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道永エイは、明治の男性中心の社会にあって、自らの力で立ち上がり、ロシアの艦隊と関わりながら、女起業家として手腕を発揮した女性です。 おロシアおエイとも、稲佐の女王とも呼ばれ、長崎の人たちからは、おエイさんと親しまれました。 ”ニコライの首飾り-長崎の女傑おエイ物語”(2002年3月 彩流社刊 白浜 祥子著)を読みました。 長崎の三女傑のひとりで、皇の志士を助けた大浦ケイ、初めての西洋流女医の楠本イネと並ぶ道永エイの波瀾に満ちた生涯を紹介しています。 白浜祥子さんは長崎出身のノンフィクションライターで、長崎市私立活水中学高校卒業、京都市私立池坊短期大学華道専門学院付設研究科・ゼミナール科卒業で、執筆当時、長崎日ロ協会会員、関西日露交流史研究会準会員です。 エイは、万延元年の西暦1860年に、熊本県天草郡大矢野島大字登立村で、父作次郎、母タエの間に次女として生れました。 12歳のとき両親を相次いで失い、遠縁を頼って、茂木の旅館で女中奉公をしました。 1879年に料亭ボルガの女将、諸岡まつを紹介され、まつの世話で稲佐のロシア将校集会所で家政婦として働きました。 明治初期、長崎港は政府指定のロシア極東艦隊停泊港として、多くのロシア人でにぎわいました。 稲佐には、20年位前からロシアマタロス休憩所が開かれていました。 ロシアが地元の庄屋から1000坪近い土地を租借し、病院や艇庫や小工場を建てて、水兵たちの休養の場としていました。 稲佐村には、ホテル、両替所、レストランが作られ、またロシア海軍の兵士達は民家を借り受けて住んでいました。 おエイはここでロシア語を修得し、1881年にバルト号の船長付のボーイとしてウラジオストクに渡りました。 1年後に帰国し、その後上海に渡りました。 1883年に上海より帰国し、流暢なロシア語と社交術で、再びボルガで働きました。 ロシア語を身につけ、生来の美しさも手伝って、エイはめきめき頭角を現しました。 階級にこだわらず、面倒見のよいエイは、やがてロシア極東艦隊の乗組員たちから、我らがマーチ=母と慕われるようになりました。 1889年頃、ロシアの極東政策が本格化し、巨大な東洋艦隊が長崎に入港するようになりました。 エイは長崎港を見晴らす稲佐の台地に300坪を借地し、ホテル・ヴェスナーを作りました。 客室21、ロビー、宴会場、遊技場も備えたホテルで、連日連夜、海軍士官達により、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられました。 1891年に、ロシア皇太子ニコライがシベリア鉄道の起工式に出席の途中、ギリシャのジョージ親王とともに、明治天皇の招待で日本を訪れました。 長崎には4月27日に来て、5月5日鹿児島を経て神戸へと出発しました。 28日から3日間はお忍びで、上野彦馬の店で写真を撮ったり、稲佐に上陸し、5月3日は丸山の芸者を招いて宴会を開くなどしました。 おエイはその宴席を取仕切り活躍しました。 長崎への公式上陸は5月4日で、皇太子はこの後5月11日に大津事件に巻き込まれることとなりました。 1898年に健康を損ねて、ヴェスナーの経営はまつに任せ、平戸小屋の小高い丘の上に土地を買い、ロシア高官だけを顧客とする小ホテルと住居を建てました。 1902年に大浦の外国人居留地に、ロシア風ホテルを建てました。 1903年に日本とロシアとの関係が悪化の一途を辿りつつある中、ロシアの陸軍大臣クロパトキンが軍事視察に来日し、エイのホテルに21日間滞在しました。 クロパトキンは、あなたはロシア海軍の母だと賛辞を送りました。 日露戦争が始まると、エイの一家は、露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、家に投石され迫害されたといいます。 1905年にロシアと講和が成立し、旅順要塞地区司令官だったステッセル将軍も、乃木大将との水師営会見後、家族一行16名で稲佐に上陸し、おエイのホテルに3日間滞在しました。 おエイは、紋付きの礼装で、極上の紅茶、菓子、果物を出し心からもてなしました。 1906年に、茂木に純洋館2階建てのビーチホテルを開業しました。 階上に客室12、階下は宴会用の広間、音楽室からなる近代的なホテルでした。 ホテルは開業後1ヶ月で増築をするなど、大変繁盛しました。 そして、1927年5月12日の朝、平戸小屋のホテル横の隠居部屋で、68才でその生涯を終えました。 35歳の時に生まれた愛児の父親の名を、終生だれにも明かさず、自分独りの胸にたたんだままでした。第1章 幻のホテル第2章 一家離散第3章 長崎のおロシア租界地第4章 新天地を求めてロシアへ第5章 上海、そしてホテルの完成第6章 皇太子ニコライ二世の長崎訪問第7章 おロシアおエイの光と影第8章 ステッセル将軍の接待役第9章 ホテルの再建終 章 エイの足跡
