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8/30付け朝鮮日報に「四輪駆動レクサスと後輪駆動ベンツで比較試乗!?」という記事が載った。韓国トヨタが主催したレクサスLS600hL(四輪駆動)の試乗会で、走行安定システム「VDIM」の性能比較の相手としてベンツ S500L(後輪駆動)を選んだことへの疑問を呈する記事だった。「やっぱり言われたな」と思った。実は2ヶ月半前、Mizumizuは日本のレクサス販売店の計らいで、似たような試乗会に東京の晴海で参加していたのだ。それがこのときの写真。「レクサスフルラインナップ試乗会 ~Lexus Dynamic Experience Tour 2007~」。イベント自体は非常によかった。目玉である「LS600h」と競合モデルのメルセデスS600LやBMW745iとの比較試乗ができる。VDIM性能の体感、100km/h直線加速走行でのフルブレーキによる制御性能体験、ジグザク走行での車両安定性体感などといった企画も、レクサスの長所とライバル車の弱みをついた(?)よい企画だったと思う。待ち時間の「おもてなし」もソツがなく(出されたお菓子は最低だったけど。ついてにいうとMizumizuの行くレクサス販売店のコーヒーも最低。トヨタって美味しいモノを知らないんじゃないの?)、そんなに退屈せずに時間を過ごすことができた。引率もよかった。多くの人々を集め、楽しんでもらおうとするトヨタの努力には頭が下がる。だが、朝鮮日報での指摘のとおり、VDIM(メルセデスでは同種のシステムをESPと呼んでいる)性能の比較体験には非常に引っかかるものを感じた。路面に特殊ビニール素材を敷き、その上に洗剤を混ぜた水をまくことで、アイスバーンと似た状況を作り出し、その上で車をジグザグ走行させたあとブレーキをかけて、車の停まり方を体験する。韓国トヨタが行った方法と同じだ。しかも、4WDのレクサスとFRのメルセデスを対比させるというのも同じ。駆動方法の違いについて、ブリーフィングではっきりした説明はなかった。途中で、集まったお客の中から「えっ? ベンツはFR?」という声があがってはじめて、インストラクターは「そうです」と認めたうえ、「FRのレクサスも用意していますが・・・」と特設テントの横に置いてあるクルマを指差した(つまり、クレームが出ることも予想してちゃんとFR同士で比較できるよう用意していたのだ)。希望すればFRのレクサスも試せるということなのだったが、わざわざ希望する人はいなかった。ついでに言うと、乗って走り出したときの乗り心地がえらく違った。レクサスは路面のゴツゴツをモロに拾い、乗り心地が悪い(つまりサスがかたい)、メルセデスはまるで雲の上にでもいるような柔らかな乗り心地。すぐにジグザク走行からブレーキがけに入るから、ほとんど気がつかないような短い時間だったが、「もしかして、スポーツモード/コンフォートモードの設定をレクサスとメルセデスで変えてる?」と一瞬思った(が、確認する時間はなし)。朝鮮日報は、「ではなぜ、トヨタはこのような形で試乗会を進めたのでしょうか。単純な間違いだったのか、あるいは故意だったのかは分かりません」としている。もちろん、単純な間違いなどではないことは確かだ。こっそりFRのレクサスを用意していたことからもわかるし、そもそも4WDとFRでこんな比較をしようとするのはおかしい。4WDとFRの性能の違いもわからないような「クルマに関心のない人々」を対象にするのならともかく、トヨタのフラグシップモデルを買ってもらおうという企画なのだ。ある意味、このアンフェアさは、潜在顧客を見くびっている。朝鮮日報はさらに、「比較対象にもならない車種と比べることで、レクサスの性能が優れていると強調したことや、またこの事実を全く知らせないまま比較試乗が進められたことについては、問題があるのではないか」と言っている。そのとおり。4WDのレクサスに対して比較するならメルセデスの4MATIC(四輪駆動をメルセデスではこう呼んでいる)をもってこなければフェアではない。トヨタは朝鮮日報の取材に対し、「今回の試乗は基本的に加速を伴わないコース設定だったため、後輪駆動車と四輪駆動車のトラクションの差がVDIMを評価する上で、さほど大きな問題にはならないと見ている」と答えたという。「大きな問題にならない」といいながら、自社モデルはちゃっかり4WD、ライバル車はFRというのが突っ込まれる理由になるということがわからないのだろうか。そう言うのなら、レクサスのFRとメルセデスの4MATICで試乗させたらいい。それでレクサスのほうが遥かに優れていたなら、誰もがレクサスの走行安定システムの優秀さを納得できる。実際ダイムラーはダイムラーで、4MATICには力を入れている。この春、台場の特設会場に人口降雪機で雪道を作り出し、4MATIC車でのスノードライビングを体験させるイベントを開催したのも4MATIC宣伝の一環だろう。ビニールに水と洗剤というトヨタのビンボー臭さに比べると、春の東京に雪まで降らせちゃうベンツはさすがに思い切りがいい。ダイムラーのこのイベントには行ったワケではないが、「カーグラ」「4x4」「Xa Car」などといった自動車専門誌はメルセデスの4MATICの素晴しさを伝えていた。トヨタが、自社フラグシップモデルの中でも最高の走行安定性を誇る4WDモデルの性能を知って欲しいと思った気持ちはわかる。確かにふらつきの少ない、すばらしい制動だった。だが、それを強調するためにわざわざ競合他社のFRモデルをもってくるのはセコすぎやしないか。レクサスLS600h自体は文句のつけようがないぐらい素晴しいクルマだった。だからこそ、こうしたちょっとした「アンフェアなこと」でせっかくのクルマの性能に疑問符を残すような原因を作ったのはまったく惜しい。「きっと誰かに言われるだろうな」と思っていたら朝鮮日報に大きく伝えられてしまった。こうしたつまらない小細工はいっさいやめるべきだ。改善に改善を重ねて世界のトヨタと呼ばれるようになった企業には似つかわしくない。「自動車のパイオニア」を自認するドイツの長い歴史をもった一流ブランドに伍して、プレミアムメーカーになるつもりならなおさらだ。こういうことをしてる限り「しょせんトヨタでしょ」というお客の視線は払拭できない。
2007.08.31
旭川の匠工芸さんに特注で作ってもらった木製の衝立。無垢のナラ材に目隠し部分はテープを互い違いに編みこんでいるという手のかかったもの。幅55センチのもの(手前)と45センチのもの(奥)の2枚セット。ちょうど衝立が着いた日はホームパーティで友人が集まっていた。わりと重くて友人の手を借りてなんとか設置。上下には高さが調節できるネジがついていて、それでツッパリのようにして固定する。居室をミニマルな雰囲気に演出してくれる小道具。
2007.08.30
新宿のOZONEで小さなクラフト職人が出店(?)をやっていて、たまたま通りかかって気に入って買ってしまった木製ボールペン。楔(セツ)という工房だそう。いろいろな種類があったが、試し書きをしたうえで楓(ハードメープル)のものを選んだ。メジャーの松井やイチローなどが使ってるバットの材だとか。手に持ったときの重量感が書きやすさにつながっている。使っていて愛着ももてる。また別の素材のも買おうかなと思っている。
2007.08.29
オーバーアマガウ(ドイツ)は、信仰に篤い村だ。宗教劇でも有名だし、町のそこここにキリスト教をモチーフにした木彫りの店がある。キリスト磔刑とか聖母マリアとかは日本人には全然馴染みがないが、そうした木彫りの伝統を生かしてちょっとしたおみやげ物も売られていた。そんな小さな木彫り職人の店で買ったおみやげがコレ。上が馬。下が水をのむ山羊。こういう手作りのモノがなかなか売れないのは万国共通らしく、複数買ったら、職人さんと思われるお兄さんが大喜びしていた。
2007.08.28
アオスタで木のエーデルワイスを買い損ない、同じようなものを捜していた。やっと見つけて買ったのがこれ。アオスタで見たものよりずっと小さくて、箱にも入れてくれると言われたので購入。ただ、どこで買ったのか記憶が定かではない。スイスだったと思う。シュタイン・アム・ラインかなぁ。どうしてもハッキリ思い出せない。繊細な細工で、実はちょっと花弁が折れている(笑)。花芯の質感などはざらっとした感じが出ていて、なかなか。
2007.08.27
イタリアのアオスタで買った木彫りの鏡。円い形。細かい模様が鏡の周りに施されている。職人の腕のよさがわかる。木で作ったエーデルワイスも売っていて、買いたかったのだけれど、繊細なつくりでちゃんと日本まで運べるかどうか自信がなく、「箱に入れてもらえない?」と店員に聞いても、「箱はないから手でもっていけば」なんていうヤル気ゼロのお答えだったので断念。今から思えばもうちょっと粘って、箱か入れ物を用意させて買えばよかったかなと思っている。アオスタは北イタリアの街。ここからクールマイヨールまで北上し、ケーブルカーとロープウェイでモンブランを越えてフランスのシャモニーに入った。モロ、高山病になりました。
2007.08.26
2007年8月24日の朝日新聞に、「米大統領、戦前日本とアルカイダ同列視 歴史観に批判」という記事が載った。ブッシュ大統領が退役軍人の会合で、旧日本軍のパールハーバー攻撃を9.11テロになぞらえ、戦後の日本の民主化の成功を、自分たちの(戦争)勝利がもたらしたものと自画自賛する演説を行い、国内メディアからも批判されているという記事だった。朝日新聞掲載のブッシュ演説の要旨を引用しよう(ただし、朝日新聞が掲載した以下の翻訳が正しいかどうか、ウラ取りはしていないので、誤訳がある可能性ももちろん否定できない)。「ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。 アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。最終的に米国は勝者となった。極東の戦争とテロとの戦いには多くの差異があるが、核心にはイデオロギーをめぐる争いがある。」「国家宗教の神道が狂信的すぎ、天皇に根ざしていることから、民主化は成功しないという批判があった。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。 我々は中東でも同じことができる。イラクで我々と戦う暴力的なイスラム過激派は、ナチスや大日本帝国や旧ソ連と同じように彼らの大義を確信している。彼らは同じ運命をたどることになる。 」先日スコセッシが「沈黙」をイラク戦争とからめて撮るらしいという話をしたが、その中でいみじくも紹介した、9.11のテロをパールハーバー以来だと漏らしたあるアメリカ人のせりふ。今回のブッシュ大統領の「粗雑な歴史観を露呈する(朝日新聞)」演説は、こうした感情がやはりアメリカ人の中にあるのだということをいみじくも証明した形になった。戦後の日本の驚異的な復興も、自由で民主的な社会の構築も、アメリカ人にとっては「アメリカが戦争に勝利し、戦後の日本統治を成功裏に進め、日本人に民主主義を上手に教えた」証であり、いわば自分たちの手柄なのだ。彼らにとって戦前の日本政府は「悪」であり、自分たちの「善」がそれを駆逐した。この論理の中では、「戦争終結を早めた」原爆投下も正しい選択ということになるのも当然だ。実際には、日本には大正デモクラシーがあり、何も先の敗戦によって初めて民主主義がもたらされたわけではない。また「狂信的な神道」というのは、あきらかにイスラム原理主義の狂信性とオーバーラップさせるための作為的なすり替えだ。日本人が狂信的(とアメリカ人には見える)自爆攻撃をためらいなく行ったのは、日本人の天皇、あるいは神道に対する狂信的な宗教心からではない。簡単にいえば、「自分だけが(自決を)拒んだら、身内が世間に顔向けできなくなる」という考えのためだ。自殺を美化する伝統、命よりも名誉を重んじる風習、周囲の空気に逆らえない日本人の気質が、こうした理解しがたい行為を生んだのであり、アメリカは戦中・戦後の捕虜に対する尋問で、とっくにその行動原理を解き明かしている。自分たちは善、その自分たちと対立する相手はすなわち悪と考えるアメリカ人の押し付けがましい独善的な態度は、常に日本人を苛立たせてきた。日本の戦後の発展は、世界史上にも類を見ないもので、確かにアメリカはそれに大きな役割を果たした。だが、それまでの日本という国のもつ歴史的な素地を抜きにして、数十年間のうちに起こったアジアの奇跡は語れない。日本の成長力の原動は、なにより一般の日本国民の基礎教育レベルの高さにあるが、それは一朝一夕に築き上げられたものではない。