わたしのこだわりブログ(仮)

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2021年04月26日
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カテゴリ: 歴史の旅
星 ノルマン人をパリで撃退した人物を追加しました。次の関係で・・。

今回は、単独にするか、かなり迷走しました(;^_^A
この民族移動問題は「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12」の伏線にもなっています。
彼ら「蛮族」と呼ばれた民族を単純に紹介するのにノルマン人の例はわかりやすいかと、モンサンミッシェルの中に入れ込みました。ぽっ
だからいろんな情報が混在しています。オムレツまで載せたし・・。


言語体系で民族を分類した系図(Family tree)があります。
​​ 「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」はその祖の一つで、その言語を源流とする民族は、ヨーロッパ大陸からロシアそして中東からインドに及ぶ。
※ 大航海時代以降は、南北アメリカ大陸やアフリカ、オセアニアにも広がった。

​この語族に属する言語を公用語としている国は現在100を超えている。​
​つまり 世界の国の半分近くはこの言語民族をルーツとしているかもしれないと言う規模 だ。​
国際連合では現在6つの公用語がおかれているが、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語の4つは「インド・ヨーロッパ語族」である。
※ 残り2つの公用語は中国語とアラビア語。

つまり「インド・ヨーロッパ語族」の発祥から移動をたどれば必然的に欧州の世界史が見えてくるはず
。​​
しかし、今回は「インド・ヨーロッパ語族」そのものでなく、その一部一派のみです。
また、「ローマ帝国vs蛮族」の「蛮族(ばんぞく)」とは何か? の説明を兼ねています。


モンサンミッシェル 3 

インド・ヨーロッパ語族
(Indo‐European languages)
どこが発祥( 源郷地 )か?
エデンの園の場所、考えてみました
初期の民族移動
ローマ帝国内の異民族の協力者
スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)
ヴァイキング(Viking)の源郷
​ヴァイキング(Viking)の移動
ノルマン人
(Normands) とノルマンディー公国 (Duché de Normandie)
ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立
「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?
モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)



インド・ヨーロッパ語族の分布図

ウィキメディアの図に書き込みしました。

実は、欧州の歴史をいろいろ調べていて個人的にちょっと思った事がある。ぽっ
​欧州には、ほぼ2世紀毎に大量の異民族が流入してきているように思う。どこかで人が湧くように人口が爆発的に増えている場所があるのではないか? ​
また、部族に追われて逃げるように移動して来た集団もいただろう。
​かつてモーセがイスラエルの民をカナンに導いたように指導者が大量の移民を携えての民族移動であったのだろうと想像できる。
歴史を見ると、それはある程度の期間で定期的に起きているように思ったからだ。

どこが発祥( 源郷地 )か?
「インド・ヨーロッパ語族」の発祥となる源郷は現在2説あげられている 。​
​トルコの アナトリア説 ・・8000~9500年前のアナトリアを発祥とする説。​
南ロシアの クルガン文化説 ・・5000~6000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)に存在したクルガンを発祥とする説。​​

上の説については、それを導く学説があると思われますが、 私はその源郷説以前があったのではないか? と考えたのです。 そこが発祥ではなく、そこにたどりつく以前の場所と言う意味です。​
あくまで個人の仮説であり、何の根拠もない突拍子もない仮説ですが・・。

アナトリア半島からカスピ海あたり?  の ​経​度はともかく、緯度はもう少し南だったのではないか?​​
※ 先の2説はいずれも緯度が高いので寒いと思われる。
なぜなら、環境の思わしくない土地での人口増加は考えられないからだ。暖かい方が断然良い。
※ スカンディナビア半島に居たゲルマン人が他に移動したのは食糧の問題だったし・・。

