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2019.02.10
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カテゴリ: 寺社
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​  2月4日……池上梅園を拝見してから、近隣の寺社をブラブラ……


 理境院山門を出た私……


 左をみたら池上本門寺の石段ではありませんか……なんと理境院の山門は、本門寺総門の内側にありました。ビックリでした……総門内に山門を持っていることからも理境院の位置づけがうかがえました。


 ​ 池上本門寺の石段 ……​この石段、加藤清正(1562~1611年)の寄進によって造営されたと伝えられ「法華経」宝塔品(ほうとうほん)の偈文(げぶん)96文字にちなみ、96段に構築されているそうです。
 偈文とは『仏教で、 偈を記した文章 』…… 偈とは『仏典の中で、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの』と、辞書にありました。ちなみに多くは「げもん」と読ませるみたいです。上記で「げぶん」としたのは、境内の説明文にしるされた文言を引用しました。
​​
​ 石段の右側に 「女坂」 (白っぽいのです)が整備されました。前の写真だけでも良かったのですが、女坂も入れたくてわざわざバックして撮りました。つづら折りっていうのか、緩やかですが161段らしいので段数は1.7倍程になっちゃいますが……もっと言えば総門を入らず右折して「池上会館」のエレベーターを使わせてもらう手もあります。後で書く朗師坂の上に出られますから、足の悪い方でも平行移動で参拝できます。​


 記憶にある限りでは、この石段を上ったことはない私……上れども上れども頂上は遠かった~ でも、先に歩き始めた若者たちは抜きましたけど……


 ​​ 此経難持坂(しきょうなんじさか) ……​と呼ばれるみたいです……右に書かれていました。


​  池上本門寺仁王門 ……​以前もお邪魔したので、この日はここで手を合わせて失礼しました……ごめんなさい。


 振り返ると……前日だったらたくさんの人で大変だったことでしょう……プロレスラーが多いのですが、豆撒きは他にどんな方がいらっしゃったのかしら? 
 この石段とても疲れましたが、
私はまだまだ厳しい96段で頑張ります。


 ​ 日蓮大聖人説法像 ……祖師堂・本殿へは進まず、石段上の東方向におられました。こちらも記憶している限り初めてです。​


 宗祖七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので、斯界の権威 北村西望先生の制作だそうです。
 険しいけれど、良いお顔をなさっておいでです。

​​ ​​ ​​

​  日本看護婦会慰霊塔 ……墓地の一角にありました。​
『昭和12年に勃発した日華事変から大東亜戦争の終結までに日本赤十字が派遣した救護班は960班、延べ人員33,156人の「戦時救護看護婦」が戦地に派遣され、戦地における敵襲・病院船への魚雷攻撃・病院勤務中の空襲・原爆による殉職救護員は1,143名、負傷者は4,689人に達した。しかし従軍したのは日赤の看護婦だけではなく、陸・海軍の召集看護婦「ひめゆり学徒隊」等女学生にも及び、その方たちの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上るが、正確な記録は残されていない。』そうだが、次のさらなる事実を私は知らなかった。
『戦後、昭和25年に朝鮮戦争が勃発した際、九州地方では日赤をはじめ国立、公立、民間から千人以上の看護婦が再び召集され、米軍博多キャンプの野戦病院において米軍看護婦の指揮下で働かされ、また南朝鮮の戦場に送られ米軍傷病兵の看護にあたらされた看護婦もいた』……と……現首相はご存じなのかしら?
​​
 殉職した従軍看護婦の慰霊碑・慰霊塔は「日赤」をはじめ「靖国神社」「山梨県護国神社」「舞鶴引揚記念館」「呉海軍基地」などなど全国各地にあると聞く……合掌……戦争が繰り返されないことを切に祈ります。

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​  朗師坂(ろうしざか) ……​池上本門寺の墓地南側を東に歩くとありました。
 朗師とは日蓮門下六老僧の一人、日朗(1243~1320年)のこと。日朗は祖師入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵をつくり、以後30有余年毎日この坂を上り、山上の日蓮御廟所(ごびょうしょ)へ参拝したそうです。みなさんご立派な方ばかりです。

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 降り切ると池上小学校だと思います……さすがに途中までしか行きませんでした。照栄院からだったら此経難持坂を上るより近いでしょうが、当時は石段なんかじゃなかったのでは?


