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この流行性の急性感染症は16世紀のイタリアで「影響」を意味する語から生まれた病名だそうだ。
本来、季節性で寒い時期にしか流行らないこの病気が今年は夏から大流行していると言う。
その理由は夏に南半球からの渡航者が増えて、病気を運んで来たと言う事情がある。南半球は季節が逆転しているのでまさにインフルエンザのピーク地である。
つまり国際交流が進めば進むほど季節の国境は超えて病気などが流行する様なのである。
そう言えば以前 「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」の中、「白村江の戦い」後に百済からの亡命者が増えた事を紹介しています
。
リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)
渡来人が増えた7世紀~9世紀は日本に疫病が蔓延し苦しんだ時代で
もあるのです。
今年の夏のインフルエンザの流行と同じく、 渡来者と病気の発生には因果関係
があったのです。
「四天王寺庚申堂」の所では、「日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?」で日本で万延した大陸より来た新型の疫病(えきびょう)の話しを紹介しています。
リンク 四天王寺庚申堂
日本の場合は海を挟んでいましたが、「Europe」&「Asia」のユーラシア (Eurasia)大陸はそれこそ 交易など人の行き交いで病気もあっと言う間に共有
してしまった事でしょう。
また、 航海技術が発達して遠方まで旅するようになると病気の輸出は先住民を全滅させる自体も
・・。
例えば、 アステカとインカ帝国の滅亡の大きな原因の一つは天然痘の蔓延だった
そうです。
※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)の中、「新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)で書いてます。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
日本でも天然痘は聖武天皇(701年~756年)の御代に日本で大流行
。735年~737年の流行では政府高官や藤原四兄弟なども感染して大量の死者が出ている。
因みに中世の欧州では、城壁で街を囲う城郭(じょうかく)造りが発展する。
いざと言う時、外敵から市民を守る故なのだが、敵は人だけではなく病気もしかり。
教会、あるいは病院は城郭の外に置かれていた。旅人や病人の面倒を見るのは教会の役目。悪い病気を持ち込むのはよそ者、すなわち旅人だったからだ。
さて、今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」に戻って・・。シルクロードをキャラバンしたソグド人(sogd)の紹介です。
写真は彼らの主たる出身地である現在のウズベキスタンから紹介しますが、現在のウズベキスタンにはすでにソクド人の歴史は全く見え無い事を先に断っておきます。
アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
ソグド人(sogd)とソグディアナ(Sogdiana)
中国に向かったソグド人
ソグド人(sogd)のオアシス路(Oasis road)
交易の品
ブハラ、カラーン・モスク(Karaun Mosque)とミナレット
サマルカンド、
グリ・アミール(Guri Amir)廟
ソグド人(sogd)とソグディアナ(Sogdiana)
前回、アラビア半島のキャラバンでナバテア人(Nabataean)が主権を握っていた事を紹介したが、今回はアジア内陸部のキャラバンで活躍していたソグド人(sogd)の紹介です。
北緯40度線付近の中央アシジア一帯を出身としたソグド人(sogd)は交易の民
です。
BC6世紀頃から彼らの存在は知られている。彼らは交易を主たる生業にして主に中国に買い付けに出かけ、その品を西方に運んでいた事が解っている。
※ 中国では南北朝時代の資料に西域から来た異民族との交易の記録として残っているそうだ。
彼らは交易の為に中国の主要都市に集落を持ち、西方へと品物を運んでいた
。
元は農耕民族であったらしいが、彼らは交易をする事で生き残りをかけた? 調べてみてわかったのは、 彼らはまるで陸のフェニキア人のような商人
であったと言う事だ。
そして 彼ら
