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もう先週のことですが、めずらしく「チコちゃんに叱られる」を見ました。・ドラムの不思議・右利きと左利き・お面のナゾ…の3本です。いずれも興味をそそられるテーマ。とくにお面の話は「鬼滅」にも関係する。でも、この番組って、しばしば《諸説あります》とテロップが出て、(なんちゃってバラエティとはいえ)いまいち不確定で信憑性のあやしい話が多いのよね。・お祭りのお面についてお祭り屋台で売られてるお面は、徳川吉宗のころの花見に由来するだろう、…との解説でした。先日の歌川広重の番組でも、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202407180000/御殿山の桜の話が出てきていた。それは家綱の時代に植えられたのだけど、花見ブームが起こったのは、それより後の吉宗の時代だったようです。御殿山には、寛文年間に植えられた桜があったが、火事による焼失もあったようで、吉宗が桜を植え復興している。幕府が進めてきた環境整備は、吉宗の代になって庶民に花見風俗をもたらした。江戸中期の享保年間のことである。あの有名な享保の改革は、幕府の緊縮財政下で庶民にも質素倹約を強い、派手なことは一切禁止のような禁令をこと細かに出した時代である。幕府は、人々の鬱積した感情を和らげ、桜を植えて広く一般に花見を楽しませたという見方もできそうだ。https://cleanup.jp/life/edo/87.shtml◇当時の花見では、女性が男装して帯刀したりとか、お面をつけて顔を隠したりとか、身分をこえて、はっちゃけてたらしい。ハロウィンのコスプレとか、ベネチアのカーニバルっぽいことしてたのねえ。…そういえば、去年の大河「どうする家康」でも、浄土真宗の寺内に集まった人たちが、身分を隠して踊ったりしてた。日本各地の笠踊りなどを見ても、顔を隠して踊る発想があるように思う。◇やがて花見客のために、目鬘めかつらが売られはじめる。目鬘というのは、鼻メガネみたいに顔の上半分を隠すアイマスクで、別名「百まなこ」とも呼ばれるそうです。百まなことは、江戸時代のパーティーグッズの一種。目鬘めかつらとも呼ばれた。両目を覆うほどの横長の紙に、福笑いのようなおかしな表情の目と眉が描いてあり、目の部分は穴が開いていて前が見えるようになっている。行商人の『百まなこ売り』によっていろんなバージョンの百まなこが売られたのである。百まなこは天明(1781~1789)の頃に登場したもので、お座敷芸の一種として用いられた。落語家の三笑亭可上さんしょうていかじょうが高座に取り入れたことにより、徐々に市民の間に広がっていった。とくに花見のときなどは、花かんざしと並んでよく売れたという。https://www.alphapolis.co.jp/business/official/shimizu/1231本日のNHK「チコちゃんに叱られる!」でわらべ館が資料を提供した江戸時代のお面「目鬘」が紹介されました。わらべ館ホームページよりダウンロードできます!https://t.co/XmJMBfL6miお祭りにつけていってはいかがでしょうか😉#チコちゃんに叱られる #目鬘 pic.twitter.com/PkrZAu9QUu— わらべ館 (@warabekan) September 6, 2024これはほとんど仮面舞踏会/マスカレードですね。This Masquerade Carney なお、目鬘は、福岡の二〇加煎餅にわかせんぺいに似てますが、その由来は、江戸時代の郷土芸能「博多仁和加」のお面だそうです。博多仁和加:「にわか」とは「にわか狂言」を略した言葉であり、祭礼において種々趣向をこらした出し物が演劇化した即興の笑劇であり、18世紀半ばの江戸時代中期から大阪・京都・江戸で流行し、全国各地に伝播したと考えられている。現在博多仁和加で用いられる半面については佐渡の年中行事絵巻(文化13年写/1830)やその他の祭礼図にも見られ、目鬘めがつらと呼ばれていたことが知られる。https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/135九州 ギフト 2024 東雲堂 二〇加煎餅(特大3枚入)(お面1枚入)博多っ子にお馴染み☆にわかせんぺいI83R10【常温】 楽天で購入 ◇お面の文化そのものは、大陸由来の「散楽」や「猿楽」から、やがて「能楽」へと伝わったものの、それは上流階級の文化なので、一般庶民には無関係だったとのこと。ちなみに「能楽」の起源は、散楽や猿楽だけでなく、それよりも古い「伎楽」とか、日本発祥の「白拍子」や「田楽」ともいわれます。7世紀頃になると、日本最古の舞台芸能といわれている「伎楽」が、「伎楽面」とともに中国から伝来。その半世紀後、平安時代には「舞楽」や「田楽」などの芸能が広まり、室町時代に入ると「能楽」によって「能面」が定着します。https://www.haguruma.co.jp/about-us/news/view/823◇ただし!神楽かぐらの話が出なかったのは不可解ですね。神社のお祭りなら、花見よりも、むしろ神楽にこそ関係があるはずでは?お祭りで売られてるお面も、神楽に由来すると考えるほうが自然じゃないかしら?宮中において限られた人々のみで継承されている御神楽に対して、巫女・神主・山伏といった宗教者や、民間の人々によって広く伝えられてきたのが里神楽です。現在でも全国に多くの里神楽が継承されていますが、いつごろから民間で神楽が行われるようになったのか、その起源ははっきりしていないようです。https://www.library.pref.iwate.jp/ex/2021_kagura/main/01.html神楽面は神楽に用いられる面で、地方に伝わる里神楽で使用する。宮中の御神楽では用いない。神の降臨を仰ぎ行う部分に、猿楽・田楽や近世に能・狂言の仮面の影響で製作された面を用いた舞が行われる。これらと違い、島根県の柳神楽や、宮崎県の高千穂神楽では鬼面が使用されている。般若面、天狗面、鍾馗面、蛇頭面、おかめ面、ひょっとこ面、王鼻面、狐面、鬼面などがある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BDなお、おふく面やおかめ面については、Wikipediaに以下のように書かれてます。室町時代にはすでに出現していた大道芸、新春の予祝芸能を行う門付芸「大黒舞」で、大黒天を中心に、えびすの面を覆った人物とともに、同様に覆面で連れ立って現れたキャラクターである。「おふく」という名称は、とくに江戸時代初期に大坂で生まれた文楽で使用されるもので、文楽人形の首かしらの一つの名称でもある。「おかめ」という名称は、それらに比較して時代は新しく、とくに近世の江戸の里神楽で使用されるものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%82%81秋田のナマハゲなどのお面も、わたしは神楽に関係してるだろうと思う。・利き手の謎について右利きと左利きの話も、なんだか眉唾じみてました。この種の医学的な話って、つねにそうなのよね…。病気や健康にかんする話もあやしげなことが多い。番組では、「左脳が発達してるから右利きが多い」と言ってたけど、わたしにいわせれば、「右手を使うからこそ左脳が発達する」のだろうから、原因と結果を取り違えてるように感じます。すくなくとも、たがいにフィードバックしあう関係ならば、鶏が先なのか卵が先なのか分からないはず。◇それから、「利き手があれば生存に有利」という話も、ちょっと胡散臭いと感じました。たぶん動物の場合は、積極的な理由で利き手があるのじゃなく、なんらかの消極的な理由で、仕方なく利き手のほうに偏るんだと思う。一方、人間に右利きが多いのは、あきらかに言語活動の影響なのですが、「なぜ言語活動は左脳に結びつくのか」を説明できなければ意味がありません。そして、その場合の言語活動は、おそらく書き言葉ではなく話し言葉の活動です。◇右脳と左脳の機能に違いがあるとすれば、それは脳自体に由来するものではなく、おそらく支配領域に由来するものだと思う。つまり、左寄りに心臓があり、右寄りに肝臓があることが、脳機能の左右差をつくってる…ってこと。心臓は昼間によくはたらくから、右脳は活動的な機能を司るのだろうし、肝臓は寝てるときにはたらくから、左脳は活動に対して抑制的になるのでしょう。そして、左脳を使う言語は、身体の活動に対して抑制的であり、寝るときの活動に近いってことだろうと思う。◇番組では、「利き手は遺伝よりも環境で決まる」と言ってたけど、その一方で、「幼いころに利き手を矯正するのはトラウマになる」というのは、あまりに話が矛盾してます。それは結局、後天的に利き手を決めるよりも、遺伝に逆らわないほうがいいってことでしょ?さらに、「左利きに天才が多いのは右脳も左脳もよく使うから」という話も嘘くさいのですが…※わたしは別の理由があると思うまあ、後天的に利き手と逆の手を訓練すれば、たしかに両方の脳が活性化するでしょうね。それについては、ZAZYが1カ月の実験をやるらしいので、その結果を待ちたいと思います。・ドラムセットの歴史についてドラムセットの歴史の話は、おおむね正確だったように思います。ニューオーリンズの、Edward “Dee Dee” Chandlerという小太鼓奏者が、大太鼓奏者と喧嘩したために、小太鼓と大太鼓をひとりで演奏する羽目になり、足のペダルを開発したのが発端なのですね。番組では、何のジャンルの楽団かに言及しなかったけど、調べてみたら、やっぱりジャズのようです。https://culturalhistoryofthedrumset.wordpress.com/new-orleans/the-drummers/たしかに、ひとりで複数楽器を兼任するほうが人件費が浮く。クラシックの場合も、複数の打楽器をひとりで担当することが多い。でも、楽器自体がセットにはなってません。そこらへんは、ポップスとクラシックで事情が違うんだろうと思う。NHKテレビ #チコちゃんに叱られる 出演 なぜお祭りでお面が売られているのかを、そもそもお面とは・・と解説。ゲスト #小林聡美 #つるの剛士 6日19:57~、7日9:00~(6日か7日のみの地域あり) https://t.co/QRZeic4KEe— 斗鬼正一 (@tokimasakazu) September 2, 2024
2024.09.15
松岡正剛が亡くなったとのこと。坂本龍一が死ぬ前もそうだったのだけど、たまたま最近、松岡正剛のことをよく考えてたのよね。空海のことを調べてるときに、彼の文章をよく目にしたせいもある。高野山でも、日蓮系の団体でも、なにやら顧問っぽいことしてたみたいだし。ブラタモリや岸辺露伴の関連で何か調べるときも、しばしば松岡の「千夜千冊」は参照してました。◇今年の正月のNHKのラジオで、ヤマザキマリと喋ったのが最後でしょうか?あのときも病み上がりと言ってましたが、Ado のことをずいぶん褒めてましたね。もともと日本のポップスにかんしては、松本隆より桑田佳祐の歌詞を評価してたけど、その点については、わたしも同意できた。◇…とはいえ、わたしは、べつに好きなわけでも詳しいわけでもなく、たしかに「千夜千冊」は、便利なので、ときどき参照してましたが、松岡の言う「日本という方法」みたいな発想は、むしろ胡散臭いとさえ思っていた。◇たとえば、空海にはじまると思しき「神仏習合」は、べつに日本に独自のものじゃなく、世界中に似たようなものは存在するわけで、そもそもインドの密教自体が、ヒンズー教との習合から生まれてるんだろうし、中国密教にも道教的な要素が混じってると思う。ヨーロッパの場合も、ギリシャやローマの神々が、キリスト教の聖者信仰と習合してるところはある。◇それらは、融通無碍な原始性というべきもので、あえて「方法」というほどのものじゃないし、まして日本の独自性と誇るべきものでもない。それを取り立てて、「日本という方法」と言いかねないところに、眉唾じみたものを感じてたわけですが、寺山修司が、「松岡なんぞを信用するな」と言ってたのも、そういうところじゃないかしら?◇でも、まあ、松岡がつくった「千夜千冊」は、手っ取りばやく要点をつかむには便利なコンテンツだし、日本人の信仰にかんしても、一神教の亜流みたいな国家神道より、融通無碍な神仏習合のほうがまだマシとはいえる。ただ、オウム真理教にかぎった話ではなく、浄土真宗や禅宗の戦争協力も暴露されてるように、仏教を信頼しすぎることの危険性もあります。神道であれ、仏教であれ、ユダヤ・キリスト・イスラム教であれ、主要な宗教のほとんどは暴力に関与してるのだから、宗教の力で「殺生」をなくせるというのは、ほぼ幻想です。空海の夢新版 [ 松岡正剛 ] 楽天で購入
2024.08.22
今年は空海の生誕1250年ってことで、先日の「歴史探偵」でも空海を取り上げてましたが、NHKは空海の関連番組をまとめて放送してるのね。空海ゆかりの京都・神護寺では、「両界曼荼羅図」の修復が終わったらしいけど、その神護寺も創建1200年にあたるとのこと。◇今後も、Eテレなどで放送予定の番組がありますが、とりあえず、わたしが見終わったのは以下の3番組です。NHKスペシャル「空海の風景」は、2002年のドキュメンタリーの再放送で、司馬遼太郎が1975年に書いた小説の映像化です。ザ・プロファイラー「伝説とともに生き続ける巨人」は、2016年に放送されたBSの番組。いとうせいこう&夢枕獏&鈴木蘭々が出演してました。そして、国宝へようこその「神護寺編」は今年1月のBSの番組。【空海の世界へようこそ】NHKではこの夏、生誕1250年を迎えた「空海」に関する番組を多数放送し展覧会を開催します。それに合わせアーカイブスでも「空海」にまつわる動画を集めました。https://t.co/hg9s39sPeC日本文化に大きな影響を残した「空海の世界」をお楽しみください。#空海 #神護寺— NHKアーカイブス (@nhk_archives) July 10, 2024◇それらの番組をとおして、わたしがいちばん興味を引かれたのは、司馬遼太郎が書いてる、空海が蝦夷の血を引いてる…という話です。まさか香川(讃岐)の人が蝦夷の子孫とは知らなんだ!空海の父方にあたる佐伯氏はもともと、ヤマトタケルが東国から連れてきた蝦夷だとの説です。◇以下は、Wikipediaの記述。佐伯部さえきべは古代日本における品部の1つであるが、ヤマト王権の拡大過程において東日本を平定する際、捕虜となった現地人(ヤマト王権側からは「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。『日本書紀』によれば、日本武尊ヤマトタケルが東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えており、これらの伝承の史実性はともかくとして、古墳時代の中頃(5-6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直さえきのあたい」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。部名の由来:平安時代以来「叫ぶ」に由来するとされてきたが、『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障さへぎる者き」で、朝廷の命に反抗する者の意味と説くものもあり、別に上記景行天皇紀に「騒い」だとあることに着目し、「大声を発して邪霊や邪力を追いはらったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌で、佐伯部は「サハグ部」であるとの説もある。あるいは、聞きなれない言葉を話すので「騒さえぐ」ように聞こえたことに由来するとする説もある。https://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯部ちょうど空海の時代にも、坂上田村麻呂らに敗れた蝦夷たちが、俘囚として列島各地へ強制移住させられたけど、それと同じようなことが古墳時代にもあったのね。◇空海の秀才っぷりは、学者の家系である母方(=阿刀氏)の血筋だろうけど、空海はたんなる秀才にはとどまらないし、その超人性は、むしろ父方の蝦夷の血筋から来てる?…とも思えてくる。ただし、空海の父方は、あくまで「佐伯部」を統率した「佐伯直」であって、それは蝦夷の子孫じゃなく、むしろ在地の豪族と見なす解釈のほうが有力らしく、実際のことろ、空海自身も、蝦夷のことをはげしく侮蔑していたフシがあります。まあ、よくもわるくも、蝦夷の文化が空海の近くにあった…とはいえるのかも。司馬遼太郎が言うように、そのことは彼の「多言語性」にもつながりますが、(蝦夷は中央の日本語とは別言語を話してたから)わたしは、それ以上に、空海の「山岳的資質」につながってる気がします。◇唐へわたる前の空海は、都を離れて山伏みたいな修行をしてたし、唐から持ち帰った彼の密教は、紀伊半島などの山伏たちを取り込みながら、修験道を軸とした神仏習合を推し進めていった。そこにこそ、わたしは最大の「蝦夷っぽさ」を感じます。なお、3年前に放送された「日本人のおなまえっ!」によれば、奈良時代には、紀伊半島に「鬼」と恐れられた山伏たちがいたらしい。そんな山伏たちの棲む世界を、あえて空海は真言宗の一大拠点にしようと構想した。そういう山岳的な感性は、のちの源義経にも通じる部分があると思う。むろん源氏も王臣子孫だから蝦夷じゃないけど、空海と義経が、それぞれ「民衆の伝説」になっていく過程には、どことなく共通したものがあるのよね。◇ふつうなら、渡来系の氏族が「崇仏派」!土着系の氏族が「排仏派」!…みたいに考えがちのように思いますが、もしかしたら空海は、土着の蝦夷の子孫でありながら、(あるいは蝦夷の文化に近い存在でありながら)日本の仏教化を強力に推進する立役者になった。それはなぜか??…そこには空海の真言密教の特殊性があると思います。空海の開いた真言宗は、本来の仏教から逸脱するような新しい宗教であり、奈良の都市仏教(南都六宗)とも異なる山岳仏教だった。1.煩悩を否定しない宗教密教は、人間の煩悩を戒める元来の原始仏教とは異なり、万物のなかに大日如来を見ようとする宗教であり、その結果として、俗人の欲望すらも肯定してしまうような思想です。そういう多神教的な発想は、インドのヒンズー教や、中国の道教や、日本の神道などに近いところがある。空海が学んだ唐の「青龍寺」は、ちょっと道教っぽい名前のお寺だなと思うし、京都の「神護寺」は神道っぽい名前のお寺です。唐へ渡る前の空海が、室戸岬の御厨人窟で修行してたときに、明けの明星が口のなかへ飛び込んで来たって話も、なんとなく龍燈の伝説に近いものを感じるし、空海を高野山へ導いたのは丹生明神だった、…みたいな話もあります。◇とにかく、真言密教は旧来の仏教から見れば異端であり、当時としても、けっして主流ではなかったはず。たとえば、桓武天皇のお墨つきで入唐した最澄は、いちおう留学期間の終盤に密教を学んだものの、それはせいぜいオマケ程度でしかなく、留学の主要な目的は密教以外のところにあった。空海の師匠となった青龍寺の恵果は、唐の3代の皇帝に師と仰がれ、「三朝の国師」と讃えられるほどだったけど、空海のほかには弟子に恵まれることなく、中国本土ではその宗派も途絶えてしまった。◇しかし、その一方、空海がもちかえった真言密教は、奈良仏教との差別化を図りたい朝廷の意向に合致し、さらには修験道の基礎にもなって、列島各地の山民やまつろわぬ人々をも統合していく。密教を媒介とする神仏習合は、かならずしも国家的な政策だったわけではなく、むしろ自然発生的な民衆運動として進展した面が強い。それは、密教が、多神教的な世界観を包摂し、人間の煩悩を否定しない宗教だったからです。つまり、人間が生きることを肯定する宗教だった。その後の鎌倉仏教における、浄土真宗の悪人正機も、時宗の踊り念仏も、そういう密教の思想の流れを汲んでる。空海がもたらした新しい宗教の潮流は、坂上田村麻呂による蝦夷征伐以上に、国民社会の統合原理として機能した可能性がある。2.山伏を取り込んだ仏教真言宗の高野聖や、浄土真宗の毛坊主には、山伏から転身した者が多かったはずです。彼らは、真言派であったり、天台派であったり、はたまた仏僧であったり、神職であったり、融通無碍で扱いにくい存在でもあったけれど、必要に応じて空海や円仁の権威を利用しながら、神仏習合の思想を伝播させるための役割を果たし、その過程のなかで、有象無象の伝説を日本中にばらまいたのでしょう。◇もともと山伏は、山林の自然環境を生き抜いてきた人々で、山岳資源の活用方法に通じた技能者だった。農具や建材を造作したり、水源や温泉を掘り当てたり、鉄や金銀銅や丹生などの鉱物を扱ったり、山岳的な知恵と技能を駆使することが出来たし、薬学や土木工学のような実学の伝道者でもあった。3.空海伝説は後世の創作たしかに空海自身も天才的だったと思うけど、その偉業の多くは死後に実現したものですよね。空海の生前には、高野山の都市計画も1/100ほどしか実現してないし、彼が設立した日本初の私立学校「綜芸種智院」も、わずかな期間で廃絶して、ほぼ失敗だったといえる。けっして万能の超人だったわけじゃない。もちろん日本各地にばらまかれた空海伝説も、生前の空海が生み出したものではなく、彼の死後に神仏習合を受け入れた人々の所産です。つまり、空海や円仁の権威を利用したい山伏たちと、その山岳的な知恵と技能に学びつつ、彼らが語る思想に希望を見出したい人々の、それぞれの思惑が合致したところに生まれた伝説。◇たとえば大同2年伝承なども、勝者の歴史観にもとづく改ざんではあるものの、それは朝廷の意向でも、高野山の意向でもなく、いわば民衆運動のなせる業だったかもしれません。思えば、「ビートルズ神話」や「はっぴいえんど神話」も、けっして当人たちがでっちあげたわけではなく、その権威を利用したい人々や、その威光にあやかりたい人々による捏造なのよね。…ザ・プロファイラーでは、鈴木蘭々が「民衆が空海に夢を求めたのだ」と話してた。民衆が「これなら救われる」という希望をもって仏教のなかに一歩足を踏み入れられるきっかけを作ってくれたのが空海だったような気がします。頭打ちの現実界からさらに「まだあるんだよ」って伸びしろを残してくれた部分はファンタスティックで、「もっともっと広い世界があるんだよ」って教えてくれる夢のある存在ですね。これは、かなり空海の本質を言い当ててる。◇ちなみに余談ですが、高野山の奥の院へむかう参道には、なぜ真言宗を弾圧した織田信長の墓があるのかしら?…と疑問に思ってるのだけど、以下の記事に、そのへんのことが書いてありました。https://sightsinfo.com/koyasan-yore/okunoin-oda_nobunagahttp://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-244.htmlそれから、空海の母の名は「阿古屋あこや御前」って話があるけど、それって名取川に橋を架けた藤原豊光の娘とは無関係??【#神護寺展 展示作品②】現存最古の両界曼荼羅で空海が筆を入れたと伝えられる国宝「#両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」。花や鳳凰の文様を織り出した絹地に、金と銀で仏の姿が描かれています🖌✨2016年から6年にわたり、約230年ぶりの修理が行われました!修理後の姿をぜひご覧ください!#東博 #上野 pic.twitter.com/R36VDXosyz— 創建1200年記念 特別展「神護寺ー空海と真言密教のはじまり」 (@jingoji2024) April 30, 2024【速報「空海展」が開催!】空海と真言密教の魅力を紹介。4メートル越えの神護寺所蔵の国宝《両界曼荼羅(高雄曼荼羅)》は、修理後初公開奈良国立博物館「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」2024年4月13日〜6月9日#空海展https://t.co/XWDXkUW8j2 pic.twitter.com/GeHPolAzaT— アイエム[インターネットミュージアム] (@InternetMuseum) August 29, 2023空海の風景 上巻 新版 (単行本) [ 司馬遼太郎 ] 楽天で購入
2024.07.25
NHKの「歴史探偵」を見ました。先日も、江ノ島の五頭竜のことを書きましたが、またまた龍の話です。今年は辰年だし…(^^;1.ダイナソーと恐龍英語の「ダイナソー/dinosaur」は、 ギリシャ語の「恐ろしい/deinos」+「トカゲ/sauros」の合成語。にもかかわらず、古生物学者の横山又次郎は、これを「恐蜥/恐蜴(恐ろしい蜥蜴)」とは直訳せず、あえて「恐龍(恐ろしい竜)」という訳語にした。イギリスの有名な解剖学者であり、古生物学者でもあるリチャード・オーウェンは、1842年に新しい生物のグループ「DINOSAURIA」を作りました。これは、ギリシャ語の「deinos sauros」に由来し、「恐ろしいほどに大きい」という意味の「deinos」と、「トカゲ」を意味する「sauros」を合わせて作られた言葉です。1895年、古生物学者の横山又次郎が著した「化石学教科書(中巻)」の中で、はじめてDINOSAURIAが「恐龍」と日本語訳されました。これは「deinos」を「恐ろしい」と訳し、大型の爬虫類=龍のイメージで「恐龍」としたようですので、「恐ろしいほどに大きいトカゲ」というDINOSAURIA本来の意味とは若干異なる訳し方でした。その後も「恐蜥」「恐蜴」(いずれも蜥蜴とかげから)などの用語が提案されていましたが、最終的に「恐龍」が定着し、字体も簡単になった現在の「恐竜」が広まりました。https://www.dinosaur.pref.fukui.jp/dino/faq/r02005.htmlわたしは、つねづね、「竜」の字よりも、「恐」の字のほうに違和感があったのよね。人間側の感情を生物の名称に押しつけるのは、科学的な客観性に欠けると思ったから。しかし、じつは「竜」のほうが意訳で、むしろ「恐」は英語の直訳だったってこと。逆に考えると、なぜ英語では、恐竜のことを、「ドラゴン」でなく「サウルス」と呼んだのかしら?そっちのほうが不思議です。コモドオオトカゲのことは「コモドドラゴン」と呼んでるくせに!どう見ても、恐竜はトカゲじゃなくてドラゴンでしょ!種類によっては羽まで生えてるんだから!◇そもそも竜やドラゴンは、恐竜の化石から空想された可能性があるのだし、その意味でも、恐竜を「ドラゴン」と見なすのは奇異なことじゃない。だから、わたしは、お正月の「ダーウィンが来た」の特集のときも、竜は架空の生き物じゃない!!…と書きました。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202401160000/2.竜の実在性先日のNHKの「2時間でまわる江の島」によると、江の島の中津宮や、日光東照宮の装飾においては、象の彫刻でさえ空想で作られたそうです。なぜなら、象を実際に見た人がいなかったから。なので、想像上の象は、実際の象とは食い違いがある。しかし、想像で表現されたからといって、それを「架空の生き物」というべきではない。象はあくまで実在の生き物です。それと同じことは獅子や麒麟にもいえる。その実物を見ることが出来なかった時代には、想像で表現するしかなかったでしょうが、ライオンやキリンは実在してるのだから、獅子や麒麟を「架空の生き物」というべきじゃない。同じことは竜にもいえます。実際に見た人がいないとしても、かつての地球には恐竜が実在してました。◇今回の番組によれば、滋賀県大津市で江戸時代に発見された「竜骨」は、50~60万年前の象(トウヨウゾウ)の化石だったそうです。日本にも象がいたんですね!知らなかった!10才くらいの子象の化石だったらしいけど、それでも日本の現生動物よりは大きいし、当時は象牙すら見たことがなかっただろうから、それを「竜骨」と勘違いしても無理はない。ちなみに、化石を発見した家は「龍りょう」の姓を賜り、竜骨だと信じた化石を削って、生薬に利用してたそうです。竜も見たことがないし、象も見たことがないのだから仕方ありませんね。化石を煎じて飲めば、すくなくともカルシウムは摂取できる。中国でさえ、あらゆる動物の化石を「竜骨」と見なして、それを煎じて飲んでいたとの話はあります。3.放射能汚染された恐竜ところで、ダイナソーを「恐龍」と訳した横山又次郎は、長崎出身の古生物学者だったのだけど、その生家は諏訪町の諏訪神社の近くで、そこは長崎くんちの「龍踊じゃおどり」が有名なのですね。信濃の諏訪神社と同じく蛇を祀ってるからでしょうが、それは江戸元禄期にはじまったようです。さらに!くしくも近年は、長崎で恐竜の化石の発見が相次いでるのね。ティラノサウルス科の大型恐竜の歯も出たとか。さっそく恐竜博物館まで出来てるw福島のフタバスズキリュウやフタバサウルスも、原発事故の放射能で汚染されただろうけど、長崎のハドロサウルスやティラノサウルスも、原爆の放射能で汚染されたのかもしれません。◇ゴジラも、放射能で汚染された恐竜でした。その元ネタは、米映画の「原子怪獣現わる」とか、山川惣治の「少年ケニヤ」だと思ってましたが、原作者の香山滋は、子供のころから恐竜図鑑を読んでたそうです。東京府立第四中学時代に横山又次郎『前世界史』を読んだことをきっかけに、恐竜をはじめとした古生物に魅せられ、独学で地質学や古生物学を学ぶ。多くの空想小説、秘境探険小説で珍獣、怪獣を登場させていた。https://ja.wikipedia.org/wiki/香山滋小説家になるくらいだから、コナン・ドイルの「ロストワールド」なんかも読んでたのかな。4.龍神になった蛇神NHKのゲスト解説者の畑中章宏によると、・紀元前の中国では、龍が国土や王権の守護神だった。・日本では、もともと蛇が水神だった。・弥生時代から蛇神が龍神へと置き換わった。・9世紀には日本各地に龍の霊場があった。…とのこと。わたしが思うに、仏教の影響は大きいでしょうね。とくに最澄や空海の山岳密教を中心に、9世紀の神仏習合が進んでいく過程で、土着の蛇神が龍神に見立てられ、退治されたり教化されたりしながら、仏教に取り込まれていったんだろうと思う。龍を祀る場所が増えたのはそのせいでしょう。◇雨を降らせて3つに裂かれた龍の伝説も紹介された。https://ja.wikipedia.org/wiki/雨を降らせて殺された竜3つに裂かれた龍角&龍腹&龍尾が、それぞれ天から落ちてきて、そこに3つのお寺が建てられた。龍角寺に伝わる「竜骨」は、作り物なのかしら?獣の骨なのかしら?恐竜にしては、ちょっと小さい気がします。龍は、いつもあたたかく迎え入れてくれる村人達への恩返しとして、降雨のために自分の身を捧げることを決意。大龍王が降雨を止めているため、雨を降らせることになれば大龍王の怒りを被り、自分の体は三つに裂かれて地上に落とされるだろう、と村人に伝えて姿を消しました。すると天に昇っていく龍の姿が見え、その姿が雲のなかに見えなくなると、雷鳴と共に稲妻の光の中で龍の体が三つに裂かれ、そしてまもなく雨が降り出しました。七日七晩続いた雨が止むと、二本の角をもつ頭は龍閣寺(栄町)、腹部は地蔵堂(印西市)、尾は遠く離れた大寺村(匝瑳市)で見つかりました。龍閣寺は龍角寺と改め、腹部を納めた龍腹寺と、尾を納めた龍尾寺も建てられ、やさしい龍神様を祀っています。そののち、印旛沼からたびたび龍灯が現れて三つに分かれ、それぞれの場所に向かうと言われています。龍角寺は、元明天皇の時代、和銅2(709)年に建てられ、天平3(731)年に小龍の頭が落ちて龍角寺と改名された、とその縁起に残されています。寺に落ちてきた小龍の頭の骨も龍角寺に保存されており、春の桜まつりや秋のふるさと祭りで公開されます。https://ukiuki-chiba.com/etc-area/印旛に残るやさしい龍の伝説千葉県栄市にはマスコットキャラクターの龍夢ドラムくん。7月10日(水)午後10時から午後10時45分に、#NHK にて #歴史探偵 〜恐竜大国ニッポンの原点〜において、栄町に残る龍伝説が紹介されるよ!是非、みんなで見てね!#千葉県栄町#栄町#龍伝説#恐竜#ドラム#龍夢#ゆるキャラ pic.twitter.com/XSkYxYOGWh— 龍夢くん【千葉県栄町】 (@doramu_kun) July 8, 2024
2024.07.16
NHK究極ガイド「2時間でまわる江の島」を見ました。知らないことだらけなので勉強になった。先月は「プラハ編」も放送してたみたい。見たかったな…。ちょくちょく再放送すればいいのに!◇1.岩屋二つと山二つ江の島のいちばん奥には洞窟があって、その内部は「岩屋」と呼ばれており、 そこが信仰の起点になったのですのね。洞窟があることすら知らなかった!第1岩屋と第2岩屋があるらしい…石灰岩の鍾乳洞じゃなくて、凝灰砂岩の海蝕洞のようです。全体的に削られるのではなく、なぜ細長い穴になるのか不思議。◇Wikipediaによれば、> 富士山風穴をはじめ、> 関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある…とのことですが、たぶん竜宮伝説にも関係があるのだと思う。竜宮といえば…弁天橋が江の島に架けられてるイメージは、彼岸と此岸が結ばれる極楽浄土にも似てます。かつての鎌倉の永福寺も池に橋が架かる作りだったはず。でも、調べてみたけど、思いのほか江の島に浄土宗などの影響は少ないみたい。なお、江の島まで橋が架けられたのは明治時代ですが、トンボロの原理で干潮時に砂州が出現するので、モンサンミシェルのように歩いて渡れたそうです。◇岩屋の前には、波に削られた岩棚(海食台)が広がっており、これは「稚児ヶ淵」と呼ばれてる。広重の浮世絵などにも描かれてますが、そこで子供と遊んだり、釣りをしたり、酒を飲んだりして、レジャーの場だったみたい。これらの岩棚は、関東大震災で2メートルも隆起したそうです。なお、「稚児ヶ淵」という名称は、僧侶からのストーカー被害に悩んだ美少年が、ここから身を投げた…というBL的な話に由来する。#今日の推しおじ 本日紹介するのは、江の島の稚児ヶ淵の岩場で宴会をするおじさんたち。周囲で大波がたっていますが、大丈夫なのでしょうか。。写真は付近の岩場を撮ったものです。来年2/3から太田記念美術館で開催の「広重おじさん図譜」展で3/3~26展示予定。#広重おじさん図譜 pic.twitter.com/sWicbx7B8r— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) December 16, 2022江ノ島は、上から見ると瓢箪みたいにくびれてるけど、これは海蝕洞が拡大して崩落してしまったから。もともとは1つの山だったのに、2つの山に分かれたような形になってしまった。くびれた部分はその名も「山二つ」と呼ばれて、谷あいから海を覗くような面白い景観を生んでます。江の島頂上「山二つ」は今日もいい天気です!江の島散策日和が続きますね〜 #江の島 #江ノ島 pic.twitter.com/69TFPeBf3B— 江の島名物 元祖海苔羊羹、弁天塩羊羹の中村屋羊羹店、中村屋本店茶房 (@nori1902) October 26, 2023 2.弁才天と五頭竜伝承によれば、西暦552年(欽明天皇13年)に、弁才天が天女みたいに降臨して江ノ島をつくり、鎌倉一帯を荒らしていた五頭竜と結ばれたそうな。西暦700年には役小角が岩屋で修行。814年には弘法大師空海も岩屋(金窟)で修業してお宮を建て、それが神仏習合によって金亀山与願寺きんきざんよがんじになった。いまも第一岩屋の本宮には、空海が唐から持参したという狛犬みたいな獅子像が鎮座してる。853年には慈覚大師円仁も岩屋(龍窟)で修業して、地上のお宮(現在の中津宮)を建てたのですね。江の島岩屋。江島神社発祥地。いい感じの狛犬。富士山(鳴沢氷穴)まで繋がっているとかいないとか。ってのが第一岩屋。イルミネーションの先にいかつめの龍がいるのが第二岩屋。 pic.twitter.com/FSWSlR1dAu— Mr.Fush1 (@ran_ivivi) January 18, 2022 開運招福の縁起物! 陶器製 笑門七福神 弁財天・弁才天 特大 飾り台・木札付きです。 〈招福開運の縁起物 しちふくじんにんぎょう べんざいてん 弁天さま 和のインテリア 陶器の置物 七福神の置物 七福神人形 福の神 日本の伝統品 工芸品 通販〉価格:7,920円(税込、送料別) (2024/7/10時点) 楽天で購入 こうした話はすべて、天台宗の皇慶が1047年に書いたとされる「江島縁起」にある。弁才天と五頭竜の伝説はもちろん、役小角や空海や円仁が来たって話も本当かどうかは怪しい。ぜんぶ皇慶が創作したファンタジーの可能性もある。なお、鎌倉の「龍ノ口」や「腰越」などの地名も、五頭竜伝承に結びついてるそうです。https://hama-toku.jp/saihakken/03/enoshima/◇悪神である竜が仏僧に退治されたとか、改心して仏教に帰依したとかいう話は日本各地にあり、それらは神仏習合の歴史を物語ってると思いますが、弁才天と五頭竜が結婚したという話も、そうしたもののひとつなのでしょうね。日本書紀では、欽明天皇13年を仏教伝来(仏教公伝)としてるらしいので、それに合わせて創作された仏教説話なのでしょう。いつから弁才天の信仰があったのか知りませんが、史実では、1182年になって、源頼朝が真言宗の文覚に命じて弁才天を勧請してる。いまも辺津宮の奉安殿には、頼朝が運慶派の仏師に作らせた八臂弁財天像があります。江島神社:八臂弁財天像https://t.co/W9lZhqjQ0u— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 10, 2024◇1271年、鎌倉幕府の怒りを買った日蓮上人が、龍ノ口で処刑されそうになったとき、江ノ島のほうから「光の玉」が飛んできて、刀を折って刑を中止させた…という伝説がある。日蓮宗の龍口寺に伝わる「龍ノ口法難」です。この光の玉の正体は、火球だとか落雷だとかいわれたりしますが、これって「龍燈松」に似てますよね。海から龍燈が飛んできて松に火を灯すってやつ。それもまた龍神・龍宮伝承の一種。実際、稚児ヶ淵のほとりには、昭和の初めごろまで龍燈松があったっぽい。http://edomingu.com/enoshimaInformation/ryutomatsuDragonLight.html3.ゴジラ or ガメラ or キングギドラ江ノ島の信仰は、五頭竜(≒キングギドラ?)に結びついてるけど、空海が創建した「金亀山与願寺」の名称から察するに、もともとは亀(≒ガメラ?)の信仰があったのかもしれません。ひょうたん型にくびれた島の形が亀みたいだったからでしょう。奥津宮拝殿の天井には、酒井抱一が1803年に描いた「八方睨みの亀」もある。ちなみに、ゴジラの語源は「ゴリラ+クジラ」らしいけど、五頭竜(Godzulyu)の発音は、ゴジラ(Godzilla)の発音にも似てる…。現在、第2岩屋には、ハイテク仕様の竜のオブジェが設置されていて、参拝者が手を叩くと、その音に反応して、ゴジラみたいに光りながら咆哮をあげている。神奈川の江島神社奥津宮拝殿の天井に描かれた「正面向亀図」、通称「八方睨みの亀」は、幕府老中を輩出した名門・姫路藩主酒井雅楽頭家の次男坊にして、江戸琳派の開祖・酒井抱一の作(現在は模写)。抱一の兄で藩主の忠以も殿様芸を超えた力量を持つ。 pic.twitter.com/wDYBRJuRAr— 江戸文化歴史検定 (@edoken_jp) June 2, 2015 江ノ島にゴリラはいませんが、かつて相模湾の江ノ島周辺にはクジラが生息して、三浦浄心や仏教界などの批判にもかかわらず、組織的な古式捕鯨もおこなわれていた。思えば、庵野秀明のシンゴジラは鎌倉に上陸したのだし、案外、ゴジラのネタ元は、江ノ島の五頭竜に化けた相模湾の鯨かもしれません…。現在は、江ノ島水族館でゴンドウクジラが飼育されてます。皆さんアップされた中からお借りしましてん。色んな色調があるんですなぁ。ところでここに上陸する前、江の島の横を通ってくるそうですが、そもそもシン・ゴジラ君はどこからやってくるのでしょう? ここに来る前に多分蒲田上陸だしなぁ。わからん! pic.twitter.com/P9yYLatEFG— 江の島湘南デートアカウント (@enoshimadate) September 21, 2016 5.弁天小僧と管鍼術江戸時代、盲目の鍼師だった杉山和一が岩屋を参拝し、帰り道で大きな石に躓いて転んだときに、松葉の入った竹の管を拾ったことから、いわゆる「管鍼術」の発想を得たとのこと。彼は徳川綱吉に認められ、綱吉とともに江ノ島信仰の普及のために尽力。1689年には、綱吉によって、中津宮が権現造りの社殿として再建されてます。なお、杉山和一を躓かせた石は「福石」と呼ばれてますが、江戸時代には、弁才天が福徳神・財宝神として信仰され、そこから「弁財天」の字を当てるようになったのですね。杉山和一も弁財天から福を得たといえます。そういえば、先日の高橋一生の「バスサンド裏鎌倉」では、宇賀福神社の銭洗弁天を訪ねてましたが、江の島の辺津宮にも銭洗弁天があるようです。◇もともと弁才天は琵琶を弾く神様なので、歌舞伎など芸能にたずさわる人々の信仰も集めた。中津宮にある2つの石灯籠は、市村座が1777年に寄進したものと、中村座が1782年に寄進したものです。そして1862年には、中村座で『白浪五人男』が初演されますが、名ゼリフ「知らざあ言って聞かせやしょう!」…で有名な弁天小僧は江ノ島出身なのですね。この芝居は、ゴレンジャーなどスーパー戦隊ものの元ネタだけど、サザンの「旅姿六人衆」とは関係ないのかしら?知らざあ言って聞かせやしょう (声にだすことばえほん) [ 河竹 黙阿弥 ]価格:1,485円(税込、送料無料) (2024/7/10時点) 楽天で購入 1789年には、紀の国屋本店と井上総本舗が、二色の「女夫めおと饅頭」を販売しはじめる。女夫めおととは弁財天&五頭竜のことらしい。6.宗像三女神と江ノ電明治時代になると、廃仏毀釈で仏像や仏教施設が破壊され、金亀山与願寺は仏式を廃して江ノ島神社になり、さらには弁財天も宗像三女神に置き換えられ、辺津宮にはタギツヒメが、中津宮にはイチキシマヒメが、奥津宮にはタギリヒメがそれぞれ祀られる。1882年:アイルランド人貿易商サムエル・コッキングが植物園を造営。1891年:川口村が江の島までの桟橋を架ける。1902年:江之島電氣鐵道(江ノ電)が開通。1949年:コンクリート製の橋脚による「江の島弁天橋」が完成。1951年:読売平和塔(旧江の島灯台)が竣工。1958年:江の島弁天橋を鉄筋コンクリート製に改修。1959年:野外エスカレーターの「江の島エスカー」が開設。1964年:東京五輪のヨット会場にちなみ白灯台(湘南港灯台)が竣工。2002年:江の島シーキャンドル(新江の島灯台)が竣工。江ノ電が開通した1902年には、山二つの付近で中村屋羊羹が開業。大正になって「海苔羊羹」を商品化。これが女夫饅頭とならぶ江の島名物に。江の島グルメといえば「しらす丼」もある。生シラスの旬は4~5月・7月・10月だそうです。◇シーキャンドルは山上にあって、展望台もある大きな灯台ですが、萌歌が写真を撮ってた白灯台は、東側の護岸にあって車でも行けるっぽいけど、小さくて上にも昇れないみたい。萌歌と江の島の灯台。#adieu #柴田聡子 pic.twitter.com/RF4d5XhE2d— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 20, 20221951年に、植物園の経営が江ノ島鎌倉観光に委託されたとき、伊豆大島からタイワンリスを連れてきたものの、台風の際に飼育小屋が壊れて逃げ出し、弁天橋も超えて鎌倉市内で繁殖するようになったのだと。先日のバスサンドでは、裏鎌倉の住宅地にもリスが出没してたけど、あれが江ノ島から逃げたタイワンリスだったのかしら?裏鎌倉の銭洗弁財天。 https://t.co/WuzzMMlE3a pic.twitter.com/nVaftAw5nM— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 27, 2024
2024.07.12
鬼滅の刃「柱稽古編」が終了。総じて作画のレベルは高く、回ごとのバラつきも感じなかったけど、最終2話はとくに素晴らしくて、・夜の冷気のなかを無惨が歩いてくる場面・雪のちらつく中で産屋敷邸が爆発する場面・無限城へ落下する際の底無しの表現などは秀逸でしたね。また、全体をとおして、このアニメの演出の巧さもあらためて感じました。◇この物語は、「人間の不死願望にどう向き合うか」という手塚治虫以来のテーマを共有してますが、最後の無惨と産屋敷の対話で、鬼の「身体」の永遠性と人の「精神」の永遠性との闘い…という構図が明らかになりました。◇それから、わたしが個人的に注目したのは、産屋敷家の代々の当主が、神職の家系から妻を迎えてきた…という話。竈門家が、カグツチの子孫なのは確かだと思うけど、産屋敷家もまた、神々の血を受け継いできたことになる。つまり、鬼との戦いは、「仏」ではなく「神」の力でおこなわれてる、…ということです。◇なお、岩柱の悲鳴嶼行冥は、浄土真宗の盲僧っぽいのですが、彼が剃髪をしてないのは、柳田国男のいう「毛坊主」だからかもしれない。浄土真宗は、仏教のなかでは神仏習合の度合いが強く、もっとも「神」寄りの宗派じゃないかと思います。◇わたしは一昨日の記事の中で、「岸辺露伴はゴシックだ」と話したのだけど、かりに鬼滅の刃が、「仏」よりも「神」を重視してるとすれば、この作品もやはりゴシックだなと感じます。阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆【電子書籍】[ 桜井哲夫 ]価格:3,344円 (2024/7/1時点) 楽天で購入
2024.07.01
NHK「地球ドラマチック」を見ました。今回は《ネアンデルタール人 vs ホモサピエンス》です。以前、縄文人と弥生人の遺伝子分布の記事を書いたときから、ネアンデルタール人とホモサピエンスの関係にも、ちょっと興味があったのよね♪◇最初に問われるのは、「なぜホモサピエンスだけが生き残ったのか?」「なぜネアンデルタール人は絶滅したのか?」…ってことなのだけど、実際は、ネアンデルタール人が絶滅したとは言いきれず、現生人類の遺伝子の数%のなかに生き残ってる。その意味では、われわれの先祖だと言っていい。NHK Eテレ 06/08 19:00 地球ドラマチック ネアンデルタール人vs.ホモ・サピエンス 📱NHKプラスで配信予定💻 #nhketv #地ドラ #地球ドラマチック https://t.co/3qwgiyAEjd— NHK Eテレ(教育テレビ) (@NHK_ETV) June 8, 2024◇たしかに、純血のネアンデルタール人は絶滅したけれど、それをいうなら、アフリカ以外の地域では、純血のホモサピエンスもまた絶滅してしまって、いまや両者の混血しか残っていません。しかも、(今回の番組では取り上げられませんでしたが)以下の研究結果によれば、現在のアフリカ人のなかにさえ、ネアンデルタール人の遺伝子は混じってるらしい。アフリカ人にもネアンデルタール人DNA、定説覆す: これまでアフリカ人はネアンデルタール人由来のDNAをほとんど持たないとされてきましたが、新研究で覆されました。ヒト族の交雑の歴史は思ったより複雑です。 https://t.co/XVchHvAMUN #ナショジオ— ナショナルジオグラフィック日本版 (@NatGeoMagJP) February 3, 2020これは何を意味するか??…わたしが思うに、少数の凶暴なネアンデルタール人が、大多数のホモサピエンスとの交配を繰り返して、純血のホモサピエンスを駆逐したのでは?ってこと。ホモサピエンスがネアンデルタール人を駆逐したのではなく、ネアンデルタール人が純血のホモサピエンスを駆逐した、というほうが正しいのではないかしら?◇今回の番組に則していうと…ネアンデルタール人は、ヨーロッパをはじめとする北方に進出した狩猟種族で、資源の乏しい過酷な環境で狩りをしながら生き延びていた。ホモサピエンスよりも脳の体積が大きく、背は小さいけれど筋力が非常に強く、肌の色は白くて、瞳や髪の色も明るかった。木製の槍や火を使いこなし、アフリカゾウの2倍も大きいアンティクウスゾウを、協働で追い込みながら狩ったりしていた。子音や母音を発声できる舌骨をもち、装飾品を作る芸術的な能力ももっていた。30人程度の集団で生活をし、他の集団から女性を迎えて(あるいは略奪して?)いわゆる父系社会を構成していたようです。しかし、資源の乏しい環境に生きたネアンデルタール人は、最大でも総人口が7万人ほどしかおらず、孤立した集団などでは近親婚を繰り返し、その結果、遺伝的な多様性を失って、さまざまな環境変化に適応できなくなっていった。◇ホモサピエンスが、現在のネグロイドの直接の先祖、つまり、アフリカの黒人そのものなのに対して、ネアンデルタール人は、現在のコーカソイドに似ていて、つまり、ヨーロッパの白人に近いように思える。ホモサピエンスが、温暖なアフリカで繁栄した採集種族だとすれば、ネアンデルタール人は、寒冷なヨーロッパを生き延びた狩猟種族ですし、どちらが狂暴だったかは想像に難くありません…。◇これは、あくまで、わたしの想像だけど、人口の増えすぎたホモサピエンスは、アフリカを出て中東からヨーロッパへと進出した。そして、そのとき、ネアンデルタール人の一部は、近親婚を回避すべく、ホモサピエンスの女性を略奪し、混血交配を繰り返しながら遺伝子を残したのでは?そして、その際に、競合するホモサピエンスの男性を排除すべく、殺戮を行った可能性もあるんじゃないかしら?◇考えてみれば、南北アメリカの白人入植者たちも、先住民族やアフリカ人奴隷を虐げながら、その女性たちとの混血を進めてきたわけです。これは、北方の凶暴なネアンデルタール人が、南国の従順なホモサピエンスと混血してきた歴史を、現代において継続してるってことではないかしら?
2024.06.15
NHK歴史探偵「平安武士と蝦夷」を見ました。武士の起源は東北の蝦夷にあり!…という内容です。◇簡単にいえば、俘囚として強制移住させられた騎馬軍団の「蝦夷」と、官職を得られずに地方へ散らばった「王臣子孫」とが、9世紀末に関東で結びついて武士が生まれた、と。つまり、平将門も、源義家も、関東で蝦夷に交わった王臣子孫だったわけね。1.蝦夷の騎射軍団先月にNHKプラスで配信された、東北ココから「東北古墳調査最前線」によれば、ヤマト王権が大陸から馬を移入したのは、倭・高句麗戦争のあとの4世紀末~5世紀のこと。その後は東日本を馬の生産地として活用し、軍事用だった馬を輸送手段として平和利用してた。もしかしたら、それが裏目に出て、西日本より東日本で騎馬戦術が発達しちゃったの?東北の続縄文系の狩猟民が、朝廷の手に負えない騎馬軍団に成長しちゃった?…だとすれば意外です。◇ちなみに、ヒッタイトや匈奴のような大陸の騎馬民族は、遊牧&製鉄民だったわけですが、4年前のNスぺ「アイアンロード」によれば、遊牧は平原の技術、製鉄は山岳の技術なのよね。日本でも、馬&鉄の生産は、5世紀前後の同じころ始まったと思うけど、製鉄技術は西日本の山岳民が発展させて、騎馬技術は東日本の狩猟民が発展させた、…ってことでしょうか?そして、西と東の技術は、ようやく9世紀末に結びついて武士を生んだ?2.坂上田村麻呂とアテルイ8世紀の三十八年戦争では、蝦夷軍が騎射隊なのに、朝廷軍はまだ歩兵隊です。北上川東岸の巣伏の戦いでは、4倍の兵力を要しながら蝦夷軍に大敗してる。朝廷軍は、軍事力で蝦夷を圧倒したわけじゃなく、むしろ軍事力では蝦夷に圧倒されてたらしい。◇坂上田村麻呂の戦略は、軍事力で蝦夷に立ち向かうのではなく、政治力や文化力で凌駕することだったようです。当時の蝦夷軍は、西の「出羽国」と東の「陸奥国」の連合ですが、出羽国の秋田城で出土した「狄饗料木簡」を見ると、田村麻呂は、懐柔策によって連合軍を分断させ、陸奥国のアテルイを孤立させていく戦略だったらしい。そして敵前には、巨大な胆沢城を造営して10万規模の兵力を配備。文化力でも圧倒してアテルイを降伏させた。なにげに知将だったのね!◇田村麻呂は、アテルイを蝦夷統治に利用すべく、彼を処刑しないよう朝廷に嘆願したものの、蝦夷を鬼と恐れていた朝廷は聞き入れなかった。アテルイが処刑されたのは延暦21年。このことが東北の「大同2年伝承」にも関係してるはず。(延暦21年は西暦802年、大同2年は西暦807年です)なお、「阿弖流為」は当て字ですが、当時の東北の言語は、日本語じゃなかったようです。アイヌ語みたいな感じでしょうか?つまり、日本語の起源は、縄文系の土着言語じゃなく弥生系の大陸言語ってこと?3.武士の誕生アテルイが敗れたあと、蝦夷は「俘囚」として日本各地に強制移住させられた。保留地に移された北米先住民みたいな感じ?とくに騎馬軍団は、北九州の防衛や関東の治安維持にあたったようです。そして、これが、地方に下野した王臣子孫と結びついて武士を生んだ。周知のとおり、平将門は朝廷に敵対したけれど、なぜか源氏はくりかえし東北に侵攻し…源頼義は陸奥国守の大義名分で安倍氏を討伐(▶前九年の役)息子の義家も同じ名分で出羽清原氏の内紛に介入(▶後三年の役)その四代下の頼朝は、義経もろとも奥州藤原氏を滅ぼした(▶奥州合戦)◇なお、安倍氏も、出羽清原氏も、奥州藤原氏も、出自が「王臣子孫」か「俘囚」かはいまいち不明です。しかし、安倍氏は「俘囚長」を名乗り、出羽清原氏は「俘囚主」を名乗っていて、蝦夷の末裔としてのアイデンティティがあったらしい。そして藤原清衡も、安倍氏の母と出羽清原氏の養父をもつので、やはり奥州藤原氏もまた「俘囚上頭」を名乗ったのですね。◇それに対して源氏は、俘囚から弓馬を学んだ王臣子孫であるにもかかわらず、まるで、その恩を仇で返すかのように、俘囚勢に襲い掛かかって残虐非道のかぎりを尽くした。https://www.yokotekamakura.com/gosan/gosan-emaki/紫式部は、源氏を主人公にして優美な王朝物語を書いたけど、本来は「源氏物語」じゃなく「藤原物語」にすべきよねw源氏なんて、蝦夷より野蛮な一族だったのだし、鎌倉幕府も内ゲバだらけの広域暴力団だったのだから。ぜんぶ大泉のせい↓ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202212110002/なぜ『源氏物語』は主人公が「源氏」なのか? 藤原氏が排斥した「源氏の怨霊」を鎮魂するためだった? | 歴史人 https://t.co/f5pFNei7qK @rekishijin_magより— 歴史人公式アカウント (@rekishijin_mag) February 6, 2024 #PHP研究所 3月新刊紫式部はなぜ主人公を源氏にしたのか井沢元彦著https://t.co/ybCJdRjfyp 藤原氏全盛の時代に藤原氏を敵役(右大臣家)として描く『源氏物語』はなぜ書かれたのか。『源氏物語』の不可解な謎に歴史作家が迫る。— PHP研究所 広報 (@PHPInstitute_PR) March 13, 2024後三年の役では義家に従った藤原清衡も、その後は摂関家に取り入って源氏を排除したらしい。それだけ源氏の野蛮さを警戒していた?まあ、俘囚を名乗った安倍・清原・藤原にせよ、王臣子孫の立場で東北に攻め入った源氏にせよ、金や馬などの資源を目当てにしていた、…という点では同じなのかもしれませんが。
2024.06.15
NHKプラスで「東北ココから~東北古墳調査最前線」を見ました。東北地方のローカル番組ですが、先日のNスペ「古代史ミステリー」を補完する内容。とくに狗奴国にかかわる話だったように思う。簡単にいうと、東日本の《弥生系》勢力も《続縄文系》勢力も、ヤマト王権の影響を受けていて、交易もしてた!…みたいな話です。以下は、番組内容のメモ。1.東日本の《弥生系》勢力福島県の会津盆地では、弥生時代から稲作がおこなわれていて、そこは北陸と郡山盆地をむすぶ交通の要衝だった。その証拠に、木製の農具が出土した湯川村の桜町遺跡(3世紀ごろ)では、在地の土器だけでなく、北陸系の土器や北関東系の土器が出土してる。…会津盆地にある杵ガ森古墳は、3世紀末~4世紀初ごろの初期の前方後円墳。形は約6分の1スケールの「箸墓類型」で、箸墓古墳の時代から半世紀の隔たりしかない。やはり会津盆地の大塚山古墳は4世紀末の築造で、ヤマト王権から授かった三角縁神獣鏡や、ヤマト王権が朝鮮半島から輸入した鉄の製品が出土。埋葬された豪族はヤマト王権と対等な関係だったらしい。郡山盆地からすこし南下すると…須賀川市の団子山前方後円墳(4世紀中頃)では、2種類の円筒埴輪を交互に配置してる。その様式は山梨や静岡の前方後円墳と同じ。須賀川市の東にある小野町でも、在地の首長を埋葬したらしき前方後円墳が発見された。東海地方から東北南部の山間地にいたるまで、ヤマト王権の影響を受けた文化が共有されてたってこと。ただし、番組を見てても、弥生人が東北南部まで進出したのか、縄文人が稲作や古墳文化を取り入れたのかは分かりませんでした。徐々に混血が進んだのかもしれません。◇2.東日本の《続縄文系》勢力新潟市の角田浜妙光寺山古墳(4世紀前半)も、やはりヤマト王権の様式であろう前方後円墳。その近くの遺跡で出土したのは、続縄文文化と古墳文化の特徴を合わせた折衷土器。鉄や米を得るために海産物などと交易してた可能性がある。さらに新潟市からすこし北上すると…胎内市にある城の山古墳(4世紀前半)は、楕円形の円墳ではあるものの、副葬品の構成が近畿地方の古墳と同じだった。中国製の盤龍鏡、翡翠の勾玉、鉄製の太刀、高度なデザインの靫ゆき(=矢を入れる革製の筒)が出土。◇日本最北にある前方後円墳は、岩手県奥州市にある角塚古墳。5世紀末~6世紀初につくられてる。近くにある中半入遺跡は、その角塚古墳をつくった人々の住居跡で、馬の歯が出土してるのだけど、儀式として馬の生贄を埋めるのは大陸文化の影響っぽい。なお、魏志倭人伝には「馬無し」と記述されてるので、日本へ大陸の馬が移入されたのは、4世紀末~5世紀の「倭・高句麗戦争」以降のこと。それから半世紀ほどのあいだに、東北へも馬がもたらされて交易・運搬に利用された。東北地方から中央へ輸送された産物は、鎧のひもや馬具などに用いる大型動物の革など。◇6世紀中頃に仏教が伝わると、日本の古墳時代は終わります。今、全国で #ヤマト王権 の謎を解き明かす発見が相継ぐ東北でも新発見が!!古墳時代の最新調査研究から知られざる東北の姿を解き明かす!東北ココから古代史ミステリー 東北古墳調査最前線#NHKプラス で配信中!https://t.co/T6iNnp5ujo— NHK仙台放送局 (@nhk_sendai) May 11, 2024
2024.05.14
NHK歴史探偵「平安のスーパースター 空海」を見ました。今年は空海の生誕1250年にあたるそうです。大河「光る君へ」も平安時代が舞台ですが、空海が活躍したのは平安初期で、藤原道長や紫式部よりも200年ほど前の人です。774 - 835:空海966 - 1028:藤原道長970? - 1014?:紫式部北海道から鹿児島にいたるまで、さまざまな空海伝説が3000ほどもあるそうです。しかし、その真偽はかならずしも定かでない。ぶっちゃけ、かなり嘘っぽい(笑)。番組では、富山県上市町の護摩堂にある弘法清水を取材してました。いわく「空海が杖で地面を突いたら水が湧いた」ってやつ。空海は、ふつうなら10年はかかる唐での修行を3ヶ月で終え、日本人ながらも中国密教の正統な伝承者になったほどだから、さぞかし超人的な能力の持ち主だったのでしょう。しかしながら、地面を杖で突いただけで水が湧いたりはしないよね。そもそも空海が入唐する前の29才(西暦802年)のときに、ほんとに富山なんぞへ行ったかどうかも疑わしい。◇番組では言及しませんでしたが、こうした真偽の怪しい伝説に関連して、よく知られたものに、いわゆる《大同2年伝承》の問題がありますよね。たとえば、「大同2年に神社仏閣が創建された」「大同2年に鉱山が開坑された」「大同2年に火山が噴火した」「大同2年に温泉が湧いた」「大同2年に鬼が退治された」…などの伝承が日本各地に存在しており、その多くが空海や坂上田村麻呂の事績と結びつけられる。しかし、考古学的には、ほとんどデタラメっぽい。大同2年:円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない。東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の3月21日に開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど、大同2年(807年)及び大同年間(806 - 810年)はそれらの創建にかかわる年号である。阿仁鉱山や尾太鉱山が発見された年号にも使われている。高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同2年とするものが多い。那須連峰の茶臼岳旧火山の噴火、尾瀬ケ原の燧ヶ岳の噴火、蔵王刈田岳の噴火、秋田駒ヶ岳の噴火もこの年である。会津磐梯山の噴火は大同元年だが、その噴火を鎮めるために、大同2年に山麓に恵月守が建てられたといわれる。日光の男体山で旱魃を静めるために勝道上人が祈祷したのもこの年である。三湖伝説で八郎太郎が大災害を起こすのもこの年である。八溝山や森吉山、気仙郡などの鬼退治もこの年と伝えられている。山形県の肘折温泉に伝わる「温泉之縁起」史料の中に、大同2年あるいは大同年間に温泉が開かれたという記述がある。江戸時代の安永年間に相原友直が仙台藩の風土を記した『平泉雑記』の「田村将軍建立堂社」では、田村麻呂建立とされる仙台藩内の堂舎21ヶ所を挙げ、それらの観音は「大同2年」のものが多く、悉く信用が不足していると述べている。それらの記述を受けて1955年に堀一郎は、研究対象の寺院の地区を東北地方に広げ、12社をあげ研究している。https://ja.wikipedia.org/wiki/807%E5%B9%B4史実では、大同2年(807年)の前後に、坂上田村麻呂や空海にかんする次の事績があります。延暦17年(798年)坂上田村麻呂が清水寺を建立。延暦21年(802年)坂上田村麻呂の蝦夷征討によりアテルイが降伏。弘仁14年(823年)空海が真言宗を立教。しかし、かつては、「坂上田村麻呂による清水寺の建立」も、「空海による真言宗の立教開宗」も、大同2年(807年)の出来事と考えられたらしい。中世では清水寺の建立を「大同2年」と説くのが一般化していた。謡曲の『田村』、『花月』、室町物語の『田村草子』では全て大同2年は清水寺の建立に関わる年号とされている。https://ja.wikipedia.org/wiki/807%E5%B9%B4大同2年、唐で恵果阿闍梨から伝授を受け真言宗第八祖となった弘法大師空海は、京にのぼって平城天皇から真言宗宣布の勅許を得たとの記述が『金剛峯寺建立修行縁起』に登場するそうです。ただ通説では、大同4年7月に太政官符が下るまで空海は太宰府に留め置かれたり和泉の槙尾山寺に滞在したりしていて、上洛していないことになっています。また大同2年11月8日、大和の久米寺で『大日経』を講讃したとされていますが、これもあくまで伝説であるとして学術的にはスルーされているようです。とはいえ、伝統的にはこの「大同2年説」が最も重視されていて、実は高野山でも、明治39年(1906年)に金堂で「弘法大師開宗1100年記念法要」が厳修されたといいます。http://ww35.tiki.ne.jp/~komyoin/buddhism-and-society202310.htm◇今回のNHKの番組では、空海伝説が日本各地に残っている原因として、のちの高野聖による布教活動を挙げてました。つまり、彼らこそが、デタラメな空海伝説を日本中にばらまいたってこと。でも、たぶん高野聖だけじゃなく、山伏の影響もありますよね。奈良時代の南都六宗が「都市仏教」だったのに対し、平安時代の密教が「山岳仏教」だったこともあり、それは修験道の形成に大きく関係してるはず。簡単にいえば、山の神々を仏教へ統合する神仏習合の過程で、修験道が体系化されていったのだろうし、その結果、日本各地の山伏たちも、密教の伝道者として活動したにちがいない。◇土着の神々への信仰が、仏教のシステムを借りることによって、概念化され、体系化され、歴史化されていったなら、山伏や高野聖のような密教系の勢力によって、作為的な「正史編纂」が行われた可能性もあります。古事記や日本書紀の場合もそうですが、つねに正史というのは権力者に都合よく記述される。おそらく日本各地の「大同2年伝承」も、なんらかの権力側の意図によって作られたのだと思う。はたして「大同2年伝承」が、口承史なのか文書史なのかは分からないけれど、たとえば経典を学んだ密教僧にとって、土地の歴史を文書化するぐらいは容易だったはずです。◇とくに坂上田村麻呂が平定した蝦夷の地域において、デタラメな歴史は作り放題だったはず。大河ドラマ「光る君へ」でも、都の人々の識字率の低さを紫式部が嘆いてましたが、蝦夷の人々ならなおのことだったろうし、そもそも歴史を記述する文化すら存在しなかったでしょう。おそらく蝦夷の土地の歴史記述は、坂上田村麻呂による平定以降に始まったのだと思う。蝦夷の人々にとっても、仏僧が土地の縁起や由来を文書化してくれることが、ありがたく思えたのかもしれません。たとえ、それが権力側に都合のよい捏造だったとしても。◇おそらく「大同2年伝承」は、すべての歴史を「大同2年に始まった」とする神話であり、逆にいえば、それまでの土着の歴史を、すべて「なかったこと」にするような捏造だったでしょう。それはちょうど、「ビートルズからすべてが始まった」とか、「はっぴいえんどから日本のロックが始まった」とか、そういう神話と同じ発想のものであって、過去の歴史を「なかったこと」にしたがる人たちは、いつの時代にも存在するのだろうなと思います。NHK 総合 04/17 22:00 歴史探偵 平安のスーパースター 空海 📱NHKプラスで配信予定💻 #nhkgtv #歴史探偵 https://t.co/oZhNQOGYK1— NHK総合 (@NHK_GTV) April 17, 2024
2024.04.21
磯田道史が、読売新聞で富雄丸山古墳のことを書いてます。▶磯田道史の古今をちこち「もう1人の埋葬者 破格の謎」◇奈良の富雄丸山古墳の話は、NHK「古代史ミステリー」第2週にも出てきましたが、卑弥呼(3世紀)よりも後で、倭の五王(5世紀)よりも前、すなわち「空白の4世紀」に造られた円墳です。前方後円墳ではないので、たぶん大和政権の王墓じゃないはずですが、それでも直径109mという国内最大級の円墳です。きっと「丸山」という地名も、この円墳に由来するのでしょうね。◇この円墳には、頂と麓に、すくなくとも2つの棺がある。磯田道史は、頂の棺の埋葬者は「記紀神話に出てくるレベルの王権の功労者たる豪族」麓の棺の埋葬者は「盾持ち人のような祭祀の女性」…だと推察しています。そして注目すべきなのは、祭祀の女性を埋葬したらしき麓の棺のほうです。足元に「9本の竪櫛」があり、棺を封じる粘土に「蛇行剣」と「盾形銅鏡」が貼りつけてあった。◇一般に注目されているのは、巨大な「蛇行剣」と鼉⿓⽂の「盾形銅鏡」のほうですが、磯田道史が注目してるのは、むしろ「9本の櫛」です。日本書紀によると、イザナギは、イザナミのいる黄泉国から逃げ帰るときに、8人の黄泉醜女に櫛を投げつけたとされてます。(櫛の歯の一本一本がタケノコに変わったらしい)磯田道史の推測は、9本の櫛は「イザナミ+8人の醜女」の分ではないか、(あるいは、それにちなんでいるのではないか)…ってことですね。◇一般に、黄泉国の出入口は、島根の出雲にあったと考えられますが、その出雲には「8」という数がよく出てきます。そもそも「八雲立つ出雲」といわれるし、そこは八百万の神々が集う土地でもある。怪物の八岐大蛇ヤマタノオロチは、八人の娘を食べて、八つの頭と尾をもってる。そして秋田では、八岐大蛇が八郎太郎になったんじゃないかと思います。黄泉醜女も、やはり八人なのですね。◇一方、棺の外側に貼りつけてあった蛇行剣は、日本最古かつ最大のものであり、長さが2.37mという東アジア最大の鉄剣です。蛇行剣は西日本各地で見つかってますが、もともと、それらは、ヤマタノオロチから抜き取った「草薙剣」に由来する、…との説があります。蛇の体内から抜き取ったために、ぐにゃぐにゃに曲がっているのかもしれません。クサナギという語も、じつは「草薙」の意味ではなく、「臭蛇クサナギ」「串蛇・奇蛇クシナギ」の意味ではないか、との説があります。この場合の「ナギ」は、鰻ウナギの「ナギ」と同じ語源で、すなわち蛇のことだというわけです。◇草薙剣(≒串蛇剣)は、スサノオが八岐大蛇の尾から抜き取り、のちにヤマトタケルの東征のために授けられました。スサノオも、八岐大蛇と戦う際に、クシナダヒメの姿を「櫛」に変えて頭に挿しました。櫛になったから「クシナダヒメ」だという説もある。ヤマトタケルの妻オトタチバナも、夫の身代わりとして入水し「櫛」の姿で葬られています。いずれにせよ、女性の櫛には、男性を守護する霊力があったのでしょう。
