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「My First JUGEM」(リンク)『観乗寺』暑いから「気まぐれなページMkⅡ」は休刊……
2021.07.30
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京急・糀谷駅の南側を歩いた4月10日…… 大田区南六郷1丁目18……横切っているのは大田区主道要第102号線というらしい。前方350mほどには多摩川が流れていますが、見学には行かなかった~ 交通安全の守護神……【真言】おん あみりと どはんば うんはった そわか 馬頭観世音が祀られているのだろうが、祠の中はのぞけなかった。 馬頭観世音・馬頭観音……六観音の一つで、畜生道に迷う人々を済度(さいど)されるありがたい存在。旅の道中を守るほか、家畜の安全や健康を祈ります。 ※ 済度=苦しみや困難から救うこと。南無馬頭観世音… 川崎駅や蒲田駅に行かれるバスがあるんだわな~ これに乗れば川崎の居酒屋に行かれます。考えてみたら、川崎駅はさほど遠くない。直線距離で3㎞だものね~ 重幸稲荷神社……大田区本羽田1-7-14 こちらも羽田神社の兼務社「羽田七福いなりめぐり」の看板には「大野 重幸稲荷神社」……昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていたから。「羽田七福いなりめぐり」の3番札所(開運長寿)でした。『……度々の洪水に悩まされた村人達は、多摩川のほとり旧六郷土堤の際に、田畑の守護と五穀豊穣を祈って社を建立した。社前の道路は旧六郷土堤であり、現在の社の高さが旧堤防の高さであった。境内には樹令400年、幹まわり3.5メートルの楠の大木があったが、昭和20年(1945年)4月の大空襲で焼失してしまった。社前の道路が一部膨らんでいる事が、大木のあったことと歴史の古さを物語っている。』(穴守稲荷神社HPより) 御祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 昭和7年奉納のお狐様……左の建物は、一応、社務所兼町会館。境内を掃除されていた近所にお住まいだとおっしゃる男性と立ち話をさせてもらい、簡単に失礼しました。お邪魔してはいけませんから。 手作り感たっぷりの社でした。鼠に見えたのですが、狐ですね。 重幸稲荷神社の北側……この先のお寺に向かう途中で発見!! 大田区本羽田1丁目7 個人で祀ったお稲荷さんでしょうから立ち入り禁止。商売繁盛を祈ってでしょう。 竹純稲荷神社……と言うらしい。 ということで、今日も簡単におしまい。 本 楽天ブログの読み込みが極端に悪くなったから移転を考えています。19475MB使って17000枚の写真をアップしているし、ページごとに切れ目なく繋がっているのが悪いみたい。ということで、新しいのはよく分かりませんが他社を模索・試行中です。毎月数百円で広告なしにできるものを、とりあえず無料で実験してみます。
2021.04.30
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4月10日の大田区ブラブラ…… 大田区萩中にある萩中神社と7箇寺を訪問した後、すこし南へ……変則路は苦手なんだな~ 電信柱の住所表示は本羽田だけど、卓球場が「南六郷 」と謳うように、道路の右側は大田区南六郷。路地を入ったところに立派な卓球場がありました。コーチングスタッフがいてマンツーマンレッスンが受けられたり、計4台の卓球マシーンも完備しているそうです。休業依頼対象業種だから今は臨時休業中でしょうが、卓球好きの方には連休なのに寂しいですね。近かったら私も利用するんだけどな~ 大田区本羽田1-12-9……Googleマップには鳥居マークがなかったから、この日の予定には入っていなかったのに、突然出現。ラッキー!!! 妙法稲荷社……上田稲荷とも呼ばれるようだけど、江戸時代の当地周辺の地名らしい。こちらが裏参道でした。 鳥居扁額「正一位妙法稲荷社」…… 妙法稲荷社社殿……『享和元年9月(1801年)大洪水の被害から立直る為、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。大正12年(1923年)の関東大震災の折、大松も社殿も焼失したが、当地の有志により松の切株の上に八角堂が建立され、妙法稲荷と呼ばれ信仰を集めていた。昭和20年(1945年)の戦災によって八角堂は焼失したが、昭和31年(1956年)崇敬者並びに地元有志により現在の社殿が建立された。』(穴守稲荷神社HPより) 御祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)……この日、初めに訪問した萩中神社同様に羽田神社の兼務社でした。羽田神社は先日21日に行ってきたけど、日記に登場するのはまだまだ先だな~ さほど高さはないけど、大田区唯一の富士塚にも登拝してきましたっけ。 社殿右わきに、天祖神社(天照皇大神)が鎮座。 妙法稲荷社殿前から表参道……右は上田稲荷児童遊園だけど、誰も遊んでいない。 手水盤のマークはなにかしら?「狐塚」……碑だけあるけど意味不明。「酒匂和三郎翁 頌徳碑」……『翁ハ当地ニ生誕シソノ性温厚篤実ニシテ青壮年ノ頃ヨリ公共ニ盡シ 特ニ敬神崇祖ノ念厚ク当神社ノ為ニ献身的ニ仕ヘ顕著ナル功績アリ 然ルニ昭和四十四年惜シクモ他界サル 依テ翁ノ遺徳ヲ偲ビ有志相諮リ茲ニ此ノ碑ヲ建立ス 昭和四十五年7月建之』……疲れた~「酒」に「匂い」と書いて酒匂さん……「さこう」「さかわ」「さかこう」「さかい」などなど、さまざまな読み方があるようだけど二日酔いを連想されるから当事者は嫌かもしれませんね。小田原市立で酒匂(さかわ)小学校があるけど、近隣小学校の生徒からいじめられませんように…… 囚われの身……お狐様は逃げないように金網で囲ってありました。冗談です。動けずしても神様をお守りする存在です。 多数の鳥居からは近隣氏子さんの崇拝の念を感じます。 私が歩くには ちと低かった…… 表参道……また裏口入社をしてしまいました。 萩中神社に鎮座していた「東官守稲荷神社」で学習した「羽田七福いなりめぐり」の2番札所(招福厄除)でした。8社をめぐる七福いなりめぐりですが、この後「参番・重幸稲荷神社」には寄ってきたから、残る5社はそのうちに……でも天空橋の近くまで行かなくちゃならないから遠い。コロナが沈静化しないとダメだな~《独り言》 どうしても東京オリ・パラをやりたいのだろう。「高齢者向けの2回の接種を7月末までに終わらせる」と述べた菅首相を後押しするように、政府は大手町に新型コロナワクチンの「大規模接種センター」を設け、1都3県に住む65歳以上の高齢者を想定して「1日1万人規模の接種」を行うと言う。 予定している15階建てビル、1階で受付をした後、2,4,7階に分けて接種を行う想定だと。各フロアには会議室風の部屋が並んでいて、「予診票確認」「医師による健康確認」「ワクチン接種」「経過観察」との流れに沿って、接種者が部屋を移動していくと伝えられるが期待より懸念が先に立ち、尻込みする私。 外出自粛を求める中で、我々高齢者に電車やバスを乗り継いで来いと言う。自宅に近い所で接種できるほうが安心なのだが、じめじめする梅雨時に傘をさして足元の悪い中を歩けと言う。会場に到着してからも、上記の通り屋内を歩かされる。改修はするのだろうが、現在 階段に手すりはないと。元気な高齢者ばかりではないだろうに、7階まで上がれと言うのか。予約時間より早く到着するのが高齢者の常であり、その人たちの安全な待機スペースは充分に確保されるのか。電車の遅延により遅刻した場合はどうなるのか。思い付きのように「やってる感」を伝えるための道具にされてはたまらない。 規模に見合う医療従事者の人員確保も容易ではないだろう。記録の管理など、自治体との連携はミスなく行えるのか。厚労省はワクチン接種後に健康状態を聞き取る調査が28日時点で始まっていないと言う。接種の本格化は5月10日からだが、調査開始の見通しは立っていないと。唐突な施策には失敗が付き物であり、あらゆる角度からの綿密な計画と実行性を担保してから行うべし。 そうそう、オリ・パラ人数制限決定は先送りになどせず、即時中止を決断されたし。国民の安全・安心のために……
2021.04.29
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4月10日の散歩…… 真光寺……関東大震災後の昭和3~4年、築地から現在地:大田区萩中にそろって移転してきた7箇寺中 最後の訪問先。『節目あり 竹の子 けじめあれ 人の子』……誰の言葉か分からないけど、人にとって「けじめ」は大切だから「けじめのある行動」はとります。でも、国民・都民・県民をリードしていく方々には施策のけじめと対策の妥当性を明確にされたし。 浄土真宗本願寺派……表札には(お西)って書いてあるけど、私は知っているよ。近隣7箇寺の中で、最もなじみ深い造りの本堂です。 治承3年(1179年)真運が庄内鶴岡に天台宗真光院を開いたのがスタートらしい。延慶4年(1311年)品川郷に移転した後、元和7年(1621年)に浄土真宗に改宗して江戸浜町に移転するも、明暦の大火(明暦3年・1657年)により移転して築地本願寺寺中に。その後当地へ移転……「災い転じて福となす」と言うものの、これ以上 移転を余儀なくされないことを祈ります。 本堂扁額……何と読むか不明だけど、山号は東照山。 南無阿弥陀仏……御本尊は阿弥陀如来と思われます。 本堂前から参道…… 本堂左手の墓地の一画に…… 納骨堂と思われます。「倶会一処(くえいっしょ)」……倶に(ともに)一つの処(ところ)で会う たとえこの世で会えなくても、死ねば阿弥陀仏の極楽浄土でまた遇える。 仏教から出た「一蓮托生」も同意語のようです。「一つの蓮の花の上に身を託し生まれ変わる」……私が死んでも、ご先祖さまや連れ合いに「また会える」と楽しみを胸にとなえましょう。南無阿弥陀仏。 本堂前から庫裏…… 近隣7箇寺ともに花がお好き…… 真光寺の門前は妙覚寺……ということで、六郷地区寺院の内、大田区萩中の7箇寺に参ってきました。西六郷・南六郷・中六郷には真言宗智山派の寺院が数寺あるから、そのうちに訪ねてみましょう。遠いんだけど…… 今朝はモーニングに行ってきたけど、西小山駅前の人出はいつもより少なかった。天気は散歩日和だけど、不要不急の外出自粛だから止めておこう。電気治療だけは行ってこようかな? 連休で休診が続くから……
2021.04.27
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4月10日の大田区散歩……結構遠かったな~ 正覚寺を後にして北側へ……右に見える屋根を目指します。福称寺後方の寺院。 妙覚寺門前……浄土真宗本願寺派 開基は親鸞聖人の直弟子唯誓坊宗専の弟宗養で、越後の国柳瀬(現在の新潟県)に草庵を結んだのが始まり。室町時代・文明年間(1469~1486年)に武蔵国(現在の東京都・埼玉県の全域、および神奈川県の一部)に移転するが、次第に荒廃。慶安4年(1651年)に江戸の四ツ谷に再興されたのを期して、地名を山号とした。本願寺宗主より現本尊を賜り、浜町御坊、築地と移るが関東大震災によって壊滅。昭和4年に現在地に再建された。苦難の道でしたね。 やっとのことで現地に再興されたけど、昭和20年(1945年)の空襲で焼失したのでしょう、現在の本堂は先代のご住職によって再建されたようです。近隣7箇寺も戦禍にみまわれたことでしょう。 左に庫裏…… 本堂扁額……四ツ谷山妙覚寺 江戸時代慶安年間(1648~1652年)に作られた本尊・木造阿弥陀如来立像は、本願寺宗主・教興院より寄贈を受けたとのこと。 石や季節の花々が彩りを添えています。 何気なく本堂前…… いずこの寺院も丁寧に手入れをされています。 色鮮やかだったので思わずパチリ……春の色 きれいきれい……ハンドソープじゃありません。 ふり返って失礼しました。 ということで、もうすぐ用事があるので今日も簡単におしまい。 昨日は、お酒を飲める飲食店を求めて川崎あたりも賑わっていたそうだけど、私は家飲み。連れ合いがホタルイカと蛸刺しを振舞ってくれました。今晩もおとなしく家飲みだけど、近いうちに料理番をしないとあきまへんな~
2021.04.26
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萩中地区の寺院を訪問した4月10日…… 4つ目のお寺にお参り…… 正覚寺……浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は法照山。「仁治元年(1240年)9月 茨城に唯念が開基し、明暦3年(1657年)築地に移転するも、関東大震災の被害を受けて昭和3年(1928年)築地本願寺寺中から現在の萩中へ移転されました。」と(六郷地区寺院歴史マップ)にありましたが、当該年度あたりで「唯念」を見つけることはできません。幕末から明治時代の唯念上人(ゆいねんしょうにん)って言う方は出てくるんだけどな~ しかし、もう引っ越さなくて済みますように…… 本堂……モダンな建物ですが、御本尊は阿弥陀如来でしょう。 観世音菩薩絵馬(非公開)・大田区指定有形文化財『縦82cm、横96.5cmの絵馬額仕立、着彩、額の枠は最近補充されたもの。 絵は右上に観世音菩薩、上部に滝と堂らしき建物があり、下方に順礼姿の七人の人物を描いている。左下部には「寛政改元年吉辰 歌川豊広画」の墨書と朱の花押があります。観世音の霊験を示した構図で、このような絵馬は珍しい。……』 歌川豊広(1773ー1828年)が16歳の作時の作品だって……見てみたいな~ ちなみに、説明書きには「順礼」とありますが、「巡礼」の間違えじゃないのかしら?と思った私ですが、どちらも良いみたい。後者の方がしっくりするんだけどな~ 本堂左前にベンチと灰皿が置かれていたので一休みさせていただきながらの写真です。墓地から庫裏に向かう、お子さんを抱っこした(おそらく)ご住職が通られましたが、笑顔で会釈をくださいました。勝手にタバコを吸って失礼しました。 本堂前の植え込み……きれいに剪定されています。 アヤメかショウブか?…… 盆栽はご住職の趣味なんでしょう。 桜は終わってしまいました。 道路の向こうは福称寺……福称寺にも高く伸びる相輪があったのね~ 同一宗派の近隣7箇寺ですが、いずれも異なる本堂の表情。ご住職の個性の顕れでしょう。 ということで、残り2寺を残して今日はここまで……明日からは外飲みできないから、飲みに行ってくるよ~ お客さんの来ない安全な店にね~
2021.04.24
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天気が良かった4月10日の大田区散歩…… 福称寺(ふくしょうじ)……浄土真宗本願寺派 近隣他寺と同様に、関東大震災により昭和4年築地から移転されました。 麻谷山福称寺……「1660年(万治3年)に准如(じゅんにょ)上人より山号、下付(かふ)されている」と「大田区・六郷地区寺院歴史マップ」に記されているけど、築地本願寺HPでは「上人は1630年(寛永7年)11月30日(旧暦)に54歳でご往生されました」との記載があります。年代に少し違いがあるけど、准如上人とは、1617年(元和3年)、江戸浅草横山町に築地別院の源流となる御堂を建立された方らしい。 写真の右・寺号碑には「真宗本派」の文字……「本派」の他に「お西さん」とも呼ばれるのが浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺。一方、真宗大谷派の本山・東本願寺を「お東さん」と呼びます。意外だったけど、「浄土真宗」を宗旨名として用いたのは親鸞聖人の没後だと。江戸時代までは「一向宗」って呼ばれたと聞けば、何となく覚えがあるような……ちなみに浄土真宗は10派ほどあるみたいですが、私は本願寺派と大谷派の寺院しか知りません。 ※ 宗旨(しゅうし)=その宗教・宗門の教えの中心になっているところ。《余計な話》 現在は、京都に東と西と二つある本願寺だけど、戦国時代には大阪城の場所にあった浄土真宗の一大拠点・石山本願寺だけだった。その石山本願寺を織田信長が攻めた石山戦争をきっかけに二つに分かれることに。織田信長は、10年以上攻め続けたけど石山本願寺は落とせなかった。そこで、天下統一を目指す信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の力を借りて和睦の道を模索するんだけど、信長と「和睦するか」あるいは「徹底的に戦うか」で本願寺内の議論が分かれることに……石山本願寺の当時のトップ・顕如(けんにょ)と三男の准如(じゅんにょ)の和睦派と、長男・教如(きょうにょ)の徹底抗戦派が激しく対立し、結果として本願寺が東と西に分かれるきっかけとなった。 和睦を決めた顕如と准如は和歌山に移転し、信長との争いは落ち着いたように見えたが、そうはいかない。しつこい信長は、明智光秀に本願寺陥落を命じるが、裏目に出たのは信長。「敵は本願寺にあらず…」と、本能寺の変で信長は討たれてしまいましたとさ。 浄土真宗のトップの座が三男の准如になるや、怒ったのが長男の教如。徳川家康に土地を寄進してもらい建てたのが東本願寺でありました。 今日は嫌いな歴史の勉強……あぁ~疲れた~ 手前は駐車場……広々としていました。都心にもたくさんの檀家さんがおいでになるはずです。法話の他にも謡曲の会・カラオケ教室など開催されているようですが、コロナ禍では開催されていないでしょう。早く日常がもどりますように。 この写真を撮ってすぐ、本堂で手を合わせたところにご住職が登場。ということなので残念ながら本堂右前の親鸞聖人御像の写真はありません。(撮ってもお叱りはうけないでしょうが……) 御子息に譲ったから隠居の身だしお勤めもしていないとおっしゃるから、元住職が正しいのだろうけど、私にとってはご住職。しばし雑談に付き合ってくださり「7箇寺が一緒に築地から来た事情」も伺いました。85歳にはお見受けできない若さながら「門の外に出てはダメ」と言われているから歩くのは境内だけみたい。晩酌を問うたら「毎日だよ」「でも一合だけどね」と笑顔で答えてくださった。どうぞこれからもお元気で…… 5つ目の寺院に向かうところ……右・福称寺の後方と、左側に2寺待ってます。 福称寺脇門……「ふく志よう寺」って書いてあるのかしら?《独り言》 緊急事態宣言が発出される。人流を抑え込むには仕方ないかもしれないが、酒の提供までストップされるらしい。お酒を飲むと声が大きくなるからなのか? コーヒー飲みながら狭い喫茶店での会話は良いらしい。時短要請下、20時を過ぎるとぞくぞく登場する路飲みだが、日曜日からはもっと早い時間に始まるんだろう。屋外とは言え、至近距離でしゃべりながらの立ち飲み。おまけにノーマスク。まさに感染の根源ではないのか。ゴミは山積みだけど、路上飲みに対しては「注意喚起」だって。「禁止」の都条例を作って取り締まれば良いのに、いったい何をやっているのか。路上喫煙だって罰金取るんだから同じこと。酔っ払い相手にどこまで注意喚起できるか? そんなことより期間がなぜ5月11日までなのか? 2週間程度で治まる訳は絶対にない。専門家だって一ヶ月とか、短くても3週間と言っているのに、政府や都はどこを見てるんだと腹が立つ。心ある我慢する国民は1年以上に渡って右往左往させられた。GoToを含めて自分たちの施策や見立ての甘さから生まれる3回目の緊急事態宣言だということを心して噛みしめろ。ワクチンの遅れも含めて、まず反省の弁を述べてからの発出とされたし。 椅子を抜いて席数を減らし、ドアを開けて換気をし、消毒液もアクリル板も設置し…… こんな機械まで買わされている。 なぜ、こういう店で飲んじゃいけないのか、しかと説明されたし。店によるお酒の提供はダメというが、自分のボトルを飲むのがなぜダメなのか。ボトルの支払いは済んでいるから、店が提供するものじゃない。宣言期間中にボトルの期限が切れたらどうしてくれるのか? あるいは、氷とウーロン茶をもらって、持込のアルコールを飲むならいいのか? あほらしくなってきたから止めた~ 今日の東京都は759人。先週の金曜日より92人増……もう一度言う。5月11日の解除は絶対あり得ない。
