撮影日記 0
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国鉄 165系:サハ164国鉄165系で随一の変形車であるサハ164。サハ164は、昭和41年、中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生いたしました。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴です。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから、新潟区のサハシ165と交換のため転出となり「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ移動し、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて 急行「よねやま」に運用されるサハ164-2上野~直江津間を上越線経由で結ぶ急行「よねやま」は、上野~新潟間の急行「佐渡」と共通運用でした。サハ164はサハシ165と共通運用で、当時は13両編成の6号車に連結されていました。画像が荒れて見づらいですが、客窓を挟んで1対になっている扉が客用で、一番左端にある600mmの扉が荷捌き用のものとなります。遠くから見るとパッと見ではサハ165と区別が付き難いのですが、何とも個性的な窓ドア配置となっています。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」に連結されたサハ164-2偶然にも同じ-2でした。記憶は定かではありませんが、大垣区の153系が撤退を始めた頃、165系で不足するサハを補うために連結し、東京へ姿を見せるようになったものと思われます。急行「東海」にも使用されましたが、間合いで運転される静岡行きの普通列車などにもそのまま運用されていたようです。たった2両のためあまり遭うことができず、写真はどうもコレだけしか見つからないようです。売店という画期的なアイディアだったにも拘わらず、その構想が少し早過ぎたために時代の波に乗れず、風潮が着いて来た頃には急行列車は衰退してしまいました。さらには、売店を設置したための定員減も災いし、結局は本来の用途の使用もされないまま地味で流転の一生を送り、昭和58年1月12日付で廃車、その一生を終えています。
2022.11.15
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配給回送:クモヤ+クハ481-800+クモヤ国鉄時代末期に撮影した、関東ではかなり珍しい編成の写真をご紹介いたします。撮影日未調査 東大宮~蓮田間にてプリントからのスキャンなので画質が良くないのはご勘弁を。クハ481を挟んでクモヤが回送する写真です。今まで、クモヤ143+クハ481-800+クモヤ143だとばかり思っていました。しかし、改めて見ると、前後はクモヤ145ですね。この時代、関東はATCを搭載したクモヤ143ばかりでしたので、クモヤ145と言えば中京~関西独特の牽引車でした。地元ではまず見られ無い形式です。まだ私が国鉄職員の頃の写真で、クハ481簡易貫通車800番台の改造車を輸送する情報を得て撮影に行ったものと記憶しています。しかし、簡易貫通車はクハ480を名乗っており、特急「くろしお」の電化用として誕生した形式であることから、それは昭和52年頃の話なので、時代背景と辻褄が合いません。今回、改めて調べましたら、状況がなんとなく見えてきました。特急「くろしお」用として改造によって誕生したクハ480でしたが、「くろしお」を全381系化することによって不要となった485系は、福知山線電化によって必要となる特急「北近畿」で活用されることになりました。この際、短編成対応としてCP・MGが未搭載で誕生したクハ480では転用が出来ないため、CP・MG搭載工事を行い、形式をクハ481-800にすることになったようです。その工事を担当したのが大宮工場であることが分かりました。大宮工場は、それまで機関車・客車・貨車の整備を行っていた工場でしたが、分割民営化に備えて電車の改造工事を実施するようになっていたようで、当時は全く知りませんでした。これは大船工場の廃止などの計画を見据えたものだったのかもしれません。写真を見ると、テールランプの状況から大宮を出て北上していることになります。回送先となる関西とは逆向きのため、もしかしたら本線試運転の可能性も否定できませんが、それでしたら牽引車に関西のクモヤ145と伴走する必要もありませんので、場合によると蓮田折り返しで南下という可能性もあります。この点については記録も無く、当時の記憶もありません。クハ481-800は大宮工場によって2両が誕生し、うち-802はクハ183-802へ再改造され、-801は特急「雷鳥」に使用され、廃止されるまで活躍しました。情報の検索が便利になって、今やっとほぼ正しいと思われる当時の状況が見えてきました。この時代にならなければ、誤解したまま保存された情報写真になっていたかもしれません。
