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「鶴の恩返し」この昔話の粗筋はご存知でしょうから省きます。「恩返し」の部分はさておき、鶴とは、「金づる」のことだだったということを物語の内容から思い出してください。話の中の鶴は人の姿に変身して「誰にも真似できない」反物を織り上げました。文字通り、身を削るような鶴の創作活動が世間から評価されることにより、生活が豊かになったというのが途中までのお話です。鶴は当時特別な存在ではありませんでした。神でも人間でもなく、鶴でしかないのです。昔の日本にはそこら中に鶴はいたのであります。鶴自体はなんにも珍しいものではなかったのであります。鶴との約束は作業の様子を「覗いてはいけない」ということでしたが、このことの意味は、「儲けの方法は身を削るほどの創作的努力以外に無いけど、その方法は絶対に公開してはいけない」ということなのであります。ところが、見てしまったら人に話してしまうのが人間なのであります。鶴は動物ですから動物的感でそのことを知っていたのでありましょう。「人に話す」ということは、「人に放す」であり、「人に離す」なのでありますよ。金儲けのコツは、本当は余りにも単純で原始的だから、その方法(秘密)を公開した途端、「金づる」は逃げてしまうよというお話なのであります。ましてや「ダンナ、これは絶対に儲かりますよ」なんていう話には、絶対に乗っかてはいけないということでありますよ。 情報公開に関しても、いくら隣のオネーサンのヌードがネットで見られる時代だといっても、節度はわきまえないといけません。なんでもかんでも公開していいというものではないのであります。おっと、これではどこかの官僚にとって都合のいい話になってしまいますな。これは傷ついた鶴を助けるような、善人に対する忠告なのであって、何の責任も取らずに自らの保身だけを優先するようなご仁には、まったく関係の無いお話ですからお間違えのないように。とにかく、鶴も助けずにうまい話は転がり込んではこないということを肝に銘じておけば、電話一本で詐欺にあうようなことは避けられると思うのです。
2015.02.13
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「人の話は8割が自慢話か愚痴」なんだそうだ。「う~ん……耳が痛い!」と思ってその先を聞いたら、それに「言い訳と陰口を加えると9割」だという始末だ。(ウチの女房は言い訳と陰口が9割だと言うかもしれないけど、そういう算術的な話ではない。)それを聞いてからというもの、すっかり凹んだ私は無口になってしまい(笑)、聞き手にまわってみたのだが、以来酒席ですらなんと会話が退屈なことか。もともと自慢話は話半分といって割り引いて聞くものだが、その場しのぎの退屈ついでに相手を観察していると、確かに自慢話は言ってる本人はまったく気づいていないが、自慢話はホラでなければ妬みしか産まない。当の本人は賛辞や賞賛を期待しているようだが、そうは問屋は卸さない。まぁその場のノミシロを負担させてなんとかバランスをとっているのだが、頭のどこかで「威張り料」なんて言葉が出だしたら、ノミシロなんて気にせず、そんな相手からはすぐに離れたほうがいいに決まってる。相手の愚痴は本人の失敗談なら自虐ネタとしてそれなりに面白いが、人間関係の愚痴となると一方の言い分を聞いてるだけで、はたしてその話の信憑性の少ないことに驚いてしまう。人を茶化したり、イジったりするのもいじめ、セクハラ、パワハラの「前兆ソノモノ」である。大人は引き際をそれなりに心得ているが、子供同士の話の中では悪ノリしてどんどんと暴走していくであろうことは想像するに難くない。子供のいじめ対策は「エスカレートさせない引き際という言葉の意味」を教えてやればいいのかもしれない。前出の文言に戻るが、どうやら「その人の話の8~9割」がそうだというのではなく、「世の8~9割の人」はいつもそんな話ばかりしているという意味もあるらしい。つまり明るい前向きな話なんてものは世間の1割程度の人しか普段していないということなのだ。だからその1割の人に社会の富が集中するんだと。いやはや、また出てきましたよ。これって「引き寄せの法則」だな。ドナタだったか「いい言葉を使い、いいことを考え、いい人になろう」って仰っておられましたが、「いい人」って結局お金持ちなんでしょうねぇ?マッ私も今更遅いよと言われるかもしれないけど、努めて明るく前向きな「深イイ話」を心がけることにしましよう!「言葉が人を創り、言葉が人を育てるのだ~!」なんてね。