善が悪を倒したから、などという短絡的な話で説明できるものでもない。また、ブッシュ大統領はナチスも槍玉も挙げているが、ドイツは世界のどこよりも早く、もっとも民主的な憲法「ワイマール憲法」を制定させた国だ。アメリカを含めた民主主義国家が真剣に考えるべきは、他国の規範となるような憲法を作ったドイツにおいて、なぜナチスが台頭し、他国への侵略や特定の民族の殲滅作戦にまで至ったのかということだ。それを解明することが同じ轍を踏まない道であり、ヒットラーとナチスのみに罪を押し付けて済まされる問題ではない。そもそも、イラク戦争は、「独裁者の排除」「大量破壊兵器の発見と除去」それに「石油利権の支配」に目的があった。アメリカ人はフセインを倒せば、圧制に苦しむ民衆が自分たちを歓迎してくれると思い込んでいたフシがる。大量破壊兵器の発見とその除去はテロとの闘いにおける最重要課題だったが、結局それはないことが明らかになった。そしてイラク戦争はアメリカの予想を超えてドロ沼化し、イランや北朝鮮はフセインの運命をみてアメリカに追随することをやめ、核兵器開発を決意した。石油については言うに及ばない。石油価格は高騰を続け、アメリカや日本の民衆を苦しめている。アメリカにとっては、そしてその立場をいち早く支持した日本にとっても、なんといっても大量破壊兵器が見つからなかったことがイタかった。これで大義名分は立たなくなったからだ。誰も頼んでもない「イラクの民主化」を建前にしなければいけなくなった時点で、アメリカの敗北はより濃厚になった。今回のこじつけの極致ともいえるトンデモ演説は、むしろアメリカの決定的敗北を印象付けるものだ。手前勝手で偏狭な歴史観を示したことは、これまで忠実なアメリカの僕であった日本をも、あきれ果てさせるに十分だ。スコセッシがイラクとからめて遠藤の「沈黙」を描くことに、数日前Mizumizuは少し疑問を呈したが、ブッシュ大統領の苦しいこじ付けを聞いた今、スコセッシのアイディアは卓見かもしれないと思うようになった。「沈黙」に、今のイラク人の民衆の気持ちを代弁するようなせりふがあるからだ。「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
2007.08.25
クライアントからメールが入った。「例の短いヤツ、納品まだなんですが、いつできますか?」「え?」パソの前で思わず声が出る。とっくに終らせたつもりの細かな仕事だった。あわててチェックすると、ソレの納品寸前に別の大きな仕事が入り、気持ちがそっちにいっているうちにコロッと忘れてしまっていたことに気づく。すぐにお謝りメールを書き、納品を完了させた。いくら忙しいとはいえ、納品を完璧に忘れてしまってほったらかしにしていたのは初めてだ。我ながら、ボーゼン。今年は何だか忙しい。次から次へと注文が来る。机の上は資料や原稿が山積みで、汚いことはなはだし。そもそもこの仕事を選んだのは、暇を作っては旅行に出たいがためだった。仕事をするのも、旅行資金を得るためだったかもしれない。類は友を呼ぶで、周りも旅行好きが多い。10年前バーリで知り合ったイタリア人の友達は、「100カ国訪ねるのが私の目的」だと言っていた。最初それを聞いたときは信じられず、 "100 citta'?(街ってこと?)"と聞き返してしまった。"No! Paesi!(違うって、国よ!)"と言い返された。彼女はすでに100カ国訪問の目標を達成し、今はヨーロッパやアメリカを始終旅して歩いている。今年になって彼女から送られたきた絵葉書は、メキシコからだったり、アムスからだったり、サンディエゴからだったり、リスボンからだったりしている。シチリアのシラクーサのギリシア劇場で出会った日本人の女性は、「海外旅行が趣味(それはワカル。シラクーサまで個人で来るのはタダモノではない)」「車椅子の母を連れて海外旅行をしたこともある」と言っていた。ヒトサマから絵葉書をもらうのが大好きな私は、初対面の相手に、「是非旅先から絵葉書書いて」と頼んでみた。その彼女からはいまだに海外からの絵葉書が届く。最近来た絵葉書はケープタウンのもの。「アフリカがマイブームになりそうです」と書いてあった。一方のMizumizuはといえば、2004年に自分の会社を立ち上げてからは、本当に旅行に行けなくなった。会社を作ったことで人生のプライオリティが変わったのだ。自分にそんな社会性や責任感があったとは、実のところ驚いたりしている。思えばいろいろなところに行った。基本的に個人旅行で、バーリからプルマン(長距離バス)を乗り継いでシチリアをまわったこともあるし、ドイツのフランクフルトから入って、西へ移動、チェコに入り、オーストリアに抜けたこともある。ドイツからオーストリアに南下し、インスブルックから夜行でナポリへ南下し、ソレント半島をまわったこともある。アメリカでサンダーバード(アメ車らしいアメ車)を借りてドライブしたこともあるし、クリオ(日本名ルーテシア)でフランスをまわったこともある。これがそのときの思い出。日本だったら、たとえば「青森方面」「大阪方面」と標識があれば、その道がどの方向に行くものかだいたいわかる。だが、フランスだとMetzだのNantesだのとあっても、それが西なのか東なのか瞬時にはわからない。そこでミシュランの地図を買い、走る前にルートを「予習」して紙にメモした(地図の上にのっているのがそのときのメモ書き。目的地までに通過する街の名前と道路の番号が書いてある)。これでわりとスムーズにまわることができた。ただし、フランスのロータリーは曲者。田舎町のロータリーにハマって方向を失うことが多々あった。田舎町のロータリーの標識に書いてあるローカルな地名は、土地の人には自明なのだろうが、こちらには全然方向がわらかないからだ。そういえば、東京都心でバイクで信号待ちしていたとき、ガイジンに「福生、こっち?」と聞かれた。、「立川」の標識の真下だったが、立川と福生の方向が同じかどうか彼らにはピンとこないのだ。気持ちはワカル。こうした旅への情熱はどこへ行ってしまったのだろう? 最後に海外旅行してからすでに1年以上経つ。しかも去年の旅は、オペラを見るだけ(といっていい)短いものだった。イタリア人の友達は、いまだに「いつヨーロッパに戻る?」「ミュンヘンからリスボンまでたった170ユーロで往復できる安い航空機があるよ」などと旅に誘うメールを書いてくる。「たぶん、旅行に対する情熱を失ったみたい」と書いても、「そんなことは信じない」と言う。「あんなに綿密な計画を自分でたてて旅行していたじゃない」。確かにバスや電車の乗り継ぎまでしっかり事前に調べて、待ち時間があまりない組み合わせを選んだり、リゾート地では滞在型のホテルを選んでホテルライフを楽しみ、街中の名所・旧跡を訪ねるところではリーズナブルなホテルを選んだりと、自分なりにかなり工夫して計画をたてていた。オペラや音楽会もネットでチケットを取って、スケジュールに入れたりしていた。もう、今となってはすべて面倒だ。電車やバスで移動するのは、考えただけで疲れてくる。最近のMizumizuは丸一日家から出ないなんてことも珍しくないし、外出はほとんどクルマだ。だが、ここにきて、旅のことが少し脳裏をよぎるようになってきた。たぶん、あまりに仕事に忙殺されすぎて、何かしらの「夢」が欲しいのだろう。イタリア人の彼女は自分の旅を"fuga(逃避)"だと言う。新しい旅を彼女は、"l'altra fuga(もう1つ別の逃避)"と表現する。Mizumizuにとっては何だろう? 恐らくは、気晴らしだ。さすがにここまで缶詰になるだと、本当に気持ちが萎えてしまう前に脱出しなきゃと思えてくる。仕事だけの人生なんて、Mizumizuにはありえない。仕事はやはり依然として、楽しみのための手段なのだ。では、どこへ行こう? 今日思いついたのは、冬の間1~2カ月、ニュージランドで仕事する。というものだ。ニュージーランドなら季節が逆だし、時差もそれほどない。完全オフの旅行は今の状態では難しいが、転地をかねて自然豊かな南半球に行き、週末にドライブするなどしたら、かなりの気晴らしになるだろう。問題はインターネット環境だ。海外で仕事をしたことがないので、うまくセッティングできるかどうかわからない。「ペーパーレス」なんてのはブログだけで、わが仕事の辞書にはないのでプリンターも必要になる。それにいつも使う辞書類と参考資料。これは重いけれど、まあ何とかなりそうだ。実現できるだろうか? それは「情熱」次第だろう。「忙しくて」なんてのは、情熱のもてないことをしたくないがための言い訳にすぎない。忙しくて会えない相手、忙しくて行けない集まり。すべてプライオリティの低い、情熱のもてない対象だということだ。思いつきの「ニュージーランドで仕事計画」――さて、どうなるか。それは11月以降のブログで報告するとしよう。
2007.08.24
ジョディ・フォスターはもちろん、押しも押されもせぬ大スターだ。「告発の行方」と「羊たちの沈黙」でアカデミー主演女優賞を2度受賞。監督やプロデューサー業にも仕事の場を広げている。そのジョディの名を最初に世界中に知らしめたのが、スコセッシの「タクシー・ドライバー」だったが、この映画の公開当時は――今から考えると信じられない話だが――テータム・オニールがジョディと並ぶ天才子役として人気を二分しており、評価としては、「ペーパームーン」で最年少の助演女優賞(当時10歳)に輝いたテータムのほうがむしろ高かったかもしれない。「タクシー・ドライバー」では、ローティーンでの娼婦役というセンセーショナルな話題が衆目を集めたが、実は同じ年(1976年)にジョディが「主演」した映画があった。「白い家の少女」だ。タクシー・ドライバーの提示する世界そのものは、当時のMizumizuにはあまりに遠かったが、ジョディの大胆かつ繊細な演技には魅せられた。あの年齢で、あの存在感。まさに「恐るべき少女」というほかはない。実は役者だけが目当てで見に行った映画というのは少ないのだが、「白い家の少女」は、単にジョディが見たくて映画館まで足を運んだ。寒々とした閉鎖的なアメリカの田舎町にイギリスから父親と引っ越してきた少女。彼女は学校にも行かず、自分だけの世界に住んでいる。父親の姿はだいぶ前から見られなくなった。そうした彼女の生活に疑問をもつ近隣の大人たちが、彼女の秘密を探りに入れ替わり立ち代りやってくる。常識や慣習で少女の世界を崩そうとする大人たちと、自分の世界を守ろうとする少女との心理的な闘い。それがこの物語のテーマだ。内容からいえば、少女漫画的なファンタジーだ。妖精も魔法使いも出てこないが、大人顔負けの言葉と態度、それに意思をもって、堂々と社会と対峙していく少女というのは、あまりに現実からかけ離れている。いわゆるアイドル映画の1つだろう。それを証明するかのように、常に社会派の問題作として人々に見続けられたタクシー・ドライバーと違い、「白い家」は間もなく世の中から姿を消してしまった。だが、Mizumizuにとっては、「白い家」でのジョディが最高だった。「タクシー・ドライバー」のような妖艶さはなかったし、後の「告白の行方」「羊たちの沈黙」「ネル」に見るような本格的な演技力はまだ開花していなかったが、なんといっても、少年めいた中性的な雰囲気、当時「コマネチに似ている」といわれたクールで知的なまなざし、早熟で大人じみた(でも大人ではない)表情は、13-4歳という年齢のジョディでしか表現できないものだ。たとえば2年先だったなら、おそらくこれほどジョディという存在が特別に見えることはなかっただろう。長らく消えてしまった「白い家」だが、今年になってDVDで復活した。自分自身の感性が変ってしまったこともあって、映画館で見たときほどの衝撃や感動はなかったが、やはりジョディがこの年齢でこの作品を撮ったことの幸運は信じることができる。「アーモンドの香りがする」――このなんでもない台詞もジョディの物憂げで冷たい表情をかぶせて聞くと、何かしら謎めいた、ポエティックな世界が広がっていく。こちらの想像力をジョディが刺激するのだ。その後のジョディの大女優への脱皮(子役にとっては容易なことではない)も、この演技、この雰囲気なら当然の帰結かもしれない。だが、数日前、NHKのBS2の番組(アクターズスタジオインタビュー)で自身の人生での葛藤について、ジョディ自ら語るのを聞いたとき、大女優への道が彼女にとって必ずしも一直線で平坦なものではなかったことを知った。1981年、ジョディのファンだった青年がタクシー・ドライバーに刺激を受けて大統領暗殺未遂時間を起こす。それにショックを受けた彼女は、当時出演していた舞台での観客の反応が悪かったこともあって、演技の世界から一時遠ざかる。