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四谷左門町にある於岩稲荷田宮神社です。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社だそうです。かの「東海道四谷怪談」を芝居や映画で上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂もありますが、実は「四谷怪談」は四世鶴屋南北が創作したフィクションです。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに「お岩」という名の女性がいたことは事実だそうですが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はなかったそうです。「お岩」は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされ人物で、それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある神社で、経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だそうです。ちなみに、於岩稲荷田宮神社の宮司は田宮家の子孫が代々継いでいるのだとか。神社に掲示されていた説明板です。内容は以下の通りでした。東京都指定旧跡田宮稲荷神社跡所在地 新宿区左門町十七標 識 昭和六年一二月二日指 定 昭和三〇年三月二十八日田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。 初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。 鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。 戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。 稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で焼失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。 しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一)に指定されました。 戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。平成二四年三月 建設 東京都教育委員会(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その6)於岩稲荷田宮神社
2022年05月28日
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四谷にある須賀神社は四谷十八ヵ町の鎮守様です。神社にあるこの石段(男坂)は、2016年に公開され、大ヒットを記録したアニメ映画「君の名は。」にも登場したという、ちょっとした知る人ぞ知る名所かも。石段を登り切ったところにある須賀神社の境内です。須賀神社の「須賀」という社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものだそうです。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その5)須賀神社
2022年05月27日
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新宿通りを新宿に向かって左手にある閑静な住宅街の中を歩いていきます。意外と狭い道が続きます。忍者として有名な服部半蔵正成が開いた浄土宗西念寺があります。服部氏の菩提寺であるのと同時に、正成が守役を務めた徳川家康の長男・信康の供養のためにも開基されたそうです。また、寺宝として徳川家康から拝領した服部半蔵の持槍(新宿区登録有形文化財)を所蔵しているそうです。こちらが本堂でこの中に服部半蔵正成の槍が展示されています。山号は「専称山」です。こちらが、服部半蔵正成のお墓。新宿区教育委員会による説明板がありました。こちらが、お墓だそうです。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その4)忍者服部半蔵のお墓
2022年05月26日
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迎賓館赤坂離宮です。2月末に行ったので、なんか並木道も寂しいですね。迎賓館赤坂離宮前の公園になにやら新しい施設が出来ていました。なかなかオシャレな外観でした。迎賓館赤坂離宮前休憩所(→→→こちら)という施設だそうです。迎賓館に参観に来た人のための施設で内閣府が設置した施設だそうです。地下はカフェになっているようで、政府機関が作るにしてはちょっと気の利いた感じですね。【つづく】(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その3)迎賓館赤坂離宮前休憩所
2022年05月25日
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明治記念館から、迎賓館赤坂離宮(→→→こちら)に向かいます。明治記念館と赤坂御所(青山御所)との間にある安鎮坂と呼ばれている坂道を下って行きます。この安鎮坂、権太坂、権田坂、権田原坂、権太原坂などの別名があるそうです。ちなみにこの坂道が東京都港区と新宿区の境界になっています。安鎮坂の名は、かつて坂の前にあった安藤左兵ヱの屋敷内に安鎮大権現の社があったことに由来しているそうです。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった幕府代官の権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説あるそうです。坂の途中にあったみなもと町公園です。この公園では広いグランドがあってこの辺りに住んでいる子供たち(多分、いいところのお坊ちゃま)には楽しい公園でしょうね。坂道を下って行くと、かの有名な、学習院初等科がありました。愛子さまはここに通われていたんですね。悠仁さまはこちらには通われていなかったそうですが、坂の下にある四谷見附公園には、大きなプラタナスの木がありました。(MoMo太郎がこの公園を訪れた時は、2月末だったので、木の葉がなくて大木というイメージがちょっと湧きませんが、根元にあった説明板では、「幹周り4.8m、高さは32mあり、区立公園では最大の木です。」と書いてありました。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その2)安鎮坂と学習院初等科
2022年05月24日
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JR総武線(各駅停車)の信濃町駅に初めて降りてみました。信濃町という地名の由来は、当地に江戸時代の幕臣・永井尚政(信濃守)の屋敷があったことによるそうです。なかなか立派な駅ビルになっていて、ビックリしましたが、こちらの慶応大学病院とか、某宗教団体の関係者とかでないと、余り利用することがないのかもしれませんね。某宗教団体とは、こちらのことですが。また明治神宮外苑への最寄り駅なので、こちらの聖徳記念絵画館を訪れる人やこの花崗岩張りの外観はなかなか風格ありますね。こちらのイチョウ並木の道を散策したりする人が信濃町の駅を利用するのかもしれませんね。イチョウ並木を解説した看板がありました。また、神宮球場にも近いので、ヤクルトスワローズのショップもありました。MoMo太郎は、とりあえずこちらの明治記念館の方を回って、信濃町駅周辺を散策してみました。【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その1)はじめての信濃町駅
2022年05月23日
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日本オリンピックミュージアムも今のところ入館するのはインターネット予約制で、なおかつ高校生以下は無料ですが、一般は入場料500円が必要です。ああ、この瞬間だけ高校生に戻りたい。ということで、入場は諦めて屋外の展示物を見てみました。オリンピックミュージアムの入口近くにあるのが、この胸像と碑文。胸像は、日本スポーツ界の功労者といわれる岸清一(→→→こちら)先生のものです。こちらの碑文には岸清一さんの功績が記されています。大日本体育協会(体協)の発展に寄与し、国際オリンピック委員も務められた人らしいです。岸清一柿の遺言により100万円(現在の28億円に相当)が寄付されて1940年に東京府神田駿河台に岸記念体育会館(→→→こちら)が建設され、そして、1964年東京オリンピック開催時に渋谷区神南に移転。さらに、2016年に「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」としてここに移転し、そのビルの1階と2階がオリンピックミュージアムになっているそうです。つまり、この建物は岸清一氏の遺産を土地転がしで儲けて建てたというわけですね。ちなみに、岸記念体育会館はよく岸記念体育館と呼ばれていましたけど、体育館ではなく普通のオフィスビルだったわけです。こちらは、東京2020でもお馴染みのオリンピックシンボル。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸と、その相互の結合、連帯を意味しているらしいです。こちらにあるのは、聖火台の縮尺模型。左は1964年東京大会の聖火台で縮尺3/4。左は1972年札幌大会の聖火台で縮尺2/3だそうです。そしてこれは、1998年長野大会の聖火台で縮尺1/2。まだ、2020年(2021年に開催)の東京大会の聖火台はまだありませんでした。でもどんな聖火台だったかは忘れてしまいました。こちらは、嘉納治五郎(→→→こちら)像。柔道の創始者でオリンピック大好きな方だったようですね。こちらは近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタン(→→→こちら)像。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれているので、貴族だったんですね。クーベルタン男爵は「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という言葉を広めたらしいですが、やっぱりオリンピックに参加するためには、自分で自分を律して、自己の弱さに打ち勝った(この時はやっばり「打ち克った」と書くべきかも)人物がオリンピックに出場しているので、やっぱり参加するためには勝たないといけないですね。【了】人気ブログランキング青山散歩(その6) 日本オリンピックミュージアム
