MM2022のブログ

PR

×

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2026.02.23
XML
カテゴリ: 坐禅
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)

突然『柝』が鳴った その2

「修行」

 そのうちに年が改まり、1月の下旬だった。いつものように夜おそくまで坐っていて、線香8本で立とうとしたならば、立てないのだ。左の手と足が氷のようになってしまった。右は普通、左半身だけ変になっている。寒い中で坐ったからだろう。這うようにして自室に帰ったが、翌る朝なおひどくなっている。仕方なしに師匠に申し上げたら、医者へ行けという。そこで得た診断の結果は、脳神経衰弱というんだ。つまり神経系の病なんだな。神経がやられちゃったんだよ。うまくしたものだ。長い禅の歴史と経験から、20歳にならなきゃ雲水に出さないというのは、そういう教訓を踏まえていたんだなあ。

京都へ行ったり、春先、東京へついて行ったり、熱海にも行ったなあ。そのうちに、やっぱり若い体だな、じきにもとのように回復していった。再び坐れるという自信がつき、それからまたお寺の仕事が終わってから線香8本の日常だ。
 そうこうしておるところに兄弟子の伊藤宗真先輩が帰ってきた。
―話をむしかえすようだが、わしが清見寺へ入った翌年の春、12歳、凄い兄弟子に会った。鎌倉から来た堂々たる雲水だった。たまたま、向かい合って坐っていた。わしは小僧だからちょこんとしていた。すると相手は。
「私は伊藤宗真であります」
 といって、きちんと正坐し、両手をついてきわめて丁寧に12のわしにお辞儀をした。わしは魂消たぜ、ほんとに。初めて人間に拝まれたような気がして、わしは驚いた。驚くとともに、こんな堂々たる雲水から対等に扱われるのは、ともに仏弟子という暗黙の了解にほかならない。この暗黙に通じ合う世界を裏切ってはいけない。拝まれた自分を汚してはならない。それにはせめて嘘をつかないことだ。
 しかし、短命だったなあ。この人、清見寺の住職してて3年目に39歳で早世した。―

 伊藤宗真先輩は、わしが特に許されて、暇さえあれば坐禅しているのを見て驚いたらしい。驚いて、なんとかしてやりたいと思ったのだろう。ある日、こっそりわしにいう。
「おまえがそれほど坐禅がしたいならば、どこへでも修行に行くがいい。こころざすところへやってやろう」と、こうだ。
「おまえのような石地蔵みたいに時間さえありゃ坐っとる奴は、うちにいても使いにくいから、ひとおもいに僧堂へ行っちまえ」・・・・
 師匠も意外にあっさり、許された。
 明治42年の3月だった。わしは18歳。師匠は、どこへ行きたいか、と問う。わしは即座に「妙心僧堂」と答えた。京都の妙心寺だ。師匠が修行を終えられた僧堂だ。
妙心寺僧堂が、単に禅風が厳しいというだけでなく、その年、妙心開山の550年遠忌があり、大勢の雲水や有名な老師がたが集まられることを知っていた。こういう機会はめったいない。師匠も快諾してくだすった。
 わしは、天下晴れて雲水になった。庭詰めも旦過詰(たんがづめ)も苦にならなかった。・・・・・
 遠忌は4月からだった。この大法会に、わしの師匠も円覚寺の釈宗演老師もおいでになった。雲水が500人も集まる法会だからな、全国の臨済宗の宗匠がたはほとんど来られた。宗演老師が特別講師として「わが宗の安心(あんじん)」という題で講演され、諸宗匠がたはそれぞれ独参を聞かれて、日夜、雲水を指導されていた。
 このときの宗演老師の講演について、いつまでも心の底に残っている記憶がある。南禅管長の豊田毒湛老師の話だ。この人、本来ならばその法会の主役をつとめるべき立場にあったが、それを先輩に当る梅林寺の東海猷禅老師にゆずっておられた。それほどの人が、宗演老師の講演を聞いたあと、
「これこそ、何百遍も生まれかわり、死にかわって、ご修行をなすったかたであろう」といわれたというのだ。・・・
 法会が終わった。いよいよ僧堂の本格的な修行期間の雨安居(うあんご)が来た。僧堂の師家は池上湘山老師で、行持綿密なかただった。・・・・・わしの修行がすすまない。僧堂にさえ入れば、と気負っていたようにはいかない。日夜、懊悩の連続だった。・・・
 白隠禅師の経験されたような痛快な心境の体験ができないのだ。それも要するに自分の坐禅修行の真剣さが足らないためと自らを責め、どんなに苦しんでも自分が満足するまで徹底してやるほかはない。禅堂での打座はいうまでもなく、時間外の深夜、堂外で坐る夜坐も怠らず、ただもうひたすら坐ったものだった。
 剃髪や入浴、内外の清掃日である4,9日など僧堂のさわがしい日は、山内の懇意な寺の本堂の隅を借りて坐ったし、あるいは太秦の森へ行って独坐したり、わしはわしなりに夢中だった。それでもついに初関を通るまで、坐り始めた16歳から数えて足かけ5年もかかった。僧堂に入ってからも、臘八大接心という大変な難関が、毎年12月にある。7日間、不眠不臥で坐るんだが、それを2つまでできないまま経過したんだ。(略)
 5月だったなあ
 わしはその頃、夕方の坐禅がもっとも純一になれることを経験上わかっていたから、その日もその時間に坐っていると、経行(けいひん)といって禅堂の中を行道する合図の「柝(たく)」が鳴ったのだ。突然、鳴ったのだな。突然というと、すでに無字三昧だったのだろうか。胸の中はからっぽだったのだ。もっとも充実したからっぽだったのだな。
 仏心が、胸にひびいたのだ。柝の音がそれだった。自分がそこに坐っていようといまいと、柝は鳴ったであろうと。それがひびいたのだ。まさに仏心とは、それだ。(略)
 わしは、独参の喚鐘が鳴ると、ほとんど地に足がつかない有様で、湘山老師*のもとへ馳せつけた。
「できました」
 と言った。本当は、柝の音をたしかに聴きました、といったほうがいいだろう。それから老師との間でいくつかの見処と拶処のやりとりがあった。わしにとっては「死んでも死なぬ」ということなんだなあ。


Web書画ミュージアム 池上慧澄(湘山) 頂相
*〔1915年〕の十一月五日、ようやく彼(久松真一)は、植村宝林の紹介により、植木義雄に伴われて、妙心寺僧堂で池上湘山に初めて相見し、まず小手調べに『大応語録』提唱の聴講を許された。彼が湘山から受けた初印象は、一塊の鉛の如く座蒲に食い入る動かし難いどっしりとした落ち着きと、何ものにもかかわらぬ屈託なき洒脱さ、安らかさ、無心さ、人為的な学知や有為善のすり切れた素朴さと、犯し難い威厳の内から溢れ出る温かい親しさと、錆びた黄金のような艶消しの美しさといったような、いいつくし難い複雑な、極めて深い味のものであった。初対面の彼にかような印象を与えた湘山の本来の面目こそ、彼が心の裡に描いておった憧がれのイデアであったのである…





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.02.23 03:00:05


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: