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1837年に大塩平八郎の乱が起こりました。 大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした、江戸幕府に対する反乱でした。 ”大塩平八郎 構造改革に玉砕した男”(2003年5月 KKベストセラーズ社刊 長尾 剛著)を読みました。 江戸後期に国の体制に修復のメスを入れ構造改革に玉砕した、大塩平八郎の改革者としての足跡と紹介しています。 旗本が出兵した戦としては、1637年の島原の乱以来、200年ぶりの合戦でした。 体制の悪い部分を切り捨て、改良できるところは改良し、全体を健全な姿によみがえらせようとしたのです。 長尾剛さんは1962年東京生まれで、東洋大学大学院修了のノンフィクション作家です。 かつて司馬遼太郎が、このままでは日本はダメになるとつぶやいたものの、21世紀に入ってからもまだ何とか持ちこたえています。 しかし、このままではダメになりつつあるという状況は変わっていません。 疲弊したこの国の体制に修復のメスを入れ、体制の悪しき部分は切り捨て、改良の余地がある部分には改良をほどこし、体制全体を健全な姿に蘇らせるのが、構造改革の意味するところの大枠です。 江戸時代後期に、大塩平八郎はそれだけの覚悟をもって、この国の構造改革に挑みました。 最期の最期まで、その男は自らの覚悟を貫徹しました。 そして、果てました。 大塩平八郎は1793年大坂天満の生まれで、大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代のから数えて8代目にあたります。 奉行所時代はさっぱりとした性格の人物として、不正を次々と暴いたといいます。 上司の東町奉行高井実徳の応援により、西町奉行与力弓削新左衛門の汚職事件、切支丹摘発、破戒僧の摘発などを行いました。 その辣腕ぶりは、腐敗した奉行所内で憎む者も少なからずいたそうですが、市民の尊敬を集めました。 1830年に高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲りました。 学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて、隠居後は学業に専念しました。 そして、与力在任時に自宅に開いていた私塾、洗心洞で子弟を指導しました。 当時、寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされていました。 そして、天保の大飢饉に遭遇する。天保の大飢饉は、全国的には天保4年秋から5年夏にかけてと、天保7年秋から8年夏にかけてが特にひどかったそうです。 天保4-5年(1833-34)の際には、大阪では経済の専門家が揃っていたため無事切り抜けました。 しかし天保7-8年(1836-37)の際には、豪商が米を買い占めたため米価が高騰し、大阪では民衆は飢餓に喘ぎました。 そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を、新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していたそうです。 跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行いました。 そして、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日に、門人、民衆と共に蜂起しました。 しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなり、蜂起当日に鎮圧されました。 大塩は戦場から離れ、数日後、再び大坂に舞い戻って、下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏しました。 一月余りの後、密告により幕府方に発覚し、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決しました。 享年45歳でした。 幕府の吟味は、乱の関係者が数百人に上ることに加え、未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の二段階の吟味となり、一年以上の長期に渡ることとなりました。 仕置は翌年に言い渡され、大塩以下、主だった者たちの磔が大坂南郊の飛田刑場において行われました。 大塩は、太平の江戸時代に生きた幕臣でありながら、幕府に反旗をひるがえす内乱騒ぎを起こしましたが、内乱はわずか半日で幕府に鎮圧され、歴史に大きな波を起こすことは出来ませんでした。 彼の行動はドンーキホーテのそれであり、その評価は多少の幅があるものの、総じて歴史の敗北者の中に放り込まれています。 また、反乱という過激な手段で歴史に挑んだため、テロリストのイメージさえ持たれる場合があります。 しかし大塩の真意は、江戸時代の徳川幕府という体制の構造改革をしたかったのでした。 全てはそのための行動でした。 本書は、構造改革を自らの命と引き換えに成し遂げようとした、男の意地と信念と足跡を見定めようとしています。第1章 大塩平八郎とその時代 徳川家に忠義を尽くそうとした幕臣・大塩平八郎 教育者としての大塩平八郎 天保時代(江戸時代後期)の政治状況)第2章 大塩平八郎の思想 江戸時代の儒教思想 大塩平八郎の思想第3章 大塩平八郎が遺したもの 大塩死後の「大塩像」 明治から平成へ
2015.05.31
