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27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その8 六 翁の性行と風采 翁は武士の家庭に育ち、武士的教育を受けいれたれば、天性剛健の気象はますます陶冶され、その雄健の気眉宇びう〔まゆのあたり〕の間に顕われ、眼光爛々らんらんとして人を射るの面貌は、衆をして畏敬せしめずんば措かず。翁を知るもの古武士の風を想起すとは、けだし衆評の一致する所なり。恩師淡山先生は、翁の一生はその画賛に意を尽せりと。その画賛は左の文字なり。 水旱風雨穀粟知貴 辛若遭逢一経観志 恵澤被物徳義是利 知足垂鑑孫子不匱 是叟有魂精鐘眸皆しかして淡山先生もまた、翁の精神高潔にして、品行方正、剛毅屈せざる武士風ありと、賞賛せられたり。 往年衆議院議員選挙の際、見付町報徳社員にて岡田前社長の当選祝賀会を開きし事あり。鈴木良平氏は小笠郡より代表的に来会して席に列す。座中同町植村某は自由派の人にして、党派関係上寧ろ不快の感を有したれば、鈴木氏の演説中に奮然席を蹴って退場せしが、傾刻にして某は鉢巻襷掛にて一刀を腰に帯し、手に六尺棒を携え来たり、大声怒号して鈴木氏を打たんとす。一座大いに驚き、八木良平氏はまず無理やりに鈴木氏の手を執りて姿を隠さしめ、その他会衆席を避けて逃遁し、大騒ぎを演出したり。その時、泰然自若として、馬耳東風の観ありしは乃ち翁にして、外に太田庄次郎氏のみ取り残れり。某の堂に上がるや、翁は徐おもむろに口を開きて、「この伊藤七郎平はソンナ物をもって向わるる怨みは受けぬ。然し向かって来れば逃げるぞ」と凛たる一言に某は毒気を呑まれ、悄然として手持無沙汰に立去れりと。この時某は酒気を帯びて来りければ、鈴木氏座にあらば果していかなる椿事あらんも図られざりしが、翁が肝気はよく彼れの鋭気を挫きて余りあり。勿論翁は剣道を克くし、皆川陣屋なる一言村には道場もあり、翁自身指南をなせし腕前なれば、素人の兇器沙汰は寧ろ児戯に頽〔類の誤りか〕すとして、嘲弄をもって一喝を喰わしたる迄なり。(八木良平、堀内伊代吉、太田庄次郎氏談) 翁、町村の報徳社を巡回し途次、降雨のために往々濡れて帰館せし事あり。第二館の老婢くに女は「あいにくのお天気で定めて御難渋」と挨拶すれば、翁は「おれの体は雨で溶けるような体じゃない」と、無愛想極まれりと雖も、一語よく翁の面目躍如たるを知るべし。(第二館くに女談) 翁は厳格にして公平を好みたり。見付町に報徳熱心家にして小学校教師なる加藤快隆と云える人あり。当時翁の令孫俊治君在学中にて加藤氏の受持たり。氏は平素親交を忝うせる翁の令孫の事とて万事注意を払いたるに、翁はこれを聞きて加藤氏に向かい、教育上依怙えこ贔屓ひいきの沙汰ありては、他日生徒の利害は勿論の事、君の職責に関わる儀なれば、今後一視同仁〔すべての人を差別することなく、平等に愛し、慈しむこと〕の授業をなすべしと厚く訓戒を加えられたりと。 ある時、加藤快隆氏、翁の前席において講演す。翁は降壇後、加藤氏に向かいて、「己が口に言う事は必ず実行した事を言え。実行は未だ出来ざるも言う事は実行の出来ることを言え、」また「誠にかなった事を云うべく、誠なれば実行は出来れども、嘘は実行が出来ぬ。話は真面目まじめにせよ。面白半分に滑稽を吐き、人を笑わしたりするを止めよ。戯談は面白かったと何時いつまでも覚えてい、有益な実行談は忘れるものなれば、慎んで話せ」と厚く誡めらる。この教訓は翁の所信を発表したるものにて、世上場当たり弁士の一大痛棒たるの感あり。 これも加藤氏に関する事なるが、同氏の住める馬塲町に家屋敷の売物ありて、これを購あがなわんがために翁に200金の借用を申込みたるに、速やかに快諾を与え、金は明日掛川に至り引出し持参すべければ、家宅を抵当に証書を作製し持参すべしとの事なり。然るに売方家内に不和を生じ、ためにその手続に至り兼ねければ、拠ろなく翌日に至り借用金見合せの旨申入れたるに、翁は折角晩酌中にてありしが、非常に立腹し、報徳社員にして且つ教職にある者が、誠の心に乏しく態々わざわざ予を掛川まで遣り日子を費やし且つ労を掛けし事重々の不埒なり。是より面会致さず絶交す。汝のごとき穢わしきものは報徳も退社し教員も止めて仕舞うべしと、大いに譴責され、加藤氏は一言の返す辞もなく平身叩頭こうとうして翁の夫人と共に謝罪し、漸く事済みとなりたりと。(以上3件加藤快隆氏報告) 翁が執務の態度は、前章において蛭池村の仕法並びに玄忠寺の出張等にその励精無比なる事をのべたるが、翁はまた万事厳正にしてありき。その巡回より帰るや、家人に何の物語りもなく、直に書斎に入りて机に向かい、まず出張中の記事並びに会計の整理を遂げて、然る後に始めて家人に言語を交うるを常とす。けだし公務と私事とを前後させる、その厳格なる精神に基く所なり。然れども要事を終えて、晩酌を取るの場合においては滑稽もあり洒落もあり、盛んに談笑快謔をなすを常とす。翁の秋霜烈日の半面には、また春風駘蕩たいとうの靄然あいぜん〔和気充満するさま〕たるものありし事を知らざるべからず。 翁が万事に厳格にして規律ある行動を試みし事は、大日本農会創立以来の会員にて、会費の納入は一回もその期日を違えず、年々同日に送金せり。故にその領収証は必ず第1号にて、殆んど5か年間に亘り、その余も2号3号のごとき至って小数なりしと云う。(2件水野信之助氏談) 翁はその性剛毅なりしをもって、あるいは強情と見らるる場合なりしにもあらず。一度口を開けば決して人後に落ちず、勇往邁進まいしんして論難抗撃し鋭鋒当るべからざりし。したがって翁の講演は勇気に満ち活気ありて力瘤の入りたるものなりしと。(堀内伊予吉談) 翁は頗すこぶる勢力家なれば、その活動は実に目醒めざましきものあり。故に常に曰く、「おれは風邪を引く暇はない」と。翁は天稟頑健の資質を更に剣道によって鍛錬し、頗る健康なりし事はその一因なりと雖も、翁が劇はげしき活動は到底風邪に犯さるるごとき裕長なる生活にはあらざりしなり。(老婢ろうひくに女談) 翁は精勤家なるが故に頗る時間を惜しみたり。ある時八木良平氏を随えて駿州石田村に赴き、途次携えて一膳飯屋に入る。室に入るや、直に2人分の昼飯を命ず。一椀を食する内に八木氏に椀数を尋ぬ。自身の分と共に替り何椀と命ず。食する内に勘定を聞き食し終われば直に勘定を済まして出発す。かくして寸分の時間を空費する事なかりしという。(八木良平氏談) 翁また見付町伊藤源次郎氏と携えて、掛川第三館の常会に赴きたり。閉会を告ぐるや早速支度したくをなして帰途につく。翁は例の通り駒下駄に鉄の細杖とズックの袋を携え、浅黄の股引に着物を端折りして出発す。途中、原川立場たてば〔休み処〕に至り、大福餅2個と茶1杯を啜すするや、直に出立しゅったつす。その間電光石火と云うべきか。伊藤氏は烟草たばこ一服の猶予もなかりしと軈やがて三ヶ野坂みかのざかにかかるや、翁は少しも疲れたる風情も見えざるに、〔伊藤〕氏は大いに疲れて漸ようやく家に入ることを得たりと。(伊藤源次郎氏報告) 翁は健脚家にして老年に至るも俥を用いる事稀なり。見付町太田庄次郎もまた劣らぬ健脚家にて両人携えて秋葉詣りをなす。共に下駄穿げたばきなれば途中にて草鞋を買求め用意したれども、苦もなく山路を上下して、草鞋はそのままに持帰りたる程なり。(太田庄次郎氏談)
2026.02.27
191二宮翁夜話巻の5【36】尊徳先生がおっしゃった。論語に、哀公問うて曰く、年饑えて用足らず、これをいかん、こたえて曰く、何ぞ徹(てつ)せざるや、曰く、二にして吾なお足らず、これをいかんぞそれ徹(てつ)せん、こたえて曰く、百姓足らば君誰と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足らん、とある。これはなかなか理解しがたい理である。これをたとえると鉢植えの松に養いが足りず、今にも枯れようとしている、これをどうしようかと問う時、どうして枝を切らないのかと答えたのと同じだ。また問う、このままでも枯れようとしている、どうして枝を切るのか、と。根が枯れれば、木は共に枯れるしかないではないか、と答えたようなものだ。これは実に疑いようもない問答である。日本は60余州の大きな鉢である。大きいけれどもこの鉢の松に、養いが足らない時は、無用の枝葉を切りすかすほかに道はない。人の身代も、銘々一つずつの小鉢である。暮し方が不足すれば、速かに枝葉を切り捨てるべきである。この時にこれは先祖代々のしきたりである、家風である、これは親が心を用いて、建てた別荘である、これはことに大切にされていた物品であるなどと言って、無用の枝葉を切り捨てる事を知らなければ、たちまちに枯気づいてしまう物である。既に枯気づいては、枝葉を切り捨てても、間に合わない。これは富裕の者の子孫が心得るべき事だ。二宮翁夜話巻の5【36】翁曰く、論語に、哀公(あいこう)問ふて曰く、年饑(う)ゑて用足らず、之を如何(いかん)。対(こた)へて曰く、何ぞ徹(てつ)せざるや、曰く、二にして吾猶(なほ)足らず、之を如何(いかに)ぞそれ徹(てつ)せん。対へて曰く、百姓足らば君誰(たれ)と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足ん、とあり。是れ解(げ)し難き理なり。之を譬(たと)ふるに鉢植の松養ひ足らず、将(まさ)に枯れんとす、之を如何(いかん)と問ふ時、何ぞ枝を伐らざると答へたるに同じ、又問ふ、此の儘(まま)にてすら枯れんとす、何ぞそれ枝を伐(き)らん、曰く、根枯れずんば、木誰と共に枯れん、と答へたるが如し、実に疑ひなき問答なり。夫れ日本は六十余州の大(だ)なる鉢なり、大なれども此の鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐りすかすの外に道なし。人の身代も、銘々一つづゝの小鉢(こばち)なり、暮し方不足せば、速かに枝葉を伐り捨つべし、此の時に是は先祖代々の仕来(しきた)りなり、家風なり、是れは親の心を用ひて、建てたる別荘なり、是は殊(こと)に愛翫(あいぐわん)せし物品なりなどゝ云ひて、無用の枝葉を伐(き)り捨てる事を知らざれば、忽(たちま)ち枯気(かれき)付く物なり、既に枯気付きては、枝葉を伐り去るも、間に合はぬ物なり、是れ尤も富有者(ふいうしや)の子孫心得べき事なり。顔淵第十二 297〔読み下し〕哀公(あいこう)、有若(ゆうじゃく)に問(と)うて曰(いわ)く、年(とし)饑(う)えて用(よう)足(た)らず、之(これ)を如何(いか)にせん。有若対(こた)えて曰く、盍(なん)ぞ徹(てつ)せざるや。曰く、二すら吾(われ)猶(なお)足らず、之を如何んぞそれ徹せんや。対えて曰く、百姓(ひゃくせい)足らば、君(きみ)孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰(たれ)と与にか足らん。〔通釈〕魯の哀公が有若に「今年は飢饉で財政がままならないが、どうしたらよかろうか?」と問うた。有若は「どうして徹(十分の一税)にしないのですか?」と答えた。哀公は「既に十分の二税を徴収してもまだ足りないでいるというのに、どうして徹などできようか」と言った。これに対して有若は、「人民が豊かになれば君主も富み、人民が貧しければ君主も貧しくなるというのが為政の常道ではありませんか。凶作の時こそ減税を行って、人民の負担を少しでも軽くしてやるのが王道というものではありますまいか」と言った。
2026.02.27

p.186-190 最後の弟子 弟子丸泰仙 坐禅バしてくっけん その1その2 すべてこれ夢幻 終戦後、私が、三菱をやめて、郷里で土建屋をやっていた時、老師はよく佐賀へ巡錫されて、現場まで見に来られたこともあった。私の家に滞在されたある時、家内をつかまえて「奥さん、ご主人な、おれがもろうていくよう」と台所をのぞかれていたこともあった。 また私が土建屋で失敗した時など、老師と仲のよかった松永安左ヱ門を紹介し、私の面倒をみてもらうよう頼んでくださったりした、私は松永翁からどぎつい世渡り術をいやほど授けられ、政財界のお歴々を沢山紹介された。そんな関係で私は政財界の裏面をいやというほど見せつけられた。また外務省の外郭団体のアジア協会常務理事に任ぜられ、東南アジア問題最初の政財界の檜舞台で、踊ったこともあった。 最近はまた、一年間東南ア諸国をかけ廻った。欧米の大学の仏教科や東洋文化研究のグループから招請を受けたこともある。しかし、今思えば、こうした世間の華やかなことは、ことごとく夢まぼろしでしかないのである。
2026.02.26

イセが「呪われた話」を語る小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の短編『人形の墓』(1897年9月出版の『仏の畑の落穂』収録)に登場する少女「イネ」『人形の墓』にはハーン本人と、トキのモデル・小泉セツの養祖父・稲垣万右衛門が登場し、家に招き入れた幼いイネから、その不幸な身の上話を聞くという内容です。 イネはある村で両親と祖母、兄と妹の6人家族で暮らしており、表具屋の父と髪結いの母の稼ぎで裕福な生活をしていました。しかし、あるとき父が病死し、その葬儀の8日後に母もなくなってしまいます。すると、周りの住民たちはすぐに棺のなかにわら人形を入れた墓を作って供養しないと、イネの家にまた不幸があると言ってきたそうです。 しかし、19歳のイネの兄は迷信だと思ったのか人形の墓を作りませんでした。すると、兄はしばらくして高熱を出して寝込み、母の死から49日目なると、彼は母が自分の着物の袖を引っ張っていると言い出します。その後、兄はなくなり、同年の冬に祖母も死去して、幼い妹はイネと別の家に引き取られて行きました。『人形の墓』の最後、話を「ただの呪われたがり」トキを自己犠牲精神旺盛なヒロインにはしない「ばけばけ」のねらい終えたイネはハーンが自分の座っていた場所の畳に座るのを止めようとします。自分が背負っている不幸を背負い込まないように、座る前にまず畳を叩いてほしいというのです。しかし、ハーンはそのまま畳に座り、万右衛門はイネに彼が「他の人の痛みを理解したいと思っている」ことを語りました。 ハーンの東京帝国大学時代の教え子である田部隆次は、伝記『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』で、『人形の墓』の話を実際に語ったのは熊本で雇ったお梅という身寄りのない女中の少女で、ハーンと一緒にそれを聞いたのは万右衛門ではなく、妻のセツだと語っています。『ばけばけ』では「クマ(演:夏目透羽)」が身寄りのない女中に当たりますが、彼女とは別にイセが自分の体験として『人形の墓』の話をする。 この人形の墓にまつわる伝承は、かの有名な民俗学者・柳田國男の著書『葬送習俗語彙』(1937年発表)にも出てきます。日本各地の葬儀、埋葬などにまつわる習俗をまとめたこの本の「墓地の種類」という項には、「スラバカ(空墓)」に関する説明がありました。 黒川村(かつて熊本県阿蘇郡にあった村)では、一家にふたり続けて死人が出ると3人続かないように人形を作って葬式をするという風習がある、と書かれています。『人形の墓』がどこまで本当にあった話かは分かりませんが、女中のお梅はこの黒川村で恐ろしく悲しい体験をしたようです。「ただの呪われたがり」トキを自己犠牲精神旺盛なヒロインにはしない「ばけばけ」のねらい橋爪國臣チーフプロデューサー「トキが呪いを肩代わりした場面は、トキがリテラリーアシスタントの第一歩を無意識に踏み出した場面と考えています。僕はトキには、全てを受け止めて利他的にふるまってほしくはないと思っていました。ヒロインのみならず、人間とは100%完璧ではないし、常に客観的にものを見ていたり利他的だったりすることはあまりないと考えているからです。トキは極力、そういう方向に行かないようにしてきました」「熊本に来てからヘブンは作品が書けなくなります。そんな彼をまわりが支えていくにあたり、トキをヘブンの横に常にいてネタ出ししていた献身的な妻というふうに描くこともできたとは思います。実際、過去の朝ドラにはそういう描き方をしてきたものがたくさんあります。でも、ヘブンとトキの関係はそうではないだろうと思いました。第20週も第21週も、ヘブンが熊本の魅力について少しだけ気づくとき、自らがゼロから気づいたのではなく、トキの視点を通して気づくことができた。トキの体の中を通ったことで見えた現象だからこそ、ヘブンに響いたというふうになったらいいなと思いました」つまり、日本人のトキと西洋人のヘブンのそれぞれの視点が融合して、新しい視点がヘブンのなかに誕生したということなのかなと筆者は解釈した。自己犠牲するヒロインというふうに捉えないことで、違うものが見えてくるおもしろさがある。「どちらかに偏りすぎると物語として面白くないですよね。『単なる呪われたがりです』というトキの言葉は自己犠牲にも聞こえるし、いやいや、単なる自分の興味や好奇心であるというふうにも見える。そこがグラデーションになっていたらいいなと思います。人間らしさとはそういうものではないでしょうか。トキに限らず、登場人物はみな、わがままだし、でも自己犠牲の精神も多少は持っている。誰かひとりが犠牲になったらなんとかなるということにはしたくないと思っています」「イセ役はオファーです。小島とも話をして、イセに託された役割をうまく演じてくれるだろうと思い芋生さんにお願いしました。すでに映画などで、すばらしいお芝居をたくさんされているのみならず、熊本出身なので、方言も話しやすいだろうし、イセ役に一番合うだろうと思いました。第21週は「呪い」という精神世界のような若干難しい話になっています。そのトリッキーなところを芋生さんの演技が支えてくれたと、小島とも話しました。イセがエキセントリックなだけでなく、リアリティを伴って見えるように絶妙に演じてくださったと思っています。呪われている、と自認しているなんて、本気で言っているのか嘘なのかもわからないし、エキセントリックで、演技の方向性によっては視聴者に嫌な印象を与えることもできるし、実在しないようなぶっ飛んだキャラクターとしても演じられます。でも、そこにいきすぎないギリギリの線を攻めてくれました。ディレクターの小島としっかり打ち合わせしたうえで、演じたそうです。御本人はとても楽しかったようです。実はイセにもバックグラウンドがあって、大変な経験をしてきたから、はたから見るとちょっとエキセントリックな人になってしまった。奇妙な言動の裏に複雑な感情が流れているところを感じさせるのが、芋生さんの表現の絶妙なところだと思います。話し方や憂いを帯びた表情に芋生さんの実力を見せていただけました」「呪いの話は、ヘブンのモデルである小泉八雲の『人形の墓』(『佛の畠の落穂』に収録)という話をアレンジしています((八雲の『人形の墓』では物語の登場人物が呪われていると言われる稲という女性のぬくもりがまだ残る場所に座って呪いを肩代わりしようとする)。小泉八雲は松江では紀行文のようなものを書いていましたが、熊本では、その土地の風習など、精神世界を題材にしていきます。そのきっかけにトキがなるといいなと思いました。ただ、あからさまにヘブンの執筆を助けるわけではなく、トキの視点にヘブンが気づくことで、彼の書く題材のヒントになっていく。第20週もそうで、焼き網がなくなったことをきっかけにヘブンが松野家とクマと書生たちの思いやりに“日本人の心”を見出しました」確かにトキはかつて不幸で呪いたがっていたが、幸せになって、そしたら今度は自分がちょっとだけ呪いを肩代わりできた。「というふうにも言えるし、やっぱり、怪談好きだから、ただただやってみたかっただけかもしれません」と橋爪さん。「呪われたがり」というふじきみつ彦さんのセリフは解釈を豊かにするユニークなセリフだ。さらに、幸福のお守りだったのが呪いの人形のようになった、幸不幸の両義性をもったブードゥー人形も登場する。これもまたグラデーションの象徴のようだ。「演出の小島東洋がこの週、頑張りました。第11週のヘブンの過去(アメリカ編)を担当して以来、二度目の登板ですが、アメリカの話を担当したことで、西洋文化の勉強もして、あの時のいろいろな反省を踏まえてこの回に臨んだのでとてもレベルアップしました。ディレクターになってまだ10年目くらいの若手です」◎第104回ではトキが温もりの残るイセが座っていた場に座り、不幸は自分に移ったからこれからいいことがあると優しい言葉をかけた。だがトキはその後気絶した。気絶は本当の呪いか、乗り移ったと信じてもらうためのトキの優しさからくる芝居か。「解釈としてはどちらも正解だと思います。トキがイセを不幸から救おうとする優しさからわざと倒れてあげたということでもいいと思いますし、呪いが大好きで本当に呪いにかかったと見えても面白いですから(笑)。音楽がないと本当に呪いが移ったとしか思われなくなる可能性もあるので、実は穏やかな音楽をつけてどちらにも見えるように作りました」『ばけばけ』「おトキちゃんの本領発揮」“呪い話”を聞いたトキが驚きの行動「優しさに涙出た」2/26(木) 自らの身を顧みないトキの優しさにSNS「おトキちゃんの優しさとヲタク気質なところが混ざりあってすごく素敵な回」「おトキちゃんの本領発揮」「おトキちゃんの優しさに涙出た。いい子すぎる」「トキのこころが美しい」
2026.02.26

p.186-190 最後の弟子 弟子丸泰仙 坐禅バしてくっけん その1その2 それから夕刻まで老師と対談して帰った。その時の老師の印象として私は、何とも言い切れないなつかしみと、そのご人格に不思議な魅力を感じたのであった。それから日曜ごとに坐禅をした。その頃、私は老師が熊本万日山時代に書かれた「驢耳弾吟」と題した、古ぼけたノートを一冊頂いた。そのノートにまたすばらしいことが書いてあった。 老師との世渡り問答一 汝自身の精神的要求にかえれ。人間最高の根本的要求にかえれ。二 坐禅は新たなる人生である。三 坐禅による新たなる人生はいかなる環境にも随順しつつ、それに没落せず。四 吾々歴史と社会とに支配せられてはならぬ。しかしまたそれを無視してはならぬ。五 非思量はこれ自己の純粋意志であり、実践理性である。六 坐禅はこの天地間にただ自己一人となっていく境地であり、真に自己に親しみ、自己を究明する。云々と書き出してあった。(私はその後こうしたノートをたびたび頂いた。その内容は大変なもので、老師の綿密なご性格や刻銘な学道のあとを知ることのできる貴重なご遺稿である。これについてはいずれ他日ご紹介する機会があるかと思う。) その頃、私は老師の不思議な魅力とそのノートの内容にふれて、深い感銘を覚え、決然として「頭を剃って弟子にして下さい」とお願いをした。ところが老師は「今のままでいい。職業坊主はつまらん。今のままで坐禅をつづけろ。その気持ちが尊い。菩薩戒でいい。しばらく世渡り術ドンイッチョウ教えてやろう」と佐賀弁で言われ、私を慰撫された。 それから老師と私との「世渡り問答」は実に三十年の長きにわたったのである。生活即禅、在家仏教としての禅、私は老師の行かれるところ、どこまでも、つきまとって参禅した。駒沢大学、大中寺天暁禅苑、信州矢坪の参禅会をはじめ、各寺々、学校から会社、工場、刑務所までついて行った。私は戦時中、老師をはなれ、南方にあった。三菱鉱業の鉱山開発に従事していたのであった。その時も老師と通信によって問答を交わした。ある時はスマトラの奥地から、またある時はボルネオの西のバンカ島から参禅をした。不思議なことには、その頃、他の手紙はほとんど潜水艦に沈められたのであったが、老師の手紙だけは私の手許に届いた。その通信の中の一つに「今や人類興亡の分岐点に立つの大戦、願わくば、世界中の人々に坐禅をさせて、静観せしめ、人類の興奮をさまさせたい」云々と書いてあった。私が「インドネシア人と一緒に森林の中で坐禅をしています」と書いて出した時は、「坐禅をする人は皆私の兄弟です。他民族の人々も愛して下さい」と次々とお返事がきたことなど昨日のように思い出される。
2026.02.26
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その7五 翁と信用組合 産業組合の起源は、明治24年時の内相品川子爵より、信用組合法案を帝国議会に提出せられしに初まり、当時、議案は議会解散のために成立を見るに至らざりしをもって汎く民間有志者に嘱して組合を創立せしめんとし、翌25年時の法制局部長たりし平田東助君を派して遊説せしめたり。翁また品川氏とは従来面識を辱うしたれば岡田前社長と共に組合組織の議に与かる所あり。同年7月平田部長は掛川見付両報徳館において社員に向かい精密に信用組合の趣旨を演説せられたり。茲において岡田前社長は掛川信用組合を組織し、その資金としては明治13年以来蓄積したる浜松資産金貸付取扱に係る勧業資金をもってこれに充てたり。しかして翁は品川平田両君の懇嘱に応ずるの志厚かりしと雖も、その資金に充つべきもの掛川のごとき特別積立金あるにあらざれば新たに造成するの外なく、よってこれを見付町報徳社中の有志水野信之助、平野忠次郎、前嶋晴一氏等に謀り、首唱者4名の名義をもって見付町及び付近の報徳社員に加盟を勧誘し、定款は平田部長及び岡田前社長の意見を徴してこれを編成し、同9月に至り加盟者173名、外に10報徳社を加え、加盟口数434口を得たれば、同時に静岡県庁に届済の上、事業を開始せり。しかしてこの組織を見るに至りたるは、一面に翁の熱心なる勧誘の労に俟まつこと多きは論を待たざるが、一面は組合員を報徳社員に限りしより平素道交の人々のみ加盟したれば、組合員間の意思疎通し万事に円滑に穏健に発達を遂げたり。この点において当組合は真に信用の名実全きものにして、経済的団体と云わんよりは寧ろ道義的団体と云うの当れるものなり。しかしてこの信用組合は掛川信用組合と共に日本産業組合権輿けんよ〔物事の始まり〕のものなれば、翁が姓名はまた産業組合史上にも特筆すべき功績を有したりと云うべし。 見付信用組合は以上のごとき基礎の上に建設を見たれば、その名称は見付町報徳社聨合信用組合と称し、出資口数は1千口を限度とし、出資一口の金額25円にて1か年ないし10か年内に随意払込をなさしめ、年々利益金を元金に加えて、所定の金額に達せしめんとせり。然るに明治34年に至り、産業組合法実施せられたるにより、同法により組織に変更を加え、名称を有限会社見付報徳信用組合と改称し、一人の出資額を50円と定め、前傾25円を第一回払込となし、第2回以下は年々の利益配当をもってこれに充て、もって所定の金額に達せしめんとせり。しかしてその出資金額満尾は年を閲すること23年、大正3年1月においてその報告をなし、現今出資金4万円、準備金9千円、組合人200人の盛況を告ぐるに至れり。 翁は組合の設立について発起計画せし所ありしのみならず、創立当時より組合長に推され、明治33年易?〔賢人の死〕に及んでその任を去れり。吾人は信用組合は翁の最後の事業にして、見付信用組合の沿革史上忘るべからざる恩人なる事を認識して茲に付記す。
2026.02.26
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)煩悩のまま その2「仏心の生活」 これは親鸞さんの教えともまったく同じだ。「南無阿弥陀仏」ととなえる称名すら、みずからの「行」とせず、口をついて出る念仏は、ただもう、弥陀如来の救済に対する感謝のことばだと、そういうふうに「信心」に徹底した親鸞さんと同じなのだ。『正信偈』に、 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我といっている。 煩悩眼(まなこ)を障(さえ)て見奉らずといえども大悲倦(う)むこと無く常に我を照らし給うー。 そのとおりなのだな。われわれ、いつも煩悩という心の迷いに目の前をさえぎられている。目の前の煩悩のすがたしか見えないのだ。しかれども、大悲は無倦。いい言葉だな。 わしたちは「我」にとらわれている。煩悩にぐるりととりこまれた「我」のなかに凝り固まっている。不自由といえば不自由なことはない。・・・・・人間、本来、自由であるべきなのだが、その自由を縛っているのは、自分なのだぜ。煩悩で目の前がまっくらなのだ。まっくらだから、行動もままならない。 だから、その目先の闇をつき破らなければならないのだ。つき破るという行為が禅であり、坐禅をして心を調えると、かならず闇が晴れて先が見えてくる。「大悲無倦」だからなあ。 禅も出発点は、まずたしかな仏の光に照らされてあることを信じることからはじまるのだ。この信心なくして、行に入ったものはない。みんな、たしかな仏心を信じて、坐禅をしておるのだ。 『涅槃経』は、繰り返し繰り返し、この道理を説く。「一切衆生悉有仏性」―一切の衆生は、ことごとく仏性を具有す、といい、あるいは「大信心は仏性なり、仏性は即ち如来なり」という。この言葉は、親鸞さんも『教行信証』に引用している。 自力も他力も、つまるところ、如来そのものたる仏性にめざめるところから始まる。それがすなわち「大信心」というものだ。 達磨さまが申された四行観の「理入」とは、要するにこの道理をあきらかにされたにほかならない。 したがって、達磨大師いらいの祖師がたも、この道理にしっかり足を踏まえてやってこられた。 達磨さまから法脈をかぞえて六代目にあたる六祖慧能禅師はな、達磨様によって中国につたえられた禅を、完全に中国のものにされ、禅をさかんにされたかただが、このかたの生涯を通じての説法は、この一大事に尽きた、といえる。
2026.02.26
永平初祖学道用心集 7-1道元・学道用心集講話第七 仏法を修行し出離を欣求するの人は須らく参禅すべき事(澤木興道)その1第七 仏法を修行し出離を欣求するの人は須らく参禅すべき事右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以(ゆえ)に人之れを求む。如来の在世には全く二教なく、全く二師なし。大師釈尊、唯だ無上菩提を以つて、衆生を誘引するのみ。迦葉(かしょう)正法眼蔵を傳へてより以来(このかた)、西天(さいてん)二十八代、東土(とうど)六代、乃至五家(ごけ)の諸祖、嫡々(てきてき)相承して、更に断絶なし。然れば則ち梁の普通中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群の者は、帰せずといふこと無し。誠に夫れ、勝(しょう)を愛すべき所以は、勝を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。神丹以東の諸国、文字の教網(きょうもう)海に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍ねしと雖も雲心(うんしん)なく、海に布くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者は之を嗜(たしな)む。譬えば魚目を撮って以て珠(たま)と執するが如し。迷者は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損す。哀むべし、辺鄙(へんぴ)の境、風扇ぎ易く、正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。我朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何為(なんすれ)ぞ、何為ぞ。高麗国は猶正法の名を聞く、我朝は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を伝うと雖も、仏法を忘るるが如し。其の益是れ何ぞ。其の功終に空し。是れ乃ち学道の故実を知らざる所以なり。哀れむべし、徒(いたず)らに労して一生の人身(にんしん)を過すことを。夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。此の時知るべき事あり。所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転じ、我法を転ずるなり。我能(よ)く法を転ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我を転ずるの時は、法は強く我は弱きなり。仏法従来此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。衲僧(のうそう)に非ずんば、名すら尚聞くこと罕(まれ)なり。若し此の故実を知らざれば、学道未だ辨ぜず、正邪奚(なん)ぞ分別(ふんべつ)せん。今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を伝授す。所以に誤(あやま)らざるなり。余門(よもん)には無し。仏道を欣求(ごんぐ)するの人、参禅に非ずんば真道を了知(すべからず。「仏法を修行し出離(しゅつり)を欣求(ごんぐ)するの人は須(すべか)らく参禅すべき事」仏法というものが、インドでは学問でなかったことは、お釈迦さんの弟子にも眼に一丁字(いっちょうじ)も見えぬ人もあるし、それが悟りを開いた、解脱をした、ということでもはっきりしておる。仏法を修行するということは、生活をするということである。だから馬勝(めしょう)比丘が道を歩いておる姿を見て舎利弗が発心したり、お釈迦さんのお姿を見てそれで発心したり、これは皆修行が仏道の眼目であるからである。ところがいつの間にか仏道が学問になった。仏滅後、憂婆掬多(うばきくた)尊者の時分に五部の分裂ということがあった。これが十八部にわかれて、上座部、大衆(だいしゅ)部と合せてこれを二十部というが、つまりいうと二十部の分裂というのが起こったわけである。その裏面にたった一つ、そういうものにかかわらずに流れてきたものがあった。その本筋が仏道を伝えてきた。それが達磨までずうっと二十八代伝わってきたわけである。(「沢木興道全集」第2巻p.164-165)
2026.02.26
191二宮翁夜話巻の5【35】ある人が言った。毛利元就が言うに、百事思っても半分も、成就しないものである。中国地方の主となろうと思って、ようやく一国の主となり、天下の主となろうと願って、ようやく中国地方の主となるであろうと。実にそのとおりかと思われます。尊徳先生がおっしゃった。理はあるいはそうかもしれない。しかしながら、これは乱世のときの大将の志であって、私の報徳の教えにおいては称しないところだ。舜や禹が帝王たるや、その帝王になる事を願わず、ただ一生懸命に勤めるべき事を、勤めただけである。親につかえては、親のために尽し、君につかえては、君のために尽し、農業、漁業、皆その事について尽してきただけである。舜が歴山にあって農に励んだとき、禹が舜につかえるとき、どうして帝王である事を願ってそのようにしたであろうか。自分の身があること忘れて、ただ君や親のある事を知るだけであった。古書に舜・禹の事を述べるを、見て知るべきだ。このようにならなければ、一家一村といえども、人々を心から喜ばせる事は難しく、平らかに治める事は難しい。たとえば、家を取る事を願って、家を取り、村長となる事を願って、村長となるの類は、その家その村を必ずや治めることはできない。なぜかといえば、このようにしようと欲してなせば、謀りごとやたくらみごとを用いるからだ。謀りごとやたくらみごとは、人民の恨みが集まるところであるから、いったん勢いに乗じて智力を用い、これをなすといえども、どうしてよく久しく保つことができようか。どうしてよく平らかに治めることができようか。これは私の説く報徳の教えでは戒めるところだ。東照公は国を治め民を安んずることが天理である事を知って、一生懸命に勤めたとおおせられた。乱世であってもこのようである。敬服しないでいられない。富商の番頭は、忠実をその主家に尽して、ついに婿となって、その家の主人となる者が多い。商人の家で家を愛する事は、堯・舜が天下を愛するようである、だからそのようにするのだ。二宮翁夜話巻の5【35】或(あるひと)曰く、毛利元就(もうりもとなり)曰く、百事思ふ半分も、成就せぬ物なり、中国の主たらんと思ふて、漸(やうや)く一国の主たるべし、天下の主たらんと願ふて、漸く中国の主たるべしと、実に然るべし。翁曰く、理或(あるひ)は然らん、然るといへ共、是れ乱世大将の志にして、我が門の称せざる処なり。夫れ舜禹(しゆんう)の帝王たるや、其の帝王たらん事を願はず、只(ただ)一途(いちづ)に勤むべき事を、勤めしのみ、親に事(つか)へては、親の為に尽し、君に事へては、君の為に尽し、耕稼(かうか)陶漁(たうぎよ)、皆其の事に就(つ)きて尽せるのみ、舜の歴山(れきざん)にある、禹の舜に事(つか)ふる時、何ぞ帝王たる事を願つて然らんや、己の身ある事を知らず、只(ただ)君親ある事を知るのみ、古書に舜禹の事を述ぶるを、見て知るべし、此(こ)の如くならざれば、一家一村といへども、歓心を得る事難し、平治(へいぢ)する事難し、譬へば家を取らん事を願つて、家を取り、村長とならん事を願つて、村長となるの類(るゐ)、其の家其の村必ず治(をさま)らず、如何(いかん)となれば、斯(か)くせんと欲して為(な)せば、謀計機巧(ぼうけいきこう)を用ふればなり、謀計機巧は、衆恨(しゆうこん)の聚(あつま)る処なれば、一旦勢(いきほひ)に乗じ智力を用ひ、是を為すといへども、焉(いづくん)ぞ能く久きを保たんや、焉(いづくん)ぞ能く治平(ぢへい)を得んや、是れ我が門の戒むる処なり、夫(そ)れ東照公は国を治め民を安んずるの天理なる事を知りて、一途に勤めたりと宣へり、乱世にしてすら此(こ)の如し、敬服せざるべけんや。富商の番頭、忠実を其の主家に尽して、終(つひ)に婿(むこ)となり、主人となる者多し、夫れ商法家は家を愛する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり。
2026.02.26

p.184-190 最後の弟子 弟子丸泰仙 坐禅バしてくっけん 私ははからずも本師沢木老師ご重態の枕頭に侍して、お手足をおさすりし、ご最後の呼吸までじかに接することができた。また入棺に際しては、ご遺体をかかえ、安泰寺の二階から京大医学部差回しの棺にお移しした。その時、だいていたお背中はまだご生前と変わらない温かさで、尊顔まさに光顔巍々として山の如く、温容は天地に溢れる観であった。門前よりみ車を送り出した時は、いかに厳しいご遺言とはいえ、このまま冷たい解剖室に行かれるかと思うと、さすが人間としての惜別の情を禁じ得なかった。 そもそも私が老師をはじめて知ったのは、多分十七、八歳の頃、もちろんそんな偉いお方とは知らなかった。薄汚い坊さんを故郷の佐賀で、下宿のおばさん(上海同文書院、間島次郎教授未亡人)が友人のインテリ女史たちと馬鹿に大切にするのを不思議に思ったくらいだった。 私はその後上京して学校をおえたが、ある日そのおばさんより「沢木先生が鶴見の総持寺で偉い坊さんになっていらっしゃいますよ」と聞かされた。今から三十余年前、私は早速、総持寺を訪ねた。ちょうど私は会社に勤め、平凡なサラリーマン生活に生涯をたくしきれない不満が心底を去来していた頃であった。自己の人生を意義あらしむべく、真剣にとっくみたい何かを求めていた時であったのである。老師はこの時、この青二才の私をしばらくじっとにらんでいられたが、やがてにっこりされて、大きな富有柿を持ってきて、むいてくれたり、佐賀の方便で「これから時々遊びに来いよ。わしゃ坐禅バしてくっけんニャー。その間こいどん食べとかい」といって、出てゆかれた。私はそのお姿をくいいるように拝した。この時が師弟としての真の「面授」の時であった。 道元禅師の『正法眼蔵面授』の巻に曰く、「一言いまだ領覧せず、半句いまだ不会せずというとも、師すでに裏頭より弟子を見、弟子すでに頂上より師を拝しきたれるは正伝の面授なり。かくのごとくの面授を尊重すべきなり」と。(続く)
2026.02.25
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)煩悩のまま その1「仏心の生活」p.104-127 煩悩のまま 仏心の生活 禅にも「信心」がある。いや、実参実究を重んずる禅だからこそ信心が必要だと強調したのは、たしかにわしだ。わしがわしの思い付きで、あるいはわしの修行の結果としての一種の境地から、突然こんなことを言い出したのではない。 祖師方が、ちゃんとそのように仰せになっている。そう仰せになっている言葉に立ち返ったに過ぎない。 なるほど「仏心の信心」にいたるまで、わしはわしなりに悩んだよ。苦しみもしたよ。とりわけ、年老いたいとこから、禅では行じ得ないものは救われぬのかという公案をつきつけられてからは、死んでも死にきれないという切迫感に追いつめられるような日々だった。しかし、この道にすすんだら、誰でも通らねばならぬ道といってよく、あるいは、禅の修行をしたものは、誰でも似たような心境に立ち至ったのではないかな。 有名な達磨大師のお言葉にもあるのだ。・・・・・ 達磨さまは、禅の要諦を、「直指人心 見性成仏」 と、まことに簡潔に示された、ということになっている。わしの調べた範囲では、達磨さまのご著作のなかにそのような言葉は見当たらないけれども、そんなことは、どうでもいいや。いずれにしても、禅の本質というものをきわめて端的にあらわした言葉だ。 要するに、直指人心・見性成仏。・・・・・・自分の心の本体を究めてみよ。めいめいのなかにある「仏心」にめざめて、安心(あんじん)を得るというのだな。 「仏心」にめざめるとは何か。 達磨さまのご著作のなかに「四行観」というのがある。いってみれば、直指人心・見性成仏ということの実践を体験的に述べられたものだ。その冒頭に、「理入」 という。これは「理入」と「行入」の二つの項目があって、あとの行入のほうには、人生の見方について四つほどの注意がされている、いわば具体論だから、禅にとっては「理入」のほうがたいせつなのだ。 その「理入」というのがほかでもない「仏心の信心」なのだなあ。その意味はこうだ。人間は誰でもお釈迦さまの悟られた「仏心」とおなじ「仏心」をそなえている。その仏心が見えないのは、なぜか。それが煩悩のせいなのだな。煩悩にくらまされているのだから、その煩悩にとりあわないで、坐禅をすれば、かならずその「仏心」を会得できる、というのだ。
2026.02.25
中国の軍民両用品輸出禁止、日本は撤回要請-三菱重工業など20社2/24(火)中国商務省は24日、三菱重工業やIHIなど20の日本企業や団体を対象としたデュアルユース(軍民両用)品目の輸出を禁止すると発表した。同国は1月に輸出管理リストを作成していたが、日本企業が追加されるのは初めてだ。日本政府は、強く抗議し措置の撤回を求めたと明らかにした。中国政府は声明で、輸出禁止は国家安全保障と国益を保護し、国際的義務を履行するためとしている。禁止リストには川崎重工業や防衛大学、宇宙航空研究開発機構(JAXA)なども含まれる。発表を受け、24日の東京株式市場で三菱重工業株は一時前営業日比4.4%安とマイナスに転じた。IHI株は同7.7%安、川崎重工業株は同5.8%安に下げ幅を拡大した。また同国政府は輸出禁止リストに加えて、スバルなど日本企業20社を監視リストに加え、デュアルユース品目の輸出に対する審査を強化するとした。中国商務省は24日、別の声明で「これらの措置の目的は、日本の『再軍事化』や核への野心を抑制することにある。これらの措置は完全に正当かつ合理的で合法だ」と主張した。佐藤啓官房副長官は同日午後の記者会見で、「強く抗議するとともに措置の撤回を求めた」と明らかにした。外務省の金井正彰アジア大洋州局長が、施泳駐日中国大使館次席公使に対して申し入れした。佐藤氏によれば、今般の措置の内容や影響については精査を行い、必要な対応をとるという。また経団連の筒井義信会長も定例記者会見で、中国の輸出管理強化は、「極めて遺憾であり撤回を求めたい」と述べた。中国は日本への経済制裁を進めている。1月にはレアアース(希土類)などの輸出規制を厳格化する方針を示していた。シンガポールの南洋理工大学のディラン・ロー准教授は、高市早苗首相が率いる自民党が衆院選で圧勝したにも関わらず「明らかに圧力を緩めていない」と指摘。日本の再軍事化を制限すると同時に、企業に直接打撃を与える目的の行動だと指摘した。影響は現時点で不透明だが、企業によって大きく異なりそうだ。第一生命経済研究所の熊野英生首席エコノミストは、20社が特定されたことで不確実性が低下した点では良い側面もあるが、リストの中には軍事産業や防衛関連と関係ない企業も入っているように見えると指摘。今後、対象については「中国側と対話していくことが必要になるだろう」とした。政治的メッセージ監視リストに名前があがっていた伊藤忠アビエーションではそもそも中国からの輸入はなく、中国企業との商談や進行中の案件もない。三井物産エアロスペースでも、取扱商品に中国から輸入しているものは現状ないという。おなじく監視リストに入った日東電工は現段階では調査中で、ENEOSホールディングスも事実確認を進め、必要に応じて適切な対応をとるとした。スバルも現時点では情報を精査中で、引き続き状況を注視するとしている。TDKも精査中とした。IHIの広報担当者は、事実関係を確認中で、状況を注視すると述べた。富士通も事実関係も含めて確認中とした。禁止リストに傘下の2社が入ったNECは、状況は注視しつつ、事業への影響を精査していくとしている。2社は防衛省向けの通信システムやレーダーなどのハードウェアやソフトウェアの開発を担っている子会社という。ブルームバーグ・インテリジェンス(BI)の伊藤嘉輝氏は、三菱重工業とIHIについて、防衛事業への依存度が高いことから、今回の輸出規制の影響が日本の重工業他社に比べて大きくなる可能性があると指摘。BIの試算では利益に占める防衛関連事業の割合は、三菱重工業と川崎重工業がいずれも20%超、IHIは約10%。日本の防衛セクターは足元では一定の在庫を確保しているが、長期的な調達の多様化は依然として進行途上にあるとの見方を示した。地政学研究所の鈴木一人所長は、日本への政治的メッセージであり、日本企業への影響は限定的と分析する。最終用途証明書を提出していれば、防衛分野向けでない限り材料は入手可能だろうと述べた。💛どうする?当然予期された措置なのに政府の対応策が抗議だけで、具体の対抗措置、報復措置が出てこない
2026.02.25

教育に力を 『ばけばけ』ヘブンの同僚が廃校の危機に「政治家は何を考えてる」発言 小泉八雲はもっと痛烈な批判をしてた?2/24(火)2025年後期のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』の第21週では主人公「松野トキ(演:高石あかり)」の夫「レフカダ・ヘブン(演:トミー・バストウ)」が務める、熊本の第五高等中学校(以下、五校)がなくなってしまうかもしれないと話題になっています。そのため、トキたち家族は物書きとしてのヘブンを支えるために、題材探しのための取材を始めました。 101話では、五校の廃校の可能性を英語教師「作山(演:橋本淳)」から聞いたヘブンの同僚「ロバート・ミラー(演:ジョー・トレメイン)」が、「教育に力を入れないでどうする」「日本の政治家は何を考えてる!」と怒りをあらわにしています。五校がなくなる話は当時本当にあった出来事で、ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も当時、憤りを見せていました。 1891年11月、第2回の帝国議会では、仙台、金沢、熊本の高等中学校を、経費削減のため廃止する案の審議が始まっています。ハーンは松江から熊本に移住して1か月半ほどの1891年12月28日付けの親友・西田千太郎(「錦織友一」のモデル)への手紙で、「こちらでは皆が国会の気違いじみた議決に当惑しています。この学校を、他の数校と一緒に廃校にする投票を行ったのですね」と書いており、また東京帝国大学にいた知人のバジルホール・チェンバレン教授が、東京での別の勤め口について手紙をくれたことも語っていました。 結果的に五校が廃校になることはなく、同校は寺田寅彦、佐藤栄作などの人材を輩出して1950年に熊本大学に統合されるまで続いています。しかし、ハーンは同僚たちとの軋轢や、週27時間にもわたる授業の受け持ちで満足に執筆ができないことなどが理由で五校を辞め、1894年10月に神戸で「神戸クロニクル」という英字新聞と契約をして久しぶりに新聞記者の仕事に復帰しました。しかし、そのわずか3か月後の1895年1月30日、神戸クロニクルを退社し、1896年9月から東京帝国大学の英文科講師として働き始めています。『ばけばけ』でもヘブンが教師として失職することはないと思われますが、モデルが3年しか熊本に住んでおらず、物語も残り5週弱しかないため、近いうちに熊本を去る場面は描かれるでしょう。
2026.02.25