勉学との両立も難しくなり、「そろそろ役者も終りにしよう」と思っていたときに、「これで最後」だと思って出演した映画が「告発」だったという。それも望まれて役を得たわけではなく、なんとかカメラテストだけでも受けさせてほしいと頼み込んだのは、ジョディ自身だったというのだ。「告発」はジョディ自身の自己評価は最悪で、「できれば誰にも見て欲しくない」と思ったぐらいだったらしいが、この役でついに彼女はアカデミー主演女優賞を獲得する。10歳であっさりとアカデミー助演女優賞をさらったテータムと違い、ジョディはそのキャリアの長さにもかかわらず、ずっとアカデミー賞からは遠ざけられていたのだ。「羊たちの沈黙」では、監督は当初ミシェル・ファイファーを想定したのを、「どうしてもやりたくて」「飛行機のチケットを買い」「監督のところに押しかけて」「この映画についての自分の解釈について延々と熱弁をふるい」、役を獲ったのだという(この話にはかなり驚いた)。ジョディ自身はこの演技でもっとも印象深いシーンとして、レクター博士役のアンソニー・ホプキンスに、話言葉のアクセントで出身地を当てられる場面を挙げている。西バージニア州なまりのクラリス(ジョディ)のアクセントをレクター博士が口マネをするのだが、そのときのホプキンスの言い方が、「(ジョディのなまりの)演技がヘタだといわんばかり」だったため、ジョディ自身が怒りを感じ、それがシナリオの中のクラリスの屈辱感とうまく重なったのだという。こうした冷静で的確な分析ひとつをとっても、ジョディが並外れた知性を備えた女性だということがわかる。13-4歳で秘密をかかえた賢く早熟な少女の役を演じたとき、それは確かに虚構の世界だったが、ジョディ自身がもっていた知性が演技を支えていたことは間違いない。ジョディもインタビューの中で、子役時代の自分は、精神的に早熟で、周囲の人の気持ちを思い遣りすぎるがために、大変だったと語っている。だが、ジョディはそうした精神的な負担に押しつぶされることはなかった。テータム・オニールも、ちょっと遅れて美少女として一世を風靡したブルック・シールズも、時とともに女優としての輝きを失ったが、ジョディは今もまったく揺るぎがない。時の流れのくだした判定を見るとき、やはり「白い家」で衝撃を受けたジョディの才能は、生半可なものではなかったのだと納得する。ところで、白い家公開当時に流れた噂がある。主人公のヌードシーンがあるのだが、それは実はジョディ自身ではなく代役だというのだ。DVDを買ったので、問題のシーンをコマ送りで見てみた。確かに代役だった。間違いない。
2007.08.23
西荻と吉祥寺の間に1軒のお屋敷があった。城かと見まごう(?)石垣と背の高い門が聳え、堂々たる造りで外からの視線をシャットアウトしていた。表札には「来世研究所」。そう丹波哲郎の豪邸だ。丹波哲郎はかなり好きな俳優だった。照れずにカッコつけるところは日本人離れしたスケール感があったし、声のトーンも独特の音楽のような響きがあった。日本アカデミー賞を辞退した黒沢明監督に対して、「愚の骨頂」などとズバッと言ってみせる自信も、不思議と憎めなかった。最後に俳優・丹波哲郎を見たのはNHKの大河ドラマ「義経」の源頼政役だった。ひどく痩せて、さすがにほとんど動けないようだったが、準備不足のまま平家打倒に動かざるをえなくなった頼政が、宇治平等院で炎の中で討ち死にする最後のシーンで、ニヤリと笑って死んでいくその表情に丹波演劇の円熟を見たような気がした。丹波哲郎が亡くなったとき、西荻にある丹波邸も少しの間報道陣に囲まれていた。りっぱな石を組み合わせた門の奥も、丹波の出棺のときに少し写った。「ヘリポートがある」などという噂は嘘だとわかったが、よく手入れされたツツジと門までの長いアプローチはさすが大俳優の豪邸にふさわしいものだと思った。その後しばらくして丹波邸の前をとおったら、ショベルカーが入って遠慮なくすべてを壊していた。そして、そこは完全な更地になった。りっぱな石垣も門も何もかもなくなった。一度きれいな土に戻したと思ったが、今日とおりかかったら、すっかり草が生えていた。常に手入れされ、刈り込まれていなければいけない植栽ははかないが、雑草はたくましい。ずいぶん背が伸びていた。丹波邸のような贅を尽くしたお屋敷も結局遺族が相続できないと、こうなってしまう。あの門だけでも残せなかったのだろうか。大俳優の生きた証しがあっさり消されてしまったようで、なんだか寂しい。ここはどうなるのだろう? 間口のわりにはかなり奥行きのある敷地だが、それでもマンションには少し小さいかもしれない。何軒が建売が建つのかな? それが一番ありそうだ。こういうお屋敷もどんどん細分化され、美しく手入れされた植栽や古い樹木もばっさり切られてしまう。業者にしてみれば、儲けるためには、それが一番なのだろうけれど、武蔵野の面影を残す大木や、前の主人が丹精した植栽が、根こそぎ消されていくのを見るのは寂しい。杉並の高級住宅地の魅力は、ゆったり大きなお屋敷、植栽、そして樹木にあると思うのだが、そういった場所もどんどんつまらないキチキチした普通の住宅地に姿を変えていっている。
2007.08.22
ベローナからアルプスを越えて、ザルツブルクへ。オーストリアのグロースグロックナー山岳道路を抜けていくルートだった。フランツ・ヨーゼフス・ヘーエに寄ってマーモットとパステルツェ氷河に出会う… のは時間的にムリだったが、夏だし、涼しい高原の道が楽しめるのでは、と期待していたら、なんと!雪だった!一応展望スポットなのだが、寒くて全然降りる気になれない。まさか8月でここまで寒いとは。ヨーロッパ旅行には慣れてるつもりだったのに、まったくの不意打ち。ザルツブルクに前回6月に行ったときは、暑くて困ったので、そのイメージしか残っておらず、寒さ対策の服なんて持ってきていない。暑いどころか寒くて困るかも。ザルツブルクへ向うにつれ、不安が募った。ザルツブルクはやはり寒かった。だが、震えるほどではなくて、なんとか一安心。そして、お目当てのザルツブルク祝祭劇場へ行く夜がやってきた。ザルツブルク音楽祭は世界でもっとも有名な音楽祭のひとつだ。劇場は、さぞかし華麗な世界と思いきや、案外それほどでもなかった。観客の身なりの「いいカッコしなれてます」度ではチューリッヒ歌劇場の平土間に来る客のほうがビシッとしてるかも。ネッロ・サンティ指揮、ルッジェーロ・ライモンディ出演のオペラを見に行ったが、蝶ネクタイに白いストールを垂らして、黒のすばらしいスーツで決めた老紳士が、バールを探してウロウロしてるこの日本人に、「もう中へ入れますよ」と親切に声をかけてくれた。よい劇場というのは観客も劇中人物にしてしまうような魔力がある。パレルモのマッシモ劇場も地元民が思い切りめかしこんで来ている社交界の雰囲気があった。ザルツブルクは、そこにいくとやっぱり土地の人より外から来た人が多いのだろう。オペラというのは基本的にその土地の人のためのものだが、ザルツブルク音楽祭のようなビックネームになってしまうと、チケットもそうそう買えないし、観客もおのずと「遠くから来た人々」の集まりになってしまうのかもしれない。「魔笛」の幕があく。リッカルド・ムーティ+ウィーン・フィルはどうだろう? 多少、意地悪な評論家の気分で音楽が始まるのを待った。しかし、最初の一音からすでにノックアウト。ほとんどボーゼン。いやぁ、すごい。一糸乱れぬウィーン・フィルの完璧なテクニックと崇高なる精神性。キミたちはやっぱり日本公演では手を抜いているのかね? 日本で聴いた小沢指揮のモーツァルトと雲泥の差じゃないか。あ~、あれは東京文化会館の音響の悪さのせいかな。そうだということして自分を慰めよう。あるいは、もしかしたら指揮者の違いなのか? オペラを聴くとき、指揮者が目当てか、オケが目当てか、歌手が目当てか、あるいは演目そのものが目当てか? これは案外ハッキリ傾向が分かれるものだ。マニアはたいてい指揮者が一番の目当てだ。指揮者絶対派によれば、オケや作品は指揮者によって化けるのであり、それこそが聴きどころなのだという。もちろん、その意味では、ザルツの「魔笛」の完成度はムーティの力によるものだということになるだろう(そもそも小沢のモーツァルトは、指揮者本人の意欲とはうらはらに、評判がよくない)。だが、実のところMizumizuはスカラ座の「独裁者」であったころのムーティがあまり好きではなかった。音楽は特に文句をつけるようなものではない。世界の巨匠ムーティにふさわしいものを常に見せてくれていたと思う。だが、ムーティが振ると、オケも歌手もすべて「ムーティのための存在」になってしまっていた。ひたすらムーティの音楽に献身しているコマのひとつ。その結果、スカラ座の歌手はスケールが小さくなり、大スターはスカラ座を敬遠するようになった。加えてムーティと劇場側の絶えざる政治的な争いが、オケの結束力にも次第に影を落としていったと思う。ムーティが事実上、劇場団員から追われたとき、巨匠自身はひどく傷つき、奥さんが出てきて(こういうところがやっぱりムーティはイタ男だ)、「彼はいまとても落ち込んでいるから放っておいて」みたいなことを言っていた。だが、Mizumizuはこれはムーティにとってはチャンスではないかと思った。ムーティとスカラ座はあまりに長く一心同体だったが、スカラ座の伝統という亡霊がムーティを縛っている面も確かにあったと思う。ムーティがスカラ座から自由になった。とすれば、世界はそれを放っておくはずがない。またムーティ自身もそこで終ってしまうワケがない。予感は当たった。錦糸町にムーティが来て、ヴェルディのレクイエムを振ったとき、合唱やオケのテクニックはそれほどでもなかったにもかかわらず、Mizumizuはこれまでになく感動した。ムーティは確かに変ったのだ。そしてザルツでの完璧なモーツァルトを聞いたとき、「ムーティと一番相性のいいオケはウィーン・フィルでは?」と思った。ウィーン・フィルはムーティにひれ伏してはいない。コラボレート(共演)しているのだ。オケの技量と指揮者の力量がぴったり合致したときに生まれる奇跡。それをザルツで見たように思う。歌手もよかった。ルネ・パーペ(ザラストロ)は、ちょっと前に、日本で「ドン・ジョバンニ」のレポレッロ役を聴いていたが、そのときはほとんど印象に残らなかった。今回のザラストロは相当念入りに役作りをしている。ディアナ・ダムラウ(夜の女王)も圧巻だった。「夜の女王」はMizumizuにとっては永遠にグルベローヴァだが、小沢の「ドン・ジョバンニ」でアンナ役を上野でやったときには、さしもの女帝も音程のミスが目立ち、巨大な華が枯れていく瞬間に立ち会った気がした。「夜の女王」を歌うために生まれてきたとまで言われたグルベローヴァだが、さすがにその逸話は現在進行形ではない。ダムラウはクールで、美しく、まさに今旬の夜の女王だ。絶頂期のグルベローヴァのもっていた、人の運命をひきずりまわすような凄みはないが、テクニックもしっかりしている。有名なアリアではことさらゆっくり歌い、音程の正確さを披露していた。感情にまかせて突っ走らないところが、いかにもムーティの指揮らしい。不満があるとすれば舞台美術かな。美術や演出に関してザルツに感心したことがないが、それでも変にスキャンダラスでなかったのはほっとした。オペラでは舞台美術にかなり期待の大きいMizuizuだが、今回の魔笛に関しては、演出はもうどうでもよかった。しかし、観客のレベルはやはり、というべきか低い。反応を見ていれば、コアなオペラファンが多いか少ないかわかるが、ザルツの観客の反応は明らかに今イチだ。今やむしろ東京の新国立劇場に来る客のほうがオペラ好きかもしれない。しかし、新国立劇場のオケはどうしてもいただけない。オペラのオケに関しては、日本は相変わらず後進国だ。
2007.08.21
去年の夏はベローナにオペラを見に行った。もう1年になる。太陽が落ち、蒼い空気が劇場を染め始めたころに席についた。演目は「カルメン」。歌手は小粒だったし、野外なので演奏の出来不出来を論評するのはあまりふさわしくない。なんといっても、このベローナの名高いイベントは、古代ローマ時代の劇場で観るオペラというその雰囲気に価値がある。舞台美術の色彩にも統一感があり、スケールも大きく、なかなかだった。オペラが進むにつれ、次第に闇が周囲を支配してくる。そして、なんと、舞台背景の奥におあつらえむきの月が昇ってきた。この写真を見て、「合成?」といった人がいる。合成ではない。本物の月だ。この舞台劇でもっとも感動的だったのは月の光の演出かもしれない。しかも、この後、月をにわかにかき消す雲が起こり、雷鳴が轟いて、オペラはあと1幕を残してお開きとなった。ものすごい雨が石畳の街を叩く。あまりに劇的な天候の変化に気持ちが整理できない。「オペラは中止になりました」というアナウンスが流れても、まだほとんど陶然として歌劇場の入り口に立ち尽くし、しばらくは動けずにいた。最後の一幕が見られなかったのはやはりなんとも残念だ。クライマックスがカルメンの魅力なのに… だが、あっという間に月をかき消した雲の上昇、遠くから迫ってくる雷鳴の響き、降り注ぐ雨、追われるように移動する人々の群れ。そういったものこそが、自然の生み出すドラマであり、音楽の原点なのかもしれない。そんな風にも考えた。翌日野外劇場の周りを見学した。舞台美術がそこら中に置いてある。これはもちろん、「蝶々夫人」のセットだろう。