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松平容保といえば、幕末に京都守護職を務めた会津藩主です。 ”写真集 松平容保の生涯”(2003年3月 新人物往来社刊 小桧山 六郎著)を読みました。 松平容保は、1836年に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主、松平義建の六男として生まれました。 1846年に叔父の会津藩第8代藩主、松平容敬の養子となり、1852年に家督を継いで第9代藩主となりました。 父は松平義建、母は古森氏で、養父は松平容敬です。 兄弟は、徳川慶勝、武成、徳川茂徳、容保、定敬、義勇があり、義姉に照姫がいます。 正室は、松平容敬の娘、敏姫であり、側室は田代孫兵衛の娘、佐久、川村源兵衛の娘、名賀です。 実子は、容大、健雄、英夫、恒雄、保男があり、養子は喜徳がいます。 本書は、戊辰戦争で最後まで戦った松平容保の悲劇の生涯を、200点の写真と文で綴っています。 小桧山六郎さんは1946年福島県生まれ、亜細亜大学経済学部卒業、仏教大学学芸員課程修了し、博物館会津武家屋敷学芸員、野口英世記念館学芸員、会津史学会理事、猪苗代地方史研究会員、いなわしろ民話の会会長などを務めました。 松平容保は1862年に京都守護職に就任しました。 はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取りました。 しかし政事総裁職、松平春嶽が会津藩祖、保科正之が記した会津家訓十五箇条の第一条”会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である”を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意しました。 京都守護職に就任すると、12月に会津藩兵を率いて上洛しました。 孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍、徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたりました。 会津藩は幕府の公武合体派の一員として、反幕府的な尊王攘夷派と敵対しました。 1867年に15代将軍、徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止されました。 その後、鳥羽伏見の戦いが勃発して、旧幕府軍が敗北しました。 大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し、幕府軍艦で江戸へ下りました。 鳥羽伏見の戦いにより朝廷は、旧幕府を朝敵としました。 慶喜が新政府に対して恭順の姿勢を示すと、旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立しました。 会津藩内でも、恭順派と抗戦派の対立が起こりました。 容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎しました。 西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城が無血開城されました。 新政府軍は、上野戦争で彰義隊を駆逐し江戸を制圧しました。 容保は新政府に恭順の姿勢を示しましたが、会津藩内は主戦派が占めていました。 会津藩に同情的な仙台藩、米沢藩は、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に会津藩赦免を求めました。 鎮撫使が仙台藩士によって殺害され、新政府軍と奥羽越列藩同盟の衝突は決定的となりました。 容保は恭順姿勢をやめ、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に徹底抗戦することを決意しました。 しかし、会津戦争では新政府軍に敗北を重ねました。 若松城に篭城した際、家老に降伏を勧められたがこれを却下しました。 その後、同盟諸藩が次々と降伏し、容保はついに新政府に降伏しました。 降伏後は謹慎処分となり、鳥取藩に預けられることになりました。 1871年に会津松平家は容保嫡男の容大が新たに陸奥国内で3万石を与えられ、斗南藩として家名存続を許されました。 容保は1872年に蟄居を許され、1880年に日光東照宮の宮司となりました。 正三位まで叙任し、1893年に東京小石川の自邸にて肺炎のため59歳で薨去しました。 そして、1928年に、秩父宮雍仁親王と、容保の六男、恒雄の長女、松平勢津子の婚礼が執り行われ、朝敵会津藩の汚名を返上することとなりました。 写真で容保の人物がよく分かり、いずれも事実を物語っています。敗軍の将は兵を語らず誕生と高須藩会津藩主となる房総警備の視察に赴く幕政への参画京都守護職への就任京へ入る容保の活躍と孤立会津と薩摩の提携薩摩・長州の同盟と王政復古戊辰戦争での敗戦と廃藩新しい時代に生きる朝敵の汚名返上
2015.05.25
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夏目漱石は、1867年に江戸牛込馬場下横町で生まれ、市ヶ谷学校を経て錦華小学校へ転校し、12歳の時、東京府第一中学正則科に入学しました。 2年ほどで中退し、漢学私塾二松學舍に入学し、1883年に英学塾成立学舎に入学し、1884年に大学予備門予科に入学しました。 大学時代に正岡子規と出会い俳句を学び、英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、1901年にイギリスへ留学しました。 ”自転車に乗る漱石-百年前のロンドン”(2001年12月 朝日新聞社刊 清水 一嘉著)を読みました。 1900年秋にロンドンに留学した34歳の漱石の日記を手がかりに、20世紀初頭のイギリスを紹介しています。 漱石は、帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、小説を執筆しました。 20世紀初頭のイギリスの古本屋街、地下鉄、公衆浴場、ダービー、そして、ロンドンっ子を夢中にさせた乗り物自転車などは、当時の日本人にはもの珍しい光景でした。 