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十日戎はも毎年1月9日から3日間行われ、9日を宵戎(よいえびす)、10日を本戎(ほんえびす)、11日を残り福といいます。これは主に大阪では知られた行事ですが、西宮神社は、十日戎の早朝に行われる「福男選び」は報道もされるので、知っている人も多いと思いますが、これも十日戎の伝統的な行事の一つです。ということで、日本橋本町にある「寶田恵比寿神社」(→→→こちら)に残り福をもらいに1月11日にお参りしてきました。どちらかというと、ここは毎年10月19・20日のべったら市と恵比寿講の方が賑わいますね。関西の今宮戎にいくと「商売繁盛で笹もってこい♪」というお囃子で有名です。やっぱり東京ではこんなことないですかね。この寶田恵比寿神社の近くにあるのが「於竹大日如来井戸跡」(→→→こちら)です。於竹さんという女中さんが大日如来の化身ということで、みんなから拝まれるようになったということのようです。その於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあったそうです。人気ブログランキング商売繁盛で笹もってこい♪ 残り福をいただきました
2021年01月12日
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百合子さんが「年末年始コロナ特別警報」を発出していますが、19日に浅草寺へ12月17~19日、今年も恒例の「浅草寺歳の市」、いわゆる羽子板市が開催されていました。仲見世も新年を迎える準備が出来ていました。そして、羽子板市らしく羽子板のお店が。でもやっぱり、百合子さんのコロナ特別警報もあってか、お店の数は少なくて、人出もいつもの年よりは少なかったような。しかし、和服を着てはしゃいでいるギャルも。コロナウイルスなんか怖くないって心意気でしょうか。人気ブログランキングコロナ特別警報の浅草寺歳の市(羽子板市)
2020年12月20日
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墨田区の北端というと、「鐘ヶ淵」という東武鉄道の駅があります。今は、墨田区墨田という町名ですが、その昔、明治の頃には、東京府南葛飾郡隅田村の通称・鐘ヶ淵と呼ばれていました。その鐘ヶ淵の地に、明治20年(1887年)に創立された東京綿商社が、後のカネボウ株式会社(鐘淵紡績、鐘紡)となりました。また、カネボウの非繊維事業を分離独立した鐘淵化学工業(現・カネカ)の工場もこの地にあったそうです。残念ながら、カネボウは粉飾決算を繰り返した結果の債務超過のため平成19年(2007)に解散しましたが、化粧品部門のカネボウ化粧品は、「カネボウ」の商標と共に「花王」に売却されたため、創業の地には、「カネボウ化粧品」の物流倉庫があります。このカネボウ化粧品の建物の裏手にひっそりあるこの公園。「カネボウ公園」と言う名前です。公園の中では、ゲートボール場となっていましたが、その片隅に「鐘淵紡績発祥の地」と刻まれた石碑が、雑草の生い茂る中にひっそりと取り残されたように佇んでいました。かっては、明治から昭和初期にかけて国内企業売上高1位を誇り隆盛を極めた紡績会社でしたが、やはり時代の流れの中で、会社が生き残るって大変なんですね。人気ブログランキング鐘淵紡績発祥の地
2020年12月17日
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榎本武揚像のある梅若公園には、謡曲「隅田川」(→→→こちら)のもととなった「梅若塚」があります。梅若塚にまつわる伝説とは、京の都から、かどわかされて連れ回され、衰弱して倒れた12歳の子ども梅若丸と、さらわれた梅若丸を捜し尋ねて狂女となった、母、花御前の悲しくも切ないお話てす。 12歳の梅若丸がいまわの際に「たづね来て とはゞこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと」母が、自分を探して尋ねて来たら、隅田川の辺で息絶えました…と教えて欲しいと詠い、梅若丸は亡くなりました。その折、その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が里人と墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ ています。そしてその後、わが子恋しと梅若丸の行方を探し求めた母親が隅田川のほとりにたどり着き、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは翌年、ちょうど一周忌の日のことでした。その晩、悲嘆の涙にくれる母とともに大念仏が催されているその時、一目でも会いたいという母親の願いが通じたのか墓から梅若丸の亡霊が現れます。しかしそれも束の間、再びその姿は消え去ってしまいます。 その後、塚のかたわらには庵室が営まれて母親はそこで暮らしていましたが、わが子が忘れられない母は、遂に浅茅池に身を投げてしまいます。石碑が建てられ、東京都指定の旧跡となっています。この円形に石が並べられているのが、「梅若塚」なのでしょう。人気ブログランキング梅若塚と梅若伝説
2020年12月16日
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墨田区の北端、墨堤通りに面した梅若公園にある榎本武揚銅像です。 榎本武揚(→→→こちら)についての説明が書かれていました。 戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領したものの箱館戦争で敗北し降伏、東京の牢獄に2年半投獄された。その後黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕え、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となったそうです。 豊臣秀吉に仕え、その後徳川家康に乗り換えた大名が江戸幕府を支えたように。歴史上にはそういう人物がいるもんですね。 それに新たに別の主君に仕えることになっても、その人物が能力があって使えるからこそ新しい主君も雇うというものでしょう。 そんな、榎本武揚の銅像がどうして墨田区にあるかというと、1905(明治38)年から没する1908(明治41)年まで向島で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。ことから武揚没後の大正2年(1913)5月に木母寺の旧境内である現在地に建立されたそうです。 しかし、長年この姿で立ち続けたせいか、若干色褪せてくたびれた感じですね。 人気ブログランキング 榎本武揚銅像
2020年12月15日
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東京は久しぶりのいい天気。今夜の月は半月でした。人気ブログランキング今夜は半月でした。
2020年10月25日
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御茶ノ水駅の近くにあるこの坂道。御茶ノ水ソラシティの南側を、「本郷通り」から「外堀通り」の方向に下る坂です。「幽霊坂」という名前がすごいですね。「江戸時代には火消役の屋敷があり、そこへ上る坂道でした。江戸時代の初めは緩やかなカーブで、埃(ごみ)坂あるいは光感寺坂とも呼ばれていました。のちに直線状に整備されて、紅梅坂へとつながっていましたが、大正時代の区間整理で本郷通りができたために2つに分かれた形となりました。このあたりは木々が繁っていて昼間でも薄暗かったことから、幽霊坂の名が名づけられています」と標柱には書いてありました。ちなみに「幽霊坂」という名前の坂道は、都内に結構あるそうで(→→→こちら)、それだけ江戸の町には幽霊が出そうな所があったということでしょうか。【追伸】先日、「チコちゃんに叱られる」で山手線は品川から田端の区間だと言われていましたが、うちの家族の間で「大阪環状線の区間は、どこからどこまで?」と話題になりました。今度、チコちゃんのお便りコーナーへ手紙でも書いて質問してみようかな。岡村は大阪出身なので正解を知っているかも。人気ブログランキング幽霊坂
2020年09月14日
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床の上にあった蝉の骸。これが本当の蝉ファイナルでしょうか。人気ブログランキングセミ・ファイナル
2020年08月22日
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御茶ノ水駅近くにある聖橋から、秋葉原の方を見てみると、神田川の上に架かる東京メトロ丸ノ内線の橋梁が見えます。地下を走ってきた地下鉄は神田川の下を潜らずに、ここで地上に顔を出して、神田川の上を渡り、次の御茶ノ水駅に向けて、また地下を進んでいきます。丸ノ内線、地下鉄といいながら、こうやって所々で地上に現れているのは、台地と谷が多い東京を走っているからでしょうか。ということで、駅間歩きを再開します。人気ブログランキング神田川を渡る丸ノ内線
2020年07月16日
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東京医科歯科大学の壁画レリーフを7月8日の記事(→→→こちら)で紹介しましたが、次の駅間歩きを始める前に、もう少しこの壁画レリーフを詳しく紹介します。こちらが、壁画レリーフのある東京医科歯科大学です。建物の最上部にある壁画レリーフです。これは3点の絵画からなっています。左にある作品は、医学の父ヒポクラテス像とあるべき医師の心得とされる「ヒポクラテスの誓い」です。中央は、ヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれているラファエロ作「アテネの学堂」だそうで、対話による教育の原点を表しているということです。右の作品は、1846年マサチューセッツ総合病院で行われた歯科医師モートンによる世界最初の全身麻酔公開実験を描いたロバート・ヒンクリーの作品だそうです。このように、壁画では「診療」「教育」「研究」を題材とし、21世紀を迎えた今日、これら先哲の教えを理念としつつ、よき医療人の育成に日々励むことを大学として誓うものだそうです。これからも多くの医師を育てて欲しいですね。人気ブログランキング東京医科歯科大学の誓い
2020年07月15日
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東京都の小池知事が、不要不急の外出を控えるなど感染を広げない行動をとるよう呼びかけているにもかかわらず、それほど急ぎでもない用件で、茗荷谷まで出かけました。 折角、ここまで来たのだからと、不要不急のついでに、播磨坂の桜を観に行きました。 当然のことながら、さくらまつりは中止、シートを敷いての宴会、飲食は自粛ということです。 まあ、ベンチに座って花見をするのはいいのかも。 だって、もう花も散り始めていますから、花の命は短いのです。 そんなわけで、桜の花が美しい間に見たかったのです。ごめんね、百合子さん。 この播磨坂さくら並木は、第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された道路です。播磨坂の名前は、この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなんでつけられたそうです。 そして、昭和35年に坂の舗装が行われた際に、当時の花を植える運動の一つとして桜の木約150本が植えられました。それから、地元の人々の手で育てられ、こんな立派な桜並木になったそうです。 ちなみに環状3号線、ここから外苑東通りや言問通りにつながるはずですが、用地買収や立ち退き交渉が暗礁に乗り上がるなどが原因で、未だつながっていません。 以前、3月3日付で「文京区散策(その10) 曹洞宗寺院青龍山林泉寺の縛られ地蔵 」の記事を書いたときに、「丼太郎」に行けばよかったのにというコメントがあったので、「丼太郎」に行ってみました。 ここは元々「牛丼太郎」(→→→こちら)という低価格が売りの牛丼チェーンの店だったのですが、その牛丼太郎が経営破綻してからも、細々と誰かが牛丼の店を続けていたのですね。 人気ブログランキング 不要不急の外出で「播磨坂さくら並木」
2020年03月28日
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木によっては、まだ蕾が多いものもありましたね。 さて、江戸川公園には、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復元した施設があります。 大洗堰について解説した説明板です。 こちらは石に刻まれた、大洗堰の由来でした。 大洗堰の復元された場所は親水公園というのでしょうか、子供たちが水遊びできるような浅い池になっていて、オタマジャクシなどもいるようでした。 こちらが、水の取り入れ口が復元されたものです。この石材は江戸時代に大洗堰に使われていたものをそのまま利用しているそうです。 このすべり台は子供たちに人気のようでした。 江戸川公園からホテル椿山荘とは隣接しています。 椿山荘の中に入ると、こんな建物があり、茶室として使われているのでしょうか? 今度改めて、このあたりは調べてみたいと思います。 椿山荘のあたりまで来ると、首都高の出口に向かう高架橋もなくなり、対岸も桜並木となっていました。 神田川の水面に写る桜を狙いましたが、上手くいかないですね。 亀がのんびり日向ぼっこしていました。 外来種のミシシッピアカミミガメですね。 コロナウイルスがあっても、感染防止に気をつけてお花見を楽しみたいものですね。 【了】 人気ブログランキング コロナウイルスには負けないぞ(その4) 復元された大洗堰
2020年03月25日
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コロナウイルスには負けないぞ! 昔、MoMo太郎の愛車は日産ブルーバードでした。 コロナウイルスに負けないように体力をつけるため、靖国神社から飯田橋、神楽坂と歩いて江戸川公園までやってきました。 江戸川公園の特徴は、神田川沿いに植えられたソメイヨシノですね。 川沿いの遊歩道を歩きながら桜を眺めて楽しむのが、コロナウイルスが流行している時の花見です。 神田川と桜の景色を撮影してみました。 これが満開となり、そして散って神田川の川面に花筏となっていく様子を想像できますね。 やはり、太陽がよく当たる川面に桜も枝を伸ばしているのでしょうね。 首都高速5号池袋線の早稲田出口に向かう高架橋と桜の対比も、東京でする花見という感じです。 【つづく】 人気ブログランキング コロナウイルスには負けないぞ(その3) 江戸川公園
2020年03月24日
