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はい、こんばんわ、みなさん、二月です、震災15年もあたらなるふみだしです、朝青問題、これまたひどい話、早くモンゴルに帰ってもらいましょう、誰が呼んだのか、」今日もラジオのニュースは 「永縄君」でありました、いい声をしています、抑揚も助詞もきちんと発音し、えらいものです、ラジオといえば、昔はAM電波が主流で、FMは郵政局から免許がなかなかおりず大都市でしか放送局はなかった、東京名古屋大阪福岡だけだったとおもう、全国にいろいろなFMの免許がおりて、各局は地元の放送をネットせずに独自でやっていたが、ここ数年、採算があわないのか、広告がとれないのかJFNのネットを流すようになった、関西では802というFMができて、独自的な画期的な音楽をメインとした放送局となった。ラジオショッピングが唯一ないという放送局、で、この802の源流はOBCのスタッフであった、栗花落さんが中心となって作られた、要するに、AMがFMを生んだのです。テレビを見なくなったぼく、そして若者もテレビ離れがすすんでいることだろう。ましてや、ラジオである、ラジオ聞きながら勉強はできても、テレビみながらはできない。ラジオさえ聞かない若者は、ネットと携帯中毒になり、学ぶことが少なくなったとおもう。ラジオのFMのアナウンサーやフリーの穴などは、すんごい給与が安いらしいましてや、半年できられることがおおく、不安定でしかも低収入。これではラジオの人材がいなくなるのはあたりまえ、基本、ラジオの番組は制作費はすごくおさえ、聴取率週間のときだけプレゼントをするというパターン。それで数字を出して、広告費の目安とするのだろうけど、あまりのざっくり名構造にあきれます、つるべやタモリ、さんま、所ジョージ、たけしもそうだ、ほとんどが、深夜ラジオでまず活躍していた、そこからテレビに流れたのですが、さんまのトークは、ラジオが基本であった。なかなか、自分思うことは話せる機会がない、そこで腕を磨くのだがやはり、MBSの大なべさんという偉大なひとがいてこそのものであった。FMにしていれば、天気予報とニュースと道路情報があり合間に音楽を流していれば、成立する放送。ほとんどが車の中で聞くわけである、往々にして思うことは、聞く人を意識し、話しかけて呼びかけていないし自分の考えを述べていない、流されているようなかんじのものがおおい、独自性型破りなものがない、どれもこれも似たり寄ったり、聞いていてもつまらないものがおおい、これでは広告は取れにくいとおもう。
2010.01.31
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スジナシ 其ノ四 / 笑福亭鶴瓶 こんばんわ、みなさん、背景はMBSの千里スタジオでいる、若いつるべ。おそらく26歳くらいだとおもいます、ぼくが16歳だった、いろいろとブレークしているつるべですが、やはり、つるべの原点は「深夜ラジオ」であるのです。映画の主演があいついでいますが、彼の演技というか存在感というものはなかなか他の役者でできないものです。つるべが名古屋のCBCの「スジナシ」という番組を何年もして、このスタッフがもともとラジオのミッドナイト東海のひとで、ラジオの人々が彼を演技の仕事へと招いたものです。つるべの話は股明日。今日はここまで、おやすみ笑福亭鶴瓶が生まれた理由(わけ)“もうひとつの、ディア・ドクター" 【ポイント10倍】クレカで全国送料無料!!ディア・ドクター笑福亭鶴瓶余貴美子さん絶賛!NHK「鶴瓶の家族に乾杯」で紹介されました![新潟県/大洋酒造] 大洋盛 芳醇セット(吟醸720ml×2本 純米吟醸720ml×1本 計3本)
2010.01.30
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こんばんわ、みなさん。 1月ものこすとこあとわずか、景気はぜんぜんよくならず。売り上げも芳しくない、政治も停滞感とあきらめのような空気。個人の店舗で、酒屋さんというのがどんどん閉店していっている、安泰であった、米屋がつぶれ、酒屋もあぶない。それにもまして、一昨年では年間に360件の歯医者が閉鎖になったという。どこがはやっているのだろうか、これも時代の流れだから致し方ないのだが、この先に待ちかまえるものは、大資本の大手のお店しか存在しなくなり、彼らのやりたい放題になるのです。これはかなり危険なことです、自由資本主義である日本は、戦前の財閥のような独占資本主義になる可能性もあるとおもうのです。それに大資本の会社は地元には納税せず、本社で行い、いろいろな地元への経済還流は行われるはずもない、これは個人の人々の経済活動が、実貨幣で行われてこその経済であり、実態のない高揚感のなかった好景気は、まったく庶民には異議のないものであった。資本家と株主のみが恩恵を受けるといういびつな経済である。 神戸では震災まえには市場商店街などが保護され、大手スーパーなどの規制が強かった、震災後も共存共栄していたが、あの規制緩和で出店が可能になり、車で行けるような大規模の店がどんどんたちはじめた、それにあわせで、文化やアパートなどがなくなり、復興住宅などに移住する人が増加し、震災でそういうコミニュティのようなものがなくなった、そこにあわせて、デフレである、価格のみ重視されている世の中で、大手に勝てるわけがない、しかしながら、生き残るべくしてのこるものもある、電気屋さんである、これはやはり、彼らの仕事ぶりと営業があり、車で電気製品を買いに行けない高齢宅などの需要があるからです。たとえば、すこしの電球切れでも駆けつけてくる、儲け度外視である。「あの人だから買おう」というようなことを死んだ母はいっていた、最近担って思い出す、それを聞いていたころは、価格こそが命で、そういうのは理解できなかった。「長七さんだからたのもう、買おう」という信頼はなかなか得るものではない。儲けようとしても儲からない、しかし、日々の積み重ねで信頼を得るものである。とりあえず、何とか生きて行ければいい、と思う、簡単に店をたたむ大手は利益ばかりを追求し、利便性などでご迷惑をかけることをどうでもいいとおもっている。客の顔を知らない、そういうことではやはり、一定の店数を超えると崩壊する理由がわかるのだ、
2010.01.29
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はい、こんばんわ、みなさん、京都の四条河原町といえば、阪急の前でまちあわせる、これが定番だったな、三条京阪も路面で大津行きがごとごとはしっていた、京都はいまおもえばちいさな徒歩で動ける町だった、テレビドラマの「不毛地帯」すこし、グタグタナ部分もあるが、おもしろいな、昭和という時代が本当に懐かしくすごい時代だと思います。なにしろ、エネルギッシュであった、人々が力を合わせていたのだ。住むとこもひどいとこがおおかった、お風呂があるアパートなどは格がたかいものであった。僕らの下宿はもちろん、風呂なんてもはない。銭湯と食堂があればいきてゆけるのだ、千成食堂というお店があり、毎日そこへいった、500円もだせばおなかがいっぱい、貧乏学生のために300円のランチもあった。おやじさんは競馬が好きで、競馬新聞を見て土曜日はラジオを聴きながらさけんでいた、決して前にはでてこず、奥さんがいつも配膳をしていた、息子は高校生で野球部、妹も中学生だったか、つつましい家であった、次から次へと学生が来て忙しい店だった。卒業のとき、挨拶に行けばよかったと悔やむ。後輩がおばさんに、「あのひと、卒業したの?」と聞いたらしい、息子さんが継いだのか、その後お店はやっていたようだがもうだいぶ前に店を閉めたらしい、学生もコンビニやファーストフードなどいろいろな店ができて、ゆかなくなったのか、本当に残念だ、あの店に行きたかった、もう一度食べたかった、その千成食堂の数軒東に、銭湯加茂湯があった、確か180円だったか、お金がないので毎日行けずまた、12時までなのでバイトや帰るのがおそいと風呂にゆけない。遅い時間なると電気を消される。下宿で飲み会をしてるとき、数日風呂にゆけなかったのであわててよったまま風呂にいった。案の定、風呂上りに気を失い倒れてしまった、気がつくときれい奥さんが「大丈夫ですか?そのまま寝ていてください」と、僕にタオルをかけてくれた、はずかしい限りであった。今のワンルームでは銭湯に行く必要もないのでそういう経験はないだろう、「ああ、きもちええー」と叫ぶ爺さんや歌を歌いだすおじさん、誰もいないときは中で泳いだり、楽しい銭湯であった。銭湯の思いではもうひとつ、前に書いたけど、四年の夏、やっことふたりで銭湯にいったのが、神田川みたいだね、こういうのが夢だったんだ、といっていたのを思い出す、風情というか情緒的というか、いい時代であったとおもいます、あの時代に感謝するわけです。
2010.01.28
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エイチ・ツー・オーリテイリング(H2O)は28日、傘下の阪急阪神百貨店の「四条河原町阪急」(京都市下京区)の営業を今秋に終了すると発表した。 同店は1976年に開店し、阪急電鉄・河原町駅のターミナルに立地。阪急百の京都での旗艦店だった。若者向けのファッション用品を中心にした品ぞろえが特徴。2009年3月期の売上高は56億1400万円だった。 ただ、景気低迷に加え、近隣の大型百貨店や専門店との競合も激化し、赤字に陥っていた。売り場面積が約8900平方メートルと、一般的な大手百貨店の半分以下と小さく、H2Oリテイリングでは「競争の厳しい都市中心部で事業を継続することは困難と判断した」と説明している。 H2Oは、高島屋と2011年までに経営統合することで合意している。同店が高島屋の京都店と隣接していることも影響したとみられる。 百貨店業界では、セブン&アイ・ホールディングスが27日に西武有楽町店(東京都千代田区)を今年末で閉店すると発表したばかり。百貨店の不況の深刻化で、店舗リストラの動きが一段と加速しそうだ。どんどんなくなるなあ。街の風景はかわります
2010.01.28
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こんばんわ、国会の中継、実にみっともない、あの会議はなんだ!といつもおもう、やじをとばすやつに、うるさい!というのもやじになるそうだ。あほなやつらにこの国を救えるのだろーか、寝ているのもいるし、地方議会ではメールしているのもいるそうだ。なさけないよな、当選したらあのざまだ。もっと、まじめにやれないのだろうか、本との会議は料亭かもなあんなんに、税金あげるのは、ああ、もったいない。情けないやつら一方、僕も情けないのかもしれないが、弁当を作り、配達し。ほそぼそとくらす。このブログでの下宿での思い出話をまとめてゆこうとしているうちに、あの下宿でであった人々を長七に集めることを思いついた、同窓会、「共時性における時間の変節」というミーテイングを行う。で、集めようと思いきや、30年ちかい放置していたひともいて探すのが大変、中国にいっているひとや、韓国や日本全国にちらばり、連絡はむずかしい。しかし、みんながんばっている、すさまじきものです。友人が死んだことで発奮しているのだろうか、共時性における、というのは、つるべのゆうこないだいった、シンクロニシティを必然に起こすということ無理やり集めると、何かが起きるのだろうか、ということ、偶然にあの場所でであった、あの下宿での偶然の出会いはその後の人生において、必然であったのだ、その後の時間の変節。というのは、自分の人生をそのときで意思により曲げるほどの力で今に至ったということであろうか、単に懐かしい、というのは同窓会、あれもいいけどあのときの時間にすぐに戻り、感覚がわかいときにもどりなぜか、力がわいてい来る不思議なものである。一期一会という言葉があり、ある人に出会い影響を受け、その後の道を行くようなそういう媒体というか、ジャンクションというかそれがあの下宿だった。もうすこし、記憶を掘り返して思い出をここで語りまとめてみよう、そして、その原稿を上げて彼らにプレゼントしようとおもう。
2010.01.27
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こんばんわ、みなさん、日本の再生がなかなか進まない今日この頃いかがお暮らしでしょうか?下宿の話ですが、昨日のかきこんでいただいたかたのとおり、ワンルームマンションがあかんのですね、あれはあかんのです、しかし、昨今のこの治安の悪さから防犯のきちんとされていないとこだと親御さんは余計に心配するし、しかし、融合するような付き合いは大事だと思うし、時代が豊かになっても精神的には豊かではないしこのものがあふれているのに不況な日本はデフレの恩恵と罰を両方与えてもらっている。物が安く、しかし、賃金がやすく、仕事もない物が高くあれば、それなりに努力目標もあるのだが若者には欲がない人が増えているという、いい暮らしがしたいという願望があったな、昔はスポーツカーがほしい、で、カーステもほしい。横にはかわいい彼女を乗せて、海へドライブ、ドライブだからもう、フォークなんてのは聞かない、海岸がどうのこうの、海がどうのこうのというサザンか、たつろう、門松、杏里、とか、そういう系統。文化住宅なんてのは絶対、住みたくない。ワンルームだ、しかもエアコンがついている。エアコンのない夏はたいへんだったろうという、過去形の記憶。しかし、もうスポーツカーなんてのは乗る気もしないしフォークはやはり心にしみるし、エアコンはつかれるし、自然がいいな、というかつてないおっさんになっているぼくです。ああ、これはもう寝るしかない!おやすみ
2010.01.26
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一昨日、送別会のぶんです。もうひとつ、中華もあったんですが写真とりそこね
2010.01.26
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こんばんわ、みなさん。お元気でしょうか?僕は歯肉炎と戦っています。ああ、いたいです、昨日、大学のときの友人がお店に尋ねてきました。会うのは15年ぶりぐらい不思議なことに15年の月日を感じさせない、不思議なものです、昨日話したようにかんじる、不思議なもので、電話も、もしもしで、ああ、あいつだとわかる、携帯電話の声はわからないが、固定電話の声はよくわかる。僕のあの鴨川のほとりの下宿の出てくるあいつです。まあ、あいつというのも一年先輩で浪人して留年したから後輩になったが、下宿の交通事故で死んだ友人の幼馴染で、足羽に実家があるやつ、幼稚園から高校、予備校までおなじで、下宿までおなじ、しかし、彼は、大家から出て行け!と追い出される、伝説のおとこ、剣道まだやってるの?やっと、こないだ五段とった、そうか、もうライフワークになっているのか、手の甲を僕が診せてくれとたのんだ、その言葉で彼は記憶している。、ああ、よく覚えておるなあ、と彼は言う、あの下宿で友人が交通事故で死んだよる、その幼馴染の彼は最後まで連絡がつかなかった。よる、遅くなり、彼は事故のことを知らずに下宿にきて、いつものように階段を駆け上る、ぼくは、あ、きたな!とおもい、すかさず、ふすまをあけ廊下で彼を捕まえた、どの部屋もかぎもないからみんな自由にではいりできる。ぼくは、どういうか考えていたのだが、そのまま顛末を廊下で伝えた。彼はへたり込んで、すわり、おもむろにたばこにひをつけおもいっきり、深く吸った、タバコの先の火は赤くもえて彼は右手の甲にそのタバコの火を押し付けた、ああ、なにするんや!ぼくは叫んだ、彼は、「夢みてるんか、とおもったんや」そういいながら、へたり込んだぼくは、彼のなまなましいやけどのあとをどうすることもなく見つめていた、そのシーンを30年近く忘れることなく、昨日15年ぶりにあったときに手を見せてくれ、とたのんだ、うっすらと、やけどのあとがのこり、よく覚えているな、と笑った。横にいた彼の奥さんは何のことかわからず、暗黙の会話がながれた、忘れるわけがない、そうぼくはつぶやいたとおもう、心の中で、どこかがいたいとか、そういう痛みは生きている証、月日がいくら流れても 忘れることができないこと、
2010.01.25
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こんばんわ、ツイーターがいまだによくわからないぼくです。さて、あのテレビの出てくる人々で気になるのが雄星くんと、子役の子供店長、名前失念。あれがきになります。まず、長々と述べますが、いつから、若者の眉毛は細くなったのだろうか、あの「麻呂」状態は公家のまゆなんだが、特に中学生のがきのがみにくい。眉が太いのが男性的でかっこいい、というのが定説。ぼくもまゆはそうあるものだといまだにおもう、女の人もそうだ、風俗か、安門のバーにいるような昭和40年代の女性はまゆはほそかった。なんで、いつから、変わったのだろうか、それにしても、不良らしきものがいなくなり、性の混乱があるのではないかとおもう、女性の男性化と、男性の女性化、たとえば、甘いものや、自分で弁当を作る男子や、くわえタバコのおんなや、焼肉大好きな女性や男だからこうだろう、女だからこうだろう、という概念、通説は崩壊しつつありやがて、ついているかいないか、しかなくなるのではないだろうか、これは男女平等の意識、教育の結果であろうか、もしくは、環境ホルモンなどの影響か、水道水の何らかの作用かいろいろ、考えてみるのだ、いつから起点になり、どう変貌したのか。おそらく、1995年あたりではないだろうか、そういうことで、甲子園の野球球児がまゆげがほそいことにかなりの違和感をもっていたのだがあの、雄星くんのまゆげは、立派で、かつ、田舎の顔で懐かしくとても、見ていて好感もてるのである。女の人でも、まゆげが立派に自然の人の若い人を見ると「きっと、自分というものをもつひとだ」と好感をもつ、りりしさを感じる。流行に過敏な若者の中で、自分はこうであると、時代を超越したやつはぜったいに、すごいとおもう。子供から大人になる上で、そういう人を見て過ごす時代はなるべく人と同じで異質でない自分を創ろうとする、そういう部分で以前から述べている、子供を働かせるなテレビよ、と思うのだ、あの子供店長が人気を得ていろんなとこにでてきている、これは人気が出ていることなのだが、これは彼の長い人生に悪影響を与える、ろくでもない大人になってしまうのである、子供のときに体験することや会得することができず、大人と混じり、仕事をすると、人格障害をおこしてしまう。たしか、フランスでは全面禁止である。労働時間、日の厳しい限定を行うことや、親がそれで仕事しなくなるパターンがおおく、家庭の人間関係もいびつになり、協調性もなくなるので給与もできるだけの小額であることが望ましい、今夜もまた、つまらないことを述べてしまった。本日も店でラジオを聞いていると、ナガナワのニュースが流れた、店でずいぶんまえから聞いていたのだ、きずかなかった、きずかないまま、若者は眉毛が細くなっていた、それにあわせて、ズボンの下にシャツを入れる文化はいつから、ズボンの上のだらりと、したものになったのであろうか昔は、なんでも、ベルトできちっと締めるものであった、「シャツはなかにいれなさい、だらしない」といわれたもの、眉毛がふとく、しゃつをなかにいれてしまうぼくは、異文化の中にいることにきずいて、Gパンの形もずいぶんへんぼうしているのもおどろく、Gパンのよさは、「けつ」である。ヒツプのラインである、しかし、いまのは判決である。いや、半ケツなのである。あれは、どういうことだろう、ずいぶんになるがあの形のGぱんは、せくしさーを見せるためにあるようだが本来のズボンのポケットのカーブがかっこよかったんだがなあ。本当にひどいのが、高校生のぶれざーのユニホーム、あれはだらしない、だらしないのがかっこいいのか、注意しないのか、あほまるだしにみえる。ズボンの位置が異常に下であり、歩く姿がふしぎ。ああ、つらつらとおもうぼくは、年をとったということか、ああいう、無秩序な制服なら、まったく、意味意義はないのだとおもうのだあれなら、私服で十分であると、思わないのか、本末転倒であるのだ。本来制服はきちんとする習慣を持つためあるのだ、まあ、僕らの時代にもパーマをあてたり、長い髪だったりした、武田鉄也は長い長い髪をのばしいわば、不良の大親分であった。見るからにヒッピーであった、ラジオでこんど、先生の役をすると、聞いたときはみんな仰天していた、不良が先生になるという、スタイルで知らずに差別していたのだ。それが、いつしか、先生の理想とかいいだして、ああ、それも変な話、たしかに、いいドラマだけど虚構の話なんですが、長い髪をするひとは、金もないことのわけもあったし、時代に反抗するというものもあった、まゆげをほそくするのが、時代に反抗するとは言いがたい、変な変な時代なのである、平成は変体の時代。
2010.01.23
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こんばんわ、みなさん、昨日は80年代半ば荒れた学校の話をしましたが、そのこととは対比して昨今のうつ病のおおさにはおどろきます、更年期うつのようなもののありますが、心因性のPTSDなどが引きがねになったり、この病が昔、今のように認知されていなかったという部分がありますが、あまりにもおおいのでどういうわけなんだろうと思います。女性に多く、年齢も多岐にわたりますが、なぜ、男性にはすくないのでしょうか、なぜ、最近にいたるまでに増加しているのでしょうか?この病は、診断も難しく、視認されるものでなく、本人の態度や言動からでてくるものですが、脳内の海馬の細胞レベルの損傷であるとされたり、遺伝的な要素であったり、いろんな説がでていて、決定的にこうだと言う学説はあるのだろうか、95年の阪神大震災や地下鉄サリン事件の被害者や遺族たちが、PTSDの症状が出てこのうつ病への関心が増えてきている。僕が不思議に思うのは、太平洋戦争での戦没者の妻や母たちはなぜにうつにいたらなかったのか、時代の急激な変化はいまにいたるものでなく、戦国時代や幕末などでも女たちの心は傷ついたであろう。昔になくて、今あるものといえば、化学物資や食品添加物やハウスシックのようなもの、こういうのもなんらかの悪因に入るのではないだろうか、加算的に要因があり、複合されたのちにダメージを受けて、おこるのではないだろうか、男が暴力的になるのは本能的に男性ホルモンの過剰な分泌が想定されるが、女性がネガテイブにうつなどの心象になるのは、やはり女性ホルモンのせいもあるのではないだろうか、昨今の添加物のほかにサプリメントやヤセ薬や危険なものも含まれており作用副作用の両面があり、解明はなされていない。
2010.01.22
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こんばんわ、みなさん、本日もおいでくださり、ありがとうございます、昨日の校内暴力の話ですが、あの時代には尾崎豊というヒーローがいまして、ある意味、不良というものが肯定された部分もあったし、テレビドラマでは、斉藤ゆきのハイスクールなんとかという工業高校の不良のドラマがあった、しかし、なぜにあれほど学校が荒れたのであろうか、「反抗心」というものの精神的な分析が必要かもしれない、人間が子供から大人になるときになんどか、反抗期というものがあるのをどっかで聞いたことがある。生まれて、家のなかで親の話す言葉を覚え、動作を覚え、親のいうことを信じて幼児は育ってゆく、その中で、自分というもの、自我というものの認識がはじまりいつまでも親のいうがままでいけない、本能のような自意識が、何事も反抗するということから始まるのではないかと思う。自分で考えて行動しないと、困るのは自分。そのための幼児、少年の二回ほど反抗するのだが、不良たちの反抗期はおそい。たいてい、学力が劣っていたり、家庭環境がわるかったり、いろんな要素のためもあるがたいてい、不良は知能指数が低いし、本能的である、反抗心とともに、攻撃的な部分、もしくは暴力的な部分、そういうものがあわさり校内暴力を引き起こす、この攻撃的かつ暴力的なものは、男性ホルモンのためではないだろうか、思春期にはホルモンのバランスが崩れやすく、性の特徴が顕著に現れる。男性の睾丸の発達とともに、男性ホルモンの分泌も盛んになる、より一層な男的意識は「強さ」をほこり、なおかつ、「縄張り」のような動物で的な本能であると思う。それから、たいてい、不良はふぁしょんなどに敏感。長い物はより長く、短い物はよい短い、特徴をより表現したがる、これは何らかのメッセージをもつ行動であると思う。それは自己存在意識であろうとおもう。家でも学校でも認められたいが認めたもらいたいが、誰もあいてにしようもない。あの時代に起きたことは、今の時代にも影響を受けている、不良がわかりにくくなったということ、より陰惨ないじめにシフトしていったこと、そのいじめには正義感や道徳心などがかけらもないこと、学校が荒れて、校則を緩め、自由を与えて、学校は変貌し、水面下にいじめという形でストレスのはけ口をもとめだした。コレラノパーフォーマンスの時代により変貌する姿は、価値観の推移もあるとおもう。その価値観とは、ださい、のイメージであるとおもう。というわけで、いろいろ股述べたいのですが、次回股。
2010.01.21
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はい、こんばんわ、みなさん。今夜もおいでいただきありがとうございます。学生のときに深夜ラジオがすきになり、いろんな放送を聴き、毎晩毎晩寝るのは三時四時が当たり前、高校の授業では、寝る授業があり、というもの先生が生徒をしからないので、崩壊しているものがあり、みんな私語をしまくる、不良番長はあるきまわり、先生の注意を受けると、先生の首を絞める始末。最悪の学校であった。ひたすらうっぷして寝る。か、違う勉強をする。不思議なやつだった。日本全国で学校が荒れ始め、いじめや暴行がひどくなり、暴走族やヤンキーの起こす事件が新聞を覆い、学校の先生は心を病み始めた。中学で学力により進路がある程度きまり、高校のランクがきまり偏差値というしろもので大学受験をきめた、中学から高校まで勉強をある程度していれば、その後の人生に優位に立てるかもしれないということだ、そういうことで、大学に合格すると、二流以下三流の大学生は大学でレジャーランドの如く、遊び狂う。しかし、遊ぶのは金がいる、金のない三流大学の僕はバイトに励むしかない。あの四年間ノモラトリアムタイムズは、なんだったんだろうと、おもう。二年のときの冬に、友人が交通事故で死んだときの人生観が変貌した、「イツ死ぬかわからないんだ」と思うもの、有意義に時間を消費すべきこと、しかし、何をすればいいのか、あいかわらず、大学での勉強は身が入らず頭に入らずであった。僕たちの学生時代には車を持っているやつは殆どいなくて、部屋にテレビもなかったし、エアコンなんてもなかった、ひたすら、電気ごたつのかめのようにどてらを羽織、タバコを吸う日々であった。、
2010.01.20
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シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitätという概念の英訳である。 何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。ユングは、全てではないにせよ、いくつかの「偶然の一致」(coincidences)は単なる文字通りの「偶然」ではなく、非因果的な複数の事象の「同時発生(co-inciding)」か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものであると信じたのである。これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは「個体化」と名付けた。集合的無意識(collective unconscious)による、個体化された人間の意識のコミュニケーションを通じて、現実の出来事が形成されるというのが、ユングの主張であった。ユングの説明によれば、シンクロニシティとは「非因果的連関の原理」、言い換えれば因果関係の外部、あるいは因果関係に付随して働く連絡の形式である。かなり難解な表現であるが、僕は少し違う意味合いでそれらの事象を考察する。因果という仏教の言葉があり、その語意は誤解されて使用されているのだが、因果、非因果という対象のなかで、脳というもの中にあるなんらかの伝播性のもの引き連れるもの、などが存在するのではないかとおもう、人々の行動パターンが、この強い意志や行動、もしくは理念などをもったひとに引き寄せられるというものがおこり、繰り返し起きたり、偶然にであったりする、僕が北海道で旅をしたとき、女の子の自転車の旅人がいて二人ずれ7回もあったのだ、道内で、これもお互いにびっくりした。
2010.01.19
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はい、こんばんわ、あの小林繁さんが急死されたとか、ご冥福をお祈りします。彼はあの江川トレード事件で阪神の来たんね、あのときの関西の人の反応はすさまじかった、みんな、江川が嫌いになった、ごねることを、江がわる、という言葉のもなり、江川の漫画まででたぐらい、思い出すのは小林が人気を高め、ミスターアンダースローという名前になり、売り出す前のさんまがそのものまねをし人気を得るきっかけになったのだ、あのときは、さんまはなかずとばずで桂三枝がひきあげなかったら、今の彼の地位はないだろう、何事もいろんなきっかけで「運」を開けるものと、そうでないものになるようだ。小林もその後、早くに引退し、事業の失敗で負債を抱え自己破産し、運命に波に翻弄されていたんだな、まあ、江川もそうだとおもうが、あのとき、なぜ、江川は巨人にこだわったのかそこがすべての悪因であったのだろうとおもう、それに引き換え、今活躍しているのは、球団をえらばないようになり結果、いろんな球団にも後にいけるしね、関西は、本当のあの江川事件にな怒っていた、つるべが、関西の深夜ラジオのときはぼろくそにいっておきながらいざ、知り合うと、弁護に回り、イメージを直していった、話し変わるが、小沢の金の問題は、どうなることやら、ぼくらにしてみれば、あんな大きな額を記載もれするんなんてのは意図的な金隠しであるにちがいないとおもう、なぜ、隠す必要があるのか、ヤバイカネであるからであり、田中角栄のイメージと重なるのだ、片手をあげて、歩く姿も角栄そっくりでないか、そのうち、脳梗塞で倒れるのであろうか同じ人生を歩むなら、堂々と歩みたい。小林繁は不遇であっても、堂々と生きていた、えらいと思う。
2010.01.18
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はい、こんばんわ、みなさん、昨日は疲れ果てまして、ブログできませんでした。大口の配達が数件からんでました、朝から晩まで、海から山まで走りまくりです。今日は震災の日、祈念式典の皇太子ご夫妻が来神、ものものしい警備。昼すぎであった、車で、弁当の大量注文があったイベント会場にいった、弁当のごみなどを引き取りサービスもしているのだ、朝の6時から店いって作った弁当も、もうからっぽです。帰り道、カーラジオを聴く。震災のことを言っていたので聞き耳を立てる、それのあと、不思議なニュースも流していた、神戸のキスFMである、和歌山のどっかの駅が改装で駅長が休みももらえるとか言うニュース、なんで、そんなニュースを流すんだろうか・・。と不思議に思いつつ。朝日新聞のニュースであった、このFMはほとんどがそうだが報道部というものを持たない。で、最後の一瞬である、そう、いつもなら聞き流すんだが、「担当はナガナワです。」といった、耳を疑う。ああ!いったな、ナガナワといった、確かに言った。だいたいニュースを読む時の声はなるだけ、表情感情を出さず、自分を出さず、すらりという。イコライザや電波の都合で、声を変わる、あいつにちがいない!ぜったい、あいつだ!僕は確信していた、100人のお客様の電話の声を覚えているぼくは、先に声で、マルマルさんですね、というぐらい、耳がいい。ああ、ああいつは夢を果たしたのだ、えらいな、やったなあ、と思った。僕のブログの読者のかたなら覚えているだろう、ぼくがMINIFMをやっていたことを、そのときい、僕が放送を始めて、リクエスト番組をしてすぐに電話くれてサークルに入りたい、ときた男が、永縄潤、という大谷大学三年の学生だった。「ぼくは、放送局のアナウンサーになりたいんです!」と、僕に夢を語っていた。内心、そんなたいへんなことできるのかな?とおもいつつ、「夢のある人生はすばらしいものだ、夢は実現させるものだ」とぼくはほざいていた。右端の手を上げておる男です。どうしているのだろうか、といつも思っていたのだ。おそらく86年ごろの卒業で、92年にやっと徳島FMに採用してもらい10年がんばって、やめて、フリーになってるのか、で、検索をかけたのだ。たぶん、はげてるだろうと、予想をしていたがここ人生の出会いと別れ、再会の偶然なんてのはわからないな。でも、連絡つけようがない。いつか、ここにくるだろうとおもう。本当に驚いたものです、僕がラジオが好きで、おそらく彼もラジオが好きで、こうなったんだろうな、声はすごく男前で顔は獅子舞のようですが。いつか、かれと番組でもできたらいいな。長七と永縄の深夜フォーク下宿なんてね・・。
2010.01.17
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか震災の特集テレビがおおいなか、この時期だけは思い出し、後は忘れるんだねでも、家族を失った人は忘れることが出来ない。小田さんも実家の近くの神戸元気村の近くにきて、はげましの歌を歌い。ワールド記念ホールで、泉谷とライブをしてくれた、いまさならながありがとう。それどころではなかったのですが、震災の年の95年の夏にぼくは、長らく閉店していた神戸の店の店長が再オープン後異動がでて、ぼくがゆく羽目になった。アパートも探すのも大変で、瓦礫が運び出され、更地ばかりの町であった。店が兵庫区であるが、東灘の田中町というところに12万もするワンルームをみつて高いけどしかたないので、きめた。店は営業時間を短縮し、なんとか、人を集め営業。しかし、日曜日はすさまじいひとが押し寄せるように満席になった、一時間の客数が140名を超えることもあった。店が開いたこと、家族で食べに行くことが再び出来て喜んできてくれるのだ、しかし、パートアルバイトは安定せず、引越しや再就職やいろんなことでなかなか定着しない、日曜日になると朝の五時から出て夜中11時過ぎまで働くことをしていた。よく、幻想のようなものを見た、家族で団欒の風景が見えたり、店の中で幻影のような人が歩いたり、死んで浮かばれないひとが、まださまよっているようだった。震災景気というものがあり、復興に向けての工事などが頻繁におこなわれ、店の売り上げは他店の落ち込みをよそに急激にあがった。店はぼろぼろのなりながらも必死でこなしているようであった、運命的なことがあり、デジャブーのような夢を見て、今の奥さんと出会い、その店で夢を見た翌日のであい、一年後に入籍した。96年のことだった。今の長七という名前は、先祖の名前で、江戸時代から太平洋戦争が終わるまでの存在した名前、今の店をするときも奥さんが、その名前をつけることを風呂場でひらめいたそうだ。僕の先祖がずっと以前、神戸に地震が来た、安土桃山時代に、秀吉の時代だとおもうが六甲山の山ろくで油やをしていたが、震災で崩壊し、海辺に住居をかえたのも地震のえいきょうであったらしい。明日あさって震災関連のイベントの弁当の注文が数件はいった。これもなんかの縁であるのだとおもう。15年の時間は早かった、この先も長い、地震と人々の運命はそれぞれ複雑に絡んでいる、震災があり、神戸に帰り、会社をやめ、独立した僕は不思議なものを感じるのである。地震の前の夜は一睡も出来ない不安感に襲われ眠れなかったのを思い出す。まあ、その前から不眠症になっていたのだが、地震がなかったなら、今のこの長七ないだろうと、思うわけです。
2010.01.15
