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2026.02.25
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カテゴリ: 坐禅
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)

煩悩のまま その1

「仏心の生活」

p.104-127 煩悩のまま 仏心の生活

 禅にも「信心」がある。いや、実参実究を重んずる禅だからこそ信心が必要だと強調したのは、たしかにわしだ。わしがわしの思い付きで、あるいはわしの修行の結果としての一種の境地から、突然こんなことを言い出したのではない。

 なるほど「仏心の信心」にいたるまで、わしはわしなりに悩んだよ。苦しみもしたよ。とりわけ、年老いたいとこから、禅では行じ得ないものは救われぬのかという公案をつきつけられてからは、死んでも死にきれないという切迫感に追いつめられるような日々だった。しかし、この道にすすんだら、誰でも通らねばならぬ道といってよく、あるいは、禅の修行をしたものは、誰でも似たような心境に立ち至ったのではないかな。
 有名な達磨大師のお言葉にもあるのだ。・・・・・
 達磨さまは、禅の要諦を、
「直指人心 見性成仏」
 と、まことに簡潔に示された、ということになっている。わしの調べた範囲では、達磨さまのご著作のなかにそのような言葉は見当たらないけれども、そんなことは、どうでもいいや。いずれにしても、禅の本質というものをきわめて端的にあらわした言葉だ。
 要するに、直指人心・見性成仏。・・・・・・自分の心の本体を究めてみよ。めいめいのなかにある「仏心」にめざめて、安心(あんじん)を得るというのだな。
 「仏心」にめざめるとは何か。
 達磨さまのご著作のなかに「四行観」というのがある。いってみれば、直指人心・見性成仏ということの実践を体験的に述べられたものだ。その冒頭に、
「理入」
 という。これは「理入」と「行入」の二つの項目があって、あとの行入のほうには、人生の見方について四つほどの注意がされている、いわば具体論だから、禅にとっては「理入」のほうがたいせつなのだ。
 その「理入」というのがほかでもない「仏心の信心」なのだなあ。その意味はこうだ。
人間は誰でもお釈迦さまの悟られた「仏心」とおなじ「仏心」をそなえている。その仏心が見えないのは、なぜか。それが煩悩のせいなのだな。煩悩にくらまされているのだから、その煩悩にとりあわないで、坐禅をすれば、かならずその「仏心」を会得できる、というのだ。





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最終更新日  2026.02.25 09:00:07


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