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これは「母の像」です。戦争で夫を失うも、遺児を抱えて力強く生き抜く母を表した像です。苦難に耐え、自分達を育ててくれた母への感謝を込め、日本遺族会青年部により昭和49年(1974)、奉納されたものです。こちらは、いわゆる「靖国の桜」。靖国神社が招魂社として創建された翌年(明治3年)、初めて植えられた桜が始まりといわれています。その後、多くの人が英霊を祀るために桜を植えられたようです。青空の下の桜、春を感じる時ですね。この淡い色合いがMoMo太郎は好きです。こちらはまだ花が開いていない山桜です。「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」ですね。靖国神社の奥にある神池庭園に咲く桜です。【つづく】人気ブログランキングコロナウイルスには負けないぞ(その2) 靖国の桜
2020年03月23日
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コロナには負けないぞ! 昔は日産のブルーバードに乗っていたMoMo太郎です。 新型コロナウィルスの感染を心配するあまり、家に閉じこもっていたら、もう東京の桜は散っちゃうぞ、ということで、3月21日は花見に行ってきました。 行先はここ。 靖国神社です。 靖国神社から靖国通りを挟んで向かい側にある北の丸公園。日本武道館の屋根も見えます。 靖国神社の前にあるこのビル。 「NIPPON KOEI」という会社のもののようです。日本光栄、靖国神社にふさわしいような、なかなかいい名前ですね。でも本当は「日本公営」(→→→こちら)という会社でした。 靖国通り沿いの桜並木、まだ咲き初めといったところですかね。 外苑のこのあたりの桜もまだ五分咲くらいですか。でも、例年このあたりは花見の宴会をやっている所ですが、 こういうことで、宴会は自粛ですね。 近代日本陸軍の創設者の大村益次郎の銅像です。 この銅像の周辺、いつも露店が出てお酒やおでん、焼き鳥なんかあったんですが、やっぱり出ていないですね。露天商の皆さんへの経済的ダメージも大きそうです。 手水舎ですが、柄杓が置かれていないのも、新型コロナウイルスの感染防止のためでしょうか。 靖国神社にある標本木です。 こちらの桜が気象庁の開花宣言を出しているのですね。 中鳥居の前の靖国の桜です。 やはり、参拝は欠かせないですね。MoMo太郎も新型コロナウイルスとの戦いでの、日本の勝利をお願いしてきました。 【つづく】 人気ブログランキング コロナウイルスには負けないぞ(その1) 靖国神社へ
2020年03月22日
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大嘗宮を見学した後も、皇居東御苑は観ておくべきものがまだありますね。大嘗宮のすぐ後ろにある。この石垣。天守台跡の石垣です。江戸時代の初期に天守が建っていた天守台の石垣が現存しています(ではなく、火事で焼失した後、再建しようとして石垣だけ作ってやめた跡だそうです)。こんな立派な石垣、なかなか見られないですね。桃華楽堂です。昭和41年2月に音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう=昭和天皇の皇后)の還暦記念として建設された200名収容の音楽ホールです。キンポウゲ科の「テッセン」の花弁(八弁花)を形どつた屋根と八面体という珍しいフォルムで、外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅を施した、建物そのものが芸術品みたいなものです。桃華楽堂の名は、香淳皇后の誕生日が3月6日なので桃の節句にちなんで桃とし、華の字形は十が六個と一で構成されていることから還暦(数え年61歳)を意味するということで命名されました。こちらの平川門から外に出ることができます。写真に外国人観光客らしい人が写り込んでいますが、実は、この東御苑、いつでも自由に、しかも無料で見学できるのです。この人達も大嘗祭とか関係なく、皇居の観光に来られたのですね。平川門の出口です。ちなみにこの平川門、城内で出た死人や罪人をここから出すための門でした。ということで、赤穗事件の浅野内匠頭も最後はここから出たのでしょうね。平川門にわたる橋、未だに木造の橋でした。また、平川門は本丸から最も近い通用門という位置から、大奥女中達の出入りする通用門「お局御門」としても機能していたそうです。ということは春日局なんかも利用したんでしょうね。【了】人気ブログランキング大嘗宮一般参観に行ってきました(その4)皇居東御苑
2019年12月04日
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皇居東御苑にたつケヤキの木、なんかいい形だったので撮影しました。そして、いよいよ大嘗宮(だいじょうきゅう)に近づいて来ました。沢山の人が大嘗宮の前で見学しています。この大嘗宮、木造で意外と質素な海の家みたいな建物でした。大嘗宮は大嘗祭(だいじょうさい)のために作られたもので、一般参観が終わった後に取り壊されるという仮設の建物なんですね。とはいえ、大嘗祭は、毎年11月にある五穀豊穣や国家安寧を祈る「新嘗祭(にいなめさい)」の中でも、即位後初めて行う儀式をいう。皇位継承に伴い一代に一度だけあり、重要な儀式だそうですから、立派な鳥居がある神社に近い建物でした。そして、大嘗祭の儀式は、平安時代から基本的に変わっておらず、今回もこれまでの伝統が踏襲されているそうです。一体どんな儀式だったのでしょうか。大嘗祭の「嘗」という字、臥薪嘗胆の嘗胆、つまり胆(きも)を嘗(な)めるということで、天皇陛下が全国からお取り寄せとなった名産品、特産品を、この大嘗宮の中で大いに嘗めていたということは、下衆の与太話ですね。この大嘗宮を囲んだ塀も興味深かったです。むしろのようなもので、桟木で固定され、一面にサカキが差し込まれていました。こういう細部まで設計図が保管されているのでしょうか。すぐに取り壊されるとはいえ、建築を請け負った宮大工さんも一世一代の大仕事だったのでしょう。こちらは大嘗宮の側面です。こちらは、裏手から撮影したものです。大変興味深い、また神聖なものを観ることができました。【つづく】人気ブログランキング大嘗宮一般参観に行ってきました(その3)大嘗宮です
2019年12月03日
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富士見櫓をよく見てましょう この櫓どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれているそうです。 また、建物のすぐ下、石垣上にせり出している棚のようなものがありますが、ここが石落し仕掛けだそうです。やっぱりお城ですから、防御のことも考えていたのですね。 富士見櫓の下を抜けると、皇居東御苑というエリアになります。 そこで最初に見えたのが、この建物「百人番所」です。丁度ここは江戸城本丸の入り口となるところになります。 名前の通り「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)の4組が交代で詰めていて、各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです。そして、同心100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれています。 こちらは、江戸城本丸への最後の番所(警備の詰所)となる「大番所」です。最後の砦なので、百人番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。 大番所から続く坂を登ると、大嘗宮が見えてきました。 その途中で売店があり、中で休憩を。 売店の中にある休憩所では、大嘗宮の模型が展示されていました。 こちらは雅楽を舞っている模型ですね。これも展示されていました。 この広々した芝生は江戸城本丸跡になります。 【つづく】 人気ブログランキング 大嘗宮一般参観に行ってきました(その2)富士見櫓から本丸跡