ソグド人(sogd)
こそが中国からシルクをペルシャに持ち込み、そして西方に伝えた人々なのである。
つまり、シルクロードで荷を運び続けたのは彼らなのです。
下はタシケントからウルゲンチに向かう飛行機から(タシケントより)タシケントは天山山脈の西方にあたる。かの玄奘三蔵がインドに仏典をもらい受けに行く時? あるいは布教の過程で立ち寄った場所でもある。空からでは山だらけで解りにくいがそこそこの湖があり川がある。ウズベキスタンの街はオアシスを中心に発展した所が多い故だ。
※ オアシス(Oasis)と言うと水の湧き出る泉と思いがちであるが、湖なり川なりステップや砂漠における水辺の都市全般に言うようだ。
ソグド人が交易の拠点にしていたのは現在のタジキスタンからウズベキスタンに流れるザラフシャン川流域でのソグディアナ(Sogdiana)と呼ばれるオアシス地帯。
ソグディアナ(Sogdiana)
イスラム化する以前の かつてのペルシャ、中央アジアのサマルカンドを中心的とするザラフシャン川流域はイラン系の言語を話すソグド人と呼ばれる民族が居た。
ソグディアナ(Sogdiana)とは「ソグド人の住む土地」と言う、西方のギリシャ語やラテン語からの呼称
だったのである。
※ ペルシャ帝国(アケメネス朝)以前の行政単位をササン朝ペルシャがそのまま用いて今も多少その名が残っている。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州など。
当時のソグディアナ(Sogdiana)は内陸アジアの東西、あるいは南北につながる交通の要所であった。
もともとイラン系民族? 政治、文化面のつながりが深く、BC6世紀にはペルシャ帝国(アケメネス朝)に併合されていた。
この時アラム文字が入りソグド語がアラム文字で表記されるようになったと言う。
そしてアレクサンドロスの遠征ではBC329年~BC327年ソグディアナとバクトリアで過酷なバトル(Siege of the Sogdian Rock)が行われている。
アケメネス朝の滅亡後はペルシャ帝国のままアレクサンドロス大王の支配下に入り、アレクサンドロス亡き後はバクトリアの地方州となった。
上の地図はアレクサンドロスが遠征( 赤ラインは遠征路
)した頃BC331年~BC323年の図
ソグディアナ
の位置(ピンクの円)
紫のGが ガンダーラ
の位置。
黄の円が ペルセポリス
。
※ アレクサンドロス王の遠征については「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」で詳しく書いています。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
写真下はザラフシャン川か? アムダリヤ川か? どちらか不明。(ヒヴアからブハラに行く途中
サマルカンドや下流のブハラには彼らのが都市国家が点在。
彼ら ソクド人がオアシスに築いた都市国家は30を数えたと言う
。
周囲を大国に囲まれたソグディアナの都市国家は決して大きなものではなく、城壁に囲まれた狭い市中にひしめき合うように家が建ち、上に重なり人々は暮らしていたらしい。
※ ペンジケントでは最盛期には7000人もの人々が暮らしていたとか・・。
下はサマルカンドの市場から
いろんな果物や青野菜、他ナッツや香辛料、茶葉など豊富。水のめぐみで肥た土地柄なのだろう。
岩塩?
元アラル海のバルサ・ケルメス湖(Barsa Kelmes)からの塩かもしれない。
アラル海(Aral Sea)
アラル海はその水源をパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来する2つの川によってできていたが、今はアムダリヤ川が止まり湖は4分割(小アラル海,バルサ・ケルメス湖,東アラル海,西アラル海)され各々縮小。特にバルサ・ケルメス湖はわずかな湧き水のみで塩湖と化している。
※ アラル海は、かつては世界第4位の大湖であり中央アジアのオアシスであったが、半世紀で約5分の1に干上がり縮小
。
アラル海(Aral Sea)とカスピ海(Caspian Sea)
共にトゥラン低地 (Turan Lowland)にある湖である。
アラル海とその西隣にある世界最大の湖であるカスピ海であるが、これも死海同様に海面での海抜がマイナスと言う湖
であった。それ故、両者は塩分濃度の高い湖のようだ。
カスピ海の海面標高は-28m
ブドウやイチジク、アンズ、ナツメヤシなどドライフルーツが豊富。下はドライフルーツにはできないフルーツ、メロン.スイカ,カボチャ?