2022.11.10
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国鉄 クモヤ191系:架線・信号回路試験車クモヤ191系は、国鉄初の新性能架線・信号回路試験車として、昭和47年5月に181系の改造により誕生しました。種車は、クモヤ191-1がサハ180-5、クモヤ190-1がモハシ150-11です。架線試験のほかにも、ATSや踏切回路・信号回路など、様々な電気系の検測が可能な車輌です。外観は当時流行の特急型に準じた高運転台のスタイルですが、前面はフラットになってやや中途半端な感じがします。おそらく種車が中間車のため、台枠との合わせや車体長を考慮した結果でのことでしょう。lineさんご提供写真これは津田沼電車区ですかね?面子的には停留線ではなく留置線のようです。101系の試運転やクモヤ90も懐かしいです。191系も登場して間もない頃でしょうか、かなりキレイに見えます。lineさんご提供写真 クモヤ190-1元ビュッフェであった窓の特徴を良く残しており、大変貴重な資料となります。公式側では種車にあったセンターのドアが残存していますが、非公式側では機材搬出入用の出入り口に改造されてしまっているようです。昭和52年頃 宇都宮運転所にて クモヤ190-1+クモヤ191-1この写真は、休車中のEF57に逢いに行ったとき、偶然に宇都宮運転所に来ていたところを捉えました。(配置は田町電車区。)田町電車区では同車がお休み中のところを何度も見掛けていますが、写真を撮ったのは残念ながらこの時の1回限りでした。山手線・京浜東北線のATC化により検測が出来なくなってしまうため、後任にクモヤ193系が新造されています。クモヤ193は、ATC導入前の昭和55年に製造されており、クモヤ191が廃車になったのが昭和58年頭ですから、1年強の間は2編成で同居していたということになります。種車時代を含めればそれなりの年月を走行したことになりますが、それでも20年強という期間から考えれば、181系自体が比較的短命に終わった形式ということになりますね。
2022.11.04
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ジョイフルトレイン:485系お座敷車両「華」JR東日本で、平成9年4月、それまで12系客車を使用したお座敷客車「なごやか」の引退に合わせてお座敷電車「華」が営業運転を開始しました。令和4年10月30日をもって引退となることが発表されました。乗ったことはありませんし、団体としての運転も多く、臨時列車への充当があってもヘッドマークがある訳でも無し、殆ど撮影したことはありませんでした。それでも、偶然に撮れたものがいくつかありましたので、ここでまとめておきたいと思います。平成24年4月28日 回9662M 485系「華」 団臨送込み回送平成24年8月4日 9767M 485系「華」 快速「お座敷たんばらラベンダー号」リンク先でご紹介済みです。平成26年5月4日 上野駅にて 485系「華」 9812M 団臨「館林のつつじまつり」鉄メンバーで飲み会の帰り道、特急「あけぼの」を見て行こうと上野駅に寄ったとき。時間を見間違えて1時間前にホームに来てしまったのですが、偶然にも13番線に停車していたのが485系華でした。平成27年1月25日 越後湯沢駅にて 485系「華」 9766M乗って来た特急「はくたか」先頭車の写真を撮りに行くと、偶然にも2番線に停まっていた団体列車が発車するみたいでした。こんな場所・時間にピンポイントで撮れるとは思っていませんでしので、記念のショットになりました。こうして見ても記録としては僅少で、殆どが偶然と言った感じ。同時に引退が発表された485系「リゾートやまどり」より一足早く、ここで終焉となります。
2022.10.30