2015.12.29
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パタゴニアというと最果ての不毛の地というイメージでしたが、実は世界でもっとも美しい大地と思わせる風景の数々が目にとびこんできます。 ”パタゴニアを行く-世界でもっとも美しい大地 ”(2011年1月 中央公論新社刊 野村 哲也著)を読みました。 南米大陸の南緯40度以南、アンデス山脈が南氷洋に沈むホーン岬までを含むパタゴニアの大地を写真と文章で紹介しています。 パタゴニアに魅せられ現地に在住している写真家の野村哲也さんは、1974年岐阜県生まれ、中部大学大学院工学研究科修了、高校時代から山岳風景や野生動物を撮りはじめ、1992年から2006年まで、世界で一番美しい自然を求め、辺境、秘境を旅しました。 地球の息吹をテーマに、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求めてきました。 世界中に美しい場所はたくさんありますが、そこに住んでみたいと強烈に思わせてくれた場所は、チリのパタゴニアをおいて他になかったといいます。 それは、以前までの突き返されるような厳しく遠い自然ではなく、包み込んでくれるような優しく近い自然でした。 2007年より南米のチリに移り住み、四季を通してパタゴニアの自然を撮影しています。 辺境や秘境のツアーガイド、テレビ局やマスコミのアテンドにも携わり、日本国内ではスライドショーなどの講演活動を続けています。 南米大陸は13の国と地域で構成され、その中を背骨のように縦断するのが世界最長のアンデス山脈です。 距離にして約8000キロメートルに及び、チリとアルゼンチンを東西に分断します。 アルゼンチンとチリの南緯40度よりも南の地域をパタゴニアといいます。 アルゼンチンのネウケン、リオネグロ、チュブ、サンタクルス、ティエラ・デル・フエゴ各州と、チリのアイセン、マガジャーネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ各州が該当します。 地形は、アンデス山脈を境にアルゼンチン側とチリ側で大きく異なります。 チリ側は、氷河期時代に形成された氷河が造成した、大規模なフィヨルドが広がります。 アルゼンチン側の北部は、コロラド川とネグロ川に挟まれた地域は草原が広がり、農耕も行われています。 アルゼンチン側の南部は、乾燥が激しく砂漠が広がっています。 南西からの強い偏西風がアンデス山脈にぶつかり、チリ側は比較的雨が多いです。 一方、アルゼンチン側は偏西風がアンデス山脈で途切れるため乾燥が激しく半砂漠となっています。 1520年に、マゼランがタゴニア地域に上陸して、大足パタゴン族の住む土地ということからパタゴニアと命名しました。 1834年に、チャールズ・ダーウィンが海抜約27メートルの平原で赤い泥の堆積からマクラウケニア・パタゴニカという大型獣の骨格を掘り出しました。 1907年に、コモドロ・リバダビアにアルゼンチン最大の油田が発見されました。 著者がパタゴニアにはじめて足を踏み入れたのは、1995年の晩夏でした。 そのころは、まだ旅人も少なく、インフラもまるで整っていませんでした。 ここ数年で、世界各国からの観光客が爆発的に増え、今やインカの聖都マチュピチュに次いで、南米屈指の観光地との呼び声も高いです。 パタゴニアを特徴付けるのは氷河です。 南パタゴニア氷原から連なる氷河の数は大小50以上あるといわれています。 その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量といわれています。 北部には富士山そっくりの成層火山や湖が多く点在し、景勝地の南部には天を突き破らんばかりの岩峰や奇岩がそびえ、蒼い氷河が流れています。 チリとアルゼンチンには、約30の国立公園があります。 また、アルゼンチンには、3件の世界遺産登録物件が存在します。 豊かな森、輝く湖水、天を突き破らんばかりの奇峰、蒼き氷河、一年中強風が吹き荒れる地の果て、クジラ、四季の花や味覚、人々の素朴な暮らしなどなど、変化に富む自然と人間に魅せられます。序 章 森の生活第1章 森と湖の国・北西パタゴニア第2章 海と火山の国・北東パタゴニア第3章 花と虹の国・南西パタゴニア第4章 風と氷河の国・南東パタゴニア第5章 火の国・極南パタゴニア最終章 ウルスラの教え南緯五五度
2015.12.20