星もしかしたら最初のスタートはメソポタミア( Mesopotamia )あたりだったのではないか? 
​​ 温暖で肥沃なティグリス川とユーフラテス川周辺なら人口増加は可能。
※ そこにはナツメヤシがたわわに生(な)っていたと思われる。
※ BC8000年には文明の片鱗が見えている ​。そこは世界最古の文明が存在した場所とされている。​
​​​また、​そこはまさに アダムとエヴァ (Adam and Eve) が住んでいたエデンの園があったとされる場所でもある のだ。
旧約聖書は案外史実を語っているのかもしれない。ぽっ

エデンの園の場所、考えてみましたスマイル
メソポタミア周辺の地図

ティグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)中流域?  私の予想位置がピンクの円あたり。
ティグリスの源流あたりのアルメニア説もありますが、緯度が高く寒い。
実際イラクとパキスタンの国境には巨大なザグロス山脈が走っている事もあり、アルメニア説は厳しいかと思う。ノアの箱船はそのあたりらしいが・・。

クウェートより下の説もあるが・・。民族の発祥地としてはなさそうなので消去。
裸で暮らしていた事は無いだろうが、 気候を考慮すると.北緯35度以下の方が温暖で良さそうだ・・と言う理想論も入っています スマイル
※ 中東は、今は砂漠化していますが、数千年前は森林もありもっと緑が豊だったようです。
※ メソポタミアの中流域にしたのは水害を考慮したからです。

星初期の移動はザグロス山脈があったから、北上(黒海の向こう)するか西方(アナトリア半島)に活路を見いだすしかなかった?  と、考えてみた。

絵画によるエデンの園​​
ウイーン造形美術アカデミー、ヒエロニムス・ボスによる三連の祭壇画の一部、楽園から。


ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)作
※ 三連の祭壇画は、左翼に楽園(エデンの園)、中央に最後の審判、右翼に地獄が描かれている。

図は、楽園(paradise)と称されるエデンの園(Garden of Eden)であるが、エデンを描く時のお決まりだろうか? 誰もがこれを描く時にストーリー仕立てに描いている。
イヴを創生するキリストから始まり、ヘビにそそのかされて約束を破り木の実を食べる二人。そして原罪を背負って楽園を追放される二人。
ボスの場合、さらに上に天の天使と堕天使サタンとの戦いも描かれている。

以前「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」で紹介しています。

クラナッハ(Lucas Cranach)の「アダムとエヴァ(Adam and Eve)」、「エデンの園」、「楽園」はクラナッハ(Cranach)特集で紹介しています。


初期の民族移動
源郷地を出てから、彼らは一端北上して東へ、西へと進路を分かち入植地を求めた。
アナトリア半島から欧州に入植した者、あるいは黒海北部にいったん定住してから再度移動を始めさらに北へ、西へ。
北ルートはスカンディナビア半島まで到達。西はバルカン半島から欧州へ、あるいはアナトリア半島から欧州へと考えられる。

下の図はオリジナルですが、史実と混ぜて仮説を足したものです。

私の案(欧州側のみ)では全て南から北へ移動。スカンディナビアからは後にリターンして来たのでは? と考えている。
※ リターンしてくる時にはゲルマン語派(Germanic languages) になっているが・・。

星​​​ 古代ギリシャの文明を開いたギリシャ人も、古代ローマの文明を開いたローマ人も彼らの子孫達である。彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族」のメンバー なのだ。
※ ギリシヤ文化を造ったギリシャ人はヘレニック語派(Hellenic languages)の祖。
※ ローマ帝国をつく造ったローマ人はイタリック語派(italic languages)の祖。

そして、後に入植地を求めて ローマ帝国を脅かした蛮族(ばんぞく)は後発の入植者であり、彼らもまた出自は「インド・ヨーロッパ語族」だった のである。​​​
​​​​​​※ ヨーロッパ中北部に広まり、そこを原郷地としたゲルマン人のゲルマン語派はドイツ語、英語、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、アイスランド語などの祖語となるのだ。

