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小田急電鉄:2600形小田急電鉄2600形は、1964年(昭和39年)から2004年(平成16年)まで活躍していた通勤形電車です。小田急電鉄における20m級4扉大型車の始祖となります。昭和57年5月頃 登戸付近にて当時一番活躍していたと思われる2600形です。小田急電鉄の通勤型でその後の標準スタイルの先駆けだったようです。通勤型にはまったく興味がありませんでしたが、同編成にはラッピングが施してあったため、慌てて撮影した記憶があります。1982年(昭和57年)3月から6月にかけ、『向ヶ丘遊園で行なわれている「フラワーショー」が20周年を迎えたことに合わせ、「フラワートレイン」として2666Fの側面全面に塗装されて運行された。』となっています。その後もつい最近までこの小田急スタイルとなる5000形が残っていましたが、淘汰が急速に進み、小田急通勤車らしいスタイルので電車は消滅してしまい、残るは8000形のみとなりました。小田急電鉄:2400形
2024.05.24
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183系・189系:特急「あずさ」「あずさ」は、昭和41年、新宿~松本間に誕生した特急列車です。登場当初は田町電車区の181系が使用され、特急「とき」と共通運用となっていました。その後、181系は新潟運転所に所管替えとなりましたが、昭和48年から上野~東京間の回送線使用した定期旅客営業が廃止されたため、長野運転所の所管となっています。同時に、特急「あずさ」に幕張電車区所属の183系0番台も投入され、自由席車両付のL特急となります。昭和52年頃 中野駅にて 183系0番台中野駅に居て何故こんな写真を撮ったのか全く記憶の無いシーンです。おそらく28mmの広角レンズですが、ホームにカメラを置いてシャッターを切っていると思われます。この頃は既に189系が誕生しており、181系が撤退した後でした。「あずさ」は、幕張区の183系0番台に出逢う方が多かったように思います。昭和52年頃 新宿駅にて 189系こちらは同じ頃に新宿駅で撮影した新鋭189系。どうやってか、特別改札のあるホームに潜り込んで撮ったようです。当時の新宿駅は結構な規模の操車場があり、貨車の入換が行われていました。右に見える貨車の位置は、埼京線1~4番ホームの新南口~サザンテラス口の旧跨線橋が掛かっていたところですね。上に跨っている道路橋は国道20号線(甲州街道)です。昭和53年2月19日 新宿駅にて 183系0番台こちらは新宿駅で撮影した183系0番台。特別改札の無い中央線快速ホーム発着なので撮ることが出来たのでしょう。左側に1つ目のDD13もチラッと写っています。昭和58年1月12日 川岸~辰野間にて飯田線の旧型国電を撮影に行った際に撮ったもの。上越新幹線の開業により大量の183系1000番台が長野区や幕張区に流れ出したため、0番台は「あずさ」の運用から撤退することになります。この写真も183系0番台が「あずさ」で活躍する末期の頃となるでしょうか。また、特急列車の経路がみどり湖駅経由の新線に切り替わってしまったため、この区間を特急列車が走ることはなくなってしまいました。昭和58年3月26日 西国分寺駅にて 189系「さよならED16」列車を撮るために陣取ったホーム端で待機中に撮影したものです。この頃の「あずさ」は、長野区の189系が12連で運用されていました。在来特急としても最も貫禄のあった頃ですね。そして、183系1000番台の流入、グレードアップ車両やリニューアル車両(あずさ色)が導入されると同時に、オール9連化されることになります。しかし、その変な塗装に影響されてしまってか、これ以降、特急「あずさ」の写真を撮ることは全く無くなってしまいました。平成20年11月11日 189系あさま色 「あずさ81号」20年以上の時が過ぎ、JRになって初めて189系「あずさ」の写真を撮ることができました。「あずさ」は多客期の需要が大きいため、シーズンに何本かは波動用車両を使用した国鉄車が使用されます。この時代になってあさま色の車両が使われると言うのも皮肉ですね。この列車については、JR化後の変遷が非常に複雑なため、記述は省略いたします。189系:臨時特急「あずさ銀嶺」
2024.05.23
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筑波鉄道:終焉の頃筑波鉄道は、常磐線土浦駅~水戸線岩瀬駅を結んでいた関東鉄道グループの路線。開業は古く、明治44年に遡ります。筑波山への観光路線として栄え、国鉄からは上野~筑波を走る急行列車「筑波」の乗り入れを行うほどでしたが、モータリゼーションの影響を受けて衰退していきました。廃止が目前に迫った頃、それまで訪れていなかったこともあって、1度だけ撮影に行きました。※撮影は、すべて昭和62年3月22日、筑波常陸北条~常陸小田間にて。筑波鉄道のオリジナル車504モヤに霞む筑波山を横目に、土浦へと道を急ぐ。元国鉄キハ30型 キハ301単行だが、車内はかなり混んでるように見える。筑波常陸北条駅での交換風景。両方の列車とも廃止を惜別するヘッドマークを付けています。取手に次いで2番目に乗降客の多い駅であったらしいです。キハ761国鉄のキハ20型に類似した外観ですが、元雄別鉄道の車両ということです。国鉄キハ10型 キハ821遠くから見ても一見してキハ10系と判る姿が非常にうれしかった記憶があります。その昔、キハ10系に何回か乗ったことがあるにも拘らず、当時あまり興味がなかったために、現役時代の写真を全くといって良いほど撮っていなかったからです。筑波鉄道の廃止は昭和62年3月31日、折りしも国鉄の最期の日でした。それまで1度も訪れることが無かったため、この撮影が最初で最後の筑波鉄道となってしまいました。
2024.05.22
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12系お座敷客車(高タカ):「やすらぎ」過去ログ『12系お座敷客車「くつろぎ」(高タカ)』で昭和58年に高崎客車区(高タカ)に配置された「くつろぎ」をご紹介いたしましたが、さらに上向きの景気の中で次々と改造お座敷客車が誕生し、高崎客車区には第2編成目となる「やすらぎ」が誕生します。昭和61年5月のデビューでした。デビューを記念して発売された「やすらぎ」のオレンジカード。裏面を見ると昭和61年4月の発行となっていますので、写真も実車あることから、完成直後に急いで写真を撮って採用したようです。背景から大宮工場の留置線で、スロフ1両のみのように見えます。「くつろぎ」でも1ドア化や内装の変更等、外観にはあまり手が付けられませんでしたが、「やすらぎ」ではSETから大流行した展望室が両端に設備されました。塗装も既に12系のベース色を表現しない塗装となっており、赤字のために命ぜられた塗装簡略化の流れは10年もしないうちにすっ飛んでしまった、当時の状況がこの辺にも表れています。こちらは民営化後、高崎支社発行「やすらぎ」デザインのオレンジカードです。客車がメインの題材で発売されていますが、復活したEF55にスポットを当てているように思われるデザインです。「やすらぎ」には専用の牽引機としてEF6019を特別塗装で用意しましたが、現実には牽引する客車を限定せずに運用されていました。平成2年5月4日 渋川~敷島間にて EF651034牽引「やすらぎ」の写真は全然残っていないと思っていましたが、アルバムの中から1枚だけ出てきました。雨のため露出が足りず、プリントからのスキャンのために画像が悪いのですが。フィルムからスキャンすればなんとかなりそうです。「くつろぎ」の記事でも触れましたが、EF58が撤退してEF641000番台が大量にJR貨物に継承した結果、足りなくなった穴埋めのために旅客用EF65PFが高崎第二機関区に配置されたようで、この年代に撮影した上越線のお座敷客車はみんなPFばかりでした。「やすらぎ」は平成13年3月31日をもって廃車・除籍となりましたが、一部の車両がわたらせ渓谷鉄道へ譲渡されました。しかし、これも老朽化によって平成21年度に廃車、先の除籍車も含め複数の車両が個人に引き取られ、活用されているそうです。
2024.05.21
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12系お座敷客車(高タカ):「くつろぎ」団体・臨時列車用として製造された12系客車。旧型客車の老朽化置き換えで急行列車に使用されるようになりましが、さらに余剰となってきた特急用14系客車が急行列車に使用されるようになると、12系客車は普通列車やお座敷列車へと改造されるようになりました。各所に点在していたスロ81系お座敷列車が12系に置き換えられるとともに、それまでお座敷客車を配属していなかった客車区へも進出することになります。このうち、高崎客車区(高タカ)には、昭和58年に「くつろぎ」が6両編成で新規に配置となりました。昭和59年10月14日 東大宮~土呂間にて EF58151牽引登場当初の「くつろぎ」は、12系をベースとしていながらも、白の太帯1条を配したデザインでした。あまりインパクトはありませんが、奇抜な塗装はまだまだ無かった時代です。同じようなデザインで、九州の「海編成」「山編成」(帯はグリーン)がありました。撮影日調査中 後閑~上牧間にて EF65PF牽引平成5年8月21日 後閑~上牧間にて EF651023牽引高崎地区のバブル需要で兄弟編成である「やすらぎ」が増備されると、見劣りを考慮したか、「やすらぎ」もリニューアルが実施され、塗装もシックな茶色系のデザインに変更されました。EF58の独壇場であった高崎線・上越線の客車列車ですが、EF58が全廃になると、EF641000番台に加え、それまでなかったEF65PFが入線するようになりました。下の写真は、最後部のスロフが検査のためか、スハフ12に代わっています。平成6年5月31日 EF6019牽引 「くつろぎ」 上牧~水上間にて「やすらぎ」のデビュー後、動態保存車であったEF6019が「やすらぎ」に合わせた塗装に変更され、ジョイフルトレインの牽引に優先されるような状態で活躍を始めました。「くつろぎ」は平成11年半ばまで運用されましたが、汎用性のある電車ジョイフルトレインに後進を譲り、引退しました。現在も一部の車両が鉄道文化むらに保存されています。
2024.05.20
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伊豆急行電鉄:100系電車伊豆急行電鉄100系電車をご紹介いたします。あまり縁の無い線区でしたので、伊豆急線内は未だに一度も乗車したことはありません。100系電車には辛うじて伊東駅まで職場旅行で乗車したことがあったくらいで、残念ながら写真は撮っていませんでした。昭和58年5月14日 熱海駅にて クハ129熱海駅に乗り継ぎで立ち寄った際、ヘッドマークを付けた列車が居たので偶然撮ってみたものです。当時はあまり私鉄に興味を持っていなかったですし、100系が無くなるという危機感も全くありませんから、単なる偶然です。「黒船祭」の大きなヘッドマークが全盛期を物語ります。こちらは中間車の先頭化改造による車両です。昭和62年2月14日 撮影場所不詳東海道のブルトレを撮影に行った際、空き時間に14系「踊り子」を撮影に行ったときのものです。この頃は100系初期車にかなり興味を持っており、「来ないかな~」と期待はしていました。その期待どおり、先頭には両運のクモハ100形、中間にはサロ改造の車両も入った、理想的な編成がやってまいりました。その後は何度か撮影の機会があったあったものの、100系編成の姿は既になくなった後でした。
2024.05.19