2007.08.20
日本のスイーツの平均点は世界でもかなり高いと思う。だが、プリンはダメだ。ヨーロッパで普通に味わえる、卵の風味豊かで、キャラメルの苦さの効いたワイルドなプリンがほとんど見当たらない。そんななかで、カフェ・コムサの「ぜいたくプリン」は健闘している。Mizumizuの思う、本物のプリンに限りなく近い。これが「ぜいたく」というのがチョイ哀しい。これは普通のプリンだ。日本の子供たちの間に出回っている「ぷっちんプリン」みたいなのがマガイモノなのだ。カフェ・コムサから眺めた吉祥寺、土曜日の宵。にぎやかというべきか、閑散としてるというべきか? 恐らくその両方だ。多摩地区の街としては圧倒的ににぎやかだが、たとえば渋谷から来ると、「人いないじゃん」ということになる。「いつ君」を見に久々に渋谷に出た夜、10時半をまわっているのに文化村通りに人がいっぱいいるのを見てビックリした。「今夜、お祭り?」と田舎から東京に出てきたワカモノみたいなせりふが口をつきそうになった(笑)。ところで、カフェ・コムサで楳図かずおを見かけた。とても痩せていて、とても目立つ黄色と赤のシャツを着て、はだしにサンダル。ひとりでお皿いっぱいのスイーツを食べていた。70歳とは思えない。楳図かずおは吉祥寺でよく見かける。以前はガード下ですれ違った。今、赤白の横じまの家を建てるとかで、近所の住民から周囲と調和しないと「待った」がかかっている。どこだろう? もちろん吉祥寺南町に決まっている(確かめたワケじゃない)。吉祥寺南町は城西地区以外ではあまり知られていないが、実は都内でも屈指といっていい高級住宅街だ。成城がそうであるように、吉祥寺南町もすべてがいい住宅街ではないが、井の頭公園沿いの狭い地区は、しっとりと樹木に囲まれ成城の一等地と張り合うくらいに雰囲気がいい。公園に隣接した、本当にいい一角は土地は出ないから、まあ、おそらく井の頭通りと井の頭公園の間の吉祥寺南町のどこかだろう。あのあたりの一戸建てなら、2億円コースだ。楳図かずおが漫画を描かなくなってすでに10年経つが、2005年にリバイバルで人気が出たというから、お金はあるんだろう。近所の人が外観に文句をつけてくるというのも、あのあたりなら理解できる。Mizumizuの住んでいるあたりなら、全然オッケーだったと思う(笑)。
2007.08.19
「沈黙」でもっとも注目すべき登場人物は、長崎奉行の井上筑後守だ。主人公ロドリゴは日本に来る前、井上は高名な宣教師たちを次々棄教させている「悪魔の化身」だと聞かされていた。ところが実際に会ってみると井上は、ロドリゴの想像とはまったく違う柔和で優しげな老人だった。井上はロドリゴに対し、「ある土地では稔る樹も、土地が変れば枯れる」という喩えを引いて、「日本にとってキリスト教は無益だとわかったから禁制にした」のだと説明する。これはキリスト教徒が唱える普遍的な正しさや倫理観が、日本では意味をもたないこと、信じるに値しないものであるという決別宣言だ。また「スペイン、オランダ、イギリスという妾が日本という男に毎晩のようにお互いの悪口を吹き込んだ」と皮肉る。これは「絶対無二の倫理観」をかざしながら、実際にはご都合主義に自分たちだけが利権を独占しようとするヨーロッパの国々の偽善を暴いた言葉だ。もちろん、ロドリゴは自らの信じる正しさによって反論する。2人の会話は当然、平行線のままだ。すると、井上はむごい拷問を受け続ける日本人信者をロドリゴにつきつける。彼らはすでに棄教を約束しているが、ロドリゴが棄教しない限り許されることはないのだという。「お前たちは日本人を救うためにやって来たという。だが、実際には救うどころか、受けなくてもいい苦しみを与え、その苦しみから解放してやることもできないではないか」。これが井上が宣教師を棄教させる最大の武器だった。井上はロドリゴに対して直接的な拷問を加えるのではなく、ロドリゴの信じる神が無力であることをしらしめて、その信念をくじこうとするのだ。井上は恐ろしく、不気味で、しかも理性的で、知的な人物だ。温和さと残酷さを併せもつこのキャラクターをスコセッシがどう解釈してみせるのか。キリスト教徒にとってもっとも都合がいいのは、「唯一の神をもたずに現世的な体制に従属し、したがって、普段は温和な人間でありながら、命令とあらば倫理観のかけらもない悪魔のような所業をやってのける人間」だ。こうした解釈は、たとえば先の大戦での日本軍の残酷な所業を説明するときに繰り返し述べられてきた。絶対的な倫理観に欠けているから、日本人は時として信じられないぐらい残酷になるのだと。たしかに、それはそれで筋がとおっている。だが、「絶対的な神をもたないがゆえの残酷」と「絶対的な神をもつがゆえの残酷」のどちらがより人類の歴史において深刻だろうか。今世界中で起こっている血で血を洗う終りなき殺戮は、ほとんどが異なる「唯一の神」をもつ民族同士の対立によるものだ。日本人はそうした神を信じることを拒否した。井上のキリスト教徒に対する容赦のない弾圧は、八百万の神々とともに生きる民族が、自分たちの価値観を破壊するかもしれない「心の蹂躙」に対して起こした激しい拒否反応だともとれる。井上はその意味では、西洋による精神の侵略、そしてその後に続いて起こる武力による征服と支配を防いだ人物なのだ。キリスト教布教と植民地政策がセットであり、植民地政策には先住民の大量殺戮がともなったことは、いくら征服者たちが「自分たちは文明の伝達者であり、未開の野蛮人を啓蒙したのだ」と自己肯定しようと変りようがない。井上のキャラクターに注目したとき、「沈黙」をイラクとからめて描くのは多少無理があるような気もする。ことさら現在進行中の問題に関連づけるのは、アメリカ人の観客を意識した、アカデミー賞狙いのにおいもしないではないが、広い意味での「独善的な精神世界からの侵略に対する抵抗」として括るなら、そうした視点もなりたつのかもしれない。9.11のテロのとき、あるアメリカ人が思わず言った言葉がある。「こんなの、ジャップのパールハーバー以来だ」。日本人自身は自分たちがカミカゼの子孫であることを忘れている。あるいは忘れたいと思っている。だが先の大戦で、アメリカ人を恐怖させたのは、戦術上はほとんど意味のない「万歳突撃」「玉砕」さらには「カミカゼ特攻」までいった日本人の徹底抗戦の姿だ。そこまで狂信的な(としか見えない)自殺行為をためらわずに行うのは何故なのか、アメリカは必死に解き明かそうとした。現在イラクで頻発する自爆テロと日本軍のカミカゼ特攻や玉砕は、それを行う者たちの動機づけには実のところ大きな隔たりがある。日本人はその違いをわかっている。だが、アメリカ生まれであるスコセッシが、繰り返される自爆テロを見て、かつての日本を連想し、そこから「沈黙」の構想を膨らめたとしても不思議ではない。本当にイラク問題とからめた映画になるのだろうか? シナリオはできたのか? 井上役は誰がやる? 日本でのロケはどこで? 興味はつきないが、残念ながらいまだにスコセッシは沈黙を保っている。とりあえず今は、待つしかない。
2007.08.18
マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作原作の「沈黙」の映画化についに着手すると発表されたのが2005年11月。その後この企画はどうなっているのだろう? 2007年5月のcontactmusicの英文記事によると、スコセッシは作品の少なくとも一部を日本で撮ることを望んでおり、撮影自体はまだ始まっていないようだ。ついでに同記事にはおもしろい話が載っていた。「沈黙」は17世紀、キリスト教弾圧時代に長崎にやってきた宣教師の物語だが、スコセッシは主人公の姿をイラクに侵攻したアメリカと重ね合わせて表現したいのだという。記事が正しいかどうかはまだわからないが、「そうきますか」と思った。なるほど、イラクを独裁者の圧制から解放し、民主化してあげるのだなどと息巻いて侵攻し、激しい自爆テロとゲリラ戦に遭ってドロ沼に陥っている現在のアメリカの姿は、「日本はアジアでもっとも民衆の教育レベルの高い国。必ずやアジア随一のキリスト教国となるだろう」などと大きな勘違いをして、布教を始め、やがて想像を絶する拷問を受けて惨殺されていった宣教師たちと重なって見えなくもない。スコセッシが「沈黙」を映画化したいと考えたのは、少なくとも15年は前のことだから、最初はイラクとからめて云々という発想はなかっただろう。むしろストレートに、日本(あるいはスコセッシにとっては東洋かもしれない)と西洋の精神の対立というものに興味があったのではないかと思う。なぜそう思うのかというと、スコセッシが「豚と軍艦」(今村昌平)の最後で、逃げ出した豚が街中にあふれ出す(目を覆うほどおぞましい)シーンについて、「これは西洋文化の流入を象徴している」という意味のことをさっくり話しているのをテレビで見たからだ。スコセッシは相当の今村昌平フリークだ。今村オタクといってもいいかもしれない。今村作品のさまざまなシーンをたった今見ているかのように詳細に語り、自分自身の解釈をとうとうと述べる姿には圧倒された。一体何回今村作品を見ているのだろう? たとえば、「にっぽん昆虫記」については、売春宿の女主人が警察で取調べを受け、同様に話を聞かれるために連れてこられた若い女性にすれ違いざまに、「しいっ~」と唇に指をたてるしぐさをして、黙っているよう無言の脅迫をする場面があるのだが、「あのときの女の顔は、私がこれまで観たあらゆる映画の中でもっとも邪悪な表情」と絶賛する。実際にその場面がテレビに出たが、確かに、たとえフェデリコ・フェリーニでもここまで醜悪で邪悪な女性の顔は撮れないな、と思うような恐ろしい表情だった。自身の「タクシー・ドライバー」も今村作品に強く影響を受けたものだという。Mizumizuは10代のころ映画館でこの作品を見て、強烈なカルチャーショックを受けた。残酷でリアルな暴力シーンにもたまげたが、何より驚いたのは、「悪いやつだからといって一市民が勝手にソイツを殺し、しかもその殺人者がヒーローになる」という当時の平和な日本では到底考えられない価値観だった。今村とスコセッシには、「できれば見たくないものをわざわざ見せる」イタさがあり、Mizumizuは実はかなり敬遠してきた。今村昌平のヨーロッパでの高評価を歯がゆく感じたこともある。大島渚の「戦場のメリークリスマス」がカンヌでパルムドールを取るのではないかと騒がれたとき、実際に賞をさらったのが今村の姥捨て山をテーマにした「楢山節考」で、「なんでこんな貧乏で暗い、できれば日本人が忘れてしまいたい昔の日本をフランス人は歓んで観るのか」と思ったものだ。「うなぎ」もどぎつい色のドレスを着て踊る女の醜悪さにほとんど辟易した。スコセッシの暴力シーンも、できれば見たくない、認めたくない人間の「ある真実の一面」をはっきり見せられるような気がしてどうにも苦手だ。日本中が期待した「硫黄島からの手紙のアカデミー賞受賞」を奪った「ディパーテッド」もいまだに見ていない。だが、「沈黙」はぜひとも観たいと思う。キリスト教徒に対する苛烈な迫害は、日本人にとっては触れてもらいたくない過去かもしれない。だが、問題は最初は進んだ西洋(南蛮)文明の紹介者として歓迎したキリスト教をなぜ日本が次第に警戒し、最後は信者に非道な拷問を加えてまで締め出そうとしたかということだ。(明日に続く)
2007.08.17
「白い恋人」で有名な北海道・札幌の菓子メーカー、石屋製菓への信頼が大きく揺らぐ不祥事が明らかになった。賞味期限の改竄に加え、バウムクーヘンから黄色ブドウ球菌、アイスクリームからは大腸菌群が見つかったという。北海道で生活したことのある者として感想を述べさせてもらえば、「それほど意外なことではない」ということになる。そもそもMizumizuは石屋製菓のお菓子など食べない。お土産に持っていったことも一度もない。贔屓にしていたのは石屋製菓ではなく六花亭で、カフェがわりに行くのも六花亭喫茶室なら、お土産に買っていくのも「マルセイバターサンド」「十勝春秋」「六花のつゆ(特にブルーのコアントロー味が美味しい)」「霜だたみ」あるいはモカチョコレートや生チョコレートから選ぶようにしていた。どうして石屋製菓のお菓子を買わなかったのかと言えば、答えはカンタン。美味しくないからだ。「白い恋人」は恐らく道外ではもっとも有名な北海道土産だが、あれは洒脱なネーミングの妙と雪の結晶のパッケージデザインの美しさがほとんどすべてで、味自体は別にどうということもない。今回の不祥事が明るみに出て、石水社長は「包装技術の進歩で約半年は味も変わらない」などと言っているが、バカも休み休み言って欲しい。半年も味が変わらないなんて、缶詰じゃあるまいし、そんなお菓子はロクなものじゃないだろう。逆に、マルセイバターサンドは六花亭自身が、「賞味期限が短いのでご注意ください」と買う人に注意をうながしている。実際に数日おくと確実に味が落ちるのがわかる。お菓子というのはデリケートなものなのだ。六花亭は上にあげたお土産用の菓子のほかに生の和菓子や洋菓子も作っていて、こちらのほうが地元民にはお馴染みだ。生の和菓子や洋菓子はほとんどが翌日か翌々日が賞味期限だから、お土産にはもっていけない。Mizumizu自身は季節ごとにかわる生の和菓子がわりと好きで、特に秋に出る栗きんとんは、大ファンだった。一度鬼皮が混ざっていたことがあり、クレームしたら、社員が代替品を届けてくれたこともあった。また六花亭の喫茶室は、ほとんど週イチのペースで通っていた。円山店の喫茶室に最初に行ったときは、あまりにゆったりした造りに驚いたものだ。東京のキチキチにテーブルが並んだカフェに慣れた者にとっては、高い天井、広い空間に、ゆったりとテーブルや椅子をならべている豊かさに、「これぞ北海道」と感動した。だが、それは北海道ウンヌンというより、六花亭という会社のもっているセンスだということに気づくのに、それほど時間はかからなかった。六花亭の喫茶室は札幌にも数軒あり、帯広や函館にもある。すべてが同じということはないのだが、たとえば、大きな生花がいけてあったり、ドアが重厚で背の高い木製だったりと、かなりインテリアにお金を使っている。彫刻作品をおいてダウンライトで照らしたりといった工夫のある店もある。満開の桜や緑の森を大きな窓から楽しめる店もある。それぞれに店の立地や建築設計にかなりこだわっていることは間違いない。また、その喫茶室でしか食べられないスイーツもあって、帯広店は観光シーズンになると喫茶室に行列ができるほどだ。札幌でも円山店の喫茶室でMizumizuがよく注文したのは、「抹茶パフェ」と「帯広の森」。帯広の森も観光シーズンになると、午後2時にはもう売り切れでない、なんてこともあった。ガーゼの布目のついたフロマージュブランをフランボワーズソースが取り囲んでいる美しいお菓子で、東京では某有名店で人気の「アンジュ」とほぼ同じだ(ただし、アンジュはフロマージュの「中」にカシスソースが入っている)が、アンジュよりずっと口当たりが軽く、ナチュラルな味が特徴的だ。口の含むとあまりにたよりなく、はかなく溶けていく(アンジュはもっと重層的な味で、都会風の洗練がある)。そして安い。また円山店では誕生日の日にたまたま行くと、ケーキのサービスが受けられ、このケーキの生クリームはやたらと美味しい(なぜかショップで売っている生ケーキのクリームよりずっと上質)ので、誕生日に札幌に行った方は是非とも円山店のこの得がたいサービスを受けてみてほしい。札幌・新川の喫茶室はコーヒーがセルフサービスのタダで、しかもかなり美味しい。無料のコーヒーなのに、頻繁に入れ替えていて、煮詰まったコーヒーを飲まされるということがほとんどない。ここでは円山店にはないワッフルを頼むのが楽しみだった。六花亭は東京のような街にはない、北海道の豊かさというものを実感させてくれる店で、しかも地元密着型というスタンスを大事にしている。六花亭のお菓子を東京にもってきて、名だたるスイーツの名店と純粋に味だけを比べたら、六花亭に軍配があがるかと聞かれたら、答えに困る。六花亭の魅力はフレッシュで上質な素材の味わいにあり、特にお酒使いが光っているとか、味の組み合わせがバツグンにインパクトがあるとかいうことではない。むしろ、良心的な価格と何度食べても飽きない味、「地元民のためのおやつ」を提供するという企業の徹底した姿勢の中から、たまたま全国区のヒット商品が出たといったほうが正確だろう。六花亭は北海道民による北海道民のための店であり、観光客はそのお裾分けにあずかっているに過ぎないのだ。「マルセイバターサンド」は年間40万個、75億円売上げる六花亭最大の売れ筋商品で、「白い恋人」と並ぶ北海道土産とも言われていた。だが、Mizumizuとしては、六花亭と石屋製菓を並べて語ることなんてできないと考えていた。六花亭の企業としての姿勢が好きだった。グローバル、グローバルと意味も考えずに叫び、なんでもかんでもシェアを拡大したがる企業が多い中、徹底してローカルなまま、東京に店も出さない六花亭の価値は逆に高い。帯広に行ったとき、ホテルの温泉で息子が六花亭で働いているという人と話したことがあるが、月1回頑張った人を表彰する制度があるという。また、休みをきっちり取ることができるので、満足して働いていると言っていた。就職先としての人気も高いようだ。店の建築やインテリアにもこだわり、生花や無料のコーヒー(はむろん、立地によっては有料のところもある)で来る人をもてなし、ちょっとしたサロンコンサートを主宰したり、美術館事業を展開したりと社会文化活動にも力を入れている。そのかわり、宣伝はあまりしない。やたらと「しろいこいびと~」とテレビコマーシャルを流す石屋製菓とは対照的だ。Mizumizuは札幌の西区にいて、石屋製菓のファクトリーにも近かったが、そのハリボテのヨーロッパのお城風の醜悪で巨大な建物を見ただけで、見学する気にもならなかった。対して六花亭は株主になりたいと思ったくらいだったが、どうやら株式非公開のプライベートオーナーシップのようだ。だから、夏北海道へ行く皆さんは、「白い恋人」が買えなくなったからといって落胆するには及ばない。マトモな会社がマトモに作った美味しいお菓子を買えばいいだけの話だ。ちなみに、ずいぶん前の記事だが、今回の事件を予感(?)させるものがあったので、URLを記載しておこう。http://w3.bs-i.co.jp/globalnavi/bigname/060603.html六花亭の小田豊社長の「マルセイバターサンドと白い恋人はスタンスが違う」とコメントは、「マルセイバターサンドを白い恋人と比べて欲しくない」と読み替えれば、今回の不祥事の背後にある企業の姿勢の違いがよりハッキリ見えてくるだろう。
2007.08.16
渋谷のQ-AXシネマへ斎藤工(さいとう・たくみ)主演の「いつかの君へ」を観にいく。1日に1回のレイトショー形式。21:20から。時間が遅いので、安心して(?)仕事をだらだら片付けていてふと気がつくと、すでに20:30を回っていた。明日からは忙しくなるので、夜出られないかもしれない。慌てて車に乗って家を出たのが、20:45過ぎ。普段なら間に合わないところだが、お盆でわりと都内がすいていて、なんとか21:20分に劇場に滑り込んだ。映画はよかった。堀江慶(監督)の世界は、明るくて暗く、シリアスでコミカルだ。深刻な問題を扱っていても絶望はなく、といってごまかされた気分にもならない。双子の兄弟のノボルとリュウが初めて会話する場面は、「サイコ」の息子と母の会話をすぐに連想させる古典的な手法で、「もしや…」と思わせる。そうした精神の闇の部分は、結局最後まで完全に解決されることはないのだが、どこか楽観的な気持ちで劇場を後にすることができるのは、共演の河合龍之介の嫌味のない明るいキャラクターによる部分も多い。青春の負の部分を表現するのは斎藤工の役割だが、その中でももっとも印象的で卓越したシーンは、ドイツ留学を奨められたノボル(斎藤)が、「(ドイツにいけば)ひとりになれる?」と自問自答して、鏡に映る自分を横目で見やる場面だ。このカットはノボルの肩越しに撮られ、観客はその後ろ姿と鏡の中のノボルの顔を同時に見ることから、あたかもその場に2人の人間がいるような錯覚にとらわれる。緻密に計算されたこの視覚的な効果とあいまって、ノボルに問いかける声がノボル自身のものなのか、リュウのものなのか、一瞬混乱してわからなくなる。ここはこの映画でもっとも暗く、もっとも美しく、幻想的で暗示的な場面だ。そうした精神の陰の部分を鋭く表現してみせる斎藤工は20代半ば。テレビドラマにもCMにも出ているし、映画も舞台もやっている。ただ、まだ日本人なら「誰でも知ってる俳優」というほどではない。だが、いずれはそうなるだろうと思う。役者に対しては、よくみな「華がある」「華がない」という言い方をする。ただ見た目がいいとか、せりふまわしがうまいとか、そういったものを超えたその人独特の雰囲気だ。みなが感じる「華」とは何だろうと考えてみるが、実際のところよくわからない。人によってその「華」は違うかもしれない。ある人にとっては最高に華のある役者でも、ある人にとっては、何度見ても印象に残らない役者かもしれない。だから、華がある、ないは多分に個人的な嗜好で、ときには思い込みにすぎないかもしれない。それでも「華のある俳優」というものが存在することは確かだ。誰もがよく知っている俳優というのは、いいかえれば、「非常に多くの人が華があると認めている存在」に他ならない。俳優・斎藤工のもっている華とは、不思議な陰りであり、それとは相反するようでありながら確かに共存している透明感だ。同世代の俳優の中でも、そうした個性的な雰囲気では群を抜いている。それに演技もいい。「いつかの君へ」では河合龍之介と演技力を競いあっていた(河合龍之介も素晴しかった。軽快で器用で明るい演技は、斎藤工とは対照的な、別の可能性を見せてくれた)。左が斎藤工、右が河合龍之介。たとえば10年後に、この2人はどんな役者になっているだろう? 本当に楽しみだ。どちらも才能があり、役者という仕事に対する若者らしい野心があり、演技に取り組む姿勢も素晴しい。どんな役が回ってくるかという運もあるだろう。2人のブログも読んでみた。これも対照的で面白い。ストレートにその生活ぶりがわかるのは河合龍之介のブログだが、斎藤工は常に表現者たる自分のフィルターを通して、自分の見た風景を切り取るように心がけているようだ。老人たちが将棋を楽しんでいる写真につけられたコメントには驚かされる。こうした視点を20代にしてすでにもっているというのは、いろいろなものを見て、常に感性を磨こうと努力している証拠だ。東京の繁華街の交差点の一瞬を写した写真も面白い。斎藤工は今は青春モノで、ちょっと大人っぽい陰のある役どころを魅力的に演じている。20代の半ばという年齢を考えると、こうした役を演じるにはかなりギリギリかもしれない。DVD版BOYS LOVEでは高校生役の斎藤工のほうが、社会人役の小谷嘉一よりはるかに精神的に成熟してみえた。実際の2人の年齢を考えればそれほど不思議ではないのだが、この現実とは逆の設定が、作品を不思議なファンタジーに仕上げるのに一役買っていたと思う。10月からNHKで藤沢周平の「風の果て」が始まる。斎藤工が演じるのは、後に異例の出世をとげる主人公・隼太が若き日に仰ぎ見ていた道場仲間、鹿之助(斎藤工から仲村トオルにバトンタッチするらしい)だ。家柄もなく、したがって先々の希望はせいぜいよい婿入り先を探すぐらいしかなかった隼太と違い、鹿之助は名門の跡取りであり、生まれながらに隼太とは別世界に住んでいた。そうした「ほかとは違う」ものを背負った鹿之助をどう演じていくのか。斎藤工のもつ透明感と陰りというアンビバレントな個性が、後の2人の運命(隼太はやがて利権をテコに権力を得、鹿之助の政敵となり、鹿之助を葬り去ることになる)を思うときにどう輝くか、注目したい。斎藤工自身にとってもこのドラマは大きなチャンスだろう。斎藤工の名前がもっと大きくなったとき、渋谷の小劇場で観た今夜の佳作を懐かしく思い出す日がくるだろうか。是非ともそうなってほしい。
2007.08.15