2015.02.12
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漢字は表意文字といい、文字自体に意味があるとされる。だが、古来の日本語はそもそも言霊といって、どちらかといえばカタカナなどの表音文字で扱ったほうが正しかったものと思われる。神社で神官があげる祝詞(のりと)にいたってはまさしくそれで、漢字は後から伝わった後付であり、祝詞の文言を文字面で見てもほとんど意味不明である。意味といえば、意を汲む・意思・意欲・好意などという「意」の文字は、本来目には見えないものをさすのだが、それを見える物にしてしまったのが、この「意」の文字である。見えないものを誰が見ても見えるようにしてしまったというか、見えない筈のものまでを表意文字で書いたその辺りから、現代日本人も言霊と大和の心を失い始めたのかもしれない。たとえ表意文字であっても文字面に言霊といえるほどの意味はないのだ。口に出して読みたいのが日本語なのである。別に中国が悪いといっているのではない。文字も道具のひとつであるのだから、使い方を間違ってはいけないし、文字に起こした記録があるからいって、何でも頭から信用してはいけないという話だ。「馬鹿も休み休み言え」と叱られそうだが、この馬鹿だって、若いお姉ちゃんが男の胸元で可愛く「ばか、ばか」なんて言われたらたまらないが、尊敬に値しない上司に「バカ」なんて言われたら、これもこれでたまらない。かように「馬鹿」も「たまらない」も字面は同じでも登場人物とその状況で中身は大きく変わる。だから文字になった証拠があるからといって何もかもが正確で額面どおりであるとは限らず、真意や心情などの肝心な部分は行間にちりばめられ、読む側の読解力と想像力に頼らざるを得ない、その程度のものなのである。「本音」とは実によくいったものだと思う。この文字は音にこそ本質があるというのだ。外交的にもめている相手国に抗議文を送り遺憾の意を表明するというが、やはりたったのそれだけではこちらの本音は大して伝わらないということも忘れてはいけないだろう。同じ漢字を使う国であっても今のこのありさまなのだから、ハングルや英語などの表音文字の国の人にはなおさらである。会って面と向き合い、とことん話をしないといけないのだ。我々日本人も普段思考言語として使っている日本語の特性を理解し、諸外国の人々には中々理解され難い国民性であるということも肝に銘じておくべきであろう。それにつけても、会う気のない人に付ける薬はないものだろうか?
2015.02.11
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本当に好きな「絵」があり、私はその作者であるその画家の絵は当然全部好きだと思いこんでおりました。或る時、美術館でその大家の生誕100年にあたる年とかで、盛大にその作家の特別展が開かれました。私は喜び勇んで田舎から東京に行ってまいりました。各地の美術館の所蔵品はもとより、個人所蔵の物も一同に集められていて、どれもこれも普段はお目にかかることのできない大作ばかりで、それは素晴しい特別展でありました。ですから普段はあまり借りることはないのですが、そのときは故人である作家本人の肉声での絵画解説だというので、入口の受付でインカムを借りることにしたのです。展示されているその絵の前に行くと自動的にその絵の解説が流れるアレですね。へぇーこんな声の主だったのか?別に前もって想像していたわけでもないのですが、私の好きな彼の絵のイメージと耳に聴こえる彼の声がどうもしっくりきません。まず声質に違和感を覚えました。そしてその声に慣れたころ、今度は別の違和感がどんどん大きくなってきて、私は耳からイヤホンを外してしまいました。本人が語る内容は饒舌で、「下手な職人の愛想よし」とか「愛想よしに腕のいい職人なし」という言葉を思い出させました。