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國學院高校の向かい側には明治神宮野球場があります。大正15年(1926年)に開場以来、東京六大学野球や東都大学野球1部リーグの試合が開催されるほか、高校野球都大会など主要な野球大会の会場となり、また東京ヤクルトスワローズの本拠地でもあります。野球と言えば、今シーズンは、ほとんど毎日、メジャー・リーグのロスサンゼルス・ドジャーズ(Los Angeles Dodgers)の大谷翔平選手の活躍が報道されていましたね。そのニュースを写るユニフォームの"Dodgers"の文字を見て、思ったのは、"Dodge"する人というのが、Dodgersの由来とすれば、本当はドジャーズって、ドッジボール(Dodgeball)をする球団で、むかし、アメリカではドッジボールの人気が高く、ドッジボールをするチームとして発足したところ、そのドッジボール人気が無くなって、野球をするようになったのではないかと想像してしまいました。そしてドッジボール、ワールドカップも開催されている(→→→こちら)、ちゃんとしたスポーツらしいです。そのうち、オリンピックに採用されるかな?そして、こちらは明治神宮外苑スケートリンク(→→→こちら)です。60m×30mの広さのスケートリンクがあり、世界大会も開催できるスケートリンクがあり、フィギュアスケートのレッスンなども受けられるそうです。そして、こちらの歩行者専用の跨線橋兼跨道橋を渡ります。向うに見える建物は慶応大学附属病院です。まず、跨道橋の部分です。下は首都高速4号新宿線です。次はJR中央線を渡る跨線橋の部分になります。そして、この橋の名称は無名橋というみたいです。橋の名称そのものが「無名」なのか、それとも橋の名称が無いということなのか、ちょっと不思議な感じです。そして、こちらのJR信濃町にやって来ました。参加している「駅からハイキング~開業120周年の駅から鉄道発祥の地へ仲秋のお散歩コース~」の予定では、ここから神宮外苑のいちょえ並木を抜け、乃木坂、六本木と進んで愛宕神社を抜けて、鉄道発祥の地、新橋へ行くのですが、暦の上では仲秋なのかもしれのませんが、残暑が厳しかった9月14日。余りの暑さで、疲れ果ててしまい、軽い熱中症ではないかと思い、信濃町駅の駅ビルのアトレ信濃町に入って、しばらく休んでいましたが、続きは後日、秋らしい気候になった時に歩くことにして、結局ここでリタイアして、家に帰りました。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【了】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その7) 明治神宮野球場と無名橋
2024年10月09日
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国立競技場の南側に隣接して整備された都立明治公園((→→→こちら)です。100年の杜を目指して約650本の樹木が植えられた「誇りの杜」のほか3つの広場や店舗があります。こちらの芝生の広場は「希望の広場」というそうです。この日は、「希望の広場」でイベントがあるようで、ステージが設置され撮影スタッフいたので、有名人がやってくるイベントがあったようです。都立明治公園の東隣には、JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)という日本スポーツ協会 (JSPO)・日本オリンピック委員会 (JOC) の本部ビルがあり。オリンピックの五輪マークが設置されています。そして、JAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREの1・2階には、日本オリンピック委員会が運営する日本のオリンピック専門の博物館、日本オリンピック・ミュージアム(→→→こちら)があります。さらに南の青山通りの方に向かって行くと、國學院高等学校(→→→こちら)があります。卒業生には「月面宙返り(ムーンサルト)」を編み出した体操の塚原光男氏(→→→こちら)、度重なる違法薬物使用逮捕で有名な女子体操の岡崎聡子氏(→→→こちら)をはじめ、さだまさし氏、十三代目 市川 團十郎 白猿の亡くなった夫人の小林麻央氏などの多彩な人材がおられます。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その6) 都立明治公園と日本オリンピック・ミュージアム
2024年10月08日
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東京体育館のの中を抜けていくと、見えてきました。国立競技場(→→→こちら)2020年東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場として使われることを念頭に、オリンピックスタジアム(英: Olympic Stadium)の名称で、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧・国立競技場)を建て替えて建設された競技場ですね。外苑門と呼んでいる。南側の入り公地付近にある「国立競技場」の看板。こうやって正面から見るよりも。ちょっと斜めから見た方が、文字がハッキリみえるような気がします。その近くにある、アスリートの銅像、やり投げ、短距離走、走り幅跳びの様子ですね。やり投げといえば、陸上女子フィールド種目における日本人唯一のメダル獲得者の北口榛花さん(→→→こちら)。あの、寝そべって、カステラを食べている姿を、MoMo太郎の祖母が見たら。「なんとお行儀が悪い」と言って、お尻ペンぺンされるところですね。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その5) 国立競技場
2024年10月07日
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鳩森八幡神社から再び千駄ヶ谷駅の方に戻ってくると、新しいビルがありました。こちらが、新しく出来た将棋会館(→→→こちら)なんですね。この会館から、藤井聡太九段を越えるような逸材が育っていくのでしょうかね。そして、この新将棋会館の向かいにあるのが、東京体育館(→→→こちら)です。こちらのメインアリーナの他、プールや陸上競技場も併設され、各種のスポーツ大会が開催されています。訪れた9月14日も大会が開催されているようで、広場でウォームアップしている少女たちがいました。新体操の大会が開催されていたんですね。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その4) 新将棋会館と東京体育館
2024年10月06日
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将棋会館の近くにある鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)(→→→こちら)です。何度かMoMo太郎のブログでも紹介させてもらってます。 2016年08月09日 山の日関連企画、富士登山(その1)(→→→こちら) 2019年01月04日 お正月は冨士登山?(→→→こちら) 2021年02月10日 東京横断(その12) 千駄ヶ谷の富士塚(→→→こちら)があります。折角、来たのでお参りさせていだだきます。この神社を「鳩森」というのは、神社のホームページの「鳩森八幡神社縁起」によると、大昔、この場所の林の深くに瑞ずい雲うん(めでたいことの前兆ぜんちょうとして現れる雲)がたびたび現れていました。ある日,青空から雲がおりてきたので、不思議に思った村民が林の中に入ると、突然たくさんの白い鳩が西に向かって飛び去っていきました。この霊れい瑞ずい(不思議でめでたい現象)から、神様の宿る小さな祠ほこらを建て,鳩森「はとのもり」と名付けましたということのようです。そして、鳩森八幡神社では、こちらの、東京都の有形民俗文化財に指定されている「千駄ヶ谷の富士塚」(→→→こちら)です。寛政元年(1789年)築造とされる富士塚だそうです。こちらが正面登山口からみた富士塚の全景です。また、毎年例年9月第2土曜日と日曜日の2日間は神社の例大祭となっていて、MoMo太郎が訪れた9月14日は、丁度、例大祭の日でした。 露店なんかも準備されているようで、賑やかなお祭りのようですね。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その3) 鳩森八幡神社
2024年10月05日
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今回の投稿で7001件目となりました、気分一新、これからもこの拙いブログ続けていきますので、お付き合いくださいますよう。よろしくお願いします。住宅街の中を歩いて行くと、マンションではない建物がありました。有名な出版社の幻冬舎(→→→こちら)があるんですね。こちらの建物も、幻冬舎ですね。ビルをたくさん持っているって、かなり儲かっているんでしょうね。ちなみに、MoMo太郎の作品を出版する予定はないそうです。幻冬舎のところを左折して、歩いて行くと庚申塚のお社がありました。千駄ヶ谷の街、古くから歴史のある街だったんでしょうね。そして、この庚申塚の近くにこちらの建物があります。日本将棋連盟の本部のある将棋の総本山、「将棋会館」(→→→こちら)です。最近、新しい将棋会館(→→→こちら)ができたそうなので、こちらもいずれは別の施設になるんでしょうね。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その2) 幻冬舎と将棋会館
2024年10月04日
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まだ半袖の夏服で登校している学生さんも多い東京です。夏の余韻長く続きますね。さて、9月14日の土曜日、JR東日本「駅からハイキング」~開業120周年の駅から鉄道発祥の地へ 仲秋のお散歩コース~に参加してきました。出発点の千駄ヶ谷駅には、王将の駒モニュメントや羽生善治九段の揮毫による駅名の書などを展示しています。9月というのに、まだまだ暑い9月中旬、千駄ヶ谷駅を出発しました。駅前には、津田塾大学(→→→こちら)があります。津田塾大学と言えば、この津田梅子氏(→→→こちら)によって創設された私立女子大学です。慶応の創設者福沢諭吉は1万円札に採用されましたが、津田梅子は5千円札。「なんだかな~」と思ってしまいました。そして、こちらに立ち寄りました。国立能楽堂(→→→こちら)です。国立能楽堂は、能楽(能・狂言)を主に上演する劇場で、昭和58年(1983年)に竣工した施設で、能楽の一般公開や後進の育成に称されています。また、能面や装束など能楽に関する資料の展示も行われています。能楽は舞台形式が特殊であるため、こういう専用の施設が必要だったんですね。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その1) 津田塾大学と国立能楽堂
2024年10月03日
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春日通りに出てくると中央大学茗荷谷キャンパス(→→→こちら)があります。この中央大学の裏には、拓殖大学のキャンパスが、さすが文化の京、文京区ということで大学が多いですね。この茗荷谷のあたりには、この他、お茶の水大学、跡見学園女子大学などもあります。その拓殖大学と道路を挟んだ向かい側にあるのは、貞静学園中学校・高等学校です。ここにあるのは、「"大塚"ゆかりの地」の説明板がありました。この説明板によると、ここ貞静学園の場所には、かつて”塚”があった。「改撰江戸志」には、この塚について地元の説に「大塚通の南裏、小普請神尾豊後守組森川鉾太郎屋敷内に塚あり、高さ五尺(約1.5m)ばかり、上に大樹の榎の朽木五尺ばかり残れり、是大塚なりと云、塚の脇に稲荷あり、大塚稲荷といふ」と記されている。塚は昭和の初めに崩され、稲荷も昭和20年の戦災で焼失した。この大塚は古くから古墳であったとか、中世の塚や物見やぐらの跡だったとも言われてきた。貞静学園の改築に伴い、平成12年の発掘調査で区内で初めて5~6世紀代の竪穴住居跡が確認された。文京区の古墳時代を知るうえで、貴重な歴史資料といえる。今は失われた塚も”大塚”という町名として残っている。文京区教育委員会 平成15年3月山手線の駅名である「大塚」が古墳に由来するとは知りませんでした。「大塚」の地名の由来を学んで、今回の大塚の巡検を終わることにして、東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅から帰ります。※ 巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)です。(大塚巡検コース)【了】人気ブログランキング大塚を巡検する(その7) 大塚ゆかりの地
2024年09月07日
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窪町東公園のうち春日通り沿いの一角にあった変わった彫刻です。一角獣(ユニコーン)、魚、アンモナイトなどの彫刻。文京区と「姉妹都市提携」を交わしている、ドイツのカイザースラウテルン市が関係しているようですね。この彫刻は、平成5年(1993年)10月、「彫刻のあるまちづくり」事業の一環として、文京区と「姉妹都市提携」を交わしている、ドイツのカイザースラウテルン市出身のルンプフ夫妻の共同制作による彫刻だそうです。作品の構想にあたって「日本の子どもたちを、ドイツのおとぎ話の世界へ案内したい」との思いから「神話空間への招待」というテーマで、ヨーロッパの神話(伝説)の主役である一角獣などが展示されているのですね。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その6) 窪町東公園
2024年09月06日
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教育の森公園の南の端にある窪町東公園には、こんな滝がありました。この窪町東公園の滝から道路を挟んだ向かい側に、外壁及び屋根が銅板張りの古い住宅が見えました。この建物は、銅(あかがね)御殿と通称される、山林王として財を成し、衆議院議員も務めた実業家の磯野敬が建設した、国指定重要文化財の旧磯野家住宅(→→→こちら)だそうです。磯野家といってもサザエさん一家が昔住んでいたわけではありませんよ。この磯野家住宅、いつでも自由に見学できるというわけではなく、指定された日に3千円の見学料を支払って特別見学会に参加できるそうです。詳しくはこちら(→→→こちら)を参考にして下さい。こちらの旧磯野家住宅表門はいつでも見学はできます。太い丸太材を柱に用いた四脚門です。さすが山林王の磯野敬が建てた住宅の門ですね。この門も国指定重要文化財です。こちらに文京区教育委員会の設置した説明板がありました。毎年、10月~11月頃に開催される東京都文化財ウィーク(→→→こちら)の時には、無料でこの旧磯野家住宅、見学できるかも。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その5) 旧磯野家住宅
2024年09月05日
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悠仁親王が推薦で東京大学に進学されるのに反対の署名が集まったんだとか(→→→こちら)。まあ、署名するのは個人の意見なのでいいですが、本当に東大で学問をするのににふさわしい学生さんだと、大学当局が判断されるのなら、推薦で入学するのも悪くはないと思います。ただ、東大の場合、入学すると教養学部で二年間勉強して、その時の成績で進学する学部や学科が決まるので、それ相応の学力がないと希望の学部に進めないかもしれませんね(東大に行ってないのでどんなものかわかりませんが、伝え聞く範囲での情報です)。その点、京都大学なら入学時に学部が決まるので安心かも。でも推薦であっても大学入学共通テストの成績も必要なので京大目指すならテスト、頑張って下さい。筑波大学附属小学校の近くには、大きな公園がありました。「文京区教育の森公園」(→→→こちら)です。かつては東京教育大学(現在の筑波大学)のキャンパスでしたが、1978年(昭和53年)に筑波に移転したのを受け、跡地を文京区が国からの払い下げを受けて公園としたものだそうです。この時、筑波大学と東京教育大学は並存し、東京教育大学に入学した学部生は筑波大学に転校することなく東京教育大学の学生として卒業しなくてはいけなかったそうです。そのため東京教育大学の学生さんは留年なんかできなかったでしょうね。大きな建物がありました。文京スポーツセンター(→→→こちら)という施設です。プールは、一般で2時間550円とお安いのですが、文京区在住、在勤、在学の人しか利用できまないそうです。ということで、利用する際には、文京区在籍が確認できる公的身分証のご提示が必要だそうです。ということならば、筑波大学附属高校に通学する悠仁親王さまは、利用できますね。また、東京大学に進学できれば、大学生になっても利用できますね。ということで、悠仁さま、何としても東京大学に進学したいのではないでしょうか。また、隣接してこの建物もありました。こちらが入口、校門になります。筑波大学東京キャンパス(→→→こちら)と放送大学東京文京学習センター(→→→こちら)があるそうです。放送大学って入試がない上に、大学院で博士号まで取れるそうですから、ここで勉強し直して、博士を目指すのもいいかなと思いましたが、その前に勉強用に自分専用のテレビを購入しないといけないですかね。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その4) 文京区教育の森公園
2024年09月04日
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24時間テレビでタレントのやす子さんがマラソンに挑戦して児童養護施設への寄付金を集めていましたが、自分の育った児童養護施設にお金を集めて寄付するという行為、思わず漫画のタイガーマスクを思い出しました。ということはやす子さんのいた自衛隊って「虎の穴」?そんなことを思ったMoMo太郎です。さて、大塚三業通りを抜けて、いつのまにか文京区に入りました。そして、この建物は、文京区立かるた記念会館(→→→こちら)です。「かるた」といっても群馬県人の得意とする「上毛かるた」(→→→こちら)でも、「犬も歩けば棒に当たる」ではじまる「江戸いろはかるた」(→→→こちら)でもなく、「一寸先は闇」ではじまる「上方かるた」でもなく、こちらに貼ってあるポスターにある近江神宮(→→→こちら)でお正月に開催される、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦がお馴染みの「小倉百人一首」のことです。ちなみに文京区は「小倉百人一首競技かるた発祥の地」だそうです(→→→こちら)。さらに、この不忍通り、を渡ります。そして、この緑の濃い、雰囲気のある学校がありました。筑波大学附属小学校(→→→こちら)です。附属といっても、悠仁親王(ひさひとしんのう)さまが通う筑波大学附属高校へ自動で進学できるわけではなく、内部入試で上位に入らないと進学できないそうです。もちろん筑波大学へも入学できるわけでもありません。でもトンボについて詳しくて学術論文が書けたなら、ひよっとして附属高校や、さらには筑波大学どころでなく、東京大学へも推薦で入学できるかも。このあたり、今の町名は東京都文京区大塚3丁目ですが、元々、大塚窪町と呼ばれていた、元からの大塚(→→→こちら)です。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その3) かるた記念大塚会館
2024年09月03日
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「巡検」について、昨日、以下のようなコメントを頂きました。「巡検」とは?部下の場所を巡っての見て回る意味になりますが、「巡見」ではないですか? こちらの漢字なら見て回るということになりますね。どうでしょうか、間違い無いとおもいますということで、「巡検」及び「巡見」について、新明解国語辞典第八版で調べてみると、「巡見」各地を見て回ること。「巡検」ある範囲の場所を見回り、秩序が保たれているかとどうかを調べること。とありました、ご指摘の「巡検」とは?部下の場所を巡っての見て回る意味、を見つけることができませんでした。もし、ご指摘の用例が掲載されている辞書等がありましたら教えていただきたいものです。MoMo太郎は巡検について、「巡検」とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)ですとして、地理学、地質学の用語であると断って使用しています。例えば、社会科教科書・地図帳の出版社として有名な帝国書院のサイト(→→→こちら)には、「巡検」とは、地理学や地質学では、実地調査、. 現地調査といった意味で使われます。として説明されていますし、お茶の水女子大学のホームページ(→→→こちら)でも地理学の野外調査(field work, field survey)のうち、教育目的のものを特に巡検(excursion)と称しています。と解説されています。日本地質学会のホームページ(→→→こちら)でも、地質巡検とは、地表に顔を出している地層や岩体(露頭と呼びます)を実際に見に行く野外実習のことです。として紹介されており、「巡検」は地理学や地質学の分野では基礎的な用語として定着しているようです。さて、大塚の巡検を続けます。曲がりくねった大塚三業通りを歩いていくと、料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称という三業通りというだけあって、飲食店も目につきますね。また、道が曲がりくねっているのは、江戸時代に谷端川(→→→こちら)という川が流れており、その上に道を作ったからだそうです。花街でもあった三業通りに面して、豊島区立巣鴨小学校がありました。豊島区の大塚駅のあたり旧来は巣鴨と言う地域だったそうです。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その2) 巣鴨小学校
2024年09月02日
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今回は、ここから豊島区にある山手線の大塚駅から大塚を巡検します。ちなみに、「巡検」とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)です。出発はこちらの大塚駅南口です。この日は、台風10号の影響か、あいにくの雨模様でした。大塚駅といえば、この都電さくらトラムとの乗り換え駅でもあります。山手線の高架下に都電大塚駅前停留所があります。こちらの道を歩いて、大塚の町を巡検してます。この道、「大塚三業通り」という名称です。三業は「さんごう」ではなく「さんぎょう」と読むようですね。ちなみに三業(さんごう)は仏教用語で(→→→こちら)、身・口・意の三つで起こす「業」(ごう)、つまり行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味するそうです。そして、三業(さんぎょう)とは、料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称になるので、まあ業(ごう)との関わりはありそうですね。こちらの細い曲がりくねった道が大塚三業通りになります。(大塚巡検コース)【つづく】人気ブログランキング大塚を巡検する(その1) 大塚三業通り
2024年09月01日
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愛宕トンネルを抜けて愛宕下通り側に抜けると、標高約26mの愛宕山に登るためのエレベーターがありました。このエレベータ―でNHK放送博物館(→→→こちら)を訪れました。NHK放送博物館は、昭和31年(1956)に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、“放送のふるさと”愛宕山に開館した施設です。この愛宕山で、大正14年(1925)、日本で初めてラジオ放送が始まったそうです。こちらは、昭和43年(1968)、当時のNHK会長だった前田義徳(→→→こちら)氏が揮毫した「NHK放送博物館の碑」です。この博物館は入場無料だったので、中を見学しました。様々な展示物がありましたが、昭和の香りがする。お茶の間を再現したこの展示。MoMo太郎の子供の頃は、家族でご飯を食べながら、一家そろってお茶の間にあるテレビを観ていたものでした。こちらはNHKらしい子供向け番組「お母さんといっしょ」に登場するのキャラクター「にこにこぷん」ですね。そして、これはMoMo太郎が大好きだった、人形劇の「ひょっこりひょうたん島」に登場する皆さんですね。愛宕山のすぐ近くにある慈恵大学の校舎です。ここまで歩いてきて、空模様も怪しくなったので、慌てて都営三田線の御成門から帰宅しました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【了】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その9) NHK放送博物館
2024年08月17日
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気象庁気象科学館の次に訪れたのはこのトンネル。都会の中にこんなトンネルがあるのは、ちょっと不思議ですが、東京23区内で最も高い自然の山である「愛宕山」(標高約26m)を堀りぬいた23区内唯一の「山岳トンネル」である「愛宕隧道」です。隧道(ずいどう)とはトンネルの古い呼び方で、昭和5年(1930)に完成したそうです。平成16年(2004)に内壁の耐震補強工事が行われて、外観はきれいに見えますが、全長は76.6m、幅は9m。歩道が両脇に2.5mずつあるので車道は4mしかなく、愛宕下通り側から桜田通りに向けての一方通行の道路です。ちょっと知っていると便利な抜け道というところでしょうか。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その8) 愛宕隧道
2024年08月16日
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神谷町を越えて、桜田通りを虎ノ門付近までやってきました。そして、この高層ビルに向かいます。この建物が気象庁(→→→こちら)です。ここにあるのが、港区立みなと科学館(→→→こちら)と気象庁気象科学館(→→→こちら)です。港区立みなと科学館は「まちに息づく科学「」の発見と探究をコンセプトとした科学館だそうです。体験型展示が充実した常設展示コーナーやプラネタリウムホールなど、子どもから大人まで、科学を体験しながらお楽しむことができます。プラネタリウムは観覧料が必要ですが、入場料は無料です。気象科学館では、気象や地震の観測機器や日本の自然を体感できるシアター、防災知識について学べる装置などを揃えています。 また、解説員(気象予報士)が常駐しており、気象や地震に関して質問することもできます。ここもまた、入場無料です。どちらの施設も夏休みの自由研究のネタ探しにはいい施設です。ということで、「無料」が好きなMoMo太郎は気象科学館に入ってみました。気象庁のマスコットキャラクター「はれるん」がお出迎えしてくれます。こちらの装置は、普通の波と津波を発生させることのできる津波シミュレーター。津波について学べます。その他にも、色々な装置があって気象の勉強ができますが、MoMo太郎が勉強になったのは、この「うずのすけ」という台風と竜巻ができる仕組みを勉強できる装置です。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その7) 気象庁気象科学館
2024年08月15日
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永坂を登って、飯倉の交差点までやって来ました。外苑東通りを、芝公園に向かって東へ歩きました。ここは東京タワーのビュースポットですね。外苑東通りにあるこの建物は、外務省飯倉公館です。外務省主催の各種イベントや会議の場として使われる施設だそうです。その隣にあるのが、この高層ビル。最近できた「麻布台ヒルズ」(→→→こちら)です。麻布台ヒルズは、区域面積約8.1ha、延床面積約86万㎡。開発前の5倍以上となる約24,000㎡の緑地を整備した、都心にありながら緑あふれる環境に囲まれた施設です。単独のビルがではなく、オフィス、住宅、商業施設、マーケット、ホテル、デジタルアートミュージアム、ギャラリー、インターナショナルスクール、医療施設など、多様な都市機能が集積した一種の街のような施設です。今度は外苑東通りから、桜田通りに入って行きました。桜田通りに面して、立派な鳥居の神社がありました。西久保八幡神社(→→→こちら)です。この神社は、寛弘年間(1004年~1012年)源頼信によって霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建され、室町時代の武将で江戸城主となった太田道灌が現在の地に遷したと伝えられています。麻布台ヒルズは、丁度、西久保八幡神社を囲むように建てらていて、桜田通りに面したことらにも、麻布台ヒルズの施設がつながっていました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その6) 麻布台ヒルズへ
2024年08月14日
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暗闇坂を下ると、商店街に出ます。麻布十番商店街です。青山から三田地域周辺まで広く包含する「麻布地域」ですが、その地名の由来は、昔このあたりで麻を植えて布を織ったので、「麻生」という地名が生まれ、そこから「麻布」になったそうです(→→→こちら)。また、「十番」というのは、五代将軍徳川綱吉の白金御殿を建設する際に、土運びをする人足が1~10番までの組が編成され、この地域の人が10番組だったからだそうです。そして首都高速の一の橋ジャンクションです。このジャンクションの近くにあるのが、有名な蕎麦屋さんの麻布永坂更科本店(→→→こちら)です。ここから永坂という坂道が麻布台へ続きます。麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。と標識には記されていました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その5) 麻布十番
2024年08月13日
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麻布のこのあたり、道を間違えるとどこに出るのかわからない迷路にようになっています。このモダンなデザインの建物を目印に東に向かって右折します。この住宅街の細い道を歩いてゆきます。この道は狐坂、きつねざか、港区元麻布二、三丁目境で長玄 寺前へ下る坂。昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたという。という標識がありました。この坂道を下って行くと、アラブ・イスラ-ム学院(→→→こちら)というのがありました。サウジアラビア政府が設立したアラビア語学校だそうですが、今は閉鎖されているみたいですね。狐坂を下ったところで、今度はまた登り坂。元麻布付近の道路、人生と同じで、下ったり、登ったりが続きます。こちらの道は狸坂たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。という標識がありました。むかしはこのあたりにはキツネとかタヌキがいたんでしょうね。狸坂を登ると高層マンションが見えました。元麻布ヒルズ(→→→こちら)です。そして今度は、この坂道を下って行きます。暗闇坂くらやみさか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったと言う。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。という標識がありました。かなりの勾配の坂道ですが、暗くはなかったですね。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その4) 狐坂・狸坂・暗闇坂
2024年08月12日
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外苑西通りを渡ると、港区になります。次に向かうのは、この標識にある「有栖川宮記念公園」(→→→こちら)と「都立中央図書館」(→→→こちら)です。こちらにある「National Azabu(ナショナル麻布)」(→→→こちら)は、1962年にオープン以来、日本に住む大使館員や外国人ビジネスマンの御用達スーパーとして、世界各国のあらゆる食材や雑貨を豊富に取り扱っているインターナショナルスーパーとして有名ですね。そして、このナショナル麻布スーパーマーケットの前にある公園が、港区立有栖川宮記念公園です。おおよそ6.7ヘクタールの広い公園です。麻布台地の変化にとんだ地形を生かした緑深い公園になっていて、丘があったり渓谷や池があったりと、自然を大切にした趣のある日本庭園といえます。台地にあがるこの階段を登っていくと、有栖川宮公園に関する記念碑があります。碑文には、この土地は、江戸時代には、盛岡南部藩の下屋敷として使われていたこと、そして、1896年(明治29年)、有栖川宮家の御用地となったこと、また、有栖川宮家の祭祀を継いだ高松宮が児童福祉のためにこの土地を東京市に賜与し、記念公園として一般に開放され、今は港区の公園となったことが記されていました。この騎馬像が、この公園とも縁の深い、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像になります。こちらは新聞少年の像です。新聞の戸口配達網の発達の一翼をになった働く少年たちの保護育成を目的に、社団法人日本新聞販売協会等の関係団体が「新聞少年の像」を各地に建てたうちの一体だそうです。公園内にあるこの建物が、都立中央図書館です。以前は2009年(平成21年)までは日比谷公園にも都立図書館があったのですが、千代田区に移管されて、都立図書館はここと国分寺にある多摩図書館だけになりました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その3) 有栖川宮記念公園
2024年08月11日
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外苑西通りと明治通りを結ぶ「HIROO散歩どーり」を中心に広がる広尾商店街を歩きます。広尾の高級住宅街の近くなので、お洒落なお店も多いです。ここら東京タワーが見えるんですね。こちらの建物は、コインランドリーがあって、廣尾湯(→→→こちら)という公衆浴場です。意外と庶民的な施設もあるんですね。そして、外苑西通りに出ました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その2) 広尾商店街
2024年08月10日
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JR東日本が開催している駅からハイキング「東京で自然・歴史を感じるハイキング」で歩いた、恵比寿・広尾・麻布を紹介します。出発は、ここJR山手線の恵比寿駅です。恵比寿駅西口の東側あるこの建物。恵比寿西口駅前商店街のえびすストア(→→→こちら)です。八百屋さん 魚屋さん、バン屋さん、洋品店と色々揃って便利です。恵比寿駅から駒沢通りを東に歩くと渋谷川(→→→こちら)を渡ります。これが渋谷川です。渋谷区と港区の区界である天現寺橋を境に、上流が渋谷川、下流が古川と呼ばれています。渋谷川・古川はJR渋谷駅前の新渋谷橋を上流端とし、渋谷区、港区内を流下してJR浜松町付近で東京湾に注ぐ二級河川です。流域面積は22.8km2、総延長は6.8kmですが、過去には何度か、台風や大雨によって水害を起こしています。次に明治通りを広尾方面に向かって進みます。広尾一丁目の交差点にやって来ました。ここから「HIROO散歩どーり」と呼ばれる広尾商店街になります。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その1) 恵比寿から
2024年08月09日
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池上線の蓮沼駅を過ぎてしばらく歩くと、「サンライズカマタ」というアーチが見えてきました。蒲田駅周辺には多くの商店街がありますが、こちらは蒲田駅西口商店街を形成する商店街のひとつです。西口には、この「サンライズ蒲田」のほかにも、「サンロード蒲田」、「バーボンロード(蒲田東急駅前通り会)」、「工学院通り商店会」などの商店街があり、賑わいをみせています。蒲田にこのような商店街ができたのは、戦後(昭和20年)の焼跡から一早くヤミ市が出来て、ようやく復興の兆しが見えた昭和30年頃。区画整理を中心に現在の商店街の前身が出来上がりました。このサンロード通りのアーケード(屋根)は昭和40年に完成したそうです。アーケード内は黄色いアーケードに照らされ、全体が暖かい雰囲気ですね。亀屋百貨店というのもなんか昭和を感じる店名ですが、どうやら閉店するみたいですね。アケード街を抜けると、駅ビルのグランデュオ蒲田西館が見えてきました。この蒲田駅を訪れた2024年5月19日は、JR蒲田駅開業120周年のイベントが開催されており、多くの人が集まっていました。今回のゴールのJR蒲田駅から京浜東北線に乗って、帰りました。(大田区を歩くコース)【了】人気ブログランキング大田区散歩(その11) 蒲田西口商店街サンライズカマタ
2024年08月02日
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徳持ポニー公園を過ぎると、東急池上線の踏切がありました。踏切から線路を撮影してみました。池上線は、東京都品川区の五反田駅と東京都大田区の蒲田駅を結ぶ東急電鉄が運営する鉄道路線です。これは新型の7000系、新型と言っても2007年(平成19年)からですけど、池上線・東急多摩川線に投入された車両です。こちらは1000系、元々は東横線と東京メトロ日比谷線乗り入れ車両として1988年(昭和63年)に導入した車両で、1993年(平成5年)から池上線・東急多摩川線で走っています。この緑の帯の1000系は、池上線・東急多摩川線用に改造した車両だそうです。池上線の蓮沼駅に到着しました。こちらも1000系の車両ですが。東横線を走っていた頃の色の赤い帯のままですね。いずれにしても、西島三重子さんが名曲「池上線」を歌った1970年代頃の池上線とは違っていますね。♪古い電車のドアのそば二人は黙って建っていた話す言葉を探しながらすきま風に震えて・・・・(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その10) 東急池上線蓮沼駅
2024年08月01日
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新田神社から、蒲田に向かって行く途中で見かけたこの建物。こちらの「桜館」(→→→こちら)は、東京都大田区池上の地で、昭和34年に開業した銭湯「さくら湯」が前身です。平成10年に「黒湯」という純養褐層泉の天然温泉を掘り当てたことを機に「桜館」に改名して以来、天然温泉のある銭湯として営業しているそうです。こちらの公園は、徳持ポニー公園(→→→こちら)です。ポニー公園といいながら、馬に関するものがないなと思っていると、、実は、この公園、1906年(明治39年)から1910年(明治43年)まで東京府荏原郡池上村の南方(現在の東京都大田区池上・池上駅の南方の一帯)に存在した1周1マイルの池上競馬場(→→→こちら)の跡地に出来た公園でした。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その9) 天然温泉と徳持ポニー公園
2024年07月31日
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賑やかな駅前の商店街を抜けて、新田(にった)神社(→→→こちら)にやって来ました。多摩川の「矢口の渡」で悲劇の最期をとげた新田義興(→→→こちら)の霊を供養するため、正平13年(1358)に創建された神社です。新田義興は、後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者であった新田義貞の第2子で、新田義貞が亡くなったあと、足利尊氏に対抗して、新田一族を率いて武蔵野合戦等を始め各地に奮戦し、吉野朝(南朝)の恢復に尽力をした武将です。こちらは御神木の「欅(ケヤキ)」です。樹齢約700年に及ぶこのケヤキは江戸時代の落雷で幹が半分以上裂けましたが、枯れることがなく、また、昭和20年4月の東京大空襲の際にも、社殿や町もほとんど全焼した中でも、枯れる様子がありませんでした。そのような生命力のあるケヤキであることから、このケヤキに触れると「健康長寿・病気平癒・若返り」の御利益を授かるとの言い伝えがあるそうで。MoMo太郎もこのケヤキに触れて、その生命力を得てきました。そして、こちらの社殿にお参りさせてもらいました。江戸時代になると、徳川氏が新田氏の末裔であることから幕府の保護を受けて、武運長久の守り神として信仰を集め栄えたそうです。こちらにある神輿庫は、境内にある氷川神社のものだそうです。もともとこの矢口地区の氏神様であった氷川神社が空襲で焼けたため、新田神社の境内に社殿と神輿庫を再建したそうです。新田神社では、氷川神社と共用でこの神輿と山車を利用しているそうです。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その8) 新田神社
2024年07月30日
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池上通りを西に歩いて第二京浜(国道1号)との交差点にやって来ました。第二京浜を自転車で横断しようとしているみたいですが、気をつけて下さいね。向こうに見えるのは、東急池上線の架道橋です。第二京浜を南下して、途中大きな病院のある交差点を右折して、東急多摩川線の武蔵新田(むさしにった)駅(→→→こちら)にやって来ました。「新田」の駅名は、駅近くに所在する新田神社に由来しています。相対式ホーム2面2線を有する地上駅です。駅の近くは賑やかな商店街があって、なんか親しみのある街でした。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その7) 東急多摩川線武蔵新田駅
2024年07月29日
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本門寺の前を流れる吞川(のみかわ)に架かる霊山橋のたもとに立つ題目宝塔(高さ5.25メートル)です。池上本門寺の門前にある商店街にあるくず餅屋さんです。葛粉ではなく、小麦粉のでんぷんを発酵して作られる「久寿餅」が名物のようですね。こちらにも久寿餅屋さんがありますね。この道が東急池上線池上駅から池上本門寺総門まで続く「池上本門寺通り」(→→→こちら)です。参拝者向けの飲食店やお土産物屋以外にも洋品店や文房具屋、医院など日常生活に欠かせないお店も並んでいます。池上周辺は古くは東海道の品川宿と川崎宿をつなぐ主要な拠点であると同時に、日蓮宗の大本山でもある池上本門寺への参拝客が行き交う賑わいのある街ですね。そして、このアーチのある辺りが今回の駅からハイキングのコースの中間点になるようです。池上通りに出ました。大森駅前からこの道は続いているのですね。この道をたどって国道1号まで進みます。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その6) 池上本門寺通り商店会
2024年07月28日