彼らはある程度の集団で移動し、入植地を見つけるが為に欧州各地に散った。
時にその地の者を滅ぼし、時に融合してローマ帝国とも戦う事になった。

​やはりインド・ヨーロッパ語族の系統図「family tree」が欲しいぽっ

左側が欧州系です。また、今回の所 「北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語」 をピンクで囲ませていただきました。

英語史に関する話題を提供する堀田隆一氏による「History of the English Language Blog」で公開されていた「インドヨーロッパ語族の系統図(日本語版)」から出典させていただきました。​
印欧語系統図として最も解り易い図かと思います。


ローマ帝国内の異民族の協力者
ローマ帝国の力に陰りが出始める4世紀以降。
進軍での戦いなら得る物もあるが、防衛での国境線での戦いは無益(むえき)でしかない。
ローマ皇帝は時に彼らと和議を結んだ。ローマ帝国内の居住を許す代わりに彼らにはローマの兵隊として戦ってもらうと言う条件で・・。
それがローマ帝国内にできた直轄領以外の異民族の協力者による属州である。
※ もちろんキリスト教が導入されてからは、キリスト教に改宗する事も条件である。
しかし、 ローマ帝国に力が無くなると、彼らの態度は一変した

「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の時に590年のイタリア半島地図を紹介したが、半島では、すでに移民の彼らロンゴバルド人(Longobardi)に浸食されつつあった。
西ローマ帝国が消滅してからローマ帝国との契約は反故(ほご)?   ​​​
彼らは568年頃イタリア半島内にロンゴバルド王国を建国して一時勢力を拡大しローマ教皇を悩ませた。だが、ローマ教皇の依頼を受けたカール大帝により彼らは駆逐される。774年には首都パヴィア陥落。
​​​
因みに、ロンゴバルド(Longobardi)とは長い顎鬚(あごひげ)を意味。
​顎鬚を蓄える事が彼ら民族の特有の掟だったらしい。(民族の特性が呼び名に)
そして 彼らも、彼らを滅亡させたカール大帝率いる フランク王国(Frank kingdom)の フランク人 (Franks) もまたインド・ヨーロッパ語族のメンバーである 。​
※ ロンゴバルド(Longobardi)人はゲルマン語派。
​​
下の図はオリジナルですが、史実です。

カール大帝率いるフランク王国人の祖がどこからの分派か不明
ただ、 フランク王国(Frank kingdom)の祖は俗ラテン語を起源とするロマンス諸語の中の西ラテン諸語であり、フランス語はそこから成立している。
因みに
イタリア語は東ラテン諸語です。

4世紀以降に起きた? 東のアジア系遊牧民フン族(Hun)の西進によってゲルマン系諸民族は大移動をしたと言われているが、スカンディナビアに関してはそれが理由とは思えない。
※ ゴート族についてはまだこれからです。

スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)
ところで、今回は「モン・サン・ミッシェル 3」です。このノルマンディーに住み着いた民族のルーツから入ります。彼らはどこから来たのか?

ノルマンディー地域 (Région Normandie) 首府ルーアン(Rouen)
「モンサンミッシェル」のあるノルマンディー地方(Normandie)はインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話すノルマン人の土地 です。

以前、「 ヴァイキング(Viking)」 を特集した事がありますが、 彼らもまたインド・ヨーロッパ語族であり、古代にスカンディナビア半島や北海沿岸に定住したゲルマン語派北ゲルマン語群に属し古ノルド語を話す人々 だったのです。
星つまり、地域により呼び方は違うが、 スカンディナビア半島や北海沿岸に居た彼ら北方系ゲルマン人(主にノルウェー)がいわゆるヴァイキング(Viking)と呼称された人々 なのである。​​​
​​​​​​
北方系ゲルマン人が移住したスカンディナビア半島は環境が厳しい。農業や漁業はあったにせよ、農地は少なく、冬の日照も極めて少ない。
生産すると言うよりは海賊行為による略奪を生業(なりわい)?
船の操作は長けていたので商人色の強い一派もいたが、イスラムのように、 彼らもまた奴隷交易をしていた事がわかっている
最も 彼らのメインの交易品は皮革製品。主に毛皮?
実際の所、略奪で得た物よりもむしろ交易で得た富の方がはるに大きかったと言う。

しかし、彼らは絶えず良い土地への移住を求めていたようだ。だからアイスランドやグリーンランドにまで到達するのである。(行ってから失敗と気付いている。)


ヴァイキング(Viking)の源郷
ヴァイキングと言う呼称は古ノルド語で「湾」、「入り江」、「フィヨルド」の意らしい。
実際彼らはそうしたスカンディナビア半島のフィヨルドの入江を源郷にしていた。

陸地の殆どはスカンディナヴィア山脈で平地はほとんど無いノルウェー(Norway)は北緯57度以上という高緯度だが暖流の関係で冬でも不凍港 らしい。​
​海岸には巨大な 氷河が削れてできたフィヨルドが発達 。​
それは数万年掛けて積もって固まった雪が氷河を形成。それが氷河時代の終わりごろに融解して海水域が変わり土地の隆起と沈降が始まり削られた谷に海水が進入してできたものだ。
BC6000年頃には現在の地形になったらしい。

ソグネ フィヨルド(Sogne fjord)  ノルウェー最大のフィヨルド。写真はおそらくフロム近く?

上下の2枚は2006年5月。 北欧の観光時期は限られている。 5月ではまだ早い感じ ベストは7月から8月
メキシコ湾から北上してきた暖流は欧州西部で東グリーンランド海流とノルウェー海流に分岐する。
その暖流の影響で。 高緯度にもかかわらずノルウェーの海は凍らない(冬でも不凍港)。
しかし、外は寒い。だからクルーズは冬でもあるらしいが、寒くて冬は船外に出られない。

最深部の深さで1308m、平均幅5km。世界で最も長く、深いフィヨルド

下の写真3枚は2004年8月。

これが夏のピーク



北欧の名物と言えばエビやカニがある。冬でも捕れるのだろうが、やはりエビのシーズンは初夏 ?
ヴァイキング(Viking)らも食べ物には困った事だろう。冬は野菜不足からヴィタミン不足だったかも。
なんでこんな寒さの中に暮らしていたのか?
暖かい土地があるなんてきっと知らなかったのだろう。グリーンランドに移民した人々はだまされて渡っているし・・。​​​
​​​​​​​​​
​​ヴァイキング(Viking)の移動​
その彼らは 8世紀から11世紀あたりに人口増加?   新たな入植地を求め幾度めかの民族移動を始めた。
北フランスの ノルマンディーに侵略して入植した人々がノルマン人と呼ばれる人々だ。
また、船を操る彼ら一部はアイスランド、グリーンランド、アメリカ大陸にまで到達するのである。
※ 北極圏を中心に地図を見るとアイスランドもグリーンランドもノルウェーからは割りと近い。

ノルウェー、オスロ(Oslo)のヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)から
ヴァイキング(Viking)の大型船

800年代後半に使用されていたとされるオーセバルク船(Oseberg)
※ 1904年に発掘
特徴は船首と船尾をつなぐ竜骨が大きい。その構造により喫水線を浅くする事ができ安定性が高い。

フォルムは非常に美しいです。
独特な装飾も彫刻されている。

ヴァイキング(Viking)の小型ボート


写真の入れ替えの必要もあるのですが、2010年2月、ヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)書いています。
リンク ​ ヴァイキング 3 (竜頭柱とヴァルハラ宮殿)
リンク ​ ヴァイキング 4 (副葬品)


ノルマン人 (Normands) とノルマン ディー 公国 (Duché de Normandie)
8世紀末、フランク王国の販図がまさに北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた頃。
毎年春になると北フランスはヴァイキング(Viking)に襲撃されるようになっていた。