木のクラフトつながりで、今日ご紹介するのは、だいぶ昔に、南仏のヴァロリスで買った香水入れ。ヴァロリスというのはピカソゆかりの陶器の町だ。ピカソの「戦争と平和」という壁画作品のある小さなチャペルもある。アンティーブからわざわざバスで訪ねた。歩道に大きなテラコッタの鉢が並んでいるクレマンソー通りは、商店街になっていて、だいたいが陶器を売る店だが、なぜか陶器には食指が動かず、ふらっと入った木製クラフトを売る店で、この香水入れの独特な造形美と肌目の美しさに魅せられた。手にとってしげしげ見ていると、作者自身でもあり店の店主でもあるオジサンが強烈に売り込み開始! その熱意に負けて買ってしまったが、今ではいい買い物をしたと思う。何年経っても飽きがこないし、木目の美も変らない。それに、(今では信じられないことだが)当時は円高でフランスの物価はやたらと安く感じた。作家のオジサンがいうには、インドネシアの貴重な木材だという。名前は忘れてしまったけれど、インドネシアならチークかな、とも思う。 独特な渦巻き模様はバールウッド(木のコブの部分)かもしれない。あのオッサンの木製クラフトの店は、今もまだあるのだろうか。もうヴァロリスを訪ねる機会もなさそうだ。これから行かれる方がいたら、教えてほしい。クレマンソー通り(通り自体はそれほど長くはない)だから、もしまだ店があるなら、すぐにわかると思うのだが…
2007.08.14
旭川でふと立ち寄ったクラフトショップで一目惚れして買ってしまった無垢の木を使ったコースター。太い幹の部分はナラ材の端整な木目がすがすがしい。木の葉のコースター部分はチェリー材だったかな(どこの工房で作ったものなのか忘れてしまって確認できず)。人間の手のひらのように、1つ1つ色調と表情が違う。4つの木の葉は使うときには、幹からはずすとコースターになり、使いおわったら幹に突き刺しておけばオブジェのようにもなる。1つか2つはずしておいてもサマになる。ただし、コースターとしての使い勝手となると…(苦笑)。水分を吸収しないので、グラスをコースターから上げると、底がくっついてきてしまう。口元にもってくるあたりでガタガタっとはがれて落ちる、なんてことも。う~ん、やっぱり観賞用かな。
2007.08.13
リモージュを発って、南仏を目指すか、南西のほうへ行くか迷ったが、南仏は交通の便もいいし、また来ることもあるだろうと思い、南西のペリゴール地方をドライブしてみた。ペリゴールはちょっと日本の田舎にも似ている。低い山が連なり、田畑にできるような平地は少ない。フォアグラで有名なのだが、鴨の群れにはチラホラ会うだけだった。どこも小規模な農家という感じ。ちょっと不思議だったのは、南イタリアのアルベロベッロにあるトゥルッリに似た、円い土台に円錐形の屋根(瓦は薄い石の板)の載っている古い建物をいくつか見たことだ。ヨーロッパの寒村ではこの手の建物が伝統的に見られるのかもしれない。宿はLes Eyzies-de-Tayacという小さな町のLe Centenaireにした。このホテルはこんな田舎にあるが、ルレ・エ・シャトーのメンバーで、ミシュランの星つきレストランを併設している。チェックインより早い時間に着いたら部屋がまだ整っていないということで、エプレッソを頼み、よく手入れされた庭のテラスでいただいた。味は極上だった。部屋に荷物を置いて町を散策する。フォアグラの名産地だけあって、食料品店の前には、こんなオブジェがあった。また、ここは先史時代の人類の洞窟住居がある場所としても有名。せり出した岩棚の下に半分洞窟のような住居が今も残っている。写真の上あたりが、そうした洞窟住居を再現したものだ。夜、Le Centenaireでディナーをいただく。ミシュランの星つきだといっても、必ずしも日本人の口に合うとは限らない。値段と考え合わると、もう一度行きたいというほどでもないな、という店も多い。だが、Le Centenaireは値段も非常にリーズナブルで、地元の素材を生かした料理は深く印象に残るものだった。パリの星つきレストランとはまた一味違う、地方料理ならではの個性があった。またグラスで頼んだ赤ワインも渋みのある深い味わいで、ボルドーの大地が生み出す味の豊穣な奥深さを堪能できた。もっともグラスで4000円ぐらいして、メニューの中ではもっとも高価なグラスワインだったから、そのぐらい美味しくなくては困るというものか。清潔な浴室で旅の疲れを取り、翌日はラスコーに行ってみた。途中で中世の街モンティニャックに寄ったが、フランスの中世の街って、どうしてこうも暗くてダサくてさびれているのだろう? イタリアとは雲泥の差だ。やはりアルプスの南に比べると中世のフランスというのは相当な僻地だったんだろう。お昼ごはんを食べようとしたが、レストランもあまり開いておらず(日曜日のせいだ)、なんとか入った店で、ムッシュクロックとか、その手のを食べたが、どうもあの手のフランスの軽食は食べた気がしない。さて、ラスコーは教科書で見て以来、憧れていた壁画で、ついに現地に行ったワケだが、結果は期待を大きく裏切るものだった。ラスコー壁画は発見されて人が多く訪れるようになってから、通気条件の劇的な変化によって劣化が進み、1963年に閉鎖。かわって本物そっくりに描かれたラスコーIIをガイドつきツアーで見学するようになっている。ガイドつきツアーでおもしろかったことはほとんどないが、ラスコーIIも例外ではなかった。長々と待たされ、ちょっとしかない見学場所(といっても壁画複製には10年かけたそうだ)を演出過剰に見せられる。自分で資料を読めばすむような話だ。それに、やはり複製は複製。よく描けているのだろうが、どうにも感動できなかった。10ユーロという見学料も高く感じた。日本の旅行会社がほとんどラスコーを見学コースに入れない理由がわかった。交通の便が悪いうえに、つまらなすぎる。ちなみに、閉鎖された時点での壁画が写真で展示されていたが、すでに発見された当初と比べると驚くほど色が落ちてしまっていて、愕然とした。ラスコー壁画はすでに失われてしまったといっても過言ではないかもしれない。日本でも高松塚古墳壁画で似たような劣化が問題になった。北朝鮮には高松塚以上に素晴しい古墳壁画が多くあるという(世界遺産の高句麗壁画古墳群)。あちらの古墳の壁画は保存状態はどうなのだろう? なんとなく気になった。
2007.08.12
某ホテルで、某国の大使館主宰のパーティに出席した。仕事がらみではなく、某国大使の個人的なご好意によって参加させていただいたものだ。パーティはまず主催者の挨拶と日本の外務省役員の挨拶で始まった。それからビュッフェスタイルの食事となり、歓談しながらの立食となった。パーティには失言で大臣の座を追われた政治家(彼の後任の女性大臣は同じ日、アメリカで「異例の厚遇」を受けていた)や、反安倍派の次期総理候補として「ちょっとだけ」名前の挙がっている政治家も来ていた。彼らはほとんど食事はせず、そこそこに引き上げていた。Mizumizuは最初から最後までいたが、パーティ終盤、思いもよらないことに遭遇した。1人でデザートを取っていると、とても背の低い、70歳は超えているだろうと思われる元気な紳士… というよりは、オッサンに話しかけられた。ふつうこうした場では、あたりさわりのない話をするだけなのだが、オッサンは変に社交的だ。話が長々と続く。ちょっと変だな、と思うこともあった。「このパーティ、何時からやってるの?」などと聞くのだ。招待状に書いてあるだろうに、もしかしたら誰かに連れられてきたのかな、と思い、「今日はどういうご関係で?」と聞いたら、あさっての方向をさし、「ん~。ちょっと仕事の付き合いでね」などと答え、すかさずこちらに「やはり貿易関係の方で?」などと質問を返してくる。彼にはとても背の高い45歳ぐらいの白髪まじりの男の連れがいて、その連れは、いかにも「仕事してます」みたいなネームプレートを胸にかけている。そして、よく食べる。口いっぱいに食べ物を詰め込んで、なにやらよくわからないことを言っている。それでも、背の低いオッサンが次から次へとしゃべりまくるので、それなりに盛り上がっていた。そこへ、大使館職員の女性が、「ちょっと…」と私を連れ出しに来た。入り口のあたりまで、連れて行かれて、「実は…」と打ち明けられたのは、「あの人たち、無銭飲食の常習犯なんだそうです」とのこと。一瞬意味がわからず、「は?」と聞きかえしてしまった。つまり、招待状もないのに入ってきて、勝手に食べているというワケらしい。ホテル側でも警戒していたようだが、気がついたときにはもう会場の中へ入っていた。入り口の大使館側のレセプションでは、なにやら変な紙切れを出し、そのスキにさっと中へ入ってしまったようなのだ。正直に、驚いた。パーティ会場はホテル内でもわかりにくい場所にある。ホテル内に開催時間が書いてあるわけでもない。スシや天ぷら、パスタやローストビーフなどもあるが、しょせんは立食のビュッフェだ。特別に美味しいわけでもない(もちろん大使館主宰だから、安いビュッフェでないことは確かだ)し、大の男がお腹いっぱいになるようなものでもないだろう。そんなモノをこっそり食べるために、ともに不惑をとっくに超えたような男(主犯?格の男にいたってはもう老人だ)が、グルになって、どこかで情報をゲットし、それなりの服を着て、知らんフリしてパーティ会場に入ってくるとは。なんとも情けなく、みっともない話だ。だが、本人(特に老人のほう)は、明らかに楽しそうだ。私が去ると、別のテーブルに移動して、高らかに笑い、大きな声で話している。無銭飲食だけが目的なのだろうか? おそらくは、違う。こうしたパーティに招待されたVIP(?)な自分、という幻想に酔っているのだ。それが証拠に、背の高い中年男のようにはガツガツと食べていない。むしろ、話相手を探しているようにも見える。そして、最後に彼らは、大使に挨拶する人になんとなくくっついて、ついでに大使と堂々と握手までして(!)、入り口でジト~ッと見つめる大使館職員に、「どうもっ! お世話になりました!」と大声で挨拶して出て行った。お付きのカメラマンが写真を撮ったようなので、今後はホテル側のチェックももっと厳しくなるだろう。変に背の高い男と背の低い老人だから、そもそもかなり目立つ。だが、都内のホテルはたくさんあり、こうしたパーティはよくあるのだろうから、彼らは食事の場(?)には困らないのだろう。ついでに有名人とちょっと会話したり握手ぐらいはして帰ることもあるのかもしれない。普通の考えたら、まったく下らないことにエネルギーを使っているとしか言いようがない。人生も終盤になって、自分以上の自分を夢見ている。そんな老人にくっついておこぼれをほおばっている。人間の寂しくも哀れな欲望をこの2人のデコボコ無銭飲食コンビに見るような気がして、なんともいえない気分になった。
2007.08.11
リモージュ焼きに興味があったので、1泊してみることにした。観光案内所で情報収集しようとしたが、ガイドブック程度の話しかしてもらえず、おまけに対応したオバチャンの態度はそれはそれは感じが悪かった。とりあえず、国立アドリアン・デュブシェ博物館へ。リモージュ焼きのコレクションで有名なのだが、わかったことは、リモージュの陶磁器はそれほど歴史が長くないということだ。その起源は18世紀。有田が17世紀初頭。100年以上の差がある。リモージュで東洋風の陶磁器のマネごとをはじめたときには、有田はすでにヨーロッパでの名声を確立し、精緻な作品を出荷していた。リモージュ焼きの歴史はそうした日本、そして中国のレベルに追いつき、追い越そうとした記録に他ならない。というわけで、「18世紀になって、やっとこの程度のものを作っていたの?」というのが一番の驚きだった。食事は旧市街で一番というレストランへ。リモージュに来たからにはリモージュ牛を食べてやれと思って、注文。言っておくが、これはアラカルトから1人分を2つに分けてもらったものだ。あまりにでっかくて、「1人分を2つに」という英語が通じなかったのかと思ったぐらい。でも、ちゃんと通じていた。数ユーロ上乗せされていたから、付け合せだけではなくビーフも多少サービスしてくれたのかもしれないが、それにしてもすごい量だ。お味は… まあ、柔らかい部分と歯ごたえのある部分のメリハリがあって、でもそれほど臭みはなく、フランス人が好みそうな味だ。骨髄はグー。日本では付いてこないものだが、ヨーロッパではやはり牛といえば骨髄付き。ちなみに、このレストランでは「スシ・ド・スモウ」という丸っこいサーモンのスシ風前菜が出て、それは素晴しかった。ドレッシング風にかけたバルサミコ酢も不思議に効いていた。フランス感覚のスシもいいな、と思った。こちらはフォアグラのテリーヌ。リモージュはフォアグラの名産地ペリグーにも近いのだ。アツアツのトーストにつけていただくテリーヌは、むしろ魚の粕漬けのようだった。この手のフォアグラのテリーヌはMizumizuは実はそれほど好みではない。でも、やはりちゃんとしたレストランで出すものはそれなりに美味しい。リモージュではibisに泊まった。街の中心部にあり、電車での移動の人には不便だが、クルマ移動の人にはオススメできる。街中を歩くのに非常に便利だった。リモージュのibisは特に、まだベッドが新品らしく、値段のわりにはとても快適な宿だった。フランス滞在中にすっかりibisのファンになってしまう。近代的なチェーンホテルだから、ヨーロッパ的な情緒は皆無だが、安いし、そのわりにはきれいだし、設備はだいたい新しいので、水やお湯の心配もない。ヨーロッパの古い、高級でないホテルだと、狭い、暗い、水やお湯がまともに出ない、なんてことはしょっちゅうだ。だからだろうか、ibisはフランスどこでも人気があり、予約なしで行ったら何度か満室だとことわられた。リモージュはラッキーだったのか、観光地としてあまり人気がないのか、どちらだろう?リモージュ焼きも買った(6/19の記事参照。アベの抹茶ロールを載せて取った写真がある)。店のマダムは必死に愛想笑いをしていた。フランス人くん、おカネを落とす旅人だけにではなく、観光案内所に来る旅人にも、同じように親切にできないものかね?まあ、昔は、お店でも「売ってやる」みたいな態度だったから、買ってくださるお客様への礼儀だけは身についてきたということで、よしとしようか。お店では若い店員は英語が通じたし(オバチャンはダメらしく、英語を話し始めると若い子を呼びに行っていた)。