2021.04.23
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大田区萩中1丁目に集結した7箇寺を訪問した4月10日…… 3つ目の寺院を訪問…… 延徳寺……もちろん浄土真宗本願寺派 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。 つまり、世に非難されない者はいないのである。 仏教の開祖・お釈迦様(仏陀)のお言葉……非難されることを怖がらず自分の信念に従って生きなさい。もし間違いに気付いたら、訂正してやり直せば良い、とでも受け取れば良いのでしょうか。 話はそれるけど、米国から帰ってきた菅首相は、19日に、ワクチンに関して「9月までに供給される目途が立った」と少し語ったが、昨日・一昨日は一変「会談の詳細は相手方との関係もあり差し控える」と沈黙。詳細は「差し控える」でも良いが、国民の一大関心事は「いつワクチンを接種できるか」にある中においての情けない答え。医療従事者も2割程度の接種率らしいし、蔓延防止から緊急事態に切り替わる都府県が増えている事態を直視していないのか。接種完了時期を問われても「実務を担う自治体が作成した計画による」とする首相。「自分は打ったから良い」と思っているのかもしれないが、あまりにも他人任せ。多くを語る者は非難されるかもしれないが、言葉を尽くして説明することが政治リーダーのあるべき姿だと認識されたし。覚悟のない者に人はついては行かない。 左の扉には浄土真宗本願寺派の紋…… 大正12年(1923年)に起こった関東大震災により焼失し、帝都復興計画に基づく区画整理が行われる中、昭和4年に築地の地からこちらに移転されました。 右端の延徳寺会館の向こうは報身寺……高く伸びる相輪が印象的でした。 正面が書院で左に本堂…… 桜は終わってしまいましたが、四季折々の花や池を愛でることができる境内…… 池があって…… 大きな鯉たちが悠々と…… 餌をもらえると思っているのか? 寄って来るんです。 石庭もあります。 潮留山延徳寺(ちょうりゅうざん えんとくじ)本堂……『延徳2年(1490年)に開山した為、その元号を頂き延徳寺と号し、江戸時代は日本橋にあったとされるが詳しい資料は明暦3年の江戸三大火の筆頭、俗に振袖火事(1657年)により本堂と共に焼失したとされる。 その後は幕府の区画整理の為に本願寺と共に寺基を築地へ移転し築地本願寺の塔頭(たっちゅう)となる。また築地の地においては汐留付近に位置していた為、併せて益々仏法が満潮の時を迎え、永く留めておくという意味で山号を「汐(引き潮を表す)」を「潮(満ち潮を表す)」の字に改め潮留山とした。』(同寺HPより) 蛇足ながら、「汐」は「夕」に「水」を表す「氵」(さんずい)が付いているから「夕方の海の満ち引き」で、「氵」+「朝」=「潮」は「朝の海の満ち引き」って説もあるんだけどな~ 本尊は「阿弥陀如来」……南無阿弥陀仏 当寺の門前は、大田区立出雲小学校……昭和11年9月2日開校の『東京市出雲尋常小学校』ですが、「出雲」の云われは何なのかしら? 昔の村名なのかな?《独り言》 週刊文春の新聞広告に『小室圭さん母「年金詐取」計画 口止めメール28枚文書で判明』『元婚約者の金銭提供を贈与と主張してきた佳代さんだが、報道されるまで贈与税を支払っていなかった。経緯を検証すると、佳代さんが遺族年金を詐取しようとしていた疑惑が。婚約直後、元婚約者に送ったメールには綿密な計画と共に「内密にして頂きたい」……。』だって。 文春オンラインをのぞいてみたら「佳代さんは婚約直後の2010年9月5日にこんなメールをX氏に送っていた。」として《*お互いの総収入+主人の遺族年金でお互いの生活を賄う事 *その他預金や財産に関してもお互いのものとしてみなす事 *パピーの生命保険の受取人を私にして下さる事 先ずは以上を実践する=事実婚をします。そして4年後パピーの年金取得時に改めて入籍する》なる携帯メールが載っていた。 文春は、「佳代さんがX氏と生計を一にしながら、同時に、亡夫の遺族年金ももらい続け、圭さんを含めた3人で生活していくことを計画していた」と報じているが、事実であるなら圭さんの結婚はもう無理でしょう。圭さんがちらつかせた音声データに対するX氏の報復メール……コロナ感染予防が一番大事だけど、圭さんの次の文書は何枚になるのかしら? 多くを書いても非難されますよ。 昨日歩いたから、今日は散歩お休みです。足が少し重い私……歳です。
2021.04.22
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4月10日の大田区散歩…… 報身寺の後方・北側に…… 善永寺……浄土真宗本願寺派の寺院 如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました Although I may be far from the Tathagata,the Buddha is actually very close to me. 和氣 良晴『[法話] 皆さんは夕焼けを眺めて虚(むな)しさを感じたことはないでしょうか。この日常自体に不満があるわけではありません。楽しいことがないわけでもありません。家族もいて、友だちもいる。毎日の生活もしている。なのに、夕焼けを眺めた時に、今日もこうして二度と戻らない一日を失ってしまった。そんな虚しさを感じることはないでしょうか。 今こうして現実を力いっぱい生きているのに、ただいたずらに時間ばかりが過ぎ去っていく虚しさ、と言ってもいいかもしれません。それはどこかに思いを繋(つな)げ、わかりあいたいと思いつつも、誰とも通じあえず、大きな宇宙の中にひとり生まれ、ひとりポッカリと浮かんでいるような、取り残されたような悲しさでもあります。 太宰治は『人間失格』の末尾にこう書きました。 いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一切は過ぎて行きます。〝ただ、一切は過ぎて行く〟。私の人生は、過ぎ去る命にしがみついて、やがて存在が失われていくただ孤独な存在なのだろうか。そう思うと、すべての生きとし生けるものを、一切平等の真理に目覚ませるという阿弥陀如来(あみだにょらい)の願いと聞いても、何の実感もわかず、まるで遠い世界のおとぎ話のように聞こえてくるものです。 しかし、その如来の本願(=仏・菩薩 (ぼさつ) が衆生を救済するために起こした誓願)を説いた『無量寿経(むりょうじゅきょう)』を開いてみると、偉大な大弟子たちが集っていた中に、たったひとり、阿難(あなん)だけが未(いま)だ悟りを開けず、迷いの中にあったというプロローグ(=本筋の展開に先だつ前置きの部分。序章)が語られます。 その阿難が、何かに呼び覚まされたように立ち上がり、お釈迦(しゃか)様に「あなたは仏と仏がお互いに念じ合う世界にいるのではないか」とたずね、その問いがお釈迦様に、私たちが求めてやまなかった本当の願いを説かせることになります。不思議に思いませんか。その場に集った中でただひとり迷いの中にあった阿難によってこのお経が始まるのです。言うならば、阿難がお釈迦様を目覚ませるところから、このお経が始まったと私は受け止めています。 そして阿弥陀如来の本願が説かれていくのですが、その願いは私ただ一人(いちにん)を救うためであったと、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は言われます。なぜ私一人かといえば、私がもっとも如来から遠い存在だからです。『無量寿経』に説かれる本願(第十七願)のお意(こころ)を私なりにいただけば、最も救われ難い私を目覚めさせるために、如来は宇宙全体に向かって、この私一人を呼び覚ますことに協力してほしい、そのために我が名(南無阿弥陀仏)を呼んでほしいと願いました。その願いが成就(じょうじゅ)し如来の名を聞くことで、仏として目覚めていく道がこの私に開かれたのです。 迷いのただ中にいる私が如来の願いを呼び起こし、そこから全てが救われていく世界が開かれていくのです。その意味で私は如来よりもっとも遠い身でありながら、如来の願いのど真ん中にいたのです。 他ならぬ私が、この広大な願いが紡(つむ)がれた歴史の始点にいたことに気づいたときに、私は知るのです。この宇宙の中で、私はひとりぼっちでただ過ぎ去っていくような、孤独な存在ではなかったのだと。 松下 蓮 (まつした れん) 1975年生まれ。京都教区丹波第2組延福寺衆徒。』 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ※ ホームページ用に体裁を変更しております。 ※ 本文の著作権は作者本人に属しております。 蛇足ながら、寺院も東京都のレインボー・マークを取得するようです。賛美歌を合掌してクラスターを招いた教会ではどうなっていたのかしら? 大人数での参加はできないから、法要など寺院もお困りのことでしょう。 建長年間(1249~1256年)に武蔵の国 品川 高輪台に浄土宗鎮西派として創建され、開基は慈信房善鸞(親鸞聖人の長男)とのことだが、慶長年間(1596~1615年)に本願寺准如上人の教化により、初代浄宗が浄土真宗本願寺派に改宗したそうです。「親鸞聖人が善鸞を義絶した」と聞いた覚えがあるけど、関係あるのかしら? ※ 議絶(ぎぜつ)=親子・兄弟など肉親、あるいは君臣の関係を絶つこと。 ちなみに、善永寺の山号は「高輪山」、始まりが高輪の地だったからでしょうが、ご住職のお名前も「髙輪 真澄」様とはこれ如何に……『江戸時代初期西本願寺の別院を江戸に作るため、高輪の寺地を幕府に献上し、浅草の浜町に土地をもらい、そこに別院を建て、その中に善永寺も移転した。 その後明暦の振り袖火事で全焼後別院ごと築地に移転した。 大正時代「関東大震災」で再び全焼、当時の区画整理事業により築地周辺は大きく変わり、そのため各地に念仏の輪を広げるため、善永寺も近くの6ヶ寺とともに現在地に昭和4年頃移転し、現在に至る。』(同寺HPより) 江戸時代から「本願寺築地別院中の表四箇寺の一寺にかぞえられた」との歴史と誇りを現在に継承されておられます。 御本尊・阿弥陀如来立像(大田区文化財指定)……像高80㎝で室町時代後半(15世紀後半)の作品は、平成29年(2017年)3月に大田区の助成をいただいて修復したそうです。ずっと残りますように。 寺院らしさを残しながら、なんともモダンな本堂です。同地に集まった7箇寺は、それぞれに個性がありました。 本堂左隅にありましたが、竹垣の目的は如何に……燈籠が倒れた場合に人に怪我をさせないため? あるいは、触られないようにかしら? 両開き寺門扉の立派なこと…… 門前の道路の向こうは妙覚寺墓地だけど、1ブロックに3箇寺が身を寄せています。続きはまた……散歩に行こうと思っているから……
2021.04.21
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4月10日の散歩…… 未訪問の玉川八十八ヶ所霊場第83番札所・秀明寺を訪問しようと、地図を見ていたら近隣にこんな場所を発見!!! でもって行ってみることにした私でした。 上記地図の右上・セブンイレブンを南(地図では下)に向かいます。地図には緑の線がありますから、かつての用水路跡かもしれません。南に800mほど行くと多摩川が流れていて、六郷水門ってのがあるらしい。でも、知らなかったから未訪問ですが…… ※ 六郷水門=『昭和6年(1931年)に竣工して以来、下水道が普及するまで、六郷用水の末流をはじめ、六郷や池上、矢口、羽田の一部の地域の生活用水の排水を処理しました。水門に架かる橋の高欄の「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたものです。堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を伝えています。』(大田区HPより) 少し進むと善永寺の表札……庫裏の裏口みたい。山門は西側でした。 表通りに出ると、寺院の並ぶ3ブロック……手前からお邪魔します。 龍雲山 報身寺……浄土真宗本願寺派の寺院 山号は本山・西本願寺の「龍谷山」からかしら? 屋根から天に高く伸びる相輪が印象的…… 関東大震災後、昭和3年(1928年)に築地よりこちらに移転してきた寺院です。 福称寺のご住職に教えていただきましたが、同地の7ヶ寺は築地本願寺寺中だったそうです。みなさん、おそろいで引っ越してこられたんですね。 ※ 関東大震災=大正12年(1923年)9月1日 堂内では法要が行われていたので、遠くから失礼しました。 御本尊は阿弥陀如来でしょう。南無阿弥陀仏 花がお好きなご住職なんだと思った私…… 丁寧に手入れをされています。 牡丹……でしょう ツツジも満開…… 何気なく塔…… 枝が真っすぐに伸びているからアマノガワかしら? 赤いカエデはこれから緑になるんだよね~ こちらはまだこれから…… 寺院そのものよりも花を愛でさせていただきました。 さてさて、散歩に行こうかな~
2021.04.19
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ちょと遠出した4月10日…… 大田区南蒲田3丁目……予想以上に遠かったな~ 咲き始めた民家の藤をみながら…… 大田区萩中1丁目……駐車場の奥に赤い幟発見!! 萩中神社……南向き 貫だけ新しいうえに、照明付きの鳥居は初めて…… ※ 貫(ぬき)=垂直材の間に通す水平材。門や戸をしっかりしめるための横木、閂(かんぬき)って言うのと共通項でしょう。「かん(貫)のき(木)」の音変化。……今日は国語の勉強をしてしまった。 平成24年(2012年)奉納の新しい石灯籠は、傘だけ古いままま。旧台座は昭和15年(1940年)だから、傘も同年のものでしょう。ひょっとして、東日本大震災時の地震で転落したのかしら? 参道左に手水舎……もちろん使用中止中。私は携帯消毒液を持っているから大丈夫。 社殿の大きさに対して広々とゆとりある境内を備えながらも、羽田神社の兼務社らしい。ちなみに14社ほど兼務されている羽田神社には「羽田富士」もあるみたいだから、そのうちに行ってみましょう。近隣には、玉川八十八ヶ所霊場の札所でありながら未訪問の3つの寺院があるから……しかし、大鳥居は益々遠いな~ 社殿右に神楽殿……だと思う…ものすごく新しい。専従のご神職はおられないけど、町の氏子さんたちが守っていることが伺えます。永遠の氏神さま…… 昭和43年奉納の狛犬…… 社殿扁額……創建年代は不詳ながら、神明社と称し江戸時代後期には既に鎮座していたとのこと。 御祭神は「天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)」( )内のフリガナは羽田神社HPの兼務社より。天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)とも呼ぶみたいだけど、日本書紀の「天照大神(あまてらすおおかみ)」の方がなじみ深い。「豊受姫大神(とようけひめのおおみかみ)」……豊受姫大神は宇迦之御魂神・倉稲魂命の別名だったかしら? 古事記と日本書紀、こんど一覧表にしておこうかしら? 八重桜も終盤…… 社殿左に……児童遊園もあります。13時26分、急がねば…… 藤棚の藤はまだまだこれからでしたね~ 東官守稲荷神社…… 東官守稲荷神社は、昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにあって、東向きの広い敷地に、海に向かって建てられていた。当時の村民は半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として信仰を集めていたとのこと。 大正6年(1917年)の風水害によって社が被害を受けるが、萩中神社再建の際にこちらの境内に移された。ところが、またしても昭和20年4月、戦災の為焼失してしまったが町民の努力により再建されたと……毎度のことながら戦争が起こりませんように。 羽田七福いなりめぐりの1番札所(身体安全)……なんだって。初耳!!! 昭和63年(1988年)に、羽田地区の神社に玉川弁財天が加わった8社をめぐる七福いなりめぐりが始まったそうです。 ● 壱番 東官守稲荷神社 ● 弐番 妙法稲荷神社 ● 参番 重幸稲荷神社 ● 四番 高山稲荷神社 ● 五番 鴎稲荷神社 ● 別格 玉川弁財天 ● 六番 白魚稲荷神社 ● 七番 穴守稲荷神社 まったく意識していなかったけど、この日は「弐番・妙法稲荷神社」「参番・重幸稲荷神社」に寄ってきました。順番どおりに歩けそうです。 町民のみなさんの心意気が感じられます。 失礼しようと思ったら……右に… 囲いがあって…… 力石が置かれていました。 ということで、今日はここまで…… 天気は良いけど風が強いな~ 何をしましょうかしら?
2021.04.18
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やっと終わる……2月22日の散歩最終回 社殿左側……立派な梅の大木 上記写真の左の木は、ピンクと白が一緒に咲いていました。 地図を見たら、私の立っている所から東側(右)、直線距離で350mほどに「聖跡蒲田梅屋敷公園」として整備されている一画があります。『梅屋敷公園の歴史は江戸時代に和中散(道中の常備薬)の売薬所の敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋を作ったことに始まります。当時は梅の名所として多くの人で賑わい、また明治時代になってからは、明治天皇がたいそうに気に入られ、9度も通ったと記録されています。』(大田区HPより) 京急や第一京浜の用地になり、現代は縮小されてしまったのでしょうが、梅の時期には江戸近郊の名所の1つだったと。薬屋を営んでいたのは山本久三郎という方らしいけど、広大な屋敷を有していたということは儲かっていたんですね。3000坪=9900㎡ということは、池上梅園の8500㎡よりも広い。私の勝手な推測ですが、同社に鎮座する「薬祖神社(やくそじんじゃ)」は、山本氏の屋敷に祀られていたのかもしれません。なんとなくスッキリした~ 社殿前の狛犬の背後にも梅……左右に紅と白を配置しています。 狛犬は昭和34年(1959年)奉納……逆光だったから狛犬のアップはなし。 社殿前から参道…… 参道左に…… 天祖神社……境内社は3社と思ったら、こちらもありました。合祀されたようです。昭和40年(1965年)の文字があるけど、碑を建てた年か? 合祀の年か? 山野神社合祀碑……蒲田周辺に鎮座していた神社の合祀でしょうが、発展に伴う開発によって居場所を失った神社と推測します。溶岩流のような足場が造られているから、やはり山が発祥の神社でしょう。蛇足ながら、奈良県宇陀市にも山野神社があるみたい…… 手水舎は勿論使用中止……常夜灯は傘以外は交換されています。 そう言えば、神楽殿がなかったな~ なんでかしらね~ 梅を楽しませていただきましたが、色々と勉強になった薭田神社でした。 でもって神社の脇の道…… 左に境内社後方…… 右に寺院……残念ながら扉はかたく閉じられていました。 栄林寺……薭田神社の別当寺 栄林寺は山号を長光山と号す日蓮宗寺院で、御本尊は十界大曼荼羅。千如院日好(寛永3年・1626年寂)によって開山されたとのことです。千如院日好の供養のために創建された『開山供養塔』には、日好が寛永三年に没したとの銘文が刻まれていると。また、安政の地震で大破した薭田神社社殿は、41世日現の代に再建されたことが当寺所蔵の『諸寄進帳』に記載されているそうです。帳面は見られないだろうけど、供養塔は拝見したかったな~ ※ ここで言う「安政の地震」とは、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃発生した地震でしょう。コロナ禍の今、どうか大きな地震が起きませんように。 ということで、2月の散歩日記がやっと終わりました。めでたしめでたし…… ブツブツ書きたいけど、労力の無駄だから止めておきます。
2021.04.16
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つい先日のようにも思うけど、2月22日の散歩……最終訪問場所の前編 境内には立ち入れなかった日蓮宗 圓頓寺前を西に……突き当りに… 薭田神社(ひえだじんじゃ)……社号碑には「延喜式内 薭田神社」「延喜式内(えんぎしきない)」は一種の社格で、古代律令制における神祇官(じんぎかん)が作成した官社の一覧表=「神名帳」に記載されているということ。 ※ 神祇官=朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄した官庁。 神道はほとんど知識がないから、今日も勉強…… 生命の言葉・令和三年二月……掲示板にありました。『雲間より さしたる光に 導かれ われ登りゆく 金峰(きんぷ)の峰に』今上陛下 東京都神社庁は、東京都内にある1,398の神社を取りまとめている団体です。 江戸時代の古い鳥居……『寛政12年(1800年)に北蒲田村の氏子によって寄進されました。区内の石鳥居の中で古いものの一つです。』(大田区HPより) 鳥居から、まっすぐ社殿に向かう参道……梅の季節でしたが匂いはなし。 ● 社名について…『薭田神社の「薭田」という字。これは「ヒエタ」と読むのでしょうか、「ヒエダ」と読むのでしょうか。 平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には、武蔵国荏原郡に鎮座する2つの神社の内1つは「薭田神社」と書かれていますが、これは「蒲田神社」の誤りであるというのが通説です。 幕末に活躍した国学者、栗田寛は、「蒲」という字は、古体をいつのときにか「薭」と誤写し、それがそのまま後世に伝えられたものであると述べています。明治時代に出版された『神社覈録(かくろく)』も「ヒエタ」と読みながら「薭田擬ふらくは蒲田の誤ならん。」と注記し、更に「和名鈔・郷名部・蒲田 加万田」と述べています。 また、『延喜式神名帳』以前に編纂された歴史書『三代実録』に「貞観六年八月十四日戌辰、詔して武蔵国従五位下蒲田神を以て官社に列す」とあることや、同時期に造られた辞書『和名抄』に荏原郡蒲田郷の地名のあることなどから考えて、この説が正しいと思われます。 このような有力な説があるにも関わらず、当社は社名を薭田神社ととなえており、蒲田神社とは称していません。蒲田神社が薭田神社と称するようになったのは何故でしょうか。『延喜式神名帳』にある旧荏原郡の薭田神社は後世になって所伝が絶え、その所在が不明確になっていました。旧荏原郡内の神社にはそれに見合う大社はありませんが、当社の社前の地が古くから「神戸」と呼ばれており、また近くには神戸橋という橋もあり、この地名はのちに八幡社が勧請されてからの地名とは思われないので、当社が薭田神社であろうと考えた別当榮林寺の僧が、神祇管領の吉田家に当社を薭田神社とする旨の申請をし、その許可を得ました。『新編武蔵風土記稿』は薭田神社についてこのように述べ、社号成立の経緯を明らかにしています。』(蒲田八幡神社・兼務社HPより) 昭和20年(1945年)4月15日戦災のため灰燼(かいじん)に帰すも、昭和21年に仮本殿を再建。ようやく昭和29年に本殿・幣殿を新築。そして現在の社殿は平成12年(2000年)の新造営。2000年は、蒲田八幡神社の御鎮座四百年祭と合わせたのかもしれません。 ●由緒……『延喜式内社の「薭田神社」として、当社が正史にあらわれるのは貞観6年(864年)ということになりますが、社伝によると更に歴史は古く、次のように伝わっています。 和銅2年(709年)、僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り、本社に安置しました。その後、弘安5年(1282年)に日蓮が池上宗仲の邸に入ったとき、村民の要請で、この三体は日蓮によって開眼されたといいます。 しかしながら、現存の式内社についての全国調査結果をまとめた『式内社調査報告』によると、この社伝は信憑性がないとし、『惣國風土記』に基づいて潤色されたものであろうと記されています。ただ、当社に一体の石像(春日)と二体の木造の神像が安置されてきたことは確かであり、この点は社伝の三体神と一致しています。』(蒲田八幡神社・兼務社HPより) ※ 天照・八幡・春日の三体神とあるのは、天照大神・応神天皇・春日大神のことでしょう。 現在では、先に訪問した蒲田八幡神社の兼務社となっている薭田神社。「蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として薭田神社から春日の像一体を分かちお祀りしたのが始まり」とされる後発の蒲田八幡神社に任せていることは少々納得できないけれど、様々な面において駅前というロケーションには勝てないのかもしれない。 蒲田八幡神社境内にも小円墳があったらしいが、こちらにも古墳があり聖地として信仰の場であったことに変わりわない。 社殿扁額…… ●御祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと) 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと) 荒木田襲津彦命(あらきだそつひこのみこと) 春日大神(かすがのおおかみ) ちなみに「春日大神」とは春日大社の祭神である次の四柱の神の総称。 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふるぬしのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 比売神(ひめがみ) 兼務社でありながらも、りっぱな造りの社殿……右方向に鳥居…… 社殿の右手に並ぶ境内社…… 手前から奥に3社……それぞれ異る屋根など、丁寧な造りでした。 三十番神社……神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた日本全国の30柱の神々「三十番神」を祀るものらしい。初めてお目にかかりました。 鳥居扁額……三十番神は、最澄(天台宗の開祖)が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰されて以降は日蓮宗でも重視されたようです。どうりで、当社の別当寺・栄林寺は日蓮宗寺院でした。 稲荷神社……中央に鎮座 稲荷だけにお狐様もおいでです…… かすかに阿形…… 鳥居扁額…… 薬祖神社(やくそじんじゃ)……一番奥に 薬祖神社というのも初めてかと……御祭神は日本神話の神様「大己貴命(おおなむじのみこと)」と「少彦名命(すくなひこなのみこと)」で、医薬や医道、また酒造などを教えたと「日本書紀」等で伝えられているそうです。 上野公園に両祭神を祀る「五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)」というのがあるようです。『第十二代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります。(約1900年前)』(宗教法人 東京都神社庁HPより)……遠い遠い昔の話。 そう古くはないであろう狛犬…… 噛みつかないでね~ 鳥居扁額…… 境内社奥から……各社に鳥居 境内にはあちらこちらに梅が見られました。写真を撮りに来られた方々もおいでだったので、梅の名所なのかもしれません。 ということで、今日はここまで……後編は明日。 今日、東京都発表のコロナウイルス新規感染者は729人。直近7日間の平均は、前の週と比べて122.6%で増加傾向が続いている。大阪府同様に急拡大が充分予想される。東京オリパラの開催について「これ以上とても無理だということだったら、これはもうスパッとやめなきゃいけない」と、二階俊博幹事長は今日のTBSのCS番組収録で語ったと。開催中止も選択肢になるとの考えをもっているのだろうから、もう中止にしてください。密密密の聖火リレーもストップしてください。医療崩壊している地域もあるし、医療現場に届いているワクチンもわずか。一般病症の患者も含めて、トリアージされたらたまったものじゃありませんから……お願いしますよ。
2021.04.15
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2月22日の蒲田・梅屋敷あたりの散歩…… 妙典寺からちょっとジグザグしながら南に200mほど…… 右に…… 椿神社……この日、最初に訪問した蒲田八幡神社の兼務社でした。京浜蒲田駅と梅屋敷駅の中間ぐらいの所。 鳥居扁額……初めて聞く社名だけど「猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮」を見つけました。 椿大神社:『伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古神代、高山入道ヶ嶽、短山椿ヶ嶽を天然の社として、高山生活を営まれた国つ神「猿田彦大神」を主神とし、相殿に皇孫「瓊々杵尊」、「栲幡千々姫命」を、配祀に「天之鈿女命」、「木花咲耶姫命」を祀っています。 猿田彦大神は、天孫 瓊々杵尊降臨の際、天の八衢に「道別の大神」として出迎え、高千穂の峯に御先導申し上げます。そのことより、肇国の礎を成した大神として、人皇第十一代垂仁天皇の二十七年秋(西暦紀元前三年)、倭姫命の御神託により、この地に「道別大神の社」として社殿が奉斎された日本最古の神社です。 仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ、現在に及んでいます。』(椿大神社HPより) 参道口から高山入道ヶ嶽の山頂・標高906.1mに位置する奥の宮まで続く壮大な神社みたいです。三重県鈴鹿市は仕事で何度も行ったけど、当時から興味があったら訪問出来たのに残念。 椿神社……御祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと) この新しい神殿造営が行われたのは昭和62年(1987年)とのこと。創祀は不祥ですが、今日においても多くの崇敬者がおられる証です。 猿田彦命は道案内の神であり、道祖神(塞の神・障の神)と習合して村の境を守る関の神となるけど、更に咳の神として信仰されるようになったと。風邪をひいて咳が出るときや百日咳・喘息などにかかった時は、額堂に掛かっている麻を借り受けて病人の首に巻くと咳が止まる言い伝えがあると。治ると麻を二倍にして額堂に納めて感謝する他、足の病気が治るようにとワラジを奉納して祈願する人もあったと。左の額堂にかかっているのが麻紐らしいけど、「麻紐をお受けになる方は、薭田神社社務所迄お越しください」と張り紙……蒲田八幡まで行かなくていいのね~「除病習俗」が大田区文化財……『……しかも神社であるのに、祈願者は社前に線香を供えるという神仏混交の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。』(掲示板) 神仏習合……鑑真の来日によって日本の仏教が一定の確立を迎えた後、国内でも最澄、空海といった二人のスーパースターに続き、次々と自らの宗派を立てる高僧が輩出されて発展した仏教。またたくまに神道を追い越す勢いで国内に受け入れられたのは、仏教には「教義」という学術的存在があったからだろう。「仏教」の解釈の中から、「仏」と「神」の関係を唱えた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が語られだす。「本地」=仏・菩薩が民衆を救うため、「垂迹」=仮の神の姿になって現れるというもの。神の形をとっているが、もとは仏という説。広く定着していた神道を排除するのではなく、共存繁栄の道筋・本地垂迹説を説いた僧侶は本当に賢い人物だったと思う。そして、互いの持ち味を生かせる神仏習合の道を歩みだす。 額堂に掛かっている麻を借りて首に巻くと咳が止まるとの神威(しんい)を伝える椿神社だけど、すでに古代日本仏教において医療知識を備えた僧侶が活躍していた。「声明(しょうみょう)=文学」「因明(いんみょう)=論理学」「内明(ないみょう)=教理学」「工巧明(くぎょうみょう)=工学・数学・暦学」そして「医方明(いほうみょう)=医学・薬学」と分類される5つの専門領域「五明(ごみょう)」が仏教には存在し、8世紀中頃には漢方薬を使った投薬治療も行われていたそうです。 また余計なことを書いてしまった…… 手水舎……狭い境内だけど、鳥居を潜ると右手に もちろん使われていません。 右の角に置かれた石は車除けじゃない。何の石碑かしら? 道祖神なのかしら? 右の前方から来た私は、今度はこの位置から左へ…… 椿神社の西に…… 円頓寺…… 日蓮宗の寺院……残念ながら檀家しか入れないのかな~ 性光山円頓寺(せいこうざんえんとんじ)……手を合わせて、門扉のすき間から1枚だけ。『本尊勧請様式:曼荼羅 天正18年(1590)の創立。開山大乗阿闍梨日澄なるも詳細不明である。開基本法院日芸。 開基檀越35家。豪族行方氏の休館跡に文禄元年堂宇建立。開基日芸の兄行方直清領主の法号に因み円頓寺と号す。戦災で焼失後数年において本堂、庫裡を建立。 寺宝の宗祖断簡は過去帳の中から発見されたというが、このほかに、行方家の古文書、由井正雪の古文書、浅野長政の古文書(共に保安年間)や二代将軍秀忠公側室の古文書等が保管されている。 『郊遊慢録』の著者斉藤幸考が文化13年(1816)2月16日に当山の過去帳を見た折の記録に「開山九老日澄上人云々」とあるも確証の伝承は不明。』(日蓮宗東京都南部宗務所HPより) ということで、今日はこれでおしまい。ダラダラ書いたから意味不明があるやもしれない。疲れたから読み直しはしません。悪しからず……
2021.04.14
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3月に桜を割り込んだから、今ごろになってしまった2月22日の散歩……「ぷらもーる梅屋敷商店街」の南側……北側には「東邦大学医療センター大森病院」があったんだわな~ 妙典寺到着……15時10分……結構 陽が傾いていましたね。 妙典寺山門……山門は平成11年(1999年)新築 お決まりの一枚……こちらも桜が咲いたらきれいでしょう。 参道左側…… 淨行菩薩……タワシも置かれていましたが、手だけ合わせた私。『淨行菩薩は法華経にでてくる菩薩で法華経の教えを末法のひとびとに伝える役目をもった地涌の菩薩たちの代表者の一人です。この仏様は”地蔵さま”であったり又は”淨行さま”とよばれる菩薩さまのときもあります。この仏様の身体を洗いきよめることによって、自分の身体の病や痛みを治してもらおうという「なで仏」の信仰と「水垢離(みずごり)」の信仰とがむすびついて「あらい仏」の信仰が出てきたのです。』 衆生の悩みをお救いになる慈悲心のお姿…… 法界萬霊塔…… 梅の季節でした…… 戦災で焼失した本堂は昭和27年(1952年)再建。次いで昭和29年(1954年)に庫裡を再建し、昭和46年(1971年)には客殿を建立。平成9年(1997年)に客殿・庫裡の一大改修工事が完成して現在に至っているみたいです。 妙典寺本堂……『創立年代不明。開山二位僧都日饒。もと天台宗で妙田寺と称したが、開山が日蓮宗に改宗し、以後妙典寺となる。柳島鈴木戒秀師、万治元年造の祖師像をおさめる。(日蓮宗東京都南部宗務所HPより)』 御本尊は一塔両尊四士。 本堂扁額……宝光山 またしても、池上八十世 日威の揮毫(きごう)。この日 訪問した「妙安寺」の扁額と同じ筆でした。妙安寺の御本尊は「一尊四士(いっそんしし)」でしたね。 室町時代には既に存在し、池上本門寺の有力末寺だったことでしょう。 本堂前から山門…… 南無妙法蓮華経…… 陽射しがかなり斜めからになったので、先を急いだ私でした。 ※ 地涌(じゆ)の菩薩=法華経従地涌出品に説くもので、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた法華経を弘めることを目的とする無数の菩薩で、本化(ほんげ)の菩薩とも言う。上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)と浄行(じょうぎょう)の四菩薩を代表として、それぞれが眷属(けんぞく)をもつと…… ※ 眷属=従者・家来・配下の者。 また勉強してしまった。 まだ雨は降りださないけど、今日はおとなしくしています。ノンアルデーだし……
2021.04.13
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大田区蒲田とか大森中なんてあたりを歩いた2月22日…… 密乗院をあとにして、梅屋敷東通りの商店街……道路奥の右に…… 参道出入口…… 長享山(ちょうこうざん) 大林寺(だいりんじ)…… 山門のすぐ左に南無妙法蓮華経……日蓮宗の寺院 左は「池上道道標(いけがみみちどうひょう)・大田区文化財」……もとは、東海道から分かれて池上本門寺に至る池上道の分岐点にあったもので、道路拡張などの事情でこちらに移されました。道標の位置から十五町(約1.5㎞)で本門寺に至り、更にそのまま品川宿に行かれることを示していると。享保14年(1729年)、大森村の日蓮宗信徒で組織された甲子講(きのえねこう)の人たちが建てたものだそう。 本堂は昭和31年、庫裡は昭和36年建立。 大林寺本堂……もと真言宗薬王院として創建された年代は不詳だけど、長享2年(1488年)当寺第三世だった日円は、法華宗日位と法論した結果、その教説に感じて弟子となり、日位を開山に迎えて日蓮宗に改めたと。宗義の優劣や真偽をめぐって行われる宗論・問答の結果、改宗することはままあったのでしょう。あのお寺はどこだっけな? すぐに忘れる私でした。 本堂扁額……本堂内撮影禁止を厳守しました。 ご本尊は、一塔両尊。寺宝として、水戸光圀の筆による「雪中訪師図」というのがあるそうです。拝見したいな~ さりげなく手水盤…… 三面大黒天画像(大田区文化財)があると……冒頭の「池上道道標」は「甲子講」の人たちが建てたと書いたけど、甲子講ってのは干支でいう甲子の夜に集まって大黒天を祀る講だそうだ。庚申講の五日後が甲子講らしいけど、寝不足にならなかったかしら? 梅屋敷駅前の第一京浜を渡って…… 「ぷらもーる梅屋敷商店街」に行列……15時5分だからおやつの焼鳥を買うのかしら? 前後の距離は保っているけど、マスクしてない人は気を付けないとね~《おまけ》 昨日、久しぶりにMAANAさんの笑顔を拝見しました。歌いたいのに、我慢の辛い日が続きます。早くライブが出来ることを祈ります。
2021.04.12
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2月22日の大田区散歩…… 大森八幡神社を後にして、大田区大森中の住宅街を進むと…… 綺麗な塀…… 密乗院……到着 真言宗智山派の寺院……玉川八十八ヶ所霊場第77番札所……88の内、なんとか都内だけは制覇したくて伺いました。76番「密厳院」もと思ったのですが、大森北はルート外だったから断念。そのうちに…… いつもの一枚……かつては、大森の諸神社の別当寺だったと。 本堂扁額……海光山 密乗院 大森寺 およそ800年前に、不動明王を安置して真栄が開創したそうです。徳川家康が狩りの折に休まれたそうで、寺領20石を賜ったが、御朱印状は天明年間(1781~1789年)の火災によって堂宇と共に焼失したと。 なにげなく手水盤…… 南無大師遍照金剛……結構高い所にお立ちです。 北を向いておられましたから、品川方面を目指すんでしょう。14時48分……斜め逆光。 本堂前から山門…… 蓮のモチーフに…… カエル発見……「無事帰る」の遊び心かしら 相生地蔵尊……『この地は明治の頃まで大森村字相生(あいおい)と呼ばれていました。相生には助け合って生きる意味があり、水子地蔵様と六地蔵様に相生地蔵尊と名付けることにいたしました。』……菅首相も口にする「自助・共助・公助」だけど、「互助」はどこにいってしまったのか? 互いに支えあうという意味では「共助」と共通点はあるが、「互助」は費用負担が制度的に裏付けられないから消されたのか? 都市化や高度経済成長とともに核家族化が進行し、自発的な「互助」は姿を消したんだろう。暮らしていくには大切なことなんだけどな~ 寺務所兼庫裏でしょうか……モダンな建物でした。山門脇は枝垂れ桜みたい。咲いたらきれいだったでしょう。 コンパクトながら手入れの行き届いた密乗院でした。 桔梗紋……真言宗智山派の宗紋。なんと木目の美しい事か……南無大師遍照金剛 ということで、今日はこれでおしまい。昨日の散歩で少々足がだるい私。玉川八十八ヶ所霊場83番札所の「秀明寺」を訪ねましたが、さすがに大田区本羽田は遠いな~
2021.04.11
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2月22日の大田区散歩…… キネマ通り商店街から住宅街を歩いて……あちこちの民家で梅を見ました。大田区のシンボル、区の木はクスノキで、区の花はウメなんだって。 玉垣は比較的新しい……氏子さんたちのお力です。 大森八幡神社……参道左に小さな「ひめゆり児童遊園」 ありがたいことに灰皿も置かれていたので、帰りに一服させていただきました。 参道右……手前が境内整備記念碑で、左隣の木に隠れているのが…… 社号碑……「村社八幡神社」明治7年4月・賜社格とあるから、明治維新後に村社に列格したんですね。 社務所兼自治会館の隣に鳥居…… 鳥居扁額…… 火伏稲荷…… 社殿扁額……ブルーの文字もいいな~ 参道左に手水舎……水手舎の右にある百度石は角柱じゃない。 基礎石はそのままで、燈籠だけ置き換えたようです。 村社って雰囲気、わかります。 大正9年奉献……右の狛犬は社殿に顔を向けて… 左は参道口鳥居方向を見ています。逆光だったからこれで諦めたけど、デジカメ欲しいかも…… 大森八幡神社社殿……御祭神:品陀和気命 (ほんだわけのみこと)(応神天皇) 建武年間(1334~1336年)の創建で、江戸時代には北大森村・西大森村の鎮守だったと。蒲田八幡神社より300年弱も早く鎮座したのでした。 社殿扁額……鶴岡八幡宮の宮司さんの揮毫みたい。岡田實さん……あったあった……昭和29年(1954年)から昭和48年(1973年)に鶴岡八幡宮の宮司を務めた方。ということは、社殿はこの頃に改築したのかしら。 ※ 揮毫(きごう)=筆をふるって字や絵をかくこと。 社殿左横…… 神輿庫と神楽殿…… 神楽殿前が駐車スペースになっているから、車が堂々と参道を走ってきます。 住宅街の真ん中で、近隣住人の安寧を願う氏神様でした。 ということで、今日はこれでおしまい。 東京都・京都府・沖縄県に「まん延防止等重点措置」を適用するけど、飲食店だけ規制してもダメでしょう。私は嫌いな単語だが、小池都知事の使う「人流(じんりゅう)」ってのを抑える措置をとらないと……毎日ブツブツ呟くと連れ合いが寂しがるので、これ以上は止めておきます。書いてもコロナは減らないから……
2021.04.09
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蒲田・梅屋敷あたりをブラブラした2月22日…… お隣の蒲田八幡神社から旧別当寺へ…… 今月の聖語(2021年2月)『日蓮は 安房の国片海(かたうみ)の 海女が子なり』『ー宗祖ご降誕によせてー「この紋所が目に入らぬか。ここにおわすをどなたと心得る」。ご存知水戸黄門の決め台詞です。その黄門さまは日蓮宗に縁が深く、母の菩提を弔うために水戸に久昌寺を建てられました。 ところで黄門さまご自身のお誕生日にこんな逸話があります。家臣が祝いの日として豪勢な膳を用意したところそれを止め、白粥と梅干し1つにされました。その理由を「せめて今日1日を粗食とせしは、母上が我れを産みし折の苦しみを終生忘れぬためである」と語ったというこです。 誕生日は祝福されるだけの日ではなく、両親をはじめ周囲の人びとへの報恩の日でもあることを忘れてはならないのです。 さて表題のように日蓮聖人は現在の千葉県鴨川市小湊に漁師の子としてお生まれになりました。2月16日には、聖人ご誕生800年を迎えます。しかしそのご生涯はご苦難の連続でした。それはなぜか。ひとえに自分をこの世に送り出し育んで下さった父母、そして縁ある人びとを成仏に導くため。それがご自身の誕生への報恩行だったのです。「本尊問答抄」弘安元年(1278年)聖寿57歳 』(日蓮宗・いのちに合掌HPより) 妙安寺……「赤門の寺」の由来である朱塗門があったと言うが、やはり戦火で焼失してしまったと。 参道を進むと左右に分岐…… 永禄年間(1558~70年)、当所地頭だった行方修理亮義安(なめかたしゅうりのすけ)の側室・円光院妙安尼(みょうあんに)が、兄・斉藤政賢の屋敷内に結んだ庵室が当寺の始まり。池上本門寺11世仏寿院日現に深く帰依しその教化で法華信仰に入ったとされる妙安尼が天正17年(1589年)に没した後間もなく日現を開山、妙安尼を開基として開創された寺院。 行方山妙安寺本堂……行方の家号を山号とし、妙安尼の法号を寺号としているのが良く分かりました。「妙安尼供養塔(大田区文化財)」として、寛永20年(1643年)に造立された宝篋印塔(ほうきょういんとう)がどこかにあるみたいだけど、墓地へは踏み込まない私でした。 御本尊は「一尊四士(いっそんしし)」とのことで、釈尊の一尊と本化四菩薩の四士が並んでおいでなんでしょう。四菩薩は「上行菩薩」「無辺行菩薩」「浄行菩薩」「安立行菩薩(あんりゅうぎょう)」 ちなみに、日蓮聖人の教示にみられる本尊形態は、「首題本尊」「釈迦一尊」「大曼荼羅」「一尊四士」「一塔両尊四士」の五種があるようです。また少し勉強してしまいました。日々勉強…… 本堂扁額……「日威」の揮毫。池上本門寺大堂の扁額も第80世金子日威聖人によるもの。 ※ 揮毫(きごう)=筆をふるって字や絵をかくこと。 慶長17年(1612年)造立、像高36.7㎝の日蓮聖人坐像が安置されているらしい。在銘の祖師像として、大田区では池上本門寺祖師像に次ぐ古さだって。残念ながら非公開。 左は客殿かしら? 梅らしきが目に入ったので、庫裏の前まで…… 引き返すときに気付く間抜けな私…… ミツマタの花が咲いていました。新葉が芽吹く前に花だけが開花するのは、春が待ちきれない性格なんでしょう。世田谷代官屋敷で見た時はまだまだだったけど、こんな姿になるのが分かって良かった。 緩やかな曲線の参道を引き返し…… 失礼しました……京急蒲田駅の横です。 京急をくぐって第一京浜・夫婦橋……呑川が海に向かって流れていきます。前回ここを歩いたのは2018年10月。あれから2年半も経ってしまった。「キネマ通り商店街」だって……蒲田には「松竹蒲田撮影所」があったからかと思いきや、戦前までこの付近にあった「蒲田キネマ」と言う映画館の存在が名前の由来らしい。蛇足ながら、のちに映画「蒲田行進曲」の主題歌に使用されることになる初代歌謡曲『蒲田行進曲』は、蒲田撮影所の所歌としても採用されていたと。また、京浜東北線蒲田駅の発車メロディーもこの曲だって。撮影所が大船に越してから久しいけど、蒲田は今でもキネマの街らしい。 圧倒的なレトロ感あふれる商店街でした。「昭和レトロ商店街」の名称の方が似合うんだけどな~ 「中華・食堂 双美家」のラーメン 食べたいな~ 大田区東蒲田から大森中3丁目のこんな道を大森八幡神社に向かった私……続きはまた今度。モーニングが早かったからお腹が空いてきた。なんか食べようかしら?
2021.04.06
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3月の桜散歩を割り込んだから、今ごろになってしまったけど、なんとなく蒲田まで行った2月22日…… 京急蒲田駅のそば……駅のホームの音(夢で逢えたら)を聞いて来ればよかった~ 立派な構え…… 蒲田八幡神社参道口…… 鳥居扁額……当神社宮司さんは、薭田神社、椿神社、北野神社、女塚神社、御園神社を兼務しておられるそうです。薭田神社と椿神社はこのあと寄りました。北野神社は以前改修中に見かけたから、女塚神社と御園神社はそのうちに訪ねてみましょう。 参道右側は神輿庫でしょう。 真南に向いた社殿に向かって真っ直ぐ伸びる参道…… 手水舎……柄杓はなく、手を出すと水が出る蛇口がありました。コロナ対策ですね~「満願火伏稲荷神社」……御祭神・宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 銀杏の大木の根方にあった社は、戦災も免れて、蒲田における数少ない建物として残ったと。そのため、「満願火伏稲荷大神」として火災予防の守り神と称えられているそうです。旧社殿は外からは見えないけど、そのまま現社殿の中に納められていると。 明治維新百年 御社殿復興十周年……と刻まれています。昭和43年(1968年)の石碑ですから明治維新は1868年。御社殿復興は昭和33年(1958年)ということになります。 立派な社務所……兼務社の御朱印はすべてこちらで頂けそうです。 蒲田八幡神社社殿…… 創祀は不詳らしいけど、境内に小円墳があったことや言い伝えや伝説、あるいは史実などから相当古くから聖地として村人の信仰の場であったらしい。 蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として「薭田神社」から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分かちお祀りした「新宿八幡神社」が始まり。新宿分村は平安末期か鎌倉初期との説もあるようだけど、諸般の事情を推論して慶長5年(1600年)を新宿分村、当社御鎮座と定め、平成12年(2000年)に御鎮座四百年祭を執行したそうです。 明治維新となった折の神仏分離によって、別当妙安寺に移された春日の像は、残念ながら戦災によって焼失したと。妙安寺はお隣でした。 社殿扁額……これは何なのでしょう。初めてお目にかかりました。 御祭神は誉田別命(応神天皇) 昭和20年(1945年)4月15日の戦災で社殿は灰燼(かいじん)に帰したけど、たちまちのうちに再建気運が勃興(ぼっこう)。戦後復興していく蒲田の中心にあったため、昭和24年(1949年)8月に新宿八幡神社を改め現在の「蒲田八幡神社」と称えるようになった。 おみくじと絵馬……奥に鳥居…… 社殿右側……美しい八幡造……梅は時期外れになっちゃいました。 記念碑にもあったように、昭和33年(1958年)に社殿を竣工したけど、60周年を目途に大改修工事を行い、平成30年(2018年)に現在の荘厳な社殿に変身したと。 社殿右奥に裏参道……実は、2018年10月21日に呑川を河口まで下った帰りに、こちらの外を通った私。疲れていたから寄らなかったことを悔いていての再チャレンジでした。御社殿復興六十周年記念例大祭が斎行された直後だったようです。 社殿の右手には境内社の天祖神社『この神社はもとお伊勢の森(現・蒲田四‐二四)に御鎮座する社でありましたが、明治四十三年五月二十七日、現在地に移転して境内末社となりました。』(同神社HPより) 明治11年(1878年)奉納……石碑には『国民崇敬の精神的中心として仰がれる天照大御神は、日本人の心のふる里である伊勢神宮を総本宮として、全国一万八千社の御分社が天祖神社、または神明社となって各地に鎮座されています。……』に続いて、天祖神社移転が記されています。 御祭神は「天照大御神(あまてらすおおかみかみ)」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」……社殿同様にこちらも2018年に改修工事が行われたのでしょう。 梅が懐かしい…… と言うことで、今日はこれでおしまい。 朝、病院への行き帰り時は止んでいたのに、また降っている雨。何をしましょうか……
2021.04.05
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増明院の桜がどうなったかを確認するために出かけた3月27日の帰り道…… 東急池上線・石川台駅手前から中原街道を渡って呑川沿いを…… 島本橋近く……住所は南雪谷から石川町に 大音寺……呑川沿いの住所が、大田区石川町から目黒区緑が丘に変わった所を曲がって、世田谷区奥沢にある寺院に寄り道。150mほどの歩行で三つの区を制覇できるエリアです。 ソメイヨシノはもうちょっとでしたが、写真奥の枝垂系が品があり…… 撮ってみたら、さらに奥は鮮やか…… 隣接する幼稚園に咲いていました。桜かどうかは不明…… 本堂で南無阿弥陀仏を唱え、十三重塔の奥に…… わび・さび……ってところでしょう。 境内東側……70~80m先に呑川が流れています。桜の記憶はかすかだったけど、試しに寄ってみた大音寺でした。本堂、境内社などは「去年の大音寺」…… 猫発見…… なかなか良くできてるニャン…… 東急大井町線・目黒線を越えると呑川は暗渠…… 左側は目黒区緑が丘で、右は目黒区大岡山の東工大…… いつも感心されられるけど、目黒区が手入れをしているのでしょう。貧乏な区なんだけどな~ 呑川緑道…… 単一種で埋め尽くすのもいいものです…… 少なそうに見えるけど、散歩を楽しまれる方が結構おいででした。人混みの中目に行かずとも、桜のエネルギーはもらえます。 ちょうど1週間前でしたが、満開の呑川緑道でした。 左側が目黒区中根で、右は平町……良い時に歩いてきました。 と言うことで、今日で桜の日記はおしまい…… 明日は雨らしい……嫌だな~
2021.04.03
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大田区で桜を探した3月27日…… 本覚寺山門前の御嶽商店街……突き当りに… 御嶽神社……去年とは比べ物にならない。 始まりは室町時代末期といわれるけど、江戸後期に木曾御嶽山で修業した一山(いっさん)行者が大きな社殿を造営して御嶽山信仰で栄えた神社。 ちょこちょこお詣りをされる方々がおいでです。「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曾御嶽山へ一回行ったのと同じ」と言われていたようで、関東一円から木曾御嶽山の信仰者たちが多数訪れたと。信者数全体は減少傾向にある現在でも地元氏子さんたちが大きく支えているのでしょう。20年に一度、本山へ神輿を運んで担ぐ式年祭が執行されるそうです。一瞬すごいなと思ったけど、「担いで運ぶ」じゃなくて「運んで担ぐ」のね~。平成23年(2011年)8月が第二回目だったから、今度は10年後だわな~ 社殿右奥にある大鳥神社前にも…… 社殿左の奥に……鳥居の奥は『杜の霊神水』一山(いっさん)行者が水行をしていたと云われる古井戸があります。去年撮ったから今回はありません。 奥から「一山神社」「延命地蔵(小さいの)」「水行堂」……正面両脇に花頭窓を設けた水行堂は国登録有形文化財。 水行堂扁額……照明もレトロ 去年隙間から覗いた時は「何もないじゃない」と思ったのですが、堂内は前後二室に区切られているんです。今回は扉が半分空いていたので奥の部屋が垣間見られました。祭神の社殿が置かれる部屋で水垢離(みずごり)をするんですね。右手に井戸があるらしいです。 ※ 去年の「御嶽神社(前編)」・「御嶽神社(後編)」 御嶽山(おんたけさん)駅……歩いて帰るから乗らないよ~ 池上線開通時の駅名は「御嶽山前」だったと。 商店街のお菓子屋さん……呂万寿はロマンスって読むのかな? 適当に曲がったりするから、歩行径路を後で確認できるように撮ります。 南雪谷の住宅街をトボトボ……個人宅の桜も保存樹でした。 東急池上線・五反田行き……3両編成・1000系ってのらしい。 次の踏切を渡ろうと思うんだけど、今度は蒲田行き。早く行ってよ~ 五反田と蒲田を結ぶ東急池上線。駅数15で、路線距離 10.9 km……とうきゅうに相応(ふさわ)しい数字です。「開通90周年イベント」の一日フリー乗車券(無料)をもらいに行ったのは2017年10月9日でした。この日も、とうきゅうでした。 踏切から振り返ると「雪が谷大塚駅」……7000系停車中。駅の向こう側には車両基地「雪が谷検車区」があり、以前見ましたっけ。同駅の開通時の名は「雪ケ谷」。一つ先の御嶽山駅とこの駅間は0.8kmなんだけど、真ん中に「調布大塚」って駅もあったと。いかにも邪魔くさかったのか? 雪ヶ谷駅が調布大塚駅を合併した折に現在の「雪が谷大塚駅」になったそうです。ちなみに住所に使われるのは「雪谷」なんだけどな~ 石川台駅に向かって道路は下ってます。先に呑川があるから当然…… ふり返って「電車来ないかな~」と思ったら…… 7000系がやってきましたとさ…… 桜のつもりが電車日記になってしまいましたが、続きはまた……
2021.04.02
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天気が良かったので、凝りもせず大田区を歩いた3月27日…… 観蔵院を後にして…… 大正2年1月10日創業の長久保造園土木さんで、今年も拝見しました。 雛飾り詳細は、去年の「お雛さまと西嶺町の梅」 西嶺町の住宅地を歩いて御嶽歩道橋……道路は環八で、瀬田方向。左からきたのだけど、距離感を誤って裏道を歩いたために信号機のある横断歩道を渡れなかった私。先の信号まで行っちゃうと行きすぎだから、しかたなく足腰強化で上りました。写真右側が北嶺町…… 歩道橋から見た武蔵小杉方向……かすんでるけど黄砂かしら? でもって御嶽商店街……正面が御嶽神社だけど先に手前に…… 去年より良い景色…… 本覚寺山門…… 今月の聖語『善悪の根本 枝葉をさとり 極めたるを 仏とは申すなり』……「ー闇を切り裂く大灯明ー」と続くらしい。『「無明の闇」という言葉があります。これは真理を照らす明かりがまったくなく真っ暗闇ということです。まさに迷いの根本です。 私たちはその中を手探りでさまよい歩いています。そして自分の価値観で「善だ悪だ」と決めつけ生きているのです。それがますます迷いを増長する結果となっているとも気づかずに…。 ならば私たちになくてはならないのは、闇を切り裂く灯明のはずです。その明かりとなるのは仏さまの智慧だけなのです。本仏釈尊の前に素直に額ずく。これこそが大灯明を手にできうる唯一の方法なのです。』(日蓮宗HPより) 南無妙法蓮華経…… お辞儀をして境内へ…… まことにグッドタイミングでした。 去年も同じようなアングルで撮ってました。 本堂前のお賽銭箱が遠いので、靴を脱いでちょっと上がらなくちゃなりませんが、私はきちんとご挨拶。 山門の桜を下から見上げて写すだけで引き返す人々。お賽銭など入れなくても、本堂で手を合わせるぐらいはすればいいのにな~ なんて思うのは私の身勝手でした。 ●南無妙法蓮華経「日蓮宗」 ●南無大師遍照金剛「真言宗」 ●南無阿弥陀佛「浄土宗」「浄土真宗」「天台宗」 ●南無釈迦無尼佛「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」「南無」=「帰依する」とまではいきませんが、どこへ行っても心の中でご挨拶をします。4つだけ覚えておくと便利です。 ※「昨年の本覚寺」《おまけ》 円融寺本堂裏……散り始めていて桜吹雪。8時49分 こちらも1週間で鮮やかになってました。まだまだ黄色が増えます。 フルーツヨーグルトってのに使うのであろう、ブルーベリーとイチゴをサービスしてくれたみたい。 コロナ感染を避ける私の訪問するお店はいつもこんな…… 厚労省職員23人が深夜まで送別会を開いていたが、朝刊に「県職員8人 送別会で感染」の見出し。鳥取県東部農林事務所の職員14人が参加した3月24日の送別会で、8人がクラスターだと。マスクもせずにカラオケで大声を発していたらしい。感染者数は全国最小の県ではあるが、開いた口が塞がらない。地域整備課に所属する職員らしいが、8人も出勤できずに日常業務は大丈夫なのか。 厚労省は老健局老人保健課の課長が言い出しっぺ。「頼りになる、立派な人物」らしいが、感染して休暇を取らねばならない職員が出たらどうなるかは想像しなかったのか? 一人も「止めましょう」と制止する職員がいなかったは残念だが、上司には逆らえないんだろう。政治世界の縮図……いやだ嫌だ。 事あるごとに「二度とないように」と口にする首相や大臣。いい加減聞き飽きた。どれだけ不祥事を繰り返してきたか「記憶にない」んだろう。
2021.04.01
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訪問したばかりだったけど、満足できなかった桜を見るために再び鵜の木の増明院を訪ねた3月27日のブラブラ…… 増明院を後にして、こんな道……桜の木がある寺社を頭に描いて歩きます。埋められてしまいましたが、六郷用水の跡です。 女掘(おなぼり)緑地……って言うんだね。 徳川家康の命により、多摩川左岸の六郷領(現在の大田区)を潤す農業用かんがい用水路として開削された由緒ある六郷用水。用水奉行・小泉次大夫が開削したんだと。六郷用水が完成したときに次大夫さんは70歳を越えていたけど、管理能力は抜群だったんでしょう。 昨年、梅の季節に訪問した観蔵院へ…… 観蔵院山門……右に薬師堂 桜ありました。記憶力は低下してるんだけど、良かった。 真言宗智山派・玉川八十八ヶ所霊場第五十七番札所 いつもの1枚…… 本堂にご挨拶して…… 弘法大師様にもご挨拶…… 桜が咲いているとまったく景色が違います。 参道を挟んで左右に並ぶ梅の木……左が紅梅で右が白梅。昨年は梅の時期でした。「昨年2020.2.15訪問時の観蔵院」 増明院の南側……私の後方の女掘緑地へと続く六郷用水の跡。 少し進むと結構な下り坂……六郷用水は前方の上流からこちらに流すため、この場所を最大7.5mも掘り下げて水路としたそうです。ツルハシ⛏とノミだけでの掘削はしんどかったろうな~「女堀(おなぼり)」のいわれには、「人手不足で女性がかりだされた」とか「女性で活気づけた」など諸説あるらしいけど、女性に良い所を見せようと頑張った男性は少なくなかったことでしょう。男ってのは結構単純だから…… 美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄」が浮かぶ。40年以上前に生歌を聞いたことがあります。ヨイトマケとは、滑車の綱を引っ張るときのかけ声「ヨイっと巻け」が語源だと。 話がそれたけど、写真左のコンクリート塀に…… すき間に石段発見…… 嶺北向庚申様……四方除けのために嶺村集落の周囲に置かれた4基の庚申塔の1基。東向・南向・西向を含めて、これで制覇しました。良かった良かった。 細い石段を上ると大小二つの祠…… 明治37年(1904年)の手水盤…… 赤い編み物はお地蔵さんのよだれかけかしら。小さい祠には大きなワラジが…… 駒型の青面金剛像で、踏みつけられた邪鬼、三猿が描かれています。享保7年(1722年)だから300年前の造立。左手前の三猿だけの角柱も庚申塔なのかしら? 小さい祠には三猿だけ……こんなの見たことなかったはず。 嶺北向庚申様の正面は、坂の頂上にあたる場所にある小さな公園……六郷用水跡を左に辿っていくと23日に出会った「嶺西向庚申」があります。 京急蒲田・梅屋敷あたりの散歩日記を書かないとなりませんが、桜を優先してしまいました。きっと明日も桜でしょう。ブツブツも書きたいけど、今日はこれでおしまい。「厚労省」職員さんは「功労賞」をもらえるようにお願いします。統合前の「厚生省」は「更生省」ってところか……やーめた。
2021.03.31
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3月23日に訪問した増明院だけど、少し早かったので27日に出直してみました……これから初診外来とやらに行かなくちゃならないから、今日はノーコメント。【3月23日】【3月23日】【3月23日】 東京の桜はボチボチ終わり……また来年のお楽しみです。 ※ 「3月23日の増明院」
2021.03.30
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なぜか置き去りにしていた2月7日のコピ散歩…… 大崎鎮守居木神社参道口の隣に…… 観音寺会館と墓地の間に…… 観音寺参道…… 石段をよっこらしょ……『当初は目黒川居木橋の南に所在していたのが、数度の水害を被り、これを避ける為に元禄年間、一村挙げ現在の高台の地に移転をしたとされます。』 ※ 以下『』内容は天台宗東京教区HPより。 弘治年間(1555~1558年)創建と伝えられ、開山は光海和尚。 山門扁額……金剛山 いつもの一枚…… 観音寺本堂……フルネームは金剛山圓通院観音寺。かつては東雉山松琳院と号したものが、いつの頃か今の名称へ改まったと……本堂後方に居木神社… 本堂扁額……東京三十三観音霊場2番札所『本尊仏は如意輪観世音菩薩でありましたが、滅罪と祈願と分つに至って別堂を設け現本尊仏の釈迦如来を安置…… 本尊の釈迦如来坐像は、像高51.6㎝(一尺七寸)木造・漆箔。玉眼嵌入、肉髻珠と白毫・水晶製。大衣を通肩にまとう定印の像です。胸前部の裏面に記された墨書銘より、江戸時代前期、元禄7年(1694年)の作と知られます。なお本像の両脇侍、文殊・普賢両菩薩像は昭和後期の作です。』 堂内右の観音堂扁額の下に安置されているのが如意輪観音様でしょう。六道それぞれの衆生を救う6体の観音の一尊です。六道は、先日の増明院六地蔵で書きましたが「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人間道」「天道」のこと。お救い下さるそれぞれの観音様は順に「聖(しょう)観音」「千手観音」「馬頭観音」「十一面観音」「不空羂索(ふくうけんさく)観音または准胝(じゅんでい)観音」そして「如意輪観音」でした。 ※ 玉眼「嵌入(かんにゅう)」とは、はめ込むこと。 ※ 「肉髻珠(にっけいしゅ、にっけいじゅ)」とは、頭部正面にある智恵を象徴した朱色の珠(たま)。ほとんどが水晶もしくはガラスの透明な珠で、底を赤く塗って赤色を表現すると。 ※ 「白毫(びゃくごう)」とは、仏の眉間みけんのやや上に生えているとされる白く長く柔らかい毛。「あぁ、おでこにあるな~」この毛は右巻きに丸まってるんだって。伸ばすと、仏身が一丈六尺の仏で一丈五尺もあるそうだが、この白毫からは光明が放たれていると。(浄土真宗大辞典より)『当寺の所在地である大崎の名は江戸時代から有る古い地名で、明治22年に上大崎村と下大崎村・谷山村(ややまむら)居木橋村(いるぎばしむら)桐ケ谷村など、現在のJR 山手線の大崎・五反田・目黒の各駅の周辺が統合されて大崎村の名称になり、明治41年に町制が敷かれて荏原郡大崎町に、昭和7年品川区へ編入されて品川区大崎に、そしてこの旧品川区と荏原区とが昭和22年に合併して現品川区ができ50年が過ぎました。』(天台宗東京教区HPまま) 延宝5年(1677年)造立の笠塔婆型庚申供養塔と、昭和17年(1942年)に造られた馬頭観音像とがあるそうですが、見当たりませんでした。残念…… 右にソメイヨシノ、山門左は枝垂れ桜でしょうが時期が早かったです。 山門で振り返り、一礼して失礼します。 道路に出てから気付いたので戻り…… パチリ……三界萬霊塔でした。 品川区立第一日野小学校跡……山手通りのビルの片隅・西五反田7-2 2010年に移転したらしいけど、併設する品川区立五反田文化センターってのがすごい。「音楽ホール(地下1階)」「スタジオ(1階・5部屋)」「五反田図書館(2階)」に「プラネタリウム(5階)」だって……とてもワクワクしますが、教育にお金をかけるのは良い事です。ただ、コロナ禍にあっての運営は充分にご留意くださいませ。
2021.03.29
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大田区鵜の木の増明院から鵜の木松山公園を抜けた2月23日…… 大田区西嶺町から田園調布南に入ると……昨年同様の景色がありました。 密蔵院…… やっぱり桜には青空が一番…… 花曇りではちっとも引き立ちません。 真言宗智山派・玉川八十八ヶ所霊場 第五十六番札所 山門に国際仏旗がはためいています。 普段は遠慮するのですが、屋根が見えたので墓地に…… 花御堂……ってのは、お釈迦様誕生時の立像を安置する、花で飾った小さいお堂のこと。花に囲まれ、なおかつ桜の木の元に……お釈迦様の誕生日である4月8日(木)に花まつり及び仏生塔入塔霊総供養法要が執り行われるみたいです。 仏生塔……『お釈迦様がお生まれになった時、7歩あゆまれ「天上天下唯我独尊」と唱えられたと伝えられている。これは釈尊ただ一人が尊い存在であるということだけではなく、我々皆一人ひとりが尊い存在であるということである。(後方の石碑より)』 この立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)も、昨年は気付かなかった。ルビは連れ合いのためにふりました。為念 桜がメインだったけど、やっぱり青面金剛は素通りできない私…… 青面金剛及び二童子四夜叉立像……像高91㎝の大型青面金剛像。元禄7年(1694年)の造像。 ちゃんと真言唱えてきました。 レグルス……「KEY COFFEE」の袖看板上部にある電光掲示板に、「路上喫煙は止めましょう」と文字が流れたから、「店内で吸え」ってことだと思い、コーヒーかビールを飲ませてもらおうと入った私。残念ながら「禁煙です」とのこと。2名がランチしてましたが、ドアは開け放ってあり換気対策OKの店でした。 六郷用水跡を多摩川方向にすすみ、東光院を右に行きます。でも、今日はここでおしまい。 ※ 「去年の密蔵院日記・2020.04.07」《おまけ》 田向公園の通り……2月25日8時42分……モーニングに向かった私。 同日の円融寺本堂前…… 昨日、予防のための電気治療に行く途中…… 明日から雨らしいから、桜は今日で見納めかもしれません。どこか行ってこようかしら……
2021.03.27
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山門前に見事な桜の木があったな~ と、昨年2月15日に訪問した増明院を尋ねてみることにした昨日です。 増明院山門……立ち並ぶ立派な桜の木々ですが、ちょっと早かったようです。壮観な眺めを期待していたんだけどな~ 山門前右の木だけ…… 部分的にこんな具合…… 真言宗智山派・玉川八十八ケ所霊場58番札所…… きれいきれい…… 東を向いた弘法大師様の後ろから……南無大師遍照金剛 あの大木が咲いたら、本当にきれいだろうな~ 週末にもう一度行ってみるか? 六地蔵……前回は向かわなかった墓地の入り口に。昭和48年奉納「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人間道」「天道」……私たちが生まれ変わる可能性がある六道の世界に出向いて衆生(しゅじょう)を救済してくれるのが地蔵菩薩でした。だから、たいてい墓地内や近くにいらっしゃるのね。六道のどの世界に生まれ変わるかは、生前の行いや思いなどに応じて決まる。地獄道を含む三悪道に生まれ変わらないよう、行いに注意しなければ…… 山門の上を仰いで失礼しました。 増明院の裏側のこの坂を下ると東急多摩川線・鵜の木駅だけど、私の後方に…… 前回見たから寄ってみたら……ななな???なんでやねん!!! 掘られてるじゃないの……しかし、小さいけどこの重機はどうやって上がったの? 鵜の木一丁目古墳……引っ越すのか? それとも再調査か? そして、こんな道を「鵜の木松山公園」に向かいました。その後、ちょうど昨年の今日・24日に訪問した「密蔵院」と「桜坂」を歩いてきましたが、続きは次回…… 昨年の「鵜の木一丁目15番古墳と増明院」 さてさて、今日は何をしましょうか……やらなくちゃならないことはたくさんあるのに、怠け者の私です。あかんな~
2021.03.24
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2月7日の散歩…… 居木神社(いるぎじんじゃ)社殿左側に梅の花…… すでに品川八幡神社の紅梅も咲いていたし、品川区の梅開花は早かった。 紅白の枝垂れ梅も…… 奥にも鳥居が見えたので行ってみると…… 裏参道……大崎町消防による奉納鳥居。昭和8年(1933年)というのは、大東亜戦争で炎上してしまった社殿竣工の年。鳥居は焼けなかったということです。 一応、表に出てみると…… こちらにも猫がいました。逃げない、人馴れした猫たちでした。 境内に戻ると、こちらにも提灯を下げる用意がなされています。提灯だらけの境内はきれいだろうな~ ちなみに当神社は、2018年に放送された『もみ消して冬』っていう日本テレビのドラマで、山田涼介扮する主人公・北沢秀作が絵馬を奉納するシーンのロケ地だったそうです。見たことなかったし、山田涼介と言われてもピンとこない芸能人音痴の私です。 さてさて、裏参道の鳥居をくぐってすぐ左に…… 右端の祠……石燈籠ですが、上部と下部とで年代に違いが見てとれます。さらに、笠の上の宝珠は左右で違い、右には宝珠の根元の「請花」が見られません。また、左は頭部「火袋」下にあるべき「中台」と「蓮弁」が無くなっちゃったみたいです。元々 対になっていたのではないのかもしれません。変なことが気になる嫌な私です。 道祖神でしょうか……男女の2体。男男、女女はないのかな~ 境内社…… 厳島神社と稲荷神社の2社が並んでいます。 お使いのお狐様を従えた稲荷大明神…… 稲荷神社扁額…… 厳島神社……品川区指定有形文化財『概ね和釘を使っていることなどを合わせ、当初の建造年代は江戸後期で、後年補修を受けたものと推定されます。(同社HPより)』 厳島神社扁額……質の良い彫刻装飾が多用され、彫刻部分以外の柱等にも彩色が施されているという内部の社殿は非公開。正月や例大祭には公開されるんでしょう。 左の厳島神社は、『もとは神社の傍にあった旧居木橋村の名主・松原家に屋敷神として祀られていました。後に居木神社が引き取り、末社としたものであります。』とあるので、引き取った際に土台を作ったと推察。 居木神社社殿前には、こんなのがいくつもありました。 写真のほぼ中央に置かれた古銭形の石。一般的には「銭鉢」と言うけど、これは「知足水鉢」。真ん中の水の溜まる部分を漢字の「口」として、上下左右に書かれた四つの文字と組み合わせると「吾 唯 足 知」=「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」と言う言葉になります。『足ることを知る人、貧しといえども富めり。 足ることを知らざる者、富めりといえども貧し。』 満足することを知っている人は、貧しくても心が豊かであり、満足することを知らない人は、裕福であっても心が貧しいと、お釈迦様が亡くなる最後の教えで「仏遺教経」にあると。「知足水鉢」の発祥は、徳川光圀公が送ったと伝えられる、京都の龍安寺にある「知足の蹲踞(つくばい)」らしいです。龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院らしいから禅宗で用いられる言葉かしら? 公にされている蹲踞は実物大のレプリカらしいけど、連れ合いは見たことがあるかもしれません。「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」……際限なく求めず、自分にとっての必要を知ることなのでしょう。1年前のトイレットペーパー騒動は、足るを知らない人が多かった証でした。食べ過ぎもよくありませんから腹八分目……飲み過ぎも要注意でした。 ※ 「蹲踞」=茶室に入る前に手を清めるために置かれる手水鉢。同じ字を書いて「蹲踞(そんきょ)」と言うと、相撲や剣道で試合前後に腰を下ろして向きあう姿勢のこと。低い位置の水鉢の前でしゃがみこむことから「つくばい」と名付けられたのかもしれません。単なる想像です。 石灯籠は弘化2年(1845年)奉納みたいだけど、古さを感じない。 左の樹木は皇太子殿下御成婚記念植樹・平成5年(1993年)6月9日……枝垂れ桜かしら? 28年経ってもあまり伸びません。頑張って大きくなって欲しいものです。 東の大崎駅方面……やはり結構高い所に鎮座していました。鳥居から直進すると…… 居木神社参道口はこちらでした…… と言うことで、今日はこれでおしまい。 憂鬱な雨だけど、たまには降らないとね~
2021.03.21
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品川神社訪問の帰りに、バッテリー切れだったから寄らなかったのでコピット行ってきた2月7日…… 百反坂を少し下って…… 北に向かうと、品川区大崎……電信柱の「アシダ音響」はヘッドホンを作っている会社。 品川区立芳水小学校の裏側のこんな道……トラックの後ろを右に曲がると…… 石段発見……方向感覚だけで行ったから、正しい入社ではなかったみたい。ちなみに、正面の屋根はかつて居木神社の別当寺だった観音寺。 居木神社(いるぎじんじゃ)参道……「居木神社と居木橋貝塚」が、しながわ百景だって……石燈籠と「遷宮(せんぐう)記念碑・昭和8年(1933年)9月」がありますが、『…昭和5年には氏子の崇敬熱意によりご社殿の改築にかかり、同8年9月に竣工されましたが、その荘厳を極めたご社殿も大東亜戦争末期に戦火にて炎上しました。(同社HPより)』残念です。もったいないです。『居木橋遺跡は、居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約六千~五千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居も多数確認されています。 貝塚は、食用にした貝の殻や魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時の生活を知る重要な手がかりを現在の私たちに提供してくれています。 これまでの調査から、多くの縄文土器、石器などが出土していますが、貝類では、海でとれるものの他に、陸でとれるヒダリマキマイイマイ(かたつむり)も発見され注目されました。』……居木橋遺跡は品川区大崎二丁目付近に存在したようだから、神社の少し南側みたいです。(居木神社・大崎3丁目8-20) 東山貝塚同様に目黒川や海に近い高台だから、暮らすのには好条件だったのでしょう。 猫が鎮座……石段の横手は石がごろごろしていると思ったら、溶岩積による富士塚なんだって。富士山はネコと反対方向。昔々は富士山がよく見えたことでしょう。「大崎の鎮守」……創建年代は明らかではないけど、古い記録によると、往古鎮座の地は武蔵國荏原郡居木橋村とあり、現在の山手通り居木橋付近に位置していたと。また、当時は「雉子ノ宮」と称され、境内には「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があったと伝えられているそうです。山手通り居木橋付近というと、目黒川が氾濫したりしたから引っ越したのかもしれません。 雉子ノ宮(きじのみや)でいいのかしら? ゆるぎの松は意味不明…… 鳥居の脇に阿吽一対の狛犬…… 大正12年(1923年)奉納…… 手水舎……石段を上がった左。 柄杓は置かれていません…… 水を噴き出しているのは獅子かしら? 左右に裸電球がぶら下がってます……季節の節目や祭事には境内随所に提灯が架けられるようです。見事でしょうね~ 今年もお祭りは我慢かな~ JA東京グループありました…… 居留木橋カボチャ『居木神社を中心とした、桐ヶ谷から居木橋一帯の旧荏原郡大崎村(現在の品川区大崎)は、江戸時代以前から農業の盛んな地域でした。居留木橋カボチャは、江戸時代の始めに沢庵和尚が上方から種を取り寄せ、当地の名主・松原庄左衛門に栽培させたのが始まりという伝承があります。 海岸に近く気候温暖で、適地であったため、甘味のある良質のカボチャが早い時期からとれたことから有名になり、地名としては居木橋であるが、居留木橋カボチャと呼ばれて親しまれました。 果実の大きさは中型で、別名を縮緬カボチャといわれたように、カボチャには十五本ほどの浅い溝がありますが、全面をごつごつとしたこぶで覆われていました。外観に似ず中は黄色く味は美味しく、当時わが国を代表するカボチャでした。 江戸時代から明治の中頃まで、この地方の特産品として長く名声を博し、後世の新種改良の親となりましたが、黒皮早生カボチャの出現や、当地域が宅地化するに及んで、しだいに栽培は減少していきました。』とさ…… 正面に社殿・右に社務所……社務所側のイチョウが御神木らしい。『江戸時代の初期、目黒川氾濫の難を避けるために現在の社地に御動座されました。その折、村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の4社をあわせてお祀りし、「五社明神」と称されました。 元禄郷帳に居木橋の石高は230石余、72戸で頭屋(年番)による運営がなされ、郷土の崇敬は篤く祭事は盛んで特に里神楽を催し、秋の大祭には他村よりの参詣も多く社頭は大変賑わったと記されております。(同社HPより)』『明治5年(1872年)、社号を「居木神社」と改め、同6年旧制の「村社」に列格、続いて同29年(1896年)および同42年(1909年)には村内鎮座の「稲荷神社」「川上神社」「本邨神社」の3社6座が合祀されました。』 現在の社殿は昭和53年(1978年)再建…… 居木神社社殿扁額……明治神宮の宮司さんの書です。仲がよろしいのか、両社にJA東京の説明板があるのが理解できます。 主祭神:「日本武尊(やまとたけるのみこと)」 配 祀:「高龗神(たかおかみのかみ)」 「大國主命(おおくにぬしのみこと)」 「倉稲魂命(くらいなたまのみこと)」 「天兒家根命(あめのこやねのみこと)」 「菅丞相(菅原道真)かんのじょうしょう)」 合 祀:「手力雄命(たぢからおのみこと)」 「淀姫命(よどひめのみこと)」 「大山咋命(おおやまくいのみこと)」 江戸消防記念会の奉納……消防記念会、以前見たのはどこでだったか? 社務所の右が「御神輿奉安宝物殿」で、その右が神楽殿…… 社殿左から……梅がさきはじめていましたっけ… ということで、今日はこれでおしまい。後編は明日……モデムの具合が悪かったので、電話したら修理交換に来てくれました。素早い対応はありがたいけど、時間をロスしてしまった今日でした。
2021.03.20
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前回歩かなかったコースをちょこっと素通りしてきた昨日…… 北池の広場から西神門をくぐって境内…… 南神門から正参道を原宿方面へ…… 正参道途中に「明治神宮御苑」入り口……江戸時代の初めから、大名加藤家・井伊家の下屋敷の庭園だったと。面積約83,000㎡(約25,000坪)の広大な土地に、隔雲亭(明治天皇が皇太后の御休所として建てられ、昭和33年に再建)や南池・菖蒲田・清正井なんかがあると言う。御苑維持協力金500円が惜しかったわけじゃないけど、お腹が空いていたから入苑は見送った私…… 前回見られなかった正参道の大鳥居……突き当り左が北参道で、右が南参道。 高さ12mで木造明神鳥居としては日本一……昭和50年12月23日建替竣工 大鳥居をくぐって南参道を進むと…… 奉献 清酒菰樽(こもだる)……『ここに奉供されています菰樽は、ご縁を以て永年当神宮へ奉納を頂いております甲東会(こうとうかい)を始め、昭和38年に結成された明治神宮全国酒造敬神会会員、また全国各地の敬神の念厚き酒造家より献納されたものであります。(明治神宮)』 しかし、すごい数……飲み切れないな~ なつかしい七笑。女城主は知らないが岐阜県のメーカーだと。『…… 岩村城は、戦国時代の一時期(1571年~)、織田信長の叔母であり“絶世の美女”と語り継がれる「おつやの方」が日本でも珍しく女性の城主として城下を治めていました。 そのストーリーをリスペクトし、岩村城築城800年を記念して誕生した銘柄が「女城主」です。(岩村醸造HPより) 』……「おんな城主 直虎」は知っているよ~ 奉献 葡萄酒樽について『明治天皇御製 よきをとりあしきをすてて外國に おとらぬくにとなすよしもがな「和魂洋才」を旨とし、わが国の伝統のこころを守りつつ、西洋の優れた文物を採り入れた明治時代。御在世中、まさに国民の模範となって近代化を推し進められた明治天皇は、断髪、洋装をはじめ、衣食住の様々な分野において西欧文化を積極的に採り入れられました。食文化においても率先して洋食をお召し上がりになり、西洋酒としては特に葡萄酒をお好みになられました。 ここに奉供されております葡萄酒樽は、ブルゴーニュ東京事務所代表でブルゴーニュ名誉市民、シャトー・ドゥ・シャイイホテル・オーナーでもある佐多保彦氏の呼びかけにより、葡萄酒産地として名高いフランス共和国ブルゴーニュ地方は醸造元各社より献納されたものであります。ご縁により遠く海を越えご奉献頂いた方々に衷心より感謝を申し上げますとともに、御祭神の世界友好への深い御心を戴き、わが国とフランスとの親交が一層深まりますよう祈念致します。明治神宮』……転記は疲れるな~ 目に悪いかもしれない。 ブルゴーニュ最高峰 ロマネ・コンティもあるぞ~ 代々木……『この地には昔から代々樅(もみ)の大木が育ち「代々木」という地名が生まれました。この前の名木「代々木」は昭和20年(1945年)5月の戦禍で惜しくも消失しましたのでその後植継いだものであります。』……「樅ノ木は残った」は山本周五郎。 竹で囲ってあるのが植えつがれた樅木らしい。 戦後76年……よくぞ育ちました。 なぜか南参道途中に石橋……短いから気付かない人もいるでしょう。 神橋(しんきょう)と言うらしい…… 覗き込んだらかすかに水の流れが……御苑内の南池から流れているのかも。 農業協同組合法施行50周年記念事業として、JA東京グループが、東京都神社庁などの協力により、都内50ヶ所の神社などに設置した「江戸・東京の農業野外説明板」 代々木野と周辺の村落『ここ明治神宮の境内は、かつて代々木野といわれ武蔵野の一部で、草深き原野は四季折々の山野草が咲き競っていました。それまで、寒村であった江戸に徳川家康が幕府(1603)を置いた事から、江戸周辺の原野は拓かれ、あちこちに集落が形成されました。 寛永年間(1624〜44)には諸大名の別邸や旗本の屋敷などが作られましたが、代々木野(当境内)には元熊本藩主、加藤忠廣の別邸が造営されました。境内周辺には原宿村・千駄ヶ谷村・代々木村・穏田村・上渋谷村などの集落があり、米、麦、蕎麦などのほか、ナス、ダイコン、ニンジンなど、江戸で不足する野菜類を主に生産し、神田や日本橋に出荷していました。 1867年、江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生すると、かつての大名屋敷の多くは空き家となり、青山周辺は市街化が進んだのに比べ、原宿村など、周辺の村々は、明治中期の頃まで、田園の景観をとどめていました。』(JA東京グループ) この説明板はとても寂しい場所にあったけど、位置は教えてあげません。以前、他の3ヶ所で見つけました。また逢えたらいいかもね。 神宮橋……当時の石材を補修して復元した親柱。石燈籠を現代化したデザインなんだって。ハチ公バスはコンパクトでいいです。 疲れたから転記は断念…… ということで、今日はこれでおしまい。 庭木の枝切してきましょう。
2021.03.19
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1月16日に訪問しましたが、一方通行の規制中だったこともあり、社殿にお詣りした程度だったから今日も病院帰りにちょこっと寄ってみました。 北参道から入って、参道は進まずに北池方向へ…… 橋があるから池があると思いきや…… 残念ながら水はなし……オタマジャクシかナマズの格好をした池みたい。 池の脇に広大な芝生の公園…… でもって喫煙所。地続きだけど明治神宮の管理地ではないらしく、喫煙可はとってもありがたい。 宝物殿入り口…… 耐震工事施工中でお休みらしい。 わが国初期の鉄筋コンクリート建築で、国の重要文化財。 この松らしきが見事でした。 宝物殿の正面は広い広い……そして気持ちがいい。寝ころんで、日がな一日、青空を眺めていたいものです。 芝生の脇の道を歩いて…… ちょっと裏に入ったら…… 桜咲いてました。今日見た桜はこれだけ…… 至誠館 第二弓道場の脇でした。柔道科や剣道科もあるそうです。 コロナ禍対策は不要……明治神宮社殿の北側です。 道案内があるのもありがたい。方向音痴でも大丈夫…… 前回はスルーした西神門に向かいます。 西神門…… 西手水舎の柱に「ひとりたつ道にいまよりつまづくな まなびの窓をいづるわらはべ」(明治天皇 御製・ぎょせい・明治42年)「むらぎもの心のあへる友のきて おもひくまなくかたりつるかな」(昭憲皇太后 御歌・みうた・明治33年) 西神門鳥居…… 向正面に東神門…… 中途半端だけど今日は簡単日記でおしまい。病院ってところは行くだけで疲れます。情けないな~
2021.03.18
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駒留八幡神社からブラブラした2月3日…… 国士舘大学世田谷キャンパスの南側を東西に走るこの道、地元の人は「勝国寺坂」と呼んでいるそうな…… 坂の途中に、紅白のコントラストが鮮やかな山門…… 青龍山 勝國寺(しょうこくじ)……真言宗豊山派 高徳の僧侶をむかえて長谷寺の復興をはかろうと考えていた豊臣秀長は、醍醐寺に身をよせていた専誉僧正(せんよそうじょう)を奈良の長谷寺に招き入れる。専誉が真言宗豊山派の第一祖となるのだが、「豊山派」の派名は長谷寺の山号「豊山」から出ています。長谷寺の正式名称は「豊山神楽院長谷寺」……連れ合いの好きな一寺らしいです。さっき、私の後ろから覗いて言ってました。 平安時代、法を求めて遣唐使船に乗って中国へ渡った空海。時の都長安で、空海に密教の奥義を授けてくれたのが青龍寺の恵果阿闍梨。勝國寺の山号はここからきているのかしら? 考え過ぎだわね~ 山門の左脇に地蔵菩薩…… 写真でしか拝見したことはありませんが、総本山・長谷寺からは想像できない鮮やかさ。 玉川八十八ヶ所霊場48番札所……川崎・横浜の30寺ほどは未訪問だけど、都内の霊場は30寺訪問しました。残りの26寺参詣は早くしたいものです。 勝國寺の開基は、天文23年(1554年)に12石を寄進した5代目の世田谷城主・吉良政忠。世田谷城の鬼門除けとして薬師如来を安置し、吉良家代々の祈願所としたのが始まりらしい。 吉良家滅亡後、天正19年(1591年)に徳川家康は12石を寄進。家光も前例により12石を寄進し、3代家綱以後の歴代将軍も同様の朱印状を与えたと。 勝國寺本堂…… 勝國寺のみならず、擁した末寺6ヶ寺も世田谷城を取り巻く砦としての役割を担っていたと。円光院・円乗院・多聞寺・善性寺・密蔵院・泉竜寺のうち、円光院だけは訪問しました。いつか世田谷城の砦寺も制覇したいかも…… 本堂扁額……南無大師遍照金剛 書いていたら、連れ合いが長谷寺の御朱印を見せてくれました。熱心にあっちこっちお参りしてるんやな~ 正面は不動明王みたいです。 基本的に真言宗のご本尊は、大いなる智慧と慈悲をもってすべてのものを照らす根本の仏さま=大日如来だけど、仏教に存在する仏さますべてをひとつも否定することはありません。従って、真言宗寺院のご本尊はさまざまなんです。 同寺の不動明王は目が金であることから目金不動とも呼ばれるんだと。教学院・青目不動を訪問した際、東都五色不動ってのを学習しました。 勝国寺は、もと丸香山薬師院と号し新義真言宗に属していたと。高野山を中心に弘法大師によって広められた真言宗だが、鎌倉時代に頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言の教えが成立。平安の末期、和歌山に創建された根来寺(ねごろじ)を中心に栄えるが、戦国の戦渦によって多くの僧侶が根来寺を離れることになる。新義真言宗総本山=一乗山大伝法院根来寺 薬師堂…… 薬師堂扁額…… 木造薬師如来立像が安置されていると……寄木造り、像高53.2㎝の像内に、天正20年(1592年)に彩色修理を施した旨を記す文書が納入されていた。吉良頼康(よりやす)のもとへ小田原北条氏より嫁いできた室の持仏であり、吉良氏と薬師信仰とのかかわりを示す仏像だそうです。 無縁供養塔の向こうのお堂は何でしょうか?…… 本堂後方は国士舘……かつては勝國寺の境内だったのでしょう。 本堂右に庫裏ですが、後ろと脇を国士館の建物に囲まれています。 見事な大木も…… 本堂前から…… ということで、今日はこれでおしまい。 落雷を伴った雨はいやだな~ 何をしましょうか……
2021.03.13
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2月3日の世田谷散歩…… 若林中央横断歩道橋……若林稲荷神社から環七を越えるのに使いました。すぐ先を世田谷線が横切るんだけど、タイミング悪かったらしく来なかった。待っているのも疲れるから断念。 若林橋……かつて二級河川が流れていた時代には橋が架かっていたんでしょう。 烏山川緑道……千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いている約7㎞の緑道。合流してから東に向かう目黒川になります。合流地点も以前行きましたっけ…… 天神橋ってのは、南150mほどに菅原道真の若林天満宮があるからでしょう。「こちふかば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」……「主がいないからといって、春を忘れるなよ…」東日本大震災、明日で10年。 中堰橋……河川の流水を制御するための「堰(せき)」が設けられていたのか? 1970年代以降ほぼ全面的に暗渠化され、ほとんどが下水道へ転用されました。 松陰橋……松陰神社の北側です。『緑道の半ば、宮坂一丁目には万葉の小径があり、ここは、万葉集に詠まれた草花が植えられています。(世田谷区HPより)』……「万葉の小径」は、以前訪問した世田谷八幡宮の近くだって。知っていてもあの日は時間切れだった。 国士舘大学世田谷キャンパスの一部が見えてきます。同大学のキャンパスは広い。世田谷4丁目と梅丘2丁目にまたがっていました。 梅だったかしら…… 緑道をそれて、お寺を探す私……どこかしら? おっと行き止まり……変則な道だから分からない。 正面は行き止まりみたいだけど…… この辺にあるはずだとウロウロしたら…… 念空寺……浄土真宗 地域密着型の寺院斎場とのことでした。 国士舘大学キャンパスを迂回すると、路地の奥にお寺……だけど、今日はこれでおしまい。 天気が良いから散歩したいけど、そうもいかないわけがある。今日明日は我慢の私です。連れ合いはお墓参りに出かけました。いつもご苦労様、そしてありがとう。
2021.03.10
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駒留八幡神社から世田谷の一部を歩いた2月3日…… 環七から若林2丁目の住宅街に入ると赤い鳥居……白い旗には「正一位福寿稲荷大明神」……なんで「若林稲荷大明神」じゃないの??? (答えは後で…) ちなみに右の建物は、反対側が神楽殿になってます。 鳥居に扁額はありません。 石段を上ると、よく整備されたコンパクトな境内……昭和59年(1984年)に再建された新しくてきれいな社殿。以前の社殿は、やはり昭和20年(1945年)3月10日の空襲で焼失したと。 手水舎も社殿再建時のものなんでしょう。 かつてこの地に鎮座していたのは「福寿稲荷神社」と呼ばれる稲荷社だったけど、代田に鎮座していた「天祖神社(神明社)」を合祀して現在に至っています。明治10年(1877年)に、天祖神社の別当寺であった常林寺が焼失したために合祀とのこと。 だから社殿扁額はこうなってます……創建年代は不詳ながら、江戸時代中期・明和6年(1769年)に社領が寄附されたとの記録があるそうです。戦禍で焼失以前の社殿扁額は「正一位福寿稲荷大明神」だったでしょう。 御祭神は、稲荷神社の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と、天祖神社(神明社)の「天照大御神」ということになるはずです。お酒を奉納されたのは、若林天満宮と同じ方々でした。 社殿左奥に大黒天社…… 以前は、大黒天、毘沙門天、弁財天が合祀された社があって、弁天池もあったんだって……インド神話の神様大集合、ってことかしら? 大黒様……中国から密教と一緒に伝わってきた大黒天(マハーカーラ)だから、初期には真言宗や天台宗で信仰されたらしい。目黒駅近くの天台宗寺院・大圓寺は山手七福神の大黒天でした。他の七福神はどうかと振り返ったけど、多摩川は「氷川神社」、荏原は「小山八幡神社」で東海は「品川神社」と、神社ばかりが大黒天でした。 社殿右側に鳥居が見えました…… 招魂社の碑…… 招魂社…… 戦死した人々の霊が祀られている社……戦争反対!!! 軍拡反対!!! 御祭神は護国の英霊…… 横から……丁寧に造られています。 幕が張られているってことは、初午祭が行われたのでしょう。この幕も昭和59年10月吉日だから、社殿再建時の奉納です。 社殿前から……左の神楽殿は2階建てだった。 高台になっていたから眺めは良い。だけど、石段下りるのは要注意の私でした。 さてさて、予防対策で電気治療に行ってこようかしら……
2021.03.09
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2月3日の世田谷散歩…… 駒留八幡神社から環七を北上…… 世田谷通りを越えて最初の歩道橋の脇に…… 若林天満宮……学問にご利益があるとされている菅原道真を祭神とする神社だから「若林北野神社」とも呼ばれます。狭い歩道からそのまま石段を上がるだけ。古くはたいそう賑わったようですが、環七の拡張で参道が失われたと考えられます。現玉垣は昭和34年の奉納だから、そのころ工事があったんでしょう。 社殿正面に「初午 2月3日11時 若林稲荷神社」の貼り紙。当者は稲荷神社じゃないから初午祭りは無縁でしょうけど、若林稲荷神社の宣伝かしら? 散歩に出かける時「今日は初午だよな~」と認識していました。人が多かったら近づかないことを肝に銘じていたけど、幸い祭りには遭遇しませんでした。この後訪問した「若林稲荷神社」でも、祭りの面影はありませんでした。緊急事態宣言中だから中止されたのかもしれません。 社殿扁額……いつから鎮座しているかは不明らしいけど、室町時代・応永8年(1401年)にはここにあったとする記録があるようです。 ちなみに「応永」ってのは、1394年から1428年までの35年間で、日本の元号の中では、昭和と明治に次いで3番目の長さらしい。 室町幕府第3代将軍・足利義満が征夷大将軍を辞官し、足利義持が第4代将軍に就いたのが応永元年だが、この新元号選定に関して、公家達の反発にあったため義満の希望は実現しなかった。そこで、機嫌を損ねた義持は「自分の生きている間には元号を変えさせない」決意をする。息子の義持も父の遺志を継いだのだろう、「義満死去・応永15年」「称光天皇即位・応永20年」に出された改元の議を阻止したとのこと。なぜか、いつも横道にそれる私……あかんあかん 小さな祭事が行われたのか? 奉納のお酒が並んでいます。 社殿右側…… 紅梅がチラホラ…… 白梅もチラホラ…… 社殿左側…… ポツンと境内社……稲荷じゃなさそうだけど、何かしら? やっぱりお稲荷様かしら? ポンプと手水舎…… 世話人さんのお名前がありますから、ご寄付の石碑でしょうが妙に古い。 前は環七…… 環七を世田谷線が横切る「若林踏切」…… 通過中……遮断機はありません。 ようやく行きましたが、またじきにやって来るんだな~ 早く渡りましょう。 淡島通りに向かって、また歩道橋……自動車には良いけど、歩行者には不便。 歩道橋脇を入ると次の目的地……若林天祖神社はまた今度……《おまけ》 シネマカフェの五目湯麺……小雨だったけど、西小山を諦めて早めのランチに行ってきました。禁煙(日・月)の暇を売る店でアイスコーヒーを飲んで新聞読んできた健康的な昼でした。「やれば出来るじゃないですか」と連れ合いに言われちゃいます。
2021.03.08
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2月3日の世田谷散歩…… 社殿左側の壁際に……寝返りうってるんじゃないよ~ 小さな社が二つ…… (左)菅原社・榛名社・三峯社 (右)御嶽社 稲荷神社…… 稲荷神社扁額……何処の稲荷? 伏見稲荷? 小さいけれど石造のお狐様も…… 社の右わきに「豊受稲荷大明神」の碑…… 豊受稲荷大神を祀る豊受稲荷本宮(ゆたかいなりほんぐう)というのが、千葉県柏市にあるらしい。戦後に京都「伏見稲荷大社」から勧請して創建した新しい歴史の神社で、特徴は「全国でも珍しい神仏混淆(神仏習合)の稲荷神社」とのこと。境内に観音堂もあるそうです。旧水戸街道沿いだから、昔々、営業車で何度も通ったけど記憶にはありません。興味なかったしな~ 左脇には小さな石祠……元々の稲荷社だったのか? まだまだ壁際に並びます…… 大小石祠と石碑…… 女塚社……ちょっと調べたけど、いろいろあるから今日はパス…… 庚申塔の方が気になる私……正面に青面金剛だろうけど、左右側面に一猿。三猿が普通なのにレアでした。江戸時代でしょうが、相当古いものでしょう。 富士講ではないでしょうが、溶岩石らしきが敷き詰められて……「宗円寺開基碑」と、Wikipediaにあった。明治維新後の神仏分離令まで、若宮八幡宮の別当を務めていた「宗円寺」……区画整理の際にこの場所に移されたらしいけど、寺号碑も山門前の道路を挟んだ位置にあったし、分かる気がする。 梅も咲き始めていたっけ…… 本堂左脇から…… 御大典記念樹……どなたの? 大正天皇の御大典記念でした。大正4年(1915年)11月10日に駒沢村青年会により植樹されたそうです。 世田谷の名木百選……百と言っても150件の名木が再選定されているようです。今度マップもらってこようかしら……このクロマツは40番 左の方にあるまっすぐに伸びた雄大なクロマツは高さ28.1m。とにかく立派でした。流石名木百選!! プレートは見なかったけど、駒留八幡神社はせたがや百景にも選ばれています。 さてさて、今日は何をしましょうか……天気はそこそこ…
2021.03.06
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世田谷区上馬から若林-梅丘あたりをブラブラした2月3日…… 環七を歩いて世田谷通りの手前…… 幾度も訪問する機会はあったけど、寄らずじまいだったから行ってみようと…… 予想以上に広そうな雰囲気……事前には場所しか確認しないし、詳細不明で出かけます。 撮っておけば何とかなると思ったけど、読めない……『…北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治3年(1308年)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。 その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。』(境内の掲示より)……ちょっと分かりにくい…… 世田谷城主・吉良頼康の側室・常盤は、他の側室たちからのつくり話によって頼康から不義の疑いを受ける。でもって常盤は子どもを身ごもったまま自害する。無実を知った頼康は、常磐の死と死産した子を当社に祀ったということでした。イジメは昔からの事ですがいけません。 ここ上馬の鎮守が「駒留八幡神社」で、下馬の鎮守が「駒繋神社」…… 手水舎……左三つ巴紋が入っていました。「巴」は、弓を射るとき手首につける皮革製の道具の形やそこに描かれた文様=「鞆絵(ともえ)」が発祥。武運の神として武家から尊崇された神紋と八幡宮の社紋になっていき、他の神社にも広がったと。「駒留」というのは文字通り馬が止まる意味……北条左近太郎が八幡宮を勧請するために鎮座地を探した方法は「馬を勝手に歩かせ留まったところ」だったと。駒場や駒沢って地名もあるように「駒」=馬との縁が深い地域です。 狛犬……睨まれました。 子どもを守る親の姿はいつも厳めしい。 神楽殿……昭和41年(1966年)の改築らしいけど風格があります。 駒留八幡神社社殿……御祭神は天照大神、応神天皇。 社殿扁額…… 社殿左側に……複数の境内社。 表忠碑……日清戦役~満州事変における地区出身の戦病没者慰霊顕彰。合掌。 細い参道が伸びます…… 戦没者慰霊殿……安らかに眠れますようにと祈りつつも、「死んで神様と呼ばれるよりも 生きてバカだと言われましょうよね…」が頭に浮かぶ私でした。 厳島神社……世田谷城主・吉良頼康が寵愛(ちょうあい)した常盤が弁財天として祀られています。 弁天池を模して、水が溜められるようになっているけど、寂しい…… サギソウ伝説『今から400年以上も昔、世田谷城主 吉良頼康(きらよりやす)には奥沢城主大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘で常盤(ときわ)という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。 度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりました。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがっていた白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。 白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。 その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。』(世田谷区HPより) と言うことで、途中だけど今日はここまで……続きは明日。 さてさて何をしましょうか……雨はいやだな~
2021.03.05
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1月31日の品川散歩・最終回…… 山手通り・品川図書館前の信号を渡ります……前方の駐車場奥は以前訪問した荏原神社。「南の天王さん」と呼ばれ、品川の南側を守るのが荏原神社で、北側の鎮守が「北の天王さん」と呼ばれる品川神社だと、その時学習しました。 結構疲れていたし、この日は荏原神社再訪はパスしましたが、2年以上前でした。 路地を入ります。 正面は目黒川が流れる場所…… 二基の鳥居と、ご神木……品川区指定天然記念物のイチョウ…… 限られたスペースなので、L字の参道…… 大切に維持されている社殿……東を向いています。別名荏川稲荷ともいい、御祭神は「宇迦能比売命(うかのひめ)」と説明書きにあったけど、「宇迦之売命」じゃなくてこんな表記もあったのね~ 扁額「稼穡稲荷」……『稼は植える、穡は収める、とりいれを意味し、農業の意味である。稼はカセギともよみ、かせぎためると読み替え商売繁盛の神として命名した。(一般財団法人 六行会)』『稼穡(カショク)とは、穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。』だと、デジタル大辞泉にも載ってました。知らんかった~『…この稲荷のはじまりについては、こんな話が伝わっている。薩摩屋敷から六行会がこの土地をゆずりうけたとき稲荷社は北東の旧目黒川の方にあった。そこでそんな隅にあったのをたいそう気にしていた六行会の生みの親ともいえる山本伴曹は、ある夜狐の嫁入りの夢を見た。山本伴曹は荏原神社の神主であった鈴木播磨に頼んで、伏見稲荷さんを分請したというのである。そしてそれは文久元年(1861年)という。…』 旧目黒川の河川工事が行われ、流れを変えた現在も目黒川の脇に鎮座してます。ご縁というものでしょう。 六行会(ろっこうかい)……とっても有意義な活動をされてきました。 南品川宿と呼ばれ東海道第一の宿場として賑わっていた幕末の頃、住民は宿場の仕事が忙しく、自分の家業に従事するこもままならない。それを軽減して凶年や不慮の災害時に対応できるよう、南品川宿の地主たちが基金の積立てを始めたのが六行会の初まり。 明治維新とともに宿場の制度が廃止になると、品川宿の人たちはそれから解放されるが、折角基金で作った家作からの収益金も無駄になる。そこで、これを有益に使うため、新しく始まった教育制度を助成することにした。 大正の末に、町人たちの集会のための「荏川町倶楽部」をつくり、この中に当時東京府下ではじめて「荏川町文庫」という図書館を併設するなど公益事業を展開。 昭和3年に、図書館を倶楽部から独立させ、後に品川町の東京市への併合記念として寄付し、現在の品川図書館に続いている。 平成6年、本会設立150年を機して、地域の文化・教育の発信点としてに寄与したいと願い、品川区と協力して新しい総合ビルを建設、「区立図書館」と「六行会ホール」ならびに集会施設「荏川倶楽部」を新設し、平成8年、東京都教育委員会から寄付行為の変更の許可を得て、新しい展開をしてきた。(一般財団法人六行会HPより抜粋) ちなみに「六行」は会の精神……『人の勤むべき六つの行い「孝・友・睦・姻・任・恤」を表しています。親子愛(孝)にはじまり、兄弟愛(友)夫婦愛(睦)親族愛 (姻)隣人愛(任)そして人類愛(恤)まで、拡げていこうというもの』だそうです。 幹周り4.1m、推定樹齢500~600年の巨木…… ここでも乳根……背後が六行会総合ビル 当日は気付かなかったけど、左に波型の瓦があった。目黒川の氾濫除けかも…… 目黒川にそって新幹線まで戻ってきた所……これ、何なんだろう? 地下に溜まった水を川に放水するためのものかしら? 川沿いを歩けないから迂回…… 光村ビルの敷地に…… 稲荷社…… テナントも入居しているけど、光村印刷の本社ビルらしいから、商売繁盛を祈願して光村さんが祀ったのでしょう。 ここでバッテリーの残りわずかだと表示が登場。もう一ヵ所寄りたかったけど、写真が撮れないので断念。田丸でチャーシューワンタン麺を食べて帰った私でした。朝から何も口にせず出かけたからお腹空いてたけど、なぜかワンタンが通常の倍入っていて苦しかった。おまけしてくれたのかしら? 久しぶりだけど美味しかった~
2021.03.04
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すでに3月だというのに、1月31日の散歩日記…… 虚空蔵横丁を正徳寺までもどり、北馬場参道通り商店街を越えて路地へ…… 民家の並ぶ変則路地に…… ポツンと地蔵堂……地元の有志さんに支えられています。 子育地蔵……手入れがよく行き届いたお堂。 優しく美しい子育て地蔵…… 子どもの好きなフィギュアも…… この地蔵のすぐ後ろを流れていた目黒川が氾濫し、川でおぼれて亡くなった子どもの供養にと、大正10年(1921年)7月に建立されました。100年前です。 目黒川は相当蛇行していたようだから、洪水も頻発していたんでしょう。大正15年(1926年)から昭和14年(1939年)にかけて河口から北沢川・烏山川合流点の区間で河川改修が実施され、直線化されたとのこと。 地蔵堂の後ろ……ここを流れていたんだな~ 今は、この地点から私の背後方向・100mほどに目黒川が流れています。 目黒川の川筋だったんでしょう…… 地蔵堂と目黒川との間に走っている山手通り……「環状6号線って言うんだよ」と、先日連れ合いに教えてあげましたっけ。環7・環8は知っていたけど環6って呼び方は知らなかったらしい。そんなことはどうでも良かった……自販機の先に… 寺院発見…… 本照寺山門……当日はまったく気付いていなかったけど、左の石柱にある「蓮華荘」が気になりました。ひょっとして宿坊があるのかしら? 本照寺本堂……東福山と号す真言宗寺院だったが、天文17年(1548年)に池上本門寺第九世東照院日純上人が日蓮宗に改めたと。真言宗から日蓮宗に改宗したのは、当時の住職が日蓮宗の日純との法論に敗退したためだって。ちょっと寂しいな、真言宗。 長福山本照寺……真言宗寺院だった時は「東福山」と号し、日蓮宗に改めた折に「東光山」と改号したそうですが、「長福山」とはこれ如何に??? 単立(たんりつ)寺院に独立されたのかしら? 現在の本堂は南を向いていますが、北方向の北馬場参道通りに「南無妙法蓮華経 東光山 本照寺」と彫られた門柱が残っているらしいから、昔は北向きだったのかも。現在山門となっている山手通りの拡張整備なども影響があったかもしれません。 観音菩薩……指がなくなってしまわれたみたい。修復してくださいませ。 動物之霊供養塔……墓地にではなく、本堂前は珍しい。 ありがとうございました…… 山手通りの向こうは品川図書館…… と言うことで、今日はここまで…… 天気が悪いから何をしましょうか。ノンアルデーだから寂しい。