2019年12月02日
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皇居東御苑に作られた大嘗祭(だいじょうさい)の舞台である大嘗宮(だいじょうきゅう)が一般公開されているので、折角の機会なので参観させてもらいました。訪れたのは11月24日、雨模様の日曜日でしたが、すでに行列ができるくらいの参観者が集まっていました。行列を離れるわけにはいかなかったので、ちょっと写真のアングルは良くないですか、この石橋の奥にあるのが正門鉄橋、いわゆる二重橋です。警視庁の方も大集合ですね。皇居の中へは、この坂下門から入って行きます。皇居の中では自撮り棒での撮影は禁止。こちらは宮殿です。この中へは入れませんでした。MoMo太郎は文化勲章を授与される時に訪問する予定です(^_-)-☆。こちらは宮内庁の庁舎。宮内庁を過ぎると正面に見えるのが富士見櫓。江戸城の時代から残っている建物だそうです。そして、十月桜?と紅葉の競演です。春の桜より花はちょっと小ぶりでした。【つづく】人気ブログランキング大嘗宮一般参観に行ってきました(その1)坂下門と宮内庁
2019年12月01日
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笠間稲荷神社の奥にある門です。この門の先には笠間稲荷美術館があり菊人形展をやっていました。こちらが笠間稲荷美術館の入り口、奥に見える建物は「瑞鳳閣」という建物で、大正天皇御即位記念(大正6年)に建てられたものだそうです。屋根の上に飾られた鳳凰の飾り。顔ハメありました.ちなみに菊人形は入場料800円ということなので、遠慮させてもらいました。この番組、上白石萌恵さんが水泳選手の役で水着姿で登場した回だけ見ただけで、毎週見ているわけでもないし興味ないので。この建物が笠間稲荷美術館。笠間稲荷美術館のある通りには旅館が並んでいました。料亭旅館とか、割烹旅館とか、料理が売り物の旅館なんですね。お参りの後に宴会したり、七五三参りの後に家族で食事する、ちょっとリッチな上級国民のみなさんのための施設ということですね。【了】人気ブログランキング笠間の菊まつり(その5) 笠間稲荷美術館と料亭旅館
2019年11月17日
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笠間稲荷神社にはまだまだ菊の花が飾れていました。上段は、ポットマムという仕立て方でしょうか。下段に飾られた菊は管物という種類の菊で、菊花展の出展用に花だけを育てた切り花ですね。こちらは広物と呼ばれる種類で三本仕立てにしています。こちらは厚物の福助作りという仕立てですか。頭でっかちの姿が福助人形に似ているのでそう呼ばれるそうです。こちらの菊は賞をいただいようですね。厚物の花の下に袋状の真っ直ぐ長い走り弁が放射状に付いた厚走りという種類です。こちらは管状の花弁が長く真っ直ぐ伸びて、花弁の先は小さく固く玉巻き状となる管物という種類の三本仕立て。管物は管の大きさで「太管」、「間管」、「細管」に分けられるそうです。NHK大河ドラマの「いだてん」の菊人形展もやっていました。【つづく】人気ブログランキング笠間の菊まつり(その4) 菊の種類と仕立てを学ぶ
2019年11月16日
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折角、参拝に来たのですから、やはりお参りもしておきましょう。まず、この楼門を潜ります。この楼門は、「萬世泰平門」と言い、重層入母屋造で昭和36年に竣工の建物だそうです。この楼門の横に車祓所があります。こちらが拝殿。拝殿の扁額です「稲荷宮」と記されています。拝殿に掲げられた板絵です。彩りが鮮やかな板絵ですね。この笠間稲荷神社、江戸時代においては歴代の笠間藩主の篤い崇敬を受けていました。笠間藩の第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩公の曾祖父、浅野長重公で、第六代藩主が祖父、浅野長直公でしたが、寛永21年(1645)に赤穗藩に移りました。そして、大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神さまの御分霊をいただいて邸内にお祀りし、大石稲荷神社とし崇敬していたそうです。【つづく】人気ブログランキング笠間の菊まつり(その3) 笠間稲荷と赤穗浪士
2019年11月15日
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笠間稲荷神社の参道にある立派な懸崖です。懸崖(けんがい)というのは、菊の仕立て方のひとつで、摘芯をくり返して花の滝のように崖から垂れ下がった形に仕立てるもので、自然環境の中で断崖絶壁にしがみつくように生きる樹々を模したものだそうです。ちなみに、摘芯とは植物の茎の一番先端にある芽(頂芽)を摘み取ることで、脇芽に栄養が届くようすることで、脇芽が増えて枝ぶりが良くなります。こちらは地元の小中学校のお友達が、栽培してくれた菊です。こちらは三本仕立てと呼ばれる菊の仕立てです。大菊の最も基本的な仕立て方です。1本の苗を摘芯して3本の枝を伸ばし、後の1輪を花の2/3位高く、前の2輪は同じ高さに、三つの花を同時に、 同じ大きさに揃えて、出来るだけ巨大輪に咲かせ、茎・葉を含めた全体が調和を保つように育てるそうです。 こちらには品評会への出展された菊が展示されていました。こういう、数百枚の花弁が花芯の中央一点に向けて鱗状に整然と高く盛り上がったものを「厚物」というそうです。こちらは三輪とも同じ高さで、栽培している人にとっては、ちょっと不本意だったかも。後ろの一輪の高さがやや高く仕立てられています。こういう仕立てだと、結構いいかもしれませんが、写真がブレていますね(^_^;)【つづく】人気ブログランキング笠間の菊まつり(その2) 日本の華「キク」
2019年11月14日
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MoMo太郎は今まで通算すると7年間の茨城県民歴があります。そんなわけで、日本に9つはあるといわれる日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間市にある笠間稲荷は、東京に住んでいる今でも時々お参りにいっています。門前にはお土産物屋さんや飲食店が並んでいますが、時間が早くて余り人も出ていませんでした。丁度、この時期、10月19日(土)~11月24日(日)は笠間の菊まつりが開かれていて、神社の中は菊の花で彩られていました。ところで、日本三大稲荷というと、次の9カ所が候補となるそうです。1.伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ・京都市伏見区)2.祐徳稲荷(ゆうとくいなり・佐賀県鹿島市)3.豊川稲荷(とよかわいなり・愛知県豊川市)4.笠間稲荷(かさまいなり・茨城県笠間市)5.最上稲荷(さいじょういなり・岡山県岡山市)6.竹駒神社(たけこまじんじゃ・宮城県岩沼市)7.千代保稲荷(ちよぼいなり・岐阜県海津市)8.瓢箪山稲荷(ひょうたんやまいなり・大阪府東大阪市)9.草戸稲荷(くさどいなり・広島県福山市)これらが全て稲荷神社というわけではなく、豊川稲荷の正式な名前は「豊川閣妙厳寺」で曹洞宗の寺院、最上稲荷の正式な名前は「龍王山神宮寺」で日蓮宗の寺院。というようです。また、伏見稲荷大社は、稲荷神社の総元締めで、唯一無二の存在ですから、自らは三大稲荷のメンバーだとは名乗っていないようです。MoMo太郎は、このうち7の千代保稲荷から9の草戸稲荷を除く、6カ所のお稲荷さんに参拝していますが、個人的には、竹駒神社、豊川稲荷、そしてこの笠間稲荷が三大稲荷にふさわしい雰囲気があるのではと思っています。ちなみに、祐徳稲荷は、願い事は神様に「ゆうとく」だけで願い事は実行はされないのだと、佐賀県民の方から言われたことがあります。【つづく】人気ブログランキング笠間の菊まつり(その1) 日本三大稲荷
