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今回 は「倭
人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の続きから。
本を何冊が読んだのですが、研究はまだ続いているようで近年の発掘により古代史はもっと変わるのだと実感しました。
学者の方の意見もそれぞれ、みなさん自分の信じている方に寄せて行く傾向があり、矛盾を感じた内容も・・。
読んだ事により、より迷走してしまった今回でした f^^
*
)
当初はシンプルに蘇我氏のルーツとかかわる秦氏のルーツで終わらせる予定が、思いの外、古来日本には多くの渡来人が渡ってきていて、朝鮮半島との交流がかなりあった事が解りました。(逆もしかり)
さらに、秦氏のルーツはヤマト王権初期にかかり、ではヤマト王権はいつからか? と言うと実は「謎の4世紀」と言う日本史の抜けた歴史に当たりました。
「謎の4世紀」は邪馬台国からヤマト王権に移行する時期なのですが、実は邪馬台国とヤマト王権は全く別物で、繋がっていなさそうなのです。
謎の4世紀に何があったのか? それはどこにも文献が無いので解らないようなのです。
※ 古事記や日本書紀は8世紀頃の編纂なので必ずしも実際の真実を伝えていないからです。
※ 中国の方も動乱期で書かれた書物が無い。
そんな訳で歴史を遡っていたら、どこからまとめて良いか解らなくなってしまいました
とりあえず今回は古来日本の海外との交易の実態と百済滅亡後の渡来人をまとめて見ました。
歴史が後先になりますが、秦氏については次回に・・。
今回写真は韓国の国立中央博物館から古代史にかかわる遺物を紹介します。
韓国の国立中央博物館は、大方の所で写真撮影が許可されているのです。
弥生時代以降の朝鮮半島とのかかわり方が少し見えるかもしれません。
倭
人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)
写真 韓国 国立中央博物 館(National Museum of Korea)から
いろんな渡来人
朝鮮半島の倭人
外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ
大宰府の大要塞化と百済からの難民
百済の最後、白村江の戦い
百済からの亡命者
日本の半跏思惟像は弥勒菩薩とされているが、こちらの半跏思惟像は出家前のシッタータ太子そのものらしい。
※ シャカ族のシッタータ太子は出家して、悟り、「目覚めたる者」、仏覚者となった。仏陀(ブッダ)です。
こちらは四苦(生老病死)について悩み、瞑想にふける出家前のシッタータ太子の姿と解釈されている。
中国では5~6世紀、朝鮮半島では三国時代の6~7世紀に流行したスタイルだとか。
次回紹介する渡来系氏族である秦河勝(はたのかわかつ)が京都太秦(うまさ)に建立した広隆寺に所蔵される弥勒菩薩半跏思惟像(木彫)に姿形(頭上に三山冠or蓮花冠と呼ばれる低い冠など)が非常に似通った仏像である。
但し、日本の像は木彫。こちらは金銅製。
いろんな渡来人
古来日本には、大陸より多くの渡来人がやって来ていたようです。
正式な渡来人には当てはまりませんが、弥生人の存在と彼らの水稲作農法は大陸からの伝来(でんらい)です。弥生人そのものが大陸の者と倭の(縄文人?)のミックスとも位置づけされているようです。
では俗に言う 渡来人(とらいじん)とは何か?
ヤマト王権に入る4世紀以降に大陸や朝鮮半島から日本に移住した人々をさす よう
です。
彼らの来日理由はそれぞれ。
大陸での派閥争いの末に国にいられなくなり逃げて来た者。正式に亡命と言う形でやってきた者もいただろう。
侵略や、海賊の一派としてやって来て住み付いた者もいただろうし、技術者として派遣されて来た者達もかなりいたようだ。
当時の倭や朝鮮半島、あるいは中国の政治的事情があったのが解る。
逆に日本海の海賊として倭国の者が大陸の人に認識されていた事実がある。
※ 3世紀にはすでに朝鮮半島南端に倭人の済む土地があったと言うし、倭が半島で軍事的支配権を持っていた時代もあったとか・・。
原三国時代 鴨型土器(高さ 32.5cm)
原三国はBC1~4世紀中頃。百済や新羅が国家としての体裁を整える頃を指すらしい。
まさしく倭に邪馬台国があり、交易が始まった頃の物かもしれない。
鳥は穀物豊穣など天と地の媒介者。また死者の魂を天に導く者として製作? 副装品の水挿しか? 酒器か?