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こんばんわ、みなさん、震災のことばかりで申し訳ないが、今夜も震災の記憶、震災のときは僕は神戸でなく、伊丹ということろにいた、そこでも被害はおおきく、阪急伊丹の電車が崩落したのがニュースで流れた、神戸に実家があり、そこに何度も何度も往復したのだが、車は麻痺状態。国道43号線は阪神高速の崩壊と撤去作業でほとんどつかえず、二号線に車があつまり、夜となると、車ですごそうとするひと、大阪まで風呂にはいりいったり、食事にゆくひと、避難するひとなどがたくさんいて、神戸から大阪に国道二号線で抜けるのに6時間から8時間かかった。朝方4時から6時前の一瞬だけ車がひいていた。普通なら一時間弱でいける距離、すさまじい車の渋滞。救援物資や119や自衛隊や重機の車など優先すべき車が遅れ、法整備されおそらく関東でも災害時の国道マニュアルが整備され、一般国道の通行規制などが災害時に行われるであろう。しかし、おそらく東海大地震、関東平成大地震においては、車で避難しようとする人が殺到し被害が増大する危惧がある、車であると、雨露はしのげる、暖房冷房も効く、しかし、車で寝起きしていると、血行の循環が悪化し、下手すると飛行機でおきるエコノミー症候群のようなことがおこり、死亡に至る場合がある。関東大震災において、避難の邪魔になったのが、大八車であったらしい、それで、火災の延焼もその大八車などの衣類が燃え出していった経緯があったそうだ。僕が伊丹から神戸に行く経路を考えて、三田六甲ルートで回り道をしてゆくことにした。これなら難なくいけたのだが、このルートもやがて広まり渋滞が山道で起きていた、一番が徒歩である、震災時にすぐに神戸へゆき、翌日再びいこうとしても渋滞でつかず、西宮からあるいて神戸にはいった。たくさんの人が歩いていた、二号線をあるいてゆくと、反対に逃げてくるひとがたくさんいて、ボストンバックにハイヒールで避難している女性など痛々しかった、自分の家と勤め先に間の徒歩の経路の確認と、必ず運動靴などを用意しておくこと、家に帰るということは至難の業になる、新宿の副都心など、あの数万の人々がどうなるか、鉄道は停止し車は動けず、ましてや、原発の放射能メルトダウンなどおきて、逃げるのであれば、とんでもない事態になるだろう、火災である。関東大震災ではすさまじい火災旋風というものがおきて避難していた場所の人々を焼き殺した、神戸の長田の火災の二晩燃え続けた。これは推測であるが、地下にたまったメタンガスなどが燃え出すということもある、断層が動き、地下にあるガスが地上に上がり引火する、関東ではローム層の下に大規模なガス層があるらしい、とんでもないことになるのが自然災害です、よく考え相談し、家族を守ってください、おきてからは遅いです
2010.01.14
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ハイチ大地震10万の犠牲といううわさ最貧国である国であるがゆえ、建物の崩壊がひどいようだヤフーでは募金をスタートしている。楽天も早くするように
2010.01.14
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こんばんわ、みなさん。震災15年。この15年にはいろいろな時代の変化があった。携帯電話の普及もこの15年であろう。あの時代にはなかったのである、携帯の登場により、いろんなことが変化した。パソコンの普及。Win95が発売され、インターネット時代が幕をあけた、地震の前にもパソコンがあったのだが、インターネットの普及はかなりの影響をあたえた。日本各地の地震活動が活発になる、合わせてボランティアのはじまりといえる。活動期になった日本列島の地震活動。さまざま地震の被害があり、活動が助け合いの精神を広げていった。95年のオウム教による地下鉄サリン事件などあり、混沌とした時代が始まった。坊さんがずっと走り回る時期でもある、命日がみんな同じなのだ、西神の新しい墓地にゆくと、どれだけ墓石に刻まれたあの日がおおいことだろう。神戸の湾岸の被害が大きく、この時期からコンテナの取り扱いがはり、国際荷物や倉庫扱いが韓国プサンなどに奪われた経緯があり、神戸の財政の赤字が極端に増えてしまう。この地震のボランティアに参加しはじめたのが、流行作家の田中康夫である、彼が政治に目ザメルきっかけはそこだった、それから、無用の長物、神戸空港建設反対運動をはじめた、田中康夫も中心となる300万の署名を集めるも神戸市は無視をして、神戸空港をつくってしまう。このとき、神戸空港ができていなければ、田中康夫は終結していただろう。皮肉にも神戸空港が出来て大きなダメージを受けることのなるのがJAL,全国の空港が国の指導により作り始め、JASからの不採算路線とともに赤字をっ増やすことになるのだ、神戸の港はコンテナ取り扱いで世界の中でも有数の港であったがバースをポアーアイなどつぶして大学を誘致したりいろんなものをつくったりして港の役割とはちがうものになる、税収の一番のお得意であった、港からの税金も減るのである。震災15年でさまざまな変化が来て今日がある。やはり、地球の営みという地震は人間の運命を変えるものであるのだ、
2010.01.13
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少し気になったのでシズさんのコメントで56豪雪とは昭和56年豪雪とは1980年(昭和55年)12月~1981年(昭和56年)3月にかけて、山形県から北近畿までを襲った記録的豪雪である。通称「五六豪雪」・「昭56豪雪」・「S56年豪雪」・「81豪雪」などと僕の友人が雪下ろしでたいへんであった、といった言葉をおもいだしました。その友人は福井のひと、12月中旬より日本海北部からオホーツク海に進んだ低気圧が発達して停滞し、強い冬型の気圧配置が続いた。このため、日本海側の地方で記録的な大雪となった。さらにこの年は気温も全国的に平年より低く日照時間の短さも昭和38年1月豪雪(三八豪雪)に匹敵するほどだったので、雪が解けず積もり続けるばかりの状態になってしまった。そのため山沿い(特に富山県内や岐阜県飛騨地方など)では積雪が100cmを超え(山間部では300cmを超えた)、着雪や強風による送電線の切断や鉄塔の倒壊が相次ぎ漁船の遭難被害も多発した。この冬の降雪量としては福井市で1963年(昭和38年)の596cmを超え、622cmを記録。1986年(昭和61年)と並んで歴代1位タイである。なお名称である「昭和56年豪雪」は気象庁による正式な命名ではなく、マスコミからの命名である。死者 133人負傷者 2158人行方不明者 19人住宅全壊 165棟住宅半壊 301棟床下浸水 7365棟床上浸水 732棟で、今のこの季節はこのさきどうなるんだ
2010.01.13
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こんばんわみなさん、お元気ですか今日は寒かった、寒いと忙しい、つらい仕事だ。今日は疲れた、ほんと、疲れた。阪神大震災から15年サトエリがテレビでいっていたな、彼女はこどものころ東灘で被災して、あの住吉川付近にいた、悪徳出店「やきいもや」のことを知っていたな。一本2000円で被災者に売りつけていた。ひどいやつだよ、ああいうときにそういう発想がわくことじたい、根っからの悪人だといえる。阪神御影駅に近くのすーぱー、もうつぶれたが、親父が通常200円もしないポテトチップスがこれまた、10倍の2000円で売っていた。買うほうも買うほうだが支援物資が来て、みんなのおかげでそういうのは消えたが、ひどいやつがあらわれるんだ。泥棒だ、日本国中の泥棒が被災地に集結した。どこもかしこも鍵がかからないし、あわてて逃げてるし撮り放題、これまた、ニュースにはならなかったが、全国の警察が終結し、対処した。忘れもしない神奈川県警のパトカー部隊には感動したよ。浮浪者もこれまた、紛れて関西の浮浪者が神戸の炊き出しに終結。どれがどれかわかならいもんな。。あいりん地区では人がいなくなったそうだよ、神戸新聞はえらかったよ、印刷工場も本社もつぶれていたのに京都新聞の印刷で、毎日、紙面をつくり、くばっていた。全壊の家のポストや、跡形のないいえの前にも新聞がくばられたいた。あれは、おどろいた、尊敬した。警察もえらかったよ、みんな休まず家にも帰らず家族が被災しても仕事を続けた、消防はほんとうにつらかったよ、水がないので消せないのだ、呆然として、罵声だけ浴びるのだ。あれはひどかった、つらかったとおもうよ。高速道路の西宮の落下寸前のバスを止めた運転手彼はえらかったよ、彼はたまたま、交代して乗車風邪を引いてやすんだらしい、でも、このひとは運が強くて、バスをとめることが出来た、あれがおちてたらかなりの人が死んでいた。出来るだけのことをし、ある人はない人に食べ物を与え助け合い生きてゆく姿はかんどうだった。どこかの記憶にあるものがよみがえるんだ、きっと、人間は助け合いいきてきた歴史をDNAの記憶がそうさせるんだろう、水が出て感動したり、電気のありがたさやあったかいものが食べれるありがたさやそういうことを勉強したな。
2010.01.12