彼の言葉のほとんどは製作中の苦労話であり、その中に心のどこかで私が期待していた「ほとばしる芸術の発露」などというものを感じることはなく、彼のいい絵を描こうという気持は、どうしたら高く売れる絵になるかということに腐心しているような、計算高いとしか思えないような内容で、とにかく彼のその製作意欲というものは恣意的で、いやらしいほどに作為的に感じたのであります。私にとって聞くに堪えない実に残念なものでありました。もちろん本人にそんな意図はまったく無かったと思いますし、描くことと言葉にすることはまったく違うことですから無理も無いのでしょうが、とにかく私はそう感じてしまったのです。そのときばかりは、売れる絵を描こうとしているその画家の解説の言葉に、私以上の心の豊かさとか心の贅沢さというものを微塵も感じさせてくれないのでありました。好きな絵を描いているという幸せ感がまるで伝わってこないのであります。芸術家の肉声は聞くものではありませんな。そういえば猫ばっかり描く人、花の絵ばっかり、山ばっかりとかの人がいますが「作家の得意とする画題」って高く売れるとか、画商が売りやすいということなんですかねぇ? 出来上がったその絵を好きであっても、その作家自体は別に好きなタイプの人間ではないのだということをあの時改めて思い知りました。知れば知るほど付き合いたくない人って、いったいなんなんでしょうかねぇ。こうなると本当はもっと我々は普通の人の良さを分からないといけないのかもしれません。いったい「本物」といわれるものの「本質」ってなんなんでしょうかねぇ。生前に評価の低かった画家や芸術家がその死後になってようやく評価されることがよくありますが、こうなると出来上がった物より、その作者の人間性が評価の足を引っ張っているってこともあるんじゃぁないでしょうかねぇ。だから売れないのは他の誰かとか、時代が悪いのではなく、結局売れないことの殆どの原因は本人にあるということなんじゃあないでしょうかねぇ。そういえば、名だたる天才といわれる芸術家に変人の多いこと!奇人、変人は周りの人にとっては迷惑な存在である場合が多いです。家族すら離れていく有名芸能人の多いこと。我々みんな生きている内に高評価を得たいと思って努力をし、毎日を生きていますが、もっと普通であることの価値を認めて、普通の大切さを大事にしないと、自分の周りの身近な普通の人の存在が疎ましくなるばかりか、自分自身さえ惨めになってしまうのではないでしょうか。照一隅(一隅を照らす)いう言葉の意味をしっかり考えたいものです。一方で昔、日本から瀬戸物をヨーロッパに輸出した際、梱包資材としての和紙に、要らなくなった浮世絵を使っていたら、その梱包資材であった浮世絵がヨーロッパで人気になり、西洋の偉大な画家達に多大な影響を与えたということであります。はたして、日本では絵としてはもう要らない本来は使い捨てだったのに、紙としてはまだもったいないからと使ったはずの梱包資材に、いったいどういう意味があったというのでしょうか。当時の日本ではそれはもうただの梱包資材であり、それ以上の価値も意味も、もはや無い物だったはずなのであります。その不変的な価値を見出したのも、やはり変人だったのではないか。ソイツもきっと生きていたらきっと我々凡人とは付き合いにくいヤツだったに違いないのでありますよ。「素晴しいコレクション」とは、度が過ぎるといわれても仕方ないほどの自分の物欲を満たしたものでしかありませんな。その物欲を、恥ずかしげも無く○○コレクションなどと自分や自分の企業の名を冠して見せびらかす行為は、貧乏人にはマズ見ることのできないものだから、私が見せてあげようといういやらしい品の無い行為です。だから私はそれを認めません。自分の物欲を満たす前に本当はもっと出来ることが、先にすべきことがあったはずだと思うのです。食べることに困っている人や国に寄付をしてもいいし、やり場のないほどの個人所得なら、自分の会社の従業員の給料をその分上げてやってもいいのです。何億という絵を買うお金で助かる命や、人に希望を与えるような「先にすべきこと」がいくらでもあったはずなのです。バブルの頃に絵画を買い漁った企業は高い買い物をしたにも拘らず、その企業評価ははたして上がったのでしょうかねぇ。私が思うに、彼らの優先順位には人間愛がありませんね。給料も安く彼らの物欲を満たすために働かされ続けた彼らの部下や従業員はかわいそうとしかいいようがありません。