2022年05月20日
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青山通りに戻って、東京メトロ銀座線の外苑前駅近くにあるスタジアム通りを国立競技場の方に向かって歩いて行くと、色んなスポーツ関連施設があります。まず最初にあるのが、秩父宮ラクビー場です。ラクビー、面白いスポーツですがサッカーほど盛り上がらないのがファンとしては残念です。秩父宮ラクビー場にあるこの建物は、TEPIAプラザ先端技術館(→→→こちら)。TEPIAとは「一般財団法人高度技術社会推進協会、Technology Utopia」のことで、機械、情報、新素材、バイオ、エネルギー等の先端的技術動向を調査し、地球環境問題やイノベーションによる新規産業創出などの未来社会の発展のための重要課題の解決に役立つ最新の先端技術を、分かり易く体験的な手法で、情報発信することなどを目的として活動しているそうです。TEPIAプラザと隣の神宮球場との間)の垣根のところにあるが、「近代ボウリング発祥の地」の記念碑です。ガラス製の記念碑でちょっと変わっていますね。碑文には近代ボウリング発祥の地1952年(昭和27年)12月20日, わが国初の テンピンボウリング 手動式設備で, 東京ボウリングセンターが, この地に誕生する。後年, 自動式設備の登場と相まってブームを生み, レジャー産業の基盤を作り上げるきっかけとなった。 1994年9月29日協会創立30周年を記念し之を建立す。東京ボウリング場協会とありました。この東京ボウリングセンター、開業当時は会員制で入会金は3万円。ちなみに当時、四年制大学卒の国家公務員の初任給は7650円だったそうで、なかなか高級なレジャーだったようです。ところで、ここにあった東京ボウリングセンター、多分、昭和の終わり頃に吉祥寺へ移転したと聞いていますが、その後どうなったんでしょうかね。そして、東京ヤクルトスワローズのホームグランドであり、学生野球の大会も開かれる、野球の聖地、「明治神宮球場」(→→→こちら)です。この球場の所有者が宗教法人明治神宮だとは知りませんでした。そして、ここ日本オリンヒックミュージアム(→→→こちら)に着きました。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その5) スタジアム通り
2022年05月19日
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赤坂通りを歩いて行くと、環状三号線と交差するところに出てきました。六本木ヒルズと六本木トンネルが見えて、なんとなく東京でもオシャレ度が高そうなエリアですね。そして、青山霊園(→→→こちら)に入って来ました。青山霊園は明治7年(1874)に美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された東京都の霊園です。著名人の墓所が多くあることもでも知られていますが、桜の名所としても知られ、墓参りだけではなく散策に訪れる人も多い場所です。そういう著名人の中には上野英三郎博士(→→→こちら)と忠犬ハチのお墓もありました。ちなみにこの写真は、東京大学構内にある上野英三郎博士と忠犬ハチ公の銅像です。こちらは青山霊園にある警視庁墓地です。警視庁墓地は、西南戦争に派遣された約9千5百名の内、不幸にも戦没した警察官を埋葬するために明治12年(1879)に設置されたのが始まり、その後、殉職した職員も埋葬されているそうです。やっぱり、お墓の手入れは警視庁がしているんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その4) 青山墓地で上野英三郎のお墓を発見
2022年05月17日
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旧乃木邸まできたので、やはり隣接する乃木神社も訪れたました。乃木神社、当然のことながら、乃木希典将軍とその妻・乃木静子を祀る神社で、アイドルグループの乃木坂46(→→→こちら)を信仰する人たちの神社ではありません。ちなみにMoMo太郎は乃木坂46の齋藤飛鳥(→→→こちら)が推しです。理由は、斎藤飛鳥さんのお母さんがミャンマー人だからです。MoMo太郎、むかしミャンマーで働いていたことがあり、なんとなくミャンマーには親近感を持っています。訪れた時は梅が盛りの時期でした。乃木神社の一の鳥居です。そしてここが乃木坂陸橋。外苑東通りと赤坂通り交差点が立体交差となっていて、赤坂通りはそのまま乃木坂トンネルになっています。この乃木坂トンネルを走って行くと表参道交差点につながります。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その3) 乃木神社
2022年05月16日
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青山通りから六本木に向かう外苑東通り沿いにあるこの建物。都営住宅です。都営住宅でも南青山にあるって、ちょっと魅力的な物件かもしれませんね。さらに六本木方面に向かって歩くと、旧乃木邸があります。門柱には「舊乃木邸」とありますが「舊」というのは「旧」という字の旧字体なんですね。もちろん、名前のとおり、日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅地です。明治天皇崩御の後に殉死された乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に開設されました。現在は港区の有形文化財に指定され、港区により管理されているそうです。こちらの建物が乃木邸です。黒塗りの板張りで飾り気がなく、将軍のお宅にしては質素な造りでした。ちなみに通常、邸内は非公開となっていますが、年三回内部も一般公開されていて、MoMo太郎の訪れた日は、丁度内部公開されていた日でした。内部の撮影はできなかったので、庭園にあった「乃木将軍と辻占売少年像」を撮影してみました。明治24年(1891年)、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして建立された銅像です。こちらは馬小屋です。煉瓦造りで母屋より立派な建物。やはり昔の軍隊にとっては馬はとても大切なものだったんで、乃木将軍もこういう立派な馬小屋を造らせたんでしょうね。旧乃木邸の庭園です。乃木邸庭園の瘞(えい)血の處 です。 殉死したときに血が付いたものを埋めた場所だそうです。.「瘞」という字は、「うめる。うずめる。埋葬する。」という意味の漢字なんですね。【つづく】【東京いのちの電話について】MoMo太郎の昨日の投稿に対して、次のようなコメントをいただきました。このような事実誤認も著しいコメントを信じないようにして下さい。>いのちの電話は専門の工程を終了したボランティア、精神科の先生などはいないと思いますよ。>運営も100%自前、寄付などによって運営されて365日24時間人がいますが、当然のように人為>は極端に少ないのが現実です。>公共からの支援はありません。これに対して事実としては以下の通りです。東京いのちの電話では、「土曜医療相談」(→→→こちら)として、電話相談を受けた中で専門的な対応が必要な場合に土曜医療相談の電話番号をお知らせし、身体・健康・病気など医療に関する相談を受けています。毎週土曜(祝祭日を除く)14時~17時に医師がボランティアで電話を受けています。つまり、カトリック医師会、キリスト者医科連盟等が協力しています。このコメントをいただいた方は北海道にお住いのようで、北海道でこのような取り組みをされているかどうかはわかりません。十分ではないかと思いますが、厚生労働省では、地域自殺対策強化事業(→→→こちら)、自殺防止対策事業(→→→こちら)などにより、いのちの電話をはじめとする自殺対策強化へ交付金による助成を行っています。このようにMoMo太郎は事実関係を確認して記事を書くようにしております。人気ブログランキング青山散歩(その2) 旧乃木邸
2022年05月14日
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青山通りに面して、ホンダのショールーム「Honda Welcome Plaza AOYAMA」があります。試乗用に置いてあった車です。よくみるとサイドミラーがない。これでは路線変更もバックで駐車もできない!もしや欠陥車では。ショールームの中にも同じ車が展示されていました。中に乗ってみると、ドアの横についている黒い突起がカメラになっていて、運転席で後方が確認できるようです。これなら視線の移動も少なくて安全運転につながるかも。ゴールド免許証のMoMo太郎が一番欲しいのは、こういうロボットが同乗してくれて、ナビしてくれること。例えば、ASIMO:「後ろから若い女性の運転する赤いスポーツカーが追い越そうとしています」MoMo太郎:「ドライバーの年齢と女優で言えばだれに似ている」ASIMO:「推定30代、綾瀬はるか似です」MoMo太郎:「じゃあ、道を譲りましょう」という会話をしながらドライブするのも楽しいかも。しかしホンダといえば、今でもこういう、F-1に参加しているのかどうかわかりませんが、ホンダといえば、こういうモータースポーツのイメージは強いですね。そして、F-1といえば、T-Squraeのこの曲「Truth」ですね。今でも車が走るシーンのBGMなんかでもよく耳にする名曲ですね。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その1) Honda Welcome Plaza AOYAMA!
2022年05月12日
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4月の満月は英語圏では「ピンクムーン」と呼ばれているそうです。ほぼ満月の4月16日午後7時頃の月です。【最近,考えていること】2月24日に,ロシアがウクライナへの侵攻をはじめて,もう52日が過ぎているんですね。MoMo太郎のような素人はロシアがウクライナの首都キーウを陥落させるのに1カ月もかからないんじゃないかと思っていましたが,そういうわけでもないのですね。とにかく早くこの戦争か終結して平和がウクライナに戻って来て欲しいと希求します。それはそうと,最近はテレビで現地からの映像を観ていると,画面に「ぼかし」が入っていて,戦争で犠牲になった人たちのご遺体を見せないようにしているんですね。確かに,みんなが茶の間で楽しく観ているテレビに沢山のご遺体,多分,刑事ドラマで観ているようなきれいなご遺体ではなく,損傷の激しいご遺体を見たくはないですが,視覚から戦争がいかに残酷でやってはいけないことかを認識することも必要なのではと思う次第です。まあ,沢山のご遺体を見せて,テレビの前の人達の気持ちを傷つけるようなことになるのは,戦争と同じような暴力なので良くはないことでしょから,例えば,週刊誌とかにはちゃんと戦争の悲惨さが伝わる写真を掲載して,戦争反対の世論を盛り上げていくべきだと,MoMo太郎はそう思うわけです。人気ブログランキング昨夜はピンクムーンだそうです
2022年04月17日
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隅田川に架かる勝どき橋です。東洋一の跳開橋として昭和15年(1940)に完成した勝どき橋。そのたもとにある「かちどき橋の資料館」(→→→こちら)です。勝どき橋は、当時国家的イベントとして予定されていた万国博覧会へのメインゲートとしても利用するために、当時の最先端技術の粋を集めて建造されたそうですが、万博自体は戦争の激化により中止となったそうです。訪れた時は、新型コロナウイルスの感染拡大のため臨時休館でした。入場無料なので見たかったのですが、またいずれ別の機会に行ってみます。また、その場所には海軍経理学校の碑がありました。築地地域は、軍艦操練所や海軍発祥の地の碑、海軍兵学寮の碑等の海軍関連の施設が多くあるそうですね。明治25年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島と銀座の往来が盛んになったことから、明治38年(1905年)、日露戦争の旅順要塞(中国北東部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付したそうです。それでも不便だったので、勝どき橋が建設されたのですね。橋の下を警戒船が航行していました。これは勝どき橋をテロから守るためではなく。築地中央卸売市場の跡地整備のための河川工事をしているため、その安全確保のために配備されているのですね。勝どき橋って、漢字では「勝鬨橋」って書くんですね。隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年11月29日の開閉を最後に、勝どき橋が開いていませんが、橋の中央部には橋を上げるための機械の操作室が残っています。また歩道部には橋を開いた時に歩行者を止めていた信号が残っています。車道側の信号機は撤去されていますね。ここが橋の中央部で、ここから「ハ」の字型に橋が開いていたのですね。一度、橋が開いているところを見たいものだと思いますが、もう昔の写真でみるしかないのでしょうね。人気ブログランキング勝どき橋
2022年03月31日
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浜離宮からかっての東京都中央卸売市場築地市場の裏を通って行く道路です。車も通ってなくて安全かと思いきや、爆走する自転車には気をつけて歩きましょう。この道の先に見えるアーチが築地大橋です。途中で浜離宮の水門があってその先にレインボーブリッジが見えました。こちらが築地大橋(→→→こちら)です。築地大橋(つきじおおはし)は、環二通りが隅田川を渡る橋梁で、湾岸道路と直結することにより、臨海部と都心部のアクセスの向上と、並行する晴海通りの渋滞も緩和などにも役立つものとして建設されました。竣工は平成27年度(2015)ですが、その時点では橋の西側にある築地市場の豊洲への移転が遅れており、移転が平成30年(2018)10月11日に築地市場の移転がされて、橋が通行できるようになったのは、平成30年(2018)11月4日になりました。この橋の変わったところは、先日紹介したアーチ橋の永代橋と比べてみるとわかりますが、アーチをつなぐ横部材がないことです。橋の銘板の揮毫は舛添要一さんだったんですね。橋の上から浜離宮公園を撮影してみました。ビルの谷間から東京タワーが綺麗に見えるビュースポットでもあるんですね。そして、上流側の勝どき橋から築地大橋の全景を撮影しました。人気ブログランキング築地大橋
2022年03月30日
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隅田川に架かる永代橋です。関東大震災後の復興でこの橋が建設された頃は、この下流に橋はなく、また当時貨物は船で運ばれ、隅田川は舟運の幹線ルートでした。したがって、船で東京に来る人が最初に通るのがこの永代橋となることから、永代橋は「帝都の門」として設計されたそうです。「えいたいはし」と濁らずに「橋」の字を読みましょう。この橋の歴史は古く、元禄11年(1698年)に創架されていたそうで、元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良邸の討入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったといわれています。その時点で両国橋(万治2年(1659年)或いは寛文元年(1661年)に創架)もあったのにわざわざこの橋を渡ったのは、何故なんでしょうか。帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)として土木学会選奨土木遺産になっています。碑文では、 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。●永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。と記されていました。ツインゲートのもう一つは清洲橋(→→→こちら)になります。永代橋の上から隅田川の上流を望みます。隅田川大橋(昭和54年(1979)創架)のため、ツインゲートのもう一つアーチ型の永代橋と対をなす吊橋の清洲橋が見えたのでしょうね。清洲橋は見えませんが、東京スカイツリーはよく見えます。永代橋の名称は、中洲の永代島(現在の江東区富岡)にちなむとともに江戸幕府が末永く代々続くようにという願いをかけられたのでしょうか。人気ブログランキング帝都の門 永代橋
2022年03月26日
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こちらの橋は、日本橋川が隅田川に流入する河口部に架かる白い骨組みが印象的な、豊海橋(とよみばし)です。よくテレビや映画のロケ地にも使われている橋です。大地真央さんと今野浩喜さんのCMでも登場しています「今野、そこに愛はあるんか」。橋のたもとにある豊海橋の銘板です。銘板には、このように記されていました。 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。 「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈下を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」 (永井荷風 断腸亭日乗 より)橋梁の諸元形式 フィーレンデール橋橋長 46.13m有効幅員 8.00m着工 大正15年5月竣工 昭和2年9月施工者 復興局 平成3年3月 東京都中央区このように、関東大震災の復興で架けられた橋を「震災復興橋」と呼んでいます。この川が日本橋川です。JR水道橋駅西口近く、東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分岐し、大手町付近を流れ、この豊海橋で隅田川に合流します。橋を横から見たところです。このフィーレンデール橋という形式は日本では希少な存在だそうです。梯子を横倒しにしたような外観からトラス橋と思う方もおられますが、トラスのように格点部がヒンジ(一点で繋がり自由に回転できるようになった結合方式)ではなく剛結となっており、構造上はラーメン橋に分類されます。 しかし、ヒンジ結合であっても実際の構造物で純粋なヒンジ接合とすることは少なくボルトあるいは溶接により剛結合されています。でないとヒンジでグルグルと部材が回って、工事がしにくですよね。こちらは隅田川に架かる永代橋です。アーチ形状のこの橋も震災復興橋です。次はこの永代橋を渡ってみることにしました。人気ブログランキング震災復興橋 豊海橋
2022年03月25日
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古河公方公園というのは、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が、享徳4年(1455)古河に移り、この地に館を構え、それ以降、「古河公方」と呼ばれるようになり、それから五代にわたり約130年間、関東に一大勢力を誇っていましたことに因むものです。園内にあったこの高い杉木立に囲まれた場所に、第5代古河公方足利義氏(1541-1583)(→→→こちら)の墓所がありました。墓所には、石碑や石塔が建っています。これが足利義氏の墓石のようです。しかし、この足利義氏、古河公方といいながら、父である足利晴氏が北条氏康と対立していたため、次男であった義氏が北条氏康の後押しで、天文21年(1552)に11、2歳の時に古河公方になったものの、晴氏と北条氏の対立、上杉謙信と北条氏の関東の覇権を巡る争いで葛西城、小田原城や関宿城を北条氏の政略によって転々とさせられ、古河公方として古河に住んだのは元亀元年(1570)~天正11年(1583)の13年ということです。園内には歌碑もありました。若杉鳥子(→→→こちら)という古河市出身の女性歌人と長塚節(→→→こちら)という常総市出身の歌人の短歌がそれぞれ二首づつ刻まれていました。歌碑の背面には、それぞれの作者のことが説明されていました。若杉鳥子は、古河の豪商と東京神田の貸席の女中との間に生まれ、すぐ古河の置屋、若杉はなの養女となり、さらに学齢期まで里子に出されるという薄縁の幼少期を過ごしたそうです。また、長塚節は正岡子規に師事した歌人ですが、鳥子の師横瀬夜雨(→→→こちら)宅で手にした彼女の写真に魅せられ、歌二首を贈ったそうです。古河公方公園の駐車場にあった「御所沼復元記念」の石碑です。こちらが御所沼です。御所沼とは、沼の畔に古河公方が館をかまえたことに由来するそうです。戦前、沼で採れたジュンサイは、東京の料亭に出荷されていたそうですが、昭和25年に水田へと埋め立てられたのですが、沼の復元で、土の中のジュンサイ(→→→こちら)の種が目覚めて復活したそうです。でも、現在ジュンサイは確認できていないんだとか。その他にも園内には大賀蓮池とよばれる沼もあり、白い額がトレードマークのオオバン(→→→こちら)という水鳥が棲んでいます。公園の中心にある富士見塚です。御所沼を復元したときの残土を積み上げて作られたそうです。上に登ると園内が一望できますし、関東平野を縁取る赤城山なども見えそうです。上手くいくと富士山が見えるかも。古民家も移築されていました。しかしながらこの日は新型コロナウィルスまん延防止措置期間だったので、中を見学することはできませんでした。こちらの建物の中には、クジャクが飼われています。鮮やかな羽根の色のクジャクですが、羽根を開いて見せてくれるのは、やはり繁殖期で羽根を開いてメスを誘う時みたいですね。オスの羽根が綺麗だからメスは誘われるのではなく、こういう目立ちやすく敵に狙われやすいにもかかわらず生きているのは、健全な個体であると同時に逃げ足の速いというような生存に有利な遺伝子を持つことにメスも惹かれるんでしょうかね。【了】人気ブログランキング古河桃まつりに行ってきました(その2) 古河公方公園を散策
2022年03月24日
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3月20日の日曜日に、茨城県古河市にある「古河公方公園」(→→→こちら)で開催されている「古河桃まつり」(開催期間3月19日~4月5日)へ行って来ました。今年は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、イベントや出店もなく、静かな桃の花見となりました。また、例年桃まつりの開催期間中は有料となる駐車場も無料で利用できます。こちらが古河公方公園の入口になります。古河公方公園、正式には古河総合公園ですが、ここに桃林がある由来が、説明されていました。江戸時代初期、古河城主土井利勝が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って農民に育てさせたのが古河の桃林の始まりだそうです。領地では、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれたのだとか。そして、昭和50年(1975)の古河公方公園の開園にあたり、花桃(花を観賞するための桃で果実はできないそうです)を植えて桃林を復活させたそうです。ということで、公園にある桃は薪にはなるかもしれませんが、食料にはならないのですね。桃と菜の花のコラボレーション。桃の花です。梅、桃、桜の見分け方は、花びらの先端が、梅は丸、桃は尖っている、桜は先割れ になっているので見分けがつきます。その他にも梅は枝にくっつくように花が咲き、桃は枝に沿うように花が咲く、そして桜は枝からはなれて花が咲く。といった違いがあります。桃の花の下、多くの見物の人が来ていました。利根川と渡良瀬川の合流する古河の周辺には、かつてたくさんの沼があったのですが、埋め立てられて水田になったものを公園化にあたって沼を復元したそうです。園内には白い花が咲く桃の花もありました。純白の桃の花もいいですね。【つづく】人気ブログランキング古河桃まつりに行ってきました(その1) 桃の花見もいいですね
2022年03月23日
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江東区に佐賀という地名があります。なんでも、「江東区の地名由来」によると 寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。 元禄8年(1695)の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。ということだそうです。その後、猟師(漁師の意味)の町から江戸の材木置き場、蔵の町と発展し、町の周囲には多くの運河が巡らされ、戦後も昭和の時代までは倉庫・洋館・看板建築などが、多数残っていました。今は立派なこのマンションも、以前は、村林ビルディングという、鉄筋コンクリート3階建て、コーナー部に玄関を配し、丸みのある特徴的なビルがあったそうです。また、こんな昭和レトロ感漂う洋館もまだ残っていました。MoMo太郎の記憶が正しければ、娘にしたい女優ナンバーワンの芦田愛菜さんが主演したテレビドラマ「マルモのおきて」(→→→こちら)で愛菜ちゃんたちが住むアパートの大家さんが経営する居酒屋の外観に使われていた建物だと思います。人気ブログランキング東京にある佐賀
2021年12月30日
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ここは、2021年5月28日のブログ、「青天を衝け(その3) 江東区の渋沢栄一宅跡」(→→→こちら)で紹介した江東区永代二丁目にある澁澤シティプレイス永代のビルです。今では、この澁澤倉庫の本社ビルになっています。ビルの前にあった碑文です。澁澤倉庫発祥の地「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社「(ちぎり・りうご)の記章」とは、この背後のガラスに透かして入っているマークで、糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われているそうです。そして、澁澤シティプレイス永代り裏にまわると、「福住稲荷神社」(→→→こちら)があります。福住稲荷神社は、近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠でしたが、明治9(1876)年に澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られています。さて、狭い参道を入って行くと、石造りの鳥居があります。屋敷の中にあった祠なので小さいです。石造りの神狐像、こちらは米俵を持っているのでしょうか。こちらは子供ですね。子供を鞠で遊ばせようということですか。この石は、渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員ともなれば、荷物を運んだりするので、やはり力持ちも多かったのかも。澁澤倉庫の記章であるちぎり紋、りうご紋が入った力石もありました。鳥居や神狐像。そして力石として並んでいるものが江東区の登録文化財だったんてすね。人気ブログランキング渋沢栄一ゆかりの福住稲荷神社
2021年12月04日
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日本橋小網町と兜町の間の首都高速の下を流れる日本橋川です。この日本橋川に架かる橋。鎧(よろい)橋という名前です。橋のたもとの緑地にお地蔵様が佇んでいました。お地蔵様の台座には梵字が刻まれていました。なにか由緒のあるお地蔵様なんでしょうね。その横には裸婦のブロンズ像が。こういう芸術家の人って女性の裸が好きなんですね。鎧橋は明治5年に架けられ、江戸時代は渡し船が運行されていたそうです。そして橋のたもとにあるこの建物は、東京証券取引所です。人気ブログランキング鎧橋
2021年12月03日
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古典落語の「心眼」の舞台のとなったのが、かって日本橋日枝神社の別当寺*として天海僧正が開基した鎧島山 智泉院です。江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、本尊が薬師如来であったこのお寺は「茅場町のお薬師様」として人々の信仰が厚く、有名だったそうです。落語の「心眼」あらすじは、盲人だった主人公が、女房に言われて、茅場町の薬師様に21日の日参。ようやく満願の日、自分の目が開いていることに気付き、そして女房(人三化七(→→→こちら)の容貌)と別れて、東京で指折りの美人という芸者の小春を女房にしようとしたところ、ブスの女房が現れて首を絞められ・・・、というところで目が覚めて。そして、主人公の男が「盲てなあ、妙なものだねぇ。寝ているうちだけ、よーく見える」とつぶやくのが落語の下げになります。境内にある中央区文化財のこの地蔵尊は、青銅製で像高は235㎝。作者は日本橋本小田原町で生まれた彫刻家、戸張狐雁。関東大震災でなくなった人々の供養のために、日本橋魚河岸の“地蔵講”が製作発願し、昭和2年9月1日除幕式が行われたものだそうです。 また、境内にある一対の鉄製の大きな天水鉢は天保12年(1841)4月、当時この辺の町名であった坂本町の人々が、深川の有名な鋳物師“釜七”こと釜屋七右衛門に鋳造させた名品だそうで、これもまた中央区民文化財になるそうです。*別当寺とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。人気ブログランキング茅場町のお薬師様
2021年12月02日
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今年も残すところあと一ヶ月となりました。年末の慌ただしい時になりますが、相変わらずノンビリと、あっちこっち歩いて暮らしているMoMo太郎です。地下鉄東西線の茅場町から歩いてすぐのところにある神社です。ビルとビルの間にあってちょっと気がつかない人も多いかも。摂社日枝神社です。本社は永田町にある日枝神社で境外摂社なんですね。説明書きによれば、徳川家康の江戸入府に伴い、日枝神社の神輿が当地に安置されたのが起源だそうです。安置された場所のことを「御旅所(おたびしょ)」というので、今でも山王御旅所として、隔年で開催される山王祭では、本社と当社間を神輿や山車が巡幸しています。この石鳥居は、永田町の日枝神社(本社)石段下に設けられていた鳥居を昭和36年(1961)に移設したものだそうです。「官幣大社日枝神社摂社日枝神社」と刻まれた社号標。戦前からのものですね。社殿は新しく見えますね。神拝詞(しんばいし)と読むのかと思っていましたが、フリガナは「となえことば」となっていました。七五三の時期だったので、碁盤が置いてありました。碁盤の上から飛び降りるということで、「碁盤の目のように筋目正しく育つ」「ひとり立ちする」「運を自分で開く」という願いが込められているそうです。ちなみに、隅っこに碁盤が置いてあるのは、吉方位を意識しておいてあるそうです。ところで、将棋盤から飛び降りると藤井聡太竜王のようになれるのかな。境内にあった「明徳稲荷神社」です。こちらの神狐さまは、俵と、子供を持っていました。こちらが明徳稲荷神社の拝殿になります。茅場町、兜町に近い都心にありながら、静かで神聖な気持ちになれる神社でした。人気ブログランキング茅場町の日本橋日枝神社
2021年12月01日
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墨田区の両国高校の脇から南に向かってむかしの洲崎、今の東陽一丁目まで続く大門通りに沿って歩くと、小名木川にかかるこの橋が見えてきます。新扇橋という名前です。架橋されたのは昭和6年(1931)ですが、昭和48年(1973)に大改修されて今の橋になったようです。近くにあった説明板です。小名木川は、徳川家康の命を受けた代官小名木四郎兵衛(おなぎしろべえ)によって開削された隅田川と中川(今の荒川)を結ぶ運河で、中川からは船堀川によって利根川(今の江戸川)と結ばれていました。ちなみに、利根川は家康の時代には東京湾に流れ込む川でしたが江戸時代から明治時代にかけて利根川東遷事業(→→→こちらこちら)によって、今の千葉県銚子市から太平洋に流れこむようになりました。江戸時代の小名木川は、利根川を通じて北関東や東北の物資を江戸へ輸送する重要な運河でした。その船の交通を統制するために設置された「猿江船改番所」があったそうです。猿江船改番所跡 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置されました。 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。 平成6年(1994)3月 江東区教育委員会また、新扇橋の東側には、小名木川を締め切る水門があります。扇橋閘門(おおぎはしこうもん)と呼ばれる施設です。扇橋閘門の仕組みについての説明板がありました。扇橋閘門は、小名木川(おなぎがわ)のほぼ中央に位置しており、隅田川と荒川という水位が異なる河川を通航可能にした”ミニパナマ運河”と言える施設です。2つの水門(前扉及び後扉)に挟まれた閘室(こうしつ)と呼ばれる水路の水位を人工的に変動させることにより、船の通航を可能にします。扇橋閘門の仕組みについてはこちら(→→→扇橋閘門の仕組)を参考にして下さい。この扇橋閘門は、昭和47(1972)年1月の着工から、約5年の歳月と約30億円の事業費をもって昭和52(1977)年に完成したそうですが、現在は耐震補強工事が行われているようです。人気ブログランキング猿江船改番所と扇橋閘門
2021年10月30日
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江東区を守護する四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)のうち、白虎は豊洲シビックセンター前にあります。豊洲シビックセンターは、タワーマンションが建ち、オフィスビルも建つ発展が著しい豊洲エリアの行政と文化の拠点として、出張所・文化センター・図書館等の機能を備えた複合施設です。江東区出身の堀米雄斗選手の金メダルを祝福する横断幕が飾られていました。こちらが白虎のモニュメントです。白くはないですが金属の色が光線が反射して白銀のように見えました。白虎は西方を守護する神獣です。白虎の姿は本物のトラよりは細長いですね。東武動物園や大牟田動物園、白浜のアドベンチャーワールドなどでみかけるホワイトタイガーは白虎とは違うのですね。普段、来ることはあまりない豊洲に来たついでに、「ららぽーと豊洲」に行ってみました。ここは、2003年3月に閉鎖となった旧石川島播磨重工業(現・IHI)東京第一工場跡地であるアーバンドック内に建設されたショッピングセンターです。ドッグの跡を利用した船着き場なんでしょうか。東京湾を巡る遊覧船などの桟橋があります。ドッグの跡ですアピールのクレーン。IHIのプレートがつけたままになっていますが、ここに買物に来ている人で気に留める人はそう多くないかも。ここから見る晴海大橋です。その上にも首都高速の橋ができていて、いつのまにか首都高速が晴海まで延びていたんですね。自衛隊のブルーインパルスがパラリンピックのために飛行する日だったからでしょうか。上空にヘリコプターが飛んでいました。晴海にそびえるタワーマンションでしょうか、こういう所に住めるお金持ちな人もいるんですね。人気ブログランキング江東区の四神 西の守護は白虎
2021年10月18日
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江東区を守護する四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)のうち、玄武はJR亀戸駅前公園にあります。玄武は、北方を守護する水神なので、池の中に置かれているのでしょうか。しかし、玄武といえば、下のイラストのように脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多いのですが、この玄武は一番下がお祖父さん、真ん中のがお父さん、一番上が子供の羽根の生えた亀ですね。実は、平成4年(1992)に、亀戸駅前公園を改修した際に設置された亀のモニュメント、「はね亀」を北の玄武に見立てたということのようです。ちなみに、亀のモニュメントは「HANEKAME’92」というタイトルがついた造形作家の松本哲哉の作品だそうです。むしろ、江東区の守り神にふさわしいのは、玄武の後ろに設置されているこの塔のようなモニュメント。荒川水位表示モニュメントで、荒川の水位を表示しています。隅田川と荒川に挟まれた江東区、地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯、または海面より低い海抜マイナス地帯となっています。その意味でこの荒川の水位を伝えるこのモニュメントこそ、江東区の守り神にふさわしいかもしれませんね。そして、水位に合わせて上下しているこの亀さんこそ、玄武の化身だったりして。人気ブログランキング江東区の四神 北の守護は玄武
2021年10月17日
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以前、2021年8月14日のブログ記事(→→→こちら)で紹介させていただいた、江東区を守護する四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)のうち、朱雀はこちら江東区立若洲公園に設置されています。若洲公園、江東区内といいながらも、行ってみると意外と遠くて、JR京葉線の新木場駅から都バスに乗って15分くらい掛かりました。そして、こちらが朱雀のモニュメントです。朱雀は南方を守護する神獣になります。朱雀は鳥のような形をしていることになっています。ひよっとしたら、これが手塚治虫氏が描いていた「火の鳥」(→→→こちら)かも。朱雀の「朱」は赤であり、陰陽五行説では火の象徴となるので、あながち間違いではないかも。手塚治虫の火の鳥は、古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマに伝わる「死んでも蘇ることで永遠の時を生きるといわれる伝説上の鳥」のフェニックスがもとになっているのだと思いますが。ところで、この朱雀は、若洲公園にある風力発電機を眺めているのでしょうか。人気ブログランキング江東区の四神 南の守護は朱雀
2021年10月16日
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麟祥院(→→→こちら)の境内です。左手には石仏が並んでました。春日局墓所の案内図と順路を示す矢印があって、春日局の墓所には迷うことなく行けました。こちらの石碑は、東洋大学発祥之地碑です。明治20年(1887)には、この寺の一棟を借りて仏教哲学者の井上円了は境内に、東洋大学の前身である哲学館を創設したこと記念する石碑です。ちなみに、麟祥院の裏手には東京大学があります。こちらが春日局墓所です。石柱には春日局御廟所と記されています。春日局の墓石の四方及び台石には、夫々穴が開けられています。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言によるものだそうです。春日局の強運と賢徳に、又墓石に穴が通っていることから、春日局に肖(あやか)って「願いが通る」と江戸時代より巷間に伝えられてひそかに参詣する人が多くあったそうです。【了】人気ブログランキング春日局を訪ねて(その3) 春日局御廟所
2021年09月19日
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麟祥院は、臨済宗妙心寺派の寺院で山号は天沢山というそうです。扁額の 「海東法窟」は中国から見て海を隔てた東にある法の寺との意。春日局の菩提寺として知られています。寺号の麟祥院は春日局の法号は「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」に因んでいるそうです。境内には春日局の墓や哲学館跡という史跡があります。これは、寺域の外界を示すために建てられた結界石(けっかいせき)です。「不許葷酒入山門」という文字が刻まれています。「葷酒(くんしゅ)、山門に入るを許さず』と読むそうです。臭気の強い野菜(ねぎなど)は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないという意味だそうです。【つづく】【追伸:元反社ではいかんでしょう】自民総裁選4氏立候補 次期首相選出へ論戦火ぶた―初の複数女性候補、29日投開票ということで、いよいよ自民党総裁選がはじまりましたが、国会議員でもなくまた自民党員でもないので、どなたが総裁になったかの結果を受けて、MoMo太郎、来るべき衆議院選では誰に投票するか決めたいと思っています。しかし、絶対、この人だけは「アウト!」と言いたいのは、野田聖子氏。仮にこの記事にあることが真実だとしたら、野田聖子幹事長代行の夫は元暴力団員 「警察庁文書」に記載野田聖子の夫は「元暴力団員」と裁判所が認定 約10年間組員として活動【上半期ベスト15】それはもうこの人が日本の総理大臣になるのはいかんでしょう。まあ、どなたが総理大臣になられても反社とは関係があるのかもしれませんが、配偶者が「元」であったとしても暴力団員だったら、それは日本はヤクザに支配された国と海外の人達に思われるだけですよね。人気ブログランキング春日局を訪ねて(その2) 麟祥院
2021年09月18日
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春日通り沿いにこの銅像を見つけました。ここは、東京都文京区湯島にある麟祥院(りんしょういん)という臨済宗のお寺の前です。春日局(→→→こちら)の銅像だそうです。そう言えば、後楽園近くの礫川公園に同じような銅像があったなと思ったら、2020年8月にこちらに移設されていたそうですね(→→→こちら)。銅像の後ろには石碑がありました。碑文を読むと、昭和64年(1989)1月からのNHK大河ドラマ「春日局」の放映を契機とし、平成元年(1989)に造立されものだとか。ということは、この銅像のモデルはやっぱり、大原麗子(→→→こちら)さんでしょうか。【つづく】【追記:本富士警察署は東大生に馴染み深いのか】昨日のブログ記事で、本富士警察署は東大生に馴染みが深い理由を知りたいとコメントされました。理由としてよく言われるのが、東大生が国家公務員試験に合格して、いわゆるキャリア組の幹部候補生として警察庁に採用された場合には、もともと管轄内には東京大学があることから、(1)キャリア組が所轄署にて現場研修をする場合は本富士警察署になることも多いとされる。(2)本富士署長は、警察キャリアの中でも有望な若手が就任するポストとして知られていて、第16代警察庁長官の国松孝次(何者か、オウム真理教の信者とも言われている、に狙撃された人です)、そして、安倍晋三内閣で内閣情報官を務める北村滋も、本富士署長を経験しているそうです。まあ、それらのことは国家公務員志望の東大生では知られていることなのかもしれませんが、MoMo太郎の同業者で東京大学出身者は、本富士警察署の捜査員が学生運動の内偵をしている噂があると言っていました。人気ブログランキング春日局を訪ねて(その1) 春日局像のモデルは?
2021年09月17日
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日暮里駅に向かう途中でちょっと道を逸れると、ちょっと変わった建物が。朝倉彫塑館(→→→こちら)というそうです。文化勲章受章者である彫塑家、朝倉文夫 氏(1883-1964)(→→→こちら)が住宅兼アトリエとして使用していた建物だそうです。 敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国名勝に指定され、建物は国有形文化財に登録されているそうです。こちらは谷中霊園です。谷中霊園を歩いて、墓地の縁から山手線や京成線が眺められます。京成の車両も撮影できました。もう少し頑張ってスカイライナーを撮影してもよかったですね。ようやく日暮里駅に着きました。【了】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その7) 朝倉彫塑館、谷中霊園経由で日暮里駅へ
2021年09月13日
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道灌山通りからよみせ通りに入ります。正式名は「よみせ通り商栄会」というそうです。アーチの真ん中のイラストはお地蔵さんです。やはり夜店というだけに夜も賑やかな商店街だったんでしょうね。大正9年(1920)年に、駒込染井から上野不忍池までを流れていた藍染川が暗渠化され、その上に道幅8mの通りがつくられたのがこの商店街の始まりだそうです。この商店街を歩いていきます。商店街の入口のアーチのイラストにあった延命地蔵尊です。長野県の南佐久郡切原村の古刹、黄蘗宗(おうばくしゅう)玉井山法城院に約370年前から伝わる、地元での評判のお地蔵さまを昭和8年に地元出身で信仰の篤い方が、お地蔵さまの分霊をここに迎えたのが始まりだそうです。幟に隠れて見えませんが、水洗地蔵尊があり、願い事をしながら、その体を洗い清めることでご利益があるそうです。製麺所というのが、懐かしい感じがしました。今はカップ麺なんかで済ませますが、むかしはこういうところでうどんの玉を買ってきて、自分の家でうどんを作って食べたものです。途中で谷中銀座商店街につながっています。この商店街を通って日暮里駅に向かいます。この階段が「夕やけだんだん」(→→→こちら)です。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えるんでしょうね。商店街といっても品物だけではなく、落語も売っていたんですね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その6) よみせ通りと谷中銀座
2021年09月12日
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動坂下という交差点にさしかかりました。この道が動坂で登って行くと「がん・感染症センター都立駒込病院」があります。新型コロナウイルス感染症では頑張っていただいている病院です。動坂の名前の由来は、江戸時代初期の万行上人が、この坂下に庵を設け不動明王像を安置したので、人々は、不動坂と呼んでいましたが、その名を略するようになり、動坂と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、この庵は三代将軍家光により本郷通り本駒込1丁目に移されて目赤不動(南谷寺)として信仰を集めています。ちなみに江戸五色不動とは、赤:南谷寺、黒:目黒区の滝泉寺、青:世田谷区の教学院、黄:三ノ輪の永久寺、白:豊島区目白の金乗院ということです。さらに歩いて行くと、今度は道灌山下の交差点にやってきました。しかし、「下」という地名が続きますね。それで下町というのでしょうか。道灌山下の交差点です。道灌山は、西日暮里4丁目にある高台です。田端、王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所になります。地名の由来は、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道燗が出城を造ったなどの伝承がありますが、確かに高台に砦や城を構えるのは、戦略上重要なんでしょうね。ここで不忍通りから分かれて道灌山通りに入りました。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その5) 動坂下、道灌山下と「下」ばかり
2021年09月11日
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不忍通り、千駄木方面に向かって緩やかに下り坂となっていました。不忍通りの駒込稲荷坂下の交差点を過ぎた、都営住宅のあるあたりを右手に折れると、懐かしいチンチン電車(いや、こういう言葉はセクハラになるかも)ではなく、都電の姿が見えました。この公園の名前がこの目立たない銘板に書かれています。神明都電車庫跡公園(→→→こちら)です。公園の名前からもわかるとおり、以前は都電の神明町の車庫がありました。そんなわけで、都電の車両が展示されています。最近の若い人は、青山通りや銀座通りをはじめいろんな道路に都電が走っていたことなんて知らないかもしれませんね。そういう意味で東京の歴史を学ぶのに役立つことでしょう。ちなみに渋谷から二子玉川まで国道246号、「玉川通り」の上を路面電車(東急玉川線)が昭和44年(1969)まで走っていたと知ったらビックリするでしょうね。展示されているのは、都電6000形と貨物車の乙2号です。なかなか実物を目にする機会の少ない貨物車は珍しいですね。資材を運搬するための「貨物車」だだそうですが、そう言えば東急玉川線(→→→こちら)も二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的に建設されたそうですね。なるほどこういう用途に利用されていたんですね。こちらは隣接する文京区立本駒込図書館です。またその隣には本駒込幼稚園、そして文京区勤労福祉会館、都営住宅などの公共施設があります。そういえば、青山通りにある国連大学やこどもの城があるところも都電の青山車庫跡です。都電の持っていた不動産、役に立っていますね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その4) 神明都電車庫跡公園
2021年09月10日
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再び駒込駅の方へ戻って、日暮里に向かって歩きます。駒込駅の南口にある大きなホテルです。JR東日本ホテルメッツ、駅近で便利そうですね。こちらも駅近の旅館です。昭和30年代のオールドファッションスタイルの旅館だとか、休憩目的での利用もできるそうです。今でもこういう所で休憩されるカップルもいるのでしょうかね。本郷通りに戻って、南に向かって歩きます。ここからは文京区に入るのですね。最初に目につくのは六義園(りくぎえん)(→→→こちら)の門です。駅に近いこの門(染井門)からは入れません。南側にあるこちらが正門です。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今のところはインターネット(→→→こちら)による事前予約が必要だそうです。人数に余裕があれば、その場でスマートフォンを使ってQRコードをゲットして入場することもできそうです。しかし、新型コロナウイルスでインターネットとか使いこなせないといけない世の中になりましたね。そして、不忍通りに出ました。この不忍通りを千駄木、日暮里の方へ向かって歩きます。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その3) 不忍通りへ
2021年09月09日
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駒込妙義坂子育地蔵尊というのですから、妙義坂と呼ばれる由来となった妙義神社がありました。どうやらこの道が参道のようです。屋根の上に見える十字架を目指しながら神社の参道を歩いて行きます。工事現場のようなところに鳥居があってこちらが神社の入り口ですね。こちらが東京駒込妙義神社(→→→こちら)です。社殿は新しい感じですが、この神社の歴史は古く、おおよそ1300年以上前の白雉2年(651)に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国の蝦夷を討つために東征した際、この地に陣営を構えたことが始まりと伝えられているそうです。また、太田道灌が出陣に際し文明3年(1471)同9年、11年にもこの神社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことから「勝負の神様」、「戦勝の宮」として信仰されているそうです。まあ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の話はちょっと伝説ぽいですが、太田道灌の場合は、文明3年(1471)5月の古河公方 足利成氏との戦い。文明9年(1477)春は平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門の討伐する戦い(長尾景春の乱)文明11年(1479)春の室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める戦いと、歴史に残る勝ち戦があったので、戦勝祈願は信じていいのでしょうね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その2) 駒込妙義神社
2021年09月08日
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駒込駅周辺から日暮里へ向かってぶらりとしました。山手線の中でも、MoMo太郎が意外と降りたことのない駒込駅です。駒込駅北口にある広場です。「豊島区立染井吉野桜記念公園」というそうです。ここには「染井吉野桜発祥之里碑駒込」の石碑が建立されていました。碑文です。駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨と共に花卉・植木の一大生産地であった。この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、中でも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊東伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。「吉野」と言いながら、東京生まれの桜だったんですね。駒込駅前を通る本郷通りを古河庭園の方に向かって歩くと地蔵堂がありました。駒込妙義坂子育地蔵尊というそうです。説明板によると、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれてきたそうです。説明板の下にある江戸時代の切絵図を見ると、当時の様子がよくわかります。この地蔵堂のある妙義坂をを下ると谷田川という川があり、その谷田川の源流はソメイヨシノを生んだ染井霊園付近で、「染井村植木屋多し」と説明書きがありました。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その1) ソメイヨシノと駒込妙義坂子育地蔵尊
2021年09月07日
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東アジア・中華文明圏において大地の四方の方角を司る「四神」があるそうです。東は青龍、南は朱雀(鳥)、西は白虎、北は玄武(亀と蛇)という神獣がそれぞれ鎮護するそうです。江東区では、亀戸駅前公園を改修した際に、亀のモニュメントを設置し、北の「玄武」に見立て以来、東大島の「青龍」、若洲公園の「朱雀」が設置され平成27年(2015)9月に豊洲シビックセンター前に白虎のモニュメントが設置され江東の地に四神がそろいました。ここ都営新宿線の東大島駅の駅前広場には東方を守護する青龍が設置されています。四神についての解説がありました。これが東方を守護する青龍です。人気ブログランキング江東区東の守り神は青龍
2021年08月14日
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板橋区赤塚にあるこの道、「東京大仏通り」と書いてあります。この道を進んで行くと、東京大仏前という交差点に。このお寺があります。赤塚山乗蓮寺(→→→こちら)という浄土宗のお寺です。この山門をくぐると、こちらが本堂です。このお寺に東京大仏があります。こちらが東京大仏です。開眼は昭和52年(1977)4月11日。に開眼されました。関東大震災や東京大空襲の犠牲者を供養するとともに、そうした「天災」や「戦災」が二度と起きないようにとの願いが込められているそうです。基壇からの高さは13メートル、頭部だけで3メートル。重さは32トン 。完成したときには、東大寺の「奈良の大仏」、高徳院の「鎌倉の大仏」に次いで、日本で3番目の大きさだったそうです。阿弥陀如来さまだそうで、合掌して「南無阿弥陀仏」と称えて唱えてお参り下さい。この乗蓮寺の近くにある不動の滝(→→→こちら)にも行ってみました。掲示板の内容です。かつて、板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧き、人々の生活にうるおいを与えていました。この滝もその一つです。山岳信仰が盛んになった江戸時代の中頃からは、地元の人たちが富士山や大山(現神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を浄める「みそぎ」場として使われていました。昔は、滝つぼの前に垢離堂(みそぎをする施設)が設けられていたそうです。また、この滝の上には、あたかも守護神のように不動明王の石像が二体まつられています。この滝水は、いかなる時でも涸れることはないと伝えられていますが、周辺の宅地開発に伴い水量は減少しています。それでも、自然の豊かだった時代をほうふつとさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られています。平成十四年度に東京都の名湧水57選に選定されました。こちらが不動の滝です。訪れた時には水は流れていませんでしたが、水の流れた痕はあったので、雨が降った日の翌日などには水がしたたり落ちてくるのでしょうね。板橋区、MoMo太郎はあまり足を踏み入れたことがなかったですが、色々と名所・旧跡などありそうですね。【東京大仏のある場所】【赤塚山乗蓮寺へ行き方】BMW(バス、メトロ、ウォーキング)を使う場合JR京浜東北線赤羽駅西口、都営地下鉄三田線志村三丁目駅、又は東武東上線成増駅北口から国際興業バス赤02系統に乗車し赤塚八丁目バス停で下車ちなみに、駐車場も完備しているので、普通にBWMなどの自動車で行かれてもかまいません。人気ブログランキングへ東京大仏_見仏記
2021年06月30日
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亀戸香取神社の中にある亀戸大根之碑です。亀戸大根(→→→こちら)とは、いわゆる練馬ダイコンや千住一本ネギのような江戸東京野菜のことで、文久年間(1860〜1864)の頃から昭和初期まで、亀戸香取神社周辺で栽培されていたそうですが、現在も少量ですが葛飾区で栽培されているようです。あまり流通していませんが、明治通り沿いにあるこの料理店で実物を見ることができました。全体的に小ぶりで先が尖っています。味は、どうなんでしょうね。いつか食べてみたいですね。人気ブログランキング亀戸大根之碑
2021年05月03日
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亀戸天神の裏、北側に位置する江東(又は亀戸)天祖神社(→→→こちら)にお参りしました。社叢が緑濃く、神聖な雰囲気が漂います。旧称は柳島・砂原神明宮というそうで、推古天皇の御代(593~628年頃)に聖徳太子の作による神像を祀ったのが創建とされている神社です。ご神徳として伝わっているのは、天正年間(1573~1593年)に疾病が大流行した際、織田信長は当社へ使者を遣わせ、流鏑馬を奉納したところ、流行は収まったということです。ということは、新型コロナウイルスが感染拡大する中、この神社のご神徳におすがりするのはもっもなことですね。社殿の前にある遥拝碑です。全国各地の有名な神社の方角が記されていて、ここからはるか遠くの神社を拝みましょう。提灯の汚れ具合もまたシブイですね。扁額の揮毫が、なかなかスゴイですね。近衛文麿。肩書が「大禮(礼)使長官」となっていますから、これは昭和3年(1928)11月に昭和天皇が即位された時の儀式を司る長官だった頃のことで、この社殿はその頃に創建されたものということですね。戦前の創建にもかかわらず、東京大空襲などの戦災にもあわなかったという、まさに神様に守られた神社ともいえますね。【追伸:オリンピックまであと83日、やるつもり?】五輪への看護師派遣は可能 菅首相「医療に支障来さず」菅義偉首相は30日、東京五輪・パラリンピック組織委員会が日本看護協会に依頼している大会期間中の看護師500人派遣について、「現在休まれている方もたくさんいると聞いている。そうしたことは可能だ」と述べた。余りの過重労働と子育てのため、別の仕事をしたり、或いは家庭にいる看護師資格を持っている人、いるかもしれませんね。コロナワクチンの優先接種、かつ夜勤手当とかとは別に日給10万円くらい支払えば志願してくれる人がいるという算段でしょうかね。ところで、7月4日の都議選で、百合子さん率いる都民ファーストの会「オリンピック、バラリンピックの中止」という公約なんか出したりして。 (4月30日、東京駅前で撮影)人気ブログランキング柳島の総鎮守、江東天祖神社
2021年05月02日
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都営新宿線岩本町駅の近くにある昭和通りと水天宮通りの交差点近くの三角形の空き地。単なる空き地と思っていましたが、馬の水飲み広場の跡地だったんですね。初めて知りました。人気ブログランキング岩本町馬の水飲み広場
2021年03月19日
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浅草橋までやって来ました。浅草橋は国道6号(江戸通り)が通る国(東京国道事務所)管理の橋になります。橋の名前の銘板もややくたびれてきています。 なんといっても、1930年、関東大震災後の復興計画により建設された橋だからでしょうか。浅草橋は神田川に架かる橋で、神田川には屋形舟が係留されています。浅草橋のたもとには、「浅草見附跡」(→→→こちら)の石碑が建立されていました。見附というのは.街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来するものですが、江戸城の見附は、見張り役の番兵が駐在する城門のことだそうで、俗に江戸城には36の見付があったといわれ、四谷見附や赤坂見附として現在も地名に残っている見附もあります。神田川の傍に立つこの建物は、見附ではなく、開智日本橋学園中学・高等学校です。MoMo太郎の記憶では、昔は「日本橋女学館」と呼んでいたような気がしたので調べてみたら2015年に日本橋女学館中学校から開智日本橋学園中学校に校名を変更して男女共学とし、さらに2018年には日本橋女学館高等学校から開智日本橋学園高等学校に校名を変更したそうです。開智国際大学はどうなのかわかりませんが、国際バカロレアMYP及びDP認定校というのは凄い事かも。国際バカロレアの認定を受けているということは、ここの卒業生は、海外への大学へ進学することも可能ってことで、グローバルな活躍が期待できそうですね。【了】国際バカロレア:世界共通の大学入学資格及び成績証明書を与えるプログラムとして開発された。人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その12) 浅草橋