2021.03.02
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1月31日の品川散歩…… 旧道街道を歩くと「日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の碑……8㎞~10㎞ってことだけど、昔の人はよく歩きました。東海道の玄関口として栄えた品川宿は、宿内家屋が1600軒、人口7000人規模で賑わったらしい。この花壇に使われている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたもので、かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていたものだと。海に接していた品川宿の歴史を伝え残しています。 前の写真右にある松の説明……道標だけでなく、こんな札書きが随所にみられます。 しながわ百景……「しながわ宿場まつり」は近年になって加わったようですが、百景を越えて「101」です。せっかく登場したのに、昨年は中止だったようです。今年は開催できるように、頑張って努力しましょう。ちなみに、百景には「112・ 新幹線車両基地」なんてのも加わったみたいです。 品川宿品海公園……北側ってのは左の方向 ここにも松……袋井宿からの寄贈だって。 袋井宿……江戸から数えても京から数えても27番目で中間点にあたる宿場らしい。本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠50件だったという。袋井って言われてもピンとこないけど静岡県でした。掛川の先で、浜松の手前。 松はないけど、また札書き……私の立っている旧東海道から海側の御台場(砲台)へ下っていく道が台場横丁と呼ばれていたと。写真の先が現在は区立台場小学校の敷地で、校庭入口には台場の石垣として使われた真鶴石と第2台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが置かれているそうです。いろんなものが明治村に行っているんですね。『御殿山下砲台は、江戸防衛のため幕末に築かれた「品川台場」のひとつです。 1853年6月、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画。工事は勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められましたが、資金不足により完成したのは御殿山下砲台を含めて6基でした。 海上に設置された他の台場と異なり、御殿山下砲台は品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられました。』(しながわ観光協会より) そんなに沢山ならんでおったんか~ 知らんかった~ 飾りじゃないのね? 旧東海道を曲がると…… レトロすぎ・錆びすぎ…… 善福寺山門……屋根が重そう。 時宗寺院……北条時宗(ときむね)じゃない。 比較的お目にかかりにくい時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派で、開祖は一遍上人。開宗・文永11年(1274年)。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺) かつては、遊行派を筆頭に一向派、霊山派など「時宗十二派」が存在したらしいが、昭和27年(1952年)に宗教法人「時宗」に包括されたと。東京23区内には8寺しかないみたい。 広々としているけど、飾りっけなし…… 音響山伝相院善福寺……永仁2年(年1294年)遊行寺第二世他阿真教によって創建。 ご本尊は阿弥陀如来でしょう。南無阿弥陀仏 麻布山善福寺は港区でした。 本堂扁額……「音響山」…なぜか悲しい。 龍も泣いている…… かなり傷んでいる本堂だけど、伊豆長八(いずのちょうはち)が作った鏝絵(こてえ)が施されています。 ※ 鏝絵(こてえ)=建物の壁面に塗る漆喰(しっくい)の上に、鏝で描いた絵のこと。絵心がなければ描けません。 関東大震災や戦火を免れた左官職人の逸品だから、もうすこし丁寧に残してあげられないのかしら? 鏝絵前から見た境内…… 堂宇……狐がいないし、覗いても見えなかったから稲荷かどうかは不明だけど、造りの異なる社がつながってます。 と言うことで善福寺を失礼しました。 正面が旧東海道。かつての賑わいは何処に…… でもって、今日はこれにておしまい。
2021.02.28
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1月31日の散歩…… 一心寺から北に数十メートル…… 品川宿商店街を左に入ると…… 品川小学校発祥の地……法禅寺にあった寺小屋塾が認可を受け、品川区内最初の公立小学校「第二中学区第六番公立小学校品川学校」となったのが明治7年(1874年)。 平成23年(2011年)4月に品川区立城南中学校と一体化して「品川区立小中一貫校品川学園」になり、平成28年(2016年)4月に「品川区立品川学園」となっている。東海寺大山墓地から見た品川学園にはこんな歴史があったのね~ ちなみにここでもレンガ塀……レンガの街みたい… 法禅寺……浄土宗と宗派が書かれているのはありがたい。 境内は月極駐車場…… 参道右に「観音堂」と「杉森稲荷」…… 東海三十三観音霊場三十一番札所……本尊「正観世音」『やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん』と書かれているけど、西国三十三所霊場第三十一番札所・長命寺(近江八幡市長命寺町)の御詠歌らしい。よくぞ調べました。 杉森稲荷扁額…… 観音堂の裏側に稲荷社……賽銭箱をお狐様が監視中 左の大イチョウが目につきます。 臨海山遍照院法禅寺本堂……至徳元年(1384年)開創で、芝増上寺の末寺らしい。 本尊「阿弥陀如来坐像」……宝永2年(1705年)安阿弥(あんなみ)末流の大仏師・大部の作。「法然上人坐像」……像高29㎝で、室町あるいは鎌倉時代の彫刻。いずれも区指定有形文化財が安置されていると。 今度 増上寺も行ってみようかしら? 直線距離で約7㎞だから往復できない距離じゃないけど、足腰弱ったから難しいかも。 布袋尊……昭和7年(1932年)大東京市発足を記念して始まった旧東海道沿いの七社寺を巡る東海七福神。当時は、ここ法禅寺が布袋尊だった。昨日の養願寺になったのは平成になってかららしい。それでも立派な布袋様が残されています。 法禅寺のイチョウ……品川区指定天然記念物 推定樹齢・約400年……『幹の囲り3.4m、高さ25m』 麻布善福寺や光福寺のイチョウ同様に乳根(ちちこん)をたらしているけど、推定樹齢は彼らの半分です。あと400年以上は元気でしょう。「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」文化7年(1810年)の碑 法然上人が説いた仏説観無量寿経というお経の中にあるようで、「阿弥陀さまの光明は遍く十方の世界を照し、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」との意味らしい。 浄土宗では、法然上人の命日(1月25日)にちなんで、毎月25日を「世界平和念仏の日」としている。『世界の平和と人類の幸せ、共生(ともいき)の願いを込めて正午にお念仏をとなえましょう。』と……来月から称えてみましょう「南無阿弥陀仏」 蛇足ながら、サラリーマンの給料日は25日が多いこととは無関係でしょうね。 本堂から山門を見て、右に…… 流民叢塚碑(るみんそうづかひ)……(手前)『この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。 天保4年(1833年)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。 初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治4年(1871年)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年(1934年)に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えている。(品川区教育委員会)』 なるほど、明治4年(1871年)造立の流民叢塚碑が屋根に乗っている。 流民叢塚碑隣のレンガ造りのお堂の中に……鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた石造供養塔・板碑116点などが、幕末に御殿山の土取場から出土されたみたいです。最古の銘は徳治3年(1308年)で、法徳4年(1452年)銘も阿弥陀三尊種子を刻んだものは、品川歴史館で常設展示されていると。歴史館は知っている。鹿嶋神社のそばだった。あの時寄っておけば良かったと思う場所がたくさんあります。 すみのお堂に…… 鬼子母神かしら?……右手に持っているのはトレードマークのザクロの実でしょうし、抱かれた子どもが手にしているのはザクロの枝でしょう。鬼に思われていた鬼子母神ですが、安産・子育(こやす)の神様です。 と言うことで、今日はここまで……何をしましょうかしら?
2021.02.26
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未訪問だった東海七福神の3寺社を目的に出かけた1月31日の散歩…… 虚空蔵横丁……正徳寺脇のレンガ塀に沿って歩きます。 左の路地奥には「旅館静正(しずまさ)」……古い住宅街の中にあって、なんとなく惹かれます。最寄り駅は京急新馬場駅だけど、品川駅からも1㎞強だから安かったら穴場です。 横丁を進むとこの景色……塀も壁もない。 養願寺……『明鏡山善行院養願寺』正安元年(1299)創建の天台宗のお寺。 東海七福神の布袋様を祀っているとのことですが、どこにいらっしゃるのか見つからなかった~ 行ったことに意義がある私だからかまいませんが……本堂左は八重桜かしら? 時期には絵になることでしょう。『虚空蔵尊は丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集めるとともに、「十三詣り」と結びつき、子供が13~15歳までにお参りすると福・徳・智慧が授かると言われています。虚空蔵尊春季・秋季大祭では多くの参詣者が訪れ、虚空蔵尊のお縁日として周辺商店街では露店や物産市、大道芸などが出て終日賑わいます。(しながわ観光協会より)』本尊・虚空蔵菩薩のご開帳は4月と11月の第2土・日の大祭時だそうです。子供たちがお参りできるよう、コロナ終息を願います。「十三まいり」は京都が発祥らしい。『古来より、数え年十三歳に成長した男女が、成人の儀礼として法輪寺に参拝しました。十三歳の厄難を払い、智恵を授けていただけるように虚空蔵菩薩に祈願します。 難波より 十三まゐり 十三里 もらひにのほる 智恵もさまざまの歌で知られるように、江戸時代の中頃から京都のみならず近畿一円からのお参りが一般に広がりました。(法輪寺HPより)』 法輪寺の通称は「嵯峨の虚空蔵さん」と言うらしい。でもって、法輪寺の住所は「京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町」渡月橋の南側なんですね。和銅6年(713年)に創建の歴史ある寺院で、江戸時代まで、渡月橋は法輪寺橋と呼ばれていたと。連れ合いは知っているかもしれないけど、いつかは訪問してみたいな~ ちなみに、法輪寺は真言宗五智教団とあるけど、虚空蔵菩薩は宗派に関わらないようです。空海も最澄も同時代に中国に渡って仏教を学んだのだから、根っこは一緒なのでしょう。 鰐口…… 品川区指定文化財が安置されていると。『銅造阿弥陀如来立像 高さ47.5センチ。善光寺式阿弥陀三尊として鎌倉時代に制作されたものです。長野県の善光寺像は、飛鳥時代に百済(現韓国)から伝来されました。その模作が多く作られましたが本像もその一つになります。 木造不動三尊像 不動明王は高さ1メートル12センチ、脇侍の矜羯羅(こんがら)・制多迦童子(せいたかどうじ)は約37センチ、共に彩色の像です。本像は、金杉村の僧玄雄の発願で、仏師春達が万治元年(1658年)に製作されたものです。』(天台宗東京教区HPより) 本当に小さな境内です。 門前を旧東海道に向かって……「あそこ」ってのは良いな~ 「どこで飲もうか?」「あそこ!」ってことになるんでしょう。 横丁の出口は旧東海道……正面に… 一心寺……豊盛山延命院一心寺は、安政2年(1855年)の創建で真言宗智山派のお寺。ご本尊は成田山の分身である不動明王だそうです。真言宗寺院とは思えない構えでした。「品川 成田山」の提灯……成田山の分身・不動明王を祀っているからでしょうが、成田山が前面に出ています。 本堂扁額「一心寺」……味わいのある文字 東海七福神の寿老人が祀られています。と言うことで、東海七福神7寺社の訪問完了です。本当は1日で歩かないとダメなんだけどね~ 箱庭のように小さな小さな境内です。明治2年に北品川宿へ移転してそうなので土地がなかったのかしら? 『古くから延命と商売繁盛の寺として信仰を集めています。毎月28日が縁日で、その日は素焼きの皿(ほうろく)を裏返しにして頭に載せて灸をすえる「ほうろく灸」が体験できます。(しながわ観光協会より)』……火傷しないようにね。 江戸三十三観音霊場30番札所……お堂正面で御朱印を授かっている方がおいでだったので、写真は簡素にして失礼しました。お賽銭と合掌はさせてもらいましたが…… 左が一心寺で、右の焼肉屋の脇から出てきた私……振り返って良かった~ 5番ゲット!!!……別に集めている分けじゃないけど、前回、存在に気付いてしまったから気にはなります。 旧東海道を北へ…… また発見…… 4番ゲット!!!……「お休み処」って、意味が分かりません。 と言うことで、今日はここまで……午前中から病院に行ってきたからコピット疲れたかも。電車は空いていて助かりましたが、毎日満員電車に揺られている皆さんは大変でしょう。感染予防対策をしてご留意くださいませ。
2021.02.25
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春雨寺から旧東海寺に関わる寺社を巡った1月31日の散歩…… 品川神社から第一京浜と京急を越えて東へ……北馬場参道通りって言うそうな。品川神社境内阿那稲荷神社の一粒萬倍の御神水でそそいだお金は、ここで使ってこなくちゃだめでした。 商店街のお店に挟まれて……姿の良い松が引き立てています。 日夜山正德寺(しょうとくじ)…… 正德寺山門からいつもの一枚…… 正德寺本堂……平家の落ち武者であったと伝えられる善永坊春應が、永仁6年(1298年)に現在の品川八ッ山に開基。当時は大日山香華院善永寺と号し、真言宗のお寺。その後の元亀2年(1571年)に現在の品川宿北馬場の地に移り、延宝3年(1685年)に浄土真宗本願寺派に改宗し「日夜山正德寺」と名を変える。さらに、正徳2年(1712年)に真宗大谷派に転派し現在に至っているそうです。もちろん本山は京都の真宗本廟(東本願寺)。忙しかったでしょうが、やっと落ち着いて良かったですね。 本堂の右に庫裏…… ご本尊は阿弥陀如来……すべての人を救うという阿弥陀如来の本願を信じて唱える南無阿弥陀仏……本願念仏の道は私には遠い。 蔦が絡まり、春を待つ大きなイチョウの木…… 正德寺では、墨絵画家を招いて「すみえおえかき道場」を開催していると。近かったら参加してみたい私ですが、当然、現在は休止中でしょう。 金原亭伯楽(きんげんてい はくらく)師匠による「正德寺落語会」もあると。一昨日訪問した梅屋敷東通り商店街沿いにある大林寺も寄席講演を行ったりしているようでした。商店街、近隣住民との関りも大切なのでしょう。 もうすっかり咲いたことでしょう…… 正徳寺山門……薬医門的な造りです。 とても良い景色……やぱり松が光ってます。 透かし彫りっていうのかしら?……宗紋ではなく寺紋なんでしょう。 正面欄間の龍も見事でした。 正徳寺山門傍の路地入り口に、錆びた「虚空蔵菩薩霊場」。空き瓶ケースの後ろに隠れてた…… 6番発見!!!……「こんな所じゃ分からないよ~」「何とかしてくれよ~」と思った私ですが、この道標は旧東海道沿いにだけあるのではないことを知りました。 虚空蔵菩薩を本尊とする養願寺へ向かいます。「喫茶ルノナール」寄ればよかったな~ 「モヤモヤさまぁ~ず2」の放送で、大江アナと3人が立ち寄った喫茶店なんだと。当初の店名はルノアールだったけど、大手喫茶店からクレームがきたから変えたんだって。店舗に比べて袖看板は新しいものね。喫煙マークが目に入らなかったから寄らなかった私でした。 正徳寺の横あたりはレンガ塀……フランス積みって言うらしい。イギリス積みもあるんだってさ~ と言うことで、今日はここまで……次回は養願寺……
2021.02.24
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1月31日の散歩…… 品川神社境内をぐるっと回り、参道の石段頂上に来たところ……方角は真東!!! 中ほどまで下りてくると…… 燈籠の所に…… 富士塚登山口の鳥居……登ることで本物の富士山に登ったのと同じ御利益があるとする「富士信仰」に基づく人口の富士塚。 一号目に……お賽銭箱がちゃんとあります。 猿田彦神社……天照大御神の命により天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したのが猿田彦大神で、街道の出入り口に祀られる道祖神として伝えられてきたもの。猿の字を冠することから庚申信仰と結びついたともされるそうです。だから庚申塔には三猿が付き物なのね~ ※ 「天孫降臨」= 天照大御神の孫たちが地上に降臨したこと。従って、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は孫です。 足神様ってのは良く分かりませんが、健脚の神様かもしれません。 数歩上ると二合目……使われているのは富士山の本物の溶岩らしい。 役小角と思しき人を守っているのは鬼かしら。柵があって幽閉されてるのに、笑顔の役小角。 三号目に「道行」石碑……この石段の上が五合目 五合目からほんの少しだけ平らな所を歩いて、6合目……人が立ち去るのをしばし待っていたけど、景色を楽しんでいたから待ちきれなかった私です。ここからが怖いんだな~ 本格登山開始……『富士信仰の集団・富士講の人々が富士山の遥拝(ようはい)場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山(つきやま)』 ※ 遥拝=はるかに隔たった所からおがむこと。 右の碑には「人丸大明神」……万葉歌人の柿本人麻呂を祀る「人麿(ひとまろ)神社」(奈良県橿原市地黄町)ってのが存在するらしく、江戸時代以降に、人丸大明神社・柿本人麻呂大明神と称したようです。人麻呂を祀る社寺は全国にあるらしく、東京では西久保八幡神社に人麿社があると。歩いては行かれないな~ 左の碑は「寒緑松本先生碑」って書いてあるのか? 幕末に生きた会津藩の漢学者・松本寒緑(まつもとかんろく)のことらしい。小さい漢文は何とか識別できても理解はできませんが、寒緑の足跡をエピソードと共に綴ったらしい立派な碑。死後16年経って友人や弟子たちが建ててくれるとは、尊敬できる人物だったことでしょう。 左上は安政元年(1854年)と読めるんだけど、富士塚ができる前……どこにあったのか? そして、巨大な石碑をよくぞここに持ち上げたものです。 私のような年寄りには危険極まりない。チェーンがあっても、つかまるとぐらぐらするから余計に危ないです。落ちちゃう人は居ないのかしら? 九合目到着……あと三歩!!! 富士塚が築かれたのは、富士講全盛時代の江戸時代じゃなく、なんと激動のさなかの明治2年(1869年)なんだと。北品川宿・丸嘉講社の講中300人が一生懸命造ったのに、神仏分離政策で一時破壊。それでも挫けず、明治5年(1872年)に再築し、大正11年(1922年)第一京浜国道建設の時現在地に移築されたと。(品川区指定有形民俗文化財) 山頂から品川神社境内……残念ながら、富士山は望めません。 絶景かな!!!……流石に東京随一の高さ比高15mを誇る富士塚でした。眺めは良かったけど、帰りは上り以上に怖かった私でした。 遠くにレインボーブリッジの極々一部が見えるんだけど、連れ合いは探せるかしら? と言うことで、品川神社は終了……今日は何をしましょうかしら?