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ジョイフルトレイン:485系「リゾートやまどり」登場の時JR東日本は、令和4年12月いっぱいで485系「リゾートやまどり」の引退を発表しました。485系「リゾートやまどり」は、平成21年に引退した高崎車両センターのお座敷電車「せせらぎ」(4両編成)に同じく「やまなみ」(4両編成)からMM’ユニットを足した6両編成としてリニューアルの上誕生した6両編成の列車です。登場当時はまったくその経緯を知らなかったので、初めて見たときは驚いたものです。当時の様子を偶然記録していましいたのでご紹介したいと思います。※撮影は、平成23年6月11日です。485系「リゾートやまどり」3071レと2073レの間にやって来ました。オデコ1灯だし、初めは何だかさっぱり判りませんでした。実は、湘南新宿ライン南行と完全にカブり状態だったのですが、あまりにもスピードが遅かったので何とか撮ることができました。色の印象は、宇治金時&あずきの高級かき氷っぽい?初めて見る列車に何が何だか分からない状態でした。後から知ったのですが、なんでも新しいジョイフルトレインが誕生し、上野駅で展示会があったそうで、その後の返却回送のようです。元々JRになってからこのように大きく体裁の変わった列車は好きになれず、興味もなければ殆ど撮影もしたことがありませんでした。しかし、この列車にはちょっとした魅力があったため、この後怒涛の追っ掛けをすることになりました。
2022.10.28
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国鉄 クモエ21000: 救援車(田町電車区)救援車は、大規模な鉄道事故が発生した際に、現地へ出向いて救援活動を行うための車両です。そのため、車内には様々な工作機械等が用意されています。車両種別としては電車と客車があり、気動車の救援車は存在しません。非電化区間においては客車で用が足りるということによります。電車による救援車は両数がそれほど多くなく、すべての電車区に配置されていたわけではありませんが、古くから存在する電車区には旧型国電を改造した車両がそのまま配置されていたようです。基地の片隅などに隠れていることが多く、殆ど目にする機会のない救援車ですが、偶然にも田町電車区のクモエ21を捉えたことがありました。昭和55年頃 田町電車区にて クモエ21000 クモエ21000は、17m車のクモハ11114を種車として昭和38年に改造して誕生した救援車です。電車区の片隅に居座り、有事の出番を待ちますが、それほど有事というのがある訳ではありませんので、大体は出番のないまま一生を終わってしまう車両が多いのではないでしょうか?記憶は定かではありませんが、京浜東北線か東海道線辺りの電車の窓から300mmレンズで撮影したものと思います。ほかに撮影した電車救援車も『クモエ21009 救援車:伊那松島機関区』くらいしかなく、私自身の記録として貴重なものとなっています。これら救援車もJRに引き継がれることなく姿を消しています。
2022.10.23
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国鉄 マニ30:現金輸送車マイクロエースからマニ30が発売されるそうです。マイクロエース マニ30形・スユ15形 販売「マニ30-2007」[品番:A1498]、「スユ15-2008」[品番:A7252]過去にも発売実績がありますが、セット販売であったため購入していませんでした。マニ30は、日本銀行所有の現金輸送車で、マニ34として6両が製造されました。マニ34は昭和23年製の旧型客車で、車体も茶色塗装でしたが、外観は他の荷物車とは一線を画す様相をしていました。後にマニ302001~2006に改番されています。高校通学時に1度だけ尾久客車区に停まっているのを見たことがありましたが、残念ながら写真には撮っていませんでした。そして、元マニ34(2001~2006)の老朽代替車として誕生したのがマニ302007~2012で、昭和53年~54年にかけて製造されました。昭和56年 蕨~西川口間にて EF5859牽引のマニ30この列車がどのような状況の下に運転されたのか、経緯はわかりませんが、高崎第二機関区所属のEF5859号機がマニ30とスニ40を連結した回送列車です。もしかしたら、スニ40が連結されておりことから、大宮工場出場のシーンかもしれません。昭和56年1月頃 上野駅にて EF5888の牽引する回送列車東北新幹線の東京乗入れ工事が始まる以前、品川客車区から尾久客車区への回送は東京~上野間の回送線(現在の電留線)を使用していました。現在では、山手貨物線経由で東大宮操車場まで行き、折り返して尾久へ持ち込む経路となっています。マニ30における現金輸送は、荷物列車への併結が大半だったようですが、列車密度のが濃い区間では、客車急行への併結もあったそうです。客車列車の場合は全てに言えるのですが、単独で暖房設備を持たない旧型車や50系客車は、原則として電気暖房又は蒸気暖房装置を搭載した機関車が限定で運用されます。したがって、首都圏ではEF58、EF62、EF64、DD51又はDE10のEGやSG搭載車といった機関車でないと、マニ30のような客車を牽引できないわけです。