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EF641000番台牽引 20系寝台客車:寝台急行「天の川」「天の川」は、上野~秋田間を結んでいた寝台急行列車です。20系寝台客車化によりブルートレイン然となった急行「天の川」その後も順調に秋田行きの寝台急行として順調に運転されました。昭和57年11月、上越新幹線の開業により夜行急行の削減が実施されましたが、このときも秋田行きの直通列車の使命を受け、残存しました。昭和57年9月6日 水上駅にて EF641000番台重連 20系「天の川」前回の夜間撮影から半年後に再訪した水上駅。補機は既にEF641000番台に変わっていましたが、この間に本務機のEF58もEF641000番台に変わってしまい、上越越えは同形式の重連スタイルとなっていました。良く見ると、EF641000番台の登場初期の為、ジャンパ栓を照らすためのライトが設置されていないことが判ります。上越新幹線大宮暫定開業後も残った急行「天の川」でしたが、昭和60年3月、上越新幹線の上野開業により惜しまれつつも廃止されてしまいました。EF58牽引 10系寝台客車:寝台急行「天の川」EF58牽引 20系寝台客車:寝台急行「天の川」
2024.05.18
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国鉄 大宮機関区:レンガ庫大宮操車場は、現在のさいたま新都心開発で大幅に縮小され、高崎線~東北線相互の折り返し方向転換や時間調整を行うための停車場のような位置づけになってしまいましたが、かつては大宮駅~与野駅間のすべてを線路で埋め尽くした広大な操車場でした。そして、到着した列車からの開放や、組成後の列車を牽引するため、大宮操車場を起終点とする列車を牽引する機関車の付け替えも行われていました。これら機関車は大宮駅の南西方にあった大宮機関区にて駐留することになっていました。大宮機関区には、大宮操車場のの入れ替えに使用されるディーゼル機関車が配置され、川越線用のキハ30系(配置は高タカ一)も駐留していました。東北・上越新幹線の上野駅延伸工事が始まる前、大宮機関区には検修用のレンガ庫があり、昭和40年代半ばくらいまではSLが大宮操車場の入れ替えや川越線の貨物列車牽引の任に当たっていたらしいです。私も母親の田舎に連れて行ってもらうときはここを通っていたわけですが、残念ながらSLを見た記憶は全くありません。昭和57年7月頃 大宮機関区 レンガ庫とキハ30系構内時計が示すように、朝の8時30分過ぎ。レンガ庫の位置関係がイマイチ記憶に薄いのですが、この写真の目線の高さからして、線路を歩きながら撮影しているようです。殆ど大宮駅に近い場所から300mmの望遠で撮ったような構図です。レンガ機関庫はもちろん気動車関係のエリアにあり、写真でもお判りのとおり、架線設備は全く備えていません。昭和57年7月頃 大宮機関区 レンガ庫大宮操車場への職員輸送として、川越線で到着したキハ30系の列車が、職員を乗せてそのまま操車場構内に乗り入れます。この写真はその車内から撮影したものですね。この写真では、このスパンにおける新幹線工事が未だ始まっていないようですが、昭和59年になるとかなり橋脚が建っている様子が分かりますので、おそらくその時期辺りに取り壊されてしまったのではないかと思われます。煙抜きの付いた独特の形をしたレンガ庫、かつては全国各地の機関区で見ることが出来ましたが、今では残り少なくなってしまったと思います。これは、老朽化というのもそうですが、阪神・淡路大震災の発生から耐震調査が普及し、震度5以上で倒壊する危険のある建物は耐震補強または取り壊しといった工事が実施されたため、鉄筋の入らないレンガ庫は急速に取り壊しが進んでしまったのではないかと思っております。直接の職場ではなかったために、位置関係や出入りの様子の記憶も曖昧なのが残念です。この写真はなんとなく撮ったものだと思いますが、かつての自分の働いていたエリアにあった遺構を記録することが出来て本当に良かったと思っております。
2024.05.17
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209系3000番台:川越線・八高線平成31年3月、川越車両センターで最後まで残っていた209系3000番台ハエ64編成が運用から外れたそうです。平成8年3月16日に電化開業した八高線への乗り入れに際し、不足する電車運用に対応するため209系4連が4編成増備されました。基本性能は京浜東北線用0番代と同一ですが、ドアの半自動対応など仕様が異なるため、それまでの所属車と同じ3000番代が与えられました。川越線や八高線はあまり乗ったことが無いため、特に電化されてからの写真と言うのはあまり撮ったことがなく、ほんの少しだけ撮った写真でまとめにしたいと思います。平成20年9月6日 八王子駅にて ハエ64編成今回引退となったハエ64編成。臨時特急などの撮影で遠征した際にたまたま八王子駅で撮影したもの。このときがハエ209系初めての撮影でした。平成23年11月22日 川越車両センターにて ハエ63編成「川越車両センターまつり」で展示されたハエ63編成。行先は「箱根ヶ崎」。平成23年11月22日 川越車両センターにて ハエ63編成こちらも同じ日ですが、時間が変わって「立川」になっています。八高南線の電化当初は、103系や209系が拝島から青梅線へ乗り入れを行っていたのですが、いつの間にか無くなってしまったようです。短区間とはいえ4両編成は厳しかったのでしょうかね。そう言えば201系の4両編成も八高線高麗川まで乗り入れしていたような。平成30年8月26日 川越駅にて ハエ61編成209系3000番台の撤退が始まったため、防災体験の帰り道に大きく逸れて川越駅へ。30分に1本の過疎ダイヤで、3500番台が連続できたために心が折れかけたのですが、3本目に3000番台が入った運用があることを知り、やっと1本だけ撮影ができました。到着の「川越」と折り返しの「八王子」を撮れると思っていたのですが、既に折り返しに設定に。距離的には遠くない路線ですが、あまり訪れる機会もなく、現場でもたまには八王子辺りまで行くことはあるのですが、なかなか捉える機会の少ない車両でした。『205系3000番台:川越線・八高線』『八高線:キハ35系・20系』『キハ38:八高線』
2024.05.16
