12歳の梅若丸がいまわの際に
「たづね来て とはゞこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと」
母が、自分を探して尋ねて来たら、隅田川の辺で息絶えました…と教えて欲しいと詠い、梅若丸は亡くなりました。
その折、その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が里人と墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ ています。
そしてその後、わが子恋しと梅若丸の行方を探し求めた母親が隅田川のほとりにたどり着き、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは翌年、ちょうど一周忌の日のことでした。その晩、悲嘆の涙にくれる母とともに大念仏が催されているその時、一目でも会いたいという母親の願いが通じたのか墓から梅若丸の亡霊が現れます。しかしそれも束の間、再びその姿は消え去ってしまいます。
その後、塚のかたわらには庵室が営まれて母親はそこで暮らしていましたが、わが子が忘れられない母は、遂に浅茅池に身を投げてしまいます。
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