清水一嘉さんは、1938年神戸生まれ、岡山朝日高等学校卒、1962年東北大学文学部英文科卒、1964年同大学院修士課程修了、同年愛知大学教養部講師、1969年助教授、1980年教授、1998年文学部教授、2009年定年退任、名誉教授で、専攻は英文学、英国文化史です。 本書は、清水一嘉さんのエッセー集であり、夏目漱石がロンドン滞在の一年目に記した日記の記述を手がかりに、その背景にある当時のイギリスの出来事や社会風俗を解説し、漱石の人物像やロンドン生活を描いています。 倫敦ノ町ニテ霧アル日、太陽ヲ見ヨ。黒赤クシテ血ノ如シ。鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラシ。 これはロンドンのスモッグにまつわる話です。 1月末、ヴィクトリア女王が没し、国葬が行われました。 大英帝国始まって以来、何10万人の人々を集めた国葬の様子が紹介されます。 漱石は留学費の1/3を書籍の購入にあてて、5~600冊の書籍を購入したとされます。 1893年に出版された書店・出版社の辞典から漱石の日記に書かれた古書店を調べ、紹介しています。 漱石が渡英した頃、ロンドンでは慈善家の援助を受けて自治区の管理運営で公衆浴場と洗濯場が普及していたことが紹介されています。 漱石が下宿したブレット家はそれまで多くの日本人が下宿した家ですが、下宿人が少なくなると経営が苦しくなって食事の質も低下したそうです。 漱石の留学費用やその使い道と、下宿の経営費用が検討されます。 下宿したブレッド家の女中、ペンがロンドンの方言で話かけてくるのに、漱石は辟易します。 イギリスの雑役女中の生活が紹介されます。 イギリスの逓信省が葉書を発行したのが1870年で、1872年に葉書の個人発行が認められ、1890年代には絵葉書が発行され、1900年代にはカラー印刷の絵葉書が出回るようになり、コレクターも表れ、絵葉書ブームが発生しました。 漱石も魅力的な絵葉書をつぎつぎに日本に送ったとされます。 18世紀終わりには、パブリック・ハウスは大衆酒場を指すものになりました。 場末のトゥーティングに移った漱石が目にしたのは、劣悪な環境に暮らす下層の労働者階級の飲酒におぼれる姿でした。 漱石はロンドン滞在2年目には日記をつけませんでしたが、帰国後”自転車日記”というエッセーを書きました。 何度落ちたことか。石垣でスネを擦りむく。立木にぶつかり生爪をはがす。ひっくり返って、砂地に顔面を打ちつける。 漱石が自転車にのる練習での、悪戦苦闘ぶりが描かれています。 1890年代に安全自転車と空気タイヤが発明されてイギリスでサイクリング・ブームが起きたことが紹介されます。 部屋に閉じこもり神経衰弱気味となった漱石を気分転換させるために下宿の婆さんの勧めで自転車を練習し、スコットランドまで小旅行をでかけるまでになったとされます。 本書は、このように、留学した漱石の日記を交えながら、彼が接したイギリス文化を解説していくというもので、特に食事や紅茶の描写は圧巻です。 なお、漱石は帰京後、妻が勧めても乗らなかったそうです。 理由は、ロンドンと違って道が悪くて、そのうえせせこましくていかんということでした。鳶色の霧ヴィクトリア女王死す南亜戦争クレイグ先生地下鉄に乗る古本屋めぐり分冊出版を買う「芝居は修業の為」漱石「入浴ス」アールズ・コート軍事博覧会「下宿ノ飯ハ頗ルマヅイ」「ウチノ女連ハ一日ニ五度食事ヲスル」カルルス塩を飲む「ペンガ饒舌リダシタ」「小便所ニ入ル」絵葉書を子規に送る子供の独楽遊びストリート・ミュージシャンたち四つ辻掃除人エプソム・ダービー「女ノ酔漢ヲ見ルハ珍シクナイ」自転車に乗る漱石「ラスキンノ遺墨ヲ見ル」「妻ヨリハンケチ二枚送リ来ル」
2015.05.10
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クールビズは、日本で夏期に環境省が中心となって行われる環境対策などを目的とした衣服の軽装化キャンペーン、ないしはその方向にそった軽装のことを言います。 今年も4月24日に環境省から発表がありました。---------- 環境省では、平成 17年度から、冷房時の室温 28℃でも快適に過ごすことのできるライフスタイル「クールビズ(COOL BIZ)」を推進しています。今年も地球温暖化対策及び節電の取組が重要であることから、クールビズ期間を5月1日から10月31日までといたします。 また、日本百貨店協会、日本チェーンストア協会、一般社団法人 日本フランチャイズチェーン協会では、それぞれの会員企業の店舗において、冷房温度緩和の取組を行うなど、クールビズの取組を今年も推進していきます。 今年も気候変動キャンペーン「Fun to Share」の活動の中で、クールビズを更に定着・進化させていくことを目指していきます。---------- クールビズは、平成17年第1次小泉内閣第2次改造内閣で環境大臣に就任した小池百合子時代に、内閣総理大臣からのアドバイスにより、環境省の主導のもと、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に摂氏28度以上の室温に対応できる、軽装の服装を着用するよう呼びかけたのが始まりです。 クールビズという表現は、環境省の一般公募によって選ばれたものです。 実施期間は、環境省の想定では、6月1日から同年の9月30日まで、となっています。 ただし、平成23年には、東京電力・福島第一原子力発電所での事故等の影響による電力不足も考慮して、政界・官公庁や一部の上場企業によって5月1日より実施されました。 平成24年からは、環境省がスーパークールビズを打ち出しています。 従来のクールビズは、主に軽装にすることにより室温28度でも快適に過ごせることを狙いましたが、スーパークールビズは、ワークスタイルやライフスタイルの変革によって、さらに効果的な節電を目指しています。
2015.05.04
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