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菅原大辺神社遺跡と刻まれている石碑須藤刑部丞經俊(山内首藤刑部丞経俊(やまのうちすどうぎょうぶじょうつねとし)当時の伊勢、鎌倉時代二代目の伊賀の守護)が鎌倉から荏柄天神社. (えがらてんじんしゃ)を勧進大野木清水(しょうず)地区に清水大邊神社と伊賀守護館も建立した。その跡とされる石碑平賀惟義から大内惟義(おおうち これよし)鎌倉時代初代伊賀守護1184~1186.伊賀守護と大内の地頭を兼ね、地頭は直接年貢を取立てるので大内に住み大内を名乗ったのだと思われる。大山田伊賀平氏、平田家継に襲われ逃げる。平田家継は討ち取られる。山内首藤経俊 伊賀守護1186—1204鎌倉から荏柄天神社を勧進、菅原大辺神社に元久元年(1204)伊勢・伊賀で平氏の余党平盛時らが蜂起(三日平氏の乱)のとき,守護所から逃亡し,守護職を罷免された。藤原朝光 伊賀朝光, 伊賀守護1210~,伊賀守護任じられ以後 伊賀氏を称した。娘、伊賀の方を後室に迎えた北条義時が鎌倉倉幕府の二代執権となった事から、朝光の子らは義時の外戚として活躍した。義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執事(まんどころしつじ)伊賀光宗と謀り自子政村を執権にし、女婿(じょせい)一条実雅(いちじょうさねまさ)を将軍に立てて幕府の実権を握ろうとしたと北条政子より嫌疑をかけられ、伊賀氏一族は幕政から一掃された。切込掻揚型式氏館 平地は掻揚型式、台地は切込で堀切を造る。掻揚型式氏館 平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る「三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して城は大規模な土塁、堀などの施設をそなえたもので塁はそれに準じる砦で宅は土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。竹島氏館 竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門(門の脇に石碑があった)がある旧家だ。圃場整備で改変されてるが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろう。特に西側の水田は面影がある。 伊賀には多い単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、伊賀では珍しい複郭式(ふくかくしき)の居館だ。現在は、土塁が居館の周囲に残り、空堀が北側と東側に残っていた。 竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。天正9年の伊賀天正の乱では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、織田勢と一戦交えた。直居氏館 直居氏館は、木津川西岸の自然段丘に築かれている。清水地区の中心部にある直居氏宅を取り囲むように土塁と堀の一部が残っている。土塁の西端は隣家と接しているが、高さ約3m程のある分厚い土塁であった。 直居氏館は、築城年代は定かでないが直居氏によって築かれた。直居氏は、天正9年の伊賀天正の乱では他の豪族と共に比自山城に籠城した。 明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。明治4年の伊賀農民騒動で,当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。とある。木津氏館木津氏館は、大野木地区の木津川西岸段丘に築かれている。東出地区の水田の中に屋敷林で囲まれた旧家が木津氏館だ。 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀であったとか。 木津氏館は、築城年代は定かでないが木津氏によって築かれた。木津氏は、伝承に拠れば山城国木津より移住したとされている。 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀(やげんぼりは、.堀の形状の一つで、薬研(漢方で薬を細かくし煎じて飲むために,鉄製の細長い舟形で中が断面V字形)のごとく断面がV字形になっているもの)であったとか。もう一つの木津家文書が発見された木津氏館木津家文書は、2018年に、三重大学国際忍者研究センターに寄託をうけた文書。同家は2代目から5代目まで伊賀者の任にあり、それ以降は、平無足人に落ちたものの、その後、藤堂藩の坊主を勤めるなどしていた。2代目は、伊賀国における新田開発の候補者に挙がるほどで、同家の経済力や信望のほどを窺うことができる(すなわち、伊賀者を勤め得る家であった)。また、5代目が提出した忍術伝授起請文の正文が残っている。その内容から、伊賀者同士で忍術を伝授しあっていたこと、「万川集海」がそこで使われていたこと、「火器」という語が特に出ていることから「火術」を重視していたことを指摘した(「万川集海」でも「火器」の記録が多い)。木津家文書敬白天罰霊社起請文前書(けいびゃくてんばつれいしゃきしょうもんまえがき)で、木津家の5代目の伊之助と(1716年)忍術の師匠とされる長井又兵衛との誓約書喩親子兄弟たりといふ共他見他言仕間敷候」(たとい おやこ きょうだいたりというとも たけんたごんつかまつる まじくそうろう)師匠の長井又兵衛宛