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法1.駅長をやめて来い2.シャンとせぬ心3.毛一筋の望み4.後生一大事とは5.楽屋住まい6.浄玻璃鏡7.ただ念仏して 7.火中の白蓮 和上、眼鏡越しに慈眼ののべてさもうれしげに前列真正面の老婆に向かい、「能登のお婆さん!昨日は有難うござんしたなアー。」 能登の老婆感激して涙の顔を両手に抑え、礼拝低頭、しばし声なし。その様子より伺えば、昨日のご縁は余程の有難きご縁ありけるにや、遅れてそのご縁に遇えざることの惜しき。 老婆の様子、風采より案ずるに、始めてのご縁らしく、難行苦行して旅費を貯め、無理の中を無理してこのご縁にたどり着きけん。しかして積年の大望を達せしがごとし。和上、言葉やさしく、「アンタとこの商売は何じゃなー。」「漁師でござんすー。息子が漁をして来ますと、嫁と私が町へ売りに出て、その僅かな売り上げの中から、少しずつ貯めて置きまして、この度こちらへ・・・・・。」 旅費を作るに工面に工面を重ねし命がけの参詣にして、もはや再びここのご縁に遇えざるもののごとし。「ホウ!そりゃ偉いなア、その歳になってー。」 老婆、涙に声をうるませて、「和上様―、おらハアの家では思わず知らず、お念仏が大きくなると息子や嫁が『小やかましい!ダマッテくされー』と叱りますッじゃ・・・・・。それがアー。」 いかにも耐えざるがごとく、歯を噛みしめて、よよと泣く。「それで息子や嫁どもがおらぬ時、今日こそはと大声に念仏しておると、おらハアの家の裏がスグ通りなので、通って行く人がおらハアの念仏を聞いて、また悪口しまつさア・・・・・。それを息子が聞いて来ておらを叱るチュもんで・・・・・。本当にハヤ弱っちますがア・・・・・。ここへ来てみると、こんな若いお方が高々念仏申されるのに。」と両隣に参詣の少女を指さしつつ羨ましげに、「うちの息子どもは何チュウ邪見なやつでござんしようー。」 後は涙声にて聞こえず。オウオウと声を上げて泣きすする。参詣の一同、感激の念仏ひときわやまず。暫くして和上合掌をとき、「お阿弥陀様が息子や嫁になり代わって、お前さんにお念仏懈怠させんようにとのお誡めと頂くじゃー。南無阿弥陀仏。 凡夫という者はオカシナもので、反対されると力味が出る。サア申せ申せと言われたらなかなか申されるものではない・・・・・南無阿弥陀仏。その中から申されるのはお阿弥陀様のお護りじゃ・・・・・なアー。」 老婆感極まって大声を上げて泣く。参詣の一同もまた涙禁ぜず。称念久し。やや暫くあって、また老婆このご意見を忘れたるがごとく、愚痴りて問う。されどさもありぬらんか。「和上様!おらハア、そんな中へまた帰りまつしゃが、これから先きどうしたらようござんしょうー。」 和上、厳然声を張り上げて、「念仏申す駄賃じゃ!お念仏の税金じゃ!」 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 声を落として、「もう長うはあるまいに・・・・・辛抱しても十年のうちじゃ。南無阿弥陀仏。 わしは二十年は確かじゃけれども、ハハハハ!」 と面白げに笑われる。老婆、漣如(れんじょ)として前に附されば、また憐愍(れんみん)の言葉を継ぎ、「念仏の行者は、娑婆(しゃば)ではヨウ叱られるものじゃてー。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 凡夫はそしるが諸仏は躍り上がってお悦びじゃさうな・・・・・。タトイ大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて仏のみ名を聞く人はー。南無阿弥陀仏。火原(かげん)の中をこぎ分けた者でのうては、お念仏様の尊い事はわかりません。 その火の原にも段々あるが、火の原が大きければ大きいほど、重ければ重いほど大事がかかって悦ばれる。なアお婆さんー。」 真に外へはやれぬ私へのご意見なり。大聖(だいしょう)おのおのもろともに方便引入の矜哀、声涙(せいるい)共に下って膝頭をポトポトとぬらす。涙を払って顔を上げんとするも、こみあげる涙、ろうに顔を上げ得ず。陰に陽にねんごろに切に、あるいは柔らかく、あるいは厳かに、真求(しんぐ)と真授(しんじゅ)するものの対立。言語筆舌を絶す。(略)
2026.02.25
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その6 明治23年は帝国議会開会せられ、岡田社長は衆議院議員に当選し、爾来数年間は中央政界に在り手奔走せられたりれば、従って報徳社の事務は内外伊藤翁によって処決され、一時見付第二館は報徳の中心地たるの観あり。しかして翁の身体は実に寸暇を与えざりしに拘わらず、翁の精力主義はますます発揮され、内外の事務を処決して少しの渋滞を見ざるのみならず、あるいは遠来の訪問者に応接し、あるいは各地の講演に臨み、その間また時々深見の自宅を見舞いて家政の興復に心血を注ぐ等、東奔西走実に電光石火のごとく、その抜群なる翁の誠心、翁の精力にあらずんば何人も模倣しあたわざる行動たりしと云う。 明治26年12月、京都府知事より静岡県庁へ管内報徳社員中、特に報徳の主旨を守りて経験あるもの1名を聘へい〔礼を尽して人を招く〕し、府下各郡を巡回せしめたき趣をもって照回〔会〕あり。当時、社長岡田良一郎先生差支えありしをもって副社長伊藤翁その聘に応じ、翌27年2月13日出発し、同14日京都府庁へ出頭、書記官一坂俊太郎氏に面会し、同15日より左記各所を巡回して報徳の旨趣並びに遠江国報徳社の経営に付き講演せり。 2月15日 乙訓郡向日町 聴衆 90名 同 16日 紀伊郡伏見町 同 75名 同 17日 宇治郡醍醐町 同 50名 同 18日 久世郡広野町 同 121名 同 19日 綴喜郡田邊町 同 60名 同 20日 相楽郡木津町 同 34名 同 22日 愛宕郡田中村 同 97名 同 23日 葛野郡太秦村 同 72名 同 24日 南桑田郡亀岡町 同 70名 同 25日 船井郡園部町 同 70名 同 26日 同 檜山町 同 123名 同 27日 同 三宮村 同 90名 同 28日 何鹿郡綾部町 同 138名 3月 1日 天田郡福知山町 同 67名 同 2日 同 額田村 同 15名 同 3日 加佐郡北有路村 同 111名 同 4日 同 舞鶴村 同 92名 同 5日 同 志楽村 同 33名 同 5日 同 舞鶴村 同 20名 同 6日 與謝郡宮津町 同 93名 同 7日 同 加悦町 同 70名 同 8日 竹野郡徳光村 同 86名 同 9日 同 網野村 同 10名 同 10日 中 郡峰山町 同 80名 同 11日 竹屋郡網野村 同 55名右巡回終わりて、3月20日京都府を発し、帰路岐阜県恵那郡有志者の招聘により同地を巡回す。歴遊の個所左のごとし。 三郷村野井、蛭川村、苗木町、中津川町、上村更に愛知県に入りては左記の通り歴遊す。 八名郡 豊津村報徳社 同 加茂村報徳社 同 荻 平報徳社右巡回し終わりて、4月1日第2館に帰る。京都府庁より巡回報酬として、金50円を贈与されしが、翁は直ちに本社土台金に寄附せり。更に同年5月8日には、福島県岩代国大沼郡大登報徳社その他有志の招聘に応じ出発し、左の個所を巡回せり。 大沼郡西川村 大登報徳社 社長 馬場 庄平 社員84名 同 本名村 本名報徳社 同 渡邊 仙吉 同 22名 同 横田村 横田報徳社 同 横田八重吉 同 52名 同 川西村 小山報徳社 同 堀内竹次郎 同 23名 河沼郡柳津村 柳津報徳社 副社長 目黒 重介 社員86名 同 笈川村 笈川報徳社 社長 大塚七三郎 同 32名 同 堂島村 堂嶋報徳社 同 伴野千代八 同 22名 耶摩郡慶徳村 慶徳報徳社 同 穂積 光雄 同 55名 北会津郡若松村 若松報徳社 同 樋口 真彦 同 85名 安積郡三代村 三代報徳社 同 二瓶貞四郎 同 28名 同 三和村 富岡報徳社 同 瀧澤 道音 同 26名 同 豊田村 豊田報徳社 同 齋藤彦四郎 同 24名 同 鍋山村 鍋山報徳社 同 橋本 文治 同 28名 石川郡泉 村 中 報徳社 同 二瓶貞四郎 同 28名 同 同 瀧崎報徳社 同 矢吹 末吉 同 24名 同 同 泉 報徳社 同 岩谷 巌 同 43名右巡回し終りて、6月6日帰館せり。同年7月に至りて、志太郡大富村村長村松半兵衛、和田一色村村長村上邦平両氏の請求により同12日より左記各町村を巡回せり。 益津郡焼津村 誠心報徳社 同 豊田村 三ヶ名報徳社 志太郡大富村 上小田報徳社 同 中根新田報徳社 同 道栄組報徳社 同 一色村 一色報徳社以上のごとく明治27年は遠州以外における講演多くして、翁は殆んど半歳を出張巡回に費やし、従って翁の努力は至る所にその効果を奏して簇々結社を見るに至り、本社の監督を受くるものまた少なからざるに至れり。明治28年7月28日よりは駿州地方へ出張し、8月3日帰還せり。同年中、翁の報徳会へ臨席したること155回にして、巡回日数115日なり。明治29年に至り、伊豆国賀茂郡下報徳結社のため、郡長池田忠一氏より請求あり。同11月22日出発沼津町より海路松崎に上陸して、各地を巡回し、同12月4日出立、天城山を超え沼津町一泊の上帰還せり。同年中翁の報徳会合へ臨席したる事182回にして、巡回日数は166日なり。明治30年10月5日出発、駿東郡富士岡村神山、二子中清水報徳社を巡回し、同9月同村報徳の名家竈新田小林秀三郎氏を訪問して帰還せり。同年中翁の各地へ出張したること175日なり。明治29年頃より翁は胃病を煩い、爾来健康勝れざるより、明治30年1月現量鏡終了後、幹事永井、神谷外6名の諸氏は、席を曲泉亭に移して協議し、老体の翁をして永く会計の重任を一任するに忍びざれば、以後は布教専務として本社のために努力を乞わんと、これを翁に通ぜし処、翁も大いに悦ばれ、その協議を容れしより、会計主任に永井五郎作氏を推し、監査主任に神谷喜源治、八木良平、守屋芳太郎の3氏を挙げ、翁は是より巡回その他講演に従事し、専ら布教の一時に力を致す事となれり。然しかく翁は会計事務を割きて幾分閑散の位置にありしが、勤勉なる翁は徒に閑日月を貪るべき人にあらず。熱心社務に抂掌し、またよく巡回出演して、楽しみもって憂いを忘れ、老いの至らんとするを知らざるもののごとく。ことに病後にありて静養を怠らざるも、報徳社の事に関しては医師の言と雖もこれを用いず。斃るるまでは止まざらんとする、その行動は諸氏の敬服する所たり。(神谷喜源治氏談)翁の第2館在勤中に、各府県有志の来訪少なからざりしも、なかんずく福島県の渡邊禎治氏、越後の小山市郎氏、聴衆の吉村某は永く本館に滞在して研究を重ね、帰国の後はそれぞれ結社を計画せられたり。なかんずく渡邊氏は感激の余り、実弟季吉氏を翁に託してその薫陶を仰ぎたるほどなり。そのほか遠近有志に結社法を指導したる事は枚挙に遑あらざる次第なり。(水野信之助君談)
2026.02.25
永平初祖学道用心集 6-25道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その25 しかし「其の所入の門は、得法の宗匠のみ有って之を悉(つまびら)かにす」何でもものごとの実行には、ただ学問でない、覚えればようのではない。そういうものにはやはり先達がいる。この先達が、大峰山上に登るのに、さあこちらの足からかけなさい。あちらの足からかけたら登れませんぞと教える。それではじめて順序よく登れる。ひとつ足をかけ損ねたら今度の足のやり場所がなくなって大変である。そこで得法の宗匠というのは、この先達のことである。そうしてそれは「文字法師の及ぶ所に非ず」と。抽象的の説明をする学者のことをここに文字法師という。工学士になって始めて就職したとき、職工の古いやつに、「旦那それじゃ歯車がまわりはせんよ」といわれて、脇の下から冷や汗を流した工学士がある。一職工からなぶられる。それはなぜかというと、実際に毎日機械を動かしておるものと、動かしたことのないものとの違いである。よく医者が研究室へ入ってから、先生の代診で何ぞとやると、看護婦からけんつくをくわされる。眼科のお医者さんが、手を消毒せずに患者にかかろうと思うと、その手は不潔ですと婦長からけんつくくわされる。これもやはり実物をよく知っておるものと、患者を扱うたことのない先生から習うたら、人殺しの名人がたくさんできるだろう。 実際に人世の問題に関係なしに本読んでおる学者が仏法を講義したら、これは地獄へつき落とすことになる。地獄へつき落すどころの騒ぎじゃない。本はむずかしくて神経衰弱にするけれども、仏法と何の関係もないものをつくるに違いない。だから文字法師の及ぶ所に非ずと。「天福甲午清明(きのうえうませいめい)の日書す」これは前にも一遍年号を書いたのがあった。(「沢木興道全集」第2巻p.161-162)
2026.02.25
191二宮翁夜話巻の5【35】ある人が言った。毛利元就が言うに、百事思っても半分も、成就しないものである。中国地方の主となろうと思って、ようやく一国の主となり、天下の主となろうと願って、ようやく中国地方の主となるであろうと。実にそのとおりかと思われます。尊徳先生がおっしゃった。理はあるいはそうかもしれない。しかし、これは乱世のときの大将の志であった、私の報徳の教えにおいては称しないところだ。舜や禹が帝王たるや、その帝王になる事を願わず、ただ一生懸命に勤めるべき事を、勤めただけである。親につかえては、親のために尽し、君につかえては、君のために尽し、農業、漁業、皆その事について尽してきただけである。舜が歴山にあって農に励んだとき、禹が舜につかえるとき、どうして帝王である事を願ってそのようにしたであろうか。自分の身があること忘れて、ただ君や親のある事を知るだけだ。古書に舜・禹の事を述べるを、見て知るべきだ。このようにならなければ、一家一村といえども、人々を心から喜ばせる事は難しく、平らかに治める事は難しい。たとえば、家を取る事を願って、家を取り、村長となる事を願って、村長となるの類は、その家その村を必ずや治めることはできない。なぜかといえば、このようにしようと欲してなせば、謀りごとやたくらみごとを用いるからだ。謀りごとやたくらみごとは、人民の恨みが集まるところだから、いったん勢いに乗じて智力を用い、これをなすといえども、どうしてよく久しく保つことができようか。どうしてよく平らかに治めることができようか。これは私の説く報徳の教えでは戒めるところである。東照公は国を治め民を安んずることが天理である事を知って、一生懸命に勤めたとおおせられた。乱世であってもこのようである。敬服しないでいられない。富商の番頭は、忠実をその主家に尽して、ついに婿となって、その家の主人となる者が多い。商人の家で家を愛する事は、堯・舜が天下を愛するようである、だからそのようにするのだ。【35】或(あるひと)曰く、毛利元就(もうりもとなり)曰く、百事思ふ半分も、成就せぬ物なり、中国の主たらんと思ふて、漸(やうや)く一国の主たるべし、天下の主たらんと願ふて、漸く中国の主たるべしと、実に然るべし。翁曰く、理或(あるひ)は然らん、然るといへ共、是れ乱世大将の志にして、我が門の称せざる処なり。夫れ舜禹(しゆんう)の帝王たるや、其の帝王たらん事を願はず、只(ただ)一途(いちづ)に勤むべき事を、勤めしのみ、親に事(つか)へては、親の為に尽し、君に事へては、君の為に尽し、耕稼(かうか)陶漁(たうぎよ)、皆其の事に就(つ)きて尽せるのみ、舜の歴山(れきざん)にある、禹の舜に事(つか)ふる時、何ぞ帝王たる事を願つて然らんや、己の身ある事を知らず、只(ただ)君親ある事を知るのみ、古書に舜禹の事を述ぶるを、見て知るべし、此(こ)の如くならざれば、一家一村といへども、歓心を得る事難し、平治(へいぢ)する事難し、譬へば家を取らん事を願つて、家を取り、村長とならん事を願つて、村長となるの類(るゐ)、其の家其の村必ず治(をさま)らず、如何(いかん)となれば、斯(か)くせんと欲して為(な)せば、謀計機巧(ぼうけいきこう)を用ふればなり、謀計機巧は、衆恨(しゆうこん)の聚(あつま)る処なれば、一旦勢(いきほひ)に乗じ智力を用ひ、是を為すといへども、焉(いづくん)ぞ能く久きを保たんや、焉(いづくん)ぞ能く治平(ぢへい)を得んや、是れ我が門の戒むる処なり、夫(そ)れ東照公は国を治め民を安んずるの天理なる事を知りて、一途に勤めたりと宣へり、乱世にしてすら此(こ)の如し、敬服せざるべけんや。富商の番頭、忠実を其の主家に尽して、終(つひ)に婿(むこ)となり、主人となる者多し、夫れ商法家は家を愛する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり。
2026.02.25
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望み後生一大事とは楽屋住まい浄玻璃鏡 ただ念仏して 蚊と暑さに悩まされつつ、河崎の夜はあちらにもこちらにも居眠りが始まります。かすかに一人か二人のご相続しか聞こえません。 和上静かにご出座あって、暫くご相続の後、「私が博多へ行っている時、突然家内と下津のおばあさんとがやって来まして、『兄さんが娘を女郎に売るというので、あなたに知らせずにおいてもと思い、ワザワザやって来ました』という。その値(あたい)75円なり。ハハハハハハ」と面白く朗笑されるように、皆坐睡から覚めて、蚊の食うのも忘れました。「それから家内達がいうのに、『こちらに来るとすぐあなたのことをお尋ねしましたが、誰一人としてあなたを知りません。コラどうした事じゃ、不思議な事じゃ、この長い間に誰一人村田を知らんとは一体どうじゃろう?全体何をしていたのです』と、恐ろしい剣幕。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏その当時、私はご相続専一にと心がけ、ちょっとの間でも懈怠せむようにと、人様や友達に遇っても何ともいわず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と頭を下げるだけでしたから、皆がこれが村田じゃということを知らんんだのでしょう。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏その時、私は家内に、ソラ良かろうーというてやりました。家内たちは私にどうぞして売らぬようにさせたいものと、わざわざやって来たのですから、その返事を聞いてポカンとしましてなア。娘を売るということはただごとではありません。何かのお引き合わせでしょう。今更仕方がない。かえって結構な事かもしれん。寺に生まれた者が勤め奉公をするというのは誠に有難い。南無阿弥陀仏。」 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 和上沈痛な面持ちでその当時の様子が、サモ偲ばれるが如く有難く頂かれて、「昔は寺というものは威張ったもので、寺の判がないと旅ができなんだものじゃ。この者はヤソ教信者にあらず。浄土真宗の者なり。という判をおしてやったものですから、威張っておりましたわい。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 その後、娘が売られて四日市から桑名、東京と行って東京で「八ツ橋」という名で出たそうです。-八ツ橋は代々続く名でしてーそれから私が東京へ行った時、八ツ橋を見受けして帰りました。興津で水害に遭い、汽車は通わず、食物はなく、たくさんな荷物を私が肩の前と後ろに掛けましてなあ・・・・・。」と手振り面白く笑いながら語られるように、ツイ「ご法話を聞いて居る時でも口の中ではお念仏忘れんように」とのご意見すら忘れがちであります。「坊主が死ぬと牛になるという事じゃが、はや今から牛かいなーと思いましてなア。一身田(いっしんだ)に来てもなかなかの水害で困難しました。道中いっぱいに水が流れておるなかを、八つ橋が立派な下駄をはいたなり、ジャバジャバと行くのでー。脱いではどうじゃ?といいますと、八ツ橋ごうきに 叔父さんけち7ですな!」と和上面白そうに声を細めて女らしくマネせられる。「と言いましてもなあーハハハハハなかなか贅沢をしておりました。大琴から小琴などとー。それで一遍兄貴のその日暮らしの難儀さを見せてやろうと連れて行きました。南無阿弥陀仏。私は兄弟八人ありまして一番弟でしたのでー」とまた和上の傘屋の話が始まります。何遍聞いても聞きあかぬ和上のお若い時の苦心談。涙なくしては聞けぬのに面白い諧謔につり込まれて、もったいんくも笑ってしまうお粗末さ。「それである傘屋から養子にもらいに来ました時、私が一番末子じゃったので仕方なく、行くことに決めましたら、向う様は、「アンナどもりはいらん。」といいましてなアーハハハハハ。その頃、私はたいしたどもりでしてー。これを私が障子の向こうで聞いておりまして、ヤレヤレ!。と安心しましたハハハハハ」時々唇を動かされてはご相続を忘れぬようにとやるせないお心づかい。「先年もその養子娘じゃった婆が来まして、「あの時、和上さんを養子にもろうておきさえすれば、コンナに貧乏はせなんだじゃろうにー」とエロウ惜しがっておりました。ハハハハ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。それで兄が養子に行くことにんりました。この兄が貧乏していてくれたればこそ、私が念仏門に入らして頂いたのです。もし兄が住職していたら、私は今頃何になっております事やら・・・・・。」有難いその清揚哀亮(しょうようあいきょう)のお声は、一同深法忍(じんほうにん)を得る心地して静まる。「その八つ橋が言いますのに、 私が長らく勤めをしていて、一番気の毒に思いましたのは、ある大家の息子さんが二人も私の為に身投げをしました。この事だけは忘れませんとなアー これを聞いて有難うござんした、南無阿弥陀仏。」と最後の一言は合掌されながら余音嫋嫋と響いて、何のご説明もなしに夜のご縁を終わられましたのは、いまだにあれかこれかと頂かれて、尊い法忍の三昧境に耽るのであります。
2026.02.24
メキシコ麻薬組織リーダー「エルメンチョ」、軍の作戦で死亡 全土で暴動多発2/23(月)メキシコ市(CNN) メキシコの麻薬組織「ハリスコ新世代カルテル(CJNG)」のリーダーとして最重要指名手配されていたネメシオ・オセゲラ容疑者(通称「エルメンチョ」)が22日、メキシコ軍の作戦によって死亡した。米麻薬取締局によると、元警官のオセゲラ容疑者率いるCJNGは、メキシコ国内で「最有力かつ最も凶暴な犯罪組織」の一つだった。メキシコ軍は西部ハリスコ州のタパルパで作戦を展開。これを受けて複数の州で暴動が起き、犯罪組織のメンバーと思われる容疑者らがバスや商店に放火したり、治安部隊と衝突したりした。メキシコ国防省は、米当局から今回の作戦を支える「補足情報」の提供を受けたと説明。米国防当局も、関係機関で構成する麻薬組織対策の合同タスクフォースが今回の作戦で「役割を果たした」ことを確認した。1月に設置された同タスクフォースは、米北方軍を通じてメキシコ軍と連携し、米国とメキシコの国境周辺で麻薬組織対策を展開していたという。メキシコ国防省によると、今回の作戦ではCJNGメンバーと政府軍が銃撃戦を展開し、CJNGメンバー4人が現場で死亡した。オセゲラ容疑者ほか2人は重傷を負い、空路メキシコ市に搬送される途中で死亡したという。メキシコ軍の兵士3人も負傷して、メキシコ市内の病院に搬送された。メキシコ当局は長年にわたってオセゲラ容疑者の行方を追い、2018年には逮捕につながる情報の提供者に3000万ペソ(現在のレートで約2億7000万円)を提供すると発表。米当局も最大で1500万ドル(約23億円)の賞金をかけていた。米司法省は22年、米国への密輸を目的とした合成麻薬フェンタニルの製造や流通にかかわったとしてオセゲラ容疑者を訴追した。人間の遺体入ったカバン45個を発見、メキシコの渓谷メキシコ西部ハリスコ州の検察当局は4日までに、同州グアダラハラ市の郊外にある渓谷で人間の遺体が押し込まれるなどした計45個のかばん類が発見されたと発表した。同都市圏では先月20~22日にコールセンターの職員7人の失踪事件が起き、捜査が続いていた。検察当局は初期段階の捜査情報として、今回見つかった遺体の部位は消息を絶った若年層の職員の一部と身体的な特徴が一致したとも述べた。バッグは渓谷の非常に険しい斜面の一画に投げ捨てられていたという。科学捜査の専門家が遺体の人数や身元を調べているがまだ判明していないとした。メキシコでは地元住民や移民の失踪問題が蔓延(まんえん)しており、その人数は10万人以上ともされる。ハリスコ州当局の公式データによると、州内でこれまで見つかった遺体は2018年以降で1500体以上となっている。今年3月には米国人4人が拉致され、うち2人が殺害される事件が発生。メキシコのロペスオブラドール大統領はこの事件の発覚後、同国は米国より安全な国とも誇示していた。メキシコでは国境線がある地域を中心に拉致や人身売買が多発しており、同国の殺人の全体的な発生率は世界でも最高水準にある。橋から宙づりの遺体6体発見 メキシコ・リゾート地付近メキシコ市(CNN) メキシコ西部バハカリフォルニアスル州の検察当局は23日までに、州内の3つの橋で計6人の遺体がつり下げられている状態で見つかったと発表した。いずれも殺人事件として捜査を進めている。遺体が発見されたのは20日。同州南部ロスカボスで4人、州都ラパス近郊で2人の遺体が見つかった。遺体は人気海浜リゾートに向かう高速道路や主要国際空港に近い3本の橋からつり下げられた状態で発見されたという。当局は死者の身元を公表しておらず、犯人像についても言及していない。バハカリフォルニアスルの州知事はツイッターで、「こうした行為やあらゆる暴力の表出を非難する」と述べた。最長の麻薬トンネル摘発、1313m 米・メキシコ間米税関・国境警備局は30日までに、米国、メキシコ国境線の南西部で見つかった薬物密輸用のトンネルとしては最も長い約1313メートルのものを摘発したと発表した。トンネルは地下の深さ約21メートルで、米カリフォルニア州サンディエゴ郡とメキシコ・ティフアナを結んでいた。以前に発見され、これまで最長トンネルとされていたのは2014年に発見された約993メートルのものだった。トンネル内の高さは約165センチで、幅は約61センチ。ティフアナ側では国境線から南へ約76メートル離れた地点から始まっていた。換気装置、電気供給、排水路やカート用の軌道も備え、サンディエゴとティフアナの入り口にはエレベーターも設けられていた。米麻薬取締局(DEA)の特別捜査官は声明で、新たなトンネルの精巧な造りは麻薬密輸組織のトンネル建設への強い意思と資金の豊富さなどを物語っていると述べた。今回のトンネルの発見は過去数年間の捜査の成果だった。摘発に伴う逮捕者や他の押収品はまだない。💛アメリカ・メキシコ当局とメキシコ麻薬組織の対立衝突は測り知れない(>
