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”ボクの音楽武者修行”(1980年7月 新潮社刊 小澤 征爾著)を読みました。 1962年に初版が音楽之友社から出され1980年から新潮文庫に加えられ今も読み継がれている、26歳時点の世界のオザワの自伝的エッセイです。 小澤征爾さんは1935年満洲国奉天市生まれ、父親は歯科医師で満州国協和会創設者の一人でした。 1941年に父親を満州に残したまま母親や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園、1942年に立川国民学校に入学、1945年に長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けました。 1947年に父親の仕事の関係で神奈川県足柄上郡金田村に転居、1948年に成城学園中学校に入学、ラグビーの試合で大怪我をしたためピアノの道を断念しました。 1950年に東京都世田谷区に転居、1951年に成城学園高校に進みましたが、齋藤秀雄さんの指揮教室に入門したため、1952年に齋藤さんの肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学しました。 1955年に齋藤さんが教授を務める桐朋学園短期大学へ進学、1957年に卒業しました。 1957年頃から齋藤さんの紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、日本フィルハーモニー交響楽団で渡邉暁雄さんのもと副指揮者をつとめました。 1958年にフランス政府給費留学生の試験を受け不合格となりましたが、成城学園時の同級生の父である水野成夫さんたちの援助で渡欧資金を調達し、1959年2月1日からスクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏しました。 外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたいという気持ちでした。 1959年のパリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、ヨーロッパのオーケストラに多数客演しました。 また、カラヤン指揮者コンクールで第1位になり、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事しました。 1960年にアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事しました。 1961年にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインに師事しました。 同年のニューヨークフィル日本公演に同行しました。 その後、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督などを経て、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年にわたり務めました。 2002年に日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、同年秋にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任しました。 2008年に文化勲章受章、現在、サイトウ・キネン・フェスティバル松本総監督、小澤征爾音楽塾塾長、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀主宰、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者、水戸室内管弦楽団顧問として活躍しています。 本書は、26歳のときに書かれ、24歳の1959年から26歳の1961年までのことが書かれています。 当時はまだ、音楽というゴールの地点の分からないはてしないレースのスタートを切ったばかりでした。 音楽家が一生音楽をやり通して、死ぬ間際に自分の一生を振り返って本を書くというのでなく、まだ音楽家としてはかけ出しで3年間ばかりのあいだに、目が回るほどいろいろなところを動いて回ったということを、本にしてみないかと音楽之友社がすすめたのが本を書いた理由とのことです。 なんとか本になったのはまわりの人のおかげであり、とくに、外国から自分の両親、兄弟、友だちに出した手紙を、実弟がぜんぶとっておいてくれ、それを一冊のノートに書き写してくれたのが大いに役立ったといいます。 筆致は、長距離レースの最初の数キロを短距離ランナーのように疾走していた人間の、鼓動や吐息が聞えてくるかのようです。 そして、ニューヨーク・フィルと共に、日本に錦を飾るところで幕が閉じられています。日本を離れて棒ふりコンクールタングルウッドの音楽祭さらば、ヨーロッパ日本へ帰ってあとがき
2015.09.28