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池上本門寺(→→→こちら)の五重塔が見えてきました。池上本門寺は日蓮宗のお寺で、寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、また日蓮入滅の霊場としても知られています。日蓮は生涯最後の20数日間をこの池上の地で過ごしたそうです。ここにはプロレスラーの力道山(→→→こちら)のお墓をはじめ、政治力を発揮して地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされる大野伴睦(→→→こちら)、右翼運動家で「政財界のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫(→→→こちら)、映画会社社長にしてプロ野球球団大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)のオーナーでもあった永田雅一(→→→こちら)、そしてロッテグループの総帥にしてプロ野球球団千葉ロッテマリーンズのオーナーでもあった重光武雄(→→→こちら)といったクセ強の著名人の墓所があるそうです。逆光で、暗く見えますが本門寺の五重塔です。高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築で、1608年(慶長13年)に建立されたそうです。そして、全面がベンガラの赤い塗装が施されています。こちらは前田利家室の層塔(→→→こちら)です。加賀百万石の礎を築いた前田利家の正室で豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され、人質になった寿福院の逆修供養塔で、1622年(元和8年)に造立されたものです。こちらが大堂です。「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいうそうです。旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい、その後、第79世伊藤日定聖人が精力的に各地を行脚し、全国の檀信徒ならびに関係寺院等からの浄財寄進を得て、昭和39年、ようやく鉄筋コンクリート造の大堂の再建ができたそうです。この大堂の再建に取り組んだ伊藤日定聖人は落慶後ほどなくして亡くなられたので、扁額の「大堂」は第80世金子日威聖人が書かれたそうです。この建物は経蔵と呼ばれ空襲による焼失をまぬがれています。名前の通り、お経を保管していた堂宇です。堂内の「天海版一切経」が保管されていました。天海版一切経とは、徳川家康・秀忠・家光3代の将軍に仕え、幕府に大きな影響力を持ち、江戸に天台宗寛永寺を開いた天台僧天海(1536~1643)が、将軍家光を願主として寛永14年(1637)から木活字を使って開板した一切経(仏教聖典の総称、大蔵経ともいう)です。印刷された一切経ですが、発行部数が少なく大変珍しいものだそうです。ちなみにここに保管されていた天海版一切経は今は別の場所に保管されているそうです。大堂の裏にも、本殿と呼ばれる本尊の釈迦如来像などがある堂宇があります。こちらが、仁王門。三門ともいうそうです。山門とも称されますが、正式には三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる門ですが。一生、煩悩から解脱できないMoMo太郎も通れましたよ。こちらは仁王門の前に建つ日蓮聖人説法像です。こちらの説明板によれば、宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたアルミ製の像です。また、もともとここには明治時代の政治家星亨(→→→こちら)の銅像が建っていたのですが、第二次世界大戦中の金属供出のため、台座を残して撤去されたそうです。戦後、遺族により台座は寄進され、その上にこの日蓮聖人説法像が設置されました。池上本門寺は、高台にあり、表参道にはこの長い石段があります。この石段は此経難持坂 (しきょうなんじざか)という名称で、慶長年間に加藤清正の寄進によるものと伝えられています。「法華経」宝塔品の詩句九十六文字にちなんで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名としたそうです。なお、此経難持の「此経」とは法華経であり、「難持」とは釈尊滅後に法華経を受持し弘通することが困難であることを意味しているそうです。この石段を登り切ってお寺に参詣するのも困難を伴うことと対比させているのでしょうか。こちらの高麗門形式の門は、元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立と伝えられる総門です。この門も空襲で焼失を免れた建築物です。扁額「本門寺」の文字は、寛永4年(1627)本阿弥光悦の筆になるものだそうです。ただし本物は別に収蔵されていて、これはレプリカになるそうです。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その5) 池上本門寺
2024年07月27日
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このあたり、大田区馬込は都営浅草線の終点西馬込駅に近いエリアになります。昭和43年(1968)に都営浅草線が開通するまで、馬込に住んでいた人は、バスで大森駅や五反田駅まで行っていたんでしょうね。そんなわけで、浅草線の終点らしくこんな施設があります。東京都交通局馬込車両基地(→→→こちら)です。車両基地から本門寺へ向かう途中に、「茅舎旧居青露庵」と刻まれた石碑がありました。ここは、俳人の川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897-1941年)(→→→こちら)の住んでいた所でした。説明書きによると、-五重の塔の前の道をだらりと下り、本門寺裏へ抜けて旧座かを登りつめた左角-に川端茅舎が住んでいました。茅舎は、日本画家川端龍子の異母弟で、昭和三年、兄龍子の用意したこの家に父親とともに移ってきました。今では俳人として知られる茅舎ですが、この家に移るまでは俳句と同時に画業もこなす風流人でした。大正十年には洋画家の岸田劉生に師事し、同十二年に『静物』画が芸術院展に入選しています。一方俳諧誌に句が入選するようにもなり、昭和十三年には『ホトトギス』紙上で新進作家として取り上げられました。また画師である岸田の死と自分の病がもとで画業から遠ざかったこともあって、この頃より俳句の世界に専念しました。川端茅舎は、馬込を描写した七句を残しています。とありました。兄で文化勲章を受章した画家の川端龍子に比べるとちょっと寂しいような人生だったんでしょうかね。ここから貴船坂という坂道が始まります。コンクリート舗装で、滑り止めの輪の模様が施された、かなりの急坂です。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その4) 馬込車両基地
2024年07月26日
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大田区立龍子記念館を出ると、この道にやってきました。馬込桜並木(→→→こちら)という道で、大田区南馬込四丁目11番12号にある桜並木公園が面する通りで、600メートルほどに渡り約90本の桜が立ち並んでいます。また、平成22年度から馬込桜並木の散策路工事が進められており、子供から高齢者までが歩きやすいような散策路の完成を目指して整備されているそうです。馬込桜並木通り交差点から坂道を上ってゆきます。大田区馬込には九十九の谷があると言われるように坂道が多く、起伏に富んだ地形となっているそうです。今登っている坂道は「鐙坂」(→→→こちら)という坂道でした。坂名は、鎌倉時代の武将、梶原景季(かじわらのかげすえ)(1162-1200)の愛馬、磨墨(するすみ)の鐙(あぶみ)が落ちたという伝説にちなむ鐙(あぶみ)谷の地名から名づけられたそうです。坂自体は、大正13年頃に行われた耕地整理によってできたもので、それ以前は幅1メートルほどの農道でした。その農道も坂下から先は水田であったそうです。関東大震災以降、馬込の地区では耕地整理事業(→→→こちら)が行われるようになって、田畑の区画を整理するとともに宅地開発が行われてきたようです。そんなわけで今では農村というより住宅街になってしまいましたね。坂道は上りがあれば下りもある。この坂道を下って行くと、そして大田区立郷土博物館(→→→こちら)に到着です。大田区を中心とした人文科学系の博物館で、考古、歴史、民俗の各分野に関する資料を保存・展示しているそうで、入館は無料でしたので、入館しましたが、撮影禁止が多くて中の展示物の紹介はできません。展示物の中には、尾崎士郎、宇野千代、室生犀星、萩原朔太郎、村岡花子らの作家さん達の馬込での生活など紹介している展示も多くありました。ということで、今では閑静な住宅地となっている東京都大田区山王、馬込の一帯(JR大森駅から西側の地域)に、大正末期から昭和初期(当時は東京府荏原郡入新井村、馬込村)に多くの文士、芸術家が関東大震災後に移り住み、互いの家を行き来し交流を深めていたことから、馬込文士村(→→→こちら)と呼ばれていたそうです。博物館の前には「馬込文士村散歩」というタイトルの地図が設置されていました。そんなわけで、商店街の名前も文士村にあやかって名付けられていました。こちらが馬込文士村商店街です。そして、この近くには第二京浜、国道1号が通っています。こんな街灯もあって、文士村だったことが町の誇りになっているんでしょうか。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その3) 馬込文士村
2024年07月25日
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近代日本画の巨匠、川端龍子(かわばた りゅうし、1885年- 1966年)(→→→こちら)の旧宅とアトリエを当時のまま保存している龍子公園の門扉です。MoMo太郎は、こういうことには疎いので、川端龍子とは女性だとおもっいましたが、男性だったんですね。ちなみに、本名は川端 昇太郎というそうです。そして、この龍子公園の前にあるのが大田区立龍子記念館(→→→こちら)です。龍子記念館は、川端龍子によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して昭和38年(1963)に設立されたものだそうです。建物は龍子自身が設計したもので、タツノオトシゴの形をしています。大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介し、展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群を鑑賞できるそうです。こちらは記念館の中庭になるそうで、龍子草苑というそうです。この説明板によれば、龍子記念館は、川端龍子が自身の文化勲章受賞と喜寿を記念して、昭和38年(1963)6月6日に開館しました。記念館の設計は自らが行ない、各所に龍子の趣向が凝らされています。「龍子草苑」と名付けられた中庭には、別荘・青々居のある修善寺の桂川で自ら選んだ石が据えられ、傍らにはススキ、イタドリ、シダなどの草花が植えられています。また、龍子は自然のままの姿の庭を好んだため、草苑も当初の姿を保つようにしています。大田区立龍子記念館とありました。自分で自分の記念館を建てるとは、自己顕示欲が強い方ですね。入館料は200円と魅力的でしたが、65歳以上は無料となるので、もう少し生きて65歳になってからじっくり鑑賞することにしました。付録【シンサツ】MoMo太郎が、病院に行って診察してもらい、会計をしていると、事務員の人が「シンサツいいですか?」と聞いてきた、いや、今診察してもらったばかりなのに、と思って、お釣りを見ると、いつも見慣れた野口英世先生ではなく北里柴三郎先生の肖像の新札が入っていました。「シンサツ、初めて見ました」と答えて、新札でお釣りをもらいました。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その2) 大田区立龍子記念館
2024年07月24日
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5月19日(日)、初夏の頃です。駅からハイキング「蒲田駅開業120年!いにしえの息吹感じる大森・蒲田」に参加してきた報告です。東京都大田区の魅力を紹介していきます。スタートはJR大森駅からです。大森駅西口から歩き始めると、都道421号線、通称池上通りを南に向かって歩きます。大森周辺では昔、道沿いに柳があったことから柳本通りとも呼ばれています。この池上通りに沿って、東側にはウィロード山王商店街。また西側には山王ハーモニーアヴェニューという商店街になります。更に山王CoCoそして山王三番街と商店街が続きます。商店街が途切れたあたりに、東京都道318号環状七号線(通称:環七)の陸橋が見えてきました。春日橋陸橋という名称は、近くにある春日神社に由来しているのでしょう。そして環七から住宅街に入っていくと、最初の目的地である、この建物に到着しました。(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その1) 大森駅から環七へ
2024年07月23日
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西武新宿線沼袋駅の商店街です。一本脇道に入ると飲食店も多く、地域住民には親しまれている商店街のようです。ちなみに商店街は沼袋親交会という名称で、キャッチフレーズは「とかいなかぬまぶくろ」というようです。都会+田舎ということで「とかいなか」なのか都会の中という意味なのが真意はわかりません。キャラクターの鶏らしいのは「フクロウ」ということで沼袋に掛けているのだと思いますが、ということで、駅からハイキングのゴール、沼袋駅です。現在は地下駅になる工事中です。ということで、駅名標も工事中の仮設のようでした。こちらは30000系(スマイルトレイン)の拝島行の急行が通過していきました。上りの各駅停車がやって来ました。20000系の各駅停車、西武新宿行です。これでに乗って帰りました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【了】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その12) 沼袋親交会
2024年06月27日
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哲学堂公園の次は中野沼袋氷川神社(→→→こちら)に向かいます。哲学堂公園を出たところにある、中野通り(だと思う)を新井薬師の方へ向かってしばらく南下して行きます。そして蛇行する妙正寺川を渡り、さらに今度は沼袋駅に向かって右折して住宅街の中を歩き、またこの妙正寺川を横切ります。そして、中野沼袋氷川神社の大きな案内板がありました。駅からハイキングに参加したのは5月12日だったので、6月にあるお祭りの大きな案内板がありました。大きな石造りの鳥居です。社号碑には氷川神社と刻まれています。現在の埼玉県さいたま市にある武蔵国の一の宮である氷川神社から分霊された神社なのですね。、階段を登って二の鳥居になります。この狛犬は、子育て狛犬と呼ばれ、子供を抱いてあやしている珍しい狛犬です。3回撫でるとお産が軽くなり、子育てが順調に進むと言い伝えられています。子供を産むことはないですが、3回撫でてはみました。JA東京グループの設置した江戸・東京の野菜の説明板がありました。東京大越瓜(とうきょうおおしろうり)というのは、奈良漬専用として現在の豊島区、中野区、練馬地区で広く栽培されていたそうです。こちらに並べられている大きな石は、力石(ちからいし)です。力石とは、昔、若者たちが力比べに使ったもので、持ち上げられた「大石」に、その重量や姓名を刻んで奉納したものです。こういう大きな石を持ち上げることで一人前と認められたんでしょうね。お正月やお祭りの際、奉納舞踊やお囃子などが披露される神楽殿です。新しいのは、天皇陛下御大典奉祝記念事業として、令和元年に改修したからだそうです。参拝記念の写真撮影がこの大きな絵馬の前でできるみたいです。お正月の初詣の時に家族記念写真で撮影するのに良さそうですね。切株だけ残ったこれは、道灌杉と呼ばれているそうです。文明9年(1477年)に太田道灌が豊島氏との間で合戦(江古田・沼袋原の戦い)の際に、当神社に陣営を置いたと言われ、その際戦勝を祈願して境内に杉の木を植えたと言われている。これが「道灌杉」と呼ばれ、高さ30メートルほどの大木となり、長く親しまれてきたが1942年に枯死し今はこの痕跡だけとなったそうです。この神社、太田道灌とのゆかりが深いのでしょうね。そしてこちらが社殿です。厄除け・疫病除けのご利益があるとされている須佐之男命(スサノオノミコト)が御祭神としてお祀りされています。扁額は、名誉宮司の小俣茂氏が揮毫したものだそうです。ちなみに、この社殿も新しいですが、昭和63年(1988年)に昭和天皇在位60年を記念して作られた社殿が、1年数か月後の平成3年(1990年)に過激派によるゲリラにより焼失してしったため、改めて、平成3年(1991年)に造営されたそうです。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その11) 中野沼袋氷川神社
2024年06月26日
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哲学堂公園(→→→こちら)の中をちょっと散策してみました。哲学堂公園とは、明治37年(1904年)に哲学者で東洋大学の創立者、故・井上円了博士(→→→こちら)によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園だそうです。ということで、庭園の中の施設にも、哲学的な名称が付けられています。こちらの池に架けられた石橋には、「概念橋」と言う名前が付けられ、「理性(島)に達する道程には概念(橋)が存在するとしてこの名をつけた」という解説がありました。哲学というのはよくわかりませんが、精神的なことを示しているみたいですね。園内にあるこの泉には、「先天泉」という名称で、これにも「我々の心の深淵には時に教育や経験を超越した高妙尊厳の消息に接することがあるのを、この先天泉に喩えている。」という理屈が書かれていました。こちらは公園の横を流れる妙正寺川の対岸にあった洪水調整池です。哲学とは関係ない土木の施設ですね。こちらは園内の高台に登る階段ですが、「直覚径」と名付けられ、「唯心庭より丘上の論理域に達する近道を選ぶとするならば、この直覚径を行けばよい。」とありました。調整池の設計は物理的な考察によるもので論理の組み立てが重要であることから、この道を上がって論理域に行くことにしました。ということで丘の上に論理域に出ると、この「四聖堂」という建物がありました。四聖とは、井上円了が影響を受けたソクラテス、カント、孔子、釈迦のことを言うそうです。この建物が哲学堂とも呼ばれ、公園の名称の由来になったのですね。四聖堂の前にある石碑には井上円了博士のことが記されていました。さらにこちらの朱塗り、三層六角形のこの建物は、「六賢台」という建物で、 日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅の東洋の六人の哲人が祀られているそうです。そして、哲学堂の正門にあたる「哲理門」です。「哲理」とは、人生や世界の本質などに関する奥深い道理を意味して、それらを探究することが哲学であるということのようです。公園内には、スポーツ施設もあり、こちらはテニスコートです。また、野球場もありました。このようなところで肉体を鍛えながら、テニスや野球の勝負を通して、どのようなところへボールを打ち返せば相手は取れないとか、対戦相手を騙すための思索を深めるのも哲学には必要なのでしょうね。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その10) 哲学堂公園
2024年06月25日
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林芙美子記念館を出て妙正寺川(→→→こちら)沿いを歩いて行きます。妙正寺川では、1966年(昭和41年)の台風6号による氾濫そして2005年(平成17年)には首都圏を襲った局地的な大雨により周辺地域で浸水被害が発生したりする川なので。ところどころに調整池が設けられています。しかし、都下の中で用地取得も容易でなく、地下式の調整池も建設されています。右岸側は中野区の上高田運動公園となっていますが、地下は調整池となっていて、川の水位が増えると、ここから調整池に流れ込むようです。調整池の上は、このようにグランドとして利用されています。妙正寺川の左岸側の新宿区側には、目白からはかなり離れていますが、目白大学(→→→こちら)のキャンパスがあります。そして哲学堂通りにやって来ました。中野区立哲学堂公園へ中へ入って行きます。公園の面積は、52,494平方メートルとかなりの広さの公園のようです。ちなみに阪神甲子園球場の面積は38,500平方メートルです。入ったところにあっった池です。菖蒲池という名称通り、ハナショウブが咲いていました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その9) 妙正寺川
2024年06月24日
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トキワ荘公園から山手通りに戻って、山手通りを中落合方面に向かって南へ下ってゆきます。道路の真ん中にそびえるこのコンクリートの塔は、山手通りの地下にある首都高速中央環状線の換気塔です。やがて、新目白通りと交差する位置に到着しました。山手通りと新目白通りは立体交差になっていて、下に見えるのが新目白通りになります。中落合の町の中に入って林芙美子記念館(→→→こちら)にやって来ました。林芙美子記念館とは、林芙美子が、生涯最後の10年間(1941年(昭和16年)から1951年(昭和26年)を暮らした家を改築・整備し、記念館として公開しているものです。林芙美子(→→→こちら)というのは、「放浪記」、「浮雲」などの作品を残した作家です。こちらが林芙美子邸の門になりますが、ここからは入れず。こちらの入口から入ります。入口の横に記念館の平面図があり、記念館の解説がありました。こちらで、入館料(150円)を払って中に入れます。駅からハイキングの特典で団体入館料の80円で入館できました。こちらが台所です。林芙美子は家事好きでここでよく家族の食事やお客さんへ出す酒肴などを調理していたそうです。お手伝いさんなどは雇っていなかったんでしょうかね。この部屋はもともと林芙美子の書斎として使われていたそうですが、明るすぎるということで、書斎を隣の納戸に移して、家族の寝室にしたそうです。こちらが、納戸を改造した書斎だそうです。こちらが庭です。執筆に疲れた時はこの緑を観て眼を休めたのでしょうね。庭から見た林芙美子邸です。なかなか趣味のよい日本家屋のようです。こちらは小間で、芙美子の母、キクが使っていた部屋だそうです。また男性の書生がいる時はその寝室になりました。また客間が一杯になった時や引き合わせたくない客がぶつかったりすると、客間としても使われたそうです。そして、こちらが客間。流行作家だった林芙美子のもとには原稿を取りにきた記者たちがここで何人も待たされていたそうです。林芙美子邸は台地の下にあり、裏は小高い丘になっていて、ここから林芙美子記念館を見下ろすことができます。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その8) 林芙美子記念館
2024年06月23日