2024.04.10
NHKスペシャル「古代史ミステリー」を見ました。第1集のテーマは邪馬台国です。1.纏向遺跡いちおう九州説にも配慮して、佐賀・吉野ケ里遺跡の石棺墓のことも取り上げてたけど、やっぱり近畿説のほうを重視してた感じ。建築木材の年輪から伐採年を測定できるのね!奈良・纏向遺跡で使われた木材は、西暦231年に伐採されたものだと判明。卑弥呼が魏に使者を送ったのは239年だから、その8年前に宮殿が建設されたってことかしら?箸墓古墳の築造も240~260年ごろと分かってて、これも卑弥呼の埋葬が247年とする魏志倭人伝に合致する。2.倭国乱魏志倭人伝に書かれた「倭国乱」について、2021年のETV特集「誕生ヤマト王権」のときは、戦争の頻発を示す証拠は少ない、と言ってたけど、▶ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202103290000/今回は、西の邪馬台国と東の狗奴国が対立してたこと、さらには、鳥取の青谷上地遺跡で見つかった大量の人骨に、金属の矢じりが刺さってたり、埋葬もされず捨てられてることを取り上げました。3・連合政権2021年のETV特集でも、邪馬台国は平和的な経済連合だった、との話でした。水害の多かった時代だからこそ、災害が起こりにくい大和を中心に小国が連合した。今回も、気候変動と食糧難の時代に、卑弥呼が連合国家を束ねる存在になった、との話。4.親魏倭王卑弥呼は、連合国家を束ねるべく魏の後ろ盾を得た、とのこと。つまり、中国の三国志時代に乗じて、魏・呉・蜀のパワーバランスをうまく操ったのね。具体的には、海上から魏を攻めようとした呉に接近しつつ、それを魏と交渉するための外交カードに利用した。その証拠に、邪馬台国は魏から金印をもらってますが、列島各地では呉からもらった鏡も出土してる。5.大陸系の技術中国の三国志時代には、大量の難民が朝鮮半島経由で日本に押し寄せた。彼らははるか東に理想郷の「蓬莱」があると信じた。なお、鳥取の青谷上地遺跡の人骨の9割も、DNA型が縄文系&大陸系の混血だそうです。こうした大陸系の人々は、鉄器などの軍事技術や、風雨に強い盛土などの土木技術をもたらしたので、邪馬台国は、狗奴国の勢力圏にまで進出することができた。その証拠に、前方後方墳の多い東日本でも、前方後円墳が見つかりはじめてるそうです。◇◇◇番組はドラマ仕立てになってて、歴史を学ぶ生徒役には、NHKにも重用されつつあるっぽい(?)原菜乃華。歴史館の館長役には、なぜか歴史再現ドラマの役が多い(笑)前川泰之。そして、邪馬台国を束ねてたのがシシドカフカで、狗奴国を束ねてたのが宍戸開でした。西のシシドと東のシシドってこと?シシドカフカが弥生顔で、宍戸開が縄文顔ね。でも、狗奴国の人々は、アイヌみたいに顔に入れ墨をしてたらしいけど、ゴリゴリの縄文人ってわけでもなく、赤いパレススタイルのおしゃれな弥生土器を使ってた。◇ドラマでは、卑弥呼が、連合国の首長たちと会議するシーンもありました。でも、魏志倭人伝によれば、彼女は侍女や弟にしか姿を見せなかったらしいよね。手塚治虫の「火の鳥・黎明編」では、姉がアマテラスで、弟がスサノオみたいになってる。女王というよりも、伊勢神宮の斎王みたいな存在だったかもしれないし、実在しない神様だった可能性もあるのでは??魏志倭人伝に書かれてる「卑彌呼」の名は、当時の日本語に漢字を当てたものだろうけど、意味としては「日見子」なのかなと思ってました。そのほうがアマテラスっぽいし。実際は「日巫女」「姫御子」などの説があるようです。◇鳥取の青谷上地遺跡の人骨も、なぜ殺されたのかが判明してるわけじゃありません。当時から大陸系との混血が進んでたようですが、最近の東大の研究によれば、むしろ山陰地方は現在も「縄文度」が高いのよね。▶ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202304050000/もしかしたら外来系の人たちが、土着の出雲王権に迫害・虐殺されたのでは??…なんてことも思ったりする。◇次回の第2集は「ヤマト王権・空白の世紀」です。#NHKスペシャル #古代史ミステリー第1集「邪馬台国の謎に迫る」3/24(日)夜まで見逃し配信中▼https://t.co/1w51Qyl93f邪馬台国の女王・卑弥呼。最新研究で迫る外交戦略とは?未知の古墳のAI調査や、大規模実験も交え、謎に迫る。出演 #シシド・カフカ #前川泰之 #原菜乃華 #宍戸開 #濱正悟 ほか— NHKスペシャル(土曜夜10時 日曜夜9時) (@nhk_n_sp) March 17, 2024
2024.03.20
NHK「ダーウィンが来た!」を見ました。龍のナゾを大研究!辰年にちなんだ特集でしたね。◇一般に「龍/竜」は、獅子・麒麟・鳳凰などと同じ架空の生物と見られていて、今回の番組も、そういう前提で作られてましたが、わたしは、以前から、そういう捉え方があまり妥当じゃないと感じている。…まだ地球上を遠くまで移動できなかった時代に、ライオンやキリンやクジャクを見たことのなかった人々が、アフリカや中東や南アジアからの伝聞に頼ったのは仕方ないし、その伝聞の過程でさまざまな誤解が加わっても無理はない。たしかに現代の知見に照らせば、獅子も麒麟も鳳凰も「実在しない」との判断になるけど、けっして荒唐無稽な空想から生まれたわけじゃなかろうし、すくなくとも昔の人たちは、その実在性を信じてたはず。それは龍についても同じだと思う。古代の中国人が、十二支のなかで、龍だけを空想上の生き物だと思ってたはずはない。◇おそらく龍のイメージは、恐竜の化石にもとづいている。実際のところ、現代のような科学文明が発達してなくても、恐竜の化石を見つけることは可能だったはず。崖とかの地層を掘ればいいだけなのだから。事実、恐竜の化石は、古代から洋の東西で発見されてたらしいし、中国では、あらゆる生物の化石をことごとく「竜骨」とみなして、現在にいたるまで生薬として利用しています。◇中国やインドの龍にも、西洋のドラゴンにも四つの足がありますが、北米や南米、アフリカやオセアニアでも、手足があるかどうかは別として、やはり虹蛇のような巨大生物の実在が信じられていた。それらに共通するのは、・水中に棲息している・空を飛ぶ…ということ。こうしたイメージには必然性があると思います。◇今回の番組では、青銅器時代の中国に生息していた体長7mのマチカネワニが、龍の起源だった可能性に言及してましたが、わたしに言わせれば、頭に角が生えてたり、体毛が生えてたり、空を飛んだりする龍のイメージは、現生の爬虫類を見ただけではけっして生まれてこない。中国の龍や、西洋のドラゴンのイメージは、角や体毛や翼の生えた恐竜の化石を発見しなければ、けっして出てこないものだと思う。逆にいうと、恐竜の化石から得られる断片的な情報を蓄積すれば、角や、鱗や、体毛や、翼の生えた、巨大な蛇のような水中生物の実在を信じたとしても、なんら不思議なことではないし、むしろ翼があれば空を飛ぶと思うのが自然です。現代人が、「巨大な蛇が空を飛ぶわけがない!」などといって笑うのは傲慢であって、むしろ翼をもって空を飛ぶ巨大な恐竜が、かつての地球に実在していた事実のほうに驚くべきでしょう。◇おそらく昔の人々は、地中から発掘される恐竜の化石を、古生生物ではなく、現生生物の死骸だと誤解してたはずだし、ふだんは姿を見せない巨大生物の死骸が、なぜか地中で発見される事実から、それらが水中や洞窟や海底に潜んでいると考えたはず。実際、中国や日本では、いわゆる「竜宮」が海底にあり、鍾乳洞などを通じて沼や湖に繋がっていると信じていた。同時に、魚類のタツノオトシゴを、龍の子供と信じた可能性も高いだろうし、それは「角が生えている」とか「水中生物である」という、龍のイメージを補強するものでもあったと思う。◇なお、今回の番組では、ボルネオに生息するグールドカグラコウモリの群れが、空を飛んだときに龍のような形になる事例を紹介してましたが、中国や日本で「龍は洞穴に住む」と信じられたことから見ても、鍾乳洞から出てきたコウモリの群れが龍の形になるのは興味深い。…日本のフタバスズキリュウの話も出てきましたね。ドラえもんの「のび太の恐竜」は、卵からかえったフタバスズキリュウを、のび太が "ピー助" と名づけて育てる物語でしたが、じつはフタバスズキリュウは卵生ではなく、体内で孵化させる胎生だった可能性があるとのこと!…ちなみに、フタバスズキリュウの化石は、1968年に福島県双葉で高校生の鈴木くんが発見したのですが、↓音楽惑星さんは、http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-368.html#honda円谷英二が福島県の出身だったことや、ゴジラが放射能に汚染された恐竜だったことや、原発事故によって化石のあった双葉が汚染されたことに、ある種の因縁を感じてるようです。
2024.01.16
鬼滅の刃。刀鍛冶の里編は、ほとんど戦闘シーンばかりなので、ドラマ的な要素がちょっと少ないけれど、それでも蜜璃ちゃんの登場シーンは胸アツでした…!あらゆるカットが素晴らしくて、おもわずフィギュアが欲しくなってしまった。— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) June 5, 2023 — まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) June 5, 2023 でも、蜜璃ちゃんのフィギュアって、ぜんぶパンツ丸見えなのね…(笑)— EXODUS (@OUTofDEEP) June 4, 2023
2023.06.05
鬼滅の刃の「刀鍛冶の里」のモデルが、山形の銀山温泉ではないかと話題になっています。真偽のほどは分かりませんが、わたしもアニメを見てすぐに、福井の一乗谷か、山形の銀山温泉かなと思いました。どちらも谷あいの細長い土地なのですよね。◇福井の一乗谷は、幅が500mで、長さが3000mぐらいの細長い土地。山形の銀山温泉はもっと小さく、幅が50mで、長さが200mぐらいの細長い土地です。銀山温泉が有力視されているのは、土地の規模が小さいうえに、大正時代の町並みが残っているからでしょう。ここは「千と千尋」の湯屋のモデルとも言われています。このような谷あいの集落や温泉地は、おそらく日本中に存在するはずなのですが、福井の一乗谷や、山形の銀山温泉の場合は、見た目にも細長い地形であるのが分かりやすい。◇なぜ「谷あい」の土地が重要なのか?それは、外界と集落とを隔てやすいからです。三方を山に囲まれているので、集落への入口が一箇所にしかありません。したがって、そこさえ守れば外敵の侵入を防ぐことができるし、そこを閉じれば集落の存在自体を隠すことが出来る。鬼滅の「刀鍛冶の里」は、その存在を鬼に知られてはいけない場所なので、あえて「谷あい」の土地が選ばれており、里への入口は一箇所だけで、普段は閉じられています。…なお、朝倉氏の居城があった一乗谷は、1573年に織田信長によって焼き払われました。NHK大河「どうする家康」では、ムロツヨシの演じる秀吉が、小谷城で浅井長政が自害したと語ったのみで、一乗谷の滅亡の場面は描かれませんでした。◇ところで、鬼滅の「刀鍛冶の里」には川が描かれていません。しかし、谷あいの細長い土地は、かならず川に削られて出来るわけだから、どこかに小さな川があるはずだし、刀鍛冶をおこなうためにも川の水が必要です。福井の一乗谷には一乗谷川が、山形の銀山温泉には銀山川が流れています。…ちなみに、LiSAの地元の岐阜県関市は、かつて刀剣の産地だったことで有名ですが、それは、飛騨山脈と長良川の恵みによって、水はもちろん、砂鉄も木炭も焼刃土も採れたから。一方、山形の銀山温泉は、その名のとおり銀の産地ではあったはずですが、鉄が採れたかどうかは分かりません。【鬼滅新章モデルに銀山温泉? 話題】https://t.co/XfOBXFIvs8— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) June 1, 2023
2023.06.01
鬼滅の刃、刀鍛冶の里編。第8話「無一郎の無」は、白井俊行の絵コンテ回でした。とくに終盤の美しさが際立っていた。◇話の内容は、いつものとおり、「走馬灯のような回想のあと、急に強くなる」というパターンなのだけど(笑)。驚くべきことに、炭治郎も、甘露寺蜜璃も、一秒も登場させないまま、(痣の描写で炭治郎の顔がちょっと出るだけ)ひたすら無一郎だけを描くという特殊な回でした。まずはCMまでの前半が、いつにもまして早く、体感でいうと5分ぐらい。その直前に、「白樺の精のように美しい産屋敷あまね」が登場する。そのあたりから、もう絵コンテの説得力が、原作を上回っていましたね。◇そして、霞柱・時透無一郎の出自を、静かに、一点集中的に描いた後は、もう負ける気がしないのですよねえ。観てるほうも彼の精神性に同化してしまうし、「美しい者が勝つ」というアニメ的な法則が発動するので、もう玉壺のタコなんぞは安っぽい敵にしか見えない。強さではなく、血統と精神性の美しさこそが、上弦の鬼を圧倒するという説得力。作画の美しさがそれを裏打ちしていました。
2023.05.29
NHK「歴史探偵」西遊記の回を見ました。玄奘三蔵の地誌「大唐西域記」が、ファンタジー小説の「西遊記」へと変貌した謎について。あとで調べたことも含めて内容をメモしておきます。◇玄奘は身長180㎝もある大男だったそうです。砂漠や山脈を超えて往復3万キロを踏破するくらいだから、たんなる知識人じゃなくて、冒険家・アスリート的な人でもあったんでしょうね。京都の臨済宗興聖寺には、世界最古の「大唐西域記」の写本があるそうです。◇番組を見た後にネットで確認したら、Wikipediaに「西遊記の成立史」という詳細な記事がありました。簡単にいうと、宋の時代に生まれた都市講談が、『大唐三蔵取経詩話』という形で刊行され、それを原型として元の時代に雑劇などが発展し、さらに明の時代になって、全100回からなる小説が完成したとのこと。これは「世徳堂本」と呼ばれるもので、最初は南京で刊行されましたが、現存するものは福建省南平市建陽で刊行され、すべて日本で保管されてきたのだそうです。番組でも、福建省南平市を取材していましたが、ここは千年前から木版印刷が盛んだったらしい。◇孫悟空のルーツも、やはり福建省にあります。ここには、もともと猿を神として祭る風習があって、それは畑を食い荒らす猿への餌付けに由来するそうです。Wikipediaによると、江西省と広東省にまたがる山中には、旅する婦人をさらう「斉天大聖」という妖猿の伝説があり、2005年には、福建省順昌県の宝山で、元末~明初期の頃の「斉天大聖」の墓が発見されたとのこと。番組でも、この墓を取材していました。さらに、敦煌の壁画には「馬を曳く猿を連れた唐僧の像」もあり、遼の墳墓の彫刻には「雲に乗る猴行者の像」もあるらしい。※猴行者こうぎょうじゃとは、宋の時代の孫悟空の呼び名です。◇猪八戒のルーツは、摩利支天の御者(御車将軍)のブタです。これが日本ではイノシシと誤読されたため、鎌倉時代からは摩利支天が軍神として崇められ、上野アメ横の徳大寺にもそれが祀られています。沙悟浄のルーツは古く、もともとは砂漠に倒れた玄奘を水場に導いた「大神」でしたが、これがやがて「深沙神」と呼ばれ、元の時代には「沙和尚」と呼ばれ、明の時代には水怪の「沙悟浄」に変わり、それとともに弟子としての地位もどんどん下がったあげく、日本では滝沢馬琴の翻案でカッパになってしまった。またもや馬琴ネタ!牛魔王のルーツは、チベット仏教の伝説の妖牛だそうです。
2023.05.25
1ヶ月ちょっと前になりますが、東大の研究者が都道府県別の「縄文度」を発表…というニュースがありました。以下、NHKの解説から抜粋です。従来の研究で現代日本人の多くは遺伝子的に1~2割が縄文人由来、8~9割が渡来人由来とされています。今回東大グループは民間の遺伝子検査を受けた全国1万人のデータの分析などから、住んでいる県別の言わば“縄文度”=縄文人由来の遺伝的変異をどれぐらい多く持っているかを初めて明らかにしました。東北地方や鹿児島など濃い青色の県は縄文度が高く、近畿や四国などオレンジ色は縄文度が低い、逆に言えば渡来系の血が濃い人が多いエリアということになります。この地図には沖縄と北海道が入っていませんが、沖縄は他の県より飛び抜けて縄文度が高く、この色分けに収まらなかったとされます。また北海道はアイヌの人たちはとても縄文度が高いと考えられますが、人口の上では明治以降に各地から移り住んだ人が多くを占めるため特徴がはっきり出ないと言います。また、中国地方で島根だけ濃い青、つまり縄文度が高いと言う結果で、はっきりした理由はわかりませんが、出雲の国はオオクニヌシの国作りの神話などがある地域でもあり、もしかすると古くから縄文系の人たちが多く住む国が実際にあったのかも?など古代史への想像も色々と広がる結果でした。https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/480441.htmlこちらが都道府県別の「縄文度」を示した地図。https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8252/◇四国や近畿の「縄文度」の低さは、ヤマト王権が弥生系であることを示していますし、いわゆる神武東征や、四道将軍の動きや、桃太郎伝承の解明にもつながるかもしれません。もちろん、これは邪馬台国論争にも影響する話だと思います。大陸から渡ってきた弥生系の人々は、九州に上陸するよりもまず、まっずぐ瀬戸内海へと入り込んだように見える。◇一方、縄文人を列島の周縁に追い詰めたのは、大伴旅人や坂上田村麻呂だと思いますが、鎌倉幕府の奥州征伐の影響もあるかもしれません。そう考えると、鹿児島や青森の「縄文度」が高いのは想像がつきますし、そこから海を渡って、沖縄や北海道にまで逃げのびた縄文人もいるのでしょう。あるいは、沖縄や北海道には、はじめから縄文人が先住していたんでしょうか?◇しかし、わたしが、今回の分布図でいちばん興味深いと思ったのは、・東日本では太平洋側のほうが「縄文度」が高い・島根と秋田の「縄文度」が有意に高いってことです。坂上田村麻呂の蝦夷討伐にしろ、源頼朝の奥州征伐にしろ、征夷大将軍が東国へ進出した際に、日本海側の人々の抵抗が弱かったのに対して、太平洋側では、アテルイとか、奥州藤原氏みたいに、頑強な抵抗勢力が多かったんだという気がする。奥州藤原氏は弥生系かもしれませんが、その統治下の人々の多くは縄文系だったのでは?◇かたや、島根と秋田にかんしては、日本海側にありながら有意に「縄文度」が高い。これは第1に、出雲王権が強力な縄文系であった可能性と、第2に、東湖八坂神社の統人行事や、松本清張の「砂の器」や、高橋克彦の「東北=出雲説」が暗示しているとおり、出雲の人々が、国譲りの際に、秋田のほうまで逃げのびた可能性を感じさせます。◇◇◇なお、今回の研究では、縄文人のほうが、遺伝的に身長が低めで太りやすい体質であり、血糖値や中性脂肪が上がりやすいと分かったそうです。弥生人のほうは、ぜんそくなどアレルギーになりやすいそうです。なんとなく、わたしは弥生人っぽい?(笑)とくに母方のほうは。海外では、ホモサピエンスに交わったネアンデルタール人のことも、同様の手法で研究されているそうです。
2023.04.05
ブラタモリを見ました。テーマは「神話の里・高千穂はどうできた?」です。しかし、見終わっても、なぜ高千穂が「神話の里」になったのか、ますますわからなくなるばかり…(笑)。◇高千穂峡には、阿蘇の溶岩が生んだ神秘の渓谷があるし、現在では美しい棚田に稲穂が実っているけれど、明治以降に用水路が引かれるまでは、じつは稲穂が実るような豊かな土地ではなく、けっして神さまが降り立つような場所ではなかった。ここが「神話の里」だと世間に認知されたのは、昭和以降の地域プロモーション活動のおかげだった。…って話。ぶっちゃけ、高千穂は、「後世の人達の努力で無理やり神話の里になった」と言わんばかりの内容でした。◇あまりに不可解だったので、ためしにネットで調べてみたら、どうやら考古学の世界では、天孫降臨=高千穂説に対して異論があるようです。…簡単にいうと、じつは宮崎県には、「高千穂峰」と「高千穂峡」の2つがあって、天孫降臨の地がどちらか分からない、ってことなのですね。(今回のブラタモリで訪れたのは「高千穂峡」のほうです)古事記の記述はどちらとも解釈できるけれど、日本書紀の記述によれば「高千穂峰」のほうが有力で、日向国風土記によれば「高千穂峡」のほうが有力ってことらしい。▶詳細は以下を参照。・高千穂峡と高千穂峰 100キロ離れた宮崎の景勝地に残る神話・なぜか2つある神話の舞台「高千穂」の謎なるほどね~。ようやく察しがつきました(笑)。
2023.01.24
鬼滅の刃。遊郭編の第10話。神がかった異次元のクオリティでした。あまりのスピードに目がついていかず、テレビの「0.8倍速機能」を使って見直しましたが(笑)。←これはオススメ!壮絶なシーンの連続だけど、あらゆるカットが美しいのが分かります。作画のレベルが他の回とはあきらかに違いました。絵コンテを作ったのは白井俊行。立志編の第19話も担当したアニメーターです。◇TVシリーズ「立志編」の第19話は、特別編集版「那田蜘蛛山編」でいうところのクライマックス部分。"竈門炭治郎のうた" が流れて、炭治郎が累の首を切る伝説的な回です。やはり絵のきわだった美しさが印象に残っている。◇ちなみに、わたしは、映画「無限列車編」に対して、かなり不満がありました。内容もさることながら、とくに作画にかんしてです。…今回の「遊郭編」は、前半部分の作画は申し分なく美しくて、女装させられた炭治郎たちも可愛かったけれど、やはり後半になるにつれて、作画の質は落ちていた。内容についても、いろいろ不満がないわけではない。◇作画の出来不出来というのは、アニメが分業制であるかぎり避けられない問題ですよね。とくに納入期限を迫られると、そうなるんだと思う。でも、今回の第10話のように、神がかるほどの素晴らしい回を見てしまうと、余計に他の回との差が目についてしまいます。まあ、それだけ見る側の目が肥えてしまったともいえる。そして、そういうことを意識するにつけ、このアニメ作品の価値が、なんだかんだで「作画の美しさ」に多くを負っていると痛感する。結局のところ、そこが生命線なのです。◇今後のシリーズは、栖原隆史や白井俊行らを軸にした体制に組み直すべきじゃないでしょうか?とくに映画版は、やはり美しい絵で見たいです。脚本についても、いろいろ思うところはありますが、それは原作そのものにかかわる問題でもあるので、最終話を見てから、あらためて書くことにします。追記:最終回を見ました。絵コンテは、栖原隆史/白井俊行とクレジットされていましたが…正直、あまり作画の出来がいいとは思えませんでした。とくに、無限列車編の後半部分と同様、目から流れる涙が粘液質だったのは不快でした。こうした作画の不出来が絵コンテによるものなのか、それ以外の要因によるものなのか、素人にはよく分かりません。物語の中身については、後日、別稿で考察します。
2022.02.09
NHK「日本人のおなまえっ!」は、カムカムエヴリバディとのコラボ企画で岡山特集。赤木アナも岡山出身。甲本雅裕も、西田尚美も、岡山出身なんですね。宮崎美子は「ボス恋」のときの萌音の母親。番組の内容は、ほぼ一昨年の「ブラタモリ」の復習でした。わたし的には、やっぱり鬼滅がらみの話になります。◇古代の吉備国は、ヤマト王権の四道将軍だった吉備津彦きびつひこに侵略されたのですが、なぜか現在の岡山県民は、吉備津彦=桃太郎のことを地元のヒーローだと思ってる、って話(笑)。まあ、敗戦後の日本が、米英文化を崇拝したのと同じことですね。ちなみに岡山県は、1950年に県の花を「桃」に指定、1994年に県の鳥を「キジ」に指定、2016年には吉備線を「桃太郎線」に改称しています。◇岡山県は、「ブラタモリ」のときにも言ってたけど、倉敷市の平地部分が、もともと海だった。干拓によって陸地化したのです。いまは陸続きになってるけど、早島は、鎌倉時代までは本当の島だったし、児島も、室町時代までは本当の島だったらしい。児島地区が江戸以降に「繊維の町」になったのは、塩分の多い土地で綿花やイ草を栽培したからだそうです。綿花やイ草は、塩分に強い作物なのですね。土地の除塩効果があるそうです。干拓される前の児島は、いわば天然の防波堤&要塞になっていて、内海をはさんで、古代の沿岸には、港にあたる上東遺跡があり、さらに楯築古墳や王墓山古墳や御釜殿(吉備津神社)がならび、その背後に鬼城山(鬼ノ城)がそびえていたことになります。吉備は、まさに天然の要塞と良港をそなえた王国だったのです。記紀神話によると、イザナギとイザナミは最初に淡路島をつくって、そのあと四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州をつくり、これら8島をもって「大八洲おおやしま」と名づけたあと、9番目に「吉備の児島(吉備子洲)」をつくったとされています。これって、要するにヤマト王権が侵略した順番じゃないでしょうか?つまり、吉備の侵略に最後まで手こずったのだと思います。楯築たてつき古墳ってのは、文字どおり「ヤマトに盾突いた人たち」のお墓じゃないの?◇一方、吉備の人たちは、港湾都市ならではの気風から、外来文化への適応力が高かったともいえる。もともとも渡来人が多くて、鬼の温羅なんかは製鉄をやってたらしいし、吉備津彦に征服されて以降は、桃太郎を崇敬しながらヤマト政権に順応したのだろうし、太平洋戦争のあとは、稔さんみたいに英語の勉強をして、いちはやく国産ジーンズの製造に乗り出したのですね。◇古代吉備と古代大和の関係は面白いテーマなのだけど、とくに岡山の「楯築たてつき」と奈良の「纏向まきむく」のことは気になる。ちなみに、楯築古墳からは、特殊な「帯状曲線入組文様」のある旋帯文石が見つかっていますが、この模様は、奈良の纏向遺跡の弧文円板に共通しています。さらに、古代の港にあたる上東遺跡からは、弥生時代の桃の種が9606個も見つかっていますが、これも、奈良の纏向遺跡で出土した2765個の桃の種を想起させます。奈良の纏向遺跡ってのは、吉備津彦の姉である百襲姫ももそひめの王宮じゃないかといわれています。この百襲姫こそ卑弥呼じゃないか?とする説もあります。古代中国の神仙思想のなかで、桃は魔除けの呪力をもっていたので、鬼道を用いた卑弥呼が、弟の武力と桃の呪力で吉備の鬼を退治したのかもしれません。岡山の楯築古墳は、前方後円墳のプロトタイプだといわれていますが、奈良の纏向にある箸墓古墳は、百襲姫の墓であり、なおかつ、日本で最古の前方後円墳でもあります。◇最近は「吉備邪馬台国東遷説」ってのもあるそうです。もともと邪馬台国は吉備のほうにあって、それが大和に移った。あるいは、九州や吉備の勢力によって擁立された政権が、奈良の纒向で統治をおこなったというのですね。>>卑弥呼論争に一石 統治は纒向、擁立は九州・吉備中心
2021.11.13
NHK「ブラタモリ」は2週にわたって淡路島でした。虚実入り混じるような内容だったけど、気になった点を(鬼滅の歴史も重ねつつ!)まとめておきます。1.本当のはじまりの島?記紀神話によれば、イザナギとイザナミが、天の沼矛ぬぼこで海をかき回したら、しずくが落ちてオノコロ島が出来たらしいですよね。彼らは、そのあとに淡路島を作ったのです。淡路島の南側には、その名も「沼島ぬしま」という勾玉型の小島があって、これこそがオノコロ島ではないか、という説があるらしい。実際、淡路島と沼島のあいだには中央構造線が走っていて、淡路島の側は8000万年前、沼島の側は1億年前と、地層の年代が大きく違っています。つまり「沼島の地層のほうが淡路島より古い」ってわけです。ちなみに、沼島には激しい地殻変動の痕跡があって、「地球のしわ」とも呼ばれる鞘型褶曲さやがたしゅうきょくが見つかっています。これは世界で2例しか確認されていないそうです。この段階では、まだ島ではなかったはずですね。海だったのか陸だったのかは、ちょっと分かりませんでしたが。なお、淡路島のほうは、中央構造線の境い目にあたる山々が南からの海風を遮るため、島にもかかわらず、乾いた風が吹き降ろしています。それがタマネギの生産に向いてるそうです。タマネギは、収穫したあと、1~2ヶ月ほど乾燥させると甘みを増すのですね。これに対して、沼島のほうは、太平洋からの湿った南風が直接吹きつけます。そんな南側の浜には「上立神岩かみたてがみいわ」がそそり立っていて、これこそが天の沼矛ではないか?と思われているそうです。≫ ここが国作りの原点だった上立神岩2.巨大な沼?上記の話からすれば、「沼矛ぬぼこで搔き回したら沼島ぬしまができた」ってことになります。実際、イザナギとイザナミが掻き回したのは、海じゃなくて「沼」だったのかも。じつは、淡路島あたりを中心として、瀬戸内海東部から大阪あたりまでの一帯は、300~200万年前には巨大な湖だったのだそうです。その後、いったん全域が陸地になったのだと思いますが、50万年前ごろに、圧縮されたプレートの褶曲による陥没(向斜)が起き、まず現在の大阪湾に海水が入り込み、さらに明石海峡が通じて西の湿地帯だったところが播磨灘になり、さらに鳴門海峡も通じたことで、ついに淡路島が本州から切り離されたそうです。おそらく、それと同時期に沼島も出来たのでしょう。その意味でいうと、瀬戸内海の形成は、最初に淡路島の誕生から始まった…とも言えそうです。そして、いうまでもないことですが、交易、防衛、海産資源などの観点からいって、瀬戸内海がなければヤマト王権も存在しえませんでした。つまり、ヤマト王権の成立でさえも、さかのぼれば、すべて淡路島の誕生から始まってる…ってことです(笑)。なお、最初に海水が入った東側(大阪湾側)は水深が深く、もともと湿地帯だった西側(播磨灘側)は水深が浅いので、淡路島の東と西では生息する魚の種類が異なり、さらに南北の狭い海峡も美味しい魚を育てるので、島の周囲は豊かな海産資源の宝庫になっています。≫ 大断層「中央構造線」の活動が豊かな瀬戸内海を造った3.イザナギの御陵と陽のみちしるべ?案内人が「ここからはスピリチュアルな世界です!」と前置きした後に、ブラタモリ一行が向かったのは伊弉諾いざなぎ神宮でした。案内人がわざわざ「スピリチュアルな世界」と前置きしたのは、きっと「学術的にうさん臭い…」との意味を込めてのことでしょう(笑)。その神宮の場所には、かつてイザナギが余生を過ごしたという「幽宮かくりのみや」があり、イザナギの死後には御陵が営まれ、やがて神社になったそうです。神社から神宮に昇格したのは昭和29年です。神宮本殿の下には、イザナギの陵墓に関係するらしき大きな石がごろごろしてましたが、なんだか建物の隙間に無造作に積まれてる感じ(笑)。くわえて、ここの宮司さんは、神々をつなぐ「陽のみちしるべ」なる説も唱えています。それによると、この伊弉諾神宮を中心にして、日出・日没の方角に日本の主要な聖地が立地している…とのこと。とくに注目すべきなのは、以下の4つです。冬至日没の方角:高千穂/天野岩戸神社夏至日没の方角:出雲大社冬至日出の方角:熊野那智大社夏至日出の方角:諏訪大社≫ 淡路島の伊弉諾神宮「陽のみちしるべ」のナゾ古代人にとっては、南北線と垂直に交わる東西線よりも、冬至や夏至のときの太陽の方角こそが重要だったろうから、そう考えると、この、いわゆる"レイライン"の話は魅力的なのですが、それと同時に、いろいろな疑問も生まれてきます。もし、この話が本当だとすれば、まず最初に淡路島のイザナギ御陵が存在して、そのあとに高千穂や出雲や熊野や諏訪の立地を決めた、…ってことになります。そして、いちばん最後に、真東の方角にヤマト王朝(飛鳥藤原京)と伊勢神宮を作ったというわけなのです。…ほんとかなあ?(笑)なお、この説を積極的に報道しているのは産経新聞ですが、どちらかといえば右寄りの人々に支持される話なのでしょう。4.ヒルコとえびす様ここから先は鬼滅がらみの話。イザナギとイザナミは、アマテラス・スサノオ・ツクヨミの三貴神のほかに、カグツチやヒルコといった数多くの神々を生んだのですが、なかでもヒルコは不具の子だったので、葦船に入れられて海に流されました。その後、ヒルコがどうなったのかは分かりません。以前、こちらの記事に書きましたが、わたしはヒルコが鬼の先祖ではないかと思っています。(あくまで鬼滅の物語内の話です…)上述の伊弉諾神宮の境内には、ヒルコを祭る岩楠いわくす神社もあります。しかし、兵庫県の西宮神社などでは、「漂着したヒルコ(蛭子)はエビス(恵比寿)になった」と信じられています。こういう説は室町時代に広まったそうですが、やはり淡路島にも、西宮から「戎えびす舞」という人形芝居が伝わっていて、いまや五体満足な恵比須さまが大漁祈願や航海安全のために踊っています。≫ 淡路人形浄瑠璃をもっと知ろう5.瀬戸内海の製鉄民と鬼師さて、瀬戸内海を見わたせる淡路島西岸の「五斗長垣内ごっさかいと遺跡」では、弥生時代の製鉄炉が確認されています。ちなみに、桃太郎のモデルとされる吉備津彦や稚武彦は、岡山や香川などの瀬戸内海一帯で鬼退治をおこないましたが、そうした鬼たちも、渡来系の製鉄民だった可能性があります。(代表的なのは岡山の温羅です)淡路島において、すでに弥生時代から鉄が作られていたのは驚きですが、もともと弥生人は大陸から来たのですから、大陸との往来があること自体に不思議はないし、あるいは、後続の渡来人が、どこかの段階で製鉄技術をもたらしたのでしょう。はたして彼らが、鬼として中央から恐れられていたかどうか、つまり、ヤマト政権の敵だったか味方だったかは分かりませんが、いずれにせよ、淡路島の人たちが、政権にとって無視できない勢力だったのは間違いありません。≫ 弥生時代の二遺跡、製鉄炉の違いは?◇それとはまた違う話ですが、淡路島には、鬼瓦を作る「鬼師」と呼ばれる人たちもいます。日本では、奈良時代以前から、「鬼面」(蓮華文や獣面文)と呼ばれる鬼瓦が作られていました。淡路島で瓦造りがはじまったのは400年ほど前らしいので、そんなに古いわけではないのですが、古代の鬼瓦と瀬戸内海の鬼との関連も気になるところです。なお、上述した300万年前の太古の湖底に堆積した粘土は、淡路島で美しい瓦をつくるのに適しているそうです。
2021.10.05
先日の世界ふしぎ発見!テーマは「鬼退治で紐解く日本」でした。出雲、吉備、大和、大宰府などを巡って、製鉄や山伏の歴史を探っていました。はじめて知ることもあったので、わたしなりに整理しておきたいと思います。◇まずは予備知識。もともと製鉄の技術は、ヒッタイト、スキタイ、匈奴など、騎馬民族によって西域から東方へ伝えられ、渡来人によって日本に上陸しました。渡来人たちは、大陸の玄関口である出雲や大宰府はもちろん、瀬戸内海をとおって、吉備や大和などにもやってきて定着しました。実際、吉備や出雲には古代製鉄の痕跡があります。☆出雲 /島根古代の出雲国は、ヤマト王権に対抗する最大勢力だったので、ここにこそ鬼がいたのかもしれません。室町時代にはじまった石見いわみ神楽にも、鬼が登場します。ちなみに中国地方一帯は、砂鉄と木炭の産地だったので、古代から製鉄が盛んに行われていました。「出雲風土記」には、 阿用郷あよのさとの鬼という、"一つ目"の人食い鬼についての記述がありますが、この鬼は、じつは鍛冶・製鉄の神だとする説があって、天目一箇神あめのまひとつや金屋子神かなやごとも同一視されます。なぜなら"一つ目"というのは、高炉の灼熱の炎を片目で見つめて失明した姿を意味するからです。ちなみに、片目を開いてふいごを吹く「火男ひおとこ」が、神楽における「ひょっとこ」の起源だと言われています。ひょっとこの鋼鐵塚さん江戸以降になると、出雲のたたら製鉄は松前藩の主要産業となり、日本刀の原料である玉鋼たまはがねの一大産地になりました。☆吉備 /岡山古代の吉備国も、ヤマト王権を脅かす対抗勢力でした。ここには桃太郎伝説があります。鬼ノ城きのじょうを拠点とした温羅うらも、やはり渡来系の産鉄民だろうといわれていますが、大和の四道将軍のひとり吉備津彦きびつひこに討伐され、その首を吉備津神社の土竈に埋められました。そこでは、現在も、鬼首の泣き声で吉凶を占う鳴釜なるかま神事が行われます。☆大和 /奈良飛鳥時代に、役小角えんのおづのが修験道を開きました。彼は、役行者えんのぎょうじゃとも呼ばれる呪術者で、法力をもって鬼神を従えていました。これに端を発する修験者=山伏こそが、鬼の起源かもしれません。山伏たちは、超人的な身体能力をもち、日に焼けた異形の赤ら顔をし、目は爛々と輝いて野性味にあふれていましたから、天狗や鬼のモデルになった可能性があります。片目のつぶれた産鉄民であれば、なおさら恐ろしい迫力だったでしょう。彼らは、薬草・金属・木炭など、さまざまな山岳資源の知識と技術に優れ、異能集団としてのパワーを持っていたため、とりわけ朝廷の人々は、吉野など紀伊山地一帯の山伏を「鬼」として警戒しました。天狗の鱗滝さん実際、役小角は、前鬼・後鬼ぜんきごきという鬼の夫婦を弟子にしていました。その子孫は現在も奈良県内に住んでいます。役小角は、弟子たちに薬草や茶の知識を教えたとされ、山伏たちは、その後、陀羅尼助だらにすけなどの薬を、笈おいに背負って売り歩きました。後鬼の末裔が開いたという天川村の洞川どろがわ温泉には、いまでも陀羅尼助を売る店がたくさん並んでいます。薬草使いの珠世さん笈を背負う市松模様の羽黒修験/出羽三山◇平安時代になると、大江山の酒呑童子しゅてんどうじのような鬼が京の都に出没しました。大江山の鬼退治物語は、前述の石見いわみ神楽の演目にもなっていますが、それによると、じつは酒呑童子は早熟の天才美少年だったようです。そのことで、かえって世間に忌避されたのかもしれません。源頼光らいこうや渡辺綱つならの奇襲を受けた酒呑童子は、朝廷側の卑劣さに「鬼人に横道なし!」と叫んで死にました。現在、大江山には、「日本の鬼の交流博物館」が建てられ、世界中から集められた鬼の資料が展示されています。また、北野天満宮には、渡辺綱が鬼を切った刀(鬼切丸)も保存されています。なお、この時代には、風鈴が《結界》をつくると信じられており、寺院や公家などでは魔除けとして風鈴を吊るしていました。風鈴&ひょっとこの鋼鐵塚さん☆大宰府 /福岡古代より、大陸の玄関口にあたる北九州には、軍備・外交を担う大宰府政庁が置かれました。その鬼門(北東)にあたる宝満山に建てられたのが、宝満宮 竈門かまど神社です。役小角は、宝満山も歩いたとされており、ここにも修験道が伝わっています。宝満山の山伏たちは、繁栄を象徴する「市松模様」の装束を着ています。宝満修験の市松模様/竈門神社◇◇◇今回の番組では、もっぱら西日本を取材していましたが、東日本にも鬼がたくさんいます。松本清張の「砂の器」のことを考えると、秋田のなまはげのルーツは、出雲の鬼神楽に通じている気がします。なまはげ新潟の佐渡金山には鬼太鼓おんでこもありますね。丹後国から山形へ逃げ落ちて、出羽三山を開いたという蜂子はちこ皇子も、修験の装束を身にまとって鬼の形相をしています。蜂子皇子岩手には、坂上田村麻呂と戦って敗れた、アテルイや悪路王あくろおうなどの豪族がいましたし、のちには奥州藤原氏とともに、源義経と武蔵坊弁慶がこの地で倒されました。北上市には「鬼の館」という博物館もあります。アテルイ青森ねぶたの根底にも、坂上田村麻呂による蝦夷討伐の記憶があります。東京には、平将門の首塚もあります…。
2021.05.17
27日のETV特集「誕生ヤマト王権」。日本最初の中央集権国家は、平和的な連合政権によって実現した。その都だったのが奈良県の纏向まきむく遺跡。そのときの大王は箸墓はしはか古墳に眠っている。…といった内容でした。◇◇◇箸墓古墳は最古の前方後円墳です。「日本書紀」によれば、それはモモソ姫の墓だとされています。正式名称は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)です。彼女は王女(大王の娘)だとされていますが、その墓の規模から察するに、じつは初代の大王なのかもしれないし、それを上回るほどの存在だったのかもしれません。都のあった纏向遺跡からは、巨大な王宮らしき跡も見つかったのですが、その近くからは数千個もの「桃」が出土しました。当時の桃は、大陸から輸入される貴重品で、食べ物というよりも仙人になるための薬だったので、おもに祭祀に使われたと考えられています。◇モモソ姫は、吉備つ彦のお姉さんです。正式名称は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)または吉備津彦命(きびつひこのみこと)。吉備つ彦は、当時の将軍のひとりで、桃太郎のモデルになった人です。つまり、モモソ姫の弟がモモ太郎なのです。いわば桃の姉弟です。当時、4人の将軍の率いる軍隊が、北陸と東海と丹波と山陽へ派遣されたのですが、いわゆる「四道将軍」のことです。このうち吉備つ彦は山陽地方へと遠征したのです。◇当時の纏向の都には運河がはりめぐらされ、それらが巻向川、五味原川、烏田川などを結び、さらに大和川から大阪湾へと注いでいました。おそらく吉備つ彦は、どんぶらこどんぶらこと川を下って、港町の堺あたりでサルやイヌやキジをしたがえて、大阪湾を出港したのだろうと思います。サルやイヌやキジは瀬戸内海周辺に住む人々だともいわれています。そして、吉備国などの山陽地方を攻略したのです。もうひとりの弟の稚武彦(わかたけひこ)は讃岐国などの四国地方を攻略したようです。◇姉のモモソ姫は、大物主オオモノヌシと結婚しました。大物主というのは、出雲の大国主オオクニヌシの別名(あるいは分身)です。大和の王女が出雲の王族と政略結婚したのでしょうか?ちなみに出雲の王族は、ヤマタノオロチを退治した人たちですが、大物主も、まるで蛇みたいな男性だったらしいです。モモソ姫は、そんな夫との性交(あるいは出産)が原因で死んだっぽい。彼女が「大和=出雲」連合のために身を捧げたとすれば、箸墓古墳の巨大さは、その死を最大限に悼んだ証なのでしょうか?そして「前方後円」という墳墓の造りは、その二大国家の連合を象徴する形式だったのでしょうか?◇纏向遺跡や箸墓古墳は3世紀に作られているので、ちょうど邪馬台国の卑弥呼の時代に一致します。そのため、箸墓古墳は卑弥呼の墓とも考えられます。…ってことは、モモソ姫こそが卑弥呼なのでしょうか?卑弥呼が、桃太郎のお姉さんかもしれません。姉:モモソ姫 ≒ 卑弥呼弟:吉備つ彦 ≒ 桃太郎 …という図式です。この時代には、熊襲や三韓を征伐した神功じんぐう皇后という女傑もいます。「日本書紀」には、神功皇后を卑弥呼と同一視するような記述もあります。中国側の資料によると、卑弥呼は女王だったとされているのですが、モモソ姫も、神功皇后も、女王の地位にはありません。しかし、彼女たちは、女王でないにもかかわらず、なぜか強大な権力をもっていたように見えるのです。◇今回のNHKの番組によると、ヤマト王権は、東北から九州までを広範囲に治めた、とても平和的な連合王国だったということです。実際、戦乱の痕跡はあまり見つかっていないそうです。しかし、いくら平和的とはいっても、けっして対等な関係だったわけではなく、それは非対称な「支配-被支配」の関係だったはずです。現実的に考えれば、あまりにもヤマト王権の軍事力が圧倒的だったので、それに抵抗できる勢力がなかったのでしょう。いずれにしても、圧倒的な軍事力や経済力や技術力を背景にしなければ、平和的な連合を作り出すことなど不可能だと思います。その意味でいえば、やはり桃太郎っぽい人は実在したのではないでしょうか?そして、思うように従わない場合に、彼らに退治されちゃった人たちもいただろうと思います。
2021.03.29
かつて漫画の世界には、男性作家が、少年を主人公にした少年漫画を描き、女性作家が、少女を主人公にした少女漫画を描く、という自然な住み分けがありました。もちろん例外はあって、手塚治虫や赤塚不二夫は、「リボンの騎士」や「ひみつのアッコちゃん」を描いたし、永井豪や和田慎二は、「キューティーハニー」や「スケバン刑事」を描きました。けれど、こうした男女の住み分けが本格的に壊れたのは、やはり宮崎駿が「ハイジ」を手掛けて以降だと思います。その後の宮崎駿は、一貫して少女を主人公にした作品だけを発表しつづけ、女性作家以上に、魅力的な少女像を作りあげたからです。吾峠呼世晴の「鬼滅の刃」では、ちょうどそれとは逆のことが起こっています。ついに女性作家が、男性作家以上に、魅力的な少年像を作りあげる時代がはじまったのかもしれません。「12鬼月」と「9柱」と「鬼舞辻」の由来。禰豆子(ねずこ)の名前と、背負い木箱や彼岸花の由来。LiSAが育った山奥の一軒家。岐阜県関市は刀剣の産地!「鬼滅の刃」ヒットの理由は?分析と考察「鬼滅の刃」ヒットの理由は?分析と考察…その2「鬼滅の刃」と桃太郎伝承のちがい。
2021.01.08
☆「12鬼月」の由来鬼滅の刃には「十二鬼月」と呼ばれる上位の鬼が登場します。この「鬼月きづき」とは何でしょうか。台湾では、旧暦の7月を「鬼の月」と言うそうです。この場合の「鬼」とは先祖のことですから、台湾の「鬼の月」は、日本でいうところのお盆です。一方、鬼滅に登場する12の「鬼月」というのは、6の「上弦」と6の「下弦」に分かれていて、これは、おそらく月の満ち欠けに関係しています。その場合、6+6=12という数は何を意味するのでしょうか?古代日本の冠位が「12階」だったことに関係するでしょうか?それとも、たんに1年が「12ヵ月」であることに関係するのでしょうか?ちなみに、上弦の月は1年間に12回、下弦の月も1年間に12回、それぞれ夜空に昇るのですから、そこから考えれば、上弦と下弦の合計は24でなければならないはずです。これに対して、上弦6+下弦6=12という鬼月の数には、もっと別の由来と意味合いがあるはずです。月は、太陽とは対極的な意味をもつ天体であり、もともと太陽をはげしく嫌う鬼は、ちょうどドラキュラや狼男と同じように、月にこそ親しい存在なのだと考えられます。しかし、たとえ同じ月であっても、その満ち欠けに比例して太陽の影響を受けています。つまり、望の月(満月)は、太陽光を全面に浴びていますが、朔の月(新月)は、太陽光を完全に遮断しています。そして、上弦の月や下弦の月(半月)は、いわば、半分だけ太陽光を遮断しえている状態です。おそらく、このような太陽との関係が、「鬼月」と呼ばれる鬼の階級にも反映しているのです。◇月の周期は、およそ4週間です。最初の7日間で、朔(新月)から上弦(半月)になり、つぎの7日間で、上弦(半月)から望(満月)になり、つぎの7日間で、望(満月)から下弦(半月)になり、最後の7日間で、下弦(半月)から朔(新月)になります。そして、月初の7日間のうち、1日目は月がまったく隠れている新月ですので、この新月を除いて、上弦より細い月が出ているのは6日間ということになります。同じように、月末の7日間のうち、7日目は月がまったく隠れている新月ですので、この新月を除いて、下弦より細い月が出ているのは6日間ということになります。このように月初と月末の合計12日間に現れる、半月よりも細い6段階の月、すなわち、太陽の光を半分以上遮って闇の割合が上回った月のことを、おそらくは「鬼月」と呼んでいるのです。下位の鬼たちが、いまだに太陽を浴びて膨らんでいる月だとすれば、上位の鬼=鬼月というのは、太陽を拒絶して細くなった鋭い形の月なのであり、上弦と下弦それぞれ6段階の細さの月が、あわせて12の鬼月の階級に対応しているはずなのです。…では、太陽光を完全に遮った「朔=新月」に対応するのは何か?いうまでもなく、それこそが鬼舞辻無惨きぶつじむざんです。◇気象予報士の森田正光は、映画『無限列車編』における魘夢えんむとの戦いのとき、夜空には、下弦から細くなっていく「月齢23」の月が出ていた、と述べたうえで、それを、「1916(大正5)年11月18~19日の夜」と推測しています。これは旧暦でいえば、10月23~24日の夜です。ちなみに月の周期は、厳密にいえば 7×4=28日よりも長く、平均でおよそ29.53日ですから、旧暦において下弦の月が現れるのは、毎月21日ではなく、それより少し後の23日ごろになります。かつては各月の23日に、下弦の月を拝むための「二十三夜講」もおこなわれました。このことから、十二鬼月・下弦の壱である魘夢との戦いは、旧暦でいうところの10月23~24日の夜、下弦よりも細い月のもとで行われた、ということになります。陰暦では、毎月1日(月立ち=ついたち)が新月なので、2日から7日までの6日間に上弦より細い「鬼月」が現れ、15日から16日ごろに満月となり、24日から29日までの6日間に下弦より細い「鬼月」が現れることになります。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ☆「9柱」の由来鬼の上位にいるのは「12」の鬼月ですが、鬼殺隊の上位にいるのは「9」の柱です。この9という数字は何を意味するのでしょうか?一般に、柱といえば、建物を支える木材であると同時に、神々を数えるときの数詞です。したがって、おそらく鬼殺隊の9柱は、仏教ではなく、日本古来の神道に関連しているはずです。ただし、一口に神道とはいっても、日本の神々はけっして一枚岩ではありません。このうち「9の柱」と言ったときに思い出されるのは、とりわけ出雲の周辺にいた神々です。◇伊勢神宮に代表される神明造は「横長」の建物であり、住吉大社に代表される住吉造は「縦長」の建物なのですが、出雲大社に代表される大社造だけは「正方形」の建物であり、それは3:3:3の「田」の字型に並べられた9本の柱で支えられます。もともと出雲周辺には、これと同じ構造の建築物の遺跡が多く、いわゆる「金輪御造営差図かなわのごぞうえいさしず」に描かれた古代出雲の巨大神殿も、やはり9本の柱で支えられていたと考えられています。かりに9本の柱が出雲の神々であるとするならば、それは大和王権の成立以前から日本列島に存在していたわけです。そして、出雲から大和への「国譲り」の歴史を踏まえれば、それは、鬼を退治した神々というよりも、むしろ大和王権によって退治された神々だったといえます。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ☆「鬼舞辻」の由来「鬼舞辻きぶつじ」という姓を文字どおりに解釈すれば、それは鬼たちが舞う東西と南北の通りの交わる場所を意味します。その場所がどこなのか明らかではありませんが、とりあえず思い当たるのは、京都の「二条大宮の辻」です。これは、その名のとおり二条大路と大宮大路がまじわる交差点で、ちょうど平安京大内裏の東南角に位置していて、通称「あわわの辻」とも呼ばれています。藤原常行や安倍晴明は、ここで百鬼夜行に遭遇したといわれているのです。
2020.12.09
アニメ版『鬼滅の刃』には、禰豆子役の「鬼頭明里」とか、美術担当の「鬼頭裕子」とか、なにやら不穏な名前のスタッフが参加しており、さらに作画監督には、「鬼澤佳代」が「遠藤花織」と対峙しています。◇そういえば、主題歌を歌ってるLiSAには八重歯がありますが、わたしには、あれが「禰豆子の牙きば」に見えてきます。歌っていないときに、竹を噛んだまま眠ってても不思議じゃない気がする。そんなLiSAが鬼滅の主題歌「紅蓮華ぐれんげ」を作詞したのは、まだアニメの放送前、原作も連載途中だったのですが、見事なくらい物語の世界観にぴったりハマっています。アニメの主題歌は、通常なら原作者が作詞することが多く、歌手自身が作詞をするのは稀だと思いますが、なぜLiSAは「紅蓮華」を作詞できたのでしょうか?◇LiSAの地元は、岐阜県の関市ですがここは、もともと「刃物の町」として有名なところです。や、刃?きっと、鋼鐵塚はがねづかさんみたいな鍛冶職人が大勢いる町なのですよね。山から売りにきた炭を買い、鍛冶屋が里で炉を燃やす。きっと、そんな町なのだろうと思います。そして、LiSAの実家は山奥にあるらしいのですが、彼女のブログを見たら、それはなんと築130年(!)のポツンと一軒家で、里のコンビニまで歩いて30分もかかるところ。お祖母ちゃんの野菜畑は、ときどき何者かに荒らされるそうです…。もしかして、実家は炭焼き?つか、竈門家かまどけ?鬼が出る?LiSAの口に牙が生えたのは、岐阜の山奥で鬼の血を浴びたからでしょうか?◇実際は、鬼じゃなくて、猿が出て、畑を荒らすのだそうです。ちなみに、LiSAの本名は「織部里沙おりべりさ」なので、竈門家じゃなくて、織部家です。そうそう。岐阜で「織部」といったら、古田織部ふるたおりべが創始した織部焼ですよね!織部焼の発祥地は、岐阜とはいっても、関市じゃなくて土岐市なのですが、そこには窯元がたくさんあるはずなので、やはり周辺の山々には炭焼の職人がいたはずです!まあ、織部家の稼業は、たぶん炭焼きではないのでしょうけれど、もともと古田織部の名が、古来の織染部署である「織部司おりべのつかさ」に由来しますので、そこから考えると、なにか別の由緒がありそうな苗字にも思えてきます。◇岐阜県の関市は、現在はハサミや包丁などの刃物の名産地ですが、かつては「美濃伝みのでん」という刀鍛冶の流派がありました。初代の村正むらまさも、ここで学んだといわれています。彼は、そこから伊勢に移って「千子派せんごは」を生み出し、その弟子たちは数代にわたって「村正」の名刀を作りました。村正の刀は、凄まじい斬れ味だったらしく、とくに徳川などの三河武士に愛用されたそうです。岐阜には関ヶ原もありますが、きっとそこでも使われたでしょう。奈良県の天石立あまのいわたて神社には、柳生宗厳やぎゅうむねよしが天狗との修行中に一刀両断にしたという、その名も「一刀石」と呼ばれる巨岩があって、いまや鬼滅ファンの聖地になっているのですが、この柳生一族も、徳川方として関ヶ原に加わっていましたし、やはり村正の刀を使っていたのかもしれません。栃木県足利市には「弁慶の割石」ってのもありますが、こちらは武蔵坊弁慶が岩の上に仁王立ちになり、錫杖しゃくじょうで突き割ったものだそうです。そして、岐阜県の鬼岩公園や、長野県の坂田山でも、まっぷたつに割れた巨岩が見つかったらしく、それぞれ「蓮華岩」「龍の割岩」と呼ばれていたそうです。これこそ日輪刀で炭治郎が切った岩なのでは? ※岩に浸み入った雨水が凍って膨張したとかじゃなくて。鋼鐵塚さんの作による日輪刀は Amazon でも売っています。これさえあれば、岩でも切れるにちがいありません。お値段は6000円くらいです。
