仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.01.18
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カテゴリ: 宮城


謎1 小学校名にもある「永野」は旧村名にないが、どこを指すのか?
謎2 旧宮村は遠刈田温泉も含むが、通じる道路は円田地区なので実質飛び地。どういう経緯か?

(3回シリーズです。第2回は遠刈田温泉、第3回は宮財産区について)
蔵王町を知る(その3 宮財産区) (2024年01月20日)
蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉) (2024年01月19日)
蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎) (2024年01月18日)

1 概況

まず、読みは「ざおうまち」だ。市町村合併の経緯でいうと、昭和の合併で円田村と宮村が合併して命名された。明治の合併(明治22年町村制)の際は、円田、小村崎、塩沢、平沢、曲竹、矢附の6村が合併して円田村となり、他方の宮村は単独で村制を敷いた。現在、「蔵王町」の次に続く地名としては、これら7つの旧村名と「遠刈田温泉」の合計8つがある。

ただし、厳密には、旧円田村の6つの地名は「大字何々」だが(例えば役場は蔵王町大字円田字西浦北10となる)、宮と遠刈田温泉は「大字」ではない。さらに細かいことを言えば、「遠刈田温泉」と同格のものとして「遠刈田温泉本町」「遠刈田温泉仲町」「遠刈田温泉旭町」「遠刈田温泉栄町」「遠刈田温泉寿町」があるので(遠刈田温泉(字)本町、ではない)、結局のところ、「蔵王町」の直下の階層をなす地名としては、大字の6つ、大字以外で7つ(「宮」、「遠刈田温泉」、遠刈田温泉市街地5町)、合計13の地名があることになる。

2 江戸時代の概要(村、宿駅、温泉など)

『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。
●宮村
宮村は東西に細長い広大な山林牧野を含む。この広範な地域は江戸時代に、向山村・宮司村・沢内村・宮町に分かれ、それぞれに肝入が置かれていた。宮町は白鳥神社のある宮宿を中心とした限られた地域で、沢内村は宮町に接し七日原・遠刈田温泉を含み、蔵王山頂お釜までの広大な地域である。
●円田村
松川沿いに遠刈田温泉・青根温泉に通じ、 永野 は笹谷街道の宿駅であり、猿鼻(さるはな)宿を経て四方峠(しほうとうげ)を越えて川崎宿に至る。
 史料には、円田(天文7年段銭古帳)、苅田荘遠田郷内(伊達正統世次考)、延田(同)などと見える。
 円田村の知行主秋保氏の検地帳が残されていて、人頭144人で、寛永検地の竿答え百姓75人から69人の増と言える。人頭144人のうち、村住居95人、町住居49人で、家数を記載してある項目に「当村 永野町 と申し候宿場家数49軒」とあるから、町住居49人は永野宿の居住である。人数は男447人女347人の計794人で、馬数114匹とある。明治初年の「刈田郡地誌」では戸数149戸、人数1151人(男586女565)とある。
永野町 鎮守は愛宕神社で、寺院として真言宗円明院、同慈眼院、曹洞宗龍源寺があったが慈眼院は廃寺となった。
永野 の町裏に白崩明神があった。文治の合戦で西城戸太郎国衡の屍を埋めた所と伝え、岩山が崩れ落ちて白くみえるためにこの名があるという。蔵王町文化財(白九頭龍古墳)。古墳の上に白九頭龍神社が祀られている。同じく 永野 の西裏の田中に古い松の大木があった。文治の合戦の平泉側の大将金剛別当秀賢が伊達大木戸で敗戦、厚樫山も攻め抜かれ、秀賢は出羽に逃げ延びようとして病重くついにここで松の樹下で死んだという。そのため死生松という名を残している。

●宿駅について
蔵王町にあった宿駅は、奥州街道沿いに、宮宿ー金瀬宿、笹谷街道沿いに、宮宿ー 永野 宿ー猿鼻宿、がある。それぞれの宿場には定められた人馬が準備され、荷物の継送の責任者を検断といった。宿場の中央に問屋(とんや)場があり、制札場があった。問屋場は検断や本陣を兼ねる場合があった。宿泊は本陣と旅篭のほか、格安の木賃宿があった。
 宮宿は、奥州街道と笹谷街道の分岐にあり、安永風土記には、「宮町と申す宿場4丁21間78軒御坐候」とある。寛文7年書上(白石市史)によると、東側に39軒、西側31軒、御伝馬所(3軒分)、宮荒町分南側11軒、北側蓮蔵寺門前8軒、とある。本陣は幕末に設けられたと思われ、肝入の阿部氏が問屋を兼ねていた。
永野 宿は、円田村の「安永風土記」によると、村居住95人、町居住49人とあり、永野町49軒で構成された。宿場は文久年間の「永野屋敷図」によると3丁14間とあり、町の中央に検断清右衛門の屋敷があり、その向かいを村田への道が東進している。また、町の北端において遠刈田への道が分かれている。「梅津政景日記」寛永3年(1626)に「永野町より雪降る」とある。
 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年
(1602)とする。