この点については、原則暖房を要しない夏季期間についても限定されていたことが多かったようです。晩年は荷物列車が廃止されたため、高速コンテナ列車に併結されたそうですね。ちなみに、私は目撃したことはありませんが、冷房電源を持っていたところからディーゼルエンジンを搭載しており、暖房も単独で使用するできるように改造されたかもしれません。その後、コンテナ列車への併結については最高速性能の差が生じたため、自動車輸送に切り替わり、廃車となりました。マニ30 2012のみが小樽市に保存されているそうで、機会があれば会いに行きたいものです。説明を見ると、今回の製品は黒Hゴム化など、最終期の形態のようで、JRになってからのものようです。当方は基本的に国鉄時代のモノしか購入しないことにしているので、今回の購入にちょっと躊躇しているところです。A1498 マイクロエース マニ30-2007 Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】A1498 マニ30-2007[マイクロエース]《03月予約》[鉄道模型]マイクロエース (Nゲージ) A1498 マニ30-2007
2022.10.18
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国鉄 スヤ612001:鉄道労働科学研究所試験車今回は国鉄の鉄道労働科学研究所持ちの試験車「スヤ612001」の画像をアップします。昭和53年10月頃 品川客車区にてスロ61改造の試験車で、乗務員の労働環境改善のため人間工学的見地から椅子や運転台の乗務環境を研究する目的で改造されたもの(らしいです)。外観は種車のスロ61と余り変わりませんが、こちら側だけ幅1mの引き戸が付いているところに特殊性を見出せます。(反対側には無いようです。)分割民営化される昭和62年に廃車となってしまいました。
2022.10.15
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国鉄 155系:修学旅行用電車国鉄155系は、昭和36年及び39~40年にわたって48両が製造された我が国初となる修学旅行用電車です。団塊世代が修学旅行催行の年代に達し、それまで旧型客車寄せ集めによる運行が限界に達していたこと、手動ドアによる転落や途中駅置き去りなどの問題により電車化が好ましいなどが誕生の経緯となっており、その時代を色濃く反映しています。東海道線による品川~京都間の運行(「ひので号」)がメインとなっていましたが、田町区に配属された155系は日光集約臨にも使用されるようになりました。ベースは既に誕生していた153系に準拠したものですが、鉄道債権による限られた資金の中での計画・製造となったため、コイルバネ台車を履く、先頭車を極力省く、スカートの省略、ベンチレータのグローブ化などの工夫がされています。また、修学旅行シーズン外には臨時列車としての活用を図るため、トンネル限界の小さい中央線にも入線できるように、全低屋根構造となっています。さらに、一度に大量に輸送することを考慮し、4人ボックスシートに加え、6人ボックスシートも設備しています。塗装は、ご存知のように明るいツートンを採用しており、当時のカラー化の中でもインパクトが非常に強いものでした。個人的にも、この塗装は子供の頃から好きでした。京都への修学旅行が新幹線に移行されるようになると、155系は臨時列車としての需要が多く見込まれるようになったため、座席は急行形標準の4人ボックスシートへと改造されることになります。昭和49年頃 蕨~西川口間にておそらく、小学生の頃に初めて撮影した修学旅行臨。この頃はまだ155系も修学旅行色のまま残っており、特別な存在であることは知っていたと思います。しかし、167系に比べると洗練されたデザインとも思えず、当時としてはそれほど着目する車両ではありませんでした。昭和51年 西川口~蕨間にてこれは撮った記憶がなく、偶然写っていたものです。撮った当時は既に155系も湘南色化されていたイメージがあったため、159系だとばかり思っていました。でも、良く考えれば日光集約臨に159系が充当される筈がありませんからね。昭和52年 宇都宮駅にてEF57終焉の頃でしょうか、宇都宮で急行「なすの」との並びを撮ったシーン。この頃になると155系そのもののことも分かるようになり、ある程度希少性を感じていたかもしれません。しかし、既に湘南色となり、インパクトの無い存在になっていました。昭和55年頃 品川駅にて 臨時急行「伊豆」修学旅行のオフシーズンでは、臨時急行への充当も頻繁に行われていました。しかし、廃車まで冷房化されることがありませんでしたので、夏臨の155系は同じ急行料金でも損な存在だったでしょうね。