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こんばんわ、神戸では今日が成人式のようで、ことしは七人の晴れ着を見ました。きれいな「帯」でした、しかし、今様のメイクは「なんだかなー」というかんじです。親が見栄を張るのか、僕らの時代には賛否両論あった、成人式の晴れ着。でも、やっぱり、晴れ着はいいもんだとおもいます、日本の大事な文化である、しかし、携帯をちゃらちゃらさせて、すんごいマスカラでは、がっくりします。僕の姉が成人式のとき、親がはりこんで作ったことをおもいだします。僕の一眼レフで家の前で撮影した、大昔のようでもあり、きのうのようでもある、家族のひとつの記念すべき日でもある、いろいろな家族をみていると、やはり、チームワークの力があるかないかでぜんぜん違う。それは社会に出る前の協調性というか、バランスのとれた人間であるか、とか大事なことだとおもう、今年、震災がおきて、もう15年たつという。成人式を迎えた人々はそのときは5歳、1990年か1989年うまれか、そのときも昨日のように感じる、20年も30年も昨日の用にかんじるのはどういうことなのか、あることを思い出していた、実家の近くの木造アパート、震災で子供が亡くなった。瓦礫の中からいろいろなものが見えて、おもちゃなどもみえていた。その女の子が好きだったとおもわれる、くまのぬいぐるみがつぶれたアパートの前においてあった、いつまでもあった、雪の日も雨の日も、瓦礫が撤去されて、やがて、更地になり、ぬいぐるみもなくなった、あの女の子が生きていれば、今日の成人式に参加できたんだろう、地元の神戸新聞が震災の被害者に震災後の心のケアについてのアンケートをしていた。ほんとうに馬鹿なアンケートで、「肉親の死亡を受け入れることがいまできましたか?」という質問を送付したらしい、それで、その後、反省し、朝刊の一面にぶしつけな質問をしてもうしわけない、とあった。たぶん、そういうものは受け入れられるはずもない、墓場までその気持ちを抱えて死ぬんだ。簡単に心の傷は修復できない。親戚の95になる人が死ぬ前に、僕の会話の中で、もう痴呆であっても戦争の時に子供をなくした、その話をしていた、おそらく、時間というものは解決するものでなく、気持ちはそのときのままである、それでいいのだとおもう、破れてもきずついても、心はありようでさまざまなものをかんじとる、震災で子供をなくした親は、悔やみきれないものだとおもう、人の苦しみやつらさは、そのひとでないとわからない、それを語るのも聞くのも難しい。運命というものなんだろう。
2010.01.11
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本日の特注弁当
2010.01.11
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こんばんわ、みなさん、お元気でしょうか?本日もおばかな成人式が行われたそうであります、教育と家庭のありさまがみえてきます、日本全体の道徳観や社会にたいしてのおもいそういうものがだめである結果がそれです。団塊の世代から団塊ジュニア、団塊孫なので三段論法の日本無秩序時代はひどいものです、一方、公明党が民主と股組むとかいいだしているようす、あいた口がふさがれない、ミンスにやられたことをお忘れなのでしょうか、党のありかたがおかしいのです、これも主義ヤポリシーがあればあっちこっちでっちになることはないのです、ぜひ、解党を!日本人は何でこうなんですかね、「世間様」を意識してないのですね、小沢包囲網もかなりきびしくなり、やはり、角栄の弟子だけあって師匠と同じ運命になるのだろうか、なんで、あんなにたんまり金があるのか、金脈をもっているんだろうか、それなら自民とおんなじではないだろうか、金を迂回させて、税金などかからなうようにしているのであればそれこそ、政治の仕事をしてはだめです、もしか、これが米国の陰謀であるならば、CIAの工作員にマスコミが踊らされているのならば、中国との接近をCIAが気に入らないのであろう、どうあがいても日本はよくならないということであろうか、成人式で暴れた子供たちは学校でもそうやっていきてきたのだろう、家でも放置され好き勝手に生きてきたんだとおもう、高校あたりで道をはずれ、もう誰もあいてにしてもれえないからそうなったんかもしれないな、ぼくが成人式のときは大学の後期試験の真っ最中、で、昨日の話、友人が死んでへこんでいたし、そんなもん、出るわけない、と思っていた、なによりも、スーツひとつもっていなかった、Gパンでゆくのもいいが、後で聞いたが、それなりに、中学のメンバーはいったそうで、みゆきちゃんも晴れ着できていたらしい、本当は成人というのは35歳くらいか、精神年齢が低下しているから、大人の子供は40歳かもしれない。20歳なんてのは赤ん坊のようなものだと、ぼくはおもう、鬱憤を晴らし、成人式で暴れるのは今の国民の程度の低さであろう、僕を含めて。
2010.01.10
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クリームシチュウ、ハンバーグ。中身がハンバーグ 画像がみにくいですが野菜いためのうえに、あれです・かつとじですね。おなかすきました?
2010.01.10
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友人が交通事故でなくなった冬、しばらくたち、交通事故を起こした運送屋が事故を起こした車で彼のバイクを突然運んできた、下宿のメンバーはおどろいて、外に出て、そのぼろぼろになったバイクを見た、周りの家のおばさんもでてきて、大家さんもでてきた。何も、ここへもってこなくていいものを・・。デリカシーのない会社だ、運んできたおっさんは、周りがパニックのなるのをみてばつがわるそうに、車にもたれ、無言でいた。どっちが被害者かわからない態度、大家さんは怒っていたが、あわてて、知り合いのバイクやに電話し、呆然としているぼくたちを部屋にはいるように促した、すぐにバイクやがきて、バイクを引き上げていった、バイクの破片が入り口に落ちていて、僕は拾い上げようとした、そのよこに、郵便物が落ちていた。なんと、死んだ友人に送られてきた東京のペンフレンドの手紙だった。東京のペンフレンドは高校生の女の子で、夏の合宿で出会い知り合い、文通がはじまったらしい。まだ、その女の子はまさか、文通相手がこうなっているとはしらず、手紙をいつものようにだしてきた。僕と先輩と、後輩でコタツの上にあるその手紙を見て沈黙していた。「生きてることにして返事かきましょうか?」ぼくがいう。「字がばれるでしょ」確かにそうだった。「このまま、返事出さずにおいておけば、あきらめるだろう」そのときの結論はそういうことになった。手紙は先輩が保管し仏前にもってゆくことのなった。しかし、何通も何通も、手紙が来た。返事がないので心配したのか、数通の手紙がたまり、ため息で手紙を受け取る。春が来て、GWにもなり、また手紙がきた。ぼくらは既に新しいメンバーの下宿人はきて、小山コーポも変わりつつあった、その新しいメンバーにも前の部屋の持ち主が事故死したことを秘密にしていた、というか、どういえばいいいか、悩んでいた。その手紙にも悩んでいた。ぼくは、みんなにいった。「こうなったら、僕が会いに行きます、会いにゆき、彼が死んだことを伝えます」渡せなかった手紙は本人に返します。そういって、ぼくは既に夜行の銀河51号に乗ってゆくはらずもりだった。川崎のある町までゆき、電話帳で電話番号を探し電話した。電話でどういうか考えていない僕は、電話で呼び出そうとしたが、父親が出てきた、混乱していた、どう伝えるべきか、「どういうことなんですか?」電話で伝えてしまった。これなら京都からでもできたことだったが、手紙をかえして直接伝えたかったのだ。しかし、彼女は突然のことを受け入れられることができず、会いたくないと。その夜は東京の大学に行く友人の下宿に泊めてもらい、翌日、その女の子の代理という友人二人が出てきて、手紙をかえすことができた。わざわざ、東京に出てきたぼくを見物がてら、渋谷の町を案内してもらい、京都に帰った、鴨川の桜並木はすっかりと青葉になっていた。ある日、ポストをみると見慣れたあの文字で僕宛に手紙が来ていた、「彼の分までいきてゆこうとおもいます。」なんとか、受け入れたようであった、きっと、その女の子は心の中でずっと、手紙を書いている、いまもそうだろう、もう28年も前の話だが昨日のことのように感じる、心の中でずっと、文通しているんだとおもう。もう、45歳になって、いい母親になっているだろう、どうしているのか、僕も彼女に手紙を書きたくなった、
2010.01.09
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか?今夜もおいでいただきありがとうございます。うちのバイトの新人は15歳。「地震のときいくつだったの?」とぼくがきくと、赤ちゃんです、おぼえてないです、そうか、もう子供たちは知らない世代になっており、月日はどんどん経過しており、複雑な気持ちがした、実家の御影は大変な被害になり、近所の人も多数なくなった。ほんとに「運」としかいいようがない。起きて玄関に行こうとするときに階段がつぶれてなくなったおばさん。娘がスキーの夜行バスに乗って、家に朝は早くつき、鍵がないので、母親をたたき起こし玄関に出てきたところで大地震、振り返ると家は大音響とともに全壊。うちの家もそうだ、うちの実家は裏に国道がはしり。長い間空き地のところにラブホテル建設が予定されて、散々反対したのに、建築許可が出てたった。基礎が深くうってくれたので、うちの家の地震の横揺れを防止する役目をはたし、かわら一枚おちなかった、周りの家は全壊。仏壇がたてゆれのすごさで、二メートル跳んでそれでもたっていた。地震は最初、P波というたてゆれがきます、そのP波の前にも名前忘れたけど波がある、殆どの激震地の木造家屋はこのたてゆれで一瞬で崩壊したらしい。P波の長さは震源地からの距離や地層や断層の向きなどからかわるが、比較的に短い、P波のあと、数秒の静寂がある。あの静寂が不気味だ、そのあとすさまじくすごい横揺れが数分も続くのである、これで、火災などが発生したり、家具の下敷きになったりするのだ。タンスの角で頭をぶつけた、だけで亡くなったのが幼馴染のさつきさんであった。離婚して実家にいて、家はカシワヤだった。残れたのが子供、この子供たちも立派に成人している。地盤や山など、少しの距離で全壊の場所と、軽妙な場所があった、数キロも離れていない。これも運としかいいようがない。六甲山はほぼ1000メートルの高さ、これは断層が動いて造山活動でせりあがったもので、山頂には海でとれる化石がでる。100万年かけて出来たそうだから、もう何回も繰り返したことになる地震が、六甲山は混合花崗岩が主たるもので、その元は溶岩であるのだけれど、三田に櫻島規模の噴火山があったそうだ、今はかけらもない、古事記の神代の神話で国うみの話がでてくるが、それは淡路島であるのだが、まんざら、うそでないともおもう、淡路の近くの海の中が震源地であるのだけれど、淡路から須磨、六甲山の下を走り、びわ湖から能登半島までの一筋の道のようなものを僕は感じる、1000万年か、もしくは一億以上まえ、日本の島々の形がいまとはぜんぜん違うものであったろうと、思うのだけれど、ホッサマグナのようなものはここいらにあったのではと、推論するのですが、まったくの憶測ですが、人間の営みはそれらの大地の歴史からいうと、つい最近のことであり、勝手に大地の上ののさばりを意図も簡単につぶすのであると、思う。
