カテゴリ未分類 0
全1464件 (1464件中 51-100件目)
金王八幡宮の大鳥居前のT字路の少し上の右手に入る道で、この八幡通りから常磐松小学校正門へ通じる道をむかし「桜横町」と呼んばれていたサクラの並木道だったそうです。その道端にこんな石碑が道端にありました。「さくら横ちょう歌碑」作者の加藤周一(→→→こちら)は、当時の東京市渋谷区金王町出身の文筆家で、この通りの先にある常磐松小学校の卒業生だそうです。福永武彦、中村真一郎と親しく、共著である「一九四六 文学的考察」が文壇デビューのきっかけとなった方です。「さくら横ちょう」は、加藤周一が創作した新定型詩のひとつで、彼が実際に暮らしていたこの界隈を詠んだもの。のちに中田喜直と別宮貞雄が曲を付けたことで有名となったそうです。今ではサクラの並木道の面影はありませんが、その道を。遠くにそびえるあの高層ビルに向かって歩きます。「國學院大學(→→→こちら)」の渋谷キャンパスになるそうです。ちなみに敢えて旧字体で表記するのが、大学の方針みたいですね。國學院大學については良く存じ上げないのですが、神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある大学で、また有名なスポーツ選手なども出身者にいるということだけは知っています。こちらの建物は、学術メディアセンターという建物で中に國學院大學博物館があります。入館料は無料で、大学の収集した考古学や神道に関する資料を観覧できるようです。時間があるときにじっくり訪れたいところです。道路を挟んだ反対側にもキャンパスがあり、歴史ある大学らしい雰囲気が漂います。学術メディアセンターの横には胸像と石碑が建てられていました。きっと、偉い先生の物だと思い撮影しました。説明板によると、瀧川政次郎(→→→こちら)博士という方の胸像と顕彰碑のようです。この方は、日本法制史の大家で、研究領域は中国の法制史や政治史、社会経済史、芸能・風俗史などにおよび、遊女の歴史といった戦前はタブーとされた研究にも積極的に取り組んで、100冊を超える編著書を世に送り出している。法実務にも深くかかわり、東京裁判の特別弁護人を務めらられたそうです。「胸像は生前に親交のあった國松幹平(大次郎)の寄贈である。」と説明板に記されています。こちらは顕彰碑になっています。「建立は後継者小林宏(國學院大學名誉教授)、門下の法制史家金指正三、福岡市の石材店店主国松大次郎・良康父子であり、設計は石像美術研究の大家川勝政太郎である」と説明板に記されています。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その6) 國學院大學
2024年05月12日
コメント(30)
坂道の突き当りに鳥居があり、ここが金王(こんのう)八幡宮(→→→こちら)です。鳥居の横にあったこの金王八幡宮の説明です。寛治6年(1092年)創建されたとされる神社で、源義家が後三年の役(1083年-1087年)で勝利したことを八幡神に感謝してこの地に勧請しました。このあたりの領主であった河崎重家は、禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。八幡宮の表参道に回って参拝することにしました。さて、この八幡宮の名称の「金王」とは重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けたそうです。この金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156年)で大功を立て、その名を轟かせました。しかし、源義朝は平治の乱(1159年)に敗れ、尾張国野間の長田忠宗に殺されました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔と伝わっています。吾妻鏡では、土佐坊昌俊と名前を変えた金王丸は、源頼朝の挙兵に協力し、その後、源頼朝は源義経に謀反の疑い抱き、土佐坊昌俊(金王丸)に義経討伐を命じました。そこで、昌俊は断ることもできず、文治元年(1185年)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げたそうです。そういった金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになったそうです。この短い石段を登って行くと、こちらの神門は、3代将軍徳川家光の将軍決定の御礼として、乳母の春日局と守役青山忠俊が造営された伝わっています。こちらの社殿も同様に春日局と青山忠俊が造営したもので、江戸時代初期の建築様式を今に伝えています。守役の青山忠俊はこのあたりに下屋敷を持っており(これが今の青山の地名の由来)、この金王八幡宮を氏神として信仰していた。そして、将軍相続を危ぶまれた徳川家光のため熱心に祈願したそうです。しかし、青山忠俊は、しばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、さらにはそれも取り上げられて相模今泉で蟄居となった。しかし、息子の青山宗俊は家光から許され浜松藩藩主の大名に復帰したそうです。ところで、こういう神社やお寺に参拝した時、お賽銭を出さない人がいますが、お賽銭は神社やお寺の掃除をしてくれる人へのお礼なので、別にその神様や仏様を信仰していなくても、出した方がいいですね。(MoMo太郎の配偶者のように自称クリスチャンであってもお賽銭は出した方がいいですよ)。扁額も立派な金文字ですね。社殿を飾る彫刻も豪華です。こちらは神楽殿です。八幡宮を出てしばらく南に行くとこちらにも大きな鳥居がありました。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その5) 金王八幡宮
2024年05月11日
コメント(30)
明治通りにやってきました。この歩道橋を渡ります。ここに来たのは3月24日(日)でしたが、明治通り沿いの桜並木はすでに開花していました。歩道橋の上から見る桜並木はきれいでした。この桜はヨウコウ(→→→こちら)だそうです。ヨウコウは、陽光桜とも呼ばれ、アマギヨシノとカンヒザクラを交配して作られた園芸品種で、ソメイヨシノよりも数日から1週間程度早く見頃を迎えるそうです。花は大きく一重で美しいピンク色、枝はソメイヨシノのように横に広がるというよりも、上に伸びるのが特徴です。品種登録されたのが1981年と歴史の浅い品種ですが、病虫害に強いため街路樹に使われることも多くなっているそうです。明治通り渡って、緩やかな坂道を登って、次の目的地、金王(こんのう)八幡宮に向かいます。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その4) 明治通りの桜並木
2024年05月10日
コメント(28)
渋谷駅の新南口から明治通りの方へ向かって歩くと、川沿いに開けた場所がありました。向こうに見えるのは、令和元年(2019年)に完成した47階建ての渋谷スクランブルスクエア(→→→こちら)がよく見えました。そして、ちょっと変わった赤いオブジェが目立つこの道は渋谷リバーストリート(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートは、東急東横線渋谷駅〜代官山駅の地下化に伴い、渋谷川沿いの高架が撤去され、「鉄道の記憶」をテーマに整備された遊歩道のことです。こちらの赤いオブジェは、株式会社KISS TOKYOと、一般財団法人渋谷区観光協会、東急株式会社が共同で2020年12月に設置したベンチです。「鉄道の記憶」をテーマにしているということは、この日本の平行線は、かっての東急東横線の線路をイメージしているんでしょうね。黒澤明監督の映画「どですかでん」(→→→こちら)に出てくる六ちゃんなら喜んで、「どですかでん」と言いながら電車の運転手になりきって走るでしょうね。ちなみにこの映画の原作は山本周五郎の「季節のない街」(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートというだけのことは、あって遊歩道の横には渋谷川(→→→こちら)が流れています。渋谷川は渋谷駅南方から天現寺橋までの2.4kmを流れる二級河川のことですか、その上流は代々木八幡宮や新宿御苑などから渋谷駅に向かって流れてくるいくつかの支川があり、下流は赤羽橋、芝公園の横を通って東京湾につながります。そんな都市の中の河川で、かっては「どぶ川」のようなものでしたが、現在では下水処理を行って再生水を利用してそこそこのきれいな水が流れる川になっています。、東横線の高架があった頃は、なんとなく薄暗いイメージでしたが、すっきりとして良くなったですね。その渋谷川を渡るこの橋。八幡橋を渡って明治通りに向かいます。【付録】映画「どですかでん」の映像です。黒澤明監督、初のカラー映画でした。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その3) 渋谷リバーストリート
2024年05月09日
コメント(19)
こちらの建物に入っていくのが今回のルートです。入口に誘導係の駅員さんが立っていました。2023年11月に竣工したこの建物は、渋谷駅の南西2.6haに広がる地域を再開発してできた複合施設です。「SHIBUYAタワー」と「SAKURAタワー」と中心にオフィス・商業施設・ホテル・住宅などが立ち並ぶそうです。それらの建物を歩行者通路のネットワークにより結んで、渋谷駅周辺の回遊性が向上しているようです。とは言っても、店舗は順次開業していくらしいです。歩行者用通路から渋谷駅の方を撮影しました。渋谷駅周辺、色んな高層ビルができているみたいです。また、線路を跨ぐ通路がありましたが、これが新南改札になるところですね。ビルの中にあるこの広場は、渋谷の新しいランドマーク「しぶS」がある、桜丘のセンターステージ。「にぎわいSTAGE」というそうです。本物の木ではなく、人工物の林があるのが都会的なのかな?この広場から見えた高層ビルです。本当に渋谷にも高いビルが色々あるんですね。この通りも「Shibuya Sakura Stage」によって整備されたみたいですね。こちらも渋谷駅の新南口の改札口がありました。子の改札口は埼京線専用で、山手線に乗るのにはちょっと不便らしいです。それで南改札ができるとこちらは閉鎖されるそうです。渋谷駅って段々迷路みたいになって。オジサンにはわかりにくいです。この階段を降りて、渋谷駅の東側に出てきました。(渋谷からお散歩のコース)註)駅からハイキングのコースは国立競技場から、鳩森八幡神社を、明治神宮を経由して原宿駅に出る物でしたが、筆者は都合により途中で信濃町駅から帰りました。【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その2) Shibuya Sakura Stage