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そしてこちらの公園に到着しました。トキワ荘公園です。正式な名称としては「南長崎花咲公園」(→→→こちら)ですが、この近くに手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄などが住んでいたトキワ荘があったことから、地元の方の呼びかけによって、平成21年4月「トキワ荘のヒーローたち」の記念碑が立てられました。さらに、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムが建てられて、トキワ荘公園とも呼ばれるようになったようですね。記念碑「トキワ荘のヒーローたち」についての説明板です。トキワ荘を地域の文化資源として継承・発信していくシンボルとして、2009年に地域との協働で設置した記念碑になるそうです。ちなみに、トキワ荘があった当時、この南長崎花崎公園には、「大和寮」と呼ばれていた都営バスの社宅があつたそうです。うっかりして、記念碑の全景を撮影していませんでした。本当はこの台座の上にトキワ荘のブロンズ模型が載っていたのです。台座部分にはトキワ荘に入居していた10人のマンガ家たちの自筆の似顔絵とサインが刻まれています。どんな方々かというと、寺田ヒロオ、藤子F不二夫、藤子不二雄Ⓐ、鈴木伸一、守安なおや、手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとしお。の10名です。こちらには、解説文もありました。近くの地図もありました。ここでトキワ荘の漫画家さんゆかりの地を巡るのもたのしいかも。またこちらには「トキワ荘へようこそ」というトキワ荘を紹介する看板もありました。当時の内部の写真などもありました。こちらが建物の外観です。南長崎花咲公園(トキワ荘公園)は、南長崎三丁目第3児童遊園を拡張して出来た公園です。こちらも周辺案内図が掲示されていました。そしてこの建物が、かつて豊島区椎名町(現南長崎)にあったトキワ荘を再現したトキワ荘マンガミュージアム(→→→こちら)。外観は当時のトキワ荘を忠実に再現しており、館内では一部居室の再現展示や、常設展示、年3回程度の特別企画展を行っているそうです。実は、このマンガミュージアム、入場料は無料と思っていたのですが、何故か係の人から「入場料が必要です」と言われたのと、まあ時間もなかったので、中を見学していません。こんな看板もアパートの前に建っていたんですかね。トキワ荘があった1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけては、携帯電話はもちろん、アパートの部屋に固定電話を持っている人もいなかったでしょうから、こういう公衆電話が出版社と漫画家の方の連絡には欠かせなかったでしょうね。こちらはトキワ荘マンガミュージアムで行われた特別展の紹介ポスターでした。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その7) トキワ荘公園
2024年06月22日
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道路沿いにあった豊島区トキワ荘通りお休み処(→→→こちら)です。ここでは、トキワ荘に関する展示や漫画の閲覧、またお土産販売や街の魅力などを発信しており、初めて訪れる人は必ず訪問したい観光スポットです。もとは吉津屋米店だっようで、トキワ荘のに住んでいた漫画家の皆さんもここでお米を買っていたんでしょうね。トキワ荘通りと呼ばれているこの道沿いには、1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけてあったトキワ荘というアパートに住んでいた手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら後に著名となった有望な若手マンガ家の皆さんにちなんだゆかりの土地や建物があるそうです。、この建物は、昭和20年代後半に建てられた戦後マーケットである味楽百貨店を改装してできたトキワ荘通り昭和レトロ館(豊島区立昭和歴史文化記念館)(→→→こちら)です。昭和の歴史・文化を次世代に継承するとともに、地域文化の発展及び地域の活性化に寄与することを目的として、昭和の暮らしが感じられる展示や、豊島区の昔懐かしい街並みを再現したジオラマ展示、昭和をテーマにしたイベントt開催などが行われています。創業は昭和25年頃。当時1杯40円のラーメンの出前をよく取っていたという、マンガ家たち御用達の「中華料理 松葉」です。マンガや映画・ドラマなどにも登場する有名店で行列ができていました。「トキワ荘、青春物語」や「まんが道」でおなじみの子育地蔵尊だそうです。こちらがその子育地蔵尊です。近くのトキワ荘に住んでいたマンガ家先生がたが、背景などに描いたこともあって、観光スポットの一つともなっているんだとか。この説明板を読むとなかなか由緒のあるお地蔵さまのようです。こちらがお地蔵さまのある祠ですが、地域のシンボルで、戦前の「地蔵さんの縁日」の賑わいは、巣鴨をもしのぐほどだったと言われています。現在は、近隣の住民向けの商店街の催しで、参道では「子育て地蔵まつり」が開催されるそうで、食べ物の模擬店なども出揃うそう賑やかなおまつりが続いているみたいです。こちらの路地は、老朽化のために取り壊されたトキワ荘の跡地に続く路地です。こちらがトキワ荘跡地で、どこかの会社のビル社屋が建っていて、トキワ荘の痕跡は残されていませんが、「マンガの聖地」を訪れるファンたちのために、ここがトキワ荘の跡地であることを記したモニュメントが設置されていました。この建物の模型、手塚治虫のトキワ荘物語(→→→こちら)に登場するのと同じですね。こちらの絵のような木造2階建アパートだったんですね。トキワ荘通りにあった絵画です。豊島区トキワ荘ミュージアムおもてなしプロジェクトの一環として展示されているようですが、よく見るとこんな絵で、かなり不気味な絵ですね。隣でこの絵を観ていた小さな男の子、怖かったんでしょうか泣き出してしまいました。子供が泣くのも、裏はあっても表なしの、「おもてなし」ということでしょうか。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その6) トキワ荘通り
2024年06月21日
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山手通りとの交差点に到着です。山手通りを越えて豊島区南長崎に入ります。目白通りを歩いて行くと、薬局とアパートが一緒になった建物の壁に、「トキワ荘ゆかりの地」という、古ぼけたような看板がありました。トキワ荘(→→→こちら)とは、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が若手時代に居住していたことで知られ、漫画の「聖地」となったアパートのことです。この建物のある場所は、昔は映画館だっんですね。漫画家のみなさんはこの映画館で映画を観て、刺激を受け、そのイメージを膨らませて、紙の漫画の上に表現していったんでしょうか。そしてこの道をたどっていくと、目白通り二又商店会と書かれた道路案内に、トキワ荘マンガミュージアム(→→→こちら)への案内も記されていました。今回の駅からハイキングではそこに立ち寄ることになっています。トキワ荘マンガミュージアム、それほど遠くなさそうですね。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その5) 伝説の漫画家たちの町に来た
2024年06月20日
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次の目的地は下落合野鳥の森公園(→→→こちら)です。この細い道に入って行きます。この木製のゲートから先が下落合野鳥の森公園になるようです。立派な石柱に公園の名前が刻まれていました。園内には湧水を利用した池がありました。この公園で見られる野鳥だそうです。野鳥の森公園からさらに坂道を上がり、台地の上にでると、目白通りの下落合四丁目付近に出ました。この「落合」という地域名称は、神田川と妙正寺川との合流点がこの付近にあることに由来するそうです。こちらが目白駅の方です。こちらが南長崎、中落合方面です。こちらの方向へ目白通り沿いを歩いてゆきます。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その4) 下落合野鳥の森公園
2024年06月19日
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新宿区立おとめ山公園です。おとめ山は、御留山または御禁止山と書き、江戸時代にこの一帯が徳川家の狩猟地で一般人の立ち入りが禁止されていたことからこの名前があるそうです。おとめ山公園の中を散策してみます。公園の由来を説明した看板がありました。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成されましたが、のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園したそうです。その後、自然と歴史豊かなおとめ山公園を核に緑や湧水の保全拡充を図り、あわせて地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、公園の隣接地を取得し「区民ふれあいの森」として公園の拡張整備を行っているそうです。面積は27,566平方メートルとかなり広いです。おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地です。園内は、湧水による流れや池、樹林地、原っぱなど様々な自然があふれており、新宿区民が自然と触れ合える貴重な財産ですね。そんな公園ですからホタルを育てているそうです。公園の自然を楽しむ人たちが散策しています。公園の中は叢林(そうりん)という風情ですね。園内には大きな池が所々にあります。優雅に鯉が泳いでいました。こちらの池には、カルガモが棲んでいました。こちらは、崖錐線の公園であるため湧水がみられるそうです。また、公園ということで防災のためにも利用されているようです。こちらは椅子のようですが、椅子を外すとカマドとして利用できるそうです。このような原っぱもあって子供たち元気よく遊んでいました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その3) おとめ山公園散策
2024年06月18日
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諏訪神社への参拝を終えて通りに出ると、この大きな建物が見えてきました。消防署です。そして、こちらは東京メトロの駅。西早稲田駅です。そしてこちらの大きな道を今度は北に向かって歩きました。この通りは明治通りです。「305」という数字は、東京都道305号芝新宿王子線という意味ですが、一口に「明治通り」と呼んでいますが、いくつかの道路がつながってできています。古川橋-( 東京都道416号古川橋二子玉川線)-渋谷橋-(東京都道305号芝新宿王子線)-西巣鴨-( 国道122号)-王子駅前-( 東京都道・千葉県道501号王子金町市川線)-溝田橋-(東京都道306号王子千住夢の島線)-夢の島が組み合わさって「明治通り」になっています。そして橋の下に流れるのは神田川です。神田川沿いに西に歩いて、東京都道8号千代田練馬田無線こと、新目白通りに出ると、JRの跨道橋の下を抜けて、住宅街の中に入ると、ようやく次の目的地である「おとめ山公園」(→→→こちら)に到着しました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その2) おとめ山公園に向かって
2024年06月17日
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5月12日のJR東日本が西武鉄道と共同で開催した駅からハイキング「新緑の公園と漫画界巨匠の足跡を訪れる街歩き」に参加した報告です。高田馬場駅から出発です。高田馬場駅前のロータリーにある平和の女神像です。東京藝術大学名誉教授・文化功労者・彫刻家の山本豊市氏の作品だそうです。 高田馬場再興の記念として作られました。山手線に沿って南に進み、大久保スポーツプラザ入口交差点にある新宿ガーデンタワー、地上37階、地下2階、149.65m(最高159.65m)の超高層複合ビルです。 建物はオフィス、高級賃貸マンション(ラ・トゥール新宿ガーデン)、多目的ホール(ベルサール高田馬場)で構成されているそうです。そこから東に向かって歩き、諏訪神社(→→→こちら)に到着しました。この諏訪神社一帯は平安時代を代表する歌人 在原業平にまつわる伝承があるそうです。在原業平が妻とこのあたりに立ち寄った際、道に迷い二人は離ればなれになり一夜を過ごしましたが、夜明けを迎えると二人はすぐ側に寝ており、夜の暗い森では気づけなかったが実はお互い同じ杉の大木の下で一夜を過ごしており再会することができたというお話です。そこからこのあたりの森は「恋の森」と呼ばれるようになったそうです。境内には、東京都指定史跡の明治天皇射的砲術天覧所阯というのがありました。明治15年(1883年)、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来た時、明治天皇の行幸があったことを記念するものです。この石段を上がって、広場になったところに石柱が建てられていました。石碑には、「明治天皇射的砲術天覧所阯」と刻まれていました。聖蹟と書かれた立て札には、昭和18年12月と記されていることから、昭和18年に東京都より行幸史跡に指定されたのでしょう。こちらの手水舎の水は、諏訪の霊泉と呼ばれていて、この錆びの出た説明板によると、眼病、諸病に霊験有りとして、多くの人々がお水取りに来ていたそうです。社殿に参拝する前に、さらに気になるものがありました。こちらの石碑です。新宿区登録有形民俗文化財、塞神三柱の塔です。これが塞神三柱の塔です。塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神なんだそうですね。こちらは、庚申塔です。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔ですが、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られていました。いよいよ社殿にて参拝です。諏訪神社はもと戸塚村、大久保村、百人町の鎮守でした。社伝によると、平安初期の弘仁年間(810~24年)に小野篁(たかむら)が大国主と事代主をまつったのが起源とされています。その後、源頼義、義家父子、源頼朝が勝利祈願に訪れ、大田道灌も信仰したそうです。残念ながら、元亀年間(1570~73年)、北条早雲により焼かれ、江戸時代初期に尾張藩祖徳川義直によって、信濃の諏訪神社を合祀し、改称・再建したそうです。とはいえ、老朽化していたことから、昭和55年(1980年)に現在の社殿が完成したそうです。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その1) 高田馬場から諏訪神社へ
2024年06月16日
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この浄閑寺には、色々と史跡があるようです。全ては回れませんでしたが、見つけたものだけ紹介します。まず山門の横にあった二基の石碑です。右側にあるのが、「萩原秋巌先生の墓」です。萩原秋巌(1803〜1877)は江戸時代後期の書家だそうです。左側にあったのが、「新比翼塚」比翼塚とは夫婦や心中した男女を葬った墓のことで、「新比翼塚」は明治12、3年頃に品川楼で情死した遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄の二人の供養のために建てられたそうです。文豪・永井荷風は「里の今昔」という作品の中で、浄閑寺の「新比翼塚」の事を書き記しているそうです。この里とは吉原遊里のことを意味するのでしょうね。また永井荷風は「断腸亭日乗」という日記の中でもこの「新比翼塚」について書き記しています。よほど永井荷風の心に残る塚だったんでしょうね。そんなわけで、永井荷風は遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、たびたびこの寺を訪問していたのでしょう。また、永井荷風の詩碑というのが建立されていました。この詩碑には「震災」(→→→こちら)という詩が刻まれています。またこの石塔は、「新吉原総霊塔」というものです。これは、昭和4年(1929年)8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたものです。以前の塔は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女500人余を供養していたものですが、こちらは新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と380年余りの間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政地震、関東大震災に死んだものを含めた25,000人を超える人たちの供養塔になっています。ちなみに「新吉原」というのは、かって吉原遊郭は、日本橋 葺屋町(今の日本橋堀留町一丁目、日本橋人形町三丁目あたり)にありました。しかし、江戸市街は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっため、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転することになったのです。そのため、移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶようになったというわけです。新吉原総霊塔の台座には、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家の花又花酔(はなまた かすい)の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が刻まれていました。【了】人気ブログランキングへ三ノ輪の浄閑寺(その2) 生まれては苦界、死しては浄閑寺
2024年06月09日
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「男が通う極楽道、女が売られる地獄道」とは五社英雄監督の映画「吉原炎上」(→→→こちら)のオープニングのナレーションで流れる名台詞です。その舞台となった吉原遊郭の近くにあるのが、この浄閑寺(じょうかんじ)(→→→こちら)です。荒川区の地下鉄三ノ輪駅近くにあるので、三ノ輪の浄閑寺とも呼ばれています。山号は栄法山という浄土宗のお寺です。浄閑寺の山門は荒川区最古の木造建築物として荒川区教育委員会によって文化財の指定を受けています。山門の脇にある「投げ込み寺、浄閑寺」の解説です。安政2年(1855)の大地震で犠牲となった吉原遊郭の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから、通称「投込寺」とも呼ばれるようになったそうです。その他にも、病気や事件などで亡くなった遊郭関係者も多くこのお寺に葬られたようです。【つづく】人気ブログランキングへ三ノ輪の浄閑寺(その1) 投げ込み寺
2024年06月08日
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聖徳記念絵画館前庭の西側にある石碑と松の木です。石碑には「御鷹の松」(→→→こちら)と記されていました。近くに説明板がありました。江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったとそうです。家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたそうですが、後世の人たちは、「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称するようになったそうです。そして、2021年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となった国立競技場です。国立競技場の外周エリアに設置されたこの変なオブジェを、みなさん覚えていますか?東京五輪・パラリンピックの開閉会式で使われた聖火台です。そう言えば、聖火台はもう一基ありましたね。これは開閉会式で使われた聖火台ですが、もう一基、競技期間中、東京臨海部夢の大橋有明側に設置された聖火台。そちらは江東区有明にあるシンボルプロムナード公園(石と光の広場横)に再設置されているそうです。駅からハイキング「忠犬ハチ公生誕100年!渋谷~原宿・明治神宮までハチ公に思いを馳せるお散歩コース」では、この後、鳩森八幡神社、北参道、明治神宮を経て原宿駅まで歩くのですが、珍しく同行していた配偶者の方が「飽きた」というので、こちらの最寄りの信濃町駅から帰ることにしました。(渋谷からお散歩のコース)【了】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その14) 御鷹の松と聖火台
2024年05月22日
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明治神宮外苑のイチョウ並木を歩いて行くとドームが特徴的な荘厳な建物が見えてきます。聖徳7記念絵画館(→→→こちら)です。明治天皇のご生涯に起きた出来事を題材にした絵画が展示されています。聖徳記念絵画館の前に飾られている一角獣(ユニコーン)です。一角獣は王族を象徴する紋章として王冠などに使われていたそうです。現在のイギリス王家の大紋章には、ユニコーン(一角獣)とレパード(獅子)が描かれています。そういうことを踏まえて、ここにも一角獣がおかれているのでしょうか。この建物は、平成23年(2011年)、「直線的意匠と先駆的技術を採用した、わが国初期の美術館建築」と評価され、明治神宮宝物館と共に国の重要文化財に指定されたそうです。維持管理は宗教法人明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていませんが、入場するためには施設維持協力金500円が必要です。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その13) 聖徳記念絵画館
2024年05月21日
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