​  朗師坂改修の石碑 ……​月村初五郎さんが尽力されたのでしょう。昭和36年7月とありますが、連れ合いの生まれる前からある石碑です。これから何百年もここに名前が残るんですね。 ​​


​  永寿院山門 ……​墓地の切れ目を南東に入ったあたり……池上会館の東側です。
 寛永7年(1630年)7月、本門寺16世として心性院日遠聖人が晋山。日遠聖人は翌年5月本門寺を弟子の日東聖人(本門寺17世)に任せ鎌倉に隠棲。その際に日遠聖人の隠居所として日東聖人が建てた庵室が永寿院の始まりだそうです。当初は日東聖人の院号に因み「蓮乗院」と呼ばれていたとのこと……



 ​ ​不変山永寿院 堂​ ……​日蓮聖人御尊像底部には、寛永7年と開眼年が墨書きされ、胎内にはお題目と仏師の名が記された文書が収められているそうです。本堂は、明治末と大正年間に二度の火災に遭っているようですが、ご尊像を救い出された先師の思いの深さに感じ入ります。
 本堂前の松の枝ぶり、見事でした。



​  見守り観音堂 ……​山門を入ってすぐ左……
 種々な難に遭うときに『南無観世音菩薩』と一心に称えれば難を逃れることができると言われます。多くの人々の祈りが込められている観音様です。
 救いの手を素直につかめない人、そんなうまい話はないと疑いの心を起こす人……そんな人々の受けとめ方によって、千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音など様々な名前と形を変えて、観音様は私たちの前にお姿を現すとのことです。ありがたや、ありがたや……

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​  妙見(みょうけん)堂裏 ……永寿院を後にして、来た方とは逆を見たら目に入りました。 以前、照栄院を訪問した際、石段の足元まで行って上るのを断念 ​した私にとってはとてもラッキーでした。​
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 お堂をまわりこんで、反対側の石段……けっこう急なのですが、前回はバッテリーが切れちゃったので帰ってしまったのでありました。


 申し訳ないので、少しだけ下ってから参道を上りなおしました律儀な私です。前回のリベンジ…


​  妙見坂 ……​というんですね。前回は坂名は分かりませんでした。とにかくラッキー!


 ​ 百度石 ……​石段に近い方……確かもう一つありました。


​  妙見堂 ……​慶応2年(1866年)の再建で、明治時代に増築工事がされたそうです。
 妙見菩薩立像(木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高43㎝)を奉安する。この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛永4年(1664年)に、徳川家康の子で紀州徳川藩の祖である頼宜(よりのぶ)の「現世安穏後世善処(げんせあんのんごせぜんしょ)」を祈念して造像されたことがわかるそうだ。当時の本門寺貫主、日豊(1600~1669年)の開眼墨書銘があり、製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重とのこと。


​  手水舎 ……水道蛇口のひねり金具、ちゃんと付いていました。​


 本堂にむかって左の境内……奥になにやら並んでいます……以下に右から


​  いぼとり地蔵 ……​初めは呑川の南に鎮座した村方の地蔵菩薩だったのが、河川の氾濫改修等で徐々に北に移動し、ついに妙見堂まで上がってきたって。いぼに悩む人が参拝し、祠(ほこら)から小石を一つ頂き、朝夕それを患部に当てると不思議にいぼが落ちると伝えられているそうです。いぼが治ったときはその石ともう一つの小石を祠に納めるので、祠は小石であふれるため時々 土に埋めるんだって。僕もいぼが出来たらお願いします。 ​​


