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雨乞山 伊賀市 伊賀勢が籠った雨乞山、山上砦跡天正伊賀の乱(天正九年1581年)河合村の耳須弥次郎具明みみすやじろう(三重県伊賀市阿山町玉瀧)が手引きして山岡主計頭(かずえのかみ) 近江勢多城主山岡景隆の子、景以(かげもち)蒲生氏郷(当時日野城主)、脇坂安治(秀吉家臣、1584年滝川雄利を伊賀上野城から追放一年城主に)ら七千人で玉滝口から攻撃雨乞山城に集った上忍・藤林長門に山門左門、山尾善兵衛ら、滝野十郎、山内左衛門、孤立、比自山に女子供逃がす、捨て身で蒲生、脇坂、山岡主計頭(かずえのかみ)が陣をひく稲掛山(雨乞山の東向かい)に突出、山内左衛門死亡伊賀勢、春日山城(川東)に籠もるが中村丹波守重春、家喜下総宗頼、討ち死に蒲生、脇坂、山岡ら田屋掃部介(かもんのすけ)の田屋城(雨乞山南一里、河合)を攻める田屋、三蓋山(みかさ)城(阿山ハイツ入口の小山)に逃げる蒲生勢と激突、田屋打ち取られる。この雨乞山から天正伊賀の乱の戦闘が始まるが多勢に無勢、北伊賀勢、二日で壊滅的な状態になった。
2022年06月22日
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田矢(田屋)伊予守城跡雨乞山から落ち延びた面々日が落ちる頃になると、猛火の中を第二線である田屋の砦に集結して再挙を計った。しかし、部落を焼き尽す火煙の中で次々に一族は全滅し、女子供も容赦のない織田兵の刃にかかる。後世「蒲生氏が来る!」と聞くや、泣く子も黙ったと云われる惨劇となった。「伊乱記」 には城主田矢氏は討死したとされますが、「信長公記」には天正9年9月「河合の田屋と申す者、名誉の山桜の真壺、並びにきんかうの壷進上致し降参仕候」とあり、織田勢に降伏したことが分かる。 ところが後日、「河合の城主田屋、岡本等が頸を取られた」ともあり、結局は殺害されてしまったらしい。柏野城福地氏が織田方を手引きして柘植口から丹羽、滝川ら一万二千、福地城に陣、柘植を焼き払い柏野城(新堂と佐那具の間)へ霊山に陣を構えたのち丹羽、滝川が攻撃、柏野城落ちる。柏野城に集まった上柘植の富田、満田、中村、中柘植の西田、島、下柘植の松山、西川の郷士達は城に入ると懸命に戦ったが、所詮は衆寡敵せず半日足らずで落城した。
2022年06月22日
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御旅所古墳伊賀市 陽夫多神社南口御旅所には「御旅所古墳」という石室が剥き出しになったままの古墳が存在する。埋葬者は不明で盗掘されている。末横穴式石室、全長10m,玄室長5.2,幅2.6,高2.2m古墳時代末6世紀継体天皇から、横穴式になり石棺が下になった。新羅の造りといわれる。古墳時代中期の5世紀頃の築造の御墓山古墳は石棺が上に在ったが、古墳時代後期のこれは石棺が下になります以後仏教が伝来し古墳時代は終わります。鎮守の森として背後にそびえる宮山にも複数の古墳が確認されており、御旅所古墳も含めて宮山古墳群を形成している。山中には古墳の他に中世・戦国時代の城跡もあり、「やぶた古墳の杜」として散策道が整備されている。
2022年06月22日
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