2019年11月13日
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上野公園で見ておくべき必須のポイントといえば、やっぱり西郷さんの銅像ですね。西郷さんの銅像というと、むかしMoMo太郎が行っていた床屋さんのご主人の話を思い出します。この床屋さんのご主人、福島から集団就職で上京してきたそうですが、休みの日に同郷の友達と会おうという時に、本人も友達も田舎から出てきて、東京のこともよくわからず、お互いが知っている場所というと、この上野の西郷さんしかなかったので、いつもここで待ち合わせしていたそうです。そして、西郷さんほど有名ではないかもしれませんが、この上野大仏というのも外せないですね。もともとは像高約6メートルの釈迦如来坐像があったそうですが、関東大震災の時に、罹災により頭部が落下。再建を目指して、上野寛永寺で胴体と頭部を保管していたところ、再建もできず、第二次世界大戦とのときに胴体部は金属供出で失われたため、現在では顔面部のみがレリーフとしてここに安置されています。また、胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」とも呼ばれ、受験生らが合格祈願に訪れています。この場所には、仏塔パゴダが建立されました。パゴダの内部には、寛永寺の秘宝薬師如来像、左に月光菩薩、右に日光菩薩が安置されているそうです。即位礼正殿の儀の日、休日と言うこともあり、上野公園には、白いテントが沢山並べられていました。雨の中、このイベントは決行されたのでしょうかね。こちらは大道芸人の方の見事な演技が披露されていました。こんな感じで高かったのですね。バランスを崩さないように下に降りるのも怖いですね。【了】人気ブログランキング即位礼正殿の儀の日のこと(その7) 上野公園といえば
2019年11月09日
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国立西洋美術館では、内藤コレクション展「ゴシック写本の小宇宙――文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」 という展示がされており、なかなかのものだなと思って撮影しました。ゴシック写本とは、このサイズの紙に手書きで、文字が書き写されているだけではなく、挿絵や装飾が施されていました。このような完全な本の状態ではなく、一部のページだけのものを「零葉(れいよう)」と呼ぶそうです。おそらく完全な本だと非常に高価なものとなるので、愛好家が安価で入手しやすいものとしてこういうものが取引されているのでしょうね。さて、内藤コレクションとは、中毒学を専門する学者/医師として知られる内藤裕史氏(筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授)が数十年にわたって一枚ものの写本零葉を蒐集してこられており。ご自身のコレクション約150点を、2016年春に一括で国立西洋美館に寄贈しものだそうです。こういう貴重なものを、学問の傍らコツコツと蒐集されてきたのでしょうが、1932年生まれということだそうなので、就活終活としてこのコレクションを美術館に寄贈されたのでしょうか?家族で、こういう美術品をいざ相続することになると、財産として高いと相続税が膨らむなどの問題があるかもしれませんしね。ところで、内藤裕史先生、札幌医大出身だそうで、1968年に札幌医大であった和田寿郎移植事件(→→→こちら)の時は、札幌医大に麻酔医として勤務していたようです。裁判で証言台に立ったかもしれませんね。ところで、もうひとつ、MoMo太郎が強く惹かれたものは、展示品ではなく、展示室の至る所に置かれていたこの計測器具。温度と湿度をドラムに巻き付けた紙に記録していくものです。結構アナログなものを使っているなと思いましたが、時間的な温度と湿度の変化を常時監視できるので、それなりに便利なのでまだ使われているのかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキング即位礼正殿の儀の日のこと(その6) ゴシック写本、心臓移植、そして温度と湿度の管理
2019年11月08日
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天皇陛下の即位のお祝いですね。我々下々の者にも有り難いことにここも無料で観覧することができました。こちらは国立西洋美術館(→→→こちら)です。名前の通り、西洋の美術作品を専門とする美術館です。そして、この本館は「ル・コルビュジエ(→→→こちら)の建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産として世界文化遺産に登録されているそうです。 世界文化遺産といえば、沖縄の赤い首里城のように焼失しないことを祈ります。美術館の前庭にあるロダンの考える人です。この西洋美術館、フラッシュを使わなければ写真撮影してもよいそうでしたので、館内の様子を殺意しました。こちらは絵画が展示されているゾーンです。不思議なことに、真面目そうな女子高校生が目につきました。雰囲気からして、高校の美術部の部員なんでしょうか。熱心に絵をみていました。【つづく】人気ブログランキング即位礼正殿の儀の日のこと(その5) 世界文化遺産の美術館
2019年11月07日
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即位礼正殿の儀の日には、ここ東京国立博物館も無料で公開されていました。 国立と名のつく博物館は他にも、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館があるそうです。こんなに博物館があって無駄な気もしますが、それぞれの博物館ごとに目的が違うようです。 例えば、東京国立博物館は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などが目的で、京都では、京都の文化を中心とした文化財を、奈良では、仏教美術を中心とした文化財を、九州では日本の文化の形成の歴史にまつわる文化財を、それぞれ展示しているそうです。 こちらは本館。この建物の鉄筋コンクリート造りの瓦屋根の和風建築風というのが、和洋折衷という日本の文化を体現しているのかも。 こちらは表慶館。こちらはヨーロッパの宮殿を思わせる建物で日本と東洋の文化財を西洋の入れ物にいれておくという、「和魂漢才」、「和魂洋才」という我が国の伝統を具現化しているのでしょうか。 こちらは本館裏にある庭園です。こういう日本庭園そのものも文化財かも。 午後になって、雨も止んできました。 さて即位礼正殿の儀の日には、こちらの国立科学博物館も無料公開されていました。こちらも行きたかったのですが、まだ見たいところがあって、今回はパスしました。 【つづく】 人気ブログランキング 即位礼正殿の儀の日のこと(その4) 東京国立博物館