2020.11.24
11月3日にアップした、禰豆子の名前と、背負い木箱の由来 の記事に、「彼岸花」についての考察も加筆しておきました。興味のある方はご再読ください♪:::::::::::::::::::::::
2020.11.19
『鬼滅の刃』の世界観は、日本の記紀神話に関係しており、山民・山伏などアジールの歴史にも関係するのですが、それはとりわけ、禰豆子のキャラ設定のなかに集約されていると思います。◇『鬼滅の刃』の世界において、謎を解く鍵になる最重要キャラは、すくなくとも3人。まずは、鬼の元祖である鬼舞辻無惨。さらに、鬼殺隊当主である産屋敷耀哉。そして、炭治郎の妹である禰豆子です。なぜ禰豆子は、鬼になっても人を喰わないのか?このことが、鬼舞辻や産屋敷の出自とともに、鬼の謎を解くための大きな鍵になっています。◇禰豆子の名前の由来は何でしょうか?眠ってばかりいるのに「寝ず子」?禰(=父祖の霊力)豆(=鬼を払う霊力)子という意味合いを考えれば、おそらく竈門家の父方が、鬼にも屈しない特別な家系であり、なかでも禰豆子は、その血をもっとも強力に受け継いだ子なのでしょう。この漫画の当初のタイトル候補として、「鬼狩りのカグツチ」「炭のカグツチ」などがあったらしいので、竈門家の父方は、おそらく日本神話のカグツチに連なるはずなのです。歴史学者の岡田英弘は、倭国の最初の王の名が「禰」(でい)だったと唱えていますが、いずれにしても特別な家系であることをうかがわせます。◇日本神話でイザナギとイザナミが産んだ三貴神のうち、アマテラスは皇祖神であり、鬼を死滅させる太陽の女神でもあります。スサノオは草薙剣を振るった武力神であり、桃太郎の鬼退治伝承に重なる部分があります。ツクヨミは月と仁慈の神であり、竹取物語のかぐや姫に重なる部分があります。(ちなみにツクヨミが男神か女神かは不明です)これに対して、カグツチは、火の神として産まれ、そのせいで母のイザナミは焼け死んでしまいました。ヒルコという神も、異形の子として生まれ、海に捨てられてしまいました。◇わたしの仮説ですが、カグツチに連なるのが禰豆子の父方の竈門家であり、ツクヨミに連なるのが禰豆子の母方ではないかと思っています。というのも、禰豆子には、カグツチとツクヨミの両方の要素を感じるのです。竈門家は、アマテラスやスサノオのように、勧善懲悪的に鬼を退治してきた天皇家や桃太郎とは違います。むしろヒルコやカグツチのように、鬼にさえも共感するような不遇な面をもっているのです。(ヒルコに連なるのが「鬼」なのかもしれません。)また、禰豆子の長い髪や、くわえている竹や、大きくなったり小さくなったりする体、さらに一般の人間にはない特殊な能力には、月の住人であるかぐや姫との類似性が感じられるし、人への慈しみはツクヨミに通じるものに思えるのですよね。◇一般には、アマテラスこそが「太陽神」(日の神)であるとされ、だからこそ、それに連なる天皇家は鬼を退治してきました。しかし、『鬼滅の刃』の世界では、カグツチこそが「火の神」であり「日の神」であるとされます。そして、それに連なる竈門家の人々は、たんに鬼を退治するのではなく、鬼を人に戻すことができると信じるのです。◇◇禰豆子は体を小さくして木箱に収まっています。この木箱には、3つの由来が考えられます。1.背負子(しょいこ)本来は、炭焼きの薪を背負うための道具で、木を梯子状に組んで作ったものです。二宮金次郎の銅像も背負子に薪を積んでいます。2.笈(おい)本来は、修験者が法具などを運ぶためのもので、背負子に箱をのせたものを「板笈いたおい/縁笈ふちおい」と呼び、箱そのものに肩帯を付けたものを「箱笈はこおい」と呼びます。炭治郎や武蔵坊弁慶が背負っているのは箱笈のタイプです。3.まわり地蔵江戸時代、日本の各地には、村の家々に地蔵を巡回させる風習があり、現在でも、笈に地蔵を入れて運ぶ地域が残っています。疫病退散や子宝祈願などの御利益があったようです。もともとは旅の修行僧が村にもちこんだものとも言われています。木箱に小さく収まった禰豆子は、修験者や炭焼にとっての守り神のような存在なのかもしれません。◇◇最後に、彼岸花という植物についてまとめておきます。TVアニメのエンディング「from the edge」のときにも出てきますが、仏教における曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも同一視される謎の植物です。英語でいうと「red spider lily」(赤い蜘蛛百合)ですね。柿本人麻呂が、万葉集で、「路邊 壹師花 灼然(道の辺の 壱師の花の いちしろく)…」と詠んだのも、赤い彼岸花だったとされるのですが、これについては賛否が分かれています。彼岸花=曼珠沙華は、球根に毒をもち、日本では墓地に生えていることが多く、「死人花」「地獄花」「幽霊花」などとも呼ばれており、その「罪」のイメージが山口百恵の曲になったり、その「諦め」のイメージが小津安二郎の映画になったりしています。赤い炎のような花の姿は「火」のイメージにも結びつけられます。かつて日本の墓地に多くの彼岸花が植えられたのは、秋のお彼岸のころに花を咲かすからだけでなく、その球根の毒によって、土葬された遺体を食害から守るためでもあったようです。◇彼岸花=曼珠沙華には、しばしば不気味で不吉なイメージがつきまとうのですが、じつは、そこに花の「色」の問題が絡んでいます。仏教における曼珠沙華は、説法をする釈迦の頭上に天から降った聖なる花であり、「मञ्जूषक/mañjūṣaka=赤い」という梵語に由来するのですが、本来は、一目見ただけで悪業から救われるような白い花だった、ともいわれているのです。一方、山口百恵の「曼珠沙華まんじゅしゃか」の歌詞では、曼珠沙華 恋する女は 罪作り白い花さえ 真紅に染める白い夢さえ 真紅に染めるというように歌われています。ここでは、曼珠沙華の赤い色が罪業の象徴になっていますが、もともとの仏教では、むしろ紅蓮ぐれんの花こそが地獄に落ちた者の血のような色だ、とされていたのです。◇『鬼滅の刃』の世界においては、青い彼岸花が存在するとされています。日本原産の青い花といえば、代表的なものは藤です。藤は、マメ(豆)科であるのみならず、強い日光を好む植物でもあるので、『鬼滅』において、鬼はとりわけ藤の花を嫌うとされています。ちなみに飛鳥時代、中臣鎌足は、藤の花のもとで中大兄皇子と謀議をしたことから、蘇我入鹿を討ったのちに「藤原」の姓を賜ることになりました。その次男の不比等が藤原姓を受け継いで、大宝律令選定や平城京遷都や日本書紀編纂などの事業に影響力をふるうと、藤原氏はさらに天皇との結びつきを強めて権勢を誇り、やがて佐藤、斎藤、伊藤、後藤、加藤、遠藤…などの姓を派生させていきます。すなわち、日本史的に見ても、藤という植物は最強だったのです。かりに、 白 から赤にではなく、強い日光を浴びた藤と同じように、 白 から青に変異した彼岸花/曼珠沙華があったなら、それは、鬼の性質をも変異させるのかもしれません。
2020.11.03
前回も書いたとおり、「鬼滅」の物語世界には国家の問題が絡んでいるのですが、とりあえずマーケティングの観点から、現在の「鬼滅」のヒットの理由を説明すると、まずは「あらゆる層にウケている」という話になるはずです。それはもちろん、ふだんはアニメや漫画から縁遠い層を含むわけですが、男女にウケているし、老若にウケているし、ヤンキー層にもインテリ層にもウケている。この広範囲な支持が現在のメガヒットの前提条件です。◇1.男性にも女性にもウケている基本的には少年漫画にちがいないのですが、女性にも受ける要素をしっかりと押さえています。それは「キャラ萌え」と「世界観萌え」に集約されます。1980年代の女性たちが、ガンダムの世界観やシャア・アズナブルに熱狂したのと同じ。もっと近いところでは、三谷幸喜の「新選組」のときに、女性たちが山本耕史や堺雅人に心酔したのと同じですね。とくに「鬼滅」における9人の柱のキャラ立ては、こうした女性のファン心理を意識して作られていると思います。さらに「鬼滅」の世界観は、従来からの「刀剣萌え」や、千と千尋風の「大正萌え」などにも共鳴して波及しています。過去の例から見ても、女性ウケは、アニメヒットのための基本要件です。女性ウケによって、カテゴリーの枠を乗り越えるような、別の角度からの視点が付与されるのですよね。2.子供にも大人にもウケている前回も書いたように、「日本」「チャンバラ」「時代劇」といった要素は、子供よりも、むしろ大人にこそ好まれるものです。また、後述するように、歴史好きな大人にもアピールする要素を備えています。ここから考えると、「子供向けのコンテンツ」が大人にも受け入れられた、と解釈するよりも、「大人向けのコンテンツ」を子供向けのフォーマットに当てはめた、と解釈するほうが正しいのかもしれません。3.ヤンキー層にもインテリ層にもウケている残虐な戦闘シーン、友達への仁義や、先輩への忠義など、ヤンキーの感性にうったえる要素は多く含まれています。「鬼滅の刃」は「きめつのやいば」と読むわけですが、こういった難読漢字の多用も、「夜露死苦」と書いて「よろしく」と読ませるような、ヤンキーの美意識に親和する面があります。おそらく世間のヤンパパやヤンママたちも、自分の子供に「善逸」「禰豆子」などのキラキラネームを、つけはじめるのだろうと予想します。主題歌を担当しているLiSAにも「元ヤン」の要素があります。アニメの主題歌は、原作者が歌詞を書くことが多いですが、「紅蓮華」(ぐれんげ)はLiSA自身が歌詞を書いています。現在の「鬼滅」のヒットににおいて、LiSAのキャラとパフォーマンスがすくなからず反映している、ということを見逃すべきではありません。ただし、これらは「ヤンキー文化そのもの」というよりも、むしろ一周回った「ヤンキー文化のパロディ」というべきもので、その意味では「今日から俺は!」のヒットに近いものかもしれません。◇一方、「鬼滅」は知的なインテリ層をも確実に刺激しています。これはやはり荒俣宏の「帝都物語」との類比で見るべきです。「帝都」では、平安時代の要素を大正時代に置き換えて、平将門の怨念を蘇らせて「敗者の歴史」を浮かび上がらせ、密教、風水、陰陽術など日本文化の裏面に光を当てました。「鬼滅」の場合も、平安時代に起点を置いていますが、本来の「鬼」の歴史は、むしろ古墳時代に遡ります。それは大和王権の成立や、縄文と弥生の相克に関係しています。そして、ここでもやはり、日本史の「敗者の歴史」が浮かび上がってくるのです。4.手塚治虫ファンにも梶原一騎ファンにもウケている上記の2や3ともリンクしますが、もともと日本の漫画には、前回も書いたように、手塚治虫に代表される「モダン漫画」のファンタジー路線と、梶原一騎に代表される「ドメスティック漫画」の劇画路線があります。前者を子供向け、後者を大人向けと見ることができるし、前者をインテリ向け、後者をヤンキー向けと見なすことができるかもしれません。可愛いキャラの登場するコミカルなファンタジーの側面と、シリアスで残虐な日本時代劇の側面を、両方とも備えている。ちばてつやの「あしたのジョー」がそうだったように、「鬼滅」には日本漫画の二大潮流を合体させる力技があります。とりわけ女性ファンの視点によって、カテゴリーの境界を乗り越える力技が現実化しているのだと感じます。おそらく「鬼滅の刃」の異例のヒットを説明するうえで、いちばん重要なのは、この部分だろうとわたしは考えています。
2020.10.26
映画版の『鬼滅の刃』が異例のヒットで、日本中が異様な興奮状態になってて、たぶん、この土日も、さらに動員は伸びるのだろうと思います。わたしもテレビ版と地上波の映画2本を消化して、にわかブームの真っただなか。映画も見てないのに、昨夜のNHK「SONGS」では、LiSA&梶浦由記による「炎」のピアノver.に滂沱してしまいました。◇その一方、すっかりハマっている自分が言うのもなんだけど、なぜこのアニメがこんなに大ヒットしているのか?と考えると、とても不思議です。見た目のショッキングな残虐性と、迫力の戦闘シーンがウケているだけなのでしょうか?じつは、かなり深いお話だけど、子供にとっては残虐すぎるし難しい内容だとも思います。◇「るろ剣」や「犬夜叉」あたりが先行作品とはいえますが、そもそも日本のマンガ・アニメ史において、このような「和もの」がヒットした例は少なかったはず。従来のセオリーからいえば、「宇宙」「ロボット」「近未来」「超能力」などの要素を揃えるのが、子供向けのマンガ・アニメをヒットさせる条件だったはず。でも、この作品の場合は、「日本」「着物」「時代劇」「刀剣」といった和の要素で構成されていて、真逆です。わたしが子供のとき、こうした要素に対しては、ネガティヴな印象しかありませんでした。地味で、暗くて、不気味なイメージ。実際、「鬼滅の刃」も、けっこう地味で、暗くて、不気味だと思います。本来、子供が好きなのは、近未来のロボット漫画、大人が好きなのは、実写の時代劇チャンバラ、それが当たり前の図式だったはず。でも、なぜか「鬼滅の刃」では転倒している。「千と千尋」あたりで潮目が変わって、子供と大人の境界線が消滅しているのでしょうか?◇そういえば、むかしの人気マンガや人気アニメには、ほとんどのカタカナの題名がついていました。「アトム」「ヤマト」「ルパン」「ドラえもん」「ガンダム」「ナウシカ」「ドラゴンボール」…みんなカタカナです。これはおそらく、手塚治虫以来の「モダン漫画」のファンタジー路線なのだと思います。これに対して、漢字タイトルの作品もあったのですが、それはきっと、梶原一騎にはじまる「ドメスティック漫画」の劇画路線だと思います。「巨人の星」「北斗の拳」「火垂るの墓」「君の名は」「進撃の巨人」「鬼滅の刃」…かつては傍流だったはずなのですが、最近では、むしろこっちが主流になりつつありますね。◇いちおう「鬼滅の刃」は時代劇なのですが、大正という舞台設定は、ちょっと不思議で特殊です。「和」と「洋」がせめぎあい、「漢字」と「カタカナ」がまじりあい、「ドメスティックな文化」と「モダンな文化」が溶け合った、「過去」と「未来」が交錯するような不思議な時代です。自由と平等の「モダニズム」と、排外主義的な「ナショナリズム」が、たがいに矛盾しながら炎のようにうねっていました。関東大震災から大東亜戦争に向かって、異様な興奮状態が社会を渦巻いていた時代でもあります。◇この大正という時代に「鬼」が現れます。もともと「鬼」というのは、日本の国家の成り立ちにかかわる根幹的なテーマです。つまり、「古墳時代に大和政権が何をやったのか?」という謎を解くための、最大の鍵こそが「鬼」です。そこには、おそらく、縄文と弥生が葛藤しあった記憶も刻まれています。この国家的な問題が、大正という異様な時代の、「和」と「洋」のせめぎ合い、「土着性」と「近代性」のせめぎあいの中で、亡霊のようによみがえってくるのです。◇このようなテーマ性において、梶原一騎の路線と、手塚治虫の路線が、本質的な境界線を失くしてしまっています。かつて、この境界線上にいたのは、ちばてつやです彼が「鬼滅」を熱心に読んでるのは偶然ではないはずです。おそらく、その意味でも、この『鬼滅の刃』は、日本漫画史上の大きな転換点になるのだろうと思っています。「鬼滅以前」と「鬼滅以後」では、大きく状況が変わるはずです。
2020.10.25
『鬼滅の刃 兄妹の絆』を見ました。ふだんはマンガも読まないしアニメも見ないので、「キメツノヤイバ」というタイトルを聞いたことがあっただけで、どんな内容のものかは、まったく知りませんでした。今回の映画版を見て、おおよその設定は把握できました。◇シネマレビューサイトにも同様のことを書きましたが、この物語の主人公は、絶望的な不幸を強いられたにもかかわらず、自分自身が「鬼」になって復讐の人生を歩むことができません。なぜなら、戦うべき敵こそが鬼だからです。主人公は、あくまで人間の側に立って鬼を退治しますが、内心では鬼の悲しみを共有しています。敵が鬼になってしまった背景を意識せざるをえない。自分自身も鬼と同じ境遇に立たされており、唯一残された肉親の妹もまた鬼だからです。そこに、この物語のユニークな点があり、そもそも「鬼とは何なのか」という社会学的な問いが含まれています。◇この物語のなかで、鬼が出現しはじめたのは平安時代とされています。ちょうど修験道や陰陽道が密教に結びついた時代ですね。とりわけ『鬼滅の刃』の世界観は、山民や山伏の世界と重なっているように見えます。主人公の生まれた竈門家は炭焼きの家系だし、鬼殺隊の人々は天狗などの神楽面をつけている。このアニメは、大正期を舞台にした作品ということで、当時の怪奇・幻想文学や、鈴木清順の映画などに通じるところもありますが、とくに、平安の呪術的な世界を大正期に移し替えた設定は、荒俣宏の『帝都物語』とよく似ています。◇しかし、本来の日本の鬼の伝承は、おそらく平安時代よりももっと古く、さらに古墳時代にまで遡るのではないかと思います。一般に、鬼を退治した桃太郎のモデルは、百襲姫の弟である吉備津彦や稚武彦ではないかとされています。あるいは、雄略天皇とする見方もあるかもしれません。もしかすると、世界遺産になった百舌鳥・古市古墳群にある、最大の大山古墳こそが「桃太郎の墓」かもしれないのですよね。つまり、日本古来の鬼退治の伝承というのは、大和王権が、土着の勢力を駆逐していった、いわば「勝者の歴史」を物語ったものにほかなりません。この勧善懲悪的な皇国史観こそが、戦時中にも利用されて大きな影響力をもちました。『鬼滅の刃』の物語は、そこに「敗者の歴史」をもちこんだものであり、鬼退治の歴史観に対する痛烈な批判になっているはずです。
2020.10.14
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