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目黒川沿いを歩いて駅からハイキングのゴールである五反田駅に向かいます。川岸に桜並木があり、花見の時期には多くの見物客で賑わのでしょうが、訪れた2月12日は花見客もいませんでした。川沿いに広場がありました。五反田ふれあい水広場(→→→こちら)です。親水広場と芝生広場があって、およそ1.8ヘクタールの広さがあるそうです。この近くにあった旅館山水荘(→→→こちら)。昭和にタイムスリップしたような和風の旅館。東京の真ん中にもこんな旅館が残っていたんですね。そして、山手線の線路の下を抜けると、東急池上線の五反田駅のホームの橋が見えてきました。どうして東急の五反田駅(→→→こちら)ってこんな高い所にあるんでしょうかね。色々な歴史的な経緯があるんでしょうね。そして五反田駅が見えてきました。ゴールの五反田駅に到着です。閑静な住宅街と商店街のある目黒から戸越、大崎そして五反田エリア。なかなか魅力的な街を散歩できた一日でした。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【了】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その16) 目黒川と五反田ふれあい水辺広場
2024年03月28日
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昨日の投稿に対して、このようなコメントをいただきました。先週 戸越銀座のコメントですが私は電柱がある時に歩きました現在街灯の支柱が立ってるところに電柱があった電柱がない代わりに少しは歩きやすくなったでしょうねってそんな思いで書いてあるんですがその内容のお返事は無視ですか?コメント省くのにもほどほどに。MoMo太郎は一応頂いた全てのコメントに対して、自分のブログの中でのみ返事を書いており、それはコメント欄の下に表示されています(この方へも通り一遍ではありますが、返事も書いております)。またコメントを頂いた人のブログのコメント欄には投稿していません。他の人のコメント欄に自分へのコメントの返信を投稿することよりも、その方が投稿された記事への感想などをコメントすることを優先したいと思うからです。MoMo太郎は大喜利の名人でもないので、いただいた全てのコメントに面白い返事や気の利いた返事を書くこともできませんので、期待されるのもほどほどにご容赦願います。m(_ _;)m大崎駅にやってきました。明治34年(1901)に開業した駅で今年で123年目になります。山手線、湘南新宿ライン、埼京線、相鉄線直通列車など、多くの路線が乗り入れており、交通の要所といえる駅です。跨線橋を歩いて駅の東側に向かいます。大崎駅のホームが下に見えました。こちらは西口にある長距離バスのターミナルです。改札口です。駅の東口に出ました。大崎地区は当初は畑が広がる地域でしたが、明電舎などの電気機器メーカーが大崎工場を創設し、工業地域として発展してきました。そして、1980年代に東京都が指定した副都心として再開発され、大崎ニューシティやゲートシティ大崎などの施設が建設されて都内でも有数のビジネスエリアになってます。目黒川(→→→こちら)です。この辺りは河口に近くなっています。河口付近では湊が開かれ、品の行き交っていた川であったことから、地名「品川」と呼ばれるようなったという説もあるそうです。目黒川を越えたあたりにも多くの高層ビルが建設されていました。東京ってそんなにビルの需要があるんですかね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その15) 大崎副都心
2024年03月27日
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閑静な住宅街の中に鳥居が見えてきました。ここが大崎鎮守の居木(いるぎ)神社です。ここを訪れたのは2024年2月12日ですが、境内の梅の木は満開でした。白梅ですね。青空に映えています。こちらは枝垂れ梅。紅梅でした。居木神社のご由緒がありました。この神社、江戸時代初期には目黒川に架かる山手通りの居木橋付近にあったのですが、川の近くにあったため風水害の被害を受けやすく、村民らによって現在の地に遷座されたそうです。御祭神は叡智と武勇の神とされる日本武尊だそうです。早速お参りさせていただきました。扁額には「大崎鎮守 居木神社」とありました。鎮守神とは、人間がある土地に人工物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、そのの土地に住む神(地主神)よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀った神様のことだそうです。だから日本武尊が御祭神なんですね。また、JA東京グループによる江戸東京野菜「居留木橋カボチャ」(→→→こちら)に関する説明がありました。京野菜というのはよく聞きますが、江戸東京にも練馬ダイコンのような伝統的な野菜があったんですね(→→→こちら)神社の石段の途中にあった居木橋遺跡の看板です。居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約六千年~五千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居跡も多数確認されているそうです。こちらの石段が居木神社の表参道なんでしょうか。石段を降りて、斜面の途中に変わった石が積まれていました。改めてみてみると溶岩のような石が積まれていて、これは富士塚だそうです。石段を降りて細い参道を歩いて、社号碑もあって、どうやらこちらが表参道なんですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その14) 大崎鎮守 居木(いるぎ)神社
2024年03月26日
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国道1号と戸越銀座商店街が交差する戸越銀座交差点です。駅からハイキングのコースでは、ここからJR大崎駅に向います。この道が国道1号です。国道一号からこの百反通りに入ります。百反通りは、東京都品川区大崎4丁目から西品川3丁目までの延長 1100mの道路の呼び名です。品川区が定める道路愛称名のひとつで、古くは「百段坂」と呼ばれる階段状の坂だったそうです。さらに百反通りから、こちらの峰原通りに入っていきます。この峰原通りも品川区が定めた道路愛称名になります。峰原とは、明治時代の谷山(ややま)村時代からこの辺一帯の地名で現在の大崎3・4丁目付近にあたるそうです。さらにこの峰原通りから分かれて芳水小学校(→→→こちら)の方に歩いて行きます。芳水小学校の「芳水」は、この小学校が明電舎(→→→こちら)創業者の重宗芳水が設立に私財を投じたことにちなむそうです。住宅街の向こうに大崎駅前の高層ビル群が見えてきました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その13) 大崎へ向かいます
2024年03月25日
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東急池上線の戸越銀座駅にやって来ました。所在地は「平塚」であることから当初は「平塚駅」になる予定でしたが、既に同名の駅が東海道本線にあったため知名度の高い「戸越」が仮駅名として選ばれた後、地元商店街からの要望で現在の「戸越銀座」と命名されたそうです。駅のすぐ横は。踏切となっていて、改札口は上下線別々になってます。こちらは蒲田方面の入口になります。戸越銀座駅のホームです。屋根が木製で意外とオシャレですね。東急の1000系電車がやって来ました。以前は車体カラー帯は赤だと思っていましたが、最近はグリーンに変わったんですかね。東急にはほとんど乗らないのでその変更に気がつきませんでした。池上線は五反田と蒲田を結ぶ路線です。むかし西島三重子(→→→こちら)というシンガーソングライターの方が歌っていた「池上線」(→→→こちら)という曲があったことを覚えている人は少ないでしょうね。戸越金座商店街、駅を越えてまだ続きます。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その12) 戸越銀座駅
2024年03月24日
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中原街道を五反田方面に歩いて、ここ荏原二丁目の交差点にやって来ました。ここが戸越銀座商店街(→→→こちら)の中原街道側の入口になります。この通りが戸越銀座商店街になります。戸越銀座商店街の路面は、こんな石畳になっています。電柱は立っていませんが、街灯は立っていて、街灯の柱には「とごしGINZAどおり」と表示されたプレートが取り付けられています。戸越銀座商栄会の旗も取り付けられていました。商店街は、東急池上線の「戸越銀座駅」を中心に全長約1.3kmにわたる関東有数の長さを誇り、商店街沿いには約400件の店舗が軒を連ねていて、メディア等からの注目度が非常に高く、下町情緒あふれる商店街として雑誌やテレビで度々取り上げられているそうです。ちなみに「戸越」と言う地名の由来のひとつに、江戸から現在の戸越を越えると、相模の国(神奈川県)に入ることから、この地が古くは「江戸越えの村」と呼ばれ、やがて「戸越」になったという説があるそうです。そんな戸越銀座商店街、全国的にも知名度が高く、近隣からの買い物客だけではなく商店街自体に遊びに来る、観光を目的とした来訪者も増えているそうです。まあ、MoMo太郎もそういう中のひとりですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その11) 戸越銀座商店街
2024年03月23日
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この賑やかな武蔵小山商店街パルムを抜けると、中原街道(→→→こちら)に出ます。中原街道を東の五反田方面に向かって歩きます。途中で中原街道はふたつに分かれています。こちらの道は旧中原街道だそうです。この中原街道は、東海道に対して、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)とを結ぶ脇街道とされ、横浜や藤沢を通る東海道に比べて、江戸 - 平塚間をほぼ直線につなぐため、最速ルートとして利用されています。また大名行列も通らないことから、庶民や商人が利用しており。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたといわれています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その10) 中原街道
2024年03月22日
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武蔵小山駅前にある武蔵小山商店街パルム(→→→こちら)です。次はこの商店街の中を歩きます。商店街の中に入るといきなり道が二又に分かれていました。こちらの道よりは、こちらの道の方が広いので、こちらに進むことにしました。丁度、この辺りが駅からハイキング「冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」のコースの中間地点です。武蔵小山商店街「パルム」は武蔵小山駅から中原街道までの、東京都内では最長の800mのアーケード街で、昭和31年(1956)の完成当時は「東洋一」と称えられ、現在でも約250店舗を有する都内でも有数の商店街で。テレビなどでも度々取り上げられています。その商店街の運営の中心となる武蔵小山商店街振興組合の事務局があるパルム会館です。このパルム会館で駅からハイキングの記念品がもらえるというので、入ってみると、時節柄ですね、ひな人形が飾られていました。そしていただいてのが、このカード。1970年頃の二代目となるアーケードの写真でした。単なるカードでクオカードでも商店街のポイントカードでもありません。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その9) 武蔵小山商店街パルム
2024年03月21日
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この門から林試の森公園を後にしました。この門の名前「水車門」と言うそうです。門からでた少し先にあるこの小屋が、水車はついていませんでしたが、水車小屋だっんですね。この近くを品川用水(→→→こちら)というかんがい用水路があったことから、それに関連した歴史を記した施設なんだろうと思います。さらに歩いて行くと、手押しポンプもあったりして、水にかんする歴史を感じたりしました。そして、東急電鉄目蒲線の武蔵小山駅にやってきました。武蔵小山駅(むさしこやまえき)と読むんですね。平成18年(2006)に地下化されています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その8) 水車門から武蔵小山駅へ
2024年03月20日
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林試の森公園(→→→こちら)の西門に到着です。こちらが西門。自転車でやって来ているのは御近所の人なんでしょうね。こんな公園が近くにあるつていいですね。林試の森公園は、林業・森林の研究機関「林業試験場」が昭和53年(1978)に筑波研究学園都市に移転した跡地を東京都が払い下げを受けて「都立林試の森公園」として平成元年(1989)に開園したもので。面積は12ha(約36,000坪)あるそうです。園内にはこのような林に囲まれた、だだただ広い広場があってのびのびとして過ごすことができたり、森林浴気分で木立の中を散策できたり、子供たちのための遊具があったりで、楽しく一日ピクニック気分で遊べそうです。最近は、こういうタイプのペットボトル専用のごみ箱が設置されていることが多いですね。下から上に向けてペットボトルを差し込んで捨てるため、紙ごみなんかは捨てにくくなっています。都立公園の歴史は、明治6年(1873)の上野恩賜公園(→→→こちら)が開園したことに始まるので、150周年ということになるんですね。冬なので水がないのですが、子供たちが水遊びできるようと作られたジャブジャブ池です。園内にある池です。公園の敷地はもともは湿地だったんでしょうね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その7) 林試の森公園
2024年03月19日
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目黒通り沿いにあるこの目立つヨーロッパ調の建物は、東京バレエ団(→→→こちら)の建物です。やはりバレエというとヨーロッパやロシアの芸術ということで、こういう雰囲気の建物に普段から住んでいないといけないのかも。ここは東急バス目黒営業所です。バス営業所を過ぎて、目黒郵便局の前の交差点を左折して26号線通り(→→→こちら)と呼んでいる戸越方面に向かう道を歩いていくと、庚申塔がありました。ここは清水庚申塔(→→→こちら)と言うそうです。やはり、江戸時代は庚申信仰が盛んだったため、こういう庚申塔や庚申塚があちらこちらに残っているそうです。ということで、庚申信仰について、少し調べてみました。60日に1度巡ってくる「庚申(かのえさる)の日」の夜に眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあったてそうです。その報告内容の罪状によっては寿命が縮まるというので、寿命が縮まらないよう、庚申の日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしたそうです。しかし、眠らないように夜にみんなで集まっていると、やっぱり楽しい懇親会となって飲んだり食べたりするようになり、この懇親会を庚申講というようになりました。そして、この庚申講を3年18回続けた記念に建立するのが庚申塔(又は庚申塚)だそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その6) 清水庚申塔
2024年03月18日
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さらに歩いて、多摩大学目黒中学校・高等学校(→→→こちら)というのを見つけました。最初は昭和12年(1937)に目黒商業女学校として発足した学校ですが、時代ともに発展してきて、平成元年(1989)に多摩大学を設立し、平成7年(1995)には多摩大学目黒中学校・目黒高等学校と校名を変更し、今では男女共学の学校になっているそうです。なかなか洒落たデザインの校舎ですね。さらに西に進んで、こちらのバス停。名称が「元競馬場前」です。ここには、今は東京都府中市にある東京競馬場へ移転しましたが、明治40年(1907)から昭和8年(1933年)まで、目黒競馬場(→→→こちら)という施設があったそうです。また、競馬は軍馬改良の為の馬匹の質の改善を目指した軍部の意向で始まったそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その5) 多摩大学目黒中学校・高等学校と元競馬場前
2024年03月17日
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さらに目黒通りを西向かって歩いて行くと、目黒寄生虫館(→→→こちら)がありました。名前の通り、「寄生虫」を専門に扱う研究博物館で、南満洲鉄道株式会社の衛生研究所に勤務していた医学博士・亀谷了(かめがい さとる)が私財を投じて昭和23年(1953)に創設した私立博物館です。国内外から収集された約300点の寄生虫の標本資料や関連資料が展示されています。私立博物ではありますが、入館料は無料です。しかし、入館料を徴収しないため来館者による寄付金とともに寄生虫に関する書籍やTシャツやキーホルダーなどのグッズの販売が収入源となっています。入館して寄生虫のホルマリン固定標本や寄生虫罹患者の写真等を見学するのは大変参考となりました。寄生虫といえば、MoMo太郎が以前住んでいた福岡県久留米市では、日本住血吸虫症という寄生虫による風土病があり恐れられていましたが、その日本住血吸虫の宿主のミヤイリガイ(宮入貝)撲滅が行われ、日本住血吸虫症を克服したそうです(→→→こちら)。下の写真は久留米市宮ノ陣と小森野の間にあるリバーサイドパークに建立されたそのミヤイリガイの供養石碑です。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その4) 目黒寄生虫館
2024年03月16日
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目黒通りと山手通りの交差点には目黒総鎮守の大鳥神社(→→→こちら)があります。折角の機会、大鳥神社にお参りさせてもらいました。この由緒によれば、景行天皇(西暦71年~130年)の時代に当地に国常立尊(日本の国開きの神様)を祀った社があり、景行天皇の皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷平定の折にこの神社に立ち寄って、平定達成と部下の目の病の治癒を祈願したそうです。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したそうです。そのため目黒区最古の神社ということになったそうです。浅草にある酉の市で有名な鷲神社(→→→こちら)、台東区鳥越の鳥越神社(→→→こちら)など都内にある「鳥」の名前がつく神社では、日本武尊が御祭神として祀られているのは、日本武尊が死後、白鳥となって飛び立ったたことに関連しているんでしょうね。そして、大阪府堺市にある大鳥神社(→→→こちら)は、その白鳥となった日本武尊が最後に舞い降りた場所であり、全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされているそうです。また、日本武尊が部下の目の病を治癒を祈願し、無事治癒したことから、盲神(めくらがみ)と呼ばれ、この「めくら」が段々と訛っていき「目黒(めぐろ)」という地名の由来になったんだそうです。境内にある大きなイチョウの木。御神木となっているそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その3) 目黒総鎮守大鳥神社
2024年03月15日
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目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)をさらに西に向かって歩くと、橋の大きな親柱が見えてきました。目黒新橋という橋です。この橋の下を流れる川が目黒川(→→→こちら)です。さらに目黒通りを西に向かって進んでいくと、山手通り(東京都道317号環状六号線)(→→→こちら)との交差点に差し掛かります。この下の道が山手通りになっています。立体交差になっていて、山手通りから目黒通りに入るには、側道を通るようになっています。まだ免許取りたての頃、MoMo太郎はこのことに気がつかず、随分、遠回りをして道に迷ったことがありました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その2) 目黒川と山手通り
2024年03月14日
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2月12日は月曜日でしたが「建国記念の日」の振替休日でした。ということでJR東日本が催行している「駅からハイキング 冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」に参加してきました。その報告です。やって来たのは、目黒駅。改札口の前では参加者の受付中。ここで今日歩くコースの地図を渡されて、目黒駅です。西口から歩き出します。目黒駅から出て、しばらく歩くと目黒区に。目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)に沿って歩きます。ここから少し下り坂になっています。この坂道は「権之助坂」坂の名は菅沼権之助(→→→こちら)に由来するそうです。この人は、元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主だったそうで、権之助が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがあるそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その1) 目黒駅からスタートです
2024年03月13日
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ダムの湖面がキラキラと光を反射しています。奥多摩湖は蛇行しながらこの山々の奥深くまで広がっています。湖面には浮橋が架かっていますね。浮橋には船が係留されています。この船は遊覧船ではなく、水道水となる奥多摩湖の水質を監視する船だと思われます。小河内ダムの堤体の上は人が歩いて対岸まで行けるようなっていました。堤体には2つの塔があります。この塔はダムの堤体の中を点検するためのエレベーターや階段があるものでしょう。ダムの竣工年月が記された銘板が堤体の柵の親柱に埋め込まれています。重力式コンクリートダムの下流側です。勾配が急ですが、重力式コンクリートダムの下流側の勾配、大抵のダムは1:0.8の勾配(垂直に1メートル上がると、水平に0.8メートル進む)になっているケースが多いです。これはダムの転倒に対する安定計算の結果です。堤高は149メートルです。大体ビルの50階から見下ろす感じです。ダム下流のダム直下には水力発電所があります。2つある塔の一つは、小河内ダムの展望塔として中に一般の人が入れるようになっています。展望塔の2階には小河内ダム周辺も含めた航空写真が床に置かれていました。3階からは小河内ダムとその貯水池が展望できます。窓ガラス越しに奥多摩湖を撮影したので反射して撮影者の手が写り込んでいます。ダム下流側の多摩川の渓谷です。この渓谷の中に奥多摩むかし道があり、そこを歩いてきました。次にダムのこちらを歩いて右岸側まで行ってみます。右岸側にの広場にこんなモニュメントがあります。ダムの工事で87名の尊い命が失われました。その慰霊碑です。ダムの上流側です。一直線に延びたダムの堤体です。こちらには、錆びた金属製の物が置かれています。こちらはダムのコンクリートを打設するのに使われたコンクリートバケットです。今は色んな工法が開発されているようですが、小河内ダムが建設された時代はダムの両岸に鉄塔を建て、その間をケーブルで結び、そのケーブルにこのコンクリートバケット吊られていて、必要な場所にコンクリートを打設する方法が一般的でした。しかし、どうやって両岸の鉄塔にケーブルを掛けたのでしょうか?ドローンにケーブルの端をつけて、対岸に飛ばしたんでしょうか。その頃からドローン使われていたんですかね。考えてみて下さい。こちらは浮橋を浮かべるために使われたドラム缶の浮具です。というわけで、歩き疲れたので、帰りはバスに乗ってJR奥多摩駅に戻りました。このバス奥多摩湖が始発バス停というのではなく、ダム上流の集落からやって来るようで、バスの座席はもう埋まっていましたから、駅まではパスの中で立って帰りました。ちょっと疲れましたが、なかなか山の緑が楽しめたハイキングでした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【了】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その20) ダムの上から
2023年05月27日
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ここまでやってきて、小河内ダムとダムによって生まれた小河内貯水池(通称「奥多摩湖」)(→→→こちら)も見学してみました。山あいに広がるエメラルドグリーンに輝く湖。しかし、普段からこの水を都民が飲んでいるわけではないようです。小河内ダムの完成当時、東京の水源は主に多摩川水系に依存していましたが、現在は都の水源の約20%となっています。 しかし、小河内ダムは東京都の独自水源として、利根川水系の渇水時や事故時には放流量を増やすなど、住民の安定給水の確保に重要な役割を果たしています(→→→こちら)。正面に見えるのが小河内ダムの堤体です。小河内ダム について簡単に諸元を記すと 所在地:東京都西多摩郡奥多摩町 河川:多摩川水系多摩川 目的:上水・発電 ダム型式: 重力式コンクリート 堤高:149m 堤頂長:353m 堤体積: 1676千m 流域面積:262.9km2 ( 全て直接流域 ) 湛水面積:425ha 総貯水容量:189100千m3 有効貯水容量:185400千m3 着手:1936年(昭和11年) 竣工:1957年(昭和32年) ダム湖名 奥多摩湖 (おくたまこ)我が国屈指の大ダムで、世界最大の水道専用ダムといわれることが多いそうです。「東京水道~企業の森(ネーミングライツ)」の取り組みが紹介されていました。ダムの水を生み出すためには、ダム流域の森林を育むこちが大切で、東京都水道局が企業と連携した森づくりとして水道水源林の一部の森林にネーミングライツを設定し、企業からの寄付をいただき、森づくりを行っているそうです。こちらは人間日時計というもので、この日時計の中心部を通るライン上に日付の目盛りがあり、その位置に立つと日時計のように時刻がわかるようになっています。日時計の周囲には、小河内ダム建設の歴史を記した説明板が展示されています。小河内ダム建設には長い道のりがあり、ダムに着手したのが1936年(昭和11年)で、途中戦争による中断をはさみ、完成したのは1957年(昭和32年)という21年間もの時間を要しています。「湖底の故郷」と刻まれた石碑がありました。揮毫は日本におけるスポーツ医学の草分けとなった医師であり、1959年(昭和34年)~1967年(昭和42年)の二期にわたり東京都知事を務めた東 龍太郎氏です。IOC委員を務め最初の東京オリンピック開催への功績も大きい方です。