2007.08.10
庭園で有名なヴィランドリー城を訪ねる。確かに見事な刈り込み方だ。だが、この手の庭園は、なぜか歩いてあまり楽しくない。植物と語らうことができない。自然の息吹や、季節の移ろいに関連した発見もほとんどない。ほこりっぽいジャリ道を歩いていると変に疲れてしまった。上から眺めているのが一番いいようだ。ロワール川の古城はたくさんあるが、全部見るのもタルいので、シャンボール(やはりこれは欠かせない)とこのヴィランドリー、それにブロワとシュノンソー(これはシャンボールの次に印象的な城だった)だけにした。トゥールではジャン・バルデで食事をしてみた。前菜はイケたが、メインは感動するほどでもなかった。ロワールの白ワインもふつう。どうも白ワインはロワールよりアルザスのほうが好みに合う気がする。まあ、頼むモノにもよるのだろう。ただ、ジャン・バルデは雰囲気はバツグン。さすがルレ・エ・シャトーのメンバー。庭も素敵だった。食後は庭を散策して楽しんだ。ロワールの城廻りを終えたあとは、ソローニュの森を延々とドライブし、ラモット・ブヴロンまで行ってみた。ここはタルト・タタン(リンゴパイを逆さにしたような焼き菓子)発祥の村なので、ちょっと興味があったのだ。タタンコンテストで1位になったこともあるというJack Lejarreは、村のメインストリートのわかりやすい場所にあった。さっそく入ってみたが、ここの売り子のマダムがまた、全然英語がダメ。タルト・タタンをホールで買うと「何日ぐらいもちますか?」と聞いたら、値段を一生懸命メモに書いて見せてくれるしまつ。トホホ… な気分で、まあせっかくだからと小さめのホールのタルト・タタンを買って、何日かかけて食べた。感想は… 「わざわざ何時間もかけて行くほどのことはなかった」。最初の一口はかなり美味しく感じたけれど、ホールで買うほどのものではなかった。最後は味も落ちてしまい、飽き飽き。やはり作りたてが一番なんだろう。それに、これならパリのストレールのリンゴのタルトのほうが洗練されておいしかった。なんだ、パリで十分じゃん(笑)。おまけにこのラモット・ブヴロンの肉屋でサラミを買ったら、めちゃくちゃ高かった。そんなに高級なサラミじゃないから、あれはロクにフランス語のできないワタシからボッたんだと思う。フランス人もわりとこの手の、いるんだな~。フランスはむしろ都会より田舎の小さな店や個人経営のレストランで、この手のセコいサギをやる気がする。というわけで、タルト・タタン発祥の村を訪ねる小旅行は、Mizumizuにとってはかなり時間の無駄だった。よく考えれば(よく考えなくても)タルト・タタンにそんなに思い入れもないのだった。アハハ。
2007.08.09
レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスに赴いたのは、フランソワ1世の誘いによるものだが、それもこれも、レオナルドが仕えていたミラノ公国のイル・モーロがフランソワ1世に戦争で負けたことによる。現在「ルーブルの至宝」「世界一の名画」と称えられるレオナルドのモナ・リザがフランスにあるもの、このときレオナルドが当時(そして今も)未完成だったこの謎の絵をもってアルプスを越えたためなのだ。その意味では、モナ・リザはフランスにとって最大の「戦利品」かもしれない。実際にロワール川の街に行ってみると、今でもそこはずいぶんな田舎だ。森と川、そして湿地。レオナルドの時代はさらにもっとずっと僻地だっただろう。フィレンツェ、ミラノ、ローマと、華やかな都市に暮らしていたレオナルドが晩年になってこんな北のさびしいところに来たときは、一体どんな気持ちだっただろう。だが、レオナルドという人は、権力者に対してたてつくことはなかった(「お金払ってください」と催促していたことはある)。政治的な活動にも情熱を注いだミケランジェロとは対照的だ。レオナルドにとって権力者とは、自分の仕事のパトロン以上の存在ではなかったようだ。あるいはそれは、望まれない子供として生まれ、10代のはじめには故郷の村から奉公に出されてしまった体験が影響しているのかもしれない。ロワール川のほとりにあるアンボワーズに居を与えられ、レオナルドはロモランタン(ローマにちなんでつけられた地名)で壮大な宮殿と運河をはりめぐらせた都市建設のプランを練る。実際にはレオナルドはフランスに来て、2年余りでこの世を去り、この途方もない都市計画も幻に終わる(ロモランタンは今でも小さな町のままだ)。ただ、レオナルドの残したロモランタン宮のためのデッサンは、シャンボール城の細部に生かされているという。屋根から張り出した窓のデザインなどは、レオナルドの影響を色濃く受けたものだとされている。若いころはミラノ公国との戦争に勝利したりと、華々しかったフランス国王・フランソワ1世だが、スペイン・ハプスブルク家のカルロス5世に神聖ローマ帝国皇帝の選挙で負けた後は、すっかり内向きになり、城づくりに情熱を注ぐ(まるで「ノイシュバンシュタイン城」のルードヴィッヒ2世のよう)。その最高傑作が、この森の中の典雅で奇抜で壮麗な城なのだ。シャンボール城にサン・ピエトロ寺院(ブラマンテ)の影響があるのはよく言われることだ。だが、Mizumizuにはこの城はレオナルドそのものように見える。この稀代の天才を「父」と慕ったフランソワ一世の並々ならぬ敬意の念、そして彼を生んだイタリア(当時イタリアという概念はなかったにしろ)文明への強い憧憬の念が、アルプスのはるか北の辺鄙な土地にとてつもない城を生んだように思えてならないのだ。文字をいれてカードを作ってみた。ここで写真を撮っていたら、添乗員に連れられた日本人観光客の集団がものすごい勢いで走っていった。時間が押しているのだろう。文句もいわずに必死に走ってついていく日本人の皆さんは、健気でもあり、多少滑稽でもあった。
2007.08.08
ソローニュの森をクルマで走る。すると忽然と姿を現わすのがフランス・ルネサンス建築の最高傑作の呼び声も高いシャンボール城だ。Europcarでレンタルした「クリオ」君。日本名ルーテシア。日本ではわりと高く売られているが、原産国ではトヨタのヴィッツより安く借りられる。ディーゼルだが、それほどエンジン音はうるさくないし、何より燃費もいい。ヨーロッパのディーゼル車はやはり日本よりずっと優れているようだ。ちなみに、前輪のハブキャップがないのはもともと。こういうの「別になくても問題ないわよ。ワタシのクルマも取れてるワ」なんて言って平気で貸すところがヨーロッパ的でよい。その分ハーツレンタカーなどより安いのだ。ド・ゴール空港のEuropcarのカウンターでは「予約がないとダメ」と断られていた人もいた。クルマの保有数がハーツなどより少ないのかもしれない。シャンボール前景。奇怪な煙突が立ち並ぶ屋根に驚く。煙突というよりむしろ、塔だ。建物自体がシンメトリックであるゆえに、塔の奇抜さはより印象的に見る者に迫ってくる。装飾も含めて、グロテスクぎりぎりの美しさだ。シャンボール城の設計にはレオナルドも関与したといわれるが、この塔を見るとなんとなく、イタリアの塔の街、サンジミニャーノを連想する。レオナルドがいたフィレンツェからサンジミニャーノは遠くない。もしかしたら、レオナルドはこの中世の摩天楼の街からシャンボール城の煙突の意匠を思いついたのではあるまいか。城に入るとまずいやおうなしに目に入る巨大な二重らせん階段。上る人と下る人がすれ違わない造りになっている。階段は城の中央の無駄ともいえる壮大な空間の中に鎮座している。城のための階段なのか、階段を見せるための城なのかわからないくらいだ。こうしたあまりに審美的な感性も、まさしくイタリア的だ(明日に続く)。
2007.08.07
ディジョンはフランスの中でも特に好きな街だ。だが、それはもしかしたら、この街がかつてはブルゴーニュ公国であり、フランス王国とライバル関係にあったという歴史も関係しているかもしれない。街並みもどことなくドイツ風だし、黄金に輝くモザイクの屋根もあまりフランス的ではない。ディジョンの街は絵になるポイントが多い。ブルゴーニュ公国の豊かな歴史を感じさせる。そして、この地は「コート・ドール(黄金の丘)」と呼ばれる穀倉地帯で、フランス屈指の美食の街でもある。有名なエスカルゴ。カシスやマスタードも名産品だ。ブッフ・ブルギニョンという郷土料理もある。もちろんボルドーと並ぶブルゴーニュワインはいうまでもない。今ではクレーム・ド・カシスもマスタードも日本のスーパーで売られていて、値段もそんなに変らない。特にここで買わなければいけないというほどでもなくなった。街でワインを買って帰ったら、楽天のが安かったなんて笑い話もある。食のレベルの高いディジョンだが、特にオススメなのが、「シャポー・ルージュ」。入り口に文字通り赤い帽子(シャポー・ルージュ)をかぶったベルボーイが発っている4つ星ホテルで、部屋もいいが、なんといってもレストランが素晴しかった。エスカルゴも上の写真はディジョンの別のレストランで撮ったオートドックスなものだが、シャポー・ルージュのエスカルゴは、他の素材とミックスして、もっと手の込んだ料理に仕上がっており、エスカルゴの歯ごたえとガーリックの上品な香りが、むしろポイントとして使われていた。シャロレ牛もカシスを使ったソースが絶品で驚かされた。うっかりカメラを忘れて写真がないのが残念。なぜか、この店、ミシュランからは無視されている。聞くところによると、日本料理の手法や材料も採り入れているそうで、日本人に合うのはそのせいかもしれない。だが、非常に人気があって、2晩ホテルに滞在したが、どちらの夜もレストランは満席(日本人はいなかった)で、ウェイターが殺気立って働いていた。唯一の心残りはラングスティーヌを食べなかったことだ。シャポー・ルージュのレストランならおそらく美味しかっただろうに。フランスのレストランではア・ラ・カルト一皿を2人分に分けてもらうということをよくやる。そうしないと量が多すぎる。これまでに嫌な顔をされたことはない。ただ、若干料金が上乗せさせる店はある。2皿に分けて、場合によっては付け合せを少し増やして2人分にするのだから当然といえば当然だろう。美味しい料理と見どころにあふれたディジョン。何度でも訪れてみたい街だ。
2007.08.06
