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秋月悌次郎は会津藩士で、名は胤栄、字は子錫、号は韋軒、明治維新後は、胤永と名乗りました。 ”秋月悌次郎-老日本の面影”(2013年3月 中央公論社刊 松本 健一著)を読みました。 ラフカディオ・ハーンをして、神様のような人といわしめた会津藩士、秋月悌次郎の生涯を紹介しています。 秋月悌次郎は、1824年に千葉氏の末裔の丸山胤道の次男として若松城下に生まれ、藩校、日新館に学び秀才として知られました。 丸山家の家督は長男が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称しました。 1842年に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、1859年に藩命により九州などの西国諸藩を遊歴し、列藩の政治制度や風俗などを観察しました。 この旅の途中で、長岡藩の河井継之助としばらく行動をともにしています。 その後、藩主、松平容保の側近として仕え、1862年に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛しました。 薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ8月18日の政変を起こし、藩兵を率い実質的指導者として活躍しました。 後に佐幕派の反対を受け、1865年には左遷されて蝦夷地代官となりました。 松本健一さんは1946年群馬県生まれ、埼玉県立熊谷高等学校を経て、1968年東京大学経済学部卒業、旭硝子に入社したが翌年退職し、法政大学大学院で近代日本文学を専攻しました。 1974年博士課程満期退学、在野の評論家、歴史家として執筆を続けました。 1983年中国、日本語研修センター教授、1994年麗澤大学経済学部教授、2009年麗澤大比較文明文化研究センター所長を務めました。 秋月悌次郎はその後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みましたが失敗し、戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣しました。 専ら裏方として活動し、戦場で戦う機会はありませんでした。 降伏の際には手代、木勝任とともに会津若松城を脱出し、米沢藩へ赴きその協力を得て、官軍首脳へ降伏を申し出ました。 会津藩の軍事面の重要な役に就いていた事もあり、猪苗代において謹慎しました。 1868年に会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となりましたが、1872年に特赦によって赦免されました。 新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校など各地の学校の教師となりました。 五高では小泉八雲と同僚で、小泉八雲に「神様のような人」と讃えられました。 秋月悌次郎の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格が高く評価されました。 降伏を取り仕切ったため、これまで裏切り者に等しい扱いを受けてきましたが、初版1987年刊の本書はその汚名をそそぐきっかけとなりました。 晩年は東京に住み、1900年に75歳で死去し、墓所は港区青山霊園にあります。 司馬遼太郎は、「ある会津人のこと」というエッセイの中で、秋月悌次郎は篤実な性格をもち、他人に対しては遠慮深く、独り居ても自分を慎むような人で、その性格のままの生涯を送ったと書いています。 著者は秋月悌次郎について、北一輝、河井継之助、雲井龍雄、蓮田善明、三島由紀夫といった精神の同類型の革命的ロマン主義者である、といいます。1秋月悌次郎 老日本の面影 神のような人/法と道徳/詩と志/永遠に守るべきもの2非命の詩人 奥平謙輔 「戦争」の会津/「政治」の佐渡/「革命」の萩3「老日本の面影」前後 秋月悌次郎-維新の激動を越えて/加久藤ごえ紀行 司馬遼太郎と私
2015.10.26
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源義経は1159年に河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれました。 母、常盤御前は九条院の雑仕女でした。 父は1159年の平治の乱で謀反人となり敗死し、その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄、今若と乙若と共に逃亡し、大和国へ逃れました。 その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は、出家して僧として生きることになりました。 牛若は鞍馬寺に預けられましたが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主、藤原秀衡の庇護を受けました。 そして、兄、頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となりました。 しかし、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、頼朝と対立し朝敵とされました。 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼りました。 秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主、藤原泰衡に攻められ、1189年に衣川館で自刃し果てました。 その最期は世上多くの人の同情を引き、多くの伝説や物語を生みました。 ”義経北行伝説”(2011年6月 本の泉社刊 黒沢 賢一著)を読みました。 平泉で世を去ったといわれる源義経について、岩手、青森、北海道で語り継がれる、実は生きていたという伝説の謎を紹介しています。 黒沢賢一さんは1967年茨城県生まれ、早稲田大学大学院政治学研究科修了後、専門学校、大学講師を経て、福島県いわき市で私塾を主宰しています。 1996年から、小中学生、高校生、大学生、社会人の指導にあたる一方、歴史伝説研究家としても知られ、全国各地の伝説ゆかりの地を訪ね歩き、その採集と研究にも取り組んでいます。 悲劇の武将、源義経は、藤原泰衡に攻められ31歳の生涯を、衣川の高館で自害して終えた、というのが史実とされています。 ところが、実は生きていて北へ逃げたという伝説が、東北や北海道で今日まで長く語り継がれてきました。 これが義経北行伝説、義経生存説であり、それはさらに大陸に渡ってジンギスカンになったという義経ジンギスカン説へと発展していきました。 それは果たして本当なのか、その答えを見つけ出そうとして、これまで、伝説が語り継がれている場所を訪ね歩いてきたといいます。 本書は、そうした義経の足跡をたどる旅を通して収集した各地の伝説をつなぎ合わせて、北行伝説の形成過程とその背景を明らかにしようとしたものです。 第一章では、通説とそれに投げかけられるさまざまな疑問について述べ、第二章では、義経がこの世を去ったとされる衣川の戦いについて、義経をめぐる鎌倉と平泉の攻防と義経逃亡までの経緯を明らかにしています。 第三章では、岩手県内で義経北行伝説が語り継がれている場所と伝説の内容を、第四章では青森県、第五章では北海道の伝説を、義経逃亡のルートにそって紹介しています。 第六章では、これまでに出版された北行伝説に関する書物を整理し、各地の北行伝説の内容を、地域の歴史も考慮しながら比較考察し、伝説が形成された背景を推測しています。 義経に好意的な東北の伝説は、平泉を逃れた義経が、各地にその足跡を残しながら北に向かい、津軽海峡を渡ったとする通過伝説と言えるもので、話はそれで完結しています。 そこには、義経びいきの先人たちの、義経は死んでいないという願いと、平泉からそっと逃げて自分たちの町を通って北に逃げた、という思いが込められていて、東北の人々の願望が伝説にまとめられた気がするといいます。 北行伝説の真相は、さまざまな時代の思惑が作り出した創作だったように思えてならないとのことです。 戦さの天才、源義経は、果たして、自分の最後を悟った時に、こそこそと逃げ出すような生き方を選ばず、華々しく潔くこの世を去る最期がやはり似合うのではないか、と述べています。第1章 史実に投げかけられる疑問第2章 義経逃亡と平泉の攻防―北行伝説が伝える「衣川の戦い」第3章 岩手に語り継がれる北行伝説第4章 青森に語り継がれる北行伝説第5章 北海道に語り継がれる北行伝説第6章 義経はジンギスカンになったか
2015.10.19
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しょせん人間は「起きて半畳、寝て一畳。飯を喰っても五合半」の動物でありいかに膨大なエネルギーを消費し大量の物資の供給を受けたところで、われわれが実際に使えるのはそのほんの一部分にすぎません。 大部分は自分たちの外に溢れ出して、身の回りをごみだらけにするために使う結果になります。 実際、私たちは化石燃料だけで100,000キロカロリーという膨大な子不ルギーを毎日使うことで、地球全体をごみ屋敷状態にしながら、長年にわたってそれを進歩だと信じてきました。 最近になってようやく、環境の悪化に目を向ける人が現れるようになりました。 ”江戸と現代 0と10万キロカロリーの世界”(2006年6月 講談社刊 石川 英輔著)を読みました。 0キロカロリーで暮らしていた江戸時代から、100,000キロカロリーを消費する現代になり、便利な暮らしと引き替えに得たものと失ったものがある、といいます。 石川英輔さんは1933年京都生まれ、東京都立石神井高等学校を卒業し、国際基督教大学と東京都立大学は中退、1961年にミカ製版を設立して社長となりました。 一方で作家デビューし、一連の中国古典小説のSFパロディ・シリーズを手がけてきました。 1985年以降は専業作家となりましたが、大江戸シリーズの小説の執筆の他に、江戸時代の生活事情を研究したノンフィクションも刊行するようになりました。 現在、江戸研究の第一人者の一人です。 江戸時代は、リサイクルが発達した理想的なエコロジー社会であった、と主張しています。 私たち、21世紀はじめに暮らす日本人は、一人当たり一日に125,000キロカロリー程度のエネルギーを消費しながら生きています。 これだけ膨大なエネルルギーを使わないと、現代のこの便利な生活は成り立たないのであす。 しかも、そのうちの100,000キロカロリーは、石油、石炭、天然ガスなどのいわゆる化石燃料です。 いつまでも今のように便利な生活が続けられるのなら、化石燃料でも何でもどんどん使えばよいでしょう。 今のところ石油の埋蔵量はあと46年ぐらいということになっていますから、当分の間はなくなる心配をする必要がないからです。 また、時とともに採掘技術が進歩し、新しい油田も見つかりますから、この分では、恐らく46年後も、まだ何10年分かの埋蔵量が残っていることでしょう。 今でも石油資源がなくなる心配をする専門家はいますが、最近では、むしろこのまま好きなだけ化石燃料を燃やし続けていいかどうかを心配する人が増えています。 一度燃やした化石燃料はけっしてもとに戻らず、大気中の二酸化炭素が一方的に増えるからです。 使いたいだけエネルギーを使うことで、一面では確かに恵まれた生活ができますが、この世には一方的に良いだけのことは滅多にありません。 目先の便利なことを続けていると、長期的には不合理な成り行きになることが多く、化石燃料の使いすぎによる地球温暖化などはその典型的な例といっていいでしょう。 過去にさかのぼって調べてみると、一日に50,000キロカロリーの消費量だったのは1970年頃、10,000キロカロリーだったのが1955年頃でした。 そして、江戸時代には太陽エネルギーの消費はあるものの、化石エネルギーなどの消費はほぼ0であることに思い当たります。 ほんの130年前の明治初期まで、私たちはエネルギー消費ゼロの生活をしていたのです。 0と100,000万とを比較して、はたして私たちの暮らしは10万倍豊かになったのでしょうか。 数値だけ見ると江戸時代の日本人はよほど貧しく悲惨な生活していたように感じますが、実際の日常生活の水準の差はそれほど大きくはありません。 普通の生活は、江戸時代の悲惨さを強調したがる人が期待するほどひどいとは思えません。 衣食住について考えればわかりやすいですが、どんなに所得が多くてエネルギーをふんだんに使えても、今の二倍の量を食べ続けられませんし、衣服をどれほどたくさん持っていても、一度に一着しか着られません。 どんなに広い家に住んだところで、大部分の空間はただ空いているだけか、がらくた置き場にしかなりません。 一定の文明水準に達していれば、エネルギー消費が大幅に増えると、人類は余計なこと、やらなくてもいい無駄なことをせっせとやるようになるだけで、基本的な生活はそれほど変わらない、というより変えられないのです。 本書は、一人一日当たりのエネルギー消費が、0、10,000、50,000、そして100,000キロカロリーの時代に、同じ目的を果たすために、日本人がどんな方法を使っていたかを比較しながら、今のわれわれがなぜこれほど大量のエネルギーを消費するようになったか、その理由を分析しながら考察しています。化石燃料10万キロカロリー時代/乗物、昔と今/冷やす/食べ物/伝える/観る/旅をする/照らす/着る/食べる/住む/作る/捨てる・拾う/人類は豊かさに耐えられるか
2015.10.12
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岩波書店は当初、1913年に岩波茂雄によって東京市神田区南神保町に開かれた古書店でした。 1914年に夏目漱石の”こゝろ”を刊行し、出版業にも進出しました。 漱石没後、”夏目漱石全集”を刊行して躍進しました。 多くの学術書を出版するだけでなく、岩波文庫や岩波新書を出版するなど、古典や学術研究の成果を社会に普及させることに貢献してきました。 ”岩波茂雄”(2013年9月 岩波書店刊 中島 岳志著)を読みました。 膨大な伝記関係史料を使って、岩波書店創業者である岩波茂雄のリベラル・ナショナリストとしての生涯と出版人としての事績を紹介しています。 中島岳志さんは1975年大阪生まれ、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了、北海道大学大学院法学研究科准教授を務めています。 専攻は政治学で、過去に大佛次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞しています。 岩波茂雄は1881年に長野県諏訪郡中洲村の農家に生まれ、父義質は村の助役をしていました。 尋常小学校、高等小学校をへて、1895年に諏訪実科中学校へ入学しました。 在学中に父が死去し、戸主となりました。 母を助け農業をしていましたが、1899年に杉浦重剛を慕って上京し、旧制日本中学に入学しました。 1901年に第一高等学校に入学しましたが、人生問題に悩み二年続けて落第し除名処分となりました。 一高では、阿部次郎、安部能成、和辻哲郎、小宮豊隆など、多くの友人を得ました。 のち、1905年に東京帝国大学哲学科選科に入り、倫理学を学びました。 1906年に下宿先の娘明石ヨシと学生結婚しましたが、生活の面倒は内職しながらヨシがみたそうです。 1908年に、こよなく愛した母うたが亡くなりました。 東大卒業後しばらく神田高等女学校に奉職しましたが、教師としての自信を喪失し退職しました。 そして、1913年東京神田に古書店を開業し、破格の正札販売を実施しました。 1921年に”思想”、1931年に”科学”、1934年に”文化”、1946年に”世界”などの雑誌を創刊し、1927年に岩波文庫、1933年に岩波全書、1938年に岩波新書を創刊しました。 1940年に、学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で、財団法人を設立しました。 津田左右吉の著作の発禁処分の事件に際し、発行元として津田と共に出版法違反で起訴されました。 1942年に有罪判決を受け、上告中の1944年に免訴となりました。 1945年3月に貴族院多額納税者議員に互選、任命されましたが、9月に脳出血で倒れました。 1946年2月に文化勲章も受けましたが、4月に64歳で死去しました。 岩波茂雄についてはすでに多くの著作があり、代表的なのは1957年の安倍能成の”岩波茂雄伝”と、1963年の小林勇の”惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝”です。 安倍能成は一高以来の友人で、小林勇は会社の側近であり、身近な二人が書いた岩波伝は精度が高く愛情にあふれています。 しかし、両書はともに出版からすでに半世紀が経過し、2013年は岩波書店創業100周年に当たり、担当編集者から、これまでのものとは違う岩波茂雄を書いてほしいという依頼を受けたといいます。 岩波茂雄は一貫したナショナリストで、生涯にわたって吉田松陰と西郷隆盛を敬愛していました。 社長室には大きく五箇条の御誓文を張り出し、大東亜戦争の開戦に当たって歓喜の声を上げました。 一方で、極めてリベラルな人物で、偏狭な皇国史観に反発しました。 果敢に立ち向かって、美濃部達吉や矢内原忠雄を全力でサポートしました。 マルクスの”資本論”も出版され、講座派のシリーズも出されています。 この両面を矛盾していると捉えるのか、一貫していると捉えるのかです。 これまではリベラルな側面ばかりが強調され、ナショナリストとしての側面は脇に追いやられていました。 しかし、本書では、ナショナリストにしてリベラリスト、リベラリストにしてアジア主義者の明治人として、一貫した人物として捉えるべきだと考えたといいます。 節操がないように見える思想を貫く論理と情念について、岩波茂雄の若き日の煩悶に焦点を当てながら、近代日本の中に位置づけることを試みています。 第一章 煩悶と愛国(1881-1913) 誕生/西郷隆盛と吉田松陰/徳富蘇峰『吉田松陰』/父の死/伊勢神宮から鹿児島へ/自由への渇望,杉浦重剛への敬愛/請願書/上京,そして日本中学へ/第一高等学校入学/煩悶と求道学舎/内村鑑三の「日曜講義」/個人主義的傾向/藤村操の自殺/失恋と厭世/野尻湖での生活/学生から教員へ第二章 岩波書店創業(1913-1930) 古書店開業/夏目漱石『こゝろ』の出版/『アララギ』/哲学ブームと「哲学叢書」/倉田百三の登場/西田幾多郎,田辺元,和辻哲郎/大正デモクラシーとの呼応/関東大震災/三木清への期待/「岩波文庫」創刊/芥川龍之介の死と全集/河上肇と『資本論』/『聯盟版マルクス・エンゲルス全集』刊行の失敗,河上肇との決別/店内の動揺/政治への関心第三章 リベラル・ナショナリズムとアジア主義(1930-1939) 時局への危機感/講座派の形成と発禁処分/長野県教員赤化事件と時代への反逆/滝川事件/田辺元の怒り/『吉田松陰全集』/筧克彦『神ながらの道』/美濃部達吉の天皇機関説/欧米旅行/反ファシズムの戦い/日中戦争への批判と苦境/矢内原忠雄の辞職/連続する出版統制/「岩波新書」とアジア主義第四章 戦い(1939-1946) 津田左右吉『支那思想と日本』/津田事件/裁判/時局との格闘/頭山満への敬意/「大東亜戦争」の勃発/創業30年/貴族院議員に/小林勇の拘置/敗戦/『世界』創刊/死の時
2015.10.05
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