ソグド人は
定住にこだわらず、交易の為に彼らの街を造り移住する事もいとわなかった。彼らは生まれた時から商人になる事が決まっていたから5歳になると書を学び、少しすると商売を覚えさせられた。そして20歳にもなると異国に旅立ったと言う。
彼らの足跡は、彼らが使用したソグド文字で解っている。もともとアラム語から文字化されたソグド文字はユーラシアの各地で発見されているそうだ。
そもそも、 ソグディアナと言う立地が彼らを商人にしたのかは解らないが、
彼らは交易路沿いの各地に中継ぎの集落を造りラクダのキャラバンで 集落から集落へとリレーするように荷を運んだ
。それは
独占的な交易網と言うより完全なるソグド人・ネットワークであったわけである。
中国に向かったソグド人
特に彼らが目を向けたのが中国の物産である。それを示すように中国内にもソグド人の集落が編み目のようにはりめぐらされていたと言う。
彼らはシルクロードの起点となる長安や洛陽の都の市場界隈にももちろん居住地を作っていて、 中国内での移住者は相当数いた事が解っている。
漢代(前漢 (BC202年~AD8年) 後漢 (25年~220年))にはすでにソグド人との交易の話しは記されているらしいが、唐(618年~907年)代ではさらに発展。
特に唐代は異国人にも門戸が開かれ自由で非常に寛容な時代であったらしく長安や洛陽の街は非常に国際色豊であった
そうだ。
唐代の長安はすでに人口100万を超えた大都市で、 街には異国人(ペルシャ人)が行き交い彼らは見知らぬ西の文化や品を運び
人々の関心をかっていた。
また 歓楽街には、異国の乙女が営む酒場もあり非常にエキゾチックな様相
だったらしい。
※ 李白(りはく)(701年~762年)の詩にも歌われている。
「胡姫貌如花 (胡姫は貌(かんばせ)花の如く)、當壚笑春風 (壚に當たりて春風に笑ふ)
」
「花のように美しい西の乙女が春風にふかれて微笑んでいるよ。」
異国のペルシャ人はほぼほぼソクド人であったらしい。
因みに、 中国内での彼らは名前に出身地の文字を加えてどこ出身であるか、一目で解る識別ができた
ようだ。おそらくその理由の一つが彼らが民族としての共通の仕事ではあるが、おのおのが単独で商売をしていたからだろう。
つまり、彼らは同じ会社と言うわけではなく、それぞれが各地で同郷の保証人をおいて信用商売をしていたからだ。
人種としてはイラン系(ペルシア系)。
そして、彼らはゾロアスター教を信仰していたらしい。
※ ゾロアスター教の葬送は火葬ができない。特殊な葬送スタイルがある。
※ ゾロアスター教についても「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」の中、「ペルセポリスとゾロアスター教」で紹介しています。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
ソグド人(sogd)のオアシス路(Oasis road)
ピンクの円が ソグド人の本拠(ソグディアナ)
、
赤の円は 絹(シルク・Silk)の産地
紫の ☆が長安(ちょうあん)
、かつてのシルクロードの起点とされた場所。
※ 長江の河口域、現在の江蘇省(こうそしょう)や浙江省(せっこうしょう)は昔から絹の原産地として知られた場所。現在も中国の50%の絹を供給している。
彼らが交易路のメインにしていたルートが天山南路を通るコース
。
拠点がそもそもサマルカンドなどのオアシス地帯であるから「オアシス路(Oasis road)」とも呼ばれる。
上の地図に示したように生絲の生産地は中国でも東の端の長江(ちょうこう)界わい。
中国が持ち出しを制限していた絹織物を西方に密に運んでいたのが彼ら
なのである。
このコースで中国より大量の絹の反物を運んだのでオアシス路(Oasis road)は1877年ドイツの地理学者によりシルクロード(Silk Road)と名付けられた。
最も彼らが中国から運んだのはシルクだけではないが・・。
因みに、 後に反物から生絲の直接輸入もしている。彼らは母国で自分たちで絹を織り、民俗独自のデザインが生まれている
ところで、上の図によれば、ステップ路は西方につながっている。
初回に「シルクロード」とタイトルする本を見るとほとんどが西安から天山山脈あたりまで。と書いたが、 シルクロードで中国よりソグディアナまで荷を運んだのはほぼゾクド人であった
と言う事が判明した。
ではソグディアナから西方は? である。
同じく初回に砂漠のベドウィンの事を書いたが、当初、 西欧につないだのは古代オリエントの遊牧民のアラム人であったと思われる。
アラム文字からソクド文字が生まれた
のが何よりの接点であると思う。
因みにアラム文字はフェニキア文字から派生している。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
サマルカンド近くの綿花
綿も貴重な輸出品であるが繊維だけではなく、綿花のタネから絞った植物オイルも輸出品。
タペストリーも独特?
