から捉えているカメラは、俊が床に落とした鉛筆に下方にティルト移動し、そのまま床をなめながらまた上方にティルトしてモデルを務める夕を捉え、そのままパンして夕の後姿と俊のを前からやや斜めに画面に収める肩なめショットに移行する。冒頭の5年前のシーンで小学生の俊は双児の兄圭が迷路のような奈良の路地を走っていくのを後から走って追っていく。5分ぐらいの超長回しだけれど、その2人を実はカメラが追っている。同種のシーンは後に夕を乗せた俊の自転車を延々カメラがやや上方から追う長回し。この視点が独特です。この映画、誰の(感情的)視点で描かれているかがはっきりとしない。俊が感情的中心とも感じられるけれど、中心は夕でもあるかのようであり、また俊の両親や夕の母だったりもする。つまりこの感情的視点の不明確さは、実は感情的視点は監督(ないしカメラ)にあるからだと思います。自分が自分であって、でも外から見ている感じもある夢の中の視点に近いのかも知れません。そういう風にとても私的な語りの世界で、それが魅力的。(以下ややネタバレになりますが)麻生家は伝統的墨職人の家で、両親と双児の兄弟の4人暮らしなのだけれど、5年前の夏のある日、一緒に遊んでいた兄弟の一人 圭 が突然走り出し、俊は迷路のような狭い路地を追っていくのですが、ある角を曲がったところで圭の姿が消えてしまう。この失踪が心理的に解決できずにいる麻生家。父は3年前に再開したバサラ祭といいう地域の祭の実行委員を積極的にすることで心の解決をしようとしている。俊は圭の等身大の肖像画を描くことで心を整理しようとしている。母は路地栽培で野菜等を作り、大地や自然の摂理に従っていて、夫や息子の2人よりはあるがままを受け入れている感じで、今新しい生命をお腹に宿している。ある日刑事が家を訪れ行方不明の圭の消息が分かったと知らせる(映画では詳細は何も明かされませんが)。俊の幼馴染みの同級生 夕 は豆腐料理の料理屋を営む母と2人暮らしなのだけれど、実は出生の秘密があってそれを母から聞かされる。そんな翳りを抱えた俊や夕、そして2人の親たち3人。バサラ祭が行われその先頭で踊る夕。祭の熱狂の中に生のエネルギーが発散される。そして新しい生命を4人に見守られて出産する母。こうして生きることが再生され、受け入れられる5人の物語です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.15
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