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鎖国していた日本を開国したアメリカのペリー提督は有名ですが、プチャーチンはペリーに比べて知られることの少ないロシアの外交官です。 ”プチャーチン”(2010年12月 新人物往来社刊 白石 仁章著)を読みました。 ペリー提督に約1ヶ月遅れて日本へ来航し、明治天皇が勲一等を与えたロシアの外交官、プチャーチンについての本格的な評伝です。 白石仁章さんは1963年東京生まれ、1989年に上智大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程を修了し、外務省大臣官房文書課外交史料館に事務官として採用され現在に至る。1994年に上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程単位取得満期退学し、1998年から東京国際大学非常勤講師も務めています。 専門は、日本外交史、特に対ロシア交渉史です。 エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンは1803年にロシアで生まれ、1822年に海軍士官学校を卒業し、海軍士官として多くの武功をたて、1842年に海軍少将となりました。 1842年にイギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、ロシアも極東地域に影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言し、1843年に清・日本との交渉担当を命じられました。 しかしこの時は、トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣は実現しませんでした。 1852年に海軍中将・侍従武官長に栄進し、同時に、日本との条約締結のために、皇帝に遣日全権使節に任じられました。 この年の12月に、ペリー提督は、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携え、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊で、バージニア州ノーフォーク港を出港し、1853年7月に浦賀沖に来航しました。 プチャーチンは1852年9月にペテルブルクを出発し、イギリスに渡りボストーク号を購入しました。 11月に、クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号が、イギリスのポーツマス港に到着し、修理を行った後、ボストーク号を従えポーツマスを出港しました。 そして、喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由して、小笠原諸島で4隻の艦隊を組んで、1853年8月に長崎港に到着しました。 ロシアの遺日使節団としては、1792年に根室に来たラクスマン、1804年に長崎に来たレザノフに次いで、3回目でした。 長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ちましたが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため、艦隊を差し向けたという情報を得たため、長崎を離れ一旦上海に向かいました。 1854年1月に再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談しました。 2月に一定の成果を得たプチャーチンはマニラへ向かい、船の修理や補給を行いましたが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えました。 プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、10月に箱館に入港しましたが、交渉を拒否されたため大阪へ向かい、11月に天保山沖に到着しました。 大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月に下田に入港し、川路聖謨、筒井政憲らと下田で交渉を行いました。 しかし、1854年12月23日に安政東海地震が発生し、下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し乗組員にも死傷者が出ました。 大津波によって乗船が大きく傷ついたにもかかわらず、被災した日本人たちことを心配し、自船の船医を被災者の治療のため派遣することを申し出ました。 プチャーチンは艦の修理を幕府に要請し、交渉の結果、伊豆の戸田村で修理することとなり、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かいました。 1855年1月1日に、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日に遂に日露和親条約の締結に成功しました。 ディアナ号は戸田港に向かう途中、1月15日に宮島村付近で、強い風波により浸水し航行不能となりました。 乗組員は周囲の村人の救助もあり無事でしたが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまいました。 プチャーチン一行は戸田に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始されました。 4月26日に約3ヶ月の突貫工事で代船が完成し、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは代船をヘダ号と命名しました。 プチャーチンは5月8日に部下47名と共にヘダ号に乗り、ペトロパブロフスクに向けて出港しました。 その後、1857年9月21日に軍艦アメリカ号で再度長崎に来航し、水野忠徳らと交渉し、10月27日に日露追加条約を締結しました。 また、1858年7月30日に神奈川に入港し、8月12日に芝愛宕下の真福寺において幕府側と交渉を行い、8月19日に日露修好通商条約を締結しました。 翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福に謁見した後、本国に帰国しました。 日本と条約を結んだ功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進し、1861年に教育大臣に任命されました。 また、1881年に日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られました。 ペリーは帰国後に日本遠征記をまとめましたが、1858年に逝去したこともあり、とくに勲章は贈られていません。 そして、プチャーチンは1883年に80歳で逝去しました。 筆者は、あまり知られていないプチャーチンのことを、もっと多くの人々に知ってもらいたいといいます。 プチャーチン一行の派遣にシーボルトの助言が関係し、プチャーチンとシーボルトの子供達が日本赤十字の活動を援助していたそうです。 プチャーチンは日本への深い愛情を持っていた人物であり、興味がつきないとのことです。第1章 プチャーチン・ミッションの来航第2章 明治期の日露関係におけるプチャーチン第3章 長女オーリガにも引き継がれた親日感情
2015.09.22
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加藤シヅエは女性解放運動家として、74歳で引退するまで、衆議院議員・参議院議員として政界で活動しました。 ”心の軌跡”(2013年10月 朝日新聞出版刊 石本 幸子著)を読みました。 加藤シヅエと石本恵吉男爵の、書簡、手記、回想録をまとめたものです。 加藤シヅエの、1919年から1946年までの書簡と手記などが公開されています。 戦地の長男への手紙や次男を看取った心情なども綴られ、その思索と心の軌跡が伝えられています。 石本幸子氏は加藤シヅエ・石本恵吉の長男・新の妻で、1927年に東京で生まれ、愛知県立女子大学英文科を卒業しました。 加藤シヅエは1897年に東京都で、工学博士・設計技師の広田理太郎・敏子夫妻の長女として生まれ、1914年に女子学習院中等科を卒業し、27歳の石本恵吉男爵と17歳で結婚しました。 1917年に長男・新が生まれ、1918年に次男・民雄が生まれました。 1919年に渡米し、ニューヨークのバラード・スクールで秘書学を学び、1920年に、産児制限法を教えていたマーガレットーサンガーに出会い、その後の人生が方向づけられることになりました。 1931年に日本産児調節婦人連盟を設立し、1934年に産児制限相談所を開設しました。 その後、1943年に次男・民雄が結核のため死去し、音信不通になった夫の負債のために自宅を売却することになりました。 1944年に石本恵吉と離婚し、加藤勘十と結婚しました。 1945年に娘・タキが生まれました。 女性解放運動の草分けとして、1946年に第22回衆議院議員総選挙で当選し、日本初の女性国会議員になりました。 以来、1974年に74歳で政界を引退するまで、衆議院議員・参議院議員として政界で活動しました。 そして、2001年に104歳で死去しました。 一方、石本恵吉は1887年東京生まれで、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部採鉱冶金科を卒業し、三井鉱山株式会社に就職しました。 1912年に父・石本新六男爵の死亡により25歳で家督を相続しました。 石本新六は1854年に路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれ、1869年に開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学び、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学し、途中、西南戦争に従軍し工兵少尉となり、1878年に陸士旧1期生として卒業しました。 その後、陸軍少将、陸軍総務長官、陸軍次官、陸軍中将、陸軍大臣を歴任し、1907年に男爵の爵位を授爵し華族となりました。 恵吉は1914年に広田シヅエと結婚し、1915年に本人の希望で三池炭坑の現場に派遣されましたが、1917年に東京に戻り、三井鉱山の子会社である化学研究所に勤務しました。 1919年に本人の希望でアメリカに出張し、1920年頃、総同盟の炭坑労働組合に参加し会社の経営陣から批判され、三井鉱山を辞職しました。 30代半ば頃に満州へ渡り、50代までの17年間を中国大陸で過ごし、事業の借金保証人になったことで家屋等財産をすべて失うなど、満州では事業に失敗したと言われています。 1938年に北京へ移り、後に中国人と結婚し、二女をもうけました。 1949年に共産党員として中国官憲に捕まり、1ヵ月刑務所に留置された後、日本に送還されました。 1952年に熱海の病院で64歳で死去しました。 シヅエの手紙は旅先から二人の息子たちに宛てたもの、1942年に出征した長男・新に宛てた戦地への手紙を中心に収められています。 恵古の手記は、1919年から20年に滞在した欧米での日記と、戦後に書かれた回想録で、今回、初めて公開されたものです。シヅエの書簡・手記 幼い子供たちへの手紙 戦地の息子への手紙 シヅエの手記恵吉の手記・回想録 Random Thoughts 恵吉の回想録
2015.09.13
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カーネル・サンダースとは直訳では”サンダース大佐”であり、ケンタッキー州に貢献した人に与えられるケンタッキー州名誉大佐のハーランド・デビット・サンダースを指しています。 カーネル・サンダースはアメリカの実業家で、ケンタッキー・フライド・チキンの創業者です。 ”カーネル・サンダース”(1998年9月 産能大学出部刊 藤本 隆一著)を読みました。 幾度となくふりかかってきた不幸や逆境により、何度も挫折を味わいながら、その度重なる挫折により成長した姿が紹介されています。 ケンタッキー・フライド・チキンを65歳で創始し、理想をもっとも忠実に受け継いでくれる日本が一番好き、と言っていたそうです。 藤本隆一さんは1962年神奈川県生まれ、22歳の時に渡米し現地の大学を卒業、約8年間のアメリカ滞在中に、アメリカでの生き方や成功に対する考え方に強い関 心を持ち、アメリカの成功哲学、自己啓発法を学んだといいます。 サンダースは1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで生まれました。 ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30kmほど離れた町です。 父親はサンダースが6歳のときに亡くなり、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てました。 工場で働く母を助けて6才で料理を始め、弟妹と母のために焼いたパンが大喜びされたのが7才のときでした。 サンダースは10歳から農場に働きに出て、14歳で学校を辞め農場の手伝いや市電の車掌として働きました。 1906年、16歳の時に年齢を詐称して軍に入り、キューバで勤務しました。 軍隊における経歴は、一兵卒として終わっています。 1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々としました。 タイヤのセールスのときに親しくなったスタンダード石油代理店の支配人に勧められ、1929年にケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを始めましたが、大恐慌のあおりを受けて失敗して財産を失いました。 1930年にケンタッキー州コービンに移り住み、再起してガソリンスタンドの経営を始めました。 注文の前に埃まみれの車の窓を洗い、ラジエーターの水を確認するサービスを始めたといいます。 ほどなく、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー、サンダース・カフェを始めました。 サンダースは、ガソリンスタンドの支配人と理師とレジ係を兼ねました。 州の南北を貫く幹線道路である国道25号線に面した店は繁盛し、規模を拡大しました。 1935年には州の料理への貢献が評価されて、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から”ケンタッキー・カーネル”の名誉称号を与えられました。 サンダース・カフェは、1937年にモーテルを併設した142席のレストランに成長しましたが、1939年に火災に見舞われ焼失し、1941年に147人収容のレストランに再建されました。 サンダース・カフェの目玉商品が、フライドチキンでした。 1939年に導入された圧力釜を用いたオリジナル・フライドチキンの製法である“11スパイス”は、以後70年以上にわたってオリジナル・レシピとして引き継がれています。 1955年にコービンの町外れを通過する州間高速道路が開通すると、車と人の流れは変わり、国道沿いのサンダース・カフェには客が入らなくなりました。 サンダースは維持できなくなった店を手放しましたが、負債を返済すると手許にはほとんど残りませんでした。 不屈のサンダースは、フライドチキンのレシピを教えるかわりに、売れたチキン1つにつき5セント受けとる、というフランチャイズビジネスを65才から始めました。 サンダースは、以後、フランチャイズビジネスの普及に努め、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回りました。 1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げました。 1964年、74歳のサンダースは、フランチャイズビジネスの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して経営の第一線からは退きましたが、会社の広告塔としては続けて働きました。 サンダースは製法が守られているかを確認するために、世界各国に広がった店舗を見て回りました。 1970年に初めて進出した日本には、1972年、1978年、1980年の3度訪れています。 1980年に急性白血病を発症し、肺炎を併発して、90歳で亡くなりました。 人一倍誠実で、働き者で、逆境に屈しない精神力を持っている人でした。プロローグ第1章 転職を繰り返す半生第2章 サンダース・カフェに寄らずに旅は終わらない第3章 秘伝の調理法第4章 六五歳からの再出発第5章 ケンタッキー・フライド・チキン第6章 引退は考えないエピローグ
2015.09.07