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小説家になるためにはどうすれば良いのでしょうか。 作品を書き続けていくためには何が必要なのでしょうか。 ”小説家という職業”(2010年6月 集英社刊 森 博嗣著)を読みました。 プロの作家になるための心得などを述べています。 森 博嗣さんは、小説を書くことは楽しみではなく趣味ではない、といいます。 文章を書くことは嫌いではないけれど、その中で小説の執筆が一番つまらないということです。 自分に才能があるとはとうてい信じられないし、さらに、とんでもなく酷い小説が世の中で人気を博しているのも不思議に思うそうです。 デビュー以来、人気作家として活躍している著者が、小説を書くということ、さらには創作をビジネスとして成立させることについて、自らの体験を踏まえつつ、わかりやすく論じています。 森 博嗣さんは1957年愛知県生まれ、実家は商業施設の建築設計を請け負う工務店でした。 東海中学校・高等学校を卒業後、名古屋大学工学部建築学科へ進学、同大学大学院の修士課程修了後、三重大学工学部の助手として採用され、その後母校の助教授として勤務していました。 1990年に名古屋大学から工学博士を取得しました。 40歳になる少しまえの1995年に突然、小説を書きました。 練習したこともないし、趣味で書いたこともなかったけれど、執筆してみたといいます。 夏休みに書いた処女作は”冷たい密室と博士たち”で、約1週間で執筆したそうです。 それを原稿募集が始まったメフィストに投稿し、編集部から次作の要望を受けました。 第4作の”すべてがFになる”の完成後、メフィスト編集部がメフィスト賞の誕生を発表し、第1回メフィスト賞受賞作となりました。 1996年4月のデビュー作はこれです。 メフィスト賞の実際の応募作は第2作であり、受賞作はシリーズ4作目だったのですが、デビューにあたって順番を入れ替え、よりインパクトの強い作品を第1作として出版されました。 これが大ヒット作となり、講談社ノベルスの看板作家としての地位を確立しました。 刊行時には、第5作目までが刊行予定とされていました。 それ以降も、大学で勤務しながらハイペースで作品を発表し、一躍人気作家となりました。 最初からバイトとして、金になることをしようと考えて小説を書いたそうです。 趣味の関係で、自分かやりたいことの実現には資金が必要でした。 なんとか夜にできるバイトはないか、と考えて小説の執筆を思いつきました。 思いついて3日後くらいに書き始め、さらにI週間後には書き終わっていました。 毎日3時間くらい書き、トータル20時間ほどで書き上げました。 1時間にだいたい6000文字をキーボードで打つことができますので、約12万文字です。 原稿用紙にぎっしり詰めれば300枚になります。 書き上げたあと書店へ行き、適当に雑誌を開いてみて原稿を募集しているところを探しました。 その半年後には小説家としてデビューし、最初の1年で3冊の本が出版され、その年の印税は、当時の本業の給料の倍にもなりました。 それで驚いていたら、翌年には4倍になり、3年後には8倍、4年後には16倍と、まさに倍々で増えました。 こんなに儲かる仕事があっても良いのか、と思わなかったといったら嘘になるといいます。 10年間に毎年100万部以上コンスタントに出版され、使い切れないほどの印税が銀行に振り込まれたそうです。 家族の生活はすっかり変わりましたが、自身に大して変化はなく、少し資金的な自由を得て、2005年に大学を退職しました。 小説家になりたい若者が大勢いますが、どうすれば良いのかという方法論は存在しない、とのことです。 それよりも、そういった方法論を大に尋ねる姿勢が、既に大きな障害といえます。 もし、あえて返答するならば、意地悪になるけれど、まず、小説を読まないことであり、小説を読むことが、自分の創作には少なからずマイナスになる場合が多いといいます。 作品を研究したことで生まれる作品など、たかが知れています。 もっと、オリジナリティのあるものを生み出すことが最重要です。 個性の強い人は他者の影響を受けにくく、最初から新しいものを作る傾向にあり、作家としてデビューは早いとのことです。 どうすれば良いかと問うことは、間違っています。 どうすれば良いかと考える暇があったら、小説を書けば良いのです。 良くても悪くても作品が一つ出来あがります。 そうすれば、自分の持っているものが多少は見えてきますし、書いている間に数々の発想を得るでしょう。 悶々と悩んでいるよりも、そちらの方がずっと有益です。 とにかく、書くこと、これに尽きます。 これが本書の結論です。 おそらく自身は稀な例で、幸運だったことほまちがいありません。 もしなにか運以外の勝因があったとしたら、それはビジネスとして創作をしたという点ではないでしょうか、といいます。 つまり、冷静に考え、売れるものを作りました。 