ソグド人の国はペルシャ帝國の属州になっていた時代もある。
地理的に大国の支配を受けながらも自由にシルクロードを行き来してきた民族なのであるが、 彼らの足跡は10世紀頃に忽然と消える。
ソグディアナは、8世紀からイスラム王朝の支配下に入ったからだろう。そして12世紀にはその民族 的特色は失われフェードアウトして行ったようだ。
交易の品
当時は 中国でしか生産されていなかった絹(シルク・Silk)の織物
。唐代には持出し制限もあったらしいし、険しい山岳や砂漠を運ぶのは至難。それ故それは 貴重で高価な取引のできる品
であった。
そしていつしか 中国宮廷から持ち出されたカイコによりソグド人は直接繭玉を作り生糸の生産もしてい
る。
彼らはペルシャの柄など客の嗜好を取り込んで独自のデザインの織物を生産してさらに西方に向けて商売した。
とは言え西方へは彼らでもたやすく進む事はできなかったようだが・・。
AD8世紀にはソグディアナ(サマルカンド)(現ウズベキスタン)に製紙工場が造られそこから欧州に紙も輸出されている。
もともと絹も紙も中国からの輸出品。秘技であった技術が外にもれたのである。
※ 現在のサマルカンドの産業は、機械・化学・綿花・絹・皮革関係と言うが、彼らは中国から物資を運ぶだけでなく、自国生産して西方(欧州)に輸出していたのは確かなようだ。
では逆に 彼らは中国に何を運んだのか?
パミール高原西部のバダフシャーンはルビーやラピスラズリの産地
。また鉱物資源に富み、鉄、硫黄、金、銀などの鉱脈や河川では銅の鉱床も発見されている。
宝飾としてだけでなく、 ラピスラズリ(lapis lazuli)は敦煌(とんこう)の壁画の顔料として使われていた
。また インドのグジャラートからは宝石としてカーネリアン(carnelian)
なども持ち込まれていたはずである。
※ アケメネス朝との取引項目にある。
ソグディアナから唐の宮廷への贈り物として馬、犬、ライオン、ヒョウなどの珍しい動物。インドクジャクなども彼らが運んだ可能性がある。
先に紹介した豊かな農作物でサマルカンドのドライフルーツやナッツ等も運ばれたであろうし、 岩塩や薬草、敷物、装飾
された金製品や銀の細工品などが運ばれている。
需要の情報を察知する能力にたけていたのかもしれない。
当時の宮廷人や貴族らが喜ぶ品をいろいろ運んでいた
のである。先にも触れたが長安や洛陽の街は異国情緒満載の国際都市
であったらしいから。
そして、 彼らの活躍により、母国ソグディアナでは、王を名乗るほどに非常に富裕だったらしい。
それなのに、 ソグディアナがイスラムの支配下に入ると街は急速に
イスラム化して行く
。
だから今回紹介する写真は ブハラとサマルカンドであるが、今、ソグド人をしのぶ物は何も無いのである。
ブハラ、カラーン・モスク(Karaun Mosque)とミナレット
ウズベキスタンの都市ブハラ ポイ・カラーン(Poi Kalan)モスク
ブハラ歴史地区にあるカラーン・ミナレット(Karaun minaret)を有するモスクがカラーン・モスク(Karaun Mosqueカラーンとはタジク語で「大きい、強い」を意味する。
ミナレット(塔)の高さは45.6m。基部の直径は9m。地下10mの場所に埋め込まれているらしい。 ブハラで最も高く街のシンボル
となっている。
同じく大きなモスクである カラーン・モスクは1ヘクタールで1万人の信者が収容
できるそうだモスクの建立は1121年。カラハン朝の君主ムーサ・アルスラン・ハンらしい。
カラハン朝は彼の父サトゥク・ボグラ・ハンの時にイスラム教信仰に入る
。
また、 カラハン朝は中央アジアで最初にイスラム化した集団で、以降カラハン朝の君主は異教の王族に聖戦(ジハード)を挑み周辺のイスラム化を進めた
ようだ。
イスラム化の中で民俗の特性でもあったゾロアスター教信仰も消え、異民族同士の婚姻によりソグド人のオリジナルの特性も失われたのかもしれない。カラーン・ミナレットは、最初モスクと同時に立てられたようだが、地盤が軟弱で倒壊。1127年に作り直されている。
アザーン(礼拝の呼びかけ)が行われていた上の窓は、処刑の窓でもあった
。
生きたまま袋に詰められてその高窓から投げ落とす処刑が1884年まで行われていたらしい。