2026.02.24
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その5四 翁と遠江国報徳社 遠江国報徳社は明治8年〔1875〕11月、遠江国各地に存在する報徳社員を総轄するの必要上、官に乞うて設立したるものなり。この設立出願については、勿論翁はその一員にして当時岡田佐平治氏を社長に、翁はその副社長に推選せられたり。翁が報徳の道に篤きは一身を報徳事業に捧げたる事実に徴して、多言を用うるの要なきも、ことに報徳社の拡張と、布教の方法については、もっとも苦心の跡存したるを見るべし。明治7年の某月中野村仕法中道友数氏と会し、その席上において斯道の普及を図らんにはまず第一に同志の者の斯道研究を為す事もっとも急務と信ずれば、今より毎月1回宛日を期して同志と相会し問題を提供して研鑽を図らんは如何との議を発言せらる。会する者は何れも斯道の熱心家のみなれば、案は満場一致にて可決せられたれども、一応これを無息軒先生に通じての事にせんとし、これを先生に図りし所、大いに満足され、直ちに実行せよとの事なり。よって善は急げとその翌日をもって第一回を某氏の宅にて挙行したるが、当日恰も11日なりしをもって爾来毎月この日をもって会日と定むる事とせり。当時その研究の方法は前回〔会?〕において課題を出だし、次会において答案を持参し、各自交互に審査批評して研究をなしたるものなり。しかして目下幸に現存するものは袋井町高山藤七郎氏の手に在り。これについて見れば課題は•一、家内睦敷する事•二、分度を立つる事の二問題なり。明治8年3月11日に磐田郡三川村友永なる西尾君(今の友永報徳社長西尾寛君宅)邸の会合にして、当時の答案数葉は一括して保存せられたり。かくしてこの研究方法は1か年以上も継続せしが、明治8年には遠江国報徳社の設立を見るに至りたれば、研究会は変じて演説会となり、爾来は毎月浜松宿田村の玄忠寺において参会を開き、ひろく会衆を集めて公開講演となれり。しかして当時にありて演説会なるものは誠に地方稀有なりしかば、この指導機関によりて地方開発上裨益する事はまた多大なりしなり。また当時の会衆者は何れも熱心なる社員にして、ことに国内唯一の指導機関なれば、実に十数里の遠きより、未明に起きて家を出て夜に入りて帰路につき、寧ろ宿泊するを社員の恥辱として精勤せりと云う。しかして現今浜松第一館の会日11日なるは実にこの研究会の歴史を襲踏したるに因るものなりと云う。 以上のごとく翁の当初企画せし研究会は、更に進んで大規模なる講演参会となり、事業は予期以上に拡大されたり。然れども翁はなおこれをもって満足せず、報徳の盛大に赴くに従いてますます同志の研究を必要なりとし、明治15年〔1882〕11月よりは、再び研究会を見付町金剛寺に起こしたり。(1)開始当時は会員僅かに20名内外に過ぎざりしが、岡田淡山先生を会長に仰ぎ、翁はその補佐として毎月これを開会せり。しかしてその研究方法は前年の課題法を改め、当時僅かに出版されたる報徳書につき、あるいは淡山先生の富国論草案の講義を聞き、あるいは臨時問題を掲げて即座に討議し、もって研究の歩を進めたり。この会日は二宮大人の冥日20日に因みて会日と定め、前者の11日は講演会20日は研究会とし、浜松見付の二か所に並立して、共に社員の研究修養を図りしものなり。しかしてこの研究会の記録は、翁の自署にて「研究会雑誌」と題して保存せられたれば、今やこれを装綴して見付第二館に珍蔵せり。この記録によって見れば当時来会者の氏名は左のごとし。 岡田良一郎 伊藤七郎平 田中瀧次郎 八木 良平 斎藤 栄三 新村里三郎 小田 忠平 小田 吉蔵 佐藤 仲吉 神谷 六郎 柴田 喜平 鈴木藤三郎 野尻甚十郎 名倉太郎馬小野江善六 上村 彦八 平野 麟二この会合において常に翁の口より出ずる問題は、近来簇々ぞくぞく〔群がり連なるさま〕報徳社の設立を見るに至れるが、如何にして懈弛かいし〔心が緩み怠ける〕なく持続せしむるか。如何にして各社の結束を鞏固にせしむるかにてありき。以来しばしば会議を開き研究を重ね、数か村をもって一組合を組織し、組合に取締一名を置き、斯道の熱心家をもってこれに宛て、組合各社を統轄して連絡提携し荒怠相誡め、もって団結の結束を堅うせんとの決議を見るに至り、意見は本社に採用して組合制度を敷くに至る。現今本社に存する組合取締の制度はその淵源する所このごとくにして、取締制度を設くるに至るまでの間、翁の苦心の存したる実蹟を見るべきなり。この研究会も又明治16年11月をもって中絶したるが、その理由とする所は同17年には見付町に本社第二館の設立成り、以後は毎月20日をもって講演会を開会する事となりたるに因るものなり。然れども更に明治19年10月20日には研究会規則を更正して、復活を見るに至り、同年以後は翁自ら会長となり、昼間講演会との衝突を避けて夜間となし、二宮翁夜話等につき輪読研究したり。しかして当時研究会員はますます増加して左の数氏を算えたり。 伊藤七郎平 名倉太郎馬 平野 麟二 松島格太郎 神谷 六郎 袴田 春三 水野信之助柴田 喜平 前島 晴一 齋藤 栄三 小田 吉蔵 鈴木 杢平 伊藤甚三郎 太田庄次郎節見 喜重 中石 音吉 高山藤七郎 閧塚為一郎 鈴木徳次郎 鈴木市太郎 西尾政太郎鈴木竹次郎 大元元三郎 青木 喜六 森下広太郎 平岡源太郎 鈴木五郎太 安富理一郎永井五郎作 鈴木 藤一 秋野貞次郎 鈴木嘉代吉 鈴木 源七 柳瀬 喜一 村松元三郎内山 亀吉 同会は明治25年5月20日まで継続したるも、その以後記録の存せざる所を見ればこの時分より中絶したるもののごとし。(以上研究会議事録) これより以前、明治15年の頃に至りては社中の者ますます増加し、追日盛大に赴きたれば、社中は毎月行わるる浜松玄忠寺と掛川農学舎と両所の会合とをもって足れりとせず、同年末に至りては本社新築の議起こりて、位置は浜松見付の2か所と決し、それより寄附金の募集に着手し、同16年に起工、同17年春に至りて落成を告ぐるに至れり。この新築成ると共に見付町は本社第二館と命名し、翁は第二館の常詰として居住され、従来浜松玄忠寺において取扱われたる会計書類全部は第二館に移され、翁は会計と布教との両方面に亘りて励精せられたり。しかして今日見付町付近において許多の報徳社の設立を見るに至りしは、実に翁の熱心なる勧誘の致す所にして、翁は本館において事務を処理するの余暇、常に昼夜を分かたず講演指導のために各社を巡回せり。 明治8年遠江国報徳社草創時代は、事務も単純にして会計も従って簡単なりし故、毎年1回総勘定をなすのみにて事足れり。翁は会計主任にして他に幹事として小野江善六、中村五郎七、神谷喜源治氏等参与したり。しかして翁が当時精励家なりし一端を述ぶれば、翁は毎年3か月の年賀を済ますや、1月4日頃より浜松玄忠寺に出張するが例なり。毎朝未明に宿舎を出でて玄忠寺に出勤さるるも、帳簿の文字の見えざるためにロウソクを点じて事務を開始し、朝飯は間に合わざりしため宿舎より取り寄せて済まし、僅かに食事時間に少しばかりの休息をなすのみにて一心不乱に執務し、夜は10時に至りて宿舎に退くを例とす。かくして1月11日の初会日までにこれを社中に報告するものなるが、その1週間の内にも翁の活動家たる事は現われ、その精力の非凡なりし事は諸氏の敬服する所なりしと云う。(弁務神谷喜源治氏談)
2026.02.24
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)突然『柝』が鳴った その3「修行」 無始無終というのは、わしにとらわれていたのでは永久にわかりっこない。わしには生まれたという始めがあり、死という終わりがある。そのわしが死んでも、天地はいきいきと生きているだろう。山川草木、すべて自然のままに在るだろう。それが「仏心」なんだなあ。仏心とは、それらすべてのものを包んだもの、その中に我は生き、我は死ぬが、一体なるがゆえに生をも超え、死をも超えることができる。わしはその中に生きていたんではなくて、すべての中にわしがいたのだ。すべてのものがわしであり、そういうわしがすべてのものだった。 人間精神の本来の自由獲得とは、これだな。目の前のものごとにいっさいとらわれないで、ひろやかな仏心に生きるー人は本来、そうであったのだ。わしが最初の見性でその真実にめざめようとめざめまいと、本来そうなんだ。いわく言い難しだなあ。まったく祖師方の申されたとおりだったのだ。 わしはこうして初関を透った。だけど油断しちゃならない。そのままでは、うっかりすると死神になり野狐禅になる。なお年月をかけて坐り、公案を調べて修行して、境界をみがかねばならない。それで、だ。またわしにはいろんな問題があって、僧堂を出て思いっきり坐ってみたいという思いに駆り立ててられて、ちょうど師匠の真浄老師が亡くなられたこともあったけど、25歳のとき、飛騨の山奥へ入ることにした。親友と二人で。曹洞宗の人だった。 乗鞍岳だ。ひどいところだ。朝日村の青谷というところから三里半もはなれている山奥に植林の下刈りのためにこしらえた粗末な小屋があった。雷が、下で鳴るんだ。そういうところで4月から8月まで110日間、わしたちは励まし合って坐った。 食べ物もひどかったなあ。ヒエと米を半分ずつ混ぜたお粥なんだ。友達と2人で小さな鍋を持って行って、小型の湯飲み1杯ずつ2杯を炊くと、お椀で2杯半ずつぐらいのお粥になる。それを午前と午後の2回、9時半と3時半頃に食べて、また坐るんだ。 副食物は山菜だなあ。蕗、わらび・・・・おかしいんだ。あんな山奥にわさびがあったなあ。、ま、いちばん食えたのはわらびだった。春から夏まで、ずっとある。そういうものを食べていたから、山を下りたときは、すっかりアバラ骨が出ちゃってる。完全な栄養失調だ。元来、虚弱体質だったわしには、よく耐えられたものだと思う。あるいは衰弱死するかもしれない。けれども、わしは平気だった。 それはそうだろう。「死んでも死なぬ」という、わしの公案にひとまず答えを出しているんだもの。正式に雲水に出してもらえる20歳まで命がもつかどうかと思っていたわしが、まだ5年も生きて、しかも、仏心と一体にある自分が、なお修行できるんだもの。これに過ぎたる幸せはないわなあ。
2026.02.24
永平初祖学道用心集 6-24道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その24「或は教家の久習(くじゅう)、或は世典の旧才(くさい)、皆禅門を訪(と)わる、其の例是れ多し」世典の旧才といえば、司馬温公とか、蘇東坡とか、白楽天とか、みなこれ禅宗の坊さんに参禅しておる。それから教家の久習というのは、南嶽の慧思禅師、これは天台の智者大師の師匠である。「南嶽の慧思は多才の人なり、尚達磨に参ず、永嘉(ようか)の玄覚は秀逸の士なり、已に大鑑に参ず」永嘉の玄覚、これは『証道歌』の著者で、やはり天台の大学者であった。大鑑は六祖慧能さんのこと。これは六祖大師に参禅しておる。「法を明め道を得るは、参師の力たるべし」これは、加被力のある人から受けた力と、本を読んだだけの力とは別である。だから参師の力たるべしと。「但宗師に参問するの時、師説を聞いて己見に同ずること勿れ」このごろの人は非常にマルキシズムの影響を受け、時代の影響を受けておるために、参禅会のあとで、仏法のことはちっとも問わぬ、暮し向きのことばかり聞うておる。今のような世の中で、もう少し楽に暮らせるような仏さまの教えはないでしょうかとくる。月給さえふやせばそれでよいようなものじゃ。これは政治の問題になるじゃろうとわたしは思うが、それをわしらにまでたずねる人がある。 この間も良寛さまの話をしたら、「良寛さまの話を聞いただけではどうもわれわれにはぴんときませぬ、もっと月給がふえるとか、そういう話が聞きたい」高等学校や専門学校の先生がそういうことをいう。わたしらから言わせれば、食わんと死んでいいよ、簡単にいえば、坊主をしておるということはなかなかたいへんなことじゃ。わたしは最初から寺を持たぬ。物をくれとはわたしはいったことはないぞ。くれといわんで生きておろうというのじゃから・・・。くれやがるならそれはしかたがないけれどもー。それにはどうしても、最初から食わんと死ぬという覚悟をしておらんならん。坊主として安閑と生きておるというのは間違うておる。そうすると未だに生きておるのはこれは奇蹟じゃな。「但宗師に参問するの時、師説を聞いて己見に同ずること勿れ」。これは前にあった正師についたときの話である。道元禅師は犬の糞が仏だといわれても疑うなといわれた。だから「若し己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄(きよ)うし、眼耳を静かにして、唯、師法を聴受して更に余念を交えざれ。身心一如にして水を器に瀉(うつ)すが如くせよ、若し能く是(かく)の如くならば方(まさ)に師法を得ん。今愚魯の輩(やから)、或は文籍(もんじゃく)を記し、或は先聞を蘊(つつ)み、以て師説に同ず、此の時、唯、己見古語のみ有って、師の言未だ契(かな)わず」共産主義の人で、仏教も平等じゃないですか、こういうてきた人があるが、共産主義の平等と仏教でいう平等とは一緒でない。だから、「或は一類あり、己見を先として経巻を披(ひら)き、一両語を記持して以て仏法と為す」むかし、仏教の悪口をいおうと思って、仏という字を人に非ずと読んだ人がある。これは、みな自分の勝手なように読んだので、仏法を読んだのじゃない。だから「一両語を記持して以て仏法と為す」と。「後に明師宗匠に参じて法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合わざれば非と為す、邪を捨つるの方(みち)を知らず」これなら少しも進歩も変化もない。「豈正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫(じんじゃごう)なるも尚迷者たらん」塵沙劫というのは無数無限の時間ということである。「尤も哀むべし、之を悲しまざらんや。参学識るべし、仏道は思量、分別、ト度、観想、知覚、慧解の外に在ることを」これらは、めんどうくさくいうておるけれども、知覚がどうの、卜度がどうの、慧解がどうのというが、これはみな意識妄想を費やして多言他慮することをいう。「若し此等の際に在らば、生来常に此等の中に在って常に此等を翫(もてあそ)ぶ。何が故ぞ今に仏道を覚(さと)らざる」そうすれば、「学道は思量分別等の事を用うべからず」そんなものは要らぬよと。「常に思量等を帯びて吾身を以て検点せば、是に於て明鑑なる者なり」この文章はちょっと読みにくいが、思量等をもって仏道とするようなことをもってしては、何にもならぬのだ。「吾身を以て検点せば」これは坐禅儀でいえば回光返照すれば、わたしの言葉でいえばレントゲンにかけて、ぶるぶるっと心で思っておることを撮ってみることである。かくのごとく自己をもって検点せば明鑑なる者なり。これが悟りか、これが悟りでないかということは、あわてておるからわからぬので、よく静まれば「明鑑なる者なり」で、鏡にかけたようにはっきりしておる。(「沢木興道全集」第2巻p.159-161)
2026.02.24
191二宮翁夜話巻の5【34】ある人が言った。親鸞上人はは末世の比丘(びく)が戒行を持ち難いことを洞察して肉食妻帯を許した、これは卓見というべきではありませんか。尊徳先生はおっしゃった。恐らくはそうではあるまし。私は仏道は知らないが、これを譬えるならば、田んばの用水堰のような物であろう。用水堰は、米を作るべき地をつぶして水路としたものだ。そのように人が欲するところをつぶして法の水路となして、衆生を済度しようとする教えである事は明かである。人は男女が有って相続するものであるから男女の道は天理自然であるけれども、法の水を流すために、男女の欲をつぶして堰路となしたのだ。肉身であるから肉食をするのも、天理であるけれども、この欲をもつぶして法水の堰路としたのだ。男女の欲を捨てれば、惜しい欲しいの欲念も、憎い可愛いの妄念も、皆これにしたがって消滅するであろう。これは人情として捨て難い物を捨てて、堰代となすからこそ、法の水は流れるのである。そうであれば肉食妻帯しないところを流伝して、仏法は万世に伝わる物となったのである。仏法の流伝するところは、肉食妻帯しないところにあるというべきだ。それを肉食妻帯を許して法を伝えようとするは、水路をつぶして、稲を植えようとするゆおなものだと、私はひそかに恐れているのだ。【34】或曰く、親鸞は末世(まつせ)の比丘(びく)戒行の持(たも)ち難きを洞察して肉食妻帯を免(ゆる)せり、卓見と云ふべしと。翁曰く、恐らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬へば、田地(でんぢ)の用水堰の如き物なるべし、夫れ用水堰は、米を作るべき地を潰(つぶ)して水路とせしなり。其の如く人の欲する処を潰して法水路(ほふすいろ)となし、衆生を済度(さいど)せんとする教えなる事明かなり。夫れ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれども、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしゝなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此の欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨つれば、惜(を)しひ欲しいの欲念も、悪(にく)いかはゆいの妄念も、皆随つて消滅すべし、此の人情捨て難き物を捨て、堰代と為せばこそ、法水は流るゝなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝(るでん)して、仏法は万世に伝る物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし。然るを肉食妻帯を免(ゆる)して法を伝(つた)へんとするは、水路を潰して、稲を植ゑんとするが如しと、予は竊(ひそか)に恐るゝなり。
2026.02.24

『#ばけばけ』は熊本編ドラマの舞台となっている第五高等学校(熊本大学の前身)には、東京理科大学の創設者のひとり・櫻井房記も同時期に赴任していた。教授として教鞭をとるかたわら、孤独を感じがちだったハーンの良き理解者として、彼を支えた存在です。数学や物理学の専門家でありながら、異国の友と心を通わせた教育者でした。のちに同校(第五高等学校)の校長も務めました。◎「ここは面白味のない土地のようです。そして、きょうは、まるで地獄のように寒いのです」熊本に到着してすぐにハーンは、東京帝国大学の教師だったバジル・ホール・チェンバレンに、手紙でそんな胸中を吐露している。「何もかもが、非道なほどに高価で、あの出雲の人々の心を魅する純朴さは、ここにはありません。わたくしの家族の者たちは──わたくしと一緒に四人来ているのですが──陸に上がった魚みたいな気分です」セツ 「熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩ヘルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です」 そう誘われて月のない晩に寂しい道を歩きながら、山の麓までいき、さらにその上にある、というので、2人で小道を上っていくと……そこは墓地だったという。ちょっとしたホラーだが、ハーンは「あなた、あの蛙の声聞いて下さい」「夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では二人で大概の浦々を廻りました。西郷、別府、浦の郷、菱浦、みな参りました。菱浦だけにも一週間以上いました」熊本時代のハーンは、仕事上でも手ごたえを感じられずにいた。 生徒は松江の頃よりも年上の16歳から23歳で、頭の中は大学受験のことばかり。都会の大学を目指す学生たちに、ハーンがいくら熱心に日本文化の魅力を語ったところで、心に響くはずもなかった。 教室外では、教師の同僚と対立してしまったり、出版社とはトラブルが生じたりと、踏んだり蹴ったりだったハーン。そんなときだから、執筆ははかどったらしい。この頃に、来日第一作となる出世作『知られぬ日本の面影』を仕上げている。 ハーンは赴任して3年で熊本を去ることを決意。次は神戸へと移っていくのだった。
2026.02.23
