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新渡戸稲造小伝 宮部金吾 「新渡戸稲造全集第1巻」p427-445
新渡戸稲造君は文久2年8月3日(1862年9月1日)新渡戸十次郎氏の三男として盛岡市鷹匠小路に生まれました。新渡戸家は旧南部藩の名門にて厳父は御勘定奉行を勤められ敏腕の聞えありし才人であり、母せき子氏は藩中評判の賢婦人でありました。
曾祖父伝蔵氏は儒者で兵学の大家でありました。祖父伝氏は最も傑出せる人物で、南部領内における不毛の大原野なりし三本木の開墾を計画し、十和田湖より疎水して、この土地を沃野と化するに成功した人であります。新渡戸君はちょうど稲生川の水利によって始めて籾40俵が取れた時に生まれたので、幼名を稲之助と命名されました。
厳父は祖父の開拓事業を継承して著しき成績を挙げられましたが、専らその力を三本木市街地の建設に致されました。慶応3年新渡戸君の6歳の時、厳父は他界され、その後は長兄七郎氏が事業を継がれたのであります。栴檀は二葉より芳しで、新渡戸君は幼少の頃より才気に富み又有名なきかん坊でありました。幼年時代の教育としては寺子屋で大学や論語を学んだのであります。
明治4年9月祖父は79歳の高齢をもって逝去されましたが、その遺言により同年10歳の折、君は厳父の実弟に当る東京在住の叔父太田時敏氏の養子となって上京し、名を稲造と改めました。
明治8年14歳の時、東京英語学校に入学されましたが、それ以前の学校教育については確かな事は分っていないが、藩公の経営に係るとも、慣義塾に学んだともいわれています。
東京英語学校入学当時は法律を志したのでありますが、ある夜、寄宿舎の会合で、文部省の視学係の西村貞氏が日本を富強ならしむるには有為な青年が理化工芸の学術の発達に向かって大いに努力しなければならない。徒らに天下国家の事に悲憤慷慨するがごときは国運の隆盛を期する上に何ら益するところがない、というような趣旨を諄々と説いたのを聴いていたく感銘し、同室の酒井佐保君と法律を捨て他に専門を求めることを約しました、
明治9年、明治天皇陛下には東北地方御巡幸の砌、畏れ多くも三本木駅の新渡戸家を行在所に充てさせられ、先考の存生中祖父の事業を継ぎて疎水開墾に尽力せることを聞召され、その功績を嘉し給い、異数の寵賜を辱うせしのみならず、子々孫々克く農事に励めよとの有難き御諚に接し、挙家感泣いたしました。ここに兄弟三名共に祖父の遺志を継ぎ、皇恩の優渥なるに報い奉らんとて始めて各自の志を立つることとなりたる由であります。
明治10年6月東京英語学校第一級(最上級)の教室にて開拓使九等出仕堀誠太郎氏(東京帝大教授中井猛之進氏の厳父)が校長の特許を得て、札幌農学校官費生募集の演説をされました。その勧誘に応募した者は英語学校より新渡戸(太田)稲造、内村鑑三、岩崎行親、高木玉太郎、藤田九三郎、足立元太郎、佐久間信恭、宮部金吾その他合せて12名と、工部大学予科より南鷹次郎、広井勇、町村金吾の3名その他2名で、合計17名が札幌農学校第二期生を編成したのであります。
札幌行きを決心してから新渡戸、内村及び宮部の3名の間には兄弟も唯ならぬ親密な交際が結ばれ、互いの家を訪問しあい、何くれとなく相談し行動を共にしました。その頃英語の練習の為に、談話は一切英語を用いることとし、若し誤って日本語を用いた時は罰金を徴する事にしましたが、余り犯則が多いのと且つは不便を感じた為め、その約束は暫くにして廃しました。今にして思えば全く児戯に等しき事でありますが、当時新渡戸君は16歳、内村君は17歳、僕は18歳の青年であった事を思えば無理もないのであります。
次いで7月27日付けにて開拓使より札幌農学校官費生徒を申し付くとの辞令を受けると共に、生徒は総て東京に自宅の有無に関わらず、芝の植木屋という開拓使御用宿に合宿するように命ぜられ、東京を出発するまで約一ヶ月間そのところに暮らしましたが、その際我々3人の外に岩崎行親君が加わり、4人で一室を占領し密かに4人組を組織してこれを立行社と名付けました。
その規約は身を立て道を行うというのが主旨でありました。
新渡戸君の一生を通じて最も大切なる出来事が札幌における学生時代に起こったのであります。それは君がキリスト教を信ずるようになった事であって、君は既に札幌へ来る前から信仰が萌していたものと見え立派な金縁の英語のバイブルを買って持っていましたし、札幌へ着いてから僅か一ヶ月の後すなわち10月2日旧友に先んじてW・S・クラーク先生の書き残された「イエスを信ずる者の誓約」に佐久間信恭君と共に署名いたしました。
翌明治11年6月、君は内村、広井、宮部等6名の旧友とともにハリス宣教師より洗礼を受け、爾来信仰上の浮沈はありましたが、アメリカ国留学中フレンド派の団体に入会し、死に至るまでキリストに対する信仰を全うしたのであります。
札幌農学校在学中は、明治天皇陛下の御綸旨に適い奉るため、また故郷に在る老いたる母堂を悦ばせるため、特に農学に全力を注ぎ、一年級の時には二等賞を得、二年級の時には一等賞を得られました。また英語の学力においては級中誰一人君に及ぶ者なく嶄然として頭角を露わしていました。常に読書に耽りまして学校の図書館所蔵の英書中文学、伝記、宗教等に関するものは悉く読破されたのであります。
入学当時、君は頗る快活で思慮分別に富み歳に似合わずませたところがありました。
時に諧謔を弄したり、又人をからかったりすることが好きでありました。
運動会では幅跳び並びにサックレースで一等賞を取っていました。
又好んで室内で相撲を取ったものであります。
ところが卒業前1,2年の頃より多読の結果思想に動揺を来たし、ことに神学上の懐疑に陥り憂鬱な人となってしまいました。
同級生はそこで君を呼んで「モンク」とアダナしたのであります。
君自身も卒業後何年となく手紙に必ず「モンク」と自書したものでありました。
君をして憂鬱にならしめたも一つの原因は明治13年夏、君の敬愛の的たる母堂が逝去された事であります。
しかも君は11年振りで母堂に面会するのを楽しみに札幌を出立し、途中諸所を見物しながら何も知らずに盛岡に着いたところ、2,3日前に母堂が他界されたことを始めて知ったのであって君の悲嘆は譬えようもありませんでした。
それから学校への帰塗東京へ立ち寄り、はからずも長く求めていたカーライルの『サルトル・レザルタス』(衣装哲学※)が手に入り、あたかも渇者が水を喘ぎ求めるごとき有様でそれをむさぼり読んだのであります。するとそれまでの煩悶憂鬱がさながら雲霧のごとく消え散じ、まるで復活したような気持ちになったと『随想録』に書いてあります。またその頃好んで読んでいた修養書はプルータークの『英雄伝』でありました。
※1907年9月,カーライルについて,新渡戸は一高生に対して以下のように述べている。
「カーライルは二十五六歳の年配まではよいが,其の以後は讀むに足らぬといふ人もあるが,僕は四十以上になつても依然たるカーライル崇拝で實にお恥ずかしい次第である。尤も段々年をとると,青年時代の霊魂病を患つてゐたときほどにこのカーライルといふ藥の利き目はない。それはどの樣な本でも同じことだ。けれども僕はカーライルを命の親と思つてゐるからまだ棄てはしない,屡々讀んで,殊にこれは實に明言であると思つたところにはしるしをつけて,何年何月に幾度もここを讀むと書いてある」[石井 1934: 259]
卒業に際して教頭から卒業生銘々に開拓使に仕えて何をやりたいか希望を第一第二として書いて出すよう申し渡されました。この時、新渡戸君は第一希望として Openinng up 開墾、第二希望として Crops(Sugar Beets)即ち作物栽培、特に甜菜栽培、として提出しました。この第一希望は祖父並びに厳父の遺志を継いで北海道の開拓事業に従事したい、第二希望は特に甜菜栽培を奨励して糖業を興したい、というにあります。第一の希望は後年札幌農学校教授時代に北海道拓地植民に君の貢献せる所は決してすくなくなかったのであります。
又第二の希望は明治34年、5年の頃、台湾総督府殖産局長兼糖務局長となるに及んで達せられ、台湾における甘蔗農業の基を置き、その政策を確立し、日本をして砂糖について自給自足の国たらしめたのであって、実に日本糖業の恩人と認められるに至ったのであります
明治14年7月札幌農学校を卒業するや、直ちに開拓使の御用係を申し付けられ、准判任官月俸30円を給すという辞令を受けて勧業課に出仕することになりました。
たまたまその頃、北海道各地に蝗虫がおびただしく襲来して農作物の被害著しく、これが駆除のためにも新渡戸君も同僚と共に各地に奔走して奮闘したものであります。
役所に帰ればこれという仕事もなく、自分の好きな英文学書を耽読していました。
しかしこの頃多読に過ぎた結果か、視力が非常に衰え、暫く上京して治療するのやむなきに至りました。
その後、しょうしょう快方に向ったので、翌15年の秋再び札幌に出でて母校予科に教鞭を取っておりましたが、遂に意を決して東京大学文科大学に入学
のため職を辞して明治16年5月上京いたしました。
大島正健君の追想談にこの入学に際しての外山正一教授との会見談が掲げてあります。それによると、何が目的で英文科を選ぶのかとの外山教授の質問に対する新渡戸君の答えは、「第一には若し天が許せば私は太平洋の橋になりたいと思います。
第二には英語を学んで泰西の長所を取り、日本にはまだ形が備わっていない農学という学問を起こしたいと思います」というにありました。
これに対し外山教授は第二の考えは結構だが、太平洋の橋とは何であるかと反問されました。
「日本には日本の長所があり、西洋には西洋の長所があります。東西の文明が融合しなければ文化の華は咲かないと思います。私は日本の長所を西洋に教え、西洋の長所を日本に輸入する橋渡しの役をするために更に英語に精通
したいのであります」
と新渡戸君が答えると、「それは面白い考えだ、やって見ろ」といわれて教授は君の入学の願いを聞き入れたとのことであります。
明治17年1月22日付けの書簡によりますと、君の大学における日課は外山教授の欧州発達史、社会学並びに『ハムレット』。田尻教授のミルの『エコノミー』及び租税学講義。ドクトル・ラートケンの統計学並びにコックス氏の英語等でありました。
第一学期の試験の点数は英語99,英作文94、エコノミー97.5、歴史81という優良な成績を挙げました。その後の手紙によると大学の教授にますます不満を感じ来たり、遂に米国へ留学することを決心し養父太田氏の許を求めました。
佐藤〔昌介〕氏によると太田氏はあらかじめ稲造君の他日必ず大志を抱いて海外に雄飛する時あるを予想し、家禄を奉還して受けたる秩禄公債証書を生活費に使用せずして虎の子のように仕舞い置きたるものをこの時始めて稲造君の用に提供し、旅費並びに学費に充てしめたということであります。
又ドイツ留学中から札幌に一の貧しき子弟のための夜学校を
設立する希望を有していましたが、はからずも米国の一婦人よりその遺言によって社会事業に使用されたしとて金若干を夫人の許へ送金し来たったので、それをもって豊平橋付近に土地を購入しそこに夜学校を設立し遠友夜学校と命名いたしました。
この夜学校は年を追うて改善発達し、40年後の今日は一の財団法人として認められ、既に約800名の卒業生を出し、いずれも社会の各方面に活躍しているのであって、実に有益なる社会事業というべく、新渡戸夫妻の美しい精神は永く記念されるでありましょう。