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東武鉄道 6000系:快速列車昭和39年に誕生した東武鉄道6000系。日光・鬼怒川への長距離快速用として製造され、有料列車である快速急行「だいや」などにも使用されました。当時の世相として非冷房車で登場していますが、通勤形への冷房搭載・冷房改造が進んでくると、優等列車でありながら非冷房であることが問題となり、野岩鉄道の開業も踏まえ、車体更新が行われます。改造を終えた6000系は6050系と名前を変え、新製車も加えて快速列車などへ充当されて活躍していましたが、これについても運転系統の分離により平成29年3月のダイヤ改正にて浅草口から撤退し、ローカル運用に就いている状況です。昭和56年6月6日 新大平下~新栃木 6000系 浅草行き快速6000系はあまり本数が無かったためか、快速急行「だいや」(急行「だいや」)のほか、無料快速の写真はこれしかなかったようです。旧6000系から通算すると誕生から既に50年を超えており、戦前型の車両を見てその息の長さに感嘆していた昔よりも長生きしている車両がいることに驚きを隠せません。東武鉄道 6000系・5700系:快速急行「だいや」
2024.05.15
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国鉄 保健車:スヤ421※本記事は、2020-10-09に投稿したもので、当時の表現になっています。前記事に続き、金町のHさんからもう1枚ご提供いただきました、保健車を続けてご紹介させていただきます。昭和49年7月16日 根室駅にて スヤ421根室駅ホームにて、まさに検診を準備又は実施している最中の検診車を捉えたものです。車号はスヤ421としっかり捉えることができ、2等寝台車のマロネ405から改造されたものらしいです。ホームでの写真のため、残念ながら床下の状況は判りませんが、スヤ522と同様、屋根の一部に切り欠きがあり、そこから排ガス用の煙突が出ているのがハッキリと判ります。窓が塞がっている様子から、この車両も自車用の暖房設備やX線機器のための床置き型発電機が搭載されていたものと思われます。この車両も単独での使用となっていたため、出入台とは反対側にもう一つの出入台を増設しています。実際に検診が実施されている状態を撮影していたため、技師・看護師と見られる方々が待機されている様子が分かる、大変貴重な記録です。ちなみに、ワムフの中にも男性が1人座っており、口角が上がっているようにも見えるため、他にも居る可能性があります。手前には緩急車としてワムフ100が連結されているのも貴重。検診車の奥には、レ7000やレ12000と思われる冷蔵車も5台連結されたまま留置されており、想像ですが、検診の資材や資料などの物置として使用されていたのではないかと考えられます。拡大してワムフ100を見てみると、往復の運用と思われる行程が記してあり、この一連の編成が「検診編成」として運用されていたと思われます。全体としても当時の様子が分かる、大変貴重な記録だと思います。同車も国鉄時代の昭和61年9月に廃車となりますが、やはりツーリングトレインとして帯広駅構内で活用され、用途廃止後はさらに個人に払い下げられ帯広市内でレストランとして使われたそうですが、残念ながら解体されて現存していないようです。金町のHさんにはいつも貴重な写真をご提供いただき、御礼申し上げます。
2024.05.14
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国鉄 保健車:スヤ522※本記事は、2020-10-06に投稿したもので、当時の表現になっています。過去ログでもいくつかの事業用車をアップしていますが、金町のHさんから大変貴重な写真をご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。昭和49年7月19日 遠軽駅?にて スヤ522かつて、国鉄職員の健康診断を実施するため、検診車という特殊な車両が存在しました。都市部では健康診断を実施する専門の医療機関や事業者もある時代ですし、中規模以上の企業では社内で検診を実施し、備えのないX線検査にはレントゲン車を依頼したりと、近場で容易に健康診断を実施することができます。しかし、一たび地方に目を向けてみると、そうした医療機関等まで一筋縄では行かないほど距離が離れている地域も存在します。特に昭和40年代頃までは、辺ぴな駅でも職員が配置されていましたので、そうした職員にも検診を受けさせるためにこのような車両が存在したようです。特に、医療機関の密度が乏しい北海道で活躍の場面が多かったようですね。写真の車両はスヤ522で、2等客車スロ52(←スロ51)から改造された車両です。窓回りはいくつか潰されていますが、間隔の開いた小窓に旧特ロの面影が色濃く残っています。床下まで非常にキレイに写っており、意外と箱が少ないことが良く判ります。同車は非冷房車ですが、停車中も暖房が必要なことから温気暖房装置を搭載しています。一方、屋根上に着目すると、屋根に一部切り欠きがあり、排気管が出ているようです。床下には大型の箱を見ることができないので、おそらく床置き型の発電機を搭載しており、暖房装置やX線機器の電源に使用していたのではないかと思われます。特ロでは出入台が1箇所ですが、当該車両は単独で使用されることから、もう一方のエンドに出入台を増設しています。写真を大きくしてみると、手前の出入台には「出口」、反対の出入台には「入口」という表示がされているのが確認できます。スヤ52は国鉄時代の昭和61年までに全廃となったそうですが、当該車両は廃車後にライダーハウスの宿泊施設として活用され、現在は同施設の居酒屋として現存しているようです。
2024.05.13
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貨車入換用:動車てこ(大宮操車場・ハンプ入換)「動車てこ」ってご存知でしょうか?鉄道マニアでも、おそらくはご存じない方が殆どだと思います。通常、構内での貨車の入換は必ず動力を用いますので、切り離したり連結をするのに人間が押して動かす必要はありません。しかし、動力車を持たない駅や何らかの都合で動力車を使えない場合でも、なんとか貨車を動かさなければならないこともあります。私が勤務していた大宮操車場。ハンプ入換も基本的には動力車で坂を押し上げ、下り坂を転がってくる勢いで連結が行われますので、原則は人が貨車を押すことはありません。しかし、当て込みを行った際に失敗すると、当てられた貨車だけ勢い良く前に飛び出し、当てた貨車が「ピタッ!」っとその場に止まってしまうことが良くあります。この場合、次にまた当て込む貨車がくればそれに頼ることもできますが、入換がここで終わってしまうと、機関車はとっとと逃げてしまいますので、人間がなんとかしなくてはいけません。ただの棒のようですが、これが「動車てこ」です。空車の2軸貨車や緩急車くらいなら、1人の職員が力を入れれば動くことさえありますし、ホキ2200や空車のコキ50000などは走り装置が非常に滑らかなので、ブレーキを外しただけで勝手に動くことさえあります。ただし、動きの悪い2軸貨車など、貨物を積載していたら、人力ではまず動きません。ここで登場するのが「動車てこ」です。要は、てこの原理により、貨車を持ち上げるように横にずらし、横方向の動きに変え、動き出したら人間が押して勢いを付けるということです。これを図にするとこんな感じです。寸法とかの感覚を忘れてしまったのですが、大体、長さが1.5m~1.8mくらいだったように思います。支点から作用点までの長さも、大体5cmくらいしかなかったと思います。ですから、50kgの力で力点を押せば、30倍以上の力で横にずらす力が生まれると言うことですね。これによって、軽いものや走り装置が良い貨車ならば、3両でも1度に動かすことが出来ます。また、何両も止めてしまったときは、1両を逆方向に移動させてからまた元の方向へと動かし、当て込みを行うことで全体を動かす、というようなテクニックもありました。そうは言っても、あくまでも付け焼刃な道具でありますので、例えば走り装置が良くない50t級のタンク車など、1両でも動かせないことがあります。「動車てこ」を車輪と線路に差したまま、全体重を掛けたら身体が持ち上がったまま・・・なんて無様な経験もありました(笑)。操車場内では、そこら中にこの「動車てこ」が転がっていました。また、ブレーキパットが車輪に密着してしまった場合にも、このてこを使って叩いたりもしましたね。今では動力車入換が原則となってしまいましたので、このような道具消滅してしまったでしょうか?もしかしたら、不連結の際の応急用として、操車場にまだ存在しているかもしれません。
2024.05.12
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小田急電鉄:2400形小田急電鉄2400形電車は、1959年(昭和34年)から製造された通勤形電車です。2400形の最大の特徴は、デハが19.3m、クハ15.97mという、電動車と制御車で3m以上も車体長を違えた変則的な構成であったことです。これは、電動車の駆動軸の粘着性を高める目的で、電動車の車体を極力長くして重さを稼ぐために考えられたもので、逆にそれまで17m4両編成に対応するホームに納める延長とする必要があったためクハの車体長を抑えたために結果のようです。昭和57年5月頃 登戸付近にてこの頃の私鉄車両、特に通勤車はまるで興味がありませんでしたが、この形式はあまりにも特徴があるので、なんとなく存在を知っていました。それにしても、小田急の本線で4両編成というのも、現在では想像もつきません。平成元年3月までに全車が廃車となり、試験的に1両だけ冷房化された以外は冷房化されることなく引退してしまったようです。
2024.05.11
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165系(モハ164-500番台):急行「ごてんば」急行「ごてんば」は、東京~御殿場を結ぶ列車として、昭和43年4月に誕生しています。当初は下り4本、上り3本が設定され、その後3往復体制、晩年は2往復となっています。東海道線区間では急行「東海」に併結され、国府津で解結が行われていました。使用車両は165系3連となっていましたが、昭和56年10月改正からは167系が使用されるようになっています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」に使用されたモハ164-500番台妻板部をアップで撮ったものです。この写真を撮った頃はまだ中学生であり、簡易運転台付きの500番台に関する知識は持ち合わせていなかったと思います。偶然品川駅で写真を撮っているときに居合わせた急行「ごてんば」にこの車両を見つけ、非常に違和感があったので写真を撮っていたものと思います。妻板の窓をくり抜くように窓が付いており、雨用にワイパーも設備されています。運転設備は車内の側面にマスコンやブレーキ軸が取り付けられており、使用しないときは壁と同色の金属カバーで覆われ、格納されています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」 モハ164-514モハ164-500番台は全部で14両製作されていますので、写真の514がラストナンバーとなります。標準のモハ164は妻側に便所、内側に客扉が付く構造となっておりますが、この車両だけは便所が客室寄りで客扉が妻板側となっており、クハやグリーン車も含めても例外はこのモハ164-500番台だけとなります。モハ164-500番台誕生の元々の経緯は、山陽スジの急行への増結用として用意されたもの(具体的には「鷲羽」だったと記憶しています。)で、3両の増結に至らないこと(又は有効長の関係か?)から2両増結することとなりましたが、最小単位が3両編成となっていたため、モハ164に簡易運転台を設備して対応したとなっています。当時の山陽急行は平坦区間の関係から殆どの直流急行が153系であるため、最小単位である2両で考えると、165系を使用するしかなかったということだと思います。そんな目的をもって14両も製造されたモハ164-500番台でしたが、新幹線の岡山開業後は山陽急行が大幅に縮小し、増結編成の運転もなくなってしまったことから、クハ165+モハ164-500+クモハ165として組成されて、簡易運転台を持たないモハ164と同じ用途、共通運用で使われるようになってしまいました。せっかく特別な設備を持った異色車種でしたが、ほんのわずかしか目的は達成しておらず、異色ながらも地味な活躍に終ってしまいました。このほかにも167系の「ごてんば」の写真を撮っていますが、ISO1600のフィルムだったため、非常に写りが悪いので割愛しています。偶然ですが、この急行「ごてんば」に関しては、モハ164-500番台の写真だけを撮っていたような状態でした。急行「ごてんば」は、昭和60年3月のダイヤ改正により消滅しています。