今は町のシンボルであるが、 昔は「死の塔」と恐れられていた
そうだ。
サマルカンド、グリ・アミール(Guri Amir)廟
ウズベキスタンの都市サマルカンドにある、 ティムール朝の始祖アミール・ティムール(Amir Temur)と家族の霊廟
サマルカンドはティムール朝の都だった
のである。
イスラム王朝のティムール朝(1370年~1507年)はモンゴル帝国の継承政権の一つ
で最盛期の版図はトルコからシリア、インドと 西アジアを押さえ、中央アジア、北はロシアに達する広域な領土を誇った王朝
である。それ故、ティムール帝国とも呼称される。
実は帝国を築いた始祖アミール・ティムール(Amir Temur)(1336年~1405年)は、サマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村出身だった
のである。
イスラム化したモンゴル軍人とされているが、 もとはソグド人であったのかもしれない。
グリ・アミール(Guri Amir)とは、タジク語で「支配者の墓」の意。
この廟を建てたのは始祖アミール・ティムール(Amir Temur) (1336年~1405年)
自身。
先に戦士した孫のムハンマド・スルタン(Muhanmad Sulton)(1374年~1403年)の為に、孫が建立したマドラサの隣に彼を偲んで廟を建てたそうだ。
廟の完成は1404年。その1年後にティムール自身も葬られる事になり、リスト表示によればこのドームの下に9人が葬られている。
内部を覆う装飾には金3kgが使用されている。
ピンクの矢印
がアミール・ティムール(Amir Temur)の墓標
その右隣がムハンマド・スルタン(Muhanmad Sulton)の墓標
実際の亡骸はこの地下3mに安置されている。ライトアップされたグリ・アミール(Guri Amir)
シルクロードの写真も、ソグド人の写真も無いので図らずも中央アジアの歴史に入り込んでしまいました
「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだ続きますが、どう展開するかは毎回書きながら考えています
f^^*) ポリポリ
次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
Back number
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
リンク 大航海時代の静物画
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク
アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク
アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク
アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク
海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
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聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)
リンク
アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク
ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
リンク
クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテ… 2024年11月24日
アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈ま… 2024年10月14日
アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河… 2023年04月24日