わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2010年03月10日
XML
カテゴリ: 偉人・画家・聖人
スペイン・セビーリャ 9 (聖アントニウスと画家ムリリョ)

スペイン(Espana)
アンダルシア(Andalucía)州、州都
セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)
セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)の礼拝堂

前回王室礼拝堂を囲む柵で終わっているのですが、実は王室礼拝堂の写真はありません・・・たぶん入れなかったのだと思います。(王家の墓も中にあるようです。)
今回は王室礼拝堂には触れずに他の礼拝堂をいくつか紹介します。

前回のコロンブスの墓所からの撮影
セビーリャ大聖堂 32
左翼(北側)の扉の前にある礼拝堂。名前は不明。どこにも書いてないので、さほど重要視されていないのか?(場所的にはよいはずなのだが・・。)

祭りの時の祭典などはここを使うようです。
セビーリャ大聖堂 33

上の礼拝堂を左に行った所、同じく北側の側廊でも西の入り口の左手あたり。
サン・アントニオの礼拝堂は有名です。

サン・アントニオ礼拝堂(Capilla de San Antonio)
このセビーリャ出身のムリリョの絵画によって祀られています。
セビーリャ大聖堂 39

上段がバプテスマ(洗礼者)のヨハネによるイエスの水の洗礼(水の洗礼は最初の洗礼)
セビーリャ大聖堂 38
ムリリョは幼児キリストとを洗礼するヨハネの図も描いています。好きなモチーフなのでしょう。

下段が聖アントニオの前に幼児イエス・キリストが出現した図だと思います。
セビーリャ大聖堂 37
聖アントニオについては、中々詳しい事が知 られていませがこの教会ではなぜか、縁結びの聖人とか、捜し物や無くし物の聖人とされていて、この礼拝堂は人気がある ようです。
以前、この絵画の聖アントニオの部分だけが切り取られて盗まれたそうです。盗難の聖人が盗難されたと言うオチですが、無事に戻ってこれたそうです。

訂正
聖アントニオ(Antonius)はたくさんいました。
この聖アントニオは聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士の方だったようです。

聖アントニオ(Antonius)
聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士 (1195年~1231年)
本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブラォン(Fernando Martins de Bulhão)
ポルトガル、リスボンで貴族の子として生まれるが15歳でアウグスチノ会に入り、司祭となる。後に フランシスコ会に入り、志願して北アフリカのモロッコに渡り決死の宣教活動 をしたそうです。
病気で帰国後に 便説を認められ、説教活動で福音を広めたと 言う。
36歳で亡くなり遺骸はパドバの聖堂に葬られたのだがその墓で多くの奇跡があったと言う。

こちらの聖人はなぜか 紛失物を捜すときの神様。婚姻・花嫁の守護の聖人 として知られているそうで、それがこの教会の聖アントニオでした。

最初の聖アントニオも残して置きます。
聖アントニオ(Antonius)(251年頃~356年)(
聖アントニオ修道院長)
聖アトニウスとも・・。 エジプトの隠修士
私の知る情報では、313年ミラノ勅令後に 迫害のなくなったキリスト教徒の中で、自ら苦行を強いて荒野に出た隠修士がおり、生涯を苦行に捧げ殉教した聖アントニオは修道士の祖とされる人物です。
親交のあったアタナシオスによる著「聖アントニウス伝」によりラテン語訳されたものがローマ帝国全土(西洋)に広まり、修道士達の模範となったようです。だから彼を祀る所が多いのでしょう。

彼のような修道者と呼ばれる人達がカッパドキア地方からテーベやニトリアの荒れ野に出現し、やがて彼らがコミュニティーを作って共同生活をしたのが修道院です。
9月「モン・サン・ミッシェル 11 (初期修道制の成り立ち) 」の中で隠修士については触れています。

画家
バルトロメ・エステバン・ムリリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)
バロック期のスペイン、 セビーリャ出身の画家で、作品の多くは宗教画 だそうです。
画家の100選にも乗っていなかった・・。日本ではあまり紹介されていない画家ですが、 スペインでの人気は絶大 です。
聖母マリアの純潔性をあらわした 「無原罪の御宿り」 は何点か描かれていますが 少女の愛らしさが残る純真無垢な乙女として描かれたマリア様の絵 は信者でなくても飾りたくなる絵です。

宝物館のムリリョの「無原罪の御宿り」
セビーリャ大聖堂 40


つづく
エジプトの隠修士
私の知る情報では、313年ミラノ勅令後に 迫害のなくなったキリスト教徒の中で、自ら苦行を強いて荒野に出た隠修士がおり、生涯を苦行に捧げ殉教した聖アントニオは修道士の祖とされる人物です。
親交のあったアタナシオスによる著「聖アントニウス伝」によりラテン語訳されたものがローマ帝国全土(西洋)に広まり、修道士達の模範となったようです。だから彼を祀る所が多いのでしょう。

彼のような修道者と呼ばれる人達がカッパドキア地方からテーベやニトリアの荒れ野に出現し、やがて彼らがコミュニティーを作って共同生活をしたのが修道院です。
9月「モン・サン・ミッシェル 11 (初期修道制の成り立ち) 」の中で隠修士については触れています。

場所の確定ができませんが・・。どこか側廊の礼拝所です。
セビーリャ大聖堂 41

つづく





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017年03月15日 04時53分22秒
コメント(0) | コメントを書く
[偉人・画家・聖人] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: