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読みの難しいと思われる語はルビを付した。難しい語句は〔 〕内に意味を付した。
また※で注を補した。
ルビ注「伊藤七郎平翁伝」 後学 鷲山恭平撰
一 家系と生い立ち
世によく主義を標榜するの人あり。然れどもよく主義と終始するの人は稀なり。我が伊藤七郎平翁のごときは報徳と同化したる、いわゆる主義の人なり。その初め報徳に感奮興起し、これをもって処世の信条とし、報徳のために努力貢献し、もって一生を終れり。けだし武士道の精神に報徳の教義を結合せしめたるものこれ、すなわち翁の人格たり。その剛毅不撓の資性は、よく報徳の思想に潤和し、単に修身斉家の域に止まらず、更に公益を掲げ世務を開くを念とし、発しては奮闘努力の活動となり、潜んでは至誠無息の心鏡を照らす。平素身を持すること厳正 恪謹 にして、その生活や簡易質素を旨とす。しかもその人に対するや、同情の念厚く赤心を吐露して直言を 憚 らず。慈仁救済に処しては家を軽んじ身を忘るに至る。翁の一生71年の歳月は、すなわち報徳史の展開と見るべく、内には日常起居動作に徳風を欣慕すべく、外には難村の整理に大日本報徳社の経営に貢献を渇仰すべし。ああ偉なるかな翁。
翁、名は七郎平、 諱 は信包、文政12己丑年10月12日を以て、遠江国周智郡森町に生まる。父を山中勘左衛門豊平といい、母を 幸 子と呼ぶ。幸子は同郡飯田村市場加藤與左衛門の女なり。山中家はその先尼子の十勇士山中鹿之助幸盛に出づ。幸盛の 裔 森町に住し、世々勘左衛門と称す。家門繁栄して地方の名族と仰がれ、近郷の農夫にしてその門前を通過するもの、頬 被 むりを脱し、唄を止め、また乗馬の者は特に下乗して敬意を払いしという。翁の生父たる八代目の豊平に至っては、単に一富豪一名族として 視 るべきにあらず。書画をよくして技巧群を抜き、また各地に歴遊して人情風俗地理産物等を調査し、その撰に遠淡海地誌を始め記録数種あり。かつ豊平の常鱗凡介に非ざるは、またその子弟の教養に現われ、我が報徳界にもっとも因縁深き知名の士を出せり。すなわち長男豊明は九代目の山中家を相続し、 頗 る厳正の人にして、隣人より雷様と呼ばれ、衆人の威服する所たりしという。三男は豊三といい九郎右衛門と称し、出でて同町新村氏を 嗣 ぐ。是れすなわち嘉永6年岡田無軒先生始め7人の同志と二宮大人を日光に訪問し、親しくその教訓を蒙りたる、いわゆる遠州七人組のその一人なら。帰来専心報徳の趣旨を服膺して、これを我が商業に応用し、森町の新村といえば、遠近伝えて「報徳店」を連想せしむるに至る。第4子は女にして良子といい、浜名郡豊西村羽鳥の名門松島清八に 嫁 す。婦徳兼備し、 殊 に筆跡麗しく、また丹青の技を嗜めり。第6子豊長は善六と称し、浜松町の 老舗 絞屋に養われて小野江氏を 襲 う〔跡をつぐ〕。この小野江善六氏は伊藤七郎翁没後本社副社長に挙げられ、晩年浜松第一館に住して専らこれ斯道のために尽されたり。第七子は、すなわち本伝の主人公たる翁にして、その第七子たるより幼名を七郎と称し、後完一と称し、更に七郎平と改む。かく兄弟いずれも我が報徳会に因縁浅からざるは、その生父豊平の教養に負う所大なるは反説するの要なかるべし。父豊平は天保7年をもって没し、母幸子は天保3年をもって没し、翁は母の没後4歳にして豊田郡深見村伊藤善右衛門の家に養わるることとなりたり。(山中家記録※)
伊藤家の系譜〔系譜は略〕は冒頭に掲載せしごとく、その祖先は遠く 大職冠 鎌足公に出づ。いわゆる南家武智麻呂の後裔にして、数世の孫伊豆国に下りて伊東工藤の祖となる。大永年間工藤姓より出たる久野大蔵宗隆なるものあり。今川氏親に仕えて遠江国久野の庄を領し、久野城を築きてこれに居る。宗隆妾腹の四子に宗興あり。初め今川義元に仕え功ありて大いに寵幸せられしが、後故ありて仕を致し、ここに始めて姓を伊藤と改め、善右衛門と称し、深見村に住居す。宗興は戦国にありて、しかも武門の家に生まれたれども、幼より民間のうちに人となり、深く農家の実情を知り、専ら力を 稼穡 の道に尽して、産業の開発に貢献したる事少なからず。それより数代の間は、あるいは出でて仕え、あるいは入りて農業に従事すたる事あるも、元禄の頃に至り、6代豊信始めて皆川左京広隆君に仕え、もって翁に至る。その7、8代の間は伊藤家全盛の時代にして9代春元に至り、家道衰え、10代安貞に至りて、文政3年居を皆川氏の陣屋一言村に移せり。10代安貞は周智郡久努西村堀越永井氏の出にして、故本社副社長永井五郎作氏の祖父五郎兵衛の弟たり。安貞の室某は伊藤家の嫡女にして内助の功多く賢夫人と称せらる。(報徳土台金知足鑑並高山藤七郎氏談)
翁が幼年時代の事績は今不明に属し、あるいは学問手習いを森町五妙の某に受くといい、あるいは大日の家塾周蔵(姓不詳)先生に受くと伝えらるるも、今確証を得ず。しかれども生家に入りては父豊平の薫陶に浴し、伊藤家に入りては養父安貞によって文武両道の修養を積みたる事は想像に難からず。かくして翁は武士としての訓練陶冶をうけ、居っては養父母に孝養を怠らず、出でては皆川侯に忠勤を励みたり。
※山中家記録の一部が山中真喜夫先生により「山中家盛衰記」(2009年3月発行)としてまとめられている。
山中家記録に、文久2年(1862)父豊平の27回忌、母幸(こう)31回忌にあたって。子供達が一同に会し、両親の供養を行った際に兄弟がそれぞれの素志を述べたものが掛軸に貼られた巻物がある。
長男豊明は自らの履歴を述べ、長女良子は浜松藩絵師に画技(丹青の技)を習っただけあって、美しい秋草の絵に所感を述べているが、里助・善六・七郎平の3兄弟はそれぞれに報徳に言及しているのが注目される。
新村里助 「・・・二宮尊徳先生の御良法を聞きしだい、御門人安居院義道の君にすがり、なお教えを乞い請け、その君にかしづき、嘉永6丑日光山に赴き、二宮尊徳聖に謁し奉り、曰(い)う事神のごとく身にしむ。・・・」
小野江善六 (豊長)「・・・相州の産安居院義道、二宮先生に随って興国安民の道、実地に正業を学び、・・・拙もまた、その道に志し、右義道の教えに随い荒地開発、町柄取り直し、借財返済の仕法わずかに行うといえど、いまだ半途にしてその終わりを見る事あたわず。・・・」
伊藤七郎平 「・・・二宮尊徳先生の良法門人安居院義道大人に随って教えを請くるといえども、未だ寸端を得ず。・・・」(同書p59-60)
この山中家の3兄弟はいついかなる時も、報徳の教えの実践・普及から離れることはなかったことがわかる。彼らこそが遠州地方で御仕法が盛んに行われるようになった原動力でもあったのである。
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