石碑の裏側には、歌手の東海林太郎さんが歌う「湖底の故郷」(作詞・島田磬也、作曲・鈴木武雄)という昭和12年に発表され、全国的に愛唱された歌が刻まれた歌碑となっています。ダム建設に伴い、東京都の小河内村、さらに山梨県丹波山村・小菅村を合わせ、945世帯6000人(小河内村は600世帯、3000人)ほどが移転を余儀なくされ、村を離れることの思いを歌にしたそうです。夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らすさらば湖底の わが村よまた、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々のその後を描いた石川達三氏の小説「日蔭の村」(→→→こちら)をはじめいくつかの書籍もあるようですね。こちらは、ダムの洪水吐です。最大洪水量1,500m3/sを流下させることができるようです。仮面ライダーシリーズ第1作「仮面ライダー」の第1回に登場した怪人、蜘蛛男とライダーが戦った場所であり、最近公開された映画「シン・仮面ライダー」でも、人間とクモの合成した怪人のクモオーグとライダーはこの場所で戦っています。この洪水吐のゲートの上を越えてダム本体の方に向かいます。この湖底にも、人々の営みがあったという、その重みを感じて、これからは水道水を使わせていただきます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その19) 奥多摩湖と湖底の故郷
2023年05月26日
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奥多摩むかし道を歩いていると、所々で見かけた看板です。地球の環境を守るために森林再生間伐事業をやっいたのですね。ところでここで出てくる林班とは、林野庁のホームページによると、森林の区画の単位で、都道府県が作成する地域森林計画の森林計画図において定められます。行政上の字界、尾根や川などの天然地形又は道路などの地物をもって区画して設定されています。市町村ごと(又は一定地域ごと)に一連の番号が付けられており、森林計画図でその区域を確認することができます。ということでした。奥多摩湖まで600mのところまでやって来ました。ここから先の道は舗装された道です。国道411号線、青梅街道に出ました。ここは秩父多摩国立公園なんですね。そして、ゴールの奥多摩水と緑のふれあい館(→→→こちら)に到着しました。この施設は、東京近代水道100周年と小河内ダム竣工40周年の記念事業として、 東京都水道局と奥多摩町の共同で、1998年に開館した施設です。郷土の歴史・文化、都民の水源地である奥多摩の豊かな自然や、ダムの仕組み、水の大切さなど3Dシアターやジオラマ・ビデオなどで紹介しています。しかもMoMo太郎の大好きな入館料無料なんです。水と緑ふれあい館の前にあった変わったモニュメント。2013年9月29日に行われた東京国体(スポーツ祭東京)自転車競技ロードレース本番の、前年のプレ大会(第2回東京ヒルクライムHINOHARAステージ)を記念して設置された自転車ゆりーと像というそうです。ちなみに「ゆりーと」とは、第68回国民体育大会及び第13回全国障害者スポーツ大会を応援するための「ゆりかもめ」をモチーフしたキャラクターです。また周辺には、「登々、極水源 隔谷、幾村々 崖峻、泉鳴筧 岳高 雲入軒」昭和六稔二月廿二日武州小河内宿舎即興蘇峰老人と刻まれた石碑がありました。徳富蘇峰(→→→こちら)の詩碑「登々、水源を極め 谷を隔て、幾村々 崖けわしく、泉は筧(かけひ)を鳴らし 嶽高く、雲軒に入る」というもののようです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その18) 奥多摩水と緑のふれあい館
2023年05月25日
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いよいよ奥多摩むかし道を歩く行程も大詰めで、奥多摩湖(小河内ダム)に近づいてきました。そして、奥多摩湖へ向かって、この山道に入ります。やがて木立の隙間から小河内ダム(→→→こちら)の姿が見えてきました。言うまでもないことですが、小河内ダムで堰き止められてできた貯水池が「奥多摩湖」と呼ばれています。そして、奥多摩湖まではあと2.5kmとなり、いよいよゴール間近かと思いましたが、よく考えてみれば、ダム両側の山というのはダムの高さより高くないと水が貯まらないわけですから、急な山道を登り続けないといけません。ここでギブアップも思いましたが、こんな山の中にタクシーは来てくれない。ということで歩きます。見晴らしのよいところで多摩川の下流側を撮影しましたが、本当に山深いところだと改めて思いました。山の斜面にへばりついたような未舗装で細い山道が続きます。防護柵があるので安心ですが、なければとても危険です。奥多摩むかし道は旧青梅街道だったといいますが、こんな険しい道だったんでしょうか?思うにダムができる前から旧青梅街道として人々が利用していた道は、ダムが出来て使えなくなったので、ダムの横を大きく迂回して山を越えていくようになったので、このような登山道が「奥多摩むかし道」として作られたのではないのでしょうか。そして、木立の隙間から見える小河内ダムの洪水吐です。大雨の時は洪水がここを越流していくのですね。「青目不動尊」なかなか有名なお寺があるみたいでしたが、かなり足にきていたので参拝は諦めて素通りしました。青目不動尊のあたりから見下ろした奥多摩湖です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その17) 山道続く、未舗装・道細い
2023年05月24日
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奥多摩むかし道にある川合玉堂(→→→こちら)の歌碑です。「山の上のはなれ 小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」明治36年夏奥多摩中山郷付近にて詠みし奮作を志とする 玉堂と記されていました。こちらの看板も解説文がありましたが、文字は判読できませんでした。川合玉堂は、1944年(昭和19年)にかねてより写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市御岳)に疎開し、1957年(昭和32年)、89才で他界するまで、奥多摩を離れることなく山や村などを描きつづけたそうです。小河内ダムに向かって更に歩いて行くと、また吊り橋がありました。道所橋という橋です。この橋も同時に渡れるのは2人までとなっていました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その16) 玉堂歌碑と道所橋
2023年05月22日
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昔は馬だけではなく牛も運搬の手段として使われていたそうで、牛馬の息災を祈る牛頭(ごず)観音が祭られているそうです。こちらの小さな石仏が牛頭観音です。素朴な感じがする石仏ですが、それだけに当時の人たちの祈りの気持ちが伝わってくるようです。石積みの中に目立たないように祭られている石仏がありました。むし歯地蔵尊だそうです。この目立たない石仏が、「むし歯地蔵尊」だそうです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その15) 牛頭観音とむし歯地蔵尊
2023年05月21日
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道の切羽面に説明板がありました。説明板には「縁結びの地蔵尊」とありましたが、お地蔵様の石仏、どこにも見当たりませんでした。切り立った崖にそって奥多摩むかし道は続きます。こちらにも説明板がありました。馬の水のみ場だそうです。茶店は今はありませんでした。馬の水のみ場にはまだ、清水が僅かですが、湧き出していました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その14) 縁結びの地蔵尊はなかったけど馬の水飲み場はありました
2023年05月20日
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多摩川沿いを歩く奥多摩むかし道、川に沿って渓谷があるようです。このあたりが惣岳渓谷と呼ばれるているそうです。渓谷美が木立の間からのぞき見えています。しばらく行くと大きな吊り橋があります。しだくら橋と呼ばれているみたいです。同時に渡れるのは2人までだそうです。全長は約67mだそうです。歩くとこの橋、よく揺れました。橋の上からは、「惣岳の荒」と呼ばれる渓谷美を見下ろすことができました。巨岩がゴロゴロとした荒々しい渓谷美です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その13) 惣岳渓谷としだくら橋
2023年05月19日
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駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」、中間点を過ぎていよいよ後半戦です。石柱の道標を確認してみると、右 さかい村 奥多摩駅左 惣岳渓谷 小河内温泉と刻まれていました、しかし、温泉があるとは知りませんでした。前を向いても山。振り返っても山だけの道になりました。信仰の厚い山の暮らしなのでしょうか、また鳥居がありました。惣岳の不動尊と説明板に書いてありましたが、不動尊って仏教の神様では? とすると、神社を示す鳥居は謎ですね。そんなMoMo太郎の愚問に関係なく、道端の観音像が静かに微笑んでいました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その12) 惣岳不動尊
2023年05月18日
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奥多摩むかし道を歩いています。緑に囲まれた山道を歩いていくと、また説明板を見つけました。樹齢約200年のもみじの木だそうで、「いろは楓」というそうですが、「楓」という漢字なら「いろはかえで」と読むべきでは。そこで、もみじ(紅葉)とかえで(楓)の違いについて、Microsoft BingのAIに聞いてみました。かえでともみじの違いについてお答えします。かえでともみじは、どちらもムクロジ科カエデ属の植物で、植物学上では同じ分類です。しかし、一般的には、葉の切れ込みが深いものがもみじ、切れ込みの浅いものがかえでと呼ばれます。また、名前の由来にも違いがあります。もみじは、秋に草木が赤や黄色に色づくことを意味する動詞「もみず」からきています。かえでは、葉の形がカエルの手に似ていることから「カエル手」が変化したものとされています。日本では、紅葉の代表として「イロハモミジ」「ヤマモミジ」「オオモミジ」などの品種があります1。これらは葉の大きさや形、紅葉の色などで見分けることができます。ということです。葉っぱの形で見分けてみると、切れ込みが深いので「もみじ」ですね。そして、このあたりが今回の駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」の中間地点になります。まだ、道半ばです。ここからもうひと踏ん張り、と思ったら、沿道のお宅によもぎ大福の無人販売所があったので、100円払って1個いただきました。こういう時の甘いものいいですね。MoMo太郎がお餅を食べ終えた時、3人連れのおば様方が来て、大福餅を見つけると、「500円硬貨しかないから、5個買うわ」と言って、3人で5個のよもぎ大福を買っていきました。3人で5個どうやって分けるのか気になりました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その11) 中間点でよもぎ大福
2023年05月16日
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奥多摩むかし道に沿って、また神様がおられました。耳神様というそうです。確かに穴の開いた小石が置かれていました。奥多摩の山村の人々の暮らしがうかがえる貴重な遺産ですね。そしてこの耳神様の頭上には、新たに整備された青梅街道のトンネルと、さらにその上にはかっての東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡の橋梁がありました。天高くそびえる橋脚と橋桁、ダムを造るための鉄道建設も、本体のダム並みに大変な難工事だったのではないかと思わせますね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その10) 耳神様と廃線の橋梁
2023年05月15日
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白髭神社を過ぎて、少し行くと、ちょっと変わった岩がありました。この説明板によると、「弁慶の腕ぬき岩」というそうです。ごつごつとしたこの大きな岩の下側に、なるほど、大人の腕がちょうど入るほどの穴が巨石を貫いていました。先ほどの白亜の巨岩といい、大地の不思議な力を感じる奥多摩むかし道です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その9)弁慶の腕ぬき岩
2023年05月14日
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奥多摩むかし道沿いにある白髭神社です。神社はこの石段を登ったところにあります。巨岩が信仰の対象として祭祀されているそうです。MoMo太郎の知っている向島の白鬚神社の御祭神は猿田彦大神ですが、この奥多摩の白髭神社の御祭神は「巨岩」?石段の上はこのような崖に沿った細い道。そして木立の間から巨岩と社殿が見えてきました。大きな白亜の巨岩の陰にある、ここが白髭神社です。この石碑によると、社殿は昭和56年に再建されたようです。この白亜の巨岩は、約6000万年前の三世紀石灰岩が白亜紀泥質岩の上に急角度でせりあがってできたものだそうです。つまり、逆断層ですね。この大地が動かす力が祭られている白髭神社こそパワースポットではないでしょうか。【正断層と逆断層】正断層と逆断層の違いは、地殻の変動によって生じるひずみの方向にあります。正断層は、ひずみが引っ張りになるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも低い位置に移動します。逆断層は、ひずみが圧縮になるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも高い位置に移動します。正断層と逆断層は、地震や火山活動などの自然現象に影響を与える重要な構造です。(この解説は、Microsoft Bing のAIによって作成しものです)(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その8) 大地の力が宿るパワースポット、奥多摩の白髭神社
2023年05月13日
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奥多摩むかし道からまた廃線跡が見えてきました。このあたりはちょっとした集落になっています。これも小河内線の遺構ですが、なんか今でも機関車にけん引された貨車か走っていてもおかしくはないような景色でした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その7) 天空に架かる廃線跡の鉄橋
2023年05月12日
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奥多摩むかし道には、このような石柱でできた道しるべも建てられています。槐木の地点を過ぎると、林道も兼ねているのでしょうか、このような舗装された道が続きいています。こちらの道しるべでは、奥多摩湖までまだ7.7Kmです。このまま舗装した平坦な道が続くことを願いました。と思ったら、この階段を上るのですね。階段の後はこのような舗装した道がありました。奥多摩むかし道、サイクリングで楽しんでいる人もいるんですね。初夏のこの時期、藤の花も咲いていました。しかし、藤の木って、他の自立している木に蔓を巻き付けて成長しているのですね。まるで自立せずに実家の親に居座って寄生しているパラサイトシングルみたいな植物ですね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その6) 舗装した道もありました
2023年05月11日
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旧青梅街道であった奥多摩むかし道に沿って石仏が並んでいました。随分、沢山の石仏が並んでいました。やはり、険しい旧青梅街道を往来した人たちが道中の無事を願って建立していたんでしょうか。奥多摩むかし道はハイキングコースとして整備されている面もあるのでしょう。所々にこのようなトイレと休憩スペースが設置されていました。また、このトイレの近くには祠が建てられており、小さな石仏と大きな馬頭観音像が祭られていました。花や吊し雛が供えられていて、地元の人たちの信仰を集めているようです。さらに大木があり、説明板も設置されていました。ここは、槐木(さいかちぎ)という場所で、ここにあるサイカチの大木が地名の由来となっているそうです。また、羽黒坂と桧村からの坂道を登りつめたところにありも休み場として賑わった場所だったようです。こちらが地名の由来となったサイカチの木です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その5) 石仏に込めた思い
2023年05月10日
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奥多摩むかし道、道標があるのでそれに従って歩いていけます。この日は奥多摩むかしみちセラピーウォークというイベントも開催されていたので、大きな案内看板もあってわかりやすく歩けました。この道が奥多摩むかし道。コンクリートですが舗装もしてあり歩きやすそうと思いましたが、・・・。旧青梅街道では羽黒坂と呼ばれる坂道だったそうです。昔の人たちの苦労を少し感じるウォーキングも悪くはないかと思いましたが、・・・。結構、本格的な山道になっていて、普通のスニーカーでやってきたMoMo太郎、この時点で、ちょっぴり後悔。そして、この後はもっと後悔、リタイアも考えることになりました。途中にあった立ち入り禁止のバリケード。奥多摩工業が設置したものです。草に隠れていましたが、よく見ると、線路の跡が、これも奥多摩工業が管理している東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡ですね。さらに山道の木立に隠れてわかりにくいですが、廃線跡の橋梁とトンネルがあるのが見えました。トンネル後の坑口の真上から廃線跡を撮影しました。現在も東京都民の水道水源として重要な役割を担っている小河内ダムの建設用資材輸送用に東京都水道局が敷設・管理した小河内線。1952年(昭和27年)に開通し、1957年(昭和32年)までのわずか5年ばかり利用された仮設備のようなものだと思っていましたが、遺構としてかなりしっかりと残っているんですね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その4)羽黒坂と廃線跡のトンネル