2019年11月06日
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即位礼正殿の儀の日ということで、無料で入場できた上野動物園。折角きたのですから、動物も少し見ましたよ。上野動物園の東園と西園をつなぐ「いそっぷ橋」の上からみた「子ども動物園すてっぷ」です。雨の降る中、馬が見えました。こんな馬です。近くで見てみると、やや小型のウマでした。トカラ馬(→→→こちら)という種類の馬です。馬のつぶらな瞳を見てると、癒されますね。まさにホースセラピー(→→→こちら)になるかも。そっぽを向いているのはラマ、手前はアルパカです。こちらはコウノトリです。同じようにいそっぷ橋から見えたのは、建設中のパンダ展示施設「パンダのふるさとゾーン」(仮称)です。こちらがパンダ舎の紹介した案内板。 ジャイアントパンダをより生息地に近い環境で飼育しるそうです。また、希少動物であるジャイアントパンダの繁殖を推進することも目指しているそうです。パンダの世界も少子高齢化ということでしょうか。日本生まれのパンダが増えるといいですね。こちら動物園の敷地の中にある旧寛永寺五重塔。重要文化財だそうです。この五重塔は寛永寺から東京都に寄付したもので、そのため旧寛永寺五重塔と呼ばれているそうです。【つづく】人気ブログランキング即位礼正殿の儀の日のこと(その3) 動物園に来たので動物も見ましょう
2019年11月05日
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MoMo太郎の周囲の人に聞いてみると、上野動物園に来たことはあるけど、モノレールに乗ったことがないという人が意外と多かったです。 かく言うMoMo太郎も、モノレールに乗った記憶がなく、この機会に上野動物園モノレールに乗ってみることしました。 こちらが西園駅の券売機です。 料金は、大人150円、子供80円、地下鉄の乗車料金としては、営業キロ数に比べると高い感じもしますが、遊園地にある乗り物と考えると、お安い感じもしますね。 ちゃんと、乗車件を購入しました。 モノレールが駅に着きました。 子供たちが喜びそうな動物の姿が描かれ、また明るい色で塗装されていますね。 こちらが、モノレールの運転台。意外と今風の運転席まわりでした。 東園駅に到着したモノレール。 乗車記念スタンプが備えられていました。子供はこういうスタンプとか好きですね。でも、「スタンプのインクで手を汚さないようにね」。この子もお母さんからそう言われていましたが・・・。 MoMo太郎も記念スタンプを押印。 モノレール東園駅の出口あった表示です。 「またのってね!」とは書いてありますが、多分、「また」はないかも。 【つづく】 人気ブログランキング 即位礼正殿の儀の日のこと(その2) モノレールに乗ってみよう
2019年11月04日
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10月22日の「即位正殿の儀の日」には、上野動物公園が無料で公開されました。当日は雨模様にもかかわらず、パンダ舎の前には30分待ちの行列ができていました。しかし、今日の目的はパンダではなく、「上野動物園モノレール」。こちらがモノレールの東園駅です。上野動物園の東園駅と西園駅の間、0.3kmを約1分半で結ぶ上野動物園モノレール、残念なことに令和元年11月1日から運行が休止となりました。ということでこのモノレールを撮影&乗り納めに行ったわけです。ところで、上野動物園モノレールは、正式名称を「上野懸垂線」といい、1957年に日本で最初に開業したモノレールだそうです。そして、このモノレール、動物園のアトラクションではなく、鉄道事業法に基づく交通機関として東京都交通局の運営により営業運転を行っていました。なぜ日本初のモノレールが上野動物園に設置されたのかというと、1957年当時は、路面電車の都電が交通手段の主流だったところ、普及しはじめた自動車による交通渋滞で都電の定時運行が難しくなっていたため、地下鉄やモノレールといった新しい交通手段の導入が検討されていました。そのモノレールの実験線の設置場所として、この上野動物園が選ばれたとのことです。上野動物園だと、一定の運行距離を確保でき、高低差や小半径の曲線が作れて、利用者数も見込める場所だったいうのが理由のようです。今の山梨県にあるリニアモーターカーの実験線みたいなものだったんですかね。このモノレールは「片腕懸垂式」という形式なのですが、車両の経年劣化が進んでいる中で、この片腕懸垂式を採用するモノレールは国内にほかになく、車両の更新や部品交換などが難しくなったことから廃止の方向のようですね。輸送力に優れた地下鉄が都市交通の主流となり、モノレールについても多摩地区や千葉市内でも実用化され、更には「ゆりかもめ」のような新交通システムもあり、今更、モノレールの実験を続ける意味もないのでしょう。ちなみにモノレールは上野動物園のアトラクションとして人気だったようで、2017年度の経常損益は2400万円の黒字だったそうです。【つづく】人気ブログランキング即位礼正殿の儀の日のこと(その1) 上野動物園モノレール
2019年11月03日
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昨夜(13日)は中秋の名月、曇り空で見えなかったのですが、一日遅れで十六夜の月を撮影しました。人気ブログランキング十六夜の月
2019年09月15日
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日本橋浜町界隈をぶらりといっても、新大橋を渡ると江東区ですね。新大橋は、両国橋に続いて、隅田川に架けられた三番目の橋で、「大橋」と呼ばれていた両国橋に対して新しい橋という意味で付けられた名前だそうです。ちなみに隅田川に架けられた最初の橋は千住大橋だそうです。橋の中央の塔には、この橋の歴史を紹介するレリーフが飾られていました。このレリーフは、歌川広重が描いた名所江戸百景の中にある新大橋の絵で、「大はしあたけの夕立」という題名の絵です。「あたけ」というのは、河岸に係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)に因んで呼ばれていた新大橋付近の地名だそうです。こちらは、今の橋になる前に架けられていた旧橋の絵だそうです。こちらには新大橋の歴史が記されていました。【了】人気ブログランキング日本橋浜町界隈(その4) 新大橋
2019年09月10日
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日本橋浜町から隅田川を渡って森下の方へ歩いて行きます。この黄色い塔が新大橋の目印です。橋の下を隅田川を走る水上バスが橋の下を通って行きます。この船は「ホタルナ」という名前の船のようです(→→→こちら)隅田川から見る空は広々と感じますね。こちらは東京水辺ラインの船ですね。こちらは公益財団法人東京都公園協会が運営しているので、東京オリンピックのマスコットが描かれているのですね。【つづく】人気ブログランキング日本橋浜町界隈(その3) 水上バス
2019年09月09日