春先は海が穏やかになったかららしいが、 彼らは街や修道院を襲って金品や食糧を奪い、ついでに女子供をさらって行く。 さらわれた者は奴隷として使役されたり売られて行く。
また 身分のある者を捉えた場合には身代金と引き換えにした と言うので、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」で紹介した地中海でのサラセンの海賊と同じような状況が、同時期に北海側でも起きていたという事になる。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊

ところで、 フランク王国の人々は、彼らの事を ヴァイキングではなく、 「北国の人」の意で、ノルマン人(Normands)と呼んで恐れていた。

​身代金効果は大きく、より人さらいは過激に増したらしい。もちろん東フランクの男たちは武器を手に取り戦い撃退していたらしいが、西フランクは騎士が戦い、一般人は逃げるしかすべがなかったので悲惨だった。​
だからなのか・・。なぜ北欧に近い場所でなく、少し遠いノルマンディーだったのか? の疑問の理由が分かった気がする。

フィヨルドを出て北フランス(西側)に略奪をしに来ていた一派は、地元民を追い出し帰国せず砦を築いて越冬し、徐々に「居座り」定住を始める。
​​​​
そして、885年、 ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接バリに多勢で侵略に向かった
この時は ​​ 3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来 大事件である。 ​​
しかし、この時はロベール家のウード(Eudes)(852年以降~898年)により撃退されている。
※ ​ロベール家は後のフランク王国カペー家の開祖

​​そして、 911年、西フランク国王シャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)はその脅威? いや、王として国民を守る決断?  により、彼らと契約を交わす

​ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立​
​​​​蛮族であったノ ルマン人の侵略者の長ロロ(Rollo)(846年頃~933年)は北フランス(ノルマンディー)への正式な定住を許される。 最もそこはすでにロロが陣取りしていた場所。

​族長ロロ、以下皆キリスト教に改宗。フランク王国の貴族となりロベール1世(Robert I) (在位: 911年~933年)と改名して即位。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)を開いた​ のである。
※ 妻にシャルル3世の娘をもらう。

契約では、 これから北フランスに到来するノルマンの侵略者はノルマンディー公国が撃退すると言うもの。つまり​​これでフランク王国は自ら防衛をせずにロロに丸投げ した事になる。
まさに 「夷(い)を以て夷(い)を制す」を実現 させた内容であるが、西側諸侯からのシャルル3世の評価は低い。
​​
創始者ロロの銅像 

ウィキメディアからですが、下をカットしました。
ノルマン公国時代の首都があったのがファレーズ(Falaise)。ロロこと、ロベール1世はヴァイキングの親分だっわけです。
​​しかし、ノルマン人は封じたとは言え元ヴァイキング。じっとして敵が来るのを待っているだけの人々ではなかった。

下の図はオリジナルですが、史実です。

スカンディナビィアにいたインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話す一派は北フランスを侵略してフランク王国内にノルマン公国を得る。
→ ノルマンディー公国(Duché de Normandie)
さらに彼ら(ノルマン公国)はイングランド攻め異教者を駆逐。ノルマン・コククエストを果たしイングランドを得る。
→ イングランド王国(Kingdom of England )ノルマン王朝(Norman dynasty ) ​の開始。​

星ロロ(Rollo)から7代目の子孫ギヨーム2世(Guillaume II)(1027年~1087年)はノルマン・コンクエストによりイングランドを征服しイングランド王に即位 してしまう。​​​
​※ ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)として即位。
つまり 一介の海賊にすぎなかったノルマンの征服者は最終的にイングランドまでも手中にした のである。​

さらに少数ではあるが、 イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している
ゲルマン人の根性恐るべし・・である。ぽっ
​​​
総じて、 古来文明のあったギリシャやローマ帝国と戦ってきた、いわゆる蛮族と呼ばれる彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」を源流とした同族の民族であったと言う事 である。


「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?
ところで新たな疑問が・・。
では「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系はあるのか? と言うと、ある程度の地域での語族研究はあるものの、 ​「インド・ヨーロッパ語族」ほどに広域に及んだ研究はされていないようなのだ。​

例えば台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族のオーストロネシア語族(Austronesian languages)。
南北アメリカ大陸の先住民の言語体系であるアメリカ先住民諸語(Native American languages)。
​など、あるにはあるが他を含めて 地域が分散しすぎている のだ。​
もしかしてこれらの幾つかはどこかで祖がつながっているかもしれない? と考えが及ぶ。
実際、つながりそうな地域はある。​

新たな仮説として、アジア・ヨーロッパ・北方アフリカの全言語と、アメリカ先住民諸語は同祖ではないか? とする少し拡大したボレア大語族(Borean languages)説も出ている。
また、もっと広範囲に実はユーラシア一帯? あるいは北半球? が実は同祖? ではないかと言うような仮説もある。
※ ユーラシア大語族(Eurasiatic)
※ ノストラティック大語族(Nostratic languages)

多分個別に学者が研究していて相互間が無いからなのかもしれない。もし、各所で研究している全てをコンピューターに入れ込んで解析したら? 面白い結果が出るだろうなと思う。
ただ、言語族は必ずしも民族を示していない。DNAとは結果が違うのだろうなぽっ


さて、タイトルはモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でした。

本土側からの モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)

​過去ログです 。​ ​​​
​リンク ​ モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞
リンク ​ モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル

モン・サン・ミッシェルはノルマンディー公国でもブルターニュとの境界に近い西の端にある
難攻不落の城塞型の修道院になるのは966年の事。でもその話は次回です。
なるべく早めになんとかします。 m(_ _)m
今回は参道などちょっとだけ紹介。


いざ、モンサンミッシェル内部へスマイル

跳ね橋式の王の門が見える。 王の衛兵が派遣されていたのでそう呼ばれる。

王の門の手前に3ッ星のホテル・レストラン ラ・メール・プーラール(La Mere Poulard)がある。
ホテルの創業は1888年。
アネット・プラール(Annette Poulard)とヴィクター・プーラール(Victor Poulard)夫妻のホテルでは併設しているレストランのオムレツが有名。
プーラールおばさんのオムレツと店の名前にもなっているが、アネットが考案したもの。

卵を泡立てたスフレのようなオムレツに塩をふりかけただけのシンプルなもの。
焼け具合により中程は、ほぼエスプーマ(Espuma)料理の状態。
※ エスプーマ(Espuma)は食品を泡々にするエルブジ発祥のマシンです。
リンク ​ エルブジ・ホテル アシエンダ・ベナスサ 4 (料理後編)

当時は栄養価の高い卵は贅沢品であり旅の巡礼者にはもってこいのご馳走であったと思われるが・・。
世界展開の中で? 有楽町にも店舗がありましたが今年2021年2月14日に閉店したようです。
旅の土産話しに食すのは良いが、オムレツ自体はわざわざ東京で食べに行くほどの物ではなかったのは確か・・。

味より、その歴史に価値があるのでしょうね。

下は王の門の上から撮影。右がホテル・レストラン ラ・メール・プーラール


下は王の門の内側
​​​​​​​​​


メイン参道であるが、回りは店舗が所狭しと並ぶ。

グーグルで確認したら現在はテイクアウトの店が増えているようです。
そして下は早朝かも。店舗が開いていない時の静かな参道。


次回はモンサンミッシェルの内部を載せて完結予定です。
なる早で頑張ります。載せるだけなので次は楽かと・・。
そしてその次に「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12」の予定です。
そこはちょっとお待たせするかも・・。

​back number
リンク ​ モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞
リンク ​ モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル
    モンサンミッシェル 3 
リンク ​ モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユ
リンク ​ モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部





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Last updated  2022年12月29日 19時42分13秒
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