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ルビ補注「伊藤七郎翁伝」鷲山恭平撰 その6
明治23年は帝国議会開会せられ、岡田社長は衆議院議員に当選し、爾来数年間は中央政界に在り手奔走せられたりれば、従って報徳社の事務は内外伊藤翁によって処決され、一時見付第二館は報徳の中心地たるの観あり。しかして翁の身体は実に寸暇を与えざりしに拘わらず、翁の精力主義はますます発揮され、内外の事務を処決して少しの渋滞を見ざるのみならず、あるいは遠来の訪問者に応接し、あるいは各地の講演に臨み、その間また時々深見の自宅を見舞いて家政の興復に心血を注ぐ等、東奔西走実に電光石火のごとく、その抜群なる翁の誠心、翁の精力にあらずんば何人も模倣しあたわざる行動たりしと云う。
明治26年12月、京都府知事より静岡県庁へ管内報徳社員中、特に報徳の主旨を守りて経験あるもの1名を 聘
2月15日 乙訓郡向日町 聴衆 90名
同 16日 紀伊郡伏見町 同 75名
同 17日 宇治郡醍醐町 同 50名
同 18日 久世郡広野町 同 121名
同 19日 綴喜郡田邊町 同 60名
同 20日 相楽郡木津町 同 34名
同 22日 愛宕郡田中村 同 97名
同 23日 葛野郡太秦村 同 72名
同 24日 南桑田郡亀岡町 同 70名
同 25日 船井郡園部町 同 70名
同 26日 同 檜山町 同 123名
同 27日 同 三宮村 同 90名
同 28日 何鹿郡綾部町 同 138名
3月 1日 天田郡福知山町 同 67名
同 2日 同 額田村 同 15名
同 3日 加佐郡北有路村 同 111名
同 4日 同 舞鶴村 同 92名
同 5日 同 志楽村 同 33名
同 5日 同 舞鶴村 同 20名
同 6日 與謝郡宮津町 同 93名
同 7日 同 加悦町 同 70名
同 8日 竹野郡徳光村 同 86名
同 9日 同 網野村 同 10名
同 10日 中 郡峰山町 同 80名
同 11日 竹屋郡網野村 同 55名
右巡回終わりて、3月20日京都府を発し、帰路岐阜県恵那郡有志者の招聘により同地を巡回す。歴遊の個所左のごとし。
三郷村野井、蛭川村、苗木町、中津川町、上村
更に愛知県に入りては左記の通り歴遊す。
八名郡 豊津村報徳社
同 加茂村報徳社
同 荻 平報徳社
右巡回し終わりて、4月1日第2館に帰る。京都府庁より巡回報酬として、金50円を贈与されしが、翁は直ちに本社土台金に寄附せり。
更に同年5月8日には、福島県岩代国大沼郡大登報徳社その他有志の招聘に応じ出発し、左の個所を巡回せり。
大沼郡西川村 大登報徳社 社長 馬場 庄平 社員84名
同 本名村 本名報徳社 同 渡邊 仙吉 同 22名
同 横田村 横田報徳社 同 横田八重吉 同 52名
同 川西村 小山報徳社 同 堀内竹次郎 同 23名
河沼郡柳津村 柳津報徳社 副社長 目黒 重介 社員86名
同 笈川村 笈川報徳社 社長 大塚七三郎 同 32名
同 堂島村 堂嶋報徳社 同 伴野千代八 同 22名
耶摩郡慶徳村 慶徳報徳社 同 穂積 光雄 同 55名
北会津郡若松村 若松報徳社 同 樋口 真彦 同 85名
安積郡三代村 三代報徳社 同 二瓶貞四郎 同 28名
同 三和村 富岡報徳社 同 瀧澤 道音 同 26名
同 豊田村 豊田報徳社 同 齋藤彦四郎 同 24名
同 鍋山村 鍋山報徳社 同 橋本 文治 同 28名
石川郡泉 村 中 報徳社 同 二瓶貞四郎 同 28名
同 同 瀧崎報徳社 同 矢吹 末吉 同 24名
同 同 泉 報徳社 同 岩谷 巌 同 43名
右巡回し終りて、6月6日帰館せり。
同年7月に至りて、志太郡大富村村長村松半兵衛、和田一色村村長村上邦平両氏の請求により同12日より左記各町村を巡回せり。
益津郡焼津村 誠心報徳社
同 豊田村 三ヶ名報徳社
志太郡大富村 上小田報徳社
同 中根新田報徳社
同 道栄組報徳社
同 一色村 一色報徳社
以上のごとく明治27年は遠州以外における講演多くして、翁は殆んど半歳を出張巡回に費やし、従って翁の努力は至る所にその効果を奏して簇々結社を見るに至り、本社の監督を受くるものまた少なからざるに至れり。
明治28年7月28日よりは駿州地方へ出張し、8月3日帰還せり。
同年中、翁の報徳会へ臨席したること155回にして、巡回日数115日なり。
明治29年に至り、伊豆国賀茂郡下報徳結社のため、郡長池田忠一氏より請求あり。
同11月22日出発沼津町より海路松崎に上陸して、各地を巡回し、同12月4日出立、天城山を超え沼津町一泊の上帰還せり。
同年中翁の報徳会合へ臨席したる事182回にして、巡回日数は166日なり。
明治30年10月5日出発、駿東郡富士岡村神山、二子中清水報徳社を巡回し、同9月同村報徳の名家竈新田小林秀三郎氏を訪問して帰還せり。
同年中翁の各地へ出張したること175日なり。
明治29年頃より翁は胃病を煩い、爾来健康勝れざるより、明治30年1月現量鏡終了後、幹事永井、神谷外6名の諸氏は、席を曲泉亭に移して協議し、老体の翁をして永く会計の重任を一任するに忍びざれば、以後は布教専務として本社のために努力を乞わんと、これを翁に通ぜし処、翁も大いに悦ばれ、その協議を容れしより、会計主任に永井五郎作氏を推し、監査主任に神谷喜源治、八木良平、守屋芳太郎の3氏を挙げ、翁は是より巡回その他講演に従事し、専ら布教の一時に力を致す事となれり。然しかく翁は会計事務を割きて幾分閑散の位置にありしが、勤勉なる翁は徒に閑日月を貪るべき人にあらず。熱心社務に抂掌し、またよく巡回出演して、楽しみもって憂いを忘れ、老いの至らんとするを知らざるもののごとく。ことに病後にありて静養を怠らざるも、報徳社の事に関しては医師の言と雖もこれを用いず。斃るるまでは止まざらんとする、その行動は諸氏の敬服する所たり。(神谷喜源治氏談)
翁の第2館在勤中に、各府県有志の来訪少なからざりしも、なかんずく福島県の渡邊禎治氏、越後の小山市郎氏、聴衆の吉村某は永く本館に滞在して研究を重ね、帰国の後はそれぞれ結社を計画せられたり。なかんずく渡邊氏は感激の余り、実弟季吉氏を翁に託してその薫陶を仰ぎたるほどなり。そのほか遠近有志に結社法を指導したる事は枚挙に遑あらざる次第なり。(水野信之助君談)
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