まかり間違っても「自分へのご褒美だ」なんて言ってはほしくない金額です。一般人にも見せてあげたいと思うのなら、その作品を公的な美術館に寄付すれば済むことです。自分も見たければそこに行けばいいことです。他人の作った美術館では駄目で、自分の傍に置き、自分のものとして人にみせびらかせたいというのが物欲というものです。だから○○コレクションは素晴しいというより、素晴しい物欲であるというべきものでしかないと思うのです。資産家が喰えない時期の作家を支え育てたような言い方も、経済活動としてのただの先行投資にしか聞こえず空しいです。作家自身も速くこの世に認められる存在になりたいと思っているのだから仕方のないことですが。成功とか社会に認められる有名な存在とかいうのは、いったいなんなのでしょうかねぇ?スターといわれる芸能人ですが、彼らの目指しているものはいったいなんなのでしょうか?彼らの交友関係は庶民に飽きられる不安を常に持った者同士のお互いの慰め合いであり、優雅な生活もプライバシーの無い生活もすべて、明日をも知れぬ人気商売の代償なのですが、現状の見たままでそれにあこがれる若い人も多いです。基本的に人気者やスターというものは使い捨てです。華やかな世界の次に待っている言葉は「落ち目」であり、そのときは、逆に同情のような目で庶民に見られる側に回るわけです。それだけ落差のある世界に身を置くことの決心や決意といったものが、はたして芸能界に憧れる彼らにあるのでしょうか。芸能界は次から次と新星が現れて殆どメンバーが入れ替わりながら、私たちを飽きさせずに楽しませてくれます。芸能人に憧れる若い人に言いたいです。「絶対に、次から次と表れる新しい美人を見ている側にいるほうがずっといいに決まっている!」と。もう、とっくに旬を過ぎ、年老いた懐かしい芸能人を見てガッカリするのは、憧れだった異性の同級生に年老いた姿を見せられることよりショックが大きいものです。まるで使用前・使用後、ビフォー・アフター、あの人は今。輝き続ける星は見た人の心の中で輝いているのです。誰も加山雄三の今年の新曲なんて聞きたくないのです。懐メロは昔のあのころ聞いた自分が懐かしいのです。あのときの自分に会えるのが嬉しいのです。厚化粧をしてマツケンサンバを踊るのが偉いのか、加山雄三がそれを真似しないのが偉いのか、どうでもいいわけです。芸能人にならなくて見る側にいるほうがどうみても賢い選択なのです。大金を稼いでいる芸能人を使い捨てにできるのは、我々凡人の方なんです。見ず知らずの他人の妬みやそねみを受けることのない凡人が、目だってナンボの芸能人よりずっと楽なんです。人生って目立たないほうがなにかと便利でいいものなんです。それが凡人の成功というものなんです。う~ん、負け惜しみに聞こえる。といっても「表現をすることが好きな人」というのはいるわけです。人相学的にいいますと顔のある部分の形状が、芸能人と政治家はよく似ています。ですから芸能人が政治家に転身するのも、表現することが好きなわけで無理も無いことなのであります。それは残念ながら単なる「目立ちたがりや」である場合が多く、能力があるかないか、一生懸命国民のために働く決意があるかないかということとは全くの別物であります。私は人が表現することに異論を唱えているわけではありません。表現することは神が人に与えた人類の特権のようなものですから、それを否定する気持は毛頭ありません。表現すること自体が「自分の為から人の為」になったとき、世間から大御所といわれる存在になるんだろうなと思います。バラエティー番組などで芸能人が語る台本のない自身の言葉にガッカリすることは常であります。他人である作家の書いた台本の台詞なしに人生を語ることは、芸能人も凡人も平等なわけであります。誰に何を言わせるかを考え決めている一握りの表に出ること無い影の仕掛け人こそが、全ての本質を握っているのであります。ですから彼らの意図に人類愛がないと世の中が真っ暗になるのであります。俺、凡人でよかった……とつくづく思う今日この頃です。
2015.02.07
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原発の安全神話が崩れたなどとマスコミはよく言いますが、原発は決して神話というほどに歴史のあるものではありません。つい最近まで絶対に安全だと言い張っていた張本人がいるはずなんです。新潟県知事がいう「柏崎刈羽の再稼動より福島第一の事故の総括を先にしろ」というのは、まぁまぁ筋が通った話なんです。原発の安全という大前提が根本から崩れてしまった以上地元としてはもう受け入れられないというこの話の流れは、良家の子女だと人に勧められ、自分でもだんだんとイイ女だと思って一緒になったのに、実はオカマだったというような話なんです。紹介してくれた人たちも随分と立派な人たちだったものですからすっかり頭から信用してしまったんですよね。ところが良家の子女なんていうほど上等なものではなく、実は趣味の悪い成金で、化けの皮が剥がれたら、魅力だったそのお金も既に底をついていたという、福島がオスギで新潟がピーコだったという、まったく落ちの無い話だったのであります。これはどちらも同じ沸騰水型原子炉という意味で他意はございませんよ。でも今からオスギとピーコがいくら手術したって「はるな愛」にも「佐藤カヨ」にもなれないのは誰もが分かっていますよね。大前提が崩れるとはそういうことなんですよ。いまさら柏崎刈羽原発の地下には活断層があるとか又今頃になって言い出したりして、男装(断層)とか女装とかいう話しじゃないんだからいい加減にしてくれよという感じです。今さらベントだ!防波堤だ!といっても、性転換手術じゃあるまいし、その場しのぎの誤魔化し工事では、本質は何も変わってはいないんでしょ?平和利用といったって、ゴミが出続けているのにゴミ捨て場がない。さらにゴミを増やすような話をしているんですよね?こういう放射性廃棄物処理の問題ひとつとってもこの程度の有様なんだし、汚染水となったらまったくお手上げ状態じゃないですか。こうなると原子力って人としてやってはいけないことだったんではないか、どうしてこんなもん作ってしまっただろ?という気がしていますよ。私だけでなく住民の殆どの人がそう思っているんじゃあないかなぁ。でもねぇ、原発立地の地元は、結果的にもうそのオカマを自分の籍に入れちゃったんですよね。本当に困った連れ合いなんだけど、このままの関係を続けていくしかないんでしょうよ。今までの東電ではもちろん全く駄目だけど、新潟県知事のように建前だけ連ねていても何の解決にもなりません。個別の被害想定に疑問を呈しているだけでは物事は前に進みません。話し合いは市民、県民、国民のみならず、全人類の為のエネルギー問題でもあるのだから県知事と東電の社長との物別れだけで済むものではないのであります。今は全人類の英知を注ぐべき時であって、たった二人に委ねるものでもない。二人だけの問題にしてしまってはいけないのでありますな。私見を述べるなら、体制を立て直す意味でも東電は一刻も早く清算して新しい組織に生まれ変わらせてあげたほうがいいと思います。人間は生まれ変わることができないかもしれないけど、法人は人によって生まれ変わらせることが出来ると思うのですよ。発送電を分離して早く別会社にしないと、有能だったのにすっかりモチベーションが下がってしまった人材が、今まで金をかけて育ててきた人材が他に流出してしまい、もっと取り返しのつかない事態になってしまいます。一刻も早く人的流出を防ぐべく発電と送電を分離独立させるべきではないでしょうか。モチベーションがすっかり下がってエネルギーの湧いてこないエネルギー会社って洒落にもならないでしょ。そういっても、ここでまた利害が生まれるから問題は山積です。ところが、やだねぇ、困ったもんだねぇ。廃炉といってもこっちが先に灰になってしまうくらい先の話なんでしょ?なんて話をしながら住民も本質的な問題は先送りにしているんです。
2015.02.06
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今日は日本海側の当地は晴れているのに太平洋側は雪だそうで、雪国の人間としては、いいんじゃない?たまにはそういう日もあって。とまぁ、今日ばかりは日頃の溜飲を下げているところですが、ポカポカしてるので太陽光のお話を。「太陽光発電は十年で元が取れる」ということの意味は、電気の買い取り制度があるからですが、それは太陽光発電を設置していない人がその費用を肩代わりして負担しているにすぎない、まったくもって不平等な制度でしかありません。これは、大多数の人が家庭や企業で採算無視の発電をしたら、完全に立ち行かなくなる貧弱な制度でしかありません。国民は除染費用と汚染された土砂などの廃棄物の処理費用、そして廃炉費用と使用済み核燃料の処分まで負担していかなければならないのに、どうして自然エネルギーの普及のためという大義名分を掲げて電気料金に上乗せしたかたちで買取しなければならないのかきちんと説明してもらわないといけません。買取を義務付けるのはいったい誰の為なのか説明が必要なのです。現にヨーロッパでは、もはや小規模自然エネルギーの電気買取制度は破綻しているのだそうです。「発送電の分離」をせずにこのまま今の制度を続けていれば日本も必ずそうなります。廃炉部門だけを別会社に、なんていう小手先の変革ではこの問題は解決しません。現行の買取制度は、保険のように少数の被災者を大多数の非被災者が助け合うという相互扶助の制度でもありませんし、順調なときに不慮の事態に対して積み立てておくというような性質のものでもありません。決していつまでも続かないし逆に言えば、いつでも止めることができる小手先の政策にしかすぎないのです。ですから太陽光などの再生可能な自然エネルギーを利用した発電を買取制度の上に乗っけていては駄目なのです。そこに一流企業の大掛かりな設備での参入をさせてはいけません。この制度で儲けている会社をまず既得権益を放棄させ排除したうえで発送電を分離してからにしないと。そもそも基本的な考え方として、自然の力や恵を享受することを、単に一企業の利益だけにしてはいけないということなのであります。太陽は只なんだから余ったから売るのではなく、みんなに只で配りなさい。エコや福祉で儲けるな!売電でなく発電していない人に分けてあげることにしないと。余ったのだからお金は要らないという人はいないのか!今は全く逆で、無い人が負担しているという、まったく矛盾した制度なのであります。これ(現行制度)が崩壊しないわけがないのであります。今の時期に新規参入なんて火事場泥棒としか言いようがないじゃないですか。発電事業もごく一般の商環境にすべく、政府は早く「今から代替エネルギーに投資しても元本を保証するものではありません」と言えばいいのです。消費者庁も家庭用の太陽光パネルに小さい文字で「現行の買取制度がこれからも続くとは限りません。設置は自己判断でお願いします。」と表示させなければならないのであります。そもそも、太陽光発電がエコだと思ったら大間違いでしょう。一見クリーンに見えるそれは、製品になって屋根に設置されるまではもちろんのこと、原材料を輸入して製品となるまでにいったい、どれほどのエネルギーを使って出来たものか考えたことがあるのでしょうか?それらは、それを作ったりさえしなかったらまったく要らなかったエネルギーなのです。それらすべてを計算に入れ製品の耐用年数などを計算したら、十年や二十年では絶対に元はとれません。買取制度が既に既得権益化しているのであります。自然エネルギーの活用→買取→既得権益。これは間違った図式であると認識し、襟を正さなくてはいけないのであります。深夜電力も夜は料金を安くしているという単なる現在の制度でしかありません。夜間の電気料を安く供給できている根拠は、原子力発電を毎日毎晩とめることが出来ないために最低限の出力を維持させる為の単なる制度でしかなく、原発ゼロを目指すなら深夜電力料という制度も諦めなければいけません。そうするとクリーンだといわれている、夜間に充電している電気自動車もまったく意味をなさなくなります。太陽光などで自家発電をしたら、夜間のために自宅の蓄電池に貯めておくという自己完結型なら離島などの送電コストがかかるところでは便利でしょう。このように現在のエネルギー政策は矛盾と間違いだらけなのです。これらのことを解決するには、まず発・送電を分離し、次に電気を融通しあうネットワークを構築し、庶民もまた太陽光発電の買取制度や低料金の深夜電力といった既得権益を放棄しなければなりません。発電と送電の分離ということは、電力会社の既得権益の放棄ですが、すなわち庶民の既得権益も放棄せざるを得ないことを意味します。はたして国民に今までのこれらの制度を根本からすべて変える勇気と決断そして合意は、いつどうやってできるのでしょうか?