工学部助教授であったことに加え、まだ一般的でなかったコンピュータやメールを駆使し、科学・工学の専門的な会話が交わされ、難解な数学問題が提示され、デビュー当時は理系ミステリと評されました。 次第にSF、幻想小説、架空戦記、剣豪小説などの他ジャンル、ブログの書籍化、エッセイ、絵本、詩集といった他の分野へも進出しました。 趣味人としても知られ、最近は鉄道模型製作に没頭しているそうです。 他にも、イラスト、車、骨董品・キャラクタの貯金箱収集などの趣味があるそうです。 作家家業はいつまでも続けるつもりではなく、今後は少しずつ表に出る機会を減らし、人知れず地味に静かに消えたいと願っている、と述べています。1章 小説家になった経緯と戦略 何故、小説を書き始めたのか/小説家にはなりやすい?/家族に読んでもらう/頭の中の世界をアウトプット/募集要項に驚く/シリーズものの創作/出版社からの連絡/最初の本が出る/小説はメジャなものではない/出版界の認識のずれ/プ口のもの書きの条件/意味が通じるものを書く2章 小説家になったあとの心構え 続かない理由その1 - 最初の作品を超えられない/続かない理由その2 - 読者の慣れ/続かない理由その3 - デビュー後のビジョンがない/ホームページを作る/ユーザの感想を分析する/目指すのは「新しさ」/謎をちりばめる/読者の積極性に期待する/読者の意見への接し方/貶した書評の効能/ネットを通じた批判/予定を作る3章 出版界の問題と将来 出版社は協同組合/出版社の周辺/小説とノンフィクション/小説の流通の未来/何故、締切にルーズなのか/当たり前のビジネスが成立しない/電子出版の可能性/本と宣伝/地道に創作する/秘訣も秘策もない/小説は自由なもの4章 創作というビジネスの展望 気になる楽観主義/生産者は生き残る/できるだけでは仕事にならない/「ウリ」を作る/小説家に必要な姿勢/ネット書評の特性/小説にテーマは要らない/ファンとの距離感/ニーズは新たに作る/編集者の古い体質/一人の人間が創り出す凄さ/小説は滅びない5章 小説執筆のディテール 芸術は奇跡である/文体は、必要ない/システムの存在感/文章のシェイプアップ/視点が重要なポイント/自然を自分の目で見る/思い浮かぶものを文章に落とす/メモは作らない/会話のリアルさ/シーンに必要なもの/難しいのはラスト/原稿の手直し/執筆期間と非執筆期間/タイトルを決める/進むうちに道は開ける
2015.12.13
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足利直義は尊氏の同母弟で、尊氏とともに室町幕府の基礎を築きました。 南北朝時代を駆け抜けた人々は実に多彩ですが、その中で直義の人気は高いようです。 ”足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想”(2015年2月 KADOKAWA刊 森 茂暁著)を読みました。 南北朝の動乱期に、仏国土の理想郷を目指した足利直義を紹介しています。 作家の杉本苑子さんは佐藤進一さんとの対談の中で、お好みの人物として足利直義を一番にあげています。 おそらく自らの政治に苦悩する人間くささを帯びていること、その最期が兄に毒殺されるという悲運に対する同情のようなものもあったでしょう。 尊氏が恩賞給付権を握り、直義が内政権を握る二頭政治により幕府の基礎を築きました。 法秩序を重んじる直義は、武家の急進派勢力との抗争により失脚し、最期は尊氏に毒殺されたと伝えられます。 仏教に深い造詣を示し仏法による理想の国家を創ろうとした稀有な武将で、政治と思想・文化の両面にその才を発揮しています。 森 茂暁さんは1949年長崎県生まれ、1972年に九州大学文学部史学科を卒業、1975年に同大学院文学研究科博士課程を中退、1979年まで九州大学助手、1980年に文部省教科書検定課勤務、1984年に教科書調査官を務めました。 1985年から京都産業大学教養部助教授、1991年から山口大学教養部助教授、のち人文学部教授、1997年から福岡大学人文学部教授を務めています。 専門は中世日本の政治と文化、特に南北朝時代についてです。 足利直義は尊氏と同じく、父の側室である上杉清子が産んだ子です。 1333年に後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、尊氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加しました。 建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築きました。 