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TBS、学校会見でマスコミへの注文時に音声絞る 児童ら殺傷事件報道めぐり批判- 記事詳細|Infoseekニュース神奈川県川崎市の登戸駅近くで、子どもらが刃物で男に刺され、小学生の女児と男性が死亡した事件で、亡くなった女児が通う私立カリタス小学校側が2019年5月28日、記者会見を開いた。テレビ各局が会見の模様を夕方の番組で生中継する中、TBS系の番組Nスタでは、校長がマスコミに子どもたちへの取材自粛を呼び掛け…【全文を読む】ほんとうにひどい事件、繰り返し繰り返し起こる、マスコミは何度も何度も朝から晩まで、「興味本位」で取材をする。新潟の地震のとき、マスコミが同級生が亡くなった女の子たちを見つけ、マイクとカメラを向けた。そのときは、彼女たちは、笑っていた。でも、そのアナウンサーは、番組として、地震の犠牲者の同級生が泣いて悲しんでいるという映像がほしいがために、無理矢理、女子たちに、「同級生が亡くなって悲しくはないのか?」と、インタビューした。女の子たちは見る見る間に、表情が曇り、泣き出した。酷かった。今回も子供らにインタビューするな、という学校の希望を絞った。「そんなものどうでもいい」と、言うように、それが彼らの心の底にある得体の知れない正義感だろう。今回の犠牲もひどいものだ。反社会的人格症の連中は、すべての自らの不幸は、世の中のせいであると思っている。この男の頭の中には、人の幸せ が呪うべき対象なのであろう。そういう予備軍がまだおそらく日本国中にいる。次から次へと陰惨な事故が起き「またか、可哀想に」と、思い、次のニュースが出るともう人々は忘れてしまう。しかしだ。人が死んだり、殺されたりしても、被害者や遺族の気持ちがわからないのがいる、人の感情を持たない、共感できない冷えたココロをもつやつだ。こういうやつは社会性も協調性も無いので、家でテレビを見ている、何度も何でも流れるその事件を見て、加害者への憧憬をもち、ひとの不幸をあざ笑うのである。そういう側面がワイドショーにはあるのだ。
2019.05.29
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1979年はオフコースにとっては大きな変化をもたらした年、まず、「愛を止めないで」のヒット。メンバーが正式に5人になったという年。1979年はぼくは高校3年だった。嫌で嫌で仕方ない高校をやっと、3年になり、卒業できる希望をもてた年だった。
2019.05.28
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学生の頃、外国語学部だったので、できもしない、憶えもできない、スペイン語の勉強を下宿でやっていた。三畳一間の狭い部屋で、京都壱安かったかもしれない6000円の部屋。隣はマーじゃーん、逆の部屋はギターで唄を歌ってる、ぼくは、集中できないので、ヘッドホーンでラジカセから音楽を聴く。もちろん、オフコースの唄だった。オフコースの人気がでるまえから好きだった。応援していた。アリスや、チューリップの唄が流行っていた。ABCヤングリクエストでも、「サボテンの花」は一位だった。でも、ぼくは決して彼らのレコードを買うつもりはなかった。オフコースが次にでるレコードを買うために、当時はレコードは子供には高い買い物だった。レンタルレコードはまだ無かった。あんなもの、あとで思うとない方が良かったんだと思う。オフコースが売れたのが高校3年の冬の「さよなら」どこからともなく、街を歩いていても聞こえてくるほど人気が出た。大学に入り、オフコースのLPも買い続けた。それらをテープに落として、なんども聴いていた。よく、飽きもせず、先輩が、「また、オフコース聴いてるのか?」友人が思い出したように「オフコースのどこかいいんだ?」初恋の美由紀ちゃんにも「オフコースよりも井上陽水がいいな・・」姉も「オフコースより、ユーミン、タツローだな」ヘッドホーンで聴いた音。楽譜は読めないけど、一昨年、メンバーの松尾さんのライブにいった。「さよなら」のなかの、ハーモニカを吹かれていた。まったく、あの頃の音であった。ハーモニカはひとの息。ブレースである。ひとの呼吸。ああ、あのとき聴いていた音程だ、そう思うと、あの部屋や勉強してたことをさっと、数秒であるが「飛んだ」あの時間に、つまらないことに悩み。些細なことに躓き。あの頃のいろんなことがそこに封印されている。僕のなかの思いでは、そこにあるのだろう、
2019.05.27
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この唄は後にリバイバルされなじみが深いのだ宇徳敬子&近藤房之助のシングル。でヒット。作詞は庄野真代。
2019.05.26
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森田童子さんは、もうこの世のかなにいない。でも、歌はのこり、いつでも聞ける。生きているように、でも、実際、生きてる、僕のなかでは
2019.05.25
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2019.05.25