昭和55年5月 浜松町駅にて 臨時急行「伊豆」こちらも臨時急行「伊豆」に運用されているシーンです。昭和55年10月頃 南浦和~蕨間にてこちらは地元の日光集約臨。この時代が終焉になっていたようで、その後に撮った写真は見当たりませんでした。昭和58年4月18日 西小坂井駅にて飯田線の旧型国電が終焉を迎えた頃、歳の離れた155系も一緒に終焉を迎えています。新幹線の開業・延伸によって全国の急行列車が消え、165系などに大量の余剰が出たこともあり、155系や153系さえも不要となってきており、特に非冷房車は一気に淘汰された時代でした。その後、修学旅行臨は167系~183、189系と車種をグレードアップしながら今の時代にも引き継がれていますが、専用塗装を纏った修学旅行電車が製造されることはまず無いのでしょう。
2022.10.11
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国鉄 163系:サロ163ー1国鉄の急行形において交直流型で言うところ、451系・471系(MT46)が453系・473系(MT54)に出力アップされ、さらに455系・475系により勾配抑速ブレーキブレーキを設けて形式が発展していきます。これを直流の急行形にこれになぞれば、母体となる153系(MT46)が出力アップにより163系(MT54)となり、さらに勾配抑速ブレーキブレーキを搭載して165系と発展していくことはお分かりいただけると思います。そしてその計画は実際のものとなり、当時、非冷房の1等車(グリーン車)であったサロ152の冷房化を目的として、サロ163が新製されることになります。※交直流型と153系の時点で時代差があるため、TR59形→TR69形と足回りに違いがあります。しかし、既に勾配抑速ブレーキブレーキを搭載した165系も計画されている段階において平坦線区用の出力アップ車を用意することについては、車両保守や運用管理、さらに広域配転における制約を招くことになるため、形式を165系に絞って増備されることになりました。このような経緯により、163系においてはサロ163が7両製造されたのみに留まり、電動車が存在しないという極めて異質な幻の形式となったわけです。昭和54年頃 東京駅にて サロ163-1 急行「東海」サロ163は、昭和39年に製造され、宮原電車区に配置となります。153系のサロ152を置き換え、153系と共に使用されています。昭和45年には全車が大垣に転属となり、やはり153系と共に急行「東海」などの優等列車に使用されました。その後、サロ163-7は113系化によりサロ112-51となっています。本来ならば165系自体も誕生している時代ですが、サロ163には勾配抑速ブレーキ関係の引通しなどが設備されていないことから、もっぱら153系としか運用できなかった訳です。改造工事を行えば、サロ165としても活用できたのではないかと思われますが、何ら手を加えられることも無く、昭和58年までに全車が廃車されています。写真は、東京駅に停車中のサロ163トップナンバーを見つけ、喜び勇んで撮ったものです。当時はまだ詳しい知識は持っていなかったのですが、サロ163という車両が存在していることは知っていましたし、163系という形式が空きになっていることも知っていましたので、非常に特殊な存在であったことは自覚していました。同時に計画された165系は東北・上越新幹線の開業後までも残るものが存在しましたが、同じ時代に誕生した経緯を持ちながら、たった20年弱で生涯を終えてしまった163系は、幻かつ不運な形式だった思います。
2022.09.17
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事業用車 ソ98&スエ3110(八王子客貨車区)子供の頃からあまり西方面には撮影に行ったことがなかったのですが、高校生になって「大回り乗車」という嫌らしい遊びが流行り、私も何度か友人と出掛けたことがあります。そんな道中の八王子駅で撮影した1枚の写真。昭和55年3月頃 八王子駅にて昔は取りあえず撮っていた写真も、素性等の調査ができないまま放置されてしまうものが多々ありましたが、ネットの情報が発達した現代では、ある程度のキーワードからその正体を見極めることがいとも簡単にできてしまうことがあります。撮影場所が八王子駅であることは記憶していますので、あとは「操重車」や、おそらく「スエ」と思われる救援車のというキーワードと組み合わせると、やはりその正体が掴めました。操重車は、八王子駅に居たのがソ80形の「ソ98」で、同形式の最終に近い番号でした。昭和44年に製造されたグループらしく、撮影した当時からすればまだそれほどの経年とはなっていません。しかし、分割民営化時点でJR東日本には継承されず、殆ど使用されないまま廃車となってしまったようです。一方、一緒に留置されていた救援車はスエ3110で、マニ3150→スエ327の流れから来た車両のようです。写真から文字の判別まではできませんが、車体中央には客車用の吊り下げサボが掛かっており、救援車では非常に珍しいと思われます。遠くのホームから300mmレンズで撮影したと思われ、圧縮効果に加え中途半端にソ98が入っていない勿体ない構図の写真となってしまいましたが、もう二度と写し直しのできないシーンですので、私的には貴重な資料としてアーカイブしておきます。