1335年に中先代の乱が起こり、高時の遺児時行が信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢の合戦にて反乱軍を迎撃しましたが敗れました。 反乱軍が鎌倉へ迫ると、足利氏の拠点となっていた三河国矢作へ逃れました。 同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還しました。 奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行いましたが、これは直義の強い意向が反映されたとされています。 しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されると、尊氏は赦免を求めて隠棲しました。 直義らは駿河国手越河原で義貞を迎撃しましたが、戦いに敗北しました。 これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃しました。 足利軍は入京したものの、1336年に北畠顕家や楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れました。 再入京を目指しましたが、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走しました。 道中の備後国にて光厳上皇の院宣を得て、多々良浜の戦いで苦戦を強いられながらも撃破し、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始しました。 海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦いで新田・楠木軍を破って再び入京しました。 尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させましたが、この式目の制定には直義の意向が強いとされています。 1338年に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行いました。 1348年頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展しました。 1349年に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で包囲しました。 高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦しました。 直義は出家し、慧源と号しました。 直義は南朝に降り北朝は直義追討令を出すに至り、直義は尊氏勢を圧倒し1351年に播磨国や摂津国で尊氏方を破りました。 尊氏方の高兄弟とその一族は殺害され、直義は尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰しました。 これに対し尊氏・義詮は出陣と称して南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出ました。 直義は京都を脱して北陸、信濃を経て、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合しましたが、駿河国さった山に尊氏に連破され、1352年に鎌倉にて武装解除されました。 浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、1352年2月26日に享年47歳で急死しました。 病死とされていますが、”太平記”は尊氏による毒殺であると記しています。 観応の擾乱は直義の死により終わりを告げましたが、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになりました。 総じていえば、日本歴史における直義の真骨頂は、外面だけの表層的なことにとどまるものではありません。 直義という人物はもっと多面性を有しています。 同時代の史料をみると、当時直義は、天下執権人、日の本の将軍などと呼ばれており、足利幕府内でことさら枢要の地位を占め、将軍に比肩する絶大な権力をふるっていました。 特に興味深いのはその政治思想であり、将軍権力の代行者として政道を専管し、それを遂行するための強靭な固有の政治思想をもっており、現実の行動や文書の発給はその政治思想に強く規定されていました。序章第1章 直義登場第2章 二頭政治の時代第3章 観応の擾乱第4章 鎮魂と供養第5章 直義の精神世界第6章 『夢中問答』第7章 神護寺の足利直義像終章
2015.12.07
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