2024年05月08日
コメント(32)
2024年3月24日、JR東日本が主催する駅からハイキング「忠犬ハチ公生誕100年!渋谷~原宿・明治神宮までハチ公に思いをはせるお散歩コース」に参加するため山手線渋谷駅にやってきました。この駅名標をよく見ると、ベニヤ板で作られていて、ひょっとして仮設の駅名標。駅の構内も単管パイプで柵をつくってあったり、まだ渋谷駅は工事中みたいですね。さて渋谷といえば、ハチ公像(→→→こちら)ですね。MoMo太郎も携帯電話がない時代には、ハチ公の前で友達と待ち合わせしたものです。ちなみに、このハチ公が渋谷駅で待っていた飼い主は東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士(→→→こちら)です。この先生は日本の農業土木、農業工学の創始者であるということで、農業農村工学会のホームページでも上野英三郎博士とハチ公のことが紹介されています(→→→こちら)。こちらは渋谷駅西口にある「モヤイ像」(→→→こちら)。こちらも待ち合わせ場所としてよく利用していました。ちなみにチリ領イースター島にあるのは「モアイ」(→→→こちら)ですので間違わないようにしないと、言い間違えると待ち合わせ相手はイースター島で待つことになりますから。こちらが駅からハイキングの受付です。ここでコースマップをもらって出発です。かなり多くの人がこのイベントに参加しているようで、途中、ここでもらった地図を見ながら南青山を歩いていると、通りがかりの年配のご婦人から、「沢山の人がその地図を持って歩いているけど、何があったの」と尋ねられました。「駅からハイキングというイベントで、みなさん歩いているんですよ」と答えておきました。国道246号を渡る歩道橋を渡って、駅の南西側にある桜丘町の方へ進みます。渋谷駅西口のバス乗り場だったところも何か工事中のようですね。渋谷駅周辺の再開発はまだまだ続きそうですね。(渋谷からお散歩のコース)註)駅からハイキングのコースは国立競技場から、鳩森八幡神社を、明治神宮を経由して原宿駅に出る物でしたが、筆者は都合により途中で信濃町駅から帰りました。【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その1) 渋谷駅は未完成かな
2024年05月06日
コメント(34)
3月10日に駅からハイキング「逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のレポートの途中ですが、やっぱり桜が満開の今の時期、MoMo太郎も人並みにお花見してきた報告ということで、4月7日(日)に東京都西部の多摩地区にある羽村市で開催されていた「はむら花と水のまつり2024」(→→→こちら)を訪れてきました。羽村市を歩いた記録は後日、改めてレポートするよていですが、多摩川沿いに咲いた桜の花をお楽しみ下さい。 桜つづみ公園と名付けられた、多摩川沿いの堤防の桜並木です。満開の桜の下を歩きました。開花したばかりの桜の花です。全体的に白いですね。見事な紅枝垂れ桜も咲いていました。これは国の天然記念物に指定されている「三春の滝桜」(→→→こちら)を羽村市福島県人会から寄贈されたんですね。人気ブログランキング「はむら花と水のまつり2024」に行ってきました。
2024年04月09日
コメント(32)
皇居の乾通りから靖国神社へやって来ました。靖国神社といえば、、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る神社ですから、こういう「出征を見送る家族の像」というのが建立されているのも、納得ですね。花見客目当てのキッチンカーも出張ってきています。昔は露店が並んでいたように記憶していますが、これも時代の流れですかね。こちらの第二鳥居から、いよいよ神聖な場所に入るという感じになります。神門の前です。東京の開花宣言のあった翌日の土曜日ということもあって、かなり大勢の人が参拝に来られて混雑していました。こちらの桜の木が、東京の開花宣言を判断する標本木です。確かに、開花していました。気象庁が正しいことをMoMo太郎も確認しました。ということで、拝殿にお参りしました。この神社のご祭神は、幕末の志士に始まり、日本を守るために戦ってきた軍人、軍属等の戦没者、つまり英霊と呼ばれる方々、その他、台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王(→→→こちら)及び蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王(→→→こちら)になります。ちなみに英霊の中には、太平洋戦争の結果、戦争犯罪犯罪人として裁かれた東条英機のような人も含まれているというが、色々と問題を生んでいるみたいですね。境内では野点の席なども開催されていて、気分はお花見というところでしたが、訪れた3月30日の時点では、桜もちらほら咲きといったところで、お花見にはちょっと寂しいところではありました。【了】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その4) 靖国神社の桜
2024年04月04日
コメント(32)
そして、乾門までやって来ました。江戸城の乾(いぬい=戌亥/北西)の方向にある門の一つですが、実は明治21年、皇宮建設の際に新たに誕生した門だそうです。ということで、この門は、坂下門の内側にあった西の丸裏門を移築したものです。乾門を出ました。この後、どうしようかと考えて、決めました。北の丸公園を抜けて、都内でも有数の桜見物すほぼっとの靖国神社へ参拝することにしました。こちらは北の丸公園内にあった池です。名前の通り江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園になっています。公園の中にあるこの施設は、日本武道館(→→→こちら)です。元々は1964年東京オリンピックの柔道競技会場だった施設ですが、今ではコンサートなどでよく使かわれているみたいです。そして、この千鳥ヶ淵の側を抜けて、やって来ました。靖国神社です。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その3) 北の丸公園から靖国神社へ
2024年04月03日
コメント(20)
皇居の中のサクラ、まだまだ楽しめましたよ。一般公開を見に来た人たち、やっぱりサクラを見に来ている之んですね。皆さんサクラがあると熱心に撮影していました。まあ、MoMo太郎もそうですが。こちらは枝垂れ桜ですね。蓮池濠側にあった、サクラです。こちらは三分咲きでしょうか。エドヒガン、春の彼岸ごろに花を咲かせるから「ヒガン」なんでしょうかね。こちらは道灌濠です。こうやって見ると、ちょっとした山の中の池みたいに感じますね。まだ満開には遠いですが、こちらのサクラはまだ開花したばかりですね。こちらは三分咲きくらいでしょうか。かなり花が咲いていました。コシノヒガンザクラ(→→→こちら)という品種でした。漢字で表記すると「越の彼岸」、富山県南砺市箕谷で自生していたサクラで、3月中旬に開花するそうです。乾濠から見た風景です。この辺りはかなりの混雑。こちらはぼぼ満開に近いサクラです。花の早いエドヒガンでしょうか。こちらの枝垂れ桜もいいですね。ベニシダレサクラという品種でした。名前のとおり、花弁はやや赤みが強かったです。こちらのサクラもかなり開花が進んでいて、ヨウシュン(陽春)という品種名です、サクラの品種、色々あるんですね。こちらのサクラもにぎやかに花開いていました。通路から離れていたので、ズームで撮影してみると、ほぼ満開でした。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その2) サクラ尽くし
2024年04月02日
コメント(32)
3月23日から31日にかけて開催それた春季皇居乾通り一般公開へ3月30日(土)に行ってきました。まず、こちら東京駅から、御幸通りを歩いていけば、皇居前に着きます。皇居の前ではDJポリスが交通整理をしていました。そして、こちらの「二重橋」の前まで迂回して案内されてもう、かなりの人出でした。手荷物検査を受けて、こちらの「坂下門」から入って行きます。なかなか立派な門ですね。坂下門を入ると、こちらへ行くと宮殿です。いずれ文化勲章をもらる時に備えて道順は覚えておきました。こちらの「宮内庁」の庁舎前餌を通って、乾通りに向かいます。こちらの建物は「蓮池参集所」。皇居内の清掃奉仕のため全国各地から来た方々が集まり休むところで、更に天皇皇后両陛下が、ご会釈されるところです。こちらは蓮池濠を挟んで、皇居東御苑苑の石垣になります。こちらの木は、春なのに、花も葉もない状態でしたが、ナツツバキということで、なるほど花は梅雨に咲くから、今は開店準備中というところでしょうか。白い花を咲かせるそうで、別名はシャラノキ(沙羅木)、サラソウジュ(娑羅樹、沙羅双樹)などと呼ばれています。仏教において三大聖木と呼ばれる樹木の中のひとつで、お釈迦様が入滅する時に、その死を悲しみ真っ白な花を咲かせ、その白い花は次々とお釈迦様の上に舞散り、覆いつくしたと言われています。この白壁の建物は、「冨士見多聞」です。多聞とは、城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁よりも強固な防御施設になります。江戸時代の江戸城本丸には、このような多聞が、各所に築かれていたそうですが、現存するのは、この富士見多聞だけのようです。かつては、この富士見多聞から、実際に富士山を望むことができたから冨士見多聞なんでしょうね。こちらの門は、「局門」というそうで、明治20年頃、局(女官の居住施設)の門として築かれたそすうです。この時期に一般公開というからには、やはり皇居に咲くサクラを観ないと。ということで東京で開花宣言のあった翌日でしたが、サクラが咲いていました。まだ、開花したばかりというところですかね。こちらは「門長屋」。ここは警備をする武士が控える場所だったそうです。現在、この奥には御養蚕所があるそうです。養蚕は皇后陛下の大切な公務ですね。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その1) 皇居の中の施設も見学
2024年04月01日
コメント(28)
一宮町に戻って、一宮海岸広場にやってきました。こちらは大塚実氏顕彰記念碑です。一宮の海岸再生に活用をとして大塚商会名誉会長だった大塚実氏が4000万円寄付したんですね。(→→→こちら)大きな石碑が二基建立されていました。こちらは「芥川龍之介 愛の碑」だそうです。裏面の解説によると、芥川龍之介は千葉県九十九里浜の南端、長生郡一宮町に、大正3年夏と5年夏、二回にわたって滞在してたそうです。大正3年に来たときは、芥川の初恋の人、吉田弥生とは、家柄の違いを理由に恋は実らなかったようです。大正5年には新しい恋人塚本文(ふみ)に、この一宮町から長い長い求婚の手紙を出し、結婚したたそうです。こちらの石碑は「黄塵碑」と読むのでしょうか。裏面の説明によると、となりの長南町出身の上田広(本名浜田昇)(→→→こちら)の記念碑のようです。この方は、日中戦争に応召され、現地で「黄塵」などの作品を書いた、いわゆる兵隊作家だったようです。戦後は、鉄道関係の著作を多く書かれたそうです。【了】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その3)芥川龍之介愛の碑
2024年01月04日
コメント(26)
隣のいすみ市にある太東海浴場にやってきました。雰囲気は南国ですが、やっぱり寒かったです。夏の海水浴シーズンにはこのベンチに座って記念撮影する人も多いんでしょうね。イルカののモニュメントがありましたが、ここにイルカはやって来るのかな?これはシンボルの石像ですね。こちらの海岸、2020年東京オリンピックのサーフィン競技の会場となった釣ヶ崎海岸に続いています。海水浴場の隣は太東漁港になっています。冬の海ってなんか寒さを一層感じました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その2)太東海水浴場
2024年01月03日
コメント(20)
去年の暮も押し迫った頃、急に海が見たくなったので、千葉県九十九里浜の方へドライブしてきました。こちらはJR東日本の外房線の駅、上総一ノ宮駅の西口です。上総一ノ宮駅は東京・千葉方面からの快速電車終着駅であるためここから千葉や東京に通勤している人もいるそうです。駅舎の天井は杉の木を使った格子状になっていて、なかなか凝ったデザインになっています。こちらは駅の東口、改札はICカードのみ利用のようです。一ノ宮というだけあって、駅の近くには上総国一之宮として知られる玉前神社(→→→こちら)があります。一之宮というのは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことだそうですから。この神社も大きな神社でした。この鳥居を抜けて、階段を上がると、黒漆塗りの権現造りという珍しい社殿がありました。一年の最後ということで年末詣でお参りさせていただきました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その1)上総国一之宮 玉前神社
2024年01月02日
コメント(34)
伝通院前通りを歩いて行くと、この建物がありました。日本指圧専門学校(→→→こちら)だそうです。指圧というのは、日本独特の技法であって、あん摩・マッサージのように"もんだり""たたいたり"せず、手指や手掌で体表に「圧」を加える技法になります。「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)」において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ指圧業として行う事は出来ないそうなので、こういう専門学校で勉強する必要があるんでしょうね。そして、指圧と言えば、この方。浪越徳治郎(→→→こちら)。「指圧の心は母ごころ、押せば命の泉湧く」というのがこの方の決めゼリフ。7歳の時、香川県から北海道留寿都村へ移住した徳冶郎の母マサはなれない旅の疲れと急激な生活環境の変化からか、到着直後から体中の痛みを訴え寝込んでしまったそうです。母の苦しみを見かねた徳治郎は「撫でる」、「擦る」など必死に看病しましたが、そのうちに、からだのある部分、特に固く凝り固まっている箇所を母指で押してほぐす事により、不思議と母の容態が良くなってくることに気付いたそうです。この母を思う子供が文字通り必死で「手当」をした結果が指圧という技法の起源になるそうです。多分、母親の病気は多発性関節リウマチだったと思われますが、以前は、関節リウマチに対する有効な薬はなく、現在でも、関節リウマチそのものを治すことはできませんが、薬によって関節リウマチの進行を抑えることはできます。また、破壊されて変形した関節の機能を回復させる手術という手段もありますが、「手当」の気持ちって大切ですね。ということで、伝通院にお参りさせてもらいました。寺号碑には「無量山 伝通院 寿経寺」と刻まれています。「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱も建っています。くさいにおいのする野菜と、酒は、修行の妨げになるので、寺の中に持ち込んではならない。とは言われたのですが、買った持ってお弁当に餃子が入っているんですけど、まあいいか。山門をくぐります。「徳川家康公生母於大の方」という幟です。でも普通、「於大の方の墓所」くらいの説明はあるのでは、それとも住職さん松島菜々子ファンで、於大の方推しだったりして。広い境内でした。境内にあった物故指聖供養塔です。こちらは浪越徳次郎氏が寄贈した「指塚」だそうです。昭和63年(1988)に戦後2度目に再建された鉄筋コンクリート造りの本堂です。徳川家ゆかりのお寺だけに、徳川家だけが独占して使用を許された「葵の御紋(三つ葉葵)」を使ってますね。そしてこちらが於大の方の墓所です。こちらに於大の方(→→→こちら)の生涯についての説明がありました。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その6)伝通院に参拝
2023年12月12日
コメント(26)
本郷通りと春日通り交わる本郷三丁目の交差点です。そして、文京シビックセンターです。富坂下の交差点です。富坂を登って、伝通院前の交差点にやってきました。交差点を右折して、伝通院前通りに入ってくると、伝通院(→→→こちら)の山門が見えてきました。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも呼ばれます。慶長8年(1603年)に徳川家康は生母「於大の方」の遺骨をこの地に埋葬して堂宇(堂の建物)を建て、於大の方の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。於大の方をはじめ千姫など徳川家ゆかりの女性の墓が数多くあるそうです。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その5)伝通院まで
2023年12月11日
コメント(26)
妻恋坂と清水坂の交わる清水坂下の交差点にあるこのビルは、辞書や教科書を作っている大修館書店(→→→こちら)という出版社です。古典か漢文かでこの出版社の教科書を高校生の時使っていましたが、今はここで出版しいるジーニアス英和辞典と和英辞典(→→→こちら)のお世話になっています。文法と語法、用法の説明が充実しているというので使っています。そんな勉強に役立つ出版社から清水坂を登っていくと、学問の神様を祀る湯島天神(→→→こちら)に到着です。天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬したと伝わっています。天神様といえば、この撫で牛が欠かせませんね。天神様となった菅原道真は丑年生まれで、色々と縁が深いので牛の像が置かれているんだそうです(→→→こちら)。春日通に出ました。春日通の坂道を西の方角、本郷通りに向かって坂道を登って行きます。徳川家康の遺訓・名言として伝わる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」(→→→こちら)、確かに江戸の町も坂道が多いですね。そして、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母である春日局(→→→こちら)の墓所のある麟祥院は春日通にあり、入り口のポケットパークには春日局の銅像があります。この春日局、今年の大河ドラマで春日局役を演じる寺島しのぶ(→→→こちら)さんというよりもやはり大原麗子(→→→こちら)さんの方が雰囲気かも。というのはこの銅像、大原麗子さんが主演を務めた平成元年のNHK大河ドラマ「春日局」を記念し、礫川公園に建てられたものを令和元年に麟祥院前のポケットパークに移設したものだからですね。(→→→こちら)(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その4)湯島天神と麟祥院前の春日局
2023年12月10日
コメント(22)
神田川を渡れば、やはりここですね。神田明神として親しまれている江戸総鎮守神田神社(→→→こちら)です。天平2年(730)創建の神社で、御祭神は、縁結びの神様のだいこく様、商売繁昌の神様のえびす様、そして除災厄除の神様となっているまさかど様(平将門公)で、直接徳川家とゆかりがあるかというと、関係性は薄いかもしれませんが、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内など江戸の108の町々の総氏神さまですから、やはり徳川家康の開いた江戸の町を守っているという意味では、徳川家ゆかりの神社として認められてもいいかもしれません。こちらの神殿には多くの人が並んで参拝されていました。多分、あまり知られてはいないかもしれませんが、御神殿の脇に建立されたこの石碑。神田明神下に住んでいた銭形平次を記念した石碑です。有志の作家と出版社が発起人となり、寛永通寶を形どって建立された石碑です。つまり、銭形平次でお金を儲けた人たちが感謝の気持ちを込めて建てたものなんですね。それからもう一つ、こちらも見逃せない。御神馬・神幸号(ごしんめ・みゆきごう)、通称・あかり(明)という小さな牝のポニーです。御神馬といっても、置物で代用したりしている神社も多いですが、生きている馬がいるのは、やはり江戸総鎮守の神田神社ならでしょうね。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その3)神田明神
2023年12月09日
コメント(16)
神田から本郷通を歩いて、靖国通りと交差する小川町交差点までやってきました。ここからは御茶ノ水駅にむけて緩やかな坂道が続きます。徳川家とは関係ないですが、日本ハリストス正教会(日本正教会)の中心となるニコライ堂(→→→こちら)です。本格的なビザンチン様式が特徴的ですね。本郷通りを挟んでニコライ堂の反対側あるこの坂道。幽霊坂(→→→こちら)と呼ばれる坂道です。乃木坂46とか櫻坂46、日向坂46、吉本坂46といったグループはありますが、幽霊坂46というアイドルグループはいませんね。神田川に架かる聖橋です。聖橋の上から見た神田川と東京メトロ丸の内線の神田川橋梁(→→→こちら)です。実はこの神田川のこの区間、仙台堀とも呼ばれることがあるようですが、第二代将軍徳川秀忠の時代に江戸の町の洪水対策として、徳川幕府に命じられて、仙台藩祖の伊達政宗が、現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの本郷台地の開削を行ったことにより出来たものです(→→→こちら)。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その2)神田川
2023年12月08日
コメント(22)
今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」。なんとなく期待外れに感じている視聴者も多かったのでは。テレビでは、番組の最後に、ドラマで関係した場所を紹介していますが、それに倣って、MoMo太郎も東京に残る徳川家ゆかりの地を巡ってみました。ということでスタートは神田駅からです。神田駅、アース製薬本社前の副駅名がついているんですね。そういえば、ホームの発車メロディが「♪お口クチュクチュ、モンダミン」になっていましたが、あれってアース製薬の製品だったんですね。そして、この西口商店街を歩いてゆきます。商店街の途中にあった佐竹稲荷神社(→→→こちら)です。こちらは徳川家とは関係なく、佐竹稲荷神社は、当地に江戸屋敷を構えた秋田藩佐竹氏が、藩邸の鬼門除けのため、寛永12年(1635)、邸内社として創建された神社だそうです。外堀通りを鎌倉橋の近くまでやってきたところにあるこの小さな神社。御宿稲荷神社(おんじゅくいなりじんじゃ)(→→→こちら)という神社で、徳川家康とゆかりのある神社だそうです。境内にあった、御宿稲荷神社の由緒を記した石碑です。これによると、徳川家康が豊臣秀吉の命令により、領地を関東に移す際、宿をとった邸宅がこの武蔵国豊島郡神田村の地にあったとされ、後年、この邸宅に祀られていた祠(ほこら)を、家康足留めの記念として名付けたのが、この「御宿稲荷神社」の始まりになるそうです。お賽銭は、この郵便ポストみたいなものから入れるようですね。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その1)御宿稲荷神社
2023年12月07日
コメント(22)
キンモクセイの下でワンちゃんに用をさせているおばちゃんがいました。なるほどなと思いましたね。さて、琵琶湖にも太平洋にも見立てられる大泉水の周りを散策しました。こちらは、大泉水の東橋に当たる舟着と呼ばれる場所から大泉水にある蓬莱島を撮影してみました。蓬莱島にある海岸です。よく見ると、灯籠の手前にアオサギが一羽いました。この小石川後楽園に大きな望遠レンズを付けたカメラを持って園内を歩いている人がよく見かけられます。小石川後楽園は、都内でも有数のカワセミ撮影スポットなんだそうですね(→→→こちら)。また木立の間から、朱色に塗られた弁財天の祠が見えました。こういうことも想定して望遠レンズを持ってくればよかたですね。この角度から撮影すると、島の景観がよくわかりました。大泉水を西向かって岸伝いに歩いゆくと、滝がありました。白糸の滝と呼ばれています。白糸の滝って軽井沢や富士宮など日本各地にあるそうですが、これはどこをモデルにしているんでしょうかね。大泉水の横にある蓮池です。季節の頃には見事なハスの花が楽しめるのでしょうね。大泉水の横にある一つ松。琵琶湖唐崎の一本松を模して植えられたとのことです。そして、西門にある売店の方にやってきました。小石川後楽園の西門です。特別史跡及び特別名勝の小石川後楽園、四季折々に訪れたい場所ですね。その際には年間パスポート1,200円はお得かも(ちなみに。65歳以上になると半額になります)。また9庭園共通年間パスポート4,000円もあります。ちなみに9庭園とは、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、旧岩崎邸庭園、向島百花園、清澄庭園、六義園、旧古河庭園、そして殿ヶ谷戸庭園になります。【了】人気ブログランキング小石川後楽園(その8) 大泉水の周りを巡って帰りました
2023年10月21日
コメント(24)
大泉水の周りに戻って来ました。大泉水の周りには「松原」と呼ばれる松が植えられた広場があります。松原といえば、おそらく三保の松原を設定しているようです。とすれば、この大泉水は太平洋にも見立てられているんですね。松の間から、見えたのは中央大学の校舎です。松原の片隅に茅葺の木造の建物がありました。九八屋という江戸時代の酒亭を復元した建物だそうです。解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。このため、昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋と名付けられたそうです。こういう教訓を庭にするとは、水戸徳川家の人には、お酒が好きな人が多かったんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その7) 酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。
2023年10月20日
コメント(16)
無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の散策まだ続きます。見るべきものが多いです。こちらにあるのは、建立当時の姿を残す園内唯一の建物といわれる得仁堂。光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置したところだそうです。堂名は、孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁 (仁を求めて仁を得たり)」(『論語』述而第七の十四)と語ったことに由来します。園内を歩くと、一瞬、深い山の中の道を歩いている感覚になります。そして、これが円月橋。水戸徳川家2代藩主光圀により、賓師(客分として待遇される師)として招聘された明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋です。このあたりも光圀公の中国への関心の高さがわかりますね。水面に映る姿が満月のように見えるので、円月橋の名がつけられたそうですが、沖縄・九州地方を除く地域の中では最古級とされる石橋です。残念ながら、橋の上には登れませんでした。こちらは花菖蒲田ということで、季節にはきれいなハナショウブが楽しめるそうです。ボランティアガイドの案内は、この後大泉水の方に出て、ガイド終了となりましたが、MoMo太郎はもう少し見たかったので、さらに園内を探検しました。こちらはまた山に登る階段がありました。この上にも行ってみたかったのですが、パスさせてもらいました。そして、こちらの石碑がありました。「藤田東湖 護母致命の処」という石碑です。藤田東湖(1806~1855)は、幕末の水戸藩士で勤王家として知られた人物です。その藤田東湖が水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭ったのですが、その際母を助けて外に出たのです。しかし、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきて、東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したのですが、東湖本人は力尽きて下敷きになり圧死したそうです。その記念碑はとして建立されたもので、圧死した場所の後楽園ジムの脇に建立されたのですが、白山通りの拡幅により道路となったため、ここに移設されたそうです。この井戸は、どんな干ばつにも枯れず、またどんな洪水でも水があふれなかったという伝説があるため、「不老水」と呼ばれているそうです。石川後楽園にある梅林です。の梅の木を水戸の偕楽園に持って行って植えたそうです。ちなみに水戸光圀公は号を「梅里」と称するほど梅を好んだそうです。園内を流れる川です。この川のほとりにあるのが、こちらの稲田です。この稲田は、光圀が、農民の苦労や農業の尊さを彼の嗣子綱条の夫人に教えるために作ったとされるもので、毎年文京区内の小学生による田植えと稲刈りが行われ、光圀の教えを継承しているそうです。園内には水戸光圀公の趣味で作られたものがかなりあるんですね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その6) 水戸光圀公の趣味です
2023年10月19日
コメント(21)
谷村新司さんがお亡くなりになったそうで、ご冥福をお祈りします。MoMo太郎にとっては、谷村新司さんって歌手とかというイメージはあまりなくって、ラジオの深夜番組でエッチな話をしていた人という印象があります。特に、印象に残っているのは、和式トイレで大きな方をするときには、予めトイレットペーパーを便器の中に敷いておくと、きれいに排泄物を流せて痕が残らない、という話でした。その話を聞いてからは、最近は洋式トイレが多いのでそういうことはしていませんが、和式トイレで大きな方をするときは、その方法を実践しています。さて、無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の京都の名所、まだ続きます。琉球山の頂上付近かにあった、この建物の土台のようなものは、清水観音堂跡です。かつては京都の清水寺の本堂を模写したお堂が建てられていたそうですが、この建物も大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまったそうです。ということで、清水の舞台からの眺望を楽しもうとすると、ちらっと見えた赤い橋、これもなにやら京都をイメージしたんでしょうか。園路を辿って、山を下っていくとこの赤い橋を渡ることができます。この橋、京都東福寺の通天橋と見立てるそうです。でも、これって水戸頼房公も光圀公も騙されたんじゃないんですか。京都で学生生活を6年送ったMoMo太郎は騙されないぞ!本当の東福寺の通天橋は、こんな朱色のアーチ橋ではなく、渋い木造の水平な橋で、そして屋根が付いているんですよ(→→→こちら)。この橋を渡るお姉さん、今度は京都に行って確かめてね。ちなみに東福寺通天橋は紅葉が見事です。こちらの橋からも紅葉が楽しめそうなので、その点では通天橋に見立てても間違いではないかも。ちなみに、例年だと小石川後楽園の紅葉が綺麗なのは12月の第一週だそうです。その時はちゃんと300円の入園料を払って来てね、とボランティアガイドさんに言われました。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その5) 水戸頼房公は騙されたのか?ついでに谷村新司の思い出も
2023年10月18日
コメント(26)
こちらの道を行くと大泉水をクルっと一周できるのですが、なぜかこちらに人が集まっていました。実は小石川後楽園のボランティアガイドさん(→→→こちら)が無料で園内を案内してくれるそうです。無料と聞いて放ってはおけません。MoMo太郎もこのボランティアガイドのオジサンについて園内を歩くことにしました。さて、ガイドさんの説明によると、この橋は京都の嵐山にある渡月橋だと見立てるそうです。中山道を歩いていよいよ京都に来たのですね。渡月橋が架かる、京都の桂川上流で嵐山を流れる大堰川(→→→こちら)に見立てられた川です。嵐山の雰囲気がありますかね。と、京都だとばかり思っていたら、この堰は、なんと西湖の堤(さいこのつつみ)というそうです。西湖って京都にあったのかなと思っていたら、なんと中国の杭州(今の浙江省)にある西湖(→→→こちら)の堤に見立てるそうです。これは二代目藩主の水戸光圀が、父の水戸頼房の時代から水戸藩に仕えた明の遺臣朱舜水(→→→こちら)のアドバイスに従って、こういう中国の風物を取り入れた庭を造ったそうです。さすが、日本で初めてラーメンを食べたという俗説の伝わる水戸光圀、中国が好きだったんですね(→→→こちら)。渡月橋を渡り切った所、大堰川の河原に置かれた屏風岩です。屏風のように板状の石が並べられているから屏風岩。屏風岩の後ろには琉球山と呼ばれる築山が作られています。琉球山に登り始めたところで振り返って撮影した、渡月橋と西湖の堤です。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その4) いよいよ京都です
2023年10月17日
コメント(25)
園内の散策、色んなものがありました。石碑も建立されているようです。この石碑は、駐歩泉碑(ちゅうほせんひ)というもので、この辺りは、清水が湧き出ていたそうで、水戸藩九代目藩主徳川斉昭が「駐歩泉」と命名したそうです。「駐歩泉」は西行(→→→こちら)の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に因んだもので、「駐歩泉」碑の小径を行くと西行堂跡というのがあります。こちらが西行堂跡です。関東大震災で焼失し西行堂の土台だけが残っています。また右側の石碑は西行の歌碑になるそうですが、上手く撮影できなかったので、載せていません。西行堂跡のあたりから大泉水を眺めると、大泉水に浮かぶ蓬莱島の姿がよくわかりました。このような島は、神仙思想に説かれる蓬莱山を表す工夫として、各地の庭園に設けられているそうで、。この島は、亀の形をしていて、亀の頭に当たる板状の石は、庭師・徳大寺佐兵衛にちなんで徳大寺石と命名されています。また、樹木に覆われて見えにくいのですが、島内には弁財天の祠がありますが、島に渡る渡し舟が運行されておらず、お参りすることはできません。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その3) 駐歩泉碑と西行堂跡
2023年10月16日
コメント(22)
10月1日の都民の日で無料公開されていた小石川後楽園に行ってきました。こちらの案内図(→→→こちら)を見ながら、どのようにこの庭園を廻ろうかと考えていると、木曽川とか龍田川、そして渡月橋、通天橋といった日本各地の名所の名前が見えました。どうやら、この小石川後楽園の庭づくりのコンセプトは、日本各地の名所を水戸徳川藩の上屋敷の庭園に造ろうということのようです。さすが、全国を回って巡って悪人を退治する水戸黄門漫遊記のモデルとなった水戸光圀公を生んだ水戸徳川家の庭園、きっと、光圀公もこの庭園を巡りながら、水戸黄門ごっこをして遊んでいたのかも。水戸徳川家の上屋敷は、この後楽園と隣の東京ドームシティを併せた広い敷地にあり、この小石川後楽園は、上屋敷の中の庭園ということです。また屋敷の建物は、庭園の東側にある今の東京ドームシティの場所にあったそうです。MoMo太郎は小石川後楽園の東門から入ったので、最初にこの内庭と呼ばれる水戸藩書院のあったところに出ました。内庭は、この唐門によって、仕切られ、唐門は開設時の「後楽園」の正門になります。ということで、門に懸けられた扁額には「後楽園」という文字が書かれています。この唐門の前に立つと、東京ドームの屋根が見えます。来シーズンはジャイアンツも頑張って欲しいものです。弱い巨人相手に勝っても阪神タイガースの岡田監督も面白くないでしょうから。こちらの橋を渡って中にある島に渡ることはできないようです。唐門の裏に回ると、このよう道標がありました。唐門を江戸とすれば、木曽川が流れていることから、こちらは西に向かう中山道という設定でしょうか。こちらが木曽川、そして設定では、このあたりが浦島太郎伝説のある「寝覚の床」(→→→こちら)ということのようです。そして、これが中山道の峠道ということになるのでしょうか、「延段」(のべだん)と呼ばれる自然石と切石を組み合わせた石畳の道になります。そして、延段を越えると眼下に池が広がってきます。この池は琵琶湖という設定なんでしょうね。これは庭園の中心となる「大泉水」と呼ばれる池です。蓬莱島を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出しそうです。ちなみに、大泉水の橋に置かれたこの岩は、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島(→→→こちら)と名付けられています。池岸の広場です。ここは紅葉林と呼ばれている場所です。そして、先ほどの木曽川がこちらにも流れていますが、ここでは紅葉の名所の龍田川(→→→こちら)という設定になっています。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その2) 中山道の旅ができます
2023年10月15日
コメント(20)
都民の日(10月1日)に小石川後楽園にやって来ました。後楽園と言えば、貞享4年(1687年)に着工、元禄13年(1700年)に一応の完成をみた岡山の後楽園は「後楽園」と単独の名称で呼ばれるのに対して、東京にある後楽園は、寛永6年(1629年)に築造を始め、寛永8年(1631年)に完成した先輩であるにも関わらず「小石川後楽園」と所在地の名称込みで呼ばれています。このように区別される原因は、岡山の後楽園が国の名勝に指定されたのが、大正11年(1922年)3月8日であり(→→→こちら)のに対して、小石川後楽園が名称に指定されたのは、1年後の大正12年(1923年)3月7日(→→→こちら)だったことによるものです。しかし、これではバランスが悪いという日本国政府特有の忖度が働いたのか、小石川後楽園は特別名勝・特別史跡に指定されたのは、昭和27年(1952年)3月29日ですが、岡山の後楽園が特別名勝に指定されたのは、昭和27年(1952年)11月22日となって、小石川後楽園の方が僅かに早く特別名勝にしてされるとともに、特別史跡にも指定されました。岡山の後楽園は、歴史的な価値がないと判断されたのか、特別史跡とは評価されていないようですね。ちなみに、岡山の後楽園と並ぶ、日本の三名園である金沢の兼六園は大正11年(1922年)3月8日に名勝に指定され、昭和60年(1985年)3月20日に特別名勝に指定されています(→→→こちら)。また小石川後楽園と同じ水戸徳川家の作った三名園のひとつである偕楽園は「常盤公園」という名称で、名称・史跡に指定されています(→→→こちら)。とクドクドと長い説明がありましたが、都民の日に小石川後楽園に来たのは、ずばり、だったからです。ということで、明日から園内を紹介していきます。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その1) 都民の日(10月1日)は無料公開
2023年10月14日
コメント(28)
明治通り沿いを走る都電荒川線(東京さくらトラム)です。明治通りと交差する神田川です。橋の名前は高戸橋、名前の由来は、おそらく旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名を合成したものでしょうね。この橋の上流で、左側に見える井の頭池から流れてくる神田川とその神田川が新宿区下落合一丁目の新堀橋付近で分流されている高田馬場分水路が合流しています。神田川高田馬場分水路には東京都杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池から流れてくる妙正寺が合流しています。合流地点に架かる橋は新目白通りの高田橋です。また、神田川高田馬場分水路は新目白通り地下を流れています。明治通りを南の新宿方面に歩いて、早稲田通りとの交差点を右折して、早稲田通りを歩いて西に向かうと、高田馬場駅に到着しました。ここから電車に乗って帰りました。いいでいったん、文京区散策は中断させてもらい、また時期をみて文京区の紹介をさせてもらいます。【とりあえず、了】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その3) 高田馬場に到着です
2023年06月18日
コメント(22)
神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いています。都電の早稲田停留所の次の面影橋停留所のところで、神田川に架かる橋です。その名の通り「面影橋」(→→→こちら)です。面影橋といロマンチックの名前の由来をMicrosoft BingのAIに尋ねてみると、面影橋は、東京都を流れる神田川に架かる橋で、面影橋停留場のそばにあります。この橋は、古くから「於戸姫(おとひめ)」という美女の伝説で知られています。伝説によると、於戸姫は戦国時代に落ち武者と暮らしていたが、ある男に誘拐されて失神し、通りがかった杉山三郎左衛門という男に助けられました。しかし、杉山三郎左衛門の友人が於戸姫の美しさに惚れて杉山三郎左衛門を殺害しようとしたため、於戸姫はその友人を刺し殺しました。そして、自分の美しさを恨んで髪を切り落とし、神田川に身を投げたというのです2。村人たちはその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたと言われています。ということでした。なんか悲しい物語がある橋ですね。その面影橋のそばあった、「山吹之里」(→→→こちら)という石碑です。この石碑は1686年に建立された供養塔を転用したもので、半跏思惟像(はんかしみぞう)と呼ばれる仏像が彫られています。半跏思惟像とは、片足を曲げて座り、右手で頬杖をつきながら思索する姿の仏像で、太田道灌が学問に励む姿を表していると言われてい.るそうです。豊島区教育委員会の山吹の里の碑についての解説もありました。解説文の引用です。 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は「山吹の里」といわれています。 これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。 「山吹の里」の場所については、ここ以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町、などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988年)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1636年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。豊島区教育委員会【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その2) 面影橋と山吹の里
2023年06月17日
コメント(26)
神田川沿いを歩いて高田馬場の方へ向かって歩くと、大きなお屋敷の門の横に看板がありました。東京染ものがたり博物館(→→→こちら)という施設でした。ここでは、着物の染物体験(有料)や着物文化の案内をしていまるそうです。また、着物の染色で作った小物雑貨(ストール・ネクタイ・バック等)をミュージアムショップで販売しているそうです。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その1) 東京染ものがたり博物館
2023年06月16日
コメント(26)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。水神社から神田川沿いに上流を目指して歩くと、ここ文京区立肥後細川庭園(→→→こちら)に着きました。MoMo太郎日記では既に、2023年2月4日(→→→こちら)にこちらを訪れた時の紹介をしていますので、今回が2度目の訪問になります。細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にしているので、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来きます。ということで、肥後熊本54万石の細川家の殿様になった気分で園内を散策してみました。しかし、これだけの庭園を持っていたとすれば、54万石の大名って結構なお金持ちだったんですね。肥後細川庭園を後にして神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いてゆきます。歩いた時期は2月中ごろ、まだまだ桜には早い時期でした。そして、文京区から新宿区に入ってきました。とりあえず、ここで文京区散策ではなくなるのですが、高田馬場までに見つけたものの紹介は続ける予定です。【つづく】文京区散策(その23) 肥後細川庭園
2023年06月15日
コメント(20)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。胸突坂の下りきると神田川になります。このあたり桜の並木になっていて、季節には華やかな感じになります。二本の大きな銀杏の木がある水神社(→→→こちら)がありました。石造りの鳥居は新しい感じです。鳥居の横のこの看板によると、平成16年12月5日に東京地方を襲った風速40.2mの大風により、銀杏の枝が折れ、鳥居の笠木を破損したことから、地元の人たちが鳥居を再建し、令和2年に完成したそうです。石段を登って社殿にお参りしました。創建の年代は明かでないそうですが、祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇日本最古の神田上水の取水口がこのあたりにあったことから、その守り神として奉られているそうです。水神さまが江戸、そして東京の町の安泰を守っておられるのですね。【つづく】文京区散策(その22) 水神社
2023年06月14日
コメント(30)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。永青文庫からこの急な胸突坂と呼ばれる坂道を下って神田川に向かいます。この坂の途中にあるのが、関口芭蕉庵(→→→こちら)です。MoMo太郎の大好きな無料で見学ができる施設でした。中に入ると関口芭蕉庵の案内図があります。関口芭蕉庵は、江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいた住居跡になるそうです。池などもあって、なかなか趣のあるところに住んでいたんですかね。もともと、芭蕉の旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているそうで、後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てらたのが現在の芭蕉庵につながそうです。ということで、最初から、こんな広い庭付き一戸建てに住んでいたのではないんでしょうね。それにしても、芭蕉、本業は工事監督で、俳諧は趣味だったんですかね。確かに俳句で食べていくのは大変だったかも。中に入ってみると、木々が多くて都会の中とは思えない雰囲気です。こちらが瓢箪池と呼ばれる園内にある池です。さすが「名月や池をめぐりて夜もすがら」と詠んだ芭蕉の住まいですから池は必須アイテムというところでしょうか。入園無料でしたが、この庭園の維持費は誰が負担しているんでしょうか。夏井いつきさんのような俳句を職業としている人達の「日本俳人協会」みたいな団体があって、その団体が負担しているのかな。瓢箪池の畔に建つ石碑。「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑だそうです。こちらの大きな石碑は、范石湖の詩碑だそうです。板に書かれた説明板には、「范石湖の詩碑 范石湖の碑を石摺により再刻せるもの。田中光顕氏之を建つ。明治22年(1889) 」とありました。范石湖とは、范 成大という中国南宋の政治家・詩人だそうで、石湖居士と号したことから范石湖とも呼ばれているのだとか(→→→こちら)。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その21) 関口芭蕉庵
2023年06月13日
コメント(26)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文京区目白台に行けば、一度は訪れてみたいところはここ永青文庫(→→→こちら)です。旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵展示研究している施設です。細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりまる家柄ですね。「永青」とは、初代の細川藤孝の養家の始祖細川頼有以後8代の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって16代目細川護立公が名付けたものです。文京区教育委員会の設置した説明板もありました。これによると、江戸時代の熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡にこの施設があるんですね。この建物が展示館になっているんですね。入場料は大人1,000円ということなので入場は遠慮させてもらいました。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その20) 永青文庫
2023年06月12日
コメント(22)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。椿山荘から目白通り目白の方へ向かって歩くと、この建物がありました。講談社野間記念館(→→→こちら)です。今のところ建て替えのため休館中ですが、講談社初代社長野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に展示しているほか、講談社の出版事業にかかわる貴重な出版文化遺産も数多く展示されているそうです。文京区の関口と音羽のあたりは、講談社を中心としたグループ各社の光文社、キングレコード、講談社ビーシー等が立ち並んでいるんですね。目白通りから神田川に向かって下っていく坂を歩いて行くと、この建物があります。こちらは、以前このブログ(→→→こちら)でも紹介した男子の大学生・大学院生のための学生寮「和敬塾」(→→→こちら)の東門になります。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その19) 野間記念館と和敬塾
2023年06月11日
コメント(24)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京カテドラル聖マリア大聖堂と目白通りを挟んで向かい合わせの場所にあるこの門は椿山荘(ちんざんそう)(→→→こちら)。MoMo太郎は子供の頃は、椿山荘といえば、結婚式場や宴会場というイメージだったんですが、平成の初め頃から「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」ということで、高級感のあるホテルになったようです。今は「ホテル椿山荘東京」という名前で、いつのまにかフォーシーズンズ」は消えていますね。この椿山荘のある台地では、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があったそうです。明治時代になると、元勲の山縣有朋がその屋敷を購入して「椿山荘」と命名したそうです。さらに大正になって、藤田財閥の藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸としました。戦後は藤田財閥を引き継いだ藤田興業の所有となり、そののち宴会場、結婚式場として利用されるようになって現在に至っているそうです。【つづく】文京区散策(その18) 椿山荘
2023年06月09日
コメント(14)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業した関口フランスパンのある目白坂を登って行くと、この変わった斬新な意匠の建物があります。これが東京カテドラル聖マリア大聖堂(→→→こちら)です。天に向かって延びるこの塔、なんの目的なんでしょうか。こちらの案内図でも説明はありませんでした。しかし、東京カテドラル聖マリア大聖堂、教会というよりもSF映画に出てくる建物ですね。世界的にも有名な日本の建築家・丹下健三氏(→→→こちら)の設計によるものだそうです。カテドラルとは、「カテドラ」のある教会のこと。「カテドラ」というのは大司教という教会の支店長みたいな人が座る椅子の事で、司教の座る椅子がある教会を「カテドラル」ということです。つまりここは東京支店長のいる教会ですね。近所にある営業所みたいな教会よりは格上ということでしょうか。そして、こちにあるのは「ルルドの洞窟」。ルルドの洞窟は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもとにある洞窟で聖母マリアが出現されたとされる場所だそうです。ここで祈りをささげる方も多く見かけました。教会なので、ここで結婚式も挙げらるんでしょうね。今度、結婚するチャンスがあればここで式を挙げてもいいかな。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その17) 東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年06月08日
コメント(28)
1ヶ月以上の中断でしたが、文化の京(みやこ)、文京区を散策した報告を再開します。江戸川公園から目白通りの坂道を登って行きます。このあたりの住所は文京区関口。地形では関口台(→→→こちら)とも呼ばれています。関口と呼ばれるようなったのは、神田川の水を取水して神田上水に流すため、この地点でせき止めた堰の口という意味があるそうです。この坂道の登り始まりのところにあるオシャレなパン屋さん。関口フランスパン(→→→こちら)。店の名前に「フランスパン」と入れているだけあって、日本における本格派フランスパンを誕生させた120年の歴史を誇る老舗のパン屋さんだそうです。5もともとは、明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業したのがはじまりだそうです。やっぱり、キリスト教にはパンは欠かせないということですかね。【つづく】文京区散策(その16) 目白通りの関口フランスパン
2023年06月07日
コメント(22)
晴天に恵まれたゴールデンウィーク、高速道路、どこへ行っても混んでいましたね。そんな中、MoMo太郎も高速道路を使ってドライブを楽しんできました。ドライブへ行った所のご報告は、後日改めてさせて頂きますが、途中立ち寄ったPA(パーキングエリア)をご紹介します。こちらは圏央道(正式名称は「首都圏中央連絡自動車道」)ある菖蒲PA、一般道からも利用できる施設です。そして、端午の節句の今日にふさわしい名前のPAです。こちらは首都高速にある川口ハイウェイオアシス。こちらの施設も一般道からも利用できますが、高速川口線を利用した場合は、上り線からのみ直接入ることができます。レストランやカフェ以外にも、イイナパーク川口という、芝生広場などを備えた公園もあり、ここを目的地に遊びに来てもいいかも。人気ブログランキング高速道路のPA
2023年05月05日
コメント(34)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。凸版印刷の本社ビルには、この印刷博物館(→→→こちら)があります。こちらが入り口になります。入場料は大人400円でしたが、興味があってわざわざやってきたので、入場してみました。博物館はビルの地下一階。こちらは博物館のプロローグというのか、過去からの印刷物紹介でした。展示室にあった印刷の機械。なかなか興味深い展示があって、印刷と人間の文化発展の関わりみたいなものが、うっすら理解できました。やっぱり本は読まないとね。【つづく】文京区散策(その14) 印刷博物館
2023年05月01日
コメント(34)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。さて、すべてを突破する会社、凸版印刷の本社に向かって歩きます。本社ビルの手前の公開空地に石碑を発見。こちらの二基の石碑は、ひとつは「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」行幸啓(ぎょうこうけい)とは、「天皇・皇后がご一緒に外出されること」を言うそうですね(→→→こちら)。こちらは、「平成13年3月26日皇后陛下行啓記念碑」行啓(ぎょうけい)とは、「皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること」を言うそうです。そして、もう一基は「皇太子殿下 皇太子妃殿下 行啓記念碑」でした。【つづく】文京区散策(その13) 行幸啓記念碑
2023年04月30日
コメント(27)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。が、JR飯田橋(千代田区)から神田川を遡って、ここ大曲(新宿区新小川町)にある牛込警察署大曲交番にやってきました。大曲というのは、横を流れる神田川が大きく曲がって、高田馬場の方へ流れているからです。だから、神田川の上にある首都高速もこのように大きくカープしています。神田川を越えて、文京区に入ります。このあたりの住所は文京区水道(→→→こちら)です。どうして「水道」という地名なのかというと、この地に神田上水が通っていたことによそうです。江戸時代より、このあたりはの町名として小日向水道町、小石川金杉水道町などと称していたそうです。その神田上水は写真の奥にある巻石通りを流れていたそうで、水道通りとも呼ばれています。さて、この神田川沿いの道を歩いて行くことにしました。目指すは、大きなTOPPAN(凸版印刷)の本社ビルです。「すべてを突破する。TOPPA!!! TOPPAN」ですね。【つづく】文京区散策(その12) 文京区水道へ
2023年04月29日
コメント(34)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京都文京区後楽の東京ドーム敷地内に二基の石碑がありました。鎮魂の碑(→→→こちら)です。これは、太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の功績を記念した石碑です。こちらの石碑には戦死した選手の氏名が刻まれていました。そして、もう一基の石碑には、遺族を代表して特攻隊員として戦死した石丸進一の実兄・藤吉による追悼文や当時セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二による「建立趣旨文」が刻まれていました。この二基の石碑が建立されたのは、昭和56年4月だそうです。このあたり、もちろん東京ドームもありますが、青空の下、野球ができるグランドもあります。後楽公園少年野球場です。平和な世の中で思い切り野球を楽しんで欲しいですね。野球は楽しんで欲しいとは思いますが、この後楽というのは「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という中国の古典「岳陽楼記」にちなんで命名された、水戸徳川家の江戸上屋敷内に造られたこの日本庭園につながります。ということでこの庭園の名前は「小石川後楽園」(→→→こちら)です。【つづく】文京区散策(その11) 鎮魂の碑と少年野球場