2010.01.08
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キマグレン LIFE歌詞がいいです、ずしっ、とハートにきます。
2010.01.08
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レミオロメンは、2000年に結成した日本のロックバンド。所属事務所は烏龍舎。所属レコード会社はOORONG RECORDS。バンド名は、メンバーでジャンケンをし、勝った順に1文字、2文字、3文字好きな文字を選び繋げたものである。藤巻はイギリス出身のロックバンド、レディオヘッドが好きなことから「レ」、神宮司は当時の彼女の名前と自分の名前の頭文字をとって「ミオ」、前田は路面電車が好きなことから「ロメン」を取り、それらを繋げて「レミオロメン」とした。メンバー3人とも山梨県出身で、県の観光大使にも任命されている。富士の国やまなし観光ネットでは彼らのゆかりの地を公開している。初期はスリーピースバンドの形をとっていたが、現在は完全なスリーピースではなくプラスαされたバンドとなっており(ストリングスやキーボード、ピアノ等。ライブでもサポートメンバーとしてキーボード、サポートギターが見られる)、様々な曲調の楽曲を演奏可能になった。大型のロックフェス等にも精力的に参加している。僕の好きだった、路面電車の「ロメン」とは!なんという!クリスマスの約束で聞いた新しいアーチストを聞いています。もう、新しい若いのは聞くまい、得るものないと、思っていましたが。清水翔太から、逗子のあれ、このケミオロメン?ちがう。エメロンのほうがいいかもよ。覚えやすくてあ、おもいだした、キマグレンだ
2010.01.08
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こんばんわ、お元気ですかさっき、やっと年末の朝まで生つるべをみました。直太郎の歌もよかったし御徒町さんもみれることができてよかった。つるべが関西13年関東25年といっていた。もう、そんなになるのかとおもう。ぼくはほとんど関西のころしかしらないしつるべの映画も興味がわかなかった。彼が関西でスターになり、まあ、深夜ラジオという媒体で人気を得たのであるがあのころは、関東や東京というのが関西から遠い存在であり、別次元の意識が強かった。11PMという番組でも関西でつくるものと関東で作るものがあったり、関西にも文化というものがあり、オールナイト日本は中継するが独自のラジオの文化というものを形成していた、名古屋においてもそうだろう。AMの電波が飛ばないということもあるし、そんなにスポンサーもつかないということもあるが、つるべは東京は嫌いであると、言い切っていた。あのころは尖がったひとたちがたくさんいて、自分は自分であるというこだわるものがあり他には流されないというものがあった。今の世の中はそういう対抗意識や独自性が欠落しているような感じがする。僕の中ではいまだに独自性というものが大きく、もしくは対抗意識も強い。関西の中でも神戸は大阪と違うし、神戸の人間は大阪のことをあんまりよくはおもわない、京都の人間は京都が一番であると思い込んでいる。関東関西の文化の違いはいろいろあるけれど、テレビがかなり潰したという部分もある。殆どの人々が標準語を使う、使えるということがおおきい。言葉のことでいうと、若い主婦たちはみているとほとんど標準語で話している。しかし、自分の親とかと昔の友達とは関西弁、これも不思議なもので転勤族やよそから嫁にきたひとととか合流し、通じるのが標準語であるのだ。この光景はファミレ巣で集う主婦たちにも目撃した、相手のよって言葉を使い分けているのだ、まるで、英語とフランス語とドイツ語を使い分けるように、この言語学の学説はだれも気がついていないが、たとえば、海外に赴任した家族などは、顕著に現れる。親は家で日本語を話すが、がっこうでは英語で話す。しかし、なんで、方言というのはあり、なくならないのか?いずれ、消滅するのではないか、ともおもう。古い方言の単語などは死語になっているものもたくさんあるとおもう。
2010.01.07
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1984年のこの歌はかっこいいCMでも最近つかわれたここ
2010.01.07
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こんばんわ、みなさん、今夜もおいでいただきありがとうございます。さて、政治の問題ですが、藤井財務大臣が辞意を表明し、おりた、小沢さんとのごたごたがあったようだが、安定感のあるひとだったのでおしい聞けば77歳で引退しようとしたのを無理やりひっぱりだしたとのこと、外交と並んで財務はたいへんなポジションですからね。ところで、今夜は激しく疲れた、最近、帰りに無謀にもマラソンでかえるのだ。二キロ少しだけど、生き返りを歩いたりはしったりする、これも肥満解消、メタ簿解消、糖尿病などの対策として、しかしながら、余計に腹が減るし、足が痛い、仕事がないのなら平気ですが、仕事してからはしんどい、でも、まあ、がんばってしてみる、昔はよく歩きました、大脳生理学上には歩いたほうが脳に刺激が伝わりいいとされる。また、人類は二足走行なり画期的に脳がでかく発達した、新脳といわれる部分、歩いていると、いろんなことを考えられるしかし、バイクや車などでは、考えていると事故をする、スピードもあるしね、CO2排出しないですむし、歩くのはいいこと、で、眠いのでここらでダウン。
2010.01.06
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こんばんわ、みなさん。日本経済が津々浦々までデフレ不況に侵されている毎日、自民党を離党してゆくものたちは、どう考えているのだろーか、自分の選挙のことしか考えずもしくは、本当の自分のありかたや、こだわりや主義やそういう確固たる変わらないものがなさすぎるんだろーね。政治屋なんですね。飯食うために私腹肥やすために延々やってきてるんだ、爺さんのころから、こないだ、下宿の話をまとめようとしてパソコンのワードを探すとない、どこにもない。ああ、削除したのかもああ、また一からだ、だから、パソコンのデーターは便利であるけど危険せすね、パソコンが飛べばおわりですからね下宿の話で、実際の自分の下宿の話なんですが、前にも書きましたが先輩が重要で、この先輩が人徳があるからいいのですがこの先輩に失恋停電事件の本人の住所を聞きだして、今年は年賀をだしたのですが返事が来ました。学校の先生になっているのです、立派にやって、家庭も築いて、すごいことです。あの時振られずにその女の子と付き合い結婚していれば、その家族は存在していなかった、子供も生まれていない、20数年のときの流れを感じるとともに、あのときのあれがあるから、今がある。なかなか、恋愛というものは危険なゲームでうまくゆかないもの。人生はなんでもうまくゆかん。そういう意味では、男前でかっこよく、頭もよく、歌もうまい、そういうのは実にあこがれるんでなくて、嫌いです。そう、だから、福山君のようなんはあんまり好きになれない、だから、某国営放送のダイガドラマの竜馬デンはみない、絶対に見ない。竜馬フリークであるのですがぼくは、竜馬というのは落ちこぼれみたいなもの、そういう中で薩長同盟や海援隊など作ってゆくのですが、イメージが違う、それに史実を変えてドラマっぽくするのが嫌いですから見ないです、おそらく、世の中は竜馬ブームになることでしょうが、もともと、竜馬は明治維新のときには忘れ去られていたのです、完璧に、それどころではない混乱の明治は、日露戦争のときに皇后さんの夢枕に白袴の侍がたち、それが新聞にのって、竜馬が脚光をあびた、戦後は司馬遼の「竜馬がゆく」で大人気。僕もこの本を読んでファンになりました。神戸にも少しいたのです、海軍操練所なるものを勝海舟を筆頭に数年だったかいまの神戸税関あたりにあったらしいですが、幕府が金を出していたのです、そのころ、長七は神戸灘で菊正宗の樽を作っていて、慶応の幕末に墓石に名前を彫っている、士農工商の身分で苗字を名乗ることは侍だけ、一部のひとにも幕府のお許しでできたがなんでできたのか、長七に聞きたい、6代前くらいだろうか、六代前も七代前も、その前の神戸に地震が来るなんて夢にも思わなかった、1/17が近づいてきます、地震には備えてください。