「ブラックマドンナ」はディジョンにもいる。ロマネスク彫刻の造形に興味のある者にとっては残念なことに、ディジョンのブラックマドンナはすっぽりと衣を着せられ、飾り立てた祭壇に祭られ、顔しか見えない。顔だけでは、ただ長細く、彫り浅い原始的な風貌のマドンナとしか見えない。あまりにガッカリして自分では写真を撮らなかったので、ヒトサマの写真を借用させていただく。なんだか唇や眉のあたりに着色が見られるようだ(上の写真をクリックしてほしい。拡大される)。なんだって、こんなことをするのか。柳氏の著作に昔の写真があるが、やや斜め下からこのマドンナ像そのものを撮っており、それを見ると、このブラックマドンナも仏像のような東洋的な神秘と力強さを放つ素晴しい造形芸術だということがわかる。だが、今の西洋的な美意識では、そういったマドンナ像は祈りの対象としてはやや受け入れにくいのかもしれない。実はこのブラックマドンナは、もともとは黒くなかったということが、1960年代に判明している。研究者が洗ってみたところ、白木の肌が出てきたそうで、ロウソクの煙にいぶされて黒く変化したものだということがわかっている。現在は、長年ブラックマドンナとして人々の信仰を集めてきた伝統にのっとって、黒く塗りなおされている(だからって、顔のパーツまで着色しなくてもいいのに…)。ブラックマドンナが先住民族であるケルトの文化との関連で語られることは昨日書いたが、実は古い時代の教会の柱頭装飾の中には「グリーンマン」と総称される、半分人間で半分植物の異形の存在が多く見られ、それもケルト文化の森の精霊が姿を変えて残ったものであることがだんだんにわかってきている。これはディジョンの考古学博物館に展示されている「葉人間」。実に奇妙で不気味だ。死んだような顔はほぼ葉に覆われ、口からでろでろと蔦を吐き出している。こちらはディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂の地下聖堂(ロマネスク時代)の柱頭に彫りこまれた「蔦吐き男」。やはり、口から蔦を吐き出し、体と蔦が一体化している。二頭身の奇妙な姿は、ユーモラスですらある。こうしたグリーンマンがケルト民族の信仰の対象であった森の精霊の名残だというのだ。それを裏付けるように、ロマネスクからゴシックと、年代が新しくなり、中央ヨーロッパからケルトの記憶が消えるにつれ、グリーンマンは教会芸術から姿を消していく。ディジョンの蔦吐き男が、地上の教会ではなく、クリプトに残っているというのは象徴的だ。では、ケルトの精霊たちは完全に抹殺されてしまったのだろうか? どうもそうではないようだ。こうした異形の者たちは、やがてキリスト教の「悪魔」という概念と結びついて表現されることになる。たとえば、これはどうだろう? ディジョンのノートルダムのファサードにあるガルグイユ(異形の存在の形をした雨どい)だ。ガルグイユとはもともとはセーヌ川に棲んでいた怪物のことで、日本でいうならヤマタノオロチのイメージだ。ガルグイユはキリスト教の聖人によって、ほぼ戦わずして成敗されるが、それはあたかもキリスト教によるケルト文化の征服を象徴しているような伝説だ。このガルグイユを教会の雨どいのモチーフとしたことから、ガルグイユ=雨どいという意味が生まれた。また、年を経るにつれ、ガルグイユもさまざまな姿を与えられることになる。雨どいという、教会では脇役の装飾芸術であるがゆえに、作る者に解釈や表現の自由度が与えられていたのかもしれない。なにしろ彼らは雨どいだから、決して教会の中には入れないのだ。ボコボコとした怪物の群れは異様な存在感で迫ってくる。雨が降ると、彼らの口からいっせいに水が吐かれるのだろうか。猿のようにも、人のようにも、獣のようにも見える。だが総じて彼らは卑屈な存在だ。一神教であるキリスト教と森羅万物に神を見るアニミズムはもとより相容れるものではない。キリスト教徒にとってアニミズムとは否定すべき、原始的な迷信なのだ。だからキリスト教徒が、非征服民の文化、特に信仰の対象であるものを、ことさら卑しめて自分たちの文化に融合させていったというのは、非常に説得力のある仮説ではないか。そうした態度はたとえば日本人のアイヌ文化に対する意識にもあった。「土人」などと呼んで日本人はアイヌ人とその文化をことさらに低く野蛮なものと見てきた。アイヌを征服するために、日本はさまざまな汚い手を使った。「日本文化のルーツにアイヌ文化がある」などと言い出したのは、アイヌがとっくに自分たちの言葉を失い、日本人と同化し、民族としての自立心をもはや持ちようがないくらいまでに叩きのめされた後だ。中央ヨーロッパにおけるケルトも同じようなものだ。征服されるというのは、戦争で負けるということだ。戦争で負けるということが、負けた人々とその文化に何をもたらすのか、それは現在に至るまで変らない、普遍的な問題提起かもしれない。
2007.08.05
ランス、モンサンミッシェル、シャルトル… フランスで荘厳なカトリックの建築物のある場所は、ほとんど例外なく先住民族ケルトの聖地だ。キリスト教が広まる前、ケルト民族が信仰していた宗教はドルイド教とも呼ばれ、アニミズムの色彩が濃く、聖樹、聖石、聖水などを信仰の対象としていたらしい(当然、大地母神信仰も含まれる)。シャルトルは聖水崇拝の地だったらしく、シャルトルのノートルダム大聖堂の地下には、そうした前キリスト教文化とのつながりを示す古井戸がある。だが、今シャルトルが多くの人を惹きつけているのは、「シャルトルブルー」と呼ばれる大聖堂内のステンドグラスだ。Mizumizuが行ったときは天気が悪かったせいか、「シャルトルブルー」もイマイチくすんでいた。ステンドグラスもあちこちで見てるうちにだんだん感動がなくなってくる。こちらは「新しい(16世紀の)」黒い聖母子像。柱の聖母とも呼ばれる。シャルトルに伝わる黒い聖母信仰にしたがって顔は黒く塗られている。シャルトルの地下聖堂にはこれより古い時代(11世紀)の「黒い聖母子像」のコピーがある。こちらはツアーに参加しないと見ることはできないが、柱の聖母子像よりはるかに興味深く、謎に満ちている。何も知らずに見たら、仏像だと思うかもしれない。「聖母」と言われて今イメージするのは、イタリア・ルネッサンス絵画に見るたおやかな美女だが、明らかにそれとは違った力強さがある。通常、キリスト教では「黒」は異端の色として嫌われる。だが、中央ヨーロッパでは、その黒の肌をまとった聖母像が多く見られるのだ。「黒の肌をまとった」と書いたのは、いわゆる黒い聖母(ブラックマドンナ)には「もともと肌が黒かった」のではなく、「ロウソクの煙でいぶされて肌が黒くなった」ものもあるからだ。だが、重要なことは、もともと黒かったのであれ、いつの間にか黒くなったのであれ、通常はキリスト教において嫌われる色の肌をもつ聖母が、長い間人々の信仰の対象であり続けてきたということだ。聖母信仰とは、そもそも大地母神信仰が姿を変えたものであるという説があり、大地の色を象徴する「黒」の聖母像は、この2つの信仰のつながりを示すものではないかと言われている。こうした、日本におけるブラックマドンナについての関心は、柳宗玄・馬杉宗夫の師弟美術史研究者の功績によるところが大きい。日本人研究者が、ヨーロッパ中世のそれほど例の多くはない黒い聖母像(といってもフランスだけで200体ほどある。これは全世界で確認されている「黒い聖母」総数の半分弱だ)に注目したのは、やはりこうした像が仏像とあまりに似ているからではないかと思う。大地母神信仰は荼枳尼天(仏教の神)との関連も指摘されているから、ドルイド教の記憶をとどめるシャルトルの地下聖堂に置かれていたブラックマドンナが仏像と似ているのも、もしかしたらそのあたりに秘密があるのかもしれない。仏像とロマネスク時代の聖母像のつながり… 今後の研究が待たれる。日本から遠く離れたフランスの中世世界に仏像に似た聖母像が存在した… 実際にそれを目の当たりにすると、西洋と東洋の精神世界の壮大な流れを夢想してワクワクしてくる。
2007.08.04
パリから約400キロ。モンサンミッシェルまでドライブした。レンヌまで高速道路、それから下道で行ったのだが、延々と続く田舎道。トイレがなくて困った。小さな田舎のスーパーを見つけて入ってみたが、そこにもトイレはない。ヨーロッパはホント、その面では不自由する。ようやくモンサンミッシェルが見えてきた。北上するにしたがって天気が悪くなり、なんとも陰鬱な雰囲気。だが、周囲に何もないからこそ、モンサンミッシェルというとてつもない建築の累積が見えたときの驚きは大きい。駐車場に車を停めて島へ向かう。モンサンミッシェルはあまりに有名なので、テレビや写真では何度も見ているが、やはりナマで見ると圧巻としかいいようがない。本当にこんなモノを人間が作ったのだろうか。まさに「ラ・メルヴェイユ(驚異)」だ。島の中は完全に観光地でおみやげ物屋が並んでいる。名物のラ・メール・プラールのガレットを買うならチョコチップ入りがオススメ。ガレットとして特においしいとはいえないと思うが、それでも日本のクッキーとは比べ物にならない。日本のクッキーって、どうしてああもアブラっぽいのかな。ただ、東京にいる人なら、ラ・メール・プラールのガレット、あるいは似たガレットは、わりと簡単に入手できる。内部は質素。大きいし、複雑な作りだけれど、外から見たほどの感激はない。内部の意匠に関しては、やはりイタリアの教会のほうが洗練されているし、文化レベルの高さを感じさせる。上からの眺めも陰鬱な雰囲気。海と畑と、こじんまりとした集落が見えるだけ。島の中のホテル兼レストランで食事をしたのがだが、ムール貝のまずさに驚いた。名産地のはずなのに。やはり観光地は食事はダメということかも。
2007.08.03
パリの西ほぼ150キロ。シャンパーニュ地方のランスは大聖堂とシャンパンの街だ。街角にはシャンパンのオブジェなどを見かける。言わずと知れたノートルダム大聖堂、ゴシック建築の最高峰。まるで巨大な岩のような建物だった。パリのノートルダムがいっそ質素に思えてくる。夜ライトアップされると、無数の彫刻が軽やかなレースの装飾のよう。夜の大聖堂、お奨めだ。この大聖堂の裏にはトー宮殿があり、そこでは歴代のフランス王の戴冠式で使われた宝飾品やマントが飾られているが、こちらは入場料が案外高い。日本円で1000円ほど。為替レートによっては1000円を超えるかもしれない。フランス王朝に興味のある人以外にはあまりおもしろくないと思う。ただ、ルイ14世の戴冠式のマントの、「王家のブルー」と呼ばれる色調の鮮やかさとその量感(ホントに重そうだ)に圧倒された。だが、なんといってもランスの白眉はノートルダム大聖堂にある(しかも入るの、タダ)。直径12.5メートルもある巨大なバラ窓もすごいが、意匠としては、後陣礼拝堂にあるシャガールのステンドグラスのほうがオンリーワンの価値があると思う。深い深いブルーとほんのわずかな黄色と赤。その色彩の魔術はシャガールの絵画と共通している。そこに十字架そのものに化身した白いイエスの裸体が浮かび上がる。細く、むしろたよりない体躯が、十字架という神々しいシンボルに昇華している。ランスからパリへ。通称「シャンパーニュ街道」と呼ばれる田舎道をドライブした。このあたりはまさに「豊穣のシャンパーニュ」。日本のような観光客用の無粋な施設はない。ひたすらブドウ畑が続く。途中、立ち寄った農家でシャンパンの試飲をさせてもらった。残念ながら、あまりたいしたものはなかったが…ランスの有名レストラン「レ・クレイエール」については、7/28の記事を参照してほしい。
2007.08.02
西荻の北銀座通り(通称カレー屋通り)が青梅街道と出会うところに、AMAはある。印象的な赤い外壁が目印のネパール料理の店だ。店内に入ると独特な香りがする。スパイスに体臭が入り混じったような感じ。それだけで、なんとなくエスニックな気分になる。もちろん、ここではカレーをいただく。こじんまりとしてアットホームな雰囲気に引かれて、家族連れでやってくる人も多い。あまり辛くないのも、子供やお年寄りを連れてこれる理由だろう。店員さん曰く、「おせいんべいです」。はあ… そういわればそうだが、現地では何というのだろう。やはりインド風に「パパラ」かな? カリッとかたい。塩味が強く、ほのかに海老の風味があり、スパイスも微妙に鼻腔をくすぐる。カレーはいつも頼むバターチキン。AMAのバターチキンはかなり甘口で、5段階辛さが選べるが、「普通」でも相当甘い。辛いタマネギとピーマンの薬味がついてくるので、クリーミーで優しい味のカレーに入れて食べるとホットなアクセントになって味に変化がでる。ナンは柔らかく、甘め。ところでこの店、店内のボードに「インドカレーは作り立てが一番で、日本のように一晩ねかせることはなく…」なんて書いてある。インドカレー? ネパールじゃないの? 店員さんに聞いてみたら、「ウチはインドのスパイスを使ってます。インドカレーみたいに辛くてあぶらっぽくないから、ネパールカレーは流行ってますよ」とのこと。んん? なんか話がずれてるような…(笑)。ま、とりあえず、「インドのスパイスを使ったネパールカレー」という定義、にしておこう。「インドの」って、そんな限定できるのかなってのは微妙に引っかかるなあ… ネパールカレーといっても、あまり馴染みがなかったので、インドカレーとして始めたというのが案外正解かもしれない。夢飯から始まってAMAで終る西荻のカレー屋通り。これだけ多彩で個性的なカレー屋が充実しているエリアもめずらしいだろう。カレー好きにはたまらない。道は完全にまっすぐではなく、適当に曲っている(真っ直ぐのびていて、先がずっと見通せる道は心理的に疲れる気がする)。それにちょっと下ったり上ったり、坂になっている。でも歩行者には歩きやすいように、駅からかなり長く歩道に屋根がついている。そういったヒューマンな要素も、ここを歩いて楽しいストリートにしていると思う。住所: 東京都杉並区善福寺1-1-21電話: 03-3394-4558 定休日: なし
2007.08.01
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