2022.08.14
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建築限界測定車:オヤ3132建築限界測定車(通称:オイラン車)は、車体の外周に取り付けられた矢羽を立てて本線を走行させ、列車に接触する危険のあるものが無いかをチェックするための試験車です。昔は同形式の車両が全国に居たわけですが、その種車が戦前型ばかりである関係もあり、JR化を前後として、殆どの車両が姿を消しています。昭和62年12月13日 函館駅にて オヤ3132青函連絡船や道南の写真を撮りに行った際に、函館駅で偶然に出くわしたものです。過去ご紹介のものはいずれも展示のため、矢羽根は畳まれた状態ですが、この車両に関しては検測中の状態のため、すべての矢羽根が立った貴重な記録として残せました。オヤ3132は、連合軍簡易食堂車(部隊料理車)のスシ33 105から改造された車両で、なんと平成30年(2018年)まで現役だったそうです。
2022.08.01
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建築限界測定車:オヤ3112建築限界測定車(通称:オイラン車)は、車体の外周に取り付けられた矢羽を立てて本線を走行させ、列車に接触する危険のあるものが無いかをチェックするための試験車です。昔は同形式の車両が全国に居たわけですが、その種車が戦前型ばかりである関係もあり、JR化を前後として、殆どの車両が姿を消しています。平成21年8月22日 佐久間レールパークにて オヤ3112元スハ32 426の改造車で、民営化の際にJR東海に継承されました。平成7年12月25日付けで廃車になるものの、佐久間レースパークに長らく保存され、同パーク閉園に際しても解体を免れ、リニア・鉄道館で保存されることになりました。
2022.07.27
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建築限界測定車:オヤ3111建築限界測定車(通称:オイラン車)は、車体の外周に取り付けられた矢羽を立てて本線を走行させ、列車に接触する危険のあるものが無いかをチェックするための試験車です。昔は同形式の車両が全国に居たわけですが、その種車が戦前型ばかりである関係もあり、JR化を前後として、殆どの車両が姿を消しています。昭和55年頃 品川駅にて 建築限界測定車 オヤ3111品川駅に撮影に行った際、偶然にも車両展示会が開かれており、その際に撮影したものです。この頃くらいから基地を開放したりといったイベントがチラホラと見られるようになった気がします。このオヤ3111は、元スヤ34 21からの改造車で、品川客車区の所属です。イベントに引っ張り出されてきたわけですね。せっかくの貴重な機会だった訳ですが、自分で現像したネガフィルムが焼き付き過ぎて、非常に粗い画像になってしまったのが残念です。同車は、分割民営化直前の昭和62年2月10日付で廃車となり、JRには引き継がれることはありませんでした。
2022.07.15
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JR九州 787系:特急「つばめ」(大宮工場にて)タイトルから???と思った方が多いと思います。平成6年、当時の大宮工場にて工場公開がありました。他の方の記録から「新旧つばめに出会うとき」と言うコンセプトだったようで、保存されていた青大将EF5893や、わざわざ梅小路機関区からC622を連れてきて有火でヘッドマークを取り付けて展示をしたりと、展示数が少ないながらも大掛かりなイベントでした。その中の目玉の一つとなったのが、遥々JR九州から回送されてきた、新鋭787系「つばめ」でした。平成6年10月10日 大宮工場にて JR九州 787系つばめ当時の状況はあまり良く覚えていないのですが、中庭の線路に展示されています。車内にも入ることが出来たようですが、乗車した記憶はありません。登場間もない頃なので、覚えていませんがフル編成での来場だと思います。おそらくビュッフェサハシも連結されていたはずで、今となっては787系に乗ったことすらありませんから、スルーしてしまったのは残念です。昭和57年に九州に行って以来、再訪したのが平成24年。ほぼ30年振りの九州は九州新幹線の開業もあって、当時の新鋭787系さえも見劣りしてしまうほど全貌が変化していました。今となっては考えられない九州車両の関東遠征。中間車も含めてもっとキッチリ記録しておけば良かったと思います。