​  チャンギー受難者慰霊碑 ……​第二次世界大戦の後、シンガポールのチャンギーでBC級戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判があり、多くの被告が極刑宣告を受けてチャンギーで処刑された。照栄院の住職だった田中日淳上人は教誨師として死刑に立ち会ったとされるが、幸いにして極刑を免れ日本に帰国した人々が相談して、ここ慰霊碑を建立したそうです。慰霊祭は、毎年4月の第2日曜日に営まれるとのことです。つくづく戦争はいけません……


​  不思議いい話 ……​昔々、伊豆から一人の若い僧が「檀林(だんりん)」にやってきた。学期が終わった後、彼は一人妙見堂に籠って一週間の断食行……学問を修めていつかは貫首(かんしゅ・かんじゅ)となりたいと一心に祈る。行を終えてもうろうとしながら妙見堂の参道に立つと、大樹のもとに立つ一人の老人が言いました。「仏道の修業は猊座(げんざ)」に上って高価な法衣を着るためではない。地に降りて人々のかたくなな心の衣をはがすためだ。」と……僧がはっとすると、もう老人の姿はありませんでした。数年して学成った彼は故郷に帰りますが、後年、再び妙見堂を訪れたとき、あの大樹は台風で倒れていたのですが、彼はその木で老人の姿を彫らせてここに納めたと……
 ※[
檀林 ]=仏教寺院における僧侶の養成機関。
 ※[
貫首 ]=最上位の人。各宗派の本山や諸大寺の官長の呼称。
 ※[ 猊座 ]=仏のすわる座。転じて高僧の座。
​​

 ​ 樹老人祠 ……​池上七福神の一つです。残念ながら、初代の樹老人像はいつのまにか失われ、現在の像は後年の再刻だそうです。これまた残念ながら、拝見できませんでした。


​ 来るべき年の善星皆来悪星退散を祈り、毎年12月の冬至の日に 「星祭り」 が営まれるそうです。​早朝より十数人の僧侶が交代で読経を続ける他、午後1時には本門寺の貫首さまもお見えになり読経と法話をされるとのこと……拝聴したいものですが、12月22日、寒いでしょうね~ ​​
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 ​ 法養寺案内 ……妙見堂を後に少し本門寺の墓地方向にもどり、こ の日の散歩の最後はどうしても山王1丁目と決めていたので、 東の方角に進むとありました。​
​​ ​​

 道しるべの先を緩やかに右に曲がると、らしい景色ですが「お寺じゃないよ」と独りつぶやく私。左手は大森四中です。


​  堤方神社 ……​社殿・神殿の脇にでました。


​  堤方神社鳥居 ……右の工事中はおそらく神楽殿と思われます。​


​  手水舎 ……​


​  堤方神社社殿 ……​『創建の年代はわからない。もと若宮八幡社とよばれていたが、明治42年旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社、境内の稲荷神社を合祀し、翌43年堤方神社と改称した。(大田区の神社より)』
 ご神祭は大鷦鷯命(おほさざきのみこと)・仁徳天皇とのことです。

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 大木の手入れもきちんとなされていました。しかし空の青い青い、とても気持ちの良い日でした。


​  堤方神社の端から南東の景色 ……​池上本門寺境内・墓地からここまでが高台のようです。


​  紅 梅 ……二分咲きでした……
 ​しかし、毎度のことながら独り反省会ではたくさんの発見があります。とりあえず写真だけ撮ってきて、後で調べてみると知らないことだらけ……知ったからと言ってもどうってことはないのでしょうが、歩かない日の楽しみにもなっています。
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 この後は山王1丁目を目指しながら北東に進んだ私ですが、今日はここまで……
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 昨日のこの辺は大雪にならなくて助かりました。雲はあるけれど、今日はそこそこの天気……コピット散歩してこようかしら?​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2021.01.15 16:45:46
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