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ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その4
三 翁の報徳社入門と仕法
翁が報徳の入門は時代詳らかならず。嘉永6年には実兄新村九郎右衛門氏の日光行きありたれば、その年代以前において翁が報徳を耳にしたる事は想像に難からず。また安居院先生との会見も考証を欠く所なるが、恐らくは嘉永年間の出来事なるべく推測せられたり。その初め会見において安居院氏は翁に「無」の一字をもって教訓を与えらる。その歌に(報徳学研究会雑誌並びに高山藤七郎氏談)
無となりてここを先途と勤むれば 月日のたつも知らぬなりけり
無となりて有にうつりけん 孑孑 の 蚊と変化する次第色身
こは報徳の道に志すもの、まず自己を無にせよとの意ならんか。しかして安居院氏の道歌になお
無となれば徳の多きを知らずして 損の有に入る世の習いとは
の一首あり。無の意義に至りては安居院氏深く徹底する所あるが如し。かくして翁はひとたび安居院氏と会見して、 恰 も積年憧憬しつつありし一大光明に接したるごとく、実に手の舞い足の踏む所を知らずとまで、深く感奮し、その感化は安政年間開拓の事業を現出するに至る。これらを回想すれば翁が燃ゆるがごとき忠勤の精神は、安居院氏の報徳教訓によりて、 恰 も可燃質の上に一点火を与えたるに外ならざりしなり。爾来安居院氏はしばしば一言村の居宅に招ぜられて、滞留数日報徳の教義を注入されしが、なかんずく先入の「無」の一字に至りては翁また深く体得する所ありしと覚しく、家を軽んじ身を忘れて公共の事に尽瘁せられたり。しかして安居院氏はその結果より余りに投薬の効顕著なるに杞憂する所ありてか、更に別方面の教訓を与えたり。曰く、「自己のためを考えよ。これすなわち人のためをよくするなり」と。コハ淡山先生の物語られし所にして、一見前者と正反対にして利己主義の主張のごとく見ゆるも、いわゆる人を見て法を説くの類にして、特に伊藤翁の行動に徴して教戒したるものと見るべきなり。
当時、岡田無息軒(佐平治)先生と翁とは道友の関係なりしが、翁が年少なるに拘わらず報徳の信念厚く、励精の人物たるに感じ、資産において 軒輊 〔差があること〕ありしも「見所あり」とて長女そう子を伊藤家に嫁せしめたり。そう子はすなわち淡山先生の姉君にて、爰に岡田家と伊藤家とは報徳同志の関係に止まらずして姻戚関係を生ずるに至れり。しかしてそう子は 伉儷 〔夫婦〕全からず、明治9年41歳にて一女せつ子を残して没せられたり。
翁が報徳の教義に浴して、一家の分度を樹立し、その度外資金をもって君家の采地を興復せんとせられし事は前述のごとくにして、事は維新の政変に会して中止の止むなきに至り、爾来翁は殖産勧業の方面に意を注ぎたりしが、その後に至り事業として見るべき 首 なるは左の難村興復の仕法なりとす。
難村興復の御仕法事業に関与せしは、山名郡中野村、同蛭池村、豊田郡 虫生 村の仕法是れなり。中野村の仕法は岡田無息軒先生の主管する所にして、翁はその補助なりしが、先生は老体の事ゆえ、その指揮を受けて、内外の経営、実に翁の力に待つ事多かりしと聞けり。更に伊藤翁に依頼せしものなり。しかして以上事業の大要を摘録すれば
•一、山名郡中野村、(現今磐田郡豊浜村ノ内)〔現磐田市福田町〕
文久年度より掛川領中の難村なり。領主より岡田佐平治氏に仕法立入の申付あり
その際老体に付き翁は賛助協力したるものなり。
着手 明治3年某月
村高593石余、戸数105戸、内潰家17戸現在88戸
借財 5,735両2分3朱永48文5分2厘
右仕法年限10か年、明治13年12月満尾
•二、山名郡蛭池村、(現今磐田郡南厨村ノ内)〔現磐田市福田町〕
着手、明治7戊年4月
村高34町9畝22歩、戸数27戸
借財3、071円39銭7厘
右仕法年限10か年、明治17年12月満尾、
•三、豊田郡 虫生 村、(現今磐田郡敷地村ノ内)〔現豊岡町〕
着手、明治13年某月、伊藤七郎平、新村理助、秋野貞次郎立入、
田畑山林87町7畝29歩、戸数26戸、人口100人、
借財2、733円47銭
右仕法年限10か年、明治22年12月満尾、
仕法地には必ず左の帳簿を備う。
•一、借金取調帳、
•二、借金仕法帳、
•三、諸借金軒別仕法帳、
•四、旧復仕法中議定帳、
•五、相続仕法帳、
•六、本業出精人入札帳、
•七、本業出精人譲田請書、
•八、貧窮人譲金請書、
•九、 縄索 出精人 譲鎌 請書
右の内、蛭池村における仕法は、本社弁務八木良平氏によって事業の状況、翁の活動ぶり一班を聞く事を得たるにより、以下記述すべし。
蛭池村は数年前より水害旱魃の被害を蒙りて負債累積し、一村衰弊の極、今や座ながら滅亡を待つの悲境に沈淪したれば、これを浜松県庁に出願し、遂に翁を煩わすに至るものなり。翁は 請 に応じて、明治7年3月1日をもって同村に出張し、八木氏の邸宅に逗留する事40日間、一村現在の状況を調査して、然る後に10か年間に興復の仕法を授けたり。その間翁は毎朝未明に起きて村社に参拝し、毎戸を一巡す。帰れば直に机に向かいて調査を開始す。家人起き出づれば、翁は既に一巡し終わりて机にあり。食事終れば助手なる八木良平、八木伊平二氏に取調帳等を筆写せしむ。その第一着手は、借財金額の調査にして、一村の債務は申すに及ばず、全村毎戸軒別に精査したる上にて、借金取調帳を作製す。この借財の種類、金額に按じて返済の法を立つ。ある者には歎願用捨を乞い、あるは年賦払い一時返金とし、爰に債主との協定成立すれば、返済法を仕組み、これを各戸の借金帳に記載す。借金仕法帳には各戸の借金高と償還法を記載し、各自の所有地、面積、家族の人数並びに年齢を付して参考とす。仕法中は村民一層の発奮努力を要すべき時なるをもって勤倹を厳守せしむるために議定書を作りて署名捺印せしむ。また毎戸には 縄索 を奨励してこれを蓄積せしめ、村方借財は報徳金を借用して来たりて即時返金の分を完済し、個人相対の賃借は仕法中据え置きを約し、更に篤志家(岡田佐平治、伊藤七郎平)の加入金を得て6反歩の田地を買い求め、毎年入札法により、五等に分かちて、出精人に作り取りをなさしむる奨励法を設け、なおまた 極難貧者 には 恤窮法 を設けて生計を立てしむ。以上の方法を設くるに至るまでを仕法準備の事務とし、毎朝未明に始まりて夜は10時をもって限りとす。その間昼時に至れば、その座にある村人に対して教訓を与う。しかして仕法は一の徳化政治なれば、法律命令によりて強行し得るものにあらず。村民一同衷心よりして信頼するにあらずんば、到底行なわるべきにあらず。故にその準備時代においても単に仕法の立案のみに止まらず、行なわしめんがためにまず教ゆるものなり。故に人格崇高にして精励恪勤、翁のごとき者にあらずんば、何人もよくする所にあらざるなり。翁の励精なる40日間少時の 倦怠 もなく、毎日同じ日課を繰り返さるるには、村民一同の敬服する所たりしなり。八木氏は翁の逗留中一回たりとも翁に先んじて寝を出てんと勤められしも、氏の起き出つる頃は、翁は既に机に向かえり。しかして翁の机に向かえる時は既に村内一巡の一課を終わりし後なり。かくして八木氏は40日間試みて、一回も翁に先んずる事を得ず。その精力の絶倫なるに驚嘆せりと。蛭池村は、翁の指導により、村民よくその趣旨を遵奉したれば、その後に至りて仕法 満尾 〔完結成功〕して、回復の効を奏したり。それより蛭池報徳社も組織したるが、翁は一村の恩人なりとして崇敬措かず、明治45年には結社30年の紀念を挙行して翁のために盛大なる法要を営み報恩の道を講ぜり。(蛭池村仕法書並びに八木良平談)
虫生村の仕法もまた蛭池村におけると同様なれども、同村には蛭池村における八木氏のごとき主脳人物なかりしため、翁の苦心する所もまた一層深かりし由、翁見付村第二館常住の後も、同村の世話係等しばしば来訪して翁の指導と教戒とを受けたるが、その言辞 剴切
(最も適切なこと)にして誠心を籠めたるものなりしと云う。(水野信之助君談)(※)
※「報徳に生きた人びとー報徳家略伝抜書帳」八木繁樹著p85-95に現代語訳がある。
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