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深山木
右は二宮金次郎のこと、これまで御領地の仕法について取り扱った次第を順を追って知っていることや私から尋ねたことにつきまして、金次郎が論じた事などを箇条書きに書いておきましたものです。そのままお見せするのも恐れおおいことですが、御内覧までに。以上
近い者は喜び、遠い者は来ると申す事に相当するかと申しておりました。
6月 鵜沢作右衛門
右二宮金次郎義、これまで御知行所御趣法に付き、取り扱い候次第追々承知仕り、なお私よりあい尋ね候上にて論判候事ども箇条書きにしたためおき候間、そのまま不奉顕恐も奉入 御内覧候。以上
近者説遠者来と申事にも可相当可哉之旨、申聞候。
6月 鵜沢作右衛門
「尊徳門人聞書集」において、鵜沢作右衛門について概略次のように紹介している。
「鵜沢作右衛門、諱(いみな)は苞紹、小田原藩士のうち尊徳と親交のあった一人である。寛政2年(1790)の生まれで尊徳より3歳下。文化14年(1817)代官となり、栢山時代の尊徳を知った。文政5年(1822)、桜町領復興の君命を伝達した。同11年に勘定奉行を拝命し、以後およそ24年にわたってその職にあった。禄高も数次の加増で80石となった。
天保5年(1834)、桜町領取扱兼務を命ぜられ、長期の現地調査でその復興を確認し、永安のための方策として尊徳の希望どおり、貢租の「七分免」を上申し、決定した。
同6,7年にも長期滞在して仕法の成果を調査し、小田原藩への仕法導入のため、尊徳と共同して種々の雛形や上申書を作成して、上層部へ提出したが、反応は冷たかった。
天保8年、尊徳は飢饉対策に併せてようやく領内一円の仕法を許され、作右衛門は9年、10年と勘定奉行兼務のまま、「報徳方添切」でこれに協力する。しかし同11年5月、ある蹉跌のため、退役・閉門の処分を受け、翌年9月に復役したが、報徳方とは切り離され、財政に専念させられること11年に及んだ。
嘉永6年9月、隠居が認められ、家督も勇之助に譲ったが、既に病身となっており翌年安政元年10月死去した。65歳であった。
「深山木」は、天保6年2月から6月まで桜街陣屋に出張して、尊徳の言行と仕法の成果を藩主大久保忠真に箇条書きで報告した復命書である。『全集』には「上書之写」として収録されているが、「尊徳門人集」の史料は天保8年1月、烏山藩家老菅谷八郎右衛門が桜町陣屋から借用、転写したものである。題名は尊徳の道歌「姿こそ深山がくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる桜木」にちなんだものであろう。」
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