2024.05.10
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国鉄 直流型電気機関車:EF6632EF66シリーズで、32号機です。JR貨物へ引き継がれ、永く活躍したカマのうちの一機です。平成26年4月20日 EF6632牽引 4083レ平成26年8月2日 EF6632牽引 4083レ比較的に短い期間で2回捕捉することができました。まったく同じアングルとしてしまったのは失敗。どこか違わないかと思いましたら、2枚目が半トヨロンになっていました。この列車は基本的に半トヨロンで運転されていますが、日曜早朝の通過列車はトヨロンが連結されず、定数一杯分の普通コンテナで組成されていました。EF6632で検索すると、アディダスの靴ばかりがHITして、その後の消息に係るデータに行きつきません。
2024.05.09
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キハ56系 キハ27:函館本線 普通列車北海道の急行と言えばキハ56系。キハ58系に先駆けて、北海道用に導入された2重窓を持つ急行形車両です。ローカルシーンではキハ22も急行列車として使用されていましたが、本線系の基本はキハ56系で結構な長さの編成で走っていました。そんな急行形のキハ56系も、急行列車の運用が縮小するにつれ、本線系の普通列車で運用されるシーンが多く見られました。昭和58年9月7日 大沼公園~赤井川間にて キハ27ほか4連函館運転所の気動車は北海道特有の正面ナンバーが無く、区別が付き難いのがイタイです。急行列車が次々と廃止になると、行き場を無くしたキハ56系は普通列車に使用されるようになります。元々キハ22もデッキ付きの2ドアクロスシート車ですから、グレード的にはあまり気にならなかったですね。車内の静粛さやキレイさは格段に違いますけど。この頃になるとキハ22もキハ40系の導入により廃車が加速し、キハ56系のローカル転用と地方交通線の廃止で急激に世代交代が進んだようでした。キハ27+キハ40:快速「マリンライナー」
2024.05.08
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113系:総武本線・成田線(晩年)昭和49年から房総各線で活躍を始めた113系電車。借入れを除けば、全てがスカ色で運用されていました。気動車からの置き換えや73形旧型国電等を駆逐した新性能近郊型電車も、銀色の211系や元京浜東北線209系に後進を譲り、2011年(平成23年)に引退となりました。総武快速線には地下線用難燃・ATC車である1000番台が使用されましたが、津田沼以遠のローカル運用には113系初期車が使用されていました。それら初期車も老朽化が進み、1000番台の転用を受けさらには冷房化、快速線への217系導入後は1500番台が転入するなどの世代更新がされてきましたが、時代の要請によりJR東日本管内から113系は姿を消すことになりました。房総各線における晩年の活躍はあまり記録する機会がありませんでしたが、総武本線物井~佐倉間に訪問する機会が度ほどあったため、辛うじて晩年を記録することが出来ました。1531M 鹿島神宮行き以上、平成21年1月3日撮影。1369M371M以上、平成20年5月3日撮影。平成18年7月30日 千葉駅にてこれのみ、おそらくポケモンスタンプラリーの際に撮った写真。過去未整理だったものです。晩年だったためか、意外に1000番台が少なく、1500番台や東海道本線から流れてきたと思われる車両ばかりでした。113系初期車(幕張区):房総地区普通列車
2024.05.07
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トヨタ カローラ:E30系 バンブログの再編集に当たり、鉄道系ばかりの記事に偏っているため、今回はクルマをご紹介したいと思います。昭和50年代~、運転免許取得率が急激に上昇しており、それまでクルマを持っていなかった家庭にもマイカーが備わる時代がやって来ました。しかし、当時としてもクルマは高価な買い物であったため、まだ中流家庭に届くかどうかの時代でもあり、廉価なクルマが圧倒的に売れていました。その中でも特に売れていたのがトヨタカローラと日産サニーで、特にトヨタカローラはしばらくの間、売上日本一を続けていました。私の父親は、勤めていた日立が地方移転することになってしまっために退職せざる得なくなり、ここに合わせて運転免許を取得したようです。最初は中古のトヨタコロナのライトバンを使っていたと思いますが、運転が慣れてきて、いよいよ新車を購入することになったようです。この時の新車がトヨタカローラのライトバンでした。昭和61年3月頃クルマはあまり詳しくないので調べたところ、E30系というトヨタカローラ3代目に当たる形式だそうです。もうとっくに廃車になっているので、ナンバーを晒しても問題ないでしょう。「埼44」も今は思い出の表記ですね。「熊谷」ナンバーが出来てから「大宮」ナンバーに変わりました。昭和61年と言えば、私が免許を取ってマイカーを買った次の年です。カローラE30系は昭和49年からの製造で、私が小学生の時にはこのクルマが既にありましたから、新車として登場して直ぐに購入したものと思われます。このとき既に12年以上が経っていまして、確か平成に入るくらいにはまだ乗っていたような気がします。今では殆ど見られないカラーですが、発売当時、この形式ではこのカラーがメジャーで、日産サニーでもほぼ同色が存在していました。当時はかなり人気のあるカラーだったのでしょう。E30系では、このクルマのようにボンネットが滑らかなタイプと、ラジエータ部分が上に張り出したタイプが存在したのですが、形式的には区別されていないようなので、スタイルがチョイスできたのか、或いは前期と後期があったのかもしれません。
2024.05.06
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DE10牽引 12系客車:団体列車 快速「ほととぎす」55.5.5昭和55年5月5日、当時5並びの日付として注目されていましたが、コレにちなんだ企画臨時列車のひとつです。当時は、なんで「ほととぎす」なのかは知りませんでした。(シービーさんから「ホトトギスは5月頃日本に渡ってくる鳥なので」というご意見がありました。)千葉~銚子間にDE10が12系を牽引する設定で、12系は9両編成だったと記憶しています。※撮影は、昭和55年5月5日です。銚子駅構内にて DE1095 折り返し待機中の「ほととぎす号」佐倉機関区にはこの辺りの若番DE10が結構居ましたね。555号機でもあるともっと面白味があったかもしれません。銚子駅にて 12系「ほととぎす」 ※最後部はオハフ13当時は臨時列車として当たり前に使用されていた12系客車。テールマークを持たない形式ですが、このような装飾も行われるようになりました。千葉駅にて DE1095 到着する上り「ほととぎす号」全線とも当然にして電化されていましたが、千葉局は組合が強かったためでしょうか、電気機関車の入線は見送られており、房総地区を走る貨物列車や客車設定の臨時列車は殆どといいますか、一部のEF80牽引を除いてはDL牽引であったように記憶しています。烏山線に入線した「銀河鉄道999」以来、このような企画団体列車が全国各地に波及して行きましたが、この「ほととぎす号」は随分地味な存在だったと思います。10-1910 近鉄10100系〈新ビスタカー〉(改装形) C編成 3両セット[KATO]【送料無料】《06月予約》送料無料◆10-1910 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) C編成 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1910 近鉄10100系「新ビスタカー」(改装形)C編成 3両セット送料無料◆10-1909 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) A編成+B編成 6両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】10-1909 近鉄10100系〈新ビスタカー〉(改装形) A編成+B編成 6両セット[KATO]【送料無料】《06月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1909 近鉄10100系「新ビスタカー」(改装形)A編成+B編成 6両セット送料無料◆セット販売 10-1909/10-1910 KATO 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) A編成+B編成 6両セット+C編成 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】送料無料◆10-1911 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) 三重連 9両セット (特別企画品) Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】10-1911 近鉄10100系〈新ビスタカー〉 三重連 9両セット 特別企画品[KATO]【送料無料】《06月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1911 近鉄10100系「新ビスタカー」 三重連 9両セット
2024.05.05
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EF5861牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」「サロンエクスプレスそよかぜ」は、逗子~軽井沢を結んでいた臨時特急です。客車にサロンエクスプレス東京を使用した全車グリーンの豪華特急列車で、その昔運転されていた臨時急行「軽井沢グリーン」を髣髴させるものでした。高崎~中軽井沢間はEF62が牽引していたと考えられますが、逗子~高崎間はEF62ではない機関車が牽引していました。これは、おそらく横須賀線区間にEF62が入線していなかったため、訓練を省く目的があったのではないかと思われます。過去ログ『EF651108牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」』でPF牽引の列車をご紹介しておりますが、結果的に最終運転となった昭和63年度では、折からのEF58最終ブームもあって、お召機EF5861が牽引し、ヘッドマーク付も相俟って注目を集めました。昭和63年5月4日 上尾~宮原間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」お召機である61号機が牽引し、話題沸騰となりました。もちろんヘッドマークを掲出していますので、注目度は凄かったですね。こちらはちゃんと撮影記録が残されており、やはりWikipediaでは昭和62年8月までとなっておりますが、こちらも明らかに記述が間違っております。昭和63年5月5日 北本~桶川間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」テールマークは通常の「サロンエクスプレス東京」が掲出されていたと記憶しており、特に面白みも無かったので後部は撮っていませんでした。下りの特急「あさま」とカブってしまい残念な結果となりましたが、当時はまだこんな時代背景だったという意味では良い記録であることも間違いありません。同列車の記録はここで途切れており、この年度が最後の運転となったようです。
2024.05.04
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583系:臨時特急「ひたち51・52号」※本記事は、2015-06-27に投稿したもので、当時の表現になっています。平成27年6月27日、常磐線に583系を使用した団体列車「ひたち」が運転されました。残念ながら撮影に行けませんでしたが、情報によりますといわき方にイラストマーク、上野方に文字マークがステッカー式により掲出されたようです。現在は情報社会ですから、『過去に臨時「ひたち」で583系が使用されたことがあるようです』『ヘッドマークは臨時だった』というような話題が、当時を知らない若い世代と思われる方から聞かれます。ということで、ここはベテランの出番と自覚し、過去のアーカイブをご紹介しようと思いましたら、数年前に「詳細をご紹介します」と言いながら放置していたことを今改めて知り、資料を探し出しました。全貌まではご紹介できませんが、判明した範囲でまとめたいと思います。臨時特急 「ひたち51号」 上野 11:20 → 日立 13:15臨時特急 「ひたち52号」 日立 14:03 → 上野 16:05運転日 昭和54年3月24・25・31日、4月1・29・30日、5月3・5・6日使用車両 583系 盛アオ 13連日暮里駅にて 「ひたち51号」上野駅にて 「ひたち52号」583系臨時特急「ひたち」は、昭和54年の春休み及びGWに設定されていたようです。春休み期間中の土日及びGW中の土休祝日に設定されています。GWが飛び飛びになっているのは、当時5月4日は国民の祝日になっていませんでしたので、通常の年は飛び石連休となることが多かったという時代背景にあります。撮影日は定かではありませんが、1枚目が常磐線内下りであり、2枚目がお土産等の荷物をたくさん持って下車している様子から、それぞれの号数と想定できます。自身はこの2日間しか撮影していませんので、その他の運転日についての情報は分かりませんが、ほぼ「臨時」マークで営業した模様です。青森車の運用範囲内で使用される583系のヘッドーマークは網羅していましたが、「ひたち」への運用は想定されていませんので、当時としては已む無しの措置と言えるでしょう。追記TOSSYさんから情報提供があり、翌年の同時期にも設定されたそうです。その際、5月5日の上りのみ「ひたち」の手書き張り紙がされたそうです。
2024.05.03
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14系座席車:急行「十和田」昭和57年に東北新幹線が暫定開業となり、同年6月及び11月(上越新幹線大宮暫定開業)と2段階でダイヤ改正が実施され、東北方面の輸送体系が大きく変わりましたが、東北新幹線もまだ盛岡までの開業であるため、北海道へは夜行列車から接続する輸送体系が残っていました。20系客車による編成は「津軽」に転用されるとともに、「十和田」は12系による定期列車と14系による季節列車のみとなります。昭和57年11月 上野駅13番線にて EF8021牽引 14系「十和田」長躯青森から到着した「十和田6号」。もちろん牽引機はEF80です。57・11改正直前の「十和田」は、12系の定期、20系の定期、そして14系の季節列車がありました。14系季節列車も、いわゆる学校で言う休み時期は殆ど運転されており、北海道の旅行などでは重宝した列車でした。私も2度目の北海道の帰りにはこの「十和田」で帰ってきた経験があります。発着番線は、上野駅における新幹線工事の影響で、改正ごとにちょくちょく動いていたようですが、末期の頃は13番線だったようです。こちらの写真は、入口やサボ周辺を撮影したものです。新幹線開業直前はこのような写真を撮っていました。昭和57年に撮ったものですが、上の写真と同一日か、確証はありません。というか、撮った記憶すら実はありませんでした。平成元年5月5日 土浦~荒川沖間にて EF81牽引 14系「十和田」新幹線の上野開業である60・3改正では臨時化され、皮肉にも季節列車として長年運用されていた14系座席車による編成が最後まで残りました。臨時急行となった「十和田」は、平成6年12月のダイヤ改正と比較的遅くまで残り、この間に、牽引機は全廃のEF80からEF81へとバトンタッチしています。そんな中、偶然にも撮ってあったEF81牽引の14系「十和田」。「北斗星」の運転開始から1年を過ぎた頃でしたので、既に星ガマになっています。あまりマークすることの無かった常磐線の列車でしたので、EF81が牽引する14系座席車の写真は、僅かこの1枚だけとなってしまいました。旧型客車:急行「十和田4号」(回送)20系寝台客車:急行「十和田」
2024.05.02
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185系B6編成:臨時特急「あしかが大藤まつり」前記事、令和4年設定の臨時特急「あしかが大藤まつり」に続き、翌令和5年度に設定された同列車をご紹介したいと思います。※撮影は、令和5年4月22日です。185系 B6 特急「あしかが大藤まつり」全然マークしていませんでしたが、185系の設定であることを直前で知りました。しかも1往復のみの設定となっていました。詳しい運転時刻が分からないので調べて見ると、何処にも時間が載っていない。JRが時刻表から落ちてしまったのかと思ったら、今までに無い設定に驚きました。なんと、横浜~浦和間が全通過となっているため、時刻表を見ても道理で分からない訳です。相変わらずヘッドマークのない残念な体裁。いつ運用が終るかも分からない車両なので、この先もサプライズは見込め無さそうです。185系C1編成:臨時特急「あしかが大藤新宿号」E257系500番台:臨時快速「あしかが大藤まつり」185系OM車:臨時快速「あしかが大藤まつり」183系OM車:臨時快速「足利藤まつり」
2024.05.01
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