かくのごとく君は学校の内外の業務ますます煩雑を加え、心を労すること、頓に繁くなりし為め遂にはげしき脳神経衰弱症にかかり、一時は重態に陥ったので、夫人の英断にて官を辞し、ひとまず伊香保に療養の後、米国の太平洋沿岸に天地療養することとなり、ここに留まること約2年、篤き看護の効顕われ漸次回復するに至りました。
この軽快の頃に筆を執られたのが英文『武士道』であります。この一巻の著述が日本精神を世界に向って紹介し併せて君の名声をいよいよ高からしめました。
後にこの名著はカウフマン嬢によってドイツ語に訳されました。
31年伊香保休養中に脱稿された『農業本論』は君の多年蓄積せる農政学上の深遠なる知識を網羅した名著でしたが、41年発行の増訂改版において更にその内容は一新されました。
旧学位令改正に伴い、32年3月東京帝大総長の推薦により君は佐藤昌介男と共に第一回農学博士の学位を授与されました。
32年12月23日付の手紙に、台湾よりの招聘を断り札幌よりの懇篤なる勧誘を受諾することに決し、明年2月サンフランシスコ港出帆の便船にて帰朝する予定であると通知してきました。
然るに33年2月7日付の書状にてその後一身上に大変動の起きたことを報じて来ました。それは台湾よりの招聘がますます急を加え曽弥氏より数回の
手紙を受け、又後藤新平氏より長文の電報をもって熱誠溢れる勧誘あり、辞するに言葉なき状態にて終にこれを受諾するに決心されたのであります。
後藤伯がかくも熱心に新渡戸君を慕われたのは台湾総督府民政長官の重任を負うに当たり、同郷の先輩菊池武生博士にまたある人によれば田尻稲次郎子に「台湾統治の要諦は財政の独立にある。それには産業の発展が必要である。誰か最も適当な指導者はないか」と相談をしたところ、一言の下にに新渡戸君がよかろうとの返事であったからであります。
かくて台湾総督府の嘱託にてヨーロッパ視察のため33年2月10日の便船にてまずスペインに上陸し、それよりロンドン、パリ、ベルリン等にて調査の上、イタリア、ギリシャ、エジプト等を経て帰国の途につかれたのであります。その時ちょうどパリに万国博覧会が開催中であったので、審査委員を嘱託され、日本よりの出品物の審査に関与されました。北海道製麻会社よりの出品に対し金牌授与を主張されたとのことであります。
翌34年台湾にては総督府技師、殖産局長、またその後兼糖務局長としてまず糖業改良の必要を認め意見書(※)を提出し、海外より改良されたる甘蔗の種苗を輸入し、大目降に甘蔗試験場を設置し新たに糖政上の施設を促し、今日の同島糖業隆盛の基礎を置いたのであります。その他農事試験場を設立し産業の発達を企図されました。
また当時の新領土台湾の中に博士一流の文化的精神を注入されたのであります。
※ 砂糖政策
台湾における砂糖の始まりは、遠く隋朝時代に遡る。当時中国人によって移植された農作物のうち、サトウキビこそは最初のものであったと伝えられる。その後オランダ統治時代においては、すでに台湾物産の重なものの一つに数えられ、サトウキビ畑は田の約3分の1を占めていたといわれる。
鄭成功が台湾を支配するや、自ら努め励む方策を立てて、福建地方よりサトウキビの苗を輸入して、糖業を奨励し、台南地方の平原多くはサトウキビの耕作のために開拓されて、その後50年間に、台湾砂糖の産額は約3倍に上った。しかし、清朝時代に入ると、政府は全く保護を加えることなく、ひたすら厳しく税金をとることに努めたために、治世250年、ほとんど何らの進歩を見ないで終わった。加えるに中国資本家は、耕作者あるいは製糖者に資本を前貸しする術策によって、金利と糖業の利と、二重の利益を一人占めして、生産者を苦しめたために、台湾が数百年の間に砂糖より得た利益は、少しも糖業の改良に費やされることがなかった。その製糖の方法やサトウキビ耕作法が、数百年前に異ならず、幼稚で原始的なものにとどまったのは、このためである。
後藤新平が、民政局長として、新領土に赴任した当時の台湾糖業は、
上田恭輔の回顧したように、
初めて台湾に赴任した頃の、「在来種の甘蔗は、釣り竿よりも細く、ヒョロヒョロとした実に貧弱なもので、大きな石臼の上で水牛が漫々緩々とこれを圧砕し、薄汚い蜜汁のトロリトロリと滴(したた)る中には水牛の小便も混じり、これが精製されたところで一塊の黒砂糖たるに過ぎず、況(いわん)やこの産額にいたっては論外に僅少であった。
という状態であった。しかも台湾の糖業が、このような幼稚な産業制度にもかかわらず、なおよく5千斤ないし1億斤を生産し、輸出もまたこれに準じて少なくなかったことは、台湾島が砂糖産地として、いかに天恵無限であるかを示すものであった。この原始的な糖業を近代化して、この埋もれた財宝を採掘増減するには、2つの大方策が必要であった。
一つは農業的に、蔗種と耕作法とを改良することであり、他は工業的に、従来の糖ロウと称する原始的生産法を廃して、大工業制度に移すことであった。
しかして第一の農業的改革の重任を授けられたのは、アメリカ帰りの若い農学者、新渡戸稲造であった。後に台湾糖業の基礎となる「糖業改良意見書」を提出するにいたるまでの経緯について、新渡戸自身の回顧談を引用すれば、次のとおりである。
着任後2か月も立たないうちにすぐにジャワに製糖事業を見に行きました。私は殖産局長というので台湾の財政の独立を計画するについて、台湾にどういう産物が最も適しているかにということについて意見を書いてくれというわけでありました。私は砂糖だナと思って、それじゃとにかくジャワに行って砂糖を研究しましょうと申しますと、すぐに行ってくれということになった。それから帰って全島をわずか3週間ばかり歩きました。汽車もろくにない時分でありました。そうして台北に帰って来る、「君、すぐに意見書を出してくれ」と後藤さんが言われる。「わずか3週間見たくらいでありますから、意見書はもっと調べた上で差し出します」「イヤ調べなくても良いからすぐに出してくれ」「それは困りますナ」私は今こそこんな変な者になってしまいましたけれども、その頃はまだ自ら学者をもって任じておったから、学徒としてさような軽率な意見書は出せないと思ったので、「よく調べていろいろ参考書も見てから意見書を書きます」と申しますと「イヤそんな事は要らない。台湾のことのよく分からないうちに書いてくれ。君が台湾の実態を知ると、眼が痩せて思い切った改良策が出なくなる。ジャワを見た眼の高い所で書いてくれ。行われない事でも何でも良いから、高い所を見た眼で書いてくれ」と言われました。その時に児玉さんも後藤さんもそういう風なやりかたであるから、思い切った事が成るのだと深く感じました。ところが実際にうとい学説や理想論などを言って頭からはねつけられると思っておりましたが、幸いにも私の意見が容れられました。
さらにこの『糖業改良意見書』に対する児玉総督の態度について、新渡戸は、自著『偉人群像』(333~336頁)のなかに、次のように語っている。
わが輩殊に児玉将軍に接して、彼の心の動きに感服したことは、右に述べた産業意見の内に、糖業に関する意見書を総督に出したが、総督自ら読むに先だちて、関係官衙(かんが)の者共が考究して、終りに総督の手元に達した。スルト総督はこの意見書を読み終って、わが輩を呼び出したので、我輩総督官邸に行くと、児玉総督は軍服を着て、唯(ただ)一人机の側に坐っていた。その机の上には、我輩の意見書が一冊横たわっていた。我輩を見るや、
児「君、僕はこの糖業意見書を見た。しかも二度繰返して見た。一体わが輩は書類を二度も繰返すことはしない男だが、台湾財政独立の基を築く根底論であるから念を入れて見たが、そこで聴きたいことがある。君これで行けるのか。」
新「はい、行けると思えばこそ書いたのであります。」
児「本当にこれで行けるかね。」
新「はい、技術上、学術上から推せば、必ず行けると思います。しかし、この意見書通り、実行するかせぬかによるのであって、この中に殊に閣下に読んでいただきたいと思うところが、一ページ御座いますがお気につきましたか。」
というと暫く首を傾けていたが、
児「それはフレデリック大王のことではないか。」
新「全くそうであります。フレデリック大王がプロシャの農政改革実行の為めに、時には警察権を用い、時には憲兵の力をかりたりして、なかなか手きびしくやりました。しかるにここに糖業を基礎として台湾財政独立を計るには、フレデリック以上の決心を要するものと思います。なかなかこの保守的の農民を相手に改良種を植え付けたり、進んで機械を用いることは容易でなかろうと存じます故に、仮に閣下が私にこれをやれと仰せられたところで、一兵卒のない技術官には何も出来ません。とに角この意見書でやるかやらないかという問題は、全く総督の決心一つによることであります。」
と述べたところ、総督は椅子から立ち上がって、部屋の中を5,6度も歩き出した。
わが輩は彼の返事がイエスかノーか、彼の態度様子について注目していた。暫くあって彼は再び椅子に戻って来て、手を振ってニッコリ笑いながら、
「君、やろう。」
この一言が即ちかの台湾糖業の今日の大発展の出発点となったのである。
児玉将軍の「行(や)ろう」という一言は真に力強いものであった。
何ゆえなれば彼は思想の人より実行の人である。彼の履歴を見ても、実行、敢行、断行の生涯が一貫されている。
鶴見祐輔氏の書かれたものによると、「この一高長時代は新渡戸先生の一生に取って最も記憶すべき時代の一つであったと思うのであります。博士はこの時に、単に一高一千の学生の指導者となられたのみならず、隠然として日本全国の青年の思想的中心となられたのであります。
当時の日本は日ロ戦争の直後で国民思想の動揺期でありました。
大戦後に起こりやすい粗暴な気分と、当時文壇に現れた自然主義文学の唯物的な破壊的な思想の影響を受けまして、大勢の青年男女が適従する所に迷っておりました時に、博士はその一流の人格主義と理想主義とを掲げて、満天下の青年に帰向する所を示されたのであります。
札幌時代以来新渡戸先生の薫陶を受けた全国の青年男女は今や悉く成人して、日本の社会の各方面に活躍しているのでありますから、新渡戸先生は日本の為めに新しき時代を作り出した一人として、永く日本国民に感謝せらるるであろうと思うのであります」と。
一高校長時代に著された書物に、『随想録』、『帰雁の蘆』、及び『ファウスト物語』等があります。
明治44年8月、日本より最初に選出された日米交換教授として渡米され、ブラウン、コロンビア、ジョンス・ホップキンス、バアジニア、イリノイ及びミネソタの6大学を主とし、その他各地において前後166回の講演をなし日本の事情を全米国に紹介されました。その講演は翌年ニューヨークより"The Japanese Nation;its Land,its People and its Life(with Special Consideration to its Relations with the United States)"と題する一書として出版されました。その節ブラウン大学よりLL.D.の名誉学位を授けられました。
帰朝後間もなく第一高等学校長の職を辞し、その後東京帝国大学法科大学教授に専任され、植民学講座を担当され、学生の薫陶に従事されること約8年間に及びました。
明治42年実業之日本社の顧問となられ毎号青年の為めに精神の修養に適切なる記事を掲載し世道人心に裨益すること極めて大でありました。これらの記述を分類編纂し単行本として出版されたものが『修養』、『世渡りの道』、『自警』等であります。
大正8年3月世界大戦後の状態を視察の為め後藤伯に同伴し、米国を経て欧州に赴かれました。その時あたかも平和条約が調印され、新たに国際連盟が成立し、日本からも一人の事務次長を出さねばならぬことになりましたが、その人選には全権一行も少なからず苦しんだのであります。新渡戸君がちょうど視察について鳩首協議中でありましたが、君の姿を見るや否や牧野伯が「ああ、ここにいた!」と叫んで参列者一同異口同音に有無を言わせず君に応諾を迫りました。そこで君は後藤伯さえ承知されるなら自分は快く御請する旨を答え、ここに日本はこの上なき適任者を代表として連盟に送ることができたのであります。君はそれ以来7年間スイスのジュネーブに在って連盟の仕事に従事されました。当時は連盟の初期であって困難もあったと同時にまた華やかな希望に輝いていた時代でありますが、博士はいつの間にか「連盟事務局の良心」と人に呼ばれるほど、この連盟に高尚な精神を吹き込まれたのであります。また君の人格は年と共にますます円熟を加え接触せる内外人を誰彼となく感嘆せしめ、「ジュネーブにおいて最も愛された人」というアダナを受けられるほどになりました。ここにおいて君は国際人として世界稀なる存在となられたのであります。就任中最も著しき功績と認められるは知的協力国際委員会の設立に関しその立案者との一人として活躍し又その活動に対しては終始かわらざる努力を払われたことであります。
大正14年勅旨をもって帝国学士院会員仰せつけられ、又昭和元年貴族院議員に勅撰されました。
昭和2年の春、国際連盟の事業に対し国民の理解と支持を喚起いたしました。又大阪毎日、東京日日新聞社の顧問となりその英字新聞に毎号 Editorial Jottings(編集断片)として感想を名文にて発表いたしました。この断片集は外国の新聞にも転載されて好評を博したのであります。
ジュネーブにあった頃執筆された著書としては"Japanese Traits and Foreign Influences"が昭和2年ロンドンより出版されました。また7年間国際連盟にあって積まれた経験が、『東西相触れて』、及び『偉人群像』となって世に公けにされました。
昭和4年田中〔義一〕内閣の時、文相〔水野〕の辞任に際し、首相が奏上によってその留任をはかったことが、いわゆる優諚問題として貴族院の論議をまき起こしたに当たり、君は同院で首相問責の決議に賛成する演説をして、貢献する所がありました。
早稲田大学の講師として種々雑多なる問題について学生一般に講演され、多大の感動を与えましたが、その講演中、我が国目下の非常時に際し、いかなる理解と決心を持つべきかについて述べられしところを『内観外望』と題する一書にまとめて出版されました。この書において著者の憂国の至情を洞察することが出来ます。同様に『西洋の事情と思想』も早稲田大学における連続講演の速記でありますが、これは逝去後昭和9年に出版されました。
H.A.L.フィッシャー氏の編集に係る"The Modern World.A Survey of Historical Force "なる叢書中の一つとして日本の現状、発達等につき詳細に記述して、"Japan; Some Phases of the Problems and Development"と題し昭和6年ロンドンより出版しました。
佐藤男の書かれた新渡戸君追想文中に君の性格の一面をよく物語る左のごとき叙述があります。
「新渡戸君は私的生涯においては親戚故人に対する情誼も厚く頼まれれば否むことの出来ぬ性分であった。されば公生涯において極めて繁忙なる際でも、講演を頼まれれば引き受けるとか、又は新渡戸君でなくては出来ぬことはやはり快諾して美なる奉仕の精神を発揮された。この主義において東京女子大学初代の学長となり、又東京女子経済専門学校長ともなられた。」
第3回太平洋会議が昭和4年京都で開催された時、君は井上準之助氏に代わり議長として最も公平なる態度をもって統括し、無事に成功裡にこれを終わることができました。会議の模様は『太平洋問題』と題する書に詳らかであります。
第4回太平洋会議は昭和6年上海において開催され、君は日本代表の委員長として死を決して出席し、国際的に活動されました。
大正13年に米国において移民法が改正実施されし時、新渡戸君は非常に憤慨され、それが撤回されるまでは米国の土は踏まないと言っておりました。昭和7年2月君は急転する時局を深く憂えていましたが、松山市に講演旅行をした際、新聞記者を含む来訪者との宿舎での私的会見において「日本を亡ぼすものは共産党か軍部であろう」という意味の憂慮を述べられたとの報道が広まり、その後暫く軍部関係、在郷軍人等の団体から圧迫が加えられました。病気入院中弁明のため出頭を強いられたとか、延いては、軍の行動の代弁を要求されたとかの誤解に基づく内外の非難が加えられたのはかかる経緯によります。実際には、君は満州事変勃発以来米国において日本の真意が曲解され反日感情が日増しに募り日本の国際的立場が頗る不利な位置に置かれるのを見て愛国の情禁ずるあたわず奮然として起ち誤解一掃の為め昭和7年4月渡米の途につかれ一ヶ年間にわたり百回を超える講演を試みられました。
昭和8年8月カナダのバンフに開かれた第5回太平洋会議に日本代表の団長として出席し、その議事の進行につき心を労すること一方ならず、無事成功をもって会議を終わりし時には君は非常に疲労を感じておりました。ヴィクトリアに病後の令夫人を迎えそこにて暫く休養の上、更にニューヨーク方面に赴き、日本の真の精神の説明の仕事に従事しようとしておられたところ、9月13日急に激烈なる腹痛を覚え、同地のジュビリ病院に入院し、あらゆる治療と手厚き看護を尽くしたるも経過思わしからず、10月15日の朝、腹膜炎を併発していた膵臓壊死のため(胃の潰瘍と穿孔がその誘発原因と思わる)手術を受けましたが、同日午後8時35分、72歳を一期としてこつえんとして永眠されました。病中医師看護婦に対し絶対の信頼を表しよく病苦に堪え、一度たりともそれを訴えることなく、かえって常に口辺微笑を含んでおったということであります。病院開始以来かくのごとき患者はいまだかつて一人も無しと院長は感嘆した由であります。平素の鍛錬顕れ異境にあって日本武士の最後を飾ったものというべきであります。
その報ひとたび伝わるや全日本のみならず世界の同情さんぜんとして博士の一身にあつまり、その人格と事業とを追慕し、その逝去を痛惜するの声、天下に満ちたのであります。
未亡人の語られるには、「稲造は平素人には死に場所が大切だと言っておりましたが、このたび欧米各地より受け取った山なす弔詞弔電を見ると確かに稲造は死に場所を得たと偲ばれ自から慰むることが出来ます」と、かくて君は身をもって終に青年時代の夢であった「太平洋の橋渡し」を実現したのであります。新渡戸の遺骨はマリ子未亡人に護られ、11月16日横浜に到着、直ちに小石川の自宅へ帰られました。
畏れ多くも博士の功績 天聴に達して勲一等に叙せられました。又、侍従を差し遣わされ幣帛並びに祭し料金一封を御下賜あらせられました。
葬儀は同月青山斎場において佐藤男司会の下にフレンド派式によりいと厳かに挙行され、告別式には斎藤首相を初め各国大公使及び朝野各階級の人々約2千人が白菊の一枝を霊前に捧げ告別の誠意を表しました。
遺骨は12月2日に多磨墓地に埋葬され、遺髪は三本木の祖父太素(伝)翁の眠る太素塚の側に分葬されました。又カナダ・ヴィクトリア市スタンレー公園に市の有志者により故新渡戸博士の記念碑が建設されることになりました。
新渡戸君は学識深遠なる碩学なりしのみならず生まれつきの雄弁家でありました。又君は偉大なる国際人であったのみならずなお又真の愛国者でありました。実に日本にとってかけがえのない一偉人を失ったことは我々同窓としてもまことに哀惜の情に堪えない次第であります。
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