2022年08月30日
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加納神社(かのうじんじゃ)美旗新田にある、『日本書紀』には、この辺り一帯は皇室の狩猟所ないし薬草採集地の禁野とある。江戸時代、ここで新田開発を提案したのが、加納藤左衛門直盛。直盛の父は藤堂髙虎に仕え朝鮮役や関ヶ原、大坂陣に活躍。その跡を継ぎ直盛は伊賀加判奉行として1800石を有し「伊賀者」を創設した人物だ。一方、美旗新田開発は直盛の最も大きな功績であったが、完成直前に死去。息子直堅が引き継ぎ、美旗新田を完成。ところが、延宝8年(1680)年、伊賀で銅山事件という大事件が起こる。その責任を取らされ直堅が切腹することになる。加納神社は享保16年(1731)に、新田村開発恩人加納直盛の遺徳を顕彰するために創建。村民の内心は表向きは直盛を祀るが、不遇の死を遂げた、直堅の霊を祀る心に、より傾斜していたのは想像にあまりある。加納大神頌顕碑加納直盛公は、慶長十五年(1610) 伊賀上野生まれ。藤堂藩に仕え、伊賀加判奉行職。家老職、侍大将二家は代々世襲ですが加判奉行職はその時代の一番優秀な人が給わります。 当時、水の便悪く荒野原であった新田地区の開発に尽力し、用水家としても名を残しました。 延寶元年(1673) 六十三歳で病死。 現・伊賀市上野寺町の大超寺に墓所があります。その大超寺の加納藤左衛門墓碑一際目を引きます。美波多神社(みはたじんじゃ)は、三重県名張市新田にある神社。美波多神社本殿向かって右に三柱神社 江戸時代の承応年間(1652年-1654年)に開発された新田村に、当時入植した村民が氏神として勧請された。 現在の社殿は、皇學館大學名張学舎にあったものを譲り受け、第六回式年造営(平成24年)の際に移築したものです。美波多神社 本殿その後、新田村開発の恩人である加納直盛を、その遺徳を顕彰するために、死後54年目となる享保16年(1731年)11月7日に勧請された加納神社を合祀。これが現本殿向かって左奥に鎮座する。現在も毎年12月7日を加納祭として、その功績を偲び感謝を続けており、地域に祖先崇拝、自然崇拝の信仰を根付かせている。その後、明治43年3月に村内東田原九頭神社、同中村国津神社、同小波田福田神社を合祀して美旗地域の氏神として現社号となった。明治の大合祀において、元伊勢の伝承が残っていた田村大明神も合祀されている。御祭神は、天照皇大御神、應神天皇、天児屋根命(以上が当初の三柱神社の御祭神)、加納直盛公、大山衹神、宇賀能御魂神、火之迦具土神、大物主神、建速須佐之男神、五男三女神、菊理比賣神、大綿津見神、菅原道真公、国津大神。平成10年(1998年)の台風7号で境内に大きな被害が出たが、その後再建されている。【ご利益】五穀豊穣、子孫繁栄、家内安全
2022年08月16日
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蓮池寺伊賀市上野恵比寿町蓮池寺までは恵比寿町、蓮池寺は蛭子宮を建て恵比寿神社の始まりとしたので恵比寿町でなければなりません。服部猪来菩提寺蓑虫庵三代目庵主菩提所大正4年(1915年)に旧友生街道よりご遷座された延命地蔵菩薩を祀る地蔵堂、そして右隣には、木造十一面千手観音像を祀る観音堂もある。観音堂は秘仏として閉められている。左、些中庵土芳居士供養墓 「正面」些中庵土芳居士供養墓「右面」享保十五年庚戌かのえいぬ(1730)正月十六日時世「左面」服部半左衛門保英 行年七十四右 服部猪来墓法名 「常誉光給禅定門」左に「池清濯道禅定尼」と刻まれているのは夫人でしょう蓮池寺は室町時代の永禄年間(1558〜1569)の頃、地元伊賀国印代村の豪族であった田中判官教近(教然大徳)が、 諸国を行脚した折、比叡山光明寺の智聖坊から、阿弥陀如来座像一体と、蛭子像一体を譲り受け、上野南の郊外、蓮池に草庵を結んだのがその始まりです。何故か上野地区の北部生まれの人が南部に庵を結び地名から蓮池寺とした。慶長十六年(1611)開基として現在地に開いています。しかし、江戸時代に2度火災に遭い、本堂を失った。その再建もままならぬときに、業火に遭い続け衰微した。それを寛永年間(1624〜1643)の心譽浄林上人の中興、文化年間(1804〜1817)の本堂再建を経て落ち着いた。本尊の阿弥陀如来は「伊水温故」に行基菩薩の作と伝える。(行基は8世紀の人で伊賀に赴任してはいるが時代に合わない)蛙方(あほう) 蓮池寺住職 法歴元年(1751)ー文政三年(1820)京都三条生まれ 寛政十年(1798)に芭蕉翁を慕うあまり当時無住の蓮池寺住職になり本堂を再建(玄長火事で焼失)した。蛙方は洛北芭蕉堂の高桑闌更(たかくわらんこう)に学んだが服部猪来の師成田蒼虬(そうきゅう)は高桑闌更の弟子なので京都の俳諧仲間だったと考えられます。蓮池寺に葬られています。法名 「祥蓮社瑞誉蔡華寛堂和尚」
2022年08月09日
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