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都市社会学は、都市を研究の対象とする社会学の一分野で、農村社会学と対比されます。 都市生活の実態をふまえて、都市の構造や機能を多角的に分析、解明しようとします。 ”都市社会学入門”(2014年9月 有斐閣刊 松本 康編著)を読みました。 都市社会学に関する伝統的な学説・方法から、最新の議論や事例までを網羅しています。 松本 康さんは、1955年大阪市生まれ、1981年東京大学社会学修士、1984年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学、東京大学文学部助手を務めました。 その後、名古屋大学文学部講師、シカゴ大学客員研究員、名古屋大学文学部助教授、東京都立大学大学院都市科学研究科教授、首都大学東京都市環境学部教授を経て、2006年から立教大学社会学部教授を務めています。 社会学は、18世紀末に英国から生じた産業革命とフランスの市民革命の衝撃を受けて、ヨーロッパで生まれました。 都市社会学は、20世紀初頭のシカゴ大学での研究活動がはじまりとされ、 1925年にアメリカで学会から専門分野として承認されました。 アメリカでは、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて工業化と都市化が急速に進みました。 ヨーロッパからの移民が集中し、これまでに経験したことのない大都市が出現しました。 大都市で発生した社会の混乱に直面して、アメリカの社会学は、ヨーロッパから学んだ書斎の学問と、地元の都市での社会改革運動が混ざりあい、独特の発展を遂げました。 その後、マルクス主義の影響を受けた新都市社会学が、階級問題やジェンダー、権力の構造を論点としました。 都市社会学には、大きく分けて3つの問いがあるそうです。 都市はなにを生みだすか、なにが都市を生みだすか、都市とはどのような過程であるのか、ということです。 都市はなにを生みだすかという問いは、20世紀初頭のシカゴで、社会学が都市問題に取り組むなかで生まれ、こんにちまで続く研究の蓄積があります。 なにが都市を生みだすかという問いは、1970年代以降先進工業国の諸都市が転換期を迎え、それまでの工業化による経済成長パターンが危機に陥り、都市の衰退現象が見られるようになり、なにが都市を生みだすかが切実な問いとなりました。 都市とはどのような過程であるのかという問いは、都市はなにを生みだすかという問いと、なにが都市を生みだすかという問いの総合です。 現在、都市社会学が問題とするのは、都市の地域的広がり、空間形態、人口規模、人口密度、職業構成と産業構成、通勤、内部の空間構造、位置、都市人の生活様式、意識態度などの、都市の基本的諸属性です。 これらについて、社会構造、生活構造、社会意識、都市計画、都市問題などの観点から、いろいろな研究がおこなわれています。 社会構造、生活構造、社会意識の研究領域は都市社会学の基礎的なもので、都市計画と都市問題の研究領域は応用的なものです。 しかし、すべての領域の研究は相互に密接に関連しあっています。 第1部は、都市はなにを生みだすかという問いにそって、その核心にある都市化がコミュニティをどのように変容させるのかという問題をあつかっています。 第2部は、なにが都市を生みだすかという問いにそって、現代都市の危機と再編についてあつかっています。 第3部は、都市を時間と空間のなかの社会過程としてとらえて、私たちが都市とどうかかわることができるのかを考えています。 本書は、都市社会学をリベラルアーツとして学ぶことを念頭に書かれています。 都市社会学は、都市生活に関する経験知の集積である、ということです。序 章 都市社会学の問い 第1部 都市化とコミュニティの変容──都市はなにを生み出すか 第1章 都市社会学のはじまり 第2章 アーバニズム 第3章 都市生態学と居住分化 第4章 地域コミュニティ 第5章 都市と社会的ネットワーク 第2部 都市の危機と再編──なにが都市を生み出すか 第6章 都市圏の発展段階 第7章 情報化・グローバル化と都市再編 第8章 インナーシティの危機と再生 第9章 郊外のゆくえ 第3部 時間と空間のなかの都市──いかに都市とかかわるか 第10章 都市再生と創造都市 第11章 文化生産とまちづくり 第12章 アジアの都市再編と市民 第13章 ボランティアと市民社会 第14章 都市の防災力と復興力
2015.02.22
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坂本龍馬は1836年に土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動しました。 ”全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙”(2012年6月 教育評論社刊 宮川 禎一著)を読みました。 現在龍馬ものとして知られている、140通の書簡と新政府綱領八策一項などがおさめられています。 現代的龍馬像を作り上げたのは、歴史小説家司馬遼太郎氏の功績が大です。 1962年から4年間にわたり産経新聞に連載された長編大作”竜馬がゆく”は、一大龍馬ブームを巻き起こしました。 宮川禎一さんは、1959年大分県宇佐市生まれ、1986年京都大学大学院文学研究科修士修了、財団法人辰馬考古資料館学芸員を経て、1995年から京都国立博物館考古室員、2006年より同館学芸部考古室長、2012年より同館学芸部企画室長を務めています。 本書は、坂本龍馬書簡の全現代語訳であり、原文は基本として掲載されていません。 坂本龍馬は、ペリー来航を背景に尊皇攘夷運動が高まる中で多くの人士と交流し、攘夷論を超えた国際的視野に立つ日本の未来像を描きました。 脱藩と帰藩を繰り返す中で神戸海軍操練所開設に尽力し、海軍創設と海上交易による株式会社設立の構想を持ちました。 1865年に薩摩藩の援助の下、長崎で亀山社中を設立しました。 対立関係にあった薩摩・長州両藩を実利で結び、1866年の薩長同盟成立、倒幕への大きな布石となりました。 亀山社中は、土佐藩の後藤象二郎の尽力で海援隊へと昇華しました。 倒幕後の新政府案を後藤象二郎と構想したのが、船中八策です。 後藤象二郎から土佐藩を通じて幕府に建白し、1867年に徳川慶喜から大政が奉還されました。 大政奉還成立の1ヶ月後に、近江屋事件で暗殺されました。 龍馬の書簡の原文は、”坂本龍馬全集”などに掲載されていますが、いずれも龍馬の私信であり、その時代、年月日、人間関係などの背景を知らなければ何の意味か理解できません。 龍馬独特の言語表現も、多々存在していますので理解が困難です。 歴史の問題でもあり、また国語の問題でもあるでしょう。 また、記された年がいつかを記すことは稀であり、年月日の問題があります。 多くは月日のみ、あるいは日のみであり、何もなしなどもあります。 文面、内容、前後の事情等から、時期を推定することになります。 手紙の配列は基本的に”坂本龍馬全集”によっていますが、多少の順番の変更を試みています。 各項には推定年月日と宛先を基本的な見出しとして、文章の重要度が”☆”で印されて、となりに現在判明している蔵所先も明示されています。 訳文には”()”のかたちで、文章理解を助ける補足的な文が挿入され、予備知識なしでシッカリ読めるようになっています。 訳文の後段に書簡の歴史的立ち位置を教えてくれる解説があり、下段には人物や用語についての脚注もあります。 龍馬の手紙でもっとも多く用いられた表現は、”はからずも”だったといいます。 人生は計画した通りには進まない、という思いが表されています。第一章 龍馬の青春 嘉永六年―文久元年第二章 土佐脱藩と海軍 文久三年―元治元年第三章 薩長同盟への道 慶応元年―慶応二年三月第四章 長幕海戦と亀山社中 慶応二年六月―十二月第五章 海援隊 慶応二年十二月―慶応三年四月第六章 イロハ丸沈没 慶応三年四月―七月第七章 イカルス号事件 慶応三年八月―九月第八章 大政奉還 慶応三年十月―十一月第九章 年月等不詳の手紙第十章 新しく発見された手紙補 章 龍馬に関わった人々の手紙
2015.02.16
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佐藤一斎は幕末の儒者・漢学者で、門下生から多くの人材が輩出しました。 ”佐藤一斎の言葉”(2013年3月 黎明書房刊 菅原 兵治著)を読みました。 昭和44年に刊行された、”言志四録味講”を改題して版を改めたものです。 江戸幕府直轄の昌平坂学問所で学び、のちに塾長を務めた、佐藤一斎が書き綴った”言志四録”1133章から、82章を厳選して解説しています。 言志録 (246章) 42歳~53歳(12年間) 言志後録(255章) 57歳~66歳(10年間) 言志晩録(292章) 67歳~78歳(12年間) 言志叢録(340章) 80歳~82歳(3年間) 菅原兵治さんは、1899年宮城県生まれ、1927年に安岡正篤さん創設の金鶏学院に入り、1931年に日本農士学校創立に際して校長となり、農村人材の育成にあたりました。 安岡正篤さんは1898年大阪生れの国家主義者・陽明学者で、東京大学を卒業後、国家主義団体行地社に参加し、私塾金鶏学院を設立しました。 ”言志四録”を知ったのは金鶏学院に入って間もなくでしたが、本当にわがものとして読み出したのは1935年に岩波文庫として出版されてからだったそうです。 常に座右におき、ことに旅行の時などはいつも手下げに入れて、車中でもこれをひもといてきた、といいます。 最後尾には、黎明書房創業者の力富阡蔵さんのあとがきがあります。 佐藤一斎は1772年に岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町の藩邸下屋敷内で生まれました。 1790年より岩村藩に仕え、12、3歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大坂に遊学し、中井竹山に学びました。 1793年に、藩主・松平乗薀の三男・乗衡が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、大学頭として林述斎と名乗り、一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門しました。 1805年に塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たりました。 朱子学だけでなく陽明学にも明るく、儒学の大成者として朱子陰王と呼ばれ尊敬されました。 門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂など、幕末に活躍した知識人を多数育てました。 ”言志四録”は”言志録””言志後録””言志晩録””言志耋録”の4書の総称で、一斎が後半生の40余年にわたり記した随想録です。 指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書だった、といいます。 学を為す。故に書を読む。 敬すれば即ち心清明なり。 分を知る。然る後に足るを知る。 少くして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず第1章 自己確立に関するもの第2章 養生に関するもの第3章 学道に関するもの第4章 志憤に関するもの第5章 酒に関するもの第6章 名に関するもの第7章 敬に関するもの第8章 言語に関するもの第9章 事を処する道第10章 随時に拾ったもの補説 「我づくり」のための探究-敬の弁証法-
2015.02.09
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空海の価値観や行動規範の根底には、洞察力の鋭さと論理的な思考と的確な判断力があるそうです。 しかし、空海の魅力はそこにあるのではなく、もっと幅広く大きな視野から物事をとらえ、そこに潜んでいる本質を直観的につかまえる能力にあるとのことです。 その視野と能力がどのようにして身についたのでしょうか、どのような体験や経験がそれを助けたのでしょうか。 さらに、どのような人物から影響を受けたのでしょうか、 ”空海のこころの原風景”(2012年12月 小学館刊 村上 保壽著)を読みました。 いまも不思議な魅力と人気がある弘法大師、空海のこころの原風景を紹介しています。 そのためにどのような縁があったのかということに関心が向くようになった、といいます。 村上保壽さんは、1941年京都府生まれ、東北大学文学部哲学科卒業後、大学院文学研究科修士課程修了、東北大学助手、山口大学教授、高野山大学教授を経て、総本山金剛峯寺執行・高野山真言宗教学部長、高野山伝燈大阿闍梨です。 空海は774年に讃岐国多度郡の郡司、佐伯氏の出身で、母方は阿刀氏です。 15歳で上京して母方の叔父,阿刀大足に師事し、18歳で高級官僚養成のための大学に入りますが、まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめました。 24歳のとき、ある出家から虚空蔵求聞持法を教示され、四国の大滝岳や室戸崎などでの修行によって効験を得ました。 これを転機として、空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられました。 31歳のとき第2の転機にめぐりあい、唐へ留学しました。 2年間の留学から帰国した806年から、無名の人から著名な人物に変身して、真言宗の開祖への道を歩みはじめました。 空海は、平安時代初期の仏教界に新鮮な息吹を与えました。 空海が創設した真言密教とその学派である真言宗は、南都六宗と呼ばれている奈良時代の仏教がいずれも中国伝来の仏教思想であったのに対して、日本ではじめて生まれた仏教思想でした。 空海は、留学僧として遣唐使船に乗り、苦難の末、唐の都・長安に入り、恵果和尚から密教の正統な教えを継承し、日本に漢訳の密教経典を持ち帰りました。 当時、密教は、国家から独立した仏教の学派とは認められてはいませんでした。 帰国後、空海は、持ち帰った密教を独自性のある学派として国家に承認してもらうために、ただひたすら理論化の作業に没頭しました。 空海は、この困難な問題をみごとに乗り越え、中国ではやがて消えてしまう密教を確固とした教えとして開宗し、生き生きとした思想として残しました。 新しい密教を構想する着想は、空海の生まれながらに持っていた才能と考えることもできますが、才能を磨き開花させた空海自身の数々の体験があったからこそ成し遂げられたのではないでしょうか。 空海の才能の豊かさは、感性の鋭さ、とくに直観力のすごさにあります。 詩文や、三筆の一人にあげられる書の卓抜さをはじめとして、多芸多才といわれている能力は、感性の豊かさを証明していて、また思考の幅広さと柔軟さを示しています。 このような空海の才能は、普通の人では気がつかないような些細な出来事や現象、あるいは人との出会いや会話からでも、隠された本質を直観することができたようです。 空海は、人間以外のあらゆるものにも人間と同じこころの存在を見ていました。 自然界の獣や鳥や魚などだけでなく、山川草木にもこころの存在を認めていました。 こころは、心や意や識の意味に加えて、魂や、霊や、霊魂、あるいは、いのちや精神と言い換えることができる意味内容を持っています。 こころがこのように幅広い意味内容を持っていたからこそ、空海は、人や社会はもちろん、動植物や山河のこころと対話し、交流し、自然界のリズムに従って共に生きているこころであり得たのではないでしょうか。 隠されている仏の智慧を全身全霊をもって知ろうとする密教の本質を把握するこころは、人間の主観的な心でも意でも識でもなく、まさに鳥獣や山川草木のこころに通じるものでした。 空海のこころを生み出し育てたものは、まさに大自然であったり、若いときの体験であったり、師である恵果和尚との出会いであったりします。 感性の豊かさも、思考の幅広さと柔軟さも、空海のこころの豊かさと柔軟さを表しているといえます。 このこころを生み出した環境や体験は、空海が真言密教を構想するとき、こころの奥に原風景としてしっかりとあったのでないかということです。第1章 空海の原風景 若き空海の修行/自然に向ける目線/仏の智慧、仏の世界/大自然のいのち/空海の生きる姿勢)第2章 仏のこころー大いなる慈悲とその実践 仏の境地/関係のあり方がすべてである/慈悲の実践について/仏の子育て第3章 空海のこころを生きる 見えないものを見る/個と全体の関係のあり方/縁と人生/永遠を生きる/大師信仰を生きる
2015.02.02
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