2010.01.05
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こんばんわ、みなさん、今日は最悪の売り上げでした。どこもまだ正月やすみだ、けど、はりきってあけたけど、だめでした。まあ、年末の掃除できなかったとこや、品物も少なく、売り切れが予想されたけどこの一年の始まりはまた、たいへんそうです。ひさびさに、チラシを入れにゆく、ポストに入れるとまあ、ぴざやすし屋やほっかほかのべんとうのちらしなどいっぱい先客がいまして、不動産のちらしなどがごみのようになり、まあ、ぜんぜん見もせず、捨てられる、ぼくもそういうのは殆ど捨てますが、100枚いれて2枚見てもらえばいいほうです、サービス券などをつければいいのですが、これまた、ひどい人がいて自分のサービス券だけではたりず人のポストからサービス券をぱくるやからがいたりします、やたら、サービス券もっているDQNさんはそういう人が多い、いろいろありますね、チラシもワードでつくって、自分のパソコンで作成して、インクつかって印刷して、それも結構手間でインクは詰め替えの安いのを使い、しかし、プリンターはすぐにつぶれる、なんかやろうと思えば必ず壁がある。小田さんの言っていたな、それを乗り越えていかなければならない、印刷やで作ってもらって、新聞の折込に入れれば簡単、でも10万はするしそんな金はない、こんな苦労はすかいらーくでは経験しなかった、ほっておけば、お客さんは死ぬほどクル、来なくていいよ!と思うぐらいくる、ありがたい、なんてのはこれっぽっちもおもわない、ひどい話、これがチェーンストアの働く人の心理、どこか抜けていて、お客さんが怒ったのもきずかないくらい。2010年も厳しい幕開けだ、
2010.01.04
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こんばんわ、三が日もおわりました。明日から仕事、紅白もぜんぜんみなかったし、なんか、年末年始の実感はなかった、あの独特の高揚感もなく、今日の初詣は晴れ着を着た人が少なく、二人しかいなかった。これはすくない、ほんと少なくなった。これは、ある意味を示している、着物が着せるおばあさんがいない。ということ、一緒に暮らしていないということ、昔は独身の時間は短く、女性は若くきれいなうちにいいとこに嫁にゆく、のがいいとされた、が、ない。そういう考えもない、独身時間も延長戦になり、男女同権であるのでそういう考えはよくないだから、「晴れ着」を着る機会も思想もうせつつあるのだ、いろいろな家族のありかたも生活習慣もこの30年に変貌した、しかし、まあ、初詣はゆく。この行動には深い意味があるのだがとりあえず、初詣にゆくひとはおおい。湊川神社の歴史も背景も知らずに、湊川神社は靖国神社の前例みたいなもの、幕末の尊皇攘夷の人々がかつぎあげた楠正成を祭るのだ、彼を神と崇めているのが神社、であるが、みんなは知らずに自分のこの一年のお祈りをする、で、おみくじを引き、お守りや札を買いいかやきなどの屋台で食い、帰る。日本という国はほんとうに無思想でかつ、無宗教な部分がおおい。日本の歴史を知らない人が多い、自分たちの歴史を知らずに、海外のことを憧れ、西洋が優れていると思い込んでいる、晴れ着をきるのも、あれは実は宣伝だとおもう、家の見栄もあるし。いい家の家族に認められる機会を得る。いまは、そんなもの必要ないし、離婚率も高いし、経済的には困難かつ一人ではきれない。そこにあるのは、家というもので、着せる人がいて、買う人がいて生活のゆとりというものがあるのだ。今はそれどころではない。
2010.01.03
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店の仕込みや準備をして、初詣へ 元日だとすごい人ごみで動けないほどですが、三日となるとすこしすいてました。湊川神社大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました。しかし、延元元年(1336年)5月25日、この湊川の地で足利軍と戦い、殉節されました。 以来、この誠忠の大楠公を慕い、地元の人々は大楠公の塚(お墓)を大切にしてきました。お墓は豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代には尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪の石塔も建てられました。 そして元禄5年(1692年)水戸光圀公(義公)が大楠公のご墓所(境内東南隅にある「嗚呼忠臣楠子之墓」がそれです)を建立されました。このご墓所の建立後は、さらに多くの人々が墓前にお参りし、大楠公のご遺徳をたたえました。 明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達がお墓に詣でつつ国事に奔走しました。 これにより大楠公景仰の気運がいよいよ高まると共に、幕末から維新にかけて大楠公の御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869年)、ご墓所・ご殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建されたのです。 延元の戦いで奮戦し、誠忠と正義とを以て生涯を貫かれた大楠公に対する景仰は積年変わることなく、現在も全国からたくさんの参拝者を迎える、日本有数の名社とされています。湊川神社のHPより拝借。
2010.01.03
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか。今日は長七の墓参りにゆき、実家により、綱敷神社に初詣。で、買出しと、水槽の掃除で一日がおわる。綱敷神社というのは瀬戸内海に面したところであちこちいあり、菅原道真が都落ちし大宰府に流されるときに寄ったとことが神社となったのだ。903年、道真は大宰府でなくなる、赴任してすぐなのでよほど悔しい思いを残し、その後の天変地異、皇室などのたたりなどが信じられた。学問の神様として北野神社から大宰府などもそうだ、いろいろな伝説があるのですね。
2010.01.02
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こんばんわ、みなさん。お元気でしょうか、再び、眠れぬ夜に深夜ブログビンです。正月というと怒涛の忙しさの年末が時間のたつのを忘れさせ、タイムスリップになるのです。すかいーらくにいたころも年末年始休みなしで、大晦日は棚卸もあり、正月営業は人手確保で悲惨なものでした。誰しもが休みたいとおもうのはあたりまえ、面接のときからスケジュールをおさえておかないとだめなんですね。朝から晩までレストランで働いて、くたくたになってワンルームに帰り、コンビニで冷たい弁当を買い、一人寂しく食べるのです。これが実に情けなかった、結婚している人は奥さん子供は実家に帰ってもらい、同じように一人寂しく食べる。人々にサービスしていながら、自分の家族にはサービスできない、親戚にも会うことがなく、昔の友人ともあうことがなく、知らない街で暮らすんだね、だから、時間をかみしめることがなく、年齢を感じない。正月はよく売れて、そのころは開いている店なんかないからね、学生時代から付き合う彼女がいたのなら、ほとんどこの時期におさらばされるね、自分で選んだから仕方ない。紅白の番組を見たいとおもいつつ、ボーナスでやっとビデオデッキを買い、留守録をし、8日ごろに自分で再生してみたんだ。 実に、つまらないんだ、紅白はあの時間に家族で見てこその臨場感だ、数日たってビデオで見てもなんも面白くないのをきずいて、情けなく、すぐに見るのを辞めた。正月になると、働いてる人をみると「ご苦労さん」を思うんだ。警察も消防もバスの運転手もいろんなひとがいて、社会が動いている、正月になると、すかいらーくの社長は飛行機とか使い、全国の店を回る、僕の店にもきた。四国の店だった、やいのやいの言われて掃除しろとか、そう部長とか怒られるからありのままを見せるのをいやだから、まるで殿様がくるように。そのときは暇だった。社長が来た。まるでスターだ。「どうだ!忙しいか!」僕は素直に「暇です」と答えたんだ、社長は顔色を変えて怒った。 「暇ならすることはあるだろう!」内心、あるけど、社長が来てるからできないんだ!といいたいが黙る。数分でよその店に行った。そんなものデ何がわかるのだ。をおもった、15年勤めて、社長と話したのはそのときだけ、なんとまあ、情けない、自分も情けないが、これではいつかだめになるなとおもったもの、現場の心も社長の心もぜんぜん伝わらない。組織疲労とはそういうことで始まるんだ、
2010.01.01
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謹賀新年。 友人たちの印刷された味気のない年賀状。しかも、ぼくもそうだった。ひとこともかけず、ポストに掘り込んでしまった。 今年はいい年にして、年賀をきちんとかけるようになりたい。生きることの後味悪さ、拓郎の「ああ、青春」のひとこと。悲しみばかり数え、今日もくれてゆく
2010.01.01
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