3 役場と学校

刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年(復刻版=名著出版、昭和47年、限定500部)から。なお、一部新字体にした。以下本ブログ記事において同様。同資料(第18章)から官署と学校の経緯。
●宮尋常高等小学校
明治6年8月創立。初め7大学区第3中学第20番小学と称す。同19年9月尋常小学校と改称。20年4月尋常高等(ママ)併置、23年4月宮尋常小学校と改称。31年高等科(修業年限2年)を増設し宮尋常高等小学校と改称。33年4月高等科4か年とする。41年4月小学校令改正の結果、尋常56年を置き高等科1、2年を置く。
●宮村役場
明治11年宮村戸長役場として宮村一村を統轄し、同14年4月宮村曲竹村を管轄し宮村曲竹村戸長役場と改称。17年宮村深谷村曲竹村八ッ宮村4ヵ役場として宮村外三ヵ村戸長役場と改称。明治22年3月31日町村制実施とともに宮村一村の宮村役場となる。
おだずま注:深谷村と八ヶ宮村は、明治の合併で福岡村に含まれることになる。
●遠刈田尋常高等小学校
明治9年9月以来宮尋常高等小学校の分教場としてその管轄に属したが、大正12年4月分離独立し、遠刈田尋常高等小学校と改称。大正13年4月実業補習学校を附設。
●圓田尋常高等小学校
明治6年5月村内龍源寺を仮用して創立。同15年白石高等小学校区内圓田中等学校と称し、25年7月圓田尋常小学校と改称。29年高等科を併置して圓田尋常高等小学校と改称。41年5月小村崎、平澤、 永野 、曲竹に四分教場を置く。42年12月新築移転。44年補習学校を併置。大正11年1月平澤、小村崎両分教場を合併して平澤尋常小学校と称す。同12年、曲竹、永野両分教場を合併して永野分教場とす。
●永野巡査駐在所、郵便局
 巡査駐在所としては、 永野巡査駐在所 が記載されている。他には、宮村巡査駐在所、平澤巡査駐在所が記載されている。
 なお、郵便局は、宮郵便局、遠刈田郵便局、圓田郵便局のようだ。
●平澤尋常小学校(略)

4 明治の町村制

『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。
●明治の地域制度
従来の郡を大区、村を小区としたが、従来の町村とは切り離されたもので、区長や戸長も新しい観点で任用された。明治5年4月の改正では、刈田郡は第17大区で、従来の宮、曲竹、矢附の3ヶ村が第8小区、円田、塩沢、平沢、小村崎の4ヶ村が第9小区となった。
 幕政時代、曲竹、宮、矢附は独立した単独の村だったが、これを解体して国家統治を効果的に地方に浸透させるため、本来戸籍事務だけのはずの戸長の職務も「小区の一切の事務に任ず」と村政全般を管掌することになる。
 明治7年4月、柴田郡と刈田郡は合併して第9大区となり、郡役所というべき大区詰所は宮駅に置かれた。

●学校
第7大学区(東北全体)は、仙台に我が国7番目の大学を設置し角田市に第3の中学校を、その他の各連合村には1小学校の建設計画であった。第3中学区(伊具、刈田、柴田、名取、亘理、宇多の6郡)の一番小学校は角田小学校、伊具郡内一巡の後刈田郡白石小学校が13番目に、柴田郡大河原小学校は24番目に建設された。
 明治6年6月10日宮小学校(学校番号20)が三谷寺に、同年7月7日円田小学校(21番)が龍源寺に開校。生徒は宮68人、円田57人。教師は応急措置で村田の教師を派遣。通学区は明治5年の大小の行政区制度が施かれ、第8小区、第9小区がそのまま学区に置き換えられた。
 明治6年7月には円田小学校平沢学校(ママ)が保昌寺を仮教室に開校(生徒数男57女5)、また同年9月には遠刈田地区に刈田嶺神社を教場に遠刈田支校が開校された。その後平沢支校は12年に円田小学校から分離し初等科3年制の独立小学校に。
 円田小学校は明治8年6月新校舎に移り、平沢、小村崎、矢付(ママ)に14年には支校を設置した。宮小学校も明治9年校舎を新築。


5 昭和の合併前の状況

刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、から。一部新字体にした。
●町村
宮村(役場所在は宮)=大字及字 宮、澤内、向山、宮司、遠刈田
 圓田村(役場所在は圓田)=同 曲竹、円田、平澤、塩澤、小村崎

おだずま注:大字及び字として、 永野 もだが、 矢附 の名も見えない。
●宮村について(上掲資料から)
地勢上自ら東部宮と北部遠刈田の2つの中心を有する。松川は源を刈田岳に發し、遠刈田、圓田村、宮村向山区を貫流して白石川に入る。沿岸の地は細長き平地を成せども、其の他は悉く山地...
●圓田村について(同上)
東南部及南部は一帯に平地にして松川この間を流れ、西部は丘陵重畳し、土浮山、七日原高原連亘、遙かに蔵王を望むべし。松川は、遠刈田にて澄川を合せ、本村に入りて 永野 、矢附、曲竹を貫流し、宮村に出でて白石川に合す。上流澄川を合わせざる部分を濁川と称し、多量の硫黄分を含有するを以て魚類の生息することなし。
 なお、同上資料の「神社、自院、堂宇、教会」の章(第14章)の「圓田村」の項には、「御渡神社」は「 永野 にあり。印度より渡来の神を祀るなりと。」と記載されており、地域の呼称としての認識がわかる。

6 仙南温泉軌道と永野駅

 仙南温泉軌道は、大河原町と遠刈田温泉を結ぶ軽便鉄道で、現蔵王町内には、平沢駅、円田駅、 永野駅 、疣岩(いぼいわ)駅、遠刈田駅があった。
 経緯を少し。日本鉄道の開業で、遠刈田温泉の観光客や青根の鉄鉱石の輸送を目的に、まず1900年柴田鉄道が設立される。これは、大河原から金ケ瀬、宮、永野、遠刈田を経由して青根まで馬車鉄道を敷設する計画だったが、資金難で断念。1904年、日本製鉄が鉱石運搬用の馬車鉄道を申請し、1906年に遠刈田と永野の間が先行開業。永野の先は大河原町堤地区を経て大河原駅に至る計画だったが、1907年に宮地区を経て白石駅に至るルートに変更する誘致運動が起きて工事が一時中断する。1908年に遠刈田と青根の間は貨物用索道で開通。日本製鉄は解散するが、遠刈田ー永野間は地元資本で仙南軌道として継続。永野の先は、仙南軌道が宮地区経由で北白川駅に至るルートを予定したが、大河原や村田の資産家が中心に設立した城南軌道は、平沢、村田町中心部を経由して大河原駅に至るルートを想定した。結局、郡長の調停で永野から先は城南軌道が開業させることで、1915年再申請に漕ぎつける。1918年城南軌道の大河原ー村田間が開業。1920年城南軌道が仙南軌道を吸収合併し、1921年仙南温泉軌道と改称、1922年(大正11)ようやく全線開通に至る。
(下の図面は、刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、の付録から)


7 昭和の合併

『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。
宮城県の町村合併促進審議会が昭和28年10月答申した町村合併計画策定答申では、旧刈田郡は白石市、七ケ宿と小原の合併、宮と円田の合併による1市2町案であった。
 宮村と円田村では様々な意見がだされた。宮村では各地区代表と村議会議員で構成する町村合併研究委員会が組織され、県案を中心に住民の意見を集約することになった。大方の意向は、宮地区では白石市との合併を望み、遠刈田地区は円田村との合併を希望した。これらは地理的経済的条件が近いところを望む合理的なものだったが、意見がまとまらず、住民投票を行い、結果、白石市との合併1,172票、円田村との合併1,053票となったので、合併研究委員会はこの結果を尊重して村議会に答申した。
 村議会では採決の結果、12票対7票で白石市との合併が決まり申入れを行うことになった。しかし、宮村でも遠刈田地区は事情が異なり、道路その他で円田地区とのつながりが強く、村議会では遠刈田地区の円田地区への分村を表決したところ、16票対4票で決定した。
 他方、円田村では、宮村宮地区が白石市を向いたため、やむを得ず宮村遠刈田との合併決議が円田村議会で決定された。
 この結果を受けて、両村はそれぞれ県に内申。県議会は昭和30年3月の本会議で町村合併を議決する予定だったが、刈田郡が県の試案と合致せず、難色を示す県当局や議員が多かった。というのも、宮村宮地区を白石市に合併すると白石市が突出した広域になり、逆に弱小町村をつくることの懸念で、原案を崩さない県の意向が刈田事務所長を通じて両村長に伝えられた。
 これを受けて両村は議論を深めようとしたが、利害や感情が絡んで紛糾。4月1日の町制施行のタイムリミットが3月20日であることから、3月15日から17日にかけて両村議会があいついで協議を重ね、両村の対等合併をまとめ、17日に県に「刈田郡宮村円田村を廃して蔵王町を設置する処分申請書」を提出した。昭和30年4月1日新しい蔵王町が発足した。
 この紆余曲折は、両村の歴史的地理的経済的な背景や基盤が異なっていたことも指摘されているが、明治22年の町村制施行時も同様な動きがあったといわれ、大正9年には遠刈田地区が、宮村から分村独立の請願運動を行うなど、宮村の宮と遠刈田がしばしば合併分離などの経過があったことも、今回の町村合併に陰に陽に左右し続けていたとみるべきであろう。
 なお、地方の町村にありがちな政治的思惑もあり、県議会議員にも動きがあったとされる。
(おだずま注:具体的な記載はない。)
役場は将来の発展を考えて円田におき、宮と遠刈田に支所を置くことで両村は合意をはかった。旧円田村役場が新町役場となり、昭和52年に現在の新庁舎となる。

8 現在の小中学校

ここで蔵王町の学校通学区域をみてみる。小学校は5校あり、永野小学校の所在地は大字円田(円田小学校も同様)である。
・円田小学校 (学区)大字塩沢の一部を除く字全部、大字円田の一部、大字平沢の一部
・平沢小学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の一部
永野 小学校 (学区)大字曲竹の字全部、大字矢附の字全部、大字円田の一部
・宮小学校 (学区)宮の字全部(おだずま注:「大字宮」と言わない。)
・遠刈田小学校 (学区)遠刈田温泉の一部を除く全部、大字円田の一部
中学校は3校。
・円田中学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の字全部、大字矢附の字全部、大字塩沢の字全部、大字平沢の字全部、大字曲竹の字全部(A)、大字円田の一部(C)を除く字全部、遠刈田温泉の一部(八室、大枝山)(B)
・宮中学校 (学区)宮の字全部、大字曲竹の字全部(A)
・遠刈田中学校 (学区)遠刈田温泉の字全部、大字円田の一部(上記C)
(A)と(B)は地域が重複することになるが、通学先中学校を選択できるとされている。(B)は円田地区寄りのエリア。(A)の曲竹だが、宮中学校の学校要覧では学区に曲竹北、曲竹南と記載されているし、円田中学校の学校要覧には、円田、平沢、永野の3小学校から子どもたちが集う、と記されているので実際には曲竹地区の中学生は宮中学校に行くのだろう。大字円田の中でも遠刈田中学区となる(C)は「釜沢と土浮山の一部」とされており、すずらん峠に至る西部丘陵地帯で遠刈田に近い。

なお、中学校は、統合の上で令和9年4月開校にむけて事業が進んでいる。

以上から、謎を解題するとすれば、永野は宿場名に使われた由緒ある地名。旧村名では円田に含まれ小字名にも残らないが、円田村のうち主要街道を擁する南部一帯を指すものとして定着、官署名にも使われて定着してきたのだろう。遠刈田は温泉場の特殊性からか近代の村制では沢内村→宮村に包含されたが、やはり地方制度改革にあわせて宮地区との関係では離合の動きがあった。

■関連する過去の記事(蔵王町など)
がんばれ蔵王 負けるな蔵王 (2015年5月6日)
蔵王の御釜が沸騰 (2014年8月23日)
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蔵王のお釜は共有財産 (08年11月5日)
南蔵王縦走 (06年8月20日)
栗駒と蔵王の名前の由来 (06年7月28日)
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最終更新日  2024.01.20 12:13:41
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