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スクリューフレーションは、中間層の貧困化=screwingとインフレーション=inflationを組み合わせた造語です。 screwingとinflationのどちらの動きも一般世帯の家計にとってマイナスに作用し、消費負担が増すことで中間層の貧困化とインフレーションが同時に発生し経済活動が萎縮します。 世界経済のグローバル化・一体化、技術革新、非正規雇用の普及という三つの大潮流に、金融緩和、急成長新興国のインフレ、食料・エネルギー価格上昇が加わって、この脅威にさらされます。 ”スクリューフレーション・ショック”(2012年7月 朝日新聞出版刊 永濱 利廣著)を読みました。 世界の新たな経済現象の下で起きている、中流層の貧困化とインフレについてその原因と解決策を考察しています。 本書の副題は”日本から中流家庭が消える日”となっています。 永濱利廣さんは1971年栃木県生まれ、1995年早稲田大学理工学部卒業、2005年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、1995年第一生命保険入社、1998年日本経済研究センター出向、2000年第一生命経済研究所経済調査部副主任研究員、2004年同主任エコノミストを経て2008年から同主席エコノミストを務めています。 1990年初頭のバブル崩壊から失われた20年という長いトンネルの出口が見えず、経済が停滞したままの現在、多くの日本人が働いても生活が楽にならないと感じるようになりました。 以前と変わらず一生懸命に働いているし、時代の変化に応じられるよう努力もしているにもかかわらず、なぜか生活が楽にならないのです。 2008年のリーマンショック以降はたしかに日本企業の業績は低迷していますが、そこに至るまでは何年もの間、未曽有の好業績を謳歌していた企業が決して少なくありませんでした。 にもかかわらず、好業績や好景気を給料の上昇として実感できた人はとても少なかったのです。 景気には循環があり、不況の後には好況が訪れ好況が続けばいずれ不況も訪れます。 それでも好況の時に企業業績が回復し、働く人たちの給料が増えることで人々は豊かさを感じ、不況の時にもいずれ景気は回復するとがんばることができました。 ところが、ここ何年かの状況を見ていると、好況の時にも給料は思うように上がらず、不況の時には一層の厳しさを強いられることになっています。 かつて国民が豊かさを享受し、1億総中流と呼ばれた日本という国から、豊かさが失われつつあります。 それは、世界経済で起きている新たな事象、スクリューフレーションに日本も巻き込まれているためです。 スクリューフレーションという経済用語は、2010年にアメリカのヘッジファンドマネジャー、ダグ・カスがつくった造語です。 元々はアメリカ経済が抱える問題を分析することで生まれた言葉ですが、それに近い現象は日本でも起きていると思われます。 かつてアメリカンドリームという言葉に象徴されるように、たとえ貧しい生まれの人間であっても才能と努力によってチャンスをつかみ、大きな成功を手にすることができる国だと信じられてきました。 何も持たない若者が世界を変えるほどの成功ができるところに、アメリカの強さと魅力がありました。 しかし、多くのアメリカ人にとっては、もはやアメリカンドリームは遠い世界のものとなってしまっています。 国自体が貧しいのではなく、実質GDPによれば、アメリカ経済の規模そのものは過去30年間で倍以上に拡大しています。 企業収益も、最高益を記録している企業が少なくありません。 しかし、その一方で実質賃金の水準を見ると、ほとんど伸びが見られないのです。 国の発展や企業の好業績が、給料として反映されていないのです。 にもかかわらず、食料品やエネルギー価格の高騰により、中間層の人たちは給料が伸びない中で、生活に欠くことのできない食料品やガソリン代などの負担だけが増えています。 そのため、本来は豊かになるべき国民が、ごく一握りの大金持ちを除いて、豊かさを享受できないどころか、生活水準の低下へと向かっています。 背景には、世界経済の一体化とグローバル化による先進国と新興国の格差縮小や、先進国での極端な金融緩和などがあります。 新興国が発展すれば、工業製品などのモノの価格が下がり、先進国の企業の優位性が失われます。 一方で、新興国が経済的に発展することで需要が増えるのが、食料品やエネルギーです。 生活水準の向上や、生活の質の変化は食料品需要を押し上げ、結果的に価格の上昇をもたらします。 エネルギーも同様です。 さらに、金融緩和などであり余った投機資金の流入もあります。 サブプライム問題やリーマンショックの後に行き場を失ったお金が大量に流れ込むことで、実需による値上がりをはるかに上回る値上がりを招いています。 同様のことは日本でも起きており、場合によってはこうしたスクリューフレーションの影響はアメリカ以上に日本で顕著に表れるのではないかといいます。 今後、生活必需品と贅沢品での物価の二極化が生活格差、地域格差をもたらすでしょう。 今後は、何もしなければスクリューフレーションが深刻化して、生活水準の低下を余儀なくされることになります。 そうならないために今必要なのは、なぜスクリューフレーションが先進国に広がっているのかという背景をきちんと知り、現実を見据えて政府、日銀、企業には何か求められるのか、私たち自身はどのように生きればいいのかをきちんと理解することです。プロローグ 「スクリューフレーション」とは何か第1章 世界経済の低迷―その原因は第2章 日本経済は復活するのか第3章 「新興国」「途上国」のインフレ、人件費上昇、都市化第4章 忍び寄る「スクリューフレーション」第5章 日本から中流家庭が消える日第6章 「スクリューフレーション」を生き抜く日本経済エピローグ スクリューフレーション時代の心構え
2015.09.01
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