下の土器の来歴はわからない。
馬やイノシシ? のような動物が絵が描かれた珍しい土器。
博物館のホームページの収容作品リストにも解説が無かった。
新羅 騎馬人物形土器
人間、動物、物の形をかたどった象形土器は、祭祀のような儀礼用。死者の安らかな眠りと死後の世界に対する願いが込められたものだそうだ。墓からの副装品らしい。
※ もしかしたら、これはソグド人の商人の姿かもしれない。漢代(前漢 (BC202年~AD8年) にはすでにソグド人との交易の話しは記されている。当時新羅でもすでにペルシャとの交易があったのだろう。
ソグド人については以下に書いています。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
朝鮮半島の倭人
朝鮮半島にはない異質の倭人の物と思われる弥生式土器が出土している痕跡からすでに倭人が紀元前に朝鮮半島に渡って集落を形成していたと考えられている。
※ 実際BC4~BC3には双方の交易の関係から朝鮮半島南部への移住及び入植者が増えたようだ。
284年頃書かれたと推定される三国志の 魏書東夷伝倭人条には、倭人の北限が朝鮮半島に達していた事が記されているそうなので倭人が弥生時代に大陸に進出していたのは間違いない
。
倭人に関係の深い任那加羅(みまなから)が歴史の表に出てくるのは3世紀以降の事。
※ 世界史年表図の4世紀には加羅(から)が表記されている。
任那と加羅はしばしば分けられて表記されているが、もとは小さな部族が点在した小国家郡だったようで、5世紀に政治勢力が2分されて南の金宮伽耶が任那(みまな)、北の高霊(こうりょう)が加羅(から)になったと言う説と、伽耶諸国の総称が任那(みまな)である。との説がある。
日本書紀(720年編纂)には4世紀頃朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本の統治機関「任那日本府」があったとされている。
4~5世紀前半の朝鮮半島南部
思う以上に古来より大陸や半島との交流のあった事が解る。
何しろ朝鮮半島は非常に近接しているからね。
※ 学者の中には「往来には小舟が利用されていたはず。」と言う人がいたが、手こぎ船に帆の付いた大人数が乗れるガレー船の歴史はBC3500年に遡る。シルクロードを通じて中国は西方の諸国とつながっていた。
西方の人もまた中国や半島に渡来していたと言う史実もあり、思う以上に造船技術も進んで大型化していたのでは? と思う。
青銅印章 ?
邪馬台国の卑弥呼が金印を賜った。
それは今後の外交時、その印を持って正式な通商とする為のハンコらしいが・・。
金印の方は摩耗が少なく使った形跡がほとんとどないらしい。
上の印についての説明も中央博物館の関連には無ったが、何らかの公的文書の印だったのだろうか?
金よりも実用的な気はするが・・。
それにしても印鑑の文化ってけっこう古いんですね。
百済 青銅鐎斗(せいどうしょうと)
青銅で3本の足と把手をつくってつけた北斗七星形の容器、容量は1斗。
こうした鐎斗(しょうと)は4~5世紀代に百済と中国南朝との交流によって中国青磁と一緒に中国南朝から
伝わり、百済の地方統治過程で地方の有力な勢力に伝えられた威信財(いしんざい)だそうだ。
※ 威信財(いしんざい)・・所持している事が名誉となる物。あるいは冨の優越を示すアイテム。
資料検索の過程で見つけた。東京国立博物館にも同じ物が存在しているようだ。こちらのものは摩耗が激しいが、東京の物は龍の頭部もはっきりしていて美品。尾? のような装飾も付いていた。
三国時代 百済金銅大香炉 レプリカ? 高さ
61.8cm
香を焚く為の穴は蓋の鳳凰の胸辺りに2つ、山の峰の周りに10。計12。
蓋の最上部には鳳凰が、その下には五人の楽士が楽器を演奏している姿が彫刻。
74の峰の彫刻には木、岩、川、滝、さらに虎、鹿、象、猿など42匹の動物や6種類の植物、12人の人物が表現。
胴には蓮のつぼみと二人の人物、羽の付いた魚、鳥などの27の動物が彫刻。
脚部はダイナミックな姿勢の龍の装飾。
外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ
学校で学んだ歴史の中に鎌倉時代の元寇(げんこう)の襲来があるが、それ以前から北九州や日本海沿岸は地理的に侵略者の入りやすい場所であった。
ルーツは、古来(邪馬台国の時代よりも前)倭国の王が侵略者防御の要塞を組んだ土地であり、逆に大陸との外交や交易の窓口として朝廷の出先機関が置かれていた重要な要所
であった。
284年頃書かれたと推定されるの三国志の魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬
国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が駐屯していた場所と記されているそうだ。
つまり 外交の公式窓口がヤマト王朝以前からそこに存在していた
と言う事実がある場所だ。
その大宰府の大要塞化が進んだのは飛鳥時代、白村江の戦い(663年)以降
だと言う。
※ 白村江の戦い(663年)は日本も参戦した朝鮮半島の勢力争いである。
※ 百済帰化人の協力の下、対馬や九州北部の水城や瀬戸内海沿いに朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、特に北九州沿岸は開放的な造りで外敵が侵入しやすく防人(さきもり)を配備して慎重を重ねている。
つまり
北九州(特に博多湾)は良くも悪くも渡来人の入り口
でもあった
と言う事だ。
※ 7~10世紀に朝鮮半島北におきた渤海(ぼっかい・Balhae)(698年~926年)との交易でも朝廷は北九州を示唆したそうだが、北九州は遠く、海難事故も頻発するので新潟の糸魚川あたりに航路を取って日本に来ていたようだ。(韓国でルート地図発見)。
余談であるが、韓国では好んで糸魚川でとれる翡翠を調達していた。
三国時代 新羅の金冠 高(冠)27.3cm
新羅(BC57年~AD676年)は華やかな黄金の文化を開花させた国だったらしい。
「輝かしい金銀彩色の国」と歴史書に書かれているそうで、実際、古代新羅の墓からは様々な黄金製の装身具が出土しているそうだ。
半島では翡翠はとれないらしいから、もしかしたら日本の翡翠で造られた勾玉(まがたま)かもしれない。
耳飾り 6世紀新羅
もしかしたら、この細工はペルシャの物かもしれない。先に触れたソグド人がペルシャから運んで来た金細工かも・・。
首飾り 6世紀新羅
大宰府の大要塞化と百済からの難民
百済の最後、白村江の戦い
歴史的に案外重要なのが、朝鮮半島で起きていた百済の攻防である。
先にふれた 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)に日本は参戦
しているのだ。
朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国の均衡がやぶれ、中国の唐と新羅の連合軍に百済は攻め滅ぼされる事になる(660年)。
300年にも及ぶ百済との関係、しかも、百済の皇子は人質の体で日本の宮廷にいた。
※ 百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)(599年~660年)(在位:641年~660年)の皇子の二人。
扶余 豊璋(ふよほうしょう)と百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)
中大兄皇子(天智天皇)は百済再興を支援して661年から3年続けて百済援軍を日本から送ったのである
。
※ 第1派、1万余人。船舶170余隻。(これに皇子(豊璋)も乗っていた。)
第2派、2万7千人。軍主力。第3派、1万余人
因みに倭国の方も、661年、斉明天皇が崩御し、即日中大兄皇子が称制。
※ 即位は668年。翌662年が実質天智天皇元年となっている。
結果的には白村江の戦い(663年)で日本もろとも敗戦。
朝鮮半島の領地や権益を失っての帰国となったようだ。
百済滅亡は政治や統率不足など王の采配不足。自滅に近かったらしい。
百済からの亡命者
白村江で大敗した倭国軍は、亡命を望む百済遺民を船に乗せ帰国。
先に述べたように報復を恐れてか? 天智天皇は北九州の防備を固めると共に、摂津国難波にあった宮を667年に内陸の近江国滋賀郡大津(近江大津宮)へ遷都している。
またこの時、百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)の息子で日本に来ていた善光はそのまま日本に残り敗戦が決まると帰化し、百済王族として豪族の待遇を受けている。
天智天皇の御代に起きた朝鮮半島の攻防は多くの日本への渡来人をうむことになった
。
しかし、百済への支援はヤマト王権初期にもある。先ほどの任那加羅(みまなから)の話につながる。
日本の朝鮮半島進出のきっかけ? 4~5世紀頃、中国が宋の時代の話だ。
日本がいかに百済を大切にしていたか良く解るし、貿易以上の関係もあったのかもしれない。
龍山(よんさん)にある韓国の国立中央博物館
国立中央博物館に行ったのは4年くらい前だが、入場は無料。きれいで見やすく展示品の時代が一目でわかるような配慮がされている。収蔵品も多く2日通って見てきました。
年表では上段が西欧。次に韓国、年史が入り、その下に中国、日本と、各国ポピュラーな出土品などが合わせて写真付きで載せられている。これはとても良いアイデアだ。
惜しいのは、ハングル表記がほとんど。
せめて英語の説明書きがもっとあったらよかったのに・・。
博物館は頼めば日本語のできる学芸員の方が案内してくれるので時間があるならそうした方が良い。
「倭人と渡来人」 次回につづく
リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ
「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。
Back number
リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)
倭
人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)
リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)
リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(… 2017年08月15日
倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルー… 2017年08月07日
倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観… 2017年06月23日