2023年05月09日
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このあたりは交番(派出所)ではなく駐在所なんですね。二階建てになっているので、警察官やその家族の人が住んでいるんでしょうね。寺島進さんのような駐在刑事(→→→こちら)の方もいるのかな。日原街道入口の交差点に戻ってきました。ここからこちらの道、青梅街道に沿って歩いて行くのかと思ったところ、こちらの大きな木製の看板に示されている奥多摩むかし道(→→→こちら)を歩いてゆきます。「奥多摩むかし道」は旧青梅街道にあたり奥多摩町氷川地区から小河内地区を結んでいます。今の青梅街道ができて車での移動が楽になる以前の山村の生活道を歩いてみます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その3)奥多摩むかし道
2023年05月08日
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5月2日に行った駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」の報告です。こちらが奥多摩駅です。山小屋を思わせる意匠のオシャレな駅舎です。撮影している時は気が付かなかったのですが、ちょっと愛用のCanon-SX720HSのレンズが汚れていてようで、これから時々お見苦しい写真が出てきますがご容赦願います 。駅から北に向かって歩いていくとあったこの建物。奥多摩町役場でした。さらに進むと、工場が見えてきました。こちらは奥多摩工業という会社の石灰石の選鉱、生石灰の製造・出荷、石灰石系砕石の製造・出荷を行っている工場です。かってはここで採掘された石灰岩が青梅線を経由して川崎などにあるセメント工場へ貨物輸送されていたそうです。多摩川の支流、氷川にかかるこの橋を渡ります。橋の上から新緑の山々が、このあたりは氷川国際ます釣り場として利用されています。橋を渡って行くと、この日原街道がありました。なるほど、この道を行くと日原鍾乳洞に行けるのですね。だから石灰岩の工場があるんですね。さて、この駅からハイキングのタイトルが「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」ですから、廃線跡を見るのがこのハイキングの目的ですから、廃線跡のアーチ橋が見える場所がコースに入っています。これは小河内ダムの建設用資材輸送用に東京都水道局が敷設・管理した貨物線した、東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡です。ダム竣工後は西武鉄道へ譲渡され、さらに奥多摩工業へ譲渡され、現在は「水根貨物線」として遺構が残っているそうです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その2)東京都水道局小河内線の廃線跡
2023年05月07日
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ゴールデンウィーク、真っただ中の5月2日、JR東日本が主催する駅からハイキングの「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」に参加してきた報告です。新宿から青梅行快速に乗って1時間余りでここ青梅駅に到着しました。青梅線青梅駅から奥多摩駅間は、東京アドベンチャーラインの愛称がつけられています。この奥多摩行きの各駅停車に乗りこみました。奥多摩行きは一時間に一本くらいしか運行されていないので青梅駅で30分くらい発車まで待ちました。ヘッドマークにも「東京アドベンチャーライン」。青梅・奥多摩間の18.7キロの間を45分掛けて、終着駅の奥多摩駅に到着しました。ホームには本格的な登山をする姿の人でいっぱいでした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その1)奥多摩にやって来ました
2023年05月06日
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JR中央線が高架橋に突き当り、国立駅の方へ向かいました。ゴールとなっていたJR国立(くにたち)駅に到着しました。国立という駅名は、国立一橋大学があったから、東横線の学芸大前と同じノリで国立という駅名にしたのかと思っていましたが、どうやら中央線の国分寺駅と立川駅の間に駅を設置するため両駅の頭文字をとって「国立駅」と命名されたそうですね。だから「こくりつ」とは読まずに「くにたち」だったんですね。駅の南側にある建物、丁度訪れた2022年11月19日は一橋大学の学園祭が行われていたようで、「一橋祭」という幟や幕が飾られていました。この三角屋根の木像の建物は、国立駅の旧駅舎で、平成15年(2003)から始まった中央線の高架化工事に併せて解体撤去されるところを、国立市が撤去されることを惜しんで解体し新たに駅前に復元して建てたのだそうです(→→→こちら)。【追補:もう一つの東京都の中心(重心)について】1月22日のブログで紹介した東京都の中心(重心)についてですが、紹介したのは、「東京都全体(島しょ部は除く)を平面と仮定した場合、ある一点でうまくバランスがとれる位置、つまり「東京都の中心(重心)」が国分寺市富士本3丁目になる」でしたが、もう一つ別の重心もあります。それが人口重心です。人口重心しは人口の一人一人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が、全体として平衡を保つことのできる点をいいます(→→→こちら)。その最新のデータとして令和2年国勢調査に基づく人口重心が令和5年1月17日に総務省から公表されていて、それによると東京都の人口重心は 杉並区松ノ木一丁目にあるそうです(→→→こちら)。(秋の国分寺のコースです)【了】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その12) 旧国立駅舎
2023年01月24日
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東京の中心から住宅街の中を抜けて、国立駅方面に向かって歩くと、広い敷地を持った建物が見えてきました。公益財団法人鉄道総合技術研究所(→→→こちら)という施設です。文字通り、鉄道技術の研究・開発を行う日本の公益財団法人で、国鉄の鉄道技術研究所(鉄道技術に関する研究機関、新幹線開発やリニアモーターカーの研究などを行っていた)と鉄道労働科学研究所(人間工学・心理学・精神医学的見地から職員の労働管理を行う研究をしていた)等の業務を継承する法人として昭和61年(1986)設立された組織です。その鉄道総合技術研究所の前に展示されている新幹線の車両。これが新幹線資料館(→→→こちら)です。中に入れるようになっていますので、早速入ってみました。運転台の中にも入ることができます。運転席に座ってみてしばし、新幹線の運転手になった気分を味わいました。正直言うと、窓は広くなく視界は狭いです。展示されている車両の紹介です。この新幹線は、951形という名称で、昭和44年(1969年)に製造された2両編成の試験車両です。この車両は、昭和44年(1969)に製造され、昭和47年(1972)に開通前の山陽新幹線西明石から姫路間で時速286キロの当時世界最高記録をだした記念すべき車両ということです。その後、昭和49年(1974)に廃車となり、鉄道技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)に引き取られ、1両(951-2)は試験に使用された後、解体となり、残りのもう1両(951-1)が展示され、平成3年に現在の公益財団法人鉄道総合技術研究所から国分寺市に無償譲渡されたそうです。車内の様子です。座席は今の新幹線とは違って背もたれが分割になっていませんしリクライニングもしなかったのですが、後ろにあるグリーン車のシートはリクライニングできました。今の新幹線は普通車でもリクライニングできますが、倒す時、「倒してもいいですか?」と気を使って声をかけて下さる方がいて恐縮します。マックスまでリクライニングされるとちょっと圧迫感ありますが、MoMo太郎はいつもちょっと傾けるだけなので、後ろの人に声を掛けたことがありません。新幹線資料室の隣に建つビルです。国分寺市ひかりプラザ(→→→こちら)という施設です。教育関係の施設のようですね。「ひかり」というのは、ここが国分寺市光町という町名だからだそうです。この地域は、以前は大部分が大字平兵衛新田と呼ばれていましたが、昭和41年の「町名整理」および「地番整理」の実施によりそういう地名にしたそうです。これは、鉄道技術研究所で東海道新幹線の開発研究を行っていたことから、新幹線「ひかり号」にあやかり、「光町」と名づけられたそうです。確かに、ちょっとハイクラスな住宅街のこのあたりが「平左衛門新田」という町名だと、ちょっと引くかな。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その11) 新幹線資料館
2023年01月23日
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国分寺市の住宅街にあるこの小さな公園「富士本90度公園」というそうです。なんか変な名前ですが、その由来はわかりません。災害時の給水用の井戸があります。これがその井戸です。それ以外は何の特徴もない公園ですが、公園の入口に「東京都の中心(重心)」と記した看板が設置されていました。日本数学検定協会が認定し、2005年の「数学の日」(3月14日)にこの看板が設置されたそうです。東京都全体(島しょ部は除く)を平面と仮定した場合、ある一点でうまくバランスがとれる位置、つまり「東京都の中心(重心)」がこの公園のある国分寺市富士本3丁目であるそうです。これらの家屋が、東京の中心に住んでいる人達の住宅なんですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その10) 国分寺は東京の中心です
2023年01月22日
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国分寺市を歩くとよく目につきました。電柱に備え付けられた、防犯カメラ。勿論、どこの街にも設置されているんでしょうけど、特に国分寺では目につきました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その9) 町の治安を守ります
2023年01月21日
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玉川上水から離れ南側の五日市街道に向かって歩いていきます。再び国分寺市のエリアに戻ってくると広々とした農地が広がっていました。こちらは農地と言うより庭木みたいなものを育てているのでしょうか。こちらはビニールでトンネルを作り、野菜を栽培しているのでしょうか。国分寺市にはまだ農業が残っているのには驚きました。野菜の無人販売所もありまた。この細長い土地は、砂川分水(→→→こちら)の用水路の跡だと思われます。砂川分水は、砂川用水とも呼ばれ、国分寺市付近では、五日市街道を挟んで南北に別れていますが、北側水路はほとんど空堀の状態となっているそうです。五日市街道を越えて、国分寺市立並木公民館の辺りに来るとこんな説明板がありました。、看板には、以下のようなことが記されていました。砂川用水(野中新田分水)の由来この水路は、八代将徳川吉宗の治世の享保14年(1729年)、新田開発が進みつつあった野中新田六左衛門組と榎戸新田(現在の北町・並木町など)の飲み水に利用するため、「野中新田分水」として玉川上水から分水してつくられました。この分水から飲み水を確保できるようになったことから、農民(新田開発者)の入植が進み、五日市街道に沿って新田開発が更に進むようになりました。その後、明治になって玉川上水に船を通すため分水口の統合が行われ、「野中新田分水」をはじめ九つの分水が「砂川村分水」(明暦3年、1657年開通)に統合され、「砂川用水」と呼ばれるようになりました。現在、「砂川用水」は、玉川上水にかかる松中橋(立川市と昭島市境)のたもとに分水口があり、羽村堰で多摩川から取入れられた水が流れる玉川上水より分水しています。国分寺市内では、立川市境で五日市街道をはさみ南北二本の水路に分かれて西から東に流れ、小平市境で再び一本の水路となります。南側水路は延長約2000メートル、北側水路は延長約1600メートルあり、多くが掘割として残っていますが、水量が少なく、北側水路は空堀となっており、この南側水路でしか用水の流れを見ることができなくなっています。このあたり、砂川用水の水路を中心に親水公園として整備されていました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その8) 都市農業と砂川用水
2023年01月20日
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小平市ふれあい下水道館のすぐぞにあるのは、この水路、「玉川上水」(→→→こちら)です。玉川上水とは、玉川上水は、羽村取水堰で多摩川の水を取り入れ、新宿区四谷にあった四谷大木戸まで全長約43キロにわたって掘られた、素掘りの水路のことです。この先は地下に埋められた石樋や木樋により、江戸城や武家、町家にも配水され、主に飲み水に利用されていたそうです。江戸の町の飲み水確保のため、玉川上水以外にも5つの上水が建設され、これを江戸の六上水(→→→こちら)といったそうです。江戸の六上水とは、次の6つの上水のことです。神田上水:神田川の水を今の椿山荘の近くにある江戸川公園付近にあった関口大洗堰で取水し、後楽園、水道橋を経て日本橋あたりまで給水していた上水です。玉川上水:羽村取水堰で多摩川の水を取り入れ、武蔵野台地を東流し、江戸市中に給水されていた上水です。本所上水(亀有上水):現在の埼玉県越谷市付近の古利根川から取水し、亀有、四ツ木、そして今の東京スカイツリー周辺を通り、隅田川東岸の本所・深川へ給水されていた上水、後に曳舟川となった。青山上水:玉川上水の四谷大木戸から分水し、青山・赤坂・麻布・六本木から飯倉を経て芝方面まで給水した上水です。三田上水(三田用水):今の世田谷区北沢で、玉川上水から分水され、渋谷区を通り、恵比寿、目黒区目黒付近等を流れ、三田方面へ給水されてた上水です。千川上水:玉川上水を境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)で分水し江戸城の城北地域へ給水していた上水です。これら六上水のうち、玉川上水の一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設としては村堰から東村山浄水場への送水に活用されていますが、他の上水は廃止されています。また、玉川上水は沿岸の各村々へも分水が認められました。上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超えました。羽村で取水された水量の約半分は途中の村々に分水として流されて、飲み水や田用水として沿岸の村々や多くの新田開発などにも使われていたそうです。恋ヶ窪村分水もそのひとつになります西武拝島線の玉川上水駅近くにある東京都水道局小平監視所から下流に水は流されていませんが、昭和61年(1986)東京都の「清流復活」事業が実施され、小平監視所から杉並区の浅間橋の区間に下水処理水ではありますが水が流されています。また小平市の玉川上水沿いには玉川上水緑道が整備され。この緑道から間近に玉川上水の水路を見ることができます。玉川上水緑道に咲いていたキバナコスモスです。西武国分寺線を越えてさらに東に向かいます。この踏切の付近が今回の駅からハイキング「水の歴史と実りの大地を廻る、秋の国分寺ネイチャーウォーキング」の中間地点になります。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その7) 下水の次は上水を勉強します
2023年01月19日
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小平市に入ってしばらく歩くと大きな円形の変わった建物が見えてきました。小平市ふれあい下水道館(→→→こちら)という施設です。日本で、唯一、誰でも自由に本物の下水道管の中に入れる。しかも、MoMo太郎の大好きな「入館無料」。これは見学するしかないですね。中に入ると、ちょっと何をイメージしているのかよくわからないモニュメントが。台座にある銘板を読むと小平市の公共下水道は昭和45年度に着工し、幾多の難工事に遭遇したが、多くの工事関係者の懸命な努力により平成2年度についに完成した。ここに工事関係者に感謝し、工事中に不慮の事故により亡くなられた方々のご冥福を祈り、長く後世に伝える記念碑とする。 平成7年10月吉日と記されていました。昭和45年から平成2年までというと、20年の長い歳月を掛けた大事業だったんですね。こちらに展示されているのは「礫泥水加圧セミシールド掘進機」の模型です。解説によると、長い溝を掘ることなく、立坑という、この機械を入れる穴だけを掘り、地中をこの機械で掘り進んでいくという機械だそうです。館内に入ると、トイレの中で新聞を読んでいる模型がありました。当然トイレで排泄したものは下水道に流れて込んでいくのですね。建物の中は地下五階まであり、階段を使って降りて行きながら、途中の階で下水道の役割や仕組み、歴史などを分かりやすく映像システムやパネルで展示しています。階段の中央には、土壌モノリスという、地面に穴を掘るなどして現れた断面を、そのままの姿で固定した標本が展示されていました。そして地下五階からはこの下水道の中に入って見学することができます。写真ではお伝え出来ませんが、水が流れる音と強いニオイがします。しかし、私たちの生活には欠かせない下水道、よく勉強しておくべきだと思いました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その6) 下水道について勉強しました
2023年01月18日
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厳島大弁財天から更に府中街道を北に歩くと、大きな公園がありました。窪東(くぼひがし)公園(→→→こちら)という公園でした。国分寺市のホームページによると、窪東公園は、水と緑と芝生大広場と大型カラフル複合遊具の公園として、市民に親しまれています。広い園内には、すべり台・鉄棒・水遊びの川・ベンチ・トイレ・あずま屋休憩所などが設置されており、子ども連れにも人気のスポットです。ということでした。確かに、広い芝生広場がありました。公園を出てさらに北に歩くと小平市に入ります。小平市、MoMo太郎がこれまで足を踏み入れたことはない街です。何があるのでしょうか、楽しみです。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その5) 窪東公園
2023年01月17日
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府中街道(→→→こちら)は、JR・川崎駅付近と西武・所沢駅付近を結ぶ道路の通称ですが、東京都府中市はかつて武蔵国の国府が置かれていたところで、そこに行く街道だったので府中街道と呼ばれているのですが、鎌倉幕府が開かれると、各地の武将と鎌倉を結ぶ政治・軍事上の道「鎌倉道」が生まれ、府中街道の一部分もその役目を果たしていました。その歴史ある府中街道を北に進むと、「JA東京むさし国分寺ファーマーズマーケット」(→→→こちら)という、地元の農産物を直売する施設があります。こういうところで野菜なんかを買うのもいいですね。その近くにあったこの小さな祠は「厳島大弁財天」(→→→こちら)です。実はこの場所は、明暦3年(1657)に玉川上水から国分寺村へ水を通すために造られた用水路である国分寺村分水と貫井村方面へ通された貫井村分水の分岐点であり、更に付近には国分寺村分水と恋ヶ窪村分水の分岐点もあったそうです。そんな水の要所となっていたようなことから、このような石碑も境内に建立されているんでしょうか。ここで地図を確認してみると、丁度このあたりJR武蔵野線があるはずですが、線路らしきものが見えませんでした。調べてみると、この武蔵野線、西国分寺駅を出ると、西武国分寺線との交差地点から次の新小平駅までトンネルなんですね。武蔵野線一度全線乗ってみたくなりました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その4) 厳島大弁財天
2023年01月16日
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西武国分寺線を走る西武鉄道の車両です。国分寺線は、今では、中央線の国分寺駅から西武新宿線の東村山駅までを結ぶ支線ですが、元々は西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、明治27年(1894)に川越鉄道が敷設した国分寺駅と川越駅(現在の本川越駅)を結ぶ本線でした。この川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されていたそうです。しかし、昭和2年(1927)に東村山駅 - 高田馬場駅間の村山線(現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となったそうです。国分寺線を横切る府中街道の踏切を越えて、脇道に入ったところにある「仲よしばし」です。橋といっても、下は川ではなく草花が植えられた細長い土地となっていて、ここも恋ヶ窪村分水の水路跡になるようてす。この水路跡を北に辿ると、小さな公園になっていました。「東恋ヶ窪ライオン公園」とありますが、ライオンの形をした遊具もないのに「ライオン」とつけた理由がわかりませんでした。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その3) 西武国分寺線
2023年01月15日
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姿見の池から北へ向かって住宅街の中を歩いて行くと、こんもりと茂った緑地がありました。国分寺市重要史跡「恋ヶ窪村分水」(→→→こちら)という説明板がありました。恋ヶ窪村分水は、玉川上水の分水で明暦3年(1657)に国分寺村・恋ヶ窪村、貫井村(今の小金井市)の3つの村が幕府に願い出て開削した。玉川上水の分水にしては規模が大きく、緑地内の堀の幅は上端部で約6~9m、堀底で約50センチメートル、深さは約5mで、堀底は北から南に向かって低く傾斜しています。恋ヶ窪村分水は水田の灌漑用水として1970年代まで利用されてきました。現在は、大部分は暗渠となり姿を消しましたが、この恋ヶ窪用水路周辺緑地内に空堀の状態で保存されているそうです。左手の柵の向こう側が水路の跡になっています。これが空堀の状態で保存されている恋ヶ窪村分水の水路の跡です。江戸時代には、こうやって水を確保して地域の農業を盛んにし、江戸に住む人達の食を支えていたんですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その2) 恋ヶ窪村分水
2023年01月14日
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去年の11月19日の駅からハイキング「水の歴史と実りの大地を廻る、秋の国分寺ネイチャーウォーキング」の報告です。出発点の国分寺駅北口から出て少し行くと、元WBA・WBC世界ジュニアミドル級(現在はスーパーウェルター級)王者でカエル跳びパンチが代名詞の輪島功一さんが経営するだんご屋さんがありました。JR中央線と西武国分寺線が並行して走っている線路沿いを歩きます。右手のフェンスの向こうは日立製作所中央研究所です。西武国分寺線のガード下を潜ってさらに東に進むと、遊歩道があり、また遊歩道沿いには、小川が流れていました。そして「姿見の池」(→→→こちら)と呼ばれる池に出ました。姿見の池は、かつては付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えて、野川最上流の水源にもなっていたそうです。現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われるのが、鎌倉幕府成立に活躍した武将・畠山重忠に関するものです。重忠が宿場町・国分寺の傾城(遊女)、夙妻太夫(あさづまたゆう)を気に入り、恋仲になった。しかし、重忠は、平家追討のため西国に旅立ち、夙妻に横恋慕する男が重忠のことを諦めさせるため、重忠が討ち死にしたと嘘をついたところ、悲しんだ夙妻は、この姿見の池に身投げした。という伝説があります。考えてみれば、遊女、つまり今でいう風俗で働く女性って、かなり昔からの伝統ある職業婦人なんですね。こちらは国指定史跡「東山道武蔵路跡」(→→→こちら)の説明板です。これによると、恋ヶ窪谷低地は、古代も湿地が広がる地域だったのですが。恋ヶ窪地区では、東山道武蔵路を直線でつくるために敷粗朶工法と呼ばれる葦の茎や枝葉を敷いて地盤の滑りを防止し、さらに土を交互に重ねて基盤強化した痕跡が見つかっているるということでした。看板には畠山重忠と夙妻太夫のイラストによる解説もありました。このような伝承に彩られた姿見の池ですが、昭和40年代に埋め立てられました。しかし、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージて整備したたそうです。また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林等と一体になるよう整備されたそうです。かつての武蔵野の里山風景を見ることができようになっています。一度は埋め立てた池なのに、再び整備されるとは複雑な感じがしますが、自然に親しめるように整備されたのは、いいことですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その1) 姿見の池
2023年01月13日
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また、秋川を渡ります。渓谷を流れる滝のような秋川の流れです。秋川に架かるこの吊り橋が石舟橋です。この橋を渡ります。全長96mの吊り橋です。橋の上からは、渓谷美と紅葉が楽しめます。落差があり激しい流れとなっています。石舟橋を渡ると「秋川渓谷瀬音の湯」(→→→こちら)という温泉施設があります。ハイキングはここで終わり、このバス停から武蔵五日市駅に戻りました。帰りは、拝島駅で、西武線に乗りかえて、家に帰りました。(秋川渓谷のコースです)【了】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その7) 石舟橋
2023年01月11日
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かなり紅葉が進んだ秋川渓谷をまた渡って、道端にあったお地蔵さん。せせらぎ通りと名前のある道を山に向かって歩いて行きました。山の中のせせらぎ通りから見下ろす秋川の流れ。途中にあったお宅の門に飾られた鹿の骨。ちょっとビックリ!。こちらの蔵造り建物は、「一穂のコンニャク池谷」(→→→こちら)といって結構、有名店のようです。コンニャクには多くの水が含まれているので、清流秋川の水が豊富なこの土地ならでは名産かもしれませんね。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その6) 山道を歩きます
2023年01月10日
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