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日本橋浜町界隈をぶらりとしています。そういえば、今日から九月場所が始まりますね。蒼国来という中国出身力士のいる荒汐部屋は日本橋浜町にあります。蒼国来、むかしは幕内でしたが、今は十両ですかね。荒汐部屋、正面がガラス窓になっていて稽古風景が見学できるようになっています。こちらは清洲橋通りに面したビルの看板です。以前はここに重量挙げのジムがあった時の名残で今は一階に、多分、中国の憲法みたいなものでしょうか、正体不明の団体が入っているようです。しかし、その他には入居者はいないようで、そのうち取り壊しになるのかも。【つづく】人気ブログランキング日本橋浜町界隈(その2) 荒汐部屋
2019年09月08日
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日本橋浜町界隈をブラっと散歩してみました。 日本橋浜町といえばこの建物ですね。 明治座です。 出演者ののぼりも飾られて、芝居やっているっていう雰囲気ですね。 【つづく】 人気ブログランキング 日本橋浜町界隈(その1) 明治座
2019年09月07日
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甲州街道です。この道が新宿区と渋谷区の境になっています。この甲州街道に面してそびえ立つ文化服飾学院です。この敷地は渋谷区になります。文化学園大学、文化外国語専門学校なども同じ敷地にあります。こんな立派な建物をみると、大学とか専門学校って儲かるのかなと思っちゃいました。【了】人気ブログランキング
2019年08月08日
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こちら新宿ワシントンホテルビル(新宿区西新宿3)正面玄関の右側に、健脚健康の神、韋駄天を奉った「新宿韋駄天尊」がありました。ビルの谷間にあって、目立ちませんがなかなか信仰を集めているようです。ご由緒も書いてありました(くわしくは→→→こちらを)。ところで、この神社の傍らに立つこの銅像。この神社建立に尽力された野村専太郎・ます夫妻の銅像です。この銅像の由緒も案内されていました。野村専太郎氏、建設業界で活躍された方のようで、このあたり西新宿(角筈)に本社のあった野村組→野村工事の社長を勤められていたそうです(→→→こちら)。【つづく】人気ブログランキング久しぶりiに新宿へ(その3) 韋駄天尊
2019年08月07日
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新宿といえば東京都庁ですね。なんかモダンな建物という感じですが、平成2年(1990年)12月竣工だそうですから、もう30年は経過しているわけですね。こちらは東京都議会の議事堂です。お昼ご飯は、こちらの都庁議事堂レストランでいただきました。いただいたのは、日替り定食780円(税込み)です。役所のレストランにしては、ちょっと高いかと思いましたが、都議会の議員先生方が食べる食堂とすれば、まあこんな値段でもいいのかも。【つづく】人気ブログランキング久しぶりiに新宿へ(その2) 都庁議事堂レストラン
2019年08月06日
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久しぶりに新宿へやってきました。今日は都庁に行くので、新宿西口の方を歩きます。昔からありますね。スバルビルの「新宿の芽」なぜかテープで補修されていました。そして、都庁に行く途中でやたら目に入ったポスター。来年はオリンピックですが、今年はラクビーワールドカップ日本大会です。「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」というキャッチフレーズの意図は何なんでしょうかね。高校三年生の夏、18歳の夏は一度だけで、この試合で肩が壊れようが、肘が壊れようが、甲子園に行くチャンスはこの時しかないと、思い切って、その試合、この一戦に賭けるという意味でしょうね。岩手県のどこかの高校のエースのように大事な県大会の決勝戦で投げないで、高校卒業後にプロに入って長く活躍してお金を儲けようなんて思っちゃいけないという、お金儲けとスポーツは別なんですよと言う潔いメッセージでしょうか。【つづく】人気ブログランキング久しぶりiに新宿へ(その1) 「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」
2019年08月05日
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麻布運動場から仙台坂の方向かっていくと、こんな建物がありました。「ウイローブルック・インターナショナルスクール」(→→→こちら)とありました。やはりこのあたり大使館が多かったりして、外国の方が多く住んでいるので、こういうインターナショナルスクールは多いのでしょう。ホームページを見ていると、スクールといいながら幼稚園に相当するようなところみたいですね。また、こちらの建物、ちょっと変わっていますね。お店なのか個人の住宅かちょっとわかりませんでした。東京にも色々な街がありますが、麻布・広尾あたりも雰囲気ありますね。【了】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その6) インターナショナルスクール
2019年07月17日
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有栖川宮記念公園の中にあるこの大きな建物は東京都立中央図書館です。有栖川宮記念公園の敷地を出て道路をはさんで、隣接してあるのが「麻布運動場」です。スポーツセンターとかちょっと洒落た名前ではなく、「運動場」と名乗っているのが歴史ある施設という感じがしました。ちょっと意味不明のオブジェがありました。麻布という土地柄ですかね。テニスを嗜む人も多いのでしょう。テニスコートは4面ありました。ナイターもできるようです。また、やっぱり野球場。軟式用みたいですが立派な休場ですね。サッカーでは野球というのも昔からこの施設があるからなんでしょうね。少年野球大会で優勝すると、こんなフラッグも作るんですね。結構、野球というか、日本でスポーツするってお金かけないといけないもんですね。むかしは、グローブ、バットそしてボールだけ持って、そこらへんの空き地で好き勝手に、一本足打法の真似とかしてやってましたが、平成から令和の時代になると、ちゃんとした指導者の下で野球するようになったんですね。【つづく】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その5) 麻布運動場
2019年07月16日
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有栖川宮記念公園には、有栖川宮熾仁親王騎馬像以外にも銅像がありました。これは、新聞少年の像です。「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」という昭和40年(1965)の歌謡曲「新聞少年」のヒットを記念して建立されたというのではなく、新聞の戸別配達制度を担い、国民生活の生活を支えてくれる新聞配達ことを顕彰するための銅像です。MoMo太郎も子供の頃、祖父から「新聞配達でもして、家にお金を入れろ」とよく言われたことを思い出しました。これが「新聞少年」の歌です。山田太郎とい芸名、なんかいいですね。こちらの芝生のある広場にも銅像がありました。笛吹き少年の像です。なぜか裸で笛を吹いています。しかし、笛を吹く少年というと、やっぱりこれですね。【つづく】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その4) 新聞少年の像