2022.06.11
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国鉄 オハ60系客車:オハフ6044(釧路)2回目の渡道の際、釧路駅の側線で旧型客車3連が休んでいるのを見つけました。そのうちの1両が初めて見た3連窓のオハフ60でした。オハフ60は、中間車のオハ60が誕生した翌年の昭和25年に改造されたものですが、当時はまだ北海道向けの二重窓化が難しかったということで、小窓で誕生したそうです。戦前型のオハ31のような3連小窓スタイルで、窓3つに対してボックス2組となっています。中の1組の座席を外すとストーブが設置できるような配置ですが、実際には蒸気暖房が使用されている時代でもあり、ストーブを設置するための配置とするような意図はなかったようです。昭和56年3月 釧路駅にて オハフ6044繋がれた3連のうち、一番最初に目を引いたのがこの車両でした。客車と言えば旧型ばかりの時代に育った私からすれば茶色い客車など珍しいものではない時代でしたが、3連窓の客車を見るのは初めてであり、60系客車にこんな車両があったのか・・・と初めて知り、とても感動してシャッターを切ったものです。そろそろ51系客車の導入も始まってきた頃ですが、北海道ではまだほとんど見たような記憶はありません。しかし、そんな時代であってもこのスタイルはこのとき以外には見たことがありませんので、おそらくは真っ先に廃車となってしまったグループではないかと思われます。そんな最初で最後の1枚となった、私的に貴重な資料となっていますマイクロエースから、なんとオハフ60の2両セットが発売されるそうです。この車両、昔から欲しくて、なんとか改造で作ることはできないかと考えていたのですが、このスタイルで3連窓の形態を構成できる種車が見当たらず、挫折していました。今回の発売を知り是非とも欲しいとは思うのですが、如何せんM車なみの値段になっているのがどうにも納得できない。そして心配なのが、同車の窓ガラスは内側が平面処理できず、特に小さい窓だとレンズ状に見えてしまう欠点があること。まあ、近年はマイクロ製品を敬遠しているので、この点が改善されていれば是非とも手元に置きたい車両です。この44番って・・・これじゃん。A5712 マイクロエース オハフ60 ぶどう色2号 北海道型 2両セット Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】※新製品 11月発売※オハフ60 ぶどう色2号 北海道型 2両セット【マイクロエース・A5712】「鉄道模型 Nゲージ」
2022.06.03
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169系:サハシ169食堂車には、純然たる供食設備をもつ食堂車と軽食だけを提供するビュフェ車があり、記号では同じ「シ」を使いますが、ビュフェ車は座席車と合造となるのが一般的です。(戦前・戦中型の客車で、食堂車で合造の車両も一部存在します。)ビュフェ車の起源は、ビジネス特急の151系「こだま」の誕生を機に製造された「モハシ150」と思われますが、正式な食堂車も連結することになった同系からは、比較的早く姿を消すこととなります。一方、食堂車を連結しない長距離昼行電車急行では、その需要も考慮してのことでしょうか、153系の登場(サハシ153)から、その後登場する451・471系列(サハシ451・455)、165系(サハシ165)と、ビュフェの連結のスタイルを確立していくことになります。誕生当時は盛況を極めたらしいビュフェ車でしたが、食堂乗務員確保の困難や物価高騰によると思われる食堂利用の低迷など、ビュフェ車を連結しているとはいうものの、営業は殆どされていない状況が続き、全国的に運用から離脱していくことになります。そんな末期の状況の頃、私自身は小学生~中学生時代に営業していないビュフェ車を見る機会がありましたが、中間車ということで写真を撮るという概念も無く、偶然撮ってあったのがこれと言う写真がありましたのでご紹介いたします。昭和52年頃 大宮駅にて サハシ169-7写真はサハシ169-7で、サハシ153-9から改造された車両です。横軽通過対策車として製造された169系では、東海道新幹線の開業により職を失いつつあったサハシ153を改造して編入することとなり、サハシ169としての新製車は1両も存在しません。台車も含めて153系時代の面影を色濃く残しています。しかし、調理室側の明り取り窓が153系時代は同じ高さに開けられていたのに対し、改造時において中央側が1段低く開け直されており、若干バランスを崩したようなスタイルになっているのが特徴です。写真の列車は、大宮駅の急行の発着は殆どなかった思われる折り返しホームの7番線に入っている状況が???なところですが、写真を撮った時間と行き先サボに青帯が表示されているところから推測すると、長野~軽井沢間が普通列車となっていた上り「信州2号」であると思われます。