2015.02.05
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警察官が二人の同僚の引き出しから捜査費用の5千円ずつ計1万円を失敬して逮捕されたそうです。「えっ、捜査費用って各自が管理するものなの?可哀想に生活が苦しかったのならお金を貸してって同僚や先輩にも言えなかったの?私だったら退職勧告はしても「警察沙汰」にはしなかっただろうに。警察はマスコミに揉み消しと批判されるのを恐れて公表したんだろうな……」というのが、率直な私の感想であります。私は何も公私混同を勧めているわけではありません。公を論ずる前に職場の私的関係はうまくいっていたのでしょうか?そこまで彼が追い込まれる前に誰も気か付かなかったのでしょうか?ただ伝えられた情報の中では???なのであります。山本五十六の「やって見せ、させてみさして、褒めてやらねば人は動かず」これは陸軍の中堅幹部への忠告だと思いますが、実に言い得て妙な言葉だと思います。でもよく考えると、この言葉って「子育て」に似ていませんか?そして部下を子ども扱いせよと言っているように聞こえませんか?所詮、人間関係ってそんなもんなんだということなんでしょうねぇ。これこそが血の通った教育・人間関係というものなんだと思います。テレビドラマの「相棒」で描かれる、上司に取り入る官僚の姿や部下に責任をなすりつける姿は非常に象徴的であり現実的であります。小生は公務員の経験もなくましてや官僚の経験などありませんが、企業であれ、銀行であれ、大きな組織に属す人間が保身的に上(上司の言動や自分に対する評価)にばかり目がいっている姿はいやというほど目にしてきました。彼らは顧客の要望も創業の精神も何もあったものではないのです。幹部職員は「部下の責任を取らされる」のではなく普段から「自分から部下の責任を取る姿勢」が肝心なのであります。そうすれば部下や後輩の指導にも熱が入り、教える側も教えることによって教えられるという相乗効果ができてくるものなのではないでしょうか。県内の未解決重大事件のことを思う時、今の警察は市民からの情報が適切に得られていないのではないかと思います。私も第一発見者になったことがあり、不愉快な思いをさせられた経験がありますが、私の場合本当は第一通報者であって第一発見者ではありません。誰もが見て見ぬふりをしていたのです。無論、警察は善良な市民の味方でなくてはいけません。警察官の言動でいたずらに反官ひいきの市民を増やすようなことがあってもいけません。新潟県警はきっと組織が硬直しているのでありましょう。繰り返される不祥事は単なる警察官個人の問題にしてしまってはいけませんね。もっと本質的な解決が望まれる警察です。だからあえて「警官の不祥事」とは言わないのです。
2015.02.04
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「♪なんでもないようなことが~幸せだったと思う~」 これは、自分が今までそれなりに幸せであったことをよく理解していなかったこと、そしてそのことに当時は心からの感謝の気持ちが無かったこと、それら過去の日常に対する反省の弁でもあります。 いわゆる残念としか言いようのない後悔の念というものですナ。「今更後悔してもはじまらない」と言葉ではよく言いますが、実際後悔だけでは何にも「始まらない」のであります。要は、今まさに始まる「これから」にかかっているのであります。 前向きに、ポジティブに、今の今を感謝するのであります。失ったものを嘆くのではなく、取り敢えず今現在自分の目の前にある残ったものを愛しみ感謝するのであります。 するとそこから新しいものが始まる道が開かれるのであります。 人生は喜怒哀楽、とにかくナンデモアリの「悲喜劇・人生劇場」なんだと割り切り、最終章までとにかく行ってみるしかないのであります。 主役は自分のつもりでも脚本・演出はなんてったって「感謝が大好きな神様」なんですから・・・。 私のような人生だと人生劇場のエンドロールが終わるころ、プロローグに神様が「ドヤ?オモロカッタヤロ?」なんて私に言ってくるに決まってます。そしたら、私は絶対に「フンッ!」と鼻で笑い返してやろうと思ってます。
2015.02.03
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最近面倒なことが億劫になってきて、これじゃあダメよダメダメと思いつつもこれといって何もしない日々を過ごしていたのですが、また再開です。私に刺激を与えてくださった皆さんに感謝です。後藤さんの事件を悲しみ、故人のご冥福を祈りつつも、このセンセーショナルな事件に隠れてしまい、報道されない様々な出来事の今後の展開がちょっと気がかりです。不謹慎にも、報道が過熱するとちょっと引いて見てしまう嫌味な性格なんですw「あれー?福島原発の話はどうなったの?」とか「中国の密漁船はその後もう来てないの?」とかなどなど・・・そう思ってるの私だけ?
2015.02.02
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