「豊臣兄弟!」高橋努、蜂須賀正勝と竹中半兵衛の関係に言及「対になっている感覚」高橋演じる蜂須賀正勝は、木曽川での運送に携わる土豪。信長(小栗旬)から美濃の要地・墨俣に砦の築城を命じられた豊臣兄弟に、協力を求められる。今後の見どころについて「ワクワクしながら脚本を読み進めていたのですが、そのワクワクをさらに超えてくる展開で、すごく刺激的です。これまで出演した時代劇とは、まったく違う脚本でもあります」と語り、「脚本家の八津(弘幸)さんのセンスで、少し砕けたセリフが随所に散りばめられていて、それがとても言いやすく、演じやすいんですよね。“時代劇あるある”なのですが、言葉づかいや所作を大切にしている分、アドリブを入れるのがなかなか難しいことがあります。でも今作はアドリブが自然と出てくるシーンも多いですね。特に豊臣兄弟や竹中半兵衛との場面では、カットがかかるまでずっとしゃべっていられるほどです(笑)」仲野&池松演じる豊臣兄弟の魅力の一つが「笑顔」だといい、第7回の収録をこう振り返る。 「僕は「人との出会いも才能のひとつ」だと思っているので、小一郎(仲野太賀)、藤吉郎(池松壮亮)に誘われたのも、蜂須賀の才能だと思います。演じる太賀さんと池松さんは、おふたりとも本当に笑顔がすてきなのですが、第7回(2月22日放送)で、蜂須賀が豊臣兄弟に力を貸す決断をしたとき、あのにこやかな笑顔に、いつのまにか口説かれていた感覚がありました。彼らの人の良さや周囲を引き込む力が丁寧に描かれた回だったと思います。太賀さんと池松さんは優しくて、仕事熱心で、努力家でもあって。すべてを兼ね備えた、とてもすばらしい俳優です」 また、「視聴者の皆さんには、蜂須賀については「野蛮な人がいるな」くらいの印象でもいいので、まずは覚えていただけたら光栄です。僕は、豊臣兄弟の2人を全面的に信頼しているので、彼らをしっかり支えつつ、ときにはスパイス的な役割も果たせたらうれしいなと。そして今後、蜂須賀も立場が上がっていくので、衣装の変化などもぜひ楽しんでいただけたらと思います」と呼び掛けている。◎蜂須賀正勝は通称を小六、彦右衛門といい、海東郡蜂須賀村(愛知県あま市蜂須賀)の土豪で、はじめ犬山城主・織田信清(のぶきよ)、次いで岩倉城主・織田信賢、斎藤道三に仕え、永禄3(1560)年に信長に転じて桶狭間の合戦で軍功を挙げ、永禄13年(1570)の金ケ崎の退き口で秀吉とともに活躍し、それを機に秀吉の与力になったという(『寛政重修諸家譜』)天正元(1573)年に信長が北近江の浅井長政(中島歩)を滅ぼし、秀吉が近江長浜城主となると、正勝は秀吉から長浜に領地をあてがわれる。ここで秀吉と正勝の間に主従関係が成立するのである。「豊臣兄弟!」では、秀吉が墨俣城を築くため、正勝に協力してくれたら後に城を授けると口説くが、それはこの展開の伏線であろう。天正7(1579)年の三木城攻めでは武功をあげた際には、信長から尾張海東郡のうちで加増されており、両属みたいな感じになっている。まぁ、当時は主従関係が江戸時代ほど厳格じゃなかったのだろう。谷口克広氏が蜂須賀正勝について興味深い指摘をしている。すなわち、「三木攻略後は長秀(秀長)に従って山陰で働くことが多いが、戦闘に関しては子家政に任せがちになる。それよりも同九年頃、山陰での戦いについていちいち信長に注進して、信長の指示を受けており、秀吉に密着した立場にありながらも、目付役を務めていたのではないかとも思われる」(『織田信長家臣人名辞典』)。秀吉は山陽方面に軍を進め、山陰方面を秀長分隊に任せた。秀長がいくら優秀であっても、戦の駆け引きには経験豊富な人材が必要なので、50代になった正勝が参謀役として秀長に附けられたのだろう。その一方、正勝の子・蜂須賀家政が20代になったことから、蜂須賀家の軍事指揮を委ね、世代交代を図ったものと思われる。天正11(1584)年の賤ヶ岳の合戦後の領地配分で、蜂須賀正勝は播磨竜野城主となった(一説に天正9年)。天正13(1585)年に子・家政とともに四国征伐の主力を成し、合戦後には家政が阿波徳島を賜った。翌天正14年に死去した。正勝の嫡男・蜂須賀家政は、天正3(1575)年から秀吉に仕え、長篠の合戦、伯耆攻略、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦などで武功をあげた。天正13年に父・正勝とともに四国征伐の主力を成し、合戦後に阿波徳島17万3000石を賜った。秀吉は正勝に阿波を与えようとしたが、自身は側近く仕えることを望み、家政に譲ったともいう。家政の嫡男・蜂須賀至鎮は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、若干15歳にして細川忠興・加藤清正らと結び、徳川方についた。五奉行の増田長盛(ましたながもり)から「蜂須賀家は秀吉恩顧の大名なのに、なぜ家康につくのか」と書状で叱責されると、「豊臣家に叛(そむ)くわけではない。汝(なんじ)らと組むのが嫌なだけだ」と返答したという。父・家政は大坂城にとどまり、行きがかり上、毛利・石田方につく形になってしまったが、至鎮が家康方についたため、致仕するのみで赦された。至鎮は大坂夏の陣でも武功を上げ、元和元(1615)年に淡路を加えられ、25万7000石に加増された。
2026.02.23
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その4 三 翁の報徳社入門と仕法 翁が報徳の入門は時代詳らかならず。嘉永6年には実兄新村九郎右衛門氏の日光行きありたれば、その年代以前において翁が報徳を耳にしたる事は想像に難からず。また安居院先生との会見も考証を欠く所なるが、恐らくは嘉永年間の出来事なるべく推測せられたり。その初め会見において安居院氏は翁に「無」の一字をもって教訓を与えらる。その歌に(報徳学研究会雑誌並びに高山藤七郎氏談) 無となりてここを先途と勤むれば 月日のたつも知らぬなりけり 無となりて有にうつりけん孑孑ぼうふらの 蚊と変化する次第色身こは報徳の道に志すもの、まず自己を無にせよとの意ならんか。しかして安居院氏の道歌になお 無となれば徳の多きを知らずして 損の有に入る世の習いとはの一首あり。無の意義に至りては安居院氏深く徹底する所あるが如し。かくして翁はひとたび安居院氏と会見して、恰あたかも積年憧憬しつつありし一大光明に接したるごとく、実に手の舞い足の踏む所を知らずとまで、深く感奮し、その感化は安政年間開拓の事業を現出するに至る。これらを回想すれば翁が燃ゆるがごとき忠勤の精神は、安居院氏の報徳教訓によりて、恰あたかも可燃質の上に一点火を与えたるに外ならざりしなり。爾来安居院氏はしばしば一言村の居宅に招ぜられて、滞留数日報徳の教義を注入されしが、なかんずく先入の「無」の一字に至りては翁また深く体得する所ありしと覚しく、家を軽んじ身を忘れて公共の事に尽瘁せられたり。しかして安居院氏はその結果より余りに投薬の効顕著なるに杞憂する所ありてか、更に別方面の教訓を与えたり。曰く、「自己のためを考えよ。これすなわち人のためをよくするなり」と。コハ淡山先生の物語られし所にして、一見前者と正反対にして利己主義の主張のごとく見ゆるも、いわゆる人を見て法を説くの類にして、特に伊藤翁の行動に徴して教戒したるものと見るべきなり。 当時、岡田無息軒(佐平治)先生と翁とは道友の関係なりしが、翁が年少なるに拘わらず報徳の信念厚く、励精の人物たるに感じ、資産において軒輊けんち〔差があること〕ありしも「見所あり」とて長女そう子を伊藤家に嫁せしめたり。そう子はすなわち淡山先生の姉君にて、爰に岡田家と伊藤家とは報徳同志の関係に止まらずして姻戚関係を生ずるに至れり。しかしてそう子は伉儷こうれい〔夫婦〕全からず、明治9年41歳にて一女せつ子を残して没せられたり。 翁が報徳の教義に浴して、一家の分度を樹立し、その度外資金をもって君家の采地を興復せんとせられし事は前述のごとくにして、事は維新の政変に会して中止の止むなきに至り、爾来翁は殖産勧業の方面に意を注ぎたりしが、その後に至り事業として見るべき首しゅなるは左の難村興復の仕法なりとす。難村興復の御仕法事業に関与せしは、山名郡中野村、同蛭池村、豊田郡虫生むしふ村の仕法是れなり。中野村の仕法は岡田無息軒先生の主管する所にして、翁はその補助なりしが、先生は老体の事ゆえ、その指揮を受けて、内外の経営、実に翁の力に待つ事多かりしと聞けり。更に伊藤翁に依頼せしものなり。しかして以上事業の大要を摘録すれば•一、山名郡中野村、(現今磐田郡豊浜村ノ内)〔現磐田市福田町〕文久年度より掛川領中の難村なり。領主より岡田佐平治氏に仕法立入の申付ありその際老体に付き翁は賛助協力したるものなり。着手 明治3年某月村高593石余、戸数105戸、内潰家17戸現在88戸借財 5,735両2分3朱永48文5分2厘右仕法年限10か年、明治13年12月満尾•二、山名郡蛭池村、(現今磐田郡南厨村ノ内)〔現磐田市福田町〕着手、明治7戊年4月村高34町9畝22歩、戸数27戸借財3、071円39銭7厘右仕法年限10か年、明治17年12月満尾、•三、豊田郡虫生むしふ村、(現今磐田郡敷地村ノ内)〔現豊岡町〕着手、明治13年某月、伊藤七郎平、新村理助、秋野貞次郎立入、田畑山林87町7畝29歩、戸数26戸、人口100人、借財2、733円47銭右仕法年限10か年、明治22年12月満尾、仕法地には必ず左の帳簿を備う。•一、借金取調帳、•二、借金仕法帳、•三、諸借金軒別仕法帳、•四、旧復仕法中議定帳、•五、相続仕法帳、•六、本業出精人入札帳、•七、本業出精人譲田請書、•八、貧窮人譲金請書、•九、縄索なわない出精人譲鎌ゆずりがま請書右の内、蛭池村における仕法は、本社弁務八木良平氏によって事業の状況、翁の活動ぶり一班を聞く事を得たるにより、以下記述すべし。 蛭池村は数年前より水害旱魃の被害を蒙りて負債累積し、一村衰弊の極、今や座ながら滅亡を待つの悲境に沈淪したれば、これを浜松県庁に出願し、遂に翁を煩わすに至るものなり。翁は請こいに応じて、明治7年3月1日をもって同村に出張し、八木氏の邸宅に逗留する事40日間、一村現在の状況を調査して、然る後に10か年間に興復の仕法を授けたり。その間翁は毎朝未明に起きて村社に参拝し、毎戸を一巡す。帰れば直に机に向かいて調査を開始す。家人起き出づれば、翁は既に一巡し終わりて机にあり。食事終れば助手なる八木良平、八木伊平二氏に取調帳等を筆写せしむ。その第一着手は、借財金額の調査にして、一村の債務は申すに及ばず、全村毎戸軒別に精査したる上にて、借金取調帳を作製す。この借財の種類、金額に按じて返済の法を立つ。ある者には歎願用捨を乞い、あるは年賦払い一時返金とし、爰に債主との協定成立すれば、返済法を仕組み、これを各戸の借金帳に記載す。借金仕法帳には各戸の借金高と償還法を記載し、各自の所有地、面積、家族の人数並びに年齢を付して参考とす。仕法中は村民一層の発奮努力を要すべき時なるをもって勤倹を厳守せしむるために議定書を作りて署名捺印せしむ。また毎戸には縄索なわないを奨励してこれを蓄積せしめ、村方借財は報徳金を借用して来たりて即時返金の分を完済し、個人相対の賃借は仕法中据え置きを約し、更に篤志家(岡田佐平治、伊藤七郎平)の加入金を得て6反歩の田地を買い求め、毎年入札法により、五等に分かちて、出精人に作り取りをなさしむる奨励法を設け、なおまた極難貧者ごくなんひんじゃには恤窮法じゅつきゅうほうを設けて生計を立てしむ。以上の方法を設くるに至るまでを仕法準備の事務とし、毎朝未明に始まりて夜は10時をもって限りとす。その間昼時に至れば、その座にある村人に対して教訓を与う。しかして仕法は一の徳化政治なれば、法律命令によりて強行し得るものにあらず。村民一同衷心よりして信頼するにあらずんば、到底行なわるべきにあらず。故にその準備時代においても単に仕法の立案のみに止まらず、行なわしめんがためにまず教ゆるものなり。故に人格崇高にして精励恪勤、翁のごとき者にあらずんば、何人もよくする所にあらざるなり。翁の励精なる40日間少時の倦怠けんたいもなく、毎日同じ日課を繰り返さるるには、村民一同の敬服する所たりしなり。八木氏は翁の逗留中一回たりとも翁に先んじて寝を出てんと勤められしも、氏の起き出つる頃は、翁は既に机に向かえり。しかして翁の机に向かえる時は既に村内一巡の一課を終わりし後なり。かくして八木氏は40日間試みて、一回も翁に先んずる事を得ず。その精力の絶倫なるに驚嘆せりと。蛭池村は、翁の指導により、村民よくその趣旨を遵奉したれば、その後に至りて仕法満尾まんび〔完結成功〕して、回復の効を奏したり。それより蛭池報徳社も組織したるが、翁は一村の恩人なりとして崇敬措かず、明治45年には結社30年の紀念を挙行して翁のために盛大なる法要を営み報恩の道を講ぜり。(蛭池村仕法書並びに八木良平談) 虫生村の仕法もまた蛭池村におけると同様なれども、同村には蛭池村における八木氏のごとき主脳人物なかりしため、翁の苦心する所もまた一層深かりし由、翁見付村第二館常住の後も、同村の世話係等しばしば来訪して翁の指導と教戒とを受けたるが、その言辞剴切がいせつ(最も適切なこと)にして誠心を籠めたるものなりしと云う。(水野信之助君談)(※)※「報徳に生きた人びとー報徳家略伝抜書帳」八木繁樹著p85-95に現代語訳がある。
2026.02.23
永平初祖学道用心集 6-23道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その23「仏法の威は加と不加とに見(あらわ)れ、参と不参とに分る」威というのは、威徳ともいうし、威光ともいうし、威力ともいう。仏法の威徳、威光、威力はどこにあるか。仏教の学問を仰山知っておっても、いっこう威徳もなければ、威光もなければ、また威力もない。それは字引代用じゃから、本として知っておるだけじゃ。あそこの本にこんなことが書いてある。ここの本にこんなことが書いてあるというように、質屋の番頭みたいにきちんと整理して、頭の中にたたみ込んであるわけだから、それは威光も威徳もないぞよと。加と不加と、参と不参とに分ると。 信州に妙な山子坊主がおって、何やらご祈祷したり何かする。それが「沢木さんは学者だけれども、わたしほど法力がない」というたげな。法力ということは、病気を治したりおまじないすることと思っている。「沢木さんは学者だけれども、わたしほど法力がない。法力はわしの方が上じゃ」笑わせやがる、あんなのが法力じゃない。いまいう加と不加、すなわち威徳、威力、法力、これは何かというと、仏祖の加被力のあるとないと、ということである。仏法の威光は仏道修行が加被しているか、いないかということじゃ。加被とか加持とかいうが、われわれの身心を調えて以て仏道に入る、よく仏道と自分との調和がとれる。これがすなわち加被、加持である。だから、そこで始めて威光威徳がある。「参と不参とに分る」参は実参、実究である。つまり参禅である。参禅は坐禅なり、坐禅が身につくとつかぬとでは、それだけの違いである。『正法眼蔵随聞記』を読んでみると、公案で悟るのじゃない、悟るのはみな坐禅の力じゃ、かえって公案は坐禅の邪魔になるとはっきりいうてある。(「沢木興道全集」第2巻p.158-159)
2026.02.23
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)突然『柝』が鳴った その2「修行」 そのうちに年が改まり、1月の下旬だった。いつものように夜おそくまで坐っていて、線香8本で立とうとしたならば、立てないのだ。左の手と足が氷のようになってしまった。右は普通、左半身だけ変になっている。寒い中で坐ったからだろう。這うようにして自室に帰ったが、翌る朝なおひどくなっている。仕方なしに師匠に申し上げたら、医者へ行けという。そこで得た診断の結果は、脳神経衰弱というんだ。つまり神経系の病なんだな。神経がやられちゃったんだよ。うまくしたものだ。長い禅の歴史と経験から、20歳にならなきゃ雲水に出さないというのは、そういう教訓を踏まえていたんだなあ。 しかし、わしは降参しなかった。そんなことで志を曲げたんじゃ、なんのために先輩をおしのけてまで、特に坐らせてもらっているかわからない。わしとしては20歳まで待てないのだ。・・・・・師匠は、禅を休めとはいわない、そのかわり、休まざるを得ないようにしてくだすった。しばらく旅行の供をせよという。京都へ行ったり、春先、東京へついて行ったり、熱海にも行ったなあ。そのうちに、やっぱり若い体だな、じきにもとのように回復していった。再び坐れるという自信がつき、それからまたお寺の仕事が終わってから線香8本の日常だ。 そうこうしておるところに兄弟子の伊藤宗真先輩が帰ってきた。―話をむしかえすようだが、わしが清見寺へ入った翌年の春、12歳、凄い兄弟子に会った。鎌倉から来た堂々たる雲水だった。たまたま、向かい合って坐っていた。わしは小僧だからちょこんとしていた。すると相手は。「私は伊藤宗真であります」 といって、きちんと正坐し、両手をついてきわめて丁寧に12のわしにお辞儀をした。わしは魂消たぜ、ほんとに。初めて人間に拝まれたような気がして、わしは驚いた。驚くとともに、こんな堂々たる雲水から対等に扱われるのは、ともに仏弟子という暗黙の了解にほかならない。この暗黙に通じ合う世界を裏切ってはいけない。拝まれた自分を汚してはならない。それにはせめて嘘をつかないことだ。 しかし、短命だったなあ。この人、清見寺の住職してて3年目に39歳で早世した。― 伊藤宗真先輩は、わしが特に許されて、暇さえあれば坐禅しているのを見て驚いたらしい。驚いて、なんとかしてやりたいと思ったのだろう。ある日、こっそりわしにいう。「おまえがそれほど坐禅がしたいならば、どこへでも修行に行くがいい。こころざすところへやってやろう」と、こうだ。「おまえのような石地蔵みたいに時間さえありゃ坐っとる奴は、うちにいても使いにくいから、ひとおもいに僧堂へ行っちまえ」・・・・ 師匠も意外にあっさり、許された。 明治42年の3月だった。わしは18歳。師匠は、どこへ行きたいか、と問う。わしは即座に「妙心僧堂」と答えた。京都の妙心寺だ。師匠が修行を終えられた僧堂だ。妙心寺僧堂が、単に禅風が厳しいというだけでなく、その年、妙心開山の550年遠忌があり、大勢の雲水や有名な老師がたが集まられることを知っていた。こういう機会はめったいない。師匠も快諾してくだすった。 わしは、天下晴れて雲水になった。庭詰めも旦過詰(たんがづめ)も苦にならなかった。・・・・・ 遠忌は4月からだった。この大法会に、わしの師匠も円覚寺の釈宗演老師もおいでになった。雲水が500人も集まる法会だからな、全国の臨済宗の宗匠がたはほとんど来られた。宗演老師が特別講師として「わが宗の安心(あんじん)」という題で講演され、諸宗匠がたはそれぞれ独参を聞かれて、日夜、雲水を指導されていた。 このときの宗演老師の講演について、いつまでも心の底に残っている記憶がある。南禅管長の豊田毒湛老師の話だ。この人、本来ならばその法会の主役をつとめるべき立場にあったが、それを先輩に当る梅林寺の東海猷禅老師にゆずっておられた。それほどの人が、宗演老師の講演を聞いたあと、「これこそ、何百遍も生まれかわり、死にかわって、ご修行をなすったかたであろう」といわれたというのだ。・・・ 法会が終わった。いよいよ僧堂の本格的な修行期間の雨安居(うあんご)が来た。僧堂の師家は池上湘山老師で、行持綿密なかただった。・・・・・わしの修行がすすまない。僧堂にさえ入れば、と気負っていたようにはいかない。日夜、懊悩の連続だった。・・・ 白隠禅師の経験されたような痛快な心境の体験ができないのだ。それも要するに自分の坐禅修行の真剣さが足らないためと自らを責め、どんなに苦しんでも自分が満足するまで徹底してやるほかはない。禅堂での打座はいうまでもなく、時間外の深夜、堂外で坐る夜坐も怠らず、ただもうひたすら坐ったものだった。 剃髪や入浴、内外の清掃日である4,9日など僧堂のさわがしい日は、山内の懇意な寺の本堂の隅を借りて坐ったし、あるいは太秦の森へ行って独坐したり、わしはわしなりに夢中だった。それでもついに初関を通るまで、坐り始めた16歳から数えて足かけ5年もかかった。僧堂に入ってからも、臘八大接心という大変な難関が、毎年12月にある。7日間、不眠不臥で坐るんだが、それを2つまでできないまま経過したんだ。(略) 5月だったなあ わしはその頃、夕方の坐禅がもっとも純一になれることを経験上わかっていたから、その日もその時間に坐っていると、経行(けいひん)といって禅堂の中を行道する合図の「柝(たく)」が鳴ったのだ。突然、鳴ったのだな。突然というと、すでに無字三昧だったのだろうか。胸の中はからっぽだったのだ。もっとも充実したからっぽだったのだな。 仏心が、胸にひびいたのだ。柝の音がそれだった。自分がそこに坐っていようといまいと、柝は鳴ったであろうと。それがひびいたのだ。まさに仏心とは、それだ。(略) わしは、独参の喚鐘が鳴ると、ほとんど地に足がつかない有様で、湘山老師*のもとへ馳せつけた。「できました」 と言った。本当は、柝の音をたしかに聴きました、といったほうがいいだろう。それから老師との間でいくつかの見処と拶処のやりとりがあった。わしにとっては「死んでも死なぬ」ということなんだなあ。*〔1915年〕の十一月五日、ようやく彼(久松真一)は、植村宝林の紹介により、植木義雄に伴われて、妙心寺僧堂で池上湘山に初めて相見し、まず小手調べに『大応語録』提唱の聴講を許された。彼が湘山から受けた初印象は、一塊の鉛の如く座蒲に食い入る動かし難いどっしりとした落ち着きと、何ものにもかかわらぬ屈託なき洒脱さ、安らかさ、無心さ、人為的な学知や有為善のすり切れた素朴さと、犯し難い威厳の内から溢れ出る温かい親しさと、錆びた黄金のような艶消しの美しさといったような、いいつくし難い複雑な、極めて深い味のものであった。初対面の彼にかような印象を与えた湘山の本来の面目こそ、彼が心の裡に描いておった憧がれのイデアであったのである…
2026.02.23
191二宮翁夜話巻の5【33】尊徳先生がおっしゃった。おまえたちも勤め励みなさい。今日永代橋の橋の上から眺めていたら、肥取船に川の水を汲み入れて、肥しを増やしていた。人々がもっとも嫌う肥しを取るだけでなく、このような汚物でさえ、増やせば利益がある世の中である。なんと面白いものではないか。おおよそ万物は不浄に極まれば、必ず清浄に帰り、清浄が極まれば不浄に帰る、寒さや暑さ、昼や夜のめぐり転じて止まないのと同じで、これは天理である。物は皆そうである。そうであれば世の中に無用の物というものはない。農業は不浄をもって、清浄に替える妙術ではないか。人は馴れて何とも思わないだけだ。よく考えればまことに妙術といえるであろう。尊ぶべきことだ。私の方法もまた同じである。荒地を熟田に帰し、借財を無借とさせ、貧を富になし、苦を楽になす方法であるからである。【33】翁曰く、汝等(なんぢら)勉強せよ、今日(こんにち)永代橋の橋上(けうじやう)より詠(なが)むれば、肥取船(こえとりぶね)に川水を汲み入れて、肥(こや)しを殖(ふや)し居るなり、人々の尤も嫌ふ処の肥しを取るのみならず、かゝる汚物すら、殖(ふや)せば利益ある世の中なり、豈(あに)妙ならずや、凡そ万物不浄に極まれば、必ず清浄に帰り、清浄極まれば不浄に帰る、寒暑昼夜の旋転(せんてん)して止まざるに同じ、則ち天理なり、物皆然り、されば世の中に無用の物と云ふはあらざるなり、夫れ農業は不浄を以て、清浄に替(かふ)るの妙術なり、人馴(な)れて何とも思はざるのみ、能く考へば真(しん)に妙術と云ふべし、尊ぶべし、我が方法又然り、荒地を熟田に帰し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を楽になすの法なればなり。
2026.02.23
永平初祖学道用心集 6-22道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その22「又年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」年寄りが偉いようにもいうけれども「おれものう、七十越したでのう」という老僧がある。七十越して何がよいか、爺になったら、ちとぼけておるわい。沢木さんも若いときにはちゃんとした和尚だったけれども、七十になったらぼけたな、というだろう。悪くなるのはあたりまえだ。沢木さんがいままでも飯食わせてもらえるのは、頑張った前の暖簾やな、老舗や、雪隠の電気のようにぼうっとなったら、聞くのもつらいでのう。むかしわたしが熊本におったときに、若い時には非常な雄弁家だった老僧がいた。八十五、六の時分には信者が「むかしからの義理で聞くけれども、もうああぼうっとなると聞くのがつらいなあ、昔は居眠りの出るような話はしなかったけれども」といって気の毒がりよる。和尚の方でもこのごろは起きておるのがつらいといったことがある。「又年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」年老というのは七十、耄及というのは八十、九十だ。九十にもなったらちょっとぼけて、雪隠の電気みたいになるかもしれん。わたしは昨日、尾張で始めてのところで講演した。それでもどうやら昨日はまだ間に合ったらしかった。始めての信者が仰山できて「わたしは一所懸命たくさんの本を読んでおるが、なかなか偉いことをいう」と妙なことを言って褒めてくれよった。まだあそこでは間に合うと見える。しかし年をとって偉くなるということはよういわんが、「年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」と。「又幼稚壮齢を嫌わず」よく「貴様幾つじゃ」「まだ二十」「何じゃ青二才め」などというが、わたしは十七、八から後は偉くなっておらぬことがよくわかる。偉くなったのは人間界の屑ばかり。紙数まくったり、娑婆のことばかりよく知って、人間なめることばかりうまくなった。決して偉くなったのじゃない。幼は十歳以下じゃげな。稚は十何歳、壮は三十、齢は六十とかいうが、とにかくそういうことは問題じゃない。幼稚壮齢を嫌わず。「趙州(じょうしゅう)は六旬余にして始めて参ず」これは六十幾つで始めて坊さんになったのじゃない。六十幾つからまた修行に出たということである。「たとい三歳の童子たりと雖も、われより優れたらんにはわれ道を聞かん、たとえ八十の老翁たりと雖も、われより劣りたらんにはわれこれを教えん」そういう態度で百三十まで生きた、えらい図太い爺じゃ。「然りと雖も祖席の英雄たり」六十幾つで発心したが英雄といわれている。英雄ということは、千人、万人に優れとおるということである。「鄭娘(ていじょう)は十三歳にして久学す」中国という国は妙な国じゃ、名前はない。鄭氏ならその子供には第一、第二、第三と番号がつけてある。鄭氏の第十三娘、それでよいことじゃ。日本のように名前つけるのに骨折って、何という名前つけようか、とうとうめんどうなことになってオサムという名前やら、申吉という名前やらつける。申年やで申にしておけというわけじゃ。子供が一生嫌う、おれを申にしてしまいやがったと思う。虎年に生まれたら虎吉・・・。それよりは第一、第二、第三の方がよい。これは鄭氏の第十三番目の娘ということ。それが十三歳にして久学すと。ここは文字の間違いで、十三番目の娘が十三歳にして久学すである。娘は司馬温公だったかと問答しておる。そのほか禅の歴史を見るとこの鄭氏は非常にいろいろなところで大活躍をしておる。すでに鄭氏の十三娘は十三歳にして久学すと。「能く又叢林の抜萃なり」抜萃はよりぬき、非常にど偉い人だった。(「沢木興道全集」第2巻p.156-158)
2026.02.22
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)突然『柝』が鳴った その1「修行」p.57-72 突然『柝』が鳴った 修行(抜粋) わしは、若い頃から体が弱かった。お寺へ入ってから時折り寝小便をしたのもそのせいだな。始終腹がくだるし、頭は痛むし、微熱でもあったんだろうな。・・・ 若死にするかも知れないという怖れは、誰よりもわし自身がいちばんよく知っていた。小僧の頃からだ。恐かった。その恐怖も漠然たる死への怖れではなく、いま死んじゃ駄目だという切迫感を伴ったものだった。わしはお寺に入ったおかげで「死んでも死なない」という幼年期からの課題に挑戦した。それは禅をすればわかる、という。禅さえすれば、だ。 なんとわしはいまその禅の殿堂にいる。ところが、その禅ができない。できない仕組みになっている。・・・小僧のわしたちは坐れない。そういうきまりなのだ。20歳になるまで雲水に出してくれないのだ。雲水にならなければ、本格的な修行はできない。それまでは予備教育だ。これはこれでいいことなんだ。予備教育をみっちりやっておくことは、必要なのだ。坊さんに必要な学科を習い、実際にお経をよんだり、儀式を学んだりすることは、たいせつなのだ。 だが、わしにとっては、20歳というのは気の遠くなるような時間に思えた。せっかく、禅をすれば死んでも死なないということがわかるというのに、20歳まで待て、ではたまらない。こちらの命が待てるかどうか。そのまえに死んだら、なんのために仏門に入ったのか、わからない。わしはくやしくて、涙が出た。 16歳の秋だった。わしはついに我慢ができなくなって、師匠に直訴した。師匠が一人でおいでのところへ行って、正直にいったんだ。私は短命かも知れない。それまでになんとか生死の問題を解決しておきたいが、まだあと4年ある。「その間に命終していまえば、せっかくの仏縁も無駄になってしまいます。このままでは、じっとしておれません。なんとか修行を許して下さい」と。 こんなことにも勇気が要ることだった。10人もいる先輩をおしのけて先に修行させてほしいと直訴するのは、本当いって、生意気な奴だと周囲から反発を食うに決まっている。だが、そんなことにかかわってはいられなかった。こっちは、切実な問題だからな。その切実さが通じたのだろう。 師匠は「おまえがその気なら許してやる」 わしはうれしかった。その代わり、そうなると生活が変わるのだ。・・・冬でも足袋を履かず、座布団も敷かぬように、師匠の前では万事そういう姿勢をとらにゃならん。 といっても正式に雲水になったわけではないから、小僧には変わりはない。小僧としてもつとめは一通りやらねばならない。坐るのは夜、お寺の仕事を終えてからなんだ。わしはそれまでに、高僧がたの伝記を読み、坐禅の心得もわかっていたから、夜になると、本堂の片隅へ行って坐る。ちょうど秋から冬にかけて、日ましに寒さが加わる頃だ。わしは、白隠禅師が若い頃、線香を立てて八本が絶えるまで坐禅したという話を伝記で読んでいたので、その故事にならって線香8本と決めた。一本が半時間とちょっとだから、かれこれ5時間近くになる。・・・禅の呼吸の仕方「直説坐法」(朝比奈宗源老師が坐相や呼吸の仕方についてお話されたものを筆録したもの)「ワシの経験ではこの丹田に力を入れると臍(ほぞ)の下二寸五分の所に力を入れねばいかんのが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。 そこで無字なら無字を拈提して坐る。息は吸うときに力をいれるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くときは鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。 つまり上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気となる。だから吐くときはムッーと下腹に力を入れる。そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。呼吸のことは心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。 この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」
2026.02.22
191二宮翁夜話巻の5【32】ある村の名主が横領をしたということで、村中が寄り集って、口が達者な者に依頼して、出訴しようと騒ぎ立てていた。尊徳先生は、その村の主だった者2,3人を呼んでおっしゃった。「横領はいかほどか。」村人は答えた。「米200俵余りです。」尊徳先生はおっしゃった。「200俵の米は少いとはいえないが、これを金に替える時は80円である。村民90余戸に割る時は1戸90銭に足らない。村高で割る時には1石に8銭である。さらに、名主や組頭などは持高が多い。ほかの10石以上の所有者は30戸であろう。その他は3石、5石で無高の者もあるであろう。この者にいたっては取る物もなく、たとえ有ったとしても、僅かな金である。しかるにこのように騒ぎ立てるのは大損ではないか。この件は確証があるといっても、地頭の用役に関係があると聞けば、容易には勝ち難い。たとえよく勝訴したとしても、入費は莫大となる。寄合いのため時間を潰し、かつ銘々がそれぞれの損までを計算するならば、大損は眼前である。なぜならば、まだ出訴しないのに数度の寄合い、下調べなどのため費やした金は少くない。かつ彼は昔からの名主である。これを辞めさせて、跡に名主にするべき人物は誰となるか。私が見渡すところ、これと指す者は見えない、よくよく考えなければいけないところだ。そうであれば今後横領のできないように厳しく方法を設け、全て通い帳で取り立て、役場の帳簿法を改正してやろう。願わくは名主もそのままにおいたほうがよかろう。そのままに置くならば、給料を半分に減らし、半分を村へ出させるがよ。横領した米の償いの方法は、私に別の工夫がある。字某の荒れ地は、〇〇のところから水を引けば田となるであろう。この地を一村の共有地とすれば、二町歩ほどは良田となる。これを開拓してつかわすから、一同出訴を止めて、賃銭を取るがいい。その上寄り合いをする時間で、共同で耕作すれば、秋には7,80俵の米は受け合いである。来年の秋には8,90俵、来々年は100俵を得るであろう。三ヶ年間は一同で分け取って、4年目から開拓料を返済するがよい。返済が皆済んだ上は、一村永安の土台の田地として法を立てるがよいと、懇々説諭された。村民一同も了承したという報告があった。尊徳先生は自ら集会場に臨まれて、説諭に服したことを賞讃され、酒と肴(さかな)を与えられた。さらにその開拓は明朝の朝早くから取り掛る、賃銭はいくらずつ払おう、遅参してはならないと告られた。一同拝んで感謝し悦んで退散した。名主も5ヶ年の間、無給で精勤いたしますと言い出した。尊徳先生はおっしゃった。一村にとっての大難を僅かの金で買い得った。安い物である。このような災難があるときは、あなた方も早く買い取るがよい。一村が修羅場に陥るところを一挙に、安楽国(極楽世界)に引き止めることができた。お寺の大和尚の功徳にも勝るであろうと、喜こばれた。尊徳先生が、お金員を投じ、無利子金を貸与して、騒動を解決したことは数えきれない。今その一つを記するところである。【32】某(それ)の村の名主押領(あふりやう)ありとて、村中寄り集り、口才(こうさい)ある者に托(たく)して、出訴せんと噪(さわぎ)立てり。翁其の村の重立つたる者二三を呼びて曰く、押領何程(なにほど)ぞ、曰く、米二百俵余なるべし、翁曰く、二百俵の米は少からずといへ共(ども)、之を金に替ふる時は八十円なり、村民九十余戸に割る時は、一戸九十銭に足らず、村高に割る時は一石に八銭なり、然るに、名主組頭等は持高多し、外十石以上の所有者は三十戸なるべし、其の他は三石五石にして無高(むたか)の者もあるべし、此の者に至りては取る物なく、縦令(たとひ)有るも、僅(きん)々の金なり、然るを箇様(かやう)に噪(さわ)ぎ立つは大損(だいそん)にあらずや、此の件確証ありと云ふといへども、地頭(ぢとう)の用役に関係ありと聞けば、容易には勝ち難し、縦令(たとひ)能く勝ち得るとも、入費莫大となり、寄合ひ暇潰(ひまつぶ)し、且(か)つ銘々が内々の損迄を計算せば、大損(おほぞん)は眼前なり。何となれば、未だ出訴せざるに数度の寄合ひ、下調べ等の為に費(つひ)えたる金少(すくな)からず、且(か)つ彼は旧来の名主なり、之を止めて、跡に名主にすべき人物は誰なるぞ、予が見渡す処、是と指す者見えず、能々思慮すべき処なり、然れば向後押領の出来ざる様に厳(げん)に方法を設けて、悉(ことごと)く通ひ帳にて取り立て、役場の帳簿法を改正し遣すべき間、願くは名主も其の儘(まま)置くにしかじ、其の儘に置かば、給料を半(なかば)に減じ、半(なかば)を村へ出さすべし、押領米の償ひ方は、予別に工夫あり、字某(あざぼう)の荒蕪地は、云々の処より水を引けば田となるべし。此の地に一村の共有地、二町歩程は良田となるなり、之を開拓し遣はすべき間、一同出訴を止めて、賃銭を取るべし、其の上寄合ひをする暇(いとま)にて、共同して耕作せば、秋は七八十俵の米は受け合ひなり、来秋は八九十俵、来々年は百俵を得べし、三ヶ年間は一同にて分け取り、四年目より開拓料を返済せよ、返済皆済の上は、一村永安の土台田地(でんぢ)として法を立つべしと、懇々説諭せられたり、一同了承せりとの報あり、翁自ら集会場に臨み、説諭に服せしを賞讃し、酒肴を与へられ、且(か)つ右の開拓は明朝早天(さうてん)より取り掛り、賃銭は云々づゝ払ふべし、遅参する事勿れと告げらる、一同拝謝し悦んで退散す、名主某(ぼう)も五ヶ年間、無給にて精勤致し度(たき)旨を云ひ出たり、翁曰く、一村に取りての大難を僅々の金にて買ひ得たり、安き物なり、斯(かく)の如き災難あらば卿等も早く買ひ取るべし、一村修羅(しゆら)場に陥るべきを一挙にして、安楽国に引き止めたり、大知識(だいちしき)の功徳に勝(まさ)るなるべしとて、悦喜せられたり、翁の金員を投じ、無利子金を貸与して、紛議を解(と)かれし事枚挙(まいきよ)に暇(いとま)あらず、今其の一を記す。
2026.02.22

「近年は人気が低迷していた」米フィギュア界 アリサ・リウの金メダルの“本当の価値”を米放送局が力説「本来の自分を取り戻す物語だった」【冬季五輪】2/21(土) ミラノ・コルティナ五輪のフィギュアスケート競技で最後の種目となった女子シングルは、アメリカのアリサ・リウが金メダルに輝いた。ショートプログラム3位の成績から、現地時間2月19日のフリーでは150.20点をマーク、合計226.79点で坂本花織、中井亜美の日本勢を上回り逆転で頂点の座を掴んだ。【写真】なんて美しい瞬間!世界に配信されたアリサ・リウと中井の抱擁シーン リウの金メダルでフィギュア競技は劇的な締めくくりとなったものの、アメリカチームは今大会、各種目で苦戦が続いた。団体戦を金メダル獲得で滑り出しながら、男子シングルでは“絶対王者”イリア・マリニンがまさかの8位に終わり、アイスダンスでも採点が物議を醸し、世界選手権3連覇中のマディソン・チョック/エヴァン・ベイツ組が銀メダルに終わっている。 米スポーツ放送局『ESPN』では、リウの金メダル獲得を受け、「氷上でのアメリカ勢にとってジェットコースターのような五輪だったが、これ以上ないほどふさわしい完璧な結末だった」と今大会を総括した。 同メディアは、五輪開幕前までの評価として、「アメリカは世界選手権で3冠を達成し、ミラノでも大量メダルが期待された」と振り返りながら、「しかし現実は厳しかった」と指摘する。 僅差での決着となった団体戦、さらにまさかの結末を迎えた男子シングルやアイスダンスの結果から、「波乱の連続だった」と訴え、「すべては最後の女子シングルにかかっていた」と説く同メディアは、「全体としては日本がアメリカより多くのメダルを獲得した。それでも、女子の金はアメリカにとって“復活”を意味した」などと論じている。 また、フィギュアの国内事情にも言及。「かつて国民的スターを生んだ競技だが、近年は人気が低迷していた」と綴っており、その上で、「新世代の顔になると期待されたのはマリニンだったが、最後に表彰台の中央に立ったのはリウだった」などと強調する。 だがその一方で、「しかし、重要なのはメダルという結果ではない」と同メディアは主張。一度は引退を決意しながらもふたたび競技の舞台に返り咲き五輪王者となった20歳の快挙を、次の様な言葉で称えている。「リウの金メダルは、単なる勝利ではない。それは“本来の自分を取り戻す”物語だった」 SP、フリーと、いずれも五輪の重圧を微塵も感じさせない滑りを披露し頂点に登り詰めている。そのパフォーマンスを目の当たりにした観衆や、アメリカフィギュア界にとっても、あらゆる意味でリウの金メダルは印象深いものとなった。「すごすぎる復活劇」フィギュアのアリサ・リュウ、16歳で引退→20歳で金メダル「伝説的なカムバック」に称賛の声続々2/20(金)英紙THE Guardianは「米国女子フィギュア24年間の不振に終止符」「4年前に現役を引退し、復帰の見通しも立たないまま競技から姿を消していたが、キャリア最高のフリープログラムを披露し、ライバルである坂本と中井を追い抜いた」イタリアのガゼッタ・デロ・スポルトは、中国から米国に政治亡命した父を持つアリサ・リュウについて「北京五輪のあと、16歳で『より普通の生活を選ぶ』ために競技を辞めたという事実。数シーズン、リンクから遠ざかっていた」「だが、スキー休暇中、スケートのアドレナリンがまるで魔法のように再び彼女の血管を巡りだし、再びスケート靴を履くことを決めた」
2026.02.21

メダルを取れなきゃ「刑務所行き」の誤解もあった――日本人指導者と中国22歳の国境を越えた“師弟関係” 中国メディアも感嘆する金獲得劇【冬季五輪】2/21(土) 現地時間2月18日、ミラノ・コルティナ五輪のスノーボード男子スロープスタイル決勝は、スー・イーミン(中国)が82.41点を叩き出して金メダルを獲得した。2022年の北京大会で2つ(銀1、金1)を獲得していた22歳は、今月7日のビッグエアで銅メダルを獲得。さらなる躍進が期待されて迎えたスロープスタイルでは、1回目の試技で82.41点のハイスコアを記録し、迫りくる長谷川帝勝(日本)に0.28差で競り勝った。 僅差で世界の頂に立ったスー・イーミン。文字通りの快挙をやってのけた直後、彼が涙ながらに歩み寄ったのは、自身が師事する佐藤康弘コーチだった。 中国メディア『捜狐』は表彰式直後と思われる両者の様子を紹介。そこには、涙ながらに「プレッシャーが本当に大きかったんだ。ずっと金メダルを取らなきゃって思ってた」と語りながらメダルを差し出すスー・イーミンと、同じく目を潤ませながらも笑顔で「すごいじゃん。グッドじゃない?」と愛弟子を抱きしめる佐藤コーチの姿があった。 2018年に師弟関係となった二人。『捜狐』によれば、当時は佐藤コーチに対して周囲から「大丈夫なのか? もしも(スー・イーミンが)メダルを取れなかったら刑務所行きになるんじゃないか?」といった不安を煽る声もあったという。「西洋諸国で生まれている誤解の中には、中国スポーツ界が『金メダル至上主義』や『厳しく冷酷』というレッテルがある。しかし、佐藤は8年の歳月をかけて、自らの手で周りが貼っていたフィルターを打ち破った。彼はスー・イーミンが北京で一躍有名になり、ミラノ・コルティナで負傷し迷いながらも、プレッシャーに耐えて再出発する姿を目の当たりにしながら、常に傍で寄り添い続けた」 二人の関係の深さを「もはや家族のようである」と評した同メディアは、こうも記している。「このミラノでスロープスタイルでの優勝が決まった瞬間、佐藤コーチは頭を抱えて号泣した。これは指導者として単に“任務達成”をしたからではなく、師弟としての深い絆と競技に対する純粋な愛ゆえのものだった。 オリンピックという舞台は、即座に世界平和をもたらすことはない。しかし、どこか誤解や偏見がある日中関係に橋を架けることはできる。たった一枚の金メダル、たった一回の抱擁と肩を並べることで、誤解を解消し、人々の心は近づけるのだ」 ビッグエア決勝後には、日本勢でワンツーフィニッシュを決めた木村葵来と木俣椋真に対して「僕は心から日本人選手たちを祝福したい」「努力するアスリートは皆、尊敬に値すると思う」とメッセージを送っていたスー・イーミン。スポーツマンシップに溢れる22歳の存在は、佐藤コーチなくしては語れない。
2026.02.21
国連総会でウクライナ侵略の停戦決議案採決へ、ロシア軍の撤退求めず…米国に配慮にじませる国連総会(193か国)はロシアのウクライナ侵略から4年となる24日、緊急特別会合を開き、双方に即時停戦を求める決議案を採決する見通しだ。国連筋が19日、明らかにした。ウクライナが提出する予定の決議案は、停戦協議を主導する米国への配慮をにじませ、露軍の撤退要求は明記しない。支持拡大を狙い、対露非難を抑えた内容になっている。賛成多数で採択される公算が大きい。〈1〉ロシアとウクライナとの無条件の即時停戦〈2〉国際法に基づく包括的で持続的な平和の実現〈3〉捕虜の全面交換や子供を含む強制移送された民間人の帰還――などを求めている。ウクライナの主権や領土一体性への「強いコミットメントを再確認」し、ロシアによる民間人やエネルギー施設への攻撃に「重大な懸念」も示した。
2026.02.21
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その3 二 境遇の変遷翁は名門に生まれ武辺に育ち、文武両道の訓育をうけ、剛健の資性はますます潤沢の光を放ちて、武士の典型として恥じざる人格を琢磨せり。伊藤家は代々山田村金井氏と共に皆川家の代官たれば、天保15年、翁16歳の時より、父と共に出仕し、父老衰に及んでその職を襲いけり。翁ある時慨然として謂おもえらく〔思うには〕、我が家微禄なりといえども、皆川君に奉仕し、元禄年間より茲ここに170年に至り、君恩賞に浅しとせず。しかるに兵馬の間に出入して生死を賭せしにあらず。学術技芸をもってその君を顕わすにあたわず。区々たる刀筆の技、実に恩禄を忝かたじけのうするに足らず。願わくは良法を得て采地さいち〔領地〕の庶民を撫育し、君をして仁かつ徳あるの賢君たらしめ、民をして義かつ方あるの良民たらしめ、もって素餐そさん〔功績も才能もないのに高い位にいて報酬を受けること〕の譴せめを免れんと。一念ここに発して旱霓かんげい〔大旱の雲霓を望むがごとし:ひでりに雨の前兆である雲や虹を待ちこがれる〕の思いをなし事久し。偶々たまたま相州の人、安居院庄七先生駿遠二州に遊んで、二宮先生の教義を唱えてその道を弘む。茲ここにおいて安居院氏につき教えを聞き、その至教に感激し、深く発明する所あり。まず安政5戊午つちのえうま年〔1858〕より将来10か年における自家の分度を確立し、度外の善種金を産出し、これを君家の大夫たいふに議はかりて、更に方法を講じて采地さいち村々の荒蕪を開き、窮民を救済せんと欲す。安政の某年、領地一言村の西部に西揚と称する数町歩の荒蕪地あり。古昔こせき、天竜川出水のため、荒廃に帰して蘆花〔あしの花〕生じ、その間水流交わりて魚族も棲息し、領主数代何ら手を下すことなく放擲ほうてきされしを、翁は君侯に請こうて開墾に着手し、農夫玉水弥太郎ほか数戸の窮民を招き、家屋並びに農具を給与して移住せしめ、率先耒鋤〔すき〕を手にして開拓耕耘こううんの法を教え、拮据きっきょ〔忙しく働く〕経営遂にその事業を成功せしめたり。更に文久の末年に至りて同村高地の原野を開墾して茶樹を栽植す。是れ同地付近茶園の嚆矢こうし〔物事の始まり〕にして、当時翁は将来の外国輸出を予想してその範を示したりと伝えらるる所なり。かくして翁は着々勧業上に献策し、二宮大人の富国安民法を実行する所あらんとせしが、時恰あたかも維新の政変に際し、士民は兵馬へいば倥偬こうそう〔戦乱であわただしいさま〕の間に東奔とうほん西馳せいちしてその堵とに安んぜず。主君皆川庸徳君は慶応3年〔1867〕3月をもって京地に引揚げ、次いで同8月には西京に転じたれば、翁もまた随行してこれを輔たすく。幾干ならずして政府より皆川君を下太夫に拝し本領安堵の令ありしが、同12月に至りて駿遠二州は更に徳川氏の領地となりしをもって皆川君再び東京に移住し、明年5月翁また旧来地引渡しの事務を終えて東京に至る。このごと君侯境遇の変化は積年経画〔組み立てておしはかる〕せし采民撫育の良法にも波及して中止の止むなきに至り、翁また時勢の推移を洞察して、仕を辞し、家族と共に墳墓の地なる豊田郡深見村に皈かえる。これより帯刀に換うるに耒耜らいし〔すき〕をもってし、爾来甘んじて稼穡の業に服せり。しかれども人生の行路は平々坦々にあらざるごとく、これよりして翁の行路は波乱屈曲して、災禍しばしば起こりて運命は翻弄の波間に漂揺せり。ある時は太田川の堤塘ていとう決潰けっかいして田圃を覆えし、ある時は疾病の家人を襲うあり。ことに翁をして困危に陥らしめたるは、家事を託せし家人の家政を誤り一家をして負債累積の崖下に投ぜしめたるにありき。爰ここに至って翁や猛然蹶起けっきして再び自ら家政を掌り、田圃山林住宅より被服什器に至るまで悉皆売却して債主に償い、なお不足は漸次償却を約してその局を結ぶに至る。翁の境遇やもっとも同情を表すべきなり。この間一難を排すれば更に一難を加え、禍害ますます出でてその前途を杜塞とそくす。その操持の堅固なる豪邁の士にあらずんば、誰か行路難の嘆声を発せざらんや。この点において吾人は彼の孟子の警句を想起せずんばあらず。曰く、天の大任をこの人に下さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その体膚を飢やし、その身を空乏にし、その為す所を払乱すと。けだし翁の逆境に沈淪する。また大任の士の享受すべき予定の条件にほかならざりき。しかりしかしてこの難境に処し、泰然として惑わず恐れず、その向かう所を誤まらざらしめし所以のものは、何物か翁の信条として仰ぐべきものあるにあらずんば、けだし不可能の事に属す。しからば翁の奉持する所の信条とは何物ぞ。曰く報徳の道是れなり。翁は二宮大人の天理人道論を咀嚼せり。またよく人生生活の意義を覚れり。至誠もって事にあたり、勤勉もって世に処し、分度もって一家の基礎を樹立するの教義は、けだし一直線に驀進すべき経路なり。翁や一心爰ここに決定して不動山の如く、一意専心この主義に準拠して運命の回転を試み、天を咎めず人を怨みず、飽くまで精力主義を発揮して妖雲を一掃せんとす。これけだし、翁の不撓不屈の精神と深く斯道を崇敬する信念とに依るにあらずんば、到底期求しあたわざる所たり。(報徳土台金知足鑑) 翁、皆川侯を辞して以来、その生活は複雑を極め、明治の初年に在っては、第二大区小区長を命ぜられ、あるいは戸籍の調査、改租鑑定人、学区取締を命ぜられ、あるいは県会議員に選任せられ、居村の戸長に挙げられ、その他勧業上の公職嘱託等、実に枚挙に遑いとまあらず。およそ地方大小の公務、翁の手を煩わさるるなきに至るも、主として力を勧業方面に用いぬ。遠近、翁を目して中遠の勧業家と伝うるに至れり。しかして翁は如上の任務に対しても、常に厚き信念と健実なる歩調とをもって何れもその最善を尽くしたれば、翁はますます地方人士の信頼を厚うするに至れり。 明治5、6年の頃、翁は思う所ありて小野組の手代となる。最初は額田県なる三州岡崎に居り、後は名古屋出張店に在勤せり。当時小野組は三井組と共に政府御用達を務めて盛名赫々として、全国70余県中40余県に羽翼を張れり。しかしてその事業の重かつ大なるに関せず、内部の取締整理等十分ならず、ことに手代使用人の多数は倨傲粗放に流れて混濁の空気に鎖されたれば、元来報徳の感化を受けたる正心誠意の翁は、永くその地位に在ることを快しとせず、在職2年にして辞を構えて家に皈れり。その後明治7年に至りて、小野組は政府より会計検査の結果、その不始末暴露し、遂に瓦解するに至れるが、翁の先見の明は夙つとに前途の危険を洞察したるによりて、その清節を全うする事を得たり。しかしてこの間に翁の精励は無比にして、永く後進の亀鑑たるものありしとは恩師淡山先生の嘆称して物語られし一節なりき。 翁は明治8、9年より自宅にありて醤油醸造を業とせしも利あらず、同11、2年より同15年頃までは養蚕並びに製糸業を経営せしも、是また不幸にして失敗に終れり。明治15年よりは更に二俣町に赴き、同地紡績会社に入りてその事業に関与せしも、明治17年に至りて辞し、是れより専心報徳社の経営に一身を傾注せり。翁の二俣紡績会社に在るや、精励恪謹かくきんをもって称せられ、翁の退任は会社の打撃なりとして深く重役諸氏に愛惜せられたりと云う。(淡山先生並びに水野信之助君談) 以上要する所、この時代における翁は、天の時至らざりしか、地の利添わざりしか、その奮闘努力の活動上に欠くる所なきに拘わらず、翁をして轗軻かんか不遇〔世に受け入れられず行き悩むさま〕に終らしめたり。然れども、天は空しくこの正人をして空しく槽櫪そうれき〔飼馬おけ〕の間に老いしむるものにあらず。翁の適材適所は実に報徳社にありき。是より翁の驥足きそく〔優れた才能〕はますます伸び、翁の境遇には一大回転を来たしたるものなり。
2026.02.21
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)浄土真宗村田静照との出会い その9「仏心の信心」 一切衆生は悉有仏性なのだ。すべての生きとし生けるもののなかに、仏の心は生きどおしに生きていてくださる。これを白隠禅師さまは、「衆生本来、仏なり」と言われた。禅の修行といっても、所詮、この内なる仏性との出会いなのだ。にもかかわらず、禅宗に因縁を結びながら、多くの信者たちは、自分でこの修行する道に踏み込むことができず、そのために仏道から遠ざかってしまっている。禅は悟らなきゃわからん、という禅者への戒めが、一般の信者まで手かせ足かせになっている。 なんと、むごいことよのう。みんな等しく仏心に照らされているというのに、そのことに気づかずにいる。「衆生本来、仏なり」という白隠さまの言葉はどうなっちゃたのだ。思いあがってはいけない。仏教信徒たるものは、お釈迦さまの昔から、三宝帰依を信条としてきた。仏と法と僧に帰依する。平たくいうと、信心するということだ。信徒たちは、自ら悟らなくても、仏を信じ、その教えを信じ、その僧の教説を信じることで、大安心を得られるとされてきた。僧たるものは、多くの信徒を信心の道に導かねばならない。それゆえの「僧」なのではないか。 わしの「仏心の信心」の提唱は、これだ。禅は修行者だけの宗門ではない。自ら修行できぬものは、仏心を信ずればいい。信ずれば救われるのではなく、すでにきみは救われているのだ。すべての人々は、救われてあるのだ。そのことを信じてもらえればいい。(略) 禅にこそ「信心」の道がなければならぬ。 修行者も、そうだ。たとえば井戸を掘るときに、この下に水脈があると信じるからこそ掘るのであって、それと同じじゃないか。悟りの道といったって、最初は信じるー信心から入っているじゃないか。 しかも、禅の信心ほど頼もしいものはないと、わしは思う。 さっきは絶対他力の信心をいったな。ジェット機に乗ったようなもので、途中で降りて自分で歩くことはできない。ところが、禅は、それができるんだ。そうではないか。仏心の信心は、その仏心がどういうものか明らかにしたいと思い立った者は、ただちに体験の世界に入ることができるのだ。坐禅という修行がそれだ。禅の信心とは、そういう自由きわまりない境涯なのだ。 他力から入っても、他力にすらこだわらなくなり、自力から入っても、自力にとらわれなくなるーそれが、仏心と一つになった世界だからなあ。念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望み後生一大事とは楽屋住まい浄玻璃鏡
2026.02.21
永平初祖学道用心集 6-21道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その21「動静の二相了然として生ぜず」動と静、動が迷いなら、静は悟り。迷いも悪いが悟りも悪い。迷って進めない、悟って進めない、むかし迷わず、いま悟らず、悟らず迷わず、これが本来の面目である。迷いの方にも動かぬ。悟りの方にも動かぬ、月でもない、何でもない、天地いっぱいのわれと月。だから了然として生ぜずと。このように身心を調える、この三昧境が「即ち之れ調なり」と。ここでは悟りというような意味よりも、道元禅師は「身心を調えて以て仏道に入るなり」そうしてこの肉体ぐるみ、宇宙ぐるみ、仏祖ぐるみとなる。身心を調えるということは、物覚えがようてもいかぬ、悪うてもいかぬ、頭がようてもいかぬ、悪うてもいかぬ、判断がようてもいかぬ、悪うてもいかぬ、そろばんが上手だかう偉いというわけじゃない。「若し聡明博解(はくげ)を以て仏道に入るべくんば神秀(じんしゅう)上座其の人なり」神秀上座は非常に聡明な人じゃった。神秀上座のあの名高い偈に、「身はこれ菩提樹、心は明鏡の台の如し、時々に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」というのがある。非のうちどころがない。ところが、「若し庸体卑賤を以て仏道に嫌わるるものならば曹渓高祖豈敢てせんや」これは六祖大師のことで、もとは米つきであり、眼に一丁字もない人であった。しかし身心を調え三昧を得ていた。だから神秀上座の偈に対して、「菩提樹本樹無し。明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」とやった。それでこそ五祖大師の衣法を伝えたじゃないか。それをここに比較して、「仏道を伝得するの法は、聡明博解の外に在り」ものをよけい知っておるから、学問があるから、覚えがよいから、聡明であるからというわけのものじゃないということは、「是に於て明かなり。探って尋ぬべし」と。(「沢木興道全集」第2巻p.155-156)
2026.02.21
192二宮翁夜話巻の5【31】ある門人が居眠りの癖があった。尊徳先生がおっしゃった。人の性は仁・義・礼・智である。非常に愚かであっても、この性のない事はない。そうであれば、あなた方も必ずこの性があり、智が無いことはない。それなのに無智であるのは磨かないからである。まず道理の片はしでも、わきまえたい覚えたいと、願う心を起こさなければならない。これを願を立てるという。この願を立てる時は、人の話を聞いて居眠りはできないであろう。仁・義・礼・智を家にたとえるならば、仁は棟木であり、義ははりであり、礼は柱であり、智は土台である。家を説明するには、棟木・はり・柱・土台というのがよい。家を作るには、まず土台を据えて柱を立て、はりを組んで棟木を上げるようにし、説明するときは、仁・義・礼・智というのだ。これを実行するには、智・礼・義・仁と次第に行うのであり、まず智を磨いて礼を行い義を踏んで仁に進むべきである。だから大学には、智を致すのを初歩とするとある。、瓦(かはら)は磨いても玉にはならない。しかし幾分かの光を生じ、かつ滑らかにはなる。これが学びの徳である。また無智の者はよく心がけて、馬鹿なる事を行わないようにするべきである。生れつき馬鹿であっても、馬鹿な事をさえしなければ馬鹿ではない。智者であっても、馬鹿なる事をすれば馬鹿といえる。【31】門人某居眠りの癖(くせ)あり、翁曰く、人の性は仁義礼智なり、下愚といへども、此の性有らざる事なしとあり、されば汝等が如きも必ず此の性あれば、智も無かる可からず、然るを無智なるは磨かざるが故なれば、先づ道理の片端にても、弁へたし覚えたしと、願ふ心を起(おこ)すべし、之を願を立つると云ふ、此の願(ねがひ)立つ時は、人の咄(はなし)を聞きて居眠りは出でざるべし、夫れ仁義礼智を家に譬(たと)ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)なり、礼は柱なり、智は土台なり、されば家の講釈をするには、棟(むなぎ)梁(はり)柱・土台と云ふもよし、家を作るには、先づ土台を据(す)え柱を立て梁(はり)を組んで棟(むなぎ)を上(あげ)るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云ふべし、之を行ふには、智礼義仁と次第して、先づ智を磨き礼を行ひ義を踏み仁に進むべし、故に大学には、智を致すを初歩と為り、夫れ瓦(かはら)は磨(みが)けども玉(たま)にはならず、されど幾分の光を生じ且(か)つ滑(なめ)らかにはなる、是れ学びの徳なり、又無智の者は能く心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし、生れ付馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず、智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし。
2026.02.21
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)浄土真宗村田静照との出会い その8「仏心の信心」 親鸞上人の教えは、易行だわな。行き易いだ。が、「この道行き易くして人なし」ともいう。易しい道なるがゆえに、なかなかこの道に入ってくれるものがない。門徒の信心なんて楽なものじゃない。厳しいことは、禅とまったくかわらない。「難値難遇」という。値い難くして遇い得たという。わしと村田和上の出会いは、まさしくそれだった。すくなくとも、わしの50歳あまり年上のいとこの公案に、わしなりの答えを出すことができたのだから。 わしは、村田和上によって「信心」の大きさ、強さを知った。禅における「悟り」にも匹敵するものだ。いや、むしろ禅の悟りも、信心と同じじゃないかとさえ思うようになった。そうだろ。俺は見性を得たとか、俺は悟ったとかいっているが、なんのことはない。みんなその道は、2500年前にお釈迦さまがあきらかにされてあるのだ。そのお釈迦さまの悟りの世界を、のちの多くの高僧がたの教説にしたがって信じるか、自分で修行してその境地に近づくか、それだけの違いだ。それを考え違いして、自分が悟ったから世界がひらけたように思う。 この宇宙は、生きどおしで、宇宙いっぱいの仏と、仏の慈悲が満ち満ちてあるのだ。きみがそうなんだよ。わしもそうなんだ。この宇宙いっぱいの仏から、逃げようったって逃げられやしない。逃げられやしないということを、お釈迦さまが、初めてお悟りになったのだ。 そのお釈迦さまの悟りを、何十、何百という高僧がたが、それぞれ自分の修行や学問や味わいを通して、書きものにして残された。いわば、案内書だな。つまり、お釈迦さまが覚られた悟りの心境というすぐれた国とは、どういう国であるのか、どうすれば行けるかー旅行記といってもいい。 ある人は、その旅行記や地理書を読んで、そのような結構なことなら、この足で歩いて行ってみたいと思うだろう、すると、案内書や旅行記にも出ていない風光に接することができるかも知れん。 またある人は、案内書によって、とても自分の足ではその国に行けない、と締めるだろう。しからば、いかにすればいいか。別の案内書を探さねばならない。すると、たまたま、自分の足で歩かなくても行けるという方法のあることを発見するだろう、易行道だな。自分で歩かなくても行き着くことが出来るという。それを信じるよりほかにないではないか。自分で歩けないんだからなあ。 また村田和上の話になるが、わしが和上に聞いたんだよ。「和上はお浄土に参られるとき、どんな服装で行かれますか」 とな。するとどうだ。和上は、「このまんまですなあ」といって、木綿の着物と半纏を眺められた。いいか。「このまんま」なのだ。自分の足で旅しようとするものは、それ相応に旅装束をととのえなければならない。ところが、そうでないものは、別に自分で用意するものはなにもない。このままで、連れてってくれるのを待つばかりなのだ。これが、他力の味わいだ。ひとえに阿弥陀如来の誓願によって救われるほかはないという道だ。 そのかわり、他力というから絶対他力なんだよ。おまかせしたら、一切、脇目もふってはいけない。自分の足でも歩けるんだが、他力のほうが楽だからそちらのほうにしようなんて、いい加減なことはできない。それは厳しいんだ。それはそうだろう。たとえばジェット機で飛んでいるとき、このあたりは景色がいいから降りて歩きます。なんてそんな都合のいいことはできない。一蓮托生だ。ジェット機に乗ってる人は、まったく操縦士や機械に頼りきっているから、安心して乗っておられる。 ここだよ。ここなんだ。わしのいう「仏心の信心」の提唱は、ここなんだなあ。 禅は、悟らなきゃわからんというのは嘘だ、とわしはずいぶんきついことをいう。そのわけは何度もいったとおりだ。自分が悟ろうと悟るまいと、お釈迦さまがあきらかにされた悟りの世界は、ちゃんとわれわれを包んでくだすっている。 たとえばそれを、永遠の生命といってもいい。大慈悲といってもいい。さっきの例ではないが、案内書や旅行記によって、その味わいかたが違うんだ。そこでわしは、それをひっくるめて「仏心」ということにした。仏の心だよ。その仏の心が、どこにあるかといえば、大きく見れば、この大宇宙を包摂しており、身近にいえば、このわしやきみの中にある。宇宙の電気と同じで、逃れようにも逃れられないものだ。念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望み後生一大事とは楽屋住まい浄玻璃鏡
2026.02.20
27ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その2 二 境遇の変遷翁は名門に生まれ武辺に育ち、文武両道の訓育をうけ、剛健の資性はますます潤沢の光を放ちて、武士の典型として恥じざる人格を琢磨せり。伊藤家は代々山田村金井氏と共に皆川家の代官たれば、天保15年、翁16歳の時より、父と共に出仕し、父老衰に及んでその職を襲いけり。翁ある時慨然として謂おもえらく〔思うには〕、我が家微禄なりといえども、皆川君に奉仕し、元禄年間より茲ここに170年に至り、君恩賞に浅しとせず。しかるに兵馬の間に出入して生死を賭せしにあらず。学術技芸をもってその君を顕わすにあたわず。区々たる刀筆の技、実に恩禄を忝かたじけのうするに足らず。願わくは良法を得て采地さいち〔領地〕の庶民を撫育し、君をして仁かつ徳あるの賢君たらしめ、民をして義かつ方あるの良民たらしめ、もって素餐そさん〔功績も才能もないのに高い位にいて報酬を受けること〕の譴せめを免れんと。一念ここに発して旱霓かんげい〔大旱の雲霓を望むがごとし:ひでりに雨の前兆である雲や虹を待ちこがれる〕の思いをなし事久し。偶々たまたま相州の人、安居院庄七先生駿遠二州に遊んで、二宮先生の教義を唱えてその道を弘む。茲ここにおいて安居院氏につき教えを聞き、その至教に感激し、深く発明する所あり。まず安政5戊午つちのえうま年〔1858〕より将来10か年における自家の分度を確立し、度外の善種金を産出し、これを君家の大夫たいふに議はかりて、更に方法を講じて采地さいち村々の荒蕪を開き、窮民を救済せんと欲す。安政の某年、領地一言村の西部に西揚と称する数町歩の荒蕪地あり。古昔こせき、天竜川出水のため、荒廃に帰して蘆花〔あしの花〕生じ、その間水流交わりて魚族も棲息し、領主数代何ら手を下すことなく放擲ほうてきされしを、翁は君侯に請こうて開墾に着手し、農夫玉水弥太郎ほか数戸の窮民を招き、家屋並びに農具を給与して移住せしめ、率先耒鋤〔すき〕を手にして開拓耕耘こううんの法を教え、拮据きっきょ〔忙しく働く〕経営遂にその事業を成功せしめたり。更に文久の末年に至りて同村高地の原野を開墾して茶樹を栽植す。是れ同地付近茶園の嚆矢こうし〔物事の始まり〕にして、当時翁は将来の外国輸出を予想してその範を示したりと伝えらるる所なり。かくして翁は着々勧業上に献策し、二宮大人の富国安民法を実行する所あらんとせしが、時恰あたかも維新の政変に際し、士民は兵馬へいば倥偬こうそう〔戦乱であわただしいさま〕の間に東奔とうほん西馳せいちしてその堵とに安んぜず。主君皆川庸徳君は慶応3年〔1867〕3月をもって京地に引揚げ、次いで同8月には西京に転じたれば、翁もまた随行してこれを輔たすく。幾干ならずして政府より皆川君を下太夫に拝し本領安堵の令ありしが、同12月に至りて駿遠二州は更に徳川氏の領地となりしをもって皆川君再び東京に移住し、明年5月翁また旧来地引渡しの事務を終えて東京に至る。このごと君侯境遇の変化は積年経画〔組み立てておしはかる〕せし采民撫育の良法にも波及して中止の止むなきに至り、翁また時勢の推移を洞察して、仕を辞し、家族と共に墳墓の地なる豊田郡深見村に皈かえる。これより帯刀に換うるに耒耜らいし〔すき〕をもってし、爾来甘んじて稼穡の業に服せり。しかれども人生の行路は平々坦々にあらざるごとく、これよりして翁の行路は波乱屈曲して、災禍しばしば起こりて運命は翻弄の波間に漂揺せり。ある時は太田川の堤塘ていとう決潰けっかいして田圃を覆えし、ある時は疾病の家人を襲うあり。ことに翁をして困危に陥らしめたるは、家事を託せし家人の家政を誤り一家をして負債累積の崖下に投ぜしめたるにありき。爰ここに至って翁や猛然蹶起けっきして再び自ら家政を掌り、田圃山林住宅より被服什器に至るまで悉皆売却して債主に償い、なお不足は漸次償却を約してその局を結ぶに至る。翁の境遇やもっとも同情を表すべきなり。この間一難を排すれば更に一難を加え、禍害ますます出でてその前途を杜塞とそくす。その操持の堅固なる豪邁の士にあらずんば、誰か行路難の嘆声を発せざらんや。この点において吾人は彼の孟子の警句を想起せずんばあらず。曰く、天の大任をこの人に下さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その体膚を飢やし、その身を空乏にし、その為す所を払乱すと。けだし翁の逆境に沈淪する。また大任の士の享受すべき予定の条件にほかならざりき。しかりしかしてこの難境に処し、泰然として惑わず恐れず、その向かう所を誤まらざらしめし所以のものは、何物か翁の信条として仰ぐべきものあるにあらずんば、けだし不可能の事に属す。しからば翁の奉持する所の信条とは何物ぞ。曰く報徳の道是れなり。翁は二宮大人の天理人道論を咀嚼せり。またよく人生生活の意義を覚れり。至誠もって事にあたり、勤勉もって世に処し、分度もって一家の基礎を樹立するの教義は、けだし一直線に驀進すべき経路なり。翁や一心爰ここに決定して不動山の如く、一意専心この主義に準拠して運命の回転を試み、天を咎めず人を怨みず、飽くまで精力主義を発揮して妖雲を一掃せんとす。これけだし、翁の不撓不屈の精神と深く斯道を崇敬する信念とに依るにあらずんば、到底期求しあたわざる所たり。(報徳土台金知足鑑)
2026.02.20
永平初祖学道用心集 6-20道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その20 丘宗潭師に『坐禅』という題でこういう詩がある。 燕坐閑々地 燕坐閑々地 知忘見亦忘 知忘じ見も亦忘ず 雲開千里月 雲は開く千里の月 風定一庭霜 風は定まる一庭の霜 と。燕坐は坐禅のことである。坐禅くらい暇なものはない。暇なものだから、光陰空しくわたることなかれ、というて坐禅の中へ内職持ち込んだ人がある。この間もカンジン縒りつくっておった人があった。原坦山は臘八接心で、三百幾つやら詩をつくったという。臨済宗の坊さんは、坐禅は黙って坐るのはもったいない、公案考えるものじゃと思った。なるほどこうやっておればものを考えるのに都合がよいと思った。しかしこうやっておって頭の中を大忙しにしているのは、坐禅に内職を持ち込んだと同じことである。坐禅に内職を持ち込んではいかん。ただ坐っておるのが、燕坐閑々地、それが極度に澄み切ったところが、『知忘じ見も亦忘ず』凡夫と仏の継目がなくなって、坐禅ばかりになる。雲は開く千里の月、風は定まる一庭の霜と、これはよい詩である。こういうことが「観音流れを入して所知を亡ず」ということである。(「沢木興道全集」第2巻p.154-155)
2026.02.20
192二宮翁夜話巻の5【30】尊徳先生はおっしゃった。世の人は皆、聖人は無欲と思っているがそうではない。実際は大欲であって、その大は正大である。賢人がこれに次ぎ、君子は賢人に次ぐ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものである。学問というものは、この小欲を正大に導く方法をいうのだ。大欲とは何か。万民の衣・食・住を充足させ、人身に大福を集める事を欲するのである。その方法は、国を開いて物を開き、国家を経営し、人民を救い助けることにある。だから聖人の道を推し窮める時は、国家を経営して、社会の幸福を増進するのにある。大学・中庸等にその意味が明らかに見えている。その欲するところがどうして正大でなくてよかろうか。よくよく思うがよい。二宮翁夜話巻の5【30】翁曰く、世人皆、聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、其の大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり、夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云ふ、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身(じんしん)に大福を集めん事を欲するなり、其の方、国を開き物を開き、国家を経綸(けいりん)し、衆庶(しゆうしよ)を済救(さいきう)するにあり、故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経綸(けいりん)して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其の意明かに見ゆ、其の欲する処豈(あに)に正大ならずや、能くおもふべし。
2026.02.20
韓国・尹前大統領に無期懲役の判決…内乱首謀罪で1月に死刑求刑 当時の首相らにも実刑判決 ソウル中央地裁2/19(木)韓国で2024年、非常戒厳を宣言した尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領に対し、ソウル中央地裁は無期懲役の判決を言い渡しました。尹被告は2024年12月、非常戒厳を宣言し、国会に軍を動員するなどした内乱首謀の罪で起訴されています。2026年1月、検察が死刑を求刑したのに対し、尹被告は「大統領の国家緊急権の行使は内乱には当たらない」と主張していました。19日午後に開かれた判決公判で、ソウル中央地裁は無期懲役の判決を言い渡しました。非常戒厳を巡っては、当時首相だった韓悳洙被告に懲役23年の判決が出るなど、当時の閣僚らにも実刑判決が言い渡されていました。韓国の歴代大統領が自殺、懲役17年、懲役22年…なぜ“その後”が悲惨? 背景に「法を作ってでも処罰すべき」という考えも?2/19(木) 神戸大学大学院の木村幹教授「最大のポイントは、軍隊などの力を使って憲法機関である国会を封鎖しにいったことだ」と指摘した。国会は戒厳令を解除する権限を持つため、そこを止めようとした行為は「明らかに国会に対する反逆であり、内乱罪に当たる」「1987年の民主化以前と以降では状況が全く違う」とし、1979年の朴正煕(パク・チョンヒ)氏の暗殺は独裁政権下の内部分裂によるものであり、近年の事案とは性質が異なると説明した。 民主化以降の大統領についても盧武鉉氏は退任後、親族・側近の収賄疑惑で検察捜査を受けた後に自殺。李明博氏は退任後、収賄・横領・国家情報院の違法活動などで逮捕され懲役17年確定(後に特赦保釈)、朴槿恵氏は在任中、親友による国政介入事件で弾劾・罷免、収賄・職権濫用などで逮捕され懲役22年が確定(後に特赦保釈)となっている。木村教授は原因について「大統領の行政的・財政的な権限があまりに大きく、周囲を腐敗させる構造がある」と語る。大統領自身だけでなく家族や友人が利権に関与してしまうのは、「何でも変えられる権限があることに加え、親しい人に頼まれた際にNOと言えない韓国社会の特殊性」も影響しているのではと分析した。「韓国では『ずるい』こと、特に特権を利用して得をすることへの忌避感が非常に強い。法律がなければ作り、解釈を変えてでも処罰すべきだという考えが民主主義だと捉えられている」「韓国が冷戦期から引き継いだ制度の欠陥が、民主化の過程でうまく処理できなかった現れだ」と総括。厳しい判決が積み重なる現状を、「何も変わらない日本と比べれば、判決を通じてルールが厳格に出来上がっていくプロセスでもある」