2021.02.22
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1月31日の散歩…… 品川神社境内北側にある神楽殿の奥に…… 社殿右に並ぶ鳥居…… 阿那稲荷神社……熱心にお詣りされています。 この位置より少し北に下ったところにも阿那稲荷神社の祠があります。拝殿のあるこちらが「天の恵みの霊」を祀る上社本殿となるのでしょう。 上社へ向かって並ぶ鳥居の途中に…… 右へ下って行く鳥居群…… 下りていくと祠が……狭いから上手に全景が撮れない。 下社前にポツンと石造りの稲荷……「地の恵みの霊」を祀る阿那稲荷神社下社……歴史と多くの信仰心を感じます…… 社内を分かりやすく撮れなかったけど、入り口を入ってすぐ左に1社と、入り口正面に3社が並びます。 入り口脇に鳥居を備えた社と、右に一粒萬倍(いちりゅうまんばい)のご神水…… 下社内の阿那稲荷神社……私の後方にスペースがないから全景入らず。鳥居の奥は穴なんだな~ お狐さんが勢ぞろい……「御神前である。控えおろう~」って感じです。ちゃんと揚げも供えてあります。 一粒萬倍のご神水…… 上段に祠があって、脇の龍の口から水が…… 一粒萬倍の御神水……『万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。当稲荷神社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。そそぎし銭の一部は門前・北品川の商家にて使用するが吉。』 言われなくとも「清く明るき心を持って暮らす」ことが一番大切です。 私も、連れ合いへのお土産に神水でそそいできましたが、「使ってこないとダメなんですよ」と言われてしまいました。北品川で飲んで来れば良かったのでしょう。次回からはそうします。帰れなくなったら困るけどね~ 奥に並ぶ3社の右……天王白龍辨財天社 水の神だから、霊水が湧くここに祀られているのか? 「天王」ってのが理解不十分だけど、面倒だから今日は調べません。 中央に大國主恵比須神社……「恵比須大黒」なんてのもあるけれど、「大國主」と「恵比須」って具合に並列で祀っているのは珍しいかも。「だいこくさま」と「えびすさま」……品川神社には七福神の2神がおいでのようです。恵比寿さんは、古くは漁業の神でもあったらしいから、品川には不可欠だったんでしょう。しかし贅沢だな~ 左が八百萬神社……本当に狭いし、他の方もいらっしゃったので3社は一枚には納まりませんでした。 八百萬神……木、火、土、金、水、自然にまつわる神々と理解していますが、間違っているかもね~ 楽天……いいな~ そうとう古いと思われます。 と言うことで今日はこれにておしまい。手指を使いすぎちゃいけないので……いよいよ明日は富士塚の予定ですよ~ 大したものじゃないけどね~
2021.02.21
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東海七福神を制覇しようと出かけた1月31日…… 石造烏居……慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光公の側近・堀田正盛公の奉納。この鳥居は都内では上野東照宮に次いで二番目に古いものだと。(品川区指定有形文化財) 参勤交代の仕組みを作った徳川家光。武器、衣装、食事や宿泊など、かかる現在の億単位の行列費用は、ぜんぶ諸大名の自己負担。大金を使わされる大名たちは謀反どころではなかったらしい。抑えつけて全国支配を固めていったのが家光でした。家光が武家諸法度で参勤交代を定めた1635年は、こう覚えるんだって……「重労働(16)だ! 参勤交代(35)」 石造烏居の左に……背後の木との関係は不明だけど…… 品川ネギとカブ……『品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流域の低湿田地帯と荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しました。 江戸にネギが入ったのは天正年間(1573〜92年)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。 また、文化元年(1804年)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。 その後、江戸市中へ出荷する野菜の生産地は江戸市街地の発展により、大井、大崎地区を中心に移っていきました。』 JA東京グループが、農業協同組合法施行50周年記念事業として、平成9年(1997年)に東京都神社庁などの協力によって、農業にゆかりのある神社などに「江戸・東京の農業野外説明板」を都内50ヶ所に設置したとのこと。「居留木橋カボチャ」の説明版が先日行った居木神社にありました。駒繋神社の「陸稲(おかぼ)の藤蔵糯(とうぞうもち)」も見つけたけど、明治神宮の「代々木野と周辺の村落」ってのは気付かなかった……トホホ 神楽殿……当神社では、慶長5年、徳川家康が関が原の戦いに出陣の際に勝利を祈願して奉納したと伝えられている神楽「太太神楽(だいだいかぐら)」が有名だと。もともと二十座あった舞を、現在は十二座を「品川神社太太神楽保存会」が継承しているらしい。古くは、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれてきたもので、大正初年までは神職によって奉納されてきましたそうです。神楽殿ではなく拝殿で舞うようです。《東京都無形民俗文化財(民俗芸能)》 祖霊社……3月下旬には「祖霊社・忠魂碑慰霊祭」が行われます。『祖国日本の国の為に尊い命を捧げた英霊の御魂を慰め永遠の平和を祈り、祖先に感謝をします。(同社HPより)』 砲弾型には「忠魂碑」と彫ってあり、乃木希典の書のようです。日清・日露戦争の戦没者慰霊のため、明治四十三年(1910年)四月に品川町在郷軍人会が東海小学校校内に建立したが移転を繰り返し、最終的に終戦五十周年記念事業(平成7年・1995年)として品川神社が引き取って慰霊を行っているそうです。私が歩いたどこの神社の鎮魂碑も、ほとんどが乃木将軍の銘が入っていました。 祖霊社扁額…… 1月31日だったのに、紅梅がきれいだった。 社殿前から右方向…… 阿形で子供を抱える右の狛犬……明治7年3月奉納 左は吽形で背中に子供を乗せながらもう一匹抱えていました。 訪問した際は多くの参拝者がおいでだったので「社殿全景は後でいいや」と思ったのが大間違え。忘れてしまい、結局、今日のトップの写真しかありません。こんなアングル撮っても仕方ないのにね~『今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。(同社HPより)』古いですね~ 昭和39年(1964年)に現在の社殿が再建され、令和2年(2020年)に天皇陛下の御即位を奉祝して「御大典記念事業」として社殿の修復が行われたと。 社殿扁額…… 御祭神は「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」「宇賀之売命(うがのめのみこと)」「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」 創始以降、『鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478年)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。』とのことだから、一度にお迎えしたのではありません。「太太神楽(だいだいかぐら)」は、こちらで舞われるのでしょう。 社殿の左方向……提灯には葵紋。徳川家から贈られたものでしょう。『寛永14年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694年)・嘉永3年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる。』徳川将軍家の多大な庇護を受けたのでした。 手水舎水舟(水盤)も鳥居と同時に奉納されたもの。 手水舎の上の大きな絵馬……やっぱり葵の御紋 品川拍子は「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されるんだと。 神輿が描かれているってことは、慶長5年(1600年)に徳川家康公がお神輿を奉納された時のものでしょう。 水盤の角に坐禅するカッパ…… 足元には物欲しげな亀……「誰だ、五円玉置いたの」そんなの食べたら死んじゃうよ~ 宝物殿……徳川家康公が関ヶ原の合戦の後、勝利の御礼として奉納した「天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)」が納められていると。室町時代中期に作られた、舞楽の演目の「二の舞」に用いられる面だそう。手水舎脇の絵馬掛けに掛けられた絵馬には、この赤面が描かれていました。「天下一嘗の面」と同時に奉納され、明治時代に勝海舟が「葵神輿」と名付けた江戸時代初期の特徴が残る都内でも数少ない貴重な神輿も納められていると。太っ腹な徳川家康公…… 社務所……向こうに手水舎と宝物殿 社務所わきで一服させていただきました……ありがたやありがたや と言うことで今日はここまで……「いつになったら富士塚出てくるの?」って連れ合いに言われそうです。「一粒萬倍のご神水・阿那稲荷神社」の次だよ~
2021.02.19
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1月31日の散歩…… 双龍鳥居から石段を登って境内に……左が浅間神社で、右には石碑群が…… 東京八名勝入選の碑……『此の碑は中央に位置する心棒を昭和7年に当品川神社が東京八名勝の第三位に入選した記念に吾々の先人が時の協賛者と共に建立したもので丁度60周年の節目を期に常夜灯と記念碑を建立し品川神社の敬神の昮揚と境内の景観に粋を添え先人の鎮魂の意も含め更に社会に役立つ心の地形をなし人の和を基本としながら江戸町火消しの永い歴史によって培われた伝統文化の灯を消す事なく之を後世に伝承せんとするものである。』町火消の粋と心意気が伝わります。 何の碑か不明……残念……説明書きが欲しいよ~ とにかく撮っておく私…… 包丁塚……中央の碑には「内閣総理大臣三木武夫書」『抑もここ品川の地は 往昔より江戸出入りの要宿にして近代となりてその地域広大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆえに調理をなりはいとする店多く、またそれらに使用されし包丁数知れぬなり。 このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここに縁りの地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すと共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又蔬菜等を慰霊し、併せて業界の発展を期し、 とこしえに連合会の隆昌を願うものなり。 昭和51年4月27日』 ※ 殷賑(いんしん)=大変ににぎい、盛んなさま。 ※ 蔬菜(そさい)=栽培作物を指す語だが、今日では「野菜」と同義らしい。 どちらも東海七福神めぐりの碑ですが、左は「千客万来・商売繁盛」かしら? 右の丸いのは七福神が彫られて分かりやすい。昭和26年(1951年)とあるから、20周年記念でしょう。「天地開闢 大日本大社廻」と彫られた石碑……隅に「応需 勝安芳」と署名がある。安芳(やすよし)って誰? って思ったら勝海舟なんだと。麟太郎(りんたろう)なら知ってるんだけど。いずれにしても頼まれて書いたのでしょうが、断らず引き受ける良い人です。奥に小祠が見えたので行ってみることに…… 御嶽神社鳥居……右方向に上記の石碑が並んでいました。 修験道の場として独自の山岳信仰として栄えるようになった御嶽山。修験者・役小角(えんのおづぬ)が開山したとされるが、覚明行者(享保3年・1718年・生)、普寛行者(享保16年・1731年・生)、一心行者(明和8年・1771年・生)らが開山尽力に続いたらしい。「信者の魂は死後に御嶽山に引き取られる」と説かれ、やがて霊神碑を建立する風習が盛んになったようです。 三笠山元講が建立したこの三神碑にも「覚明霊神」「普寛●神」「一心霊神」と記されています。(●の字だけは読めない) 隅に「二品熾仁書」とあるのは有栖川宮熾仁(たるひと)親王のことでしょうか? 達筆だが、末尾の「神」の書体が三字とも異なるのはなぜなのか? 一度に書いた物じゃないのか? あえて変えてみたのならおしゃれ過ぎる。 ボルトで補修がされた大きな石碑……八海山、御嶽山、三笠山名が読めます。 脇に「正四位山岡鐵太郎」とありますが、山岡鐵舟(てっしゅう)にしておいてくれたら、江戸城開城に貢献した人だとすぐに分かったのに。西郷隆盛や勝海舟と同じ時代を生きたんでした。剣客として有名だけど、書も上手なのね~ 御嶽神社…… 扁額…… 小祠前から品川神社社殿方向…… 境内に盛り土がされているのでしょう、小高くなっています。 御嶽神社の狛犬……かわいいな、と思ったら? 頭のてっぺんに穴が開いてる…… 井戸もあるのね~ 御嶽神社から参道に戻ると、二之鳥居で威嚇する狛犬…… 備前焼だって。珍しい!!! 品川神社社殿はそこだけど、なかなかたどり着けない。「また後日なの~」と連れ合いに言われてしまいますが、今日はこれでおしまい。
2021.02.18
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東海七福神のうち、未訪問だったこちらを含む3か所を尋ねた1月31日の品川散歩……残りは当寺と[養願寺]・[一心寺]… 第一京浜沿いに、右手の京急・新馬場駅が最寄り駅…… 立派な鳥居の手前に、福徳円満で財宝をもたらす大願成就の神・大黒天……財宝はともかく夫婦円満が良いですね。 参道口が横広で写真に入り切れないから分割……一之鳥居右にこれまた立派な社号碑…… さらのその右に……「新東京百景」なんて知らなかったけど、「都民の日」制定30周年を記念して昭和57年(1982年)10月1日に東京都によって選定された100の風景なんだって。当社以外に、等々力渓谷・駒沢オリンピック公園・世田谷代官家敷・明治神宮・大井埠頭中央海浜公園とモノレール・目黒不動尊・大円寺の石仏群・本門寺五重塔・田園調布駅から多摩川台公園……けっこう行きました。 隣には「北品川宿共有地 金壹萬五千圓」……大正時代みたいだけど、今の貨幣価値だと1000万円以上だろうな~ 正二位勲一等伯爵清浦奎吾謹書……社号碑を書いた方。大正13年(1924年)第23代内閣総理大臣。92歳まで長生きされたようです。 鳥居扁額……この鳥居=「双龍鳥居」が変わっていて……「降り龍」(右)……上っているようにも見えるけど……「昇り龍」(左)……巻き付いていました。 しながわ百景三連発!!!……太太神楽ってのが気になります。「だいだいかぐら」って読むみたい。慶長5年、徳川家康が関が原の戦いに出陣の際、勝利を祈願して奉納したと伝えられている神楽のようです。 6月の例大祭は、7日に近い金・土・日に斎行され、金曜日に例大祭神事、土曜日に町内神輿の連合渡御、日曜日に神幸祭と宮神輿の渡御が行われると。去年は出来なかったでしょうが、今年はどうかしら? これ、ちょっとちゃうやん???……東海七福神ってのは、昭和7年(1932年)に品川が大東京に編入された記念として定められ、北品川から大森まで約4.5㎞の旧東海道を歩く七福神巡りらしいけど、現在のしながわ観光協会HPでは、品川神社の次の「法禅寺」は「養願寺」になってるし、「浜川神社」も「天祖諏訪神社」になってるんだけどな~ 確かに、この後訪問した法善寺にも立派な布袋尊がいらっしゃったから、昭和62年以降に変わったのかもしれません。 参道の石段が長いんだな~ よっこらしょ……歳をとったな~ 中腹にある燈籠の左には富士塚があるんだけど、後でね~ この石段を宮神輿が渡御するなんて大変だ! 石碑が並びます……疲れるよ~ やっとこさ登頂……正面の社殿までには境内鳥居が二基… 二之鳥居前の狛犬…… 右は阿形(あぎょう)…… 参道を外れて二之鳥居手前の左に…… 浅間神社……本殿のご挨拶前に寄りしました。 社号碑に「芳葉岡冨士」ってあるけど、芳葉岡はこの台地の名前でしょう。「品川富士」と呼ばれる富士塚ですが、「芳葉岡富士」が正式名称かもしれません。「ぶじかえる」……いいですね~ 僕も元気で帰りますよ~ 大田区の嶺白山神社にもいました。 浅間神社前にも狛犬……いかついな~ もっといかついで~ 扁額……千社札貼り放題みたい… 浅間神社の向こうが富士塚。この写真では低く見えるけど、高くて怖いんだよ~ 帰りに登ったから本編は後日…… さてさて、今日は何をしようかしら?
2021.02.17
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1月31日の品川散歩…… 清光院をあとにして、要津橋(ようじんばし)から下流へ……桜はもうじき… 東海橋を渡って、北へちょこっと…… 山手通りを越えます。右は京急・新馬場駅。並行して走るのは第一京浜……この交差点では警官が見張っています。毎回お見かけしますがご苦労様です。 第一京浜から脇に入ると……正面に… 清徳寺(せいとくじ)山門……臨済宗建長寺派の寺院。大徳寺派じゃないのね… 元徳2年(1330年)真照大定禅師の創建で、天正19年 (1591年)徳川家康より朱印10石を賜った御朱印寺。現在も歴代将軍の朱印状を蔵しているそうです。当然旧東海寺の域内です。 この様子からは「山門だけなの?」って思えるのですが…… 一歩踏み込んで右に…… 庫裏の前を通るのだけど、品川区教委の掲示板もあったからおじゃましました。『清徳寺文書 品川区指定有形文化財 清徳寺文書は、徳川歴代将軍の朱印状正文とその関係のものが18点、清徳寺の再興に関するものが1点、版木が2点、その他の文書などが7点と、これらを納めた朱印箱2点を含む30点である。 東京都区部ではめずらしい徳川歴代将軍の朱印状、及び15世玉泉(ぎょくせん)による朱印状書き替えの折の記録が多数残されている。また、本寺が鎌倉時代に創建されたことを誌した「武蔵野国清徳寺再興記」など、いずれも史料的価値の高いものである。平成27年8月31日』 寛永14年(1637年) 東海寺建立の時、周囲の多くの寺院は立ち退きを命じられ移動させられたけど、こちらは沢庵和尚の宿寺となっていたためそのまま残ったそうです。 本堂扁額……福聚山……「ふくじゅさん」と読むのでしょう。『無外坊胡麿仁者 蕉禅創業之地』……「無外坊」を俳号とする明治8年(1875年)生まれの俳人・柳下胡麿。「蕉禅派」という流派を起こして蕉禅新聞を発行したらしいが、ここ清徳寺で創業した記念碑なのでしょう。説明書きがないと困るんだな~ 本堂前……左の茂みに… 不明……でも合掌 小祠…… 稲荷なのかな?…… 庭門からわびさびを感じる私だけど、「侘び」「寂び」は禅の影響で生まれた美意識でした。禅には無縁のわたしでした。 ちなみに、臨済宗建長寺派の大本山・建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)の第一位。鎌倉幕府五代執権北条時頼が建長5年(1253年)に建立したわが国最初の禅寺。だから建長寺って言うのかしら。蛇足ながら「建長汁(けんちんじる)」は建長寺発祥の料理なんだよ~ 庫裏の前を引き返して失礼しました。 万両…… さてさて、今日は何をしましょうかしら……
2021.02.13
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