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りりィ(Lily、1952年2月17日 - 2016年11月11日)は、日本のシンガーソングライター・ 女優。本名、鎌田 小恵子(かまた さえこ)。福岡県出身。
2019.05.25
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日暮し(ひぐらし)1970年代に活動していたフォークグループ。1972年、RCサクセションの前身バンド、The Remainders of The Cloverのメンバーだった武田を中心に結成。1973年4月、 日本コロムビアのBLOW UPレーベルからデビュー。シングル4枚、アルバム3枚を発表後、1977年にビクターが新設したレーベル「インビテーション」に移籍。同年12月に発売した「い・に・し・え」が翌1978年に掛けてロングヒット、当グループの代表曲となった。1979年に解散。
2019.05.25
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先日また、近隣で中学生の男の子が飛び降り自殺した。その記事を見て、みんなどう思うか、「あ、またか・・」「いじめられたのか・・」ほんと、みんな、僕を含めて他人事のように思うんだろう・・。自殺したひとを責めたくはないが、そのマイナスの影響は計り知れない。生きることへの絶望と、その選択することを誰かが共感してしまうのだ。その少年の最後の風景はどんなものだったのかその訳はなんだったのか、この世を恨んで去って行くのか・・。生まれて来なければよかった、なんて、思うんだろう。人生とはいったいなんだ。哲学の延々のテーマである。寅さんが、映画で言っていた。「なにか、こう、良かったことがあるじゃあないかああ、良かったと、そう思えるときが、何度かある、そのために生きてるんじゃあないか」僕らが、少年のころ、「二十歳の原点」という、日記風の本があり、19歳から20歳になるとき、みんな読んだものだ。あの当時を、みんなを振り返って、吉田拓郎は「みんな、老感していた・・」要するにみんな生きることやいろんなココロの感覚は今よりずっと、深くて、大人であった。今は、みんな子供に見える、精神性が低い。理不尽なことが多かった。差別、男尊女卑。暴力。どんなことも許される時代でもあった、理不尽なことに怒り、自分の無力さを感じ、いろんなことを思ったものだ。暗いとか、女々しいとか、言われても、あの時代を思うに、哀愁の時代なのだ、みんな、悩んでいたのだ、崖っぷちのみちをでも、そっと、誰かが手を差し伸べてくれたり支えたり。そうして、生きてきたんだと思う。拓郎の唄に私は今日まで 生きてみました時には誰かの 力を借りて時には誰かに しがみついて その唄の良さは、生きてきました。でなく生きてみました。なのだ。みんな、手探りで生きてきた。あの少年の選択肢にない、とても、悲しくて残念と思う。
2019.05.24
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ブログももうやらなくなった。みんな、Facebookに移行したようだ。ぼくもそうだ・・。もうそれもだいぶになります、ブログブームが起きて、みんなブログやって若い人はあんまりしないらしい・・。平成が終わり、令和となったいま、あまり実感がない。ぴんとこないというか、ずっと、あとになって、平成は終わったんだ、そして時代の総括みたいなものがあって、ああそうだったなと、思うのだろう。僕が子供の頃は明治のひともたくさん居たがもはや、明治世代はほとんど亡くなられた。昭和一桁世代がいまは介護対しよう・・。昭和はどんどん遠ざかり、やがて昭和世代も居なくなる。この先、また、戦争は起きるのだろう。日本はこの先どうなるのか、
2019.05.22
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この歌も懐かしい・・。
2019.05.21
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この歌を聴くと、あのころの喫茶店の風景を思い浮かべることができる。相曽さんの伸びやかな声、しっかりとしたかわいい声・・。あの頃は、喫茶店でいろんな話をしたね。相曽晴日 / トワイライトの風(Blu-specCD2) [CD]
2019.05.21
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1981年開催の第21回ヤマハポピュラーソングコンテストに「摩天楼」で初出場。翌1982年開催の第23回同コンテストに「花ぬすびと」(作詞:すずきゆみ子)で再出場し、優秀曲賞を受賞した。同年の第13回世界歌謡祭ではグランプリに輝きプロデビューを果たす。デビュー曲となった「花ぬすびと」は30万枚のヒットを記録した。1986年名古屋音楽大学器楽学科ピアノ専攻を卒業。ポプコンの全盛期のころは、質の高い歌が多かった。この歌もよくできた歌。明日香さんは結婚し、その後札幌へ2013年の秋に亡くなられた・・。
2019.05.21
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