2023年04月28日
コメント(24)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京都水道歴史館に隣接してある文京区立本郷給水所公苑(→→→こちら)です。東京都水道歴史館に隣接している本郷給水所の上部に人口地盤を築き作られた公園なので、この坂道を登って行きます。南側に武蔵野の雑木林のイメージをもとに造られた和風庭園があり。北側にはフランス式の西洋庭園があります。その西洋庭園にあった大きな地球儀です。こちらは和風庭園。四阿(あずまや)がありました。こちらは公園の東側にあった、盛土と木柵。文京区第五中学校(現文京総合福祉センター)で発掘された神田上水の石樋が復元展示されているそうです。これが復元された石樋です。【つづく】文京区散策(その10) 文京区立本郷給水所公苑
2023年04月26日
コメント(23)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。このレトロな洋館は順天堂大学(→→→こちら)。文京区、やっぱり大学という高等教育の場が多いですね。順天堂大学から本郷台の住宅街に入っていくと、大きな建物がありました。東京都水道歴史館(→→→こちら)です。神田上水や玉川上水などの江戸時代の上水道から、近代水道、現在の水道に至るまで、規模・水質ともに世界有数のレベルである東京の水道400年の歴史や技術を、実物資料や模型、映像資料などで紹介しています。また、水道の歴史に関する講演会や江戸時代の上水道を学ぶ講座なども開催されています。それで入場料は無料。無料が好きなMoMo太郎にが見学しないわけにはいかないですね。写真撮影については、「個人利用の範囲において撮影は可能です。但し、フラッシュの使用、三脚・椅子などの使用はご遠慮ください。」とのことだったので、撮影してきた館内の様子を紹介します。こちらは実物大の水道鉄管を展示しています。一番大きいものは直径2.9mだそうです。こちらにあるのは共用栓と消火栓。近代水道が開通すると、それまでの上水井戸に替わり、水圧のかかった水を手元で得ることのできる「水栓」(蛇口)が設けられました。しかし多くの家庭では専用の水栓(専用栓)を引くことができなかったため、複数の家庭で共同で使う「共用栓」が各所に設置されていました。団体見学で申し込むとこのような、歴史館の人が説明をしてくれるようです。玉川上水を造った玉川兄弟の石像。江戸時代に使われた木製の水道管です。上水井戸の実物です。江戸の井戸は地下水ではなく神田上水や玉川上水で送られてきた水を利用していたそうですね。【つづく】文京区散策(その9) 東京都水道歴史館
2023年04月25日
コメント(30)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。外堀通りに面してある元町公園と昭和第一高校の間に本郷台地を登って行く坂道の途中に元町公園下の擁壁に、楕円形に空けられた穴をコンクリートで塗りこめたような痕跡があります。太平洋戦争のころに構築された防空壕の入り口跡だそうです。この坂道を登り切って少し行くと、立派な建物の学校があります。桜陰学園(→→→こちら)です。高校からの入学者を募集していない完全中高一貫校の桜蔭中学校・高等学校で、女子学院中学校・雙葉中学校と共に「女子御三家」といわれている進学校。卒業生には、「このハゲ」と秘書を怒鳴った元衆議院議員の豊田真由子さん(→→→こちら)。現参議院議員の猪口邦子さん、女優の菊川玲さん、クイズ番組タレントの三浦奈保子さん(→→→こちら)、そしてイラストレーター、タレント、女優と多彩な水森亜土さん(→→→こちら)と、才色兼備といってもいい方ばかり。ちなみに、制服は基本ジャンバースカートでちょっと体形の不利は目立ちません。可愛い制服を着たい女子にはちょっと不向きなのかも、観察していると最近はパンツスタイルの制服もあるようです。そして、大学の多い文京区、外堀通りに面したところにある順天堂大学です。どうして、桜陰に詳しいかというと、親戚の子が通っていたからです。文京区散策(その8) 名門女子御三家のひとつ
2023年04月24日
コメント(20)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。水道橋というのは、神田川に架かるこの橋のことですが、橋の親柱にある銘板にも「水道橋」と記されています。橋の欄干にはこんな銘板がありました。水道橋について次のように書かれていました。「水道橋の名は、江戸名所図会によればこの橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。」と。ということで、神田川に沿って外堀通りの坂道を登って行きました。そうするとこんな石碑を発見しました。「お茶の水分水路」(→→→こちら)と刻まれていました。神田川の中流部(お茶の水一帯)は、もともと江戸時代の初期、幕府の命により仙台藩が本郷台地(神田山)を開削して導水した河道。そのため峡谷を形成していますが、拡幅による河道整備が困難で、洪水の際の対策上のネックになっていました。神田川の治水安全度向上を目的に、バイパス的な流路を築いたのがお茶の水分水路。全区間が神田川沿いの外堀通り・都道405号(外濠環状線)の地下に敷設されています。昭和62年~平成6年にかけて上流開削区間(220m)と、湯島聖堂あたりまでのトンネル区間(760m)を整備し、その後、平成8年~11年にかけて、下流開削区間(320m)を整備しています。さらに歩いて行くと、こちらの石碑が、男性の方が興味深げにこの石碑を撮影していました。この人が退くまで待って、MoMo太郎も石碑を撮影。「神田上水懸樋跡」(→→→こちら)とありました。下の銘板には、神田上水懸樋の様子を描いた絵図と文京区教育委員会による説明文がありました。江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。平成8年(1996)3月 東京都文京区ここに懸樋、つまり神田川を越えるために設けたパイプ(樋)が架かっていたわけですね。この懸樋(水道橋)が現在の水道橋の地名の由来なんですね。神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、1596年~1615年(慶長年間)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(あんきょ、埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。そういえば、文京区役所近くの春日町の交差にある小さな広場にあるこの石も「神田上水石樋の石」だそうで、昭和62年(1987)、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものだそうです。【つづく】文京区散策(その7) 水道橋とは
2023年04月23日
コメント(28)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文化の京の文京区ですが、区内にはJRの駅が一つも存在していません。文京区役所の最寄り駅のこのJR中央線の水道橋駅も厳密には所在地は千代田区です。この駅のそばを流れる神田川です。川の清掃をする船が見えました。そしてこの神田川が千代田区と文京区の境になっていて、神田川を超えて東京ドームホテルなどのある方に来ると文京区になります。神田川に並行する外堀通りを歩いて行くと、小さな広場があります。このあたりは「市兵衛河岸(→→→こちら)」という地名だったそうです。この付近が神田川の水際に作られた物揚場(ものあげば)だったそうで、今の東京ドームシティのあたりに東京砲兵工廠のあったころは、工廠用の貨物が揚げ下ろしされた場所です。神田川市兵衛河岸防災船着場として今でも緊急時にはこの船着場が利用できるように整備されていました。ちなみに、この付近には「岩瀬市兵衛」のという人の屋敷があり、それが市兵衛河岸の地名の由来になったそうです。そして、岩瀬市兵衛は旗本だった家柄で、その中で岩瀬市兵衛の家を継いだ岩瀬 忠震(いわせ ただなり)(→→→こちら)は、嘉永8年(1853年)ペリーの来航後、アメリカとの交渉に当たり、特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印した人物だそうです。【つづく】文京区散策(その6) 水道橋駅近くの市兵衛河岸
2023年04月22日
コメント(28)
文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文京区立森鴎外記念館から団子坂を登っていくと、ちょっと変わった建物のお寺に到着しました。こちらが駒込大観音で有名な光源寺(→→→こちら)です。山門(?)を入ると、「蓬莱梅(ホウライバイ)」の由来と書かれた説明板がありました。かって、樹齢3百年を超える蓬莱梅と呼ばれる梅の木が境内にあったそうですが、空襲で焼けてしまったそうです。そして、現在は榛名山で見つけてきた、二代目の梅の木があるそうです。こちらが二代目の蓬莱梅です。訪れた2月中旬には、梅の花が見事に咲いていました。こちらが駒込大観音が安置されている観音堂です。この中に大観音がおられるのですね。こちらが駒込大観音です。初代の像は元禄10年(1697)に豪商丸屋吉兵衛の発願により御丈約5mの十一面観音像が建てられましたが、惜しくも東京大空襲で焼失し、1993(平成5年)に御丈6m余の御像として再建されたそうです。こちらの石の台座は、初代の大観音が設置されていた礎石です。再建まで48年も掛かっていたんですね。【つづく】文京区散策(その5) 駒込大観音
2023年04月20日
コメント(22)
全1464件 (1464件中 51-100件目)