2021年02月25日
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大伝馬町から横山町へやって来ました。ちょっと変わったお店がありました。韓国料理のお店ですね。なんと書いてあるのかわかりません。道路に埋め込まれた標識です。馬喰(ばくろう)町というのは、やっぱり馬喰(博労)という職業、今でいうところの家畜商のいる町だったのでしょうか。横山町というのはやっぱりこのあたり横山村とかいうことで付いた名前ですかね。横山町は江戸時代の日光・奥州街道に当たり、近隣に投宿する旅人向けの小間物問屋、紙煙草入問屋、地本双紙問屋等が軒を連ねていたことから、今でも衣料・雑貨関連の問屋が軒を連ねるし問屋街になっています。清洲橋通り渡ります。問屋さんが軒を並べていています。小売りをしている店もあるので、衣類などが安く買える店もあります。横山町問屋街がここで終わり。浅草橋の交差点にやってきました。【つづく】人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その11) 横山町問屋街
2021年02月23日
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旧日光街道本通りの石碑がありました。遠くにスカイツリーが霞んで見えるこの道が、昔の日光街道だったのですね。町名は「日本橋大伝馬町」になります。小伝馬町と大伝馬町、どう違うんでしょうかね。今度調べてみます。街道沿いなので、昔で言うところの旅籠、現代でならホテルがありました。こちらのホテルは、近くにある東京メトロ日比谷線の駅名が入っていて、宿泊する人にはわかりやすそうです。こちらは「東京日本橋」ということなので、宿泊する人が間違って東京メトロ東西線の日本橋駅で降りてしまうかもしれませんね。道路沿いにあるこの看板。蔦屋重三郎「耕書堂」跡(→→→こちら)とありました。蔦屋重三郎というのは洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を出版する江戸時代の出版プロデューサー。今で言えば、秋元康みたいな人?でしょう。耕書堂というのはその蔦屋重三郎の出版社のようなものでしょうか。ちなみに、蔦屋重三郎と現在の蔦屋書店やDVDレンタルのTSUTAYAとは関係もないそうで、また、蔦屋重三郎にあやかって会社名を考えたわけでもないそうです。【つづく】人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その10) 街道沿いの旅籠
2021年02月22日
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昭和通りで本町通りが分断されています。しかし、昭和通りの下をに地下道があって、そこを通ってさら東に向かって歩きました。昭和通りを渡ると小津和紙(→→→こちら)の店がありました。小津和紙は、1653年に伊勢出身の小津清左衛門長弘が江戸大伝馬町に和紙の店を創業したことに始まります。その後、為替商、茶の販売、そして三重県松坂で「小津銀行」を設立さらに「小津細糸紡績所」を設立するなど事業の拡大を図ってきた会社です。ビルの一角に建立された石碑です。小津和紙の歴史を記した「小津の起源」の石碑です。以前参拝した寶田恵比寿神社(→→→こちら)もこの近くにあり、また馬込勘解由(まごめかげゆ)(→→→こちら)の碑もありました。馬込勘解由とは、徳川家康の江戸入府とともに伝馬役(幕府が公用で使う人や荷物の継ぎ送りにあたった馬を用立てる係)を務めたほか、このあたりの草創(くさわけ)名主として名字帯刀を許され、代々当主は勘解由を名乗っていたそうである。このあたりに来ると、大伝馬本町通りという名前になるようです。大伝馬本町通りをさらに進んで行きます。【つづく】(追伸1:草創(くさわけ)名主とは)徳川家康が江戸に入府した際に町の支配役に任命され、特別に由緒ある名主とされた。(追伸2:サーモンと鮭の違い)「チコちゃんに叱られる」で勉強しました。鮭は煮たり焼いたりして火を通して食べますが、サーモンはお寿司・お刺身など生のまま食べます。また日本では基本的に天然のものを「鮭」とし、生食用に養殖したものを「サーモン」と呼んでいます。人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その9) 小津和紙・馬籠勘解由
2021年02月21日
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日本橋にふさわしいような名前の「江戸通り」とありますが、日光街道とも呼ばれる国道4号線でもあるんですね。この道を歩くと日光まで行けるんですね。その江戸通りの南側にあるこの道。「本町(ほんちょう)通り」(→→→こちら)と名前が付けられています。このあたりは徳川家康が江戸に入府した1590(天正18)年当時、最初に町割りされたエリア。「江戸の中で初めに造られた『おおもとの町』という意味で「本町(ほんちょう)」と命名されたそうです。そしてこの通りは江戸城内と下町をつなぐ常盤橋から、大伝馬町、馬喰町を経て奥州へ続く街道として発展したそうです。つまりこの道が元祖日光街道ということですね。道の脇に「本町薬問屋発祥の地」(→→→こちら)という標柱がありました。標柱の上には、当時の賑わいを描いた絵がブリントされていました。どうして、この辺りに薬種問屋が多かったかというと、家康が江戸幕府を開いた時に、日本橋周辺を町の中心部と定め、商工業者には業種別に集まって住むように指示していたそうで、薬種問屋は日本橋本町三丁目付近に住むこととされたからだそうです。そんなわけで、今でも薬祖神社があるわけですね。さらに昭和通りの近くに行くと、こんな施設がありました。くすりミュージアム(→→→こちら)という施設です。ここで薬について勉強できるわけですね。【つづく】人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その8) 本町通り
2021年02月20日
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福徳神社の隣にあるちょっと小ぶりな神社。薬祖(やくそ)神社(→→→こちら)という神社です。ご由緒が記された高札がありました。これによると、日本橋本町には江戸時代から薬種問屋が軒を連ね、現在でも製薬会社の本社・支社などが集まる「薬の町」としての顔を持つことから、本町の薬品業界では、薬祖神とされる大己貴命・少彦名命を崇敬してきました。1908(明治41)年に東京薬種貿易商同業組合(現東京薬事協会の前身)は、上野にある五條天神社(→→→こちら)から御霊を迎え大祭を斎行し、1929(昭和4)年11月に事務所新築の際、その屋上に薬祖神社社殿を造営したそうです。さらに、2016(平成28)年9月28日、「日本橋本町二丁目特定街区開発計画」に伴って整備された「福徳の森」に遷座したそうです。そんなわけで、お隣の福徳神社とは関係なく、祭祀は五條天神社が行っているそうです。そんなわけで、玉垣の寄進も製薬会社関係が多いですね。「九代目 金原市兵衛」って名前、インパクトありますね。多分、漢方薬なんか扱っている製薬会社の金原市兵衛商店の社長の名前なんでしょうか。【つづく】人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その7) 薬祖神社
2021年02月19日
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ビルの間に、提灯が飾られた路地がありました。福徳神社(芽吹稲荷)(→→→こちら)という神社の参道のようです。ビルの間の参道を抜けると、立派な赤い鳥居がありました。神社の御由緒が記された石碑がありました。これによると、江戸開府以前に福徳村と呼ばれた当地の鎮守であった古社で、徳川家康も参詣した伝承が残る神社でしたが、一帯の開発が進むにつれ規模が縮小し、小さな祠として維持されていたのが、地域の氏子の力で再興が行われ、平成二十六年(2014)に社殿が竣工した神社のようです。日本橋の大都会の中にあって、三井不動産のCMなどでも紹介されたことから、多くの人が参拝する神社になっているようです。芽吹稲荷と呼ばれているように、ご祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」、いわゆるお稲荷さんです。狐が口にくわえているのは、玉。これは稲荷神の霊徳の象徴、或いは稲の霊魂の象徴だそうです。もう一方の狐が加えているのは、鍵。これは、鍵はその霊徳を身に着けようとするための象徴、或いは稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵を象徴しているそうです。いずれにしても、商売繁盛につながりそうなもので、日本橋に鎮座するのにはふさわしい神社ですね。また、算額(さんがく)も奉納されていました。算額とは、額や絵馬に和算の問題や解法を記して寺社に奉納したもの。和算において、問題が解けたことを神仏に感謝しますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと伝わるものだそうです。算額の奉納が多かった埼玉県の神社に奉納された問題が掲示されています。有名私立中学の入試問題に出そうな問題ですね。ご参考までに市川染五郎が出演していたCMを、【つづく】人気ブログランキング日本橋から浅草橋まで(その6) 福徳神社
2021年02月18日
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