2019年07月14日
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南部坂に面した公園の広場の入り口近くにあるのが、有栖川宮熾仁親王騎馬像です。有栖川宮記念公園という名前からして、有栖川宮と関係していることは想像できますが、この銅像となっている有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)とは、どのような方だったのでしょうか。詳しくは、Wikipedia(→→→こちら)などを参考していただければいいのですが、簡単にいうと、17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられました、(それが原因かどうかは不明ですが、)明治政府の総裁となり、徳川幕府打倒の戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させたということです。そんなわけで、こんな騎馬姿の銅像が建立されているのでしょうね。【つづく】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その3) 有栖川宮熾仁親王騎馬像
2019年07月13日
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有栖川宮記念公園がある地形というのは、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっています。そして、公園の敷地は江戸時代に陸奥南部藩下屋敷があった場所だそうです。そのため有栖川宮記念公園の南外囲に沿って東に上る坂は南部坂と呼ばれています。この南部坂、結構勾配が急ですね。そして、この写真が南部坂を登りつめたところにある有栖川宮記念公園には入り口です。銘板の文字が右から書かれたいるので、かなり古くからあるのでしょうね。この入り口から入ると、公園の広場があります。広尾、麻布付近に住む子供たちにとっては格好の遊び場のようです。こちらは広場の奥に建立されている記念碑です。記念碑の前では子供たちがトレーニングしていました。この記念碑には、この公園の来歴が記されていました。【つづく】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その2) 南部坂
2019年07月10日
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渋谷区広尾までやってきました。オシャレな町が似合わないMoMo太郎。港区南麻布エリアにも突入してみました。やってきたのは、30数年ぶりかも。ということで、標識にある「有栖川宮記念公園」(→→→こちら)へ行ってみることにしました。有栖川宮公園前にある「ナショナル麻布スーパーマーケット」です。1962年から営業しているスーパーマーケット。日本に住む外国人向けのスーパーマーケットとして有名です。だだし、外国人といっても、技能研修生として来日して技能の習得よりもの日本語の習得に励み、帰国してから日系企業に就職を考えている方や、東京福祉大学(→→→こちら)に入学して行方不明なった方はおそらくここへは買い物に来られないでしょうね。MoMo太郎も昔、祖父に頼まれて、ここへサーティワンアイスクリームを買いに来たことがあります。土地柄、外国の方も多く住んでいるようで、公園の案内図を金髪の子供が眺めていました。公園の中はこのような日本庭園の大きな池があり、都心にある公園とは思えない閑雅な佇まいです。この池に流れ込む渓流があり、自然を残した趣向が取り入れられていました。こういう木橋をありました。この木橋の上流は緑深い渓谷となっています。そして、その上流は滝となっていました。このような庭園が無料で楽しめるというのは、やっぱり港区ってすごいですね。【つづく】人気ブログランキング有栖川宮記念公園界隈(その1) 都心の中で渓谷を味わう
2019年07月09日
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広尾散歩通りを歩いてみました。向こうに見えるのは、広尾って、みんなが知っている東京タワーが見える町だったんですね。亀戸天神の前にあるくず餅で有名な船橋屋(→→→こちら)のお店もありました。こういう場所で食べるくず餅もいいかも。こちらには、銭湯が。広尾にも銭湯があったとは不思議な感じ。案外、庶民的な生活を送っている地元の人が多いのかも。外苑西通りに出たところ、明治屋ストアがあるあたりで広尾商店街は終わります。そして外苑西通りを渡ると、そこは港区麻布のエリアになります。ちなみに、この交差点、近くに川も流れていませんが、「広尾橋」という名前でした。おそらく、地形から見て、この外苑西通りは周囲に比べて低くなっているので、本当は川が流れていたのかもしれませんね。【了】人気ブログランキング恵比寿から広尾へ(その4)銭湯もありました
2019年07月04日
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明治通り沿いにある郵便局と一緒になったコンビニです。一階がセブンイレブン、地下が郵便局になっていました。そのコンビニの横の道が、広尾商店街です。愛称は「広尾散歩通り」だそうです。商店街ですが、ちょっとお洒落なものを扱っている店が多いですね。【つづく】人気ブログランキング恵比寿から広尾へ(その3)広尾散歩通り
2019年07月03日
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恵比寿から広尾に向かってブラブラと歩いています。このあたり、なかなかオシャレな建物が多いですね。いつも見慣れたセブンイレブンも、なんとなく目立たないような外観ですね。恵比寿社会教育観。公共施設も落ち着いた外観がいいですね。昭和9年(1934)3月に完成した橋がありました。新豊沢橋という名前です。新豊沢橋を下流側から見たところです。下を流れる川は渋谷川です。この橋を境に恵比寿と広尾に別れています。【つづく】人気ブログランキング恵比寿から広尾へ(その2)新豊沢橋
2019年07月02日
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恵比寿から広尾まで歩いてみました。ここは近くにあった加計塚(かけづか)小学校です。恵比寿にありながら加計塚というのは、恵比寿と言う地名は、ヱビスビールの工場があったことからついた地名で、それ以前は、この辺りは欠塚(かけづか)と呼ばれていたそうです。そして、それが転じて加計塚となったそうです。ちなみに「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」(→→→こちら)によると、この小学校の場所に加計塚古墳という円墳があったようです。フェンスにこんな注意書きがありました。帰宅困難者は、渋谷区立の小学校や中学校は利用できないそうです。帰宅困難者となったら会社にとどまるか、自力で自宅に帰らないといけないということですね。こんな会館もありました。日仏会館は下の写真のような建物です。日本とフランスの文化学術の交流と振興を図ることを目的に設置された施設だそうです。フランス料理店ではないようですね。【つづく】人気ブログランキング比寿から広尾へ(その1)帰宅困難者は小・中学校に避難できません
2019年07月01日
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