2026.02.19
スノボ19歳深田茉莉「金」 冬季五輪の日本女子最年少ミラノ・コルティナ冬季五輪第13日の18日、スノーボード女子スロープスタイルで深田茉莉(19)=ヤマゼン=が金メダル、村瀬心椛(21)=TOKIOインカラミ=が銅メダルを獲得した。深田は冬季五輪の日本女子で最年少の優勝者となった。 今大会の日本選手団の金メダルは1998年長野大会と並んで最多の5個となった。冬季で最も多かった前回北京大会の18個を更新したメダル総数は、22個に達した。 村瀬心はビッグエアの金に続いて今大会2個目、通算3個目のメダル。岩渕麗楽(24)=バートン=は8位だった。スノーボードの日本勢は今大会で金4、銀2、銅3の計9個のメダルラッシュとなった。銅メダル村瀬心椛は涙「絶対優勝しただろうと…」 会心ランも得点伸びず「今まででベストのラン」「悔しい」「もっと修行しないと」2/19(木) ミラノ・コルティナ五輪は現地18日、スノーボード女子スロープスタイル決勝が行われ、村瀬心椛(ここも、TOKIOインカラミ)が85.80点で銅メダルを獲得した。87.83点で金メダルの深田茉莉(ヤマゼン)と日本勢でメダル2つを獲得。村瀬は女子ビッグエアの金メダルに続き、今大会2つ目のメダルになった。結果には涙。「一番上、てっぺんを取ってやろうと思ったけど、もっと修行をしないといけないなと感じました」と悔しさをにじませた。 村瀬は逆転を狙った3回目、トリプルコークを決めるなど完璧なランを披露。ラストの着地を決め、力強くガッツポーズを見せた。しかし得点は深田を上回れず。それでも日本勢でメダル2つを獲得し、2人は喜びのハグを交わした。村瀬は表彰台では涙も見せた。 X上の視聴者からは「もっと得点が出たと思った」との声も上がっていた。中継インタビューでは「2冠、金・金を目指していた。完璧なルーティンができて、優勝できたかなと。思ったような点数が出ずに。今までで一番いいランをお届けできたので、ものすごくうれしいけど、銅というのが悔しい。皆さんの期待に応えられなかったのが悔しい」と涙が止まらなかった。「一番上、てっぺんを取ってやろうと思ったけど、もっと修行をしないといけないなと感じました」。それでもミラノで躍進したスノーボード競技の日本代表として大きく貢献。「(今大会は)最初はすごくうれしくて、ちょっと悔しい感じで終わっちゃったので、次は絶対に金・金を取って、悔しい思いを次の大会、五輪でぶつけてやろうと思います」と語った。 最後は「私のために遅くまで、見てくださった皆さんありがとうございました。金は取れなかったけど、銅メダルは獲得できたので今回は自分を褒めて、この銅メダルは皆さんのおかげでもあるので。本当にありがとうございました」と応援への感謝を伝えていた。その後に放送されたインタビューでも「最大限の技を出しきって、最後は絶対優勝しただろうなと思ったけれど、期待に応えられなかったことがすごく悔しい」「今までに出したことないベストのランを出せた。そこはよかったかなと思います」と語っていた。
2026.02.19
27読みの難しいと思われる語はルビを付した。難しい語句は〔 〕内に意味を付した。また※で注を補した。 ルビ注「伊藤七郎平翁伝」 後学 鷲山恭平撰一 家系と生い立ち 世によく主義を標榜するの人あり。然れどもよく主義と終始するの人は稀なり。我が伊藤七郎平翁のごときは報徳と同化したる、いわゆる主義の人なり。その初め報徳に感奮興起し、これをもって処世の信条とし、報徳のために努力貢献し、もって一生を終れり。けだし武士道の精神に報徳の教義を結合せしめたるものこれ、すなわち翁の人格たり。その剛毅不撓の資性は、よく報徳の思想に潤和し、単に修身斉家の域に止まらず、更に公益を掲げ世務を開くを念とし、発しては奮闘努力の活動となり、潜んでは至誠無息の心鏡を照らす。平素身を持すること厳正恪謹かくきんにして、その生活や簡易質素を旨とす。しかもその人に対するや、同情の念厚く赤心を吐露して直言を憚はばからず。慈仁救済に処しては家を軽んじ身を忘るに至る。翁の一生71年の歳月は、すなわち報徳史の展開と見るべく、内には日常起居動作に徳風を欣慕すべく、外には難村の整理に大日本報徳社の経営に貢献を渇仰すべし。ああ偉なるかな翁。 翁、名は七郎平、諱いみなは信包、文政12己丑年10月12日を以て、遠江国周智郡森町に生まる。父を山中勘左衛門豊平といい、母を幸コウ子と呼ぶ。幸子は同郡飯田村市場加藤與左衛門の女なり。山中家はその先尼子の十勇士山中鹿之助幸盛に出づ。幸盛の裔すえ森町に住し、世々勘左衛門と称す。家門繁栄して地方の名族と仰がれ、近郷の農夫にしてその門前を通過するもの、頬被かむりを脱し、唄を止め、また乗馬の者は特に下乗して敬意を払いしという。翁の生父たる八代目の豊平に至っては、単に一富豪一名族として視みるべきにあらず。書画をよくして技巧群を抜き、また各地に歴遊して人情風俗地理産物等を調査し、その撰に遠淡海地誌を始め記録数種あり。かつ豊平の常鱗凡介に非ざるは、またその子弟の教養に現われ、我が報徳界にもっとも因縁深き知名の士を出せり。すなわち長男豊明は九代目の山中家を相続し、頗すこぶる厳正の人にして、隣人より雷様と呼ばれ、衆人の威服する所たりしという。三男は豊三といい九郎右衛門と称し、出でて同町新村氏を嗣つぐ。是れすなわち嘉永6年岡田無軒先生始め7人の同志と二宮大人を日光に訪問し、親しくその教訓を蒙りたる、いわゆる遠州七人組のその一人なら。帰来専心報徳の趣旨を服膺して、これを我が商業に応用し、森町の新村といえば、遠近伝えて「報徳店」を連想せしむるに至る。第4子は女にして良子といい、浜名郡豊西村羽鳥の名門松島清八に嫁かす。婦徳兼備し、殊ことに筆跡麗しく、また丹青の技を嗜めり。第6子豊長は善六と称し、浜松町の老舗しにせ絞屋に養われて小野江氏を襲おそう〔跡をつぐ〕。この小野江善六氏は伊藤七郎翁没後本社副社長に挙げられ、晩年浜松第一館に住して専らこれ斯道のために尽されたり。第七子は、すなわち本伝の主人公たる翁にして、その第七子たるより幼名を七郎と称し、後完一と称し、更に七郎平と改む。かく兄弟いずれも我が報徳会に因縁浅からざるは、その生父豊平の教養に負う所大なるは反説するの要なかるべし。父豊平は天保7年をもって没し、母幸子は天保3年をもって没し、翁は母の没後4歳にして豊田郡深見村伊藤善右衛門の家に養わるることとなりたり。(山中家記録※) 伊藤家の系譜〔系譜は略〕は冒頭に掲載せしごとく、その祖先は遠く大職冠たいしょくかん鎌足公に出づ。いわゆる南家武智麻呂の後裔にして、数世の孫伊豆国に下りて伊東工藤の祖となる。大永年間工藤姓より出たる久野大蔵宗隆なるものあり。今川氏親に仕えて遠江国久野の庄を領し、久野城を築きてこれに居る。宗隆妾腹の四子に宗興あり。初め今川義元に仕え功ありて大いに寵幸せられしが、後故ありて仕を致し、ここに始めて姓を伊藤と改め、善右衛門と称し、深見村に住居す。宗興は戦国にありて、しかも武門の家に生まれたれども、幼より民間のうちに人となり、深く農家の実情を知り、専ら力を稼穡かしょくの道に尽して、産業の開発に貢献したる事少なからず。それより数代の間は、あるいは出でて仕え、あるいは入りて農業に従事すたる事あるも、元禄の頃に至り、6代豊信始めて皆川左京広隆君に仕え、もって翁に至る。その7、8代の間は伊藤家全盛の時代にして9代春元に至り、家道衰え、10代安貞に至りて、文政3年居を皆川氏の陣屋一言村に移せり。10代安貞は周智郡久努西村堀越永井氏の出にして、故本社副社長永井五郎作氏の祖父五郎兵衛の弟たり。安貞の室某は伊藤家の嫡女にして内助の功多く賢夫人と称せらる。(報徳土台金知足鑑並高山藤七郎氏談)翁が幼年時代の事績は今不明に属し、あるいは学問手習いを森町五妙の某に受くといい、あるいは大日の家塾周蔵(姓不詳)先生に受くと伝えらるるも、今確証を得ず。しかれども生家に入りては父豊平の薫陶に浴し、伊藤家に入りては養父安貞によって文武両道の修養を積みたる事は想像に難からず。かくして翁は武士としての訓練陶冶をうけ、居っては養父母に孝養を怠らず、出でては皆川侯に忠勤を励みたり。※山中家記録の一部が山中真喜夫先生により「山中家盛衰記」(2009年3月発行)としてまとめられている。山中家記録に、文久2年(1862)父豊平の27回忌、母幸(こう)31回忌にあたって。子供達が一同に会し、両親の供養を行った際に兄弟がそれぞれの素志を述べたものが掛軸に貼られた巻物がある。長男豊明は自らの履歴を述べ、長女良子は浜松藩絵師に画技(丹青の技)を習っただけあって、美しい秋草の絵に所感を述べているが、里助・善六・七郎平の3兄弟はそれぞれに報徳に言及しているのが注目される。新村里助「・・・二宮尊徳先生の御良法を聞きしだい、御門人安居院義道の君にすがり、なお教えを乞い請け、その君にかしづき、嘉永6丑日光山に赴き、二宮尊徳聖に謁し奉り、曰(い)う事神のごとく身にしむ。・・・」小野江善六(豊長)「・・・相州の産安居院義道、二宮先生に随って興国安民の道、実地に正業を学び、・・・拙もまた、その道に志し、右義道の教えに随い荒地開発、町柄取り直し、借財返済の仕法わずかに行うといえど、いまだ半途にしてその終わりを見る事あたわず。・・・」伊藤七郎平「・・・二宮尊徳先生の良法門人安居院義道大人に随って教えを請くるといえども、未だ寸端を得ず。・・・」(同書p59-60)この山中家の3兄弟はいついかなる時も、報徳の教えの実践・普及から離れることはなかったことがわかる。彼らこそが遠州地方で御仕法が盛んに行われるようになった原動力でもあったのである。
2026.02.19
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)浄土真宗村田静照との出会い その7仏心の信心いろんな人が行っても、あの和上に会っちゃ歯が立たなかった。悪たれが行って、さんざん世を呪い、人生を呪って、言いたい放題言って、死ぬことなんか屁でもないなんて、言った。それが帰るとき、寒いときだったので、玄関に立ってふところから手ぬぐいを出して頬かぶりした。すると、「いのちの要らない者でも寒いかえ」 って。死ぬなんて言ったって、糞くらえと思っているんだからなあ。和上は、万事がこの調子なんだ。そのくらいになったら、もう恐いものなしだわな。 事実、わしは、これなら修行して悟ったなんて威張ってる奴は逆におよばないぞ、と思った。だからなあ、わしは「信仰」というものについて、すっかり考えこんでしまった。信じるということは、こんなにも人を強くするものかと、驚嘆した。 わしは和上にあって、仏道に近づくたしかな道に「信」と「悟り」があることをはっきりと認識した。それまでは、自分は禅の修行をしたので、「悟り」のほうに拠っていた。ところがどうだ。村田和上の「信」に触れたら、わしの見性などとてもおよばない。わしはもう夢中になって、みんなと一緒に念仏した。夜は12時までだ。念仏が終って、わしのために用意してもらったあった部屋へ引き上げようとして、ちょうど和上の部屋の前を通ったのだ。すると、和上が、「ちょっと寄っていきませんか」 という。そこで2人で信心の話をする。和上は禅のことを聞きたがる。わしは一所懸命、禅の話をしてあげる。わしはまた、門徒の信心について思いっきり聞こうと思って、2人で・・・・10月の下旬だった。夜の長いときだ。 2人で話し込んでいるうちに、ランプの油がなくなって、真っ暗なところで話していたら、窓が明るくなったよ。そしたら和上は、「まあ、ちょっと寝たふりしましょう」 とおっしゃるから、2人別々に自分の部屋へもぐって寝た格好をして、起きたことがある。 こんな感激に富んだ時って、めったにない。わしはこの時に、ほんとうの目が開いた気がしたなあ。悟りということと信ずるということは、行きつくところまで行ったら、まったく同じものだと。わしの「仏心の信心」の提唱はこのとき始まったといってよい。 だから、村田和上という人は、わしにとって大事な人だ。去年の1月、わしは伊勢へ行ってお墓に、おまいりしてきたよ。「村田和上のお寺に、おしげさんという七十を越えたお婆さんがいた。この人が涙を流して話してくれたのを、わしはこの耳で聞いた。先代の東慶寺さん(佐藤禅忠和尚)も一緒だったなあ。信心に入った話をすると、感激で感激で、涙があふれてくるんだなあ。わしらも打たれたよ。 おしげさんは在家の人で、四日市のお嫁さんだった。若い夫が、早く死んだ。その人の家は門徒宗で、後に残った舅も姑も、口を揃えて、死んだ息子は極楽へ行ったという。先祖も極楽、息子も同じ極楽、そう信じて疑わない。ところがおしげさんだけが、わからない。安心がわからない。わからないということは、自分だけは地獄へ連れていかれるのだろうかと、もう心配で心配でたまらなかった。 その頃、本山参りといって、村から行く団体で京都の本願寺へ行った。そこであっちの説教こっちの説教と、むさぼるように聴いてまわったが、どうしてもわからない。どうしようかと思っていたら、博多に立派な和上がおられるという。七里恒順和上だ。そこへ行こうと腹を決めていたならば、別の人から、そんな遠くまで行かなくても、伊勢に尊いかたがあられるという話を耳にした。実際に七里和上の許へ訪ねていったら、伊勢に村田が居るのに、なぜわざわざそこを通りこして九州まで来たか、とこう言われたというんだ。そんな人がいるのかと思うと、もう矢も楯もたまらない。団体行動を途中からぬけ出して方角違いの伊勢の方向へ戻ってしまった。和上は、ちょうど御飯を食べていたそうだな。おしげさんは、その時の情景をいつまでも憶えていた。貧乏寺で、お漬け物の菜っ葉を、こう、口にくわえていたという。そんなところへ行って、いきなり信心をうかがった。「阿弥陀如来は、どんな罪深いものでも救うという誓いをたてておられるっていうこと、本当ですか?」「本当じゃ」「なにか証拠がありますか」―――。みんなこうだ。これがいちばん困る問題なんだなあ。「証(あかし)」をたてるという。信仰や悟りに証なんて、普通の人間世界の、受取みたいなものがあろうはずはない。 いいかな。そうしたら和上は、うーんといって、「お前さん子供があるか」 という。「はい、あります」「学校へ上げたか」「上げました」「手続きもしたか」「はい」「そのとき、先生とおまえとで、いろんな話し合いがあったろ」「はい」「そうか、それを全部、子供が理解していたか? 親と先生とでどんな話し合いがあって、どんな内容があって、どんな手続きがとられたかということを、いちいち子供が心得てなきゃ学校へ入れないか。仏さまの御誓願もそうだ。 阿弥陀如来の救いの手続きはすっかりすんでいるのに、凡夫はなお不安に思う」 と、こうおっしゃった。 それは、悶々として、ちょうど煮えくりかえっていたお湯の中へ、水をダブンと入れたようなもんで、「うーん」と、これだけでいけちゃった。いままで如来さまの御誓願を疑ったことはまことに申し訳ないと、それでもう泣いて泣いて、嬉しくて嬉しくて・・・・・それでもう泣いて泣いて、嬉しくて嬉しくて・・・・・それでまあ、それがわかったら帰れよ、と村田和尚はおっしゃったが、帰らない。お寺の門前に宿をとって通ったんだなあ。 国では舅が、村の団参が帰るというので村のはずれまで出て待っていると、うちの嫁だけ帰ってこない。どうした、といったら、伊勢の村田和上のもとへ行ったという。なんと、目と鼻の先だ。子供たちもがっかりするので、舅が迎えに行った。すると、どうだ。嫁は開口一番、「お父さん、そんなことじゃない。後生の一大事をうかがって、私は本当に・・・・」 と泣いちゃって、「お父さん、ともかく一緒にいらっしゃい」 といって、ひきずるようにして和上のもとに連れていって、縁を結ばせた。和上は、その人をも教化なすったけれども、そのおじいさんは、おしげさんのように行き詰ってなかったから、徹底はできなかったようだ。 信仰というものは、こういうものなんだなあ。こちらに問題がない人が、掘り出し物を漁るようなわけにはいかん。こちらに問題がなけりゃ駄目だ。「大疑の許に大悟あり」と禅でいう。疑いが大きければ大きいほど、悟りもまた大きい。信心でもそうなんだなあ。行き詰っている人なら、ダーンといける。
2026.02.19
永平初祖学道用心集 6-19道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その19 さて、「釈迦老子云く」これは釈迦と老師じゃない、お釈迦さまのことを尊称して釈迦老子という。坐禅の旗がしらを老師というのも尊んでいうことじゃ。お釈迦さまのことでも、老という字のつくのは尊称である。「観音流(ながれ)を入(かえ)して」これは観世音菩薩のことじゃない。観と音じゃ。観は主観のこと、音は向こうのことで客観、これが流れをかえしてというのは、じゃんと鳴った音が耳に聞こえてということである。「所知を亡ずと」これはかっこ『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』の中に「知を亡ず」とあるが、道元禅師が自由な文章で、「所知を亡ず」と「所」の字を一字よけい入れられた。 昔の歌に 月やわれわれや月かとわかぬまで心もそらに澄める月の夜 という歌がある。自分が月か、月が自分か、そこのところの継目がわからなくなるまで澄める夜の月と、良寛さまは妄想分別がのうて、こういう気持ちに、いつでもなれる人だったと見える。おかしな人じゃ、あの人は。良寛さまのところへ亀田という人が訪ねてきたので、足を洗うのにすり鉢に水を汲んで出した。そこで「すり鉢じゃありませんか」といったら、良寛さまは「いや、足も洗えます」とすましたものじゃ。それから亀田某がとまったら、良寛さまがどこかへ出てゆかれた。どこへいったかしらんと思ったら、茶碗二つ三つ持って帰ってこられたので、「どこへ行かっしゃった」と問うたら、「いや、お茶を汲むのに、あなたに汲む茶碗がないので墓場で借りてきた」良寛さん亡者のやつを借りてきた。それから四方山の話をしておったら日が暮れかけてきた。そこで良寛さまが、「酒飲みたいか」といったら、「あったら結構じゃ、いただきましょう」と亀田がいった。すると良寛さまが徳利持ってさっさと坂を下りていったと思ったら、いつまでたっても戻ってこない。はじめてのところで、おまけにあばらや、夜はだんだん更けてくるし、不気味な気持ちがする。迎いがてらそこまでいってこようと思って、少し坂を下りかけたら、そこに人間がおる。徳利をごろんと転がしたままでお月さんを見ておった。「良寛さま」と呼んだら、「はい」「酒は?」というたらはじめて「おう」というて、それから徳利持って下へおりていったという話がある。あまり月がよかったので、徳利ほうり出して酒買いに行ったことを忘れてしまった。良寛さまという人は、月やわれ、われや月かとわかぬまで心もそらに澄める月の夜、のんきといえばのんきで、月の夜は月のようになってしまえる人だった。われわれはお月さんどころじゃない。酒の方がよい。お客さまが待っている。そういうことに邪魔される。「観音流れを入して所知を亡ず」どっちが主観とか、どっちが客観とかいう継目がなくなる。拝まれる仏も拝む衆生も継目がなくなることである。(「沢木興道全集」第2巻p.152-154)
2026.02.19
192二宮翁夜話巻の5【29】尊徳先生がおっしゃった。九の字に一点を加えて、丸の字を作れるといういうことは面白い。○はすなわち十である。十はすなわち一である。「元日やうしろに近き大みそか」という俳句がある。またこの意味であろう。禅語にこの類の語が多い。この句は「うしろに近き」を「うしろを見れば」とすれば、一層面白いといえようか。二宮翁夜話巻の5【29】翁曰く、九の字に一点を加えて、丸の字を作れるは面白し、○則ち十なり、十は則ち一なり、「元日やうしろに近き大卅日(おおみそか)」と云へる俳句あり、又此の意なり、禅語に此の類(るゐ)多し、此句「うしろに近き」を「うしろをみれば」と為さば、一層面白からんか。
2026.02.19
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望み後生一大事とは楽屋住まいp.38-44 浄玻璃(じょうはり)鏡(かがみ)(閻魔が亡者を裁くとき、善悪の見きわめに使用する地獄に存在するとされる鏡) 昭和2,3年と打ち続いて農家の不作につれ、小作争議が盛んとなり、農民組合等が出来て、田舎にも賀川豊彦じゃの杉山元次郎じゃのという錚々たる名士の講演があり、一方天理教が発展して他村からは妙な村じゃと噂されるようになって、「これは精神的の欠陥、住職の大責任じゃ!今のうちに何とかー。」とごうごうたる世評に悩みぬいて和上のもとにはせ参じました。河崎の5月は有難くも少人数で張り切ったお念仏が続きました。いつになく和上初めからご出座であの地響きするご相続、恍惚と入る冥境はホンニここのみに限られた現世のお浄土のように感ぜられます。 もうお尋ねしようか、もう低頭しようかとためらうていると和上重々しい口調で、「私が若い時、津の西来寺(さいらいじ)で学問している時分、ある方がみえまして座主にだんだんと申し立てられる。 近ごろ日本にヤソ教がはいって来て盛んにひろまる。今のうちに仏教家が立たなかったら遂にヤソ教にやられてしまう。どうしたものじゃろう?、といろいろ心配げに話されました。その時の座主は平気でー、ヤソ教がまた他の教えがひろまったとて、日本国中をやってしまえ!いや五大州もやってしまえ!」 合掌念仏、頓(とみ)に高らかでまたあの地響きはやまりません。不問のうちにこの明答!意中のメスは寒さを覚えて、にじむ涙にその慈誡を頂礼致しました。自分一人さえ後生大事になって、「ハマッテ」念仏すればそれでよいのだ。他を顧みる余裕すら持たぬキワドイ命なのだ。私一人をしてこの如来の矜哀(こうあい:深く哀れみ、悲しむ)を知らしむべく、かくも念の入った念仏者を集めてのご縁なのだ。 と、それからそれへの省察は続いて七里和上の「ヒゼンカキのご意見」も偲ばれて、頭は上がり得ません。 それから2,3日してのご縁であります。3,4名の僧衣の方も見えられました。「先日、越前のあるお寺様が来られまして、村の小作争議の中へはいらねばならん事になりましたが、どうでしょう?とのお尋ね。越前では寺院の住職というと、郡長さんや県知事さんよりも偉いように尊んでおるのですから、それまでにもそういう人たちがたびたび入られたのじゃが、それでも片付かんゆえに遂にお寺を頼みに来ましたのじゃ。」 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 そこで私がその方にいうに、「もしあなたがその中へはいってうまく争議が片付いたらどうします。ソラもうちゃんと片付くようにして最後に寺院が出ればうまく話がつくと、チャンと仕組んであるのじゃからキット片付きましょう。 そうしたらこの後、ソレこれもお寺様、あれもお寺様と何でもかでも寺を引っ張り出さにゃおわまらん事になって、この末どんな事になるやらわからん・・・・・。 寺院がソンナ事に時間を費やしておる暇があるものですかー南無阿弥陀仏。 我が後生の一大事をほっておいて。寺院が近ごろ社会事業じゃ、ヤレ日曜学校、ヤレ託児所などとえらい事ではない。お念仏申すのが一番の社会事業。」 まことに我が身に適中してご意見で、涙汗もろともに念仏の縒(より)ひとしきり。「名誉や地位はお念仏申さぬ人にお与えじゃ。南無阿弥陀仏。人間の一生は急行列車のスレ違い、その中でこれもあれもとは夢の中に夢見ているようなもの。」 省慮のめぐる矢先、懴悔の涙のさきざきへと鋭い和上の舌鋒はいよいよ冴えて、胸中尽して浄玻璃の鏡の前にさらされた心地し、思わずひれ伏しました。 そして最後のご意見に、「一カ寺の住職になりたいようなキンチャク心を持っておる者は、わしの連れじゃないわい!」と凛乎(りんこ)として霹靂の一語、後は何ものも犯し得ぬ泰然たる高称に真の獅子吼を諦聴(たいちょう)いたしました。
2026.02.18
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