2022.04.20
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国鉄 455系:サハシ455かつて長距離用の急行として交直流区間をまたがって運転されていた455系列の電車。登場当初は、直流型の153系や165系急行と同様に、軽食を提供するビュッフェ車(今ではビュフェやブッフェとも言われる)が連結されていました。しかし、東海道山陽新幹線が延伸されるとともに食堂従業員がシフトし、食堂車の連結が当たり前であった特急列車ですら供給が追い付かなくなり、特に急行列車における食堂営業はかなり早いうちに立ち回らなくなったようです。東海道山陽新幹線と並行する路線では急行列車そのものがなくなりましたが、東日本では中央本線や上越・信越本線、そして東北本線で昭和40年代末くらいまでビュッフェの営業が続いていました。昭和50年代前半くらいまでは非営業のまま急行列車にサハシが組み込まれましたが、これも昭和52年から56年くらいに掛けてすべての連結を廃し、淘汰された車両は殆どが廃車・解体となっています。昭和47年頃 サハシ455-14 西川口~蕨間にてお見せするような写真ではないのですが、その姿が映っている写真が全然無いため、やむを得ずご紹介いたします。子供の時に初めて買ったカメラがサクラパック。インスタマチックというホルダー式のフィルムをセットする安いカメラです。そして、そのセットに付いていたお試し用のモノクロフィルムで撮影したのがこの写真で、正に撮り鉄人生最初の鉄道写真です。上越や中央東線のビュッフェは昭和50年代半ばくらいまで連結されており、その希少性を認識したときにまだ残存車がありました。そのたその姿を捉える機会もありましたが、一番身近で何回も乗ったことのあるサハシ451やサハシ455は、昭和52年くらいの早いうちに外されてしまったため、気が付いた時には既に無くなってしまいました。好きは車両でありながらも、たったこれしか記録することができなかったの大変残念な形式でした。13連の東北急行の写真をもっと撮っておくべきでした。
2022.04.14
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国鉄 485系:サロ481+サシ481特急列車には当たり前に食堂車が連結されていた時代。特急列車の発展と共に全国に特急列車が走るようになりますが、新幹線の延伸でアクセス特急化されるようになると短距離化・短編成化が行われるように。食堂車を連結しない特急列車が増えてきます。183系電車やキハ183系のように、登場時から食堂車が存在しない形式も誕生するようになりました。昭和57年 上野駅にて 特急「ひばり」東北・上越新幹線開業前は、東北本線を走る昼行特急列車はすべて食堂車が連結され、営業されていました。共通運用のため常磐特急「ひたち」にも連結されましたが、距離が短いため一部列車が非営業。金沢行き「白山」は時代により食堂車を連結しない時期もありました。食堂車は長距離旅客への供食サービスをするほか、編成中の電源エリアを前後で分割するために境界としての役割も果たしていたため、編成の真ん中に連結するのがセオリーでした。ちなみに、ブルトレの食堂車にはこのような役割はなく、気動車特急では空気側と電気側を編成中で交錯させるという電車とは違う役割も持っていました。新幹線の開業・延伸で食堂車の従業員確保が困難となり、食堂車の営業を廃止する列車が増えましたが、別の役割もあったためそのまま連結されるケースも多く存在しました。しかし、その電源エリアの境界をグリーン車サロに持たせることによりサシの連結を必要としなくなったため、すべての電車特急から食堂車が消滅しました。食堂車の連結は私が高校を終わるぐらいだったため、貧乏旅行を強いられた身としては利用する機会もなく、1度も利用したことはありませんでした。10-1129 485系後期形 2両増結セット(再販)[KATO]《発売済・在庫品》10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》
2022.04.08
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